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マーラー・イン・アムステルダム(前編) [海外音楽鑑賞旅行]

オランダの小説家、旅ライター、そしてノン・フィクション文学作家でもあるジャン・ブロッケン氏による寄稿。


「アムステルダムがマーラー演奏のメッカ」と言われる所以、そこに到るまでのマーラーとアムステルダムとの関係を、マーラーが遺した手紙、自筆譜(補筆含む)、写真などから紐づけて感動的なドキュメンタリーとして描き上げる。


当該内容につき、おそらくこれだけ詳細に記述されている文献は、他にはないだろう。


自分も翻訳しながら、いままで自分が知らなかった未知の世界を垣間見る感じで興奮を抑えることができなかった。理解を促進するには、フェスティバルの中心テーマの「マーラー・ユニヴァース」として、いわゆるマーラーの人生の年表の寄稿”マーラー・ユニヴァース 1860~2020”を先に紹介するのが順当な順番なのかもしれないが、自分はまず先に、このジャン・ブロッケン氏の寄稿を冒頭に紹介したかった。


そのほうが最初に与えるインパクトが全然違うと感じたからだ。


このフェスティバルが行われるようになった歴史的背景に単刀直入に切り込む。


今日から前編、後編と2回に分けて紹介していこう。




マーラー・イン・アムステルダム  MAHLER IN AMSTERDAM



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1909年10月、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によって、「マーラー交響曲第7番」がマーラー自身の指揮によってオランダで、その初演がおこなわれた。そのときマーラーはひどい風邪をひいていた。


アムステルダム中央駅で電車を待ちながら、ハンカチを使い果たしてしまい、隣にいたアルフォンス・ディーペンブロック(オランダの作曲者、文学者)にハンカチを2枚ほどたからなければいけないほどであった。


急行エクスプレスがウィーンを出発する少し前に、マーラーは、同僚の作曲家に、このようなことを言っていた。アムステルダムは、いつも雨が降っていて喧騒の多い街で、それがまた自分にとって肉体的にかなりしんどいのだけれど、でもこの街は自分にとっては第2の音楽の故郷になりつつある。(オランダ・アムステルダムは、一年中雨が降ることで有名なのです。)


マーラーのアムステルダムへの溺愛は、アムステルダムの街そのものとはほとんど無関係なのだ。彼は別にカナル運河やアムステル運河沿いを午後の散歩をして過ごしたわけでもないし、運河のさざなみの水面の上に映る切り妻壁の建物(あのアムス独特の3角形状の外壁の建物)のシルエットに心を奪われたわけでもない。


このようなアムステルダムの神秘的な網版画のような世界の映像美は、マーラーにとってその不思議なサウンドを作るインスピレーションにはまったく役に立たなかったと言ってもいい。実際、港や埠頭での押し合いやざわめきは彼にとっては重すぎた。


彼はどちらかというと、サントフォールトの砂丘やナールデン近くの荒野のような、もっと出来る限りフリーな空間を好んだのだ。


マーラーにとってアムステルダム訪問の中で最も印象的だったのは、アムステルダム国立美術館への訪問、とりわけレンブラント(オランダの17世紀の画家レンブラント・ファン・レイン)の肖像画に触れたときだった。そのレンブラントの代表作である「夜警」の前でしばらく長い間、立ち止まり、そしてそのときにその絵画から受けた印象が、後の第7交響曲の2つのナハトムジークの動機に深く影響を与えることになるのだ。


第1のナハトムジークの行進曲のテンポは、そのレンブラント絵画の中の民兵がその場から立ち退くのにぴったり合っている感じもするが、ただしその音楽の雰囲気は、間違いなくウィーンの趣を残していると言えた。



●逸材メンゲルベルク


1903年の秋に、マーラーがはじめてアムステルダムの地に足を踏み入れたとき、彼は大いなる希望を心に抱き、その地に乗り込んだのだ。それは、そのほぼ1年前の1902年6月9日に、ドイツのクレーフェルトの音楽祭で知り合った、ウィレム・メンゲルベルクによってアムステルダムに招待されたからだった。


メンゲルベルクは当時、スイスのルツェルン市の音楽ディレクター、そして24歳の頃から、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者として、才能ある人物と思われていた。


「マーラーは、少なくとも彼が指揮をするときは必ずといっていいほど、その短気な性格で、専制的で横暴な指揮テクニックのため、オーケストラの団員からは失望されることが常であった。」


メンゲルベルクは、いくぶん勿体ぶったところはあるけれど、陽気な若い男で、間違いなく明るい性格をしていた。彼は大体のオーケストラの曲を演奏できたし、またこれはマーラーにとって重要なことではないけれど、優秀な合唱の指揮者でもあった。


メンゲルベルクは、ほんの数年間の間にて、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を地方の田舎のぬかるみから引っぱり出してくれて、国際スタンダードなオーケストラへと躍進させることに成功したのだ。それ以来、アムステルダムという街は、音楽的なメトロポリスとして捉えられ、今尚進化している。


メンゲルベルクは、第3交響曲を指揮してもらうために、マーラーをアムステルダムに招待した。その後、第1交響曲も指揮してもらった。


マーラーは、メンゲルベルクと前もって、オーケストラと徹底的なリハーサルをする約束をしていたので、喜んでそのチャンスをものにした。特に第3交響曲。その徹底的なリハーサルを必要としたのは、第3交響曲が驚くべき長い作品であったばかりではなく、独唱ソリストであるメゾ・ソプラノ、そして女性合唱陣、そしてそれよりも幾分大きな所帯である男性合唱陣など大変なスケールの大きい曲だったからだ。


なにをおいても、リハーサルはすべてにおいて驚くほどにマーラーへのリスペクトを持って進められた。


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1906年の散歩のときに撮影された写真。後ろのメンバーの左から順に、アルフォンス・ディーペンブロック、グスタフ・マーラー、そしてウィレム・メンゲルベルク。(c) Hendrik de Booy / Stadsarchief Amsterdam




●マーラーに魅了されて。


マーラーの第3交響曲世界初演は、1902年6月にドイツのクレーフェルトの音楽祭でおこなわれた。そのときメンゲルベルクはアムステルダムに作曲家として招待されていて、インクとスコアを激しく消耗していた。メンゲルベルクはそのときはすでにマーラーの第1交響曲と第2交響曲には詳しく通じていたのだが、それはあくまでスコアの紙面上での次元であった。彼は、そのクレーフェルトでの初演で、人生ではじめてマーラーの生の音楽ライブを体験できることを知ったのだ。


メンゲルベルクにとって、指揮者としてのマーラーは、そのマーラーの曲よりもずっと印象深いものであった。メンゲルベルクは、マーラーの指揮する姿から、とても魅惑的なパワーが発散されるのを直感的に感じたのだった。彼の解釈、オーケストラへのテクニカル・アプローチ、そしてフレージングや構成のとりかたなどの彼のやり方、それは、そのとき若い指揮者だったメンゲルベルクにとって、ある意味理想に近いものであった。


メンゲルベルクは個人的にマーラーに会って、そのときには、すでに彼の音楽に深く入り込んでいる状態であった。その音楽の中に、メンゲルベルクは、芸術的な表現の新しい形式を見出し認識したので、この作曲家をアムステルダムに招待して、個人的に紹介するのがベストであるように思えた。メンゲルベルクは以前にも同じように、他の作曲家をアムステルダムに招待して彼らの作品を自身で指揮してもらった機会をもらったことがあったのだ。


メンゲルベルクは、幸運にもリヒャルト・シュトラウス、エドワード・グリーグ、そしてチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードのような類の作曲家までも同様な機会を得ることができた。


これらの作曲家たちが、最初のリハーサルをやる前に、メンゲルベルクはすでにオーケストラと、そのスコアをシステマチックに解析し入念にリハーサルしていた。


マーラーの第3交響曲について言えば、マーラーの指揮はメンゲルベルクの予想をはるかに超えていた。なぜなら指揮者としてのマーラーには、


「マーラーは、少なくとも彼が指揮をするときは必ずといっていいほど、その短気な性格で、専制的で横暴な指揮テクニックのため、オーケストラの団員からは失望されることが常であった。」


という噂があり、ほとんどのケースにおいてそうだったと言われていたからだ。




●朝食にエダムチーズ


アムステルダムでの滞在場所として、マーラーはアムステル・ホテル(Amstel Hotel)を考えていたのだが、メンゲルベルクは自分の家に泊まることを薦めた。その理由は夫人のアルマを同伴しないからだった。もちろんその後の訪問でそうでないときは、そうはしなかった。マーラーは、プライバシーを重んじるのであればホテルのほうを好んだが、逆にその居心地のよい空間を軽蔑していたところもあった。


マーラーは、友人や同僚の行為を受けることにやや恥ずかしい気持ちを感じていた。
マーラーは、メンゲルベルク夫人に自分の靴を磨くようにお願いすることも有り得たのだろうか?

このアイデアは、マーラーをぞっとさせたことは言うまでもない。
そしてマーラーの就寝はいつも遅い。10時半の朝食に間に合うように起きれるであろうか?


実際のところ、そんなに問題は起きなかった。マーラーは、アルマに手紙を書いたとき、「私は10時半にはエダムチーズ(ゴーダチーズと並ぶオランダの代表的なチーズのひとつ。北部のエダム地方が原産で、牛乳を原料としている。)の破片をちぎって少しづつ食べている。私はアムステルダムという街をいままでほとんど見たことがないが、コンセルトヘボウのすぐ近くで、とても尊敬できるご近所に滞在させてもらっている。そしてそこで朝のリハーサルをやるのだ。」


ウィレム・メンゲルベルクとティリー夫人は、 Van Eeghenstraat 107に住んでいた。クリムトからココシュカにいたる蒼々たる芸術品に囲まれて暮らしているアルマにとって、メンゲルベルク宅のインテリアはおそらくぞっとするものだったに違いない。


スイスの時計、デルフト陶器(オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器。)、平凡な絵画、信心深いテーマで彩られたグラスアート。メンゲルベルクの父親は、宗教的な美術や建築で有名な彫刻家だったのだ。


「アムステルダムでの滞在場所として、マーラーはアムステル・ホテル(Amstel Hotel)を考えていたのだが、メンゲルベルクは自分の家に泊まることを薦めた。」


マーラーも同様にあまりその芸術センスに強い感銘は受けなかった。


でもマーラーは、メンゲルベルクはお客をやさしく自分の家に泊めてくれるホストであること、そしてつまらぬことでやきもきしたりすることもなくて済むことに、メンゲルベルクに感謝しなければならなかった。


メンゲルベルクは自然体として、やはりドイツ人だった。彼のお父さん、お母さんはケルンからやってきた。そして彼はドイツ語も話す。セレブといるときは、彼は兄弟が使っていたマナーと同じケルンのマナーをたしなんだ。そして幼いときからたくさんの音楽の世界にさらされて生きてきたのだ。


メンゲルベルクは13歳のとき、ユトレヒトの自宅で、家族や友達の前で、ブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ/ピアノのための5つの練習曲/主題と変奏を演奏した。そして彼自身、そのブラームスという作曲家からなにかしら軽いインパクトのようなものを受けた。


ケルン音楽学校の学生だった頃、ドン・ファンの曲の演奏のときに、偶然にもパーカッショニストの欠員により、チャイムを演奏したこともあるのだ。まだ少年だった頃だが、リヒャルト・シュトラウスはとにかく偉大だった。メンゲルベルクはそのときはまだ少年だったかれども、その演奏会のことをしっかり覚えていた。



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ウィレム・メンゲルベルク。Van Eeghenstraatの自宅の机にて。(c)Hendrik de Booy / Stadsarchief Amsterdam




●友達ではない。


1903年頃には、グスタフ・マーラーは、作曲家としてよりも指揮者として、セレブであった。メンゲルベルクは、初期の頃からマーラーのよき理解者であり、マーラーに対して大きな感心を寄せていた。作曲家としては、メンゲルベルクは、マーラーのことをすぐに20世紀のベートーヴェンとして認識するようになった。


しかしマーラーとメンゲルベルクのストーリーは、単にお互い知り合って、ベストな仕事仲間になったというだけの話ではないのだ。マーラーは、友情に関してはあまりに自己中心的過ぎた。彼にとっての関心事は、音楽、彼の音楽だけだったのだ。


マーラーのメンゲルベルクに対する感謝の気持ちは、メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラとの最初のリハーサルのときに沸き上がった。


「これを聴いてみて!」


マーラーは数時間後に興奮気味にアルマに手紙を書いている。


「彼らが私の3番を演奏した時、私は自分の目で見ているものと耳で聴いているものを信じることが出来なかった。呼吸が止まってしまった。オーケストラはじつに傑出していて、よく準備されていた。私は合唱を聴くのが好きでとても好奇心があり、さらに良くすることで評判がある。」


つぎのリハーサルも同様に進められ、私の3番は、すべての期待をさらに超えたものとなった。


ザーンダムを訪れ、ザーンセ・スカンスの風車を見ながら歩いていると、いくつかの自分の曲への転用を思いついた。マーラーは、アルマへの葉書にそのことをレポートしている。


「自分はこのオランダの典型的な風景に感謝の念すら抱き始めている。」


しかし何よりもマーラーをエクスタシーの頂点に導いたのは、最後のリハーサルであった。「昨日のドレス・リハーサルは素晴らしかった。」マーラーはアルマに書き綴った。「6人の先生に引き連れられた200人の学校の子供たちの声、そしてそれプラス150人の女性コーラスによる合唱!そして見事なオーケストラ!クレーフェルトのときよりも全然いい!ヴァイオリンなんてウィーンで聴いているのと同じくらい美しい!」




●熱狂的なアムステルダムの聴衆


演奏会のパフォーマンスは、オランダのメディア”the Algemeen Handelsblad ”から素晴らしいレビューを受けた。そしてそれはDe Telegraafによって恐ろしいまでに広まっていった。


マーラーはそのことはあまり気にしていなかった。それよりも彼は、”ここの聴衆はいかに聴く能力があるか!”という感覚を直に感じ取っていた。


彼はここの聴衆よりも優れた聴き手はとても想像できなかった。彼らは最高であった。彼は翌日またアルマに手紙を書いた。


「昨晩のことをまだ考えている。それはじつに荘厳なできごとだった。彼らは最初は少し不安だったみたいだが、徐々にそれが解れてウォームアップしていき、アルトのソロが始まった時には、彼らの熱意はゆっくりと大きくなっていった。最後のコーダのあとの大歓声はとても印象的だった。そしてそれは生きている記憶の中でもっとも大きな勝利であった、と誰もが言っていた。」


メンゲルベルクはすべてのリハーサルに参加した。あるときはホールの平土間で、またよくホールの後ろのほうに半分隠れて見ているという感じである。メンゲルベルクは、これらの日々に経験したことを、自分の残りの指揮者人生のために指針として学ぶいわゆるマスタークラスの拡張版として捉えているところもあった。彼は後にこう言っている。「演奏家にとって、マーラーの音楽に対する彼の解釈の仕方は、非常に勉強になる。」


マーラーはこのような興味深い言葉を繰り返して言っていた。


「音楽にとってもっとも大切なよいことは、決してスコアには書かれていないし、それを見ていてもわからないのだ。」


マーラーは、ウィーンから、メンゲルベルクに対してこのようなことを手紙を書いた。


「私はアムステルダムに自分の第2の音楽の故郷のような想いを抱かざるを得ない。」


メンゲルベルクによると、フレージングは、マーラーの解釈や独自の創作によるものが中心だったようだ。そして彼は何回も何回もそのことを繰り返して団員たちに言って聞かせ、練習に勤しんだ。


第3交響曲の2回のリハーサルの後の2日、マーラーは第1交響曲のリハーサルを始めた。第3交響曲と比べるとそれは簡単なことであった。独唱ソリストもいなければ合唱もいない。曲も短いし、より伝統形式に乗っ取ったスタイルで理解するのはより簡単であった。マーラーは、オーケストラがとても熱心であることを感じ取っていた。


彼らは一生懸命学び取りたい、そういう姿勢だったのだ。


そこからメンゲルベルクは第1交響曲を、もっとも最高級のディテールまでに落とし込む準備をした。マーラーはリハーサルの後に母国に帰ったとき、彼は時間がたつとともに、この想いをとても大切に心の奥にしまった。アムステルダムで音楽の理想の島のようなものを支配しているような気になったからだ。


マーラーは、ウィーンからメンゲルベルクにこのように手紙を書いた。

                                                

「私はアムステルダムに自分の第2の音楽の故郷のような想いを抱かざるを得ない。」



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1907年のメインホールでのウィレム・メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラ。(c)Photographer unknown




 





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