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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.1 [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーの生涯の年表を学んでいく。


マーラー・ユニヴァース 1860~2020
彼の生涯、作品、そして伝説。


まさにこの世に生を受け、亡くなるまで音楽家としてどのような波乱の人生を歩んでいったのか、年表という形で時代順に学んでいく。


普段、我々はなにげなくマーラーの音楽に接しているわけだが、意外やマーラーの人生について詳しく知らないでいたりする。音楽家の方は勉強されてきているわけだが、我々一般聴衆にとってはとても貴重な体験。こういう機会でないとなかなか体験できないことだ。


マーラーフェスティバル2020の公式HPでは、


”マーラー・ユニヴァース 1860~2020 彼の生涯、作品、そして伝説”


という形で連載されている。


これも今日から4回に渡って、その翻訳を連載する。



マーラー・ユニヴァース 1860~2020
彼の生涯、作品、そして伝説


Mahler's Universe
1860 - 2020
HIS LIFE,WORKS,AND LEGACY




1860年 グスタフ・マーラー誕生。


1860年7月7日、グスタフ・マーラーは、当時のオーストリア帝国、いまのチェコ共和国のボヘミアのカリステ村に産まれた。マーラーは後にこう言っていた。”私はこんなみすぼらしい小さな家に生れた。その家の窓にはガラスさえなかったのだ”


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グスタフ・マーラーは、父、バーンハード・マーラーと母、マリア・ハーマンの間に生まれた14人の子供のうちの次男坊であった。彼の兄弟の7人は、最初の年に死んでしまう。1860年12月、マーラー一家は、カリステ村から地方都市のイフラヴァ(チェコ・ヴィソチナ州の都市)に引っ越した。



1865 マーラーの天職


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この写真はイフラヴァに住んでいた5歳のときのマーラーである。この写真ではマーラーはすでに楽譜を抱えている。祖父母の家を訪れていたとき、マーラーは屋根裏部屋に古い調律のされていないピアノを発見した。このピアノがマーラーの第2の人生を切り開くことになる。父、バーンハード・マーラーは、その屋根裏部屋で、椅子に座り、夢中になってピアノを弾いているグスタフを見て、この息子は、将来音楽家になるに違いないと確信したのである。



1870年 マーラー、音楽界にデビュー。


イフラヴァ時代の1870年10月、若きグスタフは、人生で初めて聴衆の前でピアノを演奏する。コンサートは父によって開催され、彼は息子の弾くモーツァルトは最高である、と頑なまでに信じ込んでいた。しかしグスタフは、そのようなよい印象は抱けなかった。なぜなら、それは、おそらくだが、地方紙が報道していたところによると、そのグランドピアノは、最高に望ましい調律コンディションとは程遠い状態だったようなのだ。


父、バーンハード・マーラーは息子グスタフの音楽家としての才能を広げてやろうと決意した。グスタフは、12歳のときに、最初は、プラハにしばらく滞在した後、イフラヴァに別れを告げ、1875年にはオーストリア帝国のもっとも名門の音楽教育機関であるウィーン楽友協会のコンセルヴァトワール(音楽院)に入学するに至ったのである。



1878年、マーラー、コンセルヴァトワール(音楽院)を卒業。


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グスタフ・マーラーは、18歳のとき、ウィーンのコンセルヴァトワール(音楽院)を好成績で卒業した。在学中の最初の年の終わりには、マーラーは、シューベルトのピアノ・ソナタのマーラー編曲版、そしてマーラー独自の作品であるピアノ四重奏曲において、賞を授与したこともある。


グスタフはウィーンで音楽を勉強する一方で、遠く離れての故郷、イフラヴァでの普通の教育を受けることは終わりにした。なぜなら、その度に追試験を受けないといけなく、そのことが非常に面倒な気持ちにさせたからである。結局、グスタフは普通の学校に在学中には、”なにも学ばなかった”というのが明白な事実なのである。



1880年、カペルマイスター、マーラー


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1880年、マーラー19歳のとき、オーストリアの地方都市、バートハルにて、地方の小さな劇場の指揮者(いわゆるなんでも屋さん)として最初の契約をした。バートハルとライバッハの契約の後は、マーラーは結局、オロモウツ(チェコの都市)に辿り着く。


そこで、”天才だけれど、癖だらけ。”という評判が、常にマーラーをまとわりつくことになる。その頃同時に、マーラーは中程度のベジタリアン(菜食主義者)になりつつ、しかもアルコールは嗜まなかった。ビールもワインも・・・。


オロモウツの市民は、このマーラーの徹底した変人ぶりに気づかざるを得なかった。マーラーはなんとかこのオロモウツの市民と仲良くやっていこうという気は毛頭になかったし、彼自身、「オロモウツ劇場の中を歩いたその瞬間から、自分は、そこに神の怒りのようなものが待っているような気がしてならなかった」と言っているくらいであった。


マーラーは、オロモウツを離れ、カッセル(ドイツのヘッセン州の都市)の王立劇場の第2カペルマイスターに就任する。(カペルマイスター~楽長。欧州での楽長は、もともとは指揮者としてだけではなく、その楽団、古くは宮廷や市の作曲家や編曲者であり、さらに組織上の任務も担った。複数の指揮者を抱える歌劇場においては、カペルマイスター(Kapellmeister)は今日もなお職業名として使われる。一般的に音楽総監督に次ぐ指揮者として第一カペルマイスターと呼ぶ。)


結局、わずか数本のオペラを指揮することだけを許されたのみで、その契約は失望せざるを得なかった。その中で唯一失望しなかった仕事は、カッセル劇場でのコロラトゥーラ・ソプラノのヨハンナ・リヒターと仕事ができたことだった。マーラーと彼女との関係は、後のマーラーの最初の歌曲、”さすらう若者の歌(徒歩の旅行者の歌)”へのインスピレーションに繋がるのである。



1885年 マーラー交響曲第1番の作曲を開始する。


マーラーは、3曲かおそらくは4曲の交響曲を作曲した後に、後の交響曲第1番の作曲をスタートさせる。



1888年 マーラー、Todtenfeier(葬礼)の作曲。


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マーラーは交響詩、Todtenfeier(葬礼)(後の交響曲第2番”復活”の一部となる。)を作曲する。1892年にマーラーは、Todtenfeier(葬礼)を有名な指揮者、ハンス・フォン・ビューローの前でピアノで演奏する。


そのときのビューローのコメント、”あなたの作品は、ワーグナーのオペラのトリスタンが、ハイドンのシンフォニーになったようだ。”ビューローからこのコメントを聞いた直後、マーラーは交響曲を作曲し続けることの難しさを感じた。


1894年になって初めて、マーラーは葬儀の指揮者として、非常に尊敬されるようになった。そのとき、いかに交響曲第2番の角を落として丸みをつけた雰囲気にするかを掴むことができたのだ。マーラーの言葉、”ビューローは死んだ。そのとき私は葬儀に出席した。そのとき私の作曲に正確にフィットしたムードが私の中にふつふつと沸いてきた。そして合唱の冒頭、Auferstehnが歌われたとき、それは私に一筋の光を照射した感じになった。その直後に、すべてが私の心の中でクリアになったのだ。”



1889年 惨めな作曲家


1889年11月20日、マーラーによる新しい交響詩が、ブタペストで初演された。この交響詩は、後の交響曲第1番の前身となる曲であった。マーラーは自身でオーケストラを指揮した。マーラーは、作曲家としては、暫し通常の路線からはかけ離れた存在であった。


1人のレビューアーが書いている。”この交響詩は抑制されていない、不屈の才能によって、すべての従来の形式を壊し、どんな犠牲を払ってでも、なにか新しいものを創造しようと試みている。”しかし、そのレビューは、後味が悪いように、このように締めている。”マーラー、あなたはとても魅力的な作曲家だ。でも同時に、惨めな作曲家でもある。”



1892年 ライヘンハルのマーラー


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グスタフ・マーラーと妹のジャスティーヌ(写真でマーラーのすぐ右隣)と、友人達とでライヘンハル(ドイツの岩塩、アルペンザルツ)を訪れる。




1893年 夏の日の作曲小屋



マーラーは交響曲第3番の作曲を、ドイツのシュタインバッハーのアッター湖の湖畔にある彼の作曲小屋(komponierhäuschen)で夏のほとんどをそこで過ごし、そこで作曲をした。


シュタインバッハー街にあるアッター湖畔にあるマーラーの作曲小屋(komponierhäuschen)

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(c)旅する音楽師・山本直幸の百聴百観ノート:第35回 マーラーの交響曲が作曲された場所


作曲小屋の内部(観光名所として内装されている。)

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(c)クラシックカフェ クラシックを気ままに聞くティータイム 2013/9/3 マーラー作曲小屋



いわゆるマーラーの作曲小屋としては全部で3つ存在するが、これらの作曲小屋は現在も修復され、現存し、マーラー詣でとしての観光名所になっている。



マーラーは、そのときの最愛の人であったメイデンベルクの歌手のアンナに、この第3交響曲について手紙を書いた。”最愛なるアンナよ。ほとんど完成したよ。この曲は本当に驚異的だよ!私の交響曲にはいままで聴いたことのないようななにかがある。なにもかもが声を与えられ、夢の中に出てくる神秘的ななにかを語るんだ。すべてのものに表題がつけられるんだ。喜ばしい自然科学、そして夏の日の夢。(喜ばしい自然科学は、フリードリヒ・ニーチェの作品がリファレンスになっている。)



マーラーは、穏やかな夏の日に、作曲のためのアイデアを捻りだすために特別に建てた”作曲小屋”を持っていた。彼はそのコテージの中では明らかに静謐な空間に接していることができるし、そして子供たちをお菓子やおもちゃで釣って、その小屋に近づかせないようにした。また望ましくない侵入者を避けるために、かかしの類のようなものを立てたりした。


マーラーがそのコテージの中や周囲にいるときに湧き上がる印象は、そのままダイレクトに彼の音楽に反映された。指揮者のブルーノ・ワルターがシュタインバッハーのマーラーを訪れたとき、彼はワルターにこう言った。”あなたは、もはやこの周囲を見て回る必要はありません。私がそのすべてを自分の音楽の中に入れ込みましたから。”



1894年 交響曲第2番の最初の3楽章の初演


交響曲第2番の最初の3楽章は、ベルリンで初演されている。この交響曲第2番の最終版の5楽章は、完全な1年遅れではじめて初演されることになった。



1898年 マーラー・イン・ウイーン


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1897年10月、グスタフ・マーラーは、ウィーン国立オペラ座の芸術監督就任への要請を受ける。そしてその究極に名門の地位に10年間就くことになる。数年間は、オーケストラ・コンサートと同様に、オペラを指揮した。最も理想的な形態は、マーラー自身の作品を指揮することであった。


マーラーがウィーンに住んでいた10年間は、まさに激動の年であった。


1902年1月、フィルハーモニック・オーケストラの指揮者として契約書にサインをした。その1年前に、ある新聞紙がこのように書いていた。”フィルハーモニックの輪の中では、ますます多くのアンチ・マーラー感情が沸き起こっていった。指揮者マーラーのあまりに神経質すぎる気質、準備のためのリハーサルでのあまりにささいなことに拘るその気質、そしてとりわけ、自分の親友のささやきに耳を傾ける傾向があること、これらのことには、もはやマーラーに同情の余地はなかった。


そしてついにこの名門の地位において新しい候補者を見つけるというマーラーにとって絶望的な努力がなされたのである。



1899年 交響曲第4番の始まり


1899年の夏、マーラーは、交響曲第4番、後に彼はその曲を青空のシンフォニーと記述していたが、その第4番を作曲するべく日夜励んでいた。


1900年の夏にその作品は完成した。


マーラーは自身、第4番に対してこのように言っている。


”私は最初、奇想曲(ユーモレスク、ロマン派音楽の楽種のひとつ。自由な形式の性格的小品の一種)を作るつもりでいたのだが、第2楽章、第3楽章と書き進めるにつれて、当初の予定の3倍の長さの交響曲になってしまった。基本のムードは青、空のような青、でもたまに暗くなり、不吉で、ぼんやりとした色調。空は永遠に青いので、暗く見えるときというのはほんの一瞬のことである。我々が突然パニックな感情に取りつかれるような場合のみのことである。”



1901年 わかりやすい4楽章のシンフォニー


交響曲第4番は、まだ初演が済んでいなかったけれど、マーラーは交響曲第5番の作曲に取り掛かり始めた。マーラーはマイアーニッヒの彼の家(作曲小屋)でヴェルター湖の絶景を眺めながら、この交響曲第5番の作品を書いた。もともとマーラーには、わかりやすい4楽章からなるシンフォニー(交響曲)を書きたいという計画があった。おそらく、1901年11月に運命の出会いを迎える最愛のアルマのためのアダージェットが、その第5番に加わるとは、そのときは、思っていなかったであろう。


指揮者ウイリエム・メンゲルベルクは、この楽章(おそらくはマーラーの曲の中で最も有名な音楽)について、後にこのように書いている。


このアダージェットは、マーラーのアルマに対する愛の宣誓である。


マーラーは、手紙の代わりに、この楽譜原稿をいっさいのほかの言葉を添えず、アルマに贈ったのだ。彼女は彼を理解し、このように返事の手紙を書いた。


”ぜひいらっしゃい!”


マーラーとアルマの両人が、私(メンゲルベルク)にそう言ったのだ。






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