SSブログ

川本嘉子&吉野直子 デュオ・リサイタル [国内音楽鑑賞旅行]

世界中の誰もが予想だにしなかった新型コロナウィルスのパンデミックに見舞われて散々だった2020年。


クラシック音楽業界にも暗い影を落とした。
コンサートができなくなってしまった。


行きたいなーと思えば、すぐに公演カレンダーを見れば、必ずどこかでコンサートをやっている。そしてコンサートホールにコンサートをいつでも聴きに行くことができる。そんな当たり前だった日常が失われ、まさに暗黒の時期に突入した。


ましてや、演奏家の方にとっては、収入が失われることになり、我々以上に大変だったことはお察し申し上げる。


自分も今年の2月以来、生音のコンサートはご無沙汰であった。世界と比べ、軽症の日本は、比較的順調にソーシャルディスタンスなどのコロナ対策を施し、公演を再開することができていた。


そのとき、自分にとって生音への復活公演の最初の公演をどうするか、はひとつ自分なりの御祓としたいという考えがあった。別にそんなにもったいぶらずに、再開を始めているコンサートから順次参加していけば、もっと早く生音復帰できていたのだろう。


でも自分は、この最初の一発目の御祓のコンサートを重要視し、ひとつのセレモニーのように祝って、自分の気持ちに踏ん切りをつけたかった。


生音復活の御祓のコンサートさえ済んでしまえば、あとは好きなときに、好きな公演を、自由に行けるそういう日常のサイクルを復活させていく。そういう流れにしたかった。


その御祓のコンサートをどの公演にするかは、これはとても大切なことで、重要な決断が必要になる。なかなか決まらず、それでダラダラと日が経過し、周りではどんどんコンサート再開され、みんな生音復活されている。結構焦ってきた。


そんな中でこれだ!!!と出会えたのが、この公演だった。


正式公演ポスター.jpg


松本市音楽文化ホール(松本ハーモニーホール)は、かねてから自分の大のお気に入りのホールのひとつで、ぜひもう一度体験してみたいとずっと思っていた。


そしてこのホールには、カフェ「ちゃんとてーぶる」というホールに併設されているカフェがあり、そこを訪れて、このカフェのことだけで日記を書いてみたいとずっと思っていたのだ。


そう思ったのは、2017年あたりだろうか。


でもその当時、自分にはマーラーフェスト2020に行くという大目標があり、予算確保に懸命な毎日であった。松本に行くだけで、そして宿泊が入るだけで、結構な予算がかかる。だからマーラーフェスト2020以降に、プライオリティを回して実行する予定だったのだ。


カフェ「ちゃんとてーぶる」に向かって、「待っててくれよー!」と毎日呼びかけていた。ところが、このコロナ禍の影響をもろに食らって、2020/11/1付けで、そのカフェは閉業してしまった。


あちゃー、大ショック。


そりゃそうかもしれん、ホール併設のカフェは、コンサートあっての商売。コンサートのお客さんが対象のビジネス。それがないんだから維持できないのも当たり前であろう。


そんな想いもあって、松本市音楽文化ホールは、ぜひもう一回訪れてみたいと思っていたホールだったのだ。



川本嘉子&吉野直子 デュオ・リサイタル。


川本嘉子&吉野直子.jpg


もう申し分ないであろう!
完璧である。
もうなにをかいわんやである。


自分が追い求めていた御祓のコンサートとして、これ以上ない最適な公演だと思った。今年は、コロナ禍で、毎年夏に松本で開催されるセイジ・オザワ松本フェスティバルが中止になった。川本さんも吉野さんも、当然フェスティバルに参加予定だったので、今年は残念だったが、今回のこのデュオ・リサイタルが、今年開催される予定だったセイジ・オザワ松本フェスティバルのリベンジ公演になります、という再チャレンジの意向。


これはもう当然自分の心の琴線に触れたことは言うまでもない。


すぐに感動して涙腺が緩んでしまう自分には、こういう話にはめっぽう弱い。


やはり松本市は、小澤征爾さん、ゴローさん、そしてサイトウ・キネン・オーケストラの街なのである。いまの自分がある、まさに原点の街なのだ。


毎年夏、サイトウキネンフェスティバル松本に通い詰めていた自分。
そして水戸芸術館に水戸室定期を聴きに入っていた自分。


本当に最近は不義理でご無沙汰していたけれど、ひさしぶりに小澤さんの世界の原点に戻って、コロナ禍後の最初の生音復活コンサートとして、この松本で自分の原点を確かめ再出発しようと思ったのである。


もう即決であった。



松本市音楽文化ホール。


KxljZaVATYhD7dB1605918262[1].jpg


DSC04583.JPG


DSC04586.JPG



松本から2駅の島内という街にある。自然豊かで閑静な住宅街の中に佇む本当に美しいホールである。自分のホール・コレクションの中でも、大のお気に入りのホールなのである。


自分が想っているところでは、けっして商業ベースのホールではないな、と思うところ。小澤さんの松本音楽祭をメインに、良質なコンサートを年間に数本、クオリティ重視のホールのように見えてしまう。


細々とやっている・・・なんかこんな感じの微笑ましさがあって、自分は大好きなのである。


ホールの管理・維持費は膨大なはず。採算取れているのかな~とかいつも心配している。(笑)ましてや、今年のコロナ禍は大変な損失額。本当に心配しています。


DSC04588.JPG




このホールは、とにかく最初の出会いのときに、その音響の素晴らしさに、びっくりして、ひと聴き惚れ、というか、ひと目惚れしたホールであった。


石造りの吸音ゼロ、反射オンリーのヨーロッパの教会のような音響がします。もちろん厳密にホール音響設計されているだろうから、吸音ゼロ、反射オンリーということはないだろうけれど、それだけ残響感豊かなホールである、という意味である。


広大な音場、明晰な音像の両立。
硬質な音質で、音の芯がしっかりと太いこと。
どちらかというと、寒色系でソリッドな響きといえるかもしれない。
そして音の抜け感がいい、広大なる空間感の素晴らしさ。(天井が高い!)


石造りの壁なので、吸音ゼロ、反射オンリーの反射音でホール内が混濁する可能性があり、音像がその響きの中に埋もれてしまう危険性があると思うのだが、それが不思議にそうはならないところが見事な音響設計だと思う。


実音(直接音)と響き(反射音)は、分離して聴こえる。


このふたつが分離して聴こえると(実音が最初に聴こえて、響きがその後に続く聴こえ方)、そのホールの空間感がよりリアルで(より広い空間で聴いているような感覚がする。)、立体感が増すというか、より立体的に聴こえますね。


そうなる要因はホール容積が大きいことに起因します。
でも実際はそんなに広くもないです。(笑)
だからフシギ・・・


直接音の伝搬距離と、反射音の伝搬距離を微妙にそのような遅れ具合のタイミングで聴衆席に届けるような精密な音響設計がされているのでしょう。直接音に対して、どのくらいの遅れのタイミングで反射音が到達するかで、人間の耳が感じる気持ちよさが変わってきます。


また反射音が耳に入ってくる角度でも耳で感じる音の広がり方など結構大きな違いが出ます。そのようにホール形状の設計もされているのでしょう。壁の角錘状の音響拡散デザインにしてもしかり。


両壁、ステージ後背面の形状は、角錘状にデザインされ、反射音の客席への万遍ない拡散が施されているような工夫がされています。


とにかく堪らん音響なのである。


このホールが自分の大のお気に入りのホールなのは、そんな音響上の魅力があるからです。




さて、いよいよ今年の2月以来、じつに9か月振りの生音復活。


ホールの響き、ホール感、ダイナミックレンジ、そして器の大きさ・・・もうやはり生音は凄いとしかいいようがなかった。空間容積の大きい、音が反射することが前提で設計されているコンサートホールで音を聴くときのこの自分の体全身にいたる四方から響きに囲まれるこの感覚は、やはり家のオーディオでは無理な感覚であろう。


スケール感が全然違う。

やはり別次元の世界に驚愕した。


ふつうにコンサートに行けていたときは、そんなにコンサートホール、オーディオと違いを意識して差別化したことはなかったが、これだけ片方が長期間ご無沙汰になると、本当に懐かしい感覚だった。


そうだよ、これだよ、これ!という感じ。


でもこのダイナミックレンジの体感の違いは、ある程度、自分の中では想定内のことであった。たぶんそうなんじゃないかな、と想像がついたところでもあるので、やっぱりその通り・・・という感じで、格段驚きもしなかった。


すべて想定内なのである。



それよりも自分が驚いたのは、そうだったのか、と再認識させられたことは、生演奏には、ステージの奏者と聴衆との間に、呼吸することさえはばかれる、息をのむような、はりつめた空気、緊張感が存在することである。


つまり奏者~聴衆との間の一種の真剣勝負、密なコミュニケーションが存在することだ。


そしてそのホール空間の中で、奏者、聴衆全体で「共有の感覚」を持っていることである。


これは生演奏ならではの最大のポイントではないだろうか?


ステージの奏者と聴衆との間でこういう「共有の感覚」をお互い持っているからこそ、奏者は訴求する相手を特定することができるし、そこに向かって全力投球できるのであろう。そして聴衆は、その発信されるエネルギーを奏者からダイレクトに受けている感覚になり、感動がひときわ大きくなるのだろうと思った。


もちろんその共有の空間に、いっしょにいる他の聴衆も同タイミングで感動するから、さらにその共時性で感動は膨れ上がるのだろう、と思う。


ライブストリーミングで、TVやPCの画面上から、リスナーは、この奏者~聴衆との間のコミュニケーション、共有の感覚を感じ取ることができるであろうか?


ライブストリーミングにすると、その繋がりが遮断されてしまうのではないだろうか?


自分は、このデュオ・リサイタルを生音で聴いているときに、まず大きな衝撃を感じたのはそこである。9か月も生音、ご無沙汰であったからこそ、ひさしぶりに聴いてわかったこと、という感じであろうか・・・。


TVやPCの画面を通してコンサートを視聴しているときは、この奏者~聴衆との密なコミュニケーションが、完全に遮断されてしまっているのではないだろうか?


ライブストリーミングであると、奏者にとっても訴求する相手がいない訳だから、そこにエネルギーをぶつけるべき場所が見つからず、どうしても精神的に集中度合い、真剣さを作り出すことができず、散漫的な精神状態になってしまうのではないだろうか?


この事実を突き付けられたとき、自分はかなりショックだった。


ライブストリーミングは、もちろん高画質・高音質の方向性に進むのは既定路線だが、それだけでは解決できないいまのライブストリーミングに足りない部分はそこなんではないかな、と思うようになったのだ。


ショックだったが、自分はすぐに頭の切り替えをした。



技術は、必ず追いつきますね。
数年後、数十年かかろうが、過去の歴史がそれを証明しています。


つねに技術やエンジニアの立ち位置って、後から追っかける、そういう立ち位置。


恋と同じです。2人の間に立ちはだかる障壁が高ければ高いほど、冷たくあしらわれる程、熱く激しく燃えますね。そういう人種だと思う。



ない!と言われているものは、作ればいいですね。


TVやPCのモニター画面を見て、あのホール空間の「共有の感覚」を作り出せばいいですね。なんかそういうのって、今の時代にあった新しいテーマっぽいじゃないですか!(笑)


将来のライブストリーミング配信には、単に高画質、高音質を追い求めるだけじゃない、そういうホール空間の「共有の感覚」までがもれなく再現できる!


これこそ、究極のライブストリーミング配信ではないでしょうか?



自分は単細胞だから、これで自分のモヤモヤは一気に解消。(笑)

不可能なことはないです。

技術は必ず追いつくからです。



そして最後に川本嘉子さん&吉野直子さんのデュオ・リサイタル。


公演.jpg

(c)松本市音楽文化ホールFB


本当に素晴らしかった!
もう言うことないくらい大感激しました。
本当にありがとうございました。ご苦労さま。


自分の御祓のコンサートとして、十分すぎるほど格式が高かった演奏会でした。

お互い気心がしれている間柄であるから、本当にコンビネーションも素晴らしく、絶妙の神業の連発を聴いたような気がします。


演目は、


川本さんのヴィオラ独奏:バッハの無伴奏チェロ組曲。
吉野さんのハープ独奏:N.ロータ:サラバンドとトッカータ。


は各々のソロ独奏で、それ以外は、2人の合奏で。。。


川本さんのバッハ無伴奏チェロは、最初はコンサート冒頭だったので、「あ~緊張しているな?(笑)」という感じで硬さがあったように見えましたが、楽章進むにつれて、どんどんボルテージが上がってきて、見事な絶品の演奏に変貌した。ヴィオラとチェロは音域的にもそう遠くない楽器と思うので、ぜひこういうチャレンジはいろいろやってほしい気がします。


吉野さんのハープは、もうここのホールの音響で、このハープのボロロンという音色は禁じ手というか、罪作りなのではないでしょうか?(笑)素晴らしすぎて圧倒されました。吉野さんの独奏は、N.ロータのサラバンドとトッカータで、後半冒頭だったので、もう前半にだいぶ演奏もやって、MCまでやりましたから、緊張もせず、のびのびと演奏されていたのがよくわかりました。


本当に珠玉の作品演奏でした。


今回は、普段この2人ならMCはやらずに、そのまま演奏ですべてを通すパターンが多いと思いましたので、今回もそうなんではないか、と思いましたが、なんと!驚きのMCタイムもありました。


これで一気に場が和みましたね。


松本は、やはり自分たちの故郷であること。そして今回の公演が今年中止になってしまったセイジ・オザワ松本フェスティバルのリベンジ公演のつもりで開催したこと、松本への感謝の気持ちも含めて。。。


そして、ブリテンの曲では、川本さんのヴィオラの大尊敬する大先輩でもある今井信子さんとの話、もともとこの曲はヴィオラとピアノのために書かれた作品で、後にピアノの部分を弦楽合奏に編曲したバージョンも作曲者自身によって作られていること、そしてそのピアノの部分を今回ハープで演奏することになったことなどのいきさつが語られたように記憶している。


そして今回のコンサートで一番驚いたのは、まさに意表をつくとはこのことで、スティングの話が出たことだった。(笑)


ルネサンスとバロックの過渡期に活躍したジョン.ダウンランドは、デンマークやイギリスの宮廷リュート奏者を務めた作曲家。そのダウランドがギターの先祖にあたるリュートを伴奏にした哀愁にみちた歌曲が、とても有名で、あのスティングが歌っていたりしてジャンルを超えて愛されているとの話。


今回のヴィオラ&ハープの合奏では、その歌曲のうち、

「甘い愛が呼んでいる」「流れよ わが涙」「もし私の訴えが」

の3曲を演奏した。


MCで川本さんは、このダウランドの歌曲は、いろいろなアーティストが歌っているのだけれど、やっぱりスティングが歌っているのが一番最高なんですよ。ってな感じ。


自分は、もう猛烈に反応。(笑)


このスティングが歌うダウランドについてはぜひCDを買って別スレで日記を別途に書こうと思っています。


お楽しみに!


最後に、トリに持ってきたシューベルトのアルペッジョーネ・ソナタ。
これは、もうトリに相応しい強烈な疾走感と盛り上がりがあって、2人の超絶技巧と丁々発止のやりとり掛け合いなど、本当にスリリングな展開であった。


「うわっこりゃ最後の曲だけあって、最高の盛り上がり。こりゃ凄いや!」


と思わず唸ってしまった。


特に川本さんのヴィオラが主旋律を朗々と歌い上げる展開が、延々と続くのは、まさにこの曲の最高の見せ場といっても過言ではなかった。


そのヴィオラの音色にずっと恍惚としてしまったことは正直に告白せざるを得ないであろう。ヴィオラとハープの音色、音域のコンビネーションは、本当に人間の聴覚、脳神経にとって、もっとも癒され効果のある音域組み合わせだなぁということを、つくづく認識させられた。


本当に素晴らしい演奏会でした。
9か月ぶりの生音復帰公演として申し分なかったです。
この公演を選んでよかったです。


これで御祓は済んだので、あとは、自由に好きなときに、好きな公演を、すきな日時時間帯で、自由にやって自分のいつものペースに戻れます。


ホテルに帰っても興奮が続きなかなか眠れず、意識がなくなったのは、午前3時を過ぎたあたりであろうか・・・


2020年11月17日。自分のクラシック鑑賞人生の中で、一生忘れることのできない再出発の日となった。





川本嘉子&吉野直子 デュオ・リサイタル
2020/11/17(火) 19:00~
松本市音楽文化ホール


J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調BWV1008 (ヴィオラ独奏)

F.クライスラー:クープランの様式によるルイ13世の歌とパヴァーヌ

J.ダウランド
「甘い愛が呼んでいる」(歌曲集第1巻、1597)
「流れよわが涙」(歌曲集第2巻、1600)
「もし私の訴えが」{歌曲集第1巻、1597)

B.ブリテン:「ラクリメ-ダウランドの歌曲と投影」Op.48


休憩


N.ロータ:サラバンドとトッカータ(ハープ独奏)

F.シューベルト:アルペッジョ・ソナタ イ短調D.821


アンコール


F. メンデルスゾーン
チェロソナタ第2番ニ長調 Op. 58より 
第3楽章アダージョ












nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。