マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.3 [海外音楽鑑賞旅行]
1906年 マーラー、コンセルトヘボウで交響曲第5番を指揮する。
1906年3月8日、マーラーは、交響曲第5番をコンセルトヘボウで指揮をする。ウィレム・メンゲルベルクが、その作品については、コンセルトヘボウ・オーケストラと練習を積んでいた。そしてそのことが素晴らしいことを生むことにもなった。
マーラーは、アムステルダムからアルマに手紙を書いた。”すべてが素晴らしくリハーサルされていた、サウンドも素晴らしい。オーケストラは、とても幻想的で、私のことをとても好きでいてくれる。今回は退屈な重労働というよりは、本当に楽しんでできる、と思うよ。”
”ロッテルダム、ハーグ、アーネム、そしてハールレムと、私に引き続いて、メンデルベルクが、コンセルトヘボウを率いて第5番を指揮してくれた。”
あなたは、マーラーとアムステルダムの関係性、マーラーにとって第2の音楽の故郷については、広範囲な記事ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”について読むことができる。
気の合う人同士で、アムステルダムのラーレンの荒れ地を散策する。左から右へ:ウィレム・メンゲルベルク、グスタフ・マーラー、アルフォンズ・ディペンブロック。
1906年 交響曲第6番の初演。
1906年5月27日、交響曲第6番は、エッセン(ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市)にて初演を迎えた。そこでエッセンとユトレヒトの地方自治体による混成オーケストラをマーラーは指揮した。
聴衆は、最高に熱狂していて、長い、そして狂喜に満ちた拍手で喝采となった。
しかし、プレスのほうは、その作品については、聴衆ほどの熱狂ではなかった。
しかし、プレスのほうは、その作品については、聴衆ほどの熱狂ではなかった。
あるレビューアーはこう書いている。”私は、いままで4つのマーラーの大曲を聴いてきたけれども、実際彼は同じことを言い続けてきている。もう耐え切れない感じだ。彼は金管楽器奏者の言語だけを知っている。彼はもはや我々と打ち解けて話そうという気は毛頭ない。彼は悲鳴をあげ、怒っているのだ。我々は、そのことに驚いて本当に不思議に思う。なぜ、このようなノイズを作るのか?”
1907年 ウィーンからニューヨークへ。
芸術家としての大きな成功をしたと同時に、感情的な議論や誹謗中傷を受けるなどの数年を過ごした後、1907年12月に、マーラーはウィーン国立オペラ座の音楽監督を辞任した。
オペラ座のスタッフへのお別れの手紙にこう書いてある。
”オペラ座の親愛なるスタッフのメンバーたちよ。ついにこのときが来た。私たちの協力はここに終わった。私にとってずっと親しんできたこのステージを去り、いまみなさんにお別れを言う。完成されたプロジェクトを置いていく代わりに、私が夢見てきたように、自分の背後にある大きな残骸から離れたいと思う。
熱い戦いの中においては、我々は傷つかざるをえなかったが、もし作品が成功していたならば、そのような痛みも忘れることができたであろうし、心豊かに褒美されていたことでもあろう。私といっしょに戦ってくれてありがとう。私の難しい、そして有り難く思われなかった作品に心いとわずして喜んで助けてくれてありがとう。お元気で。
マーラー音楽とのお別れは、交響曲第2番となった。
そのときの目撃者はこう書いている。
そのときの目撃者はこう書いている。
”拍手は、とめどもなく巨大で大きなものであった。それはハリケーンの力強さまでに膨れ上がり、その作曲家は思わず涙した。マーラーはステージに30回呼び戻され、女性たちは涙を流し、ハンカチでそれを拭った。「気を落とすな!という叫びが何回も飛び交った。」
マーラーがウィーンから離れる汽車に乗り込んだとき、マーラーはかけつけてくれたファンに手を振った。
アメリカ、正確にはニューヨークが呼んでくれた。
マーラーはメトロポリタン歌劇場と契約をした。
マーラーはメトロポリタン歌劇場と契約をした。
彼はまたニューヨーク・フィルなど数々のニューヨークのオーケストラを指揮した。
彼はすぐにはアメリカのコンサート・シーンに惹かれたり、馴染むことはなかった。
後にブルーノ・ワルターにこのように手紙で書いている。”ここの私のオーケストラは、真にアメリカの代表的なオーケストラである。無気力で才能のない・・・。”
1908年 大地の歌
1908年の夏、マーラーは大地の歌の作曲に取り掛かっていた。1907年の悲劇的な一連のできごと(ウィーン国立オペラ座監督の辞任、本拠地をウィーンからニューヨークへ移す)のおかげで、ますます作曲の道へ邁進することになった。
大地の歌はこのように我々に語っている。”暗闇は生であり、死でもある。”
マーラーは、大地の歌について、ブルーノ・ワルターにこのように手紙で書いている。
マーラーは、大地の歌について、ブルーノ・ワルターにこのように手紙で書いている。
”私は、この新しい作品をどのように呼べばいいのか、まだわかっていない。でも私は本当に素晴らしい時間を過ごしてきたし、いままで作曲してきた作品の中でももっとも個人的な作品だと思っています。”
1908年 ソーセージポトフよりも錆ついたティンパニーやトランペット
交響曲第7番は、1908年9月19日にプラハで初演された。マーラーはオペラ・オーケストラから数人の奏者を引き連れてメンバーに加えて、フィルハーモニー・オーケストラを指揮した。
アルマ・マーラーはこのときの初演のときの様子をこのように記述している。
”私がプラハに到着したときは、マーラーは神経質になっていて、病気に近い感じであった。譜面が床一面に散らばっており、彼はすべてのおいて躊躇しており、人とのつき合いを避けていた。”
その後、20世紀の偉大な指揮者の1人になるオットー・クレンペラーはそのときの様子をこのように記憶していた。”リハーサルの後、毎日、楽譜を家に持ち帰っていた。私たちは、彼を助けたかったが、彼は断固としてそうさせなかった。
そしてついには、マーラーは第7番の初演のために20回のリハーサルを必要とすることとなった。”私は、いかにして居酒屋ではなく、コンサートホールに行き、いかにソーセージ・ポトフではなくティンパニーや錆びたトランペット、という彼の選択を理解したのである。”
そのようなもがき苦しみは、聴衆とプレスの双方において、時間と労力をかけるだけの値打ちのあるものとなった。
1909年 自分のささやかな家族に対する愛情的な想い。
1909年の夏、マーラーは交響曲第9番を作曲する。この曲のインスピレーションは最初は湧いてこなかった。マーラーは、周囲のノイズ、たとえば窓をガラガラと開けると近所の人たちによるささやき話や、家に鍵をかけようとしたときに、近所の人が歩いているときに靴のかかとが鳴る音だとか、そういう騒音にイライラとした。犬も同様に、早朝や夜遅くまで吠えているので、彼らもそのノイズを出す人たちの中の1人と、マーラーに思わせるのである。
しかし夏が終わる前に、マーラーは、ブルーノ・ワルターに手紙を書いた。
”私が知る限り、私がいままで見境なく書いてきた、そして最終楽章を壮大にオーケストレーションしてきた作品と違って、今回の作品は、第1楽章からして、すでに自分のささやかな家族に対する愛情的な想いがいっさい介在しない作品だった。長い間、喉まででかかって、なかなか思い出せなかったことを、全部言うと、この作品は第4番に似ている。。。でもかなり違うところも多い。
このスコアは、信じられないくらい急いで書かなければならなかったものなので、出来上がりはずさんで、読みにくい楽譜だった。
大地の歌のときのように、マーラーはこの第9番に対して、”死”という主題を避けることができなかった。彼は、第1楽章の行進曲をいかに憂鬱な葬式の行進のように演奏しなければならないか、と記述した。彼の書いてきた作品の中で、この第9番のように消え行くように静かに終わる曲は他にない。
楽譜原稿の最後の行のところに、'Leb! Wol! Leb! Wol!(さようなら、さようなら)と書き込まれている。'Farewell!' Farewell!(お別れ、お別れ)。ウィレム・メンゲルベルクは、マーラーが愛した芸術、夫人、そして彼の音楽とすべての世界に対して”Farewell!(お別れ)”と書き込んだ。
マーラーは、この第9番の完成を待たずして、この世を去った。
アルマとグスタフは、第9交響曲を作曲している夏の間に、トーブラッハからアルトシュルダーバッハまで散策を楽しんだ。
1909年 マーラーはオーケストラといっしょに演奏する。
1909年の秋、マーラーは再び、オランダに戻り、コンセルトヘボウ・オーケストラを指揮し、交響曲第7番を披露した。”ふたたび、すべてが素晴らしくリハーサルされていた。”マーラーはアルマに手紙を書いて、メンゲルベルクがオーケストラを十分ウォーミングアップして準備していたことを伝えた。
メンゲルベルクは、1週間フルに、朝から晩、その交響曲第7番をオーケストラと練習し、叩き込んでいた。ある一人の楽団員が思い出を語った。”いままで、ひとつの作品をこれだけ精度よくリハーサルしたのは初めてだった。”
その楽団員は、指揮者としてのマーラーについてこうも語っていた。”彼は偉大な師匠だ。彼は自分のシンフォニーを指揮するとき、体はほとんど動かずに、指揮棒を持つ右手というよりは視線を使ってオーケストラをリードしていた。
マーラーは、そのままオーケストラといっしょに演奏していた。すべての団員たちは、マーラーは、やむにやまれず少々暴君的な専制君主のように、自分のパートを演奏しなければならなかった、と感じていたことだろう。”
あなたは、マーラーとアムステルダムの関係性、マーラーにとって第2の音楽の故郷については、広範囲な記事ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”について読むことができる。
1910年 交響曲第10番のはじまり。
マーラーは、1910年に交響曲第10番の作曲を始めた。アダージョを完成させ、そして残りは、わずかにスケッチとして残した程度であった。
これらのスケッチには、音楽と書き込みが含まれ、ところどころに、'Fur dich leben, fur dich sterben, Almschi'のような書き込みなど、パーソナルなものであった。
アルマ・マーラーによると、これは1910年の夏は、夫婦の危機で仲たがいにあった時期だという。
1910年 フロイトとの面談。
マーラーは1910年にふたたびオランダに戻った。指揮をするだけではなく、オーストリアの精神科医であるジークムンド・フロイトを電撃訪問するためだった。後者はちょうど休日にあたり、ノールドワイクの海辺を散歩することになった。
マーラーは、精神分析家のフロイトに、アルマとの複雑な関係を相談していた。
フロイトの結論はこうだった。
”私はあなたの妻、アルマを知っている。彼女は自分の父を愛し、そういうタイプの男性のみを愛するタイプなのだ。あなたは心配だろうが、あなたの年齢を考えれば、間違いなく彼女があなたに魅力を感じていることは間違いない。心配するな!君は自分の母親を愛しているだろう。君もすべての女性に自分の母親のタイプを求めてきたんだから。”
1910年 勝利!
1910年9月12日、マーラーは交響曲第8番をミュンヘンで初めて初演した。
1000人を超える力で、コンサートはめざましい大成功となり、ドイツやその他の外国諸国のメディアも、その桁違いのイヴェントを報道した。
アルマ・マーラーはこう書いている。
”その中にいた経験者は、みな想像もつかない経験だったに違いない。想像がつかない、それはつまり、外界に発信された成功ということ。すべての人、すべてがマーラーに委ねられた。私は深く感動して、バックステージで待ったわ。私たちはホテルに戻って、そのとき2人の眼は涙で溢れていた。ドアの外にはニューヨークからJ.L.が待っていて、こう言ってくれたの。このような素晴らしい曲を書いた作曲家は、まさにブラームス以来の快挙・・・。”
1911年 死期が近づく。
1911年4月8日、ニューヨークからヨーロッパへの最後の渡航となった船の上でのマーラーの写真。
1911年 モーツァルト!モーツァルト!
1911年5月18日、ウィーンにてグスタフ・マーラー死す。彼の最後の言葉は、”モーツァルト!モーツァルト!”であった。
翌日、ウィーンのグリンツィング、娘のマリアの隣に埋葬されている。
1912年 交響曲第9番の初演
1912年6月26日 マーラーの友人のブルーノ・ワルターが交響曲第9番の初演をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とで指揮した。このコンサートでは、マーラーの9番の他に、ベートーヴェンの9番が含まれていた。
2020-02-06 20:48
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