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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.2 [海外音楽鑑賞旅行]

1901年 グスタフ、アルマと出会う。


1901年11月初旬、グスタフ・マーラーは、宮廷画家、エミール・シンドラーの娘、アルマ・シンドラーと運命の出会いをする。彼女の記憶によると、彼女はこのように書いている。”マーラーはすぐに私に想うところがあった。”そして彼女も最初は婚約していた身であったけれども、同じようにすぐにマーラーに想う気持ちが沸き上がった。


その男は、酸素からできているようで、私が彼に触れたら、そのまま燃え上がるような感じであった。数か月にわたって情熱的な文通が交わされる。


あるレターでは、マーラーはアルマにこう書いている。


”親愛なる最愛の人よ。私は、人生の中で、一度でも私があなたを愛するのと同じくらい誰れかに愛されるということが起こるかどうか信じられなくなってきている。そして私の人生という船が、天国に辿り着くために嵐の中を勇敢に立ち向かっている、という言葉をあなたの口から直接聞くまで、私は頑固なまでに待つことができる。


アルマとグスタフは、1902年3月9日にウィーンのカールス教会で結婚式を挙げる。
彼らが出会って4か月経ってのことである。その年の11月3日に、最初の娘が産まれた。



1901 テーマがシンプル過ぎる。


1901年11月25日、マーラーはミュンヘンに居た。そこで彼は、交響曲第4番の初演でミュンヘン・フィルを指揮していた。レビューは好意的なものではなく、その中のひとつに”テーマがシンプル過ぎる”と非難するものがあった。ある批評はポジティブなものでは、”我々を一気に新しい音楽領域へと誘ってくれる高度で意義のある作品”と書いているものもある。聴衆はホール内で、ブラヴォーとブーを吠えるどちらかに分かれたようだ。



1902年 ウィーンでのその後。。。


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1902年1月12日、マーラーは交響曲第4番を、彼のホームのウィーンの聴衆の前で初めて演奏した。リアクションは、ミュンヘンの時と比較して、さらに敵対的なものであった。”なにかカーニバル(謝肉祭)の音楽の類のような。。。”オーケストラ・メンバーでさえも、自分たちの首席指揮者の新しい作品と比べてみても、幾分批判的な意見だった。


ウィーン時代の作曲家としてのマーラーは、世間に認められるにはさらに長い道のりを要す不遇の時代であった。



交響曲第3番の全楽章の初演。


交響曲第3番の全楽章の初演は、1902年6月9日のクレーフェルト(ドイツ西部の都市)で、マーラー自身の指揮でおこなわれた。聴衆は狂乱した。アルマ・マーラーは、このように書いていた。”最終楽章が終わったら、狂気の沙汰の熱狂が起きた。聴衆は椅子からジャンプして立ち上がり、マーラーに向かって走ってかけよった。その聴衆の中には、ウィレム・メンゲルベルク、アムステルダムのコンセルトヘボウ・オーケストラの若き指揮者もいた。メンゲルベルクはその夕方のコンサートを経験したとき、マーラーの音楽をつねに守って、プロモートしていこう、と決意したのである。




1903年 交響曲第6番


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”私の最初の5曲の交響曲を聴いたことのある人でさえも、私の6番の神秘性をあえて見抜ける人というのはほとんどいないかもしれない。”とマーラーは、自身の交響曲第6番”悲劇的”について語っている。第4番までは、マーラーはいつも彼の言葉でリスナーに対して、いわゆる聴き方マニュアルのような説明をおこなってきた。だがしかし第5番以降は、リスナーが感じるままを尊重するようになった。


しかし、第6番については、すべてが謎めいている訳ではない。


第1楽章の第2主題のところで、マーラーは、彼の妻アルマについてを音楽的なポートレートとして表現している。”僕は主題の中で君を捉えようとしてきた。”スケルツォは、若い子供が遊んでいるような詩的表現を兼ね備えている。おそらく1904年、グスタフとアルマの2番目の娘として産まれてくるであろうアンナ・ジャスティンに対しての気持ち。


交響曲第6番の中でもっとも注目すべき観点は、最終楽章で運命の力としての象徴として放たれる3回の大ハンマーであろう。マーラーは、打楽器奏者が奏でる短くて、力強く、まさに大ハンマーが打ち鳴らされるようなバンという音が鳴るように、特別に作った箱を用意した。


交響曲第6番の初演のあと、このハンマーについて手短に言えば、アーティスト テオ・ザッヘは、マーラーやリヒャルト・シュトラウスのような現代作曲家が、伝統的なオーケストラにハンマーやカウベル、そしてスレイベル(打楽器のひとつ)や他のサウンドを取り込み、そのサウンド、音楽性を拡張させることをあざけ笑っていた。


下の彼の風刺的なイラスト”近代のオーケストラ”と題して、そのことをデフォルメして描いている。


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オランダでのマーラー


1903年10月22,23日、マーラーは、コンセルトヘボウ・オーケストラで交響曲第3番を指揮した。これがマーラーにとって初めてのオランダであった。2日後の10月25日、マーラーは、オランダでコンセルトヘボウ・オーケストラと交響曲第1番の初演をおこなった。


あなたは、このマーラーとアムステルダム、彼の第2の音楽の故郷との関係について、ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”の記事で深く読むことができる。



1904年 呪われた作品


1904年10月18日、マーラーは、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団と交響曲第5番の初演をケルンでおこなった。この交響曲は、マーラーのアルマへの愛の宣誓である有名なアダージェットを有している。アルマは、残念ながらその初演に参加することはできなかった。そのときずっと病気で病床にあったのだ。


マーラーは動揺し、アルマに対してこのように手紙で書いた。


”汗をかいて、コニャックで口をすすいで、アスピリン錠をむさぼり食べる。それを全部やること。そうすれば、2日以内には治って、火曜日にはここにいることができるはず。すべてを試して。結局、自分は初演の時に1人でいるのが怖いんだろうと思う。”


それでも結局、マーラーは初演のときは1人であった。そして批評の嵐にも同様に1人で浴びることになってしまった。


ふたたび、レビューは決して好意的なものではなかった。


批評ではこう書かれた。”憂鬱な葬式のような行進曲に引き続いて、さらに憂鬱な楽章・・・これは重大なミスである。アダージェットだけがもっとも評価された。”数あるアダージョの中でももっともクリアでベストな作品”交響曲第5番は、マーラーの作品の中で、最高傑作でもっとも愛された作品となった。


マーラーはこの作品を書いていたとき、”第5番は、呪われた作品で、誰からも理解されないだろう。”と思っていたので、まさか後世にこのような評価を受けるとは思いもしなかった。



1904年 コンセルトヘボウに戻る。


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1904年10月23日、コンセルトヘボウで、グスタフ・マーラーは交響曲第4番を同じコンサートで2回演奏した。ウイレム・メンゲルベルクのアイデアだった。数日後、10月26,27日、コンセルトヘボウ・オーケストラを指揮して、交響曲第2番をオランダで初めて披露した。


あなたは、このマーラーとアムステルダム、彼の第2の音楽の故郷との関係について、ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”の記事で深く読むことができる。



1905年 交響曲第7番


マーラーは、1905年の夏に交響曲第7番を完成させた。マーラーは、その作品を創作性の爆発という過程、熱狂した状態で書き上げたのだった。この爆発は、時間を要したし、この第7番のためのインスピレーションは、自発的に得られるものではなかった。


普通、マーラーは交響曲や歌曲を作曲するとき、周りを自然に囲まれた彼の作曲小屋で作曲することで十分なインスピレーションを得ることができたのだが、この第7番だけは、どこか他の場所を探さなければいけなかった。


2週間経過してもその場所は見つからなかった。そして絶望の淵に、ドロミーティ(イタリア北東部にある山地で、東アルプス山脈の一部)へと逃れることになった。でもそこでもなにも変わらなかった。だから私はついにあきらめて家に帰ることになり、その夏は完全に失われたものになると思われた。しかし、その救済は、マイヤーニッヒからクルンペンドルフの間にあるヴェルター湖(オーストリア南部、ケルンテン州にある湖)を小さなボートで渡っているときにやってきた。


最初はボートの整調のオールをこぐときに、第1楽章への導入部のテーマが私にやってきて、そして4週間後には、第1楽章、第3楽章、第5楽章が同じように私の中にやってきた。


交響曲第7番は、”夜曲”として知られていて、これはマーラーがつけた副題ではなく、彼に近い人たち数人の中によるネーミングだった。その中に、ウイリエム・メンゲルベルクがいて、彼が第7番を、”これは夜だ。星がいっさい出ていない、月光もまったくない、平穏な眠りもない、まさに暗闇の力による統治。”と解釈し、副題をつけたのだった。



1906年 いままでの中で最も偉大な作品。


1906年の夏の終わり、マーラーは交響曲第8番”千人の交響曲”を完成させた。3つの純粋なパート、オーケストラ・シンフォニー、独唱ソリスト、そして合唱が、すざましい勢いでマーラの作品に戻ってきた。その初演は1910年に行われ、ステージの上に1000人のパフォーマーが集まることになった。


1906年の夏に、マーラーは、ウイレム・メンゲルベルクに手紙を書いた。


”親愛なる友人よ。私はたったいま第8番を完成させた。この作品は私が作曲してきた作品の中でもっとも偉大な作品となった。それは誰しもが書くことができない曲の内容と形式という両方の観点から、非常に驚くべき作品である。歌い始める、音が鳴り始める空間を想像してごらん。これらは人間の声ではない。しかし惑星と太陽は確実に回っているのだ。”






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