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マーラー・イン・アムステルダム (後編) [海外音楽鑑賞旅行]

●スコアの改訂補筆


1903~1904年のシーズン、マーラー指揮による第3交響曲と第1交響曲の組み合わせを経験したことで、メンゲルベルクはアムステルダムとデン・ハーグ(オランダの第3の都市)にて、第1交響曲に対して、さらに4つの演奏パフォーマンスの追加を提示した。


さらに彼は第3交響曲についても非常に細かいディテールまで踏み込んでいって、補筆を提案していき、近い将来マーラーの作品を改訂することを考えていた。作曲家のマーラーに対する手紙の中でメンゲルベルクは、スコアの中にいくつかのミスプリントがあることと、いくつかのパッセージの中で滑らかでない飛躍的な箇所を指摘した。メンゲルベルクは、マーラーがアムステルダムで指揮をしたその後の作品についても同様の改訂の意向の指摘をおこなった。


マーラーはそのような批評にはほとんど気にもとめていなかった。本当に、まったく気にしていなかった。それは、自分の帽子に不快なものがついたとき、それを拭き取ったような感覚のようなものだった。それは決して傲慢なことではなかった。つねに自己疑心に見舞われたことは確かだが、それはとにかく自分のバランスを崩すほどのことではなかった。


しかしメンゲルベルクの指摘事項は、マーラーの作品に対する感謝と感嘆から起因するようなものではなく、真にマーラーの作品を完璧にしようという想いから来るものであったので、その内容は、かなりシリアスなものであることが度々だった。


メンゲルベルクはマーラーの作曲法を理解していたので、いくつかのマイナーな調整を施すことで解決できる軽度な省略、不完全な部分などの問題を指摘することができたのだ。その上、彼のスコアに変更を加えた後の作品を聴くと実際がっかりすることもある。したがってマーラーはすべてのリハーサルのたびに変更点を改善して加えていき、それを直接メンゲルベルクに対して問いかけてみる。それらは偶然な変更ではなく何回も改訂を重ねられて作られた変更なのだ。


マーラーは楽譜に数百の文字の書き込みや音符の書き込みをして、そして指揮をした。第4交響曲である。それらは千以上の書き込みとなった!メンゲルベルクはそれらの新しい改譜の提案に対してすべてについてそのレスポンスを返した。


このようなやりとりによってメンゲルベルクは、さらにマーラーと親しくなっていったように思えた。メンゲルベルクはマーラーに対して信頼の置けるサウンドボードのような役割になっていたのである。



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グスタフ・マーラーとウィレム・メンゲルベルクによる改訂補筆による第4交響曲のスコア (c)Nederlands Muziek Instituut



●第4交響曲を繰り返して演奏する。


1904年に、再びアムステルダムに戻って、第2交響曲だけなく、彼の新しい作品である第4交響曲を指揮することになったとき、マーラーは、ふたたびメンゲルベルクの家にお世話になるのは恐縮する、というようなことを、アルマに対して手紙で書いていた。


しかし彼のそのトーンを変わっていた。


「メンゲルベルクは中央駅で、私を熱心に待っていてくれ、私が彼らといっしょに行くことに同意するまで、私を決して休ませてくれないのだ。そして去年と同様私は再びここにいる。彼らは本当にこのような無心な人たちなのだ。」


マーラーはアムステルダムに到着したその夕方には、すでにオーケストラとリハーサルに入っていった。「君もお分かりのように、彼らはどのような演奏パフォーマンスであったか?メンゲルベルクは間違いなく天才だ。私の作品を2回演奏したのだ。インターミッションの後、再び演奏が始まったのだ。それは本当に聴衆をぐっとニューヨークに対して親しみを持たせるような素晴らしい方法だった。


今日に至るまで、このようなメンゲルベルクのユニークな離れ業は、マーラー伝説の中で、いかに他の都市と比べてアムステルダムでマーラーがイノベーターであったかを語っているものと言える。


この数十年、パリやサンクト・ペテルブルクは、マーラーと関係を持ちたいとは思っていなかったようだ。同様に年老いたリムスキー・コルサコフや若かった頃のストラヴィンスキーも人気がなかった。ヘルシンキではシベリウスが少し人気が出始めていたようだったが。


アムステルダムでの第4交響曲の初演のあと、マーラーはオーケストラの団員、声楽家の方々に歓喜の気持ちでいっぱいであった。歌手のオランダ人 Alida Oldenboom-Lutkemannは、ソロをシンプルに、そして聴衆を鼓舞するような感情を持って歌い上げ、そしてオーケストラは彼女の太陽光のような輝かしい声とともに、その演奏をおこなった。それはまさに周りいっぺんが黄金の光景に輝いていたと言ってもよかった。


1904年にマーラーは、第4交響曲を2回演奏した。そして第2交響曲を1回演奏した。メンゲルベルクは、この2つの曲を準備していて、そしてマーラーがハールレムのフランス・ハルス美術館を早く訪れることができるように準備万端でオーケストラを準備させていた。


「素晴らしいリハーサルだった。」


マーラーはそう言ってみんなをねぎらったが、オーケストラの団員は驚いている様子だった。



●モダン


マーラーは1906年3月にアムステルダムに戻ってきて、第5交響曲を指揮した。今回もメンゲルベルク邸にお世話になることにした。なぜならリハーサルは、恐ろしいことに朝の9時からスタートしたのでそのほうがよかった。それでもVan Eeghenstraatのメンゲルベルク邸からコンセルトヘボウはほとんど距離は離れていないのが救いだった。


今回のパフォーマンスでは、マーラーは朝に3回のリハーサル、そして昼にさらに3回のリハーサルをすることを主張した。


なぜならマーラー自身の言葉で言うならば、「5番は難しい。本当に難しい!」からだ。


マーラーは、メンゲルベルクに今回の第5交響曲の場合、いつもよりもさらにいくぶん良い状態にしておくことを促した。1905年10月からスタートして、その念入りなリハーサルのために、指揮者は質問を受けたり教育指導することで、かなり悩まざるを得なかった。


メンゲルベルクは、深くスコアを読み込み始めた。そうするとその原稿をウィーンに送り返さざるを得なかったのだ。なぜならマーラーはいくつかの大きな変更を挿入することを決めたからだ。


1906年5月8日のパフォーマンスの後、マーラーは、実際のところ、メンゲルベルクが自分の作品を委ねることができる唯一の人物である、と自信を持って結論づけた。彼はアルマに手紙を書いた。「すべてが素晴らしくリハーサルできた。驚くべきサウンド。オーケストラもファンタスティック。そして団員たちは私に感謝している。それはひどく骨の折れる作業でもなかったし、逆を言えば楽しくてしかたがなかった。」だが、コンサートは幾分音程が外れた感じで終わってしまったことを言いそびれてしまった。


その70分の長い第5交響曲のあとに、一部の聴衆のために、マーラーの連作歌曲、亡き子をしのぶ歌が演奏された。


それはあまりに素晴らしすぎた。コンサートが終わる前に立ち上がって会場を後にする観客も中にはいた。マーラーは、あくまで些細なこととしてほとんど気にも留めていなかった。マーラーのことを崇拝する人もいれば、批評する人もいたし、残りの大半の人たちは、なにを考えるべきかをわからない人たちだった。


「その最高の瞬間のつぎにくる恐ろしいこと。」とディーペンブロック夫人は自分の日記に書いていた。


オランダの作曲家である彼女の夫、 アルフォンス・ディーペンブロックは、マーラーの音楽とマーラー自身にかなり強烈な印象を抱いていた。「マーラーは実直な人で、気取ったところがない。あなたたちが観たものは、あなたたちが得たものだ。人がよくて、ナイーブで、それでいてときどき子供っぽいところもあり、そのメガネの奥から幽霊のようにじっと見つめている。彼はすべてにおいてモダンなのだ。彼は未来を信じている。」


ここら辺のポイントはメンゲルベルクもまたマーラーの中に見出している賞賛しているところでもあるのだ。


しかしながら、1909年、マーラーの音楽がいかにその後の後期ロマン派に属する大音楽になるとはそのとき誰も予想できなかったのである。



●ホテル・メンゲルベルク、そうでなければアメリカ?


マーラーとメンゲルベルク、すなわちアムステルダムとの結びつきは、マーラーがデン・ハーグ(オランダ第3の都市)のレジデンス・オーケストラから第6交響曲を指揮して欲しいという依頼を断ったときから、さらに強固なものになっていった。「なぜなら彼らは、あなたの競争相手だから。」とマーラーは手紙に書いている。


しばらくして、マーラーは、ニューヨークに自分の残りの人生の運をかけ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任することを決意した。彼は、メンゲルベルクにニューヨークへいっしょに行くことように誘惑する必要もなかった。メンゲルベルクは海を渡っても、マーラーの信頼のおけるサウンドボードでありたいと思っていたからだ。「君が僕の傍にいてくれるということを知って嬉しい限りだよ。」


しかしメンゲルベルクはもしその餌に食いついていれば、マーラーを追って行って数十年、アメリカで数多くの指揮をする機会を得ることができたであろう。でも彼はコンセルトヘボウ・オーケストラを見捨てることはできなかった。アメリカに行かなくてはならなくなったマーラーにとってアムステルダムを訪れることは、段々障壁が出てきて難しくなっていった。1909年10月になって初めて、マーラーはコンセルトヘボウ・オーケストラと第7交響曲の演奏を成し遂げた。その間、彼はVan Eeghenstraatのホテル・メンゲルベルクに滞在して羽目を外して楽しんで過ごした。そしてゲストブックに、「お金のない演奏家にはこのような家は最適な場所!」と書き込んだ。


マーラーはメンゲルベルクのことを批評的な自分への崇拝者や献身的な使徒として見ていただけではなく、若き日の自分の姿を彼に重ねて見ているところがあった。


「マーラーのイノベーションは、他の都市よりもずっと早くにアムステルダムで起こったのだ。」


メンゲルベルクはマーラーの傘下で働いて続けているのもよかったが、彼は基本は作曲家である。だからメンゲルベルク版レンブラントのインブロビゼーション(即興)を創り出すことに好奇心があったし、そのスコアを書くことを望んでいた。


マーラーの影響はあきらかに明白であった。メンゲルベルクはすぐにこの偉大な人物の影響から容易に逃れることはできないと悟った。そこでメンゲルベルクは、代わりに、アムステルダムでの彼のポストの他に、フランクフルトでの首席指揮者を受け入れ、そこで指揮に集中したのである。


そこで彼のフレッシュで、ダイレクトなアプローチにより、メンゲルベルクはすぐに指揮者としてマーラーを超越し始めていったのだ。少なくともそこにはマーラーの物の捉え方があった。マーラーが、メンゲルベルクがローマで、リヒャルト・シュトラウスの英雄の生涯を指揮しているのを聴いたとき、その後彼にこう言ったのだ。「君は僕を英雄の妻に変えたよ。」シュトラウスは、いつもマーラーの感じ方には敏感であった。



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グスタフ・マーラー。1909年コンセルトヘボウにて。前列で座っている。彼の後列で左から順にコールネリス・ドッパー、ヘンドリック・フライジャー(コンセルトヘボウの管理者)、ウィレム・メンゲルベルクとアルフォンス・ディーペンブロック 。(c) W.A. van Leer / Nederlands Muziek Instituut



●アルマからのギフト


アムステルダムに戻って、メンゲルベルクは、第7交響曲に再び注目を集めるべく革新的なアイデアを思いついた。彼は、マーラーのオーケストラとのリハーサルにプレスを招待したのだ。その結果、そのパフォーマンスに対しての素晴らしいレビューやもっと立ち入ったポイントでの見解など賞賛に溢れていた。メンゲルベルクのその努力がいかに聡明であったかは、マーラーが第7交響曲を指揮したときから数日後に、そして自身がデン・ハーグで同じようにコンセルトヘボウ・オーケストラを指揮したときにもだが、あきらかになっていった。


それからまたプレスはリハーサルには招待されなくなってしまった。レビューも公正な範囲から中くらいの規模に変更になった。


マーラーにとって、アムステルダムというのは、ホテル・メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラのメンバーたちの行き来の結びつきを強化するようなものであった。そのメンバーの何人かは、味方に引き入れるのは容易であったが、でも最終的には全員がマーラーの熱狂者となった。


彼らが第7交響曲を演奏したとき、マーラーの指揮者や作曲家としての立場は難しいものになった。


手書きされた第7交響曲のスコア原稿は、まだコンセルトヘボウのメンバーの全員の賛同一致の意見をもらっていなかったからだ。


それはアルマ・マーラーからのギフトであった。


その原稿は、メンゲルベルクが自ら執拗にそのスコアのコピーに書き込みをしていたのだが、アムステルダムでの将来のマーラー作品の演奏の練習をする上で、オーケストラが音を創り出していくのにとても役に立つ資料となっていった。


ベルナルド・ハイティンク、リッカルド・シャイー、そしてマリス・ヤンソンスなどその後のコンセルトヘボウ・オーケストラの首席指揮者たちは、みんな、このスコア原稿を使っていくことになるのだ。



●最後のリスペクト


マーラーは1911年5月18日に突然亡くなってしまう。享年51歳であった。


そのときメンゲルベルクは、イタリアのトリノで指揮をしていて、ウィーンでの葬儀に出席できなかった。アルフォンス・ディーペンブロック (オランダの作曲家)は、駆けつけることが出来た。


メンゲルベルクは自分の余生において、マーラーのことを後世に語り伝えて行こうと考えた。


「マーラーがよく知っているように・・・」「マーラーはこう考える・・・」「マーラーはここで、明白なカエスーラ(中間休止)を設ける・・・」


オーケストラ・リハーサルの間、メンゲルベルクはもうすでに故人であるマーラーの偶像とつねに隣り合わせでいまもそこにいっしょにいるような感覚に陥った。


メンゲルベルクはついに1920年5月にマーラーへの最後のリスペクトとして、アムステルダムでマーラー・フェスティバルを開催することにした。


メンゲルベルクにとってもその年は、コンセルトヘボウ・オーケストラの指揮者として25周年のアニバーサリーイヤーとなり、9曲の交響曲、そして歌曲として、嘆きの歌、さすらう若者の歌、亡き子をしのぶ歌、大地の歌、リュッケルト歌曲集を、15日間ですべて演奏したのだ。


アルマ・マーラーやアルノルト・シェーンベルク、そしてメンゲルベルクのお弟子さん達も参加した。アルマは貴婦人客として、ミュージアム スクエアホテル アムステルダムに宿泊した。


アルマは後にこう書いている。「アムステルダムに到着。・・・港・・・船のマスト(帆柱)・・・艤装・・・混んでいる・・・肌寒い・・・曇った。。。言い換えればオランダ。」


夕方には、比較にならないほど飛びぬけて美しいパフォーマンスで、マーラーの第2交響曲が演奏された。それはとてもユニークなフェスティバルであった。いくぶんささやかではあるけれど、唯一無二の大望であった。


バイロイトが、ワーグナーの全作品を演奏するための代表的でベンチマーク的な存在であると同様に、アムステルダムがマーラー芸術のスピリチュアルな中心地として選ばれたのだ。


フェスティバルの組織委員のリュドルフ・メンゲルベルク博士(メンゲルベルクの遠戚のいとこにあたる)からの言葉。


アムステルダムは、マーラーに纏わる1番の大都市になる運命になる。


そしてそのことは、メンゲルベルクやコンセルトヘボウ・オーケストラの理事が占領下のドイツ軍の命令に服従せざる得なく、マーラーの作品の演奏を禁止させられた痛ましい1941年の時代を除いて、すでに特定の決まったことなのだ。アムステルダムの街はマーラーのものであるし、マーラーはアムステルダムのものなのだ。



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1920年のマーラーフェスティバルのときのメインホールに飾られたブロンズの額。左側がウィレム・メンゲルベルク、右側がグスタフ・マーラー。(c)Hans Roggen



ジャン・ブロッケンは小説家、旅ライター、そしてノン・フィクション文学作家。


the novel De provincie (The Province) でデビューし、オランダ・アンティル諸島の音楽:Why Eleven Antilleans Knelt before Chopin’s Heart and In the House of the Poet、ロシア人ピアニスト、ユーリ・エゴロフとの友情についてずっと書いてきた。


ジャン・ブロッケンの本は、14か国後に翻訳され全世界で売られており、特にドイツとイタリアで著名である。Baltic Souls, The Cossack Garden や The Justのような最近のタイトルが示すように、彼は強力なストーリー語りとして世間で証明されてきている。


参考文献:感謝します。

Eveline Nikkels, Mahler en Mengelberg, een vriendschap onder collega’s (Mahler and Mengelberg, a friendship between colleagues, Amersfoort, 2014)


Frits Zwart, Willem Mengelberg, een biografie, part 1, 1871-1920 (Willem Mengelberg, a biography, Amsterdam, 2016)


Stephane Friederich, Mahler (Arles, 2004)


Eduard Reeser, Gustav Mahler und Holland, Briefe (Gustav Mahler and Holland, Letters, Wien, 1980)


Johan Giskes (editor), Mahler in Amsterdam, van Mengelberg tot Chailly (Mahler in Amsterdam, from Mengelberg to Chailly, Bussum, 1995)


Alma Mahler, Mijn Leven (My life, Amsterdam, 1989).






 



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