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ミルマスカラスの素顔 [雑感]

子供の頃はごたぶんに漏れず、プロレスに熱中した。オヤジからプロレスは八百長だ、と言われたのが子供心にショックだった。新日本プロレスのアントニオ猪木は最高に燃えたな。


その中でも、覆面レスラー、マスクマンは大興奮だった。


初代タイガーマスクの登場は衝撃だった。小さい子供の頃、アニメのタイガーマスクは何回も見ていたからだ。巨人の星とタイガーマスクは必須でした。この頃のアニメはひとつの影というか暗さがあって秀逸でしたね。


初代タイガーマスクの空中殺法には度肝を抜いたものでした。
ライバル小林邦昭との勝負は燃えました。


マスクマンの試合でやっぱり1番興奮するのは、相手が覆面に手をかける、ときではないだろうか?試合中に覆面剥ぎをしようとすると、もう興奮度ボルテージ最高潮になってしまう。観客席からキャーの異様な声になるし、実況アナウンサーも、「あっマスクに手をかけています!!!」と大絶叫。もうこれは最高の興奮のルツボだ。


後年知ったことであるが、初代タイガーマスクの佐山サトルと、ライバルの小林邦昭はプライベートでは仲が良いらしく、試合中にマスクに手をかける、ことはお互いの事前の了承済みだったんだそうだ。


ショーだったんだな。


これを知ったときは、少なからずショックでした。(笑)


初代タイガーマスクと小林邦昭の試合では、小林がタイガーのマスクに手をかけるときが、もちろん最高に興奮するときで、ある意味、これ見たさなところがありました。


マスクマンの試合で興奮するのは、マスクマン同士の試合で、試合の勝ち負けでマスクをかける、あるいはふつうのプロレスラーとの試合で髪とマスクをかける、という試合ではないだろうか?


当時って、本当に人間の精神の究極のショーをやっていたもんです。今のご時世、そんなことをテレビでやったらテレビ放映倫理上、苦情が来そうな感じがします。


そんな少年時代、衝撃のマスクマンが登場した。

ミルマスカラスである。


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メキシコの覆面レスラー。
メキシコという土地もプロレスが盛んな国でした。


ミルマスカラスは子供心に相当衝撃であった。そのマスクの奇怪なデザインで、カッコいいという反面、ちょっと異様な衝撃というか、相当気になる覆面レスラーであった。


そのレスリングスタイルは華麗なる空中殺法。ある意味、初代タイガーマスクのお手本だったというか、その前に空中殺法をプロレスの世界に取り入れた立役者でもあった。


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「千の顔をもつ男」。
「仮面貴族」。


試合毎にマスクを変えることから、そういうあだ名で呼ばれていた。
入場のときは、「スカイハイ」のテーマに乗って登場する。


スカイハイはカッコいいテーマ曲なので、当時の自分は外国人マスクマンなのに、なんかそういう日本人でもないのに正義の味方のようなイメージ付けにちょっと子供心に反抗心があった。(笑)


そして入場のときは、試合用マスクの上から別のマスク(オーバーマスク)を更に被り、試合前にそのオーバーマスクを客席に投げてファンにプレゼントするパフォーマンスが人気を集めた。


とにかくやることが常に斬新で、いままでの日本のプロレス界にはいないタイプだった。外国人レスラーだから子供心に認めたくないという気持ちが複雑にあって、ちょっと悔しいというか、でもやることが華麗で斬新でそれだけ気になるマスクマンだったのだ。


ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田の全日本プロレスのほうに登場しましたね。


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ネットで調べてみると、本名はAaron Rodríguez Arellano。1942年7月15日生まれ。現在78歳。メキシコのプロレスラー。サン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。学生時代からレスリングとボディビルに打ち込み、レスリングではメキシコ代表として1964年東京オリンピックの候補にもなったそうだ。


そうかぁ、ボディビルをやっていたんだな。だからこれだけのムキムキマンだったんだ。



ごたぶんに漏れず、ミルマスカラスの試合で相手がマスクに手をかけることを期待した。(笑)日本の試合ではなかったようだけれど、プロレスの雑誌はよく本屋さんで立ち読みをしていたので、そうすると相手がミルマスカラスのマスク剥ぎしようとしている場面や、マスクを破る衝撃場面の写真が載っていたりして、子供心に相当興奮しました。(笑)


こんな感じです。


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写真ではなかったけれど、タイガージェットシンとの試合で、ミルマスカラスのマスクを完全にやぶってしまい、素顔が露出して、あやうくタオルで顔を覆ったということもあったと記事を読んだことがあります。


相当興奮しました。


弟のドスカラスも有名な覆面レスラーであった。


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全日本プロレスではドス・カラスとの兄弟タッグ「マスカラス・ブラザーズ」としての来日も多かった。


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プロレスは、本当に小さいころ、小学生、中学生のときにもう卒業してしまったが、いまなにげなくミルマスカラスの素顔ってネットに転がっていないかな?と思って、ググってみたら、なんと!!!そんなスクープがあったのだ。(笑)


YouTubeにもなっている!


ミルマスカラスの素顔。


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えぇぇぇ~!?(笑)


ドスカラスの素顔。


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えぇぇぇ~!?(笑)


ミルマスカラスとドスカラスの対談


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ミルマスカラスと奥さん


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衝撃。。。笑笑


確かにミルマスカラスは、目元のまん丸としたところは、間違いなく本人に間違いないと思いました。


この画像の元になったのが、このYouTube。






ミルマスカラスが、マスクを取って、素顔を出すところが衝撃だ。(笑)

いまの年寄りになって、ようやくスッキリしました。


新型コロナでマスク不足が社会問題ですが、私は同じマスクでもミルマスカラスとドスカラスでいきたいと思います。


えぇ、いまの気が滅入る社会情勢の中、私もひたすらテレビ東京路線で突っ走りたいです。


2011年の東日本大震災のときに、ほとんど全部のテレビ局がその報道をやっていたにもかかわらず、テレビ東京だけが、いつもと変わらず旅番組をやっていたように・・・(笑)


 


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鍵を購入する [オーディオ]

ここ最近の日記の連投で、25年前の記憶が、徐々に蘇ってきた。
昔々、一生懸命PCのパワポで図面を書いて勉強していました。
同じような図面を何枚も何枚も書いたね。


だから脳裏の深いところにしっかりと刻まれているから、絶対忘れられないんですよね。久しぶりに書いてみたら、全然悩むことなくスラスラと10分くらいで書けました。


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当時、”インターネット音楽配信”と呼んでいた配信ビジネスの黎明期のブロック概念図。インターネットで音楽を配信するなんてどうやるんだ、という手引書みたいなもの。


ネットの配信システムのほうはIBMのシステムで、ユーザーホームネットワークが家電メーカーが提供するというような役割分担。


もう音楽配信ビジネスなんていまのご時世、当たり前のコンコンチキだから、もうこのブロック図は全然秘匿性もないからオープンにしてもよいだろう。


役割分担は、


コンテンツプロバイダ:レーベル(レコード会社)
サービスプロバイダ:配信事業者
第三者機関(クリアリングハウス):著作権権利団体
ユーザホームネットワーク


コンテンツプロバイダは、たとえばこのように複数考えられるだろう。


レーベル1:ソニーミュージック
レーベル2:ビクターエンターティメント
レーベル3:ワーナー・ミュージック
レーベル4:ユニバーサルミュージック
レーベル5:ワーナー・ブラザーズ


などなど多数。


サービスプロバイダは、たとえばこのように複数考えられるだろう。ただし当時は、ファイルダウンロードのみの発想でいまのようにストリーミングはなかったけど(あったとしても地下に潜っていた。)わかりやすく、いまのストリーミング配信事業者を割り付けよう。


配信事業者1:Amazon Music HD
配信事業者2:mora qualitas
配信事業者3:Spotify
配信事業者4:Apple Muisc
配信事業者5:Line Music


などなどこれまた多数。


第三者機関(クリアリングハウス)というのは、いわゆるJASRACのような音楽の著作権を管理する権利団体のようなところが担うものという発想だった。


そしてユーザーホームネットワークである。Gatewayというのは外のインターネットとつながる窓口、ゲートウエイだ。まぁ普通に考えればPC(パソコン)ですね。


まず、コンテンツプロバイダは、クリアリングハウスにコンテンツを提供して、配信用コンテンツをオーサリングする。配信用コンテンツというのは、いわゆる暗号化コンテンツである。ある鍵で暗号をかけ、そして暗号を復号するときはその鍵で復号する。もちろんコンテンツ単位で鍵はひとつひとつ違う。


そしてその暗号化コンテンツにコンテンツIDを付与して、コンテンツDBに格納する。


つぎにサービスプロバイダは、クリアリングハウスから、自分のショップで販売したい配信用コンテンツをよりどり好みでたくさん取り寄せる。


サービスプロバイダというのは、つまり商品の棚に、いろいろなレーベルのいろいろなアーティストのコンテンツを並べる、といういわゆるお店、販売ショップという立場ですね。つまりWEBデザインされた自分のショップのHPにジャケ写を羅列して、展示する、そんな感じです。


サービスプロバイダというのはレーベルのコンテンツを売る販売ショップの方々のことですね。もちろんレーベル自身が売る場合もあるから、そのときはコンテンツプロバイダとサービスプロバイダを兼務することになる。


そしてユーザは自分の好みのサービスプロバイダにサービス登録して、そこからコンテンツを買う。(ユーザーはコンテンツをサービスプロバイダから買います。)


そのとき、ユーザはクリアリングハウスに対して課金決済をして、その暗号化コンテンツを復号化する鍵を購入するわけだ。


”暗号化コンテンツを視聴するために、課金決済してその鍵を購入する。”というのが、システムの大前提の発想だ。


いまの時代の感覚でいえば、ふつうはサービスプロバイダが、こういう課金決済、鍵配信などをやるのがふつうですよね。ユーザーはサービス販売ショップに対して課金決済している感覚のはず。


でもこの当時はJASRACのような著作権権利団体が、こういうクリアリングハウスのようなDB集合体を第三者的な立場で管理して、各々のコンテンツプロバイダ、サービスプロバイダを登録して全体を一元管理するという考え方だったんですよね。


そして課金DBで権利者に対して契約で決まっているパーセンテージで配分率を計算し、その料金をコンテンツプロバイダやサービスプロバイダに利益分配する、という段取り。


これが黎明期のインターネット音楽配信のブロック図だ。


やっぱり黎明期だけあって、古いというか、こなれていないね。(笑)まずJASRACのような著作権権利団体がこんな複雑で大規模なDBを管理できるはずもなし。(笑)


現在は、間違いなくサービスプロバイダの中で、課金決済などの処理を全部完結させてしまうはず。ショップ単位で課金して、権利者に払っているという感じでしょうか。


さもないと、レーベルなんて世界中に存在するわけだし、ネット配信業者だって世界中に乱立している。それをクリアリングハウスで一元管理なんて事実上無理な問題だ。


ペーパー上での理論図と実際のビジネス様態は違う、ということですね。


万が一、クリアリングハウスで一元管理する、としよう。そうするとクリアリングハウス内でコンテンツオーサリングで配信用コンテンツを作成するわけだが、そうなると音声Codecやいっしょに内包するメタデータの形式など、どのサービスプロバイダでも共通になってしまい、サービスの差異化、差別化ができなくなってしまう。おれっちのところはDSD配信に限定とか、おれっちのところはPCM192KHzでしかもなんと32bitだぞ!
というような他社との差別化ができない。やっぱり伝送フォーマットのCodecはサービスに応じてグレード差異化したいですよね。


メタデータだってそうだ。メタデータというのは音楽データの付帯情報などが記載されているデータのことなのだが、ROONのようにこのメタデータの仕掛けでシームレスに検索できるような仕掛けも作るわけだから、このメタデータの作り方でおらっちだけの差別化はしたいはず。


ということで、上の図のクリアリングハウスの中にある数々のDBは、ほとんどサービスプロバイダ自身の中で各々持っていてショップ自身で完結してしまっている、と思っていいと思う。そしてショップ単位で権利者に利益分配しているんだろう。


ちなみにインターネットでの通信では、かならずセキュリティ上、暗号化、認証をおこなって通信する。公開鍵暗号による認証と、共通鍵暗号によるコンテンツ暗号である。


上の図のコンテンツプロバイダ、サービスプロバイダ、クリアリングハウス、ユーザーホームネットワークの間の通路パスでの通信のことである。


クリアリングハウスの中にあるDB集合体。


コンテンツDB
メタデータDB
顧客管理DB
鍵DB
認証DB
個人嗜好DB


はコンテンツ電子データのEC(E-Commerce):電子商取引で最低限必要なDBたちである。


いまのご時世では、サービスプロバイダのそれぞれにこれらのDB集合体を持っていると思われる。この黎明期のときと、いまのご時世の違いといえば、


たとえばいまはファイルダウンロードじゃなく、ストリーミングが主体。そうするとストリーミングの暗号化ってどうやるんだろう。どういう鍵の受け渡しをするんだろう?


そして課金決済も、サブスクリプションである。
定額の少額決済。そうすると再生回数をカウントする必要がある。


それに応じて、再生1回あたり何円と決まっているから、その再生回数に応じて総額が決まり、それを各権利者に利益分配するということだろう。


たしかに時代に流れに応じて、この黎明期の頃から、随分と紆余曲折してきたけれど、でも骨子となる屋台骨、考え方の基本はそんなに違ってないと思うんですよね。


ボクの青春時代の熱中していたテーマでした。


当時は、ネット配信なんて音楽ビジネスの根本を壊すということで、ずいぶん白い目で見られていた。あれから25年経過したわけだが、ものごとがちゃんとモノになるというのはずいぶん時間のかかることだな、とProject Xのオヤジのような想いにふけっています。(笑)



これから新しい取り組みとしては、コンサートホールでのライブストリーミング配信ということになると思われるが、このプラットフォームに合わせると、オーケストラの楽団がコンテンツプロバイダで、ライブストリーミングをするサービスがサービスプロバイダになるのであろうか?ライブストリーミングというビジネスは比較的新しい分野なので、注目だ。





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電子商取引 EC(E-Commerce)は全然新しい技術じゃない [オーディオ]

全然新しい技術じゃないです。はっきり言って進歩はしているだろうけれど、すでに枯れた技術です、ハイ。


みなさんがネットで買い物するとき、たとえばアマゾンとか、いわゆるネットショッピングするとき、俗にいう”ポチる”というやつですね。


あれはもうすでにEC(E-Commerce)、電子商取引のシステムが出来上がっているから、そういうことができるのです。


インターネット側のサーバーにそういうシステムがあるのです。

ネットから拾ってきた図ですけど、こんな感じ。


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この図は異業種だからピンとこないけれど、これを音楽配信用にmodifyしているだけです。


課金するには、


顧客管理DB
コンテンツDB(ID,コンテンツ)
暗号鍵DB
課金DB


この要素を組み込めばいい。


と言いましたが、ここで言っている各々のDBの要素は、どの業種のネットショッピングのECでも必ず必要になるものです。


どのインターネットショッピングのサイトでも、


カスタマーID(ふつうはメールアドレス?)、パスワードとか、クレジットカード登録とかPayPalとか、そしてインターネット上で通信するにはセキュリティ上、絶対暗号化、認証は必要になります。


音楽配信の場合は、コンテンツはデジタル電子データなので、購入したらネット上でそのままユーザ宅にネットを通してダウンロード、あるいは音楽ならストリーミングできるだけで、アマゾンのような物販だったら、注文をこのサーバー群で受けたら、そこで課金処理をおこなった後、倉庫に連絡通信が行って、ユーザ宅にその商品が宅配されるだけの違いです。


だから課金決済するところのサーバー群は同じ発想です。


だからいまじゃ当たり前のコンコンチキの技術なんですね。


自分が1995年頃にこのECを知ったとき、すげえ〜そんなことができるんだ!と慄きましたが、今のご時世誰もが当たり前に自宅でネットショッピングで体験している技術なのです。


全然そんなすごいことを言っているわけではありません。


だからサブスクリプションで定額の少額決済をしたり、再生回数をカウントしたり、権利者に契約で決められたパーセンテージで利益分配するとかそういう音楽配信特有のことをちょっとmodifyするだけだと思うんですよね。


購入履歴を分析することによるデーターマイニング技術も、いまや当たり前のコンコンチキ技術ですね。


アマゾンでも、うっとしいと思うくらい余計なリコメンドしてきますね。(笑)


だからこういうサーバーソフトというかDB集合体のパッケージ商品って今のこの世の中、どこからでも出していると思うんですよね。(商品名思いつきませんが・・・)


だれでもすぐにEC:電子商取引が始めれます、という感じで。


だからお金出して、パトレオンから提供してもらって、いちいち管理料、手数料を売り上げから、差し引かれるくらいだったら、自分で作っちゃったほうが早いです。


日本人の技術力は凄いです。


サーバー管理はソフトウエア開発ですね。おそらく。


じゃあお前がやれ!と言われれば、できませんが・・・(笑)


アーティストの公式HPに、こういうEC機能を組み込むことは、そんなに敷居の高いことじゃないと思います。


パトレオンの宣伝に慄いてはいけません。


ところで、ノンノンさん、いったい誰に言ってんだ?と言われるかもしれませんが。(笑)





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世界の朝食を食べさせてくれるお店 ロシアの朝ごはん [グルメ]

広くて清潔感あふれる綺麗なお店だった原宿店がまさかの閉店。お客さんも結構入っていて繁盛していると思っていたんだけれど、やっぱり原宿は家賃が高くて経営を圧迫していたのかな?大のお気に入りのお店であっただけに本当に残念です。


代わりに吉祥寺店がオープンした。


世界の朝ごはんをサーブするコンセプト・レストラン「WORLD BREAKFAST ALLDAY」は外苑前本店と、この吉祥寺店の2店舗での経営体制になる。


そういう端境期のときに、まさかのコロナ不況。

ご多分に漏れず、相当ダメージを被っているに違いない。
コロナ不況で潰れないでね。

その新店オープンの吉祥寺店を体験してきた。
(もちろん外出自粛要請の今週末ではなく、数日前です。)


吉祥寺は、いつも東京都で住みたいベスト10のつねに1位、2位のトップを争っている大人気の街だ。吉祥寺にお店を出すというのは、そういう意味でも人気の街のアンテナに敏感でナイスな判断だな、と思いました。


でも自分は不思議と吉祥寺にはあまり縁がないんだよね。東京に住むようになって、30年以上になるけれど、吉祥寺に行ったことはほんの数回しかないし、吉祥寺という街をよく知らない。自分の頭の中にどんな街なのかイメージできない。


今回吉祥寺店がオープンしたことで、”吉祥寺の街を散策する”日記を企画したのだけれど、あえなくコロナ騒動で不発。いつ実現できるかどうか。


京王井の頭線で吉祥寺で下車して、店まで行く道すがら、吉祥寺の街並みを見ながら歩いたのだけれど、う~む、そんなに素敵な街の景観という感じでもなく、ふつうのそこら辺にあるふつうの街という感じで、一見しただけでは自分にはこの街の魅力というのがわかりませんでした。


事前に吉祥寺ウォーカーの雑誌を買って、吉祥寺の魅力のスポットを勉強したんだけれど、まぁ要は雑貨がかわいいお店がたくさんあって、そして女性に人気が出そうなグルメスポットな街、そして井の頭公園という感じだろうか。


自分の感性にビビッとくるような鮮烈な衝撃がないんだよね。コロナが終息したら、じっくりと吉祥寺の魅力について勉強して、たっぷりと散策して日記で語ってみたいと思います。


吉祥寺店は、吉祥寺駅から徒歩5分くらいのところにある。
なんとセブンイレブンの横にゲートがある。


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なんかちょっと裏地という感じでやや寂しい雰囲気がありました。
自分はあまり立地がよくないと思いますね。カフェレストランの条件に必須な明るい開放的なイメージがなく、なんか暗い閉塞感がある。



店内


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こういう丸いテーブルスタイルだと、自分のようなお一人様だとけっこう厳しいものがあります。(笑)


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う~む。総評としてそれなりにいままでの継承スタイルを残していて、それなりに雰囲気があっていいと思うけれど、やっぱりどこか閉塞感があって、やや暗い感じがしてしまうのは、やはり原宿店があまりに素晴らしすぎたからだろうか・・・


ほかにいい場所がなかったのかな?
確かに家賃は高くはなさそうでいいと思うけれど。。。

自分的にはもうちょこっと明るい開放感のイメージが欲しいです。


でもそんなわがまま文句ばかり言ってもいけません。


世界の朝ごはん、吉祥寺店はオープン時にメディアのWEBサイトでも紹介されていて、とても話題になっていました。


Casa BRUTUSのウェブサイト

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吉祥寺のスィートスポットになって、名観光場所になればいいですね。

こういう店内の雰囲気の方がかえって、吉祥寺の雑貨店っぽい感じが出ていいかもしれませんね。スミマセン、自分は吉祥寺よく知らないもんで。


吉祥寺は自分の住んでいる街から遠いし、今後、世界の朝ごはんを食べに行くレストランとしては、やはり最初の頃に戻って外苑前の本店ということになるかなぁ?


あそこも狭いからね。肩を寄せ合ってぎゅうぎゅうだから、いまのコロナ情勢ではノー”密”に反する場所のように思えてしまう。


う~ん、困った。
コロナは自分の人生のすべての楽しみをつぎつぎと奪っていく。


今回の世界の朝ごはんはロシアの朝ごはん。

コロナ騒動で、一度はあきらめた。
でもほとぼりがさめたその瞬間に急ぎ足で体験してきた。
これで、この連載スタート以来23か国目の世界の朝ごはんだ。
記録が途切れなくてよかった。


世界の朝ごはんを紹介するときは、いつも自分の経験談にもとづいて、その国についての自分の思い入れなどを紹介するのだが、残念ながらロシアは未体験の国だ。


クラシックの世界ではロシアはとても歴史の深い重要な国なんですよね。
ロシア出身の作曲家と思いつくだけでも、


チャイコフスキー
リムスキー=コルサコフ 
スクリャービン
ラフマニノフ
ストラヴィンスキー
ラフマニノフ
ムソグルスキー
ボロディン
プロコフィエフ
ハチャトリアン
ショスタコーヴィチ


これだけいるのだ。
もうクラシックファンだったら絶対避けては通れない大作曲家たちばかりだろう。


そしてロシア出身の指揮者だったら


ヴァレリー・ゲルギエフ
キリル・ペトレンコ
トゥガン・ソヒエフ
ウラディーミル・ユロフスキ
エフゲニー・ムラヴィンスキー
ミハイル・プレトニョフ
ドミトリー・キタエンコ
ウラディーミル・アシュケナージ


そしてロシア出身の演奏家ならリヒテル、マツエフなどこれまた数えきれないほどいる。

まさにロシアはクラシック大国で、とても深い歴史を抱えてきているのだ。


自分には冷戦時代のソ連の社会主義の圧政のイメージがどうしても大きいが、クラシックというジャンルではとても伝統的な芸術文化を育んできた精神豊かな国なのだ。


ロシアはぜひクラシック音楽鑑賞旅行に行ってみたいと思っている国の候補で、ホールマニア、ホール愛好者である自分にとって、モスクワ音楽院ホール、ボリショイ劇場、マリンスキー劇場、そしてつい最近オープンしたモスクワ ザリャジエ コンサートホール(2018年9月オープン)など魅力的なホールばかり。


特にモスクワ音楽院ホールは、あのチャイコフスキー国際コンクールが開催される会場で有名ですね。これらのホールはぜひ訪問してみたいです。


ロシアの地理感覚は、ここ。(これはいくらなんでもみんな知っているよね。(笑))


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でもここで、じつはロシアの観光ポイントはどこ?と言われると、これだけの広大な国だから意外と、むむむ?って思ってしまうのだが、ここである。


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やっぱり首都モスクワと、「北のベニス」と称せられたサンクトペテルブルクが1番の観光ポイントだろう。モスクワとサンクトペテルブルクには壮大な歴史と文化が色濃く残っている。


モスクワのシンボルである世界遺産「クレムリン」、世界三大美術館「エルミタージュ美術館」、琥珀の間で有名な「エカテリーナ宮殿」など、まさにロシア文化の象徴ですね。上の図のいわゆる「黄金の環」とよばれるリングで結ばれる街々がロシア芸術が集中している街だそうだ。



これらのロシア観光に関する情報、写真は、

クラブツーリズム:ロシア特集
https://www.club-t.com/special/abroad/russia/spot.htm

より引用しています。


ロシアといえばクレムリン。


「城塞」を意味し、ロシアの多くの都市にあるが、その中で最も最大かつ有名なモスクワのクレムリン。ロシアの政治、軍事の中心として繁栄してきた姿を見ることができる。見どころは、武器庫、ダイヤモンド庫。ロシアの歴史を物語る宝物の数々を展示。


このモスクワのクレムリン内にはロシア大統領官邸もあるのだ!


一番有名なモスクワのクレムリンの見取り図


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このクレムリンの外側に有名な赤の広場がある。


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赤の広場の「赤」とは色のことではなく、ロシアの古い言葉で「美しい」という意味。クレムリン城壁の東側、国立歴史博物館やワシリー寺院に囲まれた、7万3000平方メートルの広場。旧ソ連時代には、メーデーや革命記念祭のパレードなどが行われた。右にあるのは聖ワシリー寺院。民衆に尊敬され、イワン雷帝にも多大な影響を与えたワシリー修道僧にちなんで名づけられた。


聖ワシリー寺院


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ボクはロシアの赤の広場というと、かならず頭にイメージするのが、この聖ワシリー寺院の姿です。自分のカメラで撮影してみたいものです。


レーニン廟


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レーニン廟はユネスコの世界遺産に登録されている。レーニンは第一次世界大戦とロシア革命の時期のロシアで、第2次ロシア革命の指導者となった人物。廟の下には1920年代半ばから腐食防止加工がなされたまるで眠っているかのようなレーニンの遺体が安置されている。



自分はロシアでもっとも芸術文化が栄えて美しい芸術都市は、サンクトペテルブルクだと思っているんですよね。ロシアで一番美しいという理解です。ゲルギエフのマリンスキー劇場は、このサンクトペテルブルクにありますね。


ロシア連邦の北西部、ネバ川の河口に位置し、バルト海のフィンランド湾に臨む港湾都市。モスクワに次ぐ工業・学術・文化の中心地。


サンクトペテルブルクは、現在では大国ロシアの歴史を伝える一大観光名所となっている。


このサンクトペテルブルクといえば、エルミタージュ美術館ではないだろうか?
行ってみたい~~~!!!


世界三大美術館ってご存じですか?


・ルーブル美術館(フランス・パリ)
・メトロポリタン美術館(アメリカ・ニューヨーク)
・エルミタージュ美術館(ロシア・サンクトペテルブルク)
・プラド美術館(スペイン・マドリード)


諸説ある世界三大美術館だが、おおむねこの4つの美術館が挙げられる傾向にあるそうだ。どの説でもルーブル美術館は確実に世界三大美術館の一つとして数えられているものの、他の3つの美術館は説によって入れ替わりがあるということのようだ。


サンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館は、そんな世界三大美術館のうちのひとつに挙げられる美術館なのだ。


エルミタージュ美術館


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美しい~!


世界三大美術館のひとつと称されるエルミタージュ美術館。
世界でも名高い美術品ばかりをコレクションした美術館である。


その内部に納められている作品数は、なんと約300万点!1作品を1分ずつ鑑賞しても、すべて鑑賞するのに5年以上かかるほどの量。次々と現れる名画と、延々と続く豪華な部屋に圧倒されること間違いなし。


行ってみたい~~!


サンクトベテルブルク郊外にもどうしても行っておかないといけない美術館がある。


エカテリーナ宮殿


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このエカテリーナ宮殿でもっとも有名なのがこの琥珀の間。


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美しい~!


琥珀の装飾パレルは冬宮から移転され、エカテリーナ2世の時代に450kgの琥珀を用いた豪華な部屋が完成した。第二次世界大戦時ドイツ軍に持ち去られたため、琥珀の間は失われていたが、1979年から始まった復元作業により、2003年に琥珀の間は完全に復元された。


なんかこの美術館も世界三大美術館に入れたい感じがしますね。


とにかく行ってみよう!ロシア!である。


ここからロシアの食文化の情報です。

Copyrighted by WORLD BREAKFAST ALLDAY
Photo by WORLD BREAKFAST ALLDAY


ロシア連邦


ロシアは世界で最も大きな国(日本の45倍、米国の2倍近く)。
ヨーロッパに近い西側に大都市や農業地帯が集中しています。
宮廷文化が華開いたロマノフ王朝、社会主義国家のソビエト連邦の時代を経て現在のロシア連邦になりました。


ロシア国旗

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寒冷地


国土の多くが寒冷地で、収穫できる作物と時期が限られていることもあり、料理には穀物や乳製品、ジャガイモなどが多く使われます。ロシアはマヨネーズの消費量が世界一。寒冷地ゆえ、カロリーの高い食品が好まれます。


保存食


ロシア料理のルーツにあるのは、厳しい気候風土で暮らしてきた農民の食文化。長い冬を乗り越えるため、様々な野菜をピクルスにしたり、果物をジャムにして保存し、スープや煮込み料理、料理の付け合わせに多用します。


食生活の均質化


ソ連の時代になると、個人のレストランはほとんど姿を消し、国中に外食用の国営食堂が建設されました。どこの食堂も国が決めた同じレシピで料理が提供されたことにより、現在でもロシアではどの地域も同じ料理が食べられています。



ルノイク


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ルノイクは個人が野菜や果物、肉などを販売する民間の市場。共産時代から存在し、国営商店とは異なるルートで様々な食材が揃うことから、当時も今も市民の台所として親しまれています。



マースレニッツァ


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厳しい冬を送り、春を迎えるスラブのお祭り。毎年2月下旬に1週間かけて祝います。(今年は2月24日~3月1日)冬を象徴する人形を燃やし、太陽を象徴する食べ物として丸い形のブルヌイをたくさん食べます。



ブルヌイ


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ブルヌイはクレープとパンケーキの中間のような料理。生地はもっちりしていて、スメタナやイクラ、サーモン、ジャム(ヴァレーニエ)など、いろいろな具をのせたり包んで食べます。



スメタナ


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スメタナはサワークリームに似た、ロシア料理には欠かせない乳製品。ポルシチやシチー(キャベツのスープ)からブリヌイ、ヴァレニキ(水餃子)まで、ロシアの食卓であらゆる料理に使用されています。



イクラ


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イクラは魚の卵という意味のロシア語。ロシアでは日本でいうイクラを「赤いイクラ」、キャビアのことを「黒いイクラ」と呼びます。日本ではお米と一緒に食べますが、ロシアでは「赤いイクラ」をパンやブルヌイに乗せて食べます。



カーシャ


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カーシャはソバの実やオーツ麦、米などを水や牛乳で煮たお粥。朝ごはんによく食べます。ソバのカーシャがポピュラーで、朝ごはん以外にも料理の付け合わせとしても食べられています。



トヴァローク


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バターやスメタナなどをつくる際に生じる固形物で、カッテージチーズに似ています。低脂肪、低カロリーでありながら、栄養が豊富に含まれており、甘くして食べる場合もあれば、塩っぱくして食べることも。



ヴァレーニエ


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果物を砂糖で煮たもの。ジャムに似ていますが、果肉を煮崩さず、果実の形がそのまま残っているのが特徴です。夏の時期に森やダーチャ(別荘)で採れた果実はヴァレーニエにして長期保存します。ちなみにロシアンティーといえば紅茶にジャムを入れるイメージがありますがロシアではヴァレーニエをスプーンで舐めながら飲むことはあっても、紅茶に入れて飲むことはありません。



シルニキ


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シルニキはトヴァロークに小麦粉、卵、砂糖などを混ぜて焼き上げたパンケーキ。スメタナやヴァレーニエなどを添えて食べます。週末の朝ごはんの定番でもあります。


ボルシチ


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世界三大スープのボルシチ。ビーツが入った赤いボルシチが一般的ですが、ボルシチとは具たくさんのスープのことなので、ビーツが入っていない白いボルシチや緑のボルシチがあります。



スビテン


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ロシアでは冬の時期によく飲まれるのがスビテン。水とはちみつにスパイスやハーブを加えた飲み物で、その歴史は古く、コーヒーや紅茶が伝わる前から、ロシアで親しまれているホットドリンクである。



紅茶とジャム


ロシア人は紅茶をよく飲みます。ロシアンティーといえば紅茶にジャムを入れるイメージがありますが、ロシアではジャムをスプーンで舐めながら飲むことはあっても、紅茶に入れて飲むことはありません。



モルス


クランベリーやコケモモなどの酸味のあるベリーを砂糖と水で煮だしてつくるジュースで、ロシアのレストランやカフェには必ずといっていいほどある定番ドリンクです。



ウォッカ


瓶ごと冷蔵庫で冷やしたものをショットグラスに注ぎ、ストレートで飲むのが一般的です。大酒飲みが多いイメージもあるロシアですが、最近では健康志向などから飲酒を控える人が増えているとの統計も。



ここから、ようやくロシアの朝ごはんの自分の体験談。


今回どうしても体験したかったものがあった。


それはボルシチ。


「世界三大スープ」ってご存じですか?


世の中ってなんでも三大〇〇〇って好きですね。(笑)


実は世界を代表するスープは3つには絞りきれず、今では4大スープとして紹介されていることが多いとか。


・ブイヤベース(フランス)
・ボルシチ(ロシア)
・トムヤンクン(タイ)
・フカヒレスープ(中国)


世界三大スープなのに、4つのスープがあがっていますが、これはそれぞれを組み合わせて世界三大スープとする声があるためなんだそうです。


トムヤンクン大好き!


タイ料理を初めて食べたとき、このトムヤンクンに相当ハマりました。タピオカといっしょにね。今流行っているあんな真っ黒の気持ち悪いのではなく、白いココナッツミルクに透明のタピオカが入っているそういうタイ料理のデザートです。


日本人からすると、自分の大好きな味噌汁、味噌スープも入れて五大スープにしてほしい。(笑)


この4つのスープの中で、唯一経験していないものがあり、それがロシアのボルシチ。

だから楽しみにしていたのだ。


ここからは私の実体験した私が撮影した写真です。


ボルシチ!


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念願のはじめてのボルシチを食した感想。
こんなもんか・・・(笑)


まっもちろん美味しいですが、そんな衝撃というほどでもなく。

野菜をふんだんに使った甘みのあるスープ。
第一食感は、甘い!ですね。


玉ねぎやニンジン、キャベツなど沢山の具材を炒めて、赤く甘みのあるスープに仕上がっている。素材の甘さがじんわりと身体に浸透していく、ほっとするようなスープです。


このようなワンプレート用の小皿ではなく、本場のロシアでの大皿で食してみたいです。
野菜たっぷりで。


ボルシチは、ロシア料理と思われていますが、実はウクライナの伝統料理。ウクライナから徐々に東欧、そしてヨーロッパにまで広がったようです。



そして今回のメインであるロシアの朝ごはんのワンプレート。
私の写真です。


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ロシアの朝ごはんのメインであるブリヌイはクレープとパンケーキの中間のような料理。生地はもっちりしていて、スメタナ (サワークリームに似たロシア料理に欠かせない乳製品)やイクラ、サーモン、ジャム(ヴァレーニエ)など、いろいろな具をのせたり包んで食べる。


お皿の目の前にあるのがブルヌイ。ロシアの朝ごはんの主食です。


左のブルヌイの上にスメタナ(サワークリームっみたいなもの)、右のブルヌイの上にイクラが乗っています。


第1食感、すご~いモッチリ~!


美味しいです。このもっちりした食感はたまらなく美味しいですね。すごい食べ応えがあります。本当にクレープとパンケーキの中間という感じで、あういうちょっとした甘みがついているような感じです。生地としては無味ではないです。でも味の大きなアクセントは、その上に乗っているスメタナやイクラですね。


これが主食なんですね。


その右上の灰色の蕎麦のお粥「カーシャ」。
これは微妙ですな。(笑)
もちろん全然不味くはないですが、いわゆる蕎麦ですから、基本はそういう味がします。
でもそれが美味しいか、というと・・・


真ん中上の紫色&赤いサラダはビーツのサラダ。
これはまたかなり微妙ですな。(笑)

ビーツは赤い色と独特の甘みが特徴の根菜。赤いボルシチにも使われている。
日本ではあまり食べない野菜ですが、ロシアではよく食べられている野菜とのことなんだが、そういうことか。どうも違和感というか、いままで食したことのない感じの味覚と食感なので、かなり微妙な味でございました。(笑)


左上がトヴァローク。
バターやスメタナなどをつくる際に生じる固形物で、カッテージチーズに似ている。
これは美味しかったですね。日本人の味覚に合います。


ロシアの朝ごはんは、やっぱり主食のブルヌイが美味しいですね。
寒い厳冬の食事という感じがします。


あー一度はロシアに行ってみたいですね。


この世界の朝ごはんを提供してくれるコンセプト・レストラン「WORLD BREAKFAST ALLDAY」の世界の朝ごはんの10か国のレシピが本になったそうです。


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おうちで作る世界の朝ごはん(笑)




ぜひ、これで自分のおうちで世界の朝ごはんを作ってみよう!

ずっと自分の日記で特集してきた世界の朝ごはんシリーズ。


コロナ不況なんかに負けるなよ~!

潰れないで、なんとか持ちこたえてくれよ~!


これで潰れちゃったら、自分のいままでの苦労が全部水の泡だ・・・。






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児玉麻里さんのベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集 [ディスク・レビュー]

児玉麻里さんは、ベートーヴェンという作曲家をテーマにそのピアニスト人生を捧げてきた、とても計画的な演奏家人生を送ってきたのであろう。


自分たちのようなエンドユーザーには、その作品がリリースされたときに、初めてそのことに気づくのだが、作品を創作して世に送り出す立場からすると、もう何年も前から計画的に考えていないとこのようなことは実現不可能のように思える。


児玉麻里さんのベートーヴェン愛については前回の弦楽四重奏曲のピアノ編曲版でのご本人の寄稿を紹介した。


ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集では、2003年から2013年にかけての11年間かけて、そしてベートーヴェンの弦楽四重奏曲のピアノ編曲版、そしてベートーヴェン ピアノ協奏曲全集を2006年から2019年にかけての13年かけて完成させた。


まさに”ベートーヴェンにピアニスト人生を捧ぐ”である。


さっそく聴かせていただいた。
児玉麻里さんのベートーヴェン ピアノ協奏曲全集。
ベートーヴェン生誕250周年記念イヤーへの大きなプレゼントである。



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ピアノ協奏曲全集(第0~5番)、ロンド、三重協奏曲、他 
児玉麻里、ケント・ナガノ&ベルリン・ドイツ交響楽団、
コーリャ・ブラッハー、ヨハネス・モーザー(4SACD)



ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、それこそマーラー音源と同じにように、自分にとっては18番のマイテレトリーで、たくさんのピアニストの音源を持っているのだが、今回の児玉麻里さんの録音は、その最高位に位置する録音のよさ。さすが最新録音。やっぱり新しい録音はいいな、と思いました。


オーディオ・ファイルには堪らない素晴らしいプレゼントになりました。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集をSACDで、というのは、なかなかありませんよ。


これはキングインターナショナルによる日本独自企画の限定盤のようなんですね。
SACDで実現できた、というのもそれが大きい理由でした。


ベルリン・クラシックスから提供のハイレゾ・マスターを用いて、キング関口台スタジオにて、SACDマスタリングを施した、とのこと。


SACDサラウンドではなく、SACD2.0ステレオになります。


旦那さまのケント・ナガノ氏とベルリン・ドイツ交響楽団(DSO)との共演による作品。2006年、2013年、2019年と大きく3回に渡って、ベルリン・イエス・キリスト教会、テレデックス・スタジオ・ベルリン、ベルリン・シーメンスヴィラの3箇所で録音された。


第1番~第5番だけではなく、本作品には、第0番、ピアノと管弦楽のためのロンド、エロイカ変奏曲、ピアノ・ヴァイオリン・チェロと管弦楽のための三重協奏曲が入っている。


第0番というのは、ベートーヴェンの処女協奏曲で、番号が振り割れられていない、珠玉の聖典集の仲間入りを果たすことのできなかった作品である。作曲開始の年齢は13歳から14歳と言われている。


児玉麻里さん曰く「自筆譜を手にしたときの衝撃は計り知れません。ベートーヴェンが触れたインクを目にすることができたのですから。」


この手稿譜はベルリン州立図書館に所蔵されており、オーケストラ譜が記載されていないため、未完成作品として扱われている。ただ最初の二楽章に関しては短い加筆譜とともに、どの楽器が弾くべきか、という簡潔な指示がされており、二十世紀初頭にはこうした指示書きをベースとしたスコアも出版されているそうだ。


しかし研究が進み、若きベートーヴェンへの理解が深まると同時に、いままで通説とされてきた解釈が必ずしも作曲者本人の意図ではないのではないか、という見解が児玉麻里さんとケント・ナガノ氏の間にも生まれてきた。


お二人の目的は、世間一般に広く浸透している、しかつめらしい活力の氾濫とも呼べる巨匠のイメージを払拭し、ハイドンやモーツァルトに通ずる「生きる喜び」に溢れた少年の姿を描くことだったという。


録音年月日を見ると、通常の第1番~第5番までは、2013年にはすでに録音は終わっていたようなんですね。だから通常のベートーヴェン・コンチェルトとしてリリースするならもう少し早い時期に出来たはずなのだけれど、この第0番の発見、そしてこの自筆譜のお二人による共同作業による研究でどのように音として再現するか、という準備に時間がかかったのだと思います。


この第0番の録音は最新の2019年に行われています。


ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第0番を聴けるのは、このディスクが初めてだと思います。


自分がこの第0番を聴いた印象。


これはベートーヴェンじゃない!(笑)
とても綺麗で美しい曲で、まるでモーツァルトみたいな作品だと思いました。
ベートーヴェンらしくない。あのベートーヴェン独特の様式感、様式美とは全然違う世界。


やっぱり13歳~14歳頃に作曲した曲だから、自分の書法というのを模索していた時期の曲なんだな、と思いました。


ケント・ナガノ&児玉麻里による共同研究の末の成果、しかと拝受しました。


今回の自分にとって、さらなる新しい発見は、ピアノ・ヴァイオリン・チェロのトリオ・コンチェルト。これは素晴らしいと思いました。聴いていて鳥肌が立ちました。とくにチェロが、あのヨハネス・モーザーで驚き。これを録ったのは、2006年の頃だから、まだPENTATONEの契約アーティストになる前。相変わらずスピーディーで切れ味鋭い、その男性的なチェロの音色にノックアウト。


第1番~第5番は、やはり安定したベートーヴェンによる巨匠の筆致という感でじつに素晴らしい。


これぞ、まさにベートーヴェンの風格がする曲ですね。第4番、第5番「皇帝」がやはり完成度も高く、人気が高い。とくに第5番「皇帝」が最高傑作と呼ばれているのではないだろうか。


自分は、じつは第4番派なのである。
第4番を愛して止まないファンである。


児玉麻里さんのベートーヴェンを知り尽くした、深い深いベートーヴェン愛によるピアノと、ケント・ナガノ氏&DSOによる堅実で重厚なサウンドが相俟ってじつに素晴らしい作品となっておりました。


今回、この全集を作るうえでお二人がどのようなアプローチをしたのかがYouTubeで紹介されております。ベルリン・イエス・キリスト教会でのセッションのときの様子と、そのときにおこなわれたインタビューの模様がYoueTubeになっています。






内容を抜粋すると、


(ケント・ナガノ氏)


ヨーロッパの音楽の歴史を旅するかのように、その発展が生き生きと目の前に広げられます。音楽構造、様式、和声の再定義と方向転換、音楽の歴史に敏感になることは、指揮者にとって一般的に極めて重要なことです。


総譜は残されていませんが、それは、楽譜に残されている作品が未完成のままか、また不明な理由から失われてしまったからです。


しかし重要なことが現れています。演奏される音符はすべてベートーヴェンの筆によるもので、これらを通して、彼の職人技は完全に発達していったことがわかります。そしてその数年後に天才が芽生えます。


しかし音楽構造、様式、和声を完全に掌握しているという意味で、12歳、14歳の男の子がこれだけの才能を持つと思うと、非常に印象的です。


録音技術は、当時の楽器の移行の時期にあったことを念頭に置きました。楽器の指示には、チェンバロとフォルテピアノが選択肢として挙げられていますが、楽譜の強弱法の記載を見るとベートーヴェンはフォルテピアノをイメージしていたことがわかります。


その為、当時の一般的な演奏方法にしたがってオーケストラの中にフォルテピアノを置き、蓋を外し、より透き通った音響を目指して、現代のスタンウェイのコンサート用グランドピアノよりもフォルテピアノの響きに近づけました。


そうすることにより、麻里さんはより繊細な演奏を実現することができ、オーケストラの伴奏はより軽やかで透き通った響きになりました。その理由から、指揮者はアンサンブル全体の前ではなく横に立ちます。


共に生きた歴史、ソリストが妻であることにより、これには一切問題がありませんでした。しかし、この録音および公演プロジェクトのユニークなところは、当時の音の世界と美学に配慮しようとした点です。


(児玉麻里さん)


過去経験したこととは全く違います。通常はある特定のスタイルを学ぶことで、「もちろん、これはベートーヴェンの言語だ」と考え、もちろん、ベートーヴェンの言語が見えてきますが晩年はまた少し異なります。その為、ベートーヴェンがどのような影響を受け、当時、ベートーヴェンに影響を与えた人物、楽器、歌手、ピアノフォルテの響きなどについてたくさん研究しました。


それとともに現代の楽器で、できるだけベートーヴェンが思い浮かべた響きを蘇らせることに努力を費やしました。


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ベートーヴェンはコンチェルトを作曲するうえで、フォルテピアノを強く意識して、児玉麻里さんもピアノフォルテの響きを意識して演奏したという。


フォルテピアノについては、もうみなさんご存じのごとく古典ピアノですが、改めて、その構造、音についてしっかりと理解を深めるために、まとめた形で書いてみますね。


フォルテピアノは18世紀から19世紀前半の様式のピアノを、20世紀以降のピアノと区別する際に用いられる呼称である。これに対して現代のピアノを特に指す場合はモダンピアノという呼称が用いられる。


構造は、フォルテピアノは革で覆われたハンマーをもち、チェンバロに近い細い弦が張られている。ケースはモダンピアノよりかなり軽く、金属のフレームや支柱はモダンピアノに近づいた後期の物を除いては使用されていない。アクション、ハンマーはともに軽く、モダンピアノよりも軽いタッチで持ち上がり、優れた楽器では反応が極めてよい。


音域は、発明当初はおよそ4オクターヴであり、徐々に拡大した。モーツァルトの作曲したピアノ曲は、約5オクターヴの楽器のために書かれている。ベートーベンのピアノ曲は、当時の音域の漸増を反映しており、最末期のピアノ曲は約6オクターヴの楽器のために書かれている。


音は、モダンピアノと同様、フォルテピアノは奏者のタッチによって音の強弱に変化を付けることが出来る。しかし音の響きはモダンピアノとかなり異なり、より軽快で、持続は短い。 また音域ごとにかなり異なる音色を持つ場合が多く、おおまかにいって、低音域は優雅で、かすかにうなるような音色なのに対し、高音域ではきらめくような音色、中音域ではより丸い音色である。


ケント・ナガノ氏が言っているところの、つぎの2つのポイント。


「当時の一般的な演奏方法にしたがってオーケストラの中にフォルテピアノを置き、蓋を外し、より透き通った音響を目指して、現代のスタンウェイのコンサート用グランドピアノよりもフォルテピアノの響きに近づけました。」


普通ピアノの録音をする場合、全体の音場を録るメインマイクとピアノの音色を録るスポットで、後者は、蓋に反射して音が右に流れる方向にスポットマイクを置きますが、今回はピアノの蓋を外したということですから、こんな感じでピアノ・マイクをセッティングしたんですね。


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そして


「そうすることにより、麻里さんはより繊細な演奏を実現することができ、オーケストラの伴奏はより軽やかで透き通った響きになりました。その理由から、指揮者はアンサンブル全体の前ではなく横に立ちます。」


ということですから、こんな感じだったんですね。


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当時、ベートーヴェンのピアノ協奏曲がどのような形・シチュエーションで演奏されたのかを忠実に現代に復元し、ピアノの音色も当時のフォルテピアノの響きを意識した、という姿勢でお二人は臨んだのがよくわかります。(動画の中の使用されているピアノを見ると、古典スタイルのピアノではないように思いますが、でも響きをフォルテピアノの響きを目指した、と自分は理解しています。)



最後に録音テイストについて。


今回は、キングインターナショナルによる日本独自企画ということで、ベルリン・クラシックスから提供のハイレゾ・マスターを用いて、キング関口台スタジオにて、SACDマスタリングを施した、とのこと。


だから現場で録音をしたスタッフは、ベルリン・クラシックのレーベルのスタッフなのであろう。


ところがブックレットのクレジットには、他にDeutschlandradio Kulturの名が記載されている。


これは思わず反応してしまう。


Deutschlandradio Kulturいわゆる通称DLRは、ドイツの公共放送ドイチュラントラジオ・クルトゥーアのことである。


このDLRによるコ・プロデュースで有名な成果が、PENTATONEから出ているこのヤノフスキ&ベルリン放送響のワーグナーSACD全集なんかそうだ。


2015年の頃、PENTATONEのリリースするアルバムの録音クレジットに、やたらとこのDLRのクレジットが多く、そのときにいろいろ調べて、このコ・プロデュースのことを知った。


ドイツ独特の制度でかなり自分の中で印象深く記憶しているのだ。


この公共放送のDLRという組織は、ドイツ内のクラシック音楽のさまざまな録音をコ・プロデュース(共同制作)している。文字どおりコ・プロデュースというのは共同で原盤を制作するという意味なのだが、このDLRのコ・プロデュースは、作品のラジオ・オンエアを行う目的で、録音技術、録音スタッフ、場合によっては録音場所等を援助しながら制作し、作品のリリース自体は外部レーベルから行うという手法なのだそうである。


つまり自分たちが放送媒体機関、つまりメディアであるが故に、そこでのオンエアをさせるために再生する原盤を作成させる援助をするということ。そして原盤自体は外部レーベルからさせる、ということらしい。


DLRのコ・プロデュースの多くは、ベルリン・フィルハーモニー、コンツェルトハウス・ベルリンと、ベルリン・イエスキリスト教会で行われている。


放送メディアでオンエアさせるために原盤作成を援助するという、この独特のDLRのシステム。これはドイツ独特の制度というか非常に面白い制度である。


DLRは、2006年からこれまでに、200枚以上の作品をコ・プロデュースしている。


いまはディスクビジネスだけでなく、ネット配信ビジネスが大きな柱になりつつあるから、この”原盤”作成の定義の仕方も多少違ってきているだろう。


録音スタッフのクレジットには、このDLRからのスタッフもいる。トーンマイスターとかトーンエンジニアのほかに、トーンテクニックという役職がDLR特有ですね。


この児玉麻里さんのアルバムを作成する予算には、こういうコ・プロデュースによる出資も含まれている大プロジェクトだった、ということだったんですね。



録音テイストは、2chステレオとしては、じつに素晴らしい録音である。


豊かな音場感、明晰でソリッドなピアノの音色、オーディオとして聴くには、最高のオーケストラと、ピアノとの聴こえ方の遠近感のバランス。(生演奏で聴いている分には、もっとピアノは遠く感じるはず。)


全体の聴こえ方としても、D-レンジがすごく大きく、とても広い空間で鳴っている感じがよく伝わってきて自分の好みの録音です。


あとは弦合奏の音色に音の厚みがあって、聴いていてとても和声感ある気持ちの良さがいい。オーケストラのサウンドがオーディオでどう聴こえるか、の最大のポイントは、この弦合奏のサウンドがどう聴こえるかですね。ストリングスをうまく鳴らせないSPは、自分的にはどんなに高級なSPでもアウトです。


うちのヘッポコ2chでもこれだけ鳴るんだから最高です。(笑)


ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集といえば、数多ある自分のコレクションの中で最も愛聴しているのがこれ。


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アルフレッド・ブレンデルとサイモン・ラトル&ウィーンフィルによる録音。


PHILIPSがレーベルとして存在していた頃の古い録音ですが、これは自分が1番愛してやまない録音です。ベートーヴェンのピアノコンチェルトといえば、自分にとってこれです。


いまふたたび聴き返してみて、やっぱりブレンデルうまいな~。(^^;;
タッチがじつに軽やかでスピーディで本当にウマいと思いますね。

ブレンデルもベートーヴェン弾きとして有名なピアニストでしたね。



これで児玉麻里さんの”ベートーヴェンにピアニスト人生を捧ぐ”のディスコグラフィー、しっかり全部コレクションしました。


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アビイ・ロード [海外ロック]

ビートルズの12枚のオリジナル・アルバムの中で、自分が最高傑作だと思うもの、自分が1番好きなアルバムがアビイ・ロードである。これは自分だけじゃなくて、他のビートルズファンの方もそういうファンが多いと思う。


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ABBEY ROAD: 50周年記念スーパーデラックスエディション
(SHM-CD 3枚組+ブルーレイオーディオ)【完全生産限定】



ビートルズのアルバムの中で最も売れたレコードである。
世界中のビートルズファンから愛されているアルバムですね。


「じつはホワイト・アルバムが素晴らしい!」の日記でも書いたけれど、自分は初期、中期のしっかりとした曲としての形式感が整っている感じより、どこか退廃的で、崩れている感じの美しさが漂う後期の曲のほうが好きである。


そのもっとも後期のビートルズらしい美しさを兼ね備えているのが、このアビイ・ロードだと自分は思っているのだ。


特に超有名なB面のメドレー。


ビートルズのアビイ・ロードといえば、もうこのB面メドレーというのは誰もが納得いくところではないだろうか。当時のローリング・ストーン誌は「本作のB面のみで、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に匹敵する」と評している。


このB面メドレーはじつに美しい至高の芸術品の集まりと言っていいですね。


ロックやポップスって1曲あたり大体3分から5分。


それをアルバムに収める数だけ作曲する、というのが、いままでのアルバムの概念だったと思う。(現代のいまでもそうですね。)こうやって1分もかからない小片の旋律メロディーの数々をずっと連続でメドレーにして、レコード片面を埋める、という発想ってかなり斬新なのでは?


こういう手法って1969年当時、マーケットは相当衝撃に感じたと思う。そんな大昔の時代に、すでにこういう手法を考え出していた彼らはやっぱり天才だよ!と思います。


ところが、じつはそんな美談の話ではなく、その真実というのは、未完成の楽曲を寄せ集め、「それらしく」聴こえるようにするための「苦肉の策」だったことが後に明らかになってくる。(笑)


いくつかの楽曲は個別にレコーディングされ、ミックスの段階でテープ編集によって繋げられたもの。


ポールはビートルズ初期の頃から、ウィングスの時代に至るまで、結構このメドレーという手法を好んで録音に取り入れていたようだ。


ともあれ、中学生のとき、このB面メドレーの美しさにすっかり惚れこんでしまった自分は、ビートルズはやっぱり後期の作品がいいなーと思うようになった、そんなきっかけを与えてくれたアルバムでもあったのだ。


そのB面メドレーの最後のThe Endのときは、あ~ビートルズは本当にこの曲が自分たちの最後という意を決して書いた曲なんだなぁと子供心に感傷に浸っていました。


当時はアナログレコードだから、A面、B面という楽しみ方ができましたね。
アルバム作るアーティスト側もこのA面とB面でコンセプトを変えたりという工夫ができた。


それがCDになったら、A面もB面もひと続きになってしまうから、そういう楽しみができなくなった。アビイ・ロードは、A面の最後の「アイ・ウォント・ユー」のジョンのヘヴィーなロックンロールの後に、レコードをひっくり返してB面をかけたときに、冒頭に流れるジョージの「ヒア・カムズ・ザ・サン」の美しさ。


世界がガラ変しますね。
この落差がたまりませんね。


そこから怒涛の美しさのB面メドレーが始まる。


ポリスの「シンクロニシティ」もそうですね。A面とB面とで楽しみ方、趣が全然違います。


このメドレーについてジョンは「A面は良いけどB面はちょっとね。あれはジャンク(ガラクタ)を集めただけだと思うよ」と述べているが、ポールとリンゴは「B面のメドレーは僕らの最高傑作のひとつ」と発言している。


ポールは解散後のソロ・コンサートにおいても、このB面メドレーの中の「ゴールデン・スランバーズ~キャリー・ザット・ウェイト~ジ・エンド」をコンサート終盤に必ず演奏します。


自分もポールの東京ドームでのソロコンサートを2回も経験できたけれど、この終盤でのアビイ・ロードB面メドレーは聴衆が一堂にドッと沸くところなんですよね。


ビートルズを知らない世代の人には、ぜひ1度このアビイ・ロードのB面メドレーを聴いてみてほしいです。


アビイ・ロードってそんな奇跡のアルバムなのだけれど、そんなビートルズの最高傑作が、じつはバンドとして崩壊しつつある1番最後のときに造られた、というのは、本当に奇跡の賜物としかいいようがないのではないだろうか。



「ゲット・バック・セッション」が事実上の頓挫という厳しい現実におかれたビートルズ。バンド崩壊が現実のものとなりつつある状況の中、最後はきっちりと締めくくりたい。「GET BACK」が未完成のまま放置されてはいたものの、覚悟を決めたポールは、最後のスタジオ・アルバムのプロデュースをジョージ・マーティンに託す。


ポールは、ジョージ・マーティンに「GET BACK」に代わる新作~しかもバンドとしての 有終の美を飾るための実質的なラスト・アルバムのプロデュースを託したのだ。


7月から本格的に始まった「ABBEY ROAD」のセッションは精力的に続き、約2か月かけてアルバムは完成した。たとえ4人がバラバラになってしまっていても「ABBEY ROAD」は奇跡的に”ビートルズの音”をきっちり伝えていること。しかもこの期に及んでなお革新的な音つくりを目指し、バンドとしてさらに進化し続けていることに心底驚かされる。


そして「ABBEY ROAD」は9月26日に発売され、ビートルズの最高傑作として印象的なジャケットを含めて今でもなお世界中で高い評価を受け続けるアルバムとなった。


こうした状況の中にあったビートルズのアルバムをプロデュースしたジョージ・マーティンは当時の経緯をこのように話している。「「レット・イット・ビー」の悲惨な経験のあと、彼らがまた集結するとは思いもよらなかった。ポールが電話をくれた時はひどく驚いたよ。「もう1枚レコードを作りたいんだ。僕たちをプロデュースしてくれない? 本当の意味でプロデュースしてほしい」と言われて「いいとも、もし本当の意味でプロデュースさせてもらえるならね。また私にあれこれ指図して困らせようというんなら断る」と答えたんだ。結果的にはとてもよかった。もっとも連中は自分のことにかまけがちで、それぞれ違うスタジオにいたりしたから、私はあっちこっち飛びまわらなきゃならなかったがね」と語っている。



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このアビイ・ロードでもうひとつ特筆すべきことはジョージのメロディメーカーとして佳曲を生み出す才能がこの最後の最後のアルバムで一気に花開いたというところではないだろうか。


ジョージは中期のリボルバーあたりから、作曲してアルバムに曲を提供するようになっていたのだが、それでもどこかジョン&ポールについでの3番手という位置付けの感は拭えなかった。


でも、このアルバムでの「サムシング」、「ヒア・カムズ・ザ・サン」は、まさにジョン、ポールの作品を凌駕する素晴らしい作品で、とくに「サムシング」はジョージの最高傑作だと思う。


ジョージが亡くなってから、ポールは自分のソロコンサートで、このジョージの「サムシング」を披露するようになった。


これが本当に泣ける演出なんだよね。


ポールはマンドリンのような小さなギターを抱えながら歌うんだけれど、後ろのスクリーンに在りし日のジョージのフォトが次々と投影されるんだ。


そしてポールがサムシングを歌っている。


あの「サムシング」の美しいメロディーと相まって、もう涙腺ドバーって決壊してしまう。


歌ったあと、ポールは、「この曲はほんとにいい曲だ。」ってコメントする。
ジョージへの哀悼の意ですね。


ここはポールのソロコンサートの中でも自分が1番泣けるところです。



自分はジョージのメロディーメーカーとしてのセンス、才能は、卓越していると思っている。ジョージにとって、ビートルズの中にいるということは、つねにジョンに弟分として蔑られ、ポールには技量も含めて下に見られ続けているという、あくまで3番手という不満をずっと抱えて過ごしていたのではないだろうか?


「ゲット・バック・セッション」でも自分が作曲した曲を演奏してみせるんだけれど、ジョンやポールはまったく興味を示さない・・・というような。。。


やはりバンドというのは、結成当時は一致団結だけれど、そののち絶対各個人に自我が芽生え、目指す音楽性の相違などがでてきて、そのような昇華する気持ちを自分のソロに向けていく。そうすることで、自分を主張できる。人間ってそういう自分の立ち位置を確保できるか、という生き物ですよね。


友人関係にしても、お互いのリスペクトできるところ、その人が自分はここが一番大事と思っているところを尊重してあげられる、そういうお互い認め合う気持ちがないと、友人関係は絶対うまくいきませんね。夫婦生活にもいえるかも?ロックバンドもそうなんだと思います。


そういう意味で、ジョージは解散後ソロになって、本当に自分の好きなことをやれるし、そして自己主張できる。そういう意味でぶつかるものがなくなって最高に幸せだったのではないか、と思います。


これはジョンやポールにも言えることですが。


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アビイ・ロードといえば、そのジャケットが有名である。ロンドン・EMIスタジオ前の横断歩道で撮影されたジャケット写真は、レコードジャケット史上最も有名なものの一つである。


本作の大ヒットで、録音に使ったこの「EMI・レコーディング・スタジオ」は、それまで愛称だった「アビイ・ロード・スタジオ」を正式名称に改称している。


COVID-19のパンデミックで、自分の今年のヨーロッパツアーはまさに風前の灯になっているのだが、じつはロンドン滞在のために確保しているホテルが、このアビイ・ロード・スタジオまで10分もかからないところにあるご近所さんなのだそうだ。


ぜひこのスタジオを訪問して、世界一有名な横断歩道を見てきたいと思っている。


この横断歩道は、もうロンドンで有数の観光地として超有名になっていますね。この横断歩道は世界中から多くのビートルズ・ファンが訪れる名所となり、その文化的背景から景観の保存が検討され、横断歩道を英国政府が2010年12月に英国の文化的・歴史的遺産に指定している。


アビイ・ロード・スタジオ


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おそらく世界でもっとも有名なレコーディング・スタジオであろう。


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ボクは、最新のB&Wモデルのデザインが好きではないので、この旧型の800Diamondがあったころのスタジオ風景のほうに愛着を感じる。いまや最新の800D3でフロント3本が賄われているのを見ると悲しくなる。(笑)

編集するコントロールルームだけではなく、レコーディングするスタジオも併設している大規模なスタジオだ。



この有名なジャケット写真ができるまで紆余曲折があった。最初は、あのヒマラヤ山脈のエベレストの麓まで行って、そこでエベレストを背景に4人のジャケットを撮るという企画だった。アルバムのタイトルも”エベレスト”。


でも「ヒマラヤにまでジャケット写真を撮りにいくのはごめんだ。ちょっと外に出てそこで写真を撮り、アルバム・タイトルを(通りの名前である)アビイ・ロードにすれば良いのでは?」とポールが提案し、他のメンバーも同意して、それで決まってしまった。



1969年8月8日金曜日午前11時35分にイアン・マクミランによって、横断歩道を左右に渡る4人を10分間ほどかけて6枚(3往復分)撮影し「ジャケットに使った写真(5枚目に撮影された写真)+別テイク2枚」の計3枚(後に残りの3枚も公開された)を公開した。


これがその全6枚である。


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実際にジャケットに使われた写真(5枚目に撮影されたもの)では、左から右にジョンを先頭に、リンゴ、ポール・ジョージの順番で並んでいる(他の5枚も全て同じ順番)。この写真のみメンバーの歩調や写真全体のバランスがきれいに取れているので採用された。


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この裏ジャケットの写真は、スタジオ近くの"ABBEY ROAD"と表示のある塀を撮影したものだが、その際に偶然青い服の女性が横切ってしまった。これを面白がったメンバーがその写真に「BEATLES」の文字を合成したものが裏ジャケット写真になっている。


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この撮影時のときの非公式のオフショットを披露しよう。横断歩道を渡る前の4人、スタジオ前で待っている4人、横断歩道を渡るいろんなアングルからのショットなど。

Copyrighted By THE BEATLES FB。


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これがアビイ・ロード50周年記念の時に撮ったショットなのかな?
現在のポールがアビイ・ロード・スタジオを訪れて、そして横断歩道を渡っているところ。


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このアビイ・ロード・ジャケットでとても有名な噂が駆け巡ったこともあった。


それが「ポール死亡説」。


「アビイ・ロード」のジャケット写真においてメンバー4人のうちポールが1人だけ目をつぶっているように見えて、更に裸足であり、左利きなのにタバコを右手に持っている。路上に駐められたフォルクスワーゲン・タイプ1のナンバープレートが「28IF」であるのが


「もし(IF)ポールが生きていれば、(数え年で)28歳(発売当時のポールの実際の年齢は27歳)」。


白いスーツで長髪にひげを蓄えているジョン・レノンは「牧師」、黒いスーツを着ているリンゴ・スターは「葬儀屋」、スーツ姿で目をつぶって裸足のポール・マッカートニーは「死人」、デニムシャツにジーンズ姿のジョージ・ハリスンは「墓堀人」などと解釈され、いわゆる「ポール死亡説」の根拠の一部になった。


ボクは当時、これをすごく信じましたよ。(笑)
えぇぇ~いまのポールは、ポールのそっくりさんなんだって。(笑)


リアルタイム世代ではない自分のような世代でもビートルズにカリスマを感じるのは、こういう話題があるところも神秘的だからなんですね。



アビイ・ロードも発売以来50周年になり、50周年記念アニバーサリー・エディションが発売された。


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これは日記ですでにお知らせしたとおり、リマスターだけではなく、リミックスまでに挑戦していて、まさに世のビートルズファンをあっと驚かせている。単にハイレゾというだけではなく、Blu-ray 5.1chとか、Dolby Atmos 9.1chに至るまでスゴイ!


自分はPCオーディオで、このアニバーサリー・デラックス仕様を楽しんでいる。


そしてこのアビイ・ロード50周年記念ということで、こんなムック本も出版されている。


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50年目に聴き直す「アビイ・ロード」深掘り鑑賞ガイド (シンコー・ミュージックMOOK) 藤本 国彦、 ヤング・ギター 企画編集部




「ゲット・バック・セッション」の本で紹介した藤本国彦さん監修の本だ。アマゾンで藤本さんの書籍ライブラリーを拝見したのだけれど、本当に日本でのビートルズ研究の第一人者と言っていい所感で、素晴らしいですね。


この本では、やはりリミックスのところを結構大きく取り上げている。自分はビートルズを本当に十数年以上聴いていなかったから、最初このリミックス仕様を聴いたとき、音が良過ぎて、奥行き感が出過ぎだし、分離しすぎでちょっと違和感というか、ビートルズ音源ってこうじゃないだろう?的なコンサバな意見だったのだけれど、このムック本では当然のことだけれど、今回のリミックスをとても前向きに捉えている。



「ビートルズ・マニアにはオリジナルを尊重するあまり、リマスターやリミックスを認めない人もいますよね。でもマスター・テープは本来、こんなに瑞々しくて躍動感のあるいい音だったということは、こうしたリミックスを聴かないとわからないんです。そういう原理主義とうか固定観念にとらわれることなく、もうちょっと自由な気持ちでチャレンジして、この50周年記念盤を楽しんでもらいたいんですよ。特に、僕と同世代の頑固な人たちにもそうお願いしたいですね。」(オーディオ評論家:和田博已)




その他、アビイ・ロードを鑑賞するなら、こんなところが聴きどころという本当にビートルズマニア、アビイ・ロードマニアにとって垂涎の本と言ってもよいのではないだろうか?



以上、ふっと自分の思いつきで「ゲット・バック・セッション」から突然始まったビートルズ連載。


これにて終了。


本当に今年の秋に公開される映画ドキュメンタリー「GET BACK」は最高に楽しみだし、COVID-19のおかげで行けるかどうか極めて厳しい状況になってしまったが、アビイ・ロード・スタジオ、横断歩道を訪問できることを本当に楽しみにしている。


ビートルズもやはり自分の人生に関わってきた、幼少の頃のロック人生で大切な偶像だったから自分の日記で熱く語らないといけないという使命感に燃えたのが、この連載を始めた理由だったのでした。










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じつはホワイト・アルバムが素晴らしい! [海外ロック]

「ゲット・バック・セッション」の日記でも書いたが、子供の頃にどうしても欲しかったビートルズのレコードがあった。でもお小遣いが少ないから、どうしても優先度があって買えなかったレコード3枚である。


ホワイトアルバムとリボルバー、そしてラバーソウルの3枚。


この3枚は、そのレコードとしての作品性がすごく評価されていたレコードで、当時欲しくて欲しくて堪らなかった3枚である。


もちろん買えばよかったのだけれど、その頃は、優先度があってサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドと、アビーロード、そしてレット・イット・ビーの3枚買うのが精いっぱい。あとは赤盤と青盤でビートルズの曲を全曲網羅する、という感じでその物欲を満たしていた。


うちは貧乏家庭だったから、そんなにお小遣いをもらっていなかった。(笑)


ビートルズに熱中していたのは、中学生、高校生くらいまでで、大学生からはもう卒業で音楽性の趣向もどんどん変わっていった。


あれから何十年経過したのだろう。

いま、この3枚を聴いている。

感慨深いです。


やっぱり自分の予想していた通り、本当に作品として素晴らしいクオリティーの高さ。ビートルズのメロディーメーカーとしての類まれなセンスは、50年以上経過した、いま聴いてもまったくもって新鮮で驚くばかりだ。



●ホワイトアルバム


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1968年11月22日に発売されたビートルズの10作目のオリジナル・アルバム。正式な名称は「ザ・ビートルズ」だが、ジャケットが真っ白一色だから俗称「ホワイト・アルバム」と言われている。


2枚組である。


レコーディングの期間中リンゴが一時グループを脱退(厳密には「レコーディングをボイコットした」という言い方の方が近い)したエピソードがあったことから、ビートルズ崩壊の始まりと言われる作品でもある。(笑)


自分は初期、中期のしっかりと曲としての形式感が整っている感じより、どこか退廃的で、崩れている感じの美しさが漂う後期の曲のほうが好きである。だからSgt.Papersは本当に素晴らしい画期的なアルバムだと思うけれど、自分の好みからするとアビーロードのほうが全然好きなのである。


ホワイトアルバムも後期のアルバムなので、そういう後期独特の退廃的な美しさがあるに違いないとずっと確信していたのだ。(Sgt.Papersとアビーロードの間の作品)


実際聴いてみたら、期待を裏切ることなく、まったくもってじつに素晴らしいアルバムであった。


ポールはビデオ版「アンソロジー」の中で「このアルバムは脈絡がないだとか、ソロの曲ばっかりだとか言われるけど、後から色々言うのは簡単さ。ビートルズのホワイト・アルバムだぞ。黙れってんだ」と語っているそうだ。(笑)


まったくその通り!


Sgt.Papersがコンセプトアルバムとして画期的なアルバムだったので、その後にリリースされただけに、どこかソロ作品の集合体といった趣もあり、全体としてのまとまりに欠けると評されることが大方の評価だったようだ。


4人のメンバーがいままでのような一致結束の絆の強さのサウンドから、もっとそれぞれにソロ志向が強くなって、バンドとしてバラバラになっていく兆しとなったアルバムでもあった。


でも、そこに自分が好きな後期独特の退廃的な崩れていくような美しさ、の匂いを感じ取っていた。 今回初めて聴いてみて、まったく期待を裏切らない、予想以上に素晴らしい出来に感動してしまった。


フォーク、カントリー、ヘヴィ・メタル、ブルース、ジャズ、クラシック、現代音楽・・・など4人が”個”をぶつけあった結果生まれた音楽性の幅広さは、曲数の多さもさることながら、ビートルズの集大成と呼べるもの・・・確かにそう思う。


このアルバムで有名な曲は、「バック・イン・ザ・U.S.S.R」、「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」、「ブラックバード」、「レボリューション」とかあり、それはすでに知っていた。


でも今回全曲通して聴いてみて、さらに素晴らしい曲を発見。


「マーサ・マイ・ディア」
「ロッキー・ラックーン」
「ハニー・パイ」
「バースディ」
「サボイ・トラッフル」


などなど。


シングルカットされていない、このアルバムを聴かないと発掘できていなかった名曲ばかりだ。このアルバムを聴くと、やっぱりジョンはロックンロール、ポールはポップスというそれぞれの得意なキャラクターが浮き彫りになる感じだ。もちろんジョージやリンゴもそれぞれキャラが出ていて素晴らしい。


「マーサ・マイ・ディア」なんて、まさにこれぞ、ポールの曲!という感じ。自分がいままで聴いていたポール愛そのまま、メロディメーカーとしての天才ぶりを遺憾なく発揮している、と思う。


”全体としてのまとまりに欠ける”ではない。
”音楽性の広さ”である。


ぜひ聴いてみてほしい。



●リボルバー


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これもどうしても子供の頃聴きたかったアルバムだった。
お小遣いがなくて買えなかった。


これはその中学生のときのおぼろげな記憶なのだけれど、ビートルズ3大アルバムと雑誌が勝手に命名していたチョイスがあって、それがSgt.Papersとアビーロードとこのリボルバーだったと記憶している。


その当時のすべての雑誌のライターが推薦しているチョイスだから、余計聴きたかった。Sgt.Papersとアビーロードはすでに持っていたので、あとはこのリボルバーだけだったのだ。


ジャケットがかなりインパクトが大きかった。
子供心に強烈なインパクトだった。


当時の技術的制限下では、コンサートでは再現できない楽曲が多く、「リボルバー」発表後「リボルバー」の曲がビートルズのコンサートで演奏されることはなかった。ライヴ・バンドからレコーディング・バンドへと変化する、過渡期の作品だと言われている。


ジャケットのサイケデリックなデザインといい、レコーディング・バンドになる立ち位置を明確にしたという点で次作のSgt.Papersへステップアップするための踏み台になった作品だった。


これも初めてアルバムとして、全体を聴いてみたが、じつに秀逸な作品ですね。


やっぱり中期に位置する作品だけあって、アルバム自体がきちんとした形式感というか、型にはまっている感じですね。この頃は4人とも一致団結してまとまりがあった。


あとこのアルバムで注目する点は、このアルバムからジョージが佳曲を生み出す才能を見せ始めたという点ですね。このアルバムでは3曲提供しています。ジョージは当時インド(とそのインド音楽)に凝っていて、その作曲した曲の中でもインドテイストな感じが見受けられます。


このアルバムで有名なのは、「エリナー・リクビー」、「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」、「イエロー・サブマリン」、「グッド・デイ・サンシャイン」があって、これは当然よく知っていた。


そういうシングルカットされていないこのアルバムを聴いたからこそ、見つけることができた掘り出しモンは、

「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」ですね。


これは最高にカッコいい!


まさにこれぞポールの曲という感じ。ポール愛が最高に唸りを上げるカッコよさですね。


ポール天才!



●ラバーソウル


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このアルバムも欲しかったんだよね。
ビートルズの初期のアルバムの最後にあたる作品で、作品のクオリティがすごい高いという認識だった。


使用する楽器の幅が広がって、次作のリボルバーの実験的なアルバムに行く前の兆候が見えだしたアルバムでした。いまこうやって聴いてみると、やっぱり初期のアルバムだね。


でも本当にいい曲ばかり。若々しくて、きちっと形式感がある。売れるポップソングですね。

このアルバムの中には「ミッシェル」が入っている。


これも子供の頃の思い出だけど、ビートルズの3大メロディアスな名曲というのがあって(この当時はなんでも3大〇〇〇でしたね。)、それは、イエスタディとこのミッシェルと、あと残り1曲が思い出せない。このラバーソウルは、そのミッシェルが入っているアルバムということで思い出がある。


このアルバムでは、「ノルウェーの森」、「ミッシェル」、「ガール」、「イン・マイ・ライフ」が有名だけれど、このアルバムを聴いたからこそ見つけた掘り出しモンは、


「ユー・ウォント・シー・ミー」
「君はいずこへ」
「ウェイト」
「浮気娘」


ですね。


やっぱり聴いていて、そのコード進行に思わず自分が反応してしまうのは、ポールの曲だけど、「ウェイト」や「浮気娘」はジョンの曲。ジョンはやっぱりカリスマがあってカッコいいですね。


尚、誤解のないように釈明しますが、基本、ジョンの曲、ポールの曲ということはなくて、全曲「レノン=マッカートニー」の共作です。メインでやったほうが、リードボーカルをとることが多いです。


どちらか1人がメインであっても、クレジットは「レノン=マッカートニー」です。

どの曲が、どちらがメインかは謎です。ポールもいまもclarifyしません。


ということで、子供の頃からの夢をいま果たしました。


この3枚だけじゃなくて、他のオリジナル・アルバムやマジカル・ミステリー・ツアーやイエローサブマリンのようなサントラに至るまで、ビートルズの全アルバムをいま夢中になって聴いています。










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ビートルズ音源のリミックス・リマスターは音がいいと言えるのか? [海外ロック]

ビートルズ・ビジネスのもっとも代表的なものは、ビートルズ音源のリミックス・リマスターであろう。


自分も記憶が曖昧なのだけれど、2005年あたりに、はじめてビートルズの全アルバムのCDが最新リマスター盤となってリイシューされ、ものすごい大変な話題になった記憶がある。


ラジオなんかを聴いていても、「ビートルズのCDがすごく音がよくなったんですよね~」なんてDJの方が言って、その音源をかける、ということに頻繁に遭遇したことがある。


それからはビートルズ音源の最新リマスターは、2010&2015&2019年とほぼ5年間隔でおこなわれ、その2005年のときほどショッキングなことではなく、現在ではなかば当たり前の行事になっていったような気がする。


自分は、今回、じつにひさしぶりに(おそらく十数年ぶり)ビートルズの全アルバムを聴き返している。Sgt.Papers、アビーロードがともに50周年記念盤ということで、スペシャル・デラックス仕様と呼ばれるものを販売しているのだ。


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共通しているのは、2019年に最新リミックスされた音源で、さらに諸元がハイレゾの96/24にオーサリングされたものだ。


音がよくなっているんだから、絶対こちらのほうがいいと思っていた。


でも聴いてみて、ちょっと「なにか違う」というか違和感があるのだ。


自分がよく知っている曲、子供の頃に脳裏に焼き付いている音楽と、なにか別物になったような感じがする。ノイズが除去されて、クリーンな感じになってS/Nがよくなっているのは一聴するとわかる。でもそれはまだ許されるにしても、もっとなにか曲の聴こえ方そのもの自体に、どうも違和感がある。


いろいろ自分が悩んで考えてみたところ、それはリミックスしたことに起因するのではないか、と思ったのだ。リミックス(Re-Mix)とリマスター、リマスタリング(Re-Mastering)とは全然違う工程のことである。


演奏家、ミュージシャンが演奏して、それをレコーディングしてCDになるまでの工程はこのようになっている。


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マルチマイクで録って、それをHDD(いまはメモリーカードなのかな?)などにマルチトラックで録音する。それを2chや5.1chに落とし込むことをミキシング(ミックスダウン、あるいは単にミックス)という。ステレオなら2ミックス。


そしてそれをCDの原盤に落とし込むことをマスタリングという。


リマスター、もしくはリマスタリングというのは、この2ミックスを原盤に落とし込むときに、デジタル処理でノイズを除去したり、歪みをとったり、楽音を鮮明化したりして、高音質化アーカイブしたりして、再度原盤に落とし込み直すことである。


だから昔作った2ミックス音源を加工するわけではない。


でもリミックスというのは、マルチトラックの音源をもう一回ミキシングし直すことをいう。これは、いわゆるやり直しに近い工程だから、昔の曲のイメージががら変になってしまうのは当然ではないか、と思うのだ。


それは当時と最新とでのエンジニアの技術力も違えば、使っている編集用のオーサリングツールの進歩も全然違う。エンジニアの技一つで、音場感を出したり、奥行き感を出したり、立体感を出したり、音の隈取りをしっかり出すようにするとか、全体の音のバランスなど自由自在に料理できる。


まさにこのミキシングの部分でエンジニアの力量が問われる部分なのだと思う。


この2ミックスのところをやり直したら、そりゃ出来上がったものは、1960年代にミックスしたものと全然違うものができるのは当たり前だと思う。


ここ2ミックスの部分、というのはある意味、「聖域」に相当するところなのではないだろうか。


ビートルズのファンは神聖なビートルズの音源を「いじってほしくない。発表当時にあったあるがままの音で聴きたい」


ロックとポップミュージックの新約聖書であるビートルズのアルバムと音源は、足したり引いたりしてはならない聖典である。


その聖域である2ミックスをいじってしまうのは、かなり度胸のいることなのではないのだろうか?(笑)


いくら音をよくしたいとは言え、そこをやり直したら、それはもうビートルズの作品とは言えないのではないだろうか?


だから、今回Sgt.Papersやアビーロードの50周年記念盤を聴いたとき、なんかやたらと音が良すぎて、音場感や特に奥行き感や遠近感がよく表現されているし、あと全体の音のバランスもかなりよくなっている。


それはリミックスしてやり直したからなのだと思う。


でも子供の頃からずっと脳裏に焼き付いている自分の中のビートルズの曲じゃないよな、なんか違和感あるという感じなのだ。確かにオーディオ的には、全然音がいいのだけれど、こういう「聖域」に関わる音源の場合、そういうことをすることがそのままいいことなのかは疑問だ。


ビートルズの曲はもっとラジオのように平面的なサウンドだ。(笑)
ビートルズファンにとって、どっちが幸せなのか、だ。


ビートルズの音源をリミックスするというのは相当勇気がいるというか、アップル本社や著作権者に何回も確認、承認を得たプロセスを通った上なのだろう。


だからもちろんそんなにメチャメチャではない。
でも自分には、ちょっと音がよすぎて、その聴こえ方に違和感がある。


いかにも近代の最新録音という感じで。。。
自分の子供の頃から知っているビートルズじゃない。


これはあの「Let It Be」についてもそうである。フィルスペクターがプロデュースしたのと比較して、ポールが2003年に作った「Let It Be...naked」も同じ。ポールの執念、気持ちはよくわかるけれど、nakedのほうは音が良すぎて気持ち悪い。Let It Beはライブ一発録りの外の暗騒音がある昔のほうがいい。やっぱり子供の頃に刻み込まれた印象は深いのだ。


どっちが幸せか、だ。


だからビートルズ音源でやっていいのは、2ミックスをいじらないリマスター、リマスタリングなのだと思う。これはノイズを除去するなり、音を鮮明にしたり、歪をなくしたりというくらいは許される。


いままでのビートルズ音源の高音質化の歴史も大半はリマスターのほうだ。
ビートルズ最新リマスター盤!という感じですね。


リミックスに挑戦したのは、今回の2019年度のSgt.Papers/アビーロードが初めてではないか?自分はPCオーディオでハイレゾ・ストリーミングで96/24でそのリミックスした音源を聴くというスタイルだが、この50周年記念盤のパッケージメディアBoxでは、さらにBlu-ray Audio 5.1サラウンド、Dolby Atmos 9.1サラウンドなんていうリミックスVersionもある。


ひぇ~!!!(笑)


もうそりゃビートルズ音源ではないだろう。
ビートルズ・ビジネスの商魂たくましいという感じである。


やっぱりビートルズの音源を聴くのは、当時発売されたメディアであるアナログレコードで聴くのが1番いいのかもしれない。




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ゲット・バック・セッション [海外ロック]

ビートルズはなぜゲット・バック・セッションをやることになったのか。


これは世界中のビートルズマニアが熱く語って止まない、永遠のテーマである。もうネットで検索したら、それこそ無限に投稿があって、みんな熱く語っている。わかるなぁ、その気持ち。


この「ゲット・バック・セッション」のことだけ語っている、それだけで1冊の本になっていたりする。世の中にビートルズ研究家はたくさんいますね。


もうビートルズのビジネスは、クラシック界でいうところのフルトヴェングラー・ビジネスと同じだと思いますね。どんなに年数が経っても、なにか新しいmodifyをして、それだけで話題性、ニュースになって儲けが出る。


それを永遠に繰り返す感じだと思いますね。

本当に深い世界です。


ビートルズ・ビジネスを見るといつも思うことは、「真実はひとつ」だと思うことですね。


それは4人のビートルたちが一番知っていると思うんだけれど、マネージャー、プロデューサー含めその取り巻く環境など、みんなその真実を求めて、後年にじつは・・・だったと熱く語るという世界なんじゃないかな、と思うんですよね。


自分もご多分に漏れず、ビートルズ・ファンであった。


中学生のとき、ポール・マッカートニー&ウィングスから入っていって、そこからビートルズを知って、ビートルズの偉大さを学んだ。


えぇぇ、そりゃ夢中になりましたよ。
でも中学生のときのハンディキャップは、お小遣いが少ないということである。


ビートルズのレコード全部欲しかったけれど、お小遣いがないから、本当に欲しいのだけを買うしかなかった。自分は初期のライブ感、エネルギッシュな曲もいいけれど、やっぱりレコーディングに凝り始めた中後期が好きだった。そのレコードの作品性に存在感がある中期、後期のレコードが好きだった。


まず買ったのは、サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(以降Sgt.Papers)、アビーロード、レット・イット・ビー。これは必須だった。お小遣いが少ないから、残りは、いわゆる通称ビートルズ赤盤(1962~1966)、青盤(1967~1970)のベスト盤のLPを買った。


この赤盤、青盤の果たした役割は大きかった。お金がない子供にとってビートルズの曲を全部知るには、この赤盤、青盤は最高のレコードだったのだ。


ホワイト・アルバムとか、リボルバー、とかラバー・ソウルとか、そのレコードとしての作品性がすごく評価されていた頃のレコード欲しくて欲しくて堪らなかったけれど、買えなかったね。


でもいまハイレゾ・ストリーミングで聴いてみて、そうか!こんな作品だったんだ!と何十年ぶりに大感動!いま自分の中では秘かなるビートルズ・ブームが来ています。


その夢中になっていた子供の頃にどうしても果たせなかった夢があった。
それは映画「Let It Be」を観ていないことだった。


あの有名なアップル・コア本社ビルの屋上でのルーフトップ・コンサート(屋上ライブ)は、子供の頃、テレビの深夜放送帯で流れていたのを観たぐらい。そのとき、いやぁカッコいいなーと超憧れた。


映画「Let It Be」は1970年に公開された映画だが、パッケージメディアの作品になったのは、VHS,Beta,LaserDiscの頃だけなのだ。なぜかDVDになっていない。だから自分は入手するタイミングを逸してしまった。


なぜDVDになっていないか、というと、この映画の中でポールとジョージがケンカ口論するところがあって、それをポールが嫌って許可しないといううさぎさんの話。


そうかー、そうなればますます観たくなる。
アマゾンで調べたらあった。
さっそく購入。


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じつは、この映画「Let It Be」は公開された本編からどんどん海賊盤が出まくっている作品で、自分が買ったのはやはりどうも海賊盤らしかった。観たんだけれど、ポールとジョージの口論と思われるシーンがないんだよね。


ジョージがポールに議論をぶつけている場面はあるんだけれど、ケンカとは思えない。本編では、レコーディング中、各メンバーにあれこれ指図するポールにジョージが嫌気がさして、食って掛かる場面らしいのだが・・・。


だから、このケンカの場面はカットされているんだと思うんですよね。ボクの買った海賊盤は。。。


「ゲット・バック・セッション」のことを知る必要があったのは、この映画「Let It Be」がどういう映画で、どういう当時の彼らの環境の中で生まれた映画なのか、ということを知らなければいけなかったからだ。


この「ゲット・バック・セッション」のことはネットにいっぱい投稿があって熱く語られている。そして1冊の本にもなっているのだ。


自分は「ゲット・バック・セッション」のことを勉強したくて、こういう本を購入した。


ビートルズはなぜゲット・バック・セッションをやることになったのか、「GET BACK...NAKED 1969年、ビートルズが揺れた21日間」。


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GET BACK...NAKED 21DAYS THAT ROCK'N'ROLLED THE BEATLES IN 1969

藤本国彦





これは変に難しくなく、わかりやすく書かれていて、話の内容もかなり真実味があるというか説得力があった。なにせ、ゲット・バック・セッションの1日単位でバンドがどのようなことをやったのか日記のように詳細に記されているのだ。この著者の藤本国彦さんは、日本でもビートルズ研究の第一人者として有名な方のようだ。


「ゲット・バック・セッション」とはなんだったのか?の説明に挑戦してみる。


ホワイトアルバムをリリースした後、ビートルズのメンバー間の関係がギクシャクしてきてバンドとしての危機だったんだな。彼らはレコーディングの手法にオーヴァーダヴィングを重ねに重ね、凝りに凝った作品を作ってきたんだが、そういうバンドとしての危機にあたって、ポールがもう一回原点に戻ろう!(GET BACK)オーヴァーダヴなしの初期の頃のようなライブ一発録りでやろう。とメンバーに呼び掛けた。


そしてまたライブをやろう!


でもいまやメンバー間には当時ような覇気がなくてそれがうまくいかなくていろいろ試行錯誤の上、結局レコーディングしている模様をずっと撮影してドキュメンタリー映画にしよう。そしてライブパフォーマンスとしては、アップル・コア本社のビルの屋上でゲリラ・ライブをやって、それを映画の中に盛り込もうという感じで収まった。


でも結局その撮影した映像素材も結局放置という感じで、作品にならなくて、このままビートルズが瓦解して終わりになるのをポールが恐れて、最後にもう一回集まって、本当に最後のアルバムを作ろうと呼びかけた。


そうして録られたのが、「アビーロード」だったわけだ。


結局「ゲット・バック・セッション」で録った素材は、いったんアルバム「GET BACK」として作られ、ジャケット写真も撮影されたものの、その散漫な完成度に満足できずそのまま棚上げになってそのまま放置という感じで、ビートルズは解散するまでの間に、世に出ることはなかった。


その解散後に、プロデューサー、フィルスペクターがその放置されていた素材を「Let It Be」としてプロデュースして世に送り出した。


このフィルスペクターという氏が、フィルスペクター極悪人説というのがあるくらい、彼のプロデュースしたLet It Beはオーケストラ、コーラス入りなど装飾の色をつけ、ポールが当初ぶち上げた「原点に戻ろう(GET BACK)」というバンドらしい音とはかけ離れたサウンドだった。アルバムタイトルも当初は、「GET BACK」だったのに、「Let It Be」になった。


まっ自分が聴いてみたところ、そんなに派手な装飾がついているのは、「ザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード」くらいのような感じがしたのだけれど。。。


このフィルスペクターがプロデュースしたコーラス入りのオーケストラアレンジありの「Let It Be」は、ポールにとって、自分のキャリアを破壊された大嫌いなバージョンであったのだ。だからずっとこのアルバムに対して積年の怨念を持っていたんだな。


2003年に、そのLet It Beを、本来のリアルなバンドサウンドに蘇らせようとしてポールが制作したのが「Let It Be...naked」というアルバム。


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さすが執念のポール。(自分はいままで知りませんでした。)


アルバムの曲順も全然オリジナルと違います。ポールの主張があります。


たしかにポールの執念だけれど、小さな中学生の頃からこれがLet It Beですよ、として聴いてきた(特にザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード)のを、いまになって、これが本物です、と言われてもそんなに器用に立ちまわれないような・・・。(笑)長い年月が経っているから、これを自分の中に取り込めるようになるには時間がかかる。


映画「Let It Be」もその後、編集されて、公開された。


ゲット・バック・セッションは、1969年1月2日から1月30日の真冬のロンドンで彼らがおこなったセッションで、1月2日~1月16日まではトゥイッケナム映画撮影所においてリハーサル・セッションと撮影を行った。セッションをするけれど、映画のための撮影ということもあって、スタジオじゃなくて映画撮影所だったようだが、映画を見る限りでは、だだっ広い中で結構寂しい感じがした。


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だたっぴろい撮影スタジオ、そして一挙手一投足を撮影しているカメラマンに囲まれ、レコーディングはけして良い雰囲気では行なわれなかった。メンバーには破棄がなく、演奏も怠惰で、思いつくままギターをつま弾くというお粗末な感じ。


これは自分のようなビートルズマニアでビートルズが好きな人には堪んないかもしれないけれど、普通の人が観たら退屈だろうなという感じはしました。


結局ここでのセッションは、後に、フィルスペクターがプロデュースした「Let It Be」には一切使われていない。



1月20日、場所をアップル本社ビル地下にあるアップル・スタジオに場所を変え、レコーディングを再開する。メンバー間の緊張を緩和するには他者の目が必要だと考えたジョージは、キーボードとしてビリー・プレストンをセッションに招聘した。


自分は、このゲット・バック・セッションのことを勉強して、映画「Let It Be」を観て、初めてこの5人目のビートルズ(黒人です)の存在を知った。当時の瓦解寸前のビートルズの中で緩衝材的な存在だったらしい。


アップル・スタジオにおけるセッションはビリー・プレストンが緩衝材となったことなどから、トゥイッケンナム・スタジオにおけるセッションとは雰囲気が変わり、ビートルズの「魔法」が再び起こりつつあった。そして、それまでの緩慢な演奏とは異なり、改めて新曲をレコーディングするという意気込みが感じられる完成度の高いものになった。


「Let It Be」とか、「ザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード」とか、そして屋上ライブの「GET BACK」ですね。


結局いままでのビートルズの完成度の高いアルバムに比べて、ライブ一発録りの散漫な感じに聴こえるアルバム「Let It Be」の中で、従来と変わらない完成度だったこの3曲は、この後半のセッションで生まれたことになる。


そしてゲット・バック・セッションの最終フェーズ、1969年1月30日。

あの伝説のアップル・コア本社屋上でのゲリラ・ライブであるルーフトップ・コンサート。


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これはもう最高ですね!


結局ゲット・バック・セッションの行きつくところは、この屋上ライブのシーンではないか、と思いますね。警察に予告なしのゲリラライブですから、当然市民もなんだなんだ?なんでビルの屋上から騒音が出てくるんだ?という感じで戸惑っているシーンがなんともリアルです。そして警官も集まってくる。


そして警官が屋上に上がってきたときに、思わず怖くて付き人がアンプのスィッチを切ってしまうのを、ジョージがまた入れなおすシーンとか。この部分だけ音が途切れます。(笑)


このライブセッションはとにかくカッコいい。ようやく子供の頃からの積年の夢がかない、この屋上ライブのフルバージョンを観ることができました。


ビートルズのライブパフォーマンスの中で1番格好いいです。


真冬のロンドン、寒さは半端じゃないし、風が吹きすさぶ屋上での演奏。ジョンとリンゴが。”ステージの袖”でビートルズを見守るヨーコとモーリンにそれぞれ女性用のコートを借りて演奏したのは、マニアにはよく知られた話です。


ゲリラライブで思い出しましたが、昔、郷ひろみが渋谷でゲリラライブをやって警察に逮捕されましたね。あれは、このビートルズの屋上ライブからヒントを得たのでしょうか?(笑)


ビートルズの場合も、その可能性もあったらしいですが、結局逮捕には至らなかったそうです。でもリンゴは後年、あのとき警察に連行されていたら、最高にカッコいい終わり方だったのに!と悔いています。(笑)


これが「ゲット・バック・セッション」である。

これでも簡潔に説明したつもりだが、実際はまだまだ深くてマニアックなのだ。

自分も勉強したばかりなので、マニアの方からするとこれじゃ足らない部分もあろう。
熱狂ファンはもっと細かいところを言及して痺れている。


もちろん映画「Let It Be」に使われたのは、この長い長い「ゲット・バック・セッション」の一部でしかない。


そんな風に、自分にとって「ゲット・バック・セッション」について勉強していたら、信じられないニュースが飛び込んできた!!!



「ロード・オブ・ザ・リング」で有名なピーター・ジャクソンが監督によるビートルズの新ドキュメンタリー映画「The Beatles: Get Back」が今年9月に北米で公開へ。



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「Let It Be」じゃなくて、「Get Back」だ!
ポールの初志貫徹の想いが伝わったのだろう。


ずっと廃盤になっていて残念な思いをしていた映画「Let It Be」が、新しいドキュメンタリーとして帰ってくる。


配給元はウォルト・ディズニー・スタジオ。この映画には、1969年の“ゲット・バック・セッション”からの未公開映像と、アルバム「Let It Be」のレコーディング・セッションからの未発表音源が収められている。


今後、1970年の映画「レット・イット・ビー」にも修復作業が施され、レストア版として公開される予定だ。ザ・ビートルズの歴史的名盤「Let It Be」のための親密なリハーサル風景とレコーディング・セッションに光を当てた映画「The Beatles: Get Back 」には、1969年1月にサヴィル・ロウのアップル・コア本社の屋上で行われた42分間の“ルーフトップ・コンサート”の全貌も収められている。


現存する2人のビートルのコメント。


ポール・マッカートニー


「ザ・ビートルズのレコーディングが実際にどんな様子だったかという真実を映し出したこの映画の製作のために、ピーターが僕たちのアーカイヴを掘り下げてくれたことを本当に嬉しく思っています。僕たちの友情や愛がこの作品によって蘇り、僕たちが共に過ごしたとてつもなく美しい時間を僕に思い出させてくれます」


リンゴ・スター


「この映画の公開が本当に楽しみです。ピーターは素晴らしい監督で、この作品に収められている映像全てに心が踊りました。あの頃の僕たちはただただ笑い合ったり、世に知られているヴァージョンとは似ても似つかぬような演奏をしたりして何時間も一緒に過ごしました。あの喜びに溢れていた時間を、ピーターはこの映画の中で描き出してくれることでしょう。この作品は、本来のザ・ビートルズの姿がそうであったように、平和と愛に満ちたものになると思います」。



もう超興奮だが、よく考えてみたら、ビートルズの名盤は、今が、ちょうど50周年に差し掛かってきており、Sgt.Papersも50周年記念盤を出したし、アビーロードも50周年記念盤を出したばかり。そして今回がLet It Beの50周年の番になったということだけなのかもしれない。Let It Beは、アルバムだけじゃなく映画もあるということで。


映画「Let It Be」は今までいつも復刻の話が出るのだけれど、いつも優先度の高いビジネスが優先されてしまい、後回しにされてきたようだ。でもようやく本懐を遂げた、という感じ。


なんか、急ににわかにビートルズがマイ・ブームになってきた。


COVID-19のおかげで、クラシック関連はすっかり寂しい感じなので、ちょっと浮気して、自分はこれからちょっとビートルズにふたたび熱を上げてみたいと思っている。



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いまこうやって「Let It Be」を改めてじっくりと聴いているが、やっぱりボクにとっての「Let It Be」は、このフィルスペクターがプロデュースした「Let It Be」なんだよな。(笑)








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KD SCHMID [クラシック雑感]

クラシックの指揮者や演奏家のマネジメントをする事務所というのは、レーベル(レコード会社)との契約とはまた別なのだと思う。そういうアーティストとして音源をリリースすることも含めた音楽活動、ライブ演奏会の出演、イヴェントへの参加、ツアーマネジメントとか、とにかくアーティスト活動として総合的なマネジメントをする事務所が必要なのだと思う。


自分はその辺は素人なので、あまりはっきりとしたことは断言できないのだけれど・・・。


たとえば日本でいえば、KAJIMOTOさん、ジャパン・アーツさん、ヒラサ・オフィスさん・・・とかが代表的なクラシック関連の事務所。日本の指揮者、演奏家の方々はみんなこういう事務所に所属して、自分の活動をマネージメントしてもらっている。


今回この日記で紹介するKD SCHMIDというマネジメント会社は、自分は初めて知ったのであるが、歴史としては1959年創業で、歴史あるワールドワイドに展開するアーティスト事務所のようだ。


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KD SCHMID




なぜ、このKD SCHMIDというマネジメント会社の存在を知ったか、というとアラベラさんが、自分のSNS投稿で「私、KD SCHMIDに移籍することになりました~。」的な動画を投稿したからだ。


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オイオイ、そんな動画サイトに出ている場合か~?赤ちゃんはどうなったんだぁ~?(笑)と思わず、ツッコミを入れたくなったのだが(笑)。


このKD SCHMIDというマネジメント会社、専用のご自身のサイトも持っていて、かなりワールドワイドなマネジメントをやっているようなので、紹介してみよう、という試み。


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KD SCHMIDは、つぎのマネジメントをやる会社と言ってよさそうだ。


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・アーティスト・マネジメント


我々の基本は、長い間、育ててきた信頼関係と持続性のもとに、将来を約束された若いアーティスト、そして世界に名を馳せたアーティストを、マネジメントをすること。


・オーケストラ


我々のスペシャリストなスキルを持った高度なプロジェクトチーム、ロジスティクス、ツアーマネージャーがプロフェッショナルで、クリエイティヴなインターナショナル・ツアーソリューションを提供する。プレゼンター、コンサートホール、フェスティバル、そして指揮者、ソリストが我々のこの数十年蓄積された経験から恩恵を受けることは間違いなし。


・スペシャル・プロジェクト


我々はクラシック音楽パフォーマンスというメインストリームを超えた、スペシャル・プロジェクトを促進する。そこにはライブ音楽で聴衆を集客するため、そしてセキュリティなどを司るプロモーターを提供するなどのお手伝いする。


・パブリック・リレーション


我々は、アーティストやオーケストラのPRキャンペーンを提供したり、クライアントのソーシャルメディア活動のサポートを提供する代表的なPRエージェンシーと密な関係を持っている。


・インターナショナル・ネットワーク


我々は、ワールドワイドなネットワークとして、ハノーヴァー、ロンドン、ベルリンに3つのオフィスを構えているのと同時に、ハンブルグではドイツのリーディング・プロモーターとも密な協力関係にある。


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KD SCHMID EXECUTIVE BOARD


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Managing Director
左がドイツ人のCornelia Schmidさん、
右がイギリス人のKaren McDonaldさん


この2人がEXECUTIVE BOARD。


発祥はドイツの方だから発起人だったドイツ人のSchmidさんはドイツ・オフィスにいてMcDonaldさんはイギリス人でイギリスのオフィスにいるという感じだろう。


各オフィスの社員のリストは、こちら。



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具体的にもう少し掘り下げてみよう。


まずアーティストマネジメント。


マネジメントの対象のアーティストとして、指揮者、ソリスト、歌手、ナレーター、そして室内楽アンサンブル、これだけのジャンルのアーティストたちのマネジメントをおこなっている。


そのアーティストリストはこちら。



ちょっとかいつまんで、紹介するとこんな感じ。(ごく一部です。)


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この中で、一番の関心ごとは、やはりアラベラ・美歩・シュタインバッハーがこのマネジメント会社に移籍したことだ。自分はこのことで、このKD SCHMIDというマネジメント会社の存在を知った。


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アラベラさんは、いままでもドイツを中心に、世界中をワールドツアーで駆け巡ってきたが、これからはよりメジャーなオーケストラとの共演も多くなり、よりワールドワイドな活動ができるようになるであろう。


キャリアのステップアップですね。


この中で、注目なのは、さきの第56回ブザンソン国際指揮者コンクールでみごとに優勝した沖澤のどかさんだ。


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沖澤さんもこの事務所に入ることで、よりワールドワイドな活動ができそうだ。
これからの指揮者生活は明るい未来が待っていそうだ。


他にも上の写真を眺めていると、内田光子(ピアノ)、山田和樹(指揮者)、イエフム・ブロンフマン(ピアノ)、カティア・バニュアシュヴェリ(ピアノ)、ラファウ・ブレハッチ(ピアノ)、シュテファン・ドール(ホルン)、グシュタフ・ヒメノ(指揮者)、トーマス・ハンプソン(バリトン歌手)、マーティン・ヘルムヘン(ピアノ)、ザビーネ・マイヤー(クラリネット)、アンドリウス・ネルソンズ(指揮者)、クリスチャン・テツラフ(ヴァイオリン)、タニア・テツラフ(ヴァイオリン)


など蒼々たるメンバーが名を連ねているようだ。


なんせ、1959年から創業のマネジメント会社だからね。
歴史、伝統のあるマネジメント会社だ。



世界で有名なアーティストから、まだ世の中に名が知られていないアーティストに至るまで、我々はすべてのアーティストに対して信用できるパートナーであるし、彼らがクリエティヴイティ&創造性を発達させるための情熱、経験を手助けてしていき、最高のプロフェッショナル・レヴェルに到達するまでともに歩んでいく。


KD SCHMIDのアーティスト・マネジメントは、我々のロンドン・オフィスだけでなく、内部でつながっていて、ワールドワイドに展開している。我々はアーティストと契約すると同時に、若いアーティスト達に対しては、戦略的なキャリア開発、長期間に渡るキャリア育成などに努める。


イヴェント計画では、我々は管理上の詳細なコンサートのための準備やアーティストやオーガナイザーのための広範囲にわたるサービスを提供する。



Your contact persons:


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Karen McDonald
Managing Director

+44 20 7395 09-15
karen.mcdonald@kdschmid.co.uk



Artist's roster 2019/20(アーティスト名簿 2019/2020)


という記載があるので、おそらくそのシーズン単位で契約していく期限単位の契約制ということもあるかもしれない。いや、でも長期間で戦略的に育てていく、と書いてあるから、そういうこともないかな?


そのことは次の記載のオーケストラ部門の記載でより明瞭になる。


いわゆるこのマネジメント会社が持っている数十年以上のキャリアによるデータベースの中のアーティスト、オーケストラ、室内楽アンサンブルなどの組み合わせを彼らが間に介在して紹介していき、企画するイヴェント・オーガナイザーなんだろうと思う。


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そしてオーケストラ部門。


リストはこちら。



ちょっとかいつまんで紹介するとこんな感じ(ごく一部です。)


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ロンドンフィル(アンネ=ゾフィー・ムター)、サロネン&フィルハーモニア管、アムステルダム・シンフォニエッタ、チェコ・フィル、ニューヨーク・フィル、BBCフィル、ケヴァントハウス・ライプツィヒ管、ベルリン・ドイツ交響楽団、スウエーデン室内管、ボストン交響楽団、ラトル&ロンドン交響楽団、NDRエルプルフィルハーモニー管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)


などなどこちらの蒼々たるメンバーだ。


自分は気づいたのだけれど、このKD SHMIDというマネジメント会社は、ドイツ(ベルリン、ハノーヴァー、そしてハンブルグ)と、ロンドンにオフィスを構えるだけあって、やはりイギリスとドイツのオーケストラが圧倒的に多い。でもニューヨークやアムステルダム、スウエーデンなども、それなりにネットワークを広げているようだ。


そして基本はツアーマネジメントなんだよね。上の写真を見てくればわかるように、サポートする期間というのが有限で決まっているのだ。だから契約はツアー単位で、この期間のツアー単位でツアーマネジメントを契約しているに違いない。


だからオーケストラに関して言えば、終身雇用制のマネジメント会社ではないのだ。(笑)


Orchestra Tours 2020/2021

Orchestra Tours 2021/2022


のようにカテゴライズされていて、シーズンでツアー単位で契約していることがよくわかる。



我々は、数十年の経験から、オーケストラ、コンサートホール、フェスティヴァル、指揮者、ソリストをオーガナイズする。我々の40年以上蓄積されたカスタマーベースから、世界中の著名ないろいろなアンサンブルの組み合わせを構築することができる。


私たちは、オーケストラ、ソリスト、オーガナイザー、そしてフェスティバルなどのすべての間に入るインタフェースになる。我々のゴールは、芸術イヴェントをいっしょに企画して成功させることである。これは我々の長期間に渡り精密な計画に基づいて構築してきたロジスティック・ワークによって可能なメイン機能なのである。弊社内部で訓練・経験を経てきたツアーマネジャーによるトップクラスのオーケストラ・ツアーの企画コンセプトに至るまで、我々は完璧なポートフォリオを提供することができる。



そうかぁ、彼らは単にアーティスト、オーケストラ、歌手などのアーティストたちを登録してマネジメントするだけなのではなく、演奏ツアーそのものの企画イヴェントのオーガナイザーなんだな。やっぱり・・・。そしてそれを成功させるためのロジスティック機能を世界の各地にコネクションを持っているに違いない。


いわゆるPRキャンペーン、ソーシャルメディア活動などのプロモート、宣伝活動に至るまで完璧にポートフォリオ(Portfolioというのは知財用語です。私の専門分野です。(笑))として提供する用意があるということなのだろう。


Your contact persons:


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Cornelia Schmid
Managing Director

+49 511 36607-73
cornelia.schmid@kdschmid.de




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Nicole Apitius
Senior Director of Operations

+49 511 36607-53
nicole.apitius@kdschmid.de



なにもクラシックだけではないのだ。それ以外のライブパフォーマンスに関するマネジメントもやっている。それがSpecial Projectだ。


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日本のKAJIMOTOさんだって、パリに支局を持ってワールドワイドに活躍している。


若手アーティストをパリ在住させて経験を踏ませるなど。やっぱり日本に限らず、どこのアーティスト・エージェントだってやっていることに違いない。


ただ、これだけは言える。


アーティスト・マネジメント、イヴェント企画会社にとって、いまのCOVID-19の問題は死活問題である。


これだけは間違いないことだ。



まさにいまが試練の時だ!












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PENTATONEの新譜:児玉麻里さんのベートーヴェン弦楽四重奏のピアノ編曲版 [ディスク・レビュー]

児玉麻里によるベートーヴェン・イヤー2020に贈る最高の変化球。


PENTATONEレーベルによる児玉麻里・児玉桃の姉妹共演の「チャイコフスキー・ファンタジー」に続くキングインターナショナル企画による第2弾だそうだ。


児玉麻里さんのここ最近の録音は、キングインターナショナルが日本独自企画という形でしっかりと日本側からアルバム・コンセプトをサポートしているのが、素晴らしいですね。


現地レーベルに所属する日本人アーティストのアルバムコンセプト含め、企画そのものを日本側からしっかりサポートしていると、そのアーティストのことをよく考えてくれるしいいと思いますね。それじゃ日本のレーベルでいいのじゃないか、と仰いますが、そこは海外レーベルならではのプロモーション、販路など、そこには日本のレーベルでは成し得ないメリットもたくさんありますね。


しっかりと日本側からサポートしてあげるというのは、いままでになかった素晴らしい戦略アプローチだと思います。


児玉麻里さんといえば、ベートーヴェンのスペシャリスト。


児玉麻里さんにとって、ベートーヴェンは特別に大切な作曲家で、これまでにPENATONEに録音してきたベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集と、そしてキングインターナショナルによる日本独自企画・限定盤のベートーヴェン ピアノ協奏曲全集と、ベートーヴェンについて大きな主要作品を残してきた。


ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集のほうは、旦那さまのケント・ナガノ氏とベルリン・ドイツ交響楽団とのSACD全集。2006年から2019年にかけてベルリン・イエス・キリスト教会で録音されてきた力作だ。ベートーヴェン・ピアノ・コンチェルトは1番~5番であるが、このSACD-Boxには特別に第0番という作品も収録されているのだ。


第0番は、ベルリン州立図書館に所蔵されていた第0番の自筆譜にあたり、緻密なリサーチを経て、両者で丁寧に解釈を深めていったとても貴重な作品。このSACD-Boxはぜひ、ぜひ買わないといけない、と思っていて、そのままになっていたので、さっそくいま注文しました。


もちろんレビュー日記も後日書かせてもらいます。


ベートーヴェンについて、ピアニストとして、そういう大きな偉業を残してきた後なので、今回のPENTATONEへ録音したベートーヴェンの作品は、まさに”変化球”という表現は言い得て妙なのだと思いました。


今回のアルバムは、2つの偉大な業績の後の補巻という位置づけで、なんとベートーヴェンの弦楽四重奏をピアノで編曲した作品を演奏する、というびっくり仰天の内容なのだ。


まさに児玉麻里によるベートーヴェン・イヤー2020に贈る最高の変化球。


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「ピアノによるベートーヴェン:弦楽四重奏曲~サン=サーンス、バラキレフ、ムソルグスキー編曲」
 児玉麻里


輸入盤(2020/2/27発売)
http://urx3.nu/AVb2


国内盤(2020/5/20発売)
http://urx3.nu/AXWG


小澤征爾さんが「クラシック音楽の基本は弦楽四重奏」と仰ったのは有名な話。

また室内楽の最高峰とも云われる弦楽四重奏。


ベートーヴェンの16曲の弦楽四重奏をいま一度じっくり腰を据えて聴いてみたいと思いながら、すでにもう何年・・・。


これを児玉麻里さんのピアノで聴けるのは最高ではないか!


このベートーヴェンの弦楽四重奏曲のピアノ版への編曲者がサン=サーンス、バラキレフ、ムソルグスキーといういずれもピアノ音楽の傑作を残しているひとかどの作曲家である点が素晴らしい。


ベートーヴェンが生涯にわたり作り続けたのは弦楽四重奏曲。
ベートーヴェン好きのピアニストにとり、この世界を担える弦楽器奏者は羨望の存在であった。


それが今回実現したということになる。編曲者は大物ながら、児玉麻里さんはあくまでベートーヴェン弾きの側から見た世界を主にしている。児玉麻里さんもベートーヴェンの弦楽四重奏曲をピアノ曲として弾くのはもちろん初めての経験である。


ベートーヴェン:
● サン=サーンス編:弦楽四重奏曲第7番 Op.59-1「ラズモフスキー第1番」
  ~第2楽章アレグレット・ヴィヴァーチェ・エ・センプレ・スケルツァンド
● サン=サーンス編:弦楽四重奏曲第6番 Op.18-6~第2楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポ
● バラキレフ編:弦楽四重奏曲第8番 Op.59-2「ラズモフスキー第2番」~第3楽章アレグレット
● バラキレフ編:弦楽四重奏曲第13番 Op.130~第5楽章カヴァティーナ
● ムソルグスキー編:弦楽四重奏曲第16番 Op.135~第2楽章ヴィヴァーチェ
● ムソルグスキー編:弦楽四重奏曲第16番 Op.135~第3楽章レント・アッサイ


 モーツァルト:
● ベートーヴェン編:クラリネット五重奏曲 K.581~第4楽章アレグレットと変奏曲


興味深いのは、サン=サーンス、バラキレフ、ムソルグスキーが原曲をただピアノに置き換えるのではなく、それぞれのピアニズムを反映させつつ完全なピアノ曲にしていること。


サン=サーンスとバラキレフは難技巧の要求されるピアノ曲が多く、それらと同様のレベルが要求されるものとなっている。超お宝がムソルグスキー編曲による第16番。ムソルグスキーはもっぱら編曲される側の作曲家で、彼の編曲は極めて珍しい。ムソルグスキーはベートーヴェンを崇拝しており、彼の激しく革新的な音楽の原点だったことを認識させてくれるのではないか。この編曲は楽譜が極めて入手困難なためムソルグスキー研究家の間でも伝説となっていたものだそうだ。それがついに音になったということになる。ベートーヴェン最後の弦楽四重奏曲の異常な感覚がムソルグスキーの異常な感覚とあいまって世にも稀な逸品となっている。


おまけとしてベートーヴェンがモーツァルトの名作「クラリネット五重奏曲」のフィナーレをピアノ独奏用に編曲したものも収められている。(HMVサイト記載情報による)


じつにいい素晴らしい企画力。

さっそく聴いてみた。


まず直感的に思ったのは、弦楽四重奏というストリングス的なサウンドを聴いている感じがしない、そんな面影が一切ない、まったく独立した立派なピアノ曲として体を成していることだ。


原曲を知らなければ、オリジナルのピアノ曲としてまったく違和感なく受け入れられる。


ピアノへの編曲版というのはオーケストラの交響曲をピアノ編曲版にしたものというのは何曲か聴いた経験はあるのだが、やはりそこには原曲の面影があって、置き換え感という感覚がどうしても漂ってしまう。(もちろんそのピアノ編曲バージョンはそれはそれでまた大変魅力的ではあります。)


ここではそういうものを感じない完全な独立したオリジナリティを感じますね。


それはやっぱりサン=サーンス、バラキレフ、ムソルグスキーというそれぞれの作曲家独自のピアニズムが色濃く反映されていて、原曲の面影がないからなのだと思います。


とても新鮮に感じます。


そしてやっぱりどうしても感じるベートーヴェンの音楽の様式感。ベートーヴェンのピアノ曲を聴くと、それはショパンでもない、モーツァルトでもない、ベートーヴェンらしい骨格感のある美しさ、厳格さがありますね。


男らしい旋律の中にふっと一瞬現れる女性的な美しい旋律がなんとも堪らなく美しいです。


そういうベートーヴェン音楽特有の様式感って絶対ありますね。


聴いていると、あ~やっぱりベートーヴェンだ、と感じてしまいます。


それは決してベートーヴェン・オリジナルの作品ではなく、サン=サーンス、バラキレフ、ムソルグスキーによる編曲版でもその気高い精神性は間違いなく伝わってきます。


そこはけっして損なわれていないと思います。

児玉麻里さんがベートーヴェンを生涯のライフワークにしているのもよくわかります。


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今回のこのPENTATONEの録音は、オランダのヒルフェルムス、MCOスタジオ1で収録された。もうこのヒルフェルムスのMCOスタジオというのは、ポリヒムニアが専属契約してずっと使ってきているスタジオなのだ。PENTATONEの黎明期の録音の頃から大半のディスクでこのクレジットを見かけている。


コンサートホールに出張録音するか、このMCOスタジオなのか、のどちらかである。室内楽の録音が多いが、このようにスペースの大きいスタジオなので、オランダ放送フィルのようなオーケストラの録音でも使用されている。


そもそもオランダのヒルフェルムスというところは、オランダ中部北ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)。ヨーロッパ最大のコナベーションエリアであるランドスタットの一角を占めているエリアだそうだ。


首都アムステルダムの南東30km、ユトレヒトの北20kmに位置している。1920年代から続く短波ラジオ局のラジオ・ネーデルランドなどのラジオ局、テレビ局が集中しているため、「メディアの街」と呼ばれている。


このスタジオ写真をずっと見てきた自分の予想なのだけれど、このMCOスタジオというのはテレビ、ラジオ公開放送用のスタジオではないか?と思うのだ。


写真で見ると観客席の奥行きが浅いのでコンサートホールとは思えないのだ。そうすると普通に公開録音するため、その観客用の座席で、そのための放送録音スタジオなのではないか、と思うわけだ。


だから壁にはきちんとコンサートホールのように拡散材パネルも装飾されている。


スタジオだから、MCOスタジオ1~5までと複数別れているのだと思う。
メディア街だから、こういう施設が多いのだろう。


PENTATONE、ポリヒムニアはずっとこのMCOスタジオを愛用してきています。


自分はいままでPENTATONEの数多のアーティストがここを使っている写真を数多く観てきました。児玉麻里・児玉桃さんの「チャイコフスキー・ファンタジー」もこのMCOスタジオで収録されました。



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児玉麻里さんと録音エンジニア・エルド・グロート氏とピアノ調律師マイケル・ブランデス氏。(c)Mari Kodama FB


ポリヒムニアのバランスエンジニア、録音、編集は、お馴染みエルド・グロート氏。
もう長年自分が聴いてきた期待を裏切らない録音ですね。


ポリヒムニアがピアノ録音を録るとまさにこういう音がします。


ピアノ録音の素晴らしさで定評のあるDGは、どちらかというと硬質でクリスタル感のある音色なんですよね。ピンと張りつめたようなそういう透明感が命みたいな・・・。


でもポリヒムニア、PENTATONEが録るピアノの音は、温度感が高めで、質感の柔らかい音色なんですよね。彼らの録るピアノの音は昔からこういう音がします。


一発の出音を聴いた瞬間、あ~やっぱりと思いました。(笑)


ピアノ録音のオーディオ再生で大切なことは、打鍵の一音一音に質量感が出るような再生ができるかどうか、ですね。このニュアンスが出るとピアノのサウンドは最高の鳴り方をしますね。


児玉麻里さんの今回の録音、じつに素晴らしいです。
期待裏切らないいつも通りのサウンドでした。



最後にブックレットの中に記載されている児玉麻里さんの今回の新譜に対する寄稿コメントを紹介しておこう。


PENTATONEの新譜は、必ずブックレットの中で冒頭にアーティストに寄稿をさせる。


それが彼らのスタイルなのだ。


この児玉麻里さんの寄稿には溢れんばかりのベートーヴェン愛と尊敬の念が記されている。


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”真の芸術は、頑強なものである。”



おそらくルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンほど私を大きく揺り動かしてきた芸術家はいないであろう。この数十年間、私はこの個性的な作曲家とともに歩んできた。私は子供のとき、ティーンエージャーのとき、そして学生のとき、そして今なお、コンサートで彼の曲を弾いている。


私はベートーヴェンとともに生きてきたし、彼の音楽を聴いてきた。


そして彼をもっと深く理解したいとずっと努力してきたし、特に、彼の作曲技法の複雑さや深さ、そしてそれが与えるインパクトについて理解したいと思ってきた。この男は実際のところどのような男なの?ときどき、もし私が彼に会えるチャンスがあるとしたら、彼に何を聞くべきかを考えることがある。


この数十年の間、ベートーヴェンは私の芸術作品という観点からだけでなく、自分の人生の哲学者でもあってきた存在だった。それはどうして?それはあきらかに、彼の芸術作品やそう至るまでの中で表現してきた考え方の中に、”真の芸術は、頑強なものである・・・それはけっして見かけのいい綺麗な形に抑制することはできない。”という言葉があるからだ。


彼は耳が不自由であったにもかかわらず、他人と会話をすることを助けた1820年の会話本の中にそう書かれている。この本では、彼にとってあきらかにネガティブなことではなく、そして彼の芸術に関することだけでもなく、個人の尊厳に寄与する個人の自由、人間の主張についての考え方がまとめられている。


しかしながら、同時に、この自由を自分のものとし、それを発展させ、従来の伝統的な考え方を超えるなにか新しいものをつねに探し創作する責務についてもまとめている。


彼の作品にはすべて、己で決め、己で理解すること、そしてそれを前へ動かし成長させることが要求される。これは常に彼自身がおこなってきたことであり、すべての作曲の中に新しい音楽的手法をつねに探しながら、彼の時代の作曲技法を超えるなにかを見つける、そしてそれが彼の曲にある偉大なるダイナミズムにもなる要因ともなっていた。


彼は決して同じことを繰り返さなかった。


私は彼のそのような姿勢をとても楽観主義なものとして捉えていた。彼の作品には大きな希望がある。そして人間は自分の個性を守るためと、それをさらによい方向へ発展させるために、その知性を喜んで使うことができる。彼は自分の人生がもっとも深い暗闇の中にあろうとも決して希望を諦めなかった。


それが私に深い影響を及ぼしてきた彼の音楽である。


ベートーヴェンは間違いなく、私の中にある楽観主義に大きな貢献をしてきた。


このレコーディングでは、私はいつもとはまったく違う側面からベートーヴェンにアプローチした。初めて、彼の弦楽四重奏から抜粋してピアノで演奏した。これは私にとって大変感動的な体験であった。ピアニストとして、私は彼のその弦楽四重奏の作品を聴いてきたが、そのときはそのモダンでパイオニア的な手法という観点から非常に彼を尊敬していた。演奏家にとってピアノを弾かずに、ただ聴いているだけというのは、子供が手の中に収めてみたいという、いわゆる把握したい、触りたいという観念にとらわれているのを禁じられているような感覚に似ている。


それはスコアを勉強して、その作品に深く入り込み、私自身がどのように弾こうか、どのように音楽を奏でていくか、という気持ちからくるものであった。


結果として、サン=サーンス、ムソルグスキーやバラキレフのような有名なベートーヴェンの弦楽四重奏のピアノ編曲版を勉強することでベートーヴェンと彼の作品へ新しくアプローチすることが可能となった。


まず最初にいま私が弾くことができるベートーヴェンの後期の作品のパートを弾く、その3人の作曲家との違いが理解できるように。そしてつぎに私にとって同じような感覚のパートを彼らの作品の中で探して弾けるようになる。そうすることでベートーヴェンにより近づくことができるし、彼を完全に理解することができる。


これらのピアノ編曲版を弾けるようになって、実際のところその作業はピアノ編曲というより、アレンジというか、やや詩的適応という感じの作業なのだけれど、おかげでこれら3人の作曲家がどのようにベートーヴェンを理解しているのか、どのようにベートーヴェンの弦楽四重奏のエッセンスを正確に表現しているのか、そしてどのように彼ら独自の音楽性を盛り込んでいるのか、そしてそれゆえにベートーヴェンが絶えず要求していた頑強さというのを、正確に表現できていたかを学ぶことができた。


このような編曲版を演奏できる機会を得ることができて、たとえベートーヴェンその人の作品でなくても、サン=サーンス、ムソルグスキーやバラキレフ、彼らによるベートーヴェン観を、学ぶことができたのではないか、と思っている。


編曲版で表現されているように、彼らの解釈は、私にとって、よりベートーヴェンに対してより理解が深まり、新しいベートーヴェン像を描き切ってくれたと間違いなく思います。この録音を聴いてくださる皆様方にとっても同じであるように。



児玉麻里
Mari kodama











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無観客上演でのライブストリーミング配信 [雑感]

新型コロナ(COVID-19)感染症予防対策として、コンサートなどの観客が集まるイヴェントは軒並み中止、延期の嵐だ。専門家はここ1~2週間が最大の山だと言っているために自粛要請。


でも2週間経過したら、再開できる、よくなっているという保証はどこにあるのだろうか?なにを、どこを基準にして再開します、と判断するのであろうか?みんな先が見えなく不安で仕方がなく毎日憂鬱な日々なのではないだろうか?


自分のSNS TLはクラシック専門なので、もうこの問題はみんなの生活に直結している。
フリーランスは最大の危機だ。


まさか、神様は地球にこんな試練を与えるとは・・・。


武漢で騒いでいた時は、どこか他人事だったかもね。たった1日をきっかけにパンデミック・レベルだ。クラシックのコンサートは、もう3月の予定はほとんど全滅で中止か延期。4月もどうだか。


こんな国難に遭遇して、ここに来てクラシック界の中でひとつの流れが出てきたように感じる。それは中止になった公演を、無観客で演奏して、それをインターネットで無料でストリーミングでみなさんに届ける、という動き。


まず、びわ湖ホールで毎年大人気で即決ソールドアウトのびわ湖リングこと、ワーグナーのニーンベルクの指環。今年は最後の「神々の黄昏」。


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最高に盛り上がるはずが、無念の中止。延期ではなく、中止だ。


びわ湖ホールの自主制作なので、自分の懐を痛めて制作しているわけだが、その製作費1億6千万!これが中止になって全部水の泡。大損害だ。


チケットは払い戻しだが、それで終わらない。せっかく1年以上かけて作ってきた舞台装置ふくめ、このまま埋もれてしまうのは勿体ないということで、これを無観客でオペラ上演し、YouTubeでストリーミングで流すという。しかも無料で。


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もう神対応というか、涙が出てきしまった。
さぞかし無念であったろう。

さらにはDVDにも記録して、販売するという。
でもDVDでの売り上げなんて、製作費1億6千万に比べたら雀の涙だろう。


無料ライブストリーミング配信
 各日、公演の模様を無料ライブストリーミングで同時配信します(ドイツ語上演・字幕なし)配信日時:令和2年3月7日(土)・8日(日)各日13:00開始、19:00終了予定


●びわ湖ホール プロデュースオペラ 「神々の黄昏」3月7日
https://www.youtube.com/watch?v=pbhzqWLfus0


●びわ湖ホール プロデュースオペラ 「神々の黄昏」3月8日
https://www.youtube.com/watch?v=yv5tfl7t_nI


つぎにミューザ川崎。


これも東響(東京交響楽団)の名曲全集とモーツァルト・マチネの2公演が中止となった。でも音楽を届けたい!というミューザ&東響の熱い想いから、やむなく公演中止となった2公演をニコニコ生放送「東京交響楽団 Live from Muza!」として急遽配信することになった。


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3/8「名曲全集」3/14「モーツァルト・マチネ」の2公演を無料・登録なしで生視聴できる。


3月8日 (日) 14:00開演
ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団「名曲全集第155回」



3月14日 (土) 11:00開演
モーツァルト・マチネ 第40回



そうかぁ、ライブストリーミングの使い方としてこういう使い方があるのか~と思っていた矢先。もっとも恐れていたことが!


東京・春・音楽祭も、中止になったコンサートを、無観客で演奏し、無料でライブストリーミングだ。


 ◎3/14(土)15:00 林 美智子(メゾ・ソプラノ)& 与儀 巧(テノール)にほんの歌を集めて



 ◎3/14(土)18:00 The Ninth Wave - Ode to Nature 目で聴き、耳で視る「ベートーヴェン」



 ◎3/15(日)16:00 ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽



苦渋の決断とも思われるが、まっ3月のコンサートだから仕方がないのかも。


IIJという日本のインターネット・プロバイダーの草分け的存在がこういう選択肢をしたことが、クラシック業界で、こういう無観客上演、そして無料でインターネットでライブストリーミングというひとつの流れの本筋を作るのかもしれないですね。


この新コロナが終息するまでの間のこれからのやり方として、という意味です。


でもチケットは払い戻しだし、しかもこのライブストリーミングも無料。もうほとんど善意でやっているみたいなものですね。


びわ湖のほうでは、ぜひ視聴ユーザが銭落としできるような仕組みにしてほしいという声が多かったです。善意のつもりでしょうけど、製作費1億6千万で作った作品を無料で観るのは忍びない・・・ちょっとでもお役に立てれば・・・という意見が多かったです。


本来、ライブストリーミングという技術はこのために開発されたものではないだろう。(笑)


ライブストリーミングの演奏を観て、家にいるユーザーは本当にコンサートホールの聴衆として聴いているときのような臨場感、興奮感を同じように得られるのか?


開発のお披露目のときは、もちろんそういう謳い文句だ。
コンサートホールで聴いているような感じです。。。あの感動が蘇りますとか。


でもいざこういう国難で、こういう使い方をされると、ライブストリーミングで観れるから、生演奏に行けなくてもよかったです。。。とはならないはずだ。ライブストリーミングはあくまで副次的な産物でしかないだろう。


やっぱりステージ上の演奏者と聴衆との間の息もつけぬほどの真剣勝負のやりとり、あのスリリングある緊張感、興奮は生演奏あってのこと、そこでしか体験できないことだと思う。


異論はあるかもだけれどこれは自分の感覚、意見です。


もちろん技術の世界ではなるべく、それに近づけるように努力を続けるのでしょうが、現時点では自分はやはり生演奏には敵わないと思います。


びわ湖の1億6千万だけじゃないです。軒並み中止になっているコンサートの興行主やプロモーターは、もう大変な赤字負債を抱えている。


このまま続くとみんな破産しちゃうよ。


人が集まることが感染になってしまう、だからそれができないイコール、世の中のビジネスは全部成り立たない、というのは、悪魔はよくそういうトリックを考えつくもんだな、というほどの試練ですね。


自分も人生初の体験だと思います。
この国難は・・・


とりあえず、近々の予定では、東京・春・音楽祭のトリスタンとイゾルデはどうなるのか?4月上旬だけれど。やっぱり無観客での無料ライブストリーミング?


そして5月のマーラーフェスト2020は?


東京・春・音楽祭は、全公演被害を被るとなると、もうこりゃ想像したくないほど大打撃だ。



大相撲の春場所も無観客、春の甲子園も無観客。
東京五輪も無観客?

う~ん、それは、あまりにも寂しすぎるし、厳しいな・・・




 

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マーラー・パビリオン [海外音楽鑑賞旅行]

マーラー・パビリオン(Mahler Pavilion)というのは、アムステルダム・コンセルトヘボウのコンサートホールの向かいにあるMuseumpleinという草原の広場(ここは同時にゴッホ美術館、アムステルダム市立美術館にも囲まれている地理になる。)に造営される大型テントのことである。


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ここでは、コンサートホールの本公演のチケットが取れなくてホールに入れなかった人のために、このテントの中の大型スクリーンで、ライブストリーミングでその公演をパブリック・ビューイングできるような企画になっているのだ。


これは前回のマーラーフェスト1995で初めて取り入れられた企画だった。今回のマーラーフェスト2020でも同じ試みがなされる。


ぜひ体験してみたいと思っていたのだが、このライブストリーミングは聴き逃し配信ではなく、リアルタイムのストリーミング配信である。だから本公演と同時の時間帯に開催される。


だからホールで生演奏を聴くのであれば、パブリックビューイングのほうは体験できない。


ただ、現在の自分のチケット獲得状況は、第2番「復活」だけが取れていなくて、リターンチケット待ちなのだ。だったら、ぜひこのマーラー・パビリオンのパブリックビューイングのほうで体験すればいいと思っていたのだが、なぜか第2番「復活」だけはこのライブストリーミングでさえもずっとSold Outだったのだ。


2番復活は本当にすごい人気だ。


ところがなんと今日、偶然にもマーラー・パビリオンのほうのライブストリーミングのほうの第2番「復活」のチケットにリターンがでた!もちろんすかさずゲット!


やったー!


大人気の第2番「復活」は、コンサートホールでの生演奏ではなく、マーラー・パビリオンでのライブストリーミングで体験できることになった。


これで見かけ上ではあるけれど、今回のマーラーフェスト2020は全公演コンプリートできたことになる。


もちろん本チケットの方のリターンチケットが出てきたら、そちらを買うけれど、ある意味、せっかく現地のマーラー・パビリオンのライブストリーミングを体験したいと思っていたのであるから、こちらのほうが返って好都合なのではないか?


2番復活のリターンチケットはなかなか出てこなかった。


昔、アバド&ルツェルン祝祭管のマーラーツィクルスのBlu-rayをコンプリートしようとしたら、どうしても2番復活だけ入手できなかった。そして今回も2番復活だ。やっぱりオレのマーラー人生は、復活に困るようになっているんだと、つくづく思いました。


そして昨日、「復活」の指揮に生涯をかけた男、ギルバート・キャプランの日記を書いた。


その翌日にまさか復活のチケットが出てくるとは!(笑)


効果あったかな?
やっぱり自分には音楽の神様がついているんだ、と思いました。


それも本チャンの生演奏のチケットでなく、ライブストリーミングのほうのチケットとはいかにもオレらしい。でもそれが結局、マーラー・パビリオンをも体験できる横裾を広げることになったんだから万事オーライだ。


もし、この後、本チャンの復活のリターンチケットが出てきたらどうする???(笑)買うか?そのままにするか・・・きっとプラチナだからプライスレスに凄い跳ね上がっているだろう。


確保してある予算もだんだん目減りしてきて、そこまでして、懐を痛めなくても、いまのままでOKじゃないのか?


コンシェルジェからの情報によると、コンセルトヘボウの営業と話す機会があったらしいのだが、ライブストリーミングはヨーロッパでも取り入れられ始めており自信があると言っていたそうだ。


ただ、コンセルトヘボウの隣の広場でのマーラー・パビリオン内のスクリーンへのライブストリーミング、コンセルトヘボウとしても初の試み。また、ヨーロッパ内でライブストリーミングの装置機材を使いまわしている、とも言っていたそうだ。


なんか生々しくてドキドキしてきたな。(笑)


オーディオマニア目線でしっかりとチェックしてきたい。
画質はブロックノイズなんか出ていないか?画質のクオリティーはどうか?音質はどうなのか?


できればどういう信号諸元で伝送されているのかも知りたい。


もちろん大型テントの中がそもそもどんな風景なのか、またシステムの機材の様子の写真なども撮影してしっかりレポートしてきたい。


マーラーフェストは、結局つぎの4つのイヴェントがおこなわれると要約することができる。


要はアムステルダムでおこわなわれるマーラーフェスト2020って全部でどんなことをやるの?と言われれば、この4つのイヴェントに要約できる、ということだ。


①アムステルダム・コンセルトヘボウでのコンサート
②マーラー・パビリオン(大型テント)でのイヴェント
③アムステルダム市街での施設(映画館・美術館・ライブハウス)での映画、展示、コンサート。
④各家庭へのオンラインのライブストリーミング


④については、2020年3月に発表があるので、そのときにまた報告する。


この4つのイヴェントの詳細は下記に記されている。ぜひご覧ください。



この日記では、②のマーラー・パビリオンについてさらに詳しく紹介してみたい。


マーラー・パビリオン(Mahler Pavilion)では、ライブストリーミングの他に、本番のコンサートの前の講義であるMalher talks、マーラーに関する映画やドキュメンタリー、ランチコンサート、そしてマーラーの時代にあったいまとは異なる様々な決まりごとについては、権威ある学者、プレゼンターによる講義などが企画されている。


フェスティバルの最初の1週間は、ウィーンの国際グスタフ・マーラー協会と、オランダのグスタフ・マーラー財団による2日間のシンポジウム~マーラーの交響曲と歌曲でつかったテクストについて:Life and Death(生と死)~が開催される。


飲み物や食べ物については、フード・トラック(キッチン・カー)というスタイルで提供される。”マーラー・カフェ”と言うそうだ(笑)。



マーラー・ドキュメンタリー


10の短いドキュメンタリーが、コンセルトヘボウからの依頼によって制作会社MediaLaneTVによって委託されてきた。もちろんその一部はマーラー財団によって出資されているものなのだが。ドキュメンタリーは各交響曲についてひとつずつ作られていて、その交響曲についてのバックグランド、環境などが描かれている。これらのドキュメンタリーはコンセルトヘボウのメインホールでコンサートの前に、そしてマーラー・パビリオンでライブ・ストリーミングで放映される。



マーラーと若い子供たち


オーディエンスには、マーラーの作品について紹介されることになる。コンセルトヘボウは、マーラーについての特別レッスンを、デジタル '123ZING'プログラムを通して提供する。そして2月上旬、”私、私自身、そしてマーラー (Me,Myself and Mahler)”というタイトルのプロダクションが発起され、10歳、11歳くらいの4000人の学校の子供たちが参加する予定である。春の終わりの頃のシーズンの春休みでは、Vreemde Vogels ”奇妙な鳥”とタイトルのつけられたファミリーコンサートが、Staatsbosbeheer(オランダ政府による環境保護政策団体)との協力で森の自然の中やホーゲフェルウェ国立公園で開催されることになる。



アムステルダム市街でのマーラー


他のアムステルダムの文化教育機関も同様にマーラーフェスティバルに参加する。パラディソ(1960年代後半のヒッピー運動がきっかけとなって設立されたライブハウスで、今でもオランダで一番有名なステージ)、アムステルダム国立美術館、そして映画館 Bellevueなどもホストコンサートや映画上映をおこなう。


ゴッホ美術館もマーラー、そして同時期に生きた人、グスタフ・クリムト(世紀末ウィーンを代表する帝政オーストリアの画家)やオスカー・ココシュカ(20世紀のオーストリアの画家。 クリムト、シーレと並び、近代オーストリアを代表する画家の一人)について、マーラー・パビリオンの中で講義をおこなう。


アムステルダム国立美術館は、”マーラーとオランダの友人たち”というタイトルで、マーラーやメンゲルベルクや他のオランダの友人たち、作曲家のアルフォンス・ディーペンブロックなどの写真を額縁入りで、特別に展示する予定である。


年初の日記での紹介では、やや漠然とした形で風呂敷を広げるような感じであったが、ここにきて、結局どんなことをやるのかが明確になったといえる。


それじゃ、結局自分が現地にいってやるべきThings To Doってなに?ということになると、


・アムステルダム・コンセルトヘボウでメインホール(交響曲、歌曲)とリサイタルホール(歌曲室内楽版)でコンサートを聴く。
・マーラー・パビリオンで第2番「復活」のライブストリーミングを鑑賞する。
・マーラー・パビリオンでランチタイム・コンサートを楽しむ。
・アムステルダム国立美術館で、”マーラーとオランダの友人たち”の絵画展を鑑賞する。
・アムステルダム国立美術館で、いま修復中(修復されているが鑑賞可能になっている。)のレンブラントの”夜警”を鑑賞する。(マーラーはこの絵画を見てインスピレーションを得た。)


いま決まっているのは、まずはこれだ。


マーラー・パビリオンで開催されるランチタイム・コンサートはぜひ体験したいと思う。


13:00~13:30の30分だけのコンサートで、無料コンサートだ。(無料だけれど、でもチケットは必要。定員数が決まっているから売り切れにならない内に買っておかないと。。。)


このコンサートでは若くて才能のある有名なアーティストを楽しむことができる。マーラーの音楽とはちょっとアレンジの違う音楽、マーラーと同世代の音楽や、マーラーの影響を受けているクレズマーやジャズのような幅広いジャンルの音楽の作曲家の方々の音楽など・・・。


自分が参加する予定のこのフリーランチタイム・コンサートの日程を紹介しよう。
全部で5公演行くつもりだ。



2020/5/11(月)13:00~13:30 Free Lunchtime Concert in Mahler Pavilion


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ピアノラを伴奏にしてのマーラー歌曲の独唱。

ソプラノ:ジャネッテ・フォン・シャイク


ピアノラは、ピアノラ博物館の協力による。

ピアノラ:穴の開いたテープを用いて鍵盤を動かす、機械的に演奏されるピアノ。
     (マーラーの歌曲がプログラミングされている。)



2020/5/12(火) 13:00~13:30 Free Lunchtime Concert in Mahler Pavilion


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クレズマー音楽
(東欧系ユダヤ(イディッシュ)、アシュケナジムの民謡をルーツに持つ音楽ジャンルのひとつ。)


'Trio C tot de derde'
ヴァイオリン:カール・デン・ヘルトッグ
クラリネット:カスパー・テラ
アコーディオン:クー・レッテイング




2020/5/13(水)13:00~13:30 Free Lunchtime Concert in Mahler Pavilion


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レオ・スミットの作品。
マーラー歌曲室内楽版など。


Leo Smit Ensemble(レオ・スミット・アンサンブル)
ソプラノ:イレーネ・マイセン
フルート:エレーノア・パーメイヤー
ピアノ:トービアス・ボースブーム


レオ・スミット財団の協力による。


レオ・スミット

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オランダの作曲家。 アムステルダム出身。ポルトガル系ユダヤ人。アムステルダム音楽院でセム・ドレスデンについて作曲を学んだ後、1927年にパリに出て、モーリス・ラヴェルとイーゴリ・ストラヴィンスキーに大きな影響を受けた。死後長らく忘れられた存在だったが、1980年代から定期的に作品が演奏されるようになり、1996年にレオ・スミット財団が設立された。




2020/5/14(木)  13:00~13:30 Free Lunchtime Concert in Mahler Pavilion


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ピアノ連弾

マーラー交響曲第6番 第2楽章 アンダンテ
マーラー交響曲第6番 第3楽章 スケルツォ


ピアノ:ヴィヴィアン・チョウ
ピアノ:シェーン・モーガン・ルーニー




2020/5/15(金) 13:00~13:30  Free Lunchtime Concert in Mahler Pavilion


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シェーンベルグ 浄められた夜
マーラー交響曲第5番 第4楽章 アダージェット


オランダ・ユース・弦楽オーケストラ
指揮:カール・デン・ハートッグ


あとThings To Doの中に入れるべきかどうか残されているのは、シンポジウムとMahler talksを入れるかどうかなんですよね。


Mahler talksは、その交響曲&歌曲が演奏される直前に、その曲についての解説、いわゆるパネルをつかったプレトークみたいなものだと思う。でも正直言ってマーラーの曲はもう完璧な知識があるから、今更45分程度のプレトークを聞きたいとも思わないんですよね。なんといっても有料なので。無料だったら聞くかもしれませんが。


問題なのは、やっぱりシンポジウムのほうだと思う。


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Life and Death(生と死)~マーラーの交響曲と歌曲でつかったテクストについて。2日間のシンポジウムなのだが、これはやっぱり受けたいかな?ウィーンの国際グスタフ・マーラー協会と、オランダのグスタフ・マーラー財団によるシンポジウムですからね。


これは貴重な経験だと思うんですよね。プログラム冊子みたいなものが配布されれば最高です。きちんと記録に残る。1日50ユーロだから5000円強。2日で1万円越えですか。


ちょっと悩ませてください。



あとは、マーラーの写真展や遺品などの展示会はどこでやるのであろうか?
マーラー・パビリオンの中でやるのだろうか?


そしてマーラーフェスト2020の記念グッズ売り場、これももうバンバン全部買っちゃいたいです。これもマーラー・パビリオンの中なのだろうか?


アムスのホテルは、コンセルトヘボウの近く。そしてマーラー・パビリオンもコンセルトヘボウの向かいの広場だとすると、フェスティバル期間中はずっとここら辺に居るという感じでしょうね。


アムス市街までトラムで出たりする時間はないと思う。


フェルメール美術館や、どうしても行きたいオランダ料理レストラン、そして運河の風景も写真に撮っておきたい。


あと、いまは言えないが極秘プロジェクトで訪問するところがある。(笑)


こういうミッションを満たす時間はあるのだろうか。



最後に、このマーラーフェスト2020をスポンサーしてくれる現時点での企業を紹介しよう。


まず、スポンサーとパートナー。


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そしてファウンディングとGrant Provider。


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まぁマーラー財団、メンゲルベルク財団、コンセルトヘボウ財団のほかオランダ企業多し。妥当と言えば妥当だが、放送・インターネット関係、IT・電機メーカー関係が見当たらないんだよね。この記念すべきフェスティバルの模様はぜひ放送してパッケージメディアとしても一般販売してほしいと思っているから、そういう関連の企業が見当たらないのがちょっとさびしい。


いくらいまのご時世とはいえ、ライブストリーミングで、ハイ終わりじゃなぁ~。(笑)


後世にちゃんと形として残してほしい。マーラーフェスト1995の非売品CD-Boxみたいな知る人ぞ知るというようなマイナーな扱いではなくて、ちゃんとメジャーな市場で一般商品として売ってほしいのだ。オーディオSACD Box(SACDはポリヒムニアなら絶対できる!)と映像Blu-ray Boxとして。(もちろんハイビジョンHD用CCD撮像素子の業務用カメラで撮影された完璧なHD画質で!(笑))


新型コロナウィルス騒動で、クラシック業界のみならず経済への大打撃などお先真っ暗な毎日のニュース。自分もマーラーフェスト2020に果たして行けるのか、全然不透明だけれど、ただ毎日鬱状態でボーっとしていても精神の健康に悪いだけ。


希望は捨てないよ。
ネバーギブアップ!!!


せめてこういう日記でも書いていたほうが気分晴らしで精神的にもいいや!(笑)









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マーラー交響曲第2番「復活」だけを振る男 [海外音楽鑑賞旅行]

ギルバート・キャプラン。この方の存在を知ったときは、世の中にはなんと面白い男がいるのだろう、と思ったものだ。男は夢を追いかける生き物、というのを地でいった方であろう。


マーラー交響曲第2番「復活」だけを振る男。
そして世界で最も有名なマーラー・フリーク。


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ウィーンフィルとのキャプランの2番復活は、自分の復活コレクションの中でも最高の超優秀録音。4年前の2016年の元旦に亡くなられたが、そのときは、そうかぁ、ついに亡くなられたか、という感じで、そのとき日記にしようとも思ったのだけれど、そのままになっていた。


昨日のマーラー音源紹介の日記で、ふたたび脳裏に復活。


キャプランの伝説は、クラシック音楽業界にいらっしゃる方であれば、もう誰もが知っている有名な話だけれど、改めて、自分からも紹介してみたいと思う。


ギルバート・キャプラン氏は、1967年創刊のアメリカの経済誌「インスティテューショナル・インベスター」の創刊者として実業に携わり、実業家としての成功をおさめる。青少年時代に音楽教育を受けたことはなかったが、大好きなマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮することを夢見て、30代を過ぎてからゲオルク・ショルティに師事して指揮法を学ぶ。


40代なかばで、自費によるコンサートをエイヴリー・フィッシャー・ホールで行い、指揮者としてデビューする。最初で最後のはずが絶賛を浴び、あちこちのオーケストラから客演の依頼がくることとなり、「復活」のみを専門に振る指揮者として知られるようになった。


生涯に客演し「復活」を振った主なオーケストラは


ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団
セントルイス交響楽団
ピッツバーグ交響楽団
ワシントン・ナショナル交響楽団
ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
北ドイツ放送交響楽団
バイエルン国立歌劇場管弦楽団
ロンドン交響楽団
フィルハーモニア管弦楽団
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
スカラ・フィルハーモニー管弦楽団
オスロ・フィルハーモニー管弦楽団
ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団
フィンランド放送交響楽団
プラハ交響楽団
ブダペスト交響楽団
イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
キーロフ歌劇場管弦楽団
サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団
ロシア・ナショナル管弦楽団
新日本フィルハーモニー交響楽団
メルボルン交響楽団


などである。


「復活」以外にはレパートリーも皆無であり、「復活」の指揮以外の音楽的キャリアもこれといってない(笑)。


しかし、「復活」に関しては世界的にも第一人者と目されている。音楽以外の分野で成果を収めたのちに中年以降に転じて成功した指揮者、ただ一曲だけを振り続けた指揮者という(笑)、世界でもまず他に例のない珍しい特性を二つも兼ね備えた稀な存在である。


1988年発売したロンドン交響楽団との演奏は、マーラー作品のCDとしては史上最高の売り上げを記録した。2002年には、私財で購入したマーラー自筆譜を元にした新校訂版「キャプラン版」での録音をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と行い、話題になった。


「復活」専門の指揮者のキャプラー氏は、40近いオーケストラと100を超える「復活」パフォーマンスのほか、「復活」のレコーディングも3度おこなった史上最強のマーラー復活フリークであった。


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キャプラン氏は、アメリカの実業家で、26歳で経済誌を創刊し、一流へと成長させた凄腕経営者。音楽演奏には縁のない人生だったのだ。それが20歳のときに故レオポルド・ストコウスキー指揮アメリカ交響楽団によるマーラーの交響曲2番「復活」のリハーサルを見学し衝撃を受け、いつか、この曲を指揮したい!と夢を抱いたわけだ。


40歳になるのを機に、この夢を実現させることを決意。以後、マーラーの2番の演奏会を追いかけて世界中をかけまわり、1日9時間にも及ぶ練習を重ね、ついに指揮者たちの間でも敬遠される難解なこの曲をマスターした。


そして自費で1夜限りの復活のコンサートを実現。大成功を収め、最初で最後のはずが、つぎつぎとオファーが舞い込むようになった。まさに「復活」を振るだけで後世の人生を開拓していったのだ。


まさにアメリカン・ドリームですね。


キャプラン氏は、当初、ビジネスの世界で大成功していて、彼は経済誌の会社を7000万ドル(80億円)で売却していて、その潤沢な80億の資産が、この夢を叶えるべく音楽活動を支えたわけだ。


やがて「復活」の指揮・録音だけではなく、マーラーの自筆譜校訂、シンポジウム出席など、研究者としても活躍の場を広げ、もはや彼の音楽を「アマチュアの趣味」と言う人は皆無となっていた。


金持ちの道楽恐るべし!まさに「復活」に生涯をかける形で、しかも「道楽」のレベルをはるかに超えた、学問的成果をも残した、というところがスゴイではないか!


自分は最初この話を知ったとき、不覚にも思わず笑ってしまった。(笑)
こんな男が世の中にいるとは!


でもそれはやはり金を持っていた、資産家だからできたことなんだな、とその当時納得した。結局この世の中、なにをやるにしても金。先立つものがないとダメなんだな、と。


クラシックの作曲家は、モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、そしてワーグナーにしてもつねに金に困っていた。ワーグナーだって、ルィートヴィッヒ二世というパトロンがいなければ、あのような大成功は成し得なかったであろう。


それを自らの資産で、自らの力で、運命を切り開いていった男が、このギルバート・キャプランという男なのだ。


この復活だけを振る男、ギルバート・キャプラン氏は日本にも来日している。

1984年4月12日 NHKホールで新日本フィルを振って、この復活を披露しているのだ。
そのときのポスターがこれ。


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指揮:ギルバート・キャプラン
管弦楽:新日本フィルハーモニー管弦楽団
ソプラノ:ヨン・ミ・キム
メゾ・ソプラノ:シルビア・リンデンストランド
合唱:晋友会合唱団


単なる話題集め、とも揶揄されたこの公演。でも大成功に終わった。

なぜ新日本フィルなのか、あの晋友会合唱団が参加しているなんて驚き。


この組み合わせから考えても、ひょっとすると同じ「復活」が大好きな小澤征爾さんの鶴の一声があったのではないか?とも思ったり・・・。


単なる金持ちの道楽で終わらなかったのが、この「復活」を徹底的に研究し尽くしたこと。それは、いわば「復活」のエキスパートとしての数多い指揮活動の副産物のようなものだったとも言われている。



これがキャプランの復活で1番有名なウィーンフィルとの録音。


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DG SACDでSACD5.0サラウンド。Emil Berliner Studiosのライナー・マイヤール氏がトーンマイスターの超絶優秀録音である。


自分の中でマーラー2番復活といえば、この録音が1番だ。


2002年におこなわれたこの録音は、単に優秀録音というだけではなく、キャプランの私財で購入したマーラー自筆譜を元に自らが研究して改訂をおこなった新校訂版「キャプラン版」による演奏なのだ。


この「キャプラン版」についてはこんな話がある。


キャプラン氏が世界各国のオーケストラを指揮して「復活」を演奏する際に、どのオケでも必ず持ち上がる問題が、楽員の使っているパート譜と、指揮者の使うスコアのあいだに一致しない部分が多々あるということであった。そこで考えたのが、自身による校訂譜の作成ということで、そのための準備段階として、まずマーラーの自筆譜を購入して刊行、さらに音楽学者のレナーテ・シュタルク=フォイトの協力を得て、出版譜との差異を細かく検証・分析し、400に及ぶエラーや疑問箇所を抽出、自ら校訂をおこなって出版し、成果を世に問うというものであった。


このキャプラン&シュタルク=フォイトによる校訂譜は、国際マーラー協会も承認済みで、2005年にウニフェアザール(ユニヴァーサル)からクリティカル・エディションとして出版されている。


このウィーン・フィルとのレコーディングも、その校訂譜作成のためにおこなっていた資料収集の過程で、照会先のひとつであったウィーン・フィルから逆にその校訂譜についての問い合わせがあり、実物を目にして感銘を受けたウィーン・フィルの副団長で首席クラリネット奏者、ペーター・シュミードル氏の尽力によって実現の運びとなったということなのだ。(HMVサイト記載)



キャプラン氏が入手した2番復活のマーラーの自筆譜とはどのようなものなのか?


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香港のサザビーズに展示された作曲家・指揮者グスタフ・マーラーの交響曲第2番「復活」の直筆楽譜(2016年8月17日撮影)。(c)AFP/Anthony WALLACE


キャプラン氏が2016年元旦に死去したため、彼が所有していた2番復活のマーラーの自筆譜が競売にかけられたようだ。


【2016年11月30日 AFP】オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Mahler、1860~1911年)の交響曲第2番「復活(Resurrection)」の希少な直筆譜が29日、英ロンドン(London)で競売にかけられ、450万ポンド(約6億3100万円)で落札された。


楽譜としては史上最高値となった。


競売を主催したサザビーズ(Sotheby's)が明らかにした。交響曲第2番「復活」の全232ページに及ぶこの楽譜には、マーラー自身による消去の跡や書き換え、注釈が含まれており、そのほとんどは鮮やかな青色のクレヨンで記されていた。


この自筆譜は、同作品の熱心な愛好家だった米国人の実業家ギルバート・キャプラン(Gilbert Kaplan)氏が所有していた。同氏は自らの人生をこの曲の指揮に捧げ、今年初めに死去した。



キャプラン氏の2番復活のCDは全部で3枚存在する。
さきほど紹介した新校訂版「キャプラン版」によるウィーンフィルとの録音。


そして、キャプラン氏が最初に2番復活の録音をしたCD。
ロンドン響との録音。


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このCDは、世界で17万5000枚という、マーラー・レコーディング史上、実は最も数多く売れたアルバムだったそうだ。英国のクラシック・チャートには発売後2年も名を連ねており、また、ニューヨーク・タイムズやドイツのZDFからはその年のベストCDのひとつに選ばれるなど、評価の高さにもかなりのものがあったという。


復活でもっとも売れたCDが、プロの指揮者によるものでなく、アマの愛好家によるものだったというのが、なんか運命ってそんなもんだ、という感じがしますね。(笑)


残念ながらいまは廃盤のようだ。
自分はさっそく中古市場で手配した。
3月下旬に届くので、ちょっと時間がかかり過ぎだが楽しみすぎて待ちきれない気分だ。


このロンドン響とのCDのブックレットの中に、このような解説と写真が掲載されているそうだ。


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オルガンと鐘はオケは別収録してダビングしている。そのオルガンは、マーラーがニューヨークフィルとの演奏会(1911年)で使ったものだそうだ。(この写真はブックレットより転載。オルガンのレコーディング風景)


キャプランの拘りの中の拘りがよくわかるエピソードだ。


このロンドン響とのデビュー録音。いまパッケージメディアのCDを取り寄せているんだが、ハイレゾ・ストリーミングで探してみたらありました。


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歴代の復活録音の中で最も売れたCD。

聴いてみた印象。
あまり録音はよくないような・・・(笑)
まっ、というか平凡ですね。


この演奏のどこにそんなに売れた理由があるのか、自分が一聴した感じではその凄さというのはわかりませんでした。


普通の復活の演奏のなにものでもない。


でも売れるときというのは、そんな理屈なんて関係ない、勢いで売れてしまうものですね。アマの愛好家による「復活」専門指揮者による録音、という話題性も助け船になったのでしょう。


そんな平凡な演奏の印象です。


そして、最後の3度目の録音が、2番復活の室内楽ヴァージョンだ。


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56人の室内オーケストラによるヴァージョンをウィーン室内管弦楽団とウィーン・コンツェルトハウスでライブ録音している。その楽譜はキャプランとロブ・マティスによって編曲されたものだったそうだ。


これも残念ながらいまは廃盤。
もちろんこれも中古市場で手配した。
ものすごく高値なんですよね。


こちらはハイレゾ・ストリーミングの方には登録されていませんでした。


やっぱりキャプランの2番復活の録音は、ウィーンフィルとの録音が最高傑作だと思う。


とまぁ、こんな感じの男なのである。自分も性格的に徹底的にやらないと気が済まない性格だけれど、男ならここまでやらないとね、と本当に尊敬しました。


でも世の中、結局やっぱり金なんだよね、という現実路線もしっかりと身に詰まされるお話でした。(笑)




 


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自分に影響を及ぼしてきたマーラー音源 [海外音楽鑑賞旅行]

バーンスタイン、アバド以外の自分の愛聴しているマーラー音源を紹介していこう。
自分のマーラー鑑賞歴とともに歩んできたマーラー音源たちである。


●ラトルのマーラー音源

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サイモン・ラトルについては、”ラトルのマーラー”というタイトルでひとつ日記を立ててもいいくらい自分のリアルタイム世代のマーラー指揮者でもある。


でも、ラトルについては、ずっと自分の日記で熱く語ってきた。


コンサート評はもちろんのこと、ベルリンフィル離任時は統轄的な意味合い、ご苦労様、自分にとってベルリンフィルのシェフといえば、フルトヴェングラーでもなければカラヤンでもなく、アバドでもない、あなたラトルでしたよ、という”ラトル&ベルリンフィル”の日記で自分の想いをのすべてを書いた。


そしてマーラー指揮者としてのラトルは、その方向性についても”アバドのマーラー”で触れた。


バーンスタインでマーラーの門をくぐり、いろいろな音源を聴いていくうちに、近代マーラー解釈としてアバドとラトルに絞った。映像素材のアバドに、実演のラトルという立ち位置である。


カラヤン以前のベルリンフィルの首席指揮者はあまり取り上げることのなかったマーラー。


アバドがシェフになって、ベルリンフィルにマーラーを頻繁に取り入れた。結局10年足らずの任期の中で、ベルリンフィルでマーラーの交響曲を全曲演奏した。(アバドのベルリンフィルのシェフ就任コンサートは、マーラー1番「巨人」だった。)


これは、ベルリンフィル史上初のことであった。


ラトルもそうである。1987年に初めてベルリンフィルと客演した時がマーラーの6番、そして2002年のベルリンフィルのシェフ就任コンサートがマーラーの5番、そして2019年の離任コンサートが、マーラーの6番。そして2010/2011年シーズンでのベルリンフィルでのマーラー交響曲全曲演奏会。


アバドが在任期間を通してバラバラで全曲演奏を成し遂げたのに対し、ラトルは2010/2011年という、たった1年の短期間で、列記としたマーラーツィクルスとして全曲演奏会を成し遂げた。


全曲演奏会、ツィクルスとしてベルリンフィルでマーラー演奏をコンプリートしたのは、ラトルが史上初である。


これは当時大変な話題になり、チケットは即完売のプラチナ。自分も6番チケットを取るのに相当苦労した。近代マーラー解釈の雄のラトルのマーラーは恐るべくプラチナであった。


この2010/2011シーズンのラトル&ベルリンフィルのマーラーツィクルスは、デジタルコンサートホール(DCH)にアーカイブとしてちゃんと入ってます。


ラトルは、ここぞ!という決めないといけないメモリアルのタイミングでは、必ずマーラーの演目を取り上げた。そう!その通り。ラトルはまさにマーラーの曲を自分の名刺代わりに使っていた。


アバドとラトルは、ベルリンフィルに対して明らかにマーラーを導入していくことを強く意識していた、と思う。


・バーミンガム市交響楽団時代のマーラー全集

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ラトルの指揮者人生は、このイギリスのバーミンガム市交響楽団から始まった。ラトルの就任当時には決して国内的・国際的知名度が高いとは言えなかったこのオーケストラを、じつに22年間かけて徐々に世界的なオーケストラに育て上げた。


このバーミンガム市交響楽団のシェフのときに、マーラー全集を完成させた。
ラトルのマーラー指揮者としてのキャリアのスタートはここにあった。


この指揮者としてのキャリアのスタートのときにマーラーのしかも全集を作った、という意義は自分の方向性を決めたという点で大きかったのではないのだろうか?


この写真にあるBoxは旧盤である。
いまは廃盤で、バーミンガム市交響楽団時代の全集Boxはないんじゃないかな?


ラトルはイギリス人なので、当時あったEMIレーベルだったんだよね。ベルリンフィルのシェフになったときもレーベルをEMIに移した。ベルリンフィルのレーベルは、伝統的にDGと思い込んできたから、ずいぶん反発したものだったよ。(笑)


EMIの作るサウンドは、あまり好きじゃなかった。


でも久しぶりに聴いてみたけれど、ライブ感、ホール感などの空間がよく録れていて、いい録音だと思う。でも、これはベルリンフィル時代にも言えるけれど、自分はラトルのマーラー録音のセッション録音は必ずしも全箇所とも演奏解釈として賛成するという訳でもないんだな。これはラトルの他の作曲家の録音でも言えることだけれど、こんなところでこんなにスローテンポに落とすかな~とか、自分とは合わない解釈をすることがままある。


たとえばマーラーでいえば2番の「復活」とかね。
でも不思議とライブではそんな心配をすることはなかった。


・ベルリンフィル時代のマーラー音源

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2番、5番、9番、10番の4枚。


アバドも結局、ベルリンフィルでマーラー全集を録音することはなかった。(演奏会は全曲やっているが。)ラトルも全曲演奏会はやっているが、録音としてベルリンフィルでマーラー全集を作ることはなかった。これは自分の邪推だけれど、伝統あるベルリンフィルで録音でマーラー全集を作ることは、かなりリスキーなことなのではないだろうか。(笑)


録音のテイストは、いかにもベルリンフィルハーモニーという感じ。シューボックスの芳醇な響きとは趣が違うそういう響きの多さはないけれど、もっとダイレクト感というか、ホール感、ダイナミックレンジの大きなスケール感の大きい録音ですね。いかにもワインヤードのホールでの録音という感じです。



・ベルリンフィルに客演デビューしたときのマーラー6番の音源

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ベルリンフィルは、いまでこそ自主制作レーベル、ベルリンフィルメディアという会社を設立して、自分たちの録音は自分のレーベルでやるようになった。でもDGやEMI時代のさらにその前の、フルトヴェングラー時代や、ニキシュなどのベルリンフィルに客演した往年の指揮者などの昔の音源を、その昔の自主制作盤で出したBoxがあるのだ。


特別企画として限定販売されたもので、いまはもちろん廃盤の大変貴重なBoxです。この中に、ラトルが1987年にベルリンフィルに初めて客演した当時の音源が入っているのだ。若々しいマーラー6番でした。


・ベルリンフィル離任コンサートのマーラー6番

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ラトルにとって、マーラーの曲の中でも6番はとても特別な曲。ベルリンフィルデビューのときが、この6番であったが、離任コンサートのときの演目にも6番を持ってきた。


そのときの公演の様子もフェアウェル・コンサートとして録音をして発売された。これはいまの自主制作レーベルであるベルリンフィル・メディアとしてのデラックス仕様盤。1987年の6番のデビュー音源のCDもカップリングで入っている。そしてそのときの公演の様子の映像素材もBlu-rayとして入っている。まさにデラックス仕様だ。


この離任コンサートのチケットは、ネットでの販売はなくて、電話予約でしか買えなく、最後のコンサートはベルリン市民を優先に、というラトルの思いやりもあったのだろう。


この公演に行かれた方もたくさんいらっしゃっただろう。
自分もぜひ駆けつけたがったが、マーラーフェスト2020の予算確保のため断念した。


自分は、ラトルのマラ6は、2010/2011年シーズンのベルリンフィルによるマーラー全曲演奏会のときに、現地で体験した。帰国後もDCHで何回も繰り返して観た忘れられない公演だ。



・ラトルのマーラー全集(バーミンガム市交響楽団時代+ベルリンフィルEMI時代)

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いまはバーミンガム市交響楽団時代に作ったマーラー全集と、EMIレーベル時代のベルリンフィル時代に録った録音をパッケージミックスしたこういうラトルのマーラーキャリアの総決算みたいなBoxが出来ている。一応、自分も買っておきました。



●マーラーフェスト1995自主制作Box

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これは何回も紹介しているBox全集録音だけれど、マーラーフェスト1995を収録した非売品のBoxだ。いまは中古市場ですごい高値で売られている超レアなBox。


自分も10万の大枚をはたいて買ったと記憶している。
自分のお宝盤である。


あらためて、じっくり全曲聴き返してみると、じつに素晴らしい録音である。


化粧っ気はあまりないが、じつにホール感、空間感が秀逸で自分好みの録音である。自分はやはりクラシックの録音は空間感が出ている録音が好みですね。


この録音を聴いていると、本当にアムステルダム・コンセルトヘボウというホールの音響の素晴らしさがよくわかるのだ。このホール独特の、それはウィーン楽友協会と違ってある程度、横幅があるシューボックスである形状特徴から起因する、響きの滞空時間の長さ、残響感の豊かさ。ちょっと堪んないですね。そういうホール固有の響きがよくわかる録音です。


そしてまさに一期一会の演奏会に相応しい緊張感あふれる演奏。
この録音を本番までに繰り返し聴くレギュラーに決めました。


●RCO Blu-ray-Box


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2年続きのマーラー・イヤーを記念し、2010年度と2011年度のシーズン(2009~2011年)に連続で開催されたロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によるマーラー交響曲全曲演奏会シリーズは、世界的な注目を集めたコンサートであった。マリス・ヤンソンス、ベルナルド・ハイティンク、ピエール・ブーレーズ、ロリン・マゼール、エリアフ・インバル、イヴァン・フィッシャー、ファビオ・ルイージ、ダニエレ・ガッティ、ダニエル・ハーディング9人の指揮者達によるマーラー・イヤーのライヴ映像。


マーラーと特別の所縁のあるアムステルダム・コンセルトヘボウで、これだけのマーラー指揮者が集まって一堂にマーラーを演奏するのは、まさにマーラーフェストと言っても過言ではない。


自分は、大好きなコンセルトヘボウで、マーラー交響曲全集で、しかもBlu-rayで出る、というところに当時、相当反応してしまった。


マーラーツィクルスで、しかも高画質Blu-rayのソフトが出る、というのは、自分にとってアバドのルツェルン音楽祭でのツィクルス以来の快挙だった。絶対買いだと思った。


ところが買って届いてすぐに見たら、画質があまりに悪いので、もうガッカリしてしまった。とてもHD画質とは思えなかった。もう大ショックだった。せっかく楽しみにしていたのに~である。


だからマーラーツィクルスの映像素材は、自分にとってやはりアバド&ルツェルン祝祭管弦楽団のBlu-rayになってしまうのだ。それ以来ガッカリで、あまり繰り返して観ることなく死蔵になっていたものだった。


画質のどこが酷かったか、というと、解像度がとてもHDとは思えなかった。


もうあきらかにSD画質。これじゃ地デジのほうがはるかに綺麗、と当時思っていた。人の肌の色もちょっと赤みがかっていて、色調も酷い。


これは撮影クルーのレベルはひどいなーと思った。(オランダの映像会社のようだ。)
これでBlu-rayって唄うなんて相当詐欺だな、と思っていた。


逆に音声は最高に素晴らしいのだ。全曲ともポリヒムニアのエベレット・ポーター氏担当でさすが!と思った。今回久しぶりに観たら、ある法則性みたいなものを発見した。曲によって、あきらかにSD画質のものと、きちんとHD画質で綺麗なものと別れるのだ。ヤンソンス、インバルは最高に素晴らしい。これぞ、HD画質、Blu-rayって言っても全然文句が出ない。


予想するに、画質がSDなのは、撮像カメラの業務用カメラがきちんとハイビジョン用のCCD撮像素子を使っていないんじゃないか?初段の撮るところがHDじゃないと、いくらマスタリングでBD処理でもダメです。なんかこれだけ画質が酷いと、もう撮影カメラがSDとしか思えないんですよね。HD画質とSD画質のレベルが混在しているのは、2009年~2012年の4年間に渡って、最初の頃がSDの業務用カメラで、後半からHDの業務用カメラに変わった、ということなのだろう、と思いました。


だから、自分にとってこの映像素材Boxは、妙に中途半端な商品で、どうしても気持ち的に入れ込むことができなかったのだ。じつは告白すると、音楽ソフトもダウンサイジングして売却処分したとき、このソフトも売却しました。(笑)でもやっぱり。。。ということで買い戻したのです。


SD画質の演奏曲は我慢して観るとして(笑)、やはりアムステルダム・コンセルトヘボウのホールでマーラーを演奏している、という映像は、ある意味、今回一番本番のステータスに近い状態で観ている最高の予習素材だと思い直しました。


実際の本番は、こうやってこのホール空間、ステージのオーケストラを、そしてマーラーの音楽を流れている、というこのシチュエーションで体験することになるんだろうな、ということがイメージできるのです。


だから画質の問題はさておき、最高の予習素材と言っていいと思います。



●ヤンソンス&RCO Live

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1番、2番、5番、6番、8番。


RCOのマーラーと言えば故マリス・ヤンソンスでの演奏と思ってしまう。オーディオマニアにとっては、とてもなじみ深いこのジャケットの柄デザイン。RCO LiveはRCOの自主制作レーベルだ。録音会社はポリヒムニアがやっている。今回の担当もエベレット・ポーター氏が全作品やっている。ヤンソンス&RCOは、マーラーの作品を全曲録音したかどうか、記憶は定かではないのだが、ラックを調べたら、自分が持っているのは、上の写真の5枚だった。


これも聴くのはじつに久しぶり。


やっぱりRCO Liveは録音がいい。オーディオマニア向けのSACD、録音だと思います。世の中のマーラーファンは、マーラーの演奏解釈はこうでなければならない!と講釈をする、ヤンソンス&RCOはそういうところがわかっていない、ということを仰るけれども、これだけ音がよければそれでいいじゃん、的なところがある。


それですべて解決されちゃうような・・・。それだけの説得力がありますね。自分がオーディオマニアだからかもしれませんが。。。



●小澤征爾&ボストン交響楽団

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我らが小澤さんのマーラー交響曲全集。あの古巣のボストン響と録ったものですね。写真の自分が持っているこのBoxは旧盤ですね。いまはジャケットの写真が変わっています。これは、1980~1993年に録音されたもので、当時のPHILIPSレーベルの録音チームのもとで録った作品。自分は小澤さんのマーラーは、後年のサイトウキネンで聴くことのほうが機会が多かったけれど、このまさに若かりし頃の小澤さんのマーラーは、自分が
想像していた以上にとてもスタンダードな解釈というか、自分の感覚とちょっと違うと思うところはほとんどないくらい、とても教科書通りのような演奏のように思えました。自分の期待を裏切らない演奏ですね。ボストンシンフォニーホールはぜひ訪れてみたいです。自分のクラシック人生の中でどうしても避けることのできないコンサートホールですね。



●小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラ

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2番「復活」、9番。


2010/2011年に東京文化会館で録音した小澤さん&サイトウキネンのマーラー。小澤さんは2番「復活」がお好きで得意でいらっしゃる。小澤さんのマーラーは、このサイトウキネンとやっているときのほうが、とても熱いパッションを自分は感じます。東京文化会館のちょっとデッドな音響もあまり感じさせない素晴らしい録音になっています。


●小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラ Blu-ray

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1番「巨人」


ご存じゴローさんの2009年の作品。ゴローさんと知り合って、すぐにこの作品を観たな。もうこれは何回繰り返して観たことだろうか?サイトウキネンのメンバーのみなさんも若い!この頃の小澤さんの指揮ぶりを見ると、とても鬼気迫るというか、すごい迫力でちょっとびっくりしました。この映像作品は賞をたくさんもらっていたと記憶しています。


●MTT SFS SACD-Box

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ティルソン・トーマス(MTT)によるSFS(サンフランシスコ交響楽団)によるマーラー交響曲全集のSACD-Box。このBoxに対する自分の想い入れは、このBoxはまさにオーディオマニアのためにあるオーディオマニア御用達の全集という位置づけだった。オーディオファンにはとても評価の高いマーラー全集である。


マーラーの演奏史にうるさい音楽ファンの方々からすると、やや異端の系に見られる全集かもしれないが、とにかく音のよい、録音の素晴らしいマーラー全集である。SACD5.0サラウンドで聴ける最高の録音かもしれない。


アメリカのオーケストラに特徴のある機能的に鳴りまくるそのゴージャスさ、といい、コンピューターのような精緻な演奏は、確かに凄いが、どうしてもマーラー史にうるさいファンからすると、もうちょっと人間的な味のある演奏が欲しい、と思わせることも確か。


写真でご覧のように、すごいBoxのパッケージ内装仕様が丁寧でお金がかかっており、すごいゴージャス。贅沢なマーラー全集だ。



●ギルバード・キャプランSACD 2番「復活」単盤

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ギルバード・キャプランは、もともとは実業家なのであるが、大好きなマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮することを夢見て、30代を過ぎてからゲオルク・ショルティに師事して指揮法を学ぶ。40代なかばで、自費によるコンサートをエイヴリー・フィッシャー・ホールで行い、指揮者としてデビューする。最初で最後のはずが絶賛を浴び、あちこちのオーケストラから客演の依頼がくることとなり、「復活」のみを専門に振る指揮者として知られるようになった。


まさに2番「復活」だけを振る指揮者なのだ。(笑)
生涯に客演し「復活」を振った主なオーケストラは、22楽団にも及ぶ。


「復活」以外にはレパートリーも皆無であり、「復活」の指揮以外の音楽的キャリアもこれといって無い(笑)。しかし、「復活」に関しては世界的にも第一人者と目されている。音楽以外の分野で成果を収めたのちに中年以降に転じて成功した指揮者(指揮者以外の音楽家では若干例がある)、ただ一曲だけを振り続けた指揮者という(笑)、世界でもまず他に例のない珍しい特性を二つも兼ね備えた稀な存在である。


1988年発売したロンドン交響楽団との演奏は、マーラー作品のCDとしては史上最高の売り上げを記録した。2002年には、私財で購入したマーラー自筆譜を元にした新校訂版「キャプラン版」での録音をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と行い、話題になった。


オーディオマニアなら、このDG SACDのキャプラン&ウィーンフィルのマーラー2番「復活」を知らない人はいないだろう。


誰もが知っている2番「復活」の超有名盤である。


トーンマイスターは、Emil Berliner Studiosのライナー・マイヤールさんだ。
超絶優秀録音!自分のマーラー2番音源の中でも最高傑作だ。


しかもこの音源は、私財で購入したマーラー自筆譜を元にした新校訂版「キャプラン版」だからね。



●ハイティンク&シカゴ響 3番単盤

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マーラーの交響曲の中で自分は3番を理解できるようになったのは後年になってからだった。いまではなんでこんな素晴らしい曲を最初理解できなかったのであろう?と不思議に思うほど、素晴らしい曲だと思う。


2番、5番、6番、9番などの昔から好きな有名曲と負けず劣らず3番が好きになった。


このハイティンク&シカゴ響の3番の録音は、オーディオマニアの中でもその3番の優秀録音として超有名なディスクであった。オーディオオフ会でよく持ち込みソフトとして利用されていました。



●ハーディング&ウィーンフィル 10番単盤

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いまでは近代のマーラー指揮者として名を連ねるようになったダニエル・ハーディングであるが、ウィーンフィルとのデビューは、この録音だった。第10番はアダージョだけ作曲した後、マーラーは亡くなってしまうが、そのあと補筆され、全楽章完成されたものが残されている。有名なのはクック版であるが、このハーディング&VPOの録音は、そのクック版全楽章入りである。


オーディオマニアの中でも優秀録音として有名な録音である。



●ザンダー&フィルハーモニア管弦楽団 6番SACD 単盤

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2011年に現地ベルリンでラトル&ベルリンフィルの6番を聴くために、6番の優秀録音を探していたときにゴローさんが教えてくれた録音。これは素晴らしい録音です。歴代の6番の録音の中でもトップに位置するかも。最終楽章は、ハンマー2発ヴァージョンとハンマー3発ヴァージョンと2パターン録音されています。(笑)


SACD黎明期の頃のレーベルであるTELARCによるもの。TELARCを知らないオーディオマニアの方はいないよね。(笑)あの頃のSACDは本当に録音がよかった!



●ピエール・ブレーズ&VPO 3番 単盤

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DG SACDを集めていたときにコレクションした録音。いまでは大好きになった3番の優秀録音として外せないディスク。トーンマイスターは、Emil Berliner Studiosのライナー・マイヤールさんだ。3番の声楽独唱ソリストは、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターだ!



●ピーエル・ブレーズ&VPO 大地の歌 単盤

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これもDG SACDをコレクションしていたときに中古屋さんで見つけたもの。
トーンマイスターは、Emil Berliner Studiosのライナー・マイヤールさん。



●インパル&都響 9番単盤 EXTON

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2013年、2014年の2年にかけてエリアフ・インバル&東京都交響楽団(都響)によるマーラー全曲演奏会がおこなわれた。「新」マーラー・ツィクルスというタイトルだった。このインバル&都響のマーラーツィクルス全曲通いましたよ。2013年は東京芸術劇場、2014年は横浜みなとみらい。


近代のマーラー指揮者として堂々と名を馳せるエリアフ・インバル。そしてマーラー演奏では定評のある都響。最高の演奏だった。このときの全曲をオクタビア・レコードが収録していた。


それをSACDとして発売した。

自分は9番だけを購入した。


この当時は、ワンポイント録音というのが評判になったときだった。


左の黒ジャケットのほうがワンポイント録音、右の白ジャケットがマルチマイク録音。
どっちがいいか、結構議論されていたような記憶がある。


いまでこそ、マルチマイクは位相がぐちゃぐちゃになってしまうので、自然な音場感を得るにはワンポイントがいいってな意見もあるけれど、自分がこの両盤を比較したときは、やはりマルチマイク録音のほうが好みでした。(笑)


以上の自分に関わってきたマーラー音源を紹介してきたが、これ以外にもハイティンクBox,ショルティBox, LSO ゲルギエフSACD全集など持っていたのだけれど、もうこれだけ持っているんだから普段聴かないし、ダウンサイジングのときに売却してしまいました。


しかし自分はマーラー音源、結構持っていたんだな。そしてマーラーと縁の深い音楽人生だったんだな、と思いました。いまふたたびこれだけの音源を聴くのにすごい時間がかかりました。


去年の6月にマーラーフェスト2020のチケットが大半が取れたと判明した時点で、マーラーフェスト2020について連載をしようと去年の6月からずっと準備してきました。一連の連載はこれでひとまず終了。


あと、マーラーの歌曲について語りたい、と思いますが、これはまた時間をかけて。


ネバーギブアップ!


本番までどうなるかわからないし、やるだけのことは、できるかぎりのことはやるのだ!      




 



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ラトル&ベルリンフィルのマーラー交響曲第9番 [国内クラシックコンサート・レビュー]

マーラー交響曲第9番を、マーラーの交響曲の中で最高傑作という位置づけするマーラーファンの方は多い。それは、マーラーの交響曲で、やはり実演において近代まれにみる名演とされる公演に不思議と第9番が多いこと、そしてバーンスタイン&ベルリンフィルの緊張あふれるスリル満点のあの一期一会の名盤。


やはり話題に事欠かないのが第9番なのである。


実演に関しては、1985年のバーンスタイン&イスラエルフィルの第9番(大阪フェスティバルホールとNHKホール)がこれ以上はもう望めないという奇跡の超絶名演だと言われている。


悔しいかな、自分はそのとき大学生で北海道にいた。(笑)


今日ここで取り上げる日記は、2011年11月23日にmixiで作成した日記である。
ラトル&ベルリンフィルが来日公演をして、そこでマーラー交響曲第9番を演奏してくれた。


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自分は、この2011年に現地のベルリンフィルハーモニーでラトル&ベルリンフィルで第6番「悲劇的」を2公演聴いた。そしてこの2010/2011年シーズンというのは、ラトル&ベルリンフィルがこの1年でマーラー交響曲全曲演奏会というマーラーツィクルスをベルリンフィルハーモニーでおこなった年でもあるのだ。


カラヤンの苦手だったマーラー。アバドがシェフになって、ベルリンフィルにマーラーを頻繁に取り入れた。結局10年足らずの任期の中で、ベルリンフィルでマーラーの交響曲を全曲演奏した。


これは、ベルリンフィル史上初のことであった。


アバドとベルリンフィルの記録として残っている演奏はすべてライヴで下記の通りである。


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アバドのベルリンフィルのシェフ就任コンサートは、マーラーの1番なのだ。アバドはベルリンフィルで自分の在任期間の間にマーラーの曲を全曲演奏したほか、シカゴ響、ウィーンフィル、そしてルツェルン祝祭管弦楽団とも第8番を除いて全曲演奏。いかに近代のマーラー指揮者であったかがわかるであろう。


ラトルもそうなのだ。1987年に初めてベルリンフィルと客演した時がマーラーの6番、そして2002年のベルリンフィルのシェフ就任コンサートがマーラーの5番、そして2019年の離任コンサートが、マーラーの6番。そして2010/2011年シーズンでのベルリンフィルでのマーラー交響曲全曲演奏会。


ラトルは、アバドと同様、ベルリンフィルに対して明らかにマーラーを強く意識していた。


アバドが在任期間を通してバラバラで全曲演奏を成し遂げたのに対し、ラトルは2010/2011年というたった1年の短期間で、列記としたマーラーツィクルスとして全曲演奏会を成し遂げた。


全曲演奏会、ツィクルスとしてベルリンフィルでマーラー演奏をコンプリートしたのは、ラトルが史上初である。


これは当時大変な話題になり、チケットは即完売のプラチナ。自分も6番チケットを取るのに相当苦労した。近代マーラー解釈の雄のラトルのマーラーは恐るべくプラチナであった。


この2010/2011シーズンのラトル&ベルリンフィルのマーラーツィクルスは、デジタルコンサートホール(DCH)にアーカイブとしてちゃんと入ってます。


そういった経緯から自分にはアバドとラトルは、どうしても同じ道を歩んできたように思えてならないのだ。まさに偉大なる先人カラヤンとは違った面をアピールしたい、という・・・。


2011年は現地ベルリンで6番を聴いて、日本への来日公演では9番を聴く、というまさにラトルのマーラーイヤーだった。今年2020年にラトルはロンドン響と来日して、2番「復活」を披露してくれるというので、久しぶりにラトルのマーラーを聴いてみたいと思ったりしています。


そこでこの2011年11月にラトル&ベルリンフィルが来日してマーラー第9番を披露してくれたとき、自分はこの機会をかなり自分の中で大切なトリガーとして位置付けた。9番の曲の構造から詳細に説明し、そしてバーンスタイン&ベルリンフィルの一期一会の録音についても、徹底的にプロモートして宣伝した。


実際、コンサートも本当に素晴らしくて、自分の鑑賞歴の中でも忘れられない9番の名演になった。だから、このコンサート日記をmixi日記の中だけにとどめておかず、ブログのほうでも当時の日記を公開したいのだ。(2011年は、まだブログやっていなかったからね。)


自分の大切な思い出だから。


いま当時の9年前の日記を読むと、まず文体が全然違うね。(笑)そしてコンサート日記はものすごく細かい描写をしている。昔はすごく真面目だったんだな。いまはもっとアウトラインの感想を述べるだけになってしまったけれど、当時は本当に詳細な描写、感想を書いている。自分ながら若いときは凄かったんだな、と思いました。(笑)


このラトル&ベルリンフィルの来日公演のマーラー交響曲第9番のコンサート日記をぜひ自分のブログの勲章として残しておきたいので、mixiから移植することにしたという次第である。


いま読み返すことで、来たるマーラーフェストにも大切な意味を持つだろう。




昨日サントリーホールに3年ぶりとなるラトル/ベルリン・フィルの来日公演に行って参りました。 現代のマーラー解釈で定評のあるラトルが、マーラーの交響曲の中でも最高傑作との呼び声高い9番をどのように解釈して演奏するのか、とても楽しみでした。今年最後の大イベントです。


サントリーホール

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結果はやはりベルリン・フィルというブランドに本当に酔ってしまった。普段パッケージメディア、TV、DCHで観ているスーパースター軍団をいま直接生で鑑賞しているというその事実に酔ってしまう感じで、演奏も絶品のテクニック。


なんか演奏中ずっとドキドキしていました。


ご存知6月にフィルハーモニーでマラ6を聴いて、今年の最終の締めとしてマラ9で締めるという1年になりました。 DCHでのマーラーチクルスはほぼ全曲鑑賞(それも複数回)、今年は本当にマーラーを聴いたなぁ。


今回の座席は2階P1席9番。

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私の席から観たステージ。

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そう魔のP席!(笑)しかも6月のときのフィルハーモニーで初演のときの座席と、右側、左側の違いがあるがほぼ同じような座席。 5分で完売なので、ここしか取れなかったのである。(笑)


ラトル/ベルリン・フィルの公演はよほどここの席に縁があるんだろうと思う。


フィルハーモニーのときは、金管、打楽器と弦楽器が逆に聴こえてP席には違和感を覚えたのだが、今回もたぶんそうなのかな、と覚悟していました。(笑)。


団員達が拍手とともに入場。日本人奏者は樫本大進、清水直子さん、町田琴和さん3人そろい踏み。他にも御馴染のスーパースタープレーヤー達が勢ぞろいである。 なんか登場してくるだけで凄いオーラを発している。


第1コンサートマスターは樫本大進。やはり故郷に晴れ錦を飾らせてくれたラトルの思いやりなのだと思う。 全員が着席した後に大進だけ、1人で最後に登場。サイドにスタブラバ。 カラヤン時代を知る唯一の少ない英雄ですね。


あの日本人奏者4人目のマーレ・伊藤さんを探しましたが、はっきり確認できなかった。対抗配置なので、2'nd Vnは私の席からは背中しか見えないのです。でも東洋人らしい女性がいたので、彼女が伊藤さんではないか、と。


私の隣の席の若い女性客は、ホルン首席のドールの大ファンらしくて、ドールを見つけるなり「キャ~!信じられない!」と涙ぐんでいました。(笑)「いやだ~マイヤーさんも!ホント、ホント(喜)?」


このとき、これからどんなドラマが待っているのか、かなりドキドキ興奮でした。


そしてラトル登場。

いよいよマラ9演奏スタートです。
 
第1楽章はチェロ、ホルン、ハープなどが断片的に掛け合う短い序奏によって開始。
ゆったり少し踏みしめるようなリズムにのって幕が開く感じです。


第1楽章では総じてオーソドックスな演奏のようなのですが,表現の高まりに応じてテンポを速めたり,アクセントを際立たせたりしていて,ただそれが妥当性のある表現として受け取れるので,奇をてらったように感じられることはないし、ラトルならではのリアルでスケール感のある表現を描き出していると思いました。


また,ベルリンフィルならではの驚異的な合奏力と彫りの深いアンサンブルには、ゆるぎない存在感があり,聴いていて圧倒される思いがします。


第2楽章は重いテンポ。これは非凡庸。強いて言えばヴァイオリンの発声が少しハスキーだったりする。中間部の強烈さと緩徐部が素晴らしいです。10分くらいあと、かなりテンポアップしたノリが最高に心地よい。最初のレントラー風の舞曲のところでは,低弦の分厚くてキレの良い響きとフレージングにまず驚かされましたが,何よりもスコアを明瞭に再現しているだけでなく,聴感上の情報量の多さと過剰ともいえる表現力による演奏の世界は,なんだか作品の枠からはみ出しているのではないかと思えるほど。(笑)


本来の作品の枠を超えてしまう演奏過剰の部分がベルリン・フィルにはあるんだな~といつも思ってます。(笑)


第3楽章は緩徐部がなかなかの力演。リアルで生々しいです。全般に明るめの演奏なのですが、ここでは深い物言いをしている。ブラスが勢い良い。ティンパニも目立っている。


勢いに任せたりせずに比較的落ち着いたテンポで開始し,沈着かつ念入りに表現を積み重ねているのですが,随所に聴かれるアクセントがハッとするほど新鮮で、アンサンブルの密度もキレも申し分なし。


でもその充実極まりない演奏を聴くほどに空虚な思いがするのは,実はこの演奏解釈のコンセプトなのでしょう。


さていよいよ第4楽章アダージョ。第3楽章からアタッカで続けて演奏されます。


長調なのでしょうが、弦楽器群のユニゾンによる安住の調を求める印象的な旋律が聴く者を惹きつけます。これが長大な「うねり」となって、音空間をさまようような感じ。本当に弦楽器群がユニゾンで悠然と歌うこのメロディ、本当に荘大な感覚で美しい!


基本的には冷厳としたアンサンブルで,作品を冷徹に再現していて,響きの充実度や演奏の明瞭度,さらには細部に至るまでの解釈の的確さといった面で,素晴らしい説得力とインパクトがあり,慄然とする思いで聴き入るばかりでした。


最後にはテンポは、ますますゆっくりとなり、闇の中は安らぎの死を象徴するかのようで、CD録音などでは、絶対に味わえない雰囲気でした。


ここはやっぱり照明をフェードアウトして欲しかったな~。ここは私のこだわりなんですよ~。


この曲の第4楽章、最後の小節にマーラーはドイツ語で「死に絶えるように」と書き込んでおり、このことが第9交響曲全体を貫く「死」のテーマにつながっているのです。この最後の部分は、まさに終末へ向けて何度も消えようとするはかない灯のような音楽、という効果を醸し出しているんです。


その後、まさに静寂、沈黙、1分間くらいだったでしょうか?いやもっと長く感じたかもしれない。ラトルは全く動かず、楽団員達、観客もまったく動けず。観客達もここの部分の大切さを分かっているのでしょう。フライングブラボーをすることもなく......


凄いエンディングです。


その後、ようやくラトルのジェスチャーでようやくパラパラと拍手が起こって、その後大歓声、大拍手、ブラボーです。


いや~大感動!


こうして聴いてみると,ラトル指揮のベルリンフィルの驚異的な合奏力と,仮借ないまでの表現力にはただただ驚くばかりで,ラトルのその奥にある真髄まで深読みした作品分析と,それを現実の演奏として実現するベルリンフィルの強者達が成し遂げた,明け透けな作品の再現を聴いているように思いました。


ラトルの演奏解釈は,スコアとラトル自身のコンセプトのみに立脚したものだと思いますが,ラトル自身の感性のフィルタを通じてではあるとはいえ,高度な演奏技量とともに客観的にスコアを再現すると、こういう表現の世界が見えてくるのだという感じがしました。


さて肝心のP席での音響は、やはり逆に聴こえたのでしょうか?


やっぱり最悪。(苦笑)私の目の前は、なんとチューバ、トロンボーンの金管、そしてグランカッサにシンバルの打楽器とまさに最悪。弦楽器よりもこれらの金管、打楽器のほうが遥かに近くて目立って聴こえる。やっぱり普段聴いている逆に聴こえました。


でも、あらかじめ覚悟していたので、もう慣れたというか、フィルハーモニーのときのようなショックはなかったです。


まあこんなもんだな、という感じです。


このP席はやはり指揮者ラトルの指揮ぶり、表情を鑑賞する席だな、と思います。


これでベルリン・フィル来日公演のマラ9も終わり、2シーズンにまたがったラトルによるマーラー・チクルスも終焉を迎えようとしています。今年のベルリンツアーでの本拠地フィルハーモニーでのベルリン・フィル生体験、そしてSKF松本、軽井沢国際音楽祭などの国内音楽祭、そしてウィーン・フィル来日公演、ベルリン・フィル来日公演と今年の大きなイベントは全て終了です。


本当に充実していて、人生の中で最高に思い出に残る1年でしたね。


今日の公演の帰り路、iPodでラトル/ベルリン・フィルのマラ9を聴いて、再びあの感動を噛み締めながら、来年もこの1年に負けないくらい素晴らしい1年にしようと誓ったのでした。


演奏終了後、楽団員をねぎらうラトル

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カーテンコール(目の前に映っている黒髪の東洋人女性が伊藤さんかと。)

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全員引き揚げた後、再度ラトル1人が出てきて挨拶

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樫本大進とともにねぎらうラトル。大進はシャイなのかこのステージの端で中央まで出てこなかった。ラトルはどうして恥ずかしがるんだ?というジェスチャー。(笑)

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しかしすごい熱筆だな。いまとてもじゃないけれどこんなに書けないや。(笑)




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フランツ・カフカ 少女の人形と手紙 [雑感]

先日の「村上春樹さんの小説を読む」の日記の中で紹介した、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という1997~2011年のインタビュー集の中で、村上さんが発言したところにとても反応してしまった箇所があった。


そのときにメモしておけばよかったのだけれど、記憶に残したまま読了して、現在に至るまでそのままにしていた。


それはチェコ出身のドイツ語作家のフランツ・カフカについてのことだった。


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村上さんの小説で、「海辺のカフカ」という小説があるが、ここに登場するカフカ少年も、この作家フランツ・カフカからのインスピレーションである。またこの小説で村上さんは、フランツ・カフカ賞を2006年にアジア圏初として受賞されている。


フランツ・カフカというのは、写真の通りイケメンなのである。(笑)


フランツ・カフカは、どこかユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させるような独特の小説作品を残した。その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。・・・なのだそうだ。


それで、そのインタビュー集でそのカフカについての村上さんの発言に思わず、自分は胸がキュ~ンとくるような切ない気持ちになり、てっきりそれはカフカの小説のことなのだと、そのときに思ったのだ。


だから、あとで、カフカの小説リストを見て、それを後で買って読めばいい、とそのときに思っていた。


それで、いままでずっと忘れていてそのままになっていた。


昨日日記を書いたときにそのことを思い出して、カフカの小説リストを眺めたのだけれど、それらしいものが見つからない。内容はよく覚えているのだけれど、日記で紹介するほど、明瞭ではない。インタビュー集のどこに書いてあったか、定かでないし、まさかまた初めから読み直してその場所を探すなんてありえない。


なんとか、自分の記憶に基づいて、キーワードで、”カフカ、少女、人形”で検索してみたら、見つけた!


やはり有名な話なんだ。


「フランツ・カフカ 少女の人形と手紙」


である。


情報引用元:逸話のうつわ
https://www.itsuwanoutsuwa.com/kafka_letter-2/

から借用させていただきます。


自分は、この話を読んだとき、胸がキュ~ンと締め付けられ、現代にはこんな感性の人はまずいないだろうな、というようなメルヘンチックな気持ちになってしまった。


けっしていまの世の感性ではない。

なんかとても幸せな気分になった気持ち。


そしてこれはカフカの小説の話ではなく、カフカ本人の実談によるもののようだ。


なんとロマンティックな人なのだろう!

理系人間の自分が、文学の世界って素晴らしいと思った瞬間である。



******


フランツ・カフカ 少女の人形と手紙


チェコの作家フランツ・カフカ(一八八三 – 一九二四)は、死の前年、病の療養も兼ねてドイツのベルリンに住んでいた。若い頃からの取り憑かれたような不安や絶望のために、生涯誰とも結婚することのできなかったカフカだったが、当時、彼の最期まで寄り添うことになる若いポーランド生まれの女性ドーラ・ディアマントと二人で暮らしていた。ドーラは、繊細なカフカが家族以外で一緒に生活することのできた唯一の女性だった。


カフカとドーラは二人で暮らしていた頃によく郊外のシュティーグリッツ公園に散歩に出かけた。これから紹介するエピソードは、その公園を舞台にカフカの晩年に起こった優しくささやかな物語である。


ちなみに、この話は、作家の村上春樹が過去にインタビューで触れ、またポール・オースターの小説「ブルックリン・フォリーズ」にも登場する。



きっかけは公園での一人の少女との出会いだった。


ある日、いつものようにカフカとドーラが一緒に公園を歩いていると、散歩道の途中で幼い少女と出会った。少女は声をあげて泣き、すっかり打ちひしがれた様子。二人が、「どうしたの?」と尋ねると、少女は「お人形さんがいなくなっちゃったの」と答えた。


するとカフカはなだめるように、「君のお人形さんは、今ちょっと旅行に出ているだけなんだ。ほんとうだよ。おじさんに手紙を送ってくれたんだから」と言った。「そのお手紙、もってるの?」と少女が尋ねると「いいや、お家へおいてきちゃった。でも、あしたもってきてあげるからね」とカフカは答えた。


少女は目に涙を浮かべながらカフカをじっと見た。彼女の不信と好奇心の入り混じった眼差しにカフカは優しくほほえみ返すと、少女と別れ、ドーラと一緒に家に帰った。


帰宅したカフカは、さっそく自分の机に向かい、手紙を書き始めた。カフカの姿勢は真剣そのものだった。彼女の心に寄り添う「人形の手紙」に、まるで日頃の創作のように取り組んだ。


翌日、カフカたちが手紙を持って公園に向かうと、少女は約束通り公園で待っていた。少女はまだ字が読めなかったので、カフカはその「人形の手紙」を声に出して読んであげた。


手紙のなかで人形は、自分が一体なぜ姿を消したのかその理由を少女に語った。


人形は、決して悲しい理由から姿を消したのではなく、しばらく今の場所を離れて新しい世界を見てみたかったからなのだと少女に伝えた。


それから少女に対し人形は「毎日手紙を書くから」と約束した。こうして人形はカフカという作家の心を借りながら、自分の日々の新しい冒険について語っていった。手紙を重ねるうちに、人形も次第に成長した。学校に通い、友人との付き合いも増えていった。


そして、ある日のこと、人形は悲しい真実を打ち明けるように少女に言った。


「あなたのことはとても愛しているわ。でもね、付き合いや日々のしなければいけないことが積み重なっていて、もしかしたら、もういっしょに暮らせないかもしれないの」


人形と少女との避けられない別れの準備は、少しずつ進められ、そうして少女に宛てた人形の手紙は三週間ほど続いた。


カフカは手紙の結末に悩んでいた。それは大切な存在を失ったことで生じた少女の傷口を癒す「物語」でなければならなかった。考え抜いた末に、カフカは「結婚」をフィナーレに迎えることにした。


人形からの最後の手紙では、婚約のパーティーや準備の様子、若い新婚の二人の家などが丁寧に描写された。文面に耳を傾けながら、少女の目の前には穏やかな、幸福に満ちた景色が広がっていった。


手紙の最後、人形は祝福の想いに満たされた少女に向かって、そっと語りかけた。「わたしは幸せよ、今までありがとう。そしてわたしたちは、きっともう二度と会えないとあきらめなければならないことを、わかってほしいの」。


手紙を読み終えたとき、少女の心のなかの悲しみはすっかり消え去っていた。悲しみが悲しみとして受容され、昇華されたのだった。


ドーラは後年、このときのことを振り返りながらこんな風に語っている。


フランツは、ひとりの子供の小さな葛藤を芸術の技法によって解決したのだった ───  彼が世界に秩序をもたらすために、みずから用いたもっとも有効な手段によって(ドーラ・ディアマント「フランツ・カフカとの生活」より)。



******


この話はカフカといっしょに住んでいた女性のドーラが、著作を残していて「フランツ・カフカとの生活」という中に記載されていたことなんですね。


またポール・オースターの小説「ブルックリン・フォリーズ」にもこの話が登場するんですね。


自分は最初、これを村上春樹インタビュー集の中で読んで、もうジ~ン、胸キュ~ンという感じで凄い感動しました。


こういう感性はいまの世には絶対ないように思います。

ちょっと忘れられなかったです。


昨日日記を書いたときに、ぜひ紹介したい話だと思いました。

うまく検索キーワードを思いついて見つかってよかった・・・。











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村上春樹さんの小説を読む [雑感]

去年の2019年1月に、”読書をする。”深い深い井戸の中に入り込んで、孤独の層をくぐって体験して、その底で深く人生について瞑想したいと宣言したことを覚えていよう。


これは村上春樹さんの小説を読むということだった。深い深い井戸~という文言も村上さんの使っている名言だ。村上さんの小説は、長編、短編、翻訳、エッセイととても幅広いので、まずはご自身が主戦場と仰っている長編小説を全巻読破してみようと思ったのだ。



村上春樹長編小説14冊


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自分の読書歴は本当に寂しい限りだ。なにせ理系人間まっしぐらの人生を生きてきたので、文学というジャンルにはまったく縁遠く、その反対の人生を歩んできたといってよい。


子供の頃を振り返って記憶にある読書歴。。。司馬遼太郎さんの歴史小説、星新一さんのショートショート、平井和正さんの狼男シリーズ、そしてその時代に話題になった新書をそれなりにかじったかもしれないが、文学少年では絶対なかった。


逆に言えば理系人間だから技術書、専門書のような類はすごく読んできた。TCP/IP解説書とかね。近年ではオーディオ雑誌。そして自分の新しい開拓分野にクラシックの書籍があった。これは一番新しい自分の知識書である。クラシックに詳しくなりたいと思い、たくさんの本を購入してクラシックについて勉強した。


とにかく本を読むということは、知識を得るため、というドライな考え方があって、自分の知識欲のためにならないのなら読書は時間の無駄、というドライな考え方を持っていたかもしれない。


だから日本文学は全然読む意欲がなかったし、興味はあったが、読むとしても時間の有り余る定年後だなぁと漠然に思っていた。


2004年ころに部屋にそういう日本文学の本を収める本棚がないことが気になって、実際読むのは定年後だけど、本だけ買っておこうかな、と思い、本棚を買って、そこに日本文学の小説をたくさんまとめ買いしたのだ。
要は見栄えのためですね。


その中に、村上春樹さんの本があった。


なぜかわからないけれど、村上さんの本は、ほとんど全巻揃えるくらい買い揃えてしまった。他の小説家は代表的なものを2,3冊という感じなのだけれど、村上さん小説だけは、どういう理由なのかわからないけれど片っ端から全部揃えてしまった。


今思えばこうなることを見通して、その当時から自分と赤い糸で結ばれていたのかも?


でもそのときはあくまで積読であった。


村上春樹さんの小説を読み始めたのは、2009年/2010年の1Q84の長編小説が大ヒットしたときからだった。世間がすごい大騒ぎしていたので、自分もその時流に乗って読んでみたいと思ったのである。それ以降、2013年の色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年、そして2017年の騎士団長殺し。


発売されるたびに話題になり、読破した。


このとき、やはり村上春樹さんの小説を読むことは、時流に乗るファッションアイコン的な捉え方が自分にはあったかもしれない。村上小説ビジネスにはたぶんにそういう要素はあるかもしれませんね。


2009年1月に自分を見つめなおすという意思、そして村上春樹さんのつぶやき、エッセイなどから叱責され、生き方、人生とは・・・といろいろ説かれている感じにもなり、それでは村上さんの小説を全巻読んでみようと思い立ったのだ。その背景には、村上さんの本であれば、自分はなにを隠そう全巻揃えているから、という背景があったからだ。


村上春樹さんの長編小説は14冊あるが、1月から読み始めて、毎週の土日は読書にあてた。そうしたら夏休みの8月には14冊全部読破できてしまったのだ。自分でも驚く凄いペース。


それには自分の目論見があって、10月の秋にノーベル文学賞が発表され、そのときに村上春樹受賞という全国、いや全世界のファンが待ち望んでいた瞬間に、この長編小説全読破の日記をぶち上げて、めでたくお祝いのメッセージを贈ろうと思っていたのだ。


残念だったが、このままなにもせずにまた短編、エッセイとかにそのままに読み進めると間が空きすぎるので、いまちょうど「ねじまき鳥クロニクル」の舞台が全国進行中だ。


このタイミングを契機にひとつ村上春樹小説の印象でも日記にしておきたいと思ってリリースすることにした。


村上春樹さんの小説に対する論評や関連ビジネスは本当にすごい。それを今さら読むつもりもなかったし、要らぬ先入観を持つよりは、そういうのをいっさい読まないで、まず自分が読んで自分の感性に正直でいたかった。だからこの日記はあくまで文学評論家でもなんでもない素人のノンノン目線で想いをぶつけるだけである。



村上春樹長編小説を発売順に並べたもの


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村上さんの小説には、リアリズムとノンリアリズムに大別されると思う。自分がこれぞ村上小説の真骨頂と思うのは、やはりノンリアリズムのほうですね。


小説には強いて言えばいろいろなジャンル分けができると思います。恋愛小説、推理小説、歴史小説などなど。でもこういう既存のジャンルに当てはめることのできない独特の村上ワールドを築いていると思いますね。そういう枠にとらわれないオリジナリティがあります。


敢えて言えば、サスペンスと非現実世界の超常現象との混在の魅力・・・とでも言いますか。


やっぱりどこかサスペンスっぽい要素があって、それが強い魅力になっていて、つぎはどうなるのであろう・・・とどんどん読み進んでいきたくなる文章のリズム感のよさが1番の魅力だと思います。


村上小説というとどうしてもこのサスペンス風味のノンリアリズムというイメージが強いので、逆に自分は村上さんのリアリズムの小説はどうもピンとこなかった。ノルウエーの森がそうなのであるが、ノルウエーの森は、いつもノンリアリズム路線ではいかん、ということで小説家としてどうしてもここはリアリズムの小説を書いておかないといけない、という小説家としてのキャリア開発の一環として臨んだ作品だそうだ。


ご存じのようにノルウエーの森は空前絶後の大ヒットとなって大ベストセラーとなった作品。自分は読んでみたんだが、どうも印象に薄いというか、自分の記憶に深く刻まれる作品ではなかった。


あのいつもの強烈なインパクトがない分、ふつうの恋愛小説とそんなに大きなアドヴァンテージを感じなかった。1回じゃどうも印象に残らないから、2回読みましたから。(笑)


でも大ベストセラー、映画にもなった名作ですから、やはり文学素養の乏しい自分では十分鑑賞に耐えれなかったのでしょう。自分の責任だと思いますね。


村上小説というとどうしてもちょっと尋常じゃない奇怪な現象のストーリー展開を期待してしまいますから。



この一連の14作品の長編小説を全部読破してみて、思ったことは、村上春樹さんという人は、性格のいい、いわゆるいい人ではないと思います。


いい人、性格のいい人が書く小説というのは面白くない、退屈でつまんないと思います。


いわゆる自分の中の内面性に毒のようなものがあって、そういう黒い、毒のようなものを自分の中でその毒と向かい合う、そういう非凡人的のところがなければあういう独創的なストーリー展開の発想は思いつかないと思います。


人を驚かすというか、感動する刺激的な小説を書く小説家は、性格がかなり個性的でないとダメですね。いわゆるいい人というのは小説家として大成しないのでは?(笑)


もちろん誤解のないように、悪い人という意味ではなく、普段は普通にいい人だと思いますが、心の闇というかどす黒い毒のようなものを内面的に秘めてないとこのような独創的な発想はできないと思うんですよね。これはあくまで自分の思うところなのだけれど、笑いのツボ、受けるツボが、結構ユーモア、とくにブラックジョークが好き。ちょっとブラックな要素が入っていないとつまらないという面があるんじゃないかと思いますね。


すでに70歳の人生経験豊富な方ですから、ふつうの平凡な方の感動ポイントや笑いのツボとは違っていて、やはり独特のブラックジョーク、痛烈な皮肉ジョークがよく理解できるというかそういうのがお好きなのでは?と思います。


ユーモアを愛するんですね。ボクの普段のジャッジからしてそう感じます。やはりそこは人生経験豊富で、これだけの地位を自分の力で築き上げてきた人ですから。ふつうの人が感動するポイントより敷居が高い感じがします。




1人の作家の作品を短期間で全部読破するというのは、いろいろなものが見えてきます。


それは、やはり晩年の作品になればなるほど作家としての進歩がはっきりわかる、というか。物語の進行の精緻さ、巧妙なトリックのかけかた、使い分ける用語の高度化とか、描写精度、やはり作品が後ろになるにつれて本当に小説のレベルとして進歩しているなと感じます。


ご本人も仰っていますが、小説家になりたての頃というのはどのように小説を書いていけばいいか、わからない中、書いているというのがありますからね。やはり経験だと思います。デビュー作品の「風の歌を聴け」なんて本当に文章が初々しいですよ。ジャズ喫茶を経営しながら、店を閉まった後に、自宅に戻ってキッチンテーブルで当時は原稿用紙に万年筆で書いていた、という状況。ボクはこの作品は本当にその頃苦労しながら書いている様子が垣間見えてとても初々しくて好きです。


この14作品の中で1番好きなのは、やっぱり1Q84。これはやっぱり物語の仕掛けが非常に巧妙に作られていて、読んでいくうちにそうだったのか、と関心させられるところ多し。小説ってこういう仕掛けが巧妙だとやっぱり読んでいてすごく感動しますよね。なにもトリックがないより絶対感動します。そしてなによりも自分が大好きなサスペンス風味抜群で、やっぱりカッコいいですよね。小説全体として。1番好きな作品です。


あとダンス・ダンス・ダンスが大好きです。これもサスペンス風味大活躍。ここの札幌のイルカホテルのレセプション嬢のユミヨシさんに惚れてしまいました。メガネガールなのですが、なんか意固地だけど清楚でそそられるのです。村上小説だからきっと性描写があるに違いない、と期待していましたが、最後の最後でついにユミヨシさんの性描写が!もう、ものすごく大興奮しました。(笑)


あと海辺のカフカも大好きです。なんとも奇妙な小説です。ゴローさん出てきます。(笑)


これは村上小説をずっと全作品読んでいくうえで不思議に思ったことですが、必ず各作品に自分の人生に関わってきた人がいろいろな形で登場するんですね。各小説で必ず登場します。ホテルの名前で出てきたり、いろいろ。最初気味悪かったですから。


ねじまき鳥クロニクルや世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドも面白かった。
もうみんな面白かったです。


村上小説の魅力に主人公が自分と同じ等身大、金がなく、細々と人生を楽しんでいる、というのがあります。そんな主人公像に人気がある理由がある感じがしますね。


自分も金がなく、社会的に成功しているわけでもない、細々として暮らしていますから、こういう主人公像だとついつい自分がそのまま感情移入しやすいんですね。その主人公に自分がなっているかのような感じ。


村上さんはもう結構お歳なのに、書く小説に若者層に人気なのは、そういう主人公の等身大さに共感を得るからなのだと思います。


ダンス・ダンス・ダンスでは、金のないライターで、グルメなお店を取材して雑誌に投稿して細々と暮らしている男・・・なんだ?俺のことか?と思わず共感しましたから。(笑)


主人公がハンサムで金持ちで何不自由なく裕福じゃまったく面白くありませんね。


あと、各小説には、必ずサンドウィッチとサラダが出てきますね。(笑)ご本人が好きなのか、と思いましたが、昔ご自身でジャズ喫茶で出してメニューだったのかもしれません。


これも短期間で1人の作家の作品を全読破するからわかることです。



上の長編小説以外に紹介したい本。


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これは職業として小説家を目指すことになったその経緯や村上流小説の書き方など大変興味深い内容が記載されている。小説ってどのように書くのか、とくに長い長編小説だと、プロット(あらかじめ、全体の筋書を決めて、そこに割り付けていくように書くこと)とかも全然しないそうだ。もう一筆書き。タイトルを決めてそのイメージから一気に書き上げる。そしてどうしても整合性ないから整合性できるまでどんどん何回でも書き直すのだそうだ。



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インタビュー集。ある意味、小説家村上春樹としての自分の小説の在り方、考え方などがわかる。インタビューなので、本人がじかに喋っている内容で人間村上春樹というのがよくわかる本。自分はこの本を読んで小説家村上春樹というのを理解することができた。



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旅行日記。村上流に言えば旅行スケッチ。


ヨーロッパのギリシャ、イタリア、ロンドンに住んでいた時の旅行日記。自分はこれが最高に面白かった。やっぱり人の旅行日記って最高に面白い。失敗談とか最高。やっぱりすごいと思うのは、我々SNS時代の人間は写真を一発載せてしまえば、それで、ものを言わせるというか写真が果たす役割というのは大きいのだが、ここは小説家。文章ひとつでその場の風景とか、読んでいる人の頭にその情景を浮かび上がられせる才能は本当に凄いです。


自分はどの長編小説よりも、この旅行スケッチが最高に面白かった。
これはぜひ読んでほしいです。





村上春樹さんの書斎


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いまでこそこんな素晴らしい書斎で執筆されていると思いますが、村上さんは大の引っ越し魔で、作品の大半はいろいろな場所で執筆されたものです。ヨーロッパなどの外国で執筆されたものも多いです。(ノルウエーの森とかダンス・ダンス・ダンスとか)だからその作品を読むとその風景が蘇るとか。やっぱり創作活動というのは普段の場所と違うところだと、その効率も抜群に上がるものなんですね。村上さんは作品ごとに引っ越ししていたようなものだったらしいです。


単に小説を読むだけでは、やはり物足りなくなるんですよね。やはり村上春樹という人物はどういう人物なのか、というのがどうしても知りたくなってきます。


シャイで人前にでない~文章で自己表現に徹する~自分に似ていますね。

村上ビジネスはすごい。いろいろな人が村上さんを慕って取り囲んでいる。


これだけ日本のみならず、世界中に読者を持ち、大ファンに囲まれている人生って本当に幸せな人なんだな、とつくづく思います。


みんなから愛される、こういう幸せというのは、本当に誰もが持ち得ることではない。
類まれな才能だと思います。


それでいながらシャイでメディアに出てこない、人前で話すのが苦手。
自分は小説1本で自己表現する。この部分ってすごく自分に似ていると思います。


自分も人としゃべって自己表現するよりも、書くことで自分の考えを人に伝えることのほうが容易いと思ってますので。


ほんとごく一般人的な生活らしいです。
夜9時には寝てしまう。朝型人間。


朝早く起きてそこから執筆活動、お昼までやって、そこからジョギングで走って、その後は、音楽聴いたり、アイロンかけたりという生活サイクルの繰り返し。


村上さんと自分では、住んできた、生きてきた人生が全然違う世界。自分にないものを持っている方だと思いますね。自分が歩んできた人生の抽斗には存在しないものを持っている。


それはやはり幼少のころから文学少年で文学が好きだったこと。
とくに外国文学に傾倒していたこと。


少年時代、神戸の古本屋にそのときのアメリカ兵が読み終わった本をそこに売っていく訳でそういう外国文学書が束になって積まれている。そういう束になって古本屋に積んである外国文学本を二束三文の安さで買って幼少時読んでいたそうです。


もう訳すということなどせずに、英語のままガリガリ読んでいくという感じ。


その幼少時代からの影響で、村上春樹の小説は外国文学の影響が大きいということになる。好きな作家を三人選べと言われたら、すぐに答えられる。スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーバー、トルーマン・カポーティ。この三人の小説だけはかれこれ二十年くらい飽きもせずに何度も何度も読み返しているそうだ。そしていまこのように自分の文学に影響を受けた外国作家の本を翻訳されています。これも村上文学の大切な屋台骨。


あとマラソンですね。


これは自分は全然ダメ。高校の時に学校で10kmのマラソン大会があるのだけれど、なんとか例年上位に行こうと思い練習するのだが、10kmでこんなに大変で苦しいものなのか!と嫌になりました。マラソン大の苦手です。


村上さんは大のマラソン人生そのもの。


42.195kmのフルマラソンもやられる。フルマラソンの後の暖かいディナーほど世界で美味しいものはないと豪語される。


これはわかるわ。(笑)



あと、村上春樹さんと言えば音楽にとても造詣が深いこと。ジャスやクラシック。自分は小説の書き方を音楽から学んだ、文章はリズム感だ!というのがご自身のモットー。


ここはボクとまったく同じで、唯一共通点を見いだせるところ。
ボクの人生も音楽が大好きで音楽に溢れた音楽人生だった。


村上さんは、じつは現在ラジオのパーソナリティーをされていることをご存じかな?


FM Tokyoで”村上RADIO”という番組をやっている。



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2か月に1回の不定期な開催だが、村上さんの生声が聴けてご本人のパーソナリティがわかるとても貴重な番組だ。2年前の2018年の8月にスタートして2か月おきにやっている。


自分もスタート時点から必ず聴いているんだが、2か月おきだから、開催日いつも忘れちゃんだよね。(笑)Twitterで登録しておくと、事前に開催を通知してくれるから便利だ。


村上RADIO Twitter



滅多にメディアに出ない村上さんなので、番組当初は、シナリオ原稿棒読みのような感じで硬さが取れていなかったけれど、最近はとても素の姿を見せてくれるようになり、会話もごく自然だなと思うようになりました。


音楽好きの村上さんが、自宅からアナログLPを持参して、各回でいろいろな音楽のテーマを設けて、自分がディレクター、パーソナリティーしている番組なのだ。


これはぜひお勧めです。


今週の日曜日にあります。

テーマは、”ジャズが苦手な人のためのジャズ・ボーカル特集”



最後に自分はオーディオファンなので、最後はオーディオの話題で。


去年の2019年12月号のSWITCH。


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村上春樹のオーディオルーム

という特集が組まれた。


ジャズ喫茶時代から愛用しているJBLのスピーカー、
アナログレコードプレーヤ4台

システム全容が紹介されている。


村上春樹におけるいい音とは?


いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音とは全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音かを見つけるのが一番大事で・・・それが結構難しいんですよね。人生観と同じで。


村上さんは大のアナログレコードマニア。世界中の中古レコード店を渡り歩き、ここにだけある希少価値盤とかお宝のレコードを収集していくというのが本当に大好き。


ぜひ書店にゴーだ!












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朝食にエダムチーズ [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーがメンゲルベルク邸で朝食に食べていたエダムチーズ。
はて、エダムチーズとは何なのか?


チーズのことにはあまり詳しくない自分にとって、エダムチーズのことを調べてぜひ体験してみて日記にしてみたかった。


エダムチーズは、ゴーダチーズと並ぶオランダの代表的なチーズのひとつ。北部のエダム地方が原産で、牛乳を原料としている。 製造には脱脂乳を使用する。いつごろかは明らかにされていないが、かつては全乳を使用していた。脂肪分が低いチーズとして有名。熟成にはチーズダニを用いる。


戦後日本に輸入されたチーズの第一号ともいわれる。オランダからの輸出用のエダムチーズには赤色のパラフィンワックスがかけられていることから、日本では赤玉とも呼ばれた。オランダ国内消費用のエダムチーズには黄色のワックスが施される。 種別はハードチーズに分類されそのまま食べるほか、粉チーズとして料理に使われることも多い。


オランダから輸出されるエダムチーズは、見かけは、こういう外皮に赤いワックスがかけられているんですね。まるで見かけはリンゴみたいです。逆にオランダ国内商品用に黄色のワックスがかけられています。ワックスというのは外気から中のチーズを守る皮みたいなものです。


エダムチーズ


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こういう丸形の球状タイプは、まさに”赤玉”と呼ばれています。


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エダムチーズは外気に一度さらすと、もう乾燥してしまいカチカチになってしまいます。だから赤玉で買う場合はいいですが、それじゃ多すぎる、200g,400gだけ買いたい場合というは、このように真空パックになっているんです。自分もこの真空パックにされている200gを買いました。


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エダムチーズというのを自分で食べてみたいために、ネット通販で売っているエダムチーズを買ってみました。最初、赤玉を丸々1個買おうと思いましたが、さすがに多すぎると思い、先の写真のように200gだけの真空パックに入ったものを買ったのです。


そしてその真空パックを剥がして取り出したのがこれです。
これは私の買ったエダムチーズの本当の実物の写真です。


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さて、このエダムチーズの外皮の赤いワックスを剥がします。
もう手で簡単にパカッという感じであっさり取り外せます。
最初包丁で剥かないといけないのかな、と思っていましたから。


そしてはじめて食べてみたエダムチーズの食感の感想。

これはいわゆる調理用として食用のあのまろやかな香ばしいチーズとは全然違う。


いわゆる加工していないチーズの素のような味でした。いわゆるクサイんですよね。(笑)あの独特のチーズの臭みというか、食べてみれば確かに美味しいとは思いますが、日本人がチーズに抱いているあの香ばしいチーズの味ではない。かなりクサイです。あ~、取り立てのチーズってもともとはこんな味がするのかもなぁ、というそんな味なんです。レストランで食べるあういう洗練されたチーズの味ではないです。もっと臭みが激しくて、クセのあるチーズの原形のような味がします。


チーズの種類としては、ハードタイプのチーズだと思います。とても固いです。マーラーがメンゲルベルク邸で朝食にエダムチーズをちぎって食べていると、アルマ宛の手紙に書いているんだが、ここにはどうも疑問符がある。”ちぎって”という表現。ハードタイプのチーズなので、”ちぎって”はおかしい。ナイフを入れて食べやすい一片にするか、そのままかぶりつくか、なのだと思うのである。”ちぎって”では食べられないと思う。


それじゃオランダでエダムチーズならんで代表的なチーズのひとつであるゴーダチーズとはどのようなものか?


ゴーダチーズ

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ゴーダチーズは、エダムチーズと並ぶオランダの代表的なチーズ。オランダでのチーズ生産量の60%を占める。ロッテルダム近郊の町、ゴーダで作られたことからこの名前がついた。


外見は黄色がかった茶色い円盤型で、正式なサイズが直径35cm×高さ11cm・重さ約12kgと決められており、それより小さなものを総称して「ベビーゴーダ」と呼んでいる。中は白から黄色。熟成と共に色が変化する。熟成されたゴーダの中には表面が黒いものもある。 クミンシードやニンニクなどを用いて香りをつけたものもある。 主な材料は牛乳とレンネット。


チーズの種類としてはセミハードに分類される。味はマイルドで日本では比較的広く親しまれている。 オランダでは土産物として空港などで売られている他、食料品店、チーズ販売店などでもほぼ置いている。チーズ店などでは特に包装をしていないものを常温で積み上げている場合もある。これは表面をロウでコーティングしてあり、ナイフを入れない限り熟成が急激に進む心配がないため。他に、フィルムにくるんだものや、真空パックのように包装したものもある。


日本では、チェダーチーズと並んでプロセスチーズの主要な原料として用いられているとされる。また、ゴーダチーズを原料としたスライスチーズが明治から販売されている。


ゴーダチーズというのは、ある意味我々がヨーロッパで見かけるチーズの代表的なものなのかもしれませんね。円盤型で、黄色のワックスでコーティングされているもの。



5月に行くアムステルダム、いやオランダの国自体は、まさにチーズの国。

チーズを売っているチーズ専門店はそれこそたくさんある。


日本には絶対存在しないこういう円盤型のワックスコーティングされたチーズが山のように置いてあるそんな風景なお店だ。


そんなアムステルダムにあるチーズ専門店を紹介するページを発見した。
情報元:https://plusdutch.com/blog/cheeseshop-amsterdam/



この情報元のHPに基づいてアムステルダムにあるチーズ専門店を紹介してみる。


Old Amsterdam Cheese Store

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アムステルダム市内に3店舗ある、オールドアムステルダムチーズの専門店。店内にはチーズのテイスティングルームがあり、オランダのアムステルダムチーズと他のユニークなオランダのチーズの味を体験できます。所要時間1時間のチーズ&ワインのテイスティングでは、ソムリエが選んだ3種類のワインと一緒に5種類の優秀なチーズを試飲できます。(要予約)



Henri Willig Cheese & More

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多くの店舗をかまえるチーズ社「Henri Willig」のチーズの品種と味は高品質で、国際的に評価されています。アムステルダム市内のいたるところにお店があり、定番のお土産チーズショップではないでしょうか。種類が多く、お土産としてのサイズ感も程よく、パッケージもお洒落なので、贈り物として人気があります。



De Kaaskamer

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店内には所狭しとチーズが積んである、ザ・チーズ屋さん。
100種類以上の厳選された世界のチーズが食べ比べ可能です。
ワインや自家製サラダ、テイクアウトサンドイッチも販売しています。



Kaashuis Tromp

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オランダのナショナルチェーンのチーズ店。
あらゆる種類のオランダチーズが手に入ります。
焼きたてのパンとチーズのサンドイッチが人気で、ランチタイムには行列も。



Dutch Delicacy – De Mannen Van Kaas

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バジルやベリーなどを混ぜたカラフルなチーズを取り揃えているチーズ屋さん。ビビットカラーのチーズは、驚かれるお土産にもなります。パンやコーヒーなども販売しているベーカリーなのですが、広い店内には多種類のチーズやチーズナイフなどの雑貨なども取り扱っています。



Reypenaer Tasting Room

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こちらはチーズの試食専門店。創業110年のライプナー社製チーズは歴史ある熟成プロセスが独特で、世界最大級のチーズ品評会で受賞したチーズが多いことでも有名です。アムステルダムにあるチーズテイスティングルームでは、チーズソムリエ指導のもとにライプナー社製のチーズを試食することができます。(要予約)


あ~自分はここがいいです。円盤型の大きなチーズを持って帰ったり、輸送したりするのは大変だからお土産にして買うのは大変だけれど、こういう試食専門店だったら全然いいです~。(笑)


これらのお店の住所アドレスは、この内容の情報元になっている先のURLの中のページに記載されています。興味のある方はぜひご覧になってください。


やっぱりチーズの国、オランダ、アムステルダムですね。


上のような写真の円盤型のチーズが店内に所狭しと積まれる姿って、やはりそこの原産地の国でないと存在しないチーズのお店ですね。



さて、ネット通販で単にエダムチーズを食べただけでは、やはりやや欲求不満。
それもハードタイプのチーズで食用にしては独特の臭みのある味。


やっぱり日本人のテイストにあった食用しての美味しいチーズ料理を1品くらい食べて、日記の締めにしたいと思った。やはり日本人はこっちだよ・・・的な。


横浜にあるチーズカフェに行ってきた。

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チーズ料理を食べさせてくれるお店は結構高級なところからいろいろあるのだが、ここは店内がとてもカジュアルな感じで若者向きのお店。自分にはこちらのほうが向いているな、と思いました。


女性の接客店員さんや、コックもみんなすごい若い。
とても活気があって元気をもらった感じでした。
すごく気分がよかったです。


チーズの世界はやはり女性の世界。店内は女性ばかりかな、と思ったけれど、カップルが多かったですね。自分はカウンターで女性店員にすごく優しくされました。


店内は、カジュアルで気取っていなくてとても雰囲気がいい。


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自分は事前にこれが食べたいというのをこのお店のHPのメニューで決めていた。やはりチーズのパスタと、ステーキをラクレットでチーズをたっぷりというのが狙っていたものだった。


ラクレットというのは、あのチーズをとろ~りと削ぎ落してかけることである。たぶんみなさんテレビで見たこと絶対あると思う。ラクレットはインスタ映えするということで、若者はみんなそのラクレットのとろ~りの瞬間を撮影してインスタにアップしていますね。いまとても大人気です。


自分もこれをやろうと思ったのです。(笑)
このラクレットが1番楽しみだった。


ところがいまはラクレットはやっていないという。
もうガックリ。(笑)


カウンターでよかったと思ったのは、パスタにチーズをまぶすその瞬間を見れること。コックさんも自分に見せるために、目の前でやってくれた。カウンターでよかった思った瞬間です。


こうやってチーズの塊のすり鉢状のものをドカンと目の前に置きます。これ全部チーズでできています。そしてナイフみたいなもので表面をそぎ落としてチーズをはぎ取ります。


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そして茹で上がったパスタとスープをそのチーズでできたすり鉢状の中にそのまま入れて、そこでチーズを満遍なく絡めトロットロにするのです。まさにチーズのすり鉢でチーズにまぶされながらチーズでトロっトロ。


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そしてチーズパスタ完成。


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これは最高に美味しい!


パスタでこんな美味しいのを食べたことない。チーズのなんとクリーミーで甘くて香ばしいことか!


量が少なかったので、足りなくて、チーズリゾットも注文しました。

そうしたらやり方はまったく同じ。


目の前にチーズでできたすり鉢をど~んと置く。
表面を削ってチーズをそぎ落とす。

そしてリゾットをこの中に入れてチーズとともに満遍なくかき混ぜる。


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そして出来上がり。チーズリゾット。


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これも溜まりませんね。こんな美味しいチーズリゾットもはじめて食べた。
普段あまりいいものを食べていないので。(笑)


これはカウンターにいたから楽しめたショーでしたね。


ところでチーズはハイカロリー。


それはわかっていたけれど、食事節制をずっと続けるとストレスがどうしても溜まってきます。1日くらい羽目を外すのはよいか、と思います。


明日からまた食事節制の生活と1万歩のウォーキングですね。






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アバドのマーラー [海外音楽鑑賞旅行]

バーンスタインのマーラーが感情移入全開、没入感たっぷりの熱い濃厚なマーラーなら、アバドのマーラーはクールで知的、明晰さを併せ持ったマーラーではないだろうか?


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バーンスタインのは、長時間観ているとあまりに濃厚でぐったり疲れてしまうんですよね。


大昔にまずマーラー入門ということで、バーンスタイン録音でその門をくぐった訳だが、やはり時代が経過するといまの時代にあった近代的なマーラー解釈が必要になってきた。


いろいろな巨匠がその足跡を残していったが、自分は近代マーラー解釈としてアバドとラトルを聴いてきた。住み分けは、映像作品のアバドに、実演のラトルという感じである。


そういう道を選んだのは、やはりともにベルリンフィルでマーラー解釈を進めていった指揮者だったという理由になる。ベルリンフィルは、カラヤンが長年そのポストについていたが、アバドが後任として進めていったアプローチにカラヤンが得意として膨大な録音を残していった古典派、ロマン派のガッチリ系の音楽に対して、アバドは、マーラーや新ウィーン楽派などの現代音楽を得意としていて、そういうカラヤンがやってこなかった苦手な部分を積極的に取り上げていこうとしたこと。ラトルもその道に追従したように思う。


アバドはマーラーだけではなく、ベルクやシェーンベルクなどの新ウィーン楽派にも非常に造詣が深かった。それは学生時代にウィーンで盟友メータとともに学んだからだ。


マーラーはシェーンベルクやその弟子ベルクと親密に交流したし、マーラーは彼らの音楽に格別の理解を示したし、彼らもマーラーの後継者としての意識が強かった。その証拠にメンゲルベルクのマーラーフェスト1920ではシェーンベルクは、アルマ夫人とともに参列している。


だからアバドのマーラーを語るときは、必ず新ウィーン楽派の音楽をペアで聴くような環境が多かったような気がする。


ラトルもまったく同じである。現地ベルリンフィルハーモニーでラトル&ベルリンフィルのマーラー第6番「悲劇的」を聴いたとき、その前半の曲はベルクの3つの小品だった。


そのとき、新ウィーン楽派を掘り下げて勉強してみようと思っていろいろ聴いてみたが、かなり理解不能であった。(笑)無調音楽&十二音技法の世界は簡単には理解できなかった。
 

ラトル&ベルリンフィルは2010年のアバドのルツェルン音楽祭で、この新ウィーン楽派の3人の作品を全曲演奏している。


演奏前に、ラトルが、


「今回はシェーンベルク、ヴェーベルン、ベルクの新ウィーン楽派の巨匠の3作品を一挙に演奏できることを大変興奮しております。これらの作品のコンビネーションの効果を感じるためにも、3作品全部が終わるまで拍手はしないでくださいね。 でも全部終わったあかつきには、3曲分の盛大な拍手をどうぞよろしく。」


とドイツ語でコメントした後、合計14曲が次々演奏されるという演出だった。


当時のハイパー・アバンギャルドな音楽だが、現代の人間が聴いてもその前衛ぶりは衰え知らずだったようだ。やはり単純に音楽を聴くのみで、その音楽の構造を解釈することが一般人には到底不可能なスコアになっていると思われた。


ルツェルン音楽祭で、このような企画の演奏会を喜んで受け入れ推進したのがアバドでもあったわけで、このように自分の中では、アバドとラトルは常に一緒の方向性にあったという理解だった。


そしてマーラーと新ウィーン楽派はいつもペアだった。


アバドとラトルは、カラヤンとの色の違いを主張するためなのか、このマーラーや新ウィーン楽派3人の作品など現代ものを好んで積極的に取り上げる傾向にあると常々思っていた。


それは、ともにカラヤンという偉大な亡霊に悩まされ、ベルリンフィルを率いていかないければならない運命にある立場だった彼らだったからこそ目指したブレークスルーだったのだと思う。


アバドは、高潔の人物ですので、自分を主張することなく、回りから押し上げられて高みに昇りつめた人。カラヤンの亡霊に悩まされて..... それがルツェルンで誰はばかることなく、音楽に没頭しているアバドは永遠の青年のように活き活きしている感じがしたものだ。



2002年、ベルリンフィルを退いてからは、ルツェルン祝祭管弦楽団を再編成し、世界最高のオーケストラと称されるまでに発展させた。また、若者達の育成にも愛情を注いだ。望む作品、共演したいソリストを集めての晩年の演奏会では、マーラーの作品を取りあげることが多かった。


「私は、自分の苦痛を通して、偉大な作曲家の苦しみを共感できるようになった。例えばマーラーのように。いかなる苦難を乗り越えて、彼が偉大な作品を生み出したことか!私は自分の苦しみを通して、音楽がその最良の治療法であることを真に理解することができた。」


胃癌を克服して奇跡のように指揮台に戻ってきたアバドであったが、彼を癒したのは、まさにその音楽の力だった。


このようにインタビューに答えている。(眞鍋圭子さん(音楽ジャーナリスト)筆)


自分にとって、クラウディオ・アバドはシカゴ響、スカラ座やベルリンフィルのときではなく、このルツェルン音楽祭をリードしていたときが一番輝いていた。


アバドのマーラー録音は、1970年代にシカゴ響やウィーンフィル、ベルリンフィルと録音したマーラー全集がある。なぜか、すごい値段が高いCDなのだ。いわゆるアバドの全キャリアを通してのマーラー録音をおこなってきた作品をひとまとめにした総集編的なものだと思います。だから値段も張るCDなのだと思う。アバドのマーラー録音で最も代表的な作品だと思います。



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マーラー交響曲全集 
アバド&ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、シカゴ響(12CD)



ベルリンフィルのときには全集とまではいかなかったが、数枚の録音をおこなった。第6番「悲劇的」だけはSACDです。


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そして、なんと言っても、自分にとってのアバドのマーラーといえば、ルツェルン音楽祭でのルツェルン祝祭管弦楽団を率いてのマーラー交響曲全曲演奏会である。


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2000年代に毎年1曲ずつ音楽祭で演奏され、その演奏の模様が収録され、EuroArtsからBlu-rayで発売された。これを全部コンプリートしようとコレクター魂に火が付いた。


なにが斬新であったかというと、マーラーの交響曲全集の映像ソフトが、高画質のBlu-rayで発売される、というところが堪らなかった。


もう何回も説明しているけど、敢えてもう一回言わせてもらうと、クラシックの素材のBlu-rayソフトって当時は圧倒的にオペラが多くて、オーケストラコンサートは2008年にゴローさんのNHKの小澤征爾さん&ベルリンフィルの悲愴が最初だった。


だからBlu-rayでオーケストラコンサートを楽しむにはまだ時期尚早であった。そこに来て、アバドのルツェルンのマーラーツィクルスが全曲ともBlu-rayで出るというのはマニアには堪らないニュースだったのだ。


EuroArtsは欧州を代表するもう超有名な映像ソフト会社ですね。


マーラーファンにとってこれはまさしく金字塔で絶対コンプリートしようと誓ったのだ。しかもサラウンド音声だ。


このツィクルスを全部Blu-rayでコンプリートすることこそ、近代のマーラー解釈を入手できることだ、と思っていた。近代マーラー解釈として、映像ソフトのアバドに、実演のラトルというのはそういう意味である。


そしてご覧のように、見事コンプリートしました。(第8番が見つからないんですよね。ひょっとしたら自分の勘違いで8番はBlu-rayになって発売されていないのかも?あるいは8番収録だけ未完でアバドが亡くなったのかも?))


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これを収集して徹底的に擦り切れるくらい見まくったのは、2010年~2012年の3年間。


自分にとってこの映像を見て、アバドのマーラーってなんぞや、というのがわかったような気がした。バーンスタインのときもそうだけれど、やはり映像素材のインパクトって大きい。CDの録音を聴いているだけで、どうこう議論することもできるけれど、映像を見ちゃうと、なんぞや!が一発でわかる。


これを全部コンプリートするには少々障壁があった。


自分が集めだした当時、交響曲第2番「復活」だけが、著作権の問題で日本で販売されていなかった。なぜに?と思って、悔しい思いをしていたが、ゴローさんが、海外のアマゾンを使えば、入手できるかも?とアドバイスをくれた。DVDやBlu-rayは再生するときリージョンコードがあるが、BDはDVDほど細かくなかった。


海外のアマゾンを使うという手段があるとはまったく知らなかった。アマゾンUSAとかアマゾンUKとか、アマゾンDEとか・・・結局、アマゾンUSAで入手することができた。そして家に配送され、恐る恐る再生したところ、無事に再生できた。


やったー!ついにコンプリート!となったのである。

でもそうは簡単に問屋は降ろさなかった。


今回のマーラーフェスト2020の事前準備としては、映像ソフトはもう文句なしにこのアバドのルツェルン音楽祭のBlu-rayで予習をしようと思っていた。こんなときのために揃えていたのだ、と。


そうしたらこの2番「復活」を再生したときにメニュー画面がおかしい。3番もなにかおかしい。物理メディアというのは長期間棚に保管してくと、その保管環境に応じてダメになって再生不能になるということを聞いたことがあるので、それだと思った。物理メディアは一生もんじゃない。


なんと!我の汗と涙の結晶が全部泡となって消えたのか・・・


あまりしつこく再生しようとするとBDプレーヤーが故障してしまいそうだったので、あえなく断念。(いまBDレコーダ壊れたら、買う予算もないし、番組録画できなくなり本当に日常生活困ってしまう。)


ネットで買いなおそうと思ったら、これしかなかった。
昔の単盤での販売は、数枚を除いて全部廃盤になっていた。


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マーラー交響曲第1~7番、他 
アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団(4BD)



なぜか、第1番~第7番の全集で、第8番、第9番なし。
笑ってしまった。なぜこんな中途半端なの?


結局第1番~第7番までしっかり予習しました。第9番は、自分の昔の単盤が再生できるかもしれないけれど、BDプレーヤ壊したら怖いので再生していません。なんともギャグのような顛末だが、いかにも自分らしくて笑える。自分の人生なんてこんなもんだ。(笑)


アバドのマーラーは、バーンスタインのような過剰な感情移入をしない。とてもクールで、ある一定の距離感をいつも保っているように感じる。とても明晰で繊細だけれど、どちらかと言うとしなやかさがあって明るいイメージの爽やかな演奏だと思う。


新しいマーラー像を打ち立てたと言ってもいいと思う。

のちの明晰派マーラーの先駆け的存在になったのではないだろうか。


またアバドは、第6番「悲劇的」については、シカゴ響の頃は、スケルツォを第2楽章に、アンダンテを第3楽章にという従来のスタイルをとっていたが、初めてベルリンフィルに客演したときから、近年の国際マーラー協会の見解にしたがってアンダンテを第2楽章に、スケルツォを第3楽章に置くなど、マーラーの最新研究に準じた方針をつねに先んじて取り入れていた。


この第6番の中間楽章の順番については、アバドが最初に取り入れて、ラトルもそれに準じた形である。このように近代のマーラー研究、解釈につねにアンテナを敏感にしていたので、”アバドのマーラーは新しい”というイメージが自分にはあった。バーンスタイン以来、マーラー指揮者の中では最先端のマーラーの近代解釈を引き下げてクラシック業界を引っ張っていったのがアバドであった。


いまの自分には、アバドのマーラーのほうが体質的に受け入れやすいし、自分に合っているように思う。


アバドのマーラーの特徴にやはり終演後の沈黙がある。特に有名な第9番のラスト。アバドならではの流儀。昨今のフライングブラボーなんてなんのその、本当にルツェルンの観客のマナーはすごいものだと感心してしまう。


ルツェルン祝祭管弦楽団は、まさにアバドだから可能になったスーパーエリート奏者を集めたスーパー軍団。マーラー室内管弦楽団の団員を中核として、ベルリン・フィルのメンバーや、ザビーネ・マイヤー、ハーゲン・カルテットやアルバン・ベルク・カルテットのメンバーなどが参加する本当にスーパー軍団なのだ。


第2番「復活」のときは、ハープの吉野直子さんの姿も見えました。演奏するメンバーをカメラが抜くのだがもう圧巻ですね。


そして今回新たに発見だったのが、たぶんそうではないのかな?とずっと思っていたのだけれど、今回久しぶりに見たらやはりそうだった。


オーボエ奏者の吉井瑞穂さんの姿があった。


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吉井瑞穂さん


昔見ていたときは、このベルリンフィルのアルブレヒト・マイヤーの隣に座っているアジア人の女性オーボエ奏者は誰なのだろう?とずっと当時不思議に思っていたのだ。(マイヤーとは師弟関係)(1番、4番を除いて、全公演に出演しています。)


まさか吉井さんだったとは!


いまだからようやく一致しました。(笑)


吉井さんはずっと長い間ヨーロッパで活躍されてきて、アバドに評価・抜擢され(共演200回以上とか!)、ベルリンフィルとかルツェルン祝祭管弦楽団、マーラー室内管(現在も所属)に在籍でずっと活躍してきたすごいキャリアは存じあげていたが、自分の頭の中でいまいち距離感がつかめなかった。


でもこの映像ソフトを見てそうだったのか!と一気に・・・。
鎌倉出身です。


今年の秋にマーラー室内管と内田光子さんとで来日公演があるそうなので、ぜひ今度はじめて実演に接してみたいと思います。


ものすごい楽しみです。



アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団は、2006年10月に来日しており、サントリーホールでマーラー交響曲第6番「悲劇的」を演奏している。マイミクさんたちもこの公演に行かれ、素晴らしい名演だった、という話はよく聞いている。


1995年には、ベルリンフィルを率いて来日しているが、そのときはマーラー交響曲第2番「復活」を披露した。そのときも超絶名演だったが、そのときの話題として合唱のスウェーデン放送合唱団の知名度を日本国内で上げたことだ。


スウェーデン放送合唱団は、いまでこそ飛ぶ鳥を落とす勢いの名門合唱団だが、日本で有名になったのは、このときの公演の素晴らしさからだった。アバドのプロデュースは凄い。


ソリストと指揮者の関係で、やはりその時代に応じて、その指揮者に呼ばれるソリストの顔ぶれが違ってくるが、アバドがプロデュースして連れてくるソリストは、自分の世代だよなぁと思うことしきりだ。


アルゲリッチ、ポリーニ、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター・・・みんなアバド時代に表舞台に出てきたスターたちばかりだ。


そういう意味で、アバドはやはり自分にぐっと近い世代の存在だと思う。


マーラー没後100周年記念コンサートでは、ベルリンフィルで「大地の歌」第10番アダージョを披露している。アンネ・ゾフィー・フォン・オッターとヨナス・カウフマンのコンビで。


当時、NHKのBSプレミアムシアターで放映され、録画してあります。
またこの公演は、ベルリンフィルのデジタルコンサートホールでも見れます。




2013年度のときに、人生でようやく初めてのルツェルン音楽祭を経験して(しかもオープニング初日!)、KKLでアバド&ルツェルン祝祭管弦楽団のベートーヴェン英雄を聴いた。前半は藤村実穂子さんも出演。


そしてその年の秋に、このコンビで日本に来日予定で、きちんとマイミクさんの分のチケットも取っておいたのに、まさかの突然のキャンセル。その頃から容態の悪化を噂されていた。


そしてまもなくご逝去。


結局あのときが今生のお別れだったんだね。


やっぱりこのように自分にとってアバドはマーラーなんですよね。


たくさんの巨匠たちがマーラー録音を残してきたが、自分にとっては、やはりアバドとラトルなのだ。






 
 




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バーンスタインのマーラー [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーの死後、マーラーの作品はほとんど演奏される機会がなかった。マーラーのよきサポーターであったメンゲルベルクや、直弟子であったブルーノ・ワルター、そしてマーラーから作曲や指揮法を学んだオットー・クレンペラーは、確かにマーラーの作品を取り上げ録音を残した。


しかしマーラーの作品を後世に渡って真に世に普及させ、商業的な成功に導いたのはレナード・バーンスタインであることは誰も異論はないであろう。もうこれは歴史上の事実で定説なのだ。


昨今のマーラーブームの礎を築いたのがバーンスタインなのだ。


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バーンスタインは、自分のことを”マーラー音楽の使徒”と考えていたところがあって、”We Love マーラー”のキャンペーンもやったりして、その頃はあまり演奏される機会のなかったマーラー音楽をこの世に普及させていこうという使命感に燃えていた。


「マーラーは、交響曲の分野で、20世紀の最も重要なイヴェントになると確信している。」と予言していた。


「つぎの時代には、必ずマーラーが来る」と言ってはばからなかった。


自分もマーラーに初めて取り組んだときは、まずバーンスタインの録音で勉強をした。バーンスタインの作品でマーラーを勉強するのが、筋なのだろう、王道なのだろう、と疑いもしなかった。


マーラーの交響曲全集をはじめて録音したのがバーンスタインである。


CBS(のちのCBSソニーで、いまのソニーミュージックの前身)でその全集を作った。
もちろんこの頃はアナログLPの全集という意味ですよ。


アメリカ初出LPボックスのアルバム
まさしく録音史上初の「マーラー:交響曲全集」である。

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だからその記念すべき初めてのマーラー全集は、いまはソニークラシカルが版権を持っている。自分はこのCBSに録音した初のマーラー全集のCD-Boxで持っているが、今回ネットでいろいろ調べていたら、すごい危険なものを発見してしまった。(笑)


見なければよかった。(笑)


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なんとソニークラシカルから、この初のマーラー全集をシングルレイヤーのSACDでマスタリングしたSACD-Box(9枚組)が出ているのだ!日本独自企画。完全生産限定。2018年に発売されている。完全生産限定だけれどまだ売り切れていません。


2万円!!!でも欲っすい~。ここで散財したら、なんのための旅行貯蓄をしてきたのかわかんない。あまりに危険すぎる。


全然気が付かなかった。2年前はマーラーといっても素通りだったからね。
ソニーは、やはりこの初のマーラー全集の版権を大切なビジネス源だと思っているんですね。


そのページから当時の初全集録音に纏わる写真をちょっと拝借。



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1963年9月、マンハッタン・センターでの交響曲第2番の録音セッション



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マーラーの肖像がプリントされたシャツを着てリハーサルに臨むバーンスタイン(1970年代)

 


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1960年4月16日、マンハッタン・センターでのブルーノ・ワルターによる「大地の歌」のセッションを訪れたバーンスタイン



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1961年4月、マンハッタン・センターでの交響曲第3番のレコーディングでマーサ・リプトンと




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1967年10月、「マーラー:交響曲全集」のLPアルバムを手にして喜ぶバーンスタイン。アルバムのボックスケースを持っている左の人物はプロデューサーのジョン・マックルーア、バーンスタインの右はフェリシア夫人、コロンビア・レコード社長クライヴ・デイヴィス



結局、バーンスタインはマーラーの全集を3回作っているのだ。(ソニーに1回、DGに2回)


いち早くアメリカ時代の1960年代にこのCBSによる交響曲全曲をセッション録音して、1970年代に交響曲全曲の映像をライヴ収録(DG)、晩年の1980年代にもライヴ録音で全集(DG)に取り組みながら、第8番の収録を残し完成間近に世を去っている。


最後の1980年代の第8番だけ未収録の未完のDGへのライブ録音は、結局DECCAに録音した「大地の歌」、ザルツブルク音楽祭のライヴである第8番「千人の交響曲」、さらに映像用に収録された第10番を加えて全集の形にこぎつけた。



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マーラー:交響曲全集&歌曲集 
バーンスタイン&VPO、コンセルトヘボウ、NYP、他(16CD)




1966年~1988年の22年かけて収録。マーラーとつながりの深かったウィーン・フィル、コンセルトヘボウ、ニューヨーク・フィルを指揮してバーンスタインが思いのたけをぶちまけた過激でヘヴィーな録音。


このマーラー所縁の3楽団を使っての録音というのは、もう彼の意図的な強い意識の現れですね。


初めてのCBSによる全集も歴史的価値があると思うけれど、自分のマーラーを勉強するための基本はこの最後のDG全集でした。これで初めてマーラーを勉強した。22年間かけての録音の賜物はやはり一番の価値があると思う。これがバーンスタインのマーラー全集の最高傑作だとまで思う。



いまマーラーフェストに行くための準備として、自分が所持しているマーラー音源を全部復習して完璧にして臨みたいと思っている。そのトップバッターにやはりバーンスタインから入っていきたいと思いました。


まずバーンスタインのマーラーの映像作品。


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マーラー交響曲全集 
バーンスタイン&ウィーン・フィル、他(9DVD)




1970年代に撮られたライブ録音。バーンスタインの3回の全集録音の真ん中にあたる脂の乗り切った時期ですね。これはもう相当昔に何回も見て勉強した映像素材だけれど、いま全曲コンプリートしたら、ずいぶん新しい発見がある。


ウィーンフィル、ロンドン響とイスラエル・フィルで、ウィーン楽友協会、コンツエルトハウス、ベルリンフィルハーモニーなどでライブ録音、撮影されている。



本当にじつに久しぶりにバーンスタインの指揮姿の映像を見た。
(何年ぶり?いつ以来だろうか?)

そのとき自分が思ったこと。


バーンスタインは指揮者としてだけではなく、作曲家でもある音楽人であるということ。小刻みに踊るような指揮の歯切れの良さ、そしてそのリズム感のよさ。奏でられている音楽の波動とものの見事に整合している。


その指揮姿の映像を見ている自分が気持ちがよくて乗ってきてしまうくらいだから、演奏する側もさぞかし気持ちがよいに違いない。オーケストラからこれだけよく鳴る音を引き出す能力は、指揮者としての前に、まず音楽人である、その才能がそうならしめているのではないだろうか?


バーンスタインのマーラーは、途方もないスケール感と感情移入全開の歌い込みに特徴がある。濃厚なうたい回しと主情的な表現が一種独特の世界を醸し出す。とにかく熱くて濃いマーラー。この没入ぶりがまさしく「バーンスタインのマーラー」なんだろう。


よく言われていることだけれど、同じユダヤ人で、同じニューヨークフィルの音楽監督であることからバーンスタイン自身が、自分の姿をマーラーと重ね合わせて、ある意味陶酔している・・・それがこのちょっと半端ではない没入感ぶりとなっているに違いない。


もちろんマーラーだけでなく、ベートーヴェンやブラームスのドイツ音楽もみんなそのようなパターンなのかもしれないけれど、やはりバーンスタインのマーラーは別格というか、基本、彼はやはりマーラー指揮者なのだろう、と思う。


とにかくオケがよく鳴っている。ウィーンフィルがまるでベルリンフィルのようにこんなに機能的なオケの鳴り方をするというのは信じられない感じがした。



「新版 クラシックCDの名盤」(宇野功芳・中野雄・福島章恭 著。文春新書)の中で、中野氏がバーンスタインとベルリンフィルとのマーラー9番の一期一会の演奏会のあの名盤に際しこんなエピソードを披露している。


バーンスタインがベルリン・フィルに登場した翌週、常任のカラヤンが指揮台に立った。自分のオーケストラがいつになくよく鳴る。「私の前には誰が振ったんだ」と帝王。「バーンスタインです」と誰かが答える。一瞬面白くない表情をした彼は、「そうか。彼は練習指揮者としてはいい腕してるんだな」と、わざとらしい冗談でその場を胡麻化したという。カラヤンは二度とバーンスタインを同じ指揮台には立たせなかった。



このエピソードは、いろいろ調べていたら偶然見つけたものだが、この信憑性はじつに的を得ていると思う。現に、自分がバーンスタインのマーラー全集の映像作品を全曲コンプリートして、思った第一印象がこれだったからだ。


オケを気持ちよくさせて、じつによく鳴らしている。
ただ鳴っているだけでなく、演奏に躍動感がある。


カラヤンとはやはりタイプが全然違う。カラヤンは、やはりカリスマ、ある意味求道的な求心力で、統率するという感じだが、バーンスタインはもっと開放的だ。両雄並び立たずとも言われますが、それぞれの持ち味がありますね。


バーンスタインのマーラー第6番「悲劇的」のハンマーは3発なんだよね。(笑)
6番はずいぶん聴いてきたけれど、大抵は2発です。マーラーの最終稿も2発です。
3発目ってどこで鳴らすのか、昔から興味があったけれど、ここで鳴らすものなのか?(笑)


「第1の打撃は「家庭の崩壊」、第2の打撃は「生活の崩壊」、第3の打撃は「(マーラー)自身の死」」との意味付けで、「マーラーは「自身の死」を意味する第3の打撃を打つことができなかった」としている。バーンスタインの愛弟子だった佐渡裕さんがハンマー打撃を3度としているのは、佐渡さんの師であったバーンスタインの影響によるものだそうだ。


歌手が必要な曲については、登場する歌手は、やっぱりこのバーンスタインの時代の歌手というのが興味深いですね。交響曲第4番については、なんと!あのエディット・マティスが登場する。もう大感動!やはりすごいキュートで可愛い。これだけの美貌であれば、当時すごい人気があったのがよくわかる。声はリリックで硬質な芯のある声質で楷書風の歌い方。マティスの歌っている映像ってYouTube以外にきちんと映像ソフトになっているのは少ないので、これは本当に貴重です。


フィッシャー・ディスカウもそうですね。この時代が黄金時代でした。


とにかくCDのオーディオを聴いてるだけでは、わかりにくいけれど、映像でバーンスタインの指揮を見ていたら、もう一発で、「バーンスタインのマーラー」というのがこれだ!というのがピンと来てしまう。それだけインパクト大な作品です。バーンスタインのマーラーを知りたいのなら、まずこの映像作品を見ることをお勧めしたいです。



そして1980年代の最後のDG全集。自分が初めてマーラーを勉強した録音。


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なんと調べてみたら輸入盤と国内盤の2つ持っていました。いま聴いても、録音もそんなに古いとは思わないし、バーンスタインの没入感たっぷりの熱くて濃いマーラーが聴ける。聴いていて本当に懐かしかったです。



そして、いろいろ異論はあるとは思うが、マーラーの最高傑作とも言われている第9番で、ベルリンフィルにたった1回だけ客演したという名盤。もうこれは超有名盤ですね。自分は最初はCDで持っていましたが、エソテリックがSACDにマスタリングしたレア盤をすかさず購入していまこちらを愛聴しています。


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この盤、いまはエソテリックではないけれど、シングルレイヤーSACDでマスタリングされた録音が売られているので、こちらのほうをリンクしておきますね。



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マーラー交響曲第9番 
レナード・バーンスタイン&ベルリン・フィル(シングルレイヤー)



まさに”一期一会”とはこのこと。


1979年10月4・5日、バーンスタインは生涯でただ一回、ベルリンフィルに客演。自ら「最愛の作品」と語るマーラーの第9交響曲を指揮した。同じ時期にカラヤンもまた同じ作品に関心を持ち始めており、バーンスタインの練習ぶりにベルリンフィルのメンバーは戸惑い、コンサート演奏は特殊な緊張感があるものの、決して第一級の演奏とはならなかった。


もうこの一期一会の録音については、いろいろ面白おかしく数えきれないエピソードがありますね。みんなそれってどこから聞いてきたの?情報源は?という感じで、本当にミステリアスに話を仕上げています。


カラヤンとバーンスタインとの強烈なライバル意識。このエピソードを知ると、もうそれだけでゾクゾクする、というか、そういう危険なシチュエーションだったからこそ、結果としてベルリンフィルにしては傷だらけの演奏だったにも関わらず、第9番の超名盤ならしめているところがあるのでしょう。


この逸話をネットで調べていたら、こんなエピソードありました。紹介します。
もうこの録音に関しては、こんな話がたくさんあります。


このころ、すでにカラヤンとベルリン・フィルとの間には不協和音が充満していたが、「カラヤン帝国興亡史―史上最高の指揮者の栄光と挫折」(幻冬舎新書)の中で、このコンサートについて著者の中川右介氏は次のように書いている。


1979年10月4日と5日、ベルリン・フィルの「カラヤン離れ」を象徴するコンサートが行なわれた。ついにレナード・バーンスタインがベルリン・フィルを指揮したのである。曲はマーラーの交響曲第9番。一期一会の名演として、いまもなお伝説となっている。


バーンスタインがベルリン・フィルを指揮したのは、これが最初で最後となった。


カラヤンがどのようにバーンスタインの出演を妨害したのかは、噂として語られるのみである。帝王とその側近たちは具体的な文書を残すようなことはしない。


オーケストラ内部の、バーンスタインを招聘しようと考える人々がいかに用意周到であったかは、結果が物語っている。音楽監督であるカラヤンの承認を必要とする、ベルリン・フィルの定期演奏会にバーンスタインを呼ぶような愚作はとらなかった。


毎年ベルリン・フィルが客演することになっているベルリン芸術週間に、バーンスタインを招聘し、さらに、反対する者が出ないように、コンサートの収益はアムネスティ・インターナショナルに寄付することを決めた上で、発表したのである。


あくまで、バーンスタインもベルリン・フィルとともに、ベルリン芸術週間に呼ばれて出演するかたちをとった。これであれば、カラヤンも反対はできなかった。



実際聴いてみるとわかるが、バーンスタインとベルリンフィルの息もつけぬ緊張感溢れるスリリングなやりとりに手汗を握る感じで、結果として名演とは言い難い傷が多い演奏だった。


有名なのは、終楽章の第118小節でトロンボーンがまったく鳴っていない。「落ちてる」とか・・・いろいろ。でもこういった背景があっても尚、第9番の超名盤と言われるのは、やはりなにかそこにカリスマ的な危険な香りが匂うからではないだろうか。まさに一期一会のスリリングな演奏である。


自分はこの危険な香りにやられました。かなり好きな録音です。


この盤を自分が日記で意識して取り上げたのは、2011年のラトル&ベルリンフィルのサントリーホールでの来日公演でマーラー第9番を演奏するときの準備として取り上げました。


自分の第9番の演奏としてのメモリアルでは、このラトル&ベルリンフィルの演奏は素晴らしく忘れられないものになりました。自分の第9番としての現代の名演です。


日本公演でのイスラエル・フィルとのマーラー第9番


バーンスタインのマーラー第9番の録音としては、1985年のイスラエル・フィルとの録音がある。


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マーラー交響曲第9番 
バーンスタイン&イスラエル・フィル(1985年8月ライヴ)(2CD)



ただ、このレコーディングとは別に、比較するもののない空前絶後の大演奏として語り草となっているのが、1985年9月の来日公演でバーンスタインが指揮したマーラーの第9番。終身桂冠指揮者としてイスラエル・フィルを率いた全9公演のうち、マーラーの第9番を演奏したのは4公演、なかでも初日3日の大阪・フェスティバルホールと、8日の東京・NHKホールがことのほか凄絶な内容であったとは衆目の一致するところのようで、8日の東京公演を目の当たりにした音楽評論家の許光俊氏も、当時を振り返り次のように述べている。
 
「実際、あれ以後、この曲でそれ以上の演奏は聴いていません。期待もしていないほどです。あまりに強烈すぎて、あれ以上のは、バーンスタイン自身が蘇らない限りあり得ないと思われます。」


「あのときは、まず大阪で演奏会があり、吉田秀和がそれを絶讃する評が東京公演の直前に朝日新聞に掲載された。ただの名演奏と言うよりも、歴史的な大演奏とか何とか、そんなことが書かれていたように記憶している。それは嘘でもなければ大げさでもなかった。今でこそ、曲が静かに終わったときには拍手を控えるようになった日本の聴衆だが、かつてはそうではなかった。むしろ逆で、すばやく拍手するのが礼儀だと信じられていた。ところが、この時ばかりは二十秒も沈黙が続いた。何しろ、黒田恭一がそれに仰天して、後日バーンスタインとのインタビューでわざわざ触れたほどだ(もっとも、バーンスタインはそんなことは意に介さず、マーラーの魂が話しかけてきた云々と彼らしい怪しい話をしていたのだが)。・・・」


音楽評論家としてここまで言うか、という大絶賛である。


吉田秀和さんや黒田恭一さんが出てくるところが、当時の背景を表していて懐かしいですね。自分の周辺の近いクラシックファンの方も、この演奏は、マーラー演奏としては空前絶後の名演だったようで、この公演がバーンスタインの最高のパフォーマンスと口をそろえて言う。



くっ~。羨ましい、そして悔しい~。
自分は、この1985年のときは、まだ大学生で北海道にいました。(笑)


クラシックの世界で、こういう歴史的名演に立ち会えなかった。そしてそれが壮絶な名演だった、と皆々が口にするのって、これほど悔しいものはありませんね。(笑)


NHKホールでもあるから、当時のその演奏の録音が残っている可能性もあるが、それが公に出る可能性もいまのところない。


その代わり、同年の1985年に録音した同じイスラエル・フィルとの第9番との録音を聴いてみる。


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セッション録音なのかな。音つくりがとても丁寧で、音色の厚み、定位感などとても安心して聴いていられる録音。確かに第9番の録音としては素晴らしいできだと思います。ただ自分は平和すぎるというか、安心すぎるというか、この9番の持つ”死”の匂いが感じず、あのベルリンフィル盤の悲壮感のほうが自分に来ます。とても丁寧な演奏、録音なのだけれど、9番はもっと悲壮でもいい。





そして最後に、CBSに録音した初のマーラー交響曲全集のCD-Boxを持っているので聴いてみる。自分が持っているこのCD-Box盤はもう廃盤ですね。デザインがリニューアルされています。いつまで経っても、このCBSに最初に録音した録音史上初のマーラー交響曲全集は不滅の名作なのです。


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いい録音。全然古臭くない。熱いこってりとしたバーンスタインのマーラーが聴けます。予想以上にいい録音なので、驚きました。そして、いまの現代解釈のマーラーと比較して、全然遜色なくて、やっぱりマーラー演奏ってバーンスタインの演奏が教科書になっているんだな、と思いました。


当時としては、驚きだっただろうなぁ。


ちょっとバーンスタインからレールを離れますが、マーラーの直弟子であったブルーノ・ワルターのマーラー選集もこの機会に新たに購入して聴いてみました。


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自分はこういう古い録音は、昔ならいざ知らず最近は全然触手が伸びませんが、久しぶりに聴きました。しかもモノラル音源。やっぱり最初はそのナローバンドな音にしかめっ面でしたが、慣れてくるとやはりこれもバーンスタイン録音と同じで、その演奏解釈は歴代刻々と受け継がれているんだなと思いました。現代解釈とまったく違和感ないのです。


特に第1番「巨人」は完璧な造型に豊潤な情感を盛り込んだ稀代の名演として知られ、同じレーベルに所属していたバーンスタインが、この演奏を聴いた感激から自身の録音計画を放棄したエピソードはあまりにも有名。


バーンスタインについてもブルーノ・ワルターはマーラーを極めるうえで、まさしくマーラー自身を知る先人で頭が上がらなかったのでしょう。


以上、長々と書いてきましたが、これが自分の体験してきたバーンスタインのマーラー感。体験してきた、というのは、そのままその音源を持っているという意味になります。


バーンスタインについて自分が知っていることを全てとにかくガムシャラに詰め込んだ、という感じで文章としてのまとまりもないけれど、自分はスッキリしました。


これらが、自分のマーラー音源の土台、基本でした。






 

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あの感動をふたたび ! N響 ヨーロッパツアー [クラシック演奏会]

来週の22日から、あの2017年以来3年ぶりにN響がヨーロッパツアーをスタートさせる。実際現地で準備期間とかあるから、18日には日本を立つのではないだろうか?


まさかこんな短いインターバルで、また再現するとは思ってもいませんでした。
大変な費用がかかる、と思うんだけれど、N響すごいなぁ。


2017年のときは、本当に燃えたよねぇ。
ヨーロッパのメディア、民衆の心の中に潜在意識として存在する日本のオーケストラに対する差別意識。


そんなのに負けずに、日本魂を見せつけてやれ!

そして結果として、すごい盛り上がったし、大成功をおさめた。
欧州現地メディア、民衆の評価もすこぶる良かった。


今回巡るところは、ロンドン、パリ、ウィーン、ベルリンなどの主要都市に加え、パーヴォの母国エストニアの首都、タリンを訪れるなど、7か国9都市で公演を開催する。


自分の記憶によれば、前回訪問したところが大半だ。

だから自分は前回ほど心配していない。


前回は、胃がキリキリするというか、未知の戦地に飛び込んでいくような覚悟があった。
だからこそ余計、こちらの応援する気持ちも”日の丸を背負って”的な気負いがあった。


今回はすでに知っている経験の地、とてもリラックスできるし、また現地の聴衆も馴染みを感じてくれて温かい目で見てくれるのではないか、と思う。


3年前のツアーの直前、自分はこんなことを日記に書いていた。大成功したからよかったものの、ずいぶん偉そうなことを言っていたもんだ。(笑)


******


こうやって日本のオーケストラが、欧州などの海外遠征ツアーに出かけることは、それはお祭り気分で華やかなことしきりだが、じつは、表舞台のその華やかな部分を実現させるための裏の根回し、準備がいかに大変なことか、ということは、あまり知られていない。
 

まず、遠征費用、金が莫大にかかる。


オーケストラの大人数、そしてたくさんの楽器類を国間で、運ばないといけない。航空機代、宿泊、バスチャーター、コンサートホール使用料、現地宣伝費・メディアとの地道なネゴのための準備費などなど。


チケットの販売などは、海外のエージェンシーを使うのがもっぱらになるのだろうが、じゃあふつうに共存する欧州現地の強豪オケと同等に、宣伝してチケットを売りさばくことができるのか?


やはり、そこには、特別の計らいが必要なのだろうと思う。


現地ヨーロッパ市民に日本のオケがどれくらい認知されていて、集客力があるのか?
(それも定期的訪問ではなく、長いスパンが開いて突然訪問する場合なのであるから。)


逆の意味で、ベルリンフィル、ウィーンフィルなど外来オケのブランドがクラシック愛好家の日本市場で高値チケットで旋風を巻き起こす。つまり、クラシックの本場である欧州の名門オーケストラは、そのブランドだけで、十分知れ渡っていて集客力がある、ということ。


そういう意味で、クラシックの本場ヨーロッパ現地で、日本のオケがどれくらいのブランド力を持ってヨーロッパ現地市民を集客力できるのか?という問題がある。


自分たちの日本のオケを相手国によく知ってもらう必要がある。そのためには付け焼刃的に情報を送る、宣伝してもらうだけでなく、事前にヨーロッパ現地のマスコミ、メディア陣を日本に招待して、公演を観てももらうだけでなく、説明会、懇談会などを頻繁に行い、理解の促進をおこなう。


そういうのを何年も前から、種まきをする必要がある、らしい。


そして、彼らが自国に帰ったあとに、現地で、彼らにプロモート宣伝してもらう、その宣伝費用なども、きっと日本側が負担しているのかもしれない。


実際の現地メディア&マスコミとのつきあいにかかる莫大な費用。
 


もちろん資金面だけではない。

それは、現地メディアの公演評。


日本のオーケストラが、クラシック本場の欧州で、東洋人が西洋音楽のクラシックの本場の音楽をやることに、冷ややかな目で、見ている。そういう厳しい論評もあることも確かだ。現に、都響や東響のときも、現地のメディアの辛辣な評価があったことは事実。


でもその評論の内容を見ると、深く考察されていない浅い論評で、彼らの心のどこかに、自分たちの本場のクラシック音楽を、日本のオーケストラが演奏している、という根本的な差別意識が潜在しているとしか、思えない論評もあった。 


実際問題、彼ら海外のオケが日本に来日して、その質の低さにがっかりすることも多い訳だから。小澤征爾さんが、昔インタビューでよく言っていたことは、海外に出て活躍することで、自分はモルモット。東洋人の自分が、クラシックの本場でなにができるのか?どこまでできるのか?常にモルモットだと思っている。


小澤さんは、そういった中で、海外で戦ってきたわけだ。


はたして、N響の今回のツアー、辛口の欧州現地メディアに、どのように論評されるのか、楽しみ。ツアー直前のインタビューで、パーヴォ・ヤルヴィは、「N響は世界クラス!」と堂々と断言!彼らに見事に一泡吹かせてほしいものだ。


******


知ったようなことを・・・と言われそうな感じだが(笑)でも結果として大成功に終わったので、こんな心配はいっさい不要、こんなコンプレックスを持つことなく本当に良かった。大成功を収めてしまえば、こんな心配なんてすべて徒労に終わりますね。


今回のヨーロッパツアーについて、N響の第1コンサートマスターの篠崎史紀氏がインタビューを受けてその記事を大変興味深く拝読した。




すごい興味深いのでぜひ読んでみてください。


ちょっと自分がビビッと来たところを抜粋しますね。全部篠崎さんの発言のところです。


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N響は何度か欧州旅行に行っていますが、前回は一番手応えがあった演奏会で、終わった後にすぐ招聘の話が来たのです。欧州に呼びたい、3年以内に呼びたいと。これはN響が世界で認められるところにようやく足を踏み入れたということ。ですから、この海外公演の動きを担っていくのが、日本のクラシック音楽界の未来に対して必要なのではないかと思っています。



ツアーに関して言えば、マーケティング上、世界の中で重要な場所があって。それがニューヨーク、ロンドン、東京。あとメディアに批評が出るところとしてベルリン、パリがあります。ウィーンはオペラなどに関しては批評が出るけれど、それ以外の分野は地中に埋もれてしまう。そういう意味ではロンドン、パリ、ベルリン、そしてオファーが強かったオランダといった場所を回る今回の演奏会は、N響にとっては重要なポジションに位置すると思います。



N響のアイデンティティー


日本の作品を取り上げることに意義があります。武満はアイデアマンで、邦楽の楽器を取り入れ、少ないモチーフでかつ時間的に著作権使用料が上がる手前で曲を終わらせる(笑)。そして日本の響きを少しだけ曲に盛り込んでいるんですよね。それも今まで聴いたことのないような形で。後に出てくる(アルヴォ・)ペルトなどもそうです。ペルトはソ連の一部だったエストニア出身ですが、その曲にロシアの響きはない。グレゴリオ聖歌の古い音楽を新しい響きと融合させているのです。それに近い手法を取っているのが武満。少し数学的ですよね。日本よりも先に西洋で評価が上がり、武満の名前が知られ、演奏される回数が多くなった。だから欧州で演奏するときには武満が良いのではないかということになるわけです。





「お互いの我が出せる」 関係になった


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お互いのパターンが見えてきた、これはすごく大事です。パターンが見えると何ができるかと言うと、即興が広がる。例えば友達と食事に行くとします。最初の頃は食べ物の好みが分からないから、「何が食べたいですか」とお互い遠慮しながらいろいろなことを探るわけです。でも付き合いも5年くらいになると、「あそこの焼き鳥屋に行こうよ」と言えるようになる。もっと進んで「今日はすっぽん食いに行くぞ」と珍味までいける。そういう段階まできているのが、今のパーヴォとN響の状況。一般的な食べ物の好みもお互い分かっているし、珍味でもちょっと試してみようと言える仲になっている。音楽の七変化が感じられる状態でしょうか。



世界最先端をゆく指揮者と、これから世界に出ていこうとしているオーケストラ。指揮者のアイデンティティーとオーケストラの機能を合わせたものを、21世紀の最新の演奏法で皆さんにお届けしましょうというのが今回の欧州での演奏会です。だから聴き逃さない方がいいよと言いたいところですが、そう言うと押し売りになっちゃうから(笑)、体験してみたい? どう? と聞きたい。演奏会には、分かっていなければならないものはないんです。その空間で、何を感じられるか。ただ、感じに来てほしい。




そうだったのかー。欧州に呼びたい、3年以内に呼びたいと、向こうから招聘があったんですね。


これって凄いことじゃないですか!前回は本当に大成功だった!ということを再認識できました。まさにN響も世界に認知される日本のオーケストラとしての王道の道を歩んでますね。


そして自分が3年前に心配していたことなんて、もう全然古い次元の話で、N響のみなさんはもっとずっと先のヴィジョンを見ているということなんですね。


今回もまたつぶやきでリアルタイム生実況中継をさせていただきます。


本当に楽しみだねー。
ベルギーにも行ってくれるのはうれしいね。



今回のソリストと演目です。



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指揮:パーヴォ・ヤルヴィ




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チェロ:ソル・ガベッタ



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ピアノ:カティア・ブニアティシヴィリ


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日時・公演地


2月22日(土)7:00pm
タリン(エストニア)[プログラムA]
エストニア・コンサート・ホール
公演情報: https://concert.ee/en/kontsert/nhk-sumfooniaorkester-tokyo-s-gabetta-tsello-dir-paavo-jarvi/



2月24日(月)7:30pm
ロンドン(イギリス)[プログラムB]
ロイヤル・フェスティヴァル・ホール
公演情報: https://www.southbankcentre.co.uk/whats-on/123941-paavo-jarvi-nhk-symphony-orchestra-2020



2月25日(火)8:30pm
パリ(フランス)[プログラムC]
フィルハーモニー・ドゥ・パリ
公演情報: https://philharmoniedeparis.fr/en/activity/concert-symphonique/20411-nhk-symphonyorchestra-tokyo-paavo-jarvi?date=1582659000



2月27日(木)7:30pm
ウィーン(オーストリア)[プログラムC]
ウィーン・コンツェルトハウス
公演情報: https://konzerthaus.at/concert/eventid/57065



2月28日(金)8:00pm
ケルン(ドイツ)[プログラムA]
ケルン・フィルハーモニー
公演情報: https://www.koelner-philharmonie.de/de/programm/s-gabetta-nhk-symphony-orchestra-tokyo-pjarvi-bruckner-schumann-takemitsu/122798



2月29日(土)8:00pm
ドルトムント(ドイツ)[プログラムA]
コンツェルトハウス・ドルトムント
公演情報: https://www.konzerthaus-dortmund.de/de/programm/29-02-2020-sol-gabetta-nhk-symphony-221993/



3月2日(月)8:15pm
アムステルダム(オランダ)[プログラムB]
コンセルトヘボウ
公演情報: https://www.concertgebouw.nl/en/page/41451#581ffb57eae47db881558b389f1d9b196bf67b27



3月3日(火)8:00pm
ベルリン(ドイツ)[プログラムC]
ベルリン・フィルハーモニー
公演情報: http://www.musikadler.de/konzerte-karten/termine.html?tx_mckonzerteadler_pi1%5Bconcert_id% 5D=594&tx_mckonzerteadler_pi1%5Bdisplay_code% 5D=concert_description&cHash=7d81f6ae9910b3e2b8060e72dff71788



3月4日(水)8:00pm
ブリュッセル(ベルギー)[プログラムD]
パレ・デ・ボザール
公演情報: https://www.bozar.be/en/activities/150908-nhk-symphony-orchestra-tokyo-paavo-jarvi



後日追記。(2020.2.26)


N響ヨーロッパツアー2020、さっそく初回はパーヴォの故郷であるエストニアのタリンで公演をし大盛況だった模様。シューマンのチェロ協奏曲で、チェロソリストのソル・ガベッタと。前半は武満徹のハウ・スロー・ザ・ウィンド、そしてこのシューマンのチェロ協奏曲、そして後半は、ブルックナーの交響曲第7番でした。


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このカーテンコールの写真は、N響さんのSNSから拝借しているものですが、3年前の2017年時のツアーのときは考えられなかったです。あの当時は、N響さん側も手探り状態だから、コンサート終演時のカーテンコールの写真なんてなかった。自分はどうやって、写真を都合しようか、あの当時、毎回mixiのつぶやきで報告するのに、すごい苦労してやりくりしていた記憶がありますから。それが、今回はこうやってプロのカメラマンを同伴してのツアー。各地の公演では、かならずこのようなカーテンコールの写真を拝見することができます。本当に感慨無量です。


2020/2/26時点現在で、タリン→ロンドン→パリと3公演終演。そしていまウィーンに向かっています。



後日後記。(2020.3.5)


3月4日、首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィと7カ国9都市をめぐるN響ヨーロッパ公演が、ベルギーの首都ブリュッセルで幕を閉じました。このツアー最終公演は、ベルギー国立管弦楽団の本拠地にして、エリーザベト王妃国際音楽コンクールの会場としても知られるパレ・デ・ボザールで開催され、武満徹「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」、ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」、ラフマニノフ「交響曲第2番」が演奏されました。ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」のソロは、パリ、ウィーン、ベルリンに引き続きカティア・ブニアティシヴィリが務めました。


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(c) Lorraine Wauters(公演写真)


本当にご苦労様でした。N響ヨーロッパツアー2020大成功で終わったようで本当によかったです。今回はプロのカメラマンを同伴したことで、つねに終演後のカーテンコールの素晴らしいシーンが拝見できて素晴らしかったと思います。そしてもうひとつ素晴らしいと思ったのは、現地の公演評をすかさず翻訳して提供してくれたこと。つねに現地メディアで公演評が出ているかどうかをチェックして、出ていればその場で翻訳する、という体制が整っていたんですね。これも前回にはなかったことでした。今回はカーテンコール写真と公演評翻訳と、とても準備万端で素晴らしいと思いました。


本当に残念だったのは、このツアーのタイミングで、日本のみならず世界中が新型コロナウィルス騒動一色になってしまったことですね。みんなそれどこじゃなかった。自分も全公演ともレポートすると約束しながら、雰囲気的にそんな感じになれなかったのが本当に申し訳なかったと思います。本当にタイミングが悪かったです。でもみなさんの大活躍は、しっかりと我々の心の中に刻み込まれたことは間違いないです。そして、どこの国の公演評も大絶賛であったということ。これは真にN響、日本のオーケストラの実力の高さをヨーロッパ本場に認識させることができた、と自負しています。日本国民として、あなた方は本当に日本の誇りです。


ほんとうにありがとう!








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東大正門前の喫茶ルオーのカレー [グルメ]

「東大正門前の喫茶ルオーのカレーはウマい!」


この発言にアンテナがビビッと反応し、思いついたらすぐに実行、即座に行ってまいりました。それは、自分が事前に予想していた通りのある特別な意味を持った「美味しさ」だった。


確かに実際食べてみたら美味しいのだけれど、ここで言っている美味しいという意味は、ごく一般的な意味ではなく、もっとノスタルジックで郷愁の念というか、個人の心の琴線に触れるような特別の意味合いを持つ”美味しい”だと思った。


たぶんそうなんじゃないかな?と予想していたのだが、実際食べてみて、まさにその通りの”美味しい”だった。けっしてビジネスライクなウマさじゃなかった。


なぜ、それが事前に予想できたかというと、東大キャンパス前の学生街だからだ。

学生街の店のウマいは、普通のウマいとは意味が違う。


大学のキャンパスの近くのお店は、お客さんのターゲット層はもちろんその大学に通う学生さん。きっと地方から出てきて、東京1人暮らし。親の仕送りと自分でもバイトしてキツキツの生活。普段も満足な食生活などしていないはず。


学生はもともと貧乏なもんだ。


でもそのときにその学生街で食べたウマいもんは、本当のレベルとして美味しいかどうかの問題でなく、そのときは本当にウマいと思ったものなのだ。


それでそのときの記憶は決して何年経過した大人になっても忘れられないもの。学生街のウマいというお店は、その大学に通う学生さんたちのそんなハングリーな生活の郷愁の念で思い出の詰まった美味しい店なのだろうと思っていた。


自分は地元の大学で、しかも実家の親元から通っていたから、大学時代はそんなハングリーな環境ではないある意味恵まれた環境だったが、それでも自分の小遣いは、自分で塾講師とか家庭教師をしながら稼ぐのが親との暗黙のルール。


その稼いだお小遣いは、ほとんどロックのアナログレコードを買うことと友達とお酒や食べることに消えてしまったような気がする。大学食堂で、友達とロック談義をするのが大の楽しみだったし、ポリス、U2がどうだ、とか・・・


北大は、学生の50%以上が道外の学生で占められるインターナショナル(?)な大学で、自分の友人もほとんど道外出身で、みんな下宿して少ない親の仕送りとバイトで生活していた。


いつもその友達たちの下宿先に泊まって夜更かしして、語り合っていた。
これは最高に楽しい思い出だ。


それで、その下宿近くにあるラーメン屋さんとか居酒屋で友達と食べたときのあのウマさは、何年経っても忘れられないし、最高に美味しい。


大学時代は麻雀にも明け暮れていた時代で(ボクらの時代は麻雀全盛時代だったのです。いまの子たちはやらないと思うけれど。)、よくその学生街の雀荘に通っていた。


東風荘という名前の雀荘だが、いまも存在するのだろうか?たぶん潰れてないだろうな?


さらに遡って高校生時代のときは、下校のときは、かならず3~4人でいっしょに帰っていたのだが、そのときに必ず毎日じゃないけれど、下校途中にある味噌ラーメン屋さんに通うのが大の楽しみだった。


春日食堂という名前のお店だったが、これが当時通っていたとき本当にウマくて、金のない学生時代の大のご褒美のようなものだった。


この春日食堂の味噌ラーメンの味は大人になっても決して忘れられなくて、就職で東京に出てきた後になっても夏のお盆や年末年始に帰省した時に、必ず立ち寄っていた。


それをず~っと何年も続けていた。


自分の実家のある田舎町にある本当に名もないラーメン屋さんに過ぎないんですよ。


でもその子供時代に美味しいと思った春日食堂の味噌ラーメンの味はけっして錆びつくことなく永遠に美味しかったし自分だけの世界の味だった。


いまでこそ、味噌ラーメンといえば、純連とかすみれとか騒いでいるけれど(笑)、そういうビジネスライクに美味しいというレベルとは、ちょっと違うんだよね。そういう郷愁のノスタルジックな学生時代の味というのは。


残念ながら春日食堂は、5年くらいほど前に、ついに潰れてしまい、自分の記憶への旅に終止符が打たれてしまった。


慶応大学の三田キャンパスの近くにあるラーメン二郎もそうでしたね。いまやどこにでもあるチェーン店みたいになってしまい、ちょっと残念な感があるが、昔は、三田キャンパスに行く途中の交差点の端にあった。


このころが最高にウマかった。山田の親父さん元気にやっていて、これこそ二郎の味という感じでウマかった。いまでも二郎はよく行きますが、三田キャンパスのその本店は場所が移動してしまい、久しぶりにその三田本店の味を堪能したけれど、山田の親父さんは元気そうだったが、味はガタ落ちでもうガッカリ。


昔の面影まったくなし。


ラーメンは味を長年に渡って維持するのが難しい商売ということがつくづくわかりました。


こういうケースもありますね。(笑)
このラーメン二郎の三田本店も、まさに学生街の名店、慶大生の思い出の味です。



そんなもう一度食べてみたい、あの頃に通ったあの味、あの頃、本当にウマいと思った店。


「東大正門前の喫茶ルオーのカレー」には、そういう学生街だからありうるウマさの定義、東大生だからわかるその思い入れ、というのがあるんじゃないかな、と思ったのだ。


それはドンピシャ当たりだった。


実際本当にウマいんだけれど、それだけじゃない東大生だからわかるなにかが間違いなくある。


喫茶ルオーは東大の正門前にある。


自分は東大の本郷キャンパスに行ったことがないので、今回初体験だったのだが、あの有名な赤門と正門というのは違うんですね。


自分は赤門のことを正門だと思っていました。


でも赤門と正門は別です。


赤門~受験生が合格やったー!という感じで親と記念撮影している場面でよくテレビに映っていますね。

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正門


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喫茶ルオーは昔は赤門の前にあったそうで、ネットで検索すると、赤門前のルオーってあるから、さらに赤門=正門という勘違いから赤門前でウロウロしたが、見つからず迷って、道の人に聞いたら、昔は赤門前だったけれど、いまは正門前に移っちゃったんですよね、と言われ、解決。


そこで正門のほうに歩いていき、店が近づいてくるとカレーのプ~ンといういい匂いが!


そしてついに喫茶ルオー発見!


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まさに昭和のノスタルジックな雰囲気の名店という感じだ。
古くから東大生たちに愛されてきた名喫茶店。


カフェじゃないんだよね。あくまで喫茶店です。
わかる?この雰囲気。


店内に入ってみると、うわ~雰囲気ある!
漆喰塗りの壁、木彫りのテーブル。
2階にも席がある。


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2Fのほうにお邪魔すると(別の日に再度チャレンジしました。)、これまた1Fとは比べ物にならないほどの見晴らしのよさというかスペースが確保されている。


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喫茶ルオーのテーブルと椅子はすべて木製。赤門前にあったときのインテリアをそのままこちらでも引き継いでいるそう。テーブルの木目、座面もこじんまりと可愛い椅子の背もたれ。


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それにしても椅子の背もたれには、コーヒーカップのくりぬきや、ビールジョッキのくりぬきのデザイン。なんかお洒落心があるというか、ホッとさせてくれますね。ルオーのアイコン的存在と言ってもいいと思います。


ビールジョッキのくりぬきデザイン


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コーヒーカップのくりぬきデザイン


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ここで、喫茶ルオーについて、2012年2月3日号の週刊ポストに記載された記事をそのまま紹介しよう。



東京大学正門の向かいに佇む「喫茶ルオー」の歴史は60年に及ぶ。昭和27年に画家の森田賢さんが赤門前に画廊喫茶として開業。昭和30年に入店した現店主の山下淳一さんが昭和54年に引き継ぎ、現在地に店を移した。


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「昭和30年代の本郷通りは古書店、雀荘、喫茶店が数多く立ち並び、まさに学生街だったんですよ。赤門前のルオーは120席もあって、学生、芸術家や劇団員、文学関係者の溜まり場で賑やかでした」(山下さん)


1960年代後半には鶴見俊輔、小田実、開高健などべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のメンバーも立ち寄ったという。


「東大紛争の頃はケガをした学生が店に避難しに来たことも。本郷通りの歩道は石板敷きだったので、学生たちがたたき割って投石したんです。それにしても当時の学生はよく議論をしていました」


そしてカレーもよく食べたという。久しぶりに店を訪れ、ゴロンと入っている牛肉の大きな塊をほぐしながら「ちっとも味が変わっていない」と懐かしむ卒業生も多い。舌は味を忘れず、味は過ぎ去った時を呼び戻す。


「ここで勉強して司法試験に合格した学生もいます。入学した娘さんを連れたお父さんが「私も、私の父も学生時代に来ていました。親子三代です」と声をかけてくださったりすると、続けてきてよかったと思います」(山下さん)


ここのメニューが面白い。


ふつうの喫茶店なのだが、喫茶のメニューとランチタイムのときはカレーライスがある、というオリジナルなメニュー。


もちろんランチメニューはカレーのみ。

ここのカレーを食べに多くの客がやってくる。
カレーの美味しい喫茶店といったところで、有名なのだ。


自分はもちろんこのカレーライスを食べにやってきた。


この店で今も昔も変わらず愛されているのが「セイロン風カレーライス」。
この喫茶ルオーのカレーというのは、このセイロン風カレーライスのことを言います。


さっそくオーダー。これだ!!!


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60余年前の創業当時からある「セイロン風カレーライス」は、具は大きなじゃがいもと豚肉が一つずつという潔さ。「初代の奥様がホテルのシェフからレシピを習ったと聞いています」ということらしい。


本当に見た目、じゃがいもと豚肉がひとつずつゴロリという感じである。


とてもシンプルなカレー。今風じゃなくていかにも伝統の昔カレーという感じですね。


タマネギやニンニクなどをじっくり炒めて、小麦粉とカレー粉で香ばしく仕上げたソースは、さっぱり風のカレー風味で美味しい。スパイス結構効いています。正直かなり辛いと思います。


最初食べたときは、ふつうの甘口の美味しさだと思いましたが、だんだん後から辛さがやってくるというか、効いてくるんですよね。終盤ではほとんど口の中、麻痺状態で、結構辛いな~と思って食べていました。


でも、これは病みつきになりますね。
本当に美味しいと思います。


自分のように初めて体験した人でも美味しいと思うレベルの高さで、これが東大生で昔ながら通っている常連さんには、本当に”忘れられないあの頃の味”なのだろうと思います。


ちなみにセイロン風カレーライスをオーダーすると、ドリンクがひとつサービスになります。


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自分はコーヒーと別に日は野菜ジュースをいただきました。


「東大正門前の喫茶ルオーのカレーはウマい。」

は本当であった。


さて、目的を達したところで、せっかく東大本郷キャンパスに来たのであるから、東大キャンパス、人生初体験。


東大安田講堂


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こんな感じだったっけ?実物を見るとちょっとそんな思いが。


自分は古い世代だから、直接体験した世代ではないけれど、この安田講堂を見ると、どうしても学生運動、抗争のイメージがありますね。


どのキャンパスが何学部とかは認知せずに、流し撮影。北大もそうだけれど、旧帝国大学ってやっぱり建物が古いというか、独特の年代感というか古さがありますね。


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東大総長を務められた山川健次郎氏の銅像も。


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有名な三四郎池。
水が汚いです。(笑)透明度がまったくありません。


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ここに住みついている鯉とかすごい生命力だと思います。


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東大キャンパスは正門から入るのと、赤門から入るのとで広がっているキャンパスエリアは、思っていた以上に広く、日本で最古の大学として伝統を感じる佇まいでした。


ぜひ中に入ってみたかったのは、東大の図書館。
図書館を見ると、その大学のことがよくわかるといいますね。









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マーラーの作曲小屋 [海外音楽鑑賞旅行]

グスタフ・マーラーは生涯に3か所の作曲小屋をつくった。


2013年にザルツブルク音楽祭に行ったとき、モーツァルテウムの通称「バスチオン(砦)庭園」内に、モーツァルトがウィーンでオペラ「魔笛」の一部を作曲したと言われる小屋があって、いわゆる「魔笛の小屋」といわれる作曲小屋を見学したことがあった。


そのとき思ったことは、クラシックの有名な作曲家は、なんでこんな狭いスペースに籠るのが好きなのだろうか、と思ったことだ。(笑)


普通の庶民の感覚で考えれば、豪邸で広いスペースのリビングで作曲したほうが、効率もいいと思うものだ。


マーラーが生涯で作った3か所の作曲小屋の写真を拝見して、う~ん、やっぱりクラシックの作曲家は狭い場所に籠ったほうが、アイデアが出やすいのだろうか、という思いを強くした。


小説家もそうかもしれないが、創作活動というのは、普段自分のいる空間ではなく、場所を変えると全然捗るということが常なのかもしれない。


”普段と違う場所”というのがキーポイントなのかもしれない。


自分がそう思うのは、旅先でホテルの部屋でパソコンで文章を書いているほうが、全然効率がいいと感じるからだ。綺麗に清掃された部屋で、旅行でハイな気分で、ベッドの隣に配置されている机の上でパソコンで書いているときは最高に気持ちがいい。頭の回転がすこぶる早い。


作曲小屋という発想は、そんなところから来るのかもしれない。


マーラーの建てた3つの作曲小屋は、どれも修復され、現在は観光スポットとして存在している。


小屋の中は、当時の時代の古楽器のピアノが置かれたり、マーラーの肖像写真が何枚も壁にかけられたり、とかで完全に綺麗にドレスアップされている。


こういうマニアックな観光スポットは自分の好奇心、行ってみたい病を激しくくすぐり、ぜひ行ってみたいと思うのだが、海外に渡航する費用をこのためだけに予算化するのは、ちょっといまの体力では無理かなぁと感じる。


ここではネットの写真を紹介して楽しむだけに留める。ネットに転がっている写真は、誰かが投稿した写真ということだから、情報の出どころと原文サイトも紹介する、という配慮をする。


みなさん、マーラーの作曲小屋について、実際の行き方の手順の写真や、標識の写真、現地で実際体験されて、楽しまれているようで、マニアックなコアなクラシックファンの方ばかり。


作曲小屋の由来や、そのときのマーラーが置かれている背景など、そして作曲小屋の雰囲気(小屋に入ったらセンサーが勝手に働いて、マーラーのBGMが流れるところもあるそうだ。)など、じつに見識深い内容で参考になります。


ぜひ原文サイトのほうをご覧になってください。


私からは、簡単な説明だけにとどめておきます。



ザルツブルクカンマーグートのアッター湖畔のシュタインバッハーの街の作曲小屋


ザルツブルクの風光明媚な湖水地帯ザルツカンマーグートに、マーラーが、1893年の夏、交響曲第2番の第2楽章から第4楽章までを書き上げたのが、ザルツカンマーグート最大の湖アッター湖畔の街シュタインバッハ。


1896年の夏は、シュタインバッハの小さなホテル「フェッティンガー」に滞在、湖畔に作曲するための小屋を建て、早朝から午前の間、作曲に専念する日々を送った。交響曲第2番の他、交響曲第3番全楽章を作曲し、さらに交響曲第1番を改訂した。


ザルツカンマーグートは最高のスポットですね。自分も2013年にハルシュタットを観光。まさに”世界で一番美しい街”でした。


自然豊かで美しい湖畔の街シュタインバッハを訪れると、この最高の自然環境の中で、”普段と違う場所”の小さな小屋で作曲に没頭すれば、それはそれは素晴らしい旋律が自然と溢れてくるのであろう。


作曲小屋


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小屋内部


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(作曲小屋)

旅する音楽師・山本直幸の百聴百観ノート:第35回 マーラーの交響曲が作曲された場所



(小屋内部)

クラシックカフェ クラシックを気ままに聞くティータイム 2013/9/3 マーラー作曲小屋





オーストリアのヴェルター湖畔のマイアーニッヒの街の作曲小屋


マーラーは、1897年、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任、1898年にはウィーン・フィルの首席指揮者も兼務し、拠点をウィーンに移す。1900年~1907年の8年間は、オーストリア南部のヴェルター湖畔の街マイアーニッヒに別荘を構え、その裏山に小屋を建て、交響曲第4番~第8番を作曲している。


作曲小屋


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小屋内部


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(作曲小屋)

旅する音楽師・山本直幸の百聴百観ノート:第35回 マーラーの交響曲が作曲された場所



(内部写真)

Landschaft

マーラー「マイヤーニッヒの作曲小屋」




イタリアのトブラッハの作曲小屋


1908年~1910年の3年間の夏は、当時はオーストリア領だったイタリア北東部の山地ドロミテのトプラッハで過ごし、やはり小さな小屋で交響曲「大地の歌」、交響曲第9番、交響曲第10番(未完)を書き上げた。


作曲小屋


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小屋内部


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(作曲小屋)
ときどき軽井沢 小屋好きには嬉しい、マーラーの小屋

(内部写真)
チロル&ザルツブルク 落ち穂拾いの旅
7)マーラーの作曲小屋(トブラッハ/ドビアッコ)Ⅲ  2012年4月30日(月)



マーラーの作曲小屋に共通するポイントは自然が美しい風光明媚な場所であること、作曲期が夏であること、ですね。クラシックの作曲家の曲を聴いていて、その作風を肌で感じるとき、その作曲家が作曲したその場所、その風景が自然とその曲の作風の中に含まれている、というのは絶対あることだと思いますね。


マーラーの曲をよく知っている人ならば、これら3つの作曲小屋の場所に実際行ってみて、自分の足で立ってみて、その周りの風景を眺めてみたときに、あ~あの曲は、まさにここだから生まれた!というのがよく理解できるのかもしれないと思います。


でも予算がないから無理。(笑)










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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.4 [海外音楽鑑賞旅行]

1920年 マーラーフェスティバル・イン・アムステルダム


ウイレム・メンゲルベルクはコンセルトヘボウ・オーケストラの指揮者に就任して25周年を祝して彼の友人で聖像人に捧ぐフェスティバルを開催した。1920年5月の15日間の間、マーラーフェストとして、メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラとで、マーラーの9曲の全交響曲、嘆きの歌、さすらう若者の歌、亡き子をしのぶ歌、大地の歌、そして5曲からなるリュッケルト歌曲集が演奏された。


出席者として、アルマ・マーラー(貴族夫人とともに、ミュージアム広場のホテルに滞在している。)、そしてアーノルド・シェーンベルク、メンゲルベルクの弟子たちが参列した。


アルマはこう書いている。”アムステルダムに到着・・・港・・・船・・・帆・・・索具(船の帆とマストを支えるロープ・ワイヤ・滑車などの総称)・・・乱暴な押し合い、慌しい動き・・・肌寒い・・・どんより曇った・・・一言で言えばそんなオランダ。マーラーの音楽の第2の故郷の夕暮れはとても素晴らしい絶景だわ。”


それはとてもユニークなフェスティバル、たったひとつの野望のみ。



”バイロイトがワーグナー作品のすべてのパフォーマンスのスタンダードと成り得るように、アムステルダムはマーラー芸術の精神的な中心地であってきた。”


これらの言葉は、組織発起人 リュドルフ博士、そしてメンゲルベルク、マーラーの遠い親類によって語り続けられた言葉なのだ。


アムステルダムは、マーラー所縁の街として最も先をいく街となっていくだろう。



ここから掲載するマーラーフェスト関連の写真の情報元は、マーラー財団(Mahler Foundation)所有のものである。Copyrighted By Mahler Foundation


マーラー財団 (Mahler Foundation)



第1回目のマーラーフェスト(Mahler Feest)は、1920年に開催された。(1920/5/6~5/21)メンゲルベルクが、RCOを率いて、マーラーの交響曲、歌曲を全曲演奏した。


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マーラーフェスト1920 (Mahler Feest 1920)のポスター


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これがマーラーフェスト1920のPasse-partours(つまり全公演のセット券)
これは今回のマーラーフェスト2020でもPasse-partoursはあっという間の瞬殺で完売でした。


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アルマ夫人が宿泊していたホテル。いまのゴッホ博物館があるロケーションだとあるので、コンセルトヘボウの近くだったんですね。


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これはおそらくメンゲルベルク邸なのだと思われる。でも記載の住所にはウィーン(Vienna)という文字が書かれていて、ひょっとしたらマーラーのウィーンでの住居なのかもしれない。オランダ語が読めなくてスミマセン。


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マーラーフェスト1920・ブック。
フェストに関するすべてが記載されている総合プログラムだと思います。


今回のマーラーフェスト2020・ブックも発行されます。2020年3月に発売される予定で、もちろん購入予約してあります。一生の記念、宝物ですね。


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当時マーラーはアメリカに住んでいたので、アルマ夫人は、このマーラーフェスト1920に参加するために船で航海でオランダにやってきました。


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アルマはこう書いています。”アムステルダムに到着・・・港・・・船・・・帆・・・索具(船の帆とマストを支えるロープ・ワイヤ・滑車などの総称)・・・乱暴な押し合い、慌しい動き・・・肌寒い・・・どんより曇った・・・一言で言えばそんなオランダ。マーラーの音楽の第2の故郷の夕暮れはとても素晴らしい絶景だわ。



長い船旅を終えて、オランダ・アムステルダムに到着した一行。
ものすごい大所帯でやってきたんですね。


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アルマ夫人と新ウィーン楽派のアーノルド・シェーンベルク


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ダークスカーフとダークハットの女性がアルマ夫人、ダークハットで傘を持っているのがアーノルド・シェーンベルク。前列真ん中がロシア生まれでオランダで活躍したヴァイオリニスト、アレクサンダー・シュミラー(1880-1933)。


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真ん中にアルマ夫人、左の杖を持っているのがアレクサンダー・シュミラー(1880-1933)全員で記念撮影。


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前列の真ん中が、ロシア生まれでオランダで活躍したヴァイオリニスト、アレクサンダー・シュミラー(1880-1933)、前列右側が、ドイツと日本で活躍したロシア生まれのピアニスト、指揮者のレオニード・クロイツァー(1884-1953)。


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リチャード・スペヒト(1870-1932)(オーストリアの作詞家、作家)とその夫人。


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まさに船旅。アーノルド・シェーンベルクと右側の帽子をかぶっているのが、オランダ・アムステルダムの芸術・財務の市会議員のF.ヴィバート氏。


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フェスティバルでのリハーサルの最中のフォト。真ん中にメンゲルベルク。


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メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ・オーケストラのメンバーとのフォト。


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1924年 メンゲルベルクによる交響曲第10番の補筆。


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ウィレム・メンゲルベルクと彼のアシスタントのコーネリス・ドッパーは、交響曲第10番から2つの楽章の補筆をおこなった。メンゲルベルクはこの補筆作品を11月27日にコンセルトヘボウ・オーケストラと演奏し披露した。




1995年 マーラーフェスティバル1995


1920年のマーラーフェスト1920から25年、ふたたび特別にマーラーの作品すべてをとても大きなスケールで演奏するフェスティバルが開催された。今回はコンセルトヘボウ・オーケストラだけでなく、その他にウィーンフィル、ベルリン・フィル、そしてグスタフマーラー・ユーゲント管弦楽団によってマーラーの全作品が演奏された。

アムステルダム・コンセルトヘボウのメインホールの様子をそのまま野外で鑑賞できるようにパブリック・ビューイングのセッティングがミュージアムプレイン(ミュージアム広場:アムステルダム旧市街を抜けた先にある広場(公園))に設置された。


その他の場所でも、アムステルダム市アーカイブ所蔵のマーラーに関する展示会をおこなった。


このようにアムステルダムは、マーラー一色となったのである。



マーラーフェスト1995 (Mahler Feest 1995)のポスター


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この1995年大会のときは、RCO,VPO,BPOと三大オケが揃い踏みであった。
だから、その各々のオケ・ヴァージョンのポスターが作られたのだ。


コンセルトヘボウ版ポスター

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ウィーンフィル版ポスター

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ベルリンフィル版ポスター

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マーラーフェスト1995の開催を報じるオランダの新聞。


”メンゲルベルクからシャイーに至るまで。”
”我々の音楽ヒーローに基づいた国際的で巨大なフェスティバルが開催される。


準備のリハビリもなければいままでのリファレンスもない、いままでかつてない重要なフェスティバル。(そりゃRCO,VPO,BPO揃い踏みという過去に前例がないんだから。)”


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”マーラー・イン・アムステルダム、メンゲルベルクからシャイーに至るまで”の博覧会の折り込みチラシ。

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”マーラー・イン・アムステルダム、メンゲルベルクからシャイーに至るまで”の博覧会がオープン。広大な公園でAmsterdam Municipal Archiveが造営された。


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マーラーフェスト1995では、世界で最大のティンパニーが展示された。
両端110.5cmに至る世界最大規模。マーラーの交響曲では低音が強調されるように、と。
1920年にメンゲルベルクによって委託された。


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記念に発売されたマーラーフェスト1995のスタンプ付き封筒。

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”マーラー・イン・アムステルダム、メンゲルベルクからシャイーに至るまで”博覧会で記念に発売された本とCD。


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マーラーフェスト1995オリジナル手帳。見よ!交響曲第7番専用だ!

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これもマーラーフェスト1995のときに発売された本。”Gustav Mahler the World Listens”

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マーラーフェスト1995で特別に造営された大型テント。チケット争奪戦に敗れてホールに入れなかったお客さんをサポートする。朝10時からドキュメンタリーやレナード・バーンスタインの歴史的な録音を聴いたり、いろいろなものが大型スクリーンにパブリックビューイングされた。12時半からはランチコンサート。午後からは引き続きドキュメンタリー・フィルムが映写された。毎日夕方5時半から、音楽学者によって40分の講演があった。


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マーラーフェスト1995、ついにフェスティバル開始を伝えるオランダの新聞。シャイーの姿が!まさに歴史的瞬間!

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マーラーフェスト1995の記念プラーク(額)

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マーラーの娘、マリア・アンナ・マーラーが作ったマーラーのブロンズ胸像。
これは彼女が子供のころに自分の父を見てインスパイアされて作ったものである。


それをマーラー孫娘であるマリナ・フィツォーラリ・マーラーによって、マーラーフェスト1995のときにコンセルトヘボウに寄贈されたものである。


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1995/5/8 マーラーフェスト1995。リッカルド・ムーティ、ウィーンフィルを率いて、かつてのレナード・バーンスタインやクラウディオ・アバドの頃の70年代のときのマーラー音楽の熱狂を見事に演じて見せた。ウィーンフィルはマーラーの音楽を演奏する経験が少なかったので、これはひとつのエポックメイキングな事象であった。


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造営された大型テントでのカフェ。

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そしてこのマーラーフェスト1995のマーラー全曲演奏会は録音され、CD-Boxとなった。もうこのCD-Boxは何回も説明してきましたね。


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録音はオランダ放送協会によるもの。


このセットはベアトリクス女王も含むごく少数の人しか出席していない、コンセルトヘボウホールの前マネージャー退任記念パーティで配布された自主制作盤で、他にも世界中の大きなラジオ局には少数配布されたようなのだが、一般には全く流通していない大変貴重な非売品である。(もちろん権利関係ははっきりクリアした正規盤です。)


滅多に入手できない希少品で、中古市場で大変なプレミアがついて売られています。
こうやって自分もヤフオクで10万の大金をはたいて購入しました。
自分の宝物です。


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自分がヨーロッパに住んでいたとき、アムステルダムに同期の友人が住んでいて、このマーラーフェスト1995を体験しました。いままでマーラーは食わず嫌いだったのが、このフェストに通ったことで、マーラーに開眼したとか。自分もその友人から聞いて、このマーラーフェストという音楽祭の存在を知ったのでした。


去年、その友人とひさしぶりに飲んだとき、わざわざ持ってきて見せてくれた、そのときのマーラーフェスト1995のコンサートカタログ。4曲通ったから4部ある。マーラーフェスト1995は赤色がテーマ色でしたね。


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2020年 マーラーフェスティバル2020


ウイレム・メンゲルベルクによるマーラーフェスト1920から正確に100年後、コンセルトヘボウは再度、マーラーフェスティバルの大フェスティバルの舞台に立つ。もちろん1995年のときのように、コンセルトヘボウ・オーケストラの他に、ウィーンフィルやベルリンフィルもやってくる。今度の2020年度のときは、マーラーが1909年から1911年まで音楽監督を勤めていたニューヨークフィルもやってくるのだ。


そしてついに自分が体験するマーラーフェスティバル2020。


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マーラーフェスティバル2020のポスター

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まさに人生に1回のチャンス!


1920年大会、1995年大会も、マーラーフェスト、Mahler Feest なのに、今回から改称で、マーラーフェスティバル、Mahler Festivalになってしまった。フェスティバルは、なんか普通っぽすぎて面白くないというか、マーラーフェストのほうが、っぽくていいのに、歴史もあるし、と思うのです。


マーラーフェスティバル2020はどのようなイヴェントがありそうか、はいままでの日記で紹介した通り。いままでのフェストと同様に、きっとたくさんの記念グッズが売られると思うから、全部買ってくる予定です。(笑)それを入れるためのトートバッグ買わないといけませんね。


ミューザ川崎の売店で売っているトートバッグを買ってきましょう!










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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.3 [海外音楽鑑賞旅行]

1906年 マーラー、コンセルトヘボウで交響曲第5番を指揮する。


1906年3月8日、マーラーは、交響曲第5番をコンセルトヘボウで指揮をする。ウィレム・メンゲルベルクが、その作品については、コンセルトヘボウ・オーケストラと練習を積んでいた。そしてそのことが素晴らしいことを生むことにもなった。


マーラーは、アムステルダムからアルマに手紙を書いた。”すべてが素晴らしくリハーサルされていた、サウンドも素晴らしい。オーケストラは、とても幻想的で、私のことをとても好きでいてくれる。今回は退屈な重労働というよりは、本当に楽しんでできる、と思うよ。”


”ロッテルダム、ハーグ、アーネム、そしてハールレムと、私に引き続いて、メンデルベルクが、コンセルトヘボウを率いて第5番を指揮してくれた。”


あなたは、マーラーとアムステルダムの関係性、マーラーにとって第2の音楽の故郷については、広範囲な記事ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”について読むことができる。



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オランダを散歩する。

気の合う人同士で、アムステルダムのラーレンの荒れ地を散策する。左から右へ:ウィレム・メンゲルベルク、グスタフ・マーラー、アルフォンズ・ディペンブロック。



1906年 交響曲第6番の初演。


1906年5月27日、交響曲第6番は、エッセン(ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市)にて初演を迎えた。そこでエッセンとユトレヒトの地方自治体による混成オーケストラをマーラーは指揮した。


聴衆は、最高に熱狂していて、長い、そして狂喜に満ちた拍手で喝采となった。
しかし、プレスのほうは、その作品については、聴衆ほどの熱狂ではなかった。


あるレビューアーはこう書いている。”私は、いままで4つのマーラーの大曲を聴いてきたけれども、実際彼は同じことを言い続けてきている。もう耐え切れない感じだ。彼は金管楽器奏者の言語だけを知っている。彼はもはや我々と打ち解けて話そうという気は毛頭ない。彼は悲鳴をあげ、怒っているのだ。我々は、そのことに驚いて本当に不思議に思う。なぜ、このようなノイズを作るのか?”



1907年 ウィーンからニューヨークへ。


芸術家としての大きな成功をしたと同時に、感情的な議論や誹謗中傷を受けるなどの数年を過ごした後、1907年12月に、マーラーはウィーン国立オペラ座の音楽監督を辞任した。


オペラ座のスタッフへのお別れの手紙にこう書いてある。


”オペラ座の親愛なるスタッフのメンバーたちよ。ついにこのときが来た。私たちの協力はここに終わった。私にとってずっと親しんできたこのステージを去り、いまみなさんにお別れを言う。完成されたプロジェクトを置いていく代わりに、私が夢見てきたように、自分の背後にある大きな残骸から離れたいと思う。


熱い戦いの中においては、我々は傷つかざるをえなかったが、もし作品が成功していたならば、そのような痛みも忘れることができたであろうし、心豊かに褒美されていたことでもあろう。私といっしょに戦ってくれてありがとう。私の難しい、そして有り難く思われなかった作品に心いとわずして喜んで助けてくれてありがとう。お元気で。


マーラー音楽とのお別れは、交響曲第2番となった。
そのときの目撃者はこう書いている。


”拍手は、とめどもなく巨大で大きなものであった。それはハリケーンの力強さまでに膨れ上がり、その作曲家は思わず涙した。マーラーはステージに30回呼び戻され、女性たちは涙を流し、ハンカチでそれを拭った。「気を落とすな!という叫びが何回も飛び交った。」


マーラーがウィーンから離れる汽車に乗り込んだとき、マーラーはかけつけてくれたファンに手を振った。


アメリカ、正確にはニューヨークが呼んでくれた。
マーラーはメトロポリタン歌劇場と契約をした。


彼はまたニューヨーク・フィルなど数々のニューヨークのオーケストラを指揮した。

彼はすぐにはアメリカのコンサート・シーンに惹かれたり、馴染むことはなかった。


後にブルーノ・ワルターにこのように手紙で書いている。”ここの私のオーケストラは、真にアメリカの代表的なオーケストラである。無気力で才能のない・・・。”



1908年 大地の歌


1908年の夏、マーラーは大地の歌の作曲に取り掛かっていた。1907年の悲劇的な一連のできごと(ウィーン国立オペラ座監督の辞任、本拠地をウィーンからニューヨークへ移す)のおかげで、ますます作曲の道へ邁進することになった。


大地の歌はこのように我々に語っている。”暗闇は生であり、死でもある。”
マーラーは、大地の歌について、ブルーノ・ワルターにこのように手紙で書いている。


”私は、この新しい作品をどのように呼べばいいのか、まだわかっていない。でも私は本当に素晴らしい時間を過ごしてきたし、いままで作曲してきた作品の中でももっとも個人的な作品だと思っています。”



1908年 ソーセージポトフよりも錆ついたティンパニーやトランペット


交響曲第7番は、1908年9月19日にプラハで初演された。マーラーはオペラ・オーケストラから数人の奏者を引き連れてメンバーに加えて、フィルハーモニー・オーケストラを指揮した。


アルマ・マーラーはこのときの初演のときの様子をこのように記述している。


”私がプラハに到着したときは、マーラーは神経質になっていて、病気に近い感じであった。譜面が床一面に散らばっており、彼はすべてのおいて躊躇しており、人とのつき合いを避けていた。”


その後、20世紀の偉大な指揮者の1人になるオットー・クレンペラーはそのときの様子をこのように記憶していた。”リハーサルの後、毎日、楽譜を家に持ち帰っていた。私たちは、彼を助けたかったが、彼は断固としてそうさせなかった。


そしてついには、マーラーは第7番の初演のために20回のリハーサルを必要とすることとなった。”私は、いかにして居酒屋ではなく、コンサートホールに行き、いかにソーセージ・ポトフではなくティンパニーや錆びたトランペット、という彼の選択を理解したのである。”


そのようなもがき苦しみは、聴衆とプレスの双方において、時間と労力をかけるだけの値打ちのあるものとなった。




1909年 自分のささやかな家族に対する愛情的な想い。


1909年の夏、マーラーは交響曲第9番を作曲する。この曲のインスピレーションは最初は湧いてこなかった。マーラーは、周囲のノイズ、たとえば窓をガラガラと開けると近所の人たちによるささやき話や、家に鍵をかけようとしたときに、近所の人が歩いているときに靴のかかとが鳴る音だとか、そういう騒音にイライラとした。犬も同様に、早朝や夜遅くまで吠えているので、彼らもそのノイズを出す人たちの中の1人と、マーラーに思わせるのである。


しかし夏が終わる前に、マーラーは、ブルーノ・ワルターに手紙を書いた。


”私が知る限り、私がいままで見境なく書いてきた、そして最終楽章を壮大にオーケストレーションしてきた作品と違って、今回の作品は、第1楽章からして、すでに自分のささやかな家族に対する愛情的な想いがいっさい介在しない作品だった。長い間、喉まででかかって、なかなか思い出せなかったことを、全部言うと、この作品は第4番に似ている。。。でもかなり違うところも多い。


このスコアは、信じられないくらい急いで書かなければならなかったものなので、出来上がりはずさんで、読みにくい楽譜だった。


大地の歌のときのように、マーラーはこの第9番に対して、”死”という主題を避けることができなかった。彼は、第1楽章の行進曲をいかに憂鬱な葬式の行進のように演奏しなければならないか、と記述した。彼の書いてきた作品の中で、この第9番のように消え行くように静かに終わる曲は他にない。


楽譜原稿の最後の行のところに、'Leb! Wol! Leb! Wol!(さようなら、さようなら)と書き込まれている。'Farewell!' Farewell!(お別れ、お別れ)。ウィレム・メンゲルベルクは、マーラーが愛した芸術、夫人、そして彼の音楽とすべての世界に対して”Farewell!(お別れ)”と書き込んだ。


マーラーは、この第9番の完成を待たずして、この世を去った。



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アルマとグスタフが、外を散歩する。

アルマとグスタフは、第9交響曲を作曲している夏の間に、トーブラッハからアルトシュルダーバッハまで散策を楽しんだ。



1909年 マーラーはオーケストラといっしょに演奏する。


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1909年の秋、マーラーは再び、オランダに戻り、コンセルトヘボウ・オーケストラを指揮し、交響曲第7番を披露した。”ふたたび、すべてが素晴らしくリハーサルされていた。”マーラーはアルマに手紙を書いて、メンゲルベルクがオーケストラを十分ウォーミングアップして準備していたことを伝えた。


メンゲルベルクは、1週間フルに、朝から晩、その交響曲第7番をオーケストラと練習し、叩き込んでいた。ある一人の楽団員が思い出を語った。”いままで、ひとつの作品をこれだけ精度よくリハーサルしたのは初めてだった。”


その楽団員は、指揮者としてのマーラーについてこうも語っていた。”彼は偉大な師匠だ。彼は自分のシンフォニーを指揮するとき、体はほとんど動かずに、指揮棒を持つ右手というよりは視線を使ってオーケストラをリードしていた。


マーラーは、そのままオーケストラといっしょに演奏していた。すべての団員たちは、マーラーは、やむにやまれず少々暴君的な専制君主のように、自分のパートを演奏しなければならなかった、と感じていたことだろう。”


あなたは、マーラーとアムステルダムの関係性、マーラーにとって第2の音楽の故郷については、広範囲な記事ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”について読むことができる。



1910年 交響曲第10番のはじまり。


マーラーは、1910年に交響曲第10番の作曲を始めた。アダージョを完成させ、そして残りは、わずかにスケッチとして残した程度であった。


これらのスケッチには、音楽と書き込みが含まれ、ところどころに、'Fur dich leben, fur dich sterben, Almschi'のような書き込みなど、パーソナルなものであった。


アルマ・マーラーによると、これは1910年の夏は、夫婦の危機で仲たがいにあった時期だという。



1910年 フロイトとの面談。


マーラーは1910年にふたたびオランダに戻った。指揮をするだけではなく、オーストリアの精神科医であるジークムンド・フロイトを電撃訪問するためだった。後者はちょうど休日にあたり、ノールドワイクの海辺を散歩することになった。


マーラーは、精神分析家のフロイトに、アルマとの複雑な関係を相談していた。


フロイトの結論はこうだった。


”私はあなたの妻、アルマを知っている。彼女は自分の父を愛し、そういうタイプの男性のみを愛するタイプなのだ。あなたは心配だろうが、あなたの年齢を考えれば、間違いなく彼女があなたに魅力を感じていることは間違いない。心配するな!君は自分の母親を愛しているだろう。君もすべての女性に自分の母親のタイプを求めてきたんだから。”



1910年 勝利!


1910年9月12日、マーラーは交響曲第8番をミュンヘンで初めて初演した。


1000人を超える力で、コンサートはめざましい大成功となり、ドイツやその他の外国諸国のメディアも、その桁違いのイヴェントを報道した。


アルマ・マーラーはこう書いている。


”その中にいた経験者は、みな想像もつかない経験だったに違いない。想像がつかない、それはつまり、外界に発信された成功ということ。すべての人、すべてがマーラーに委ねられた。私は深く感動して、バックステージで待ったわ。私たちはホテルに戻って、そのとき2人の眼は涙で溢れていた。ドアの外にはニューヨークからJ.L.が待っていて、こう言ってくれたの。このような素晴らしい曲を書いた作曲家は、まさにブラームス以来の快挙・・・。”




1911年 死期が近づく。


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1911年4月8日、ニューヨークからヨーロッパへの最後の渡航となった船の上でのマーラーの写真。



1911年 モーツァルト!モーツァルト!


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1911年5月18日、ウィーンにてグスタフ・マーラー死す。彼の最後の言葉は、”モーツァルト!モーツァルト!”であった。


翌日、ウィーンのグリンツィング、娘のマリアの隣に埋葬されている。



1912年 交響曲第9番の初演


1912年6月26日 マーラーの友人のブルーノ・ワルターが交響曲第9番の初演をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とで指揮した。このコンサートでは、マーラーの9番の他に、ベートーヴェンの9番が含まれていた。







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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.2 [海外音楽鑑賞旅行]

1901年 グスタフ、アルマと出会う。


1901年11月初旬、グスタフ・マーラーは、宮廷画家、エミール・シンドラーの娘、アルマ・シンドラーと運命の出会いをする。彼女の記憶によると、彼女はこのように書いている。”マーラーはすぐに私に想うところがあった。”そして彼女も最初は婚約していた身であったけれども、同じようにすぐにマーラーに想う気持ちが沸き上がった。


その男は、酸素からできているようで、私が彼に触れたら、そのまま燃え上がるような感じであった。数か月にわたって情熱的な文通が交わされる。


あるレターでは、マーラーはアルマにこう書いている。


”親愛なる最愛の人よ。私は、人生の中で、一度でも私があなたを愛するのと同じくらい誰れかに愛されるということが起こるかどうか信じられなくなってきている。そして私の人生という船が、天国に辿り着くために嵐の中を勇敢に立ち向かっている、という言葉をあなたの口から直接聞くまで、私は頑固なまでに待つことができる。


アルマとグスタフは、1902年3月9日にウィーンのカールス教会で結婚式を挙げる。
彼らが出会って4か月経ってのことである。その年の11月3日に、最初の娘が産まれた。



1901 テーマがシンプル過ぎる。


1901年11月25日、マーラーはミュンヘンに居た。そこで彼は、交響曲第4番の初演でミュンヘン・フィルを指揮していた。レビューは好意的なものではなく、その中のひとつに”テーマがシンプル過ぎる”と非難するものがあった。ある批評はポジティブなものでは、”我々を一気に新しい音楽領域へと誘ってくれる高度で意義のある作品”と書いているものもある。聴衆はホール内で、ブラヴォーとブーを吠えるどちらかに分かれたようだ。



1902年 ウィーンでのその後。。。


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1902年1月12日、マーラーは交響曲第4番を、彼のホームのウィーンの聴衆の前で初めて演奏した。リアクションは、ミュンヘンの時と比較して、さらに敵対的なものであった。”なにかカーニバル(謝肉祭)の音楽の類のような。。。”オーケストラ・メンバーでさえも、自分たちの首席指揮者の新しい作品と比べてみても、幾分批判的な意見だった。


ウィーン時代の作曲家としてのマーラーは、世間に認められるにはさらに長い道のりを要す不遇の時代であった。



交響曲第3番の全楽章の初演。


交響曲第3番の全楽章の初演は、1902年6月9日のクレーフェルト(ドイツ西部の都市)で、マーラー自身の指揮でおこなわれた。聴衆は狂乱した。アルマ・マーラーは、このように書いていた。”最終楽章が終わったら、狂気の沙汰の熱狂が起きた。聴衆は椅子からジャンプして立ち上がり、マーラーに向かって走ってかけよった。その聴衆の中には、ウィレム・メンゲルベルク、アムステルダムのコンセルトヘボウ・オーケストラの若き指揮者もいた。メンゲルベルクはその夕方のコンサートを経験したとき、マーラーの音楽をつねに守って、プロモートしていこう、と決意したのである。




1903年 交響曲第6番


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”私の最初の5曲の交響曲を聴いたことのある人でさえも、私の6番の神秘性をあえて見抜ける人というのはほとんどいないかもしれない。”とマーラーは、自身の交響曲第6番”悲劇的”について語っている。第4番までは、マーラーはいつも彼の言葉でリスナーに対して、いわゆる聴き方マニュアルのような説明をおこなってきた。だがしかし第5番以降は、リスナーが感じるままを尊重するようになった。


しかし、第6番については、すべてが謎めいている訳ではない。


第1楽章の第2主題のところで、マーラーは、彼の妻アルマについてを音楽的なポートレートとして表現している。”僕は主題の中で君を捉えようとしてきた。”スケルツォは、若い子供が遊んでいるような詩的表現を兼ね備えている。おそらく1904年、グスタフとアルマの2番目の娘として産まれてくるであろうアンナ・ジャスティンに対しての気持ち。


交響曲第6番の中でもっとも注目すべき観点は、最終楽章で運命の力としての象徴として放たれる3回の大ハンマーであろう。マーラーは、打楽器奏者が奏でる短くて、力強く、まさに大ハンマーが打ち鳴らされるようなバンという音が鳴るように、特別に作った箱を用意した。


交響曲第6番の初演のあと、このハンマーについて手短に言えば、アーティスト テオ・ザッヘは、マーラーやリヒャルト・シュトラウスのような現代作曲家が、伝統的なオーケストラにハンマーやカウベル、そしてスレイベル(打楽器のひとつ)や他のサウンドを取り込み、そのサウンド、音楽性を拡張させることをあざけ笑っていた。


下の彼の風刺的なイラスト”近代のオーケストラ”と題して、そのことをデフォルメして描いている。


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オランダでのマーラー


1903年10月22,23日、マーラーは、コンセルトヘボウ・オーケストラで交響曲第3番を指揮した。これがマーラーにとって初めてのオランダであった。2日後の10月25日、マーラーは、オランダでコンセルトヘボウ・オーケストラと交響曲第1番の初演をおこなった。


あなたは、このマーラーとアムステルダム、彼の第2の音楽の故郷との関係について、ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”の記事で深く読むことができる。



1904年 呪われた作品


1904年10月18日、マーラーは、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団と交響曲第5番の初演をケルンでおこなった。この交響曲は、マーラーのアルマへの愛の宣誓である有名なアダージェットを有している。アルマは、残念ながらその初演に参加することはできなかった。そのときずっと病気で病床にあったのだ。


マーラーは動揺し、アルマに対してこのように手紙で書いた。


”汗をかいて、コニャックで口をすすいで、アスピリン錠をむさぼり食べる。それを全部やること。そうすれば、2日以内には治って、火曜日にはここにいることができるはず。すべてを試して。結局、自分は初演の時に1人でいるのが怖いんだろうと思う。”


それでも結局、マーラーは初演のときは1人であった。そして批評の嵐にも同様に1人で浴びることになってしまった。


ふたたび、レビューは決して好意的なものではなかった。


批評ではこう書かれた。”憂鬱な葬式のような行進曲に引き続いて、さらに憂鬱な楽章・・・これは重大なミスである。アダージェットだけがもっとも評価された。”数あるアダージョの中でももっともクリアでベストな作品”交響曲第5番は、マーラーの作品の中で、最高傑作でもっとも愛された作品となった。


マーラーはこの作品を書いていたとき、”第5番は、呪われた作品で、誰からも理解されないだろう。”と思っていたので、まさか後世にこのような評価を受けるとは思いもしなかった。



1904年 コンセルトヘボウに戻る。


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1904年10月23日、コンセルトヘボウで、グスタフ・マーラーは交響曲第4番を同じコンサートで2回演奏した。ウイレム・メンゲルベルクのアイデアだった。数日後、10月26,27日、コンセルトヘボウ・オーケストラを指揮して、交響曲第2番をオランダで初めて披露した。


あなたは、このマーラーとアムステルダム、彼の第2の音楽の故郷との関係について、ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”の記事で深く読むことができる。



1905年 交響曲第7番


マーラーは、1905年の夏に交響曲第7番を完成させた。マーラーは、その作品を創作性の爆発という過程、熱狂した状態で書き上げたのだった。この爆発は、時間を要したし、この第7番のためのインスピレーションは、自発的に得られるものではなかった。


普通、マーラーは交響曲や歌曲を作曲するとき、周りを自然に囲まれた彼の作曲小屋で作曲することで十分なインスピレーションを得ることができたのだが、この第7番だけは、どこか他の場所を探さなければいけなかった。


2週間経過してもその場所は見つからなかった。そして絶望の淵に、ドロミーティ(イタリア北東部にある山地で、東アルプス山脈の一部)へと逃れることになった。でもそこでもなにも変わらなかった。だから私はついにあきらめて家に帰ることになり、その夏は完全に失われたものになると思われた。しかし、その救済は、マイヤーニッヒからクルンペンドルフの間にあるヴェルター湖(オーストリア南部、ケルンテン州にある湖)を小さなボートで渡っているときにやってきた。


最初はボートの整調のオールをこぐときに、第1楽章への導入部のテーマが私にやってきて、そして4週間後には、第1楽章、第3楽章、第5楽章が同じように私の中にやってきた。


交響曲第7番は、”夜曲”として知られていて、これはマーラーがつけた副題ではなく、彼に近い人たち数人の中によるネーミングだった。その中に、ウイリエム・メンゲルベルクがいて、彼が第7番を、”これは夜だ。星がいっさい出ていない、月光もまったくない、平穏な眠りもない、まさに暗闇の力による統治。”と解釈し、副題をつけたのだった。



1906年 いままでの中で最も偉大な作品。


1906年の夏の終わり、マーラーは交響曲第8番”千人の交響曲”を完成させた。3つの純粋なパート、オーケストラ・シンフォニー、独唱ソリスト、そして合唱が、すざましい勢いでマーラの作品に戻ってきた。その初演は1910年に行われ、ステージの上に1000人のパフォーマーが集まることになった。


1906年の夏に、マーラーは、ウイレム・メンゲルベルクに手紙を書いた。


”親愛なる友人よ。私はたったいま第8番を完成させた。この作品は私が作曲してきた作品の中でもっとも偉大な作品となった。それは誰しもが書くことができない曲の内容と形式という両方の観点から、非常に驚くべき作品である。歌い始める、音が鳴り始める空間を想像してごらん。これらは人間の声ではない。しかし惑星と太陽は確実に回っているのだ。”






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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.1 [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーの生涯の年表を学んでいく。


マーラー・ユニヴァース 1860~2020
彼の生涯、作品、そして伝説。


まさにこの世に生を受け、亡くなるまで音楽家としてどのような波乱の人生を歩んでいったのか、年表という形で時代順に学んでいく。


普段、我々はなにげなくマーラーの音楽に接しているわけだが、意外やマーラーの人生について詳しく知らないでいたりする。音楽家の方は勉強されてきているわけだが、我々一般聴衆にとってはとても貴重な体験。こういう機会でないとなかなか体験できないことだ。


マーラーフェスティバル2020の公式HPでは、


”マーラー・ユニヴァース 1860~2020 彼の生涯、作品、そして伝説”


という形で連載されている。


これも今日から4回に渡って、その翻訳を連載する。



マーラー・ユニヴァース 1860~2020
彼の生涯、作品、そして伝説


Mahler's Universe
1860 - 2020
HIS LIFE,WORKS,AND LEGACY




1860年 グスタフ・マーラー誕生。


1860年7月7日、グスタフ・マーラーは、当時のオーストリア帝国、いまのチェコ共和国のボヘミアのカリステ村に産まれた。マーラーは後にこう言っていた。”私はこんなみすぼらしい小さな家に生れた。その家の窓にはガラスさえなかったのだ”


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グスタフ・マーラーは、父、バーンハード・マーラーと母、マリア・ハーマンの間に生まれた14人の子供のうちの次男坊であった。彼の兄弟の7人は、最初の年に死んでしまう。1860年12月、マーラー一家は、カリステ村から地方都市のイフラヴァ(チェコ・ヴィソチナ州の都市)に引っ越した。



1865 マーラーの天職


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この写真はイフラヴァに住んでいた5歳のときのマーラーである。この写真ではマーラーはすでに楽譜を抱えている。祖父母の家を訪れていたとき、マーラーは屋根裏部屋に古い調律のされていないピアノを発見した。このピアノがマーラーの第2の人生を切り開くことになる。父、バーンハード・マーラーは、その屋根裏部屋で、椅子に座り、夢中になってピアノを弾いているグスタフを見て、この息子は、将来音楽家になるに違いないと確信したのである。



1870年 マーラー、音楽界にデビュー。


イフラヴァ時代の1870年10月、若きグスタフは、人生で初めて聴衆の前でピアノを演奏する。コンサートは父によって開催され、彼は息子の弾くモーツァルトは最高である、と頑なまでに信じ込んでいた。しかしグスタフは、そのようなよい印象は抱けなかった。なぜなら、それは、おそらくだが、地方紙が報道していたところによると、そのグランドピアノは、最高に望ましい調律コンディションとは程遠い状態だったようなのだ。


父、バーンハード・マーラーは息子グスタフの音楽家としての才能を広げてやろうと決意した。グスタフは、12歳のときに、最初は、プラハにしばらく滞在した後、イフラヴァに別れを告げ、1875年にはオーストリア帝国のもっとも名門の音楽教育機関であるウィーン楽友協会のコンセルヴァトワール(音楽院)に入学するに至ったのである。



1878年、マーラー、コンセルヴァトワール(音楽院)を卒業。


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グスタフ・マーラーは、18歳のとき、ウィーンのコンセルヴァトワール(音楽院)を好成績で卒業した。在学中の最初の年の終わりには、マーラーは、シューベルトのピアノ・ソナタのマーラー編曲版、そしてマーラー独自の作品であるピアノ四重奏曲において、賞を授与したこともある。


グスタフはウィーンで音楽を勉強する一方で、遠く離れての故郷、イフラヴァでの普通の教育を受けることは終わりにした。なぜなら、その度に追試験を受けないといけなく、そのことが非常に面倒な気持ちにさせたからである。結局、グスタフは普通の学校に在学中には、”なにも学ばなかった”というのが明白な事実なのである。



1880年、カペルマイスター、マーラー


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1880年、マーラー19歳のとき、オーストリアの地方都市、バートハルにて、地方の小さな劇場の指揮者(いわゆるなんでも屋さん)として最初の契約をした。バートハルとライバッハの契約の後は、マーラーは結局、オロモウツ(チェコの都市)に辿り着く。


そこで、”天才だけれど、癖だらけ。”という評判が、常にマーラーをまとわりつくことになる。その頃同時に、マーラーは中程度のベジタリアン(菜食主義者)になりつつ、しかもアルコールは嗜まなかった。ビールもワインも・・・。


オロモウツの市民は、このマーラーの徹底した変人ぶりに気づかざるを得なかった。マーラーはなんとかこのオロモウツの市民と仲良くやっていこうという気は毛頭になかったし、彼自身、「オロモウツ劇場の中を歩いたその瞬間から、自分は、そこに神の怒りのようなものが待っているような気がしてならなかった」と言っているくらいであった。


マーラーは、オロモウツを離れ、カッセル(ドイツのヘッセン州の都市)の王立劇場の第2カペルマイスターに就任する。(カペルマイスター~楽長。欧州での楽長は、もともとは指揮者としてだけではなく、その楽団、古くは宮廷や市の作曲家や編曲者であり、さらに組織上の任務も担った。複数の指揮者を抱える歌劇場においては、カペルマイスター(Kapellmeister)は今日もなお職業名として使われる。一般的に音楽総監督に次ぐ指揮者として第一カペルマイスターと呼ぶ。)


結局、わずか数本のオペラを指揮することだけを許されたのみで、その契約は失望せざるを得なかった。その中で唯一失望しなかった仕事は、カッセル劇場でのコロラトゥーラ・ソプラノのヨハンナ・リヒターと仕事ができたことだった。マーラーと彼女との関係は、後のマーラーの最初の歌曲、”さすらう若者の歌(徒歩の旅行者の歌)”へのインスピレーションに繋がるのである。



1885年 マーラー交響曲第1番の作曲を開始する。


マーラーは、3曲かおそらくは4曲の交響曲を作曲した後に、後の交響曲第1番の作曲をスタートさせる。



1888年 マーラー、Todtenfeier(葬礼)の作曲。


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マーラーは交響詩、Todtenfeier(葬礼)(後の交響曲第2番”復活”の一部となる。)を作曲する。1892年にマーラーは、Todtenfeier(葬礼)を有名な指揮者、ハンス・フォン・ビューローの前でピアノで演奏する。


そのときのビューローのコメント、”あなたの作品は、ワーグナーのオペラのトリスタンが、ハイドンのシンフォニーになったようだ。”ビューローからこのコメントを聞いた直後、マーラーは交響曲を作曲し続けることの難しさを感じた。


1894年になって初めて、マーラーは葬儀の指揮者として、非常に尊敬されるようになった。そのとき、いかに交響曲第2番の角を落として丸みをつけた雰囲気にするかを掴むことができたのだ。マーラーの言葉、”ビューローは死んだ。そのとき私は葬儀に出席した。そのとき私の作曲に正確にフィットしたムードが私の中にふつふつと沸いてきた。そして合唱の冒頭、Auferstehnが歌われたとき、それは私に一筋の光を照射した感じになった。その直後に、すべてが私の心の中でクリアになったのだ。”



1889年 惨めな作曲家


1889年11月20日、マーラーによる新しい交響詩が、ブタペストで初演された。この交響詩は、後の交響曲第1番の前身となる曲であった。マーラーは自身でオーケストラを指揮した。マーラーは、作曲家としては、暫し通常の路線からはかけ離れた存在であった。


1人のレビューアーが書いている。”この交響詩は抑制されていない、不屈の才能によって、すべての従来の形式を壊し、どんな犠牲を払ってでも、なにか新しいものを創造しようと試みている。”しかし、そのレビューは、後味が悪いように、このように締めている。”マーラー、あなたはとても魅力的な作曲家だ。でも同時に、惨めな作曲家でもある。”



1892年 ライヘンハルのマーラー


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グスタフ・マーラーと妹のジャスティーヌ(写真でマーラーのすぐ右隣)と、友人達とでライヘンハル(ドイツの岩塩、アルペンザルツ)を訪れる。




1893年 夏の日の作曲小屋



マーラーは交響曲第3番の作曲を、ドイツのシュタインバッハーのアッター湖の湖畔にある彼の作曲小屋(komponierhäuschen)で夏のほとんどをそこで過ごし、そこで作曲をした。


シュタインバッハー街にあるアッター湖畔にあるマーラーの作曲小屋(komponierhäuschen)

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(c)旅する音楽師・山本直幸の百聴百観ノート:第35回 マーラーの交響曲が作曲された場所


作曲小屋の内部(観光名所として内装されている。)

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(c)クラシックカフェ クラシックを気ままに聞くティータイム 2013/9/3 マーラー作曲小屋



いわゆるマーラーの作曲小屋としては全部で3つ存在するが、これらの作曲小屋は現在も修復され、現存し、マーラー詣でとしての観光名所になっている。



マーラーは、そのときの最愛の人であったメイデンベルクの歌手のアンナに、この第3交響曲について手紙を書いた。”最愛なるアンナよ。ほとんど完成したよ。この曲は本当に驚異的だよ!私の交響曲にはいままで聴いたことのないようななにかがある。なにもかもが声を与えられ、夢の中に出てくる神秘的ななにかを語るんだ。すべてのものに表題がつけられるんだ。喜ばしい自然科学、そして夏の日の夢。(喜ばしい自然科学は、フリードリヒ・ニーチェの作品がリファレンスになっている。)



マーラーは、穏やかな夏の日に、作曲のためのアイデアを捻りだすために特別に建てた”作曲小屋”を持っていた。彼はそのコテージの中では明らかに静謐な空間に接していることができるし、そして子供たちをお菓子やおもちゃで釣って、その小屋に近づかせないようにした。また望ましくない侵入者を避けるために、かかしの類のようなものを立てたりした。


マーラーがそのコテージの中や周囲にいるときに湧き上がる印象は、そのままダイレクトに彼の音楽に反映された。指揮者のブルーノ・ワルターがシュタインバッハーのマーラーを訪れたとき、彼はワルターにこう言った。”あなたは、もはやこの周囲を見て回る必要はありません。私がそのすべてを自分の音楽の中に入れ込みましたから。”



1894年 交響曲第2番の最初の3楽章の初演


交響曲第2番の最初の3楽章は、ベルリンで初演されている。この交響曲第2番の最終版の5楽章は、完全な1年遅れではじめて初演されることになった。



1898年 マーラー・イン・ウイーン


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1897年10月、グスタフ・マーラーは、ウィーン国立オペラ座の芸術監督就任への要請を受ける。そしてその究極に名門の地位に10年間就くことになる。数年間は、オーケストラ・コンサートと同様に、オペラを指揮した。最も理想的な形態は、マーラー自身の作品を指揮することであった。


マーラーがウィーンに住んでいた10年間は、まさに激動の年であった。


1902年1月、フィルハーモニック・オーケストラの指揮者として契約書にサインをした。その1年前に、ある新聞紙がこのように書いていた。”フィルハーモニックの輪の中では、ますます多くのアンチ・マーラー感情が沸き起こっていった。指揮者マーラーのあまりに神経質すぎる気質、準備のためのリハーサルでのあまりにささいなことに拘るその気質、そしてとりわけ、自分の親友のささやきに耳を傾ける傾向があること、これらのことには、もはやマーラーに同情の余地はなかった。


そしてついにこの名門の地位において新しい候補者を見つけるというマーラーにとって絶望的な努力がなされたのである。



1899年 交響曲第4番の始まり


1899年の夏、マーラーは、交響曲第4番、後に彼はその曲を青空のシンフォニーと記述していたが、その第4番を作曲するべく日夜励んでいた。


1900年の夏にその作品は完成した。


マーラーは自身、第4番に対してこのように言っている。


”私は最初、奇想曲(ユーモレスク、ロマン派音楽の楽種のひとつ。自由な形式の性格的小品の一種)を作るつもりでいたのだが、第2楽章、第3楽章と書き進めるにつれて、当初の予定の3倍の長さの交響曲になってしまった。基本のムードは青、空のような青、でもたまに暗くなり、不吉で、ぼんやりとした色調。空は永遠に青いので、暗く見えるときというのはほんの一瞬のことである。我々が突然パニックな感情に取りつかれるような場合のみのことである。”



1901年 わかりやすい4楽章のシンフォニー


交響曲第4番は、まだ初演が済んでいなかったけれど、マーラーは交響曲第5番の作曲に取り掛かり始めた。マーラーはマイアーニッヒの彼の家(作曲小屋)でヴェルター湖の絶景を眺めながら、この交響曲第5番の作品を書いた。もともとマーラーには、わかりやすい4楽章からなるシンフォニー(交響曲)を書きたいという計画があった。おそらく、1901年11月に運命の出会いを迎える最愛のアルマのためのアダージェットが、その第5番に加わるとは、そのときは、思っていなかったであろう。


指揮者ウイリエム・メンゲルベルクは、この楽章(おそらくはマーラーの曲の中で最も有名な音楽)について、後にこのように書いている。


このアダージェットは、マーラーのアルマに対する愛の宣誓である。


マーラーは、手紙の代わりに、この楽譜原稿をいっさいのほかの言葉を添えず、アルマに贈ったのだ。彼女は彼を理解し、このように返事の手紙を書いた。


”ぜひいらっしゃい!”


マーラーとアルマの両人が、私(メンゲルベルク)にそう言ったのだ。






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マーラー・イン・アムステルダム (後編) [海外音楽鑑賞旅行]

●スコアの改訂補筆


1903~1904年のシーズン、マーラー指揮による第3交響曲と第1交響曲の組み合わせを経験したことで、メンゲルベルクはアムステルダムとデン・ハーグ(オランダの第3の都市)にて、第1交響曲に対して、さらに4つの演奏パフォーマンスの追加を提示した。


さらに彼は第3交響曲についても非常に細かいディテールまで踏み込んでいって、補筆を提案していき、近い将来マーラーの作品を改訂することを考えていた。作曲家のマーラーに対する手紙の中でメンゲルベルクは、スコアの中にいくつかのミスプリントがあることと、いくつかのパッセージの中で滑らかでない飛躍的な箇所を指摘した。メンゲルベルクは、マーラーがアムステルダムで指揮をしたその後の作品についても同様の改訂の意向の指摘をおこなった。


マーラーはそのような批評にはほとんど気にもとめていなかった。本当に、まったく気にしていなかった。それは、自分の帽子に不快なものがついたとき、それを拭き取ったような感覚のようなものだった。それは決して傲慢なことではなかった。つねに自己疑心に見舞われたことは確かだが、それはとにかく自分のバランスを崩すほどのことではなかった。


しかしメンゲルベルクの指摘事項は、マーラーの作品に対する感謝と感嘆から起因するようなものではなく、真にマーラーの作品を完璧にしようという想いから来るものであったので、その内容は、かなりシリアスなものであることが度々だった。


メンゲルベルクはマーラーの作曲法を理解していたので、いくつかのマイナーな調整を施すことで解決できる軽度な省略、不完全な部分などの問題を指摘することができたのだ。その上、彼のスコアに変更を加えた後の作品を聴くと実際がっかりすることもある。したがってマーラーはすべてのリハーサルのたびに変更点を改善して加えていき、それを直接メンゲルベルクに対して問いかけてみる。それらは偶然な変更ではなく何回も改訂を重ねられて作られた変更なのだ。


マーラーは楽譜に数百の文字の書き込みや音符の書き込みをして、そして指揮をした。第4交響曲である。それらは千以上の書き込みとなった!メンゲルベルクはそれらの新しい改譜の提案に対してすべてについてそのレスポンスを返した。


このようなやりとりによってメンゲルベルクは、さらにマーラーと親しくなっていったように思えた。メンゲルベルクはマーラーに対して信頼の置けるサウンドボードのような役割になっていたのである。



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グスタフ・マーラーとウィレム・メンゲルベルクによる改訂補筆による第4交響曲のスコア (c)Nederlands Muziek Instituut



●第4交響曲を繰り返して演奏する。


1904年に、再びアムステルダムに戻って、第2交響曲だけなく、彼の新しい作品である第4交響曲を指揮することになったとき、マーラーは、ふたたびメンゲルベルクの家にお世話になるのは恐縮する、というようなことを、アルマに対して手紙で書いていた。


しかし彼のそのトーンを変わっていた。


「メンゲルベルクは中央駅で、私を熱心に待っていてくれ、私が彼らといっしょに行くことに同意するまで、私を決して休ませてくれないのだ。そして去年と同様私は再びここにいる。彼らは本当にこのような無心な人たちなのだ。」


マーラーはアムステルダムに到着したその夕方には、すでにオーケストラとリハーサルに入っていった。「君もお分かりのように、彼らはどのような演奏パフォーマンスであったか?メンゲルベルクは間違いなく天才だ。私の作品を2回演奏したのだ。インターミッションの後、再び演奏が始まったのだ。それは本当に聴衆をぐっとニューヨークに対して親しみを持たせるような素晴らしい方法だった。


今日に至るまで、このようなメンゲルベルクのユニークな離れ業は、マーラー伝説の中で、いかに他の都市と比べてアムステルダムでマーラーがイノベーターであったかを語っているものと言える。


この数十年、パリやサンクト・ペテルブルクは、マーラーと関係を持ちたいとは思っていなかったようだ。同様に年老いたリムスキー・コルサコフや若かった頃のストラヴィンスキーも人気がなかった。ヘルシンキではシベリウスが少し人気が出始めていたようだったが。


アムステルダムでの第4交響曲の初演のあと、マーラーはオーケストラの団員、声楽家の方々に歓喜の気持ちでいっぱいであった。歌手のオランダ人 Alida Oldenboom-Lutkemannは、ソロをシンプルに、そして聴衆を鼓舞するような感情を持って歌い上げ、そしてオーケストラは彼女の太陽光のような輝かしい声とともに、その演奏をおこなった。それはまさに周りいっぺんが黄金の光景に輝いていたと言ってもよかった。


1904年にマーラーは、第4交響曲を2回演奏した。そして第2交響曲を1回演奏した。メンゲルベルクは、この2つの曲を準備していて、そしてマーラーがハールレムのフランス・ハルス美術館を早く訪れることができるように準備万端でオーケストラを準備させていた。


「素晴らしいリハーサルだった。」


マーラーはそう言ってみんなをねぎらったが、オーケストラの団員は驚いている様子だった。



●モダン


マーラーは1906年3月にアムステルダムに戻ってきて、第5交響曲を指揮した。今回もメンゲルベルク邸にお世話になることにした。なぜならリハーサルは、恐ろしいことに朝の9時からスタートしたのでそのほうがよかった。それでもVan Eeghenstraatのメンゲルベルク邸からコンセルトヘボウはほとんど距離は離れていないのが救いだった。


今回のパフォーマンスでは、マーラーは朝に3回のリハーサル、そして昼にさらに3回のリハーサルをすることを主張した。


なぜならマーラー自身の言葉で言うならば、「5番は難しい。本当に難しい!」からだ。


マーラーは、メンゲルベルクに今回の第5交響曲の場合、いつもよりもさらにいくぶん良い状態にしておくことを促した。1905年10月からスタートして、その念入りなリハーサルのために、指揮者は質問を受けたり教育指導することで、かなり悩まざるを得なかった。


メンゲルベルクは、深くスコアを読み込み始めた。そうするとその原稿をウィーンに送り返さざるを得なかったのだ。なぜならマーラーはいくつかの大きな変更を挿入することを決めたからだ。


1906年5月8日のパフォーマンスの後、マーラーは、実際のところ、メンゲルベルクが自分の作品を委ねることができる唯一の人物である、と自信を持って結論づけた。彼はアルマに手紙を書いた。「すべてが素晴らしくリハーサルできた。驚くべきサウンド。オーケストラもファンタスティック。そして団員たちは私に感謝している。それはひどく骨の折れる作業でもなかったし、逆を言えば楽しくてしかたがなかった。」だが、コンサートは幾分音程が外れた感じで終わってしまったことを言いそびれてしまった。


その70分の長い第5交響曲のあとに、一部の聴衆のために、マーラーの連作歌曲、亡き子をしのぶ歌が演奏された。


それはあまりに素晴らしすぎた。コンサートが終わる前に立ち上がって会場を後にする観客も中にはいた。マーラーは、あくまで些細なこととしてほとんど気にも留めていなかった。マーラーのことを崇拝する人もいれば、批評する人もいたし、残りの大半の人たちは、なにを考えるべきかをわからない人たちだった。


「その最高の瞬間のつぎにくる恐ろしいこと。」とディーペンブロック夫人は自分の日記に書いていた。


オランダの作曲家である彼女の夫、 アルフォンス・ディーペンブロックは、マーラーの音楽とマーラー自身にかなり強烈な印象を抱いていた。「マーラーは実直な人で、気取ったところがない。あなたたちが観たものは、あなたたちが得たものだ。人がよくて、ナイーブで、それでいてときどき子供っぽいところもあり、そのメガネの奥から幽霊のようにじっと見つめている。彼はすべてにおいてモダンなのだ。彼は未来を信じている。」


ここら辺のポイントはメンゲルベルクもまたマーラーの中に見出している賞賛しているところでもあるのだ。


しかしながら、1909年、マーラーの音楽がいかにその後の後期ロマン派に属する大音楽になるとはそのとき誰も予想できなかったのである。



●ホテル・メンゲルベルク、そうでなければアメリカ?


マーラーとメンゲルベルク、すなわちアムステルダムとの結びつきは、マーラーがデン・ハーグ(オランダ第3の都市)のレジデンス・オーケストラから第6交響曲を指揮して欲しいという依頼を断ったときから、さらに強固なものになっていった。「なぜなら彼らは、あなたの競争相手だから。」とマーラーは手紙に書いている。


しばらくして、マーラーは、ニューヨークに自分の残りの人生の運をかけ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任することを決意した。彼は、メンゲルベルクにニューヨークへいっしょに行くことように誘惑する必要もなかった。メンゲルベルクは海を渡っても、マーラーの信頼のおけるサウンドボードでありたいと思っていたからだ。「君が僕の傍にいてくれるということを知って嬉しい限りだよ。」


しかしメンゲルベルクはもしその餌に食いついていれば、マーラーを追って行って数十年、アメリカで数多くの指揮をする機会を得ることができたであろう。でも彼はコンセルトヘボウ・オーケストラを見捨てることはできなかった。アメリカに行かなくてはならなくなったマーラーにとってアムステルダムを訪れることは、段々障壁が出てきて難しくなっていった。1909年10月になって初めて、マーラーはコンセルトヘボウ・オーケストラと第7交響曲の演奏を成し遂げた。その間、彼はVan Eeghenstraatのホテル・メンゲルベルクに滞在して羽目を外して楽しんで過ごした。そしてゲストブックに、「お金のない演奏家にはこのような家は最適な場所!」と書き込んだ。


マーラーはメンゲルベルクのことを批評的な自分への崇拝者や献身的な使徒として見ていただけではなく、若き日の自分の姿を彼に重ねて見ているところがあった。


「マーラーのイノベーションは、他の都市よりもずっと早くにアムステルダムで起こったのだ。」


メンゲルベルクはマーラーの傘下で働いて続けているのもよかったが、彼は基本は作曲家である。だからメンゲルベルク版レンブラントのインブロビゼーション(即興)を創り出すことに好奇心があったし、そのスコアを書くことを望んでいた。


マーラーの影響はあきらかに明白であった。メンゲルベルクはすぐにこの偉大な人物の影響から容易に逃れることはできないと悟った。そこでメンゲルベルクは、代わりに、アムステルダムでの彼のポストの他に、フランクフルトでの首席指揮者を受け入れ、そこで指揮に集中したのである。


そこで彼のフレッシュで、ダイレクトなアプローチにより、メンゲルベルクはすぐに指揮者としてマーラーを超越し始めていったのだ。少なくともそこにはマーラーの物の捉え方があった。マーラーが、メンゲルベルクがローマで、リヒャルト・シュトラウスの英雄の生涯を指揮しているのを聴いたとき、その後彼にこう言ったのだ。「君は僕を英雄の妻に変えたよ。」シュトラウスは、いつもマーラーの感じ方には敏感であった。



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グスタフ・マーラー。1909年コンセルトヘボウにて。前列で座っている。彼の後列で左から順にコールネリス・ドッパー、ヘンドリック・フライジャー(コンセルトヘボウの管理者)、ウィレム・メンゲルベルクとアルフォンス・ディーペンブロック 。(c) W.A. van Leer / Nederlands Muziek Instituut



●アルマからのギフト


アムステルダムに戻って、メンゲルベルクは、第7交響曲に再び注目を集めるべく革新的なアイデアを思いついた。彼は、マーラーのオーケストラとのリハーサルにプレスを招待したのだ。その結果、そのパフォーマンスに対しての素晴らしいレビューやもっと立ち入ったポイントでの見解など賞賛に溢れていた。メンゲルベルクのその努力がいかに聡明であったかは、マーラーが第7交響曲を指揮したときから数日後に、そして自身がデン・ハーグで同じようにコンセルトヘボウ・オーケストラを指揮したときにもだが、あきらかになっていった。


それからまたプレスはリハーサルには招待されなくなってしまった。レビューも公正な範囲から中くらいの規模に変更になった。


マーラーにとって、アムステルダムというのは、ホテル・メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラのメンバーたちの行き来の結びつきを強化するようなものであった。そのメンバーの何人かは、味方に引き入れるのは容易であったが、でも最終的には全員がマーラーの熱狂者となった。


彼らが第7交響曲を演奏したとき、マーラーの指揮者や作曲家としての立場は難しいものになった。


手書きされた第7交響曲のスコア原稿は、まだコンセルトヘボウのメンバーの全員の賛同一致の意見をもらっていなかったからだ。


それはアルマ・マーラーからのギフトであった。


その原稿は、メンゲルベルクが自ら執拗にそのスコアのコピーに書き込みをしていたのだが、アムステルダムでの将来のマーラー作品の演奏の練習をする上で、オーケストラが音を創り出していくのにとても役に立つ資料となっていった。


ベルナルド・ハイティンク、リッカルド・シャイー、そしてマリス・ヤンソンスなどその後のコンセルトヘボウ・オーケストラの首席指揮者たちは、みんな、このスコア原稿を使っていくことになるのだ。



●最後のリスペクト


マーラーは1911年5月18日に突然亡くなってしまう。享年51歳であった。


そのときメンゲルベルクは、イタリアのトリノで指揮をしていて、ウィーンでの葬儀に出席できなかった。アルフォンス・ディーペンブロック (オランダの作曲家)は、駆けつけることが出来た。


メンゲルベルクは自分の余生において、マーラーのことを後世に語り伝えて行こうと考えた。


「マーラーがよく知っているように・・・」「マーラーはこう考える・・・」「マーラーはここで、明白なカエスーラ(中間休止)を設ける・・・」


オーケストラ・リハーサルの間、メンゲルベルクはもうすでに故人であるマーラーの偶像とつねに隣り合わせでいまもそこにいっしょにいるような感覚に陥った。


メンゲルベルクはついに1920年5月にマーラーへの最後のリスペクトとして、アムステルダムでマーラー・フェスティバルを開催することにした。


メンゲルベルクにとってもその年は、コンセルトヘボウ・オーケストラの指揮者として25周年のアニバーサリーイヤーとなり、9曲の交響曲、そして歌曲として、嘆きの歌、さすらう若者の歌、亡き子をしのぶ歌、大地の歌、リュッケルト歌曲集を、15日間ですべて演奏したのだ。


アルマ・マーラーやアルノルト・シェーンベルク、そしてメンゲルベルクのお弟子さん達も参加した。アルマは貴婦人客として、ミュージアム スクエアホテル アムステルダムに宿泊した。


アルマは後にこう書いている。「アムステルダムに到着。・・・港・・・船のマスト(帆柱)・・・艤装・・・混んでいる・・・肌寒い・・・曇った。。。言い換えればオランダ。」


夕方には、比較にならないほど飛びぬけて美しいパフォーマンスで、マーラーの第2交響曲が演奏された。それはとてもユニークなフェスティバルであった。いくぶんささやかではあるけれど、唯一無二の大望であった。


バイロイトが、ワーグナーの全作品を演奏するための代表的でベンチマーク的な存在であると同様に、アムステルダムがマーラー芸術のスピリチュアルな中心地として選ばれたのだ。


フェスティバルの組織委員のリュドルフ・メンゲルベルク博士(メンゲルベルクの遠戚のいとこにあたる)からの言葉。


アムステルダムは、マーラーに纏わる1番の大都市になる運命になる。


そしてそのことは、メンゲルベルクやコンセルトヘボウ・オーケストラの理事が占領下のドイツ軍の命令に服従せざる得なく、マーラーの作品の演奏を禁止させられた痛ましい1941年の時代を除いて、すでに特定の決まったことなのだ。アムステルダムの街はマーラーのものであるし、マーラーはアムステルダムのものなのだ。



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1920年のマーラーフェスティバルのときのメインホールに飾られたブロンズの額。左側がウィレム・メンゲルベルク、右側がグスタフ・マーラー。(c)Hans Roggen



ジャン・ブロッケンは小説家、旅ライター、そしてノン・フィクション文学作家。


the novel De provincie (The Province) でデビューし、オランダ・アンティル諸島の音楽:Why Eleven Antilleans Knelt before Chopin’s Heart and In the House of the Poet、ロシア人ピアニスト、ユーリ・エゴロフとの友情についてずっと書いてきた。


ジャン・ブロッケンの本は、14か国後に翻訳され全世界で売られており、特にドイツとイタリアで著名である。Baltic Souls, The Cossack Garden や The Justのような最近のタイトルが示すように、彼は強力なストーリー語りとして世間で証明されてきている。


参考文献:感謝します。

Eveline Nikkels, Mahler en Mengelberg, een vriendschap onder collega’s (Mahler and Mengelberg, a friendship between colleagues, Amersfoort, 2014)


Frits Zwart, Willem Mengelberg, een biografie, part 1, 1871-1920 (Willem Mengelberg, a biography, Amsterdam, 2016)


Stephane Friederich, Mahler (Arles, 2004)


Eduard Reeser, Gustav Mahler und Holland, Briefe (Gustav Mahler and Holland, Letters, Wien, 1980)


Johan Giskes (editor), Mahler in Amsterdam, van Mengelberg tot Chailly (Mahler in Amsterdam, from Mengelberg to Chailly, Bussum, 1995)


Alma Mahler, Mijn Leven (My life, Amsterdam, 1989).






 



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マーラー・イン・アムステルダム(前編) [海外音楽鑑賞旅行]

オランダの小説家、旅ライター、そしてノン・フィクション文学作家でもあるジャン・ブロッケン氏による寄稿。


「アムステルダムがマーラー演奏のメッカ」と言われる所以、そこに到るまでのマーラーとアムステルダムとの関係を、マーラーが遺した手紙、自筆譜(補筆含む)、写真などから紐づけて感動的なドキュメンタリーとして描き上げる。


当該内容につき、おそらくこれだけ詳細に記述されている文献は、他にはないだろう。


自分も翻訳しながら、いままで自分が知らなかった未知の世界を垣間見る感じで興奮を抑えることができなかった。理解を促進するには、フェスティバルの中心テーマの「マーラー・ユニヴァース」として、いわゆるマーラーの人生の年表の寄稿”マーラー・ユニヴァース 1860~2020”を先に紹介するのが順当な順番なのかもしれないが、自分はまず先に、このジャン・ブロッケン氏の寄稿を冒頭に紹介したかった。


そのほうが最初に与えるインパクトが全然違うと感じたからだ。


このフェスティバルが行われるようになった歴史的背景に単刀直入に切り込む。


今日から前編、後編と2回に分けて紹介していこう。




マーラー・イン・アムステルダム  MAHLER IN AMSTERDAM



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1909年10月、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によって、「マーラー交響曲第7番」がマーラー自身の指揮によってオランダで、その初演がおこなわれた。そのときマーラーはひどい風邪をひいていた。


アムステルダム中央駅で電車を待ちながら、ハンカチを使い果たしてしまい、隣にいたアルフォンス・ディーペンブロック(オランダの作曲者、文学者)にハンカチを2枚ほどたからなければいけないほどであった。


急行エクスプレスがウィーンを出発する少し前に、マーラーは、同僚の作曲家に、このようなことを言っていた。アムステルダムは、いつも雨が降っていて喧騒の多い街で、それがまた自分にとって肉体的にかなりしんどいのだけれど、でもこの街は自分にとっては第2の音楽の故郷になりつつある。(オランダ・アムステルダムは、一年中雨が降ることで有名なのです。)


マーラーのアムステルダムへの溺愛は、アムステルダムの街そのものとはほとんど無関係なのだ。彼は別にカナル運河やアムステル運河沿いを午後の散歩をして過ごしたわけでもないし、運河のさざなみの水面の上に映る切り妻壁の建物(あのアムス独特の3角形状の外壁の建物)のシルエットに心を奪われたわけでもない。


このようなアムステルダムの神秘的な網版画のような世界の映像美は、マーラーにとってその不思議なサウンドを作るインスピレーションにはまったく役に立たなかったと言ってもいい。実際、港や埠頭での押し合いやざわめきは彼にとっては重すぎた。


彼はどちらかというと、サントフォールトの砂丘やナールデン近くの荒野のような、もっと出来る限りフリーな空間を好んだのだ。


マーラーにとってアムステルダム訪問の中で最も印象的だったのは、アムステルダム国立美術館への訪問、とりわけレンブラント(オランダの17世紀の画家レンブラント・ファン・レイン)の肖像画に触れたときだった。そのレンブラントの代表作である「夜警」の前でしばらく長い間、立ち止まり、そしてそのときにその絵画から受けた印象が、後の第7交響曲の2つのナハトムジークの動機に深く影響を与えることになるのだ。


第1のナハトムジークの行進曲のテンポは、そのレンブラント絵画の中の民兵がその場から立ち退くのにぴったり合っている感じもするが、ただしその音楽の雰囲気は、間違いなくウィーンの趣を残していると言えた。



●逸材メンゲルベルク


1903年の秋に、マーラーがはじめてアムステルダムの地に足を踏み入れたとき、彼は大いなる希望を心に抱き、その地に乗り込んだのだ。それは、そのほぼ1年前の1902年6月9日に、ドイツのクレーフェルトの音楽祭で知り合った、ウィレム・メンゲルベルクによってアムステルダムに招待されたからだった。


メンゲルベルクは当時、スイスのルツェルン市の音楽ディレクター、そして24歳の頃から、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者として、才能ある人物と思われていた。


「マーラーは、少なくとも彼が指揮をするときは必ずといっていいほど、その短気な性格で、専制的で横暴な指揮テクニックのため、オーケストラの団員からは失望されることが常であった。」


メンゲルベルクは、いくぶん勿体ぶったところはあるけれど、陽気な若い男で、間違いなく明るい性格をしていた。彼は大体のオーケストラの曲を演奏できたし、またこれはマーラーにとって重要なことではないけれど、優秀な合唱の指揮者でもあった。


メンゲルベルクは、ほんの数年間の間にて、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を地方の田舎のぬかるみから引っぱり出してくれて、国際スタンダードなオーケストラへと躍進させることに成功したのだ。それ以来、アムステルダムという街は、音楽的なメトロポリスとして捉えられ、今尚進化している。


メンゲルベルクは、第3交響曲を指揮してもらうために、マーラーをアムステルダムに招待した。その後、第1交響曲も指揮してもらった。


マーラーは、メンゲルベルクと前もって、オーケストラと徹底的なリハーサルをする約束をしていたので、喜んでそのチャンスをものにした。特に第3交響曲。その徹底的なリハーサルを必要としたのは、第3交響曲が驚くべき長い作品であったばかりではなく、独唱ソリストであるメゾ・ソプラノ、そして女性合唱陣、そしてそれよりも幾分大きな所帯である男性合唱陣など大変なスケールの大きい曲だったからだ。


なにをおいても、リハーサルはすべてにおいて驚くほどにマーラーへのリスペクトを持って進められた。


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1906年の散歩のときに撮影された写真。後ろのメンバーの左から順に、アルフォンス・ディーペンブロック、グスタフ・マーラー、そしてウィレム・メンゲルベルク。(c) Hendrik de Booy / Stadsarchief Amsterdam




●マーラーに魅了されて。


マーラーの第3交響曲世界初演は、1902年6月にドイツのクレーフェルトの音楽祭でおこなわれた。そのときメンゲルベルクはアムステルダムに作曲家として招待されていて、インクとスコアを激しく消耗していた。メンゲルベルクはそのときはすでにマーラーの第1交響曲と第2交響曲には詳しく通じていたのだが、それはあくまでスコアの紙面上での次元であった。彼は、そのクレーフェルトでの初演で、人生ではじめてマーラーの生の音楽ライブを体験できることを知ったのだ。


メンゲルベルクにとって、指揮者としてのマーラーは、そのマーラーの曲よりもずっと印象深いものであった。メンゲルベルクは、マーラーの指揮する姿から、とても魅惑的なパワーが発散されるのを直感的に感じたのだった。彼の解釈、オーケストラへのテクニカル・アプローチ、そしてフレージングや構成のとりかたなどの彼のやり方、それは、そのとき若い指揮者だったメンゲルベルクにとって、ある意味理想に近いものであった。


メンゲルベルクは個人的にマーラーに会って、そのときには、すでに彼の音楽に深く入り込んでいる状態であった。その音楽の中に、メンゲルベルクは、芸術的な表現の新しい形式を見出し認識したので、この作曲家をアムステルダムに招待して、個人的に紹介するのがベストであるように思えた。メンゲルベルクは以前にも同じように、他の作曲家をアムステルダムに招待して彼らの作品を自身で指揮してもらった機会をもらったことがあったのだ。


メンゲルベルクは、幸運にもリヒャルト・シュトラウス、エドワード・グリーグ、そしてチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードのような類の作曲家までも同様な機会を得ることができた。


これらの作曲家たちが、最初のリハーサルをやる前に、メンゲルベルクはすでにオーケストラと、そのスコアをシステマチックに解析し入念にリハーサルしていた。


マーラーの第3交響曲について言えば、マーラーの指揮はメンゲルベルクの予想をはるかに超えていた。なぜなら指揮者としてのマーラーには、


「マーラーは、少なくとも彼が指揮をするときは必ずといっていいほど、その短気な性格で、専制的で横暴な指揮テクニックのため、オーケストラの団員からは失望されることが常であった。」


という噂があり、ほとんどのケースにおいてそうだったと言われていたからだ。




●朝食にエダムチーズ


アムステルダムでの滞在場所として、マーラーはアムステル・ホテル(Amstel Hotel)を考えていたのだが、メンゲルベルクは自分の家に泊まることを薦めた。その理由は夫人のアルマを同伴しないからだった。もちろんその後の訪問でそうでないときは、そうはしなかった。マーラーは、プライバシーを重んじるのであればホテルのほうを好んだが、逆にその居心地のよい空間を軽蔑していたところもあった。


マーラーは、友人や同僚の行為を受けることにやや恥ずかしい気持ちを感じていた。
マーラーは、メンゲルベルク夫人に自分の靴を磨くようにお願いすることも有り得たのだろうか?

このアイデアは、マーラーをぞっとさせたことは言うまでもない。
そしてマーラーの就寝はいつも遅い。10時半の朝食に間に合うように起きれるであろうか?


実際のところ、そんなに問題は起きなかった。マーラーは、アルマに手紙を書いたとき、「私は10時半にはエダムチーズ(ゴーダチーズと並ぶオランダの代表的なチーズのひとつ。北部のエダム地方が原産で、牛乳を原料としている。)の破片をちぎって少しづつ食べている。私はアムステルダムという街をいままでほとんど見たことがないが、コンセルトヘボウのすぐ近くで、とても尊敬できるご近所に滞在させてもらっている。そしてそこで朝のリハーサルをやるのだ。」


ウィレム・メンゲルベルクとティリー夫人は、 Van Eeghenstraat 107に住んでいた。クリムトからココシュカにいたる蒼々たる芸術品に囲まれて暮らしているアルマにとって、メンゲルベルク宅のインテリアはおそらくぞっとするものだったに違いない。


スイスの時計、デルフト陶器(オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器。)、平凡な絵画、信心深いテーマで彩られたグラスアート。メンゲルベルクの父親は、宗教的な美術や建築で有名な彫刻家だったのだ。


「アムステルダムでの滞在場所として、マーラーはアムステル・ホテル(Amstel Hotel)を考えていたのだが、メンゲルベルクは自分の家に泊まることを薦めた。」


マーラーも同様にあまりその芸術センスに強い感銘は受けなかった。


でもマーラーは、メンゲルベルクはお客をやさしく自分の家に泊めてくれるホストであること、そしてつまらぬことでやきもきしたりすることもなくて済むことに、メンゲルベルクに感謝しなければならなかった。


メンゲルベルクは自然体として、やはりドイツ人だった。彼のお父さん、お母さんはケルンからやってきた。そして彼はドイツ語も話す。セレブといるときは、彼は兄弟が使っていたマナーと同じケルンのマナーをたしなんだ。そして幼いときからたくさんの音楽の世界にさらされて生きてきたのだ。


メンゲルベルクは13歳のとき、ユトレヒトの自宅で、家族や友達の前で、ブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ/ピアノのための5つの練習曲/主題と変奏を演奏した。そして彼自身、そのブラームスという作曲家からなにかしら軽いインパクトのようなものを受けた。


ケルン音楽学校の学生だった頃、ドン・ファンの曲の演奏のときに、偶然にもパーカッショニストの欠員により、チャイムを演奏したこともあるのだ。まだ少年だった頃だが、リヒャルト・シュトラウスはとにかく偉大だった。メンゲルベルクはそのときはまだ少年だったかれども、その演奏会のことをしっかり覚えていた。



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ウィレム・メンゲルベルク。Van Eeghenstraatの自宅の机にて。(c)Hendrik de Booy / Stadsarchief Amsterdam




●友達ではない。


1903年頃には、グスタフ・マーラーは、作曲家としてよりも指揮者として、セレブであった。メンゲルベルクは、初期の頃からマーラーのよき理解者であり、マーラーに対して大きな感心を寄せていた。作曲家としては、メンゲルベルクは、マーラーのことをすぐに20世紀のベートーヴェンとして認識するようになった。


しかしマーラーとメンゲルベルクのストーリーは、単にお互い知り合って、ベストな仕事仲間になったというだけの話ではないのだ。マーラーは、友情に関してはあまりに自己中心的過ぎた。彼にとっての関心事は、音楽、彼の音楽だけだったのだ。


マーラーのメンゲルベルクに対する感謝の気持ちは、メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラとの最初のリハーサルのときに沸き上がった。


「これを聴いてみて!」


マーラーは数時間後に興奮気味にアルマに手紙を書いている。


「彼らが私の3番を演奏した時、私は自分の目で見ているものと耳で聴いているものを信じることが出来なかった。呼吸が止まってしまった。オーケストラはじつに傑出していて、よく準備されていた。私は合唱を聴くのが好きでとても好奇心があり、さらに良くすることで評判がある。」


つぎのリハーサルも同様に進められ、私の3番は、すべての期待をさらに超えたものとなった。


ザーンダムを訪れ、ザーンセ・スカンスの風車を見ながら歩いていると、いくつかの自分の曲への転用を思いついた。マーラーは、アルマへの葉書にそのことをレポートしている。


「自分はこのオランダの典型的な風景に感謝の念すら抱き始めている。」


しかし何よりもマーラーをエクスタシーの頂点に導いたのは、最後のリハーサルであった。「昨日のドレス・リハーサルは素晴らしかった。」マーラーはアルマに書き綴った。「6人の先生に引き連れられた200人の学校の子供たちの声、そしてそれプラス150人の女性コーラスによる合唱!そして見事なオーケストラ!クレーフェルトのときよりも全然いい!ヴァイオリンなんてウィーンで聴いているのと同じくらい美しい!」




●熱狂的なアムステルダムの聴衆


演奏会のパフォーマンスは、オランダのメディア”the Algemeen Handelsblad ”から素晴らしいレビューを受けた。そしてそれはDe Telegraafによって恐ろしいまでに広まっていった。


マーラーはそのことはあまり気にしていなかった。それよりも彼は、”ここの聴衆はいかに聴く能力があるか!”という感覚を直に感じ取っていた。


彼はここの聴衆よりも優れた聴き手はとても想像できなかった。彼らは最高であった。彼は翌日またアルマに手紙を書いた。


「昨晩のことをまだ考えている。それはじつに荘厳なできごとだった。彼らは最初は少し不安だったみたいだが、徐々にそれが解れてウォームアップしていき、アルトのソロが始まった時には、彼らの熱意はゆっくりと大きくなっていった。最後のコーダのあとの大歓声はとても印象的だった。そしてそれは生きている記憶の中でもっとも大きな勝利であった、と誰もが言っていた。」


メンゲルベルクはすべてのリハーサルに参加した。あるときはホールの平土間で、またよくホールの後ろのほうに半分隠れて見ているという感じである。メンゲルベルクは、これらの日々に経験したことを、自分の残りの指揮者人生のために指針として学ぶいわゆるマスタークラスの拡張版として捉えているところもあった。彼は後にこう言っている。「演奏家にとって、マーラーの音楽に対する彼の解釈の仕方は、非常に勉強になる。」


マーラーはこのような興味深い言葉を繰り返して言っていた。


「音楽にとってもっとも大切なよいことは、決してスコアには書かれていないし、それを見ていてもわからないのだ。」


マーラーは、ウィーンから、メンゲルベルクに対してこのようなことを手紙を書いた。


「私はアムステルダムに自分の第2の音楽の故郷のような想いを抱かざるを得ない。」


メンゲルベルクによると、フレージングは、マーラーの解釈や独自の創作によるものが中心だったようだ。そして彼は何回も何回もそのことを繰り返して団員たちに言って聞かせ、練習に勤しんだ。


第3交響曲の2回のリハーサルの後の2日、マーラーは第1交響曲のリハーサルを始めた。第3交響曲と比べるとそれは簡単なことであった。独唱ソリストもいなければ合唱もいない。曲も短いし、より伝統形式に乗っ取ったスタイルで理解するのはより簡単であった。マーラーは、オーケストラがとても熱心であることを感じ取っていた。


彼らは一生懸命学び取りたい、そういう姿勢だったのだ。


そこからメンゲルベルクは第1交響曲を、もっとも最高級のディテールまでに落とし込む準備をした。マーラーはリハーサルの後に母国に帰ったとき、彼は時間がたつとともに、この想いをとても大切に心の奥にしまった。アムステルダムで音楽の理想の島のようなものを支配しているような気になったからだ。


マーラーは、ウィーンからメンゲルベルクにこのように手紙を書いた。

                                                

「私はアムステルダムに自分の第2の音楽の故郷のような想いを抱かざるを得ない。」



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1907年のメインホールでのウィレム・メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラ。(c)Photographer unknown




 





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