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ラトル&ベルリンフィルのマーラー交響曲第9番 [国内クラシックコンサート・レビュー]

マーラー交響曲第9番を、マーラーの交響曲の中で最高傑作という位置づけするマーラーファンの方は多い。それは、マーラーの交響曲で、やはり実演において近代まれにみる名演とされる公演に不思議と第9番が多いこと、そしてバーンスタイン&ベルリンフィルの緊張あふれるスリル満点のあの一期一会の名盤。


やはり話題に事欠かないのが第9番なのである。


実演に関しては、1985年のバーンスタイン&イスラエルフィルの第9番(大阪フェスティバルホールとNHKホール)がこれ以上はもう望めないという奇跡の超絶名演だと言われている。


悔しいかな、自分はそのとき大学生で北海道にいた。(笑)


今日ここで取り上げる日記は、2011年11月23日にmixiで作成した日記である。
ラトル&ベルリンフィルが来日公演をして、そこでマーラー交響曲第9番を演奏してくれた。


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自分は、この2011年に現地のベルリンフィルハーモニーでラトル&ベルリンフィルで第6番「悲劇的」を2公演聴いた。そしてこの2010/2011年シーズンというのは、ラトル&ベルリンフィルがこの1年でマーラー交響曲全曲演奏会というマーラーツィクルスをベルリンフィルハーモニーでおこなった年でもあるのだ。


カラヤンの苦手だったマーラー。アバドがシェフになって、ベルリンフィルにマーラーを頻繁に取り入れた。結局10年足らずの任期の中で、ベルリンフィルでマーラーの交響曲を全曲演奏した。


これは、ベルリンフィル史上初のことであった。


アバドとベルリンフィルの記録として残っている演奏はすべてライヴで下記の通りである。


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アバドのベルリンフィルのシェフ就任コンサートは、マーラーの1番なのだ。アバドはベルリンフィルで自分の在任期間の間にマーラーの曲を全曲演奏したほか、シカゴ響、ウィーンフィル、そしてルツェルン祝祭管弦楽団とも第8番を除いて全曲演奏。いかに近代のマーラー指揮者であったかがわかるであろう。


ラトルもそうなのだ。1987年に初めてベルリンフィルと客演した時がマーラーの6番、そして2002年のベルリンフィルのシェフ就任コンサートがマーラーの5番、そして2019年の離任コンサートが、マーラーの6番。そして2010/2011年シーズンでのベルリンフィルでのマーラー交響曲全曲演奏会。


ラトルは、アバドと同様、ベルリンフィルに対して明らかにマーラーを強く意識していた。


アバドが在任期間を通してバラバラで全曲演奏を成し遂げたのに対し、ラトルは2010/2011年というたった1年の短期間で、列記としたマーラーツィクルスとして全曲演奏会を成し遂げた。


全曲演奏会、ツィクルスとしてベルリンフィルでマーラー演奏をコンプリートしたのは、ラトルが史上初である。


これは当時大変な話題になり、チケットは即完売のプラチナ。自分も6番チケットを取るのに相当苦労した。近代マーラー解釈の雄のラトルのマーラーは恐るべくプラチナであった。


この2010/2011シーズンのラトル&ベルリンフィルのマーラーツィクルスは、デジタルコンサートホール(DCH)にアーカイブとしてちゃんと入ってます。


そういった経緯から自分にはアバドとラトルは、どうしても同じ道を歩んできたように思えてならないのだ。まさに偉大なる先人カラヤンとは違った面をアピールしたい、という・・・。


2011年は現地ベルリンで6番を聴いて、日本への来日公演では9番を聴く、というまさにラトルのマーラーイヤーだった。今年2020年にラトルはロンドン響と来日して、2番「復活」を披露してくれるというので、久しぶりにラトルのマーラーを聴いてみたいと思ったりしています。


そこでこの2011年11月にラトル&ベルリンフィルが来日してマーラー第9番を披露してくれたとき、自分はこの機会をかなり自分の中で大切なトリガーとして位置付けた。9番の曲の構造から詳細に説明し、そしてバーンスタイン&ベルリンフィルの一期一会の録音についても、徹底的にプロモートして宣伝した。


実際、コンサートも本当に素晴らしくて、自分の鑑賞歴の中でも忘れられない9番の名演になった。だから、このコンサート日記をmixi日記の中だけにとどめておかず、ブログのほうでも当時の日記を公開したいのだ。(2011年は、まだブログやっていなかったからね。)


自分の大切な思い出だから。


いま当時の9年前の日記を読むと、まず文体が全然違うね。(笑)そしてコンサート日記はものすごく細かい描写をしている。昔はすごく真面目だったんだな。いまはもっとアウトラインの感想を述べるだけになってしまったけれど、当時は本当に詳細な描写、感想を書いている。自分ながら若いときは凄かったんだな、と思いました。(笑)


このラトル&ベルリンフィルの来日公演のマーラー交響曲第9番のコンサート日記をぜひ自分のブログの勲章として残しておきたいので、mixiから移植することにしたという次第である。


いま読み返すことで、来たるマーラーフェストにも大切な意味を持つだろう。




昨日サントリーホールに3年ぶりとなるラトル/ベルリン・フィルの来日公演に行って参りました。 現代のマーラー解釈で定評のあるラトルが、マーラーの交響曲の中でも最高傑作との呼び声高い9番をどのように解釈して演奏するのか、とても楽しみでした。今年最後の大イベントです。


サントリーホール

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結果はやはりベルリン・フィルというブランドに本当に酔ってしまった。普段パッケージメディア、TV、DCHで観ているスーパースター軍団をいま直接生で鑑賞しているというその事実に酔ってしまう感じで、演奏も絶品のテクニック。


なんか演奏中ずっとドキドキしていました。


ご存知6月にフィルハーモニーでマラ6を聴いて、今年の最終の締めとしてマラ9で締めるという1年になりました。 DCHでのマーラーチクルスはほぼ全曲鑑賞(それも複数回)、今年は本当にマーラーを聴いたなぁ。


今回の座席は2階P1席9番。

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私の席から観たステージ。

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そう魔のP席!(笑)しかも6月のときのフィルハーモニーで初演のときの座席と、右側、左側の違いがあるがほぼ同じような座席。 5分で完売なので、ここしか取れなかったのである。(笑)


ラトル/ベルリン・フィルの公演はよほどここの席に縁があるんだろうと思う。


フィルハーモニーのときは、金管、打楽器と弦楽器が逆に聴こえてP席には違和感を覚えたのだが、今回もたぶんそうなのかな、と覚悟していました。(笑)。


団員達が拍手とともに入場。日本人奏者は樫本大進、清水直子さん、町田琴和さん3人そろい踏み。他にも御馴染のスーパースタープレーヤー達が勢ぞろいである。 なんか登場してくるだけで凄いオーラを発している。


第1コンサートマスターは樫本大進。やはり故郷に晴れ錦を飾らせてくれたラトルの思いやりなのだと思う。 全員が着席した後に大進だけ、1人で最後に登場。サイドにスタブラバ。 カラヤン時代を知る唯一の少ない英雄ですね。


あの日本人奏者4人目のマーレ・伊藤さんを探しましたが、はっきり確認できなかった。対抗配置なので、2'nd Vnは私の席からは背中しか見えないのです。でも東洋人らしい女性がいたので、彼女が伊藤さんではないか、と。


私の隣の席の若い女性客は、ホルン首席のドールの大ファンらしくて、ドールを見つけるなり「キャ~!信じられない!」と涙ぐんでいました。(笑)「いやだ~マイヤーさんも!ホント、ホント(喜)?」


このとき、これからどんなドラマが待っているのか、かなりドキドキ興奮でした。


そしてラトル登場。

いよいよマラ9演奏スタートです。
 
第1楽章はチェロ、ホルン、ハープなどが断片的に掛け合う短い序奏によって開始。
ゆったり少し踏みしめるようなリズムにのって幕が開く感じです。


第1楽章では総じてオーソドックスな演奏のようなのですが,表現の高まりに応じてテンポを速めたり,アクセントを際立たせたりしていて,ただそれが妥当性のある表現として受け取れるので,奇をてらったように感じられることはないし、ラトルならではのリアルでスケール感のある表現を描き出していると思いました。


また,ベルリンフィルならではの驚異的な合奏力と彫りの深いアンサンブルには、ゆるぎない存在感があり,聴いていて圧倒される思いがします。


第2楽章は重いテンポ。これは非凡庸。強いて言えばヴァイオリンの発声が少しハスキーだったりする。中間部の強烈さと緩徐部が素晴らしいです。10分くらいあと、かなりテンポアップしたノリが最高に心地よい。最初のレントラー風の舞曲のところでは,低弦の分厚くてキレの良い響きとフレージングにまず驚かされましたが,何よりもスコアを明瞭に再現しているだけでなく,聴感上の情報量の多さと過剰ともいえる表現力による演奏の世界は,なんだか作品の枠からはみ出しているのではないかと思えるほど。(笑)


本来の作品の枠を超えてしまう演奏過剰の部分がベルリン・フィルにはあるんだな~といつも思ってます。(笑)


第3楽章は緩徐部がなかなかの力演。リアルで生々しいです。全般に明るめの演奏なのですが、ここでは深い物言いをしている。ブラスが勢い良い。ティンパニも目立っている。


勢いに任せたりせずに比較的落ち着いたテンポで開始し,沈着かつ念入りに表現を積み重ねているのですが,随所に聴かれるアクセントがハッとするほど新鮮で、アンサンブルの密度もキレも申し分なし。


でもその充実極まりない演奏を聴くほどに空虚な思いがするのは,実はこの演奏解釈のコンセプトなのでしょう。


さていよいよ第4楽章アダージョ。第3楽章からアタッカで続けて演奏されます。


長調なのでしょうが、弦楽器群のユニゾンによる安住の調を求める印象的な旋律が聴く者を惹きつけます。これが長大な「うねり」となって、音空間をさまようような感じ。本当に弦楽器群がユニゾンで悠然と歌うこのメロディ、本当に荘大な感覚で美しい!


基本的には冷厳としたアンサンブルで,作品を冷徹に再現していて,響きの充実度や演奏の明瞭度,さらには細部に至るまでの解釈の的確さといった面で,素晴らしい説得力とインパクトがあり,慄然とする思いで聴き入るばかりでした。


最後にはテンポは、ますますゆっくりとなり、闇の中は安らぎの死を象徴するかのようで、CD録音などでは、絶対に味わえない雰囲気でした。


ここはやっぱり照明をフェードアウトして欲しかったな~。ここは私のこだわりなんですよ~。


この曲の第4楽章、最後の小節にマーラーはドイツ語で「死に絶えるように」と書き込んでおり、このことが第9交響曲全体を貫く「死」のテーマにつながっているのです。この最後の部分は、まさに終末へ向けて何度も消えようとするはかない灯のような音楽、という効果を醸し出しているんです。


その後、まさに静寂、沈黙、1分間くらいだったでしょうか?いやもっと長く感じたかもしれない。ラトルは全く動かず、楽団員達、観客もまったく動けず。観客達もここの部分の大切さを分かっているのでしょう。フライングブラボーをすることもなく......


凄いエンディングです。


その後、ようやくラトルのジェスチャーでようやくパラパラと拍手が起こって、その後大歓声、大拍手、ブラボーです。


いや~大感動!


こうして聴いてみると,ラトル指揮のベルリンフィルの驚異的な合奏力と,仮借ないまでの表現力にはただただ驚くばかりで,ラトルのその奥にある真髄まで深読みした作品分析と,それを現実の演奏として実現するベルリンフィルの強者達が成し遂げた,明け透けな作品の再現を聴いているように思いました。


ラトルの演奏解釈は,スコアとラトル自身のコンセプトのみに立脚したものだと思いますが,ラトル自身の感性のフィルタを通じてではあるとはいえ,高度な演奏技量とともに客観的にスコアを再現すると、こういう表現の世界が見えてくるのだという感じがしました。


さて肝心のP席での音響は、やはり逆に聴こえたのでしょうか?


やっぱり最悪。(苦笑)私の目の前は、なんとチューバ、トロンボーンの金管、そしてグランカッサにシンバルの打楽器とまさに最悪。弦楽器よりもこれらの金管、打楽器のほうが遥かに近くて目立って聴こえる。やっぱり普段聴いている逆に聴こえました。


でも、あらかじめ覚悟していたので、もう慣れたというか、フィルハーモニーのときのようなショックはなかったです。


まあこんなもんだな、という感じです。


このP席はやはり指揮者ラトルの指揮ぶり、表情を鑑賞する席だな、と思います。


これでベルリン・フィル来日公演のマラ9も終わり、2シーズンにまたがったラトルによるマーラー・チクルスも終焉を迎えようとしています。今年のベルリンツアーでの本拠地フィルハーモニーでのベルリン・フィル生体験、そしてSKF松本、軽井沢国際音楽祭などの国内音楽祭、そしてウィーン・フィル来日公演、ベルリン・フィル来日公演と今年の大きなイベントは全て終了です。


本当に充実していて、人生の中で最高に思い出に残る1年でしたね。


今日の公演の帰り路、iPodでラトル/ベルリン・フィルのマラ9を聴いて、再びあの感動を噛み締めながら、来年もこの1年に負けないくらい素晴らしい1年にしようと誓ったのでした。


演奏終了後、楽団員をねぎらうラトル

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カーテンコール(目の前に映っている黒髪の東洋人女性が伊藤さんかと。)

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全員引き揚げた後、再度ラトル1人が出てきて挨拶

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樫本大進とともにねぎらうラトル。大進はシャイなのかこのステージの端で中央まで出てこなかった。ラトルはどうして恥ずかしがるんだ?というジェスチャー。(笑)

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しかしすごい熱筆だな。いまとてもじゃないけれどこんなに書けないや。(笑)




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フランツ・カフカ 少女の人形と手紙 [雑感]

先日の「村上春樹さんの小説を読む」の日記の中で紹介した、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という1997~2011年のインタビュー集の中で、村上さんが発言したところにとても反応してしまった箇所があった。


そのときにメモしておけばよかったのだけれど、記憶に残したまま読了して、現在に至るまでそのままにしていた。


それはチェコ出身のドイツ語作家のフランツ・カフカについてのことだった。


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村上さんの小説で、「海辺のカフカ」という小説があるが、ここに登場するカフカ少年も、この作家フランツ・カフカからのインスピレーションである。またこの小説で村上さんは、フランツ・カフカ賞を2006年にアジア圏初として受賞されている。


フランツ・カフカというのは、写真の通りイケメンなのである。(笑)


フランツ・カフカは、どこかユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させるような独特の小説作品を残した。その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。・・・なのだそうだ。


それで、そのインタビュー集でそのカフカについての村上さんの発言に思わず、自分は胸がキュ~ンとくるような切ない気持ちになり、てっきりそれはカフカの小説のことなのだと、そのときに思ったのだ。


だから、あとで、カフカの小説リストを見て、それを後で買って読めばいい、とそのときに思っていた。


それで、いままでずっと忘れていてそのままになっていた。


昨日日記を書いたときにそのことを思い出して、カフカの小説リストを眺めたのだけれど、それらしいものが見つからない。内容はよく覚えているのだけれど、日記で紹介するほど、明瞭ではない。インタビュー集のどこに書いてあったか、定かでないし、まさかまた初めから読み直してその場所を探すなんてありえない。


なんとか、自分の記憶に基づいて、キーワードで、”カフカ、少女、人形”で検索してみたら、見つけた!


やはり有名な話なんだ。


「フランツ・カフカ 少女の人形と手紙」


である。


情報引用元:逸話のうつわ
https://www.itsuwanoutsuwa.com/kafka_letter-2/

から借用させていただきます。


自分は、この話を読んだとき、胸がキュ~ンと締め付けられ、現代にはこんな感性の人はまずいないだろうな、というようなメルヘンチックな気持ちになってしまった。


けっしていまの世の感性ではない。

なんかとても幸せな気分になった気持ち。


そしてこれはカフカの小説の話ではなく、カフカ本人の実談によるもののようだ。


なんとロマンティックな人なのだろう!

理系人間の自分が、文学の世界って素晴らしいと思った瞬間である。



******


フランツ・カフカ 少女の人形と手紙


チェコの作家フランツ・カフカ(一八八三 – 一九二四)は、死の前年、病の療養も兼ねてドイツのベルリンに住んでいた。若い頃からの取り憑かれたような不安や絶望のために、生涯誰とも結婚することのできなかったカフカだったが、当時、彼の最期まで寄り添うことになる若いポーランド生まれの女性ドーラ・ディアマントと二人で暮らしていた。ドーラは、繊細なカフカが家族以外で一緒に生活することのできた唯一の女性だった。


カフカとドーラは二人で暮らしていた頃によく郊外のシュティーグリッツ公園に散歩に出かけた。これから紹介するエピソードは、その公園を舞台にカフカの晩年に起こった優しくささやかな物語である。


ちなみに、この話は、作家の村上春樹が過去にインタビューで触れ、またポール・オースターの小説「ブルックリン・フォリーズ」にも登場する。



きっかけは公園での一人の少女との出会いだった。


ある日、いつものようにカフカとドーラが一緒に公園を歩いていると、散歩道の途中で幼い少女と出会った。少女は声をあげて泣き、すっかり打ちひしがれた様子。二人が、「どうしたの?」と尋ねると、少女は「お人形さんがいなくなっちゃったの」と答えた。


するとカフカはなだめるように、「君のお人形さんは、今ちょっと旅行に出ているだけなんだ。ほんとうだよ。おじさんに手紙を送ってくれたんだから」と言った。「そのお手紙、もってるの?」と少女が尋ねると「いいや、お家へおいてきちゃった。でも、あしたもってきてあげるからね」とカフカは答えた。


少女は目に涙を浮かべながらカフカをじっと見た。彼女の不信と好奇心の入り混じった眼差しにカフカは優しくほほえみ返すと、少女と別れ、ドーラと一緒に家に帰った。


帰宅したカフカは、さっそく自分の机に向かい、手紙を書き始めた。カフカの姿勢は真剣そのものだった。彼女の心に寄り添う「人形の手紙」に、まるで日頃の創作のように取り組んだ。


翌日、カフカたちが手紙を持って公園に向かうと、少女は約束通り公園で待っていた。少女はまだ字が読めなかったので、カフカはその「人形の手紙」を声に出して読んであげた。


手紙のなかで人形は、自分が一体なぜ姿を消したのかその理由を少女に語った。


人形は、決して悲しい理由から姿を消したのではなく、しばらく今の場所を離れて新しい世界を見てみたかったからなのだと少女に伝えた。


それから少女に対し人形は「毎日手紙を書くから」と約束した。こうして人形はカフカという作家の心を借りながら、自分の日々の新しい冒険について語っていった。手紙を重ねるうちに、人形も次第に成長した。学校に通い、友人との付き合いも増えていった。


そして、ある日のこと、人形は悲しい真実を打ち明けるように少女に言った。


「あなたのことはとても愛しているわ。でもね、付き合いや日々のしなければいけないことが積み重なっていて、もしかしたら、もういっしょに暮らせないかもしれないの」


人形と少女との避けられない別れの準備は、少しずつ進められ、そうして少女に宛てた人形の手紙は三週間ほど続いた。


カフカは手紙の結末に悩んでいた。それは大切な存在を失ったことで生じた少女の傷口を癒す「物語」でなければならなかった。考え抜いた末に、カフカは「結婚」をフィナーレに迎えることにした。


人形からの最後の手紙では、婚約のパーティーや準備の様子、若い新婚の二人の家などが丁寧に描写された。文面に耳を傾けながら、少女の目の前には穏やかな、幸福に満ちた景色が広がっていった。


手紙の最後、人形は祝福の想いに満たされた少女に向かって、そっと語りかけた。「わたしは幸せよ、今までありがとう。そしてわたしたちは、きっともう二度と会えないとあきらめなければならないことを、わかってほしいの」。


手紙を読み終えたとき、少女の心のなかの悲しみはすっかり消え去っていた。悲しみが悲しみとして受容され、昇華されたのだった。


ドーラは後年、このときのことを振り返りながらこんな風に語っている。


フランツは、ひとりの子供の小さな葛藤を芸術の技法によって解決したのだった ───  彼が世界に秩序をもたらすために、みずから用いたもっとも有効な手段によって(ドーラ・ディアマント「フランツ・カフカとの生活」より)。



******


この話はカフカといっしょに住んでいた女性のドーラが、著作を残していて「フランツ・カフカとの生活」という中に記載されていたことなんですね。


またポール・オースターの小説「ブルックリン・フォリーズ」にもこの話が登場するんですね。


自分は最初、これを村上春樹インタビュー集の中で読んで、もうジ~ン、胸キュ~ンという感じで凄い感動しました。


こういう感性はいまの世には絶対ないように思います。

ちょっと忘れられなかったです。


昨日日記を書いたときに、ぜひ紹介したい話だと思いました。

うまく検索キーワードを思いついて見つかってよかった・・・。











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村上春樹さんの小説を読む [雑感]

去年の2019年1月に、”読書をする。”深い深い井戸の中に入り込んで、孤独の層をくぐって体験して、その底で深く人生について瞑想したいと宣言したことを覚えていよう。


これは村上春樹さんの小説を読むということだった。深い深い井戸~という文言も村上さんの使っている名言だ。村上さんの小説は、長編、短編、翻訳、エッセイととても幅広いので、まずはご自身が主戦場と仰っている長編小説を全巻読破してみようと思ったのだ。



村上春樹長編小説14冊


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自分の読書歴は本当に寂しい限りだ。なにせ理系人間まっしぐらの人生を生きてきたので、文学というジャンルにはまったく縁遠く、その反対の人生を歩んできたといってよい。


子供の頃を振り返って記憶にある読書歴。。。司馬遼太郎さんの歴史小説、星新一さんのショートショート、平井和正さんの狼男シリーズ、そしてその時代に話題になった新書をそれなりにかじったかもしれないが、文学少年では絶対なかった。


逆に言えば理系人間だから技術書、専門書のような類はすごく読んできた。TCP/IP解説書とかね。近年ではオーディオ雑誌。そして自分の新しい開拓分野にクラシックの書籍があった。これは一番新しい自分の知識書である。クラシックに詳しくなりたいと思い、たくさんの本を購入してクラシックについて勉強した。


とにかく本を読むということは、知識を得るため、というドライな考え方があって、自分の知識欲のためにならないのなら読書は時間の無駄、というドライな考え方を持っていたかもしれない。


だから日本文学は全然読む意欲がなかったし、興味はあったが、読むとしても時間の有り余る定年後だなぁと漠然に思っていた。


2004年ころに部屋にそういう日本文学の本を収める本棚がないことが気になって、実際読むのは定年後だけど、本だけ買っておこうかな、と思い、本棚を買って、そこに日本文学の小説をたくさんまとめ買いしたのだ。
要は見栄えのためですね。


その中に、村上春樹さんの本があった。


なぜかわからないけれど、村上さんの本は、ほとんど全巻揃えるくらい買い揃えてしまった。他の小説家は代表的なものを2,3冊という感じなのだけれど、村上さん小説だけは、どういう理由なのかわからないけれど片っ端から全部揃えてしまった。


今思えばこうなることを見通して、その当時から自分と赤い糸で結ばれていたのかも?


でもそのときはあくまで積読であった。


村上春樹さんの小説を読み始めたのは、2009年/2010年の1Q84の長編小説が大ヒットしたときからだった。世間がすごい大騒ぎしていたので、自分もその時流に乗って読んでみたいと思ったのである。それ以降、2013年の色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年、そして2017年の騎士団長殺し。


発売されるたびに話題になり、読破した。


このとき、やはり村上春樹さんの小説を読むことは、時流に乗るファッションアイコン的な捉え方が自分にはあったかもしれない。村上小説ビジネスにはたぶんにそういう要素はあるかもしれませんね。


2009年1月に自分を見つめなおすという意思、そして村上春樹さんのつぶやき、エッセイなどから叱責され、生き方、人生とは・・・といろいろ説かれている感じにもなり、それでは村上さんの小説を全巻読んでみようと思い立ったのだ。その背景には、村上さんの本であれば、自分はなにを隠そう全巻揃えているから、という背景があったからだ。


村上春樹さんの長編小説は14冊あるが、1月から読み始めて、毎週の土日は読書にあてた。そうしたら夏休みの8月には14冊全部読破できてしまったのだ。自分でも驚く凄いペース。


それには自分の目論見があって、10月の秋にノーベル文学賞が発表され、そのときに村上春樹受賞という全国、いや全世界のファンが待ち望んでいた瞬間に、この長編小説全読破の日記をぶち上げて、めでたくお祝いのメッセージを贈ろうと思っていたのだ。


残念だったが、このままなにもせずにまた短編、エッセイとかにそのままに読み進めると間が空きすぎるので、いまちょうど「ねじまき鳥クロニクル」の舞台が全国進行中だ。


このタイミングを契機にひとつ村上春樹小説の印象でも日記にしておきたいと思ってリリースすることにした。


村上春樹さんの小説に対する論評や関連ビジネスは本当にすごい。それを今さら読むつもりもなかったし、要らぬ先入観を持つよりは、そういうのをいっさい読まないで、まず自分が読んで自分の感性に正直でいたかった。だからこの日記はあくまで文学評論家でもなんでもない素人のノンノン目線で想いをぶつけるだけである。



村上春樹長編小説を発売順に並べたもの


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村上さんの小説には、リアリズムとノンリアリズムに大別されると思う。自分がこれぞ村上小説の真骨頂と思うのは、やはりノンリアリズムのほうですね。


小説には強いて言えばいろいろなジャンル分けができると思います。恋愛小説、推理小説、歴史小説などなど。でもこういう既存のジャンルに当てはめることのできない独特の村上ワールドを築いていると思いますね。そういう枠にとらわれないオリジナリティがあります。


敢えて言えば、サスペンスと非現実世界の超常現象との混在の魅力・・・とでも言いますか。


やっぱりどこかサスペンスっぽい要素があって、それが強い魅力になっていて、つぎはどうなるのであろう・・・とどんどん読み進んでいきたくなる文章のリズム感のよさが1番の魅力だと思います。


村上小説というとどうしてもこのサスペンス風味のノンリアリズムというイメージが強いので、逆に自分は村上さんのリアリズムの小説はどうもピンとこなかった。ノルウエーの森がそうなのであるが、ノルウエーの森は、いつもノンリアリズム路線ではいかん、ということで小説家としてどうしてもここはリアリズムの小説を書いておかないといけない、という小説家としてのキャリア開発の一環として臨んだ作品だそうだ。


ご存じのようにノルウエーの森は空前絶後の大ヒットとなって大ベストセラーとなった作品。自分は読んでみたんだが、どうも印象に薄いというか、自分の記憶に深く刻まれる作品ではなかった。


あのいつもの強烈なインパクトがない分、ふつうの恋愛小説とそんなに大きなアドヴァンテージを感じなかった。1回じゃどうも印象に残らないから、2回読みましたから。(笑)


でも大ベストセラー、映画にもなった名作ですから、やはり文学素養の乏しい自分では十分鑑賞に耐えれなかったのでしょう。自分の責任だと思いますね。


村上小説というとどうしてもちょっと尋常じゃない奇怪な現象のストーリー展開を期待してしまいますから。



この一連の14作品の長編小説を全部読破してみて、思ったことは、村上春樹さんという人は、性格のいい、いわゆるいい人ではないと思います。


いい人、性格のいい人が書く小説というのは面白くない、退屈でつまんないと思います。


いわゆる自分の中の内面性に毒のようなものがあって、そういう黒い、毒のようなものを自分の中でその毒と向かい合う、そういう非凡人的のところがなければあういう独創的なストーリー展開の発想は思いつかないと思います。


人を驚かすというか、感動する刺激的な小説を書く小説家は、性格がかなり個性的でないとダメですね。いわゆるいい人というのは小説家として大成しないのでは?(笑)


もちろん誤解のないように、悪い人という意味ではなく、普段は普通にいい人だと思いますが、心の闇というかどす黒い毒のようなものを内面的に秘めてないとこのような独創的な発想はできないと思うんですよね。これはあくまで自分の思うところなのだけれど、笑いのツボ、受けるツボが、結構ユーモア、とくにブラックジョークが好き。ちょっとブラックな要素が入っていないとつまらないという面があるんじゃないかと思いますね。


すでに70歳の人生経験豊富な方ですから、ふつうの平凡な方の感動ポイントや笑いのツボとは違っていて、やはり独特のブラックジョーク、痛烈な皮肉ジョークがよく理解できるというかそういうのがお好きなのでは?と思います。


ユーモアを愛するんですね。ボクの普段のジャッジからしてそう感じます。やはりそこは人生経験豊富で、これだけの地位を自分の力で築き上げてきた人ですから。ふつうの人が感動するポイントより敷居が高い感じがします。




1人の作家の作品を短期間で全部読破するというのは、いろいろなものが見えてきます。


それは、やはり晩年の作品になればなるほど作家としての進歩がはっきりわかる、というか。物語の進行の精緻さ、巧妙なトリックのかけかた、使い分ける用語の高度化とか、描写精度、やはり作品が後ろになるにつれて本当に小説のレベルとして進歩しているなと感じます。


ご本人も仰っていますが、小説家になりたての頃というのはどのように小説を書いていけばいいか、わからない中、書いているというのがありますからね。やはり経験だと思います。デビュー作品の「風の歌を聴け」なんて本当に文章が初々しいですよ。ジャズ喫茶を経営しながら、店を閉まった後に、自宅に戻ってキッチンテーブルで当時は原稿用紙に万年筆で書いていた、という状況。ボクはこの作品は本当にその頃苦労しながら書いている様子が垣間見えてとても初々しくて好きです。


この14作品の中で1番好きなのは、やっぱり1Q84。これはやっぱり物語の仕掛けが非常に巧妙に作られていて、読んでいくうちにそうだったのか、と関心させられるところ多し。小説ってこういう仕掛けが巧妙だとやっぱり読んでいてすごく感動しますよね。なにもトリックがないより絶対感動します。そしてなによりも自分が大好きなサスペンス風味抜群で、やっぱりカッコいいですよね。小説全体として。1番好きな作品です。


あとダンス・ダンス・ダンスが大好きです。これもサスペンス風味大活躍。ここの札幌のイルカホテルのレセプション嬢のユミヨシさんに惚れてしまいました。メガネガールなのですが、なんか意固地だけど清楚でそそられるのです。村上小説だからきっと性描写があるに違いない、と期待していましたが、最後の最後でついにユミヨシさんの性描写が!もう、ものすごく大興奮しました。(笑)


あと海辺のカフカも大好きです。なんとも奇妙な小説です。ゴローさん出てきます。(笑)


これは村上小説をずっと全作品読んでいくうえで不思議に思ったことですが、必ず各作品に自分の人生に関わってきた人がいろいろな形で登場するんですね。各小説で必ず登場します。ホテルの名前で出てきたり、いろいろ。最初気味悪かったですから。


ねじまき鳥クロニクルや世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドも面白かった。
もうみんな面白かったです。


村上小説の魅力に主人公が自分と同じ等身大、金がなく、細々と人生を楽しんでいる、というのがあります。そんな主人公像に人気がある理由がある感じがしますね。


自分も金がなく、社会的に成功しているわけでもない、細々として暮らしていますから、こういう主人公像だとついつい自分がそのまま感情移入しやすいんですね。その主人公に自分がなっているかのような感じ。


村上さんはもう結構お歳なのに、書く小説に若者層に人気なのは、そういう主人公の等身大さに共感を得るからなのだと思います。


ダンス・ダンス・ダンスでは、金のないライターで、グルメなお店を取材して雑誌に投稿して細々と暮らしている男・・・なんだ?俺のことか?と思わず共感しましたから。(笑)


主人公がハンサムで金持ちで何不自由なく裕福じゃまったく面白くありませんね。


あと、各小説には、必ずサンドウィッチとサラダが出てきますね。(笑)ご本人が好きなのか、と思いましたが、昔ご自身でジャズ喫茶で出してメニューだったのかもしれません。


これも短期間で1人の作家の作品を全読破するからわかることです。



上の長編小説以外に紹介したい本。


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これは職業として小説家を目指すことになったその経緯や村上流小説の書き方など大変興味深い内容が記載されている。小説ってどのように書くのか、とくに長い長編小説だと、プロット(あらかじめ、全体の筋書を決めて、そこに割り付けていくように書くこと)とかも全然しないそうだ。もう一筆書き。タイトルを決めてそのイメージから一気に書き上げる。そしてどうしても整合性ないから整合性できるまでどんどん何回でも書き直すのだそうだ。



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インタビュー集。ある意味、小説家村上春樹としての自分の小説の在り方、考え方などがわかる。インタビューなので、本人がじかに喋っている内容で人間村上春樹というのがよくわかる本。自分はこの本を読んで小説家村上春樹というのを理解することができた。



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旅行日記。村上流に言えば旅行スケッチ。


ヨーロッパのギリシャ、イタリア、ロンドンに住んでいた時の旅行日記。自分はこれが最高に面白かった。やっぱり人の旅行日記って最高に面白い。失敗談とか最高。やっぱりすごいと思うのは、我々SNS時代の人間は写真を一発載せてしまえば、それで、ものを言わせるというか写真が果たす役割というのは大きいのだが、ここは小説家。文章ひとつでその場の風景とか、読んでいる人の頭にその情景を浮かび上がられせる才能は本当に凄いです。


自分はどの長編小説よりも、この旅行スケッチが最高に面白かった。
これはぜひ読んでほしいです。





村上春樹さんの書斎


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いまでこそこんな素晴らしい書斎で執筆されていると思いますが、村上さんは大の引っ越し魔で、作品の大半はいろいろな場所で執筆されたものです。ヨーロッパなどの外国で執筆されたものも多いです。(ノルウエーの森とかダンス・ダンス・ダンスとか)だからその作品を読むとその風景が蘇るとか。やっぱり創作活動というのは普段の場所と違うところだと、その効率も抜群に上がるものなんですね。村上さんは作品ごとに引っ越ししていたようなものだったらしいです。


単に小説を読むだけでは、やはり物足りなくなるんですよね。やはり村上春樹という人物はどういう人物なのか、というのがどうしても知りたくなってきます。


シャイで人前にでない~文章で自己表現に徹する~自分に似ていますね。

村上ビジネスはすごい。いろいろな人が村上さんを慕って取り囲んでいる。


これだけ日本のみならず、世界中に読者を持ち、大ファンに囲まれている人生って本当に幸せな人なんだな、とつくづく思います。


みんなから愛される、こういう幸せというのは、本当に誰もが持ち得ることではない。
類まれな才能だと思います。


それでいながらシャイでメディアに出てこない、人前で話すのが苦手。
自分は小説1本で自己表現する。この部分ってすごく自分に似ていると思います。


自分も人としゃべって自己表現するよりも、書くことで自分の考えを人に伝えることのほうが容易いと思ってますので。


ほんとごく一般人的な生活らしいです。
夜9時には寝てしまう。朝型人間。


朝早く起きてそこから執筆活動、お昼までやって、そこからジョギングで走って、その後は、音楽聴いたり、アイロンかけたりという生活サイクルの繰り返し。


村上さんと自分では、住んできた、生きてきた人生が全然違う世界。自分にないものを持っている方だと思いますね。自分が歩んできた人生の抽斗には存在しないものを持っている。


それはやはり幼少のころから文学少年で文学が好きだったこと。
とくに外国文学に傾倒していたこと。


少年時代、神戸の古本屋にそのときのアメリカ兵が読み終わった本をそこに売っていく訳でそういう外国文学書が束になって積まれている。そういう束になって古本屋に積んである外国文学本を二束三文の安さで買って幼少時読んでいたそうです。


もう訳すということなどせずに、英語のままガリガリ読んでいくという感じ。


その幼少時代からの影響で、村上春樹の小説は外国文学の影響が大きいということになる。好きな作家を三人選べと言われたら、すぐに答えられる。スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーバー、トルーマン・カポーティ。この三人の小説だけはかれこれ二十年くらい飽きもせずに何度も何度も読み返しているそうだ。そしていまこのように自分の文学に影響を受けた外国作家の本を翻訳されています。これも村上文学の大切な屋台骨。


あとマラソンですね。


これは自分は全然ダメ。高校の時に学校で10kmのマラソン大会があるのだけれど、なんとか例年上位に行こうと思い練習するのだが、10kmでこんなに大変で苦しいものなのか!と嫌になりました。マラソン大の苦手です。


村上さんは大のマラソン人生そのもの。


42.195kmのフルマラソンもやられる。フルマラソンの後の暖かいディナーほど世界で美味しいものはないと豪語される。


これはわかるわ。(笑)



あと、村上春樹さんと言えば音楽にとても造詣が深いこと。ジャスやクラシック。自分は小説の書き方を音楽から学んだ、文章はリズム感だ!というのがご自身のモットー。


ここはボクとまったく同じで、唯一共通点を見いだせるところ。
ボクの人生も音楽が大好きで音楽に溢れた音楽人生だった。


村上さんは、じつは現在ラジオのパーソナリティーをされていることをご存じかな?


FM Tokyoで”村上RADIO”という番組をやっている。



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2か月に1回の不定期な開催だが、村上さんの生声が聴けてご本人のパーソナリティがわかるとても貴重な番組だ。2年前の2018年の8月にスタートして2か月おきにやっている。


自分もスタート時点から必ず聴いているんだが、2か月おきだから、開催日いつも忘れちゃんだよね。(笑)Twitterで登録しておくと、事前に開催を通知してくれるから便利だ。


村上RADIO Twitter



滅多にメディアに出ない村上さんなので、番組当初は、シナリオ原稿棒読みのような感じで硬さが取れていなかったけれど、最近はとても素の姿を見せてくれるようになり、会話もごく自然だなと思うようになりました。


音楽好きの村上さんが、自宅からアナログLPを持参して、各回でいろいろな音楽のテーマを設けて、自分がディレクター、パーソナリティーしている番組なのだ。


これはぜひお勧めです。


今週の日曜日にあります。

テーマは、”ジャズが苦手な人のためのジャズ・ボーカル特集”



最後に自分はオーディオファンなので、最後はオーディオの話題で。


去年の2019年12月号のSWITCH。


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村上春樹のオーディオルーム

という特集が組まれた。


ジャズ喫茶時代から愛用しているJBLのスピーカー、
アナログレコードプレーヤ4台

システム全容が紹介されている。


村上春樹におけるいい音とは?


いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音とは全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音かを見つけるのが一番大事で・・・それが結構難しいんですよね。人生観と同じで。


村上さんは大のアナログレコードマニア。世界中の中古レコード店を渡り歩き、ここにだけある希少価値盤とかお宝のレコードを収集していくというのが本当に大好き。


ぜひ書店にゴーだ!












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朝食にエダムチーズ [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーがメンゲルベルク邸で朝食に食べていたエダムチーズ。
はて、エダムチーズとは何なのか?


チーズのことにはあまり詳しくない自分にとって、エダムチーズのことを調べてぜひ体験してみて日記にしてみたかった。


エダムチーズは、ゴーダチーズと並ぶオランダの代表的なチーズのひとつ。北部のエダム地方が原産で、牛乳を原料としている。 製造には脱脂乳を使用する。いつごろかは明らかにされていないが、かつては全乳を使用していた。脂肪分が低いチーズとして有名。熟成にはチーズダニを用いる。


戦後日本に輸入されたチーズの第一号ともいわれる。オランダからの輸出用のエダムチーズには赤色のパラフィンワックスがかけられていることから、日本では赤玉とも呼ばれた。オランダ国内消費用のエダムチーズには黄色のワックスが施される。 種別はハードチーズに分類されそのまま食べるほか、粉チーズとして料理に使われることも多い。


オランダから輸出されるエダムチーズは、見かけは、こういう外皮に赤いワックスがかけられているんですね。まるで見かけはリンゴみたいです。逆にオランダ国内商品用に黄色のワックスがかけられています。ワックスというのは外気から中のチーズを守る皮みたいなものです。


エダムチーズ


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こういう丸形の球状タイプは、まさに”赤玉”と呼ばれています。


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エダムチーズは外気に一度さらすと、もう乾燥してしまいカチカチになってしまいます。だから赤玉で買う場合はいいですが、それじゃ多すぎる、200g,400gだけ買いたい場合というは、このように真空パックになっているんです。自分もこの真空パックにされている200gを買いました。


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エダムチーズというのを自分で食べてみたいために、ネット通販で売っているエダムチーズを買ってみました。最初、赤玉を丸々1個買おうと思いましたが、さすがに多すぎると思い、先の写真のように200gだけの真空パックに入ったものを買ったのです。


そしてその真空パックを剥がして取り出したのがこれです。
これは私の買ったエダムチーズの本当の実物の写真です。


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さて、このエダムチーズの外皮の赤いワックスを剥がします。
もう手で簡単にパカッという感じであっさり取り外せます。
最初包丁で剥かないといけないのかな、と思っていましたから。


そしてはじめて食べてみたエダムチーズの食感の感想。

これはいわゆる調理用として食用のあのまろやかな香ばしいチーズとは全然違う。


いわゆる加工していないチーズの素のような味でした。いわゆるクサイんですよね。(笑)あの独特のチーズの臭みというか、食べてみれば確かに美味しいとは思いますが、日本人がチーズに抱いているあの香ばしいチーズの味ではない。かなりクサイです。あ~、取り立てのチーズってもともとはこんな味がするのかもなぁ、というそんな味なんです。レストランで食べるあういう洗練されたチーズの味ではないです。もっと臭みが激しくて、クセのあるチーズの原形のような味がします。


チーズの種類としては、ハードタイプのチーズだと思います。とても固いです。マーラーがメンゲルベルク邸で朝食にエダムチーズをちぎって食べていると、アルマ宛の手紙に書いているんだが、ここにはどうも疑問符がある。”ちぎって”という表現。ハードタイプのチーズなので、”ちぎって”はおかしい。ナイフを入れて食べやすい一片にするか、そのままかぶりつくか、なのだと思うのである。”ちぎって”では食べられないと思う。


それじゃオランダでエダムチーズならんで代表的なチーズのひとつであるゴーダチーズとはどのようなものか?


ゴーダチーズ

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ゴーダチーズは、エダムチーズと並ぶオランダの代表的なチーズ。オランダでのチーズ生産量の60%を占める。ロッテルダム近郊の町、ゴーダで作られたことからこの名前がついた。


外見は黄色がかった茶色い円盤型で、正式なサイズが直径35cm×高さ11cm・重さ約12kgと決められており、それより小さなものを総称して「ベビーゴーダ」と呼んでいる。中は白から黄色。熟成と共に色が変化する。熟成されたゴーダの中には表面が黒いものもある。 クミンシードやニンニクなどを用いて香りをつけたものもある。 主な材料は牛乳とレンネット。


チーズの種類としてはセミハードに分類される。味はマイルドで日本では比較的広く親しまれている。 オランダでは土産物として空港などで売られている他、食料品店、チーズ販売店などでもほぼ置いている。チーズ店などでは特に包装をしていないものを常温で積み上げている場合もある。これは表面をロウでコーティングしてあり、ナイフを入れない限り熟成が急激に進む心配がないため。他に、フィルムにくるんだものや、真空パックのように包装したものもある。


日本では、チェダーチーズと並んでプロセスチーズの主要な原料として用いられているとされる。また、ゴーダチーズを原料としたスライスチーズが明治から販売されている。


ゴーダチーズというのは、ある意味我々がヨーロッパで見かけるチーズの代表的なものなのかもしれませんね。円盤型で、黄色のワックスでコーティングされているもの。



5月に行くアムステルダム、いやオランダの国自体は、まさにチーズの国。

チーズを売っているチーズ専門店はそれこそたくさんある。


日本には絶対存在しないこういう円盤型のワックスコーティングされたチーズが山のように置いてあるそんな風景なお店だ。


そんなアムステルダムにあるチーズ専門店を紹介するページを発見した。
情報元:https://plusdutch.com/blog/cheeseshop-amsterdam/



この情報元のHPに基づいてアムステルダムにあるチーズ専門店を紹介してみる。


Old Amsterdam Cheese Store

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アムステルダム市内に3店舗ある、オールドアムステルダムチーズの専門店。店内にはチーズのテイスティングルームがあり、オランダのアムステルダムチーズと他のユニークなオランダのチーズの味を体験できます。所要時間1時間のチーズ&ワインのテイスティングでは、ソムリエが選んだ3種類のワインと一緒に5種類の優秀なチーズを試飲できます。(要予約)



Henri Willig Cheese & More

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多くの店舗をかまえるチーズ社「Henri Willig」のチーズの品種と味は高品質で、国際的に評価されています。アムステルダム市内のいたるところにお店があり、定番のお土産チーズショップではないでしょうか。種類が多く、お土産としてのサイズ感も程よく、パッケージもお洒落なので、贈り物として人気があります。



De Kaaskamer

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店内には所狭しとチーズが積んである、ザ・チーズ屋さん。
100種類以上の厳選された世界のチーズが食べ比べ可能です。
ワインや自家製サラダ、テイクアウトサンドイッチも販売しています。



Kaashuis Tromp

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オランダのナショナルチェーンのチーズ店。
あらゆる種類のオランダチーズが手に入ります。
焼きたてのパンとチーズのサンドイッチが人気で、ランチタイムには行列も。



Dutch Delicacy – De Mannen Van Kaas

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バジルやベリーなどを混ぜたカラフルなチーズを取り揃えているチーズ屋さん。ビビットカラーのチーズは、驚かれるお土産にもなります。パンやコーヒーなども販売しているベーカリーなのですが、広い店内には多種類のチーズやチーズナイフなどの雑貨なども取り扱っています。



Reypenaer Tasting Room

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こちらはチーズの試食専門店。創業110年のライプナー社製チーズは歴史ある熟成プロセスが独特で、世界最大級のチーズ品評会で受賞したチーズが多いことでも有名です。アムステルダムにあるチーズテイスティングルームでは、チーズソムリエ指導のもとにライプナー社製のチーズを試食することができます。(要予約)


あ~自分はここがいいです。円盤型の大きなチーズを持って帰ったり、輸送したりするのは大変だからお土産にして買うのは大変だけれど、こういう試食専門店だったら全然いいです~。(笑)


これらのお店の住所アドレスは、この内容の情報元になっている先のURLの中のページに記載されています。興味のある方はぜひご覧になってください。


やっぱりチーズの国、オランダ、アムステルダムですね。


上のような写真の円盤型のチーズが店内に所狭しと積まれる姿って、やはりそこの原産地の国でないと存在しないチーズのお店ですね。



さて、ネット通販で単にエダムチーズを食べただけでは、やはりやや欲求不満。
それもハードタイプのチーズで食用にしては独特の臭みのある味。


やっぱり日本人のテイストにあった食用しての美味しいチーズ料理を1品くらい食べて、日記の締めにしたいと思った。やはり日本人はこっちだよ・・・的な。


横浜にあるチーズカフェに行ってきた。

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チーズ料理を食べさせてくれるお店は結構高級なところからいろいろあるのだが、ここは店内がとてもカジュアルな感じで若者向きのお店。自分にはこちらのほうが向いているな、と思いました。


女性の接客店員さんや、コックもみんなすごい若い。
とても活気があって元気をもらった感じでした。
すごく気分がよかったです。


チーズの世界はやはり女性の世界。店内は女性ばかりかな、と思ったけれど、カップルが多かったですね。自分はカウンターで女性店員にすごく優しくされました。


店内は、カジュアルで気取っていなくてとても雰囲気がいい。


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自分は事前にこれが食べたいというのをこのお店のHPのメニューで決めていた。やはりチーズのパスタと、ステーキをラクレットでチーズをたっぷりというのが狙っていたものだった。


ラクレットというのは、あのチーズをとろ~りと削ぎ落してかけることである。たぶんみなさんテレビで見たこと絶対あると思う。ラクレットはインスタ映えするということで、若者はみんなそのラクレットのとろ~りの瞬間を撮影してインスタにアップしていますね。いまとても大人気です。


自分もこれをやろうと思ったのです。(笑)
このラクレットが1番楽しみだった。


ところがいまはラクレットはやっていないという。
もうガックリ。(笑)


カウンターでよかったと思ったのは、パスタにチーズをまぶすその瞬間を見れること。コックさんも自分に見せるために、目の前でやってくれた。カウンターでよかった思った瞬間です。


こうやってチーズの塊のすり鉢状のものをドカンと目の前に置きます。これ全部チーズでできています。そしてナイフみたいなもので表面をそぎ落としてチーズをはぎ取ります。


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そして茹で上がったパスタとスープをそのチーズでできたすり鉢状の中にそのまま入れて、そこでチーズを満遍なく絡めトロットロにするのです。まさにチーズのすり鉢でチーズにまぶされながらチーズでトロっトロ。


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そしてチーズパスタ完成。


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これは最高に美味しい!


パスタでこんな美味しいのを食べたことない。チーズのなんとクリーミーで甘くて香ばしいことか!


量が少なかったので、足りなくて、チーズリゾットも注文しました。

そうしたらやり方はまったく同じ。


目の前にチーズでできたすり鉢をど~んと置く。
表面を削ってチーズをそぎ落とす。

そしてリゾットをこの中に入れてチーズとともに満遍なくかき混ぜる。


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そして出来上がり。チーズリゾット。


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これも溜まりませんね。こんな美味しいチーズリゾットもはじめて食べた。
普段あまりいいものを食べていないので。(笑)


これはカウンターにいたから楽しめたショーでしたね。


ところでチーズはハイカロリー。


それはわかっていたけれど、食事節制をずっと続けるとストレスがどうしても溜まってきます。1日くらい羽目を外すのはよいか、と思います。


明日からまた食事節制の生活と1万歩のウォーキングですね。






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アバドのマーラー [海外音楽鑑賞旅行]

バーンスタインのマーラーが感情移入全開、没入感たっぷりの熱い濃厚なマーラーなら、アバドのマーラーはクールで知的、明晰さを併せ持ったマーラーではないだろうか?


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バーンスタインのは、長時間観ているとあまりに濃厚でぐったり疲れてしまうんですよね。


大昔にまずマーラー入門ということで、バーンスタイン録音でその門をくぐった訳だが、やはり時代が経過するといまの時代にあった近代的なマーラー解釈が必要になってきた。


いろいろな巨匠がその足跡を残していったが、自分は近代マーラー解釈としてアバドとラトルを聴いてきた。住み分けは、映像作品のアバドに、実演のラトルという感じである。


そういう道を選んだのは、やはりともにベルリンフィルでマーラー解釈を進めていった指揮者だったという理由になる。ベルリンフィルは、カラヤンが長年そのポストについていたが、アバドが後任として進めていったアプローチにカラヤンが得意として膨大な録音を残していった古典派、ロマン派のガッチリ系の音楽に対して、アバドは、マーラーや新ウィーン楽派などの現代音楽を得意としていて、そういうカラヤンがやってこなかった苦手な部分を積極的に取り上げていこうとしたこと。ラトルもその道に追従したように思う。


アバドはマーラーだけではなく、ベルクやシェーンベルクなどの新ウィーン楽派にも非常に造詣が深かった。それは学生時代にウィーンで盟友メータとともに学んだからだ。


マーラーはシェーンベルクやその弟子ベルクと親密に交流したし、マーラーは彼らの音楽に格別の理解を示したし、彼らもマーラーの後継者としての意識が強かった。その証拠にメンゲルベルクのマーラーフェスト1920ではシェーンベルクは、アルマ夫人とともに参列している。


だからアバドのマーラーを語るときは、必ず新ウィーン楽派の音楽をペアで聴くような環境が多かったような気がする。


ラトルもまったく同じである。現地ベルリンフィルハーモニーでラトル&ベルリンフィルのマーラー第6番「悲劇的」を聴いたとき、その前半の曲はベルクの3つの小品だった。


そのとき、新ウィーン楽派を掘り下げて勉強してみようと思っていろいろ聴いてみたが、かなり理解不能であった。(笑)無調音楽&十二音技法の世界は簡単には理解できなかった。
 

ラトル&ベルリンフィルは2010年のアバドのルツェルン音楽祭で、この新ウィーン楽派の3人の作品を全曲演奏している。


演奏前に、ラトルが、


「今回はシェーンベルク、ヴェーベルン、ベルクの新ウィーン楽派の巨匠の3作品を一挙に演奏できることを大変興奮しております。これらの作品のコンビネーションの効果を感じるためにも、3作品全部が終わるまで拍手はしないでくださいね。 でも全部終わったあかつきには、3曲分の盛大な拍手をどうぞよろしく。」


とドイツ語でコメントした後、合計14曲が次々演奏されるという演出だった。


当時のハイパー・アバンギャルドな音楽だが、現代の人間が聴いてもその前衛ぶりは衰え知らずだったようだ。やはり単純に音楽を聴くのみで、その音楽の構造を解釈することが一般人には到底不可能なスコアになっていると思われた。


ルツェルン音楽祭で、このような企画の演奏会を喜んで受け入れ推進したのがアバドでもあったわけで、このように自分の中では、アバドとラトルは常に一緒の方向性にあったという理解だった。


そしてマーラーと新ウィーン楽派はいつもペアだった。


アバドとラトルは、カラヤンとの色の違いを主張するためなのか、このマーラーや新ウィーン楽派3人の作品など現代ものを好んで積極的に取り上げる傾向にあると常々思っていた。


それは、ともにカラヤンという偉大な亡霊に悩まされ、ベルリンフィルを率いていかないければならない運命にある立場だった彼らだったからこそ目指したブレークスルーだったのだと思う。


アバドは、高潔の人物ですので、自分を主張することなく、回りから押し上げられて高みに昇りつめた人。カラヤンの亡霊に悩まされて..... それがルツェルンで誰はばかることなく、音楽に没頭しているアバドは永遠の青年のように活き活きしている感じがしたものだ。



2002年、ベルリンフィルを退いてからは、ルツェルン祝祭管弦楽団を再編成し、世界最高のオーケストラと称されるまでに発展させた。また、若者達の育成にも愛情を注いだ。望む作品、共演したいソリストを集めての晩年の演奏会では、マーラーの作品を取りあげることが多かった。


「私は、自分の苦痛を通して、偉大な作曲家の苦しみを共感できるようになった。例えばマーラーのように。いかなる苦難を乗り越えて、彼が偉大な作品を生み出したことか!私は自分の苦しみを通して、音楽がその最良の治療法であることを真に理解することができた。」


胃癌を克服して奇跡のように指揮台に戻ってきたアバドであったが、彼を癒したのは、まさにその音楽の力だった。


このようにインタビューに答えている。(眞鍋圭子さん(音楽ジャーナリスト)筆)


自分にとって、クラウディオ・アバドはシカゴ響、スカラ座やベルリンフィルのときではなく、このルツェルン音楽祭をリードしていたときが一番輝いていた。


アバドのマーラー録音は、1970年代にシカゴ響やウィーンフィル、ベルリンフィルと録音したマーラー全集がある。なぜか、すごい値段が高いCDなのだ。いわゆるアバドの全キャリアを通してのマーラー録音をおこなってきた作品をひとまとめにした総集編的なものだと思います。だから値段も張るCDなのだと思う。アバドのマーラー録音で最も代表的な作品だと思います。



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マーラー交響曲全集 
アバド&ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、シカゴ響(12CD)



ベルリンフィルのときには全集とまではいかなかったが、数枚の録音をおこなった。第6番「悲劇的」だけはSACDです。


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そして、なんと言っても、自分にとってのアバドのマーラーといえば、ルツェルン音楽祭でのルツェルン祝祭管弦楽団を率いてのマーラー交響曲全曲演奏会である。


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2000年代に毎年1曲ずつ音楽祭で演奏され、その演奏の模様が収録され、EuroArtsからBlu-rayで発売された。これを全部コンプリートしようとコレクター魂に火が付いた。


なにが斬新であったかというと、マーラーの交響曲全集の映像ソフトが、高画質のBlu-rayで発売される、というところが堪らなかった。


もう何回も説明しているけど、敢えてもう一回言わせてもらうと、クラシックの素材のBlu-rayソフトって当時は圧倒的にオペラが多くて、オーケストラコンサートは2008年にゴローさんのNHKの小澤征爾さん&ベルリンフィルの悲愴が最初だった。


だからBlu-rayでオーケストラコンサートを楽しむにはまだ時期尚早であった。そこに来て、アバドのルツェルンのマーラーツィクルスが全曲ともBlu-rayで出るというのはマニアには堪らないニュースだったのだ。


EuroArtsは欧州を代表するもう超有名な映像ソフト会社ですね。


マーラーファンにとってこれはまさしく金字塔で絶対コンプリートしようと誓ったのだ。しかもサラウンド音声だ。


このツィクルスを全部Blu-rayでコンプリートすることこそ、近代のマーラー解釈を入手できることだ、と思っていた。近代マーラー解釈として、映像ソフトのアバドに、実演のラトルというのはそういう意味である。


そしてご覧のように、見事コンプリートしました。(第8番が見つからないんですよね。ひょっとしたら自分の勘違いで8番はBlu-rayになって発売されていないのかも?あるいは8番収録だけ未完でアバドが亡くなったのかも?))


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これを収集して徹底的に擦り切れるくらい見まくったのは、2010年~2012年の3年間。


自分にとってこの映像を見て、アバドのマーラーってなんぞや、というのがわかったような気がした。バーンスタインのときもそうだけれど、やはり映像素材のインパクトって大きい。CDの録音を聴いているだけで、どうこう議論することもできるけれど、映像を見ちゃうと、なんぞや!が一発でわかる。


これを全部コンプリートするには少々障壁があった。


自分が集めだした当時、交響曲第2番「復活」だけが、著作権の問題で日本で販売されていなかった。なぜに?と思って、悔しい思いをしていたが、ゴローさんが、海外のアマゾンを使えば、入手できるかも?とアドバイスをくれた。DVDやBlu-rayは再生するときリージョンコードがあるが、BDはDVDほど細かくなかった。


海外のアマゾンを使うという手段があるとはまったく知らなかった。アマゾンUSAとかアマゾンUKとか、アマゾンDEとか・・・結局、アマゾンUSAで入手することができた。そして家に配送され、恐る恐る再生したところ、無事に再生できた。


やったー!ついにコンプリート!となったのである。

でもそうは簡単に問屋は降ろさなかった。


今回のマーラーフェスト2020の事前準備としては、映像ソフトはもう文句なしにこのアバドのルツェルン音楽祭のBlu-rayで予習をしようと思っていた。こんなときのために揃えていたのだ、と。


そうしたらこの2番「復活」を再生したときにメニュー画面がおかしい。3番もなにかおかしい。物理メディアというのは長期間棚に保管してくと、その保管環境に応じてダメになって再生不能になるということを聞いたことがあるので、それだと思った。物理メディアは一生もんじゃない。


なんと!我の汗と涙の結晶が全部泡となって消えたのか・・・


あまりしつこく再生しようとするとBDプレーヤーが故障してしまいそうだったので、あえなく断念。(いまBDレコーダ壊れたら、買う予算もないし、番組録画できなくなり本当に日常生活困ってしまう。)


ネットで買いなおそうと思ったら、これしかなかった。
昔の単盤での販売は、数枚を除いて全部廃盤になっていた。


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マーラー交響曲第1~7番、他 
アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団(4BD)



なぜか、第1番~第7番の全集で、第8番、第9番なし。
笑ってしまった。なぜこんな中途半端なの?


結局第1番~第7番までしっかり予習しました。第9番は、自分の昔の単盤が再生できるかもしれないけれど、BDプレーヤ壊したら怖いので再生していません。なんともギャグのような顛末だが、いかにも自分らしくて笑える。自分の人生なんてこんなもんだ。(笑)


アバドのマーラーは、バーンスタインのような過剰な感情移入をしない。とてもクールで、ある一定の距離感をいつも保っているように感じる。とても明晰で繊細だけれど、どちらかと言うとしなやかさがあって明るいイメージの爽やかな演奏だと思う。


新しいマーラー像を打ち立てたと言ってもいいと思う。

のちの明晰派マーラーの先駆け的存在になったのではないだろうか。


またアバドは、第6番「悲劇的」については、シカゴ響の頃は、スケルツォを第2楽章に、アンダンテを第3楽章にという従来のスタイルをとっていたが、初めてベルリンフィルに客演したときから、近年の国際マーラー協会の見解にしたがってアンダンテを第2楽章に、スケルツォを第3楽章に置くなど、マーラーの最新研究に準じた方針をつねに先んじて取り入れていた。


この第6番の中間楽章の順番については、アバドが最初に取り入れて、ラトルもそれに準じた形である。このように近代のマーラー研究、解釈につねにアンテナを敏感にしていたので、”アバドのマーラーは新しい”というイメージが自分にはあった。バーンスタイン以来、マーラー指揮者の中では最先端のマーラーの近代解釈を引き下げてクラシック業界を引っ張っていったのがアバドであった。


いまの自分には、アバドのマーラーのほうが体質的に受け入れやすいし、自分に合っているように思う。


アバドのマーラーの特徴にやはり終演後の沈黙がある。特に有名な第9番のラスト。アバドならではの流儀。昨今のフライングブラボーなんてなんのその、本当にルツェルンの観客のマナーはすごいものだと感心してしまう。


ルツェルン祝祭管弦楽団は、まさにアバドだから可能になったスーパーエリート奏者を集めたスーパー軍団。マーラー室内管弦楽団の団員を中核として、ベルリン・フィルのメンバーや、ザビーネ・マイヤー、ハーゲン・カルテットやアルバン・ベルク・カルテットのメンバーなどが参加する本当にスーパー軍団なのだ。


第2番「復活」のときは、ハープの吉野直子さんの姿も見えました。演奏するメンバーをカメラが抜くのだがもう圧巻ですね。


そして今回新たに発見だったのが、たぶんそうではないのかな?とずっと思っていたのだけれど、今回久しぶりに見たらやはりそうだった。


オーボエ奏者の吉井瑞穂さんの姿があった。


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吉井瑞穂さん


昔見ていたときは、このベルリンフィルのアルブレヒト・マイヤーの隣に座っているアジア人の女性オーボエ奏者は誰なのだろう?とずっと当時不思議に思っていたのだ。(マイヤーとは師弟関係)(1番、4番を除いて、全公演に出演しています。)


まさか吉井さんだったとは!


いまだからようやく一致しました。(笑)


吉井さんはずっと長い間ヨーロッパで活躍されてきて、アバドに評価・抜擢され(共演200回以上とか!)、ベルリンフィルとかルツェルン祝祭管弦楽団、マーラー室内管(現在も所属)に在籍でずっと活躍してきたすごいキャリアは存じあげていたが、自分の頭の中でいまいち距離感がつかめなかった。


でもこの映像ソフトを見てそうだったのか!と一気に・・・。
鎌倉出身です。


今年の秋にマーラー室内管と内田光子さんとで来日公演があるそうなので、ぜひ今度はじめて実演に接してみたいと思います。


ものすごい楽しみです。



アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団は、2006年10月に来日しており、サントリーホールでマーラー交響曲第6番「悲劇的」を演奏している。マイミクさんたちもこの公演に行かれ、素晴らしい名演だった、という話はよく聞いている。


1995年には、ベルリンフィルを率いて来日しているが、そのときはマーラー交響曲第2番「復活」を披露した。そのときも超絶名演だったが、そのときの話題として合唱のスウェーデン放送合唱団の知名度を日本国内で上げたことだ。


スウェーデン放送合唱団は、いまでこそ飛ぶ鳥を落とす勢いの名門合唱団だが、日本で有名になったのは、このときの公演の素晴らしさからだった。アバドのプロデュースは凄い。


ソリストと指揮者の関係で、やはりその時代に応じて、その指揮者に呼ばれるソリストの顔ぶれが違ってくるが、アバドがプロデュースして連れてくるソリストは、自分の世代だよなぁと思うことしきりだ。


アルゲリッチ、ポリーニ、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター・・・みんなアバド時代に表舞台に出てきたスターたちばかりだ。


そういう意味で、アバドはやはり自分にぐっと近い世代の存在だと思う。


マーラー没後100周年記念コンサートでは、ベルリンフィルで「大地の歌」第10番アダージョを披露している。アンネ・ゾフィー・フォン・オッターとヨナス・カウフマンのコンビで。


当時、NHKのBSプレミアムシアターで放映され、録画してあります。
またこの公演は、ベルリンフィルのデジタルコンサートホールでも見れます。




2013年度のときに、人生でようやく初めてのルツェルン音楽祭を経験して(しかもオープニング初日!)、KKLでアバド&ルツェルン祝祭管弦楽団のベートーヴェン英雄を聴いた。前半は藤村実穂子さんも出演。


そしてその年の秋に、このコンビで日本に来日予定で、きちんとマイミクさんの分のチケットも取っておいたのに、まさかの突然のキャンセル。その頃から容態の悪化を噂されていた。


そしてまもなくご逝去。


結局あのときが今生のお別れだったんだね。


やっぱりこのように自分にとってアバドはマーラーなんですよね。


たくさんの巨匠たちがマーラー録音を残してきたが、自分にとっては、やはりアバドとラトルなのだ。






 
 




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バーンスタインのマーラー [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーの死後、マーラーの作品はほとんど演奏される機会がなかった。マーラーのよきサポーターであったメンゲルベルクや、直弟子であったブルーノ・ワルター、そしてマーラーから作曲や指揮法を学んだオットー・クレンペラーは、確かにマーラーの作品を取り上げ録音を残した。


しかしマーラーの作品を後世に渡って真に世に普及させ、商業的な成功に導いたのはレナード・バーンスタインであることは誰も異論はないであろう。もうこれは歴史上の事実で定説なのだ。


昨今のマーラーブームの礎を築いたのがバーンスタインなのだ。


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バーンスタインは、自分のことを”マーラー音楽の使徒”と考えていたところがあって、”We Love マーラー”のキャンペーンもやったりして、その頃はあまり演奏される機会のなかったマーラー音楽をこの世に普及させていこうという使命感に燃えていた。


「マーラーは、交響曲の分野で、20世紀の最も重要なイヴェントになると確信している。」と予言していた。


「つぎの時代には、必ずマーラーが来る」と言ってはばからなかった。


自分もマーラーに初めて取り組んだときは、まずバーンスタインの録音で勉強をした。バーンスタインの作品でマーラーを勉強するのが、筋なのだろう、王道なのだろう、と疑いもしなかった。


マーラーの交響曲全集をはじめて録音したのがバーンスタインである。


CBS(のちのCBSソニーで、いまのソニーミュージックの前身)でその全集を作った。
もちろんこの頃はアナログLPの全集という意味ですよ。


アメリカ初出LPボックスのアルバム
まさしく録音史上初の「マーラー:交響曲全集」である。

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だからその記念すべき初めてのマーラー全集は、いまはソニークラシカルが版権を持っている。自分はこのCBSに録音した初のマーラー全集のCD-Boxで持っているが、今回ネットでいろいろ調べていたら、すごい危険なものを発見してしまった。(笑)


見なければよかった。(笑)


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なんとソニークラシカルから、この初のマーラー全集をシングルレイヤーのSACDでマスタリングしたSACD-Box(9枚組)が出ているのだ!日本独自企画。完全生産限定。2018年に発売されている。完全生産限定だけれどまだ売り切れていません。


2万円!!!でも欲っすい~。ここで散財したら、なんのための旅行貯蓄をしてきたのかわかんない。あまりに危険すぎる。


全然気が付かなかった。2年前はマーラーといっても素通りだったからね。
ソニーは、やはりこの初のマーラー全集の版権を大切なビジネス源だと思っているんですね。


そのページから当時の初全集録音に纏わる写真をちょっと拝借。



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1963年9月、マンハッタン・センターでの交響曲第2番の録音セッション



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マーラーの肖像がプリントされたシャツを着てリハーサルに臨むバーンスタイン(1970年代)

 


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1960年4月16日、マンハッタン・センターでのブルーノ・ワルターによる「大地の歌」のセッションを訪れたバーンスタイン



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1961年4月、マンハッタン・センターでの交響曲第3番のレコーディングでマーサ・リプトンと




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1967年10月、「マーラー:交響曲全集」のLPアルバムを手にして喜ぶバーンスタイン。アルバムのボックスケースを持っている左の人物はプロデューサーのジョン・マックルーア、バーンスタインの右はフェリシア夫人、コロンビア・レコード社長クライヴ・デイヴィス



結局、バーンスタインはマーラーの全集を3回作っているのだ。(ソニーに1回、DGに2回)


いち早くアメリカ時代の1960年代にこのCBSによる交響曲全曲をセッション録音して、1970年代に交響曲全曲の映像をライヴ収録(DG)、晩年の1980年代にもライヴ録音で全集(DG)に取り組みながら、第8番の収録を残し完成間近に世を去っている。


最後の1980年代の第8番だけ未収録の未完のDGへのライブ録音は、結局DECCAに録音した「大地の歌」、ザルツブルク音楽祭のライヴである第8番「千人の交響曲」、さらに映像用に収録された第10番を加えて全集の形にこぎつけた。



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マーラー:交響曲全集&歌曲集 
バーンスタイン&VPO、コンセルトヘボウ、NYP、他(16CD)




1966年~1988年の22年かけて収録。マーラーとつながりの深かったウィーン・フィル、コンセルトヘボウ、ニューヨーク・フィルを指揮してバーンスタインが思いのたけをぶちまけた過激でヘヴィーな録音。


このマーラー所縁の3楽団を使っての録音というのは、もう彼の意図的な強い意識の現れですね。


初めてのCBSによる全集も歴史的価値があると思うけれど、自分のマーラーを勉強するための基本はこの最後のDG全集でした。これで初めてマーラーを勉強した。22年間かけての録音の賜物はやはり一番の価値があると思う。これがバーンスタインのマーラー全集の最高傑作だとまで思う。



いまマーラーフェストに行くための準備として、自分が所持しているマーラー音源を全部復習して完璧にして臨みたいと思っている。そのトップバッターにやはりバーンスタインから入っていきたいと思いました。


まずバーンスタインのマーラーの映像作品。


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マーラー交響曲全集 
バーンスタイン&ウィーン・フィル、他(9DVD)




1970年代に撮られたライブ録音。バーンスタインの3回の全集録音の真ん中にあたる脂の乗り切った時期ですね。これはもう相当昔に何回も見て勉強した映像素材だけれど、いま全曲コンプリートしたら、ずいぶん新しい発見がある。


ウィーンフィル、ロンドン響とイスラエル・フィルで、ウィーン楽友協会、コンツエルトハウス、ベルリンフィルハーモニーなどでライブ録音、撮影されている。



本当にじつに久しぶりにバーンスタインの指揮姿の映像を見た。
(何年ぶり?いつ以来だろうか?)

そのとき自分が思ったこと。


バーンスタインは指揮者としてだけではなく、作曲家でもある音楽人であるということ。小刻みに踊るような指揮の歯切れの良さ、そしてそのリズム感のよさ。奏でられている音楽の波動とものの見事に整合している。


その指揮姿の映像を見ている自分が気持ちがよくて乗ってきてしまうくらいだから、演奏する側もさぞかし気持ちがよいに違いない。オーケストラからこれだけよく鳴る音を引き出す能力は、指揮者としての前に、まず音楽人である、その才能がそうならしめているのではないだろうか?


バーンスタインのマーラーは、途方もないスケール感と感情移入全開の歌い込みに特徴がある。濃厚なうたい回しと主情的な表現が一種独特の世界を醸し出す。とにかく熱くて濃いマーラー。この没入ぶりがまさしく「バーンスタインのマーラー」なんだろう。


よく言われていることだけれど、同じユダヤ人で、同じニューヨークフィルの音楽監督であることからバーンスタイン自身が、自分の姿をマーラーと重ね合わせて、ある意味陶酔している・・・それがこのちょっと半端ではない没入感ぶりとなっているに違いない。


もちろんマーラーだけでなく、ベートーヴェンやブラームスのドイツ音楽もみんなそのようなパターンなのかもしれないけれど、やはりバーンスタインのマーラーは別格というか、基本、彼はやはりマーラー指揮者なのだろう、と思う。


とにかくオケがよく鳴っている。ウィーンフィルがまるでベルリンフィルのようにこんなに機能的なオケの鳴り方をするというのは信じられない感じがした。



「新版 クラシックCDの名盤」(宇野功芳・中野雄・福島章恭 著。文春新書)の中で、中野氏がバーンスタインとベルリンフィルとのマーラー9番の一期一会の演奏会のあの名盤に際しこんなエピソードを披露している。


バーンスタインがベルリン・フィルに登場した翌週、常任のカラヤンが指揮台に立った。自分のオーケストラがいつになくよく鳴る。「私の前には誰が振ったんだ」と帝王。「バーンスタインです」と誰かが答える。一瞬面白くない表情をした彼は、「そうか。彼は練習指揮者としてはいい腕してるんだな」と、わざとらしい冗談でその場を胡麻化したという。カラヤンは二度とバーンスタインを同じ指揮台には立たせなかった。



このエピソードは、いろいろ調べていたら偶然見つけたものだが、この信憑性はじつに的を得ていると思う。現に、自分がバーンスタインのマーラー全集の映像作品を全曲コンプリートして、思った第一印象がこれだったからだ。


オケを気持ちよくさせて、じつによく鳴らしている。
ただ鳴っているだけでなく、演奏に躍動感がある。


カラヤンとはやはりタイプが全然違う。カラヤンは、やはりカリスマ、ある意味求道的な求心力で、統率するという感じだが、バーンスタインはもっと開放的だ。両雄並び立たずとも言われますが、それぞれの持ち味がありますね。


バーンスタインのマーラー第6番「悲劇的」のハンマーは3発なんだよね。(笑)
6番はずいぶん聴いてきたけれど、大抵は2発です。マーラーの最終稿も2発です。
3発目ってどこで鳴らすのか、昔から興味があったけれど、ここで鳴らすものなのか?(笑)


「第1の打撃は「家庭の崩壊」、第2の打撃は「生活の崩壊」、第3の打撃は「(マーラー)自身の死」」との意味付けで、「マーラーは「自身の死」を意味する第3の打撃を打つことができなかった」としている。バーンスタインの愛弟子だった佐渡裕さんがハンマー打撃を3度としているのは、佐渡さんの師であったバーンスタインの影響によるものだそうだ。


歌手が必要な曲については、登場する歌手は、やっぱりこのバーンスタインの時代の歌手というのが興味深いですね。交響曲第4番については、なんと!あのエディット・マティスが登場する。もう大感動!やはりすごいキュートで可愛い。これだけの美貌であれば、当時すごい人気があったのがよくわかる。声はリリックで硬質な芯のある声質で楷書風の歌い方。マティスの歌っている映像ってYouTube以外にきちんと映像ソフトになっているのは少ないので、これは本当に貴重です。


フィッシャー・ディスカウもそうですね。この時代が黄金時代でした。


とにかくCDのオーディオを聴いてるだけでは、わかりにくいけれど、映像でバーンスタインの指揮を見ていたら、もう一発で、「バーンスタインのマーラー」というのがこれだ!というのがピンと来てしまう。それだけインパクト大な作品です。バーンスタインのマーラーを知りたいのなら、まずこの映像作品を見ることをお勧めしたいです。



そして1980年代の最後のDG全集。自分が初めてマーラーを勉強した録音。


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なんと調べてみたら輸入盤と国内盤の2つ持っていました。いま聴いても、録音もそんなに古いとは思わないし、バーンスタインの没入感たっぷりの熱くて濃いマーラーが聴ける。聴いていて本当に懐かしかったです。



そして、いろいろ異論はあるとは思うが、マーラーの最高傑作とも言われている第9番で、ベルリンフィルにたった1回だけ客演したという名盤。もうこれは超有名盤ですね。自分は最初はCDで持っていましたが、エソテリックがSACDにマスタリングしたレア盤をすかさず購入していまこちらを愛聴しています。


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この盤、いまはエソテリックではないけれど、シングルレイヤーSACDでマスタリングされた録音が売られているので、こちらのほうをリンクしておきますね。



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マーラー交響曲第9番 
レナード・バーンスタイン&ベルリン・フィル(シングルレイヤー)



まさに”一期一会”とはこのこと。


1979年10月4・5日、バーンスタインは生涯でただ一回、ベルリンフィルに客演。自ら「最愛の作品」と語るマーラーの第9交響曲を指揮した。同じ時期にカラヤンもまた同じ作品に関心を持ち始めており、バーンスタインの練習ぶりにベルリンフィルのメンバーは戸惑い、コンサート演奏は特殊な緊張感があるものの、決して第一級の演奏とはならなかった。


もうこの一期一会の録音については、いろいろ面白おかしく数えきれないエピソードがありますね。みんなそれってどこから聞いてきたの?情報源は?という感じで、本当にミステリアスに話を仕上げています。


カラヤンとバーンスタインとの強烈なライバル意識。このエピソードを知ると、もうそれだけでゾクゾクする、というか、そういう危険なシチュエーションだったからこそ、結果としてベルリンフィルにしては傷だらけの演奏だったにも関わらず、第9番の超名盤ならしめているところがあるのでしょう。


この逸話をネットで調べていたら、こんなエピソードありました。紹介します。
もうこの録音に関しては、こんな話がたくさんあります。


このころ、すでにカラヤンとベルリン・フィルとの間には不協和音が充満していたが、「カラヤン帝国興亡史―史上最高の指揮者の栄光と挫折」(幻冬舎新書)の中で、このコンサートについて著者の中川右介氏は次のように書いている。


1979年10月4日と5日、ベルリン・フィルの「カラヤン離れ」を象徴するコンサートが行なわれた。ついにレナード・バーンスタインがベルリン・フィルを指揮したのである。曲はマーラーの交響曲第9番。一期一会の名演として、いまもなお伝説となっている。


バーンスタインがベルリン・フィルを指揮したのは、これが最初で最後となった。


カラヤンがどのようにバーンスタインの出演を妨害したのかは、噂として語られるのみである。帝王とその側近たちは具体的な文書を残すようなことはしない。


オーケストラ内部の、バーンスタインを招聘しようと考える人々がいかに用意周到であったかは、結果が物語っている。音楽監督であるカラヤンの承認を必要とする、ベルリン・フィルの定期演奏会にバーンスタインを呼ぶような愚作はとらなかった。


毎年ベルリン・フィルが客演することになっているベルリン芸術週間に、バーンスタインを招聘し、さらに、反対する者が出ないように、コンサートの収益はアムネスティ・インターナショナルに寄付することを決めた上で、発表したのである。


あくまで、バーンスタインもベルリン・フィルとともに、ベルリン芸術週間に呼ばれて出演するかたちをとった。これであれば、カラヤンも反対はできなかった。



実際聴いてみるとわかるが、バーンスタインとベルリンフィルの息もつけぬ緊張感溢れるスリリングなやりとりに手汗を握る感じで、結果として名演とは言い難い傷が多い演奏だった。


有名なのは、終楽章の第118小節でトロンボーンがまったく鳴っていない。「落ちてる」とか・・・いろいろ。でもこういった背景があっても尚、第9番の超名盤と言われるのは、やはりなにかそこにカリスマ的な危険な香りが匂うからではないだろうか。まさに一期一会のスリリングな演奏である。


自分はこの危険な香りにやられました。かなり好きな録音です。


この盤を自分が日記で意識して取り上げたのは、2011年のラトル&ベルリンフィルのサントリーホールでの来日公演でマーラー第9番を演奏するときの準備として取り上げました。


自分の第9番の演奏としてのメモリアルでは、このラトル&ベルリンフィルの演奏は素晴らしく忘れられないものになりました。自分の第9番としての現代の名演です。


日本公演でのイスラエル・フィルとのマーラー第9番


バーンスタインのマーラー第9番の録音としては、1985年のイスラエル・フィルとの録音がある。


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マーラー交響曲第9番 
バーンスタイン&イスラエル・フィル(1985年8月ライヴ)(2CD)



ただ、このレコーディングとは別に、比較するもののない空前絶後の大演奏として語り草となっているのが、1985年9月の来日公演でバーンスタインが指揮したマーラーの第9番。終身桂冠指揮者としてイスラエル・フィルを率いた全9公演のうち、マーラーの第9番を演奏したのは4公演、なかでも初日3日の大阪・フェスティバルホールと、8日の東京・NHKホールがことのほか凄絶な内容であったとは衆目の一致するところのようで、8日の東京公演を目の当たりにした音楽評論家の許光俊氏も、当時を振り返り次のように述べている。
 
「実際、あれ以後、この曲でそれ以上の演奏は聴いていません。期待もしていないほどです。あまりに強烈すぎて、あれ以上のは、バーンスタイン自身が蘇らない限りあり得ないと思われます。」


「あのときは、まず大阪で演奏会があり、吉田秀和がそれを絶讃する評が東京公演の直前に朝日新聞に掲載された。ただの名演奏と言うよりも、歴史的な大演奏とか何とか、そんなことが書かれていたように記憶している。それは嘘でもなければ大げさでもなかった。今でこそ、曲が静かに終わったときには拍手を控えるようになった日本の聴衆だが、かつてはそうではなかった。むしろ逆で、すばやく拍手するのが礼儀だと信じられていた。ところが、この時ばかりは二十秒も沈黙が続いた。何しろ、黒田恭一がそれに仰天して、後日バーンスタインとのインタビューでわざわざ触れたほどだ(もっとも、バーンスタインはそんなことは意に介さず、マーラーの魂が話しかけてきた云々と彼らしい怪しい話をしていたのだが)。・・・」


音楽評論家としてここまで言うか、という大絶賛である。


吉田秀和さんや黒田恭一さんが出てくるところが、当時の背景を表していて懐かしいですね。自分の周辺の近いクラシックファンの方も、この演奏は、マーラー演奏としては空前絶後の名演だったようで、この公演がバーンスタインの最高のパフォーマンスと口をそろえて言う。



くっ~。羨ましい、そして悔しい~。
自分は、この1985年のときは、まだ大学生で北海道にいました。(笑)


クラシックの世界で、こういう歴史的名演に立ち会えなかった。そしてそれが壮絶な名演だった、と皆々が口にするのって、これほど悔しいものはありませんね。(笑)


NHKホールでもあるから、当時のその演奏の録音が残っている可能性もあるが、それが公に出る可能性もいまのところない。


その代わり、同年の1985年に録音した同じイスラエル・フィルとの第9番との録音を聴いてみる。


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セッション録音なのかな。音つくりがとても丁寧で、音色の厚み、定位感などとても安心して聴いていられる録音。確かに第9番の録音としては素晴らしいできだと思います。ただ自分は平和すぎるというか、安心すぎるというか、この9番の持つ”死”の匂いが感じず、あのベルリンフィル盤の悲壮感のほうが自分に来ます。とても丁寧な演奏、録音なのだけれど、9番はもっと悲壮でもいい。





そして最後に、CBSに録音した初のマーラー交響曲全集のCD-Boxを持っているので聴いてみる。自分が持っているこのCD-Box盤はもう廃盤ですね。デザインがリニューアルされています。いつまで経っても、このCBSに最初に録音した録音史上初のマーラー交響曲全集は不滅の名作なのです。


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いい録音。全然古臭くない。熱いこってりとしたバーンスタインのマーラーが聴けます。予想以上にいい録音なので、驚きました。そして、いまの現代解釈のマーラーと比較して、全然遜色なくて、やっぱりマーラー演奏ってバーンスタインの演奏が教科書になっているんだな、と思いました。


当時としては、驚きだっただろうなぁ。


ちょっとバーンスタインからレールを離れますが、マーラーの直弟子であったブルーノ・ワルターのマーラー選集もこの機会に新たに購入して聴いてみました。


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自分はこういう古い録音は、昔ならいざ知らず最近は全然触手が伸びませんが、久しぶりに聴きました。しかもモノラル音源。やっぱり最初はそのナローバンドな音にしかめっ面でしたが、慣れてくるとやはりこれもバーンスタイン録音と同じで、その演奏解釈は歴代刻々と受け継がれているんだなと思いました。現代解釈とまったく違和感ないのです。


特に第1番「巨人」は完璧な造型に豊潤な情感を盛り込んだ稀代の名演として知られ、同じレーベルに所属していたバーンスタインが、この演奏を聴いた感激から自身の録音計画を放棄したエピソードはあまりにも有名。


バーンスタインについてもブルーノ・ワルターはマーラーを極めるうえで、まさしくマーラー自身を知る先人で頭が上がらなかったのでしょう。


以上、長々と書いてきましたが、これが自分の体験してきたバーンスタインのマーラー感。体験してきた、というのは、そのままその音源を持っているという意味になります。


バーンスタインについて自分が知っていることを全てとにかくガムシャラに詰め込んだ、という感じで文章としてのまとまりもないけれど、自分はスッキリしました。


これらが、自分のマーラー音源の土台、基本でした。






 

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あの感動をふたたび ! N響 ヨーロッパツアー [クラシック演奏会]

来週の22日から、あの2017年以来3年ぶりにN響がヨーロッパツアーをスタートさせる。実際現地で準備期間とかあるから、18日には日本を立つのではないだろうか?


まさかこんな短いインターバルで、また再現するとは思ってもいませんでした。
大変な費用がかかる、と思うんだけれど、N響すごいなぁ。


2017年のときは、本当に燃えたよねぇ。
ヨーロッパのメディア、民衆の心の中に潜在意識として存在する日本のオーケストラに対する差別意識。


そんなのに負けずに、日本魂を見せつけてやれ!

そして結果として、すごい盛り上がったし、大成功をおさめた。
欧州現地メディア、民衆の評価もすこぶる良かった。


今回巡るところは、ロンドン、パリ、ウィーン、ベルリンなどの主要都市に加え、パーヴォの母国エストニアの首都、タリンを訪れるなど、7か国9都市で公演を開催する。


自分の記憶によれば、前回訪問したところが大半だ。

だから自分は前回ほど心配していない。


前回は、胃がキリキリするというか、未知の戦地に飛び込んでいくような覚悟があった。
だからこそ余計、こちらの応援する気持ちも”日の丸を背負って”的な気負いがあった。


今回はすでに知っている経験の地、とてもリラックスできるし、また現地の聴衆も馴染みを感じてくれて温かい目で見てくれるのではないか、と思う。


3年前のツアーの直前、自分はこんなことを日記に書いていた。大成功したからよかったものの、ずいぶん偉そうなことを言っていたもんだ。(笑)


******


こうやって日本のオーケストラが、欧州などの海外遠征ツアーに出かけることは、それはお祭り気分で華やかなことしきりだが、じつは、表舞台のその華やかな部分を実現させるための裏の根回し、準備がいかに大変なことか、ということは、あまり知られていない。
 

まず、遠征費用、金が莫大にかかる。


オーケストラの大人数、そしてたくさんの楽器類を国間で、運ばないといけない。航空機代、宿泊、バスチャーター、コンサートホール使用料、現地宣伝費・メディアとの地道なネゴのための準備費などなど。


チケットの販売などは、海外のエージェンシーを使うのがもっぱらになるのだろうが、じゃあふつうに共存する欧州現地の強豪オケと同等に、宣伝してチケットを売りさばくことができるのか?


やはり、そこには、特別の計らいが必要なのだろうと思う。


現地ヨーロッパ市民に日本のオケがどれくらい認知されていて、集客力があるのか?
(それも定期的訪問ではなく、長いスパンが開いて突然訪問する場合なのであるから。)


逆の意味で、ベルリンフィル、ウィーンフィルなど外来オケのブランドがクラシック愛好家の日本市場で高値チケットで旋風を巻き起こす。つまり、クラシックの本場である欧州の名門オーケストラは、そのブランドだけで、十分知れ渡っていて集客力がある、ということ。


そういう意味で、クラシックの本場ヨーロッパ現地で、日本のオケがどれくらいのブランド力を持ってヨーロッパ現地市民を集客力できるのか?という問題がある。


自分たちの日本のオケを相手国によく知ってもらう必要がある。そのためには付け焼刃的に情報を送る、宣伝してもらうだけでなく、事前にヨーロッパ現地のマスコミ、メディア陣を日本に招待して、公演を観てももらうだけでなく、説明会、懇談会などを頻繁に行い、理解の促進をおこなう。


そういうのを何年も前から、種まきをする必要がある、らしい。


そして、彼らが自国に帰ったあとに、現地で、彼らにプロモート宣伝してもらう、その宣伝費用なども、きっと日本側が負担しているのかもしれない。


実際の現地メディア&マスコミとのつきあいにかかる莫大な費用。
 


もちろん資金面だけではない。

それは、現地メディアの公演評。


日本のオーケストラが、クラシック本場の欧州で、東洋人が西洋音楽のクラシックの本場の音楽をやることに、冷ややかな目で、見ている。そういう厳しい論評もあることも確かだ。現に、都響や東響のときも、現地のメディアの辛辣な評価があったことは事実。


でもその評論の内容を見ると、深く考察されていない浅い論評で、彼らの心のどこかに、自分たちの本場のクラシック音楽を、日本のオーケストラが演奏している、という根本的な差別意識が潜在しているとしか、思えない論評もあった。 


実際問題、彼ら海外のオケが日本に来日して、その質の低さにがっかりすることも多い訳だから。小澤征爾さんが、昔インタビューでよく言っていたことは、海外に出て活躍することで、自分はモルモット。東洋人の自分が、クラシックの本場でなにができるのか?どこまでできるのか?常にモルモットだと思っている。


小澤さんは、そういった中で、海外で戦ってきたわけだ。


はたして、N響の今回のツアー、辛口の欧州現地メディアに、どのように論評されるのか、楽しみ。ツアー直前のインタビューで、パーヴォ・ヤルヴィは、「N響は世界クラス!」と堂々と断言!彼らに見事に一泡吹かせてほしいものだ。


******


知ったようなことを・・・と言われそうな感じだが(笑)でも結果として大成功に終わったので、こんな心配はいっさい不要、こんなコンプレックスを持つことなく本当に良かった。大成功を収めてしまえば、こんな心配なんてすべて徒労に終わりますね。


今回のヨーロッパツアーについて、N響の第1コンサートマスターの篠崎史紀氏がインタビューを受けてその記事を大変興味深く拝読した。




すごい興味深いのでぜひ読んでみてください。


ちょっと自分がビビッと来たところを抜粋しますね。全部篠崎さんの発言のところです。


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N響は何度か欧州旅行に行っていますが、前回は一番手応えがあった演奏会で、終わった後にすぐ招聘の話が来たのです。欧州に呼びたい、3年以内に呼びたいと。これはN響が世界で認められるところにようやく足を踏み入れたということ。ですから、この海外公演の動きを担っていくのが、日本のクラシック音楽界の未来に対して必要なのではないかと思っています。



ツアーに関して言えば、マーケティング上、世界の中で重要な場所があって。それがニューヨーク、ロンドン、東京。あとメディアに批評が出るところとしてベルリン、パリがあります。ウィーンはオペラなどに関しては批評が出るけれど、それ以外の分野は地中に埋もれてしまう。そういう意味ではロンドン、パリ、ベルリン、そしてオファーが強かったオランダといった場所を回る今回の演奏会は、N響にとっては重要なポジションに位置すると思います。



N響のアイデンティティー


日本の作品を取り上げることに意義があります。武満はアイデアマンで、邦楽の楽器を取り入れ、少ないモチーフでかつ時間的に著作権使用料が上がる手前で曲を終わらせる(笑)。そして日本の響きを少しだけ曲に盛り込んでいるんですよね。それも今まで聴いたことのないような形で。後に出てくる(アルヴォ・)ペルトなどもそうです。ペルトはソ連の一部だったエストニア出身ですが、その曲にロシアの響きはない。グレゴリオ聖歌の古い音楽を新しい響きと融合させているのです。それに近い手法を取っているのが武満。少し数学的ですよね。日本よりも先に西洋で評価が上がり、武満の名前が知られ、演奏される回数が多くなった。だから欧州で演奏するときには武満が良いのではないかということになるわけです。





「お互いの我が出せる」 関係になった


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お互いのパターンが見えてきた、これはすごく大事です。パターンが見えると何ができるかと言うと、即興が広がる。例えば友達と食事に行くとします。最初の頃は食べ物の好みが分からないから、「何が食べたいですか」とお互い遠慮しながらいろいろなことを探るわけです。でも付き合いも5年くらいになると、「あそこの焼き鳥屋に行こうよ」と言えるようになる。もっと進んで「今日はすっぽん食いに行くぞ」と珍味までいける。そういう段階まできているのが、今のパーヴォとN響の状況。一般的な食べ物の好みもお互い分かっているし、珍味でもちょっと試してみようと言える仲になっている。音楽の七変化が感じられる状態でしょうか。



世界最先端をゆく指揮者と、これから世界に出ていこうとしているオーケストラ。指揮者のアイデンティティーとオーケストラの機能を合わせたものを、21世紀の最新の演奏法で皆さんにお届けしましょうというのが今回の欧州での演奏会です。だから聴き逃さない方がいいよと言いたいところですが、そう言うと押し売りになっちゃうから(笑)、体験してみたい? どう? と聞きたい。演奏会には、分かっていなければならないものはないんです。その空間で、何を感じられるか。ただ、感じに来てほしい。




そうだったのかー。欧州に呼びたい、3年以内に呼びたいと、向こうから招聘があったんですね。


これって凄いことじゃないですか!前回は本当に大成功だった!ということを再認識できました。まさにN響も世界に認知される日本のオーケストラとしての王道の道を歩んでますね。


そして自分が3年前に心配していたことなんて、もう全然古い次元の話で、N響のみなさんはもっとずっと先のヴィジョンを見ているということなんですね。


今回もまたつぶやきでリアルタイム生実況中継をさせていただきます。


本当に楽しみだねー。
ベルギーにも行ってくれるのはうれしいね。



今回のソリストと演目です。



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指揮:パーヴォ・ヤルヴィ




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チェロ:ソル・ガベッタ



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ピアノ:カティア・ブニアティシヴィリ


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日時・公演地


2月22日(土)7:00pm
タリン(エストニア)[プログラムA]
エストニア・コンサート・ホール
公演情報: https://concert.ee/en/kontsert/nhk-sumfooniaorkester-tokyo-s-gabetta-tsello-dir-paavo-jarvi/



2月24日(月)7:30pm
ロンドン(イギリス)[プログラムB]
ロイヤル・フェスティヴァル・ホール
公演情報: https://www.southbankcentre.co.uk/whats-on/123941-paavo-jarvi-nhk-symphony-orchestra-2020



2月25日(火)8:30pm
パリ(フランス)[プログラムC]
フィルハーモニー・ドゥ・パリ
公演情報: https://philharmoniedeparis.fr/en/activity/concert-symphonique/20411-nhk-symphonyorchestra-tokyo-paavo-jarvi?date=1582659000



2月27日(木)7:30pm
ウィーン(オーストリア)[プログラムC]
ウィーン・コンツェルトハウス
公演情報: https://konzerthaus.at/concert/eventid/57065



2月28日(金)8:00pm
ケルン(ドイツ)[プログラムA]
ケルン・フィルハーモニー
公演情報: https://www.koelner-philharmonie.de/de/programm/s-gabetta-nhk-symphony-orchestra-tokyo-pjarvi-bruckner-schumann-takemitsu/122798



2月29日(土)8:00pm
ドルトムント(ドイツ)[プログラムA]
コンツェルトハウス・ドルトムント
公演情報: https://www.konzerthaus-dortmund.de/de/programm/29-02-2020-sol-gabetta-nhk-symphony-221993/



3月2日(月)8:15pm
アムステルダム(オランダ)[プログラムB]
コンセルトヘボウ
公演情報: https://www.concertgebouw.nl/en/page/41451#581ffb57eae47db881558b389f1d9b196bf67b27



3月3日(火)8:00pm
ベルリン(ドイツ)[プログラムC]
ベルリン・フィルハーモニー
公演情報: http://www.musikadler.de/konzerte-karten/termine.html?tx_mckonzerteadler_pi1%5Bconcert_id% 5D=594&tx_mckonzerteadler_pi1%5Bdisplay_code% 5D=concert_description&cHash=7d81f6ae9910b3e2b8060e72dff71788



3月4日(水)8:00pm
ブリュッセル(ベルギー)[プログラムD]
パレ・デ・ボザール
公演情報: https://www.bozar.be/en/activities/150908-nhk-symphony-orchestra-tokyo-paavo-jarvi



後日追記。(2020.2.26)


N響ヨーロッパツアー2020、さっそく初回はパーヴォの故郷であるエストニアのタリンで公演をし大盛況だった模様。シューマンのチェロ協奏曲で、チェロソリストのソル・ガベッタと。前半は武満徹のハウ・スロー・ザ・ウィンド、そしてこのシューマンのチェロ協奏曲、そして後半は、ブルックナーの交響曲第7番でした。


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このカーテンコールの写真は、N響さんのSNSから拝借しているものですが、3年前の2017年時のツアーのときは考えられなかったです。あの当時は、N響さん側も手探り状態だから、コンサート終演時のカーテンコールの写真なんてなかった。自分はどうやって、写真を都合しようか、あの当時、毎回mixiのつぶやきで報告するのに、すごい苦労してやりくりしていた記憶がありますから。それが、今回はこうやってプロのカメラマンを同伴してのツアー。各地の公演では、かならずこのようなカーテンコールの写真を拝見することができます。本当に感慨無量です。


2020/2/26時点現在で、タリン→ロンドン→パリと3公演終演。そしていまウィーンに向かっています。



後日後記。(2020.3.5)


3月4日、首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィと7カ国9都市をめぐるN響ヨーロッパ公演が、ベルギーの首都ブリュッセルで幕を閉じました。このツアー最終公演は、ベルギー国立管弦楽団の本拠地にして、エリーザベト王妃国際音楽コンクールの会場としても知られるパレ・デ・ボザールで開催され、武満徹「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」、ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」、ラフマニノフ「交響曲第2番」が演奏されました。ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」のソロは、パリ、ウィーン、ベルリンに引き続きカティア・ブニアティシヴィリが務めました。


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(c) Lorraine Wauters(公演写真)


本当にご苦労様でした。N響ヨーロッパツアー2020大成功で終わったようで本当によかったです。今回はプロのカメラマンを同伴したことで、つねに終演後のカーテンコールの素晴らしいシーンが拝見できて素晴らしかったと思います。そしてもうひとつ素晴らしいと思ったのは、現地の公演評をすかさず翻訳して提供してくれたこと。つねに現地メディアで公演評が出ているかどうかをチェックして、出ていればその場で翻訳する、という体制が整っていたんですね。これも前回にはなかったことでした。今回はカーテンコール写真と公演評翻訳と、とても準備万端で素晴らしいと思いました。


本当に残念だったのは、このツアーのタイミングで、日本のみならず世界中が新型コロナウィルス騒動一色になってしまったことですね。みんなそれどこじゃなかった。自分も全公演ともレポートすると約束しながら、雰囲気的にそんな感じになれなかったのが本当に申し訳なかったと思います。本当にタイミングが悪かったです。でもみなさんの大活躍は、しっかりと我々の心の中に刻み込まれたことは間違いないです。そして、どこの国の公演評も大絶賛であったということ。これは真にN響、日本のオーケストラの実力の高さをヨーロッパ本場に認識させることができた、と自負しています。日本国民として、あなた方は本当に日本の誇りです。


ほんとうにありがとう!








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東大正門前の喫茶ルオーのカレー [グルメ]

「東大正門前の喫茶ルオーのカレーはウマい!」


この発言にアンテナがビビッと反応し、思いついたらすぐに実行、即座に行ってまいりました。それは、自分が事前に予想していた通りのある特別な意味を持った「美味しさ」だった。


確かに実際食べてみたら美味しいのだけれど、ここで言っている美味しいという意味は、ごく一般的な意味ではなく、もっとノスタルジックで郷愁の念というか、個人の心の琴線に触れるような特別の意味合いを持つ”美味しい”だと思った。


たぶんそうなんじゃないかな?と予想していたのだが、実際食べてみて、まさにその通りの”美味しい”だった。けっしてビジネスライクなウマさじゃなかった。


なぜ、それが事前に予想できたかというと、東大キャンパス前の学生街だからだ。

学生街の店のウマいは、普通のウマいとは意味が違う。


大学のキャンパスの近くのお店は、お客さんのターゲット層はもちろんその大学に通う学生さん。きっと地方から出てきて、東京1人暮らし。親の仕送りと自分でもバイトしてキツキツの生活。普段も満足な食生活などしていないはず。


学生はもともと貧乏なもんだ。


でもそのときにその学生街で食べたウマいもんは、本当のレベルとして美味しいかどうかの問題でなく、そのときは本当にウマいと思ったものなのだ。


それでそのときの記憶は決して何年経過した大人になっても忘れられないもの。学生街のウマいというお店は、その大学に通う学生さんたちのそんなハングリーな生活の郷愁の念で思い出の詰まった美味しい店なのだろうと思っていた。


自分は地元の大学で、しかも実家の親元から通っていたから、大学時代はそんなハングリーな環境ではないある意味恵まれた環境だったが、それでも自分の小遣いは、自分で塾講師とか家庭教師をしながら稼ぐのが親との暗黙のルール。


その稼いだお小遣いは、ほとんどロックのアナログレコードを買うことと友達とお酒や食べることに消えてしまったような気がする。大学食堂で、友達とロック談義をするのが大の楽しみだったし、ポリス、U2がどうだ、とか・・・


北大は、学生の50%以上が道外の学生で占められるインターナショナル(?)な大学で、自分の友人もほとんど道外出身で、みんな下宿して少ない親の仕送りとバイトで生活していた。


いつもその友達たちの下宿先に泊まって夜更かしして、語り合っていた。
これは最高に楽しい思い出だ。


それで、その下宿近くにあるラーメン屋さんとか居酒屋で友達と食べたときのあのウマさは、何年経っても忘れられないし、最高に美味しい。


大学時代は麻雀にも明け暮れていた時代で(ボクらの時代は麻雀全盛時代だったのです。いまの子たちはやらないと思うけれど。)、よくその学生街の雀荘に通っていた。


東風荘という名前の雀荘だが、いまも存在するのだろうか?たぶん潰れてないだろうな?


さらに遡って高校生時代のときは、下校のときは、かならず3~4人でいっしょに帰っていたのだが、そのときに必ず毎日じゃないけれど、下校途中にある味噌ラーメン屋さんに通うのが大の楽しみだった。


春日食堂という名前のお店だったが、これが当時通っていたとき本当にウマくて、金のない学生時代の大のご褒美のようなものだった。


この春日食堂の味噌ラーメンの味は大人になっても決して忘れられなくて、就職で東京に出てきた後になっても夏のお盆や年末年始に帰省した時に、必ず立ち寄っていた。


それをず~っと何年も続けていた。


自分の実家のある田舎町にある本当に名もないラーメン屋さんに過ぎないんですよ。


でもその子供時代に美味しいと思った春日食堂の味噌ラーメンの味はけっして錆びつくことなく永遠に美味しかったし自分だけの世界の味だった。


いまでこそ、味噌ラーメンといえば、純連とかすみれとか騒いでいるけれど(笑)、そういうビジネスライクに美味しいというレベルとは、ちょっと違うんだよね。そういう郷愁のノスタルジックな学生時代の味というのは。


残念ながら春日食堂は、5年くらいほど前に、ついに潰れてしまい、自分の記憶への旅に終止符が打たれてしまった。


慶応大学の三田キャンパスの近くにあるラーメン二郎もそうでしたね。いまやどこにでもあるチェーン店みたいになってしまい、ちょっと残念な感があるが、昔は、三田キャンパスに行く途中の交差点の端にあった。


このころが最高にウマかった。山田の親父さん元気にやっていて、これこそ二郎の味という感じでウマかった。いまでも二郎はよく行きますが、三田キャンパスのその本店は場所が移動してしまい、久しぶりにその三田本店の味を堪能したけれど、山田の親父さんは元気そうだったが、味はガタ落ちでもうガッカリ。


昔の面影まったくなし。


ラーメンは味を長年に渡って維持するのが難しい商売ということがつくづくわかりました。


こういうケースもありますね。(笑)
このラーメン二郎の三田本店も、まさに学生街の名店、慶大生の思い出の味です。



そんなもう一度食べてみたい、あの頃に通ったあの味、あの頃、本当にウマいと思った店。


「東大正門前の喫茶ルオーのカレー」には、そういう学生街だからありうるウマさの定義、東大生だからわかるその思い入れ、というのがあるんじゃないかな、と思ったのだ。


それはドンピシャ当たりだった。


実際本当にウマいんだけれど、それだけじゃない東大生だからわかるなにかが間違いなくある。


喫茶ルオーは東大の正門前にある。


自分は東大の本郷キャンパスに行ったことがないので、今回初体験だったのだが、あの有名な赤門と正門というのは違うんですね。


自分は赤門のことを正門だと思っていました。


でも赤門と正門は別です。


赤門~受験生が合格やったー!という感じで親と記念撮影している場面でよくテレビに映っていますね。

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正門


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喫茶ルオーは昔は赤門の前にあったそうで、ネットで検索すると、赤門前のルオーってあるから、さらに赤門=正門という勘違いから赤門前でウロウロしたが、見つからず迷って、道の人に聞いたら、昔は赤門前だったけれど、いまは正門前に移っちゃったんですよね、と言われ、解決。


そこで正門のほうに歩いていき、店が近づいてくるとカレーのプ~ンといういい匂いが!


そしてついに喫茶ルオー発見!


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まさに昭和のノスタルジックな雰囲気の名店という感じだ。
古くから東大生たちに愛されてきた名喫茶店。


カフェじゃないんだよね。あくまで喫茶店です。
わかる?この雰囲気。


店内に入ってみると、うわ~雰囲気ある!
漆喰塗りの壁、木彫りのテーブル。
2階にも席がある。


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2Fのほうにお邪魔すると(別の日に再度チャレンジしました。)、これまた1Fとは比べ物にならないほどの見晴らしのよさというかスペースが確保されている。


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喫茶ルオーのテーブルと椅子はすべて木製。赤門前にあったときのインテリアをそのままこちらでも引き継いでいるそう。テーブルの木目、座面もこじんまりと可愛い椅子の背もたれ。


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それにしても椅子の背もたれには、コーヒーカップのくりぬきや、ビールジョッキのくりぬきのデザイン。なんかお洒落心があるというか、ホッとさせてくれますね。ルオーのアイコン的存在と言ってもいいと思います。


ビールジョッキのくりぬきデザイン


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コーヒーカップのくりぬきデザイン


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ここで、喫茶ルオーについて、2012年2月3日号の週刊ポストに記載された記事をそのまま紹介しよう。



東京大学正門の向かいに佇む「喫茶ルオー」の歴史は60年に及ぶ。昭和27年に画家の森田賢さんが赤門前に画廊喫茶として開業。昭和30年に入店した現店主の山下淳一さんが昭和54年に引き継ぎ、現在地に店を移した。


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「昭和30年代の本郷通りは古書店、雀荘、喫茶店が数多く立ち並び、まさに学生街だったんですよ。赤門前のルオーは120席もあって、学生、芸術家や劇団員、文学関係者の溜まり場で賑やかでした」(山下さん)


1960年代後半には鶴見俊輔、小田実、開高健などべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のメンバーも立ち寄ったという。


「東大紛争の頃はケガをした学生が店に避難しに来たことも。本郷通りの歩道は石板敷きだったので、学生たちがたたき割って投石したんです。それにしても当時の学生はよく議論をしていました」


そしてカレーもよく食べたという。久しぶりに店を訪れ、ゴロンと入っている牛肉の大きな塊をほぐしながら「ちっとも味が変わっていない」と懐かしむ卒業生も多い。舌は味を忘れず、味は過ぎ去った時を呼び戻す。


「ここで勉強して司法試験に合格した学生もいます。入学した娘さんを連れたお父さんが「私も、私の父も学生時代に来ていました。親子三代です」と声をかけてくださったりすると、続けてきてよかったと思います」(山下さん)


ここのメニューが面白い。


ふつうの喫茶店なのだが、喫茶のメニューとランチタイムのときはカレーライスがある、というオリジナルなメニュー。


もちろんランチメニューはカレーのみ。

ここのカレーを食べに多くの客がやってくる。
カレーの美味しい喫茶店といったところで、有名なのだ。


自分はもちろんこのカレーライスを食べにやってきた。


この店で今も昔も変わらず愛されているのが「セイロン風カレーライス」。
この喫茶ルオーのカレーというのは、このセイロン風カレーライスのことを言います。


さっそくオーダー。これだ!!!


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60余年前の創業当時からある「セイロン風カレーライス」は、具は大きなじゃがいもと豚肉が一つずつという潔さ。「初代の奥様がホテルのシェフからレシピを習ったと聞いています」ということらしい。


本当に見た目、じゃがいもと豚肉がひとつずつゴロリという感じである。


とてもシンプルなカレー。今風じゃなくていかにも伝統の昔カレーという感じですね。


タマネギやニンニクなどをじっくり炒めて、小麦粉とカレー粉で香ばしく仕上げたソースは、さっぱり風のカレー風味で美味しい。スパイス結構効いています。正直かなり辛いと思います。


最初食べたときは、ふつうの甘口の美味しさだと思いましたが、だんだん後から辛さがやってくるというか、効いてくるんですよね。終盤ではほとんど口の中、麻痺状態で、結構辛いな~と思って食べていました。


でも、これは病みつきになりますね。
本当に美味しいと思います。


自分のように初めて体験した人でも美味しいと思うレベルの高さで、これが東大生で昔ながら通っている常連さんには、本当に”忘れられないあの頃の味”なのだろうと思います。


ちなみにセイロン風カレーライスをオーダーすると、ドリンクがひとつサービスになります。


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自分はコーヒーと別に日は野菜ジュースをいただきました。


「東大正門前の喫茶ルオーのカレーはウマい。」

は本当であった。


さて、目的を達したところで、せっかく東大本郷キャンパスに来たのであるから、東大キャンパス、人生初体験。


東大安田講堂


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こんな感じだったっけ?実物を見るとちょっとそんな思いが。


自分は古い世代だから、直接体験した世代ではないけれど、この安田講堂を見ると、どうしても学生運動、抗争のイメージがありますね。


どのキャンパスが何学部とかは認知せずに、流し撮影。北大もそうだけれど、旧帝国大学ってやっぱり建物が古いというか、独特の年代感というか古さがありますね。


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東大総長を務められた山川健次郎氏の銅像も。


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有名な三四郎池。
水が汚いです。(笑)透明度がまったくありません。


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ここに住みついている鯉とかすごい生命力だと思います。


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東大キャンパスは正門から入るのと、赤門から入るのとで広がっているキャンパスエリアは、思っていた以上に広く、日本で最古の大学として伝統を感じる佇まいでした。


ぜひ中に入ってみたかったのは、東大の図書館。
図書館を見ると、その大学のことがよくわかるといいますね。









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マーラーの作曲小屋 [海外音楽鑑賞旅行]

グスタフ・マーラーは生涯に3か所の作曲小屋をつくった。


2013年にザルツブルク音楽祭に行ったとき、モーツァルテウムの通称「バスチオン(砦)庭園」内に、モーツァルトがウィーンでオペラ「魔笛」の一部を作曲したと言われる小屋があって、いわゆる「魔笛の小屋」といわれる作曲小屋を見学したことがあった。


そのとき思ったことは、クラシックの有名な作曲家は、なんでこんな狭いスペースに籠るのが好きなのだろうか、と思ったことだ。(笑)


普通の庶民の感覚で考えれば、豪邸で広いスペースのリビングで作曲したほうが、効率もいいと思うものだ。


マーラーが生涯で作った3か所の作曲小屋の写真を拝見して、う~ん、やっぱりクラシックの作曲家は狭い場所に籠ったほうが、アイデアが出やすいのだろうか、という思いを強くした。


小説家もそうかもしれないが、創作活動というのは、普段自分のいる空間ではなく、場所を変えると全然捗るということが常なのかもしれない。


”普段と違う場所”というのがキーポイントなのかもしれない。


自分がそう思うのは、旅先でホテルの部屋でパソコンで文章を書いているほうが、全然効率がいいと感じるからだ。綺麗に清掃された部屋で、旅行でハイな気分で、ベッドの隣に配置されている机の上でパソコンで書いているときは最高に気持ちがいい。頭の回転がすこぶる早い。


作曲小屋という発想は、そんなところから来るのかもしれない。


マーラーの建てた3つの作曲小屋は、どれも修復され、現在は観光スポットとして存在している。


小屋の中は、当時の時代の古楽器のピアノが置かれたり、マーラーの肖像写真が何枚も壁にかけられたり、とかで完全に綺麗にドレスアップされている。


こういうマニアックな観光スポットは自分の好奇心、行ってみたい病を激しくくすぐり、ぜひ行ってみたいと思うのだが、海外に渡航する費用をこのためだけに予算化するのは、ちょっといまの体力では無理かなぁと感じる。


ここではネットの写真を紹介して楽しむだけに留める。ネットに転がっている写真は、誰かが投稿した写真ということだから、情報の出どころと原文サイトも紹介する、という配慮をする。


みなさん、マーラーの作曲小屋について、実際の行き方の手順の写真や、標識の写真、現地で実際体験されて、楽しまれているようで、マニアックなコアなクラシックファンの方ばかり。


作曲小屋の由来や、そのときのマーラーが置かれている背景など、そして作曲小屋の雰囲気(小屋に入ったらセンサーが勝手に働いて、マーラーのBGMが流れるところもあるそうだ。)など、じつに見識深い内容で参考になります。


ぜひ原文サイトのほうをご覧になってください。


私からは、簡単な説明だけにとどめておきます。



ザルツブルクカンマーグートのアッター湖畔のシュタインバッハーの街の作曲小屋


ザルツブルクの風光明媚な湖水地帯ザルツカンマーグートに、マーラーが、1893年の夏、交響曲第2番の第2楽章から第4楽章までを書き上げたのが、ザルツカンマーグート最大の湖アッター湖畔の街シュタインバッハ。


1896年の夏は、シュタインバッハの小さなホテル「フェッティンガー」に滞在、湖畔に作曲するための小屋を建て、早朝から午前の間、作曲に専念する日々を送った。交響曲第2番の他、交響曲第3番全楽章を作曲し、さらに交響曲第1番を改訂した。


ザルツカンマーグートは最高のスポットですね。自分も2013年にハルシュタットを観光。まさに”世界で一番美しい街”でした。


自然豊かで美しい湖畔の街シュタインバッハを訪れると、この最高の自然環境の中で、”普段と違う場所”の小さな小屋で作曲に没頭すれば、それはそれは素晴らしい旋律が自然と溢れてくるのであろう。


作曲小屋


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小屋内部


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(作曲小屋)

旅する音楽師・山本直幸の百聴百観ノート:第35回 マーラーの交響曲が作曲された場所



(小屋内部)

クラシックカフェ クラシックを気ままに聞くティータイム 2013/9/3 マーラー作曲小屋





オーストリアのヴェルター湖畔のマイアーニッヒの街の作曲小屋


マーラーは、1897年、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任、1898年にはウィーン・フィルの首席指揮者も兼務し、拠点をウィーンに移す。1900年~1907年の8年間は、オーストリア南部のヴェルター湖畔の街マイアーニッヒに別荘を構え、その裏山に小屋を建て、交響曲第4番~第8番を作曲している。


作曲小屋


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小屋内部


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(作曲小屋)

旅する音楽師・山本直幸の百聴百観ノート:第35回 マーラーの交響曲が作曲された場所



(内部写真)

Landschaft

マーラー「マイヤーニッヒの作曲小屋」




イタリアのトブラッハの作曲小屋


1908年~1910年の3年間の夏は、当時はオーストリア領だったイタリア北東部の山地ドロミテのトプラッハで過ごし、やはり小さな小屋で交響曲「大地の歌」、交響曲第9番、交響曲第10番(未完)を書き上げた。


作曲小屋


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小屋内部


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(作曲小屋)
ときどき軽井沢 小屋好きには嬉しい、マーラーの小屋

(内部写真)
チロル&ザルツブルク 落ち穂拾いの旅
7)マーラーの作曲小屋(トブラッハ/ドビアッコ)Ⅲ  2012年4月30日(月)



マーラーの作曲小屋に共通するポイントは自然が美しい風光明媚な場所であること、作曲期が夏であること、ですね。クラシックの作曲家の曲を聴いていて、その作風を肌で感じるとき、その作曲家が作曲したその場所、その風景が自然とその曲の作風の中に含まれている、というのは絶対あることだと思いますね。


マーラーの曲をよく知っている人ならば、これら3つの作曲小屋の場所に実際行ってみて、自分の足で立ってみて、その周りの風景を眺めてみたときに、あ~あの曲は、まさにここだから生まれた!というのがよく理解できるのかもしれないと思います。


でも予算がないから無理。(笑)










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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.4 [海外音楽鑑賞旅行]

1920年 マーラーフェスティバル・イン・アムステルダム


ウイレム・メンゲルベルクはコンセルトヘボウ・オーケストラの指揮者に就任して25周年を祝して彼の友人で聖像人に捧ぐフェスティバルを開催した。1920年5月の15日間の間、マーラーフェストとして、メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラとで、マーラーの9曲の全交響曲、嘆きの歌、さすらう若者の歌、亡き子をしのぶ歌、大地の歌、そして5曲からなるリュッケルト歌曲集が演奏された。


出席者として、アルマ・マーラー(貴族夫人とともに、ミュージアム広場のホテルに滞在している。)、そしてアーノルド・シェーンベルク、メンゲルベルクの弟子たちが参列した。


アルマはこう書いている。”アムステルダムに到着・・・港・・・船・・・帆・・・索具(船の帆とマストを支えるロープ・ワイヤ・滑車などの総称)・・・乱暴な押し合い、慌しい動き・・・肌寒い・・・どんより曇った・・・一言で言えばそんなオランダ。マーラーの音楽の第2の故郷の夕暮れはとても素晴らしい絶景だわ。”


それはとてもユニークなフェスティバル、たったひとつの野望のみ。



”バイロイトがワーグナー作品のすべてのパフォーマンスのスタンダードと成り得るように、アムステルダムはマーラー芸術の精神的な中心地であってきた。”


これらの言葉は、組織発起人 リュドルフ博士、そしてメンゲルベルク、マーラーの遠い親類によって語り続けられた言葉なのだ。


アムステルダムは、マーラー所縁の街として最も先をいく街となっていくだろう。



ここから掲載するマーラーフェスト関連の写真の情報元は、マーラー財団(Mahler Foundation)所有のものである。Copyrighted By Mahler Foundation


マーラー財団 (Mahler Foundation)



第1回目のマーラーフェスト(Mahler Feest)は、1920年に開催された。(1920/5/6~5/21)メンゲルベルクが、RCOを率いて、マーラーの交響曲、歌曲を全曲演奏した。


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マーラーフェスト1920 (Mahler Feest 1920)のポスター


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これがマーラーフェスト1920のPasse-partours(つまり全公演のセット券)
これは今回のマーラーフェスト2020でもPasse-partoursはあっという間の瞬殺で完売でした。


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アルマ夫人が宿泊していたホテル。いまのゴッホ博物館があるロケーションだとあるので、コンセルトヘボウの近くだったんですね。


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これはおそらくメンゲルベルク邸なのだと思われる。でも記載の住所にはウィーン(Vienna)という文字が書かれていて、ひょっとしたらマーラーのウィーンでの住居なのかもしれない。オランダ語が読めなくてスミマセン。


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マーラーフェスト1920・ブック。
フェストに関するすべてが記載されている総合プログラムだと思います。


今回のマーラーフェスト2020・ブックも発行されます。2020年3月に発売される予定で、もちろん購入予約してあります。一生の記念、宝物ですね。


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当時マーラーはアメリカに住んでいたので、アルマ夫人は、このマーラーフェスト1920に参加するために船で航海でオランダにやってきました。


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アルマはこう書いています。”アムステルダムに到着・・・港・・・船・・・帆・・・索具(船の帆とマストを支えるロープ・ワイヤ・滑車などの総称)・・・乱暴な押し合い、慌しい動き・・・肌寒い・・・どんより曇った・・・一言で言えばそんなオランダ。マーラーの音楽の第2の故郷の夕暮れはとても素晴らしい絶景だわ。



長い船旅を終えて、オランダ・アムステルダムに到着した一行。
ものすごい大所帯でやってきたんですね。


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アルマ夫人と新ウィーン楽派のアーノルド・シェーンベルク


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ダークスカーフとダークハットの女性がアルマ夫人、ダークハットで傘を持っているのがアーノルド・シェーンベルク。前列真ん中がロシア生まれでオランダで活躍したヴァイオリニスト、アレクサンダー・シュミラー(1880-1933)。


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真ん中にアルマ夫人、左の杖を持っているのがアレクサンダー・シュミラー(1880-1933)全員で記念撮影。


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前列の真ん中が、ロシア生まれでオランダで活躍したヴァイオリニスト、アレクサンダー・シュミラー(1880-1933)、前列右側が、ドイツと日本で活躍したロシア生まれのピアニスト、指揮者のレオニード・クロイツァー(1884-1953)。


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リチャード・スペヒト(1870-1932)(オーストリアの作詞家、作家)とその夫人。


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まさに船旅。アーノルド・シェーンベルクと右側の帽子をかぶっているのが、オランダ・アムステルダムの芸術・財務の市会議員のF.ヴィバート氏。


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フェスティバルでのリハーサルの最中のフォト。真ん中にメンゲルベルク。


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メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ・オーケストラのメンバーとのフォト。


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1924年 メンゲルベルクによる交響曲第10番の補筆。


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ウィレム・メンゲルベルクと彼のアシスタントのコーネリス・ドッパーは、交響曲第10番から2つの楽章の補筆をおこなった。メンゲルベルクはこの補筆作品を11月27日にコンセルトヘボウ・オーケストラと演奏し披露した。




1995年 マーラーフェスティバル1995


1920年のマーラーフェスト1920から25年、ふたたび特別にマーラーの作品すべてをとても大きなスケールで演奏するフェスティバルが開催された。今回はコンセルトヘボウ・オーケストラだけでなく、その他にウィーンフィル、ベルリン・フィル、そしてグスタフマーラー・ユーゲント管弦楽団によってマーラーの全作品が演奏された。

アムステルダム・コンセルトヘボウのメインホールの様子をそのまま野外で鑑賞できるようにパブリック・ビューイングのセッティングがミュージアムプレイン(ミュージアム広場:アムステルダム旧市街を抜けた先にある広場(公園))に設置された。


その他の場所でも、アムステルダム市アーカイブ所蔵のマーラーに関する展示会をおこなった。


このようにアムステルダムは、マーラー一色となったのである。



マーラーフェスト1995 (Mahler Feest 1995)のポスター


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この1995年大会のときは、RCO,VPO,BPOと三大オケが揃い踏みであった。
だから、その各々のオケ・ヴァージョンのポスターが作られたのだ。


コンセルトヘボウ版ポスター

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ウィーンフィル版ポスター

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ベルリンフィル版ポスター

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マーラーフェスト1995の開催を報じるオランダの新聞。


”メンゲルベルクからシャイーに至るまで。”
”我々の音楽ヒーローに基づいた国際的で巨大なフェスティバルが開催される。


準備のリハビリもなければいままでのリファレンスもない、いままでかつてない重要なフェスティバル。(そりゃRCO,VPO,BPO揃い踏みという過去に前例がないんだから。)”


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”マーラー・イン・アムステルダム、メンゲルベルクからシャイーに至るまで”の博覧会の折り込みチラシ。

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”マーラー・イン・アムステルダム、メンゲルベルクからシャイーに至るまで”の博覧会がオープン。広大な公園でAmsterdam Municipal Archiveが造営された。


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マーラーフェスト1995では、世界で最大のティンパニーが展示された。
両端110.5cmに至る世界最大規模。マーラーの交響曲では低音が強調されるように、と。
1920年にメンゲルベルクによって委託された。


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記念に発売されたマーラーフェスト1995のスタンプ付き封筒。

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”マーラー・イン・アムステルダム、メンゲルベルクからシャイーに至るまで”博覧会で記念に発売された本とCD。


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マーラーフェスト1995オリジナル手帳。見よ!交響曲第7番専用だ!

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これもマーラーフェスト1995のときに発売された本。”Gustav Mahler the World Listens”

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マーラーフェスト1995で特別に造営された大型テント。チケット争奪戦に敗れてホールに入れなかったお客さんをサポートする。朝10時からドキュメンタリーやレナード・バーンスタインの歴史的な録音を聴いたり、いろいろなものが大型スクリーンにパブリックビューイングされた。12時半からはランチコンサート。午後からは引き続きドキュメンタリー・フィルムが映写された。毎日夕方5時半から、音楽学者によって40分の講演があった。


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マーラーフェスト1995、ついにフェスティバル開始を伝えるオランダの新聞。シャイーの姿が!まさに歴史的瞬間!

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マーラーフェスト1995の記念プラーク(額)

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マーラーの娘、マリア・アンナ・マーラーが作ったマーラーのブロンズ胸像。
これは彼女が子供のころに自分の父を見てインスパイアされて作ったものである。


それをマーラー孫娘であるマリナ・フィツォーラリ・マーラーによって、マーラーフェスト1995のときにコンセルトヘボウに寄贈されたものである。


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1995/5/8 マーラーフェスト1995。リッカルド・ムーティ、ウィーンフィルを率いて、かつてのレナード・バーンスタインやクラウディオ・アバドの頃の70年代のときのマーラー音楽の熱狂を見事に演じて見せた。ウィーンフィルはマーラーの音楽を演奏する経験が少なかったので、これはひとつのエポックメイキングな事象であった。


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造営された大型テントでのカフェ。

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そしてこのマーラーフェスト1995のマーラー全曲演奏会は録音され、CD-Boxとなった。もうこのCD-Boxは何回も説明してきましたね。


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録音はオランダ放送協会によるもの。


このセットはベアトリクス女王も含むごく少数の人しか出席していない、コンセルトヘボウホールの前マネージャー退任記念パーティで配布された自主制作盤で、他にも世界中の大きなラジオ局には少数配布されたようなのだが、一般には全く流通していない大変貴重な非売品である。(もちろん権利関係ははっきりクリアした正規盤です。)


滅多に入手できない希少品で、中古市場で大変なプレミアがついて売られています。
こうやって自分もヤフオクで10万の大金をはたいて購入しました。
自分の宝物です。


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自分がヨーロッパに住んでいたとき、アムステルダムに同期の友人が住んでいて、このマーラーフェスト1995を体験しました。いままでマーラーは食わず嫌いだったのが、このフェストに通ったことで、マーラーに開眼したとか。自分もその友人から聞いて、このマーラーフェストという音楽祭の存在を知ったのでした。


去年、その友人とひさしぶりに飲んだとき、わざわざ持ってきて見せてくれた、そのときのマーラーフェスト1995のコンサートカタログ。4曲通ったから4部ある。マーラーフェスト1995は赤色がテーマ色でしたね。


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2020年 マーラーフェスティバル2020


ウイレム・メンゲルベルクによるマーラーフェスト1920から正確に100年後、コンセルトヘボウは再度、マーラーフェスティバルの大フェスティバルの舞台に立つ。もちろん1995年のときのように、コンセルトヘボウ・オーケストラの他に、ウィーンフィルやベルリンフィルもやってくる。今度の2020年度のときは、マーラーが1909年から1911年まで音楽監督を勤めていたニューヨークフィルもやってくるのだ。


そしてついに自分が体験するマーラーフェスティバル2020。


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マーラーフェスティバル2020のポスター

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まさに人生に1回のチャンス!


1920年大会、1995年大会も、マーラーフェスト、Mahler Feest なのに、今回から改称で、マーラーフェスティバル、Mahler Festivalになってしまった。フェスティバルは、なんか普通っぽすぎて面白くないというか、マーラーフェストのほうが、っぽくていいのに、歴史もあるし、と思うのです。


マーラーフェスティバル2020はどのようなイヴェントがありそうか、はいままでの日記で紹介した通り。いままでのフェストと同様に、きっとたくさんの記念グッズが売られると思うから、全部買ってくる予定です。(笑)それを入れるためのトートバッグ買わないといけませんね。


ミューザ川崎の売店で売っているトートバッグを買ってきましょう!










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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.3 [海外音楽鑑賞旅行]

1906年 マーラー、コンセルトヘボウで交響曲第5番を指揮する。


1906年3月8日、マーラーは、交響曲第5番をコンセルトヘボウで指揮をする。ウィレム・メンゲルベルクが、その作品については、コンセルトヘボウ・オーケストラと練習を積んでいた。そしてそのことが素晴らしいことを生むことにもなった。


マーラーは、アムステルダムからアルマに手紙を書いた。”すべてが素晴らしくリハーサルされていた、サウンドも素晴らしい。オーケストラは、とても幻想的で、私のことをとても好きでいてくれる。今回は退屈な重労働というよりは、本当に楽しんでできる、と思うよ。”


”ロッテルダム、ハーグ、アーネム、そしてハールレムと、私に引き続いて、メンデルベルクが、コンセルトヘボウを率いて第5番を指揮してくれた。”


あなたは、マーラーとアムステルダムの関係性、マーラーにとって第2の音楽の故郷については、広範囲な記事ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”について読むことができる。



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オランダを散歩する。

気の合う人同士で、アムステルダムのラーレンの荒れ地を散策する。左から右へ:ウィレム・メンゲルベルク、グスタフ・マーラー、アルフォンズ・ディペンブロック。



1906年 交響曲第6番の初演。


1906年5月27日、交響曲第6番は、エッセン(ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市)にて初演を迎えた。そこでエッセンとユトレヒトの地方自治体による混成オーケストラをマーラーは指揮した。


聴衆は、最高に熱狂していて、長い、そして狂喜に満ちた拍手で喝采となった。
しかし、プレスのほうは、その作品については、聴衆ほどの熱狂ではなかった。


あるレビューアーはこう書いている。”私は、いままで4つのマーラーの大曲を聴いてきたけれども、実際彼は同じことを言い続けてきている。もう耐え切れない感じだ。彼は金管楽器奏者の言語だけを知っている。彼はもはや我々と打ち解けて話そうという気は毛頭ない。彼は悲鳴をあげ、怒っているのだ。我々は、そのことに驚いて本当に不思議に思う。なぜ、このようなノイズを作るのか?”



1907年 ウィーンからニューヨークへ。


芸術家としての大きな成功をしたと同時に、感情的な議論や誹謗中傷を受けるなどの数年を過ごした後、1907年12月に、マーラーはウィーン国立オペラ座の音楽監督を辞任した。


オペラ座のスタッフへのお別れの手紙にこう書いてある。


”オペラ座の親愛なるスタッフのメンバーたちよ。ついにこのときが来た。私たちの協力はここに終わった。私にとってずっと親しんできたこのステージを去り、いまみなさんにお別れを言う。完成されたプロジェクトを置いていく代わりに、私が夢見てきたように、自分の背後にある大きな残骸から離れたいと思う。


熱い戦いの中においては、我々は傷つかざるをえなかったが、もし作品が成功していたならば、そのような痛みも忘れることができたであろうし、心豊かに褒美されていたことでもあろう。私といっしょに戦ってくれてありがとう。私の難しい、そして有り難く思われなかった作品に心いとわずして喜んで助けてくれてありがとう。お元気で。


マーラー音楽とのお別れは、交響曲第2番となった。
そのときの目撃者はこう書いている。


”拍手は、とめどもなく巨大で大きなものであった。それはハリケーンの力強さまでに膨れ上がり、その作曲家は思わず涙した。マーラーはステージに30回呼び戻され、女性たちは涙を流し、ハンカチでそれを拭った。「気を落とすな!という叫びが何回も飛び交った。」


マーラーがウィーンから離れる汽車に乗り込んだとき、マーラーはかけつけてくれたファンに手を振った。


アメリカ、正確にはニューヨークが呼んでくれた。
マーラーはメトロポリタン歌劇場と契約をした。


彼はまたニューヨーク・フィルなど数々のニューヨークのオーケストラを指揮した。

彼はすぐにはアメリカのコンサート・シーンに惹かれたり、馴染むことはなかった。


後にブルーノ・ワルターにこのように手紙で書いている。”ここの私のオーケストラは、真にアメリカの代表的なオーケストラである。無気力で才能のない・・・。”



1908年 大地の歌


1908年の夏、マーラーは大地の歌の作曲に取り掛かっていた。1907年の悲劇的な一連のできごと(ウィーン国立オペラ座監督の辞任、本拠地をウィーンからニューヨークへ移す)のおかげで、ますます作曲の道へ邁進することになった。


大地の歌はこのように我々に語っている。”暗闇は生であり、死でもある。”
マーラーは、大地の歌について、ブルーノ・ワルターにこのように手紙で書いている。


”私は、この新しい作品をどのように呼べばいいのか、まだわかっていない。でも私は本当に素晴らしい時間を過ごしてきたし、いままで作曲してきた作品の中でももっとも個人的な作品だと思っています。”



1908年 ソーセージポトフよりも錆ついたティンパニーやトランペット


交響曲第7番は、1908年9月19日にプラハで初演された。マーラーはオペラ・オーケストラから数人の奏者を引き連れてメンバーに加えて、フィルハーモニー・オーケストラを指揮した。


アルマ・マーラーはこのときの初演のときの様子をこのように記述している。


”私がプラハに到着したときは、マーラーは神経質になっていて、病気に近い感じであった。譜面が床一面に散らばっており、彼はすべてのおいて躊躇しており、人とのつき合いを避けていた。”


その後、20世紀の偉大な指揮者の1人になるオットー・クレンペラーはそのときの様子をこのように記憶していた。”リハーサルの後、毎日、楽譜を家に持ち帰っていた。私たちは、彼を助けたかったが、彼は断固としてそうさせなかった。


そしてついには、マーラーは第7番の初演のために20回のリハーサルを必要とすることとなった。”私は、いかにして居酒屋ではなく、コンサートホールに行き、いかにソーセージ・ポトフではなくティンパニーや錆びたトランペット、という彼の選択を理解したのである。”


そのようなもがき苦しみは、聴衆とプレスの双方において、時間と労力をかけるだけの値打ちのあるものとなった。




1909年 自分のささやかな家族に対する愛情的な想い。


1909年の夏、マーラーは交響曲第9番を作曲する。この曲のインスピレーションは最初は湧いてこなかった。マーラーは、周囲のノイズ、たとえば窓をガラガラと開けると近所の人たちによるささやき話や、家に鍵をかけようとしたときに、近所の人が歩いているときに靴のかかとが鳴る音だとか、そういう騒音にイライラとした。犬も同様に、早朝や夜遅くまで吠えているので、彼らもそのノイズを出す人たちの中の1人と、マーラーに思わせるのである。


しかし夏が終わる前に、マーラーは、ブルーノ・ワルターに手紙を書いた。


”私が知る限り、私がいままで見境なく書いてきた、そして最終楽章を壮大にオーケストレーションしてきた作品と違って、今回の作品は、第1楽章からして、すでに自分のささやかな家族に対する愛情的な想いがいっさい介在しない作品だった。長い間、喉まででかかって、なかなか思い出せなかったことを、全部言うと、この作品は第4番に似ている。。。でもかなり違うところも多い。


このスコアは、信じられないくらい急いで書かなければならなかったものなので、出来上がりはずさんで、読みにくい楽譜だった。


大地の歌のときのように、マーラーはこの第9番に対して、”死”という主題を避けることができなかった。彼は、第1楽章の行進曲をいかに憂鬱な葬式の行進のように演奏しなければならないか、と記述した。彼の書いてきた作品の中で、この第9番のように消え行くように静かに終わる曲は他にない。


楽譜原稿の最後の行のところに、'Leb! Wol! Leb! Wol!(さようなら、さようなら)と書き込まれている。'Farewell!' Farewell!(お別れ、お別れ)。ウィレム・メンゲルベルクは、マーラーが愛した芸術、夫人、そして彼の音楽とすべての世界に対して”Farewell!(お別れ)”と書き込んだ。


マーラーは、この第9番の完成を待たずして、この世を去った。



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アルマとグスタフが、外を散歩する。

アルマとグスタフは、第9交響曲を作曲している夏の間に、トーブラッハからアルトシュルダーバッハまで散策を楽しんだ。



1909年 マーラーはオーケストラといっしょに演奏する。


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1909年の秋、マーラーは再び、オランダに戻り、コンセルトヘボウ・オーケストラを指揮し、交響曲第7番を披露した。”ふたたび、すべてが素晴らしくリハーサルされていた。”マーラーはアルマに手紙を書いて、メンゲルベルクがオーケストラを十分ウォーミングアップして準備していたことを伝えた。


メンゲルベルクは、1週間フルに、朝から晩、その交響曲第7番をオーケストラと練習し、叩き込んでいた。ある一人の楽団員が思い出を語った。”いままで、ひとつの作品をこれだけ精度よくリハーサルしたのは初めてだった。”


その楽団員は、指揮者としてのマーラーについてこうも語っていた。”彼は偉大な師匠だ。彼は自分のシンフォニーを指揮するとき、体はほとんど動かずに、指揮棒を持つ右手というよりは視線を使ってオーケストラをリードしていた。


マーラーは、そのままオーケストラといっしょに演奏していた。すべての団員たちは、マーラーは、やむにやまれず少々暴君的な専制君主のように、自分のパートを演奏しなければならなかった、と感じていたことだろう。”


あなたは、マーラーとアムステルダムの関係性、マーラーにとって第2の音楽の故郷については、広範囲な記事ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”について読むことができる。



1910年 交響曲第10番のはじまり。


マーラーは、1910年に交響曲第10番の作曲を始めた。アダージョを完成させ、そして残りは、わずかにスケッチとして残した程度であった。


これらのスケッチには、音楽と書き込みが含まれ、ところどころに、'Fur dich leben, fur dich sterben, Almschi'のような書き込みなど、パーソナルなものであった。


アルマ・マーラーによると、これは1910年の夏は、夫婦の危機で仲たがいにあった時期だという。



1910年 フロイトとの面談。


マーラーは1910年にふたたびオランダに戻った。指揮をするだけではなく、オーストリアの精神科医であるジークムンド・フロイトを電撃訪問するためだった。後者はちょうど休日にあたり、ノールドワイクの海辺を散歩することになった。


マーラーは、精神分析家のフロイトに、アルマとの複雑な関係を相談していた。


フロイトの結論はこうだった。


”私はあなたの妻、アルマを知っている。彼女は自分の父を愛し、そういうタイプの男性のみを愛するタイプなのだ。あなたは心配だろうが、あなたの年齢を考えれば、間違いなく彼女があなたに魅力を感じていることは間違いない。心配するな!君は自分の母親を愛しているだろう。君もすべての女性に自分の母親のタイプを求めてきたんだから。”



1910年 勝利!


1910年9月12日、マーラーは交響曲第8番をミュンヘンで初めて初演した。


1000人を超える力で、コンサートはめざましい大成功となり、ドイツやその他の外国諸国のメディアも、その桁違いのイヴェントを報道した。


アルマ・マーラーはこう書いている。


”その中にいた経験者は、みな想像もつかない経験だったに違いない。想像がつかない、それはつまり、外界に発信された成功ということ。すべての人、すべてがマーラーに委ねられた。私は深く感動して、バックステージで待ったわ。私たちはホテルに戻って、そのとき2人の眼は涙で溢れていた。ドアの外にはニューヨークからJ.L.が待っていて、こう言ってくれたの。このような素晴らしい曲を書いた作曲家は、まさにブラームス以来の快挙・・・。”




1911年 死期が近づく。


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1911年4月8日、ニューヨークからヨーロッパへの最後の渡航となった船の上でのマーラーの写真。



1911年 モーツァルト!モーツァルト!


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1911年5月18日、ウィーンにてグスタフ・マーラー死す。彼の最後の言葉は、”モーツァルト!モーツァルト!”であった。


翌日、ウィーンのグリンツィング、娘のマリアの隣に埋葬されている。



1912年 交響曲第9番の初演


1912年6月26日 マーラーの友人のブルーノ・ワルターが交響曲第9番の初演をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とで指揮した。このコンサートでは、マーラーの9番の他に、ベートーヴェンの9番が含まれていた。







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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.2 [海外音楽鑑賞旅行]

1901年 グスタフ、アルマと出会う。


1901年11月初旬、グスタフ・マーラーは、宮廷画家、エミール・シンドラーの娘、アルマ・シンドラーと運命の出会いをする。彼女の記憶によると、彼女はこのように書いている。”マーラーはすぐに私に想うところがあった。”そして彼女も最初は婚約していた身であったけれども、同じようにすぐにマーラーに想う気持ちが沸き上がった。


その男は、酸素からできているようで、私が彼に触れたら、そのまま燃え上がるような感じであった。数か月にわたって情熱的な文通が交わされる。


あるレターでは、マーラーはアルマにこう書いている。


”親愛なる最愛の人よ。私は、人生の中で、一度でも私があなたを愛するのと同じくらい誰れかに愛されるということが起こるかどうか信じられなくなってきている。そして私の人生という船が、天国に辿り着くために嵐の中を勇敢に立ち向かっている、という言葉をあなたの口から直接聞くまで、私は頑固なまでに待つことができる。


アルマとグスタフは、1902年3月9日にウィーンのカールス教会で結婚式を挙げる。
彼らが出会って4か月経ってのことである。その年の11月3日に、最初の娘が産まれた。



1901 テーマがシンプル過ぎる。


1901年11月25日、マーラーはミュンヘンに居た。そこで彼は、交響曲第4番の初演でミュンヘン・フィルを指揮していた。レビューは好意的なものではなく、その中のひとつに”テーマがシンプル過ぎる”と非難するものがあった。ある批評はポジティブなものでは、”我々を一気に新しい音楽領域へと誘ってくれる高度で意義のある作品”と書いているものもある。聴衆はホール内で、ブラヴォーとブーを吠えるどちらかに分かれたようだ。



1902年 ウィーンでのその後。。。


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1902年1月12日、マーラーは交響曲第4番を、彼のホームのウィーンの聴衆の前で初めて演奏した。リアクションは、ミュンヘンの時と比較して、さらに敵対的なものであった。”なにかカーニバル(謝肉祭)の音楽の類のような。。。”オーケストラ・メンバーでさえも、自分たちの首席指揮者の新しい作品と比べてみても、幾分批判的な意見だった。


ウィーン時代の作曲家としてのマーラーは、世間に認められるにはさらに長い道のりを要す不遇の時代であった。



交響曲第3番の全楽章の初演。


交響曲第3番の全楽章の初演は、1902年6月9日のクレーフェルト(ドイツ西部の都市)で、マーラー自身の指揮でおこなわれた。聴衆は狂乱した。アルマ・マーラーは、このように書いていた。”最終楽章が終わったら、狂気の沙汰の熱狂が起きた。聴衆は椅子からジャンプして立ち上がり、マーラーに向かって走ってかけよった。その聴衆の中には、ウィレム・メンゲルベルク、アムステルダムのコンセルトヘボウ・オーケストラの若き指揮者もいた。メンゲルベルクはその夕方のコンサートを経験したとき、マーラーの音楽をつねに守って、プロモートしていこう、と決意したのである。




1903年 交響曲第6番


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”私の最初の5曲の交響曲を聴いたことのある人でさえも、私の6番の神秘性をあえて見抜ける人というのはほとんどいないかもしれない。”とマーラーは、自身の交響曲第6番”悲劇的”について語っている。第4番までは、マーラーはいつも彼の言葉でリスナーに対して、いわゆる聴き方マニュアルのような説明をおこなってきた。だがしかし第5番以降は、リスナーが感じるままを尊重するようになった。


しかし、第6番については、すべてが謎めいている訳ではない。


第1楽章の第2主題のところで、マーラーは、彼の妻アルマについてを音楽的なポートレートとして表現している。”僕は主題の中で君を捉えようとしてきた。”スケルツォは、若い子供が遊んでいるような詩的表現を兼ね備えている。おそらく1904年、グスタフとアルマの2番目の娘として産まれてくるであろうアンナ・ジャスティンに対しての気持ち。


交響曲第6番の中でもっとも注目すべき観点は、最終楽章で運命の力としての象徴として放たれる3回の大ハンマーであろう。マーラーは、打楽器奏者が奏でる短くて、力強く、まさに大ハンマーが打ち鳴らされるようなバンという音が鳴るように、特別に作った箱を用意した。


交響曲第6番の初演のあと、このハンマーについて手短に言えば、アーティスト テオ・ザッヘは、マーラーやリヒャルト・シュトラウスのような現代作曲家が、伝統的なオーケストラにハンマーやカウベル、そしてスレイベル(打楽器のひとつ)や他のサウンドを取り込み、そのサウンド、音楽性を拡張させることをあざけ笑っていた。


下の彼の風刺的なイラスト”近代のオーケストラ”と題して、そのことをデフォルメして描いている。


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オランダでのマーラー


1903年10月22,23日、マーラーは、コンセルトヘボウ・オーケストラで交響曲第3番を指揮した。これがマーラーにとって初めてのオランダであった。2日後の10月25日、マーラーは、オランダでコンセルトヘボウ・オーケストラと交響曲第1番の初演をおこなった。


あなたは、このマーラーとアムステルダム、彼の第2の音楽の故郷との関係について、ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”の記事で深く読むことができる。



1904年 呪われた作品


1904年10月18日、マーラーは、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団と交響曲第5番の初演をケルンでおこなった。この交響曲は、マーラーのアルマへの愛の宣誓である有名なアダージェットを有している。アルマは、残念ながらその初演に参加することはできなかった。そのときずっと病気で病床にあったのだ。


マーラーは動揺し、アルマに対してこのように手紙で書いた。


”汗をかいて、コニャックで口をすすいで、アスピリン錠をむさぼり食べる。それを全部やること。そうすれば、2日以内には治って、火曜日にはここにいることができるはず。すべてを試して。結局、自分は初演の時に1人でいるのが怖いんだろうと思う。”


それでも結局、マーラーは初演のときは1人であった。そして批評の嵐にも同様に1人で浴びることになってしまった。


ふたたび、レビューは決して好意的なものではなかった。


批評ではこう書かれた。”憂鬱な葬式のような行進曲に引き続いて、さらに憂鬱な楽章・・・これは重大なミスである。アダージェットだけがもっとも評価された。”数あるアダージョの中でももっともクリアでベストな作品”交響曲第5番は、マーラーの作品の中で、最高傑作でもっとも愛された作品となった。


マーラーはこの作品を書いていたとき、”第5番は、呪われた作品で、誰からも理解されないだろう。”と思っていたので、まさか後世にこのような評価を受けるとは思いもしなかった。



1904年 コンセルトヘボウに戻る。


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1904年10月23日、コンセルトヘボウで、グスタフ・マーラーは交響曲第4番を同じコンサートで2回演奏した。ウイレム・メンゲルベルクのアイデアだった。数日後、10月26,27日、コンセルトヘボウ・オーケストラを指揮して、交響曲第2番をオランダで初めて披露した。


あなたは、このマーラーとアムステルダム、彼の第2の音楽の故郷との関係について、ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”の記事で深く読むことができる。



1905年 交響曲第7番


マーラーは、1905年の夏に交響曲第7番を完成させた。マーラーは、その作品を創作性の爆発という過程、熱狂した状態で書き上げたのだった。この爆発は、時間を要したし、この第7番のためのインスピレーションは、自発的に得られるものではなかった。


普通、マーラーは交響曲や歌曲を作曲するとき、周りを自然に囲まれた彼の作曲小屋で作曲することで十分なインスピレーションを得ることができたのだが、この第7番だけは、どこか他の場所を探さなければいけなかった。


2週間経過してもその場所は見つからなかった。そして絶望の淵に、ドロミーティ(イタリア北東部にある山地で、東アルプス山脈の一部)へと逃れることになった。でもそこでもなにも変わらなかった。だから私はついにあきらめて家に帰ることになり、その夏は完全に失われたものになると思われた。しかし、その救済は、マイヤーニッヒからクルンペンドルフの間にあるヴェルター湖(オーストリア南部、ケルンテン州にある湖)を小さなボートで渡っているときにやってきた。


最初はボートの整調のオールをこぐときに、第1楽章への導入部のテーマが私にやってきて、そして4週間後には、第1楽章、第3楽章、第5楽章が同じように私の中にやってきた。


交響曲第7番は、”夜曲”として知られていて、これはマーラーがつけた副題ではなく、彼に近い人たち数人の中によるネーミングだった。その中に、ウイリエム・メンゲルベルクがいて、彼が第7番を、”これは夜だ。星がいっさい出ていない、月光もまったくない、平穏な眠りもない、まさに暗闇の力による統治。”と解釈し、副題をつけたのだった。



1906年 いままでの中で最も偉大な作品。


1906年の夏の終わり、マーラーは交響曲第8番”千人の交響曲”を完成させた。3つの純粋なパート、オーケストラ・シンフォニー、独唱ソリスト、そして合唱が、すざましい勢いでマーラの作品に戻ってきた。その初演は1910年に行われ、ステージの上に1000人のパフォーマーが集まることになった。


1906年の夏に、マーラーは、ウイレム・メンゲルベルクに手紙を書いた。


”親愛なる友人よ。私はたったいま第8番を完成させた。この作品は私が作曲してきた作品の中でもっとも偉大な作品となった。それは誰しもが書くことができない曲の内容と形式という両方の観点から、非常に驚くべき作品である。歌い始める、音が鳴り始める空間を想像してごらん。これらは人間の声ではない。しかし惑星と太陽は確実に回っているのだ。”






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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.1 [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーの生涯の年表を学んでいく。


マーラー・ユニヴァース 1860~2020
彼の生涯、作品、そして伝説。


まさにこの世に生を受け、亡くなるまで音楽家としてどのような波乱の人生を歩んでいったのか、年表という形で時代順に学んでいく。


普段、我々はなにげなくマーラーの音楽に接しているわけだが、意外やマーラーの人生について詳しく知らないでいたりする。音楽家の方は勉強されてきているわけだが、我々一般聴衆にとってはとても貴重な体験。こういう機会でないとなかなか体験できないことだ。


マーラーフェスティバル2020の公式HPでは、


”マーラー・ユニヴァース 1860~2020 彼の生涯、作品、そして伝説”


という形で連載されている。


これも今日から4回に渡って、その翻訳を連載する。



マーラー・ユニヴァース 1860~2020
彼の生涯、作品、そして伝説


Mahler's Universe
1860 - 2020
HIS LIFE,WORKS,AND LEGACY




1860年 グスタフ・マーラー誕生。


1860年7月7日、グスタフ・マーラーは、当時のオーストリア帝国、いまのチェコ共和国のボヘミアのカリステ村に産まれた。マーラーは後にこう言っていた。”私はこんなみすぼらしい小さな家に生れた。その家の窓にはガラスさえなかったのだ”


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グスタフ・マーラーは、父、バーンハード・マーラーと母、マリア・ハーマンの間に生まれた14人の子供のうちの次男坊であった。彼の兄弟の7人は、最初の年に死んでしまう。1860年12月、マーラー一家は、カリステ村から地方都市のイフラヴァ(チェコ・ヴィソチナ州の都市)に引っ越した。



1865 マーラーの天職


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この写真はイフラヴァに住んでいた5歳のときのマーラーである。この写真ではマーラーはすでに楽譜を抱えている。祖父母の家を訪れていたとき、マーラーは屋根裏部屋に古い調律のされていないピアノを発見した。このピアノがマーラーの第2の人生を切り開くことになる。父、バーンハード・マーラーは、その屋根裏部屋で、椅子に座り、夢中になってピアノを弾いているグスタフを見て、この息子は、将来音楽家になるに違いないと確信したのである。



1870年 マーラー、音楽界にデビュー。


イフラヴァ時代の1870年10月、若きグスタフは、人生で初めて聴衆の前でピアノを演奏する。コンサートは父によって開催され、彼は息子の弾くモーツァルトは最高である、と頑なまでに信じ込んでいた。しかしグスタフは、そのようなよい印象は抱けなかった。なぜなら、それは、おそらくだが、地方紙が報道していたところによると、そのグランドピアノは、最高に望ましい調律コンディションとは程遠い状態だったようなのだ。


父、バーンハード・マーラーは息子グスタフの音楽家としての才能を広げてやろうと決意した。グスタフは、12歳のときに、最初は、プラハにしばらく滞在した後、イフラヴァに別れを告げ、1875年にはオーストリア帝国のもっとも名門の音楽教育機関であるウィーン楽友協会のコンセルヴァトワール(音楽院)に入学するに至ったのである。



1878年、マーラー、コンセルヴァトワール(音楽院)を卒業。


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グスタフ・マーラーは、18歳のとき、ウィーンのコンセルヴァトワール(音楽院)を好成績で卒業した。在学中の最初の年の終わりには、マーラーは、シューベルトのピアノ・ソナタのマーラー編曲版、そしてマーラー独自の作品であるピアノ四重奏曲において、賞を授与したこともある。


グスタフはウィーンで音楽を勉強する一方で、遠く離れての故郷、イフラヴァでの普通の教育を受けることは終わりにした。なぜなら、その度に追試験を受けないといけなく、そのことが非常に面倒な気持ちにさせたからである。結局、グスタフは普通の学校に在学中には、”なにも学ばなかった”というのが明白な事実なのである。



1880年、カペルマイスター、マーラー


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1880年、マーラー19歳のとき、オーストリアの地方都市、バートハルにて、地方の小さな劇場の指揮者(いわゆるなんでも屋さん)として最初の契約をした。バートハルとライバッハの契約の後は、マーラーは結局、オロモウツ(チェコの都市)に辿り着く。


そこで、”天才だけれど、癖だらけ。”という評判が、常にマーラーをまとわりつくことになる。その頃同時に、マーラーは中程度のベジタリアン(菜食主義者)になりつつ、しかもアルコールは嗜まなかった。ビールもワインも・・・。


オロモウツの市民は、このマーラーの徹底した変人ぶりに気づかざるを得なかった。マーラーはなんとかこのオロモウツの市民と仲良くやっていこうという気は毛頭になかったし、彼自身、「オロモウツ劇場の中を歩いたその瞬間から、自分は、そこに神の怒りのようなものが待っているような気がしてならなかった」と言っているくらいであった。


マーラーは、オロモウツを離れ、カッセル(ドイツのヘッセン州の都市)の王立劇場の第2カペルマイスターに就任する。(カペルマイスター~楽長。欧州での楽長は、もともとは指揮者としてだけではなく、その楽団、古くは宮廷や市の作曲家や編曲者であり、さらに組織上の任務も担った。複数の指揮者を抱える歌劇場においては、カペルマイスター(Kapellmeister)は今日もなお職業名として使われる。一般的に音楽総監督に次ぐ指揮者として第一カペルマイスターと呼ぶ。)


結局、わずか数本のオペラを指揮することだけを許されたのみで、その契約は失望せざるを得なかった。その中で唯一失望しなかった仕事は、カッセル劇場でのコロラトゥーラ・ソプラノのヨハンナ・リヒターと仕事ができたことだった。マーラーと彼女との関係は、後のマーラーの最初の歌曲、”さすらう若者の歌(徒歩の旅行者の歌)”へのインスピレーションに繋がるのである。



1885年 マーラー交響曲第1番の作曲を開始する。


マーラーは、3曲かおそらくは4曲の交響曲を作曲した後に、後の交響曲第1番の作曲をスタートさせる。



1888年 マーラー、Todtenfeier(葬礼)の作曲。


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マーラーは交響詩、Todtenfeier(葬礼)(後の交響曲第2番”復活”の一部となる。)を作曲する。1892年にマーラーは、Todtenfeier(葬礼)を有名な指揮者、ハンス・フォン・ビューローの前でピアノで演奏する。


そのときのビューローのコメント、”あなたの作品は、ワーグナーのオペラのトリスタンが、ハイドンのシンフォニーになったようだ。”ビューローからこのコメントを聞いた直後、マーラーは交響曲を作曲し続けることの難しさを感じた。


1894年になって初めて、マーラーは葬儀の指揮者として、非常に尊敬されるようになった。そのとき、いかに交響曲第2番の角を落として丸みをつけた雰囲気にするかを掴むことができたのだ。マーラーの言葉、”ビューローは死んだ。そのとき私は葬儀に出席した。そのとき私の作曲に正確にフィットしたムードが私の中にふつふつと沸いてきた。そして合唱の冒頭、Auferstehnが歌われたとき、それは私に一筋の光を照射した感じになった。その直後に、すべてが私の心の中でクリアになったのだ。”



1889年 惨めな作曲家


1889年11月20日、マーラーによる新しい交響詩が、ブタペストで初演された。この交響詩は、後の交響曲第1番の前身となる曲であった。マーラーは自身でオーケストラを指揮した。マーラーは、作曲家としては、暫し通常の路線からはかけ離れた存在であった。


1人のレビューアーが書いている。”この交響詩は抑制されていない、不屈の才能によって、すべての従来の形式を壊し、どんな犠牲を払ってでも、なにか新しいものを創造しようと試みている。”しかし、そのレビューは、後味が悪いように、このように締めている。”マーラー、あなたはとても魅力的な作曲家だ。でも同時に、惨めな作曲家でもある。”



1892年 ライヘンハルのマーラー


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グスタフ・マーラーと妹のジャスティーヌ(写真でマーラーのすぐ右隣)と、友人達とでライヘンハル(ドイツの岩塩、アルペンザルツ)を訪れる。




1893年 夏の日の作曲小屋



マーラーは交響曲第3番の作曲を、ドイツのシュタインバッハーのアッター湖の湖畔にある彼の作曲小屋(komponierhäuschen)で夏のほとんどをそこで過ごし、そこで作曲をした。


シュタインバッハー街にあるアッター湖畔にあるマーラーの作曲小屋(komponierhäuschen)

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(c)旅する音楽師・山本直幸の百聴百観ノート:第35回 マーラーの交響曲が作曲された場所


作曲小屋の内部(観光名所として内装されている。)

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(c)クラシックカフェ クラシックを気ままに聞くティータイム 2013/9/3 マーラー作曲小屋



いわゆるマーラーの作曲小屋としては全部で3つ存在するが、これらの作曲小屋は現在も修復され、現存し、マーラー詣でとしての観光名所になっている。



マーラーは、そのときの最愛の人であったメイデンベルクの歌手のアンナに、この第3交響曲について手紙を書いた。”最愛なるアンナよ。ほとんど完成したよ。この曲は本当に驚異的だよ!私の交響曲にはいままで聴いたことのないようななにかがある。なにもかもが声を与えられ、夢の中に出てくる神秘的ななにかを語るんだ。すべてのものに表題がつけられるんだ。喜ばしい自然科学、そして夏の日の夢。(喜ばしい自然科学は、フリードリヒ・ニーチェの作品がリファレンスになっている。)



マーラーは、穏やかな夏の日に、作曲のためのアイデアを捻りだすために特別に建てた”作曲小屋”を持っていた。彼はそのコテージの中では明らかに静謐な空間に接していることができるし、そして子供たちをお菓子やおもちゃで釣って、その小屋に近づかせないようにした。また望ましくない侵入者を避けるために、かかしの類のようなものを立てたりした。


マーラーがそのコテージの中や周囲にいるときに湧き上がる印象は、そのままダイレクトに彼の音楽に反映された。指揮者のブルーノ・ワルターがシュタインバッハーのマーラーを訪れたとき、彼はワルターにこう言った。”あなたは、もはやこの周囲を見て回る必要はありません。私がそのすべてを自分の音楽の中に入れ込みましたから。”



1894年 交響曲第2番の最初の3楽章の初演


交響曲第2番の最初の3楽章は、ベルリンで初演されている。この交響曲第2番の最終版の5楽章は、完全な1年遅れではじめて初演されることになった。



1898年 マーラー・イン・ウイーン


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1897年10月、グスタフ・マーラーは、ウィーン国立オペラ座の芸術監督就任への要請を受ける。そしてその究極に名門の地位に10年間就くことになる。数年間は、オーケストラ・コンサートと同様に、オペラを指揮した。最も理想的な形態は、マーラー自身の作品を指揮することであった。


マーラーがウィーンに住んでいた10年間は、まさに激動の年であった。


1902年1月、フィルハーモニック・オーケストラの指揮者として契約書にサインをした。その1年前に、ある新聞紙がこのように書いていた。”フィルハーモニックの輪の中では、ますます多くのアンチ・マーラー感情が沸き起こっていった。指揮者マーラーのあまりに神経質すぎる気質、準備のためのリハーサルでのあまりにささいなことに拘るその気質、そしてとりわけ、自分の親友のささやきに耳を傾ける傾向があること、これらのことには、もはやマーラーに同情の余地はなかった。


そしてついにこの名門の地位において新しい候補者を見つけるというマーラーにとって絶望的な努力がなされたのである。



1899年 交響曲第4番の始まり


1899年の夏、マーラーは、交響曲第4番、後に彼はその曲を青空のシンフォニーと記述していたが、その第4番を作曲するべく日夜励んでいた。


1900年の夏にその作品は完成した。


マーラーは自身、第4番に対してこのように言っている。


”私は最初、奇想曲(ユーモレスク、ロマン派音楽の楽種のひとつ。自由な形式の性格的小品の一種)を作るつもりでいたのだが、第2楽章、第3楽章と書き進めるにつれて、当初の予定の3倍の長さの交響曲になってしまった。基本のムードは青、空のような青、でもたまに暗くなり、不吉で、ぼんやりとした色調。空は永遠に青いので、暗く見えるときというのはほんの一瞬のことである。我々が突然パニックな感情に取りつかれるような場合のみのことである。”



1901年 わかりやすい4楽章のシンフォニー


交響曲第4番は、まだ初演が済んでいなかったけれど、マーラーは交響曲第5番の作曲に取り掛かり始めた。マーラーはマイアーニッヒの彼の家(作曲小屋)でヴェルター湖の絶景を眺めながら、この交響曲第5番の作品を書いた。もともとマーラーには、わかりやすい4楽章からなるシンフォニー(交響曲)を書きたいという計画があった。おそらく、1901年11月に運命の出会いを迎える最愛のアルマのためのアダージェットが、その第5番に加わるとは、そのときは、思っていなかったであろう。


指揮者ウイリエム・メンゲルベルクは、この楽章(おそらくはマーラーの曲の中で最も有名な音楽)について、後にこのように書いている。


このアダージェットは、マーラーのアルマに対する愛の宣誓である。


マーラーは、手紙の代わりに、この楽譜原稿をいっさいのほかの言葉を添えず、アルマに贈ったのだ。彼女は彼を理解し、このように返事の手紙を書いた。


”ぜひいらっしゃい!”


マーラーとアルマの両人が、私(メンゲルベルク)にそう言ったのだ。






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マーラー・イン・アムステルダム (後編) [海外音楽鑑賞旅行]

●スコアの改訂補筆


1903~1904年のシーズン、マーラー指揮による第3交響曲と第1交響曲の組み合わせを経験したことで、メンゲルベルクはアムステルダムとデン・ハーグ(オランダの第3の都市)にて、第1交響曲に対して、さらに4つの演奏パフォーマンスの追加を提示した。


さらに彼は第3交響曲についても非常に細かいディテールまで踏み込んでいって、補筆を提案していき、近い将来マーラーの作品を改訂することを考えていた。作曲家のマーラーに対する手紙の中でメンゲルベルクは、スコアの中にいくつかのミスプリントがあることと、いくつかのパッセージの中で滑らかでない飛躍的な箇所を指摘した。メンゲルベルクは、マーラーがアムステルダムで指揮をしたその後の作品についても同様の改訂の意向の指摘をおこなった。


マーラーはそのような批評にはほとんど気にもとめていなかった。本当に、まったく気にしていなかった。それは、自分の帽子に不快なものがついたとき、それを拭き取ったような感覚のようなものだった。それは決して傲慢なことではなかった。つねに自己疑心に見舞われたことは確かだが、それはとにかく自分のバランスを崩すほどのことではなかった。


しかしメンゲルベルクの指摘事項は、マーラーの作品に対する感謝と感嘆から起因するようなものではなく、真にマーラーの作品を完璧にしようという想いから来るものであったので、その内容は、かなりシリアスなものであることが度々だった。


メンゲルベルクはマーラーの作曲法を理解していたので、いくつかのマイナーな調整を施すことで解決できる軽度な省略、不完全な部分などの問題を指摘することができたのだ。その上、彼のスコアに変更を加えた後の作品を聴くと実際がっかりすることもある。したがってマーラーはすべてのリハーサルのたびに変更点を改善して加えていき、それを直接メンゲルベルクに対して問いかけてみる。それらは偶然な変更ではなく何回も改訂を重ねられて作られた変更なのだ。


マーラーは楽譜に数百の文字の書き込みや音符の書き込みをして、そして指揮をした。第4交響曲である。それらは千以上の書き込みとなった!メンゲルベルクはそれらの新しい改譜の提案に対してすべてについてそのレスポンスを返した。


このようなやりとりによってメンゲルベルクは、さらにマーラーと親しくなっていったように思えた。メンゲルベルクはマーラーに対して信頼の置けるサウンドボードのような役割になっていたのである。



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グスタフ・マーラーとウィレム・メンゲルベルクによる改訂補筆による第4交響曲のスコア (c)Nederlands Muziek Instituut



●第4交響曲を繰り返して演奏する。


1904年に、再びアムステルダムに戻って、第2交響曲だけなく、彼の新しい作品である第4交響曲を指揮することになったとき、マーラーは、ふたたびメンゲルベルクの家にお世話になるのは恐縮する、というようなことを、アルマに対して手紙で書いていた。


しかし彼のそのトーンを変わっていた。


「メンゲルベルクは中央駅で、私を熱心に待っていてくれ、私が彼らといっしょに行くことに同意するまで、私を決して休ませてくれないのだ。そして去年と同様私は再びここにいる。彼らは本当にこのような無心な人たちなのだ。」


マーラーはアムステルダムに到着したその夕方には、すでにオーケストラとリハーサルに入っていった。「君もお分かりのように、彼らはどのような演奏パフォーマンスであったか?メンゲルベルクは間違いなく天才だ。私の作品を2回演奏したのだ。インターミッションの後、再び演奏が始まったのだ。それは本当に聴衆をぐっとニューヨークに対して親しみを持たせるような素晴らしい方法だった。


今日に至るまで、このようなメンゲルベルクのユニークな離れ業は、マーラー伝説の中で、いかに他の都市と比べてアムステルダムでマーラーがイノベーターであったかを語っているものと言える。


この数十年、パリやサンクト・ペテルブルクは、マーラーと関係を持ちたいとは思っていなかったようだ。同様に年老いたリムスキー・コルサコフや若かった頃のストラヴィンスキーも人気がなかった。ヘルシンキではシベリウスが少し人気が出始めていたようだったが。


アムステルダムでの第4交響曲の初演のあと、マーラーはオーケストラの団員、声楽家の方々に歓喜の気持ちでいっぱいであった。歌手のオランダ人 Alida Oldenboom-Lutkemannは、ソロをシンプルに、そして聴衆を鼓舞するような感情を持って歌い上げ、そしてオーケストラは彼女の太陽光のような輝かしい声とともに、その演奏をおこなった。それはまさに周りいっぺんが黄金の光景に輝いていたと言ってもよかった。


1904年にマーラーは、第4交響曲を2回演奏した。そして第2交響曲を1回演奏した。メンゲルベルクは、この2つの曲を準備していて、そしてマーラーがハールレムのフランス・ハルス美術館を早く訪れることができるように準備万端でオーケストラを準備させていた。


「素晴らしいリハーサルだった。」


マーラーはそう言ってみんなをねぎらったが、オーケストラの団員は驚いている様子だった。



●モダン


マーラーは1906年3月にアムステルダムに戻ってきて、第5交響曲を指揮した。今回もメンゲルベルク邸にお世話になることにした。なぜならリハーサルは、恐ろしいことに朝の9時からスタートしたのでそのほうがよかった。それでもVan Eeghenstraatのメンゲルベルク邸からコンセルトヘボウはほとんど距離は離れていないのが救いだった。


今回のパフォーマンスでは、マーラーは朝に3回のリハーサル、そして昼にさらに3回のリハーサルをすることを主張した。


なぜならマーラー自身の言葉で言うならば、「5番は難しい。本当に難しい!」からだ。


マーラーは、メンゲルベルクに今回の第5交響曲の場合、いつもよりもさらにいくぶん良い状態にしておくことを促した。1905年10月からスタートして、その念入りなリハーサルのために、指揮者は質問を受けたり教育指導することで、かなり悩まざるを得なかった。


メンゲルベルクは、深くスコアを読み込み始めた。そうするとその原稿をウィーンに送り返さざるを得なかったのだ。なぜならマーラーはいくつかの大きな変更を挿入することを決めたからだ。


1906年5月8日のパフォーマンスの後、マーラーは、実際のところ、メンゲルベルクが自分の作品を委ねることができる唯一の人物である、と自信を持って結論づけた。彼はアルマに手紙を書いた。「すべてが素晴らしくリハーサルできた。驚くべきサウンド。オーケストラもファンタスティック。そして団員たちは私に感謝している。それはひどく骨の折れる作業でもなかったし、逆を言えば楽しくてしかたがなかった。」だが、コンサートは幾分音程が外れた感じで終わってしまったことを言いそびれてしまった。


その70分の長い第5交響曲のあとに、一部の聴衆のために、マーラーの連作歌曲、亡き子をしのぶ歌が演奏された。


それはあまりに素晴らしすぎた。コンサートが終わる前に立ち上がって会場を後にする観客も中にはいた。マーラーは、あくまで些細なこととしてほとんど気にも留めていなかった。マーラーのことを崇拝する人もいれば、批評する人もいたし、残りの大半の人たちは、なにを考えるべきかをわからない人たちだった。


「その最高の瞬間のつぎにくる恐ろしいこと。」とディーペンブロック夫人は自分の日記に書いていた。


オランダの作曲家である彼女の夫、 アルフォンス・ディーペンブロックは、マーラーの音楽とマーラー自身にかなり強烈な印象を抱いていた。「マーラーは実直な人で、気取ったところがない。あなたたちが観たものは、あなたたちが得たものだ。人がよくて、ナイーブで、それでいてときどき子供っぽいところもあり、そのメガネの奥から幽霊のようにじっと見つめている。彼はすべてにおいてモダンなのだ。彼は未来を信じている。」


ここら辺のポイントはメンゲルベルクもまたマーラーの中に見出している賞賛しているところでもあるのだ。


しかしながら、1909年、マーラーの音楽がいかにその後の後期ロマン派に属する大音楽になるとはそのとき誰も予想できなかったのである。



●ホテル・メンゲルベルク、そうでなければアメリカ?


マーラーとメンゲルベルク、すなわちアムステルダムとの結びつきは、マーラーがデン・ハーグ(オランダ第3の都市)のレジデンス・オーケストラから第6交響曲を指揮して欲しいという依頼を断ったときから、さらに強固なものになっていった。「なぜなら彼らは、あなたの競争相手だから。」とマーラーは手紙に書いている。


しばらくして、マーラーは、ニューヨークに自分の残りの人生の運をかけ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任することを決意した。彼は、メンゲルベルクにニューヨークへいっしょに行くことように誘惑する必要もなかった。メンゲルベルクは海を渡っても、マーラーの信頼のおけるサウンドボードでありたいと思っていたからだ。「君が僕の傍にいてくれるということを知って嬉しい限りだよ。」


しかしメンゲルベルクはもしその餌に食いついていれば、マーラーを追って行って数十年、アメリカで数多くの指揮をする機会を得ることができたであろう。でも彼はコンセルトヘボウ・オーケストラを見捨てることはできなかった。アメリカに行かなくてはならなくなったマーラーにとってアムステルダムを訪れることは、段々障壁が出てきて難しくなっていった。1909年10月になって初めて、マーラーはコンセルトヘボウ・オーケストラと第7交響曲の演奏を成し遂げた。その間、彼はVan Eeghenstraatのホテル・メンゲルベルクに滞在して羽目を外して楽しんで過ごした。そしてゲストブックに、「お金のない演奏家にはこのような家は最適な場所!」と書き込んだ。


マーラーはメンゲルベルクのことを批評的な自分への崇拝者や献身的な使徒として見ていただけではなく、若き日の自分の姿を彼に重ねて見ているところがあった。


「マーラーのイノベーションは、他の都市よりもずっと早くにアムステルダムで起こったのだ。」


メンゲルベルクはマーラーの傘下で働いて続けているのもよかったが、彼は基本は作曲家である。だからメンゲルベルク版レンブラントのインブロビゼーション(即興)を創り出すことに好奇心があったし、そのスコアを書くことを望んでいた。


マーラーの影響はあきらかに明白であった。メンゲルベルクはすぐにこの偉大な人物の影響から容易に逃れることはできないと悟った。そこでメンゲルベルクは、代わりに、アムステルダムでの彼のポストの他に、フランクフルトでの首席指揮者を受け入れ、そこで指揮に集中したのである。


そこで彼のフレッシュで、ダイレクトなアプローチにより、メンゲルベルクはすぐに指揮者としてマーラーを超越し始めていったのだ。少なくともそこにはマーラーの物の捉え方があった。マーラーが、メンゲルベルクがローマで、リヒャルト・シュトラウスの英雄の生涯を指揮しているのを聴いたとき、その後彼にこう言ったのだ。「君は僕を英雄の妻に変えたよ。」シュトラウスは、いつもマーラーの感じ方には敏感であった。



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グスタフ・マーラー。1909年コンセルトヘボウにて。前列で座っている。彼の後列で左から順にコールネリス・ドッパー、ヘンドリック・フライジャー(コンセルトヘボウの管理者)、ウィレム・メンゲルベルクとアルフォンス・ディーペンブロック 。(c) W.A. van Leer / Nederlands Muziek Instituut



●アルマからのギフト


アムステルダムに戻って、メンゲルベルクは、第7交響曲に再び注目を集めるべく革新的なアイデアを思いついた。彼は、マーラーのオーケストラとのリハーサルにプレスを招待したのだ。その結果、そのパフォーマンスに対しての素晴らしいレビューやもっと立ち入ったポイントでの見解など賞賛に溢れていた。メンゲルベルクのその努力がいかに聡明であったかは、マーラーが第7交響曲を指揮したときから数日後に、そして自身がデン・ハーグで同じようにコンセルトヘボウ・オーケストラを指揮したときにもだが、あきらかになっていった。


それからまたプレスはリハーサルには招待されなくなってしまった。レビューも公正な範囲から中くらいの規模に変更になった。


マーラーにとって、アムステルダムというのは、ホテル・メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラのメンバーたちの行き来の結びつきを強化するようなものであった。そのメンバーの何人かは、味方に引き入れるのは容易であったが、でも最終的には全員がマーラーの熱狂者となった。


彼らが第7交響曲を演奏したとき、マーラーの指揮者や作曲家としての立場は難しいものになった。


手書きされた第7交響曲のスコア原稿は、まだコンセルトヘボウのメンバーの全員の賛同一致の意見をもらっていなかったからだ。


それはアルマ・マーラーからのギフトであった。


その原稿は、メンゲルベルクが自ら執拗にそのスコアのコピーに書き込みをしていたのだが、アムステルダムでの将来のマーラー作品の演奏の練習をする上で、オーケストラが音を創り出していくのにとても役に立つ資料となっていった。


ベルナルド・ハイティンク、リッカルド・シャイー、そしてマリス・ヤンソンスなどその後のコンセルトヘボウ・オーケストラの首席指揮者たちは、みんな、このスコア原稿を使っていくことになるのだ。



●最後のリスペクト


マーラーは1911年5月18日に突然亡くなってしまう。享年51歳であった。


そのときメンゲルベルクは、イタリアのトリノで指揮をしていて、ウィーンでの葬儀に出席できなかった。アルフォンス・ディーペンブロック (オランダの作曲家)は、駆けつけることが出来た。


メンゲルベルクは自分の余生において、マーラーのことを後世に語り伝えて行こうと考えた。


「マーラーがよく知っているように・・・」「マーラーはこう考える・・・」「マーラーはここで、明白なカエスーラ(中間休止)を設ける・・・」


オーケストラ・リハーサルの間、メンゲルベルクはもうすでに故人であるマーラーの偶像とつねに隣り合わせでいまもそこにいっしょにいるような感覚に陥った。


メンゲルベルクはついに1920年5月にマーラーへの最後のリスペクトとして、アムステルダムでマーラー・フェスティバルを開催することにした。


メンゲルベルクにとってもその年は、コンセルトヘボウ・オーケストラの指揮者として25周年のアニバーサリーイヤーとなり、9曲の交響曲、そして歌曲として、嘆きの歌、さすらう若者の歌、亡き子をしのぶ歌、大地の歌、リュッケルト歌曲集を、15日間ですべて演奏したのだ。


アルマ・マーラーやアルノルト・シェーンベルク、そしてメンゲルベルクのお弟子さん達も参加した。アルマは貴婦人客として、ミュージアム スクエアホテル アムステルダムに宿泊した。


アルマは後にこう書いている。「アムステルダムに到着。・・・港・・・船のマスト(帆柱)・・・艤装・・・混んでいる・・・肌寒い・・・曇った。。。言い換えればオランダ。」


夕方には、比較にならないほど飛びぬけて美しいパフォーマンスで、マーラーの第2交響曲が演奏された。それはとてもユニークなフェスティバルであった。いくぶんささやかではあるけれど、唯一無二の大望であった。


バイロイトが、ワーグナーの全作品を演奏するための代表的でベンチマーク的な存在であると同様に、アムステルダムがマーラー芸術のスピリチュアルな中心地として選ばれたのだ。


フェスティバルの組織委員のリュドルフ・メンゲルベルク博士(メンゲルベルクの遠戚のいとこにあたる)からの言葉。


アムステルダムは、マーラーに纏わる1番の大都市になる運命になる。


そしてそのことは、メンゲルベルクやコンセルトヘボウ・オーケストラの理事が占領下のドイツ軍の命令に服従せざる得なく、マーラーの作品の演奏を禁止させられた痛ましい1941年の時代を除いて、すでに特定の決まったことなのだ。アムステルダムの街はマーラーのものであるし、マーラーはアムステルダムのものなのだ。



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1920年のマーラーフェスティバルのときのメインホールに飾られたブロンズの額。左側がウィレム・メンゲルベルク、右側がグスタフ・マーラー。(c)Hans Roggen



ジャン・ブロッケンは小説家、旅ライター、そしてノン・フィクション文学作家。


the novel De provincie (The Province) でデビューし、オランダ・アンティル諸島の音楽:Why Eleven Antilleans Knelt before Chopin’s Heart and In the House of the Poet、ロシア人ピアニスト、ユーリ・エゴロフとの友情についてずっと書いてきた。


ジャン・ブロッケンの本は、14か国後に翻訳され全世界で売られており、特にドイツとイタリアで著名である。Baltic Souls, The Cossack Garden や The Justのような最近のタイトルが示すように、彼は強力なストーリー語りとして世間で証明されてきている。


参考文献:感謝します。

Eveline Nikkels, Mahler en Mengelberg, een vriendschap onder collega’s (Mahler and Mengelberg, a friendship between colleagues, Amersfoort, 2014)


Frits Zwart, Willem Mengelberg, een biografie, part 1, 1871-1920 (Willem Mengelberg, a biography, Amsterdam, 2016)


Stephane Friederich, Mahler (Arles, 2004)


Eduard Reeser, Gustav Mahler und Holland, Briefe (Gustav Mahler and Holland, Letters, Wien, 1980)


Johan Giskes (editor), Mahler in Amsterdam, van Mengelberg tot Chailly (Mahler in Amsterdam, from Mengelberg to Chailly, Bussum, 1995)


Alma Mahler, Mijn Leven (My life, Amsterdam, 1989).






 



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マーラー・イン・アムステルダム(前編) [海外音楽鑑賞旅行]

オランダの小説家、旅ライター、そしてノン・フィクション文学作家でもあるジャン・ブロッケン氏による寄稿。


「アムステルダムがマーラー演奏のメッカ」と言われる所以、そこに到るまでのマーラーとアムステルダムとの関係を、マーラーが遺した手紙、自筆譜(補筆含む)、写真などから紐づけて感動的なドキュメンタリーとして描き上げる。


当該内容につき、おそらくこれだけ詳細に記述されている文献は、他にはないだろう。


自分も翻訳しながら、いままで自分が知らなかった未知の世界を垣間見る感じで興奮を抑えることができなかった。理解を促進するには、フェスティバルの中心テーマの「マーラー・ユニヴァース」として、いわゆるマーラーの人生の年表の寄稿”マーラー・ユニヴァース 1860~2020”を先に紹介するのが順当な順番なのかもしれないが、自分はまず先に、このジャン・ブロッケン氏の寄稿を冒頭に紹介したかった。


そのほうが最初に与えるインパクトが全然違うと感じたからだ。


このフェスティバルが行われるようになった歴史的背景に単刀直入に切り込む。


今日から前編、後編と2回に分けて紹介していこう。




マーラー・イン・アムステルダム  MAHLER IN AMSTERDAM



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1909年10月、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によって、「マーラー交響曲第7番」がマーラー自身の指揮によってオランダで、その初演がおこなわれた。そのときマーラーはひどい風邪をひいていた。


アムステルダム中央駅で電車を待ちながら、ハンカチを使い果たしてしまい、隣にいたアルフォンス・ディーペンブロック(オランダの作曲者、文学者)にハンカチを2枚ほどたからなければいけないほどであった。


急行エクスプレスがウィーンを出発する少し前に、マーラーは、同僚の作曲家に、このようなことを言っていた。アムステルダムは、いつも雨が降っていて喧騒の多い街で、それがまた自分にとって肉体的にかなりしんどいのだけれど、でもこの街は自分にとっては第2の音楽の故郷になりつつある。(オランダ・アムステルダムは、一年中雨が降ることで有名なのです。)


マーラーのアムステルダムへの溺愛は、アムステルダムの街そのものとはほとんど無関係なのだ。彼は別にカナル運河やアムステル運河沿いを午後の散歩をして過ごしたわけでもないし、運河のさざなみの水面の上に映る切り妻壁の建物(あのアムス独特の3角形状の外壁の建物)のシルエットに心を奪われたわけでもない。


このようなアムステルダムの神秘的な網版画のような世界の映像美は、マーラーにとってその不思議なサウンドを作るインスピレーションにはまったく役に立たなかったと言ってもいい。実際、港や埠頭での押し合いやざわめきは彼にとっては重すぎた。


彼はどちらかというと、サントフォールトの砂丘やナールデン近くの荒野のような、もっと出来る限りフリーな空間を好んだのだ。


マーラーにとってアムステルダム訪問の中で最も印象的だったのは、アムステルダム国立美術館への訪問、とりわけレンブラント(オランダの17世紀の画家レンブラント・ファン・レイン)の肖像画に触れたときだった。そのレンブラントの代表作である「夜警」の前でしばらく長い間、立ち止まり、そしてそのときにその絵画から受けた印象が、後の第7交響曲の2つのナハトムジークの動機に深く影響を与えることになるのだ。


第1のナハトムジークの行進曲のテンポは、そのレンブラント絵画の中の民兵がその場から立ち退くのにぴったり合っている感じもするが、ただしその音楽の雰囲気は、間違いなくウィーンの趣を残していると言えた。



●逸材メンゲルベルク


1903年の秋に、マーラーがはじめてアムステルダムの地に足を踏み入れたとき、彼は大いなる希望を心に抱き、その地に乗り込んだのだ。それは、そのほぼ1年前の1902年6月9日に、ドイツのクレーフェルトの音楽祭で知り合った、ウィレム・メンゲルベルクによってアムステルダムに招待されたからだった。


メンゲルベルクは当時、スイスのルツェルン市の音楽ディレクター、そして24歳の頃から、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者として、才能ある人物と思われていた。


「マーラーは、少なくとも彼が指揮をするときは必ずといっていいほど、その短気な性格で、専制的で横暴な指揮テクニックのため、オーケストラの団員からは失望されることが常であった。」


メンゲルベルクは、いくぶん勿体ぶったところはあるけれど、陽気な若い男で、間違いなく明るい性格をしていた。彼は大体のオーケストラの曲を演奏できたし、またこれはマーラーにとって重要なことではないけれど、優秀な合唱の指揮者でもあった。


メンゲルベルクは、ほんの数年間の間にて、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を地方の田舎のぬかるみから引っぱり出してくれて、国際スタンダードなオーケストラへと躍進させることに成功したのだ。それ以来、アムステルダムという街は、音楽的なメトロポリスとして捉えられ、今尚進化している。


メンゲルベルクは、第3交響曲を指揮してもらうために、マーラーをアムステルダムに招待した。その後、第1交響曲も指揮してもらった。


マーラーは、メンゲルベルクと前もって、オーケストラと徹底的なリハーサルをする約束をしていたので、喜んでそのチャンスをものにした。特に第3交響曲。その徹底的なリハーサルを必要としたのは、第3交響曲が驚くべき長い作品であったばかりではなく、独唱ソリストであるメゾ・ソプラノ、そして女性合唱陣、そしてそれよりも幾分大きな所帯である男性合唱陣など大変なスケールの大きい曲だったからだ。


なにをおいても、リハーサルはすべてにおいて驚くほどにマーラーへのリスペクトを持って進められた。


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1906年の散歩のときに撮影された写真。後ろのメンバーの左から順に、アルフォンス・ディーペンブロック、グスタフ・マーラー、そしてウィレム・メンゲルベルク。(c) Hendrik de Booy / Stadsarchief Amsterdam




●マーラーに魅了されて。


マーラーの第3交響曲世界初演は、1902年6月にドイツのクレーフェルトの音楽祭でおこなわれた。そのときメンゲルベルクはアムステルダムに作曲家として招待されていて、インクとスコアを激しく消耗していた。メンゲルベルクはそのときはすでにマーラーの第1交響曲と第2交響曲には詳しく通じていたのだが、それはあくまでスコアの紙面上での次元であった。彼は、そのクレーフェルトでの初演で、人生ではじめてマーラーの生の音楽ライブを体験できることを知ったのだ。


メンゲルベルクにとって、指揮者としてのマーラーは、そのマーラーの曲よりもずっと印象深いものであった。メンゲルベルクは、マーラーの指揮する姿から、とても魅惑的なパワーが発散されるのを直感的に感じたのだった。彼の解釈、オーケストラへのテクニカル・アプローチ、そしてフレージングや構成のとりかたなどの彼のやり方、それは、そのとき若い指揮者だったメンゲルベルクにとって、ある意味理想に近いものであった。


メンゲルベルクは個人的にマーラーに会って、そのときには、すでに彼の音楽に深く入り込んでいる状態であった。その音楽の中に、メンゲルベルクは、芸術的な表現の新しい形式を見出し認識したので、この作曲家をアムステルダムに招待して、個人的に紹介するのがベストであるように思えた。メンゲルベルクは以前にも同じように、他の作曲家をアムステルダムに招待して彼らの作品を自身で指揮してもらった機会をもらったことがあったのだ。


メンゲルベルクは、幸運にもリヒャルト・シュトラウス、エドワード・グリーグ、そしてチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードのような類の作曲家までも同様な機会を得ることができた。


これらの作曲家たちが、最初のリハーサルをやる前に、メンゲルベルクはすでにオーケストラと、そのスコアをシステマチックに解析し入念にリハーサルしていた。


マーラーの第3交響曲について言えば、マーラーの指揮はメンゲルベルクの予想をはるかに超えていた。なぜなら指揮者としてのマーラーには、


「マーラーは、少なくとも彼が指揮をするときは必ずといっていいほど、その短気な性格で、専制的で横暴な指揮テクニックのため、オーケストラの団員からは失望されることが常であった。」


という噂があり、ほとんどのケースにおいてそうだったと言われていたからだ。




●朝食にエダムチーズ


アムステルダムでの滞在場所として、マーラーはアムステル・ホテル(Amstel Hotel)を考えていたのだが、メンゲルベルクは自分の家に泊まることを薦めた。その理由は夫人のアルマを同伴しないからだった。もちろんその後の訪問でそうでないときは、そうはしなかった。マーラーは、プライバシーを重んじるのであればホテルのほうを好んだが、逆にその居心地のよい空間を軽蔑していたところもあった。


マーラーは、友人や同僚の行為を受けることにやや恥ずかしい気持ちを感じていた。
マーラーは、メンゲルベルク夫人に自分の靴を磨くようにお願いすることも有り得たのだろうか?

このアイデアは、マーラーをぞっとさせたことは言うまでもない。
そしてマーラーの就寝はいつも遅い。10時半の朝食に間に合うように起きれるであろうか?


実際のところ、そんなに問題は起きなかった。マーラーは、アルマに手紙を書いたとき、「私は10時半にはエダムチーズ(ゴーダチーズと並ぶオランダの代表的なチーズのひとつ。北部のエダム地方が原産で、牛乳を原料としている。)の破片をちぎって少しづつ食べている。私はアムステルダムという街をいままでほとんど見たことがないが、コンセルトヘボウのすぐ近くで、とても尊敬できるご近所に滞在させてもらっている。そしてそこで朝のリハーサルをやるのだ。」


ウィレム・メンゲルベルクとティリー夫人は、 Van Eeghenstraat 107に住んでいた。クリムトからココシュカにいたる蒼々たる芸術品に囲まれて暮らしているアルマにとって、メンゲルベルク宅のインテリアはおそらくぞっとするものだったに違いない。


スイスの時計、デルフト陶器(オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器。)、平凡な絵画、信心深いテーマで彩られたグラスアート。メンゲルベルクの父親は、宗教的な美術や建築で有名な彫刻家だったのだ。


「アムステルダムでの滞在場所として、マーラーはアムステル・ホテル(Amstel Hotel)を考えていたのだが、メンゲルベルクは自分の家に泊まることを薦めた。」


マーラーも同様にあまりその芸術センスに強い感銘は受けなかった。


でもマーラーは、メンゲルベルクはお客をやさしく自分の家に泊めてくれるホストであること、そしてつまらぬことでやきもきしたりすることもなくて済むことに、メンゲルベルクに感謝しなければならなかった。


メンゲルベルクは自然体として、やはりドイツ人だった。彼のお父さん、お母さんはケルンからやってきた。そして彼はドイツ語も話す。セレブといるときは、彼は兄弟が使っていたマナーと同じケルンのマナーをたしなんだ。そして幼いときからたくさんの音楽の世界にさらされて生きてきたのだ。


メンゲルベルクは13歳のとき、ユトレヒトの自宅で、家族や友達の前で、ブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ/ピアノのための5つの練習曲/主題と変奏を演奏した。そして彼自身、そのブラームスという作曲家からなにかしら軽いインパクトのようなものを受けた。


ケルン音楽学校の学生だった頃、ドン・ファンの曲の演奏のときに、偶然にもパーカッショニストの欠員により、チャイムを演奏したこともあるのだ。まだ少年だった頃だが、リヒャルト・シュトラウスはとにかく偉大だった。メンゲルベルクはそのときはまだ少年だったかれども、その演奏会のことをしっかり覚えていた。



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ウィレム・メンゲルベルク。Van Eeghenstraatの自宅の机にて。(c)Hendrik de Booy / Stadsarchief Amsterdam




●友達ではない。


1903年頃には、グスタフ・マーラーは、作曲家としてよりも指揮者として、セレブであった。メンゲルベルクは、初期の頃からマーラーのよき理解者であり、マーラーに対して大きな感心を寄せていた。作曲家としては、メンゲルベルクは、マーラーのことをすぐに20世紀のベートーヴェンとして認識するようになった。


しかしマーラーとメンゲルベルクのストーリーは、単にお互い知り合って、ベストな仕事仲間になったというだけの話ではないのだ。マーラーは、友情に関してはあまりに自己中心的過ぎた。彼にとっての関心事は、音楽、彼の音楽だけだったのだ。


マーラーのメンゲルベルクに対する感謝の気持ちは、メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラとの最初のリハーサルのときに沸き上がった。


「これを聴いてみて!」


マーラーは数時間後に興奮気味にアルマに手紙を書いている。


「彼らが私の3番を演奏した時、私は自分の目で見ているものと耳で聴いているものを信じることが出来なかった。呼吸が止まってしまった。オーケストラはじつに傑出していて、よく準備されていた。私は合唱を聴くのが好きでとても好奇心があり、さらに良くすることで評判がある。」


つぎのリハーサルも同様に進められ、私の3番は、すべての期待をさらに超えたものとなった。


ザーンダムを訪れ、ザーンセ・スカンスの風車を見ながら歩いていると、いくつかの自分の曲への転用を思いついた。マーラーは、アルマへの葉書にそのことをレポートしている。


「自分はこのオランダの典型的な風景に感謝の念すら抱き始めている。」


しかし何よりもマーラーをエクスタシーの頂点に導いたのは、最後のリハーサルであった。「昨日のドレス・リハーサルは素晴らしかった。」マーラーはアルマに書き綴った。「6人の先生に引き連れられた200人の学校の子供たちの声、そしてそれプラス150人の女性コーラスによる合唱!そして見事なオーケストラ!クレーフェルトのときよりも全然いい!ヴァイオリンなんてウィーンで聴いているのと同じくらい美しい!」




●熱狂的なアムステルダムの聴衆


演奏会のパフォーマンスは、オランダのメディア”the Algemeen Handelsblad ”から素晴らしいレビューを受けた。そしてそれはDe Telegraafによって恐ろしいまでに広まっていった。


マーラーはそのことはあまり気にしていなかった。それよりも彼は、”ここの聴衆はいかに聴く能力があるか!”という感覚を直に感じ取っていた。


彼はここの聴衆よりも優れた聴き手はとても想像できなかった。彼らは最高であった。彼は翌日またアルマに手紙を書いた。


「昨晩のことをまだ考えている。それはじつに荘厳なできごとだった。彼らは最初は少し不安だったみたいだが、徐々にそれが解れてウォームアップしていき、アルトのソロが始まった時には、彼らの熱意はゆっくりと大きくなっていった。最後のコーダのあとの大歓声はとても印象的だった。そしてそれは生きている記憶の中でもっとも大きな勝利であった、と誰もが言っていた。」


メンゲルベルクはすべてのリハーサルに参加した。あるときはホールの平土間で、またよくホールの後ろのほうに半分隠れて見ているという感じである。メンゲルベルクは、これらの日々に経験したことを、自分の残りの指揮者人生のために指針として学ぶいわゆるマスタークラスの拡張版として捉えているところもあった。彼は後にこう言っている。「演奏家にとって、マーラーの音楽に対する彼の解釈の仕方は、非常に勉強になる。」


マーラーはこのような興味深い言葉を繰り返して言っていた。


「音楽にとってもっとも大切なよいことは、決してスコアには書かれていないし、それを見ていてもわからないのだ。」


マーラーは、ウィーンから、メンゲルベルクに対してこのようなことを手紙を書いた。


「私はアムステルダムに自分の第2の音楽の故郷のような想いを抱かざるを得ない。」


メンゲルベルクによると、フレージングは、マーラーの解釈や独自の創作によるものが中心だったようだ。そして彼は何回も何回もそのことを繰り返して団員たちに言って聞かせ、練習に勤しんだ。


第3交響曲の2回のリハーサルの後の2日、マーラーは第1交響曲のリハーサルを始めた。第3交響曲と比べるとそれは簡単なことであった。独唱ソリストもいなければ合唱もいない。曲も短いし、より伝統形式に乗っ取ったスタイルで理解するのはより簡単であった。マーラーは、オーケストラがとても熱心であることを感じ取っていた。


彼らは一生懸命学び取りたい、そういう姿勢だったのだ。


そこからメンゲルベルクは第1交響曲を、もっとも最高級のディテールまでに落とし込む準備をした。マーラーはリハーサルの後に母国に帰ったとき、彼は時間がたつとともに、この想いをとても大切に心の奥にしまった。アムステルダムで音楽の理想の島のようなものを支配しているような気になったからだ。


マーラーは、ウィーンからメンゲルベルクにこのように手紙を書いた。

                                                

「私はアムステルダムに自分の第2の音楽の故郷のような想いを抱かざるを得ない。」



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1907年のメインホールでのウィレム・メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラ。(c)Photographer unknown




 





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