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アナログレコードって壊れやすいんですね。 [オーディオ]

まさかなことが起こってしまった。


エミール・ベルリナー・スタジオによる渾身のダイレクトカットLPの第3弾のヤクブ・フルシャ&バンベルク響のスメタナ「わが祖国」のレコードを床に落としてしまった。


ラックの上にちょこんと無造作に置いていて、しかもそのレコードを聴いている最中だったから、ハードケースから取り出している状態だ。


ラックの高さは1mもない90cmくらいの高さ。


そこで、自分はそのラックの傍を通るときに、そのレコード一式に体が触れてしまい、そのレコード一式3枚を床に落としてしまったのだ。


バン!という音が鳴って床に落ちた。

「あちゃ~(号泣)」


慌てて、レコード盤面を眺めたが、割れたりとか、ヒビが入っていたりとか、損傷は見た目ではまったくなく、あぁぁ~大丈夫だった。


よかったぁと胸をなでおろした。


そして翌日、またそのレコードを聴こうと思って、ターンテーブルにかけて再生すると、いきなり強烈なスクラッチノイズみたいな音が、「バリバリバリ」と鳴る。


スクラッチノイズのちょっと大きい感じだったから、レコードを何回もクリーニングしたり、カートリッジの針先をクリーニングしたりしたが、症状変わらず。


れれれ~?レコードプレーヤーが壊れてしまったかな?

もう大ショック。

またプレーヤー買う予算なんてないよ~!

でもいい機会だから、これを機に高級ターンテーブルを購入といきますか?(笑)

なんて邪な思いも頭を過り、困ったな~どうしよう?と思っていた。

昨日までごく普通に再生できていたのだ。


プレーヤー、もしくはオーディオのPHONO経路の故障なのか、はたまたレコード盤の損傷なのか、原因の切り分けをしないといけない。


他の33回転のLPを再生したところ、別に問題なし。

フルシャのダイレクトカットLPは45回転なのだ。

45回転だけおかしい、ということはなかろう。


あちゃぁ~そうするとレコード盤の損傷。
そういえば昨日、床に落としたしなぁ。

でも見た目、全然綺麗でいっさい異常なし。


正直大ショックだった。


貴重な貴重なダイレクトカットLP。限定生産1111枚で、当然もういまや全部どこでもソールドアウトの完売。


しかたがないので、ネットで中古市場を探しまくった。

苦労して探した結果、あった!

eBayでアメリカ出品で新品未開封なものが。

もうすぐに落札。

USD$250


もうまた今月のクレジットカード決済の請求書、大変なことになっているはず。

まさかダイレクトカットLPを2組セット買う羽目になるとは思いもよりませんでした。(笑)


もしこれで再生してダメだったら、オーディオ側の故障。そうなると修理費用など大変なことになるなぁ。またアナログはしばらく聴けないということか・・・


ちょっと落ち込んでブルー気分に。

そうして1週間後、新品未開封が送られてきた。
急いで開封して、ドキドキしながら再生してみる。


いっさい異常なし!!!


よかった~~~。


レコード側の損傷だったんですね。見た目、まったく問題なくいっさい外傷などないのだけれど、やはりレコードの内なる内層のところでひび割れが入っていたんでしょうね。


3枚ともNGだったから、3枚とも逝ってしまったとは。

しかしアナログレコードって壊れやすいんですね。

1mもない高さからでも成仏してしまうとは。


昔のSPレコードなら、割れやすいので床に落としたりしたら割れたりするのは当然だった時代があったけれど、LPレコードもこんなに損傷しやすいものだったとは改めて驚きました。


まっ床に落とすということ自体やった経験がありませんでしたので。(笑)


でも結果オーライ。


お高くつきましたが、貴重なダイレクトカットLP第3弾が無事復活してよかった、よかったです。こうやっていま我が家には、フルシャ&バンベルク響のスメタナ「わが祖国」が2組セットあるのでした。(笑)


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ちょっとこの場を借りて一席ぶつことをお許し願いたい。自分が常日頃思っていたこと、考えていたことで、いつか日記で書きたいと思っていたことだ。


アナログレコードとCDの違い。


もちろんその音源の録音の良さに左右されることはもちろんだけれど、記録媒体そのものがもつ音質の差というのは、いまから書くことに起因しているのではないだろうか。


アナログレコードとCDの自分の聴感上の1番の違いは、アナログレコードは、周波数レンジ(F-レンジ)が広大であること、高音域や低音域の軸方向に音が伸びていると感じること。


つまり音が濃い、すごい濃厚なんですよね。


この表現が一番わかりやすいしっくりくる表現なのではないかと思う。よくCDは音が冷たいけれど、アナログは音に温かみがある、なんていう印象もここに起因するんじゃないかな。


CDを聴いて、アナログレコードを聴くと、「音がいい」と感じる感覚は、この周波数レンジの違いが1番大きいのではないか、と自分は思うんですよね。


CDは、高域は20KHz以上をLPFでカットしているし、低域も20Hz以下をHPFでカットしている。CDが20kHz以上の高周波数帯域がカットしている理由は、人間が聴くことの出来る音の周波数が、平均的に20Hz~20,000Hz (20kHz)であるということに基づいている。


超低域は耳の健康に悪いし、まずオーディオ機器を壊しますよね。(笑)


でも・・・


音楽、とくにクラシック音楽は、楽器や声の基音に対して、その倍音成分が音を素晴らしく美しく聴こえさせるために重要な役割を果たしていることはみなさんも知っての通り。


それをフィルタで倍音成分を全部カットしてしまったら、その音を美しく聴こえさせる成分がなくなってしまうんだから、それはなんとも味のない音になってしまうのはもちろんのことだ。


コンサートホールの生の音は、周波数帯域の高音側も低音側も全くカットしていない。


人の可聴領域の外の超高音や重低音を本当に人が音としては感じていない可聴領域の外の情報に、じつは人間の快感や感動があるということだ。


もっとぶっちゃけた感想をいうと、アナログを聴いた後にCDを聴くと(最近このケースが多い)なんか音の情報の欠落感、角が全部取れて情報が欠落している感覚がありますね。


それもここに起因するところなのではないか、と思います。


自分は昔からアナログが音がよく聴こえてしまうのは、ここなんじゃないかな、と常々思っている。でもアナログの場合、カートリッジの性能次第で、この周波数レンジは違っていたりする。高音質に対応するカートリッジとレコードプレイヤーを使用して再生することが不可欠であろう。アナログレコード (LPレコード)の録音は周波数帯域がカットされていなくても、カートリッジ(レコード針)の仕様に再生可能な周波数帯域が決められていて、そこで制限されていたりする。


九州へオーディオオフ会、地方遠征に行ったときのお宅で聴いたあのアナログレコードの音の濃さは忘れられないです。あのぶっ太い濃い音は、自分のアナログ再生ではまず無理です。(笑)


これがアナログの音かぁと思いました。(まだアナログブームの始まりかけた昔でしたが。)


いっぽうで、自分はアナログ派か、というとそんなことはまったくない。(笑)
アナログはまったくの腰掛程度である。

やはりここはCDのほうが優れていると思うところもたくさんある訳で。


自分が、CDのほうが断然いいと思うのは、そのダイナミックレンジ(D-レンジ)の広大さだ。これはダイナミックレンジというのは音のレベルの高低範囲、いわゆる深さのことをいっていて、いわゆる記録媒体での器の大きさみたいなものだ。


これは文句なしにCDのほうがいい。


特にオーケストラの大編成の音楽を聴いていると、ダイナミックレンジの違いはあきらかに違うし、その空間表現、ホール感の再現なんか、完全にCDのほうが卓越していると感じる。


自分の録音の嗜好は、クラシック音楽の録音だったなら、やはりダイナミックレンジがとれているかどうか、を非常に重要視していて、D-レンジが広いと、必然とこの音源は録音がいい、と自分の耳が反応してしまう。


ダイナミックレンジが広いと、その音空間が立体的に聴こえますね。


逆にアナログレコードはダイナミックレンジがあまり広くない記録媒体なのだ。


音声信号は、解析軸として周波数レンジ(F-レンジ)(高音域~低音域)とダイナミックレンジ(D-レンジ)(高レベル~低レベル)の2つがあり、周波数レンジに思わず耳が反応してしまう人と、ダイナミックレンジについつい耳が反応してしまう人と、その人の固有な耳の特徴なのだと思う。


ハイレゾ表示の96KHz/24bitの96KHzが周波数レンジで、24bitがダイナミックレンジのことです。

16bit録音と24bit録音では、もう天と地の違いがあります。クラシックのオーケストラ録音は16bit録音はだめですね。絶対24bitはD-レンジが必要です。


2chステレオ再生よりサラウンド再生のほうがごく自然で素晴らしいと思うのも、このダイナミックレンジの違いがダントツに素晴らしいことが一番の理由である。


人間の耳は、生まれた赤ん坊のときからサラウンド環境なのである。
いろいろな方向から音が飛んでくるのを、2つの耳が感じ取っている。


コンサートホールの座席で聴こえる音も、ステージからの直接音、天井、壁、床からの四方からの反射音など、いろいろな方向から飛んでくる音を聴いている。


その空間を正確に再現するには、やはりマルチチャンネルでないと不可能なのである。前方に置いた2本のスピーカーからの再生では無理、限界があるのだ。


その空間を多数のマイクで集音し、それぞれの音が伝搬、やってくる方向から同じようにきちんと再生してあげることで、本来の生音の空間に近づけるのではないか。


オーディオ界はいろいろなポリシーを持った人の集まり、いわゆる流派というのがあるけれど、自分はこの論者の派閥に属する。


CDのほうがアナログレコードより優れているところは、まだまだある。


レコードの持つノイズ、回転ムラ(ワウ・フラッター)の排除、ダイナミックレンジの拡大、チャンネルセパレーション(左右の音声信号の分離度)の向上といった点は、やはりCDのほうがいい。・・・というか、こういうレコードの持つ欠点を改善するためにCDというフォーマットが生まれたのであるから当たり前といえば当たり前だ。


特にS/N感の良さ、クリアな感じ、そしてなんといっても定位感の良さは、やっぱりCDのほうが断然いい。ノイズフロア自体がすごく低いレベルにある感じで、このメリットは大きいと感じる。


最近のアナログレコードの大飛躍、そしてCDの衰退、というギョーカイ現象を逆手に、「アナログこそ最高、CDなんてクソくらえ!」的な世評があることに自分は1席ぶち込みたいと常日頃から考えていた。(笑)


オーディオだってCD再生できちんとCDの中身を完全に出し切ることのできない人が、アナログレコードを再生しても、いい音を出せるはずがないのだ。


自分の趣味嗜好で言わせてもらうならば、音の濃いアナログレコードで聴くならば、ロックやポップス、そしてジャズ、そして空間再現性が優れているCDで聴くならばクラシックという感じでしょうか・・・。



アナログレコードは、やはりターンテーブルであの再生するまでのひとつの儀式がいいですね。あの一連の所作がやはり音楽を聴いている、という実感を深いものにしてくれますね。


自分は、疲れているとき、面倒なときは、やはりCDのほうが再生するのは簡単だし、曲のスキップなんかも簡単にできるので、CDのほうがいいと思いますが、休日でやる気満々なときはレコードをかけるという作業がとても趣があっていいと思います。


やはりアナログレコードが好きな人は、やはりその世界というのがある訳であって、そこをとやかくいう資格はないわけです。


アナログレコードでないと醸し出せない価値観というのがあります。


自分もそういうアナログの世界を自分のモノにしたいと思うけれど、やはり高級なターンテーブルと豊富なレコードコレクションがないとなかなかそういうレベルの気持ちに到達できないんじゃないかな、とも思います。


自分もレコードショップで”漁る”という作業をやってみたいです。(笑)









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mixi愛 [雑感]

エム5さんが、mixiの将来を悲観していたけれど、同感だ。

Facebook,Twitter,Instagramとか、ワールドワイドでインターナショナルなSNSと比べ ると、mixiはもはやロートル感いっぱい。

mixiがスタートした2003年頃は、日記を投稿する、それを友達どうしで楽しむ、結構斬 新なアイデアで楽しかった。


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自分は2009年に入会。
SNS生活11年目。結構自分の人生ガラ変しました。

でもFB,Twitter,Instagramの衝撃はすごかった。
技術の革新はすごい。mixiはどんどん追い越されていって、見る影もない。

唯一、mixiのほうが優れていると思うのは、イイネやコメントがついたら、スマホなら 一目瞭然に目の前に表示されるところであろうか?(笑)

mixiは友人同士だけのクローズドなコミュニティだけれど、FBやTwitterは、もう友人を超えた、完全なビジネス、広告のツールですよね。

mixiは、いま日記SNSなどでお金を儲けているのではなく、ゲームなどで生計を立てているけれど、もしこれが傾いて、mixiサービス終了となったら、自分は相当困ってしまう。

まず、なんといってもいままでの日記の財産が全部パーだ。
おそらくmixi側で日記をアーカイブしてくれるサービスを提供してくれるだろうけど・・・。

そして自分の日頃のストレスを発散させる場所を失うのは、もう言葉も見つからないだろう。

mixiなくなったら、本当に困ってしまうだろうな。

mixiさん、頑張ってこれからもよろしく頼みますよ。
経営方針には相談に乗りますから。(うそ。笑)

でも、Facebookがすべていいか、と言うと全然自分はそうは思わない。

Facebookは、自分の日記のスタイルに合わないと感じる。

まず、過去の投稿日記をきちんと管理できない。
書きっぱなしなのである。


mixiやブログはきちんと過去投稿分は整理されていて、アクセスしやすい。

そして、FBは写真を挟んだりする構成ができないのが自分のスタイルに合わないと思う。

mixiやブログは、文章を書いている途中で写真を挟んでいく。
そのほうが、読んでいくペースに合わせて、写真を見るから、流れがつかめる。

FBは、まず文章があって、写真はまとめて下にあって、それをいちいち開かないといけない。それが何十枚もあったら、まず開こうと思わないです。(笑)

文章と写真が切り離されているので、リアルタイム性がかなり失われるのです。
これは自分の日記スタイルにとって、かなり致命的。

これが自分には一番嫌です。

FBは、やはり”いま”をつぶやく、つぶやきのロングバージョンのように感じる。

自分のような、あまり”いま”の時間軸に捉われない日記には合わないのです。

mixiやブログは、日記にタイトルをつけることができて、ひとつの作品として扱ってくれるので、自分の日記のスタイルに合うのです。


2014年あたりから、日記を書くときは、必ずメモ帳に下書きするようにしています。
メモ帳で全然十分です。



直接mixiやFBの投稿欄に直接書いていると、あるときにアクシデントで、パッと消えてしまう事故があって、あ~~~~となってしまうので、それは危険だからやめたほうがいいです。

かならずメモ帳に書いて、それを全文コピーして、投稿欄にペーストすればいいのです。
こうやれば事故ることはまずないです。

しかも日記ひとつにメモ帳ひとつで、日記のタイトルと同じタイトルをつけて、フォルダに管理しておけばいいのです。

そうすると自分の過去の投稿分と同数のメモ帳があって、過去日記が管理保存されているのです。

だからもしmixiやブログがアクシデントで過去日記が全部フリーズして開かなくなっても、その内容は、ちゃんとメモ帳でバックアップされているから、再投稿、再現は可能なのです。

心の安心度からこうすることをお勧めします。

でもメモ帳で下書きしていても、滅多にありませんが、ときどきなんかのボタンを押した拍子で全部書いた内容がクリアになることもあります。

自分はいままで1回だけありました。メモ帳下書きは安心ですが、それでもそういうことがあるのです。

そういうときはつねにバックアップ(コピー)を取っておくことが必須です。

長文の日記を書けば、書くほど、途中で消えてしまうのが心配になるので、途中でバックアップを必ずとっておきます。

これが日記を書いていくうえでの必須マナーです。

PCの世界でバックアップはもう常識ですね。

自分の会社での仕事は、Excelが仕事道具なのですが、それも7年間分のデータ量を全部扱う大容量のファイルになりますので、つねに何重にもバックアップしておきます。

もし使用中にファイルが壊れてしまったら、もうそれで7年間の苦労が全部水の泡になるからです。作り直し、やり直しは不可能です。

PCのHDDもそうですね。クラッシュしたら、もう写真データとか全部パーなので、必ず外付けHDDでバックアップを取っておきます。

mixiを始めた2009年からの下書きメモ帳はさすがにないけれど、2014年からはそうやってメモ帳の原稿を保管してあるので、もしものときは大丈夫です。

でもそれぞれの日記に写真を選択して挟んでいくのがかなり苦痛だとは思いますが。


mixiは、ゴローさんがご存命のときは、本当に夢中になっていた時期だったけれど、お亡くなりになってから、もうみんなあの頃の熱意はなくなりましたね。(笑)

あのときはよかった・・・です。(笑)

その後、みんなそれぞれの人生があって、mixiの活気はもうほとんどないと言っていいのではないでしょうか?(笑)

寂しい限りです。

でも自分にとって、mixiがなくなってしまうと、やはり困っちゃうので、なんとかサービス終了とならないように頑張ってほしいと思います。









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明治43年創業「淺草 來々軒」 [グルメ]

「淺草 來々軒」は日本で初めてラーメンブームを起こしたお店であり、ラーメン史を語る上で欠かせないお店である。明治43年創業。ラーメンが日本に初登場したのは、そんな大昔だったのである。


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來々軒の創業者・尾崎貫一氏は明治43年、横浜の南京町から中国人コック12人を引き連れて浅草の新畑町3番地に來々軒をオープン。まだその当時は、ラーメン店という存在はなかった。


來々軒が「支那そば」、「ワンタン」、「シウマイ」という大衆的なメニューを安価に販売するという新たな業態繁盛させ、広めたことがスタートとなる。


來々軒は「支那そばで売り込んだ店」と書かれているように、ラーメンが一番人気であったため、同じ業態の広がりだけでなく、食堂や蕎麦店、洋食店、カフェなどの様々な他業態でもラーメンをメニューとして取り入れるようになった。


こうして來々軒を起源とした「日本初のラーメンブーム」が起こったわけだ。


「淺草 來々軒」の復活にあたり協力を得たのは、創業者・尾崎貫一氏の三男である、高橋武雄氏(大正期に高橋家に婿養子)の長男、高橋邦夫氏、そして貫一氏の玄孫にあたる高橋雄作氏である。


高橋邦夫氏は、戦前の來々軒のラーメンを食べており、父である武雄氏からも全盛期の來々軒の話をよく聞かされ、戦前の來々軒を知る唯一の末裔である。このプロジェクトは、新横浜ラーメン博物館で調査した内容の発表のみならず、味の再現もおこなうという壮大な試みなのである。


詳細は、こちら。


明治43年創業、日本初のラーメンブームを巻き起こした「淺草 來々軒」を、末裔の協力により復活。



つぎに、この「淺草 來々軒」の味を、末裔の協力により復活するというプロジェクトだ。


詳細は、こちらを読んでほしい。



まさに「プロジェクトX」で、驚きとしかいいようがない。


末裔と、新横浜ラーメン博物館といろいろな方との協力タッグで、まさにいろいろなところに調査を繰り返しながら、当時使用していたラーメン具材を探り当てていく。


なるべく当時の具材で再現したい。
なるべく当時の味を再現したい。


読んでいて、かなり驚いた。


相当期間と労力をかけた新横浜ラーメン博物館にとって一大プロジェクトだったんだな、と思いました。


当時は、麺はおそらく「赤坊主」を中心にブレンドしていたものを使っていた。でもいま「赤坊主」は流通していないので、その系統図を調べ、その遺伝子が入っていると思われる後継品種として同じ群馬県産の「さとのそら」を使用し、当時の麺を再現することにした。


麺の打ち方(作り方)だが、尾崎一郎氏は「昭和5~6年頃までは、中国式の青竹打ちで、昭和10年頃には機械打ちになった」と証言している。今回の再現では、1日100食限定で創業当時の青竹製法で提供し、それ以外は昭和10年以降の機械製麺で提供することにした。


あとで紹介するが、自分はもちろんこの100食限定の創業当時の青竹製法のほうの麺を選んだ。


來々軒に使用されていた食材は、特殊品(かん水・メンマ)以外は全て国産だったと考えられる。


つぎにチャーシューとメンマ。


大正後期までは焼豚が主流であったが、手間がかかるため、ラーメン店のチャーシューは次第に煮豚へと変わっていくが、今回は当時の製法で焼豚を再現する。当時流通していた豚の血統はバークシャー種、中ヨークシャー種とのことで、今回焼豚に使用する豚はバークシャー種を掛け合わせた国産豚を使用し再現する。


メンマは当時と同じく、メンマの名付け親でもある丸松物産から仕入れる。昨今ラーメンに使用するメンマは、時間と手間がかかる乾燥メンマはほとんど使われず、水煮や塩メンマなどが主流であるが、当時と同じように乾燥メンマから時間をかけて作りあげる。


スープに関しての証言は、鶏と豚と野菜を使用した清湯スープ。鶏は名古屋種の親鶏を使用。また煮干しに関しては証言によるとオーナーの尾崎氏より「日本人の口に合うように」と昭和初期頃から煮干しが加えられたとのことで、今回の再現に使用している。そして国産の豚ガラ、野菜類を加え、弱火でじっくり炊き上げる。


また、來々軒で使用されていた醤油は創業当時から「ヤマサ醤油」の濃口醤油。今回使用する醤油は原料が全て国産の丸大豆醤油を使用する。


そして具材だけではないのだ、
110年の歳月を経て復刻された丼。
1994年の開業前に、來々軒3代目の尾崎一郎氏の証言により復刻した丼を再現する。



ここまで調べ上げて、いよいよ「來々軒」復活に向けて動き出す。


玄孫である高橋雄作氏たっての希望で、


「調査結果を見た時に小麦粉や自家製麺についての技術や知識に長けているお店、そして同じ醤油ラーメンで王道を極められているお店として、私の頭に浮かんだのは"支那そばや"さんでした。來々軒が多くの人々に影響を与えたように、支那そばやさんも、今活躍している有名ラーメン店の方々に大きな影響を与えたお店ですので、そういう点でも支那そばやさん以外考えられませんでした。」


おぉぉぉ~、ラーメンの鬼、佐野実もさぞかし喜んでいることであろう。


支那そばやは、新横浜ラーメン博物館に長い間出店していて、よく行ってましたよ。また藤沢本店にも行ったことあります。あの怖い佐野実が目の前でラーメンを作っていて、お客さんはみんな息をのんでし~んとしているのです。(笑)


支那そばやさんも、「最終的には、もし佐野(創業者 佐野実)が生きていたら"このプロジェクトに命を懸けて受けていた"だろうと思うし、私も使命だと思い、お引き受けすることにしました。」


こうして、創業者、尾崎貫一氏の孫である高橋邦夫氏、そして玄孫、高橋雄作氏、そして”チーム支那そばや”のタッグでこの壮大なるプロジェクトが立ち上がったのである。


玄孫、高橋雄作氏は、「ゆくゆくは來々軒があった浅草に凱旋オープンできればという夢を持っております。」だとか。(笑)


夢は膨らみます。



これだけの月日と大きな調査努力、そして復活実現に向けてのプロジェクト。
日本で初めて登場したラーメン、心して食べに行かないと。
気が引き締まる思いでした。


ひさしぶりの新横浜ラーメン博物館。


自分は、若いころからラーメンファンであったし、しかも新横浜は自分の住んでいるところに近いので、よく訪れていた。


でも中には、入ったことのない人もいると思うので、ちょうどいい機会なので、ちょっとご紹介しよう。


新横浜ラーメン博物館。

ラーメンに関するフードテーマパークである。
我々は、通称「ラー博」と呼んでいる。


「全国各地のラーメンを飛行機に乗らずに食べに行ける」をコンセプトに、全国のラーメン有名店が、ここに出店を構える。


つまりラー博の支配人が、全国の美味しいという評判のラーメン店を、その各都道府県、現地まで出向いて、テナントを供給しますので、ぜひラー博に出店してください、と拝み倒しにいくわけだ。


ラーメンの世界は、いわゆる”ご当地ラーメン”という地方に美味しいお店が多く、でもその地方にまで飛行機を乗っていかないと食べれないというジレンマがあった。


それが東京で食べられる、というメリットは、ラーメンファンにとってもうれしいけれど、じつはお店にとっても一気に知名度が全国区になって、いろいろな地方に支店を作ってほしいという大きなビジネスチャンスにもなる。


札幌味噌ラーメンのすみれもその代表例だ。すみれはラー博で一気に全国区になった。それがきっかけに兄の純連も大人気。いままで札幌で秘かに愛される地元のお店だったのが、世界が一気に変わった。


自分はこのラー博でいろいろなご当地ラーメンを食べました。徳島ラーメンの井出商店とか。。。たくさんありすぎて思い出せない。


館内は、すごい面白い仕掛けになっている。
館内は昭和ノスタルジーが感じられる構成になっているのだ。

こんな感じ。まさに昭和カラー一色。


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ラーメンボールって。(笑)バーのカウンターになっているんですね。


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こんな昭和時代の雑誌がディスプレイされていたりする。


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本当にオモロ空間なのだ。


館内1階のプロローグゾーンはラーメンに関する展示とミュージアムショップ(物品販売コーナー)があったりする。まさにラーメンの歴史をここで学べるし、ラーメンのこと、すべてがここに展示されている。


物販コーナーには、今回の「來々軒」で復刻した丼も展示されていた。
1万円!!!(驚)


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さて、今回の目的である「來々軒」。
ラー博に入ったら、すぐにこの看板がお出迎え。
気合が入る。


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そして、その先に、なんと「來々軒」の模型建物があったりした。


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出店開店を祝う花束でいっぱい。


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なんと「すみれ」の村中伸宜社長からも花束が届いていた。


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こんなアングルからも・・・


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中には、「來々軒」の歴史と今回の調査結果が詳しくパネルになって展示されていた。
「創業者・尾崎貫一 経営才覚と先見性の持ち主。」


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ここが、「淺草 來々軒」。
ついにやってきた!


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自分は今日会社を午後半休をとって、かけつけたので、平日だからか、比較的すいていた。あるいはコロナ禍の影響もあるかもしれない。


でも「來々軒」だけは、こんな感じでかなりの行列ができていた。


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チケットは、電子券売機スタイルである。

あった!

”らうめん”の100食限定の創業当時の青竹製法のほう。


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「來々軒」の店内。


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チーム支那そばやのスタッフたち。


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コロナ対策はされていました。
入口で手の消毒と、カウンターは透明アクリル板の敷居。


そしてドキドキしながら待っているとついに運ばれてきた。


これが日本で初めてのラーメン。

当時の具材、当時の味を再現したい。


創業者の孫である高橋邦夫氏、そして玄孫、高橋雄作氏、そして”チーム支那そばや”による血と涙の結晶。


膨大な調査と壮大なプロジェクトの末、再現された日本初のラーメンである。


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まずスープからいただく。


濃口醤油とのことだが、見た目の色具合も全然そんなに濃くないし、味わってみると非常に薄口のように感じた。


まず思ったこと。


非常に香ばしい醤油味だということ。
とにかく香ばしい。

あっさりとはちょっと違うんだな。
結構コクがあります。でも薄い醤油味なんですよね。


先日、東京ラーメンの元祖の春木家本店のあっさり上品ラーメンとは違って、醤油味とコクのある香ばしさがあって、かなり美味しく感じる。


明治43年の日本初のラーメンですよ。
それでこれだけ美味しいスープは、ちょっと驚きです。


自分は現代のラーメンを食べ尽くしているので、当時の具材、味を再現した日本初のラーメンは正直そんなに美味しくないだろう(笑)、と思っていたのだ。


煮干しの影響なのかな。
予想外のスープのうまさにびっくりしました。



つぎに麺。


創業当時の青竹製法を使った100食限定の特別の麺だ。
中太麺。


う~む。まぁこんなもんかな。(笑)


現代の美味しいラーメンの麺って、小麦粉の濃さというか、非常に濃厚な味がするけれど、この麺は、透き通った感じの薄い味の淡白な感じがしました。中太麺でちぢれ麺であるので、それなりにスープに絡んで美味しかったけれど、それにしてもこの透き通った淡白な味は如何としがたい。


でもこれは明治43年の日本初のラーメンなのだ。
なにを贅沢なこと言っているんだ、もう上等すぎると言っていいのかもしれない。


メンマもポソポソで、当時はこんな感じだったんだな。
焼豚はとても美味しかったです。


でもやっぱり醤油ラーメンのトータルパフォーマンスとしての完成度は、やはり明治43年とはとても思えない、いまの醤油ラーメンと堂々と渡り合えるくらいのレベルだと思いました。


立派な美味しい醤油ラーメンだと思いました。


明治43年ですよ!
明治43年で、これだけ美味しかったならば、それこそ大人気だったのはよくわかる。


「來々軒」のラーメンが当時、どれだけ大人気であったかというと、それはその儲けあがりで、一軒家が建てられるほど儲かっていたということらしい。


当時で、これだけ美味しかったならば、それも十分納得のいくところです。


期間限定だと思うので、ぜひみなさん体験なされてみてはいかがでしょうか?










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曽根麻矢子さんのチェンバロを聴く [ディスク・レビュー]

曽根麻矢子さんのチェンバロの実演は、じつは、ここ数年縁があって、2回ほど体験することができた。


サラマンカホール30周年記念ガラコンサート、そしてハクジュホール・リクライニング・コンサートである。


まさに日本はもちろんのこと世界を代表するチェンバロ奏者の第一人者と言ってもいいだろう。


前回のハクジュホール・リクライニング・コンサートのときに、曽根麻矢子 J.S.バッハ連続演奏会の情報を知ったのである。


スイス在住のチェンバロ制作者デヴィッド・レイが曽根麻矢子のために長い時間をかけて制作した18世紀フレンチモデルの楽器を使用し、バッハのチェンバロ主要作品を5年をかけて演奏する話題のコンサート・シリーズがハクジュホールでスタートする。


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これは絶対行かないといけないでしょう!


チェンバロといえばやはりバッハだと思うし、そのバッハの曲、ゴルトベルグ変奏曲、平均律クラヴィーア曲集、イギリス組曲、フランス組曲・・・などなど蒼々たる名曲ぞろい。


チェンバロは、オーダーメイドであるのが基本だが、このコンサートのために18世紀フレンチモデルの特注品。


足掛け5年をかけて演奏する。


このツィクルスは全部コンプリートしてもいいと思います。
それだけ価値のある連続演奏会だと思いますよ。


しかもハクジュホールは、音響が非常に優れていて、室内内装デザインも芸術的な独特の意匠。自分の大のお気に入りのホールでもある。


こういった大掛かりな連続演奏会は、過去にもあって、浜離宮朝日ホールで、2003年からの全12回、6年にわたるJ.S.バッハ連続演奏会、そして上野学園エオリアンホールで、2010年から2014年までの全12回のF.クープランとラモーのチェンバロ作品全曲演奏会。


今回3回目の連続演奏会になる。


普段、チェンバロを聴くことや、チェンバロの演奏会が開催されること自体、そしてそのチェンバロ・コンサートに行くこと自体、なかなか経験できないレアな体験だと思うので、これは絶対行きのコンサートだと思っていました。


もちろんチケットを取っていて、楽しみにしていた第1回の演奏会のゴルトベルグ変奏曲。(2020/9/24)


なんと!残念ながらコロナ禍で来年3月へ延期が決定。


もうすごい楽しみにしていたのにガッカリもいいとこ。


このコンサートの感想も併せて、ディスコグラフィーも数枚買いそろえて、まとめて日記を書く予定だったのだけれど、まさに失意の日々。


来年3月まで待てないので、まずはディスクレビューでも日記にしようと思って、この日記を書いている。


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(c)Noriyuki kamio


曽根麻矢子プロフィール


桐朋学園大学附属高校ピアノ科卒業。高校在学中にチェンバロと出会い、1983年より通奏低音奏者としての活動を開始。1986年ブルージュ国際チェンバロ・コンクールに入賞。その後渡欧を重ね、同コンクールの審査員であった故スコット・ロスに指導を受ける。ロスの夭逝後、彼の衣鉢を継ぐ奏者としてエラート・レーベルのプロデューサーに認められ、1991年に同レーベル初の日本人アーティストとしてCDデビューを果たした。


以後イスラエル室内オーケストラのツアーや録音に専属チェンバリストとして参加するほか、フランスおよびイタリア等のフェスティバル参加、現代舞踊家とのコラボレーションなど国際的に活躍。


日本国内でもリサイタル、室内楽と積極的な音楽活動を展開するとともにテレビ、ラジオへの出演、雑誌「DIME」でのエッセイ連載、「いきなりパリジェンヌ」(小学館)の刊行など多才ぶりを見せている。


(曽根麻矢子 Official Website)


チェンバロは、やはりバロック時代の音楽の楽器ですね。

やはりバッハだと思う。


ご自身のディスコグラフィーを俯瞰させていただくと、やはりチェンバロ奏者としてのキャリアは、バッハを主軸に置いていらっしゃるのがよくわかる。ほとんどのバッハの名曲はすべて録音してきて網羅されていると言っていいと思う。


インタビューでも、「バッハが大好きで熱中し、レコードを聴き知識を貪るなかで、どうしてもバッハをチェンバロで弾いてみたい! と熱望するようになりました。」と答えている。


今回じつにひさしぶりにバッハを聴いたわけだけれど、音楽って、近代に近づくにつれて、造形、音楽の型が凝ってきて、世俗的な感じになってくるように思うのだけれど、バロック時代のバッハの音楽は、とてもピュアで純粋というか、本当の意味で音楽の原型を聴いているような感じがしますね。本当にシンプル。


基本に立ち戻るという感じがします。


たまにはバッハを聴くのもいいです。


チェンバロという楽器の発音の仕組み、奏法、音色、ピアノとの違いなど、日記にして自分の理解を確固たるものにしたが、やはりあの音色は独特ですね。


倍音を多く含んだこの独特の複雑な音色。
いかにも弦をはじいて発音しているという弾力性のある音。


この光沢のある艶感をいかに出せるか?


そして教会や礼拝堂で演奏しているのがよくわかる残響感、空間感など、この音色とあいまって、まさにチェンバロ独特の世界。


チェンバロのオーディオ再生というのは、なかなか難しいのでは?と思います。オーディオ再生、システムの実力が試される。得手不得手の方々が出てくるのは当然のような気が。。


チェンバロの録音って、生音で聴いているより、その光沢感がより強調されている、そういう調理が施されているような気がします。


あと、チェンバロは、ピアノと違って音の強弱をつけることができないので、全曲通して聴いているとどうしても一本調子に聴こえてしまうところがありますね。しかもバッハの曲など、どんどん疾走していく感じで煽られるので、そういう意味で緩急のある現代曲と違って、興奮のつぼがちょっと違うような気がします。


曽根さんは、このチェンバロ楽器で強弱をつけることができない、ということにインタビューでこう反論している。


「バロック時代、鍵盤の1つの音に対して音量を増減させる意識「その音を強く弾こう・弱く弾こうという」はありませんでした。しかし、重厚さを求める部分では楽譜に音がたくさん書かれており、比較的静かな部分では音数も少なくなっていますので、音量に関して楽譜に書かれている以上の何かを付け足す必要はないのです。音の強弱に関して、時代の求める感性が違うと言えるでしょう。


ピアノと異なる機能の1つとして、例えば、このチェンバロには上下二段の鍵盤がありますが、上鍵盤と下鍵盤とでは違う音色の音が出ます。レジスター(音色の選択機構)によって、はじく弦の数を変えることもできます。


1つの鍵盤に対して3 本の弦が張られており、その内の1本は他 2 本より1オクターヴ高い音の出る4フィートの弦です。基本的に鍵盤を押せば1本の弦をはじきますが、上下の鍵盤を連結し、下鍵盤と上鍵盤を同時に鳴らしたり、レジスターを操作することによってはじく弦の数を変えたりすることで、音量を変化させられます。」


クレシェンド(だんだん強く)、ディミヌエンド(だんだん弱く)はできないのか?


「それについても、とてもよく質問されます(笑)。
クレシェンドもディミヌエンドも出来ます!


確かにピアノと比べると強弱の幅は小さいですが、弦をはじくということは、はじかせ方によって響き方を変えられるということでもあります。そもそも私達の聴覚は、音量の大小だけで強弱を判別しているわけではありません。


音色や響きの違いによっても、音の広がりや狭まりを感じることが出来るのです。例えば、音の切り方 (鍵盤から指を離すことで、弦にダンパーがかかり消音するといったチェンバロならではの機構を生かし、その瞬間を調節すること)を工夫し、まるで美しいディミヌエンドのように聴かせることだって可能です。弦をどうはじくのか、そして、その音をどう切り上げるのか。演奏する者にはそういった繊細な意識が必要になります。


そしてそれはとてもやり甲斐のあることですし、そもそもチェンバロは、そうした小さな工夫に豊かに応えてくれる楽器なのです。この魅力を、是非生の音を近くで聴き、皆さんに肌で実感していただきたいです!」




じつは自分は、チェンバロの録音といえば、昔から愛聴している音源があるのだ。


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α(アルファ)レーベルによるクープランのチェンバロ曲集。(チェンバロ奏者は、スキップ・センペ)


スキップ・センペは、1958年生まれのチェンバロ奏者。アメリカで音楽と美術史を学んだ後ヨーロッパに渡り、アムステルダムでグスタフ・レオンハルト等に学んだ。彼は古楽アンサンブル「カプリッチョ・ストラヴァガンテ」を1986年に設立、演奏解釈と装飾においてそれまでになかったような自由な表現を実現し、即興的で創造性の高い演奏は高い評価を得ている・・・とある。


α(アルファ)レーベルと言えば、自分はこの音源なのである。


英国グラモフォン大賞で、今年のレーベル・オブ・ザ・イヤー2020を見事に獲得したα(アルファ)レーベル。自分は、それを祝して、このスキップ・センペのチェンバロ曲集、たった1枚で、α(アルファ)レーベルについて熱く語ってみようと思ったが、それにはやはり無理があるので(笑)、やめておいた。


独特のカラーがあって、いいレーベルですよね。
録音もいいです。
自分も大好きなレーベルです。


このチェンバロ音源は非常に録音がよくて、聴いた瞬間、虜になってしまった。


それ以来、自分の拙宅オーディオオフ会で、お客さんの心を最初の一発で鷲掴みにするための1発目にかける必殺音源となったのだ。


スキップ・センペのチェンバロの録音の音って、かなり個性的である。
普通のチェンバロ録音の音ではない。


ある意味、生演奏で聴くチェンバロの音からは、かなりかけ離れたオーディオライクな音なのだ。確かに衝撃的にいい音。でもそれは自然のチェンバロの音ではない。。。そんな感じなのだ。


いかにもオーディオマニアが喜びそうな音。


チェンバロの音がちょっと電気っぽいんですよね。いかにもエンジニアがいじっている、やり過ぎ感、というような。


もちろんこの音に拒否反応を示す方もいた。
自然ではない、という理由で。


スキップ・センペは、「演奏解釈と装飾においてそれまでになかったような自由な表現を実現した奏者」とあるから、これがまさしく彼らしい音なのだろう。


自分は、この音源に2005年頃に知り合って、以来15年間、チェンバロといえば、必ずこの録音を思い出すくらい愛聴してきたのだ。




それでは曽根麻矢子さんのディスコグラフィーを聴いていくことにしよう。


レーベルはエイベックス・クラシックス。


驚いたのは、リリースしている音源は、ほとんど全部と言っていいほど高音質フォーマットなのだ。バッハの代表曲は、ほとんど全部SACDハイブリッド。そしてBlu-SpecCD、HQCDなどである。


Blu-SpecCDは、CDのピットを読むための光ピックアップをBlu-Rayのものを使うことで高音質を狙ったもの、HQCDは、光ディスクの記録媒体自体の材質改善することで高音質を狙ったフォーマットである。


自分は、この時点で、この高音質指向型の姿勢にものすごい好印象。(笑)



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イギリス組曲(English Suites) 2, 3, 6
曽根麻矢子



フランスの名門レーベルERATOの名プロデューサーであるミシェル・ガルサンにスコット・ロスの遺志を継ぐ奏者として認められ、世界デビューを果たした名アルバム「バッハ:イギリス組曲集」。


曽根麻矢子のチェンバロ奏者としての記念すべき世界デビュー盤。ERATOからのリリース。鳴り物入りだったのである。やはり、曽根麻矢子のチェンバロを聴くなら、まずなによりも最初にこれを聴かないと始まらないだろう。基本中の基本というところでしょうか。


これは素晴らしいかったですね。イギリス組曲は、いかにもバッハの曲らしい、なんか均等な打鍵のリズムで、煽られるような疾走感で迫ってくる感じがとても際立つ曲ですね。そのような快感を感じる曲です。


録音も素晴らしいです。


やっぱりこのアルバムは、他のアルバムと比較することのできない特別な立ち位置にあるアルバムですね。もっとも大切なアルバムと言っていいのではないでしょうか?


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ゴルトベルク変奏曲 

曽根麻矢子 (2008)



ベストセラーを記録したワーナー盤(1998年12月)以来、10年ぶり2度目の「ゴルトベルク変奏曲」の録音。プロデューサー/エンジニアには、ハルモニア・ムンディやアストレで「長岡鉄男外盤A級セレクション」を連発したニコラ・バルトロメ氏を起用。10年前の録音では、フレンチ・モデルを使用したが、この盤は「平均律」で使用した超大型ジャーマン・タイプを使用。


もう長岡鉄男氏の名前が出てくること自体(笑)、オーディオライクというか、高音質指向型でうれしい。


でも自分が聴いた分には、ちょっと音の指向が他盤とかなり違う。なんか奥に引っ込んだ感じの音像で、湿っぽい淑やかな音色である。これはこれでありかな、と思います。ほかとちょっと毛色が違いますね。


ゴルトベルグ変奏曲は、やはりバッハの王道の曲ですね。本当にいい曲です。この曲を聴いたのは、グレングールドのを聴いて以来だから、本当にひさしぶりです。


じつはチェンバロ録音を聴くときに、いつも不思議に思うことがあって、それは1曲の演奏終了後に”ガクン”という暗騒音が入ること。必ず曲終了後にこのノイズが入る。


これは曽根さんだけでなく、スキップ・センペ盤でもそうだし、チェンバロ特有のノイズのようだ。この暗騒音の正体を知りたい。(笑)


自分の予測では、鍵盤から指を離すことで、弦にダンパーがかかる音なんじゃないかな、と思うのだ。正しいかわかりませんが。


暗騒音はいいですね。ピアノのペダル音とか、奏者のブレスとか、生々しくていいです。録音に暗騒音が入ることを嫌う人も多いが、自分は大賛成の派です。





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平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲 
曽根麻矢子(チェンバロ)



バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は、ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタと並んで「鍵盤楽器奏者の聖書」とも呼ばれている。第1巻の冒頭を飾る優美なプレリュードは、後にフランスの作曲家グノーが編曲した「アヴェ・マリア」のメロディとして世界中で親しまれている。


使用された楽器は、ドレスデンの宮廷音楽家兼楽器製作者だったゴットフリ-ト・グレープナーが生涯最後の1739年に製作した楽器をモデルに、デイヴィッド・レイが製作したもの。パリ音楽院が所有しているが、この録音のために特別に貸し出された。


最初の1発目の出音を聴いた瞬間、自分は、


えっえっえっ?うそ?ほんと?


そのあまりの音の良さにびっくり!
これは録音がいい!!!


思わず、慌ててライナーノーツでエンジニアとか確認。


そうしたら、なんと録音エンジニアではないけれど、アーティスティック・ディレクション(Artistic Direction)という肩書で、あのスキップ・センペの名前がクレジットされている!


そう!チェンバロ録音といえば、自分が長い間愛聴してきた、あのα(アルファ)レーベルのチェンバロ音源のチェンバロ奏者である。


自分が、無意識に思わず耳に反応してしまったのは、15年間もの間、彼の独特の音色に深く洗脳されていたためで、そりゃ聴けばすぐに反応する訳です。


アーティスティック・ディレクションというのは、どういうスタンスの立場かわかりませんが、その名称からおそらくこのアルバムの作品の方向性とかを指導する立場なのでは、と推測します。


しかもお互いが映っている写真まで撮影されている!


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左からオルガン制作者のデヴィッド・レイ、そしてスキップ・センペ、そして曽根麻矢子。


えええぇぇぇ~。(笑)


苦節15年!!!


自分は、スキップ・センペがこういう容姿の方だとは、いまこの写真を見てはじめて知りました。(笑)


こんな縁があるとは。


曽根麻矢子さんは、欧州でのチェンバロ奏者としてのキャリアを築いていくうえで、最初に才能を見出してくれたスコット・ロスはもちろんのこと、このスキップ・センペといった、テンペラメント豊かな演奏家達の薫陶を受けてきて現在に至るのである。


いやあ驚いた。


しかもそのライナーノーツでは、曽根さんはこう書いている。


この収録が終わった後、録音を聴いてみて驚き、笑ったこと!

「この音色はスキップ!」


まわりの音色と明らかに違うんです。なるほどー、こんなに人によって音色が違うものなんだ。これは自分にとって一番面白いこのCDの聴きどころです。


・・・・・・


そうだろう、そうだろう。彼の音は独特だからね。ちょっと電気っぽい、エンジニアがいじり倒しているような音色。


曽根さんご本人も、これがスキップの音色ってすぐわかるほど、スキップのこの音色ってチェンバロ界では有名なんですね。誰もが知っていることなんですね。


自分は、本当に驚きました。


曽根麻矢子のチェンバロのアルバムをぜひ1枚と推薦するならば、自分はぜひこの「平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲」をお勧めします。(笑)





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ザ・ベスト8 曽根麻矢子(未発表音源=マルチェッロ/バッハ:アダージョ収録)
(HQCD限定盤)



スキップの音色はかなり独特なので、これは生音のチェンバロの音ではない、自然じゃないと拒否反応を示す方もいらっしゃると思うので、改めて、曽根麻矢子のチェンバロのアルバムをチョイスするならばこの1枚というなら、このアルバムを推薦します。


いわゆるベスト盤、イタリア協奏曲、フランス組曲、ゴルトベルグ協奏曲、無伴奏パルティータのシャコンヌとまさにバッハの名曲ぞろい。


そしてスキップの音色の平均律クラヴィーア曲集も入っている。(冒頭です。やはりスキップの音色は一発目の出音がインパクトあるのです。)


やはりこのCDを選ぶのが1番無難だと思います。

本当にいいアルバムです。



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フルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタ集 
有田正広、曽根麻矢子



最新の新譜ですね。


有田正広氏4回目のバッハのソナタ録音はモダン・フルートによる新境地。


フルートとチェンバロの右手が対等に掛け合うオブリガート・チェンバロ付きのソナタが選ばれ、録音で初共演となる曽根麻矢子との絶妙なアンサンブルが繰り広げられている録音。


ジャケットに用いられた絵画は佐伯祐三(1898-1928)の「絵具箱」(大阪中之島美術館所蔵)。


聴いてみると、対等というよりは、録音というフィルタを通すなら、フルートがあくまで主旋律で主役。録音レベルも高く前へ前へと出てくる。


チェンバロは通奏低音というか伴奏のような感じで、録音レベルも低く、奥に引っ込んだ感じで、陰ながら支えているように聴こえる。


ただそれは録音の仕掛け上そのようにしているというだけであって、旋律的には決してどちらが主役というよりは、ちゃんとお互い対等のかけあいの曲のように感じます。


フルート、美しい!

こんなに癒される音色とは、ひさしぶりに感動です。

フルートとチェンバロはほんとうに相性の合う素晴らしいコンビネーションですね。
いいアルバムです。


ハクジュホールでのバッハ連続演奏会。


チェンバロは、オルガン製作者デヴィッド・レイのカスタムメイド。
チェンバロはオーダーメイドの世界。


平均律クラヴィーアのアルバムでも、デヴィッド・レイのオルガンを弾いていることから、それ以来ずっとよいパートナー関係なのでしょう。


この連続演奏会は、ぜひコンプリートするだけの価値はあると思いますよ。

それだけチェンバロのコンサートはなかなか貴重な体験だと思います。
 









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江戸城天守 復元模型 [城]

皇居東御苑の本丸で、江戸城の天守閣の復元模型を展示する、というニュースを拝見して、これはぜひ行きたいと思った。


お恥ずかしながら、東京に来てから皇居に行った経験が1度もないのだ。


皇居も訪れてみたいと思っていたので、楽しみにしながら先週の日曜日に行ってきた。


江戸城の天守閣については、以前日記にしたが、子供の頃から江戸城の天守閣って見たことがないし、記憶にもない。誰もがそうではないだろうか。お城の天守閣と言ったら、大阪城や姫路城、名古屋城、松本城、熊本城とか思いつくところ、代表的なところはそこら辺の天守閣を思い浮かべると思うのだが、不思議と天下のお江戸、東京の江戸城に天守閣ってあったっけ?という感じだろうと思う。


自分も前回の日記にするまでまったく知らなかった。
日本史大好きなのに。(笑)


その前にお城の天守閣について、お勉強してみることにする。


NPO法人江戸城天守を再建する会のTwitterで紹介されていたYouTubeで大変参考になる映像素材を見つけたので、紹介したいと思う。


「天守閣の歴史について」



講師:三浦正幸広島大学教授


三浦先生の説明は、とてもわかりやすく、大変参考になります。
ぜひ見てみてください。ものすごく面白いです。
お城マニアの方には堪らないと思います。


ちょっと内容をかいつまんで説明してみると、


最初にお城の天守閣というのを作ったのは織田信長だそうだ。信長は天守ではなく、天主と呼んでいた。天の主、まさに信長らしいが、信長以降、城を造った大名達は”天守”と呼んだ。彼等は宗教上のある種のおそれから、天主と呼ぶのをためらったのかもしれない。


織田信長が最初に天主を作った。永禄12年(1569年)京都の二条城に作った天主が日本で初めて作った天主であろうと考えられている。(4階4重だった。)


この当時はいまの二条城とは違った位置にあった。室町幕府15代将軍足利義昭のために作った天主。それ以来、天主というのは天下人の象徴と位置付けられた。


織田信長の安土城。


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本当はもっと綺麗な図なのだけれど、パワポに圧縮して張り付けると、屋根にもわれ縞ができてしまっているが本当はすごい綺麗な復元図。天正四年に作り始めて天正七年(1579年)に完成。


自分は、お城の中で、この安土城が一番大好き。

なんか日本のお城っぽくない。南蛮の国や唐の国の風情がある。
それが和様と混ざったようなまさに独創的。
やっぱり信長らしいお城だと思ってしまう。


安土城が、日本の他の名城の外観と比較して、あまりにその外観が奇異と感じるのは、ずばり5階の朱色(赤)の八角形の円堂の外観のところなのだと確信している。 城全体の外観のバランスを観たとき、この赤い八角円堂の部分が、思いっきりインパクトが強くて、我々への印象度を強くしている。


自分が子供心に、思いっきり衝撃を受けたのも、この5階の赤い八角円堂の部分だった。


天の主という意味の天主は、まさに信長の天下を象徴するものであった。


屋根が五重。地上六階、地下二階。このとき初めて屋根を五重にしたことから、天下人の天主(天守)は屋根が五重の天主(天守)というのが正規の形になった。


五重より少ない四重、三重という天守が部下たちの天守になった。


信長の天主の壁は”黒漆塗り”だった。非常に豪華だったのである。


城の上に鯱(しゃちほこ)を最初に乗せたのが、信長の安土城が最初だったようである。それ以降、日本の天守にはすべて城の上に鯱(しゃちほこ)が載るようになったそうである。




豊臣秀吉の大坂城


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信長の跡を継いで、天下人の象徴という意味で建てた。
天下人の象徴なので、五重の天守で、地下六階。地下二階であった。


城の壁は黒漆塗りで、そこに木を彫った彫刻になっていて、そこに金箔を塗り込んだ。黒漆塗りの壁に金箔の彫刻がひしめいていて、城の外側としては日本で一番派手な天守だった。


さすがに天下人の天守だけある。


自分は、今回このYouTubeを見て初めて、この大坂城の復元図を拝見して、秀吉の大坂城というのはじつは黒い城だったのだ、という事実を知った。


結構ショックでした。(笑)


いまの大阪にある白壁の大阪城とは似ても似つかわぬまったく別物のお城だったんですね。黒漆塗りの壁に金箔の彫刻。。。この秀吉の大坂城を見て、いかにも派手好きの秀吉らしいと思いました。まさに日本歴史上でもっとも絢爛豪華な派手なお城だったのである。


秀吉は部下たちにどんどん天守を建てることを勧めたのだが、徳川家康だけはどうしても天守を建てなかった。


家康は非常に聡明な人だった。


なぜかというと、天守というのは、天下人の象徴。そうすると大坂城の天守が日本で一番大きくて立派である。もし家康が江戸に天守を建てたとすると、秀吉の大坂城天守を超えることはできない。


もし秀吉の大坂城より少し小さい天守を建てたとすれば、秀吉の政権の中で秀吉の下にいるということを天下に示してしまうことになってしまう。


それでは天守という意味がまったくない。したがって家康は自分が天下を取るまで、天守を建てなかったのである。
 


徳川時代の江戸城


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家康が天下人になったので、もちろん五重の天守。

壁が全部白壁であった。


屋根は鉛瓦。鉛は錆びてくると真っ白になってくる。真っ白な屋根に白壁で、この江戸城はまるで、”雪をかぶった雪山のようだ”、と言われていた。江戸城は真っ白な城だったのである。


江戸城の天守閣は、


慶長天守(家康)(1607年に完成)→ その後解体
元和天守(秀忠)(1623年に完成)→ その後解体
寛永天守(家光)(1638年に完成)→ 1657年に焼失


が存在した。


上の図の左から慶長天守(家康)→元和天守(秀忠)→寛永天守(家光)である。


なんで3代に渡って、天守閣を解体しては再建築したのかは、一言で言うと、子供は偉大な親の影響を排除して自分の存在を強調したい、親を超えたかった、ということらしい。


初代将軍家康の慶長天守より2代将軍秀忠の元和天守が大きく、3代将軍家光の寛永天守は、元和天守とまったく同じ寸法で、意匠が多少違うというところの差だけだそうである。


江戸城天守閣の特徴は、日本の歴史上もっとも大きい天守閣だったということであろう。そして、3代家光のときの寛永天守が日本最大規模の天守閣となった。


ところが明暦の大火で、江戸の街の多くは焼失し、江戸城も天守閣をはじめ、多くが焼失した。その後本丸御殿は再建されたのだけれど、天守閣を再建するのは、費用もかかることから、見送られた。(天守台は再建された。)正確には江戸城天守閣再建を諦めたのではなく、”永引”という言葉で、永く見送られた、という意味で、いつかは再建される可能性の意味合いを残した、というニュアンスだそうである。


戦国の時代は平定され、江戸時代は平和だったから、天守閣はもうなくてもよかったんですね。


だから3代将軍家光以降のときから、すでに江戸城には天守閣は存在しなくて、ずっとその後いまに至る訳だから、自分が子供の頃から江戸城に天守閣の存在の記憶がまったくなかったのは当然のことなんですね。日本の誰もがそうだと思います。


この3代家光のときの寛永天守の時代の建築資料が詳しく大量に現在にも保存されていることから、”江戸城天守を再建する会”というNPO法人が設立されて、この寛永天守の時代の天守閣をいまの令和の時代に再建しようという動きがあるみたいである。


このコロナ禍のこのご時世に天守閣などの再建に予算を回したりしたら、それこそ世間中の大批判を浴びそうですが(笑)自分は夢があっていいな、と思いますね。公金に頼らず、民間の力、クラウドファウンディングなどで夢をつなぐ感じで進めているようである。



いまの皇居、江戸城に天守閣があったら、それこそ日本の城権力図はガラリと変わるような気がします。やはりいまは大阪城が天下人の城で1番権威があるような気がするけど、ここに江戸城天守閣が再建されてしまうと結構そこのバランスが微妙に違ってくるような感じがしますね。


この寛永天守の資料に基づいて、この寛永天守の復元模型を、いまの皇居、皇居東御苑の本丸に小屋を建てて、そこに展示するというイベントが9月29日から公開されているのである。


本天守復元模型は,外観,構造など,復元のために重要な資料が比較的多く残され, 確かな時代考証に基づく復元が可能な寛永期の天守を1/30スケールで制作したものだそうだ。


これはぜひいかなきゃ!である。
そして皇居も初体験である。


皇居東御苑は大手町にある。

皇居東御苑の大手門


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内側がみるとこんな感じ。


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大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城した。


江戸城の鯱(しゃちほこ)。
鯱は、明暦の大火の後、江戸城再建時に制作されたもの。


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「番所」とは警備詰所のことで、江戸城の番所のうち、百人場所、大番所、同心場所が残っている。


同心場所
登城者の監視に当たった。


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百人場所
江戸城本丸への道を厳密に守る警部詰所。


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大番所
ここいは位の高い武士が勤務していた。


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都心のど真ん中にこんな森の中が存在するなんて、という感じの別世界ですね。


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ここから本丸のほうに上り詰める。


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そうすると本丸御殿があったところがいまは一面芝生になっているのだが、その周りを歩いていくとあった!


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江戸城寛永天守の復元模型は、この小屋の中にある。
この復元模型を展示するためにつくった小屋であろう、おそらく。
もちろん検温、手を消毒のコロナ対策はある。


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これが今回の大本命!
江戸城寛永天守の1/30スケールの復元模型である。


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江戸城天守閣は以前CGでの復元図を拝見していたので、特段驚きはしなかったが、そのときにも抱いた印象であるが、やはり地味ですよね。(笑)


信長の安土城や、秀吉の大坂城のような絢爛豪華な感じ、魅せる城、という感じよりは、堅実な意匠の印象を受けます。


やはりそこは家康の堅実な性格が垣間見れるなのだろう、と思います。
やはり長い時代の平和を築くのは、じつは堅実さが一番いいのかもしれません。

派手、絢爛豪華は、意外や短命に終わるのかもしれません。


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江戸城天守閣を再建するにあたって問題視されていることをご存じですか?


それは天守閣を再建すると、そこから現在の天皇陛下のお住まいを見下ろすことになる、という問題。でもそれは再建する会側は、それは天守閣の窓を閉めてしまえばなんの問題もないとしています。


これでミッションコンプリート!



あとは、皇居東御苑の散策モードに切り替え。


まずは江戸城の天守台。


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明暦の大火で江戸城が焼失したときに、江戸城再建時にこの天守台は再建された。
(このときは天守閣も再建する気十分だったんですね。)


この上に天守閣が乗っかる感じですね。


この天守台から見下ろすと一面は大芝生が一面に広がっているのです。
あまりの美しさに言葉も出ません。


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この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいたのである。


本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていた。表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場であった。


このように正直、普段は本丸御殿で生活や執務をおこなうことが多いので、正直天守閣は、もはや無用の長物で、あくまで権威の象徴を見せつけるものでしかないので、お江戸の平和な時代には、必要のないものだったんですね。



この大芝生の上に寝転がってみました。
芝生がチクチク体に刺さって痛かった。(笑)
でも気持ちが良かった。最高ですね。


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天守復元模型を展示している小屋の裏側に展望台があります。


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江戸城を囲む濠。


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さらに散策モードへ。


この凛とした佇まいの美しさ、わかります?
究極の和の美しさを感じます。石垣が美しすぎる!


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つぎに二の丸雑木林や二の丸庭園のほうを散策します。


すぐに大手休憩所。


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ここの自然の緑の世界は本当に美しくて、まさに和の美の極致、わび、さびの世界、日本人に生まれてよかったと思う瞬間でもある。


こうやって絵を書いていらっしゃる方も多し。


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特に二の丸庭園の美しさには心底驚き。


ここはまさに造られた美、植樹など、ここまで意識し尽くされた構図の美しさ、はひたすら驚きでしかないです。


これはひたすら見てください、というしかない。
自分はここに居て、とても都心とは思えない別世界にいる感じであった。


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最後のこの皇居東御苑内にある建物を紹介。

本丸の天守台の横側にある一連の建物。


宮内庁楽部庁舎


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桃華楽堂


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桃華楽堂は、香淳皇后の還暦を記念して建てられ、香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名された音楽堂で、昭和41年(1966年)に完成した。屋根はテッセンの花弁を象り、八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれている。


ここが宮内庁書陵部庁舎である。
宮内庁御用達の書物関係の図書館のようなものなのでしょう。
もちろん部外者立ち入り禁止です。


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以上が、皇居東御苑の全貌。ここを散策するだけでもかなり足が棒になる感じで相当歩きました。でも都内のど真ん中にある自然の美しさで驚き。素晴らしいですね。


敷居、ハードルは高いと思いますが、江戸城天守、再建されると夢がありますね。


この日の体験がトリガーになって、秋のツアーの松本・京都・名古屋に加えて、急遽、姫路を加えることにしました。


日本で最初の世界遺産に指定された白鷺城こと、姫路城を体験しないと。


日本で一番美しい天守閣ですね。


この秋のツアーで、少なくとも松本城、名古屋城、そして姫路城と3つのお城を廻れそうです。









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交響録 N響で出会った名指揮者たち [クラシック指揮者]

いやぁ面白かったです。本当は休日の明日に読むつもりでしたが、待ちきれずに今日一気に読了。


元N響オーボエ首席奏者の茂木大輔さんの現役時代に接してきた指揮者たちとの思い出、エピソードを書き下ろした本。


34名+約110名との思い出。「一番苦労したのは人選」


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いま話題沸騰ですね。


オケマンでないと、リハーサルのその場にいないとわからない、リアル感満載で、読んでいて楽しかったです。


やはりご自身で体験されている話は、読んでいて説得力ありますね。
文章が借りものじゃないですね。


インタビューで語るときの姿とはまた違う一面で、リハーサルで音楽をオーケストラとどのように作り上げていくのかとか、いわゆる指揮者の素の姿など、かなり楽しかったです。


生々しい描写でした。


我々が観客席で指揮者&オーケストラを観ている感覚と、微妙に違いますね。
オケマン特有の感じ方が新鮮でした。


特に、「レコードを出している指揮者は違う。」と思っていらっしゃったところ(もちろん当時ですが)が、いまの自分にはない感覚でとても新鮮でした。


こうやって読んでみると、N響って、やはり世界中の高名な指揮者が客演する機会に恵まれている、本当に恵まれたオーケストラなんだな、と改めて思いました。


たくさんの魅力的な指揮者のお話を読ませてもらいましたが、自分の個人的な思い入れを言わせてもらうなら、やはりマレク・ヤノフスキ。


ヤノフスキ先生、最高だなぁ。(笑)


本気なのか冗談なのかわからない「ヤノフスキ・ワールド」。


あの面持ちと、皮肉とユーモアがよく合っていて、わかるなぁという感じで思わず吹き出してしまいました。


いいなぁ。(笑)

ますます大ファンになりました。


ヤノスフキが指揮した東京・春・音楽祭のニュルンベルクの指環、4年間、つい先日のことのようです。悔やまれるのは、今年の東京春祭2020で「トリスタンとイゾルテ」をヤノフスキ指揮で最終の美を飾るはずだったんですよね。本当に残念。。。


とにかく面白いです。
ぜひ読んでみてください。



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交響録 N響で出会った名指揮者たち
茂木大輔(著)



この本を読んだら、久しぶりにN響を無性に聴きたくなりました。


コンサートに行って感動をして、感想を日記にしたり、あるいは不満を書き綴ったりしていたあの時代が無性に恋しくなりました。コロナ憎し。


というか、自分が、いまだに生音復活していませんから。(笑)

11月に復活予定です。


茂木さん、最近の近影を見ていると、現役時代とくらべて、随分痩せられている。
ご病気をされて以来、奥さんの減塩食生活など節制されているようです。


でも歳をいって痩せるのは、見ていてちょっと心配しますね。(笑)


指揮者としての新しい生活が始まった矢先にまさかのコロナ禍になってしまいましたが、ぜひくじけず頑張ってください。


近いうちにまた、「のだめコンサート」に参上します。









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ライナー・マイヤールさんの逆襲 [ディスク・レビュー]

アナログレコードを発明したのは、エミール・ベルリナーというドイツ・ハノーファー出身のアメリカの研究者。


のちのレコードプレーヤーの原型である、円盤式蓄音機「グラモフォン」を作った。この「グラモフォン」の製造・販売のために「ベルリーナ・グラモフォン」という会社を設立する。


ベルリーナ・グラモフォンは、ビクタートーキングマシンを経てRCAレコードとなり、また、英国支店はグラモフォン・カンパニーを経てEMIへ、さらに、ドイツにおいてはDG(ドイツ・グラモフォン)と、音楽業界に大きな影響を与える企業の源になった。


DG(ドイツ・グラモフォン)はハノーファーに技術センターのエミール・ベルリナー・スタジオ(Emil Berliner Studios)を設立する。その名称は、もちろんレコード発明者のエミール・ベルリナーに由来している。


いわゆるDGの黄金期のレコード、すなわち録音は、すべてこのEmil Berliner Studiosでおこなわれた。そののち、Emil Berliner Studiosは、DGから独立して、ベルリンに拠点を構えて、録音専門会社として現在に至る。

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エミール・ベルリナー・スタジオには 2人のエース、トーンマイスターがいて、それが、 ライナー・マイヤール氏とウルリッヒ・ヴィッテ氏。 まさにDGの黄金期の作品は、この2人によって作られてきたといっていい。


ヴィッテ氏は、サウンド的にはギュンター・ヘルマンスの後継者といった存在で、 いかにもDGという王道を行く、密度感があって中間色のグラディエーションが濃厚、 それでいて肌触りの自然なオーケストラ録音をものにしていた。


一方でマイヤール氏は、DGに新しい風をもたらした。 彼の代表作は ブーレーズ指揮ウィーンフィルのマーラー3番やガーディナー指揮のホルスト「惑星」 などで、とても瑞々しく色彩的に鮮やかで かつダイナミックな録音を身上としていた。


あれから数十年、いまはライナー・マイヤールさんの部隊となった。もういまや若手を育成して いかないといけないことから、マイヤールさんはプロデュース業にシフトしている。



ダイレクトカッティングは、いまやEmil Berliner Studiosの代名詞。


ダイレクト・カッティングは、演奏された音が、直接オーディオトラックに入り、アナログレコード(ラッカー盤)の溝に刻まれる最短経路。もちろんあとで編集で修正することは不可能だし、演奏の方もミスは許されない一発勝負。


この方式ってある意味、相当昔の原始的な方式であって、それを時代を遡ってなぜいまの時代にこの方式に挑戦するのか。


自分は、それはいままで説明してきたEmil Berliner Studiosの伝統から、レコードの発明者、オリジネーターとしての立場、そのレコード録音の原点に立ち戻ることに挑戦しているのではないだろうか、と思っていたりする。(自分の予想です。)


そしてそこには、ギリギリの緊張感の中で挑戦する男のロマンみたいなものがあるに違いない。


「コンサートでもない、伝統的なレコーディングでもない、両方の長所を取り込んだセッション。」


数年前に、ノイマンのカッティング・レースは、その多くが破棄された。
残存する少数のマシーンは、いまや何10万ユーロものの価値がある。


Emil Berliner Studiosには、このダイレクトカッティングするカッティングマシンがある。何十キロもするこの大装置を、コンサートホールのコントロールルームに運び込んで、まさに一発勝負のカッティングをする。


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カッティング・マシンは「ノイマンVMS80」を使用


このマシンを持っていること自体、大変なことだし、それをダイレクトにラッカー盤に刻み込む作業こそ、まさに伝統的職人のなせる業なのだろう。(日本のキング関口台でも、ダイレクトカッティング用のマシンを導入したのを最近知りました。)


だから、このダイレクトカッティングで制作されたレコードは恐ろしく貴重で値段も高い。しかも販売限定枚数が決まっています。


Emil Berliner StudiosがいままでリリースしてきたダイレクトカットLPは2枚あって、ラトル&ベルリンフィルは8万円!ハイティンク&ベルリンフィルのブルックナー第7番は3万円!である。


ここまでがいままでの背景を説明する序章・プロローグである。


あ~疲れた。(笑)


自分はいままで、ダイレクトカットLPはあまりに値段が高いし、しかも自分はアナログ再生は腰掛程度であまり熱心なマニアではないので、ダイレクトカットLP自体はスルーをしていた。


でも舞夢邸で聴かせてもらった感動、そして第2弾ハイティンク盤が3万円台と手に届く範囲であったので、購入してみることにした。さらに第1弾のラトル盤も中古市場で一気に揃えた。


ハイティンク盤はあまり自分の録音の嗜好に合わなかったが、ラトル盤は素晴らしいと思った。


それ以降、自分はアナログLPのコレクションは全然ないけれど、Emil Berliner StudiosがリリースするダイレクトカットLPだけは、全部コンプリートしていこう、と決意したのである。


ダイレクトカットLPはある意味、普通ではない特殊なレコードですからね。


ラトル盤が素晴らしくて、ハイティンク盤がいまいちだったのは、ラトル盤はワンポイント録音でハイティンク盤はマルチマイク録音だからだと、自分は推測した。


そうしたら、なんとハイティンク盤をリリースしたばかりなのに、即座に第3弾がリリースされるという。


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第3弾は、ヤクブ・フルシャ指揮バンベルク交響楽団の演奏によるスメタナ「わが祖国」である、という。ヤクブ・フルシャはチェコ人指揮者で、まさにチェコ音楽、ボヘミア派音楽を自分のトレードマークにしてきた若手指揮者である。


これはまさしく自分を挑発しているよなぁ~。(笑)


偶然な出来事とはいえ、マルチマイク録音のハイティンク盤をよし、としなかった自分へのライナー・マイヤールさんのリベンジ、逆襲と思ってしまったのである。(笑)


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世界限定1111枚で自分のは、314枚目。


今回のLPは33回転ではなく、45回転ですね。

45回転の方が音がいいとされていますね。


今回リリースされた記事では、ワンポイント録音なのか、マルチマイク録音なのか、きちんと明記されていなかった。


収録:2019年7月25,26日、ヨーゼフ・カイルベルト・ザール、コンツェルトハレ、バンベルク


録音:
レコーディング・プロデューサー&エンジニア:ライナー・マイヤール
カッティング・エンジニア:シドニー・クレア・メイヤー
マイク:ゼンハイザーMKH800 Twin and MKH30
カッティング・マシン:ノイマンVMS80
カッティング・ヘッド:ノイマンSX74
製造:オプティマル


でもマイクが2種類明記されていることから、メイン用とアンビエンス用の2種類という意味なのだろう、と思った。どちらもゼンハイザーである。


演奏は、2019年に、バンベルクのヨーゼフ・カイルベルト・ザールというホールで録音された。


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この写真をみると、メインのステレオペアのマイクの他に、左右にモノラルの補助マイクがあるように見える。普通のマルチマイクのセッション録音は、もっと楽団員の隙間にスポットマイクが林立している感じなのだけれど、ダイレクトカッティングは編集できないから、スポットマイクを多用できない訳で、最小限、前方中央と前方左右にとどめたのかもしれない。


自分が実際レコードを聴いてみると、これは完璧なマルチマイク録音だな、と判断したのだが、それは打楽器群など、オーケストラの遠方席にいる楽器群の音が、かなり近くで録っている、拾っているような迫力感、明晰さがあって、また各セクションの音の録音レベルも大きくて、全体的にみんな近いところで録っているように聴こえたからである。


全体として遠近感をあまり感じなかったです。


ワンポイントで録っていると、いわゆる指揮者のすぐ背面の高いところから録っている聴こえ方で遠いポジションの楽器ほど遠く聴こえて、全体的に遠近感のある聴こえ方がします。


いわゆるワンポイントの聴こえ方をする、という感じですね。


各セクションともかなり解像感があって明晰性があって、そういう迫ってくるような迫力を感じたので、これは完全にマルチマイクだな、と思ったのですが、その後にこの日記を書くために、この写真を見つけて、スポットマイクがほとんど見当たらないのに愕然としました。(笑)


ちょっと謎です。


録音は総評として、かなり素晴らしかったです。


まず、これがマルチマイク録音なら、位相合わせの難しさなどで、音場感が潰れてしまっているのではないかと心配をしましたが、まったくそういうことがなく、かなり完璧な録音といっていい。


まずなにより録音レベルが高いですね。
自分に迫ってくるような聴こえ方がしますね。


サウンドに迫力があって、部屋中にふわっと広がっていくような自然な音場感、自分は当初マルチマイクだと思っていたので、それにしてはあまりに自然でシームレスな広大な音場感なので、さすがマイヤールさん、と驚きました。


そして各セクションが均等に明晰でマイクに近い聴こえ方がするので、自分が理想としている広大な音場、明晰な音像を両立させているのでは、としこたま驚きましたです。


この両方を両立させることは、大変難しいことなのです。


録音がいいかどうかって、最初に針を落としたときに奏でられる出音でわかってしまうものなんですね。その後、いくらずっと聴いていても印象が途中で変わることはほぼないです。


緊張しながら、最初の出音を聴いたとき、ハープのボロロンという音が、なんとも潤いのある響きで空間を漂う雰囲気がなんとも堪らなかった。


凄い空間感を感じた瞬間。


ハープって低域から高域まで、すごい音域の幅が広い楽器なので、これを万遍なく拾ってあの雰囲気を出すのって録音ではすごい難しいことなので、それが完璧だったので驚きました。


そして、あとオーケストラがトゥッティに入ったときのあの迫力感、音場感が完璧。


これはオーケストラとしては完璧な録音。


オーケストラ録音で大切なことは、あのホールに鳴り響く音場をいかにすっぽり丸っと取り込むか、ということですから。


ダイナミックレンジがしっかり取れた、そういう器が大きくないと、こういう風には録れないですね。


自分としては、かなり満足できた録音といっていいと思いました。

素晴らしかった。


もし、ハイティンク盤に続き、第3弾でも自分の意に添わなかったから、黙っていよう、沈黙していようと思っていましたから。ダイレクトカッティングっていかに難しいものなのか、ライナー・マイヤール、Emil Berliner Studiosの俊英部隊を以てしても難しいものなのだ、と自分を納得させようと思っていましたから。


いまこうやってお世辞をいっさい使わず、堂々と称賛の日記をかける幸せ。


同時に、ライナー・マイヤールさん部隊の職人技、高いスキル。
プロとしての意地をしっかり受け止めました。

もうさすが!としかいいようがない。


どうしてこういういい録音がダイレクトカッティングで実現できたのかは、もちろん厳密に導き出せるわけもありません。それは、職人、プロの世界ですね。


Emil Berliner Studiosは、オランダのポリヒムニアと並んで、自分の最も尊敬する録音仕事人である、という認識をさらに強くしたと言っていいと思います。


(あ~かなりホッとした。(笑)第3弾リリースの報を聴いたときから、ずっと心配、悩みの種でしたので。)









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千駄ヶ谷は将棋の街 [雑感]

東京渋谷・千駄ヶ谷に来るなんて何年振りであろう。おそらく就職で上京当時に、友人と千駄ヶ谷の東京体育館のプールに泳ぎに通っていたとき以来ではないだろうか?毎週通っていました。


この千駄ヶ谷に東京・将棋会館、日本将棋連盟がある。将棋会館は、大阪や名古屋にも支部があるみたいだが、ここ東京・千駄ヶ谷が本部である。プロ棋士の所属する本部を一度拝見したいと思ったのである。


この将棋会館では、順位戦をはじめ、多くの公式戦の対局が行われ、そしてその対局中の昼・夜の食事休憩時のときに棋士たちが出前を頼む、いわゆる”勝負メシ”のお店がこの千駄ヶ谷の将棋会館の周りにたくさん存在する。


まさに将棋の文化とともに栄えてきた街なのである。


千駄ヶ谷は将棋の街なのだ。


東京に来てからこのご本尊の街に一度も来ていないのは、心残りで、昨今の将棋ブームにあやかって一度来てみようと思ったのである。


いわゆる聖地巡礼である。


JR総武線の千駄ヶ谷駅で下車すると、いきなりこのようなものが。


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この駒は、この千駄ヶ谷に本部が置かれている日本将棋連盟協力のもと、1980年に制作したものである。表面の「王将」の文字は、故・大山康晴十五世名人の書で、裏面には千駄ヶ谷駅の由来が彫られている。


日本将棋連盟の本部がある将棋会館内には、プロ棋士の公式戦が行われる「対局場」の他、お客様同士で将棋が指せる「道場」がある。


日本将棋連盟、東京・将棋会館のHPで確認すると、3階以上は、対局場になっていて、一般人は立ち入り禁止になっているのだが、1階は将棋グッズ関係の販売店、2階が道場になっていて、ここは一般人が入れるみたいなのだ。


よっしゃ!これは行こう!

思いついたら即実行である。


東京・将棋会館は街の奥に入った目立たないところにあった。


東京・将棋会館

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入ると、いきなり大山康晴十五世名人の彫刻肖像画がありました。


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エントランスはこんな感じ。


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入ったら、すぐに将棋グッズの販売店がある。


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いろいろ細かく物色していこう。


プロ棋士の販促グッズで一番有名なのは、この扇子ですね。


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棋士が対局中に、この扇子を持ってパチンとやったりするのだ。


自分は子供の頃、中原誠名人の扇子が欲しくて、欲しくて、将棋会館に注文したことがあった。当時ネットECとかある訳ないので、どうやって送金したのか、全然覚えていないのだが、送られてきたときは、嬉しくて、子供心にプチ宝物であった。


書いてあった文字は、40年以上前の自分の記憶では、確か”誠”だったような気がする。


中原さんグッズは、掛け軸と色紙があった。


中原さんの掛け軸 ”無心”、称号は永世十段。

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中原さんの色紙。”盤上天地”、称号は十六世名人。

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藤井くんの扇子もある。
”大志”

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藤井くんは、いまや将棋界の稼ぎ頭であるから、藤井グッズはたくさんありました。


数々の貴重な写真も展示されていました。

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中原誠、大山康晴、米長邦雄、加藤一二三。


この写真の数々を見て、やっぱり将棋といえば、この世代だよな、とちょっとオジサン目線ですみません。


将棋の駒。
143,000円。じゅ、じゅうよんまん!!(滝汗)

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将棋盤
50万から100万。ひゃ、ひゃくまん!!(滝汗)

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ひぇ~、やはり道具からしていいものを使うと、それだけ気が入って強くなるんでしょうね。



本も買いました。
加藤一二三九段と渡辺明三冠(名人、棋王、王将)による
「天才の考え方」これが天才たちの頭の中だ!藤井聡太とは何者か?


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2階の道場にも寄ってみました。


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なんか普通の雑居ビルみたいですね。(笑)
自動販売機がすごく多かったのが印象的でした。
このショットの裏側にもたくさんの自販機があります。
やっぱり対局中はどうしても飲料が必要なのでしょうね。



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この道場では、一般人でも誰でも好きにふらっと寄って、見ず知らずの人と対局できる仕組みです。本当に将棋の好きな人は、そうそう相手も見つけるのは大変ですが、ここにこれば、本当に将棋好きな人なら誰でも相手を見つけられる仕組みですね。


ボクもちらっと寄って見学だけのつもりで入りましたが、いきなり入り口の係の人に、「5分くらい待ってください。」と言われました。きっと相手ができるまで5分という意味なのでしょう。慌てて出てきました。(笑)



この将棋会館の対局場で、プロ棋士たちは順位戦など、日々戦い、精進して生活していく、まさに厳しい勝負の世界を繰り広げていくわけだ。



この将棋会館では、自分の子供の頃にどうしても忘れられない対局がおこなわれた。
自分の心の根の深いところに鮮明に刻まれている。絶対に忘れることができない。


中原誠名人×加藤一二三十段の第40期名人戦


中原名人9連覇で、ついに名人位10連覇か!という1982年。自分が忘れもしない高校生3年生。


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名人戦というのは、普通七番勝負、先に四勝したほうが勝ちだ。でもこの戦いは持将棋に千日手2回と決着がつかない戦いが3回もあって、全部で十戦も戦った。名人戦のようなタイトル戦は、普通は旅館などを貸し切ってやるものなのだが、ここまでもつれるとは誰も思わず、旅館の予約が出来ず、最終戦は、ふつうの将棋会館でやる羽目になったのだ。


いまのようにネット中継とかなかった時代だから、もうドキドキしながらずっとその結果を待っていた感じである。


最終日も深夜におよぶ大熱戦の末、加藤さんが中原さんを撃破して、ついに中原名人十連覇を阻止。


加藤一二三新名人の誕生となった。


これは本当に悔しかったねぇ。いまでも忘れられないです。


加藤さんがこれほど輝いて見えたときはなかったです。
当時の将棋界でかなり衝撃的なできごとでした。


9年間も名人はずっと中原さんの中原時代だっだから、自分には加藤名人というのがどうしても受け入れ難かったです。


自分はこの頃の凄い加藤さんのことをよく知っているから、とても”ひふみん”とは呼べないです。(笑)


加藤一二三さんは本当に凄い棋士だったのである。


藤井くんが六十数年ぶりに次々と破る年少記録は、全部加藤さんが打ち立てていたもの。「神武以来の大天才」と呼ばれ、いかに加藤さんがすごい記録を持っていたか、ということが藤井くんがその記録を破ったときに、はじめていまわかる、みんなに認知されるという感じなのだ。


加藤さんの偉大さがよくわかる。


やはり中原誠、大山康晴、米長邦雄、加藤一二三の面々が、自分の時代の絶対的な将棋界の象徴だった。


加藤さんは、その当時からいい意味でちょっと変わっている人というか、ちょっと天然入っている感じで愛されるキャラクターでした。


その40期名人戦でも、1日目の対局が終わって封じ手が済んだら、中原さんも加藤さんも囲碁が好きだから、夜のオフに2人で囲碁対局をやったりしたそうですが、「本番勝負でもない、ただの遊びの囲碁なのに、加藤さん、すごい長考するんだよね。(笑)」って中原さんがなんかのインタビューで答えていたのをよく覚えています。


当時からそういう天然入ったキャラクターだったので、いまの”ひふみん”路線はあながち無理筋ではない想定できた路線だったのかもしれないと、いま自分は思います。



今回、将棋会館を訪れるにあたって、もうひとつの楽しみがあった。


それは将棋会館で棋士たちが対局中の昼・夜の食事休憩をするとき、いわゆる出前を取る訳だが、これは将棋界の業界用語で、”勝負メシ”と呼ぶ。


加藤さんは、棋士生活60年に及んで、一貫してずっと昼も夜もうな重だったのである。1局も例外がなかった。これはとても有名な話である。


自分は、この加藤さんが愛したうな重をどうしても今回味わいたいと思ったのである。


いまでは、インターネット中継で、棋士が昼ごはん・夜ご飯に何を頼むかは視聴者のクイズになるほどの人気コンテンツになっているらしい。(笑)


将棋界では2016年から対局中の外出を禁止しており(スマートフォンなどによるカンニング防止の一環)、昼食や夜食に出前を取る棋士が増えた。


将棋の話題によく出てくるお店と、棋士の注文などで名物になったメニューが以下である。全部、千駄ヶ谷の将棋会館のそばのお店たちばかりである。



●みろく庵


将棋の勝負メシの定番店である。昼はそば屋、夜は居酒屋として営業している。藤井四段が新記録の29連勝目で食べた「豚キムチうどん」が話題になったことで有名。


●そば ほそ島や


蕎麦とカレーのセットが人気という蕎麦屋「ほそ島や」。このお店では、羽生世代のトッププレイヤーの一人・丸山九段がタイトル戦の挑戦者決定戦の夕食で、冷やし中華のチャーシュー3枚増し(計5枚)を2杯頼んだことが伝説になっている。(笑)


●千寿司


実は、将棋界にはこの店の特上にぎりをサビ抜きで食べる棋士が多いと言われている。勝負の世界なので、強い棋士の真似をしたのかもしれないし、何かのげんかつぎなのかもしれないが、その真偽は不明である。


●紫金飯店 原宿店


ボリュームたっぷりで創業50年を誇るこちらのお店。藤井四段の29連勝目の食事として話題になったお店である。夕食に藤井四段はこちらで五目チャーハンを注文し、品切れだということでワンタン麺を頼んだ。


将棋ブームで繁盛する老舗店


千駄ヶ谷には、長い間経営しているお店が多く、そもそものファンもいるのだが、昨今の将棋ブームで「棋士と同じメニューを頼みたい」と訪れるファンも増えてきているのだそうだ。


また、棋士の頼むメニューはトッピングや量が個性的でもあり、思わず真似したくなってしまうのが特徴だそうだ。まさに将棋ブームで繁盛する千駄ヶ谷の老舗店、というところであろうか。


情報引用元:【棋士とメシ】名人ほど食事がユニーク?将棋関係者が愛する聖地・千駄ヶ谷の名店たち




そしてボクの今回の最大の目的である加藤一二三九段が愛した、うなぎのふじもとをここに紹介しよう。”うなぎのふじもと”は、将棋会館の近く、歩いて5分くらいのところにある。


うなぎのふじもと。


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店内。


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加藤一二三九段のうなぎ好きは有名。この”ふじもと”で、昼はうな重の竹を、夜は松を食べるのが「定跡」だったそう。


彼が約40年もの間、愛用しているお店が、ここ”ふじもと”なのである。
また、米長邦雄さんも愛したと言われている。


これが今回の最大ミッションだったかもしれません。(笑)


女将さんに、「じつは将棋会館の聖地巡礼にきたついでに加藤さんが贔屓のこのお店に来たんです。」と話しかけたら、「あらぁ~そうなんですか?うれしいわぁ~」ってたいそう喜んでくれました。


すごい話が弾んで、


「スポーツで野球やサッカーが流行れば、自分の子供にそれを目指せさせるとか、最近は将棋ブームだから、じゃあ子供にはプロ棋士にさせよう、とか世の中の親ってかなり単純なのよね~。(笑)ほら、将棋をやらせれば子供の頭がよくなると思っている人多いんですよ。(笑)」


「つい最近、羽生さんも寄ってくれたんですよ。羽生さんはテレビで見ると大きく見えるけれど、実際お会いするととても小柄な方で驚きました。」


棋士って対局中は、カメラで映されると、とても大きな偉大な人に見えるけれど、実際お会いすると、本当に思ったほど大きくなく小柄で驚くんでしょうね。


女将さんは、加藤さんが来店してくれたときに、将棋盤にサインをしてくれたのを見せてくれた。


「喜んで生きる。加藤一二三」

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羽生さんもこの将棋盤にサインしてくれて、でもそのとき小さなペンしかなかったから、こんな感じで失敗したわ。(笑)

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そして、これが、加藤一二三さんが愛した”ふじもと”のうな重の”松”
4800円!!!


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いやぁ本当に美味しかったです。


自分もうな重を食べ始めたのは、つい最近の10年ぶりで、うな重ってこんなに美味しいものなのか!という感じでちょっとマイブーム。


でもUberEatsのお取り寄せで頼むおらが街の1980円のうな重とは、もう天と地の違い。もううなぎの味、香りからして全然違うという感じです。


やっぱり高級品は全然基本が違う。

本当に美味しかったです。


藤井くんが四段になり、プロデビュー戦が最年長の加藤一二三九段との対戦。

加藤さんはこの対局に負けて、引退を決めた。

ここから藤井くんの連勝が始まって、藤井フィーバーが始まり、
その一方で加藤さんは引退し、”ひふみん”としてメディア界で大活躍することになった。


新しいスターが生まれて、入れ替わりに巨星が去っていく。


ひとつの時代が大きく移り変わった瞬間ですね。


もう藤井くんのことでコメント、解説するのは、いまや加藤さんの役割。

加藤さん言うには、藤井くんの仕事しか来ない、と言っていますが。(笑)


ひふみん、藤井二冠と対戦したら「互角に戦えます、控えめに言って」。「まだ(藤井二冠は)2つぐらい研究してない形があるんです、身につけてない形がある。」


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これは最高に嬉しかったねぇ。やはりこうでなくっちゃ。新しい強いスターが出てきて躍進中のとき、そこに冷や水を浴びせるような存在がいなくっちゃ面白くありませんね。


それは加藤さんくらいの実績、立場だから説得力がありますね。


加藤さんがSNSや、報道で話すコメントが、すごく沁みますね。


厳しい勝負の世界に生きていたからこそ、わかるような、本当に悟りの境地というか、本当に自分に響いてくる言葉の数々、心に染みます。


加藤さんはクラシック音楽にも大変造詣が深くて、最近、音楽の友でインタビューを受けていましたね。


ひふみん、加藤さん、ぜひ今後も末永く頑張って、将棋界の使徒として頑張ってほしいです。



最後に、スポーツ雑誌Numberが将棋特集を組んで話題になった。


「棋士もアスリートである。」


初日即完売で大変な話題になり、自分も増版でやっと入手しました。

とても興味深く楽しく拝読しました。


自分が食い入るように読んだのは、もちろんこちら。


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中原さん、お元気そうでなによりでした。
近影を見れてうれしかったです。

いまは趣味の囲碁と競馬で悠々自適の毎日のようです。

「18歳の羽生と藤井」という命題で語っています。


その他、佐藤康光が語る、「大名人、この一局。」が面白かったですね。


「中原先生は、AIの影響を受けた現代の将棋に一番融合しそうな気がします。何より大局観がすごい。全体のバランス感覚というか、手の作り方、主導権の握り方が卓越していますね。」


「自分の将棋に「絶対」の自信を持たれているのが、加藤先生です。他の棋士の参考にされたイメージがまったく感じられません。」


さすが同業者のプロから見るところは、鋭いところを突いているなと思います。読んでいて感心したところです。


確かに、中原さんのバランス感覚は自分も憧れましたね。


受けの〇〇、とか攻めの〇〇とか、極端に個性の強い棋風という感じでなく、いわゆる本当に自然流で、本当にバランスがいいんですよね。それで相手のアクの強い形をどんどん破っていくところがすごい格好良かったです。



自分の時代になくていまあるのが、棋士がAIを駆使するようになったということ。


でも自分が思うのは、将棋って、いろいろな強烈な個性を持つ人間棋士同士の戦いだからこそ、そこに、その個性のぶつかり合いというドラマが生まれるわけで、観ていてそこに面白さを感じるわけです。


将棋を知らない人でも、この棋士とこの棋士との戦いに、勝ち負けがついて、そこにドラマを感じて面白く感じるのではないでしょうか?


そこに表情のないプログラミングされた正しい棋譜だけの世界では、そのような面白味を作り出すことはできませんね。


AIはあくまで棋士のトレーニングのためのツールという位置づけなのではないのでしょうか?








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サビーヌ・ドゥヴィエル [オペラ歌手]

サビーヌ・ドゥヴィエルはフランスの歌手である。リリックソプラノでコロラトゥーラ。同じフランス人歌手で大歌手のナタリー・デセイの後継者とも言われている。


デセイの大ファンである自分にとって、どうにも気になる存在であった。


デビューは2011年、CDデビューは2013年のようだが、自分は2015年のモーツァルト・アルバムで初めて体験した。そのときの第一印象は、歌がじつにうまい歌手、とても新人とは思えない、その抜群の歌唱力に驚いた。


でも、そこで感嘆の日記を書いてしまうのは、ちょっと判断が早すぎるのではないか、ととどまった。この先、どのように伸びていくか、その過程をもう少し眺めてからでも遅くはないと思った。


今回、フランス歌曲集の新譜が出て、いままで合計3枚のアルバムを聴いてきたが、もうこれは本物だと確信した。


各アルバムが出るたびに日記ではなく、つぶやき程度で感想を書いてきたが、3枚目の今回の新譜を聴いて、改めて、サビーヌ・ドゥヴィエルについて日記を書いてもいいと思ったのだ。


今回の新譜は、本当に素晴らしかったです!(あとで。)


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チェロと音楽学を学んだ後、声楽に転向し、2011年にパリ高等音楽院を首席で卒業したばかりにもかかわらず、在学中から数々のオペラの舞台に出演して話題に。レザール・フロリサン、マルク・ミンコフスキなどと共演している。古楽から現代音楽までをレパートリーとしているが、キャリア初期は、バッハからラモーまで、バロック音楽に傾倒。


その後、フランス国立管弦楽団とパリ管弦楽団とのラヴェルの「子供と魔法」に出演し、より幅広い聴衆の目にとまることとなった。2011-12年シーズンには、ベルリーニの「夢遊病の女清」のアミーナ役を歌い、ベル・カント作品デビューを果たす。


パリ・オペラ座でのモーツァルトの「魔笛」の夜の女王役や、ベルギーのモネ劇場でのグルック「オルフェオとエウリディーチェ」でも主役をつとめた。2013-14年シーズンには、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」やヴェルディ「ファルスタッフ」のナンネッタを歌い、英国グラインドボーン音楽祭ではラヴェルの「子供と魔法」に出演。


「言葉の重さを重要視し、洗練された敏感な歌には偉大な哀愁の風が吹いている」と高い評価を得る。2013年、専属契約を交わしたエラート・レーベルから発売され、フランス・デビュー・アルバムとなった「ラモー:壮大なる愛の劇場」で、フランスのグラミー賞といわれるヴィクトワール・ドゥ・ラ・ムジーク、およびディアパゾン・ドール賞を受賞。着実にキャリアを積んでいる、期待の大型新人ソプラノ歌手。(WARNER MUSIC JAPAN HPからの引用)



とにかく歌がうまい!

とても新人と思えない完成度で驚くのである。


これは歌手に限らないと思うが、ふつう長い演奏家人生の中で、大きく変わる変化のとき、いわゆる”化ける”ときってあると思うのだが、ドゥヴィエルの場合、はじめからこのように完成度が高かったら、この先どう変わっていくんだろう?化けるときってあるのだろうか、というように思ってしまうのである。


伸びしろがある、という目で期待点を込めて、称賛するというのが新人に対する評価感のように思うのだが、この完成度なら、なかなかそんな感じでもなさそう。


ソプラノなのだが、声質はキツイ感じでなく、柔らかい声質。間違いなくソプラノの声音域なのだが、どこかメゾの音域を聴いているような定位感の良さ、安定感がある。声の線が太いんですね。


オペラ歌手にしては、体格が華奢で痩せているので、声量大丈夫なのかな?とも当初思ったのだが、オーディオで聴く分には全然十分である。


これは一般評価軸ではなく、あくまでノンノン流独自評価軸なのだが、歌手、歌もので、自分の心に響いてくる歌手は、


①ホール空間において、ある一点で定位する定位感の良さ。
②音楽的なフレーズ感。


いい歌手ってこの2つを必ず持っているような気がする。


特に②は、声質、声量ともほんとうに素晴らしいいい声しているのに、その歌を聴いていると、自分に響いてこないときが結構ある。そこにはその歌に対するフレーズの収め方というか、フレーズ感がないからだと思うのだ。


それはその歌に対する勉強度合いなど、より理解度がないと難しいものなのかもしれない。やっぱりその歌に対する経験なのでしょう。


本当に、その歌に対して、自分のものになるときって、もう何回もその修羅場をくぐってこないと、修羅場をくぐってきてこそ、本当の自分の歌になるのではないでしょうか?


シャンソン歌手のバルバラが、あのように一見早口でたたみ掛けるように話しているだけなのに、その歌になぜか心打つ、カッコいいと思ってしまうのは、そこに音楽的なフレーズ感があるからなのだと思っています。


ドゥヴィエルについては、この2つの要素がかなり備わっているように思えます。①は実際ホールで実演に接していないので、断言はできませんが、きっと間違いないと思います。②は確実に備わっていると思いますね。


とにかく聴いていて、歌がうまいなぁと思うこと、感心すること毎回でしたが、3枚のアルバムを聴いてきて、ここに本物だと断言してもいいと思いました。音楽院在学中からオペラ公演に引っ張りだこで出演していた、という事実もよく理解できます。


レパートリーはやはりフランス・オペラやフランス歌曲が多いようですが、フランスの歌の世界はとても新鮮ですね。


世界のオペラ界は、やはりドイツ・イタリア中心に回っていると思うので、フランス・オペラやフランス歌曲は、なかなか耳にしたことがない曲が多く、とても新鮮です。


彼女のアルバム、3枚聴いてとても新しい世界に感じます。

ぜひ日本に呼んでほしいと思います。

オペラというよりは、リサイタルでやってほしいですね。


リサイタルなら、もう誰にも遠慮なく、フランス・オペラ・アリアとかフランス歌曲とか、ガンガンやれると思うので。


彼女の世界が満喫できると思います。




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シャンソン・ダムール~フランス歌曲集 
サビーヌ・ドゥヴィエル、アレクサンドル・タロー



今回リリースされた新譜。もうジャケットが素晴らしすぎるでしょう。(笑)


ドゥヴィエルとタローは、フォーレ、プーランク、ラヴェル、ドビュッシーと、この時代を代表する作曲家の歌曲の中から「愛」「戦い」「死」にまつわる曲を選び、周到にプログラムを創り上げています。アルバム・タイトルにもなったフォーレの「シャンソン・ダムール=愛の歌」やプーランクの「愛の小径」などの良く耳にする愛らしい歌をはじめ、ラヴェルの「5つのギリシャ民謡」、ドビュッシーの「忘れられた小唄」などの連作歌曲
といった、今回2人がどうしても採り上げたかったという曲集など、多彩な作品が並ぶこの1枚には、ドゥヴィエルとタローの「今こそ表現したい思い」が詰まっており、聴き手は聴いているだけで様々な体験をすることができるでしょう。


ドゥヴィエルの柔らかくニュアンスに富んだ声は、フランス歌曲の持つ繊細な雰囲気を余すことなく表現するだけではなく、ここにタローのピアノがぴったりと寄り添い、ときには優しく、時には自由に旋律を歌い上げます。


「幅広いレパートリーというだけでなく、多様性と驚きの両方を目指して、個々の曲を選びました。ドビュッシーとラヴェルは私にとって必需品であり、フォーレはスピリチュアルな父として自然な選択であり、プーランクはよりスパイシーでスパイキーなものを提供しています。タローのピアノが生み出す音色の意味は、会話、憂鬱、反抗など様々。このアルバムで私たちは詩を味わい、フランスの歌には無数の色があり、それらの色を引き出すことが私たちの使命でした。」と、ドゥヴィエルは語っています。(HMVからの引用)




ドゥヴィエルはEratoレーベル。Eratoは、ディアナ・ダムラウはじめ、オペラ歌手が多く在籍しているレーベルですね。


いいレーベルです。いまはWARNER MUSIC傘下でしょうか。


今回の新譜あまりにジャケットが素晴らしいので、アナログLPも買っておきました。(笑)


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自分のアナログコレクションは微々たるものですが、こうやって新譜で気に入ったものがあったら、アナログも買っておくというスタンスでしょうか。


本当に美しい珠玉の曲ばかりが集まったアルバムで、心洗われるような美しさで泣けますよ。フォーレ、プーランク、ラヴェル、ドビュッシー・・・フランスを代表する大作曲家たちの残した歌曲。


本当に新鮮な驚きです。

録音も素晴らしいです!




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ウェーバー姉妹のための歌曲集、夜の女王のアリア、他 
ドゥヴィエル、ピション&アンサンブル・ピグマリオン



ドゥヴィエルを初めて聴いたアルバムがこれでした。


このアルバムは、モーツァルトと恋愛関係にあったウェーバー姉妹にちなんだ歌曲を中心としたプログラム。


これも素晴らしいです。初めて聴いたときに、その歌のうまさに、とても新人とは思えないなと舌を巻きました。


このアルバムではモーツァルトの魔笛の夜の女王のアリアも披露していますよ。コロラトゥーラもできるところを見せています。もうちょっとコロコロ感があれば、いいな、とも思いましたが、これだけできれば全然素晴らしいです。


ぜひお勧めの一枚です。



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ミラージュ~フランス・オペラ・アリアと歌曲集 
サビーヌ・ドゥヴィエル、フランソワ=グザヴィエ・ロト&レ・シエクル



現在の日本において、フランスのオペラの普及度は、イタリア、ドイツものに比べ、一歩遅きに失した感があります。今回のドゥヴィエルの新譜に収録されているアリアの数々も、全曲を耳にすることができるのはこの中の何曲にあたるのでしょうか? そんな思いに駆られるのは、あまりにもドゥヴィエルの歌が素晴らしいからに他なりません。(HMVからの引用)


まさにそう思います。


これも本当に素晴らしい1枚で、普段耳にすることの少ないフランスの歌の世界を堪能できる貴重な1枚だと思います。このアルバムがリリースされたとき、本当に何回リピートして聴いたことか、わからないくらいよく聴き込みました。


これもぜひお勧めの1枚です。



なんか、いまにも彼女が日本にやってくる世界もそう遠くはないような感じもしてしまいますが、その前にコロナなんとかしないとね。こういう投稿すると、いつも一気に夢の世界を突っ走るのですが、すぐその後に現実の世界に引き戻されて、あ~と溜息の毎日なのでした。











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国際音楽祭「プラハの春」 [海外音楽鑑賞旅行]

みなさんのおかげで今があるわたくし。いままでを深く感謝しつつ、また今後ともよろしくお願い申し上げます。


この先行きの見通せないコロナ事情で、はたして海外へ渡航できる日が来るのだろうか。日本に帰国しても自宅待機14日間の壁はいつ払拭?(これがあるかぎり、会社人は無理。)


おそらくとうぶん無理でしょうね。


でもそのままなにもせずに悶々と過ごすのも、あまりに人生の過ごし方無駄すぎる。こういうときは、自分流のやり方として、仮想トリップするしかない。(よくやります。)せっかくここまでチェコ熱がフィーバーしてきたので、この火を鎮めたくない。


熱いうちに仮想トリップしたいです。


そういうことで、目標である国際音楽祭「プラハの春」について、どのような音楽祭なのか、書いてみることにした。


プラハの春音楽祭という呼称が一般的かもしれないが、国際音楽祭「プラハの春」が正式名称なのだろう。


東京・春・音楽祭は、ここから由来しているんですね。


チェコ・プラハの街は、ヨーロッパ随一の美しい街だと言われている。
この音楽祭に行ったら、やはりプラハの街散策が最高に楽しみですね。
ぜひこの美しい街プラハをいろいろぶらぶらしてみたいです。


悲劇的な歴史を背負ってきたにも関わらず、これだけ美しい街の景観がいまも残っているというのは、本当に奇跡としか言えないのではないだろうか。


チェコって、ちょっとコンパクトでユニークな印象なのがいいですね。
独特の美的感覚があって、自分にはかなりユニークに感じます。


ドイツ、フランス、オランダ、イギリスというような大国専門であった自分にとって、チェコは東欧独特のモノトーンのブラウン系というか、国のカラーとして、独創的な色彩がありますね。


街全体が芸術作品のような、チェコの首都「プラハ」。


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プラハ歴史地区


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プラハ市街中心部には、1992年に世界遺産登録された「プラハ歴史地区」があり、美しい中世の街並みを堪能することができる。


カレル橋


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「カレル橋」は1402年に建設された、プラハ最古のゴシック様式の石橋。


写真:建築&クラシック好きにはたまらない♪チェコの芸術都市「プラハ」で体験したい6つのこと。




そんな美しい街で毎年5月に開催される国際音楽祭「プラハの春」。


スメタナの命日の5月12日に開幕。チェコフィル@スメタナホール(市民会館)でスメタナ「わが祖国」が演奏される。



2014年の国際音楽祭「プラハの春」。(スメタナホール(市民会館))

チェコの国旗掲揚に、フェスティバルのロゴ旗も掲揚。


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フェスティバル・ロゴ


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オープニングに、スメタナ・オペラ「リブシェ」からのアリア、そしてチェコ国家が演奏される。


このプラハの春音楽祭は管弦楽や室内楽のための国際音楽祭。ホスト役はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団。その他にも著名な音楽家やオーケストラが招かれる。


黒沼ユリ子さんの時代では、東と西とで社会体制が違う国のアーティストも、この「プラハの春」音楽祭では同じステージに立つという当時からインターナショナルで画期的な音楽祭でもあったようだ。


チェコ・フィルハーモニー管弦楽団創設50周年にあたる1946年に、エドヴァルド・ベネシュ大統領の後援で、首席指揮者のラファエル・クーベリックの指導のもと第1回の音楽祭が開催された。


ビロード革命による民主化直後の1990年には、1948年のチェコスロバキア共産党の政権の成立による共産化を嫌って西側へ亡命していたクーベリックが、チェコ・フィルと歴史的な再共演を果たしている。


この1990年、クーベリック、プラハの春音楽祭に復帰!という映像作品DVD、購入しました。ドキュメンタリー付きです。あとでレポートします。


いわゆるあの「人間の顔をした社会主義」の「プラハの春」が起きたのが、1968年。
でも国際音楽祭「プラハの春」がスタートしたのが、1946年。


自分の最初の誤解は、変革運動「プラハの春」が起きて、その後にその名称が、その音楽祭に使われるようになった感覚があったのだけれど、そうじゃないんですね。まず「プラハの春」音楽祭が最初にあって、その後に起きた変革運動にその音楽祭の「プラハの春」を持ってきたということなのでしょうか。



会場は(たとえば2000年)、スメタナホール(市民会館)をメインにルドフィヌス(芸術家の家)、聖ヴィート大聖堂、シュパニェルスキー庭園、聖ミクラーシュ教会、聖ヤクブ教会、聖ベトル=聖パヴェル教会、聖イジー教会、聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂、マーネス、ベルトラムカ別荘、国民劇場、ヤナーチェク・ホール等、25を超える会場が使用される。


まさにプラハの街にあるコンサートホール、教会全部を使って盛大におこなわれる音楽祭なんですね。


毎回、スメタナの命日である5月12日に彼の代表作「わが祖国」の演奏で幕を開けることで知られる。3週間にわたって開かれる。


演奏会では記念年に当たる作曲家の作品が取り上げられたり、現代のチェコの作曲家の作品の初演が行われる。また創設の翌年から若手演奏家のためのプラハの春国際音楽コンクールも開かれているそうだ。


コンサートホール・マニアの自分は、やはりコンサートホールについて、語りたい。


スメタナホール(市民会館)


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共和国広場に立つ、ひと際華やかなセッション様式の市民会館。中央奥にあるホールが、クラシックファン垂涎の「プラハの春」音楽祭が開幕される聖地だ。このホールはプラハ最大のホールで、舞台中央にスメタナのレリーフが象徴として収められている。天井には、音楽、ダンス、詩、演劇の寓意のフレスコ画。彫刻やパネル、天井のガラスなど。20世紀初めに活躍したチェコの芸術家たちが腕を振るった装飾は、細部にわたり素晴らしい。


ホール内装は、一見シンプルに見えるが、要所要所ディテールにこだわった装飾は、見事。チェコ芸術の粋を集めた劇場と言えるだろう。


ホール音響は、この写真を見てまず思うことは、天井がすごく高く、ホール容積も広い。でもホールの横幅がそんなに広くない細長いホール。座席は完全なシューボックスなのだけれど、ホールの中高空間はその形状に限定されないように広がっている。内装彫刻のデザインも含め、独特の空間形状ですね。


そこから想像するのは、やはり残響感豊かなホール。響きが非常に濃いホールであることに違いない。この中高空間の彫刻は、より反射音の拡散を際立たせ、まだ天井も高いので、滞空時間や残響時間(響きの長さ)も長くて、かなりいいのではないのでしょうか・・・


写真見ていて、いかにもいい響きがしそうだ。



地上波で再放送が決まった「のだめカンタービレ」。いま話題沸騰であるが、そのヨーロッパ編でプラハが舞台になっているんですよね。このスメタナホールは、ヨーロッパ編の「のだめカンタービレ」で千秋がヨーロッパ・デビューコンサートを行ったホールであり、さらに映画版では、ここの壁にシュトレーゼマン(縦ロールヅラかぶりの竹中直人)の「プラハ公演」特大ポスターが貼られている。


さらにクライマックスといえるシュトレーゼマンとのだめのコンチェルトのシーンが撮られている。



ルドルフィヌム(芸術家の家)。モデル付き(笑)


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ドヴォルジャーク・ホール


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ドヴォルジャークホールでプラハの春音楽祭


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ルドルフィヌム(芸術家の家)は、チェコのプラハにある音楽公会堂である。何十年にもわたってチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であり、毎年5月と6月に開催されるプラハの春音楽祭では主要な開催地の一つとなっている。


1885年2月8日にこけら落としを迎え、これを主催したオーストリア皇太子、ルドルフに敬意を表して「ルドルフィヌム」と命名された。


ルドルフィヌム内にあるドヴォルジャーク・ホールは、ヨーロッパのコンサートホールの中では最古のものの一つであり、音響効果の面でよく名前を知られている。


1896年1月4日、ここでチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の最初期の演奏会が開かれた。アントニン・ドヴォルジャークの指揮によるものだった。


スメタナホールに比べると、若干容積控えめという感じですが、そこが逆に音響の面でいい要因になっているように思います。ヨーロッパ最古のコンサートホールのひとつ。


こちらもシューボックスタイプで四隅をラウンドさせている室内形状で、反射音を得るのが容易で、響きがとても豊かな感じですね。いかにも音響良さそうです。


このドヴォルジャークホールも、のだめカンタービレ ヨーロッパ編ではヨーロッパ上陸した千秋とのだめが最初にヴィエラ先生のコンサートに行った場所、という設定で使われている。


スメタナホールもドヴォルジャークホールも日本のドラマ&映画に大協力してくれた太っ腹なホールですよね、ホントに。(笑)いまのコロナ禍の惨状を考えると、本当に遠い世界のできごとみたいになってしまいましたね。


プラハを舞台にした”のだめカンタービレ ヨーロッパ編”、DVD持っているので、また後日観て感想を書きます。自分は、このヨーロッパ編、当時、ドラマも映画(ちゃんと映画館で前編・後編みた)もしっかり見ているのですが、プラハが舞台になっていたというのは全然覚えていないんですよね。のだめがパリを拠点にして、そこのコンセルヴァトワールに通っていたのは覚えているのですが・・・。



スメタナホール、ルドルフィヌムの中のドヴォルジャーク・ホール、この2つのホールが有名ですが、自分的には、どうしても体験してみたいオペラハウスに、国民劇場がある。


チェコ、プラハを訪れるならば、この国民劇場は絶対必須でしょう!


国民劇場


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国民劇場は、音楽の盛んなチェコにおける最重要機関であり、チェコを代表する芸術家らによって創設、維持されてきた。この伝統により、チェコの言語、音楽、思想などが保存・発展してきたものと言われている。


チェコの中のもっともチェコ的な文化劇場、それが国民劇場です。


国民劇場は、いわばチェコ国民・民族のアイデンティティと独立を体現するために建設されたもの。当時のチェコはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあって、公用語はドイツ語。自分たちの言語チェコ語を面前で話せなかった。


だから劇場もドイツ語による上演が多く、チェコ語で上演できる劇場はなかった。


当時、ドイツ語の劇場しかなかったプラハにおいて、1844年にはチェコの愛国者たちの間にはチェコ語による劇場を求める声が高まり、「チェコ語によるチェコ人のための舞台」を求めて1845年には申請を行い、建設許可を得ている。


そういうプラハを中心としたチェコ国民の寄付によってできたのが国民劇場なのである。


そういう歴史があるからチェコ国民にとって、もっとも重要な劇場である、ということがわかるであろう。


初演は、1881年6月11日、ベドルジハ・スメタナのオペラ「リブシェ」。


残念ながら、その初演からわずか2か月後に、火事で焼失してしまうんですよね。でも不屈の闘志、そこから47日間でふたたび民衆から資金を集め、2年後の1883年に再開するのです。



これは黒沼ユリ子さんの著書”アジタート・マ・ノン・トロッポ”でも、この国民劇場については熱く語られていたところで、その箇所を紹介しますね。


その1881年当時の国民劇場の写真です。


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自分の国を失った弱小民族が、ようやく1918年に悲願かなって独立国となるまで一体どうやって自分たちの文化を守り続けてきたのか、という問への答えの中の重要なポイントのひとつが「音楽」であったといっても言い過ぎではないと私は思う。


長い間、異民族の支配下で抑圧されている民族が、音楽に祖国の独立の希望と夢を託して現状の苦しみを慰めるということは、歴史上どこでも繰り返されていることだからだ。チェコ人には次のようなエピソードが、これを裏付けるもののひとつとして残っている。


それはチェコ人が自民族復活への熱望のシンボルを「国民劇場を持つ」ということに集約していたという事実だ。


つまり自分の言語と音楽で芝居やオペラが上演される場所を持つということ。


1868年5月、プラハで待望の国民劇場の定礎式がおこなわれたが、この礎石になったいくつかの石は、ボヘミア、モラヴィア両地方の名所や、チェコ人にとっての精神的絆のヤン・フスが捕らえられていたコンスタンツァなどから運ばれ、またアメリカに移住したチェコ人からも連帯のシンボルとして石が送られてきたそうだ。


この国民劇場は1881年6月の落成し、スメタナのオペラ「リブシェ」(チェコ建国の伝説的プリンセス)の初演によって幕を開けた。


ところがなんという悲劇か、二か月後にはこの新築の劇場は火事で全焼してしまったのだ。しかしその1か月後のうちにチェコ人すべての団結した献身的努力により、百万グルデン以上の大金が集まり再建が始まった。


それには裕福な婦人たちは自分たちの宝石を、田舎の人々はレース編や民芸品をと、すべての国民が何かしらの寄付をしその売上金によって資金の調達ができるように協力したからだった。


2年後の1883年には早くも修復が完成し、タイトルロールのリブシェの歌う「私の愛するチェコ民族は、決して死に絶えることはないだろう。どんな苦しみをも栄光を持って切り抜けるのだ」というアリアがふたたび響き渡り、チェコ人の胸に滲み入っていったのだった。ステージの真正面には「ナーロド・ソビエ」(民族はそれ自身へ)という言葉が彫られ、その9文字は今も変わることなく金色に輝いている。


この翌年チェコ・フィルハーモニーが発足した。当時は国民劇場のオーケストラのメンバーが兼任している者も多かったが、 1896年1月には、ドヴォルジャーク自身の指揮によって彼の交響曲第9番「新世界より」が演奏されて正式のデビューをした。


しかしその5年後に国民劇場のストがあってそれが長引いたため、チェコ・フィルハーモニーはオペラのオーケストラと完全に分かれて独立し、コンサート専門オーケストラになった。まだまだオペラに人気が集中し、コンサート収入だけでオーケストラを維持するのはとても困難だった当時、チェコ・フィルハーモニーをささえる保証をしたのは、むろん当時のオーストリア・ハンガリー帝国の政府ではなく、チェコ人1人ひとりからの精神的、経済的援助だったのだ。音楽を求める心を国民の誰もが持つようになるということは、私たちにとって大変うらやましいことでもあるが、それはこの国の歴史が創り上げた民族的感情と切っても切れないものとして、今もチェコ人の中に脈々と流れ続けているものだと思う。


今日のチェコ人音楽家の演奏に欠けることのない特徴のひとつに、音楽へのアプローチの精神的な深さをあげることができるが、それは、過去の大作曲家たちの偉業のみに帰するものではなく、音楽を心から愛し、音楽なしには生きることすらできないほど熱心な聴衆によってたえず求め続けられてきたからこそ、絶対不可欠な要素として、今も彼らの間に息づき続けているのではないだろうか?




いやぁ~熱い語り口ですねぇ。(笑)思わず前のめりになりそうです。


そういうこともあって、プラハに行くなら、スメタナホールやドヴォルジャーク・ホールもいいけど私なら、国民劇場。ここでチェコのオペラ、演劇をチェコ語で観てみたいです。


いまは、国民劇場はオペラ、バレエ、演劇を提供しているみたいです。いずれも、著名なクラシックなどに限定せず、地域のものや現代のものも上演しているとか。


ちなみにプラハ国立歌劇場と、国民劇場は違うので要注意。
プラハ国立歌劇場は、ドイツ語での上演の劇場です。


プラハのドイツ系住民がドイツ語の上演を求めて結成したドイツ劇場組合によって建てられた劇場になります。だから国民劇場とは、もう根本的に違いますね。


近年では、エディタ・グルベローヴァの来日公演で、このプラハ国立歌劇場とのジョイントで渋谷オーチャードホールでオペラ(ベッリーニのノルマ)を観たことがあります。(2016/11/6)


グルベローヴァさまもチェコスロヴァキア(チェコ+スロヴァキア)生まれなんですね。


最後に、1990年のプラハの春音楽祭のコンサートの模様をDVDで鑑賞して、締めとしましょう。



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クーベリック/わが祖国(1990年プラハ・ライヴ)+祖国との再会(ドキュメント)
ラファエル・クーベリック




共産主義体制に反対し、チェコ・フィル首席指揮者の地位を投げうって西側に亡命した指揮者クーベリックが42年ぶりに祖国を訪れ、「プラハの春」でチェコ・フィルと「わが祖国」を演奏するという感動的なステージ。


1990年「プラハの春」音楽祭オープニング・コンサート・ライブ


ドキュメンタリーでは、祖国に到着した巨匠、父の墓参に訪れるシーン、そしてリハーサルの模様などが網羅されている。


「プラハの春」音楽祭のオープニング・コンサートの雰囲気よくわかりました。
そしてスメタナホールの中の雰囲気もよくわかりました。


自分がその観客席の中にいるような感覚になれました。
画質・音質悪いですが。(笑)


ホールの側壁に皇室VIP専用のロイヤルボックスがあるんですね。
全員スタンディングで拍手で迎えられ、そこに皇室が入られる。

そしてチェコの国家斉唱という感じでしょうか。


クーベリック&チェコフィルやノイマン&チェコフィルって、昔自分がクラシックの勉強をしていたとき、一生懸命音源を購入して聴いていましたが、それっきり。最近はまったくご無沙汰。


でも映像で指揮姿を見たことはなかった。


今回初めてクーベリックの指揮姿を見ました。
チェコフィルうまかったです。


「わが祖国」のモルダウ。川のせせらぎをイメージした旋律。
木管の音色がホール空間をよく通っていました。


このDVDの素晴らしさは、コンサート以上に父の墓参りやリハーサルに注目してほしいです。


リハーサルというのは、その指揮者がオーケストラとともに、どうやって音楽(その曲)をいっしょに作っていくかがよくわかるし、その指揮者のその曲への拘り、考え方がよくわかりますね。


自分はリハーサルを見て、クーベリックはやはりすごい指揮者だと感嘆しました。スメタナの「わが祖国」に対する並々ならぬ拘り、楽譜への理解力すごいと思いました。インタビューではチェコ音楽の調性について熱く語っていたのも印象的でした。


実演を見ただけじゃわかりませんね。


「42年ぶりに私を迎えてくれてありがとう。君たちは私のことを知らないし、私も君らのことを知らない。」


もうひとつ嬉しかったのは、クーベリックのリハーサルやインタビューを見ることで(聴くことで)、チェコ語というのを耳にすることができたこと。これがチェコ語として意識して聴いたのはたぶん人生初めて。


それには伏線があって、黒沼著書でチェコ語の難しさがかなり詳しく言及されていて、文法はもちろんその発音、日本語表記することの難しさなど、説明されていて、自分は、チェコ語ってどんな言葉?と自然と興味を持ってしまったのでした。


それをリアル・チェコ語として聴けたのはよかった。
やはり難しそうです。(笑)


インタビューでは、民主主義の大切さ、共産主義に対するアンチテーゼを強く主張していた。自分の選択肢は間違いではなかった。そこには男としてどうしても引けない一線があったのだろうと思いました。


民主主義のためならば、命を捧げることもできる!と強く断言していた。


最後は、おそらくビロード革命のときと思われる場面、広場をチェコ国民が国旗を抱えながら行進していくデモ行進が映され、思わずこの国特有の複雑な歴史事情のインパクト、ちょっとジ~ンとくるシーンでした。


このDVDで、プラハの春音楽祭が大体どのようなものなのか、体験できる素晴らしい作品ですね。(時代遅れのカメラアングル、単調な固定画面、切り替えなど、やはり古い時代だな~とは思いましたが、それを言っちゃダメでしょう。)


ゴローさんの上司であったAプロデューサーから、「ノンノンさん、ぜひプラハの春音楽祭は必ず行ってください!」と太鼓判のお勧めを、知り合った当時、もらっていたので、ようやくこの今になって、これで少しは恩返しできたのではないでしょうか?まだ実際に行っていないけど。(笑)


これで、国際音楽祭「プラハの春」を仮想トリップできたのではないかと思います。










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黒沼ユリ子さんの音源を聴く [ディスク・レビュー]

いよいよ音源の方を聴いていこう。


普通の物販CDサイトを見ても、黒沼ユリ子さんのCDはほとんど売っていないのだ。レコーディング活動も活発におこなっていたと思うのだが、おそらく大半が廃盤となっていてあまり録音という形では現在に残っていない。


いや活躍した時代から、当然アナログLPが主流だろうということで、中古市場を探ってみると結構存在した。すかさずこの3枚をゲットした。


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黒沼ユリ子さんの所属レーベルは、ビクターエンターテイメントとCBSソニーである。


まずCDのほうから堪能したい。



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Czech Violin Works-martinu, Janacek, Smetana:
黒沼ユリ子(Vn)Panenka(P)



”チェコ・ヴァイオリン音楽選”というタイトルのこのCDは、チェコの作曲家マルティヌー、ヤナーチェク、そしてスメタナというところのヴァイオリン・ソナタを集めた作品。


パートナーのピアノは、ヤン・パネンカ。


ヤン・パネンカは、黒沼ユリ子さんがヴァイオリン・ソナタをやるときの永遠のパートナーである。プラハ生まれ、チェコのピアニスト。プラハ音楽院でフランティシェク・マクシアーンに師事、ついでレニングラード音楽院でパーヴェル・セレブリャーコフに師事。1999年7月12日没。


この録音は、1971年7月5日~8日というたった3日間でレコーディングされたもので、プラハのドモヴィナ・スタジオで収録されている。


おそらく黒沼さんがメキシコに移住した後に、プラハをたびたび訪れ、演奏会、録音をしているので、この録音もその一環のものなのであろう。


このCDの中で、黒沼さんは、”チェコ人と音楽と私”というタイトルで寄稿をされている。まさにチェコへの熱い気持ちが書かれており、それを全文ぜひ紹介してみたい。



●チェコ人と音楽と私  黒沼ユリ子


1958年の晩秋、私は生まれて初めてプラハに降り立ちました。それまで全く未知の国での未知の街、未知の人々の暮らすところへ。でもそこには私を結びつけたただ一つの理由がありました。


それが「音楽」だったのです。


ドヴォルジャークという人がチェコ人であることを知り、その人のヴァイオリンとチェロの協奏曲や「スラブ舞曲集」などを聴くにつけ、それらが何と人間的なぬくもりと同時に人生の悲しみも濃い、また歓びに満ちて踊るリズムに溢れているかに感動していたからです。


一体チェコという国はどんな国でプラハはどんな街で、そこにはどんな人々が、どんな風に暮らしているか・・・全く謎の中に入っていく感じでした。


チェコに行ってみて、そこに暮らしてみて、人々と交わり、彼らの自然の風景の中に身を置き、過去から現代までの歴史を知ってみて、今初めて「チェコ人にとっての音楽」とも呼べる「何か」が分かってきたような気がしています。


中央ヨーロッパの小さな民族であるチェコ人たちは、独立国の「ボヘミア王国」として中世から近世にかけて発展していました。すでに1348年にはプラハには、「カレル大学」が開設されていたり、優れた学問や文化の中心的存在でもあったのですが、その大学長で哲学者の僧侶ヤン・フスが、腐敗したローマ・カトリックを批判して宗教改革運動を起こしたにも関わらず、「和解協定を結ぶため」と約束されて出向いたスイスでの公聴会で捕らえられ、1415年には火刑に処されました。


そこから所謂フス戦争が15年も続いたり・・・この歴史的ルーツは、今日の全チェコ人の中にあるのです。ドヴォルジャークの先輩にあたるスメタナは、交響詩「わが祖国」に、「リブシェ」という建国の神話的歴史から、「フス戦争」を描くターボルなどチェコ民族の複雑で苦悩に満ちた歴史を、見事に音楽で描き残しています。もしその理由をひと口で表現することを試みるなら、大国に自らの国の運命を翻弄され続けたチェコ人たちが、いかにして自己を見失わず今日まで生き抜いて来れたかの、最大のエネルギーの源泉が「音楽」にあり、「文学ではなく音楽」で証明したかったから、と言えるのではないかと、私は思うのです。


それは「昨日のこと」とも言える20世紀においても「然り」なのです。第二次世界大戦終了後すぐの1946年に、いちはやく「国際音楽祭・プラハの春」をスタートさせ、東西の冷戦の中にあっても両側からの音楽家たちがプラハに集まって「音楽」を演奏しながら出会うチャンスを作ったり、政治的にはまだ言論の自由が縛られていた1950年代にもコンサート・ライブは盛んで、人口100万のプラハにある3つのオペラ劇場も4つのコンサートホールも常に音楽を求める聴衆で溢れていました。


チェコ人にとって「音楽のない生活など想像もつかない」と言うことを、態度で示されているのを眼前に見るようだったのです。ニーチェも「音楽もない人生、それは間違った人生だ」と言っています。



1958年11月から62年の春までのプラハでの留学生生活と、その後の30年ほどの間、ほぼ2~3年おきには演奏旅行に招かれたり、レコード録音のために滞在してきたチェコという国は、その後の私の人生にとっての「第二の祖国」であり、「音楽」が自然に泉からあふれ出る土地なのです。


スメタナやドヴォルジャークのみならず、ヤナーチェクやマルティヌーの音楽を聴いたり、彼らの作品を弾いたりしているときの自分の精神状態が、なぜか一番落ち着き、自然で、幸せな気持ちになるからです。それは「音楽」という食べ物にも似た「何か」によって精神に栄養がゆきわたり、非日常的な時間の中に身をゆだねることによって、宇宙をさまようことも可能にしながら、と同時に、自分を小さな昆虫ででもあるかのように客観視できたり、水の流れのような平衡感覚を取り戻すことも出来たりする「音楽の不思議な力」を、チェコ人たちがいかに大切にしながら彼らの長い歴史を歩んできたかを学ばせてくれたからかもしれません。



スメタナは「チェコ人の生命は音楽にあり」と言い残しました。


ドヴォルジャークは「自分は一介の平凡で真面目なチェコ人です」と言いながら、あのような「自然に心から生まれたような音楽」を残し、チェコ人の団結を音楽で強め、新しい国を作る手助けまでもしていました。


「小さい国でもいい。文化的レベルが高ければ・・・」というチェコ人の精神は音楽によって支えられ、「音楽があるから」なのでしょうねぇ。何しろ国歌が19世紀のチェコの作曲家シュクロウブのオペラのアリアの一節「我が故郷よ、いずこに」なのですから・・・。




熱い熱筆ですね。いままで何回にも分けて日記で語ってきたことが、じつはこのCDのライナーノーツに全部書いてあるのでは?という感じですね。(笑)


では、このCDを聴いてみます。


1971年度録音とは思えないくらいS/Nがよくてクリアな録音。
まずそこに驚きました。


でもいまの現代録音の趣とはちょっと違う感じがしますね。


いまは、全体の音場を捉える空間をまず録って、そこから各楽器にスポットマイクで各声部をはっきり捉えるという手法で、(それはオーケストラでも室内楽でも、です。)実際オーディオで聴いてみるとまず全体の空間感を感じて、その中で鳴っているという立体的な聴こえ方をしますが、この1971年当時はそこまで空間を意識せず、ふつうのオンマイクの録音のように感じます。


それはホール録音ではなく、スタジオ録音というのもあるかもしれませんね。


そこが違うかな、というくらいで、あとは全然ふつうにすんなりと自分の中に受け入れることができます。でもそれって意識的な聴き方をしているだけで、ふつうに聴いている分には全然わからない程度のこと。


いまの録音とまったく違わないといってもいいと思います。
本当に素晴らしい録音だと思います。


クリアな感じ、鮮度感、そして明晰な質感など、全体に音の輪郭がキリっとしていて、メリハリの効いたとてもいい録音ですね。感動します。


艶感のあるヴァイオリンの音色、硬質で響きが豊かなピアノの音色。
ヴァイオリンとピアノとのバランス。

本当にいい感じ・・・。


後述するアナログLPは、やはり年代物の中古LPだけあって、入手困難であること、またスクラッチノイズもそれなりにあるので、黒沼ユリ子の演奏をいい状態で聴きたいなら、このCDしかないと思います。


黒沼ユリ子さんの録音を聴くなら、この1枚でしょう!


なにせ、黒沼音楽人生の大本命のチェコ音楽、チェコの作曲家、マルティヌー、ヤナーチェク、スメタナですから。


マルティヌー、ヤナーチェク、スメタナのヴァイオリン・ソナタ。
おそらくいままでもあまり聴いていない作品だと思う。


チェコ音楽って自分の場合スメタナかドヴォルジャークでしたから。マルティヌーは数年前にPENTATONEの新譜で児玉麻里・児玉桃姉妹の録音で接したぐらいです。


マルティヌーはいいですね。バッチリ自分の好みだと思いました。


このCD全曲通して思ったのは、渋い旋律だということ。東欧の民族色的な音色といえばそれまでだけれど、どこか実験的書風というか、捉えどころのない、形式の枠にとらわれない自由な書風といえるのではないでしょうか?


クラシック古典派の正統派というより、もっと新世代寄りの現代音楽をもっと聴きやすくした感じのように思いました。


最後のスメタナが一番お気に入りになりました。


スメタナは、チェコ民族の自民族意識(ナショナリズム)の高揚のために、もっぱらチェコの民話や伝説、史実などをテーマに作品を書き続けたと言われ、いわゆるそういう心情を煽るような情熱的な旋律が得意とするところですね。聴いていてそういう情緒的だけどどこか哀愁を感じるようなメロディの美しさを感じます。


あとで紹介するフォーレのヴァイオリン・ソナタを録音しているアナログLPのライナーノーツに林光氏の解説文が記載されているのですが、その中に、



黒沼ユリ子のレコードでは、チェコの音楽が一番多いのであるが、その中でも、この永遠のパートナー、パネンカとのコンビで演奏しているヤナーチェクの「ソナタ」は、私がとくに高く評価したいと思っているものだ。と同時に、この演奏には、黒沼の音楽の本質といっていい特徴がよくあらわれている。


なになに?


この解説文を偶然読んで、慌ててもう一回このCDに戻ってそのヤナーチェクのソナタを聴き返しました。


あやうくそのままスルーするところでした。(笑)


堂々の大曲ですね。森林の中の大樹。そんな感じの本当に大きな器の曲。ヤナーチェクの世界をもう少し理解しないとその極みを理解できないような気がします。独特の世界がありますね。ヤナーチェクの世界を強く意識しないと自分に響いてこない曲だと思います。何回も何回も聴き込むことが必要ですね。


じつに素晴らしい作品群でした。

お薦めの特選盤です。


つぎに中古市場で購入したLPの数々。


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これも盟友ヤン・パネンカとのヴァイオリン・ソナタ

ラヴェルのヴァイオリン・ソナタ
マルティヌーの間奏曲
プロコフィエフ ヴァイオリン・ソナタ第2番 ニ長調 作品94


やっぱりアナログLPはいいですねぇ。
こんな感じでライナーノーツが広い誌面で充実していますね。
とても正統派の解説文です。


黒沼ユリ子のヴァイオリンはボヘミア派の伝統の忠実な継承者である、と断言していますね。


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アナログLPの中ではこれが1番好きですね。


ラヴェルのヴァイオリン・ソナタはあまり聞いたことがないですが、ラヴェルの中で唯一の1曲だけの作品のようですね。


当時のジャズ・ブルースの語法が取り入れられていて、当時のパリの楽壇に一種のジャズ・ブームが巻き起こっていたことを物語っているようです。


黒沼さんの超絶技巧が冴えわたっていて、リズミカルでスピーディーな曲の展開に圧倒されます。




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三善晃・ヴァイオリン協奏曲
諸井誠・ヴァイオリンとオーケストラのための協奏組曲

黒沼ユリ子:ヴァイオリン
若杉弘・指揮
管弦楽:読売日本交響楽団



三善晃、諸井誠という日本の作曲家は、知りませんでした。
おもに現代音楽の作曲家なのでしょうね。

若杉弘さんも懐かしすぎですね。


やはり現代音楽はオーディオ的に音がよく感じます。
漆黒の中の鋭音という感じで、鳥肌が立つ作品です。

黒沼さんは、こういうジャンルの音楽も積極的にチャレンジしていたんですね。



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フォーレ
ヴァイオリン・ソナタ第1番イ長調作品13
ヴァイオリン・ソナタ第2番ホ短調作品108

黒沼ユリ子:ヴァイオリン
ヤン・パネンカ:ピアノ


1975年10月20,21,24日の3日間、チェコのスプラフォン・スタジオにて録音されたものです。


フォーレいいですねー!!!


この作曲家のソナタも普段あまり聴かないし、日本のプロモーターもあまりコンサートで採用しない作曲家ですよね。フォーレのソナタがこんなに素敵なんて目からウロコでした。


フォーレは、フランスの作曲家で、むしろ小規模編成の楽曲を好み、室内楽作品に名作が多いとされている。それぞれ2曲ずつのピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタと、各1曲のピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲がある。


ラヴェルやドビュッシーのようなフランス音楽特有の浮遊感、色彩感豊かな感じでもなく、結構メリハリの効いた感じの作風です。でもとても美しい、万人に受けやすい不偏のメロディーですね。


このヴァイオリン・ソナタを聴いて、すっかりフォーレの大ファンになってしまいました。


以上、黒沼ユリ子の音源を聴いてきましたが、ヴァイオリニストとしての奏法も現代のヴァイオリニストとまったく遜色なく、堂々とたるもので目の前で演奏している姿が目に浮かぶようでした。


”チェコ音楽を奏でるヴァイオリニスト”というのは、やはりとてもユニークな個性が際立っていて、それがひとつのヴァイオリン奏者としての個性的なカラーになっていますね。


チェコやチェコ音楽ってかなり個性的なのではないでしょうか?


それはその国の歴史諸共、ひとつのワンセットになっていて、とてもコンパクトながらも独特のカラーがあって、とてもユニークですね。


自分はすごく魅力的だと思います。


素晴らしい音源でした。












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黒沼ユリ子さんの世界 メキシコ編 [クラシック演奏家]

メキシコ人と結婚して、チェコ・プラハからメキシコへ。


これは1960年代のことであるから、それは当時の日本人に理解されることは到底難しく、親、親戚の反対も大変なものだったようです。


当時の社会主義体制の国チェコに行くときでさえ、「赤い国に行くんですか。」「鉄のカーテンの中に行くんですか。」と散々言われたそうですが、それが結婚して今度はメキシコ。


ヴァイオリニスト、音楽家としてチェコの留学はまだ筋が通っている気もしますが、まさかメキシコ人と結婚してメキシコへそのまま移住という話になると、これはクラシック音楽と関係ない道を外すような感じにも見えて、反対もわかるような気がします。


「メキシコ人なんかと結婚して」とあからさまに非難する声も聞こえてきて、帰国すればあれこれ言われることがわかっていたので、日本に帰りたいとは、これっぽっちも思っていなかったそうです。


1960年代で、このような人生の決断をした黒沼ユリ子さんは当時としては本当にぶっ飛んでいた人だったのでしょう。


齋藤秀雄先生ですら、「ラテンの国ではクラシック音楽なんてわからないだろう。」と仰っていたそう。


でもそんなふうに言われれば言われるほど、「ヴァイオリニストへの道は夢に終わった、という周囲の人たちの声をいつか完全に否定してみせる。」と決意は固くなったそうである。



●メキシコで見えてきたこと


1962年夏、初めてメキシコの地を踏む。


夫の家族や友人たちからは大歓迎され、会う人ごとに抱擁の嵐といった感じで面食らうほど。夫も日本人を嫁さんにもらったことが自慢になるくらい、やはりメキシコ人は日本人が好き。メキシコの最初の印象は、大都会であること、夜景が美しいということ。


1964年5月、昭和天皇のご名代で皇太子ご夫妻(現上皇・上皇后)がメキシコを来訪。二年前にロペス・マテオス大統領夫妻が国賓として訪日してもてなしを受けたお礼に昭和天皇ご夫妻をメキシコに招待しようとしたところ、当時は海外に出るのを禁じられていたので、代わりに皇太子さまと美智子妃がいらしたというわけ。


なにかできないか大使から相談された黒沼さんはメキシコ人ピアニストと日本人ヴァイオリニストの共演で、両国の曲を奏でる友好コンサートを催してはどうかという提案。実現の運びとなった。


当日、皇太子ご夫妻は、大統領夫人に伴われて二階席へ。ステージの真正面で聴いてくださり、終わると降りていらしてロビーで乾杯。


美智子さまは黒沼という苗字を珍しく思われたようで、「黒沼勝造先生とはご関係がありますか」と訊ねられ、「叔父です」と答えたのが最初の会話。


黒沼勝造は魚類学者。東京水産大学(現東京海洋大学)教授で、ハゼ科を研究されていた皇太子さまへのご信講のために、東京御所をよく訪れていたのだそうだ。


美智子妃は「先生には殿下が大変お世話になっております」と言われ、「こんどはいつ日本でコンサートをされますか。」とのお訊ね。「来年春に東京で」と答えると、「都合がついたらうかがわせてください」とおっしゃって、当日はご夫妻で聴きにいらした。


ちゃんと約束を守ってくださったのです。


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メキシコでの生活は、子宝(息子)に恵まれ、メキシコでの子育てをいろいろ経験。海外で生まれた子供はやはりマルチリンガルなど期待されますが、黒沼さんの息子さんも最終的に日本語、英語、スペイン語のトライリンガルに育ってくれたようです。


帰国子女はひとつ間違えると、どの言語も中途半端に終わってしまう危険性があるだけに本当に怖いところですね。


メキシコ流の子育てもふくめ、この子育て時代は、黒沼さんのメキシコでのひとつの時代でした。


そしてメキシコ時代の中でおそらく黒沼ユリ子のヴァイオリン人生の中で、もっとも重要なイヴェントが起こります。



●アカデミア・ユリコ・クロヌマ


黒沼ユリ子さんのメキシコでの人生でもっとも大きな仕事、やりがいだったのが、この「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」。


メキシコの子供たちにヴァイオリンを教えていこうという学校です。


後には、ヴィオラやチェロなど弦楽器一般も扱うようになりましたが。黒沼さんは、演奏旅行がないあいだは、少しずつプライベートレッスンをやっていらっしゃったが、弟子の中から「親が楽器のできない子供は、レッスンと縁がなくなる」「音楽学校を開いてほしい」と言われていた。


そこにその学校を開くための資金調達、スポンサーが現れて、その学校を開設することも実現を帯びてきた。


楽器学校開設の理由はそういう外的要因も大きいけれど、じつはもっと内的要因、黒沼さんの心の動きの中で大きな心境の変化があった。


それはもう三十代も終わりに達するとき、その頃からコンサートだけではむなしくなっていったこと。演奏家というのは、聴いた方がどんなに「今日の演奏がよかった」と楽しんでくださっても、弾いた音は消えて終わり。どんなに努力しても、消えてなくなっちゃうのが演奏芸術だとすれば、こんなことを死ぬまでやっていていいのかな、とむなしさが募ってきたのである。


そんなとき、それまでプライベートで教えていたものもっと充実させてアカデミアにしてほしい、と頼まれた。

ああそれなら何かを残せるかなと。


チェコで教えを受けたダニエル先生はピアノは素晴らしかったけれど、ヴァイオリンはまったく弾いてくださらなかった。


二十世紀の名ヴァイオリニスト、ヤッシャ・ハイフェッツは「六十五歳になるまで自分の秘密は一切教えません」と言って、現役のあいだは、弟子をとらなかった。


黒沼さんはそうではなく、「自分が弾けるうちに教えてあげなければ」。


それはチェコ時代にオイストラフ氏にレッスンを受けたときに、先生自ら弾くことで手本を見せることで弟子としてどんなにわかりやすい、ことなのかに開眼したこと。その当時としては、そのような先生はいなく画期的だと思った。


だからこそ、自分が弾けるうちに、そういうレッスン学校を、という気持ちがあった。こういうときにはこのように弾くとか、ステージでの体験で身に付けたものを生徒と一緒に弾けるうちに教えておけば、少しは何かが残せるかな、と。


ちょうどむなしさを感じ始めていた、いい年回りだった。
何かを残したい欲があった。

それで踏ん切りがついた。


アカデミアには3つの大きな夢があった。


そのいち


この「アカデミア」で学んだ生徒たちのうち、プロのヴァイオリニストへの道へ進まず、他の職業の専門家になった人でも、いつまでも音楽を愛し、ヴァイオリンを弾けることによって、その人の人生をより豊かなものにすること。


そのに


もしもプロになった場合には、自分の”揺りかご”(日本でいう古巣のことをメキシコではこういう)にぜひ帰ってきてもらい、今度は後輩の指導に愛を持って力を注いでもらえるようにならないか、ということ。


そのさん


この「アカデミア」が、日本とメキシコの友好の架け橋になること。



これを基本指針として「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」は船出した。


「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」は、それこそ順風真帆とはいかず、つぎつぎにと試練が訪れる。


特に意外と盲点だったのが、子供用の小型ヴァイオリン。ふつうの大人用のヴァイオリンって、子供にとって大きすぎてダメなのだそうだ。


日本で有名なススキメソードも特注の子供用の小型ヴァイオリンも彼らが工場を持って行って特注製造している。


遠く離れたメキシコの地ではたしてどうする?


最初の時は、日本のこのスズキメソードのヴァイオリンを輸入していたらしいですが、その後、1981年、メキシコの通貨ペソが大暴落し、贅沢品の輸入が禁止されてしまった。


絶体絶命!


「日本で使わなくなったヴァイオリンをメキシコの子供たちに寄贈していただけませんか」と週刊誌の掲示板に載せてもらったのを皮切りに、新聞のインタビュー、さらにテレビで話すと、またたく間に百挺ほどが集まった。


運搬にあたっては、日本航空や旅行会社の方が財務省に掛け合ってくださり、「運送費は無料にしてください」「税金をかけないでください」と経緯を話して協力を得た。


メキシコにヴァイオリンが集まると大使館で記者会見を開き、講堂のステージにケースを積み上げて子供たちも演奏を披露、メキシコじゅうに「日本のこどもたちがメキシコのこどもたちにヴァイオリンをプレゼントしました」というニュースが流れた。


こうやってアカデミアは最大の危機を乗り越えたのである。



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アカデミア・ユリコ・クロヌマ



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1985年、アカデミアの生徒とともに日本を訪れ、八々岳で日本の子どもたちと友好音楽合宿を楽しむ。


この1985年の八々岳合宿を機会に、1987年には中国地方や九州、沖縄にも足を延ばし、その後も、1990年、2000年、2005年にもアカデミアの訪日演奏が実現した。


アカデミアの三大目標のうち、日本とメキシコの友好のかけ橋になること。


これがこういう形で実現できたことが、黒沼さんのメキシコ時代の最大の運命共同体、「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」の最大の実績だったのだろう。


そんな感じで三十年以上続けてきたアカデミアを2012年に閉じることになった。


原因は、やはりアカデミアが創立時の学びたい、向学心という緊迫感から、だんだん保育園化していったことだったという。親はこどもをアカデミアにこども預けると、そのまま安心して外出。こどもは自分が弾く順番でないときはゲームをやっているとか、だんだんこどもを預ける保育園のような感じになってしまったこと。


これは緊張感がなくなり、厳しいですね。

長く続けるとどうしてもこういう感じなってしまいますね。


三十年、まさに黒沼ユリ子さんのメキシコ人生での最大の情熱のぶつけるもの、生きがいもこうやって終焉を迎えたのでした。


黒沼さんはメキシコでメキシコのわが家を建てている。
それを本にされている。
さっそく買いました。


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メキシコは日本と違ってすごい広大な土地、やはり家もとてもデラックス、
日本ではこんなすごい家考えられないですね。


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メキシコ風ダイニング。メキシコ料理ふくめ、メキシコでの生活が写真いっぱいに表現されています。


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当時九十歳だったお母さんもメキシコのこの家に呼び、最期もこの家で迎えられたとか。東京の狭い家で一人ぼっちの生活に比べて、メキシコの家で娘ユリ子さん家族といっしょに生活ができてお母さんも幸せだったよう。若いときは散々親に心配をかけたが、最期の最期で親孝行ができてよかったですね。


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メキシコでの生活で、メキシコ人から教わった言葉に


「悪いことは、良いことのためにしかやってこない。」


メキシコの国民的作曲家フランシスコ・ガビロンド・ソレールがインタビューで語っていた言葉。


「人生というものは、初めの四分の三ぐらいによく働いて、いい思い出をたくさん作っておくもの。そして最後の四分の一はその思い出を一つずつゆっくり思い出して楽しむためにある。」


これと


アイ・デ・トード(Hay de todo)


「すべてがあるさ。」(それはメキシコにいるから仕方がない・・・的なニュアンス)


と何かにつけて、メキシコ人はまるで口ぐせのようにいうらしい。


悪いことは、良いことのためしかやってこない。


いい言葉ですね。自分もどちらかというと人生すべてにおいて楽観主義でどうにかなるさ、的な性格で計画的人生というのが苦手。どんなに悪くてもポジティブ・シンキングなので、「アイ・デ・トード」的なスローライフが似合うかもしれません。


黒沼ユリ子さんは、その後、メキシコから日本に帰国し、現在千葉・御宿に住まれています。


2016年、メキシコと17世紀から縁のある千葉県御宿に開設した3階建ての「ヴァイオリンの家・日本メキシコ友好の家」を設立され、両国の友好を謳い、コンサートにスペイン語講座にと、地域の文化交流の場となっている。いまも日本とメキシコのかけ橋となって活躍しているのである。


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こうしてみると、ご本人は好きではない呼ばれ方と思うが、自分はやはり”異色のヴァイオリニスト”は本当に的を得た波乱万丈の人生を表す言葉だと思う。


間違いなく普通の演奏家、音楽家の人生ではないと思う。


黒沼著の「ヴァイオリン、愛はひるまない」の中に、こういう一節がある。


もしも人生という登山道で出会う、いくつもの曲がり角に必ず”道標”が立っていたら、最短距離で目的地に着くことを可能にするかもしれない。だが、それがない現実の中、私たちはひどく遠回りをしたり、時には思わぬ道草を楽しむチャンスに恵まれたりもする。そしてこの「遠回り」や「道草」が長い人生の目標を定めるのに、意外にも重要なことを、近頃の日本では忘れられかけているのではないだろうか。



人生に寄り道、道草って必要ですね。そういうのってそのとき無駄に思えるかもだけれど、絶対その後の人間性熟成に大きく役立ちますね。


そういう下ごしらえがあって、はじめて人生晩年に熟しますね。



自分は黒沼ユリ子というヴァイオリニストを、チェコ・プラハという切り口から捉えていたけれど、こうして人生全体を理解してみると、メキシコでの人生がかなり大きいウエートを占めることもわかった。


でもメキシコ在住の時も、チェコ・プラハは演奏旅行で頻繁に訪問され、やはり音楽家の素を築いた場所。チェコ・プラハに対するその想い入れは誰にも増して大きいだろう。


まさに「プラハの春」時代を生きた生き証人として。


著書「ドヴォルジャーク」は圧巻だった。
素晴らしい黒沼ユリ子の著書の中での金字塔だと思う。


ぜひ、自分はこの著書、そしてこのチェコ人作曲家のドヴォルジャークについて日記で語ってみたいと思う。ドヴォルジャークはひさしく聴いていなかったので、ご無沙汰していたので、まず徹底的に聴き込んで自分のモノにすることが前提です。


この著書「ドヴォルジャーク」を読んでいると、ものすごくドヴォルジャークを聴きたくなってきます。(笑)



黒沼ユリ子さんの著書でどうしてももう一冊紹介しておきたいものがある。



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アジタート・マ・ノン・トロッポ―激しく,しかし,過ぎずに (1978年)




差別の話、民族性について、日本人とは何かなど、各国での演奏活動の経験をもとに当時の社会に斬り込んだ本。音楽月刊誌「音楽の友」に2年間、それを連載中、「音楽家がなぜこんなことを書くのですか?」との投書が編集部に届いたりしたらしいのだが、担当編集者が、「どうぞ、好きなことを書いてください。」と言ってくださり続けることができた特集である。


自分は黒沼著の中でも特に大好きである。


最近の本は、やはりいまどきの現代人にわかりやすいように丁寧で優しい文体で書かれているのだけれど、それはそれでいいのであるが、自分はこの当時の黒沼さんの尖った文体が大好きである。


もうズキズキと心に刺さってくる感じで、かなり尖っている。


自分は最初黒沼さんの著書を読んだとき、これって本当に演奏家、音楽家が書いているの?という感じで驚いた。本当に作家、評論家顔負けなのである。


文章、文体ってやはり表現の美しさだけでは、読者に刺さりませんね。


やはりその内容に説得力がないとダメなんです。そこに心に刺さる真実味、読んでいる者が思わずドキッと、後ろめたいように感じるほどの真実性があるから、刺さってくるんだと思うのです。


それはやはり人生経験ですね。人生長く生きているとそういう深い考えがどうしても身についてくる。


村上春樹さんの小説が素晴らしいというところに、みんなその文体の表現の美しさを上げる人が圧倒的だけれど、自分はそうじゃない、そこじゃないと思うんですよね。


村上小説の真髄は、やはりそのストーリー構築の面白さ、村上流ユーモア(ちょっとブラックのセンスが入っている)に溢れているそのストーリー構成力、そしてテンポ、リズム感にあるんじゃないかな、と思うんです。


だから、それが前提上にあるから表現の美しさがさらに映えてくる。


中身の面白くないものは、いくら美しい文体でも感動しないです。


そういう意味で、黒沼著書には、グサグサと刺さってくるのは、そういう中身に深いもの、説得力があるから感動するんだと思うのです。


ぜひ読んでみてほしいと思います。







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黒沼ユリ子さんの世界 プラハ編 [クラシック演奏家]

チェコやプラハのことを黒沼ユリ子さんのヴァイオリン人生を勉強しながら、学んでいこうと決意。


そのためにはご本人のご著書、そして音源を片っ端から集めて、それを少なくとも2回は読み込んでこの日記を書いている。


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読んでみて思うことは、とても音楽家、演奏家とは思えないほど文章力のある方で、作家、音楽評論家顔負けの筆致なのである。説得力のある文章で読者に強烈なインパクトを与える。


もちろん自身の専門である音楽のことについては当然なのだが、政治や社会情勢、歴史、そのほか文化一般において非常に幅広い知識を持っていらっしゃるので、それがその著書の中に混然一体となって、全体に散りばめられているような感じなので、驚くばかりなのである。


それはご本人が単に音楽の自分史だけに留まりたくはなく、チェコやメキシコなどの歴史、文化に至るまで広い視野で俯瞰した内容にしたかったという意思があると思うのだが、読んでいて本当に自分の素養が抜群に広がったような気がしました。


チェコにしろ、メキシコにしろ、少なくとも自分の人生の中には持っていないものですからね。


そういう意味で新鮮味があって、随分と面白かったです。


黒沼ユリ子さんは、音楽家というよりは、社会文化人というところまで裾野を広げて呼んでもいいのでは、と思います。ご本人は、あまりそういう呼び方をされるのをお好きではないようだが、メディアは”異色のヴァイオリニスト”というキャッチコピーの呼び方をしていて、これは確かに納得がいくような気がします。


いわゆる普通の音楽家、演奏家の人生ではないと思います。人生の2/3以上をチェコ、メキシコという海外にいらして、そこから日本を見つめ、考える。そういう人生だった、と振り返っています。


いまは日本に帰国され、千葉県の御宿に住んでおられます。


本人曰く、


マイナスをいかにプラスに変えるか、私の人生はその連続でした。十代でチェコに留学するときから「赤い国に行くんですか」「鉄のカーテンの中に行くんですか」と言われ、結婚してメキシコに行けば、「あんな闘牛とソンブレロとピストルの国に?」と揶揄されました。でも船出しなければ、嵐にも遭いませんが、それを克服したときの喜びもありません。さまざまな困難を乗り越えられたのも、言葉も年齢も関係なく、共有できる音楽の喜び、多くの人たちの有形無形の援助や励ましによるものです。


すべてへの感謝は伝えきれません。


音楽を上手に奏でられればいい・・・それだけが音楽家の生き方じゃない、と思っています。人間として言うべきことを、音楽家であれ、芸術家の誰もが言っていれば、私が”異色のヴァイオリニスト”じゃなくなるわけです。


これからも自分にできることを、できるところで、できるだけ真剣に、情熱をこめてやっていきたいと思っています。たくさんの人に何かを与えることができる芸術家でありたいですから。



この黒沼さんの自分史の著書ふくめ、ぜひ読んでほしいと思うが、この日記では、この膨大な自分史の中で、私がとても印象的だったところをピックアップして紹介していくような形に。あとで、著書の紹介とリンクを貼っておくので、もっと詳しく知りたい場合は、ぜひ著書を読んでみてください。


尚、日記中で使わせてもらっている写真の一部は黒沼さんのFBから、残りの大半はネットから借用しているものです。


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昭和15年に、東京の日本橋で麦や大豆、雑穀を扱う黒沼商店の四人兄弟の末っ子として生まれる。もちろん戦時中を経験される訳だが、やっぱりお父さんをはじめ、ご家族がクラシック家族だったようで、八歳のときにお父さんがヴァイオリンを買ってきてくれたそうだ。


もちろんとても家の収入に見合うものではなく、ずいぶんお父さんは怒られたようだが、八歳だったユリ子さんは嬉しくて嬉しくて堪らないという感じ。それがヴァイオリンとの出会い。


そんな感じだから、もしユリ子さんがヴァイオリニストへの道を歩まなかったなら、それこそ多くのお金をかけて、親戚中から「ユリ子ちゃんにヴァイオリンなんかやらせて」という陰口もいわれて、プロにならなかったら、親不孝といわれるような大変なプレッシャーな状況だったという。


中学三年のときに桐朋のAオケに入り、演奏旅行にも参加。当時、齋藤秀雄先生に指揮を習っていた小澤征爾さんが、大勢の前で叱られていた時代だそうです。(笑)


その当時コンクールに一位になったら、海外に出るのが当たり前の時代。でも家計の状況からそんな余裕もなく。


そこで新聞に「チェコスロヴァキア政府招待給費留学生募集、音楽家三人、言語学者一人」という募集を見つける。もうひとつの明記に「医療費も補償」とある。


社会主義国で初めて日本からの留学生を募集したのがチェコであった。政府の給費留学生で医療費まで出るなら、ほぼどこでもよかったそうですが、チェコの国というイメージは全くなし。ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲や交響曲「新世界より」が好きだったくらい。


ヨーロッパではチェコは「弦楽器奏者のふるさと」と呼ばれていることも知らなかった。


留学実技試験に無事合格し、すぐ外務省に行ってくださいと言われ、いろいろ手続き。でも渡航費はご自分で用意してください、とのこと。なんと二十五万。いまの五百万くらいだそうです。それも渡航まで一か月間。ずいぶん困ったそうですが、親戚からの工面などいろいろ苦労して、なんとか事なきを得たそうです。



一体プラハで私はどのような先生に巡り合えるのだろうか?とそんな多少の不安と大きな期待を持っていたところ、戦前にプラハにいらしたことのある往年の名ヴァイオリニスト鰐渕賢舟氏を訪ねることがあった。


そこでチェコのことを「弦楽器奏者の故郷」と呼ぶことの意味を知った。


「ヤン・クーベリックという世界的に有名な大ヴァイオリニストがいたでしょう。あの人はチェコ人でしたし、大作曲家のドヴォルジャークもそもそもはヴィオラ奏者としてスタートした人ですよ。ヨーロッパではチェコのことを”弦楽器奏者の故郷”と呼ぶくらいなんです。ベンダ兄弟やシュターミッツなどのマンハイム楽派の頃からチェコの弦楽器奏者は優れていて、つまり弦楽器教育がとても盛んで長い伝統がある。そして弦楽器奏者はみんなから大切にされ、愛され、尊敬されている国ですよ。」



●チェコで人生が一変する。


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プラハ音楽芸術アカデミーに留学。F.ダニエル教授の最後の弟子となる。18歳。


留学してプラハの音楽芸術アカデミーに入り、寮生活が始まる。将来音楽ジャーナリストや音楽に関する職業につく人々にも開かれたコンセルヴァトワールと違い、音楽芸術アカデミーは全員がプロの演奏家を目指す教育機関である。


そこで大変幸運だったのは、そこの音楽学部長フランティシェック・ダニエル先生が、ヴァイオリンの教授だったこと。ダニエル先生はその昔、世界的指揮者ヴァーツラフ・ターリッヒ時代のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターであったり、さらに作曲家アルバン・ベルクのヴァイオリン・コンチェルトのチェコ初演で独奏されたり。


ダニエル先生は190cmくらいあって、お腹こそ出ていませんが、体重150kg前後・・・当時の黒沼さんは150cmでヨーロッパでは13歳か14歳にしか見られなかったようです。


ダニエル先生は週一回のレッスン室とは別に、学部長としてのエレガントなサロンも持っていらして、そこでも時間を探してはレッスンしてくださったそうです。



**********

このときのエピソードで自分が非常に気に入った箇所がある。
それがその後の黒沼さんの人生を決めるうえで大きなトリガーになるようなところだと思う。

**********


ダニエル先生は、当時のダヴィッド・オイストラフとも知り合いで、オイストラフのコンサートに一緒にでかけたときのこと。


ベートーヴェンの協奏曲を聴いた後、ダニエル先生は私を楽屋でひと休み中のオイストラフ氏に紹介してくださった。


「私の日本人の弟子です。」


そしてそれ以後、オイストラフ氏が毎回プラハでのコンサートに来られるたびに、私にレッスンをしてくださるように頼んでくださったのだ。オイストラフ先生のレッスンがなによりも素晴らしかったのは私の目の前で、すぐ隣で、まるでステージ上でのような真剣な生の演奏でいろいろな勉強方法を教えていただけたことだ。


幸か不幸か、それ以前の私の先生方は、実際にヴァイオリンを弾きながら教えてくださる方はほとんどいなかった。理論的に様々な奏法を研究して口で教えていただくのと、実際にその場で弾いてみせて頂くのとは次元が異なる。それまで暗中模索していたような弾き方とか、表現方法が、まるで、”目からウロコが落ちる”ように、体得できたりするのだ。


この体験の重みを知っているからこそ、私はまだ自分が弾けるうちに、歳をとりすぎないうちに、メキシコでの「アカデミア」を開く決意をしたのだった。


それは私はちょうど私が四十歳になった年で、まだまだ演奏活動も内外で忙しくしていた時期。教師と演奏家の両立には、いろいろな犠牲を強いられたり、無理も重なったりしたが、恐れ多くも<オイストラフ先生は立派に両立させていらしたではないか>が常に私の頭の中にあり、生徒たちには教師がまず弾いて、聴かせて、見せて、本人に自分の演奏のどこが、どのようにヘンなのかを気づかせてから説明をすることを、現在も私どもの「アカデミア」のモットーにしている。



***********

ここは自分がすごく大好きな箇所なのである。いまでこそ、音楽家の方々の生徒たちのレッスンって対面式が普通なのでしょうけれど、この時代はとても珍しいことだったんですね。


それ以来オイストラフ氏とのレッスンを受けることができた黒沼さんであったが、オイストラフと言えば、自分はどうしても、黒沼著書”ドヴォルジャーク”の中で忘れられない印象深い記載がある。


自分は誰に対しでもそうだけれど、その人があることに拘りを持つ面がとても好きである。ある意味、一種の尊敬の念を抱く。その人がそれに打ち込む、それって他人からはわからないことかもしれないけれど、そういう面を持っているということがすごく微笑ましいし、嬉しいのである。


それは自分の性格が、”思い込んだら命懸け”というタイプの性格で徹底的に知り尽くさないと、徹底的にやらないと気が済まないという性格に依存するところからなのだろう。


そういう面を持っている人を自分はすごい尊敬するし、自分に近いという親近感を抱くのかもしれない。そういう自分をくすぐる記載の箇所を紹介したいと思う。


黒沼ユリ子さんのドヴォルジャーク伝記の著書に記載されている箇所だ。

長いので申し訳ないが、私の方で意訳させてお伝えする。



************

それが1950何年のことだったのか、あまりはっきりしてはいないのですが、とにかく私が中学か高校の時だったことは確かです。朝八時になるのを待つようにして家をでると、東京の繁華街、原宿へ出かけました。小脇には一冊の楽譜が大切にかかえられていていました。


商店のシャッターはまだぴたりと閉まっており、街全体には、何ともいえない、”眠む気”が満ちているような雰囲気が漂っています。


~まだあいていないかしら?


「いらっしゃいませ。どうぞ、今開けるところですから・・・」


琥珀・純音楽喫茶


人気のない、狭い喫茶店の中には、小さなテーブルと椅子がびっしりと、縦に二列並んでおり、その小さな空間とは、どう比べてみても不釣り合いな、畳一畳分くらいの大きさのスピーカー・ボックスが正面に「でん」とすえられていました。


ここは当時、流行していた音楽喫茶店の中でも「リクエストに応じる」ことで有名だった店のひとつだったのでした。


~あるといいんだけどなあ、この曲。

真っ白い小さなエプロンをしめた女性がやってきた。

「ご注文は、コーヒーとトーストですか?」

と聞く彼女に、わたしは小さな紙きれをわたしたのです。


「あのこのレコードあるでしょうか?」

”ドボルザーク、ヴァイオリン協奏曲、独奏ダヴィッド・オイストラフ”


「ドボルザークのヴァイオリン協奏曲ですか?さあ、ちょっと調べてみます。”新世界”や”チェロ協奏曲”なら
何種類もありますが。」


怪訝そうな表情でそう言って、奥に入ったウエイトレスが、ニコニコしながら再び出てきて、


「ありましたよ。つい最近、入荷したばかりで、まだ、うちのコレクション・リストには載せてありませんでしたけれど。」


と言うのを聞いて、一瞬、わたしは飛び上がりたいほどうれしく思い、次の瞬間、


~さあ、これでこの曲のオーケストラ伴奏のが聴ける。


と思うと、緊張で自分の体が固くなるのを感ぜずにはおれませんでした。


わたしは、ピアノ伴奏の楽譜を大きく開くと、今かと、今かと、スピーカーボックスから音が鳴りだすのを待っていました。そしてついに針がレコードの上にのった「ピシッ」という音が聞こえたかな、と思った二、三秒後に、わたしの背筋が「ぞくっ」としたのです。


オーケストラの全奏によるイ短調の、何かを問いただすようなフォルテの前奏が響き渡りました。(中略:曲の演奏の説明)


~すごい。圧倒的なこの導入部。


伝統的な協奏曲の形式というのは、オーケストラによる長い前奏が第一主題も第二主題も提示してから、やっと独奏者が登場する形なのですが、この自分にとっての未知な曲の冒頭から、このように斬新なスタイルに出会い、わたしは誰かに胸倉をつかまれて、前後に強くゆさぶらたように驚き、感動しました。


~やっぱりオーケストラ伴奏でなくてはだめだわ、と合点しながら。


こうしてわたしは、生まれて初めてドボルザークという作曲家のヴァイオリン協奏曲と対面し、その美しいメロディーと、リズムの楽しさに胸をおどらさせられ、しばらくの間、この曲以外のことは何も考えられないほど、とりつかれてしまったのです。


当時の「十大ヴァイオリン協奏曲」という楽譜のアルバムには入っていなかったドヴォルジャークの協奏曲のことを、どこからどう知ったのか、わたしの手には、高価なピアノ伴奏版の輸入楽譜がありました。


夢中になって聴き終わったわたしの周囲には、いく人かの客が席をしめて、別の曲をリクエストしていたため、初めて聴いたこの曲に興奮していたわたしも、もう一度この曲を続けて聴くことは許されません。ただ夢のように。


~いつか本格的にこの曲に挑戦し練習を積み、ちゃんと弾けるようになりたいなあ。


とこの日に思い始めたのは確かです。


それから、どのくらいの時が流れたでしょうか。


ある日わたしは、新聞の片隅に、特に片隅に、特に何も目立つ様子でもなかった小さな記事を見つけたのです。「チェコスロヴアキア政府より、日本の音楽留学生を招待する旨の連絡が外務省に入り・・・(中略)文部省がその選考を行う。」と。


そして、この小さな記事がわたしの目にとまったことが、その後の自分の人生の歩みを、こうも大きく同級生の仲間たちのものと違うものにするであろうとは、夢想だにせず、ただ単に、


~あの、すてきなヴァイオリン協奏曲の作曲家の国に行けるのなら。


と考え、初めての体験として、その「留学生試験」を試しに受けてみたのでした。



それから三年半の、さまざまな新しい経験を積み上げた時間がたって、今度はプラハ空港から飛び発ったとき、私の手荷物の中には、赤と黒の表紙を付けた二冊の大切なものが入っていました。


黒い方は、堅い表紙付きで製本された、二十枚ほどのタイプで打たれた紙の束で、第一ページにはチェコ語で「ドヴォルジャーク作曲 ヴァイオリン協奏曲・イ短調、作品五十三番の演奏における解釈と諸問題」と書かれてあり、それはわたしの卒業論文でした。


そして、もう一つの、赤い皮表紙の手帳のようなののは、「卒業証書(デイプロム)」です。


この年、わたしはプラハ音楽芸術アカデミーを無事ヴァイオリニストとして首席で卒業していたのです。こうして、わたしの「夢」は「現実」のものとなり、ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲を、わたしが「卒業演奏会」のために選んだことは、申すまでもありません。


************


うぉぉぉ~ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲?


はて、どんな曲だったっけ?(笑)


超ヴァイオリン好き、そしていままでありとあらゆるヴァイオリン協奏曲を実演、オーディオで、聴いてきた自分にとって、ドヴォルジャークのコンチェルトと言われても、お恥ずかしながらピンと来なく、すぐに思い出せませんでした。


これはすぐにCDを買わないと。

しかも独奏はダヴィッド・オイストラフでないといけない。(笑)


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ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲、グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲、
カバレフスキー:ヴァイオリン協奏曲、オイストラフ(vn)コンドラシン、カバレフスキー



1949年録音だ。時期的にこれだろう?

もちろんモノラル音源である。


モノ音源は再生した場合、自分のシステムがピシッとセンターに定位していることを試される非常に怖い音源である。(笑)


普段モノ音源なんてかけないからね。


いい曲でした。聴いたことありました。第3楽章がとてもいいですね。この楽章でピンと来ますね。あっ聴いたことあるって。導入部は確かに普通のコンチェルトと違って、特徴ありますね。


それにしても、自分はこの著書ドヴォルジャークの中でもこの記載が好きで好きで、こういうなにげない体験が人によって、その後の自分の運命を決める瞬間だった、でもそのときは、そんなことなんて本人は知る由もなし。後年に振り返ってそうわかる、という運命の糸の話にすごく感銘します。


人生長く、深く生きていないと体験できませんね。


しかもオーディオマニア的にとってもこのさわりはどうしても引っかかりますよね。たぶんはスピーカーはJBLだったと思います?(笑)



そうやってチェコで研磨を積んでいき、1962年5月、国際音楽祭「プラハの春」に出演。トゥルノフスキー指揮、プラハ市交響楽団でスークの「ファンタジー」を独奏。芸術家の家(現在のルドルフィヌム)のドヴォルジャーク・ホールにて。21歳。


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そして、


「どうぞ、ここにお掛けください」


ほんのなにげない一瞬の出会い、そんな偶然が人生を変えることもありますね。
そのときに出会ったメキシコ人の考古学者と一瞬に恋に落ちて、そのまま結婚。

1960年 プラハで挙式。


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メキシコで新たな人生を送る運命に。


人の人生を他人が語るのは難しいですね。
正確に語ることは無理です。


やはり自分史は、ご本人の著書を読んでいただくに限ります。
ぜひ読んでもらいたいです。



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黒沼ユリ子 ヴァイオリンで世界から学ぶ
 (のこす言葉 KOKORO BOOKLET)




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ヴァイオリン・愛はひるまない―プラハからメキシコへ




1番最初の本が、1番新しい本で最新の近況まで入っているものですね。2番目の本が最初に書いた自分史の本です。


新しい本は、やはりいまの人にわかりやすいように、優しい丁寧な言葉遣いで書かれていて、わかりやすい感じです。普通の人はこちらのほうがいいですかね。


自分はもちろん新しい本も好きですが、2番目の本の方が尖った感じで、心にグサッと刺さる感じでいいです。この日記では紹介できませんでしたが、チェコ時代は、自分の音楽人生だけでなく、当時の社会主義体制のチェコについて語っている部分も印象的です。


チェコ(チェコスロヴァキア)は、亡国民族で長い間オーストリア・ハンガリー帝国に征服されていて、公に自国語チェコ語を話せず、公用語はドイツ語、そういう自分の言語を自由に話せない環境。


我々日本人にはとても想像しがたいことでしょう。


いつぞやチェコ人は、音楽の中に自分達の生きがいを見出し、自分たちの言語や音楽で芝居やオペラが上演される場所をもつことを夢見るようになる。


スメタナの言い残した言葉の中に「チェコ人の生命は音楽の中にあり。」。


そこら辺のチェコ独特の事情についても熱く語っています。

随分勉強になりました。


黒沼ユリ子著「ドヴォルジャーク」はぜひ読んでほしいですね。初心者向けのわかりやすいドヴォルジャーク伝記ですが、これを書くに至って、どれだけ大変なことだったか、自分は読みながらその記載事項、掲載写真の出処は大変だったろうな、と考えながら読んでました。


読んでいるうちに、無性にドヴォルジャークを聴きたくなりました。(笑)


ドヴォルジャークは久しく聴いていないので、もうちょっと音源を聴き込んで完全に自分のものにして、改めて、この著書とドヴォルジャークについて、日記で書いてみたいです。


(チェコ語の発音を日本語で表記することは大変難しいことらしく、より正確なチェコ語の発音に近いとするならば、ドヴォルジャークのルは小文字らしいのですが、それはPCのタイピングで不可能なことのようなので、そこら辺をご承諾ください。黒沼著の本は、きちんとルが小文字になっています。)











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東京音楽大学の代官山キャンパスのカフェ [雑感]

渋谷愛の日記を書いたとき、ブログの読者から中目黒・代官山に東京音楽大学の新キャンパスが去年の2019年4月に新しくできて、そこのカフェや学食レストランがとても素敵だという情報をもらった。


カフェや学食レストランは、一般の方も利用できるのだそうだ。


へぇー、それはぜひ行ってみたいなーと思っていた。


東横線ユーザーからすると、東横線の街に音大ができるなんて、ほんとかなーと思ったがネットで調べてみると本当だ。


なんかうれしいです。


代官山は、東横線きってのお洒落な街の代表的なところですからね。

東京音楽大学は、日本の音大の中でも最古100年の歴史があり、伝統ある音大だ。
自分の周辺も東京音大卒業の音楽家や、教鞭をとられている音楽家の方も多く、馴染みが深い。


池袋キャンパスと代官山キャンパスとの2つのキャンパスがあって、代官山キャンパスは中目黒駅と代官山駅からそれぞれ徒歩約5分という立地のよさに加え、とても豊かな緑の中にあって、芸術性・創造性を育む環境である。


60室以上の練習室、80室以上のレッスン室、大・中・小教室、クリエイティブラボなど、「音」に集中できる優れた環境で、学生たちの学修意欲・創作意欲、また研究意欲を大いに刺激する・・・のだそうである。


東京音楽大学 代官山キャンパス


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東京音楽大学 Tokyo College of Musicで通称TCMというんですね。


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代官山と中目黒のちょうど中間地のところのロケーションにあって、よくこのような都心のど真ん中に音大を建てるだけの敷地を確保できたなーと思っていたが、実際行ってみるとキャンパスの敷地はそんなに広いとは言えず、それなりのコンパクトに収まったキャンパスと言えそうだ。


とにかく新キャンパスということで、とても近代的な建物ですごいお洒落である。音大らしい洗練された感じのキャンパスだと思った。


そして構内の植樹のバランスが素敵で、キャンパスの中をとても緑が映えていて、いい環境だと思いました。とても都内のど真ん中とは思えない自然溢れるキャンパスだと思います。


正門のところに、学生課のある校舎がありますね。


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キャンパスの中心地がこのような近代的な校舎で美しい。


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TCMホール。キャンパスのコンサートホールですね。ここで学生たちが披露演奏会をやるのでしょう。ぜひその演奏会聴いてみたいです。


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今回の目的は、この代官山キャンパスのカフェがとても素敵だという情報で、そこを体験してみたかった。学生だけじゃなくて、一般の方も利用できるという話であったが、やはり学生の中でちょっと浮く感じでいやだなぁとも思ったけれど、もう全然、子供を引き連れた奥さんとか、初老夫婦とか、本当に普通の一般の方がふつうに利用しているので、よかった。


代官山キャンパスにはDEAN & DELUCAがプロデュースしたレストラン(学食)と、DEAN & DELUCAのカフェが併設されていて、学生ではない一般の方も利用可能なのである。


DEAN & DELUCAがプロデュースしたカフェ。


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とにかく広い。120席以上あるので、座れないということはなさそうである。電源&WiFi完備で、音大生がみんなパソコンを持ち込んで勉強している。


内装はやはりとても素敵ですね。


みんな勉強していますね。ここにいる音大生たちは、将来の音楽家の卵たち。将来サントリーホールやミューザ川崎で、その演奏会を聴けることを期待しています。頑張ってください!


天井が剥き出しで、成田空港第3ターミナルを思い出しますね。(笑)


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一番奥には、くつろぎスペースもあるんですね。
ここで寝転がって休んだりというスペースみたいです。


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外のテラスでは学生が勉強していました。


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やっぱり学生っていいですね。自分はずっと何十年も、儲かってなんぼのすれっ辛い社会で働いてきたので、なんかこういう学生の中にいるとホッとするというか、心温まりますよね。


このカフェ内の学生を眺めていると、彼らはとても純真に見える。いま夢と希望を持って、これから社会に飛び込んでいく。世間の厳しさをまだ知ることなく、社会人のように萎縮していなくて、非常になんかのびのびしていますよね。


自分の忘れていた部分を思い出します。


学生といっしょに話したりすると、自分も若返るんでしょうね。

還暦後に音大で音楽の勉強してみたいです。(笑)


ここでは、モカチョコケーキと水出しアイスコーヒーを頼みました。
美味しかったです。


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もうひとつの目的である、これまた同じDEAN & DELUCAがプロデュースした学食レストランも体験したいと思いました。


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ところが残念ながら、いま大学は、新型コロナウィルスのせいか、夏休みのせいか、わかりませんが、お休みなんだそうです。だから学食もやっていませんでした。


ガラス張りの中を覗いてみると、図書館と学食がいっしょになっている広いスペースのように思えました。やっていなくて、誠に残念。


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ちなみにネットから拾ってきた写真によると、学食レストランはこのような感じだそうです。


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オシャレなカフェに美味しい学食レストラン・・・

またチャレンジしたいです。


キャンパス内をプラプラしてみましたが、さすがに大学自体がお休みですので、ガランと人がまったくいませんでしたが、アーティストの卵たちがポートレート用の写真なのか、フォトグラファーと写真を撮っている姿を何人も見かけました。


中にはこんなものを発見。(笑)


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やっぱり学生だな~。(笑)こんなところにそのまま荷物を置いたまま、どこか行っちゃうなんて。のびのびしていますね。微笑ましいです。海外でスリ、置き引きの危険性をいやと味わってきた自分からすると信じられないくらい微笑まし過ぎです。



新型コロナで、大学も閉鎖でオンライン講座の方針で進めていく大学が多いですね。


最近見た記事では、このままオンライン化が進むと、大学キャンパスとか教室とか不要になる、教員も大幅削減の時代が来るような危機を煽る記事を見かけます。一瞬そう感じるかもしれませんが、やっぱり大学生にとって、大学時代の想い出というのは、この美しい大学キャンパスが脳裏に刻まれて、そして仲間とともにいっしょにその瞬間を楽しむ、勉学にいそしむ、生活していくから、それが鮮明な美しい想い出として脳に刻まれて、一生の思い出になるのではないでしょうか?


それは絶対オンラインでは代替えできませんね。


大学生活はキャンパスで過ごすから、美しい想い出として脳裏に刻まれるのです。


自分の大学時代も、人生で一番楽しかった瞬間で、脳裏には鮮明に自然や緑豊かなキャンパスの背景とともに仲間といっしょに過ごした想い出がいっぱい詰まっています。


これはそれぞれの人の大切な宝なのではないでしょうか?

それは絶対オンラインでは実現できませんね。







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棋士のプライド [雑感]

自分は、中原・米長時代の人なので、谷川浩司以降、羽生善治、森内俊之の時代を知らない。


その中で羽生善治さんは、まさに将棋界のすべてのタイトルにおいて、永世位を獲得という前代未聞の大記録を達成して、まさに羽生王国の一時代を築いた。これで国民栄誉賞も獲得しましたね。


いまの将棋界のタイトルは、


名人
竜王
王将
王座
王位
棋聖
棋王


だそうですね。ボクの時代には十段というタイトルがありました。(その代わり、竜王というのがなかった。)


将棋タイトル戦の主催スポンサーは新聞社ですね。


将棋界の場合、この中で最も歴史があり、権威があるのは、名人である。

名人戦の挑戦者になるには、順位戦リーグというのに所属しないといけない。
A級→B級→C級・・・など。


名人以外のタイトルは、たとえばトーナメントやリーグ戦などで実力さえあれば、どんなに若くても挑戦者になってタイトル挑戦できるのだが、名人だけは違う。


これはもう年功序列なのだ。


プロ棋士になって四段からスタートして、一番下のクラスの順位戦で勝って、成績とともに昇級していくわけだ。(だから自然と年齢を食ってしまう。)


名人に挑戦できるのは、A級順位戦、つまり八段以上の資格がないとダメなのだ。つまり棋士の段位と直結しているのが、順位戦なのだ。


将棋の世界で名人が特別の権威なのは、その棋士の段位、この年功序列的なシステムによるところが多い。


サッカーでいうJリーグのJ1,J2と同じで、降級がある。A級順位戦に所属していても、成績が悪ければ、B級→C級とどんどん降級してしまう。名人に挑戦できるのは、A級順位戦の優勝者なのである。


藤井くんは18歳だから、まだ名人位には挑戦できない。
他のタイトルなら可能だろう。


でも最近藤井くんは八段になったらしいから、A級順位戦リーグに昇格ということなのかな?


そして永世位というのは、そのタイトルを通算で5期保持した場合に、その棋士にその称号が与えられる。たとえば永世名人、永世棋聖、永世十段、永世王将、などなど。


名人は特に特別で、実力性名人になってから、世襲制というか木村義雄永世十四世名人、大山康晴永世十五世名人、中原誠永世十六世名人、谷川浩司永世十七世名人、森内俊之永世十八世名人、羽生善治永世十九世名人という感じで最高のステータスとして扱われる。


将棋界は名人位が最高の権威なのである。


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羽生善治棋士は、この将棋界の全七タイトルについて、すべて通算5期以上保持して、この全七タイトルについて、すべて永世位を持っているということだ。


これは将棋を知っている人なら、どんなに凄いことなのか?とにかく愕然とすることなのだ。まさに羽生王国、羽生時代と言っていいだろう。


自分は羽生棋士のこの快挙をニュースで知って、その前から羽生時代は漏れ聞こえてきたので、驚愕したものの、やっぱり記録はどんどん塗り替えられるものだなぁと感心した。


だが、自分が羽生棋士について、もっとも感動させられたことは、もっと違うことだった。


将棋棋士は普通段位で呼称されるが、タイトルホルダーの場合は、そのタイトルの冠で呼ばれる。でも無冠になってしまった場合は、順位戦のクラスに応じて、ふつうの段位の呼称に戻る。


大山康晴、中原誠、米長邦雄とか、過去のタイトルホルダーの常連で一時代を築いた棋士は、無冠になったときの扱いが難しいのである。


大山康晴さんや中原誠さんのように永世名人を含め、常にタイトルホルダー常連だった人が無冠になってA級順位戦に出戻ってしまった場合、彼らを九段と呼べるだろうか?


やはりそこは普通の人間の感性なら、とてもそういう失礼、無礼なことはできない。そこはなにかしらの配慮をするものなのである。


中原誠さんの場合、1994年、当時の肩書きであった「前名人」を失う際、それまでの実績からして「九段」とは呼べないということで、特例で「十六世名人」を現役のうちから襲位させるかどうか話し合いが行われた。


その結果、十六世襲位は見送られたが、代わりに「永世十段」を名乗ることで落ち着いた。


2007年11月17日、永世名人資格を取得して30年が経過したのを機に、また、森内俊之が十八世名人の資格を得たことや引退の期日(規定による)をあと数年に控えていることもあり、理事会が十六世名人襲位を提案し中原さん本人が了承。前倒しで現役のまま襲位した。1993年に無冠となってから、実に14年後のことであった。


大山康晴さんの場合は、十五世名人、米長邦雄さんは永世棋聖である。


やはり一時代を築いてきた棋士には、もし永世位を持っているならば、その名誉を尊重して、九段と呼ばずに、そういう永世位で呼ぶなどの配慮をするものなのだ。


やっぱり将棋の世界って全盛期で本当に活躍できるのは、その棋士人生にとってのほんの一時期。棋士の晩年というのは、A級順位戦からB級順位戦へ降格、さらにC級に降格。・・・そして引退。


実力、勝負の世界だから、本当にそれが厳しい現実。高齢になるほど身の置き方を考えないといけない。


だから自分は棋士の晩年の戦歴は見たくないのである。


どんなに高齢になっても、いかに長い期間A級順位戦やB級順位戦に踏みとどまっていられるか、ということである。


そういう意味でひふみん、加藤一二三さんは、若い時から引退までの長期間踏みとどまっていたという点で本当に素晴らしいのである。


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自分は羽生善治棋士にしこたま驚いたのは、彼がとうとう27年ぶりについに無冠になってしまって、A級順位戦に出戻ってしまったとき、将棋連盟はその輝かしい戦歴を配慮して、永世位で名乗ることを本人に勧めた。なにせ全七タイトルについて、全部永世位を持っているのだから、問題ないだろう。


ところが羽生棋士はそれを断ったのである!!!


羽生善治棋士は、通常通り、羽生善治九段として呼んでほしい。
自分にとってもう一度原点に戻って新たなスタートして、九段位でリスタートしたい。


オレは感動したよ!!!


羽生善治、男だなぁ~!


自分の世代にとって、羽生善治棋士は、どうしても新世代の棋士に思えてしまい、どこか没入できないところがあったのだけれど、この一件で、見直したというか、やっぱりタダモノではない、その大物ぶりにしこたま驚いたのでした。


それ以降自分にとって新世代棋士としては、やはり羽生善治棋士を応援したいと思うようになりました。


自分はこういう男気があるタイプの男が大好きです。


いままで地味だった将棋界を一気にメディアで取り扱われるようになって、明るい話題になったのは、藤井聡太くんのおかげであることは間違いない。


どんどん頑張ってほしい。


でも羽生善治棋士、全盛期が過ぎたなどという心ない戯言などぶっとばして、さらにもう一花咲かせてほしい。








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中原・米長時代 [雑感]

ライバルの存在が実力を伸ばす。


大山vs升田、中原vs米長、谷川vs羽生・・・藤井2冠の“令和の名勝負”に期待。


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1968年、第27期将棋の名人戦で対局する挑戦者の升田幸三九段(左)と大山康晴名人


ただいま藤井聡太2冠で将棋界も大フィーバーだけれど、結構この記事は心にグサッと刺さった。


まさしくそうだよなぁ。


まさに”令和の名勝負”をやる相手ライバルが出てきてほしいと思う。8大タイトルのうち、ほとんどのタイトル戦を藤井×ライバルで占領するみたいな。そしてそれが後世に伝えられるみたいな緊張感、大勝負になる感じになってほしいです。


自分は将棋が大好きだったのは、小学生、中学生、高校生のときで、そのときの将棋界は必ずその世代を一世風靡するライバル同士というものがあった。お互いを切磋琢磨していくそういうライバル関係ですね。


いまの棋士はとても爽やかで穏やかで、人から妬まれたりとか、嫌われたりなんていう世界とは縁遠いスマートな棋士たちばかりに見える。羽生善治さんとか藤井聡太くんとか、本当に爽やか。


こんなことを書くと、また年寄りの昔話、「昔は・・・」ですか?とバカにされそうだけれど、やはり書いておきたい。


将棋界は結構曲者というか、男の意地、プライドの塊のようなクセのある人たちの集まりでタイトル戦となると、その個性がぶつかる緊張感、とても小心者では我慢できないギリギリの線での精神のぶつかり合いのようなところがあった。


男って本当に子供みたいな生き物なんですよね。


要は、自分はここの部分は絶対引けないという線があって、そこの部分でぶつかるともう命がけになる。意地のぶつかり合い。


女性から見るとなんでそんなところにムキになってというような変に思われるところだろうと思う。


男にはそういう引けない一線というのが必ずあります。


将棋の世界って、そういう男のプライドのぶつかり合いというか、とにかく自分が夢中になっていた時代の将棋界の棋士たちは、本当に個性的な棋士ばかりで、自分を個性化するというか、自分のイメージ造りに長けていて、棋士同士の対決は、まさにその個性のぶつかり合いで、真剣勝負。


だから負けるとその屈辱感は自分の個性イメージを傷つけることになる。


だから余計に真剣勝負の度合いが深い。

観戦しているほうが胃がキリキリしてくる感じだった。


自分が、夢中になっていた時代の棋士って、


中原誠
大山康晴
米長邦雄  
二上達也  
加藤一二三 
有吉道夫 
内藤國雄   
大内延介 
桐山清澄 
勝浦修
森安秀光 
森雞二   
青野照市 
田中寅彦 
谷川浩司


このあたりですね。


田中寅彦棋士なんて、昨日テレビで本当に久しぶりに見たけれど、歳とったよなー。(笑)ボクのイメージでは永遠に自分が子供の頃のあの若い青年イメージしか残っていない。


自分は、中原誠名人の大ファンであった。


本当に個性的な怖い方、猛者ばかりの中で、「棋界の太陽」と言われるほど、その人間性、全体の雰囲気に品格があって、それでいて強いというところが自分はなんとも堪らなかった。


自分の時代は中原名人の全盛期だった。


大山康晴15世名人から名人位を奪取し、その後9連覇。通算でも名人位15期。名人位以外にも各タイトルも奪取し、いまでいう四冠王、七冠王とかタイトル独占することをやった走りの人だった。永世16世名人を獲得し、他のタイトルも多くの永世位。


本格派の居飛車党で、「自然流」と称された。原田泰夫さんが名付け親で「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し回し」という意味合いだ。玉の堅さよりも盤面全体の支配を重視する独特の大局観が特徴。また、「桂使いの名手」と言われるほど桂馬の使い方が巧みであり、中原の勝局には桂の好手が現れることが多いと言われていた。


大山戦での「振り飛車破り」、大内戦での「穴熊破り」、内藤戦での「対空中戦法」と、相手の得意戦法を次々と打ち破った。


当時振り飛車が流行し始めたころで、大山15世名人が十八番であった。自分はどうしても振り飛車が好きになれず、居飛車、それも当時は矢倉が正統派の主流戦法とされていた。


中原名人に惚れてしまったのは、とにかく居飛車で、強烈な個性というよりは、あくまで本当に自然流で、相手の得意戦法を次々と打ち破るのがなんとも格好良かった。紳士的で穏やかなその風貌で、自然に勝ってしまうのが、なんとも格好良かった。


バランスが取れていて憧れましたねぇ。


その中原名人が対局しているのを唯一見れるのは、NHK杯だけだったので、中原名人が登場するときは、必ず見ていました。


当時の自分はもちろん居飛車党で、矢倉を相当勉強していました。(あと記憶にあるのでは棒銀戦法とか。穴熊は邪道だと思っていました。(笑))


中原さんは1970~1990年代に活躍した棋士だが、自分が夢中になっていた中原全盛期のときは1970年代の時を見ていたのだと思う。


その中原誠名人の当時の強烈なライバルといえば、大山康晴、米長邦雄、加藤一二三といったところだろう。とくに米長邦雄さんとは永遠のライバルで、まさに昭和時代の中原・米長時代という一時代を築いた。1年間の全タイトルのほとんどを中原・米長で占めることも多かった。


米長さんの言った言葉。「1年のうちで、女房といる時間より中原さんといる時間の方が長い。」との名言は有名だ。自分が将棋に夢中になっていたときは、この中原・米長時代の全盛期だった。


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米長さんは青年期から人間性を「さわやか流」と評され、一方で将棋は「泥沼流」とも言われたが、各界の多くのファンに愛され、棋界随一の人気者だった。


米長邦雄さんが多くのファンに愛されたのは、言動の面白さもあるし、有名な「米長哲学」をはじめ、「兄達は頭が悪いから東大へ行った」の逸話をはじめ、自らの伝説化に長けていたのも大きいだろう。


かなりショーマンシップに溢れていた人で、そういう自分のキャラクター売り込みが上手で、そういう自分が発信するそれらの逸話に将棋の地位を向上させたいという意思を読み取る必要もあるのだが、ともかく何より彼が強く、そして負けても美しかったからではないだろうか。


まじめな中原さんに、ショーマンシップ、リップサービス上手の米長さんという図式。


だから余計にその中原・米長対局の場合は、そういうメディアが好みそうな構図が出来上がって絵になってしまうのだ。絶好の記事になりやすいのだ。


とにかく当時1年中のタイトル戦はほとんど中原・米長という感じだったが、勝率は中原さんの勝ちの方が多かったと記憶している。将棋界や新聞社メディアも、中原・米長時代を堂々と宣伝していたし、それ一色だった。


自分がびっくりしたのは、米長さんが晩年に鳥取砂丘で全裸ヌードになったことだ。(笑)これは衝撃であった。(笑)


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とにかくショーマンシップに溢れる人だった。


中原名人9連覇で、ついに名人位10連覇か!という1982年。自分が忘れもしない高校生3年生。


中原誠名人×加藤一二三十段の第40期名人戦


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いまのみなさんは”ひふみん”ですっかり有名な加藤一二三さんだが、ボクの世代では、とてもいまのキャラが信じられないです。(笑)


すっかりイメチェンに大成功ですね。


加藤さんは、本当に熱血漢で、ちょっと変わっている人という感じなんだけれど、「神武以来の天才」と言われたまさに藤井くんの大先輩だ。


本当に現役時代はすごい人だったのだ。対局中に相手側の背後に回って、将棋盤の対局面を眺めるなど結構寄行が話題になった。(笑)


自分にとって、加藤さんの存在が圧倒的に輝いて見えたときは、中原名人が名人戦九連覇を成し遂げて、この十連覇を成し遂げるか、というときに、当時の加藤一二三十段が挑戦者になり、名人戦史上稀にみる大激戦名勝負を繰り広げ、中原さんの十連覇を阻止したときだった。


名人位といったら、中原さんしかとてもイメージ湧かなくて、九年間もそうだったので、そこに加藤一二三名人誕生になったときは、かなり違和感と悔しかったです。


中原ファンとしては、加藤さんの存在は忘れようにも忘れられない人だったのだ。


みんな”ひふみん”ってアイドル視するけれど、ボクには本当にこの頃のすごいときを知っているから加藤さんなのである。


名人戦というのは、普通七番勝負、先に四勝したほうが勝ちだ。でもこの戦いは持将棋に千日手2回と決着がつかない戦いが3回もあって、全部で十戦も戦ったのだ。名人戦のようなタイトル戦は、普通は旅館などを貸し切ってやるものなのだが、ここまでもつれるとは誰も思わず、旅館の予約が出来ず、最終戦は、ふつうの将棋会館でやる羽目になったのだ。


その最終戦も深夜におよぶ大激戦で、中原さんは自分の負けを先に読み切っていたようだけれど、加藤さんは気づいていないようで、最後に加藤さんが中原さんの玉の詰みを発見した時は、思わず「ひゃあー」という寄声を上げたことは有名な話だ。



この第40期名人戦こそ、じぶんの中でひふみん、加藤一二三が一番輝いていたときである。


あれだけ、中原・米長時代をメディアは唄い続け、中原さんから名人位を奪取したのは、米長さんではなく加藤一二三さんだった。


将棋の神様は米長邦雄を(加藤一二三がそうだったように)一度は名人にすると書いた記者もいた。しかし、例えば、谷川浩司が最年少名人になったとき、芹沢博文の「可哀相だが米長はもう名人になれない。一人ならともかく、二人に抜かれたら、もう抜き返すことは出来ない」という言葉も出たくらいであった。でも結局その後、米長さんは名人位につくことができた。それも宿敵の中原さんから奪取だ。


自分は米長さんのあのサービス精神旺盛のキャラクターが大好きだったのであるが、結構この日記を書くためにググってみると残念な記事にも出会った。



米長さんに近い筋からの記事だ。
読んだとき結構ショックだった。
自分のアイドル偶像が壊される感じで。


長年「小説新潮」で連載していたが、確か1998年のはじめのある回で、将棋の歴史上最強の棋士を十名選出している。現代の棋士では、木村義雄十四世名人、升田幸三実力制第四代名人、大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖、そして羽生善治(当時四冠)を選出している。


米長さんは2012年に亡くなられている。


この「将棋世界」の米長邦雄追悼号はなかなか異様だったという感想が老師を除く三人の口から出た。昭和と平成の棋界を代表し、日本将棋連盟会長のまま鬼籍に入った大棋士なのに、内藤國雄九段の文章がその代表だが、追悼号でそのダークサイドをここまで書かれた棋士は他にいないというので三人は一致した。


追悼号として見ると、羽生善治(当時三冠)をはじめとするタイトルホルダーの面々が寄稿して故人の功績を称えており、格好はついているものの、ライバルとして共に時代を築いた中原誠永世十六世名人は寄稿しておらず、かわりに(と書いてはいけないのだが)林葉直子さんが寄稿している。さらに書くと、米長邦雄門下で出世頭だった先崎学八段(当時)は書いておらず、かわりに(と書いてはやはりいけないのだが)米長の下で連盟理事として働きながら、彼に理事会を放逐された中川大輔八段が、その一件以降師弟は絶縁状態であり、死の床でも和解ができなかったことを書いているのは恐ろしいことである。


それは米長邦雄が、引退後も日本将棋連盟会長として将棋界において強烈な存在だったことのあらわれとも言える。1990年代後半は、中原誠十六世名人のスキャンダルもあり、中原・米長時代を築いた両雄が泥にまみれた形である。中原誠もそれが影響してであろう、気持ちよく勝てなくなり、米長邦雄の数年後には50代前半にしてやはりA級から陥落してしまった。結局、中原も米長も日本将棋連盟会長になるのだが、特に中原誠はそれまで「棋界の太陽」と言われ、名実ともに第一人者として棋界で人望と尊敬を集めていたのがたった二年で連盟会長の座を米長に明け渡すことになったのは、米長の強烈な権力志向もあるだろうが、やはり件のスキャンダルの影響は否定できない。


そして中原誠の後に会長となったのは米長だが、その理事会に前会長の中原が副会長として残ったのも一般の感覚からするとおかしな話で、スムーズな政権禅譲でなかったことが推測される。2016年に中原誠は日本経済新聞の「私の履歴書」を書いているが、ある回で当時について触れており、将棋連盟の理事会でともに働くにあたり米長といくつも衝突があったことを、あのときばかりは「さわやか流」とはいかなかった、といった表現を使っていた。



こんな記事である。(笑)
もう大ショックである。


中原さんのスキャンダルはいまでも覚えている。あれは本当にショックでした。でも人生誰でも失敗触れられたくないこと一杯ありますね。自分なんてそんな触れたくないことばかりです。


将棋の世界って実力、勝負の世界。


当然若い全盛期のときはいいけれど、歳をとってA級順位戦から陥落していくにつれ、老後の身の置き方など考えていかないといけない。


ひふみんのようにアイドル路線でマルチタレントとの道へ進めるのも稀な存在であろう。


中原さんは、解説や将棋促進のほうに進まれていると思うが、脳内出血や癌なども患われており、いったいいまはどのように過ごされているのだろうか?



大山康晴には、升田幸三というライバルがいて死闘を繰り広げた。
中原誠には、米長邦雄というライバルがいて死闘を繰り広げた。


ライバルの存在が実力を伸ばす。

まさにそうだろう。


藤井くんに、そのような永遠のライバル、そういうぴったりの構図が出てくることを期待する。


最後に当時の棋界の対局がいかに怖かったかのもうひとつの自分の思い出。


第36期名人戦七番勝負第1局(1978年3月15、16日)。いきなりの剃髪姿で現れた森雞二八段。対戦相手の中原名人はもとより、周囲の者も唖然としたという。この対局は森雞二八段が快勝した。


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これもよく覚えている。普段パンチパーマだった森八段だが、名人戦で丸坊主で臨んだ。これはちょっと異様な雰囲気でした。自分も絶対忘れられない名人戦です。


これで中原さん負けたら大変なことになっていたけれど、結局4勝2負で無事名人位を死守したのでした。中原名人時代の忘れられない1戦です。


だからこの時代、本当に男と男とのぶつかり合いというか、個性のぶつかり合いで負けられない緊迫感のような怖さがありましたね。


将棋も大学に入ってからスピンアウトしてしまった。だから中原さんや米長さんの晩年も知らないです。でもこの実力の世界、晩年の時代は寂しい限りなのでそれでよかったかもしれない。


中原さんの棋士歴の晩年の履歴をネットで拝見しているとやはり寂しいという気持ちしかわかないですね。中原さんは、引退記者会見のとき、「羽生善治さんとタイトル戦を戦ってみたかった。」と仰っていたそうです。


だから、その後の将棋界、谷川浩司以降、羽生善治、森内俊之の時代をまったく知らない。


羽生大全盛のときは、さすがにニュースで知っていますが、そこから入り込むほどの熱意もいまさらなし。へーという感じで終わってしまう。


そして藤井くんフィーバー。


まだ18歳ということもあって、本当にうぶな感じの性格で、怖い怖い個性派ぞろいの強者どもの時代しか知らない自分からすると、う~ん、やっぱり自分が歳を取ったのか、これがいまなんだよ、という印象です。


こんなことを言っている自分が老害なんでしょう。


藤井くん、ぜひA級順位戦まで昇って、名人位獲得してほしいです。


将棋界のタイトルで最高の名誉は名人位です!










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プラハの春 [クラシック学問]

マーラーフェストのつぎをどうするか?


これは当然考えていたことであり、そのとき、自分の頭の中には漠然とプラハ→ウィーン→リンツ(ブルックナー詣)の3か国を周遊できればいいな、と考えていた。


自分の中でメインテーマとして、プラハが主役であり、プラハの春音楽祭があった。


きっかけは、毎年日本で春になると、すっかり上野の風物詩となっているクラシック音楽祭、「東京・春・音楽祭」が、じつはそのネーミングが、この「プラハの春音楽祭」から持ってきているという由来があるからだ。


プラハの東京版をやりたい。

「東京・春・音楽祭」はそこから来ている。


そのように実行委員長のIIJ鈴木幸一会長がコメントしていた記事を拝見して、これは自分のクラシック人生で避けられない運命として、どうしてもプラハの春音楽祭、プラハは体験しないといけないんだな、と確信めいたものが沸き上がってきた。


東京・春・音楽祭は、まさに自分のクラシック人生とともに歩んできた運命共同体の音楽祭だ。そのルーツとなったプラハも体験しないといけない。


そういうシナリオが自分の頭の中に出来上がったのが、2年前のことであった。じつは随分前からそういう青写真は描いていたんですよね。


やっぱり海外音楽鑑賞旅行の計画を立てる場合、その次をどうするか、は必ず考えますから。でもプラハをどのように自分なりにプロデュースしてテーマとして盛り上げていくか、というのはノーアイデアだった。


自分なりの拘りとして、やはりただ単に行ってきました、体験してきました、観光してきました、で終わるのはどうももの足りない。


自分なりのカラーを打ち出して、そのテーマに則って、盛り上がっていきたいというのが自分のやり方だからである。


プラハは、自分の人生の中で未体験の国で知識もあまりない。いわゆる馴染みのない国だ。だから、プラハのことを勉強しつつ、このプラハをどのように自分なりにプロデュースしていくか、というのが自分の新しいテーマだった。


プラハに対してどう自分なりのカラーを出していくか?


そんな課題を自分の頭の中に抱えながら、なにげなくTVを見ていた時のこと。


去年の2019年1月13日「池上彰の現代史を歩く ~東京五輪の“名花”の激動人生 自由を求めた不屈の闘い プラハの春」という番組が放映されているのを偶然に見た。自分は池上さんのこの番組がかなり大好きで結構見ている。いまの軽薄で面白くない地上波番組の中で、かなり教養があって、骨のある番組ですよね。


この中で、プラハの春、チェコ事件、そしてビロード革命と激動の歴史を歩むチェコスロバキアと、1964年東京五輪で日本国民から“名花”と呼ばれ愛された女子体操金メダリスト、ベラ・チャスラフスカさんの運命を紐づける・・・そのような番組のシナリオの持っていき方であった。

彼女は祖国チェコで激動の渦に巻き込まれる。1968年の「プラハの春」。社会主義体制下で、自由を手にした奇跡の改革運動に身を投じるも、抑え込まれてしまった。しかし、20年後「ビロード革命」とともに華麗なる復活を果たした。


日本、そして世界から注目された「プラハの春」とチャスラフスカさんの激動の生涯が、今の私たちにうったえかけることとは?


自分はプラハをどのようにプロデュースしていくかを考えたときに、この「プラハの春」、そして「チェコ事件」「ビロード革命」は、チェコスロバキアという国を語るにはどうしても避けては通れない、そして絶対に知っておかないといけないし、この歴史についてはどうしても語らないといけないだろう、とそのとき思ったのである。


そしてその番組には、ヴァイオリニストの黒沼ユリ子さんが出演されていた。


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彼女は、1958年にプラハに留学。チェコスロバキア政府招待留学生としてプラハ音楽芸術アカデミーに入学。在学中の1960年、プラハ現代音楽演奏コンクールで第1位。1962年栄誉賞つきディプロマを得て首席で卒業。そして「プラハの春音楽祭」でもデビューしているのだ。


まさにこの「プラハの春」の激動の時代、そのときを、そのチェコスロバキアで過ごした、そしてチェコと日本との懸け橋となって活躍した方である。



プラハの春の後、改革のリーダー・ドプチェク第一書記は解任され、誰とも連絡がつかないように地方に追いやられた。「二千語宣言」に署名していたザトペックは、ウラン鉱山の掃除夫にさせられたという。チェコではソ連よりの政治家が実権を握り、より厳しい支配となった。


黒沼ユリ子さんはその当時の様子を番組内で顧み、


「共産党が「人間の顔をした社会主義」に同調した人、反対した人を分けた、日本で言う踏み絵を行ったのです。自分の周りにも働くために嘘を言って生きていくことを選んだ人もいました。」


と話していた。


自分はこれだ!と閃いた。


黒沼ユリ子さんとは、じつはSNSでつながっており、そのとき、いまで思えば大変失礼ながら、ヴァイオリニストでありながら、どのような活躍をされてきたか、その経歴をよく知らないままでいた。


かなり文章力のある方で、演奏家とは思えないその筆致に本当に驚かされていた。(それはその後、著書を全部拝読させていただいたのだが、作家、音楽評論家顔負けのその博識、力筆ぶりに、ただひたすら驚愕であった。)


SNSでは結構政治的なことも強烈に発信される方で、腐敗しきった安倍政権を一刀両断という投稿も常であった。


でも自分はそのとき黒沼さんのことをよく知らなかった。


ところが、その番組で、そのプラハの春のことを、まさに生き証人として生々しく語るそのお姿を拝見して、


そうか!これだな!


黒沼ユリ子さんを、そのヴァイオリン人生をしっかり勉強することで、チェコ、プラハという国を知る。これはいかにも自分らしいアプローチの仕方、自分のカラーが出せると確信したのだ。そう思ったのが、その池上彰さんの番組を見た2019年1月13日で、自分に誓った瞬間であった。


でも、まずは目先のマーラーフェストのことを頑張ろう。


マーラーフェストで大きな達成感を得たのちに、プラハのことはその後ゆっくり考えようと思っていた。そしてご存じのように、マーラーフェストは残念ながらCOVID-19のパンデミックで開催延期。自分は音楽祭の規模としてスケールダウンする来年のマーラーフェスト2021には行かないことにした。その分の予算をつぎのプラハに充てるほうが前向きだと考えた。


そして大分気持ちも落ち着いてきて、そろそろという心構えになり、黒沼ユリ子さんのご著書を全部、そして音源も限りなく手に入れられるものは全部(アナログLP/CD)集めて、徹底的にそのヴァイオリニスト人生、音楽家人生を勉強していったのである。そして黒沼さんを通してチェコスロバキアという国、歴史を勉強していったのである。


そのことについては、また別途日記にして紹介していこう。


この日記では、そのプラハの春、チェコ事件、ビロード革命で、チェコスロバキアという国の歴史を紹介していきたいと思う。


まず、それがすべてのはじまり、前提だと思う。


チェコスロバキアという国は、このような地理感。


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オーストリア、ポーランド、ドイツなどに囲まれている小さな国であるが、社会主義国家体制のときは、チェコとスロバキアという国が合併してチェコスロバキアという国であったが、ビロード革命の後、チェコ共和国とスロバキアという国にそれぞれ分割していった。これが現状である。



●プラハの春


東西冷戦の時代、チェコスロバキアは、東側にありソ連の支配下にあった。共産党一党独裁体制で、人々は監視されており、密告社会である。反共産主義の人物とみなされると強制労働や処刑などもある。人々の気分は暗く、不満が溜まっていた。なにもかも自由がなかった。


戦時中のわが国と似ている。反戦争とみなされると「非国民」と言われたりした。


ところが、1968年1月のこと、共産党第一書記であるアレクサンデル・ドプチェクが「人間の顔をした社会主義」を掲げ、複数政党制、報道の自由、言論の自由、表現の自由など民主化を推進し、世界が注目した。これを受けてチェコスロヴァキア内の議論はまさに百花斉放を様相を呈し、新たな政党の結成の動き現れ、首都プラハの町にはミニスカートなどの西欧風の諸文化が大量に開花した。


また6月には70人あまりの知識人が署名して「二千語宣言」が発表され、ドプチェク路線を強く支持し、旧来の体制に戻ることに強い反対が表明された。


これら1968年春の一連の自由化の爆発を「プラハの春」と言っている。 


「二千語宣言」の署名者に、東京オリンピックで「オリンピックの名花」とも讃えられた女子体操の女王、チャフラフスカ氏の名前もあった。


この「プラハの春」、46歳のドプチェクが、そのリーダーである。


黒沼ユリ子さんは、その時プラハに滞在していて、番組でつぎのように話す。


「以前は、反共産主義の話をしたら、チェックされる社会であった。「プラハの春」が始まると、1968年の5月1日のメーデーでの行進は、自由な行事となり、以前のようなプログラムがなかった。なにをしゃべってもいい。プラハの音楽祭の楽曲選びが自由となった。」


以前とは異なる明るい社会となった。西側諸国への旅行も自由化された。抑圧された密告社会の社会主義国家体制の中で暗い気持ちで生活していた市民にとって、「人間の顔をした社会主義」すなわち「プラハの春」は、一気に春の後光が差してきた明るい夜明けになるはずであった。


しかしながらそんな「プラハの春」は半年で終わることになる。



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「プラハの春」。抑圧された暗い生活の中で束の間の光が差し込み、ジャズクラブで踊る学生



●チェコ事件


しかし、そんな「プラハの春」も長くは続かなかった。夏になると8月20日にソ連のブレジネフ政権は、ワルシャワ条約機構5か国軍15万を国境を越えて侵攻させて軍事弾圧に踏み切り、市民の抗議の嵐の中をプラハの中心部を制圧、ドプチェクらを連行してしまったのだ。


このチェコ事件によってプラハの春は踏みにじられてしまった。


改革が盛りあがりを見せるなかで、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻し、軍事占拠したこの出来事を「チェコ事件」という。


この介入を正当化するために用いられたのが、「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれるもの。「制限主権論」と訳すことができ、「社会主義国家のひとつが危機に陥ることは、社会主義ブロック全体が危機に陥るということ。そのため他の社会主義国家は無関心でいることはできず、全体の利益を守るために一国の主権を乗り越えることができる」という考え方。


スターリンやフルシチョフの時代を通して、ソ連の一貫した対東欧政策あった。


首都プラハの中枢部を占拠してドプチェク第一書記、チェルニーク首相ら改革派を逮捕、ウクライナのKGB(国家保安委員会)監獄に連行した。


全土で抗議の市民集会が開かれ、またソ連の実力行使は世界的な批判を浴びた。


スボボダ大統領は執拗にドプチェクらの釈放を要求、ソ連は釈放は認めたが、ソ連軍などの撤退は拒否した。



軍事侵攻したソ連兵に話しかけるプラハ市民
抗議するプラハ市民


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●ビロード革命


まさに20世紀の冷戦下、大国の間でゆれ動いたチェコ。ドプチェク政権による「プラハの春」を経験したものの、その後のソ連軍の侵攻で、市民の自由を認めない共産主義独裁政権が長く続き、人々は秘密警察による恐怖政治の支配の中を生きた。


60年代にみられた官僚主義の体制の中での経済停滞と、言論抑圧の中での、国民の無気力、無関心が蔓延するようになる。1977年にはハヴェルらの知識人が「憲章77」を発表したが、直ちに弾圧され、民主化は進まなかった。


1989年10月29日には約1万による集会がプラハで開かれ、人々は改革に動こうとしない共産党ヤケシュ政権打倒を叫んだ。11月に入り、ベルリンの壁の開放の報が届くと市民・学生の活動は活発となり、11月19日に「憲章77」のハヴェルらが中心となり「市民フォーラム」を結成、政府に対して共産党指導部の辞任、全政治犯の釈放などを要求した。連日30万規模のデモがプラハやブラチスラヴァで繰り広げられ、ついに24日ヤケシュ書記長以下共産党幹部が辞任、12月にはフサークが大統領を辞任し、代わってドプチェクが連邦議会議長、ハヴェルが大統領に選ばれた。


こうして大衆行動によって流血の惨事を経験することなく無血で共産党政権の打倒と民主化を実現したチェコスロバキアの変革は「ビロード革命」と言われている。



1968年のプラハの春から20年経って、1989年のビロード革命にて、チェコスロバキアは民主主義を取り戻したのである。



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1989年11月25日、約100万人の人々がレトナーに集まった。


ビロード革命は共産党による長い抑圧的な支配を終わらせ、チェコスロバキアを民主主義への道に導いた。


メディア、言論、旅行への制限が解除され、他国へ移住した多くの人々も家に戻ることができるようになった。新しい民主政権は国の法律を自由化し、開かれた自由な社会を作り上げた。 そしてその後すぐ、チェコスロバキアは今日知られているように、平和的にチェコ共和国とスロバキアに分割されることになった。


日本のように植民地になった経験のない国で育った自分が、はたしてチェコのような運命を辿った市民の方々の気持ちがわかるのか?


代弁できるのか?


真の意味で語れる資格があるのか?


このチェコの辿ってきた歴史を理解してみると、つくづくそういう想いがする。


そういう我々日本人では想像もできない辛い歴史的背景をチェコ人が背負っているもののひとつとして、黒沼ユリ子さんは、音楽誌「音楽の友」に2年間投稿した記事をまとめた本「アジタート・マ・ノン・トロッポ」の中で書かれたことで、とても印象的であった箇所を抜粋して紹介しておこう。



どの民族にとっても、自分たちの文化遺産の最大のものはなにかと考えるとき、それは「言語」であると私は言いたい。ちなみにこの数世紀間だけの歴史を振り返ってみても、他民族に従属させられた被抑圧民族が起こした果敢な闘いの原動力となったもののひとつは、自分の言語(つまり母親から習った言葉)を公に使えない悲劇的状況を乗り越えることへの熱望であったのではないだろうか、と私は思う。


例えば遠くは、数世紀に渡って亡国民族であったチェコ人に、チェコ語で自らの持つ伝説や歴史、村の出来事などを歌芝居にして上演したいという願いがあったからこそ、スメタナのオペラが生まれ、また国民劇場が、みなからの「塵も積もれば山となる」式の寄付金によって建てられたのであろう。


それによって音楽が媒体の一部ともなって民族内部に強い連帯感が生まれ、それも大きな役割を果たしたであろう結果が、世界の歴史的状況と結びついて1918年にチェコスロバキアという独立国が地球上に誕生する可能性を生み出した・・・と言えるのではないだろうか。



長い間、異民族の支配下で抑圧されている民族が、音楽に祖国の独立の希望と夢を託して現状の苦しみを慰めるということは、歴史上どこでも繰り返されていることだからだ。チェコ人には次のようなエピソードが、これを裏付けるもののひとつとして残っている。


それはチェコ人が自民族復活への熱望のシンボルを「国民劇場を持つ」ということに集約していたという事実だ。


つまり自分の言語と音楽で芝居やオペラが上演される場所を持つということ。




プラハ、プラハの春音楽祭というと、ついつい市民会館(スメタナホール)とかドヴォルザーク・ホールとか有名だが、自分はぜひチェコ人の最初の意思表明であったこのプラハの国民劇場をぜひ訪れてみたい。


コロナ禍でいつ海外旅行が再開できるかもわからないし、海外でコンサート、オペラが普通に再開できるようになるのかも、はたしていつになることやら。自分もそのときまでに予算的に大丈夫なのかもわからないが、毎日紋々と無意味に過ごすよりは、前向きに勉強しながら過ごしているほうが精神の充実度は違うと思い、この日記を書いた。


まぁこの先どうなるかわかりませんね。



序章、プロローグとしてはこのような感じでいかがであろうか?











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東京ラーメンの元祖 [グルメ]

いまのラーメンというのは、そのスープ味、醤油味、味噌味、塩味、そのほかいろいろなスープのバラエティがあって、そこがその店のオリジナリティを出せるところ、いわゆるお客さんがついついもう一回通いたくなるというようなそういう病みつきになる隠し味の切り札的存在の部分なのだと思う。


でもラーメンの本当の原型、元祖というのは東京ラーメンですね。


東京ラーメンとは、「醤油ラーメン」の代表であり、ラーメンの原型である。多くの場合、和風だし、醤油タレ、中細縮れ中華麺が使用される。


1910年(明治43年)当時流行の発信基地で繁華街であった浅草の「来々軒」が草分けだとされる事が多い。現在のラーメンの基本を作り上げ、醤油ラーメンの発祥となり、チャーシュー(叉焼)とメンマ(支那竹)を初めて載せたともされている。


この明治43年の「来々軒」は、tackさん情報によると今秋に新横浜ラーメン博物館で、その明治43年の「来々軒」を復元するという。


ぜひ通ってレポートしたいと思う。
楽しみにしていてください。


繊細な味を守り続ける店も多く、新規店でもこの東京ラーメンを追い求める店もある。ご当地ラーメンブームの中で、強い脂や辛さを押し出す新種のラーメンとは対をなし、流行を追いかけることなく「ラーメンの定番」として、昔からその人気は不変である。


この東京ラーメンとして、その同業種ラーメンとして「八王子ラーメン」、「荻窪ラーメン」、「恵比寿ラーメン」なども挙げられる。


TV番組を見ていて、偶然その東京ラーメンの元祖と言われるお店を食レポしている番組があって、これはぜひ行ってみようと思っていた。


それが荻窪の春木家さん。


あとで、説明するが、”春木屋”と”春木家”の2軒あり、お互い遠戚に当たるそうだ。

昭和6年創業のいわゆる東京ラーメンの元祖と自負しているのが、”春木家”さんのほうだ。東京ラーメンを初めて出した、もっとも古いお店です、と宣伝している。TV番組でもそう言っていた。


明治43年の「来々軒」が一番東京ラーメンの元祖だと思うのだが、いま”現存するお店の中で”東京ラーメンの元祖という意味で春木家さんがそう宣伝しているのだと思う。


「来々軒」はまだ復元されておらず、存在しませんから。


春木家さんは荻窪ラーメン。


荻窪ラーメンは、東京ラーメンの一種で、JR中央線荻窪駅周辺のラーメン店で提供されているラーメンである。蕎麦屋からの転業が多かったため、スープは、鰹節や煮干しといった魚介系スープが基本の和風で、濃口醤油を使用した濃い色のスープが特徴である。鶏ガラや豚骨といった動物系スープを合わせる店もある。麺は、中細麺を使う店が多い。 


戦後、荻窪駅北口には闇市ができ、駅近くに数軒のラーメン屋が並んだ。後にこれらの店は青梅街道沿いに店舗を出すようになっていく。


荻窪を中心とする中央線沿線には、昭和初期から作家文人が多く住み、彼らのいきつけの店などがたびたび随筆に書かれて知られていた。これらのラーメン店にも文化人のファンが多く、すでに1960-70年代には「春木屋」が映画監督の山本嘉次郎のグルメ本で紹介される等、荻窪ラーメンは比較的早くから一部では有名な存在であった。


1985年に公開された伊丹十三監督の映画「タンポポ」は、「佐久信」をモデルに制作された。


荻窪ラーメンが全国的に知られるようになったのは、バブル期のグルメブームの裾野に巻き起こった全国的なラーメンブームで、テレビや雑誌等のメディアを通じてたびたび紹介されたことが大きい。


・・・だそうである。


伊丹十三のタンポポ、なつかしいなー。夢中になって見ていましたよ。


もう一方の春木屋さんも、 1960-70年代に、映画監督の山本嘉次郎のグルメ本で紹介される等で有名だったんですね。


そこで、まだ世の中に明治43年の「来々軒」が存在しない現在、東京ラーメンの元祖というべき、「春木屋」、「春木家」を昨日体験してきた。


荻窪駅北口を出て、徒歩10分くらい。荻窪駅北口近辺と言っていいだろう。



●春木屋


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昭和24年創業。店舗は本当に狭い。東京ラーメンの元祖ということを体験したかったので、余計なトッピングがいっさいない中華そばを注文。


まさに東京ラーメンというべき、醤油味、チャーシュー、シナチク、のり、のシンプル・イズ・ザ・ベスト。麺は中細の縮れ麺でした。


これぞまさしく東京ラーメン。


食べてみたら、本当に懐かしい。これぞラーメンの基本というような味がした。
こういうシンプルなラーメンを食べるなんて、いつ以来だろう。


昔、子供の頃、母親がよく出前のラーメンをとってくれて、その小さな子供のときに食べたそのラーメンの味、というかそういう懐かしい味がする。


醤油のスープが少し脂を入れて香ばしい感じにしているのが特徴ですね。

美味しかったです。



●春木家


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TV番組でレポしていたのはこちらのお店。こちらは昭和6年創業。春木屋さんとは遠戚にあたるそうだが、修行先とか、具材の仕入れ先とかまったくお互い別で、全然違う店と言っていいと女性店員さんが言っていた。


こちらこそ、昭和6年創業であるから、現存するお店で最古の東京ラーメンの元祖である、ということだそうである。



こちらも余計なトッピングいっさいなしの中華そばを注文。
まさに東京ラーメンの元祖という感じで、シンプル・イズ・ザ・ベスト。
でも春木屋さんのラーメンとは全然違う。


こちらは醤油スープに油を使わず、非常にあっさりとした上品なスープである。ダシはにぼしでとっていると思われ、そのにぼしの味がかなりはっきりと分かる。


麺は細麺のストレート麺。


ラーメン自体が上品で品格がある。
女性向け、女性にとても人気が出そうな感じがする。
それだけの気品さがありますね。

非常にさっぱりしていて、美味しかった。


こちら春木家さんのラーメンが現存する最古の東京ラーメン。
昭和6年創業の東京ラーメンである。


では、正真正銘の日本最古の東京ラーメン、いや東京という冠がつかない、正真正銘での日本初のラーメン、明治43年の「来々軒」は今年の秋にラー博でお目にかかるとしましょう。


そのときはまたレポします。

お楽しみに!










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さようなら、渋谷「本家しぶそば」! [グルメ]

渋谷という街は、若者だらけで、いつも混雑していて、なんとなく汚いという理由で嫌う大人の方が多い。その気持ちはよくわかる。銀座、赤坂、六本木とか表参道とか、いわゆるもう少し洗練された大人の素敵な街は東京には多いですね。


でも自分は渋谷が大好きである。


というか、自分の甘酸っぱい青春がいっぱい詰まっている街で、忘れたくても忘れられないキーになる街なのである。


前職のオフィスが五反田、大崎、品川にあったので、必然と山手線を使うわけだが、住んでいる住居からの路線との乗り換え駅が必ず渋谷になるので、どうしても避けては通れない街なのである。


いまはオフィスは東京の反対方向になってしまったので、都内に出ることも少なくなったが、それでもビフォー・コロナの時代は夜にクラシック・コンサートに行くときは、必ず渋谷にいったん出る。


だから自分のキーステーションなのだ。


首都圏の中で自分が一番シンパシーを感じるのは渋谷かもしれない。


渋谷といえば渋谷スクランブル交差点。


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我々住んでいる人間にとって、なんの変哲もないこの光景が、じつは外国人観光客のNo.1の人気スポットである、ということを知っていましたか?


自分は数年前に知ったのだけれど、へぇ~面白いなーと思いました。
なんで、こんなところを面白がるのかな?とも。


逆を言えば、我々が外国旅行に行ったときに現地人にここに行きたいー!と懇願すると、同じことを思われるのかもしれませんね。


なぜ、外国人観光客に渋谷スクランブル交差点がNo.1人気なのか?


実は外国人にとって、あれだけの大勢の人々が四方八方に歩いているにもかかわらず、体を接触することなく信号が赤に変わるまでにスムーズに行き交う光景は、とても不思議なのだそうだ。(笑)


あの光景の中に自分も入って体験してみたい!と思うのだそうである。


この交差点が外国人にとっての一大観光スポットになっていて、カメラを構えている外国人の姿を確かにとても多くみかける。


日本を訪れた外国人観光客のうち、なんと約4割が渋谷のスクランブル交差点を訪れるといわれている。数字的に見ても、渋谷のスクランブル交差点を渡る人々は、1回の青信号が瞬く間になんと3000人におよぶといわれていて、もちろん時間帯によって数は変わるが、3000人収容のイベントホールなどを連想すると、それがかなりの規模であることがわかる。


しかも、それだけの人が一斉に動いているわけだから、見慣れた日本人にとっては驚きの光景ではないにしろ、外国人にとってはアメイジング!ということになるのだろう。(爆笑)


そして、1日に換算すると渋谷のスクランブル交差点を行き交う人の数は、30万~50万人になるのだそう。そんな巨大な交差点を誰に頼るでもなく、ぶつからず、交差点を渡り歩くことができるのは日本人ならではの「譲り合いの精神」に基づく「高等テクニック」と思われているらしいのだ。(笑)


ここまで多くの人々が軽やかかつスムーズにスクランブル交差点を渡りきることができるわけだから、日本がスクランブル交差点を生み出したと思っても不思議ではあるまい。


ところが、スクランブル交差点を初めて生み出したのは「カナダ」「アメリカ」なのである。


しかし、まさかカナダ人やアメリカ人も、ここまで巨大な交差点ができるとは思ってもみなかったというのが本当のところのようだ。(笑)


まさかの元祖超えというところであろうか?


上の写真は、今日自分が撮影してきた写真だけれど、この交差点をもっと楽しむ方法があるらしい。


失敗した。


このネット記事を外出前に読んでおけば、自分の撮影ができたのだが・・・。


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外国人観光客を案内する機会があったら、おすすめしたいスポットがある。
それは渋谷駅と渋谷マークシティをつなぐ「連絡通路」。


人々が行き交う全体像を撮るには、高い位置から撮影するのがおすすめであるが、マークシティをつなぐ連絡通路なら、俯瞰的に撮影できるはず! 何より、通行者の邪魔にもならず安全を確保できる。


また、外国人観光客が楽しみにしているのが「雨」の日らしい。その理由は、高い位置から見ると交差点上に色とりどりの傘の花が開き、さらに迫力のある風景が撮れるから。


せっかくの観光地めぐりが雨だと残念がるケースも多いが、スクランブル交差点にいたっては特別のようである。


スクランブル交差点を熱心に撮影している外国人の多くが、混雑している場所でも秩序を保って動くことができることに、とても感心するという。


私たちは普段あまり意識していないことかもしれないが、日本人として大事にしたい風習でもある。


情報・写真引用元:なぜ、渋谷スクランブル交差点は外国人に人気?





渋谷といえば、自分の世代は、なんといってもHMV渋谷。


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当時の渋谷の文化カルチャー発信の地であった「HMV渋谷」。


いままでの自分のオーディオライフを語る上で、このHMV渋谷の存在はとてつもなく大きかった。自分の青春はすべてここに詰め込まれていた。


忘れたくても忘れられない。


とにかく長時間入り浸っている訳で、いろいろ物色していろいろなCDを発見するのが楽しかった。そのときの給料の大半をCD購入につぎ込んでいたかもしれない。あまりに長時間入り浸っているので、終いには、店員さんから「あのぉぉ、もしお買いにならないのであれば.....」とか言われる始末であった。(笑)


いまでこそフィジカルCDをネットで購入するということは、当たり前の行為だけれど、それを当時1990年代ではじめて体験したのがHMVのオンラインショップだった。あのピンクのロゴがHMVらしくていいですね。


画期的で超驚いた。ネットでCDが買えるとは!EC(E-Commerce)の始まりって興奮していた。


そんなHMV渋谷も閉店して、渋谷モディとして再出発したけれど、もう時代のせいか、あの頃のような旗艦型CDショップではなく、なんとなくなんでもありのインテリアショップのような佇まいである。


いまはもうネットの時代だから、CDショップ自体衰退の感じだけれど、いまCDショップと言えば断然タワレコでしょう。


先日タワレコ渋谷店に入ったけれど、素晴らしい規模に驚き。自分は年寄りだから、あのようにCDがいっぱい棚にディプレイされているとすごい興奮します。あの頃はいい時代だったなーという感じで。


やっぱりあ-じゃないと物欲を刺激しませんよね。


でもいまCDをネットで買うときはどうしてもやっぱりHMVなんですよね。GUIというのはやっぱり慣れというのがあって、自分はHMVのUIが一番自分に馴染んでいて、どうしてもHMVで買ってしまう。


HMV、細々とだろうけれど、これからも頑張ってほしいです。


HMV渋谷といえば、あそこにサテライトスタジオというのが設置されているのも特徴だった。当時就職浪人していた2006年当時、J-WaveでGROOVELINE(ピストン西沢&秀島史香)という番組をよく聴いていた。


午後4時半~午後8時の番組で、そのとき毎日いつも思ったのは、「オレはみんながオフィスで働いているこんな時間帯にラジオ聴いていていいのだろうか?」ということだった。(笑)


毎日、いつもこの想いに悩まされていた。就職浪人も精神的につらいもんなんです。


このGROOVELINEはじつはこのHMV渋谷のサテライトスタジオで公開生放送をしていたのだ。そのスタジオはガラス張りでその収録模様を誰もが見れるようになっている仕掛け。


ピストンさんのあのアクロバティックなDJの皿回しプレイ(MIX MACHINE)をぜひ直に見てみたくて、よくこのHMV渋谷のサテライトスタジオに見に行ったもんでした。あの次々と全然タイプの違う曲をつなげていくあの神業、どうやっているんだろう?


じかに拝見した時はそりゃ驚きでした。


番組は、清純な秀島さんをピストンさんがイジるという進行で本当に楽しかったです。


もう聴かなくなって久しいけれど、まだピストンさん1人でやっているみたい。久しぶりにradikoで聴いてみようか?


HMV渋谷は、本当に自分の青春のシンボルでした。



渋谷といえばオーチャードホールも自分にとって馴染み深い。


最近でこそ、クラシックのコンサートで行くことが大半なのだけれど、自分が渋谷オーチャードホールでのコンサートというと、どうしてもジャズシンガーの綾戸智絵さんのコンサートが圧倒的な想い出。(最近は改名されていて、綾戸智恵さん。絵→恵への改名ですね。)


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ジャズシンガーの実演の経験は、ケイコ・リーさんとakikoさんが2本柱で、それこそ有名なライブ・レストランを次々と梯子して制覇し、さらに数年にわたって、湯水のようにお金をつぎ込んでいた時代。


そんな中で綾戸智絵さんのコンサートは、なぜかこの渋谷オーチャードホールが圧倒的な回数で、ここ以外に記憶がない。かなりの回数、綾戸さんのコンサートに足を運びました。


あのちょっとしわがれ声に独特の味があって、それでジャスのスタンダードナンバーを歌うと非常に個性があって自分はかなり大ファンでした。演歌でいうところのこぶしのような持ち味があって、一種独特の綾戸節は相当魅力的。


コンサートには必ずMCが入るのですが、あのようにとても明るくて人を笑わせるのが得意な方なので、コンサートは常に笑いに包まれている明るい進行。カッコいい路線とはちょっと違いますね。人間の温かみを感じるジャスコンサートという感じでしょうか?


歌、そしてMCと合わせて、最高のショー&エンターテイメントではなかったか、と思います。


ケイコ・リーさんやakikoさんとはまたちょっと違うタイプのジャズシンガーで、それを自分の中のライブラリーとして楽しんでいたところがあります。


結構、これで、ジャズシンガー綾戸智絵に嵌ってしまい、かなりCDを買いまくりました。(当時はSACDでも出してくれました。)綾戸さんはその後、お母さんの介護で一時期引退という感じでしたが、最近はどうなのでしょう?そのお母さん介護のときまではフォローして近況を知っていたのですが。。。


また復活されコンサートを開催されるようでしたら、ぜひまた通ってみたいです。



渋谷といえばNHKも絶対忘れることができないだろう。


ゴローさんとの出会いで、NHKが急に身近な存在になり、それまで以上にN響のコンサートに通うようになった。NHKホール通いましたよー。人々は音響うんたら、いいますが、いいじゃないですか、あのホールで自分は数知れないクラシック体験をしましたから。


N響定期公演でゴローさんとたびたび待ち合わせしたこともいい想い出です。ソリストがリサさまで、それがリサさま初体験でその後体験していないです。いまでこそ、リサさまは大アーティストですが、その頃は、まだこれからで、ゴローさんは、リサ・バティアシュヴィリは今後必ず来るアーティストだよ。絶対マークしとくんだよ、と熱く語ってくれた。N響のコンサートには、それこそいろいろなソリスト、N響の公演を体験できて、いい想い出。


また復活したいです。


渋谷駅からNHKホールに行く道順が懐かしいです。またあの道順を歩きたい。
コロナなんてどこかいっちまえ。



以上書いてきただけでは、とても収まりきらない、まだまだ書き足りない想い出がいっぱいある渋谷。


渋谷LOVEである。


そんな大切な想い出たちとけっして一歩も後を譲らないだけの価値がある想い出が、渋谷駅にある駅そば処の「本家しぶそば」。


延々、渋谷愛を書き続けてきましたが、結局この日記で書きたかったことは、この「本家しぶそば」のことだったのでした。(笑)


いままでのは序章にすぎません。


東横線を降りてきて、JR線改札のところをすぎて階段を下りて行ったところに渋谷の駅そば処「本家しぶそば」がある。


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ここがついに駅周辺再開発の理由により40年の歴史に幕を降ろすという。


OH MY GOD !


TwitterなどのSNSからみんな悲鳴の嵐が上がっていた。
みんな渋谷駅といえば、ここの駅そばなんだよね。


誰もが知っている、そして誰もがそこにあって当たり前のずっとやっていたお店。


自分が就職で上京した1987年から現在の33年間、ずっと渋谷駅のそこにあり続けた駅そば屋さん。もう数えきれないくらいお世話になりました。


なにせ、前職の通勤経路で渋谷は乗り換え駅なので、もうしょっちゅう小腹がすいたら、ふいっと寄るその気軽さ。上につらつらと書いてきた想い出イヴェントが終わった後、東横線で帰る前に、このそば屋さんでちょっとの腹ごしらえ。


そんな「本家しぶそば」が閉店してしまう。
悲しすぎるー。


そういうことで、今日ちょっとお別れに最後の晩餐会をやってきました。


閉店のお知らせ


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メニューは不動の黄金メニュー


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この「本家しぶそば」の隣には、昔旅行会社JTBが入っていたんですよね。
自分はいつもここのJTBで北海道の帰省のチケットを買っていたのでした。


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それがいまや東急フードショーへの入り口みたいな通路になっていました。まぁ、JTBがあったころは相当昔の話だからね。もうその頃から「本家しぶそば」がそこにあったということです。


じつにひさしぶりの店内。


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ここはこのご時世に自動販売機というのがない。
レジで食券を買う。するとレジの店員さんがマイクで調理場にメニューを伝言。

そうすると自分の席に着くや否や即座に着丼。
驚くべき速さである。これがここの売りなのである。


海老天そばをいただく。


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あっさりと瞬殺で終わってしまう。
最後の晩餐にしてはあっけなく。
でも美味しゅうございました。


40年間ほんとうにご苦労様でした。


また都市開発後の計画で再会できたらうれしゅうございます。

そんな溢れんばかりの渋谷愛を抱きつつ、最後の一杯を味わってきました。


ご馳走様でした。











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ムーミンバレーパーク [雑感]

自分のHN(Handle Name)であるノンノンは、このムーミンから来ている。


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ムーミンの彼女のことをノンノンと言った。
これは自分の小学生のときのあだ名だった。
本名の性の名前からノンノンとみんなから言われていた。


SNSをやるときにHNをどうしようか悩んだが、この小学生のときのあだ名ノンノンにすることにしたのだ。


ただ、ノンノンというのは、これは自分が小学生のときの名前で、その後いろいろ経過を得て、フローレンになったり、いまはスノークのお嬢さんというのだそうだ。


時代を感じますね。自分が小学生のときは、間違いなくムーミンの彼女は絶対ノンノンだった。ノンノンからフローレンに改名した理由は、ノンノンというのは、non-nonということで否定語が2つ続くのはよくないという理由だからだった。


そんな2018年のある日のこと、自分の通勤路で、会社からの帰路、東横線の乗り換え駅で19:30頃に自分の前を必ず通ってその駅に停車する電車があるのだ。


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それがこの飯能行きの電車。


自分が階段から降りてきてホームに降り立つときに、もう毎日、毎回と言っていいほどそのタイミングで、必ずこの飯能行き電車が入ってきて停まるのだ。


飯能なんて珍しい名前でどこにある街なのだろう?くらいだったが、とにかく、毎日、毎時間決まった時間に必ず自分の目の前に遭遇する電車なので、否が応でも脳裏に刻み込まれてしまった。


そんな現象が起き始めてから、1か月後のこと、埼玉県飯能市にムーミンバレーパークが2019年の春にグランドオープンするというニュースが飛び込んできた!


そういうことだったのか!(笑)


飯能のムーミンバレーパークがオレを呼んでいるんだな、とすぐにピンと来て、これはぜひ行かねばなるまい、と決意を新たにした。


なかなか行く機会を捉えることができず、結局1年も経ってしまったが、一昨日2020年8月9日、この日はムーミンの原作者、トーベ・ヤンソンの誕生日にあたり、この日をムーミンの日としており、16回目、75周年のアニバーサリーな日となり、その記念日に訪れることができた。


普段ムーミンバレーパークのことはまったく頭から飛んでいたのだけれど、その日の朝ベッドの中でスマホを眺めていたら、今日はムーミンの日ということを知り、即座に決断。


よしこれから飯能に行こう!


即決である。

だから計画的でもないし、思いつきで決断したのである。


ここでムーミンのことをちょっとおさらいしてみよう。


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ムーミンは、スウェーデン語系フィンランド人のトーベ・ヤンソン(1914—2001)によって生み出された。小説、コミックス、絵本として描かれ、それをもとにたくさんのアニメ作品、キャラクターグッズ、スポットが作られて、いまも世界中で愛されている。



こちらが原作者のトーベ・ヤンソン。


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ムーミンの作者であるトーベ・ヤンソンは、1914年、彫刻家と商業画家の娘としてフィンランドの首都ヘルシンキに誕生。幼い頃から才能を発揮し、画家、イラストレーターとしても活躍。1945年に童話「小さなトロールと大きな洪水」を発表し、ムーミンをこの世に送り出した。2001年に世を去るまで、精力的に創作活動を続け、ムーミン以外の大人向けの小説、フレスコ画など、ジャンルにとらわれない多くの作品を残している。



1945年、長かった戦争はようやく終わった。戦後の混乱の中、後に世界を席巻するムーミンシリーズの第一作「小さなトロールと大きな洪水」は、粗末な装丁でひっそりと出版された。ムーミントロールの母子が、失踪してしまった父を捜す道のりを描いた物語である。表紙を入れても48ページしかない小冊子で、本屋ではなく駅の売店や新聞スタンドに並べられたという。この第一作は商業的には決して成功とはいえず、それどころかわずかな部数で絶版となったきり、以後トーベ自身の意向によって1991年まで再版されず「幻の作品」となるのだが、幼い頃から絵を書くことと同じくらいお話を作ることが好きだったトーベは、画業の傍らこつこつと執筆を続け、次々に続編を発表していったのだった。


1948年の第三作「たのしいムーミン一家」は、ついに母国フィンランドと隣国スウェーデンで大きな評判をとった。ただそれでもそれが英訳され、児童文学王国イギリスで出版されたのは、いくつもの偶然に助けられてのことであった。ところがこの北欧の小国からきた奇妙ないきものたちのお話は、たちまちのうちに目の肥えたイギリスの読書人たちの心を掴み、思いがけない大ヒットとなったのだった。


さらにそれをきっかけとして1954年に始まった、当時世界最大の発行部数を誇ったロンドンの夕刊紙 「イブニングニュース」での漫画連載が、ムーミンの人気を決定づけた。イギリスにとどまらず、その年のうちに早くもスウェーデン、デンマーク、そして母国フィンランドの新聞に、さらに最盛期には40カ国、120紙に転載されたほどであった。漫画で火がついたムーミンの人気は、すぐにオリジナルの児童文学シリーズも及んだ。次々に各国語に翻訳され、イギリスばかりでなくヨーロッパ中で人気と同時に高い評価を獲得している。トーベは児童文学作家としての国際的な名声を不動のものにしたのであった。


(以上、ムーミン公式HP 「トーベ・ヤンソンについて」からの抜粋。)



日本では1990年にアニメシリーズ「楽しいムーミン一家」(テレビ東京系)放送開始。「楽しいムーミン一家 冒険日記」を含む104話からなり、世界60カ国で繰り返し放送され、人気を博した。


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1993年にアニメ「楽しいムーミン一家」の設定に基づいて作られたテーマパーク、ムーミンワールドがフィンランドのナーンタリにオープン。


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これがムーミン・キャラクターの関係図。


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(c)ムーミン公式HP


主人公はムーミントロールである。ムーミンパパ、ムーミンママ、ノンノンいやスノークのおじょうさん、そしてスナプキン、ミイもうすっかりお馴染みですね。ここでスノークのおじょうさん(ノンノン)についてさらに詳しい説明。


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(c)ムーミン公式HP



1993年にテーマパーク、ムーミンワールドがフィンランドのナーンタリにオープンしたのだが、それの日本版を作りたいというのが、この埼玉県飯能市にできたムーミンバレーパークのようである。


なぜ埼玉県飯能市なのか、は知る人ぞ知るというところだが、自分は最初に埼玉県にそのようなものを作って、果たして集客できるのか、採算とれるのか、など結構心配したのだけれど、一昨日体験してみて、実際行ってみると、もうすごい人、人、人という感じで大繁盛していた。お子さんを連れた家族連れが多かったようですね。


埼玉県飯能市というのは、池袋から西武池袋線で大体1時間くらい。
許容範囲内である。


飯能駅で下車すると、改札口を出て北口から1番乗り場のバスに乗って大体10分くらいのところにある。ムーミンバレーパークは、メッツア、メッツアビレッジにある。だからバス行きはメッツア行き。人気なので、かなりの本数出ています。


メッツアビレッジというのは湖を取り囲んだいろいろ施設があるテーマパークのようなところで、その中の一角がムーミンバレーパークなのである。ムーミンバレーパークをこの埼玉県飯能市に持ってきた理由は、自分はこの湖を中心とした風光明媚で絶景な観光地であるというところがポイントなのではないかと確信した。あのムーミン谷の世界をリアル現世に実現するには、このような自然豊かな美しい場所が前提になければならない。これは都心では絶対無理なことである。都心から1時間程度で通える地の利とこの自然の美しさの両方を兼ね備えているという点でこの飯能市が候補になったのではないだろうか。自分はそう確信するのである。


バスで到着停留所メッツアで下車して、いよいよメッツアビレッジに入園。

そうすると”ムーミン谷とアンブレラ”と題してこのようなお出迎え。
素敵ですね。


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この日はかなりの猛暑で、もうこんな風景がとても自然でした。


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ゲートでお出迎え。
今年で開園1周年。1年経過してようやく来ることができました。
ここでみなさん記念撮影していました。


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ウェルカムゲート

「本」のゲートをくぐりぬけ、ムーミンの物語の世界に期待を膨らませながらムーミン谷へ!


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ムーミングッズを売っているショップ。

もうムーミンファンには堪らないでしょうね。


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北欧雑貨を売っている小店や、北欧カフェ、はたまたスターバックスに至るまで、飽きることないです。


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とにかくメッツアビレッジなので、湖を取り囲んだテーマパークなんですよね。
だから湖をバックにとても風光明媚な景色があたりを取り囲みます。


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こんな野外ジャングル遊園地のようなところもあって子供たちには大人気!


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そうしていよいよムーミンバレーパーク。


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原作を再現したムーミン一家の住むムーミン屋敷。


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この中に入りたかったのですが、普通の入場券ですと、地下と1階は観覧可能なのですが、2階や3階は特別チケット、ワンデイカード(1日券)でないと入れないようで、急いでチケット売り場に戻り、購入しようと思ったのですが、1日券はすでに売り切れ。コロナ騒動でいっぺんに入れないので、人数制限しているようです。


う~ん、やっぱり朝の思いつきで突然の行動だったので、仕方がないですね。やはりこの2階、3階はとても大人気なので、事前にネットで予約しておくことをお勧めします。(いい写真スポットなのに・・・)


じゃあ、その普通券で拝観可能な地下と1階だけお見せします。


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ここがエンマの劇場。
ムーミンとその仲間たちによるライブエンターテインメントを楽しめる。


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で、これ、楽しいか?(笑)・・・えぇぇ、全然最高ですが、なにか?(笑)


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いま世間では今年は「特別な夏」ですが、庶民の方々はどこ吹く風です。(笑)



ムーミンといっしょに記念写真撮影できるようなサービスもあります。


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ここにもムーミングッズを売っているショップがあります。

もう中はムーミンだらけ。
ファンには堪らないでしょうね。

でもかなり密です。(笑)


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湖沿いをずっと歩いていくと、ムーミン一家で移住した灯台が見えてきます。


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湖を見ながら、その湖畔を歩くのは本当に気持ちがいいですし、目の保養になりますね。でもこの日は猛暑で汗だく。水分をこまめに取って、もうこれ以上歩くのは大変ということで、ここらで元のエントランス付近に戻ることにしました。結局この日だけで1万4千歩も歩いたことになります。


エントランスに戻って、大きなレジャー施設。


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いろいろなグッズやカフェ、飲食店がテナントとして中に入っています。


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朝からなにも食べていなかったので、急いで腹ごしらえ。この暑いのによせばいいのに、熱いラーメンを食べることに。柚胡椒塩ラーメンというのがとてもあっさり系で美味しそうだったので、それにしたのです。


でも店内で食べるとこんな感じで、密で飛沫が怖かったので、思わずテラス席をチョイス。


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湖が一望できる絶景のテラス席で遅めのランチ。


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中よりいいと思ったら、外は灼熱の太陽で地獄。
オマケになぜか熱いラーメンで、かなり生き地獄でした。(笑)
やっぱりクーラーがんがん効いてる中がよかったかな。

セミが凄い泣いています。夏だなぁと実感。


こんな感じで埼玉県飯能市のムーミンバレーパークを体験できました。
なかなか素晴らしかったです。


唯一の後悔は、突然思いつきで行ったので、ムーミン屋敷の2階、3階を写真に収めれなかったことですね。また次回。


この日8月9日は原作者のトーベ・ヤンソンの誕生日でムーミンの日に訪問できたのがよかったです。この1週間8月16日まで、ムーミンの日ということで、アニバーサリー・イヴェントのようなので、ぜひ訪問されてはいかがでしょうか?


ムーミン誕生75周年記念グッズなど、たくさんのサプライズもあります。












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安否確認会 [グルメ]

第二波来ているけれど、特徴は大半が20歳代~30歳代でほとんど無症状というから、やはり検査数が増えているのと検査精度が上がっているだけで、いままであぶりだされなかった人たちが表面化されているだけじゃないの?とあくまで現実逃避、楽観主義で。(笑)(こんなこと書くと怒る方もいらっしゃるので。)


でもやはり気を付けましょう。不要不急の外出も控えて。


じつは、この第二波が来る前、6月頃に自分がいままで日記で取り上げてきた飲食店のお店たちがはたして、このコロナ禍を生き延びているのか、を1軒1軒訪問して確認する”安否確認会”をおこなってきたのだ。


まだまだ完遂とは行かず、途中なのだが、ちょっとまたこれ以上続けるのは、難しそうだから、とりあえずこれで一丁上がりとしたい。


自分のグルメ日記で取り上げてきたお店たち。


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全部で22軒あるんだね。
ノンノン流らしく、いかにも自分好みのお店たちで気に入っています。
本当に想い出一杯で、愛すべきお店たちである。

みなさんもあ~読んだことある、というお店たちばかりであろう。


それでは1軒づつ報告していこう。
実際訪問できたのは、黄色に塗ったお店である。


その際、感染拡大防止対策としてどんな対策を取られていたか、も報告しよう。
あっでも別に自粛警察をするつもりはまったくありません。(笑)
ただ単にあ~やっぱりやっているんだな~と気づいたことをメンションするだけです。


結論からすると、訪問したお店は、全店舗とも元気、生き延びていました。
本当によかった。

自分の愛すべきお店なので、本当にうれしかったです。
これからも頑張ってほしい。
またお世話になります。



●京都銀閣寺ますたに 2020/6/20


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自分が毎度通っているラーメン屋さん。1996年あたりから通っているからもう24年通い続けている常連さん。京都ラーメンの代表格で背脂ちゃちゃちゃという感じで、あっさり系京都ラーメンとは一線画す感じだ。京都の本店にも行ったことがある。そこから暖簾分けしてもらっているいるお店なのだ。日本橋にある。昔は田町にもあったんだけれど、閉店になっていた。


とにかく間隔があくと無性にまた食べたくなる中毒性のあるラーメン。
なんだかんだ言って、ある一定間隔あくと必ず通っているラーメン屋さんなのだ。
愛すべきお店。


ここは緊急事態宣言とか、外出自粛期間のときも我慢できず、ちょくちょく目を盗んで通っていて、そのときから閉店時間は早いのだろうけれど、ふつうのときと一切変わらず営業していたので、潰れているということはないだろうと安心していた。


やっぱり常連さんが守ってくれたんだろうね。

感染防止対策はあまりやっていないみたいでした。(笑)



●すみれ横浜店 2020/6/6


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もうみなさんもご存じのように、北海道味噌ラーメンといえば、自分は純連・すみれ。純連・すみれの味噌ラーメンも1996年あたりから通い続けているからもう24年のベテラン。


まさに自分のソウルフード。これも日記で散々熱く語ってきたけれど、新横浜ラーメン博物館に入っていたすみれが卒業と言うことで、純連はもう東京ではやっていないので、純すみ系ラーメンがいっさい東京首都圏で食べれないという緊急事態になった。でも、すみれの村中伸宜社長がすみれが育った横浜に恩返ししたいということで、横浜野毛の街にすみれ横浜店を開店した。


いま東京首都圏で唯一食べられる純すみ系ラーメンだ。

ここもやっぱり間隔があくとまた無性に食べたくなるラーメン屋さん。
結構通い詰めている。ここも元気だった。


すみれ横浜店の味噌ラーメンは、自分がかつて愛したあのすみれの味噌ラーメンとはちょっと違うというか、こんなんじゃないと思っていたところがあった。北海道の本家本元では、そう!間違いないこのスープの味!という安心があったから、すみれ横浜店もうちょっとなんとかならないかな、と思っていた。


あの強烈なパンチ力が足りないのだ。


でもひさしぶりに行ってみたら、ちょっと味が進化していたのだ。あの濃厚なパンチの効いた味噌味に近づいていた感じがした。おぉぉ~まさに自分が昔食べていたあの味に近づいたよ、という感じで嬉しかった。


ここも感染防止対策はあまり気が付きませんでした。(笑)



●骨付き鶏「一鶴」横浜店  2020/6/14


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このお店は、もともと四国オーディオオフ会で、香川県のオーディオ友人を訪問した時に、紹介してもらって初めて知ったお店。香川県丸亀市に本店がある香川県のソウルフード。日テレの秘密のケンミンショーにも登場したことがある。


横浜にも分店があることを知って、それ以来通い詰めているのだ。2009年から通っているから11年のベテラン。ここの骨付き鶏も間隔があくと、もう無性に食べたくなる中毒性がありますね。


ご覧のように、ほんとうにからっと焼かれていて、塩、コショウだけで味付けされていてスパイシーな味付けでアツアツのところをがぶっと遠慮なくかぶりつくところにウマさがあります。本当に病みつきになる味。


ひなどりとおやどりがあります。初心者には柔らかいひなどりがいいですが、慣れてくるとおやどりのあの固いほうがやみつきになります。


横浜店には、本場香川県丸亀本店にはない、とり茶漬けというメニューがあって、自分はこれが大のお気に入り。本当に美味しいです。


ここの感染防止対策は、入り口で検温、手の消毒があって、昔は箸が各テーブルにたくさんあったのが、いまはお客にひとつだけ配られるようになっていました。


コロナ禍に負けず元気でやっていました。



●梅が丘美登利寿司  2020/6/21


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ここは、まさに就職で東京に上京した時からお世話になっている自分の故郷のようなお店。もう33年のベテラン。途中ブランクが空きましたが、いまやクリスマスはここのお寿司を食べて1年間ご苦労様というご苦労さん会を開くようにしています。


お寿司屋さんは東京には名店含め数えきれないくらいありますが、やっぱりここのお寿司は本当に安くて食べ応えがあって美味しい。ビジュアル的にも素晴らしいですね。


この梅が丘店はその美登利寿司の総本山のお店。
本当にいつ来ても大行列必死の大人気店です。
外出自粛期間でもこの有様ですから(笑)。


いつもは板さんおまかせにぎりを頼むのですが、もうこのメニューがなくなっていました。ショック。代わりに季節の板さんおまかせにぎりになっていました。ボリュームで圧倒する前作と比べて、少し上品さが加わりましたかね。


お寿司は、なにも言わないと大体2貫づつやってきますが、上のような写真を撮りたいので、”大皿に一緒盛り”、”大皿に全部乗せ”でお願いします、という特別オーダーをします。(笑)


ここの感染拡大防止策は、手の消毒、席間隔をあける(でも見た目いつものふつうと変わらず)でした。



●東大正門前喫茶ルオー  2020/6/27


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ここは常連というより最近知ったお店です。「喫茶ルオーのカレーはウマい!」という噂とともにそのカレーを堪能してみたく訪問したのでした。この喫茶ルオーはまさに東大本郷キャンパスの東大正門前(赤門とは違う)にあって、東大生の心のふるさとのような喫茶店なのです。


学生運動時代からずっと東大生のたまり場となってきた。有名人も通い詰めていた。この喫茶店の名物がこのセイロン風カレー。ちょっと結構スパイシーだけれど、本当に美味しい。


コロナ禍ではこういう個人経営のお店が一番危ないと思われたのですが、元気そうでなりよりでした。


喫茶ルオー、そしてセイロン風カレーの噂をかぎつけて、今年の2月に初体験で訪問させてもらったのですが、あとで知ったこと。FB友人の方が、じつはこの喫茶ルオーの初代オーナーで、そしてその奥様がこのセイロン風カレーを考案した方であるということ。その方の投稿を見て、もうびっくり!(笑)自分の周りには、やっぱりこのような運命の赤糸で結ばれているような絆があるんだな、と思いました。もちろん自分は全然そのことを知らない訳です。


感染拡大防止対策は、テーブルの上にあったナプキンがなくなっていたことでしょうか?



●麻布十番 福島屋   2020/6/21


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いったいどれだけ煮込んだらこのコクと色が出るんだろう?(笑)

中まで真っ黒。
これには思わず反応してしまいます。

これは本当にウマい!
甘くてじつに濃厚な八丁味噌の味。中まで真っ黒に染みこんでいる。

白いご飯がどんどんススムくん、です。


グルメなFB友人の投稿に思いっきり反応してしまい、知ったお店ですが、本当にこの味噌おでん定食が食べたくて何回も通い詰めました。


なんか前回にも増して真っ黒。(笑)さらに前回にも増してトロミが加わり濃厚になっていました。


ここも個人経営のお店だと思いますが、元気そうでなりによりでした。


感染防止対策はとくにやっていないようでした。



●鎌倉麻婆豆腐かかん 2020/6/8


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このお店は、いまから3年前の2017年に自分が猛烈な鎌倉マイブームに陥ってしまったときに、鎌倉で発見した麻婆豆腐専門店です。麻婆豆腐はもう大好物でいろいろなお店を堪能しましたが、ここのお店の麻婆豆腐はちょっといままで体験したことのない美味しさなのです。


甘いんですよね。麻婆豆腐といったら、辛い美味しさだと思うのですが、ここは甘いんですよね。独特の味、香辛料を使っている感じでこ~れはちょっといままで食べたことのない美味しさだな、ということですっかり嵌ってしまいました。


鎌倉に行ったときは、必ずここに立ち寄りこの麻婆豆腐をいただきます。


本当に2017年はすごい鎌倉マイブームでしたから、本当にこの麻婆豆腐をよく食べました。またこれを食べたいために、そのためだけに鎌倉に行ったこともあります。


ここも個人経営のお店でしたが、頑張って生き残っていました。
やはりここも常連さんあってのお店だと思います。
結構人気あって、いつも劇混みなのです。

感染防止対策は入り口での手消毒ですかね。



●人形町の玉ひで  2020/6/26


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言わずと知れた日本で親子丼の発祥のお店。もういつも大変な大行列で、自分の経験ではもう1時間以上並び続けてようやくありつけたときは、あまりのウマさで瞬殺で終わってしまうという(笑)・・・そういうお店です。


とにかくすごい並ぶので、毎度は行けません。それこそ2010~2013年あたりまでは結構通っていましたが、さすがにいまは元気がなくて通っていません。


この安否確認会でひさしぶりに玉ひでの親子丼を食べたいなーと思い出し、決行したのでした。さすがにコロナ外出自粛期間中もあって、いつものペースの時間帯に行ったところ、なんと自分が1番乗りでした。でも開店間際になると、やっぱりの大行列。


ひさしぶりに玉ひでの中に入ると、なんと正面相席にならないように、コロナ対策がされていました。親子丼をすくうしゃもじは1本でビニール袋に入っている。完璧な感染防止対策です。さすが名店だけあります。入口の手消毒もありました。


ひさしぶりに玉ひでの親子丼を食しましたが、いやぁ~やはりうまいな~。
なんだろう、この味。巷では絶対食べられない絶品の美味しさですね。
卵が醤油と甘さでなんとも香ばしくて本当に美味しいです。
日本一の親子丼ですね。


ここはもう確固たる常連さんががっちり守ってくれるので、コロナ禍でも大丈夫ですね。



●お台場 bills


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世界一美味しい朝食をたべさせてくれるお店 bills。


ここはやはりリコッタパンケーキが有名。本当に美味しいです。あのレオナルド・デ・カプリオが来日中に、毎日通い続けて食べたことで有名なメニューです。東京には何店舗もあるのですが自分はいつもメインのお台場のbillsに行きます。お台場に行くには、新橋からゆりかもめ線でお台場まで行きますね。このお台場billsの手前には、レインボーブリッジが眺められる絶好のロケーションにあるんですね。お台場billsは遠いけれど、やはり空いているのでいいです。都内店や横浜店は、すごい劇混みですから。


なんか店内は、広々としてすごい爽やかな雰囲気があって最高ですね。
ちょっと都内では味わえない雰囲気です。

リコッタパンケーキとノンアルビールで。


リコッタパンケーキ、ひさしぶりに食べたけれど、やっぱり美味しいなぁ。

感染防止対策は、入口で検温があったのと、席間隔を開けるということでした。



●大かまど飯 寅福 青山本店  2020/7/6


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ここはゴローさんから教えてもらったお店で、美味しいご飯を食べさせてくれるお店という和食のお店でした。とにかく美味しいご飯が売りなのです。店内にはこんな感じで大かまどでご飯を炊いているのです。


ここも1,2回通いましたが、このコロナ禍の中、元気かな~と思い再訪してみました。元気でやっていました。よかった。


やっぱり高級和食という感じがしますね。おかずの一品も特産地から取り寄せるような拘り。美味しい、絶品を堪能した感じです。


売りのご飯はお代わりし放題です。
2杯いただきました。


でもさすが高級和食だけあって、高いんですよね。(笑)
自分は和食党ですが、毎度の食事処としては高いような・・・

感染防止対策としては、このようにアクリル板を立てていました。



●ラーメン二郎〇〇〇〇店 2020/6/23


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ラーメン二郎はまさに男の世界ですね。(笑)でもこれも間隔が空くと無性に食べたくなる中毒性がありますね。若いころのようには食べられないけれど、いまも時々食べたくなり通っています。二郎は本当に都内に数えきれないほど店舗ありますが、やはり店によって全然スープの味が違いますね。その中で自分のお気に入りの味の店舗を探し出すのは結構大変です。三田のオヤジがやっている三田本店も交差点のところにあったときは本当に美味しいと思いましたが、店舗を慶応三田キャンパス側に移してから味が激変しましたね。もうあの頃の面影まったくなしで、もうがっかり。


苦労して自分のお気に入りの店舗を自宅付近で見つけ、そこに通っています。二郎はただでさえ混みますので、秘密です。(笑)


店内やラーメンの写真は絵柄的に、いままでの店舗と比較して問題ありと思いますので(笑)やめときます。


でもそんな二郎がこうやってコロナ対策をやっているのには、予想もしていなかったので、思わず笑ってしまいました。



以上安否確認会のご報告終わりです。
いやぁ全員無事で本当によかった。
やっぱり助けてくれたお客さんは常連さんなんでしょうね。

常連さんは、そのお店がなくなってしまうと本当に困るから通い続ける。
そんな絆を感じました。


残りのお店もまた感染状況が落ち着いてきたら、再開したいです。








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技術は必ず追いつきます。 [雑感]

ライブ配信否定派がいるという話をよく聴くし、彼らの言っていること一理あるし、よく理解できる。


”やっぱり臨場感、迫力、息遣いなど生演奏に敵うものはない。”


まさにその通りでしょう。
いっさい異論を挟む余地はないです。

自分もまさにその通りだと思います。
自分も生演奏第1主義だからです。

彼らが言っていることごもっともだと思っています。


でもね、技術って必ず追いつくもんなんですよ。


散々けなされていても、必ず技術の進歩で数年後には必ず追いつきます。


それは過去の歴史が証明してきている。

アイデアを出すと、そんなことできるわけないじゃん!とか、一蹴され、バカなんじゃない?とまで散々言われる。


でもその十数年後、必ずやその技術は、いまや誰もが不思議にも思わない当たり前の技術になって世に普及しているものなのです。


技術は必ず追いつきます。


いまやスマホや携帯電話なんて、誰もが当たり前に接している技術ですが、遠い昔、これは遥か彼方の夢物語と言われていたのです。


でもそのアイデアは、いまや当たり前の技術として現実のものとなっている。


技術者がアイデアを出し合うとき、こんなこと言っちゃバカにされるとか、夢物語とか臆してはいけない。


技術はかならず追いつくものだからです。


現実離れしたアイデアほど実現する可能性が強いかもしれません。


技術の世界ってそういうものなのです。


33年間会社生活をして常々そう思います。


ある技術があったとして、その現在抱えている欠点を公にあからさまに揶揄したとしましょう。間違いなく、必ずその欠点を克服してきます。


そういう世界です。


自分であからさまに揶揄した後、技術者の顔が目に浮かんできて、今に見てろ、という感じでものの見事に克服してくるのでは、とその反骨精神を怖く感じることもあります。


逆に直してほしいから、欠点を揶揄するという心理状況もあります。


技術は必ず追いつきます。


「ライブ配信は、生演奏に敵わない。」


いまは当然の理と思われるかもしれませんが、必ず将来、生演奏と比較しても変わらないくらいの臨場感、それも高額なハイエンド・デバイスでなくても普及価格帯の安価なデバイスでそれが実現可能となる日がやってくると思います。


それはそこにそういうニーズがあるからです。


そうして、生演奏に敵わないとレッテルを貼られているからです。


必ず、なにくそ、という感じで、追いついてきます。


技術の世界ってそういう世界なのです。


果てがない永遠のかけっこみたいなところがあります。


技術はかならず追いつくものなのです。




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そんなに危機を煽らなくても。 [雑感]

コロナ禍により、3月の緊急事態宣言にて休業要請などで最大の危機にさらされた飲食業界。補償なき休業要請。。。など波乱含みだったが、ここにきてようやく再開ムード。特に小さな個人経営などのお店はもろに影響を受け、そのまま倒産してしまうところも多かった。


諸悪の根源とも揶揄されたライブハウスなんかも同様。もうどうなるの?という感じ。自分にとっては名古屋ブルーノートが倒産してしまったのは最大のショックだった。これからも日本だけでなく、世界中でまさかここが倒産?という話は続くだろう。


最近になって、東京はまた第二波とも思われる急激な感染拡大。
これに伴い、緊急事態宣言をもう一度という声もあるけど、自分はそうかな?と直感的だけど思う。


3月のときは、日本だけでなく、世界が初めて遭遇する危機でもあって、ロックダウン(都市封鎖)とか、緊急事態宣言とかも必然の流れだったけれど、いまはそうなのか、というとあの頃とは状況が違うと思う。


あの頃のようにまた経済を止めることはもう無理だろう。
また休業要請をすることもまず無理だろう。

もしまたやることになったら、もう経済も致命的に壊滅状態になるだろう。


クラシック業界だって、せっかく有観客でコンサートをできるくらい立ち直って復活してきているのに、それをまた一斉休業自粛してください、と言っているようなものだ。


もうこの復活ムードを元に戻すなんて、時の流れからして無理である。
コロナの素性がわからなかった3月の頃とは違い、ある程度わかってきている今は、もうこれは仕方がないと思って、”ウィズコロナ”としてどうやって経済回すのといっしょに混在させるか、を模索するときなのだろう。


休業などの自粛要請をすると補償の問題が必ず上がる。
もう政府にも東京都にもそんなにお金はないと思われる。(笑)


東京都は財政の貯蓄の9割はすでに取り崩し済みと言われていて、そこに来て、また休業要請とかするとそんな補償を出すのは無理なのでは?


すべてにおいて3月の頃とは状況が違いますね。


国は、よく大規模な兆単位の予算を組んでいるが、どこからその財源を持ってきているのか?自分がいつも抱く疑念である。それ?どこから持ってきているの?ってな感じで。


年初の予算作成時に、必ず緊急事態発生時の予算という枠を確保していて、そこから持ってきているのか、あるいは本当にそれだけでは賄えない予想外の緊急事態ということで、国債を発行しているのか?


自分はここら辺は専門ではないので、素人考えだけれど、国債は国の借金である。国債を発行し続けると、当然世の中に副作用が出てくるわけで、インフレになってしまう。(インフレとは、モノの値段が全体的に上がり、お金の価値が下がること。)


日銀が勝手にお金を発行することは出来ない。政府が国債をどんどん刷って、それを全部直接日銀に引き受けさせれば、日銀は結果的にお札をどんどん発行することが出来る。太平洋戦争中、実際にそれをしたことによって、日本経済は大変なインフレになってしまった。


だから今も日銀は政府が発行した国債をすぐ引き受けるということはやっていない。政府が国債を発行すると、いったんは一般の銀行や私たち個人が買う。日銀は、一般の銀行が買った国債を買い上げて、同じだけのお金を発行する。なんだか複雑だが、こうすることで政府が国債を発行するのを抑えて、お金の流れをコントロールしているのだそうだ。


そんな複雑なコントロールをしていているのに、国債を発行し続けるのはなかなかリスキーなことであると思うのだ。


いつも政府がかつてない大規模な緊急対策予算を組みました、と言うが、その財源どこから持ってきているの?と本当にいつも不思議に思うのだ。


そんなお金のやりくりで大変なのに、また全国一斉に休業要請なんて無理だと思われるのだ。


復旧の流れにあるものをまた止めるのは、なかなか勇気のいることである。

もういまや政府も東京都もそんなお金がないと思われる。

そんな状況の中で、日本中の経済をまた止めることは、絶対やらないと思われる。


コロナがこんなウィルスで、どのように感染するかがわかったところで、いまは経済と一緒にどう”ウィズコロナ”するのかをやるのが賢明なのか、と思うのである。


先日、主治医の先生と雑談したのだけれど、日本人にはじつは集団免疫がすでにできている、という説を教えていただきました。(その先生も、他の先生から聞いた話らしいですが。)


じゃないと、他の世界中の国民と比較して、日本人のこの致死率の低さが解明できないとのこと。いま、コロナは散々恐怖がられているけれど、これからのウィズコロナの時代、コロナはインフルエンザと同程度の認識、扱いになるのでは?とか。(笑)


インフルエンザは毎年のように、感染し、体内に抗体ができ、そして1年ほどで抗体が消滅して、その翌年にまた感染し、また同じことを繰り返す、いまや我々はインフルエンザにあまり恐怖を抱くところか、当たり前の行事となってしまった。


そんな感じになるのでは?(笑)


いまのご時世に、こんなことを言うと、もう徹底的に同調圧力から大バッシングされるかもしれませんが、なんかいまのやたらと恐怖を煽るだけのメディア報道の在り方に自分は???と思っているので、案外こういう捉え方の方が安心できて信頼がおけるような気がします。


まぁ、コロナの場合、インフルエンザと違い感染の仕方のおかげで、それが経済ビジネスに影響を及ぼしていて、そこが厄介なのは、確かですが。。。


どんなに危険を煽っても、世の中、みんな食っていかないといけないので、営業していかないと生きていけないといけないので。だから自粛期間中でもこの有様なのです。(笑)


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じゃあどうすればいい?の問いかけには自分には導けないが、つくづく思うのは、自分が首相や都知事の立場になくてよかったと思うことだ。(笑)










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ラ・メール・プラール東京店 [グルメ]

安否確認会として、昔訪問したことのある横浜のラ・メール・プラールみなとみらい店の無事を確認をしようと思ったのが、そもそもの発端である。


でもみなとみらい店に行くなら、どうせなら日本第1号店の東京店(有楽町店)を訪問してみたいと思ったのである。


みんなに人気のモンサンミッシェル名物のふわふわオムレツ、本場のラ・メール・プラールに原点回帰してみよう。


世界遺産モンサンミッシェルは、ヨーロッパ駐在中に、アムステルダムの友人とドライブで訪問したことがある。天候がいまにも雨が降りそうなどんよりした天気で、時折小雨が降っているようなそんな天気だった。


ちょうどこんな感じの天気。


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遠い記憶によると、モンサンミッシェルの到着する前の麓の街のレストランで、ランチを取ってノルマンディ上陸について熱く語り合った記憶が。。。(笑)そしてモンサンミッシェルのあの城を徒歩で登っていくわけだが、あの城の中にも小さな小洒落たレストランがそれなりに存在するのだ。その中に入って、あのフルイ・デ・メア(海鮮の幸)を食した記憶があります。


いま思えば遠い遠い懐かしい想い出です。


もういまや海外旅行と言えば音楽が必ず絡まないと、行かないようになってしまったので、これからまたモンサンミッシェルに行く、ということもないだろうと思います。


いま思えば、そのときの唯一の後悔。それはモンサンミッシェルの名物ふわふわオムレツで有名なラ・メール・プラールの本場のお店を訪れなかったことだ。当時ボクの頭や友人の頭の中には、オムレツのことはこれぽっちもなかったね。


そんなこともあり、この日記で、ネットからの情報で、もう一度モンサンミッシェルのふわふわオムレツ、そして本場のラ・メール・プラールについて楽しんでみよう。



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フランス・ノルマンディー地方の世界遺産「モン・サン=ミッシェル」。
1888年、この地を訪れる巡礼者のためにアネット・プラール氏(プラールおばさん)が開業した宿屋から、ブランドの歴史は始まりました。


彼女は巡礼者のために素晴らしいレシピの数々を生み、栄えある女性料理人「ラ・メール・プラール」の名で呼ばれるようになったのです。


そして現在、ラ・メール・プラールのレストランは、世界中で人気に。
特に伝統を受け継いだオムレツは名物となっています。


「ラ・メール・プラール」という店名は、じつはこのオムレツを考案した女性料理人の名前から由来するものだったんですね。


この名物オムレツのはじまりは、アネット&ヴィクトール・プラール夫妻が1888年に開いたオーベルジュ「ラ・メール・プラール」。料理上手なプラールおばさんには700ものレシピがあり、後に名物となるオムレツもそのなかのひとつだったのです。


現在のように交通機関が発達していなかった当時は、潮の満ち引きで命を落とす危険もあるモンサンミッシェルへの巡礼は非常に困難なものでした。それでも何とか辿り着いた空腹の巡礼者たちのために、プラールおばさんはメイン料理を待つ間に食べられるようにと、すぐに作れておいしいオムレツを振る舞い、彼らの旅の疲れを癒したそうです。そんな温かな心遣いが込められたオムレツですから、今もモンサンミッシェルを訪れる人々に愛されているのです。


では、そのモンサンミッシェル本場のラ・メール・プラールのお店です。


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夜はこんなに素敵です。
いかにもモンサンミッシェルという小さな街の中に佇むという感じですね。


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やっぱり赤が基調のカラーなんですね。



あのオムレツはどうやって作っているの?


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卵は大きなボールに入れられて、「パン パン パン パン…」とテンポよく泡立てられています。若い男性が、立ちっぱなしで泡立てる。そして、その横で、婦人が泡だった卵を受け取り、薪の中で焼いていきます。



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ここで、登場が、柄の長~いフライパン。超強火の薪の上で、上手に距離をとって焼いていきます。最初は、バターを溶かし、強い火のところに置いていて、プツプツとなった頃合いを見て 少しだけ火から離す。そして、出来上がりつつある オムレツは、火から遠いところに置くけれども… 火からは離さない。


卵を混ぜる(男性)と オムレツを焼く(女性)は 完全分業制。


銅製のボウルでたっぷりの卵をリズミカルに泡立て、ちょうど良い状態になったところでバターを溶かしたフライパンに流し込み、炭火で焼き上げます。卵を泡立てる小気味よい音はお店の外まで聞こえ、お店の中に入れば作っているところが見学できます。ちょうどスフレのように、外はサクサク、中はふわっふわでとても軽く、フランスのいわゆるオムレツとも違う、まさに"モンサンミッシェルのオムレツ"です。できあがりは大きく膨らんでいますが、ちょっと時間を置くとシューッとしぼんでしまうので、写真を撮りたい方はスピードが肝心です。



本場のラ・メール・プラールのお店では、男性はこのように赤のポンチョみたいなものを上からかぶる感じで、女性は、赤いエプロンなんですね。そして、元祖のプラールおばさんの写真もそうでしたが、伝統のその長~い、長~い柄のフライパンで暖炉のようなところでオムレツを焼くんですね。火は薪で維持されているのです。


これがひとつの伝統のオムレツ調理スタイルですね。


それでは、その本場のラ・メール・プラールのお店の中をちょっと覗いてみましょう。
旅行者の日記の方のお写真をお借りしています。


こちらが店内です。


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案外素敵なんですね。びっくりです。オリジナルはもっと古くて質素なお店なんだと思っていました。(ある意味全世界展開しているブランチのお店の方がゴージャスなんだと。)


こちらが調理場。フライパンがいくつもぶら下がっているのは、このお店のひとつの特徴ですね。


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そして、このお店のもうひとつの特徴と言っていいのが、たくさんの絵画のコレクションが壁に飾られていることです。ここ本場では壁にはラ・メール・プラールを訪れた世界各国の著名人のポートレートやサインが飾られています。


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本場のお店では、メニューには、フランス語と英語、日本語が記載されているそう。たくさんの日本人が訪れているのでしょうね。(笑)前菜・メイン・デザートのコースで49ユーロ。(約6000円!)結構なお値段ですね。


以上が、本場のモンサンミッシェルのラ・メール・プラールと、ふわふわオムレツの由来。


情報の引用元


自遊人 個人旅行記 モン・サン・ミッシェルの名物!ラ・メール・プラールのふわふわオムレツ♪



旅のアシスト 柔らかく世界を歩いて行こう!
ラ・メール・プラール伝統のふわふわオムレツ(Mont-Saint-Michel/モン・サン=ミッシェル)



Travel Value モンサンミッシェル観光で堪能したい地元グルメ



株式会社モントワール



トラベルブック




ここからが、自分の実体験である。


フランスの世界遺産モンサンミッシェルより130年の伝統を誇る"ラ・メール・プラール"が2011年海外初出店として東京にオープンした。


なんと海外第1号店が東京店だったとは!
やはり現地モンサンミッシェルは日本人観光客が多いということなんでしょうね。


日記をひも解いてみると、自分は2013年6月に、これまたオープンになったばかりのみなとみらい店を訪問している。そのとき東京店にも行ってみたいと思ったのだけれど、そのままになっていて7年。


ようやく実現できたことになる。


東京店は、2018年6月にリニューアル・オープンしているそうだから、自分はリニューアル・オープン後の様子を体験できたことになる。


やっぱり安否確認会とはいえ、みなとみらい店を再訪するより、東京店に行くのが前向きだろう。東京店は、東京有楽町国際フォーラムの中にある。(1番端っこ)国際フォーラムなんて、TIASオーディオショーに行く時くらいしか行かないから、こんなところにラ・メール・プラールがあるなんて、夢にも思わず。


ラ・メール・プラール東京店


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創業1888年!


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やっぱり東京店はすごいな。高級感、お洒落度合いが抜群。
基調カラーの赤が思いっきり映えています。


コロナ外出自粛のときだったから、恐る恐る外出して、開店一番に乗り込んだのだ。


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いいなー。素晴らしい内装空間。
感動してしまいました。


フライパンが飾られているとか、絵画コレクションが飾られているとか、きちんとオリジナルの現地の本店の特徴は受け継がれていますね。




自分は、こちらの間に通されました。
これまたテンション上がる~!!!


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コロナ対策としては、メニューの扱いは難しいですね。いろんな人が触るので、かなり危険要因になる。でもここはこんな感じで、食事メニューとドリンクメニューは、QRコードをスマホ携帯で読み込ませて、携帯で見てね、という感じで対策していた。


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自分はあらかじめ、HPでメニューを決めていたので、その旨伝えました。


あとでマスターとも思える年配の男の店員さんから、あらかじめ決めていらっしゃるとはありがとうございます、とか言われてしまいました。(笑)


メニューは、やっぱりあらかじめ、自分でHPでじっくり考えて決めたほうがいいと思います。




前菜のスープ。(クリーム系)


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そしてふわふわオムレツ。(フォアグラ入りのリゾットも添えて)


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デザート。


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ここまでさんざん持ち上げておいて、ここに来て急に落とすのもなんなんだが、やはりこのオムレツうまいか?(笑)


2013年のみなとみらい店で初体験したときは、あまりの無味無臭にがっかりしてしまい、これがこれだけ騒がれているだけのことがあるのか?と吠えたが、7年ぶりに食すこのふわふわオムレツ・・・う~む、やはりそんなに印象が変わらず。


あっでも、みなとみらい店のより、ちょっと塩味がついていて、東京店の方がはるかに美味しかったです。


まぁ、こんな感じですな。


そんなに期待もせず、ただ東京店を体験したいのが目的だったので、そんなにショックでもなく。モンサンミッシェルのふわふわオムレツは、まぁこんなもんです。(笑)


また食べに来ることあるかな?



この日、渋谷で見た光景。


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まさにこの思いを胸に秘め、先を見通せないこれからの毎日を過ごすうえでちょっと元気をもらった気がした日であった。











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PENTATONEの新譜:アラベラ・美歩・シュタインバッハーの奏者人生としての転機 [ディスク・レビュー]

いったいいつまで続くのか、コロナ禍でちょっとした鬱スランプであったのと、最近は1日中仕事のことで頭がいっぱいで、プライベート活動、SNSどころではなかった。普段の楽しい自分の生活スタイルを崩しつつあった。


アラベラさんの新譜も6月中旬にはすでに入手していて、すでに聴き込んでいたのだが、なかなか筆が進まなかった。ようやく気分一新。取り組みたいと思う。



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ヴィヴァルディ:四季、ピアソラ:ブエノスアイレスの四季 
アラベラ・美歩・シュタインバッハー、ミュンヘン室内管弦楽団



今回の新譜は、とても有名なヴィヴェルディの四季と、ピアソラのブエノスアイレスの四季をカップリングしたアルバム。ヴィヴァルディとピアソラの曲を交互に演奏していくという試みである。


ヴィヴァルディの四季:春・夏・秋・冬は本当に有名な曲で、クラシック初級編ともいえる敷居の高さを感じないみんなから好かれている曲ではないだろうか?一方で、ピアソラのブエノスアイレスの四季は、これも有名な曲ではあるが、ポピュリズムというより、もうちょっとクセのある特定ジャンルに族するような特殊性があって、玄人好みでとても熱くなる曲である。


自分は、とくにタンゴ、ピアソラの世界が大好き。


とにかく情熱的で、あの南米の赤くて熱いパッションが弾けるような旋律は、聴いていて血が騒ぎますね。自分は、このタンゴ、そしてさらにその発展形のピアソラのアルゼンチンものの音楽が大好きで、南米アルゼンチン独特の民族色の強い旋律が非常に自分に嵌るというか、聴いていてツボにくる、自然と体でリズムをとってしまう心地よさを感じてしまう。


ムード音楽的演奏から、マランドのように歯切れの良いリズムを重視したアルゼンチンスタイルなど様々なスタイルがあるのだが、共通するのは、やはり夕暮れどきが似合って、激しいリズムの後にくるゆったりとしたメロウな旋律が漂うようなムードがとてつもなく堪らない。。。なんて感じである。(笑)


特に自分はピアソラが好き。アルゼンチンタンゴの世界に、クラシック(バッハのバロックも!)やジャズなどの音楽を融合させたアストル・ピアソラという人によって創作されたジャンルの音楽なのだが、タンゴ特有の強いビートの上にセンチメンタルなメロディを自由に展開させるという独自の音楽形態を作り出して、単に踊るためのタンゴの世界から一皮もふたかわもむけた素晴らしい音楽の世界を作り出した人だ。


ピアソラの音楽は、リベルタンゴやブエノスアイレスの四季など、絶対みなさんなら聴いたことがあるはず、というくらいの超有名曲ぞろい。


ピアソラのブエノスアイレスの四季といえば、自分はオランダのアムステルダム・シンフォニエッタのChannel Classicsのアルバムが愛聴盤。以前ディスク・レビューで紹介したことあります。



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ピアソラ:ブエノスアイレスの四季、
ゴリホフ:ラスト・ラウンド、ヒナステラ:弦楽オーケストラのための協奏曲 
アムステルダム・シンフォニエッタ



ぜひ聴いてみてください。
この曲の自分のリファレンスとなっているアルバムです。


もしマーラーフェスト2020が開催中止になっていなければ、アムステルダム・コンセルトヘボウのリサイタル・ホールで、このフェスティバルで、マーラー所縁の曲でアムステルダム・シンフォニエッタを初体験できる予定だったのに、返す返す残念で堪りません。こちらから海外に出向かないと、縁のないアーティストですね。


今回のアラベラさんの新譜は、ヴィヴァルディの四季とピアソラのブエノスアイレスの四季を交互に、春・夏・秋・冬の順番で交互に並べているのだ。


南半球の四季、ブエノスアイレスの四季は、夏から始まる。


ピアソラが作曲していった順番も夏→秋→冬→春だ。そういう意味で、合うのかな、とも思うのだが、これが全然違和感なく、アルバムとしての統一感があって、曲の並びがすごく自然だ。


ヴィヴァルディは各季節に3楽章づつあるが、ピアソラのブエノスアイレスの四季は各季節に1楽章の構成だ。やっぱりヴィヴァルディの四季は名曲中の名曲だけあって、音楽が整っているというか、全体として、形式感、様式美があって、日本のように四季がはっきりと違う美しさを表現していますね。


優美に輝く「春」、うだるような暑さと天候の変化を見事に表現した「夏」、収穫を祝う「秋」、凍てつく「冬」。本当にこんな感じで各季節に個性があってメリハリがあって、曲として形式感が整っている。名曲中の名曲だと思う。


ブエノスアイレスの四季は、これは本当に情熱的でエモーショナル、官能的で陰影のあるグルーヴ感に酔いしれる。カラーで言えば、情熱の赤だ。もう自分には堪らない。この曲は本当に自分にはクルものがある。


ブエノスアイレスの四季は、もともとバンドネオン、ヴァイオリン、ギター、ピアノ、コントラバスという編成による作品なのだが、この録音ではペーター・フォン・ヴィーンハルト編曲によるヴァイオリンと室内オーケストラ版で収録されている。


特に夏や秋ではおそらく原曲はバンドネオンが表現していると思われるグリッサンドなところも、ヴァイオリンではスライド奏法させて弾いているような感じで、もう鳥肌モノである。


秋では重音奏法のオンパレードと言う感じで、アラベラさんの超絶技巧が冴えわたる。


このアルバムでは、従来にも増して、アラベラさんの技術力の高さ、安定力を再認識する感じだ。もうヴァイオリニストのキャリアとしても中堅どころ。超一流の技術力を兼ね備えた実力派ヴァイオリニストと堂々と宣言してもいいだろう。


そしてなんといっても、自分にとってブエノスアイレスの四季といえば、冬。自分はこの曲ではこの季節が1番好きだ。次から次へとたたみ掛けてくるような熱いパッションを感じる旋律で、とにかくかっーと激しく燃える。


最高である。


ヴィヴァルディは、冒頭の春の第1楽章が有名だが、自分は夏や冬が好き。やはり激しくて燃えるのがいいのだ。やっぱり自分は熱いのが好きなのだろう。(笑)



今回のパートナーはミュンヘン室内管弦楽団。


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ドイツ・ミュンヘンを本拠地とする室内オーケストラである。


アラベラさんとは縁が多いオケで、演奏を聴くと、そのアンサンブル能力の高さ、弦の厚み、弦楽としての発音能力などとてもすばらしいオーケストラだと毎度のことながら思う。


2018年7月に、ミュンヘン=ゼンドリンク、昇天教会で録音された。


録音は、エンジニア&バランスにジャン=マリー・ヘーセン氏、編集、ミキシングにエルド・グロード氏といういつもの安定の最強タッグ。


いつもにましてオーディオ的に作り上げた感のあるテイストで、いつもの彼女のアルバムとはちょっと違う録音テイストである。よりオーディオマニア好みに仕上がっている。


いままでとちょっとプロモーションが違うのは、アルバムの発売に伴い、先行でストリーミングによるシングルリリースを先駆けたことだった。彼女の妊娠で、アルバムが当初よりも1年延期になったのだが、ストリーミング・シングルという新しいプロモーションが実現したのも、曲の録音がすでに完成している過程でのひとつの試みなのだろう。


2019年9月20日にピアソラ ブエノスアイレスの四季”秋”
2020年1月25日にヴィヴァルディ四季の”冬”

すべてのストリーミング・プラットフォームで配信された。


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今回、アラベラさんはライナーノーツで、こんなことを書いている。


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ヴィヴァルディの四季は、クラシック音楽の歴史の中でももっとも有名な作品のひとつだと思います。おそらくその中の一部の楽章は、誰もが知っていることでしょう。正直なところを申しますと、この曲を録音した作品は、世の中にはもう数えきれないくらい存在すると思いますので、この作品を取り上げることは少々躊躇したところがありました。でも、それは別に気にすることではない。私にとっては最初のレコーディングなのだ、と思うことにしました。


特に完全にタイプの異なるピアソラの四季とのコンビネーションは、ピアソラの作品の中でも特にこの曲を長いこと愛してきて、とてもメランコリックで熱情のあるこの曲とカップリングすることが私の夢だったのです。


私の親愛なる友人、ペーター・フォン・ヴィーンハルトによって美しくアレンジされ、それをもってみなさんとこの情熱的な旅をシェアできることをとても幸せに思います。



アラベラ・美歩・シュタインバッハー



自分も正直、アラベラさんの次のアルバムはなんであろう?と期待していたとき、それがヴィヴァルディ四季と知ったときは、ちょっとがっかり(笑)というか、う~ん、ありふれているな、と思ったことは確かである。


やはりアラベラさんもそう感じていたんだね。


でもピアソラの四季とのコンビネーションが一気にアルバムに多様性を生んだ。
ピアソラのエモーショナルな曲がアラベラさんも大好きだったことはとてもうれしい。


でも自分はこの新譜で、改めて、ヴィヴァルディ四季の曲として完成度の高さ、美しさを再度認識した次第である。



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アラベラさんの演奏家人生として、今はひとつの岐路、転機にあるように思える。


2004年デビューで着実にキャリアを重ねていった。自分は、2011年頃から応援を始めたファンとしては遅いほうだったが、自分が応援を始めたときからいわゆる演奏家としての絶頂のときだったのではないか、と感じている。


それこそ、ピークは2015年のヘンゲルブロック&NDRとの日本縦断ツアーで、大阪、東京、名古屋を追っかけしたこと、そして2019年に至るまで彼女は全世界のコンサートホール&全世界のオーケストラと共演を重ね、忙しくワールドツアーを転々としていたのだ。


まさに演奏家人生としてはピーク、頂点と言っていいと思う。


演奏家人生のひとつの転機となったのは、やはり結婚。そして子供を授かったこと。
SNSに投稿する写真は、上のようにいままでと違って一変した。(笑)


子供を持つことになった女性アーティストは、いままでの尖った格好良さ、ビジュアルな方向性から、より母性本能が表面に出てくる柔和で優しい人間性が滲み出るようになって、アーティストとして、より、もっと人間性として深いところに達観するのではないか、と思う。


いままでの路線とは違ってくるように思えます。


そして誰もが体験している、まさかのコロナ禍。


アフターコロナの時代、クラシックのオーケストラやアーティストはみんな手探り状態で今後どうやって活動を続けていくべきか、を暗中模索している。


これは彼女にもあてはまるだろう。育児と重なる時期と言うこともあるが、間違いなくいままで通りと簡単には事は運ばないような気がする。


これは彼女だけではない。
みんな苦労している。
その洗礼を彼女も受けるに違いない。


願わくは、彼女には(もちろんみんなにもですが。)幸せが待っていてほしい。


あのNDRと日本縦断ツアーをしていた頃のようにまた復活して輝いてほしいと思う次第なのです。







 


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ダイレクトカッティングはワンポイント録音がいい [ディスク・レビュー]

ベルリンフィルのダイレクトカットLPを購入した。ラトルのブラームス交響曲全集のときは、悩んだのだけれど定価が8万円台だし、自分はアナログは腰掛け程度でメインストリームではないので、見送った。


今回、第2弾のハイティンクのブルックナー交響曲第7番が出ることになり、それが3万円台なので、価格的にも範疇内なので、つい誘惑に負けて購入してしまった。


そうすると、どうしても第1弾のラトル盤も揃えたくなる。
買っておけばよかったなーと後悔だ。


いまラトルのダイレクトカットLPはなんと中古市場で25万から30万で取引されているという大変なプレミア盤なのだ。そんなとき、舞夢さんが、こっそりラトル盤、ヤフオクに出てます、と教えてくれた。11万5千円だ。おう!これはターゲット内。でも終了時間間際で跳ね上がるのだろうな、と思い、15万までなら出そう!という覚悟を決めた。


そしていざ勝負。なんと誰も入札せず、自分だけが入札してあっさり11万5千円で落札できた。


ラッキー!である。しかも新品未開封なのだ。舞夢さん、ありがとう!


こうなるとラトル盤、ハイティンク盤と完遂することができた。


届いてじっくり聴き込もうと思ったが、なにせアナログ再生は、最近すっかりご無沙汰である。日記を紐解けば、2016年にアナログプレイヤーを購入して再生して以来だから、じつに4年ぶりだ。


学生時代にコレクションした100枚のLPを再生したい、ということ、そして昨今のアナログブームから、やはりプレイヤー持っていないとダメだろう、という想いから購入したのだ。


でも腰掛け程度だから、高級なターンテーブルを購入するつもりもなく、ソニーのPS-HX500というアナログ出力をPCにDSD5.6MHzで取り込めるという付加機能が売りの安いプレイヤーを購入した。カジュアル向けのプレイヤーですね。


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アナログが本筋ではない自分にはこの程度で十分である。でもそれ以来、すっかり死蔵扱いで、埃をかぶり、その上にCDが山積みされている状態であった。


4年ぶりに動かすし、きちんと音が鳴るのかな、とも思い、恐る恐る鳴らしてみた。
この日のためにインターコネクトのケーブルも新調した。


アルゲリッチ盤とグリモー盤で鳴らしてみた。


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案の定、聴くに堪えない酷い音。
こりゃあかん!ということで、調整開始。
久しぶりアナログ触るから、もう試行錯誤。


ハム音が鳴ったりで、かなりケアレスミスも多く、あーだ、こーだとやること3時間半。
ようやく4年前に聴いていた感じのサウンドに戻ってきた。
久しぶりにオーディオやったという感じ。(笑)


ラトルのダイレクトカットLPは、舞夢邸で聴かせてもらったことから、舞夢さんにメッセージして、いろいろアナログのことを教えてもらった。


気になるのはアナログ再生時のゲインが低く、CD再生時より15dBも低い。


舞夢さんのアドヴァイスは、「確かにディスクによっては録音レベルが低いものはありますが、この盤の録音レベルは特に低いわけではないようです。(拙宅の場合はCDと大差ない音量差です)考えられるのは、カートリッジの種類(MM、MC)とのマッチングです。AMPのPhonoイコライザーは、RIAAカーブで周波数特性を元に戻すと共に、レベルを昇圧しますが、これはMMカートリッジの再生レベルまでです。通常、MCカートリッジはMMカートリッジよりも出力が低いために、MCヘッドアンプもしくはMC用の昇圧トランスを使用して出力レベルを補正します。


アンプ側でMC、MMの切り替えはできるようになっておりませんでしょうか。少なくともAVアンプにPhonoポジションがあるので、イコライザーアンプは入っていると思われますが…。ちなみに拙宅のアンプではポジション切り替えがあり、MCカートリッジをMMポジションで聴くと仰るようにかなりゲインが低く、それに伴ってS/Nも大幅に劣化します。でも、もし、カートリッジがMMでこの症状だとしたら、どちらかの機材に不具合がある可能性がありますね。


あと、もうひとつ、カートリッジシェルはアームから外せますよね?期待薄ですが、ここの接点を布で(できればアーム側も綿棒で)磨いてみてください。」


ソニーのプレイヤーは、MMカートリッジ。MMのフォノイコライザー内蔵のようだ。
だからゲイン不足というのは機器の不具合なのか?(笑)
まぁとりあえずこのままAMPのVOL上げてそのまま続行。


カジュアル向けのプレイヤーなので、固定アームでカートリッジ交換不可能とずっと思っていたけれど、そうではないようだ。


ゼロバランス、針圧3gも再調整。なんとインサイドフォースキャンセラーも調整できるのだ。(笑)


いろいろ調整したけれど、オーディオオフ会でオーディオの友人宅で聴くような、あのアナログ特有の太くて濃い濃厚な音ってやっぱり無理なんだな。


アナログLPはダイナミックレンジ(Dレンジ)は狭いけれど、CDのように音域をカットしたりしていないから周波数レンジ(Fレンジ)は広くて、かなり濃い音が楽しめるはずなのだが、う~む、厳しい・・・。


やっぱりカートリッジの差が大きいかな。5万円のプレイヤーだからこんなもんかな、と妥協。


久しぶりにアナログ聴くから、グリモーさん&バイエルン響のブラームス、なんと途中で針飛びしてしまい、前へ進まない。えっ4年前に数回聴いただけで、そのまま保管していただけなのに、なのに、なぜ?目視しても傷や障害物もなさそう。


ショック。大好きな盤なので、中古市場で買いなおしました。(完全限定版だからいまは売ってないんですよね。)


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後日レコード店で相談してみよう。


まっこんな感じなのである。
ようやくアナログ再開の準備は整った。


ベルリンフィルのダイレクトカットLP。


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とにかく高級品そのもので、最初触るのはすごく怖かった。
ラトル盤は、500枚完全限定。あっという間に即完売だった。

ハイティンク盤は、1884枚完全限定。


自分のシリアル番号は、ラトル盤は450番(/500番)
ハイティンク盤は、1428番(/1884番)


ハイティンク盤(なんと日本語解説がついている。ラトル盤にはなかったことだ。)


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ラトル盤


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ベルリンフィル・レコーディングスによる制作との宣伝だったが、中を見たらやはりエミール・ベルリナー・スタジオ(Emil Beliner Studios)による制作だった。まぁ、EBSはもともとDGの中にいたレコーディングス技術部隊でDG時代のベルリンフィルを録音していたのだから、別に問題はなし。


ライナー・マイヤールさんプロデュースだ。



さっそくハイティンク盤から聴いてみる。


ハイティンク盤は、2019年5月に行われたベルナルド・ハイティンクのベルリン・フィルにおける最後の演奏会、ブルックナー「交響曲第7番」をダイレクトカットLPで収録しようとした試みだったのだ。


ハイティンクは、ベルリンフィルとも200回以上の演奏会をおこなった縁の深い指揮者で、そんなハイティンクに対して花道を飾ってあげようというプレゼントだったようだ。


ディスクの最終面(LP2‐B面)にはハイティンクとベルリン・フィル団員のサインが刻み込まれている。


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ダイレクトカット録音は、マイクで採音された演奏を、直接ラッカー盤面に刻み込んでいく方法で、編集はいっさいない。もちろん演奏自体も失敗が許されないから、すべてにおいて一発勝負なのだ。


従来のようなアナログマスターテープを介さないからテープヒス音もない、高音質という触れ込み。


ハイティンク盤を聴いて、そして引き続いてラトル盤を聴く。

聴き比べてみて、自分が想ったこと。


それはオーケストラ録音の難しさ。


ジャズやポップスはオンマイク録音、クラシックはオフマイク録音と言われる。


オーケストラ録音って、やっぱり音場型録音だと思うのですよね。


あのコンサートホール全体に響き渡る音場をそのまま、まるっと抱え込むというかその音場空間をそっくりそのまま捉え録音するのがオーケストラ録音の基本なのだと思うんですよね。それがまず第1前提で、その次に各楽器の解像感や分離感などを追求していくような順番なのだと思うのです。


コンサートホールで生演奏を聴いている、あの感覚を蘇らせるには、やはりあの全体の音場感がファースト・プライオリティ。


ラトル盤はワンポイント録音だった。


舞夢さんの話では、ハイティンク盤ではアンビエンス・マイクを使ったマルチマイク録音だそうだ。メインマイク3本とサブマイク2本の5本構成された構成だったようだ。


ハイティンク盤とラトル盤を聴き比べると、自分はこの差がサウンド的な印象を決める決定的な要因のように思えた


結論からすると、自分はマルチマイク録音のハイティンク盤より、ワンポイント録音のラトル盤のほうがよかった。


ハイティンク盤は、音場感が潰れている感じで音が伸びてこないというか、平面的で空間を感じないのに対し、ラトル盤はすごく音が伸びる感じで、ホール空間がそのまま目の前に現れるような感じがした。ラトル盤はホール感がありますね。


よくワンポイント録音は音場感をそのまますっぽり取り込めることができ、自然な音場感を得ることができる反面、マルチマイク録音は、メインマイクの他に、スポットマイクなどで採音し、それを後で、パッチを充てるように継ぎはぎしていくから、位相がぐちゃぐちゃになり、位相合わせなどの調整が難しくて自然じゃない。だからマルチマイク録音はダメ、と言い切る方がいらっしゃるが、自分はそうは思わないです。


確かにワンポイント録音だと抜け感がいいというか、スコーンと抜けるような空間感があって、いいのだけれど、逆にワンポイントだから各セクションが遠くて、解像感や分離感が悪くて団子のように聴こえるというデメリットありますね。あと、マイクから遠いからオーケストラが持っている躍動感の表現も苦手ですね。


そういうのを解決するのに、補助のスポットマイクで録ってあとで、継ぎ足しする訳ですが、そういうワンポイント録音の苦手な部分を補ってくれるのだと思います。


指揮者の背面の天井近く高いところにメインマイクがあって、そこで全体の音場をキャプチャーして、そういう解像感や分離感、躍動感などをそっと後から補完してあげるというそんな作業なのではないでしょうか?


確かにマルチマイクって継ぎはぎだから、聴いていて、抜け感が悪くて、どこか空間が詰まっている感じで、抜けるような自然な音場感という感じはしないかもしれませんが、それってエンジニアの腕次第だと思うんですよね。


自分が普段聴いているレーベルはマルチマイク録音が主流ですが、きちんと位相合わせの技が妙で、シームレスに繋がってそういう不自然さを感じないし、広大な音場、明晰な音像を両立させていると思います。


すべてエンジニアの腕次第だと思うのです。


音声信号で、位相って本当に大事なパラメータです。音声信号の時間軸の管理、調整のことです。


今回、ハイティンク盤で音場が潰れてホール感を感じないのは、マルチマイク録音で録ったものを、きちんと後でその継ぎはぎのときの位相合わせなどの編集ができないからだと思うのです。


ダイレクトカット録音は、もちろん編集はいっさいなしのマイクで採音した音をダイレクトに盤面にカッティングするのでそういうマルチマイクで録った音の位相合わせなどがきちんとできていなかったのでは、と思うのです。


なぜハイティンク盤をマルチマイクで録ったかと言うと、それはブルックナーが大編成を要するので、ワンポイントだと全体を捉えられないという理由からそうしたのだと思います。


でもマルチマイク録音は編集してなんぼの世界ですね。


エンジニアが徹底的に編集を施して、きちんと継ぎ目をスムーズにして、位相合わせして、完成度をあげて初めて成果がでるやり方ですね。


ダイレクトカット録音はそれができないから、簡単なミックスでは、どうしてもそういうつなぎ目がうまくいかず、位相がぐちゃぐちゃになって空間、音場感を壊してしまうのでは?と思うのです。


ライナー・マイヤールさん率いるエミール・ベルリナー・スタジオ(Emil Berliner Studios)という最高の技術スタッフを以てしてもこんな感じの印象だから、やはり難しいことなのだと思います。


ラトル盤はすごいです。とにかくすごい空間感、ホール感でよく鳴るというか、自分の5万円の安いプレイヤーでこれだけ鳴るのは、やはりオーケストラ再生冥利だと思います。グリモーさん&バイエルン響もオーケストラ演奏ですが、全然ラトル盤のほうが凄かったので、やはりダイレクトカット録音はすごいと思ったほどです。


編集がいっさいできないダイレクトカット録音では、やはりワンポイント録音のほうがいいのではないか、というのが自分の導き出した結論です。


もちろん最初からそんなことを思いつくはずもなく、ハイティンク盤を聴いて、う~ん。ラトル盤を聴いて、う~ん。なんでこんなに違う感じなのだろう、ということを感じて、自分で後で無理やりこじつけて理論づけただけなのです。


つじつまが合うようにした後付け理論なのです。

もちろん間違っているかもしれないです。
反論も多いと思います。甘んじて受けます。


自分の安いプレイヤーではハイティンク盤をきちんと鳴らし切れていないだけなのかもしれません。(その可能性も大きい。)


そういう考え方からすると、いまのライブストリーミング配信も生放送ストリーミングは編集できないから、ワンポイントマイクでやるのが一番自然な音場感、ホール感を得ることができて、いい音で視聴者に音を届けることができると思うのです。


アーカイブは、あとで、じっくりエンジニアが編集して完成度をあげていい音にすることができるから、そういう意味でマルチマイクでいいかもしれませんね。


ベルリンフィルのDCHなんてそうやっていると思います。


オーケストラ録音って本当に難しいです。


今回のダイレクトカットLPについては、もともと舞夢邸で聴いたことが最初の縁でしたが、舞夢さんにはいろいろお世話になりました。


ここにお礼を申し上げます。







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ポリヒムニアのSocial Distancingな録音 [ディスク・レビュー]

今日6月25日は、日本のオーケストラ団体が立て続けに、活動再開に向けて、その指針を発表した日だった。やはり1番中心で大きな柱になっているのが、東京都交響楽団(都響)であろう。


自分たちが、日本のオーケストラの中心になって、この難局を乗り越えていく旗頭になっていこうという強い気構えを感じる。


都響は、今月の11日、12日に新型コロナ対策を踏まえた今後のコンサート活動について、東京文化会館で数々の実験を踏まえた試演をやっている。


その実験結果とその今後の方針についての指針を今日発表した。


「演奏会再開への行程表と指針」を策定



そうか、そうか・・・。


こんなロードマップ。
なんか具体的に見えてきた感じですね。


日本オーケストラ行程表.jpg


マーラーの交響曲のような大編成を聴けるようになるのは、まだ先ですね。
合唱などの声楽が1番高い障壁になりますね。


上記のリンク先にあるPDF資料を一読してみてほしい。その試演での実験結果をここまで専門的に分析してデータ化しているのは、驚きである。自分は、このPDF資料の中で1番興味を惹かれ、なによりも単刀直入で簡潔に書いてあってわかりやすい資料3。


1番読みやすく、端的にポイントを抑えているように思えた。


試演後に、関係者でミーティングした議事である。


(奏者からの飛沫)
◆ 数値の解析はこれからだが、思ったよりも粒子は飛んでいない印象。
◆ フルートは息が良く出ると聞いていたが、しぶきが大量に飛ぶということは無かった。
◆ 歌手は、飛沫は飛ぶが、大きめの粒子、下に落ちていくような粒子が多い印象。
◆ 舞台上でも、管楽器の真ん前、弦楽器の真後ろで計測していた限りでは、そこで数値が大きく変わることもなく、もう少し詰めてもあまり変わらないと思う。ひな壇に上がったとしても基本的には同じだろう。
 
(奏者間の距離についての医師の見解)
◆ ヨーロッパでは、1.5mとか 1mとかのガイドラインがあるようだが、まずは普通どおり並んでも良いのではないか。
◆ 医師も、患者と 1mは離れない程度で外来診療を行っているが、必ずマスクをし、一人診察が終わるごとに、手洗い、アルコール消毒をすれば、そう簡単にうつされるものではない。
◆ オーケストラでも、むしろそのような、練習場に入る時の手洗いなどを守っていただければ、活動を再開できるのではないか。
◆ ディスタンスは取れるのなら取った方が良いのだが、基本的には 1m取れば十分感染予防できる。むしろ、通常の感染予防対策、手洗いや体温チェックなどが大事。

◆ 一方で、歌手については比較的飛んでいるという話。感染症学では、基本的には 2m飛ぶと言ったら、安全をとってその倍の距離を取れば良いと言われる。舞台から観客席をどれぐらい空けたらいいかというのは、その辺りから分かってくるのではないか。
 
(奏者のマスク着用)
◆ マスクはした方がそれに越したことは無いが、本番の時は外しても良いのでは。
◆ むしろ控室などでの何気ない会話、食事をとる時などに、気を付けた方が良い。

(大リハーサル室の状況)
◆ 大きな通気口があり、広さとしては非常に広い、容積が大きいので、問題ない。
◆ 空気の流れの確認は必要かもしれない。
◆ 練習は原則としてマスクをするなど、多少通常よりも感染予防を徹底していけば大丈夫。
◆ ホールより狭いとしても、肩と肩がくっつくような状態で演奏するわけではない。
◆ むしろロビーで休憩する時の方が心配。病院では、食堂でも、向かい合わせになるな、基本的にしゃべるな、ということを言っている。
 
(管楽器の結露水)
◆ もし感染している人が演奏していたのだとしたら、結露水には接触感染のリスクが生じる。
◆ 今回やっていただいたように、吸水シートに必ず捨てるようにすることは必要。
 
(PCR検査)
◆ PCR検査というのは確証にはならない。
◆ リハーサルの時など、指揮者は楽団員に、大きな声で呼びかけることもある。楽団員の安心のため、という意味で、例えば指揮者のみPCR検査をするということは考えられるかも知れない。


自分が1番ビビッと反応したのは、奏者間の距離についての医師の見解。


「ヨーロッパでは、1.5mとか 1mとかのガイドラインがあるようだが、まずは普通どおり並んでも良いのではないか。」


そうか!そうか!よくぞ言ってくれた。


アフターコロナ&ウィズコロナで、自分がニューノーマルどころか、アブノーマル(笑)だと思っているのは、あのステージ上での奏者間の距離と、観客席の間引き。これがなくなれば正常に戻れる。


医師のコメントは、奏者間の距離だけの言及だけれど、観客席については、クラシック聴衆は静かに聴いているし、ブラボーなし、咳エチケットがあれば、そんな飛沫の危険性は少ないと思うんですよね。普通にお客さんを入れてもいいのでは?と思います。


早くそういうポイントでの確証がほしい。

ここが一番重要でもある。


あと、奏者のマスク。これも不要。見苦しいです。(笑)


「一方で、歌手については比較的飛んでいるという話。感染症学では、基本的には 2m飛ぶと言ったら、安全をとってその倍の距離を取れば良いと言われる。舞台から観客席をどれぐらい空けたらいいかというのは、その辺りから分かってくるのではないか。」


う~ん、これは予想はしてけれど、声楽はやっぱり厳しいなぁ。自分は声楽コンサート大好きなので。声楽は生で聴くと本当に興奮度は半端ないです。声楽こそ、生に限ると言ってもいい。



ヨーロッパは、Social Distancingについては、結構うるさい。
ガイドラインがかなりしっかりしている。


アムステルダム・コンセルトヘボウのSocial Distancing対応のオーケストラ配置。客席をとっぱらって、平土間にオケを配置して、1.5m/1.75mなどの奏者間の距離を取る。指揮者はステージ傍で、そこから奥行きにオケが展開するイメージ。


コンセルトヘボウには1.5mのSocial Distancingを命ずるロゴステッカーが貼られている。


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控室替わりのブレイク時のドリンクコーナーも距離感を持ってチェロケースが。。。


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自分は、この写真を見たとき、なんか間違っているだろう。(笑)これが今後のニューノーマルになるんだったら、ごめん被りたいところもいいとこだ。早く元の世界に戻れ!と思ったものだ。


このときのリハーサルの指揮者がグスタボ・ヒメノ。
そう、RCOの首席打楽器奏者から指揮者に上り詰めた才人だ。


自分はヒメノ指揮RCOの来日公演をサントリーホールで聴いたことがある。ソリストはユジャ・ワン。2015年だったかな。素晴らしかったよ。ヒメノは袖に下がるときに小走りに速足で去っていくのがなんか奇妙と言うか、大舞台に慣れていなさそうで初々しかった。


上の写真はあくまでリハーサルで、それは録音のためだと思っていた。
ヒメノは、現在ルクセンブルク・フィルの首席指揮者である。


この写真で録音したPENTATONE新譜がこれだと思っていた。



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交響曲、交響的変奏曲(フランク) 
グスターボ・ヒメノ&ルクセンブルク・フィル、デニス・コジュヒン



もちろんさっそく買って聴いてみた。
この写真のオケ配置、奏者間距離で果たしてちゃんと音がまとまって聴けるの?
音場や音像が膨らんじゃって、ダメなんじゃないの?


これはポリヒムニアの腕の見せ所。腕前拝見とさせていただこう、と思っていたのだ。

さっそく聴いてみたところ、自分は青ざめた。


もう全然普通にいい録音。コロナ以前のふつうのホール録音と変わらない出来で、自分はぶったまげた。さすが技術集団、ポリヒムニア。やってくれるなぁ、と舌を巻いた。


まったくの普通通りの録音テイストなのだ。

どうやってんのかな?とも思った。


実際自分がこの新譜を聴いたのは2~3週間前だったのだが、そのときにすぐに日記にすることをためらった。日本では各オーケストラが奏者間距離をいろいろ試行錯誤でやっていて、距離があるとやはり隣の奏者の音の聴こえ方が違ってくるし、アンサンブルもやりずらい。


もう真剣モードでみんな議論している。


そんな中に、いや~1.5m/1.75mで平土間でやっても、全然普段と変わらないいい録音!なんてことは言えない。(笑)いいづらい雰囲気で躊躇って、自分の心の中だけに収めておくことにした。 


そのあとブックレットを読み進んでいくうちにこの話の落としどころが待っていた。(笑)


録音日時、録音場所が、2019年7月と11月となっていて、ルクセンブルク・フィルハーモニーとなっていた。


あれ?コンセルトヘボウじゃないの?
しかもこの日時って、コロナ以前では???


これがルクセンブルク・フィルハーモニー。写真は、コロナ以後にヒメノ&ルクセンブルク・フィルが1.5mの奏者間距離を開けて、無観客生ライブ配信をする、という写真だ。
 

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ルクセンブルク・フィルハーモニーはご覧のように、シューボックスのコンサートホール。シューボックスで程よいエアボリュームだし音響も良さそう。このホール空間で、コロナ以前の普通のオケ配置で録ったなら、そりゃいい録音になるに違いない。(笑)


そりゃ昔と変わらないいい録音に違いない。
ポリヒムニアのエンジニアは若手育成のため、若手を積極的に起用していた。


コンセルトヘボウのあのオケ配置は、指揮者は確かにグスタボ・ヒメノだけれど、オーケストラはRCOなのでした。それもベートーヴェン7番とドヴォルザーク8番を、このコンビでコンセルトヘボウから無観客生ライブ配信するためのリハーサルだったのだ。


自分はこのベト7は、ストリーミングで聴きました。


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やっぱりこのご時世、まだ奏者間距離をどうとるか、は試行錯誤のときで、これで録音、商品にするまでの決断はできないのでしょう。まだ無観客でライブストリーミングする段階で止まっているというか・・・。


奏者間距離を取ると、やはり全体のオーケストラのサウンドに影響はあると思います。それは商品として聴いている自分たちのような聴衆もそう感じるけれど、なによりも指揮者、奏者にも違和感あるはず。


普通に従来の密の状態の方が音はいいですね。それで、ずっと歴史を作ってきたのですから。


コンセルトヘボウの写真のあの平土間配置であんなすごいサウンド造られたら、と思ったら興ざめでしたが、世間はまだそこまで行ってないし、いや行ってほしくないという感じでもありましょうか?(笑)


ルクセンブルク・フィルハーモニーで今回の新譜で作業を進める指揮者グスタボ・ヒメノとピアノソリストのデニス・コジュヒン。


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デニス・コジュヒンは本当に素晴らしいピアニストですね。英国グラモフォンの記者からは、自分が売れること、そういうポピュリズムから最も遠い位置にいるピアニスト、と評されるほど、玄人好みというか渋い立ち位置が自分は大好きです。


フランクという作曲家は、普段はあまり聴かない作曲家ですが、この新譜を聴いていると本当にその大物作曲家と言っても過言ではないその筆致に感動します。


完成度の高い作品だと思います。


この新譜、自分の愛聴盤に間違いなくなりそう。






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イチロー、アンチ耐性が凄すぎる! [雑感]

イチロー先生が、生徒たちの質問に答える。


生徒たち「他人から嫌われるのが怖くないですか?」
イチロー先生「僕は他人から嫌われるの大好きです。」


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「その人たちは僕に対するエネルギーが半端ないでしょう。」


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「大嫌いと言われたら、ゾクゾクしますよ、僕。」


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「無関心が一番怖い。興味持たれなくなることが一番辛いです。」


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そのほか、


生徒たち「出る杭は打たれる、ということについてはどう思われますか?」
イチロー先生「簡単。出すぎちゃえばいい。」


「結婚はギャンブル」など名言言いたい放題。


イチロー、かっけーなー。(笑)


みんな大喝采だ。



でも、みんな気づいていないかもだけれど、これはイチローの長い人生の体験から得た体中に染みついた深い深い言葉だということを忘れてはいけない。


そんなちょっとやそっとのその場の思いつきで出てくる言葉ではないのだ。


イチローの球歴は今さらだけれど、細身のしかも日本人プレイヤーとしては初の野手での大リーグ挑戦。まさに異国の地で人種差別など心ない態度などもろもろ、それはファンからだけでなく、チームメイトからもあったであろう。


日本人が異国の地で生活していくというのはそういうこと。


日本人は姿かたちの外見からして、基本的に外国人と同化はできないので、そこで彼らといっしょに暮らしていくには、日本人としての自分の存在価値、アイデンテイティをアピールをしていかないとやっていけない厳しさがある。


そんな逆風をもろともせず、大記録、大成功を成し遂げたからこそ、言える言葉ではないのか。だから、上のような一瞬ジョークとも思える笑えるようなセリフについても、自分はなんかじつは彼の本音なんじゃない?それって彼の野球人生で学んできた哲学そのものなんじゃない?とも思えるのだ。


以前日記で、「人生やっていく上で楽になる4つの大事なこと」というタイトルで説いたこともあるが、


嫌われてもOK。全人類に好かれるとか無理。


みんなにいい顔はできない。


これは人生生きていく上では、大切なことであるから、よく心しておこう。自分が近年の差し迫った環境の中で人生やっていく上で一番心掛けていることでもある。 
 

みんなに好かれようとして自分がクヨクヨ悩んで八方美人で苦労するのは、人生時間の無駄である。自分を嫌いな人をいかに好きにさせようという努力ほど効率の悪いことはない。そんなことやるくらいなら自分を好きでいてくれる人をもっと楽しませようと努力したほうがよっぽど人生効率的なのだ。


自分もちょっと前までは八方美人的な心配ばかりしてこのことで随分神経すり減らしていたが、このことを悟り、楽になった。


周りをあまり気にし過ぎて相手に合せすぎても、それだけの効果って意外とないものなのだ。「これが、自分です!」という自分の素の姿をさらけ出したほうがいい。それで去っていく人は、去る者は追わず。。。なのである。


他人から嫌われるのは、それだけ自分に個性があって、相手が危機感を感じる、自分の領域を侵される、というような感性に襲われるから、攻撃したくなるのではないか?


それだけ、自分に力、才能があって、それを他人が羨ましがっている、というように思ったほうがいい。そんな攻撃をしてくる人間は、民度、レベルの低い人たちと蔑んで見ておけばいい。


自分に本当に才能があれば、そういう類の抵抗勢力も結局圧することができ、結局自分の素晴らしさが後世讃えられる。


世の中、きっとそういうルールになっているに違いない。


イチローがそれを証明している。






 





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オーケストラの損益分岐点 [クラシック雑感]

あの劇団四季が、コロナ禍で、相次ぐ公演中止で経営難に陥っている。クラウドファンディングを開始したという。現在6000万に到達。目標1億だそうだ。


これがいまの厳しい現実。


クラシック業界も同じで、相次ぐ公演中止で莫大な負債を抱え、オーケストラの経営難で存在危機も頻繁に耳に入ってくる。


本当に心が痛い。


いつもオーケストラのみなさんから素晴らしい音楽と感動を与えてもらって、生きる喜びというか趣味の世界を満喫している自分にとって何とかしてあげたいのは山々なんだが、なにぶんたかが個人の身の分際で、なにもしてあげられない。


せいぜい寄付をするくらい。


しかも自分は超貧乏な平民と来ているから(笑)、本当になにもしてあげられない非力を感じるだけである。でも明るい兆しもある。


東京都交響楽団がコロナの環境の中で公演を開始するための実験をやってコンサート再開への道筋を模索する算段に入った。


またそれぞれで無観客ライブ配信で有料配信も始まるようになった。

徐々にコンサートを再開する兆しが見えてきている。


ニューヨークのMETとか今年いっぱいは無理だという話もあるし、ロンドンも今年いっぱいはダメだろうという観測。サイモン・ラトルは、大陸では再開に向けて動き始めているのに、なぜイギリスでは全然そういう動きがないんだ、と怒っている。残念ながら、今年の秋のラトル&ロンドン交響楽団の来日公演、マーラー交響曲第2番「復活」も中止になってしまった。自分のコロナ明けの生コンサートの予定だったので号泣である。


そういうのと比べると、日本は動きが速いし、恵まれた環境かもですね。
まぁ彼らより軽傷ではありますから。


日本の各オーケストラは、ステージの奏者間の距離、観客席の間引きなどからスタートして、そろっと始めようとしている。そういった点では室内楽のほうが敷居が低くて、まずこちらからでしょうね。


観客の間引きは、採算がとれないという問題がある。


こんな中で、はたしてこういうペースで、この数か月で抱え込んだ負債を返済していき、いずれは損益分岐点に到達するというシナリオが描けているところはおそらくどこもないであろう。


損益分岐点というのは、商品を開発するとき、まず先に開発費を投資する訳だが、その投資した分を、完成した商品を売り続けることで、あるポイントでその投資した借金を全部返済することになり、それ以降の売り上げは利益になるという、そのクロスポイントのことである。


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みんなとにかく動かないと、なにか始めないと、なにも始まらないということで動き出しているのが現状だと思う。


それで、自分の耳に入ってくるオーケストラの現状の負債は、大体どこも4億。

そうするとこのペースでやってもどんどんその負債が膨らんでいくばかり。


はやく実験の結果で平常通りのスタイルで収益が上がるようになればいいと思います。でも一度作ってしまった負債4億を、通常のビジネス形態に戻ったとしても、それを損益分岐点を迎えるまでリカバリーすることは可能なのだろうか。


自分はそれは無理だと思う。


損益分岐点は、なにもない平和の日常の状態で、投資(借金)と売り上げ(利益)で成り立つルールであって、こういう前代未聞のアクシデントで抱え込んだ負債がその上に積み重なると、それをクロスポイントに持っていくには、莫大な利益を生むハイペースでないと借金ゼロにはならないだろう。


それはクラシックは高コストがかかる割には、低コストの収入のビジネス体質なので絶対無理なペースだと思うのである。


もう自分はこれを解決するには、公的資金の投入しかないと思うのである。


日本のオーケストラが解散してしまい、あるいは統合になってしまうと、本当に日本の伝統の財産を失うことになる。それだけは避けないといけない。


1楽団が4億の負債を抱えているとしよう。


2006年の古い日本のオーケストラ・イヤーブックのデータだけれど、公益社団法人 日本オーケストラ連盟に加盟しているのは正会員、準会員含めて、34楽団である。


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そうすると、34×4億=136億。

この額は果たして、そんなに大金の額であろうか?


政府がかつてない規模の予算で臨むといつも言っている、兆単位の予算額を聞いていると、そんなに大金とは思えないんですよね。


136億あれば、1楽団あたりに4億を配給され、コロナ禍で抱えた負債を相殺できる。


もちろんそれぞれの楽団によって、そのオケを支えている経済的基盤が違っていて、たとえばN響とかは、NHKがバックにいるので比較的安泰と思われるけれど、東京都交響楽団は東京都、新日本フィルとか京都市交響楽団とかも地方自治体運営だ。


だから各オケが交渉するというより、そのオーケストラを総まとめする組織が、その136億の公的資金を調達できるような仕組みにして、それを各楽団に分配するというのがいい。


公益社団法人のルールに、収入と支出があるレベル以下になると強制的にそのオケは解散させられる、というルールがあるらしいが、この非常事態時、そんなのまったくのナンセンスである。


その縛りは、なにも起こらない平和の平常時のルールであって、こんな予想もしない世界的な危機にそのルールを適用すること自体、まったくナンセンスというかあり得ないことである。


それはいくらでも特例を作れるであろう。


そうやって、突発的に抱えてしまった今回の大負債を補填して清算してあげないと、ただでさえ、収益率の低いクラシック・ビジネスでは損益分岐点を上回って、利益体質に持っていくことは永遠に不可能だろうと思うのである。


以前、”オーケストラの収益構造”という日記で、その収益配分を日記にしたことがあるけれど、この世界、チケット収入は半分くらいの比率で、残り半分は自治体の寄付、支援などで、収支をイーブンに持って行っている業界だ。


そんなハイコスト、ローリターンなビジネスで、今回のような大負債が上乗せてしまうと、一生かかっても損益分岐点を迎えることなく、永遠に赤字であろう。


それは危機である。


文化芸術は不要不急ということで、一番後回しにされていることも理解しているし、政府の緊急対策予算も飲食業、旅行会社などの観光業、日本の経済を根幹をなす優先順位の高いビジネスにあてられているのもよくわかっている。


でも中小企業を応援する支援金、何百万という単位では全然ダメなのである(笑)、クラシックの世界は。


”文化芸術は、人間の生活の上で絶対必要なものなのである。”ということを政府が少しでも理解してくれるといいですね。


文化庁長官は、東京藝術大学出身の文化芸術に明るい方ではなかったでしたっけ?


コロナ勃発のときに、励ましの声明を出したのはいいけれど、補償などなにもなしで、みんなからポエムと言われていたのを覚えていますが。(笑)


まっど素人の安直な思いつき考えですが、ちょっと自分が普段頭の中にある不安を書いてみただけでした。





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BISの室内楽 [ディスク・レビュー]

今日からサントリーホールCMGオンライン(チェンバーミュージックガーデン有料ライブ配信)がスタートしている。ライブストリーミング配信で有料というのがうれしい。


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日本のクラシック業界でそういう流れを作るのは、まずサントリーホールが1番最初にやってほしい、という想いがあったので、とてもうれしい。


プラットフォームに、イープラスの「Streaming+」を使うという。


チケット業者のイープラスからそれが出てくるというのが意外だったけれど、この「Streaming+」って具体的にどのようなものなのかもうちょっと詳しく知りたいと思っていた。


イープラスのチケット制の動画ストリーミング・サービス「Streaming+」がグランドオープン



この記事を読んで、なるほどなぁ、と思いました。イープラスってチケット販売企業、ライブ・エンタテインメント事業企業として約20年間に渡り実績やノウハウを培ってきた企業だからこそ、こういう課金EC系のシステムには持ってこい、というかアイデア満載なのだと思うのでした。


いくら技術開発力が高くても、ビジネスのアイデアがないとダメで、そのビジネス・アイデアが豊富だからこそいろいろなEC系のビジネスのアプリケーションを展開できる発想があるのだと思いました。


チケット販売はもちろんのこと、プロモーション、グッズ販売などの販促関係もろもろ。


ライブストリーミングが今後主流になるなら、こういう課金EC系のビジネスを母体にアイデア豊富に持っている企業体が結構大きいアドヴァンテージがあるかもしれませんね。


なるほど世の中って、需要のあるところにビジネスが流れるんだな、とつくづく思いました。


自分は技術系なので、やはり気にするのは、配信環境(インターネット回線、機材、運用方法)と信号処理のCodec。Streaming+がどのようなCodecを使っているかは知りませんが、いまは世の中が急いで要求しているので、普及フォーマットを使っているのでしょう。


でもゆくゆくは、夢のある高画質・高音質フォーマットの信号処理を期待したいです。こういう伝送系の信号処理と課金EC系は配信システムの中では別途に分けて考えてもいいですね。あとでガッチャンコする感じで。。。


イープラスは、もちろんクラシックだけではなく、ポップス、ロック、ジャズなどの音楽系、舞台、トークイベントなど幅広いエンターテイメントを手掛けているので、それが全部ライブストリーミング配信になったら、それこそ、そういうライブイヴェントに紐づいて関連する販促ビジネスなどの課金EC系は宝の山というか大儲けしそうな感じですね。


期待したいです。


さて、日記の本題は、じつはそこではなくて(笑)、サントリーホールCMGオンラインは室内楽のお祭り。ひさしぶりに室内楽をたっぷりと聴きたいなと思ったのでした。


なにせ、去年の年末から半年間ずっとマーラーばっかり聴いてきたので(笑)、そろそろ衣替えをしないとという感じです。また最近深夜遅くまで音楽を聴いていることが多く、そういう場合大編成の大音量は聴けないので、室内楽を聴くケースが多い。


できればひさしぶりにBISの録音が聴きたい衝動にかられたのです。


BISはワンポイント録音のさきがけのレーベル。マイクからほどよい距離感がある完璧なオフマイク録音。温度感が低めでクールなサウンド。録音レベルは小さいんだけれど、ダイナミックレンジが広く、結構オーディオマニア好みのサウンド作りなのである。


しかもSACD 5.0サラウンド。


BISに所属しているカルテットで室内楽を堪能したいなぁという猛烈な衝動にかられる。あのクリスタルなサウンドで、隙間感のある室内楽を聴くと、もう最高!みたいな感じ。


いままでBISの録音制作を手掛けてきたトーンマイスター5人が独立して、「Take 5 Music Production」という別会社を設立している。


主なミッションは、BISの録音制作を担う、ということで、フィリップス・クラシックスの録音チームが、ポリヒムニアになったことや、ドイツ・グラモフォンの録音チームが、エミール・ベルリナー・スタジオとなったことと同様のケースのように確かに思えるのだが、ただ唯一違う点は、現在もBISには、社内トーンマイスターが在籍して、音に関わる分野の責任を持っていることなのだという。


いま最近のレーベルは、社内に録音スタッフを持たず、外注先に委託することが多いというのが現状である。大変な金食い虫でもあるし、そのほうがコスト削減で効率的なのであろう。外注のほうがより技術的にも専門的なスキルを持った業者が多いことも確かだろうし、レーベル社内で、そういった職人を育てていくだけでも大変なことだ。


でも、それってレーベルごとに受け継がれてきている伝統サウンドというものが、もう崩れてきて存在しない、ということを意味していてオーディオファイルにとって寂しい限りでもあるのだ。


DGであれば、骨格感のある硬派な男らしいサウンド。
1960年代ステレオ黎明期を一斉に風靡したDECCAマジックなどなど。


そのレーベルごとに、そのサウンド、という特徴があって、それを堪能するのがオーディオマニアの楽しみでもあった。マニアはいつのまにか、レーベル単位で、その録音されているサウンドを想像することができた。でもいまは外注だから、それこそコスト重視で、アーティストごとにいろいろ違う外注に切り替えていたりしたら、それこそレーベルごとにサウンドの統一感なんて難しいことになる。


なんかそういう時代になってきているのは、なんとも寂しいなぁと思う限り。


BISもそんな流れの一環にあって、「Take 5 Music Production」という外注も請け負える団体にすることで、BISのタレントだけではなく、いろいろな録音ビジネスの受注を受け入れるようにビジネス拡大しているのだ。


いろんなところで、あのBISサウンドが聴けるかもしれない。(笑)


BISのトーンマイスターでは、やはり自分はなんと言っても、Hans Kipfer氏。(現在Take 5 Music Production) 彼が録音、ミキシング、バランス・エンジニアを担当してきた曲を一番多く聴いてきた。


BISサウンドといえば彼というイメージが多い。  


Take 5 Music Productionの俊英たち。(その名の通り、5人によるチームなのです。(笑))

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BISのサウンドエンジニアは、みんなコアなRMEユーザーですね。
そして驚くことにオリジナルマスターは96/24でやっているのだ。
このハイレゾの時代に。


それであれだけ素晴らしい録音を作り上げるのだから、録音ってけっしてスペックで決まるものではない、という最もいい一例であろう。


ポリヒムニアも同じことを言っていて、いい録音を作り上げるのは、ハイスペックで録るということに拘っていなく、またそれが絶対条件でもなく、もっと基本的なことがあるんだよね。


それは彼らが世に送り出している作品にすべて現れている、と言っていいと思う。


BISの室内楽を無性に聴きたく、6枚を緊急購入。


キアスクーロ四重奏団


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いまをときめくアリーナ・イヴラギモヴァ率いるカルテット。イブラギモヴァ大ファンです。(笑)2005年に当時英国王立音楽大学(RCM)で学んでいた友人を中心に結成したカルテット。団体名の「Chiaroscuro(キアロスクーロ)」は美術用語で、コントラストを印象づける明暗法や陰影法を意味する。


全員がガット弦とピリオド楽器を使い、チェロ以外は立奏する。
完全なイブラギモヴァのカルテットと言っていい。


去年の2019年の4月に来日しており、これはぜひ行きたかったんだが、マーラーフェストのための予算確保のために見送ってしまった。いま考えれば本当に愚かなことをしたものだ。



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シューベルト弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」、第9番 
キアロスクーロ四重奏団




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ハイドン弦楽四重奏曲集 Op.76 1-3 
キアロスクーロ四重奏団




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ハイドン弦楽四重奏曲集 Op.20 第1集 
キアロスクーロ四重奏団





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ハイドン弦楽四重奏曲集 Op.20 第2集 
キアロスクーロ四重奏団



キアロスクーロ・カルテットいい!もう実演体験しなかったのは一生の不覚。オーディオでもわかる精緻なアンサンブル。古楽器特有のもさっとした感覚がするのだけれど、古楽器でないと表現できないこの時代特有の評価観ありますね。もうこれは頭の評価脳を切り替える必要ありますね。イブラギモヴァがぐいぐい引っ張っていってるのがよくわかる。目の前に、そのシーンが浮かんでくる。やっぱりイブラギモヴァのSQなんだと思いますね。


このカルテット、古典派と初期ロマン派のレパートリーを看板としてきたようなのだが、フランスAparteレーベルよりベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーンのディスクをリリースして好評なのだそうだ。そしてBISレーベルに録音を残しているのが、このシューベルトとハイドン。


かなりベテランなんですね。BISに移籍してからはハイドンが注目ですかね。


やっぱりSACDサラウンドで、BISサウンドがいいです。BISで室内楽を聴きたい!というのがきっかけなのですから。



トリオ・ツィンマーマン


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ゴルトベルク変奏曲~弦楽三重奏版 
トリオ・ツィンマーマン



ノンノンさんは、女性ヴァイオリニストしか日記にしないと思われているかもしれないが(笑)、そんなことないのである。


フランク・ペーター・ツィンマーマンは、男性ヴァイオリニストの中でもとりわけ昔からずっと注目していて、大ファンである。


特に彼のトリオであるこのトリオ・ツィンマーマンの室内楽の大ファン。


BISのベートーヴェン弦楽三重奏が愛聴盤で、数週間前にひさしぶりに聴いたら感動してしまって、BISの室内楽のSACDが聴きたい、大量に買おうと思ったのは、それがきっかけだったのである。


トリオ・ツィンマーマンは2007年に結成。「トリオは自分にとってベストなアンサンブル」と語るツィンマーマンが、長年ベストなアンサンブルができる演奏者を探し、若き天才ヴィオラ奏者アントワーヌ・タメスティと、タメスティが信頼を寄せるチェリスト、ポルテラに巡り合いトリオ・ツィンマーマンが結成された。


このトリオはとにかくすごい切れ味のサウンド。剃刀のような切れ味の瞬発力で、自分は男性トリオとしてのエクスタシーの極致を感じてしまう。女子バレーの後に、男子バレーを見る、女子テニスの後に、男子テニスを見る。それぐらいの衝撃がある。


そこに男性奏者の凄さ、底力というのをマジマジと感じてしまうのだ。アンサンブルの完成度の高さもそうだけど、自分はこのキレッキレッのサウンドにメロメロなのだ。いかにも男性的。トリオ・ツィンマーマンは全員すべて名器ストラディヴァリウスを使用している。その音色もエレガントの極みともいえるこの上なく美しい音色なのだ。


このアルバムもゴルドベルグ変奏曲を弦楽三重奏版にアレンジしたものだけれど、言うことないですね。ますます大ファンになりました。



グリンゴルツ・カルテット


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メンデルスゾーン:弦楽八重奏曲、エネスコ:弦楽八重奏曲 
グリンゴルツ・クヮルテット、META4



グリンゴルツ・クヮルテットとMETA4がメンデルスゾーンとエネスコの八重奏曲を録音したアルバム。自分は両カルテットともはじめて体験するけれど、これまた素晴らしいですね。普段、弦楽八重奏という室内楽を聴く機会があまりないだけに、とても新鮮でいい刺激でした。


やっぱり音数が多いですね。(笑)


室内楽を聴くたびに想うこと。


それはやっぱり室内楽独特の各楽器のこまやかなフレージングやニュアンスが手にとるように感じられるということ。特に実演に接するとそれがはっきりわかりますね。特にフレージングの妙は、大編成よりも室内楽のほうがわかりやすい。


楽譜をどう読む、どう解釈するかは、その息継ぎとか段落感など、演奏者の解釈によるところが多いと思うけれど、その解釈の仕方でずいぶん曲の印象が違ってきますね。自分は同じ曲なのに、このフレーズ感の解釈の仕方の違いであのアーティストの演奏はすごくよかったのに、このアーティストのは全然ダメだな、がっかり。。。というのをオーディオや室内楽の実演で山のように経験しています。というか日常茶飯事です。(笑)


フレージングは、声楽でもっと顕著に現れますね。


声質もいい、声量も抜群にある、いい声しているのに、その歌を聴いていると全然自分に響いてこない、さっぱり感動できないという歌手もいます。それはやっぱりフレーズ感、フレーズの収め方がこなれていない、というか自分の歌にできていないから、その歌について経験不足から来るものなのだと自分は思っています。


あのシャンソン歌手のバルバラの歌も、一見早口で語りかけているだけのように見えて、じつにカッコいい歌い方だと思ってしまうのは、そこに音楽的フレーズ感があるからなのだ、と思うのです。


だから音楽の演奏でフレージングって結構というか一番大事なポイントなんじゃないかと素人ながら思ったりする訳です。


室内楽はそこが一番はっきりとわかりますね。


しかし、これだけBISの室内楽を聴いたら、もう言うことなし!
まったく思い残すことないです。


やっぱりBISの録音、最高!!!






 

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