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名古屋いろいろ [国内旅行]

今回の旅行でつくづくわかったことは、名古屋は、やはり大都会であるということ。それも半端ないくらい大都会だと思う。


でも不思議なことに、大阪、京都方面に新幹線で行くことはあっても、名古屋はその途中駅というイメージがあって、なかなかそこに降り立つということがなかった。


人生で初めて名古屋の街を歩いたのは、5年前の2015年のアラベラ・美歩・シュタインバッハー、ヘンゲルブロック&NDRの東京、大阪、愛知弾丸ツアーの追っかけをしたときが初めてだったのである。


あとは、2回ほど岐阜サラマンカホールに遠征するとき、新幹線で名古屋乗り換えで、そのときに住よしさんの立ち食いきしめんを体験するくらいであった。


人生50代後半にもなって、それじゃいかんだろう、ということで、今回思い立って、徹底的に名古屋を楽しもうと思ったのである。


本来であればコンサート付きで実行したかったが、あいにくのコロナ禍。
もうそれは仕方がないだろう。


たった1泊2日だったけれど、それでも十分名古屋のことを楽しめたし、来てよかったと思う。もちろん、在住の方や出身の方からすると、たった1泊2日で、しかも観光地だけでなにがわかるんだよ、というツッコミはあると思うが、そこはご容赦ください。


JRや地下鉄で、今回頻繁に使ったのが、東山線、名城線、あと名鉄線かな、これはフル稼働で、これを使っていろいろな街、観光スポットに行きました。時間の関係上タクシーを使ったところもありましたが。(笑)


そうするとやっぱり大都会だよなぁとつくづくと感心するのである。


愛知県、名古屋は、自分の故郷の北海道ととても似ているところがありますね。それは子供の頃からずっと抱いていたことだけれど、それは街が碁盤の目状に区画整備されていること、そして交通事故が多いことです。


全国の交通事故件数は、いつも北海道と愛知県がトップを争っているんですね。これは有名なことです。自分の子供の頃からずっとそうでした。(いまは知りませんが。)


そんな観光地ではない、名古屋のふつうのところを写真で納めてきたものをお披露目しようという雑談がこの日記の目標である。



名古屋駅。
後ろに高層ビルがそびえ立っている。
都会だよなぁ。


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名古屋駅(太閤通口)から見た正面の図。
あの正面の名鉄ニューグランドホテルが、自分の宿泊したホテルでした。
いいホテルでした。


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名古屋駅は広くて近代的です。


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名古屋駅には、”なごやめし”を食べさせてくれる飲食店専門アーケード街があります。
あの台湾ラーメン「味仙」の名古屋駅前店もここにあります。


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太閤通口と桜通口に出口があって、新幹線乗り場は、太閤通口のほうにあります。
自分のホテルも太閤通口側にあります。


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だからいつも地下鉄であっちこっちに行った後、名古屋駅に戻ってきたら、いつも、掲示板で新幹線乗り場方面はどっち?それがわかれば太閤通口も近く。。てな感じで自分の方向感覚を養っていました。それでも名古屋駅はすごい広いので、出口から出て、ふっと放り出されると自分がどこにいるのかわからなくなります。


なぜ太閤通口と言うのか、代々徳川家の領地であったところなのに・・・と疑問に思っていたところに駅にこんなポスターが!(笑)


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いまNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、佐々木蔵之介さん演じる藤吉郎(豊臣秀吉)のポスターが貼ってありました。ネットで調べてみたところ、太閤にはじまって「千成通」=「千成瓢箪」「清正幼稚園」などなど豊臣秀吉と加藤清正の生誕地ですので地名や学校名に、その名を残しています。


ですから身一つで、立身出世して、天下人まで上り詰めた歴史上の人物から肖ったものでしょう。それと、もう一つ言えるのは名古屋市は家康の命により、西からの備えの最重要拠点として尾張藩を開き、代々尾張徳川家の治めていた国でしたから、当然徳川の遺産・威光は数多く残されていますが、中村区だけは(中川区は前田利家)豊臣家の威光の足跡を残したいと言う、地元の民の強い願いが後世に反映された賜物だと思い地元中村区の出身の者としては、誇りである又、粋な文化だと自負致します。


名古屋駅の太閤通口だけでなく、名古屋市の中村区に太閤という地名があるのです。
それにちなんだ解説でした。

納得いきました。


まず東山線で栄という街に。
名古屋の街で一番の繁華街はどこ?そこに行きたいと思ったのですが、よくわからなく、なんとなくネットでも栄が一番出没率が高いので、栄にしました。
ここにはテレビ塔もあるし。


栄の駅を降りて、ちょっと通りを撮影。
遊園地の観覧車が街中にあるんですね。(笑)


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まずテレビ塔のすぐそばにある愛知芸術文化センター。


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コンサートホールである愛知県芸術劇場はこの施設の中の一施設です。
愛知県芸術劇場は、ワインヤードの最新設計の近代ホールで素晴らしいホールですね。
音響もじつに素晴らしいです。

懐かしいです。


5年前に、このホールを体験できました。

アラベラさん、ヘンゲルブロック&NDRのツアーでした。
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。


そのときのカーテンコール撮影。(この頃は怖いもの知らずであった。(笑))


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もうこのときの想い出は自分の中で永遠に生き続けることでしょう。


一生の宝物です。
この想い出を大事にして生きていきたいです。



そして名古屋テレビ塔。
シルバーなんですね。


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東京タワー、スカイツリー、そして札幌テレビ塔と、数々の放送電波塔を見てきた経験からするとシルバーというのはなかなか渋いです。


テレビ塔の中に入って展望台に上がって、街内を見下ろしたいと思っていたのだが、朝早かったので、まだ開いておらず、しかたなくその前にテラスで休憩。この日は雲一つない快晴であった。


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ついでにホットドックの朝ごはん。
美味しかったです。


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テレビ塔のふもとには、いかにもイギリスらしいこんなお洒落な英国パブが!
思わず思いっきり反応してしまいました。


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時間になって、テレビ塔の中に入る。
エレベーターで展望台へ。

途中階で下車して、そこから別エレベーターで昇る二段階ですね。
その最初で降りたフロアでちょっとフロア内を歩いてみました。

おみやげショップあります。


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そしてこんなタワーラウンジというお洒落な空間があります。


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展望台に上りました。
こんなフロア。


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そして名古屋の街を一気に俯瞰。

いやぁ本当に大都会ですねぇ~。
街が碁盤の目状に区画整備されているのがよくわかります。


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いつか名古屋にきたときに、楽しんでみたいと思っていたことに、ジャズ歌手のケイコ・リーさんのライブを、名古屋ブルーノートで生体験したい、と昔から思っていたのでした。


そのコンサート日程に合わせて、名古屋をエンジョイしようと思っていたわけ。ケイコ・リーさんは東京、大阪はじめ全国で活躍しているジャズ・スターだが、本拠地は名古屋においていらっしゃる。


やっぱりそこの本拠地でライブ体験をしたいという夢があったんですよね。2000年代前半だったかな、ケイコ・リー・ライブを東京のありとあらゆるライブハウス、ライブレストランで徹底的にハシゴしていた時期が懐かしいです。


お金を湯水のように使っていましたから。

予算体力があって、若いときは、もう徹底的にやらないとダメですね。
徹底的にやるからこそ、それが血肉になって、晩年になって熱く語れるんです。
その素地を養うには、湯水のようにお金を使わないとダメです。
身にならないのです。


徹底的にやった経験がないと、自分の血肉にならないんです。


その最終形を名古屋ブルーノートで、という夢があったのだけれど、残念ながら名古屋ブルーノートはコロナ禍でクローズド(閉業)してしまった。


もうショックでした。


でもいつかその日を名古屋の違うライブハウスで・・・、という新しい目標を立てて、着々と企んでいる最中。(^^)


名古屋芸術大学のキャンパスも拝見してみたかった。なぜか録音エンジニアの世界では、名芸大の出身が多いのか、ひとつのミステリーです。やはりそのジャンルでは、とても先進的な開発・研究が進んでいる大学なのでしょう。


永田音響設計は、なぜ日本大学なのか、というミステリーと並んで、自分の二大ミステリーだったりします。(笑)


地下鉄を乗っていると、行先掲示板にナゴヤドームというのがあって、時間があれば、ナゴヤドームも行ってみたかった。


最近はまったく野球を見なくなったけれど、子供の頃から野球少年だった自分にとって、名古屋といえば、中日ドラゴンズなのである。


王・長嶋の巨人のV10を阻止したのも中日ドラゴンズ。
自分が小学生のとき。


でもそのころは子供だったから、それなりの熱中度合いでしかなく、本当に自分の身の丈にあった、等身大の気持ちでプロ野球に熱中した時期というのは、いわゆる1981年~1987年の7年間ではないだろうか?(自分が高校~大学のとき)


あの頃ほど熱く野球に熱中したことはなかった。


いまでもスポーツニュースやどこが優勝したくらいの関心はあるけれど、日本国民がいっせいに野球に対して熱中した時代はこの頃のフィーバーぶりには勝てないんではないか、と自分は思ってしまう。


北海道はもともと昔はほとんど巨人ファン。
最近になって、地域密着型スタイルになって、日本ハムになった。


巨人は、V9以降長らく低迷していたが、1981年に、藤田元司監督がドラフトで原辰徳氏を1位で引き当て、一気に明るいムードになった。(原辰徳氏は、高校野球の頃からよく知っているよ。)


その勢いで、1981年は独走で日本一になった。
巨人の新しい時代の始まりという感じ。
江川、西本、定岡、松本、篠塚、原、中畑、山倉・・・とか。


王貞治さんは、もう次期の期待中の期待ということで、助監督というポストで、もうこれからの巨人を背負っていくという期待を一気に背負っていた。


でも翌年の1982年、中日とデッドヒートを繰り広げ、最終戦で中日が優勝。


その翌年の1983年、挽回して巨人が優勝。その年の日本シリーズは、
広岡西武対藤田巨人。球界の覇主の争いと言われた。


自分は、いままでの日本シリーズでこの1983年のこのカードの戦いほど素晴らしかった戦いはなかったという自分の短い野球鑑賞生活の中の印象。


逆転に次ぐ逆転。本当に野球はドラマだと思った。そして西武の日本一。
素晴らしい日本シリーズだった。いまでもあの興奮は忘れられないです。



そして、そして、そしてである。
ここからが本番である。


忘れもしない1984年。


日本中の期待を一身に背負って、王貞治さんが巨人監督に就任。
ところが、開幕ダッシュに失敗。


なんと、中日に同一カード14連敗を食らってしまうのである。


自分は、中日ドラゴンズといえば、もう絶対、この1984年の対巨人14連勝を思い出してしまうのである。


ウチの実家は朝日新聞だったから、もうトップの一面でセンセーショナルな見出しで、「巨人、屈辱の対中日14連敗」とデカデカ報じていた。


これは衝撃だったよねぇ。


全国のアンチジャイアンツは、溜飲を下げた年ではなかったのではないだろうか?


当時の中日の監督は、山内一弘さん(故人)。
「なんか、向こうが勝手に転んでくれる。」とインタビューで言うほど珍現象であった。


当時の中日は、田尾、平野、モッカ、谷沢、大島、宇野、上川、中尾とか、投手でいえば小松、郭、牛島とか。


あの頃から、36年経つのに、いまでもスラスラ言えます。(笑)

本当にいいチームでした。


恐竜打線といわれるほど、すごい強力打線であった。


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自分は中日ドラゴンズのユニホームはこのときのデザインが最高に好きである。
いまのはユニフォームはダメですね。(笑)


中日といえば絶対このデザインのユニフォームである。
巨人V10を阻止した時から変わっていなかったですね。


巨人の管理野球に対して中日は野武士軍団と言われ、対抗意識丸出しであった。両方とも親会社が新聞社(読売新聞と中日新聞)だったから、尚更ライバル意識は相当なものであった。


中日は、優勝できなくても巨人にだけは勝ち越せ、というのがチームのスローガンであった。


牛島のフォークは、まったく巨人打線が打てる気配を感じなかった。
牛島が出てこれば、もう終わりという感じである。


中尾のヘルメットは斬新で格好良かった。キャッチャーが専用のヘルメットを最初に採用したのは、中尾が最初である。


後半は巨人が7連勝で盛り返して、結局この年の対戦カード成績は中日の15勝8敗。
巨人はこれが原因で、この年3位で終わった。

この年は結局広島が優勝したと思います。


この年のミラクル、不思議として、巨人は中日が苦手、中日は広島が苦手、広島は巨人が苦手、という面白い相性だった。


しかし、自分、36年経っているのによく覚えているなぁ。(笑)
それだけ鮮烈だったんです。


その翌年、1985年。もうこれは全国の虎ファンが歓喜した阪神タイガースの日本一の年である。


真弓、バース、掛布、岡田という猛虎打線。全国中に虎フィーバーが渦巻きましたね。


巨人槇原が、甲子園で、バース、掛布、岡田からバックスクリーン3連発くらうのをリアルタイムで見てましたから。(笑)


生きる伝説ですね。


結局、全国の期待を一身に背負っていた王さんは、就任して3年間優勝から遠ざかり、ようやくリーグ制覇できたのは、1987年だった。自分が就職して上京した年である。


でも日本シリーズでは、結局西武に2勝4敗で日本一を譲った。


王さんは、自分も期待していたけれど、結局巨人監督時代はうまく波に乗れなくて、そのまま不発で終わってしまったという印象だった。(後年の福岡ダイエーで挽回しましたね。)


その王監督の1年目の対中日14連敗。


これがすべてのつまずきの始まり。すべてではないか、と当時思っていました。


中日といえば、どうしても自分はこの1984年のことを思い出してしまうのです。
条件反射、パブロフの犬ではないでしょうか?


広島も山本浩二、衣笠祥雄、高橋慶彦、北別府学とかすごいメンバーで黄金時代でしたね。


思うに、自分が熱中していた1981~1987年は、まさに日本プロ野球は、これだけ役者が揃っていた名選手の黄金の時代だったのではないか、と思うのである。


巨人にだけは勝ち越せ・・・、そういう侍魂が溢れていました。


将棋でも言いましたが、プロ野球もいまの選手は、みんなレベルが昔より高いのかもしれませんが、みんなおとなしいですよね。


男としての殺気が足りないです。

そこを見ていて、物足りなく感じるのです。


社会人になった1987年から野球も縁遠くなり、いまやニュースで結果を知るくらい。
昔のようにゲームを長時間見ることは不可能な体になってしまいました。


名古屋の日記が、なぜか野球の話になってしまいスミマセン。


自分のSNSでは野球の話はしないように、いままで気を付けてしまいましたが、名古屋→中日の話の展開につい脱線しました。(笑)


それだけ、当時の中日ドラゴンズはすごいチームだった、ということを言いたかっただけです。










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