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中原・米長時代 [雑感]

ライバルの存在が実力を伸ばす。


大山vs升田、中原vs米長、谷川vs羽生・・・藤井2冠の“令和の名勝負”に期待。


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1968年、第27期将棋の名人戦で対局する挑戦者の升田幸三九段(左)と大山康晴名人


ただいま藤井聡太2冠で将棋界も大フィーバーだけれど、結構この記事は心にグサッと刺さった。


まさしくそうだよなぁ。


まさに”令和の名勝負”をやる相手ライバルが出てきてほしいと思う。8大タイトルのうち、ほとんどのタイトル戦を藤井×ライバルで占領するみたいな。そしてそれが後世に伝えられるみたいな緊張感、大勝負になる感じになってほしいです。


自分は将棋が大好きだったのは、小学生、中学生、高校生のときで、そのときの将棋界は必ずその世代を一世風靡するライバル同士というものがあった。お互いを切磋琢磨していくそういうライバル関係ですね。


いまの棋士はとても爽やかで穏やかで、人から妬まれたりとか、嫌われたりなんていう世界とは縁遠いスマートな棋士たちばかりに見える。羽生善治さんとか藤井聡太くんとか、本当に爽やか。


こんなことを書くと、また年寄りの昔話、「昔は・・・」ですか?とバカにされそうだけれど、やはり書いておきたい。


将棋界は結構曲者というか、男の意地、プライドの塊のようなクセのある人たちの集まりでタイトル戦となると、その個性がぶつかる緊張感、とても小心者では我慢できないギリギリの線での精神のぶつかり合いのようなところがあった。


男って本当に子供みたいな生き物なんですよね。


要は、自分はここの部分は絶対引けないという線があって、そこの部分でぶつかるともう命がけになる。意地のぶつかり合い。


女性から見るとなんでそんなところにムキになってというような変に思われるところだろうと思う。


男にはそういう引けない一線というのが必ずあります。


将棋の世界って、そういう男のプライドのぶつかり合いというか、とにかく自分が夢中になっていた時代の将棋界の棋士たちは、本当に個性的な棋士ばかりで、自分を個性化するというか、自分のイメージ造りに長けていて、棋士同士の対決は、まさにその個性のぶつかり合いで、真剣勝負。


だから負けるとその屈辱感は自分の個性イメージを傷つけることになる。


だから余計に真剣勝負の度合いが深い。

観戦しているほうが胃がキリキリしてくる感じだった。


自分が、夢中になっていた時代の棋士って、


中原誠
大山康晴
米長邦雄  
二上達也  
加藤一二三 
有吉道夫 
内藤國雄   
大内延介 
桐山清澄 
勝浦修
森安秀光 
森雞二   
青野照市 
田中寅彦 
谷川浩司


このあたりですね。


田中寅彦棋士なんて、昨日テレビで本当に久しぶりに見たけれど、歳とったよなー。(笑)ボクのイメージでは永遠に自分が子供の頃のあの若い青年イメージしか残っていない。


自分は、中原誠名人の大ファンであった。


本当に個性的な怖い方、猛者ばかりの中で、「棋界の太陽」と言われるほど、その人間性、全体の雰囲気に品格があって、それでいて強いというところが自分はなんとも堪らなかった。


自分の時代は中原名人の全盛期だった。


大山康晴15世名人から名人位を奪取し、その後9連覇。通算でも名人位15期。名人位以外にも各タイトルも奪取し、いまでいう四冠王、七冠王とかタイトル独占することをやった走りの人だった。永世16世名人を獲得し、他のタイトルも多くの永世位。


本格派の居飛車党で、「自然流」と称された。原田泰夫さんが名付け親で「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し回し」という意味合いだ。玉の堅さよりも盤面全体の支配を重視する独特の大局観が特徴。また、「桂使いの名手」と言われるほど桂馬の使い方が巧みであり、中原の勝局には桂の好手が現れることが多いと言われていた。


大山戦での「振り飛車破り」、大内戦での「穴熊破り」、内藤戦での「対空中戦法」と、相手の得意戦法を次々と打ち破った。


当時振り飛車が流行し始めたころで、大山15世名人が十八番であった。自分はどうしても振り飛車が好きになれず、居飛車、それも当時は矢倉が正統派の主流戦法とされていた。


中原名人に惚れてしまったのは、とにかく居飛車で、強烈な個性というよりは、あくまで本当に自然流で、相手の得意戦法を次々と打ち破るのがなんとも格好良かった。紳士的で穏やかなその風貌で、自然に勝ってしまうのが、なんとも格好良かった。


バランスが取れていて憧れましたねぇ。


その中原名人が対局しているのを唯一見れるのは、NHK杯だけだったので、中原名人が登場するときは、必ず見ていました。


当時の自分はもちろん居飛車党で、矢倉を相当勉強していました。(あと記憶にあるのでは棒銀戦法とか。穴熊は邪道だと思っていました。(笑))


中原さんは1970~1990年代に活躍した棋士だが、自分が夢中になっていた中原全盛期のときは1970年代の時を見ていたのだと思う。


その中原誠名人の当時の強烈なライバルといえば、大山康晴、米長邦雄、加藤一二三といったところだろう。とくに米長邦雄さんとは永遠のライバルで、まさに昭和時代の中原・米長時代という一時代を築いた。1年間の全タイトルのほとんどを中原・米長で占めることも多かった。


米長さんの言った言葉。「1年のうちで、女房といる時間より中原さんといる時間の方が長い。」との名言は有名だ。自分が将棋に夢中になっていたときは、この中原・米長時代の全盛期だった。


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米長さんは青年期から人間性を「さわやか流」と評され、一方で将棋は「泥沼流」とも言われたが、各界の多くのファンに愛され、棋界随一の人気者だった。


米長邦雄さんが多くのファンに愛されたのは、言動の面白さもあるし、有名な「米長哲学」をはじめ、「兄達は頭が悪いから東大へ行った」の逸話をはじめ、自らの伝説化に長けていたのも大きいだろう。


かなりショーマンシップに溢れていた人で、そういう自分のキャラクター売り込みが上手で、そういう自分が発信するそれらの逸話に将棋の地位を向上させたいという意思を読み取る必要もあるのだが、ともかく何より彼が強く、そして負けても美しかったからではないだろうか。


まじめな中原さんに、ショーマンシップ、リップサービス上手の米長さんという図式。


だから余計にその中原・米長対局の場合は、そういうメディアが好みそうな構図が出来上がって絵になってしまうのだ。絶好の記事になりやすいのだ。


とにかく当時1年中のタイトル戦はほとんど中原・米長という感じだったが、勝率は中原さんの勝ちの方が多かったと記憶している。将棋界や新聞社メディアも、中原・米長時代を堂々と宣伝していたし、それ一色だった。


自分がびっくりしたのは、米長さんが晩年に鳥取砂丘で全裸ヌードになったことだ。(笑)これは衝撃であった。(笑)


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とにかくショーマンシップに溢れる人だった。


中原名人9連覇で、ついに名人位10連覇か!という1982年。自分が忘れもしない高校生3年生。


中原誠名人×加藤一二三十段の第40期名人戦


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いまのみなさんは”ひふみん”ですっかり有名な加藤一二三さんだが、ボクの世代では、とてもいまのキャラが信じられないです。(笑)


すっかりイメチェンに大成功ですね。


加藤さんは、本当に熱血漢で、ちょっと変わっている人という感じなんだけれど、「神武以来の天才」と言われたまさに藤井くんの大先輩だ。


本当に現役時代はすごい人だったのだ。対局中に相手側の背後に回って、将棋盤の対局面を眺めるなど結構寄行が話題になった。(笑)


自分にとって、加藤さんの存在が圧倒的に輝いて見えたときは、中原名人が名人戦九連覇を成し遂げて、この十連覇を成し遂げるか、というときに、当時の加藤一二三十段が挑戦者になり、名人戦史上稀にみる大激戦名勝負を繰り広げ、中原さんの十連覇を阻止したときだった。


名人位といったら、中原さんしかとてもイメージ湧かなくて、九年間もそうだったので、そこに加藤一二三名人誕生になったときは、かなり違和感と悔しかったです。


中原ファンとしては、加藤さんの存在は忘れようにも忘れられない人だったのだ。


みんな”ひふみん”ってアイドル視するけれど、ボクには本当にこの頃のすごいときを知っているから加藤さんなのである。


名人戦というのは、普通七番勝負、先に四勝したほうが勝ちだ。でもこの戦いは持将棋に千日手2回と決着がつかない戦いが3回もあって、全部で十戦も戦ったのだ。名人戦のようなタイトル戦は、普通は旅館などを貸し切ってやるものなのだが、ここまでもつれるとは誰も思わず、旅館の予約が出来ず、最終戦は、ふつうの将棋会館でやる羽目になったのだ。


その最終戦も深夜におよぶ大激戦で、中原さんは自分の負けを先に読み切っていたようだけれど、加藤さんは気づいていないようで、最後に加藤さんが中原さんの玉の詰みを発見した時は、思わず「ひゃあー」という寄声を上げたことは有名な話だ。



この第40期名人戦こそ、じぶんの中でひふみん、加藤一二三が一番輝いていたときである。


あれだけ、中原・米長時代をメディアは唄い続け、中原さんから名人位を奪取したのは、米長さんではなく加藤一二三さんだった。


将棋の神様は米長邦雄を(加藤一二三がそうだったように)一度は名人にすると書いた記者もいた。しかし、例えば、谷川浩司が最年少名人になったとき、芹沢博文の「可哀相だが米長はもう名人になれない。一人ならともかく、二人に抜かれたら、もう抜き返すことは出来ない」という言葉も出たくらいであった。でも結局その後、米長さんは名人位につくことができた。それも宿敵の中原さんから奪取だ。


自分は米長さんのあのサービス精神旺盛のキャラクターが大好きだったのであるが、結構この日記を書くためにググってみると残念な記事にも出会った。



米長さんに近い筋からの記事だ。
読んだとき結構ショックだった。
自分のアイドル偶像が壊される感じで。


長年「小説新潮」で連載していたが、確か1998年のはじめのある回で、将棋の歴史上最強の棋士を十名選出している。現代の棋士では、木村義雄十四世名人、升田幸三実力制第四代名人、大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖、そして羽生善治(当時四冠)を選出している。


米長さんは2012年に亡くなられている。


この「将棋世界」の米長邦雄追悼号はなかなか異様だったという感想が老師を除く三人の口から出た。昭和と平成の棋界を代表し、日本将棋連盟会長のまま鬼籍に入った大棋士なのに、内藤國雄九段の文章がその代表だが、追悼号でそのダークサイドをここまで書かれた棋士は他にいないというので三人は一致した。


追悼号として見ると、羽生善治(当時三冠)をはじめとするタイトルホルダーの面々が寄稿して故人の功績を称えており、格好はついているものの、ライバルとして共に時代を築いた中原誠永世十六世名人は寄稿しておらず、かわりに(と書いてはいけないのだが)林葉直子さんが寄稿している。さらに書くと、米長邦雄門下で出世頭だった先崎学八段(当時)は書いておらず、かわりに(と書いてはやはりいけないのだが)米長の下で連盟理事として働きながら、彼に理事会を放逐された中川大輔八段が、その一件以降師弟は絶縁状態であり、死の床でも和解ができなかったことを書いているのは恐ろしいことである。


それは米長邦雄が、引退後も日本将棋連盟会長として将棋界において強烈な存在だったことのあらわれとも言える。1990年代後半は、中原誠十六世名人のスキャンダルもあり、中原・米長時代を築いた両雄が泥にまみれた形である。中原誠もそれが影響してであろう、気持ちよく勝てなくなり、米長邦雄の数年後には50代前半にしてやはりA級から陥落してしまった。結局、中原も米長も日本将棋連盟会長になるのだが、特に中原誠はそれまで「棋界の太陽」と言われ、名実ともに第一人者として棋界で人望と尊敬を集めていたのがたった二年で連盟会長の座を米長に明け渡すことになったのは、米長の強烈な権力志向もあるだろうが、やはり件のスキャンダルの影響は否定できない。


そして中原誠の後に会長となったのは米長だが、その理事会に前会長の中原が副会長として残ったのも一般の感覚からするとおかしな話で、スムーズな政権禅譲でなかったことが推測される。2016年に中原誠は日本経済新聞の「私の履歴書」を書いているが、ある回で当時について触れており、将棋連盟の理事会でともに働くにあたり米長といくつも衝突があったことを、あのときばかりは「さわやか流」とはいかなかった、といった表現を使っていた。



こんな記事である。(笑)
もう大ショックである。


中原さんのスキャンダルはいまでも覚えている。あれは本当にショックでした。でも人生誰でも失敗触れられたくないこと一杯ありますね。自分なんてそんな触れたくないことばかりです。


将棋の世界って実力、勝負の世界。


当然若い全盛期のときはいいけれど、歳をとってA級順位戦から陥落していくにつれ、老後の身の置き方など考えていかないといけない。


ひふみんのようにアイドル路線でマルチタレントとの道へ進めるのも稀な存在であろう。


中原さんは、解説や将棋促進のほうに進まれていると思うが、脳内出血や癌なども患われており、いったいいまはどのように過ごされているのだろうか?



大山康晴には、升田幸三というライバルがいて死闘を繰り広げた。
中原誠には、米長邦雄というライバルがいて死闘を繰り広げた。


ライバルの存在が実力を伸ばす。

まさにそうだろう。


藤井くんに、そのような永遠のライバル、そういうぴったりの構図が出てくることを期待する。


最後に当時の棋界の対局がいかに怖かったかのもうひとつの自分の思い出。


第36期名人戦七番勝負第1局(1978年3月15、16日)。いきなりの剃髪姿で現れた森雞二八段。対戦相手の中原名人はもとより、周囲の者も唖然としたという。この対局は森雞二八段が快勝した。


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これもよく覚えている。普段パンチパーマだった森八段だが、名人戦で丸坊主で臨んだ。これはちょっと異様な雰囲気でした。自分も絶対忘れられない名人戦です。


これで中原さん負けたら大変なことになっていたけれど、結局4勝2負で無事名人位を死守したのでした。中原名人時代の忘れられない1戦です。


だからこの時代、本当に男と男とのぶつかり合いというか、個性のぶつかり合いで負けられない緊迫感のような怖さがありましたね。


将棋も大学に入ってからスピンアウトしてしまった。だから中原さんや米長さんの晩年も知らないです。でもこの実力の世界、晩年の時代は寂しい限りなのでそれでよかったかもしれない。


中原さんの棋士歴の晩年の履歴をネットで拝見しているとやはり寂しいという気持ちしかわかないですね。中原さんは、引退記者会見のとき、「羽生善治さんとタイトル戦を戦ってみたかった。」と仰っていたそうです。


だから、その後の将棋界、谷川浩司以降、羽生善治、森内俊之の時代をまったく知らない。


羽生大全盛のときは、さすがにニュースで知っていますが、そこから入り込むほどの熱意もいまさらなし。へーという感じで終わってしまう。


そして藤井くんフィーバー。


まだ18歳ということもあって、本当にうぶな感じの性格で、怖い怖い個性派ぞろいの強者どもの時代しか知らない自分からすると、う~ん、やっぱり自分が歳を取ったのか、これがいまなんだよ、という印象です。


こんなことを言っている自分が老害なんでしょう。


藤井くん、ぜひA級順位戦まで昇って、名人位獲得してほしいです。


将棋界のタイトルで最高の名誉は名人位です!










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