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黒沼ユリ子さんの世界 プラハ編 [クラシック演奏家]

チェコやプラハのことを黒沼ユリ子さんのヴァイオリン人生を勉強しながら、学んでいこうと決意。


そのためにはご本人のご著書、そして音源を片っ端から集めて、それを少なくとも2回は読み込んでこの日記を書いている。


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読んでみて思うことは、とても音楽家、演奏家とは思えないほど文章力のある方で、作家、音楽評論家顔負けの筆致なのである。説得力のある文章で読者に強烈なインパクトを与える。


もちろん自身の専門である音楽のことについては当然なのだが、政治や社会情勢、歴史、そのほか文化一般において非常に幅広い知識を持っていらっしゃるので、それがその著書の中に混然一体となって、全体に散りばめられているような感じなので、驚くばかりなのである。


それはご本人が単に音楽の自分史だけに留まりたくはなく、チェコやメキシコなどの歴史、文化に至るまで広い視野で俯瞰した内容にしたかったという意思があると思うのだが、読んでいて本当に自分の素養が抜群に広がったような気がしました。


チェコにしろ、メキシコにしろ、少なくとも自分の人生の中には持っていないものですからね。


そういう意味で新鮮味があって、随分と面白かったです。


黒沼ユリ子さんは、音楽家というよりは、社会文化人というところまで裾野を広げて呼んでもいいのでは、と思います。ご本人は、あまりそういう呼び方をされるのをお好きではないようだが、メディアは”異色のヴァイオリニスト”というキャッチコピーの呼び方をしていて、これは確かに納得がいくような気がします。


いわゆる普通の音楽家、演奏家の人生ではないと思います。人生の2/3以上をチェコ、メキシコという海外にいらして、そこから日本を見つめ、考える。そういう人生だった、と振り返っています。


いまは日本に帰国され、千葉県の御宿に住んでおられます。


本人曰く、


マイナスをいかにプラスに変えるか、私の人生はその連続でした。十代でチェコに留学するときから「赤い国に行くんですか」「鉄のカーテンの中に行くんですか」と言われ、結婚してメキシコに行けば、「あんな闘牛とソンブレロとピストルの国に?」と揶揄されました。でも船出しなければ、嵐にも遭いませんが、それを克服したときの喜びもありません。さまざまな困難を乗り越えられたのも、言葉も年齢も関係なく、共有できる音楽の喜び、多くの人たちの有形無形の援助や励ましによるものです。


すべてへの感謝は伝えきれません。


音楽を上手に奏でられればいい・・・それだけが音楽家の生き方じゃない、と思っています。人間として言うべきことを、音楽家であれ、芸術家の誰もが言っていれば、私が”異色のヴァイオリニスト”じゃなくなるわけです。


これからも自分にできることを、できるところで、できるだけ真剣に、情熱をこめてやっていきたいと思っています。たくさんの人に何かを与えることができる芸術家でありたいですから。



この黒沼さんの自分史の著書ふくめ、ぜひ読んでほしいと思うが、この日記では、この膨大な自分史の中で、私がとても印象的だったところをピックアップして紹介していくような形に。あとで、著書の紹介とリンクを貼っておくので、もっと詳しく知りたい場合は、ぜひ著書を読んでみてください。


尚、日記中で使わせてもらっている写真の一部は黒沼さんのFBから、残りの大半はネットから借用しているものです。


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昭和15年に、東京の日本橋で麦や大豆、雑穀を扱う黒沼商店の四人兄弟の末っ子として生まれる。もちろん戦時中を経験される訳だが、やっぱりお父さんをはじめ、ご家族がクラシック家族だったようで、八歳のときにお父さんがヴァイオリンを買ってきてくれたそうだ。


もちろんとても家の収入に見合うものではなく、ずいぶんお父さんは怒られたようだが、八歳だったユリ子さんは嬉しくて嬉しくて堪らないという感じ。それがヴァイオリンとの出会い。


そんな感じだから、もしユリ子さんがヴァイオリニストへの道を歩まなかったなら、それこそ多くのお金をかけて、親戚中から「ユリ子ちゃんにヴァイオリンなんかやらせて」という陰口もいわれて、プロにならなかったら、親不孝といわれるような大変なプレッシャーな状況だったという。


中学三年のときに桐朋のAオケに入り、演奏旅行にも参加。当時、齋藤秀雄先生に指揮を習っていた小澤征爾さんが、大勢の前で叱られていた時代だそうです。(笑)


その当時コンクールに一位になったら、海外に出るのが当たり前の時代。でも家計の状況からそんな余裕もなく。


そこで新聞に「チェコスロヴァキア政府招待給費留学生募集、音楽家三人、言語学者一人」という募集を見つける。もうひとつの明記に「医療費も補償」とある。


社会主義国で初めて日本からの留学生を募集したのがチェコであった。政府の給費留学生で医療費まで出るなら、ほぼどこでもよかったそうですが、チェコの国というイメージは全くなし。ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲や交響曲「新世界より」が好きだったくらい。


ヨーロッパではチェコは「弦楽器奏者のふるさと」と呼ばれていることも知らなかった。


留学実技試験に無事合格し、すぐ外務省に行ってくださいと言われ、いろいろ手続き。でも渡航費はご自分で用意してください、とのこと。なんと二十五万。いまの五百万くらいだそうです。それも渡航まで一か月間。ずいぶん困ったそうですが、親戚からの工面などいろいろ苦労して、なんとか事なきを得たそうです。



一体プラハで私はどのような先生に巡り合えるのだろうか?とそんな多少の不安と大きな期待を持っていたところ、戦前にプラハにいらしたことのある往年の名ヴァイオリニスト鰐渕賢舟氏を訪ねることがあった。


そこでチェコのことを「弦楽器奏者の故郷」と呼ぶことの意味を知った。


「ヤン・クーベリックという世界的に有名な大ヴァイオリニストがいたでしょう。あの人はチェコ人でしたし、大作曲家のドヴォルジャークもそもそもはヴィオラ奏者としてスタートした人ですよ。ヨーロッパではチェコのことを”弦楽器奏者の故郷”と呼ぶくらいなんです。ベンダ兄弟やシュターミッツなどのマンハイム楽派の頃からチェコの弦楽器奏者は優れていて、つまり弦楽器教育がとても盛んで長い伝統がある。そして弦楽器奏者はみんなから大切にされ、愛され、尊敬されている国ですよ。」



●チェコで人生が一変する。


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プラハ音楽芸術アカデミーに留学。F.ダニエル教授の最後の弟子となる。18歳。


留学してプラハの音楽芸術アカデミーに入り、寮生活が始まる。将来音楽ジャーナリストや音楽に関する職業につく人々にも開かれたコンセルヴァトワールと違い、音楽芸術アカデミーは全員がプロの演奏家を目指す教育機関である。


そこで大変幸運だったのは、そこの音楽学部長フランティシェック・ダニエル先生が、ヴァイオリンの教授だったこと。ダニエル先生はその昔、世界的指揮者ヴァーツラフ・ターリッヒ時代のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターであったり、さらに作曲家アルバン・ベルクのヴァイオリン・コンチェルトのチェコ初演で独奏されたり。


ダニエル先生は190cmくらいあって、お腹こそ出ていませんが、体重150kg前後・・・当時の黒沼さんは150cmでヨーロッパでは13歳か14歳にしか見られなかったようです。


ダニエル先生は週一回のレッスン室とは別に、学部長としてのエレガントなサロンも持っていらして、そこでも時間を探してはレッスンしてくださったそうです。



**********

このときのエピソードで自分が非常に気に入った箇所がある。
それがその後の黒沼さんの人生を決めるうえで大きなトリガーになるようなところだと思う。

**********


ダニエル先生は、当時のダヴィッド・オイストラフとも知り合いで、オイストラフのコンサートに一緒にでかけたときのこと。


ベートーヴェンの協奏曲を聴いた後、ダニエル先生は私を楽屋でひと休み中のオイストラフ氏に紹介してくださった。


「私の日本人の弟子です。」


そしてそれ以後、オイストラフ氏が毎回プラハでのコンサートに来られるたびに、私にレッスンをしてくださるように頼んでくださったのだ。オイストラフ先生のレッスンがなによりも素晴らしかったのは私の目の前で、すぐ隣で、まるでステージ上でのような真剣な生の演奏でいろいろな勉強方法を教えていただけたことだ。


幸か不幸か、それ以前の私の先生方は、実際にヴァイオリンを弾きながら教えてくださる方はほとんどいなかった。理論的に様々な奏法を研究して口で教えていただくのと、実際にその場で弾いてみせて頂くのとは次元が異なる。それまで暗中模索していたような弾き方とか、表現方法が、まるで、”目からウロコが落ちる”ように、体得できたりするのだ。


この体験の重みを知っているからこそ、私はまだ自分が弾けるうちに、歳をとりすぎないうちに、メキシコでの「アカデミア」を開く決意をしたのだった。


それは私はちょうど私が四十歳になった年で、まだまだ演奏活動も内外で忙しくしていた時期。教師と演奏家の両立には、いろいろな犠牲を強いられたり、無理も重なったりしたが、恐れ多くも<オイストラフ先生は立派に両立させていらしたではないか>が常に私の頭の中にあり、生徒たちには教師がまず弾いて、聴かせて、見せて、本人に自分の演奏のどこが、どのようにヘンなのかを気づかせてから説明をすることを、現在も私どもの「アカデミア」のモットーにしている。



***********

ここは自分がすごく大好きな箇所なのである。いまでこそ、音楽家の方々の生徒たちのレッスンって対面式が普通なのでしょうけれど、この時代はとても珍しいことだったんですね。


それ以来オイストラフ氏とのレッスンを受けることができた黒沼さんであったが、オイストラフと言えば、自分はどうしても、黒沼著書”ドヴォルジャーク”の中で忘れられない印象深い記載がある。


自分は誰に対しでもそうだけれど、その人があることに拘りを持つ面がとても好きである。ある意味、一種の尊敬の念を抱く。その人がそれに打ち込む、それって他人からはわからないことかもしれないけれど、そういう面を持っているということがすごく微笑ましいし、嬉しいのである。


それは自分の性格が、”思い込んだら命懸け”というタイプの性格で徹底的に知り尽くさないと、徹底的にやらないと気が済まないという性格に依存するところからなのだろう。


そういう面を持っている人を自分はすごい尊敬するし、自分に近いという親近感を抱くのかもしれない。そういう自分をくすぐる記載の箇所を紹介したいと思う。


黒沼ユリ子さんのドヴォルジャーク伝記の著書に記載されている箇所だ。

長いので申し訳ないが、私の方で意訳させてお伝えする。



************

それが1950何年のことだったのか、あまりはっきりしてはいないのですが、とにかく私が中学か高校の時だったことは確かです。朝八時になるのを待つようにして家をでると、東京の繁華街、原宿へ出かけました。小脇には一冊の楽譜が大切にかかえられていていました。


商店のシャッターはまだぴたりと閉まっており、街全体には、何ともいえない、”眠む気”が満ちているような雰囲気が漂っています。


~まだあいていないかしら?


「いらっしゃいませ。どうぞ、今開けるところですから・・・」


琥珀・純音楽喫茶


人気のない、狭い喫茶店の中には、小さなテーブルと椅子がびっしりと、縦に二列並んでおり、その小さな空間とは、どう比べてみても不釣り合いな、畳一畳分くらいの大きさのスピーカー・ボックスが正面に「でん」とすえられていました。


ここは当時、流行していた音楽喫茶店の中でも「リクエストに応じる」ことで有名だった店のひとつだったのでした。


~あるといいんだけどなあ、この曲。

真っ白い小さなエプロンをしめた女性がやってきた。

「ご注文は、コーヒーとトーストですか?」

と聞く彼女に、わたしは小さな紙きれをわたしたのです。


「あのこのレコードあるでしょうか?」

”ドボルザーク、ヴァイオリン協奏曲、独奏ダヴィッド・オイストラフ”


「ドボルザークのヴァイオリン協奏曲ですか?さあ、ちょっと調べてみます。”新世界”や”チェロ協奏曲”なら
何種類もありますが。」


怪訝そうな表情でそう言って、奥に入ったウエイトレスが、ニコニコしながら再び出てきて、


「ありましたよ。つい最近、入荷したばかりで、まだ、うちのコレクション・リストには載せてありませんでしたけれど。」


と言うのを聞いて、一瞬、わたしは飛び上がりたいほどうれしく思い、次の瞬間、


~さあ、これでこの曲のオーケストラ伴奏のが聴ける。


と思うと、緊張で自分の体が固くなるのを感ぜずにはおれませんでした。


わたしは、ピアノ伴奏の楽譜を大きく開くと、今かと、今かと、スピーカーボックスから音が鳴りだすのを待っていました。そしてついに針がレコードの上にのった「ピシッ」という音が聞こえたかな、と思った二、三秒後に、わたしの背筋が「ぞくっ」としたのです。


オーケストラの全奏によるイ短調の、何かを問いただすようなフォルテの前奏が響き渡りました。(中略:曲の演奏の説明)


~すごい。圧倒的なこの導入部。


伝統的な協奏曲の形式というのは、オーケストラによる長い前奏が第一主題も第二主題も提示してから、やっと独奏者が登場する形なのですが、この自分にとっての未知な曲の冒頭から、このように斬新なスタイルに出会い、わたしは誰かに胸倉をつかまれて、前後に強くゆさぶらたように驚き、感動しました。


~やっぱりオーケストラ伴奏でなくてはだめだわ、と合点しながら。


こうしてわたしは、生まれて初めてドボルザークという作曲家のヴァイオリン協奏曲と対面し、その美しいメロディーと、リズムの楽しさに胸をおどらさせられ、しばらくの間、この曲以外のことは何も考えられないほど、とりつかれてしまったのです。


当時の「十大ヴァイオリン協奏曲」という楽譜のアルバムには入っていなかったドヴォルジャークの協奏曲のことを、どこからどう知ったのか、わたしの手には、高価なピアノ伴奏版の輸入楽譜がありました。


夢中になって聴き終わったわたしの周囲には、いく人かの客が席をしめて、別の曲をリクエストしていたため、初めて聴いたこの曲に興奮していたわたしも、もう一度この曲を続けて聴くことは許されません。ただ夢のように。


~いつか本格的にこの曲に挑戦し練習を積み、ちゃんと弾けるようになりたいなあ。


とこの日に思い始めたのは確かです。


それから、どのくらいの時が流れたでしょうか。


ある日わたしは、新聞の片隅に、特に片隅に、特に何も目立つ様子でもなかった小さな記事を見つけたのです。「チェコスロヴアキア政府より、日本の音楽留学生を招待する旨の連絡が外務省に入り・・・(中略)文部省がその選考を行う。」と。


そして、この小さな記事がわたしの目にとまったことが、その後の自分の人生の歩みを、こうも大きく同級生の仲間たちのものと違うものにするであろうとは、夢想だにせず、ただ単に、


~あの、すてきなヴァイオリン協奏曲の作曲家の国に行けるのなら。


と考え、初めての体験として、その「留学生試験」を試しに受けてみたのでした。



それから三年半の、さまざまな新しい経験を積み上げた時間がたって、今度はプラハ空港から飛び発ったとき、私の手荷物の中には、赤と黒の表紙を付けた二冊の大切なものが入っていました。


黒い方は、堅い表紙付きで製本された、二十枚ほどのタイプで打たれた紙の束で、第一ページにはチェコ語で「ドヴォルジャーク作曲 ヴァイオリン協奏曲・イ短調、作品五十三番の演奏における解釈と諸問題」と書かれてあり、それはわたしの卒業論文でした。


そして、もう一つの、赤い皮表紙の手帳のようなののは、「卒業証書(デイプロム)」です。


この年、わたしはプラハ音楽芸術アカデミーを無事ヴァイオリニストとして首席で卒業していたのです。こうして、わたしの「夢」は「現実」のものとなり、ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲を、わたしが「卒業演奏会」のために選んだことは、申すまでもありません。


************


うぉぉぉ~ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲?


はて、どんな曲だったっけ?(笑)


超ヴァイオリン好き、そしていままでありとあらゆるヴァイオリン協奏曲を実演、オーディオで、聴いてきた自分にとって、ドヴォルジャークのコンチェルトと言われても、お恥ずかしながらピンと来なく、すぐに思い出せませんでした。


これはすぐにCDを買わないと。

しかも独奏はダヴィッド・オイストラフでないといけない。(笑)


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ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲、グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲、
カバレフスキー:ヴァイオリン協奏曲、オイストラフ(vn)コンドラシン、カバレフスキー



1949年録音だ。時期的にこれだろう?

もちろんモノラル音源である。


モノ音源は再生した場合、自分のシステムがピシッとセンターに定位していることを試される非常に怖い音源である。(笑)


普段モノ音源なんてかけないからね。


いい曲でした。聴いたことありました。第3楽章がとてもいいですね。この楽章でピンと来ますね。あっ聴いたことあるって。導入部は確かに普通のコンチェルトと違って、特徴ありますね。


それにしても、自分はこの著書ドヴォルジャークの中でもこの記載が好きで好きで、こういうなにげない体験が人によって、その後の自分の運命を決める瞬間だった、でもそのときは、そんなことなんて本人は知る由もなし。後年に振り返ってそうわかる、という運命の糸の話にすごく感銘します。


人生長く、深く生きていないと体験できませんね。


しかもオーディオマニア的にとってもこのさわりはどうしても引っかかりますよね。たぶんはスピーカーはJBLだったと思います?(笑)



そうやってチェコで研磨を積んでいき、1962年5月、国際音楽祭「プラハの春」に出演。トゥルノフスキー指揮、プラハ市交響楽団でスークの「ファンタジー」を独奏。芸術家の家(現在のルドルフィヌム)のドヴォルジャーク・ホールにて。21歳。


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そして、


「どうぞ、ここにお掛けください」


ほんのなにげない一瞬の出会い、そんな偶然が人生を変えることもありますね。
そのときに出会ったメキシコ人の考古学者と一瞬に恋に落ちて、そのまま結婚。

1960年 プラハで挙式。


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メキシコで新たな人生を送る運命に。


人の人生を他人が語るのは難しいですね。
正確に語ることは無理です。


やはり自分史は、ご本人の著書を読んでいただくに限ります。
ぜひ読んでもらいたいです。



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黒沼ユリ子 ヴァイオリンで世界から学ぶ
 (のこす言葉 KOKORO BOOKLET)




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ヴァイオリン・愛はひるまない―プラハからメキシコへ




1番最初の本が、1番新しい本で最新の近況まで入っているものですね。2番目の本が最初に書いた自分史の本です。


新しい本は、やはりいまの人にわかりやすいように、優しい丁寧な言葉遣いで書かれていて、わかりやすい感じです。普通の人はこちらのほうがいいですかね。


自分はもちろん新しい本も好きですが、2番目の本の方が尖った感じで、心にグサッと刺さる感じでいいです。この日記では紹介できませんでしたが、チェコ時代は、自分の音楽人生だけでなく、当時の社会主義体制のチェコについて語っている部分も印象的です。


チェコ(チェコスロヴァキア)は、亡国民族で長い間オーストリア・ハンガリー帝国に征服されていて、公に自国語チェコ語を話せず、公用語はドイツ語、そういう自分の言語を自由に話せない環境。


我々日本人にはとても想像しがたいことでしょう。


いつぞやチェコ人は、音楽の中に自分達の生きがいを見出し、自分たちの言語や音楽で芝居やオペラが上演される場所をもつことを夢見るようになる。


スメタナの言い残した言葉の中に「チェコ人の生命は音楽の中にあり。」。


そこら辺のチェコ独特の事情についても熱く語っています。

随分勉強になりました。


黒沼ユリ子著「ドヴォルジャーク」はぜひ読んでほしいですね。初心者向けのわかりやすいドヴォルジャーク伝記ですが、これを書くに至って、どれだけ大変なことだったか、自分は読みながらその記載事項、掲載写真の出処は大変だったろうな、と考えながら読んでました。


読んでいるうちに、無性にドヴォルジャークを聴きたくなりました。(笑)


ドヴォルジャークは久しく聴いていないので、もうちょっと音源を聴き込んで完全に自分のものにして、改めて、この著書とドヴォルジャークについて、日記で書いてみたいです。


(チェコ語の発音を日本語で表記することは大変難しいことらしく、より正確なチェコ語の発音に近いとするならば、ドヴォルジャークのルは小文字らしいのですが、それはPCのタイピングで不可能なことのようなので、そこら辺をご承諾ください。黒沼著の本は、きちんとルが小文字になっています。)











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コメント 5

黒沼俊子

プラハ編、とメキシコ編の両方と音源を聴くを拝読して、黒沼ユリ子に
関してここまで、深く広く記述した例をしりませんので、驚き、また大変嬉しく存じます。一つだけ、訂正があります。生まれが日本橋は、父の事です。また、メキシコ編に岩波新書の2冊「メキシコからの手紙」と「メキシコの輝き」に触れていませんね。これは重要です。また音源として、昨年の12月にオフィス・アミーチからリリースされたCD「わが心のメキシコ」をぜひご視聴ください。また2020年8月に74年ぶりに復刻された音楽評論家の宮澤縦一著「傷魂」を黒沼ユリ子が実現させたことの意義。これもぜひご一読ください。最新情報として今月22日に「ユリ子おばちゃんのおしゃべりえほん『ゆびのこと、しってる?』」(冨山房インターナショナル)が、初めての絵本として
出版されました。余計なことかもしれませんが、お赦しください。
by 黒沼俊子 (2021-06-18 23:02) 

ノンノン

黒沼俊子さま、

メッセージありがとうございました。大変嬉しく存じます。
日記でも記載しましたが、もともと自分はプラハにとても興味を持っていて、ぜひプラハの春・音楽祭を訪れてみたい、という計画があったのです。それに引っ掛けてウィーンとブルックナーのリンツを周遊するという予定。プラハはとても美しい街で自分を魅了します。プラハの魅力にすっかり参ってしまっています。かなり自分好みというか、自分のアンテナにビビッとくる街です。

そんなときに池上彰さんの番組で、プラハの特集をやっていて、そこに黒沼ユリ子さんが出演されていて、当時のプラハの春の社会情勢をとてもリアルに思い起こしてインタビューされていたのを拝見して、これだ!と閃いたのです。そのインタビューがとてもリアルで、その当時を知っている人でないと絶対に語れない生々しさ、そして黒沼さんのインテリジェンス、知性溢れる言動に、かなり感動しました。

黒沼ユリ子さんはFBで存在を存じておりましたので、クラシックの音楽家であること、黒沼ユリ子さんについて自分なりに特集して、プラハについて盛り上げていこう!と思いついたのです。

本来であれば、黒沼ユリ子さんにご承諾を得るプロセスがあったほうがよかったと思いますが、私はプロのメディア媒体でもないですし、素人のブログで個人的に楽しんでいるレベルですので、そのまま決行させていただきました。

そうしたら、黒沼ユリ子さんのご著書をいろいろ読むにあたって、あまりにその文章力、説得力のある筆致ですっかり参ってしまい、大感動しました。これは素人の自分の力はかなり微力ではありますが、ぜひ黒沼ユリ子さんのことを世間に再度、認知してもらいたいという熱望が沸き上がったのです。

自分の性格は、自分がすごく感動したことは、ぜひみんなにシェアしてその感動を分かち合いたいという性格ですので、そういう経過となってしまいました。(この性格は直しようがない。。。(笑))

自分の日記で、黒沼ユリ子さんの特集をすることで、自分がどの内容について言及するかを選ぶ作業だったり、自分が書くことになりますから、黒沼さんのご著書を通して、随分勉強させていただきました。

ご著書をどんどん読み漁っていくにつれて、なんか自分もプラハやメキシコで日常生活を送っているような感覚に錯覚し、ものすごく楽しかったです。2020年はコロナでどこも外出できない年でしたので、この一連の黒沼ユリ子特集日記は、この年の自分の最高傑作と言っても過言ではなかったです。

ご指摘のご著書とCD、さっそく購入して、またその感想を日記にしてみますね。また久しぶりにあの黒沼ユリ子ワールドがカンバックできるのはすごい楽しみです。

日本橋の訂正箇所、承知しました。

このたびはメッセージとても嬉しかったです。ありがとうございました。
by ノンノン (2021-06-19 10:14) 

黒沼俊子

早速のお返事、さすがです。4歳年上の姉として60年間付き合ってきた妹のことなので、気になったことを書いてしまいました。今はコロナでずっと閉めていますが、コロナが収束しましたら御宿のヴァイオリンの家にいらしてください。また、私たち二人で入居している老人施設「ラビドール御宿」には素晴らしいコンサートホールがあり、ここで、もう演奏は無理ですが、コンサートや講演会を企画しますので、それにもお誘いしましょう。
by 黒沼俊子 (2021-06-19 10:47) 

近藤一仁(コンドウ カズヒト、73歳のクラッシク音楽ファン)

ノンノン様 突然のメールで大変失礼します。
昔、買っていて熟読していないままにしていた子供向けの「ドボルザークの伝記」黒沼ユリ子さん著の最後に「ドボルザークのヴァイオリン協奏曲」に興味をもったことが縁でプラハに留学されていたことを知りました。メキシコとの関係が強いことは以前から知っていましたが、私にとってクラッシック音楽入門だったドボルザークとの縁で黒沼ユリ子さんの演奏したレコードやCDを集めてみようと思っています。早速、ヤン・パネンカさんと共演したCDを昨日注文したばかりです。蛇足ですが、作曲家の胸像を沢山集めていまして、その作曲家の音楽を聴くとき、胸像を回転しているプレーヤーの上に置いて聴くと格別な感動があります。ドボルザークも苦労してチェコから購入しました。昨晩もヨゼフ・スークとヴァツラフ・ノイマンのヴァイオリン協奏曲を久しぶりに聴きました。日本コロンビアのLPです。
by 近藤一仁(コンドウ カズヒト、73歳のクラッシク音楽ファン) (2021-10-18 09:07) 

ノンノン

近藤一仁さま、メッセージありがとうございました。またメッセージをいただいていることに気づくのが遅れて申し訳ありませんでした。黒沼ユリ子さんことに興味を持っていただき、その音源を購入して聴いていただけるのは、私としてもとてもうれしく感じます。ドボルザークのヴァイオリン協奏曲は、なかなか実演では演奏される機会の少ない曲ですが、とてもいい曲ですよね。1回聴いたらなかなか耳から離れない曲だと思います。ドボルザークがクラシックの入門のきっかけだったんですね。黒沼ユリ子さんは、そのご著書に「ドボルジャーク」という伝記本を書かれています。ぜひ読まれてください。ドボルザーク・ファンなら間違いなく感動します。

作曲家の胸像を集められるというのは、なかなか趣のあるいい趣味でございますね。素晴らしいと思います。部屋のインテリアとしても、クラシック好きにとってすごく雰囲気のあるいいデザイン風景だと思います。そのような個人の秘かな趣味はとても微笑ましく思います。ぜひとも長らく続けて、全作曲家の胸像を集めてくださいませ。(笑)
by ノンノン (2021-10-23 16:20) 

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