エルヴィス・プレスリー [海外ロック]
今日1月8日は、エルヴィス・プレスリーの誕生日なのだそうだ。そのことを知って、かねてより考えていたエルヴィス・プレスリーの日記を書いてみたいと思っていたのだが、今日それを実行するのがいいと思った。
自分はロックはビートルズ以降の世代なので、それ以降のロックシーンは青かった学生時代、青春時代の実体験として熱く語れるのだけれど、エルヴィスはやはり自分より前の世代なんだよね。
だから熱く語りたくても、経験がない。
「熱く語る」という行為は、やはり人生の経験がないとできないことですね。
自分の経験、自分の言葉で語る、そして自分の想いが詰まっていないと、その文章に説得力がでませんね。だてに人生五十数年生きてきていないので、この歳になると熱く語れる資格が出来てくるものです。
若い人にぜひアドバイスしたいこと。
とにかく若いうちに、徹底的にのめり込むこと。徹底的にやらないとダメです。許す限り、お金も湯水のように使い込んで、徹底的にやらないと。それが歳をとってから血肉になって、人生の財産になります。
多少の失敗は気にするな。徹底的にやれ!
後年になって、「熱く語る」行為ができるようになるには、この何十年生きてきた、学んできたことが礎になり、言うことに説得力が出てくるようになります。
そうしたらしめたものです。
エルヴィス・プレスリーは、子供の頃はもちろんビートルズの前の世代のスターということでよく知っていたし、自分がロックに夢中になり始めた中学一年の1977年に亡くなった。
よく覚えている。
自分が知っている頃の晩年のエルヴィスは、ドーナッツが大好きで肥満化してしまい大変だった、というニュースが世界を駆け巡っていた。エルヴィスの曲も有名な曲はラジオでよく聴こえてきたし、馴染みがあった。
最近ずっと考えていたことは、自分はエルヴィスのことを、きちんと知らないで、このまま人生を終えてしまっていいのかな、と思ったことだ。どこかできちんと自分のモノにしないと一生後悔が残るのではないかな、と思ったことだ。
じつは何年も前からそういう想いはあったのだけれど、なにせ自分の経験、実体験がないから、どうやって日記にすればいいのか、うまくアイデアが浮かばなかったのだ。
そんなとき、村上春樹さんがDJをやっている”村上RADIO”という番組で、オールディーズの特集をやっていた。そこで村上さんが、当時のオールディーズ、そしてエルヴィス・プレスリーについて、こんなことを言っていた。
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よく「激動の1960年代」みたいなことが言われますが、それはあくまで60年代後半の話であって、前半は文化的にはかなりのんびりした時代でした。冷戦時代だったので、政治的にはハードな面もありましたけど、文化的にはまずまずリラックスしてました。ポップ音楽シーンで言えば、1950年代後半に登場した反社会的というか、荒々しいロックンロールがだんだん飽きられて、廃れていって、エルヴィスもなんだか牙を抜かれてしまい、それからビートルズやらサイケデリック、アートロックみたいなのが登場してくるまでの五年間は、まさにお気楽ポップスの全盛期でした。僕としてはそりゃもう、楽しかったですよ。もちろん60年代後半もスリリングで面白かったですけど。
僕がいちばん熱心にポップソングを聴いていた時期って、だいたい1960年から65年くらい、つまりビートルズが登場する前の時代です。ビートルズが出てきて間もなく、音楽シーンががらっとスリリングに変わっちゃうんだけど、それより前のポップ・ミュージックには「お気楽」っていうか、蛇が出てくる前の「エデンの園」みたいなのどかな雰囲気が漂っていました。でもその中ではエルヴィス・プレスリーは別格でした。彼は楽園の中に潜む、鋭い牙を隠し持った甘い毒蛇のような、まったく他とは違う存在でした。
僕は彼のデビュー・アルバム「Elvis Presley」を手に入れて、もう夢中になって聴いていました。このアルバム、ほんとに何度聴いても聴き飽きなかったです。どの曲も素晴らしいんだけど、今日は僕の大好きな“One Sided Love Affair”を聴いて下さい。1956年の録音です。この曲におけるエルヴィスの天然のキック力は、実にすさまじいものです。今聴いてもひしひしとしびれます。
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人間って、自分のまだ生まれていない時代や、自分の知らない時代のことを聞くと、とても羨ましい気持ちになり、なんか羨望の眼差しになりますね。
知らない時代だからこそ、余計憧れますね。
それが自分の好きな音楽シーンになると尚更です。
ビートルズが登場する前のオールディーズってどんな音楽シーンだったのだろう?
そういうことを無性に知りたくなるものです。
そういうことを無性に知りたくなるものです。
これをきっかけに、よし!ぜひエルヴィス・プレスリーのことを書いてみよう。
そして自分のものにしてみよう!と思ったのである。
最近は、ストリーミング・サービスが日常的なものになって、聴きたいと思ったら、すぐにその場で聴ける。ぜひエルヴィス・プレスリーを聴き込んで、日記を書いてみたいと思ったのである。それを彼の誕生日である今日おこなうことが最高のプレゼントなのでは、と思ったのである。
ストリーミングでは、エルヴィス・プレスリー '50 Rock"n" Rollというアルバムがあって、ベストアルバム+ライブアルバムのミックスのような感じでこれをチョイスした。
ハウンド・ドッグ、好きにならずにいられない、ラブ・ミー・テンダー、冷たくしないで、そして監獄ロック。自分がエルヴィスの曲として、よく子供の頃から知っていたのは、ここら辺ですね。
いま聴いてもカッコいいし、すごく新鮮。
ハウンド・ドッグ、監獄ロックなんか特に最高にカッコいい。
ハウンド・ドッグ、監獄ロックなんか特に最高にカッコいい。
これから書くことは、自分の言葉ではない。
受け売りである。
受け売りである。
でもエルヴィスのことを知りたい、自分のものにしたいため、敢えて日記でその栄光の伝説を紹介していきたいのである。その合間、合間に自分の意見、感想を挿入していく感じ。
これが、自分がエルヴィスのことを日記に書いていくためのひとつの考え抜いた末のアプローチかな。エルヴィスのことを自分も勉強したいし、みんなに知ってもらいたいという意図である。
ロックの歴史を語るなら、本当は百年もさかのぼってアメリカ南部の黒人奴隷が日々の労働の苦しさを忘れる為「ブルース」とか「賛美歌(ゴスペル)」を発明した事から始める必要がある。ロックン・ロールは黒人が創った。
ロックン・ロールはそんな黒人奴隷達の発明したブルースや賛美歌を、チャック・ベリーやリトル・リチャードといった人たちが、色々工夫(速くしたり、叫んでみたり)し、進化させて誕生した<新しい娯楽>だったのだが、それが黒人だけでなく、少しずつ、そして着実に白人にも受け入れられるようになっていった。
そして、そのうち白人の中でもギターを持って黒人の模倣をする若者が現れ出したのである。しかも中には黒人に負けず劣らず、優れた<ブルース・フィーリング>を備えた若者もいた。
エルビス・プレスリーはそんな中、最初に登場した白人のロックン・ローラーだった。
黒人はいつも「発明家」で、大衆的成功は「真似した」白人がかっさらってしまうという皮肉な構図である。エルビスとはそういう存在だったのだ。そしてその成功の要因は、ただ歌が上手いとか、顔がカッコいいとか、それだけではなかった。彼はロックを初めてエンターテイメント化したのだ。それゆえ歴史に名が残っていると言っても過言ではない。エルビス・プレスリーは腰を振った。そして、セックス・アピールという、黒人のやらなかった(やれなかった)技を、彼は発明し、そして完成させた。
その余りにもあからさまな性の表現は、正に前代未聞、当時の人々の目には「見てはいけない物」として映った。
これが、自分がエルヴィスが登場した衝撃、当時の世相を、よくうまく表現しているんじゃないかな、と思うのだが、どうであろう。
エルヴィスの歌を聴くと、ビートルズのようなグループサウンズにはない、もっと懐かしい音楽のルーツのようなものを感じるし~それがブルースとリズム&ブルース~、その上に新たに融合されたロックぽい格好良さがありますね。それが当時すごい新鮮な格好良さだったのでしょうね。
そして音楽性だけではない、格好いいルックス、セクシーな腰振りのセックスアピール。それ以前にはある意味退屈だった音楽シーンにとってこのときのエルヴィスのこのアピールは、当時としては相当衝撃なことだったのでは、と十分想像できます。
ジョン・レノンは言った。「エルビスが登場する前は何も無かった」と。
南部の貧しい家庭に育ち、黒人音楽をメジャーにしたエルビス・プレスリーは、「ロックンロール」を世界に知らしめた。カントリーとブルースを組み合わせた最初のミュージシャンではなかったが、保守主義がまん延し人種差別が横行した1950年代を駆け抜け、人々の音楽に対する意識を変え、米文化に後世に残る功績を残した。
「誰かに聞いてごらん。もしエルビスがいなかったら、ポップミュージックは今頃どうなっていただろうね」と、かつてエルトン・ジョンは語った。「エルビスが全てを始めたんだ。僕にとってのスタートも彼だった」
エルヴィス・プレスリーはアメリカのミュージシャン、映画俳優。「世界史上最も売れたソロアーティスト」の第1位。「キング・オブ・ロックンロール」と称されている。
1950年代にロック・アンド・ロール(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀後半のポピュラー音楽の中で、最初の大きなムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。
初期のプレスリーのスタイルは、黒人の音楽であるブルースやリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。
~ボクがエルヴィスの歌を聴くと、その背景にとても懐かしい当時のオールディーズのような郷愁の香りを感じるのは、この黒人の発明したブルースとリズム&ブルースが背景にあったからなんだと思います。
~自分が学生時代にロックに夢中になっていたときも、多くのロックミュージシャンは、このブルースやリズム&ブルースを自分の模範、教科書にしているミュージシャン多かったです。エリック・クラプトンなんか完璧にブルースをお手本にしてましたね。天性のリズム感、音楽ソール魂はやはり黒人は白人より優れているものを天性に持っているのかもしれません。
その後全国的な人気を得たが、保守層には「ロックンロールが青少年の非行の原因だ」と中傷され、PTAはテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。KWKラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送。
さらにフロリダの演奏では、下半身を動かすな、とPTAやYMCAに言われ小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。
~1950年代の当時の世相と、セクシーなエルヴィスの登場に相当混乱しているのがよくわかりますね。(笑)エルヴィスといったら、このセクシーな腰振りが当時のそうとうの物議を醸したのです。
しかし、プレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになり、ほぼ同時期に普及した安価なテレビジョンやレコードプレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。
さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え、若者文化が台頭した。晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。
映画との関わり
監獄ロック(1957年) カッコいい!(^^;;
G.I.ブルース(1960年)
歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いた。プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がプレスリーを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給「Rino Brothers」を選んだ。プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「Love Me Tender」に変更されて公開された。
プレスリーは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。
1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、「G.I. Blues」、「Blue Hawaii」、「Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)」等、話題にはなったが、プレスリーの映画は全体的に評価が低い。評価されたのは「オン・ステージ」「オン・ツアー」など、コンサートをドキュメンタリー的に記録したものだけである。
~エルヴィスがふつうのロックミュージシャンと違うところは映画スターでもあったことだ。映画スターを演じ、その映画の中で歌うことで、そのスター性をさらに大きなものに発展させたといえる。自分は、この「ラブー・ミー・テンダー」が大好きである。本当に素敵なラブソングでいい曲。
でもどうしても挿入歌ありきで映画スターそのものというより俳優で歌も歌う歌手という中途半端な扱いで、映画自体の評価は低かったようだ。
でも映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出したとも言われている。
でも映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出したとも言われている。
当時のアメリカの国民的バラエティー番組「エド・サリヴァン・ショー」には、1956年9月と10月、1957年1月と短期間に3回出演した。なお、広い視聴者層を持つ国民的番組への出演を意識して、ジャケットを着用し出演した上に、当初保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にプレスリーの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。
~やっぱりエルヴィスをテレビに映すには、いろいろハプニングを恐れて、配慮に配慮を尽くしていたんですね。あの問題の腰振りダンスを映さないようにしたんですね。(笑)
リチャード・ニクソンとの面会
リチャード・ニクソン 大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年)
1970年12月21日には、わざわざアメリカン航空の民間機でワシントンD.C.にジェリー・シリングと2人で出向き(普段は自家用機しか乗らない)、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。 ホワイトハウス内は大騒ぎとなり、その40分後補佐官から「大統領が会いたい」と電話があった。ホテルに到着したデル・ソニー・ウェストが合流し3人でホワイトハウスへ行き、リチャード・ニクソン大統領に会った。
ツーショット写真はその際撮影されたものである。
この時プレスリーは、自分は「ドラッグ・カルチャーと、共産主義の洗脳について研究してきた」とニクソンに語った。麻薬撲滅に熱心であったニクソン大統領に対して、「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」といい、麻薬取締官の資格を与えられた。翌週、プレスリーはそのバッジをみんなに見せびらかせて回った。なお、プレスリーは警察官等のバッジ・コレクションをしており、大変な収集家であった。
この際のエピソードはあまりにも有名なものとなり、後にこのエピソードだけでいくつかの映画になったほか、プレスリーとニクソン大統領とのツーショット写真は、ホワイトハウスの公用写真の焼き増しサービスの中で最も人気が高いものとなった。
これは晩年のエルヴィスのコンサートでしょうか・・・。
あぁぁぁ~。もう激太りです。昔の面影まったくなし。(笑)自分が子供で物心ついたときは、エルヴィスはすでに肥満体質で、その原因は大好きなドーナッツの食べ過ぎだ、というのが通説でした。子供心によく覚えています。
ビートルズとの会見
プレスリーとビートルズは直接的な接点はなかったが、両者は1965年8月27日、ロサンゼルス市のプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たしたことがロック史に残る出来事として語られている。
ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目だったが、どこからか漏れてしまい、案の定自宅周辺には野次馬が集まった。
諸説あるが、メンバーのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターは平静を装いながらも、心を躍らせて招かれた部屋に入った。
そこでエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた。「本物のエルヴィスだ」と感激した4人は呆然としてしまった。そこでプレスリーが「ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけた事から、慌てて4人は挨拶し、即興演奏が始まった。
プレスリーはベースを演奏し、レノンとジョージはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。
プレスリーは彼らの曲も歌い、そのあとで「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。これに対してレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言したことからその場が凍りついた。
これはレノンの若気の至りとも、過激なジョークだったとも言われるが、プレスリーはその発言に気分を害してしまった。そしてその会見に実際に立ち会ったという記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンはさらに当時アメリカ軍による関与が拡大を続けていたベトナム戦争にプレスリーが賛同する姿勢と、プレスリーのマンネリ気味であった映画を痛烈に批判した。これらの事がきっかけでジョンを嫌うようになったプレスリーは(事実上)マッカートニーやジョージが作曲した曲はコンサートで頻繁に取り上げているが、レノンの曲は歌っていない。
レノンはこの発言を反省したためか後日エルヴィスの取り巻きに「エルヴィスがいなければ今の自分は居ない」と伝えるよう頼んだという。しかしプレスリーはレノンがアメリカに住むようになり、ベトナム反戦運動を積極的に行った頃、ニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」と手紙を出したとも言われている。
この様に、レノンの発言と態度が場の雰囲気を壊したことで、この会見はとても成功したとは言えないものであった。
~これは最高に笑ったな。(笑)ボクはジョンのこういうセンスが大好きです。(笑)いかにもジョンらしい。でも後になって反戦・平和を主張していくジョンにとって、エルビスの当時の姿勢にこういう対応になってしまったのは必然の結果だったかもですね。
今回ストリーミングでのエルヴィスのアルバムでは、エルヴィスはポールの曲であるヘイ・ジュードを歌っていました。
そして1977年8月16日、メンフィスの自宅バスルームで倒れているところを発見された。 ドーナツを食べ過ぎて喉に詰まらせて死んだ、ドラッグをやりすぎて死んだなど、もはや都市伝説化しているエルヴィス・プレスリーの死因。
しかし、実際のところは、処方された薬の摂り過ぎからなる不整脈による突然死という検死結果であった。
キング・オブ・ロックンロール。まさに白人ロックの元祖、すべてはプレスリーから始まった・・・まさにロックンロールを語るうえで、エルヴィスはすべてのオリジネーターだったんだね。
ビートルズ以降のロックシーンの音楽とは、ちょっと違う、どこか郷愁的な温かみのある心地よいサウンド、いまもエルヴィスの名曲を聴きながら、この日記を書いているが、気持ちのいいじつにいい音楽だ。
ビートルズは若者全開という感じだったけれど、エルヴィスはもっとゆとりのある大人の音楽、大人の声質、歌い方、そして大人のセクシーさ、そこに当時の懐かしいいい時代の音楽性が混在した、そんなロックンロール
だったんではないかと自分なりに結論づけたいです。
だったんではないかと自分なりに結論づけたいです。
これで長い間、エルヴィス・プレスリーのことをもう少しきちんと知りたいな、と思っていた想いは少しは遂げたであろうか。。。
2021-01-08 21:46
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