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プラハの春 [クラシック学問]

マーラーフェストのつぎをどうするか?


これは当然考えていたことであり、そのとき、自分の頭の中には漠然とプラハ→ウィーン→リンツ(ブルックナー詣)の3か国を周遊できればいいな、と考えていた。


自分の中でメインテーマとして、プラハが主役であり、プラハの春音楽祭があった。


きっかけは、毎年日本で春になると、すっかり上野の風物詩となっているクラシック音楽祭、「東京・春・音楽祭」が、じつはそのネーミングが、この「プラハの春音楽祭」から持ってきているという由来があるからだ。


プラハの東京版をやりたい。

「東京・春・音楽祭」はそこから来ている。


そのように実行委員長のIIJ鈴木幸一会長がコメントしていた記事を拝見して、これは自分のクラシック人生で避けられない運命として、どうしてもプラハの春音楽祭、プラハは体験しないといけないんだな、と確信めいたものが沸き上がってきた。


東京・春・音楽祭は、まさに自分のクラシック人生とともに歩んできた運命共同体の音楽祭だ。そのルーツとなったプラハも体験しないといけない。


そういうシナリオが自分の頭の中に出来上がったのが、2年前のことであった。じつは随分前からそういう青写真は描いていたんですよね。


やっぱり海外音楽鑑賞旅行の計画を立てる場合、その次をどうするか、は必ず考えますから。でもプラハをどのように自分なりにプロデュースしてテーマとして盛り上げていくか、というのはノーアイデアだった。


自分なりの拘りとして、やはりただ単に行ってきました、体験してきました、観光してきました、で終わるのはどうももの足りない。


自分なりのカラーを打ち出して、そのテーマに則って、盛り上がっていきたいというのが自分のやり方だからである。


プラハは、自分の人生の中で未体験の国で知識もあまりない。いわゆる馴染みのない国だ。だから、プラハのことを勉強しつつ、このプラハをどのように自分なりにプロデュースしていくか、というのが自分の新しいテーマだった。


プラハに対してどう自分なりのカラーを出していくか?


そんな課題を自分の頭の中に抱えながら、なにげなくTVを見ていた時のこと。


去年の2019年1月13日「池上彰の現代史を歩く ~東京五輪の“名花”の激動人生 自由を求めた不屈の闘い プラハの春」という番組が放映されているのを偶然に見た。自分は池上さんのこの番組がかなり大好きで結構見ている。いまの軽薄で面白くない地上波番組の中で、かなり教養があって、骨のある番組ですよね。


この中で、プラハの春、チェコ事件、そしてビロード革命と激動の歴史を歩むチェコスロバキアと、1964年東京五輪で日本国民から“名花”と呼ばれ愛された女子体操金メダリスト、ベラ・チャスラフスカさんの運命を紐づける・・・そのような番組のシナリオの持っていき方であった。

彼女は祖国チェコで激動の渦に巻き込まれる。1968年の「プラハの春」。社会主義体制下で、自由を手にした奇跡の改革運動に身を投じるも、抑え込まれてしまった。しかし、20年後「ビロード革命」とともに華麗なる復活を果たした。


日本、そして世界から注目された「プラハの春」とチャスラフスカさんの激動の生涯が、今の私たちにうったえかけることとは?


自分はプラハをどのようにプロデュースしていくかを考えたときに、この「プラハの春」、そして「チェコ事件」「ビロード革命」は、チェコスロバキアという国を語るにはどうしても避けては通れない、そして絶対に知っておかないといけないし、この歴史についてはどうしても語らないといけないだろう、とそのとき思ったのである。


そしてその番組には、ヴァイオリニストの黒沼ユリ子さんが出演されていた。


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彼女は、1958年にプラハに留学。チェコスロバキア政府招待留学生としてプラハ音楽芸術アカデミーに入学。在学中の1960年、プラハ現代音楽演奏コンクールで第1位。1962年栄誉賞つきディプロマを得て首席で卒業。そして「プラハの春音楽祭」でもデビューしているのだ。


まさにこの「プラハの春」の激動の時代、そのときを、そのチェコスロバキアで過ごした、そしてチェコと日本との懸け橋となって活躍した方である。



プラハの春の後、改革のリーダー・ドプチェク第一書記は解任され、誰とも連絡がつかないように地方に追いやられた。「二千語宣言」に署名していたザトペックは、ウラン鉱山の掃除夫にさせられたという。チェコではソ連よりの政治家が実権を握り、より厳しい支配となった。


黒沼ユリ子さんはその当時の様子を番組内で顧み、


「共産党が「人間の顔をした社会主義」に同調した人、反対した人を分けた、日本で言う踏み絵を行ったのです。自分の周りにも働くために嘘を言って生きていくことを選んだ人もいました。」


と話していた。


自分はこれだ!と閃いた。


黒沼ユリ子さんとは、じつはSNSでつながっており、そのとき、いまで思えば大変失礼ながら、ヴァイオリニストでありながら、どのような活躍をされてきたか、その経歴をよく知らないままでいた。


かなり文章力のある方で、演奏家とは思えないその筆致に本当に驚かされていた。(それはその後、著書を全部拝読させていただいたのだが、作家、音楽評論家顔負けのその博識、力筆ぶりに、ただひたすら驚愕であった。)


SNSでは結構政治的なことも強烈に発信される方で、腐敗しきった安倍政権を一刀両断という投稿も常であった。


でも自分はそのとき黒沼さんのことをよく知らなかった。


ところが、その番組で、そのプラハの春のことを、まさに生き証人として生々しく語るそのお姿を拝見して、


そうか!これだな!


黒沼ユリ子さんを、そのヴァイオリン人生をしっかり勉強することで、チェコ、プラハという国を知る。これはいかにも自分らしいアプローチの仕方、自分のカラーが出せると確信したのだ。そう思ったのが、その池上彰さんの番組を見た2019年1月13日で、自分に誓った瞬間であった。


でも、まずは目先のマーラーフェストのことを頑張ろう。


マーラーフェストで大きな達成感を得たのちに、プラハのことはその後ゆっくり考えようと思っていた。そしてご存じのように、マーラーフェストは残念ながらCOVID-19のパンデミックで開催延期。自分は音楽祭の規模としてスケールダウンする来年のマーラーフェスト2021には行かないことにした。その分の予算をつぎのプラハに充てるほうが前向きだと考えた。


そして大分気持ちも落ち着いてきて、そろそろという心構えになり、黒沼ユリ子さんのご著書を全部、そして音源も限りなく手に入れられるものは全部(アナログLP/CD)集めて、徹底的にそのヴァイオリニスト人生、音楽家人生を勉強していったのである。そして黒沼さんを通してチェコスロバキアという国、歴史を勉強していったのである。


そのことについては、また別途日記にして紹介していこう。


この日記では、そのプラハの春、チェコ事件、ビロード革命で、チェコスロバキアという国の歴史を紹介していきたいと思う。


まず、それがすべてのはじまり、前提だと思う。


チェコスロバキアという国は、このような地理感。


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オーストリア、ポーランド、ドイツなどに囲まれている小さな国であるが、社会主義国家体制のときは、チェコとスロバキアという国が合併してチェコスロバキアという国であったが、ビロード革命の後、チェコ共和国とスロバキアという国にそれぞれ分割していった。これが現状である。



●プラハの春


東西冷戦の時代、チェコスロバキアは、東側にありソ連の支配下にあった。共産党一党独裁体制で、人々は監視されており、密告社会である。反共産主義の人物とみなされると強制労働や処刑などもある。人々の気分は暗く、不満が溜まっていた。なにもかも自由がなかった。


戦時中のわが国と似ている。反戦争とみなされると「非国民」と言われたりした。


ところが、1968年1月のこと、共産党第一書記であるアレクサンデル・ドプチェクが「人間の顔をした社会主義」を掲げ、複数政党制、報道の自由、言論の自由、表現の自由など民主化を推進し、世界が注目した。これを受けてチェコスロヴァキア内の議論はまさに百花斉放を様相を呈し、新たな政党の結成の動き現れ、首都プラハの町にはミニスカートなどの西欧風の諸文化が大量に開花した。


また6月には70人あまりの知識人が署名して「二千語宣言」が発表され、ドプチェク路線を強く支持し、旧来の体制に戻ることに強い反対が表明された。


これら1968年春の一連の自由化の爆発を「プラハの春」と言っている。 


「二千語宣言」の署名者に、東京オリンピックで「オリンピックの名花」とも讃えられた女子体操の女王、チャフラフスカ氏の名前もあった。


この「プラハの春」、46歳のドプチェクが、そのリーダーである。


黒沼ユリ子さんは、その時プラハに滞在していて、番組でつぎのように話す。


「以前は、反共産主義の話をしたら、チェックされる社会であった。「プラハの春」が始まると、1968年の5月1日のメーデーでの行進は、自由な行事となり、以前のようなプログラムがなかった。なにをしゃべってもいい。プラハの音楽祭の楽曲選びが自由となった。」


以前とは異なる明るい社会となった。西側諸国への旅行も自由化された。抑圧された密告社会の社会主義国家体制の中で暗い気持ちで生活していた市民にとって、「人間の顔をした社会主義」すなわち「プラハの春」は、一気に春の後光が差してきた明るい夜明けになるはずであった。


しかしながらそんな「プラハの春」は半年で終わることになる。



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「プラハの春」。抑圧された暗い生活の中で束の間の光が差し込み、ジャズクラブで踊る学生



●チェコ事件


しかし、そんな「プラハの春」も長くは続かなかった。夏になると8月20日にソ連のブレジネフ政権は、ワルシャワ条約機構5か国軍15万を国境を越えて侵攻させて軍事弾圧に踏み切り、市民の抗議の嵐の中をプラハの中心部を制圧、ドプチェクらを連行してしまったのだ。


このチェコ事件によってプラハの春は踏みにじられてしまった。


改革が盛りあがりを見せるなかで、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻し、軍事占拠したこの出来事を「チェコ事件」という。


この介入を正当化するために用いられたのが、「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれるもの。「制限主権論」と訳すことができ、「社会主義国家のひとつが危機に陥ることは、社会主義ブロック全体が危機に陥るということ。そのため他の社会主義国家は無関心でいることはできず、全体の利益を守るために一国の主権を乗り越えることができる」という考え方。


スターリンやフルシチョフの時代を通して、ソ連の一貫した対東欧政策あった。


首都プラハの中枢部を占拠してドプチェク第一書記、チェルニーク首相ら改革派を逮捕、ウクライナのKGB(国家保安委員会)監獄に連行した。


全土で抗議の市民集会が開かれ、またソ連の実力行使は世界的な批判を浴びた。


スボボダ大統領は執拗にドプチェクらの釈放を要求、ソ連は釈放は認めたが、ソ連軍などの撤退は拒否した。



軍事侵攻したソ連兵に話しかけるプラハ市民
抗議するプラハ市民


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●ビロード革命


まさに20世紀の冷戦下、大国の間でゆれ動いたチェコ。ドプチェク政権による「プラハの春」を経験したものの、その後のソ連軍の侵攻で、市民の自由を認めない共産主義独裁政権が長く続き、人々は秘密警察による恐怖政治の支配の中を生きた。


60年代にみられた官僚主義の体制の中での経済停滞と、言論抑圧の中での、国民の無気力、無関心が蔓延するようになる。1977年にはハヴェルらの知識人が「憲章77」を発表したが、直ちに弾圧され、民主化は進まなかった。


1989年10月29日には約1万による集会がプラハで開かれ、人々は改革に動こうとしない共産党ヤケシュ政権打倒を叫んだ。11月に入り、ベルリンの壁の開放の報が届くと市民・学生の活動は活発となり、11月19日に「憲章77」のハヴェルらが中心となり「市民フォーラム」を結成、政府に対して共産党指導部の辞任、全政治犯の釈放などを要求した。連日30万規模のデモがプラハやブラチスラヴァで繰り広げられ、ついに24日ヤケシュ書記長以下共産党幹部が辞任、12月にはフサークが大統領を辞任し、代わってドプチェクが連邦議会議長、ハヴェルが大統領に選ばれた。


こうして大衆行動によって流血の惨事を経験することなく無血で共産党政権の打倒と民主化を実現したチェコスロバキアの変革は「ビロード革命」と言われている。



1968年のプラハの春から20年経って、1989年のビロード革命にて、チェコスロバキアは民主主義を取り戻したのである。



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1989年11月25日、約100万人の人々がレトナーに集まった。


ビロード革命は共産党による長い抑圧的な支配を終わらせ、チェコスロバキアを民主主義への道に導いた。


メディア、言論、旅行への制限が解除され、他国へ移住した多くの人々も家に戻ることができるようになった。新しい民主政権は国の法律を自由化し、開かれた自由な社会を作り上げた。 そしてその後すぐ、チェコスロバキアは今日知られているように、平和的にチェコ共和国とスロバキアに分割されることになった。


日本のように植民地になった経験のない国で育った自分が、はたしてチェコのような運命を辿った市民の方々の気持ちがわかるのか?


代弁できるのか?


真の意味で語れる資格があるのか?


このチェコの辿ってきた歴史を理解してみると、つくづくそういう想いがする。


そういう我々日本人では想像もできない辛い歴史的背景をチェコ人が背負っているもののひとつとして、黒沼ユリ子さんは、音楽誌「音楽の友」に2年間投稿した記事をまとめた本「アジタート・マ・ノン・トロッポ」の中で書かれたことで、とても印象的であった箇所を抜粋して紹介しておこう。



どの民族にとっても、自分たちの文化遺産の最大のものはなにかと考えるとき、それは「言語」であると私は言いたい。ちなみにこの数世紀間だけの歴史を振り返ってみても、他民族に従属させられた被抑圧民族が起こした果敢な闘いの原動力となったもののひとつは、自分の言語(つまり母親から習った言葉)を公に使えない悲劇的状況を乗り越えることへの熱望であったのではないだろうか、と私は思う。


例えば遠くは、数世紀に渡って亡国民族であったチェコ人に、チェコ語で自らの持つ伝説や歴史、村の出来事などを歌芝居にして上演したいという願いがあったからこそ、スメタナのオペラが生まれ、また国民劇場が、みなからの「塵も積もれば山となる」式の寄付金によって建てられたのであろう。


それによって音楽が媒体の一部ともなって民族内部に強い連帯感が生まれ、それも大きな役割を果たしたであろう結果が、世界の歴史的状況と結びついて1918年にチェコスロバキアという独立国が地球上に誕生する可能性を生み出した・・・と言えるのではないだろうか。



長い間、異民族の支配下で抑圧されている民族が、音楽に祖国の独立の希望と夢を託して現状の苦しみを慰めるということは、歴史上どこでも繰り返されていることだからだ。チェコ人には次のようなエピソードが、これを裏付けるもののひとつとして残っている。


それはチェコ人が自民族復活への熱望のシンボルを「国民劇場を持つ」ということに集約していたという事実だ。


つまり自分の言語と音楽で芝居やオペラが上演される場所を持つということ。




プラハ、プラハの春音楽祭というと、ついつい市民会館(スメタナホール)とかドヴォルザーク・ホールとか有名だが、自分はぜひチェコ人の最初の意思表明であったこのプラハの国民劇場をぜひ訪れてみたい。


コロナ禍でいつ海外旅行が再開できるかもわからないし、海外でコンサート、オペラが普通に再開できるようになるのかも、はたしていつになることやら。自分もそのときまでに予算的に大丈夫なのかもわからないが、毎日紋々と無意味に過ごすよりは、前向きに勉強しながら過ごしているほうが精神の充実度は違うと思い、この日記を書いた。


まぁこの先どうなるかわかりませんね。



序章、プロローグとしてはこのような感じでいかがであろうか?











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