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黒沼ユリ子さんの音源を聴く [ディスク・レビュー]

いよいよ音源の方を聴いていこう。


普通の物販CDサイトを見ても、黒沼ユリ子さんのCDはほとんど売っていないのだ。レコーディング活動も活発におこなっていたと思うのだが、おそらく大半が廃盤となっていてあまり録音という形では現在に残っていない。


いや活躍した時代から、当然アナログLPが主流だろうということで、中古市場を探ってみると結構存在した。すかさずこの3枚をゲットした。


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黒沼ユリ子さんの所属レーベルは、ビクターエンターテイメントとCBSソニーである。


まずCDのほうから堪能したい。



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Czech Violin Works-martinu, Janacek, Smetana:
黒沼ユリ子(Vn)Panenka(P)



”チェコ・ヴァイオリン音楽選”というタイトルのこのCDは、チェコの作曲家マルティヌー、ヤナーチェク、そしてスメタナというところのヴァイオリン・ソナタを集めた作品。


パートナーのピアノは、ヤン・パネンカ。


ヤン・パネンカは、黒沼ユリ子さんがヴァイオリン・ソナタをやるときの永遠のパートナーである。プラハ生まれ、チェコのピアニスト。プラハ音楽院でフランティシェク・マクシアーンに師事、ついでレニングラード音楽院でパーヴェル・セレブリャーコフに師事。1999年7月12日没。


この録音は、1971年7月5日~8日というたった3日間でレコーディングされたもので、プラハのドモヴィナ・スタジオで収録されている。


おそらく黒沼さんがメキシコに移住した後に、プラハをたびたび訪れ、演奏会、録音をしているので、この録音もその一環のものなのであろう。


このCDの中で、黒沼さんは、”チェコ人と音楽と私”というタイトルで寄稿をされている。まさにチェコへの熱い気持ちが書かれており、それを全文ぜひ紹介してみたい。



●チェコ人と音楽と私  黒沼ユリ子


1958年の晩秋、私は生まれて初めてプラハに降り立ちました。それまで全く未知の国での未知の街、未知の人々の暮らすところへ。でもそこには私を結びつけたただ一つの理由がありました。


それが「音楽」だったのです。


ドヴォルジャークという人がチェコ人であることを知り、その人のヴァイオリンとチェロの協奏曲や「スラブ舞曲集」などを聴くにつけ、それらが何と人間的なぬくもりと同時に人生の悲しみも濃い、また歓びに満ちて踊るリズムに溢れているかに感動していたからです。


一体チェコという国はどんな国でプラハはどんな街で、そこにはどんな人々が、どんな風に暮らしているか・・・全く謎の中に入っていく感じでした。


チェコに行ってみて、そこに暮らしてみて、人々と交わり、彼らの自然の風景の中に身を置き、過去から現代までの歴史を知ってみて、今初めて「チェコ人にとっての音楽」とも呼べる「何か」が分かってきたような気がしています。


中央ヨーロッパの小さな民族であるチェコ人たちは、独立国の「ボヘミア王国」として中世から近世にかけて発展していました。すでに1348年にはプラハには、「カレル大学」が開設されていたり、優れた学問や文化の中心的存在でもあったのですが、その大学長で哲学者の僧侶ヤン・フスが、腐敗したローマ・カトリックを批判して宗教改革運動を起こしたにも関わらず、「和解協定を結ぶため」と約束されて出向いたスイスでの公聴会で捕らえられ、1415年には火刑に処されました。


そこから所謂フス戦争が15年も続いたり・・・この歴史的ルーツは、今日の全チェコ人の中にあるのです。ドヴォルジャークの先輩にあたるスメタナは、交響詩「わが祖国」に、「リブシェ」という建国の神話的歴史から、「フス戦争」を描くターボルなどチェコ民族の複雑で苦悩に満ちた歴史を、見事に音楽で描き残しています。もしその理由をひと口で表現することを試みるなら、大国に自らの国の運命を翻弄され続けたチェコ人たちが、いかにして自己を見失わず今日まで生き抜いて来れたかの、最大のエネルギーの源泉が「音楽」にあり、「文学ではなく音楽」で証明したかったから、と言えるのではないかと、私は思うのです。


それは「昨日のこと」とも言える20世紀においても「然り」なのです。第二次世界大戦終了後すぐの1946年に、いちはやく「国際音楽祭・プラハの春」をスタートさせ、東西の冷戦の中にあっても両側からの音楽家たちがプラハに集まって「音楽」を演奏しながら出会うチャンスを作ったり、政治的にはまだ言論の自由が縛られていた1950年代にもコンサート・ライブは盛んで、人口100万のプラハにある3つのオペラ劇場も4つのコンサートホールも常に音楽を求める聴衆で溢れていました。


チェコ人にとって「音楽のない生活など想像もつかない」と言うことを、態度で示されているのを眼前に見るようだったのです。ニーチェも「音楽もない人生、それは間違った人生だ」と言っています。



1958年11月から62年の春までのプラハでの留学生生活と、その後の30年ほどの間、ほぼ2~3年おきには演奏旅行に招かれたり、レコード録音のために滞在してきたチェコという国は、その後の私の人生にとっての「第二の祖国」であり、「音楽」が自然に泉からあふれ出る土地なのです。


スメタナやドヴォルジャークのみならず、ヤナーチェクやマルティヌーの音楽を聴いたり、彼らの作品を弾いたりしているときの自分の精神状態が、なぜか一番落ち着き、自然で、幸せな気持ちになるからです。それは「音楽」という食べ物にも似た「何か」によって精神に栄養がゆきわたり、非日常的な時間の中に身をゆだねることによって、宇宙をさまようことも可能にしながら、と同時に、自分を小さな昆虫ででもあるかのように客観視できたり、水の流れのような平衡感覚を取り戻すことも出来たりする「音楽の不思議な力」を、チェコ人たちがいかに大切にしながら彼らの長い歴史を歩んできたかを学ばせてくれたからかもしれません。



スメタナは「チェコ人の生命は音楽にあり」と言い残しました。


ドヴォルジャークは「自分は一介の平凡で真面目なチェコ人です」と言いながら、あのような「自然に心から生まれたような音楽」を残し、チェコ人の団結を音楽で強め、新しい国を作る手助けまでもしていました。


「小さい国でもいい。文化的レベルが高ければ・・・」というチェコ人の精神は音楽によって支えられ、「音楽があるから」なのでしょうねぇ。何しろ国歌が19世紀のチェコの作曲家シュクロウブのオペラのアリアの一節「我が故郷よ、いずこに」なのですから・・・。




熱い熱筆ですね。いままで何回にも分けて日記で語ってきたことが、じつはこのCDのライナーノーツに全部書いてあるのでは?という感じですね。(笑)


では、このCDを聴いてみます。


1971年度録音とは思えないくらいS/Nがよくてクリアな録音。
まずそこに驚きました。


でもいまの現代録音の趣とはちょっと違う感じがしますね。


いまは、全体の音場を捉える空間をまず録って、そこから各楽器にスポットマイクで各声部をはっきり捉えるという手法で、(それはオーケストラでも室内楽でも、です。)実際オーディオで聴いてみるとまず全体の空間感を感じて、その中で鳴っているという立体的な聴こえ方をしますが、この1971年当時はそこまで空間を意識せず、ふつうのオンマイクの録音のように感じます。


それはホール録音ではなく、スタジオ録音というのもあるかもしれませんね。


そこが違うかな、というくらいで、あとは全然ふつうにすんなりと自分の中に受け入れることができます。でもそれって意識的な聴き方をしているだけで、ふつうに聴いている分には全然わからない程度のこと。


いまの録音とまったく違わないといってもいいと思います。
本当に素晴らしい録音だと思います。


クリアな感じ、鮮度感、そして明晰な質感など、全体に音の輪郭がキリっとしていて、メリハリの効いたとてもいい録音ですね。感動します。


艶感のあるヴァイオリンの音色、硬質で響きが豊かなピアノの音色。
ヴァイオリンとピアノとのバランス。

本当にいい感じ・・・。


後述するアナログLPは、やはり年代物の中古LPだけあって、入手困難であること、またスクラッチノイズもそれなりにあるので、黒沼ユリ子の演奏をいい状態で聴きたいなら、このCDしかないと思います。


黒沼ユリ子さんの録音を聴くなら、この1枚でしょう!


なにせ、黒沼音楽人生の大本命のチェコ音楽、チェコの作曲家、マルティヌー、ヤナーチェク、スメタナですから。


マルティヌー、ヤナーチェク、スメタナのヴァイオリン・ソナタ。
おそらくいままでもあまり聴いていない作品だと思う。


チェコ音楽って自分の場合スメタナかドヴォルジャークでしたから。マルティヌーは数年前にPENTATONEの新譜で児玉麻里・児玉桃姉妹の録音で接したぐらいです。


マルティヌーはいいですね。バッチリ自分の好みだと思いました。


このCD全曲通して思ったのは、渋い旋律だということ。東欧の民族色的な音色といえばそれまでだけれど、どこか実験的書風というか、捉えどころのない、形式の枠にとらわれない自由な書風といえるのではないでしょうか?


クラシック古典派の正統派というより、もっと新世代寄りの現代音楽をもっと聴きやすくした感じのように思いました。


最後のスメタナが一番お気に入りになりました。


スメタナは、チェコ民族の自民族意識(ナショナリズム)の高揚のために、もっぱらチェコの民話や伝説、史実などをテーマに作品を書き続けたと言われ、いわゆるそういう心情を煽るような情熱的な旋律が得意とするところですね。聴いていてそういう情緒的だけどどこか哀愁を感じるようなメロディの美しさを感じます。


あとで紹介するフォーレのヴァイオリン・ソナタを録音しているアナログLPのライナーノーツに林光氏の解説文が記載されているのですが、その中に、



黒沼ユリ子のレコードでは、チェコの音楽が一番多いのであるが、その中でも、この永遠のパートナー、パネンカとのコンビで演奏しているヤナーチェクの「ソナタ」は、私がとくに高く評価したいと思っているものだ。と同時に、この演奏には、黒沼の音楽の本質といっていい特徴がよくあらわれている。


なになに?


この解説文を偶然読んで、慌ててもう一回このCDに戻ってそのヤナーチェクのソナタを聴き返しました。


あやうくそのままスルーするところでした。(笑)


堂々の大曲ですね。森林の中の大樹。そんな感じの本当に大きな器の曲。ヤナーチェクの世界をもう少し理解しないとその極みを理解できないような気がします。独特の世界がありますね。ヤナーチェクの世界を強く意識しないと自分に響いてこない曲だと思います。何回も何回も聴き込むことが必要ですね。


じつに素晴らしい作品群でした。

お薦めの特選盤です。


つぎに中古市場で購入したLPの数々。


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これも盟友ヤン・パネンカとのヴァイオリン・ソナタ

ラヴェルのヴァイオリン・ソナタ
マルティヌーの間奏曲
プロコフィエフ ヴァイオリン・ソナタ第2番 ニ長調 作品94


やっぱりアナログLPはいいですねぇ。
こんな感じでライナーノーツが広い誌面で充実していますね。
とても正統派の解説文です。


黒沼ユリ子のヴァイオリンはボヘミア派の伝統の忠実な継承者である、と断言していますね。


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アナログLPの中ではこれが1番好きですね。


ラヴェルのヴァイオリン・ソナタはあまり聞いたことがないですが、ラヴェルの中で唯一の1曲だけの作品のようですね。


当時のジャズ・ブルースの語法が取り入れられていて、当時のパリの楽壇に一種のジャズ・ブームが巻き起こっていたことを物語っているようです。


黒沼さんの超絶技巧が冴えわたっていて、リズミカルでスピーディーな曲の展開に圧倒されます。




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三善晃・ヴァイオリン協奏曲
諸井誠・ヴァイオリンとオーケストラのための協奏組曲

黒沼ユリ子:ヴァイオリン
若杉弘・指揮
管弦楽:読売日本交響楽団



三善晃、諸井誠という日本の作曲家は、知りませんでした。
おもに現代音楽の作曲家なのでしょうね。

若杉弘さんも懐かしすぎですね。


やはり現代音楽はオーディオ的に音がよく感じます。
漆黒の中の鋭音という感じで、鳥肌が立つ作品です。

黒沼さんは、こういうジャンルの音楽も積極的にチャレンジしていたんですね。



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フォーレ
ヴァイオリン・ソナタ第1番イ長調作品13
ヴァイオリン・ソナタ第2番ホ短調作品108

黒沼ユリ子:ヴァイオリン
ヤン・パネンカ:ピアノ


1975年10月20,21,24日の3日間、チェコのスプラフォン・スタジオにて録音されたものです。


フォーレいいですねー!!!


この作曲家のソナタも普段あまり聴かないし、日本のプロモーターもあまりコンサートで採用しない作曲家ですよね。フォーレのソナタがこんなに素敵なんて目からウロコでした。


フォーレは、フランスの作曲家で、むしろ小規模編成の楽曲を好み、室内楽作品に名作が多いとされている。それぞれ2曲ずつのピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタと、各1曲のピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲がある。


ラヴェルやドビュッシーのようなフランス音楽特有の浮遊感、色彩感豊かな感じでもなく、結構メリハリの効いた感じの作風です。でもとても美しい、万人に受けやすい不偏のメロディーですね。


このヴァイオリン・ソナタを聴いて、すっかりフォーレの大ファンになってしまいました。


以上、黒沼ユリ子の音源を聴いてきましたが、ヴァイオリニストとしての奏法も現代のヴァイオリニストとまったく遜色なく、堂々とたるもので目の前で演奏している姿が目に浮かぶようでした。


”チェコ音楽を奏でるヴァイオリニスト”というのは、やはりとてもユニークな個性が際立っていて、それがひとつのヴァイオリン奏者としての個性的なカラーになっていますね。


チェコやチェコ音楽ってかなり個性的なのではないでしょうか?


それはその国の歴史諸共、ひとつのワンセットになっていて、とてもコンパクトながらも独特のカラーがあって、とてもユニークですね。


自分はすごく魅力的だと思います。


素晴らしい音源でした。












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黒沼ユリ子さんの世界 メキシコ編 [クラシック演奏家]

メキシコ人と結婚して、チェコ・プラハからメキシコへ。


これは1960年代のことであるから、それは当時の日本人に理解されることは到底難しく、親、親戚の反対も大変なものだったようです。


当時の社会主義体制の国チェコに行くときでさえ、「赤い国に行くんですか。」「鉄のカーテンの中に行くんですか。」と散々言われたそうですが、それが結婚して今度はメキシコ。


ヴァイオリニスト、音楽家としてチェコの留学はまだ筋が通っている気もしますが、まさかメキシコ人と結婚してメキシコへそのまま移住という話になると、これはクラシック音楽と関係ない道を外すような感じにも見えて、反対もわかるような気がします。


「メキシコ人なんかと結婚して」とあからさまに非難する声も聞こえてきて、帰国すればあれこれ言われることがわかっていたので、日本に帰りたいとは、これっぽっちも思っていなかったそうです。


1960年代で、このような人生の決断をした黒沼ユリ子さんは当時としては本当にぶっ飛んでいた人だったのでしょう。


齋藤秀雄先生ですら、「ラテンの国ではクラシック音楽なんてわからないだろう。」と仰っていたそう。


でもそんなふうに言われれば言われるほど、「ヴァイオリニストへの道は夢に終わった、という周囲の人たちの声をいつか完全に否定してみせる。」と決意は固くなったそうである。



●メキシコで見えてきたこと


1962年夏、初めてメキシコの地を踏む。


夫の家族や友人たちからは大歓迎され、会う人ごとに抱擁の嵐といった感じで面食らうほど。夫も日本人を嫁さんにもらったことが自慢になるくらい、やはりメキシコ人は日本人が好き。メキシコの最初の印象は、大都会であること、夜景が美しいということ。


1964年5月、昭和天皇のご名代で皇太子ご夫妻(現上皇・上皇后)がメキシコを来訪。二年前にロペス・マテオス大統領夫妻が国賓として訪日してもてなしを受けたお礼に昭和天皇ご夫妻をメキシコに招待しようとしたところ、当時は海外に出るのを禁じられていたので、代わりに皇太子さまと美智子妃がいらしたというわけ。


なにかできないか大使から相談された黒沼さんはメキシコ人ピアニストと日本人ヴァイオリニストの共演で、両国の曲を奏でる友好コンサートを催してはどうかという提案。実現の運びとなった。


当日、皇太子ご夫妻は、大統領夫人に伴われて二階席へ。ステージの真正面で聴いてくださり、終わると降りていらしてロビーで乾杯。


美智子さまは黒沼という苗字を珍しく思われたようで、「黒沼勝造先生とはご関係がありますか」と訊ねられ、「叔父です」と答えたのが最初の会話。


黒沼勝造は魚類学者。東京水産大学(現東京海洋大学)教授で、ハゼ科を研究されていた皇太子さまへのご信講のために、東京御所をよく訪れていたのだそうだ。


美智子妃は「先生には殿下が大変お世話になっております」と言われ、「こんどはいつ日本でコンサートをされますか。」とのお訊ね。「来年春に東京で」と答えると、「都合がついたらうかがわせてください」とおっしゃって、当日はご夫妻で聴きにいらした。


ちゃんと約束を守ってくださったのです。


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メキシコでの生活は、子宝(息子)に恵まれ、メキシコでの子育てをいろいろ経験。海外で生まれた子供はやはりマルチリンガルなど期待されますが、黒沼さんの息子さんも最終的に日本語、英語、スペイン語のトライリンガルに育ってくれたようです。


帰国子女はひとつ間違えると、どの言語も中途半端に終わってしまう危険性があるだけに本当に怖いところですね。


メキシコ流の子育てもふくめ、この子育て時代は、黒沼さんのメキシコでのひとつの時代でした。


そしてメキシコ時代の中でおそらく黒沼ユリ子のヴァイオリン人生の中で、もっとも重要なイヴェントが起こります。



●アカデミア・ユリコ・クロヌマ


黒沼ユリ子さんのメキシコでの人生でもっとも大きな仕事、やりがいだったのが、この「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」。


メキシコの子供たちにヴァイオリンを教えていこうという学校です。


後には、ヴィオラやチェロなど弦楽器一般も扱うようになりましたが。黒沼さんは、演奏旅行がないあいだは、少しずつプライベートレッスンをやっていらっしゃったが、弟子の中から「親が楽器のできない子供は、レッスンと縁がなくなる」「音楽学校を開いてほしい」と言われていた。


そこにその学校を開くための資金調達、スポンサーが現れて、その学校を開設することも実現を帯びてきた。


楽器学校開設の理由はそういう外的要因も大きいけれど、じつはもっと内的要因、黒沼さんの心の動きの中で大きな心境の変化があった。


それはもう三十代も終わりに達するとき、その頃からコンサートだけではむなしくなっていったこと。演奏家というのは、聴いた方がどんなに「今日の演奏がよかった」と楽しんでくださっても、弾いた音は消えて終わり。どんなに努力しても、消えてなくなっちゃうのが演奏芸術だとすれば、こんなことを死ぬまでやっていていいのかな、とむなしさが募ってきたのである。


そんなとき、それまでプライベートで教えていたものもっと充実させてアカデミアにしてほしい、と頼まれた。

ああそれなら何かを残せるかなと。


チェコで教えを受けたダニエル先生はピアノは素晴らしかったけれど、ヴァイオリンはまったく弾いてくださらなかった。


二十世紀の名ヴァイオリニスト、ヤッシャ・ハイフェッツは「六十五歳になるまで自分の秘密は一切教えません」と言って、現役のあいだは、弟子をとらなかった。


黒沼さんはそうではなく、「自分が弾けるうちに教えてあげなければ」。


それはチェコ時代にオイストラフ氏にレッスンを受けたときに、先生自ら弾くことで手本を見せることで弟子としてどんなにわかりやすい、ことなのかに開眼したこと。その当時としては、そのような先生はいなく画期的だと思った。


だからこそ、自分が弾けるうちに、そういうレッスン学校を、という気持ちがあった。こういうときにはこのように弾くとか、ステージでの体験で身に付けたものを生徒と一緒に弾けるうちに教えておけば、少しは何かが残せるかな、と。


ちょうどむなしさを感じ始めていた、いい年回りだった。
何かを残したい欲があった。

それで踏ん切りがついた。


アカデミアには3つの大きな夢があった。


そのいち


この「アカデミア」で学んだ生徒たちのうち、プロのヴァイオリニストへの道へ進まず、他の職業の専門家になった人でも、いつまでも音楽を愛し、ヴァイオリンを弾けることによって、その人の人生をより豊かなものにすること。


そのに


もしもプロになった場合には、自分の”揺りかご”(日本でいう古巣のことをメキシコではこういう)にぜひ帰ってきてもらい、今度は後輩の指導に愛を持って力を注いでもらえるようにならないか、ということ。


そのさん


この「アカデミア」が、日本とメキシコの友好の架け橋になること。



これを基本指針として「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」は船出した。


「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」は、それこそ順風真帆とはいかず、つぎつぎにと試練が訪れる。


特に意外と盲点だったのが、子供用の小型ヴァイオリン。ふつうの大人用のヴァイオリンって、子供にとって大きすぎてダメなのだそうだ。


日本で有名なススキメソードも特注の子供用の小型ヴァイオリンも彼らが工場を持って行って特注製造している。


遠く離れたメキシコの地ではたしてどうする?


最初の時は、日本のこのスズキメソードのヴァイオリンを輸入していたらしいですが、その後、1981年、メキシコの通貨ペソが大暴落し、贅沢品の輸入が禁止されてしまった。


絶体絶命!


「日本で使わなくなったヴァイオリンをメキシコの子供たちに寄贈していただけませんか」と週刊誌の掲示板に載せてもらったのを皮切りに、新聞のインタビュー、さらにテレビで話すと、またたく間に百挺ほどが集まった。


運搬にあたっては、日本航空や旅行会社の方が財務省に掛け合ってくださり、「運送費は無料にしてください」「税金をかけないでください」と経緯を話して協力を得た。


メキシコにヴァイオリンが集まると大使館で記者会見を開き、講堂のステージにケースを積み上げて子供たちも演奏を披露、メキシコじゅうに「日本のこどもたちがメキシコのこどもたちにヴァイオリンをプレゼントしました」というニュースが流れた。


こうやってアカデミアは最大の危機を乗り越えたのである。



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アカデミア・ユリコ・クロヌマ



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1985年、アカデミアの生徒とともに日本を訪れ、八々岳で日本の子どもたちと友好音楽合宿を楽しむ。


この1985年の八々岳合宿を機会に、1987年には中国地方や九州、沖縄にも足を延ばし、その後も、1990年、2000年、2005年にもアカデミアの訪日演奏が実現した。


アカデミアの三大目標のうち、日本とメキシコの友好のかけ橋になること。


これがこういう形で実現できたことが、黒沼さんのメキシコ時代の最大の運命共同体、「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」の最大の実績だったのだろう。


そんな感じで三十年以上続けてきたアカデミアを2012年に閉じることになった。


原因は、やはりアカデミアが創立時の学びたい、向学心という緊迫感から、だんだん保育園化していったことだったという。親はこどもをアカデミアにこども預けると、そのまま安心して外出。こどもは自分が弾く順番でないときはゲームをやっているとか、だんだんこどもを預ける保育園のような感じになってしまったこと。


これは緊張感がなくなり、厳しいですね。

長く続けるとどうしてもこういう感じなってしまいますね。


三十年、まさに黒沼ユリ子さんのメキシコ人生での最大の情熱のぶつけるもの、生きがいもこうやって終焉を迎えたのでした。


黒沼さんはメキシコでメキシコのわが家を建てている。
それを本にされている。
さっそく買いました。


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メキシコは日本と違ってすごい広大な土地、やはり家もとてもデラックス、
日本ではこんなすごい家考えられないですね。


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メキシコ風ダイニング。メキシコ料理ふくめ、メキシコでの生活が写真いっぱいに表現されています。


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当時九十歳だったお母さんもメキシコのこの家に呼び、最期もこの家で迎えられたとか。東京の狭い家で一人ぼっちの生活に比べて、メキシコの家で娘ユリ子さん家族といっしょに生活ができてお母さんも幸せだったよう。若いときは散々親に心配をかけたが、最期の最期で親孝行ができてよかったですね。


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メキシコでの生活で、メキシコ人から教わった言葉に


「悪いことは、良いことのためにしかやってこない。」


メキシコの国民的作曲家フランシスコ・ガビロンド・ソレールがインタビューで語っていた言葉。


「人生というものは、初めの四分の三ぐらいによく働いて、いい思い出をたくさん作っておくもの。そして最後の四分の一はその思い出を一つずつゆっくり思い出して楽しむためにある。」


これと


アイ・デ・トード(Hay de todo)


「すべてがあるさ。」(それはメキシコにいるから仕方がない・・・的なニュアンス)


と何かにつけて、メキシコ人はまるで口ぐせのようにいうらしい。


悪いことは、良いことのためしかやってこない。


いい言葉ですね。自分もどちらかというと人生すべてにおいて楽観主義でどうにかなるさ、的な性格で計画的人生というのが苦手。どんなに悪くてもポジティブ・シンキングなので、「アイ・デ・トード」的なスローライフが似合うかもしれません。


黒沼ユリ子さんは、その後、メキシコから日本に帰国し、現在千葉・御宿に住まれています。


2016年、メキシコと17世紀から縁のある千葉県御宿に開設した3階建ての「ヴァイオリンの家・日本メキシコ友好の家」を設立され、両国の友好を謳い、コンサートにスペイン語講座にと、地域の文化交流の場となっている。いまも日本とメキシコのかけ橋となって活躍しているのである。


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こうしてみると、ご本人は好きではない呼ばれ方と思うが、自分はやはり”異色のヴァイオリニスト”は本当に的を得た波乱万丈の人生を表す言葉だと思う。


間違いなく普通の演奏家、音楽家の人生ではないと思う。


黒沼著の「ヴァイオリン、愛はひるまない」の中に、こういう一節がある。


もしも人生という登山道で出会う、いくつもの曲がり角に必ず”道標”が立っていたら、最短距離で目的地に着くことを可能にするかもしれない。だが、それがない現実の中、私たちはひどく遠回りをしたり、時には思わぬ道草を楽しむチャンスに恵まれたりもする。そしてこの「遠回り」や「道草」が長い人生の目標を定めるのに、意外にも重要なことを、近頃の日本では忘れられかけているのではないだろうか。



人生に寄り道、道草って必要ですね。そういうのってそのとき無駄に思えるかもだけれど、絶対その後の人間性熟成に大きく役立ちますね。


そういう下ごしらえがあって、はじめて人生晩年に熟しますね。



自分は黒沼ユリ子というヴァイオリニストを、チェコ・プラハという切り口から捉えていたけれど、こうして人生全体を理解してみると、メキシコでの人生がかなり大きいウエートを占めることもわかった。


でもメキシコ在住の時も、チェコ・プラハは演奏旅行で頻繁に訪問され、やはり音楽家の素を築いた場所。チェコ・プラハに対するその想い入れは誰にも増して大きいだろう。


まさに「プラハの春」時代を生きた生き証人として。


著書「ドヴォルジャーク」は圧巻だった。
素晴らしい黒沼ユリ子の著書の中での金字塔だと思う。


ぜひ、自分はこの著書、そしてこのチェコ人作曲家のドヴォルジャークについて日記で語ってみたいと思う。ドヴォルジャークはひさしく聴いていなかったので、ご無沙汰していたので、まず徹底的に聴き込んで自分のモノにすることが前提です。


この著書「ドヴォルジャーク」を読んでいると、ものすごくドヴォルジャークを聴きたくなってきます。(笑)



黒沼ユリ子さんの著書でどうしてももう一冊紹介しておきたいものがある。



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アジタート・マ・ノン・トロッポ―激しく,しかし,過ぎずに (1978年)




差別の話、民族性について、日本人とは何かなど、各国での演奏活動の経験をもとに当時の社会に斬り込んだ本。音楽月刊誌「音楽の友」に2年間、それを連載中、「音楽家がなぜこんなことを書くのですか?」との投書が編集部に届いたりしたらしいのだが、担当編集者が、「どうぞ、好きなことを書いてください。」と言ってくださり続けることができた特集である。


自分は黒沼著の中でも特に大好きである。


最近の本は、やはりいまどきの現代人にわかりやすいように丁寧で優しい文体で書かれているのだけれど、それはそれでいいのであるが、自分はこの当時の黒沼さんの尖った文体が大好きである。


もうズキズキと心に刺さってくる感じで、かなり尖っている。


自分は最初黒沼さんの著書を読んだとき、これって本当に演奏家、音楽家が書いているの?という感じで驚いた。本当に作家、評論家顔負けなのである。


文章、文体ってやはり表現の美しさだけでは、読者に刺さりませんね。


やはりその内容に説得力がないとダメなんです。そこに心に刺さる真実味、読んでいる者が思わずドキッと、後ろめたいように感じるほどの真実性があるから、刺さってくるんだと思うのです。


それはやはり人生経験ですね。人生長く生きているとそういう深い考えがどうしても身についてくる。


村上春樹さんの小説が素晴らしいというところに、みんなその文体の表現の美しさを上げる人が圧倒的だけれど、自分はそうじゃない、そこじゃないと思うんですよね。


村上小説の真髄は、やはりそのストーリー構築の面白さ、村上流ユーモア(ちょっとブラックのセンスが入っている)に溢れているそのストーリー構成力、そしてテンポ、リズム感にあるんじゃないかな、と思うんです。


だから、それが前提上にあるから表現の美しさがさらに映えてくる。


中身の面白くないものは、いくら美しい文体でも感動しないです。


そういう意味で、黒沼著書には、グサグサと刺さってくるのは、そういう中身に深いもの、説得力があるから感動するんだと思うのです。


ぜひ読んでみてほしいと思います。







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黒沼ユリ子さんの世界 プラハ編 [クラシック演奏家]

チェコやプラハのことを黒沼ユリ子さんのヴァイオリン人生を勉強しながら、学んでいこうと決意。


そのためにはご本人のご著書、そして音源を片っ端から集めて、それを少なくとも2回は読み込んでこの日記を書いている。


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読んでみて思うことは、とても音楽家、演奏家とは思えないほど文章力のある方で、作家、音楽評論家顔負けの筆致なのである。説得力のある文章で読者に強烈なインパクトを与える。


もちろん自身の専門である音楽のことについては当然なのだが、政治や社会情勢、歴史、そのほか文化一般において非常に幅広い知識を持っていらっしゃるので、それがその著書の中に混然一体となって、全体に散りばめられているような感じなので、驚くばかりなのである。


それはご本人が単に音楽の自分史だけに留まりたくはなく、チェコやメキシコなどの歴史、文化に至るまで広い視野で俯瞰した内容にしたかったという意思があると思うのだが、読んでいて本当に自分の素養が抜群に広がったような気がしました。


チェコにしろ、メキシコにしろ、少なくとも自分の人生の中には持っていないものですからね。


そういう意味で新鮮味があって、随分と面白かったです。


黒沼ユリ子さんは、音楽家というよりは、社会文化人というところまで裾野を広げて呼んでもいいのでは、と思います。ご本人は、あまりそういう呼び方をされるのをお好きではないようだが、メディアは”異色のヴァイオリニスト”というキャッチコピーの呼び方をしていて、これは確かに納得がいくような気がします。


いわゆる普通の音楽家、演奏家の人生ではないと思います。人生の2/3以上をチェコ、メキシコという海外にいらして、そこから日本を見つめ、考える。そういう人生だった、と振り返っています。


いまは日本に帰国され、千葉県の御宿に住んでおられます。


本人曰く、


マイナスをいかにプラスに変えるか、私の人生はその連続でした。十代でチェコに留学するときから「赤い国に行くんですか」「鉄のカーテンの中に行くんですか」と言われ、結婚してメキシコに行けば、「あんな闘牛とソンブレロとピストルの国に?」と揶揄されました。でも船出しなければ、嵐にも遭いませんが、それを克服したときの喜びもありません。さまざまな困難を乗り越えられたのも、言葉も年齢も関係なく、共有できる音楽の喜び、多くの人たちの有形無形の援助や励ましによるものです。


すべてへの感謝は伝えきれません。


音楽を上手に奏でられればいい・・・それだけが音楽家の生き方じゃない、と思っています。人間として言うべきことを、音楽家であれ、芸術家の誰もが言っていれば、私が”異色のヴァイオリニスト”じゃなくなるわけです。


これからも自分にできることを、できるところで、できるだけ真剣に、情熱をこめてやっていきたいと思っています。たくさんの人に何かを与えることができる芸術家でありたいですから。



この黒沼さんの自分史の著書ふくめ、ぜひ読んでほしいと思うが、この日記では、この膨大な自分史の中で、私がとても印象的だったところをピックアップして紹介していくような形に。あとで、著書の紹介とリンクを貼っておくので、もっと詳しく知りたい場合は、ぜひ著書を読んでみてください。


尚、日記中で使わせてもらっている写真の一部は黒沼さんのFBから、残りの大半はネットから借用しているものです。


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昭和15年に、東京の日本橋で麦や大豆、雑穀を扱う黒沼商店の四人兄弟の末っ子として生まれる。もちろん戦時中を経験される訳だが、やっぱりお父さんをはじめ、ご家族がクラシック家族だったようで、八歳のときにお父さんがヴァイオリンを買ってきてくれたそうだ。


もちろんとても家の収入に見合うものではなく、ずいぶんお父さんは怒られたようだが、八歳だったユリ子さんは嬉しくて嬉しくて堪らないという感じ。それがヴァイオリンとの出会い。


そんな感じだから、もしユリ子さんがヴァイオリニストへの道を歩まなかったなら、それこそ多くのお金をかけて、親戚中から「ユリ子ちゃんにヴァイオリンなんかやらせて」という陰口もいわれて、プロにならなかったら、親不孝といわれるような大変なプレッシャーな状況だったという。


中学三年のときに桐朋のAオケに入り、演奏旅行にも参加。当時、齋藤秀雄先生に指揮を習っていた小澤征爾さんが、大勢の前で叱られていた時代だそうです。(笑)


その当時コンクールに一位になったら、海外に出るのが当たり前の時代。でも家計の状況からそんな余裕もなく。


そこで新聞に「チェコスロヴァキア政府招待給費留学生募集、音楽家三人、言語学者一人」という募集を見つける。もうひとつの明記に「医療費も補償」とある。


社会主義国で初めて日本からの留学生を募集したのがチェコであった。政府の給費留学生で医療費まで出るなら、ほぼどこでもよかったそうですが、チェコの国というイメージは全くなし。ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲や交響曲「新世界より」が好きだったくらい。


ヨーロッパではチェコは「弦楽器奏者のふるさと」と呼ばれていることも知らなかった。


留学実技試験に無事合格し、すぐ外務省に行ってくださいと言われ、いろいろ手続き。でも渡航費はご自分で用意してください、とのこと。なんと二十五万。いまの五百万くらいだそうです。それも渡航まで一か月間。ずいぶん困ったそうですが、親戚からの工面などいろいろ苦労して、なんとか事なきを得たそうです。



一体プラハで私はどのような先生に巡り合えるのだろうか?とそんな多少の不安と大きな期待を持っていたところ、戦前にプラハにいらしたことのある往年の名ヴァイオリニスト鰐渕賢舟氏を訪ねることがあった。


そこでチェコのことを「弦楽器奏者の故郷」と呼ぶことの意味を知った。


「ヤン・クーベリックという世界的に有名な大ヴァイオリニストがいたでしょう。あの人はチェコ人でしたし、大作曲家のドヴォルジャークもそもそもはヴィオラ奏者としてスタートした人ですよ。ヨーロッパではチェコのことを”弦楽器奏者の故郷”と呼ぶくらいなんです。ベンダ兄弟やシュターミッツなどのマンハイム楽派の頃からチェコの弦楽器奏者は優れていて、つまり弦楽器教育がとても盛んで長い伝統がある。そして弦楽器奏者はみんなから大切にされ、愛され、尊敬されている国ですよ。」



●チェコで人生が一変する。


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プラハ音楽芸術アカデミーに留学。F.ダニエル教授の最後の弟子となる。18歳。


留学してプラハの音楽芸術アカデミーに入り、寮生活が始まる。将来音楽ジャーナリストや音楽に関する職業につく人々にも開かれたコンセルヴァトワールと違い、音楽芸術アカデミーは全員がプロの演奏家を目指す教育機関である。


そこで大変幸運だったのは、そこの音楽学部長フランティシェック・ダニエル先生が、ヴァイオリンの教授だったこと。ダニエル先生はその昔、世界的指揮者ヴァーツラフ・ターリッヒ時代のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターであったり、さらに作曲家アルバン・ベルクのヴァイオリン・コンチェルトのチェコ初演で独奏されたり。


ダニエル先生は190cmくらいあって、お腹こそ出ていませんが、体重150kg前後・・・当時の黒沼さんは150cmでヨーロッパでは13歳か14歳にしか見られなかったようです。


ダニエル先生は週一回のレッスン室とは別に、学部長としてのエレガントなサロンも持っていらして、そこでも時間を探してはレッスンしてくださったそうです。



**********

このときのエピソードで自分が非常に気に入った箇所がある。
それがその後の黒沼さんの人生を決めるうえで大きなトリガーになるようなところだと思う。

**********


ダニエル先生は、当時のダヴィッド・オイストラフとも知り合いで、オイストラフのコンサートに一緒にでかけたときのこと。


ベートーヴェンの協奏曲を聴いた後、ダニエル先生は私を楽屋でひと休み中のオイストラフ氏に紹介してくださった。


「私の日本人の弟子です。」


そしてそれ以後、オイストラフ氏が毎回プラハでのコンサートに来られるたびに、私にレッスンをしてくださるように頼んでくださったのだ。オイストラフ先生のレッスンがなによりも素晴らしかったのは私の目の前で、すぐ隣で、まるでステージ上でのような真剣な生の演奏でいろいろな勉強方法を教えていただけたことだ。


幸か不幸か、それ以前の私の先生方は、実際にヴァイオリンを弾きながら教えてくださる方はほとんどいなかった。理論的に様々な奏法を研究して口で教えていただくのと、実際にその場で弾いてみせて頂くのとは次元が異なる。それまで暗中模索していたような弾き方とか、表現方法が、まるで、”目からウロコが落ちる”ように、体得できたりするのだ。


この体験の重みを知っているからこそ、私はまだ自分が弾けるうちに、歳をとりすぎないうちに、メキシコでの「アカデミア」を開く決意をしたのだった。


それは私はちょうど私が四十歳になった年で、まだまだ演奏活動も内外で忙しくしていた時期。教師と演奏家の両立には、いろいろな犠牲を強いられたり、無理も重なったりしたが、恐れ多くも<オイストラフ先生は立派に両立させていらしたではないか>が常に私の頭の中にあり、生徒たちには教師がまず弾いて、聴かせて、見せて、本人に自分の演奏のどこが、どのようにヘンなのかを気づかせてから説明をすることを、現在も私どもの「アカデミア」のモットーにしている。



***********

ここは自分がすごく大好きな箇所なのである。いまでこそ、音楽家の方々の生徒たちのレッスンって対面式が普通なのでしょうけれど、この時代はとても珍しいことだったんですね。


それ以来オイストラフ氏とのレッスンを受けることができた黒沼さんであったが、オイストラフと言えば、自分はどうしても、黒沼著書”ドヴォルジャーク”の中で忘れられない印象深い記載がある。


自分は誰に対しでもそうだけれど、その人があることに拘りを持つ面がとても好きである。ある意味、一種の尊敬の念を抱く。その人がそれに打ち込む、それって他人からはわからないことかもしれないけれど、そういう面を持っているということがすごく微笑ましいし、嬉しいのである。


それは自分の性格が、”思い込んだら命懸け”というタイプの性格で徹底的に知り尽くさないと、徹底的にやらないと気が済まないという性格に依存するところからなのだろう。


そういう面を持っている人を自分はすごい尊敬するし、自分に近いという親近感を抱くのかもしれない。そういう自分をくすぐる記載の箇所を紹介したいと思う。


黒沼ユリ子さんのドヴォルジャーク伝記の著書に記載されている箇所だ。

長いので申し訳ないが、私の方で意訳させてお伝えする。



************

それが1950何年のことだったのか、あまりはっきりしてはいないのですが、とにかく私が中学か高校の時だったことは確かです。朝八時になるのを待つようにして家をでると、東京の繁華街、原宿へ出かけました。小脇には一冊の楽譜が大切にかかえられていていました。


商店のシャッターはまだぴたりと閉まっており、街全体には、何ともいえない、”眠む気”が満ちているような雰囲気が漂っています。


~まだあいていないかしら?


「いらっしゃいませ。どうぞ、今開けるところですから・・・」


琥珀・純音楽喫茶


人気のない、狭い喫茶店の中には、小さなテーブルと椅子がびっしりと、縦に二列並んでおり、その小さな空間とは、どう比べてみても不釣り合いな、畳一畳分くらいの大きさのスピーカー・ボックスが正面に「でん」とすえられていました。


ここは当時、流行していた音楽喫茶店の中でも「リクエストに応じる」ことで有名だった店のひとつだったのでした。


~あるといいんだけどなあ、この曲。

真っ白い小さなエプロンをしめた女性がやってきた。

「ご注文は、コーヒーとトーストですか?」

と聞く彼女に、わたしは小さな紙きれをわたしたのです。


「あのこのレコードあるでしょうか?」

”ドボルザーク、ヴァイオリン協奏曲、独奏ダヴィッド・オイストラフ”


「ドボルザークのヴァイオリン協奏曲ですか?さあ、ちょっと調べてみます。”新世界”や”チェロ協奏曲”なら
何種類もありますが。」


怪訝そうな表情でそう言って、奥に入ったウエイトレスが、ニコニコしながら再び出てきて、


「ありましたよ。つい最近、入荷したばかりで、まだ、うちのコレクション・リストには載せてありませんでしたけれど。」


と言うのを聞いて、一瞬、わたしは飛び上がりたいほどうれしく思い、次の瞬間、


~さあ、これでこの曲のオーケストラ伴奏のが聴ける。


と思うと、緊張で自分の体が固くなるのを感ぜずにはおれませんでした。


わたしは、ピアノ伴奏の楽譜を大きく開くと、今かと、今かと、スピーカーボックスから音が鳴りだすのを待っていました。そしてついに針がレコードの上にのった「ピシッ」という音が聞こえたかな、と思った二、三秒後に、わたしの背筋が「ぞくっ」としたのです。


オーケストラの全奏によるイ短調の、何かを問いただすようなフォルテの前奏が響き渡りました。(中略:曲の演奏の説明)


~すごい。圧倒的なこの導入部。


伝統的な協奏曲の形式というのは、オーケストラによる長い前奏が第一主題も第二主題も提示してから、やっと独奏者が登場する形なのですが、この自分にとっての未知な曲の冒頭から、このように斬新なスタイルに出会い、わたしは誰かに胸倉をつかまれて、前後に強くゆさぶらたように驚き、感動しました。


~やっぱりオーケストラ伴奏でなくてはだめだわ、と合点しながら。


こうしてわたしは、生まれて初めてドボルザークという作曲家のヴァイオリン協奏曲と対面し、その美しいメロディーと、リズムの楽しさに胸をおどらさせられ、しばらくの間、この曲以外のことは何も考えられないほど、とりつかれてしまったのです。


当時の「十大ヴァイオリン協奏曲」という楽譜のアルバムには入っていなかったドヴォルジャークの協奏曲のことを、どこからどう知ったのか、わたしの手には、高価なピアノ伴奏版の輸入楽譜がありました。


夢中になって聴き終わったわたしの周囲には、いく人かの客が席をしめて、別の曲をリクエストしていたため、初めて聴いたこの曲に興奮していたわたしも、もう一度この曲を続けて聴くことは許されません。ただ夢のように。


~いつか本格的にこの曲に挑戦し練習を積み、ちゃんと弾けるようになりたいなあ。


とこの日に思い始めたのは確かです。


それから、どのくらいの時が流れたでしょうか。


ある日わたしは、新聞の片隅に、特に片隅に、特に何も目立つ様子でもなかった小さな記事を見つけたのです。「チェコスロヴアキア政府より、日本の音楽留学生を招待する旨の連絡が外務省に入り・・・(中略)文部省がその選考を行う。」と。


そして、この小さな記事がわたしの目にとまったことが、その後の自分の人生の歩みを、こうも大きく同級生の仲間たちのものと違うものにするであろうとは、夢想だにせず、ただ単に、


~あの、すてきなヴァイオリン協奏曲の作曲家の国に行けるのなら。


と考え、初めての体験として、その「留学生試験」を試しに受けてみたのでした。



それから三年半の、さまざまな新しい経験を積み上げた時間がたって、今度はプラハ空港から飛び発ったとき、私の手荷物の中には、赤と黒の表紙を付けた二冊の大切なものが入っていました。


黒い方は、堅い表紙付きで製本された、二十枚ほどのタイプで打たれた紙の束で、第一ページにはチェコ語で「ドヴォルジャーク作曲 ヴァイオリン協奏曲・イ短調、作品五十三番の演奏における解釈と諸問題」と書かれてあり、それはわたしの卒業論文でした。


そして、もう一つの、赤い皮表紙の手帳のようなののは、「卒業証書(デイプロム)」です。


この年、わたしはプラハ音楽芸術アカデミーを無事ヴァイオリニストとして首席で卒業していたのです。こうして、わたしの「夢」は「現実」のものとなり、ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲を、わたしが「卒業演奏会」のために選んだことは、申すまでもありません。


************


うぉぉぉ~ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲?


はて、どんな曲だったっけ?(笑)


超ヴァイオリン好き、そしていままでありとあらゆるヴァイオリン協奏曲を実演、オーディオで、聴いてきた自分にとって、ドヴォルジャークのコンチェルトと言われても、お恥ずかしながらピンと来なく、すぐに思い出せませんでした。


これはすぐにCDを買わないと。

しかも独奏はダヴィッド・オイストラフでないといけない。(笑)


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ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲、グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲、
カバレフスキー:ヴァイオリン協奏曲、オイストラフ(vn)コンドラシン、カバレフスキー



1949年録音だ。時期的にこれだろう?

もちろんモノラル音源である。


モノ音源は再生した場合、自分のシステムがピシッとセンターに定位していることを試される非常に怖い音源である。(笑)


普段モノ音源なんてかけないからね。


いい曲でした。聴いたことありました。第3楽章がとてもいいですね。この楽章でピンと来ますね。あっ聴いたことあるって。導入部は確かに普通のコンチェルトと違って、特徴ありますね。


それにしても、自分はこの著書ドヴォルジャークの中でもこの記載が好きで好きで、こういうなにげない体験が人によって、その後の自分の運命を決める瞬間だった、でもそのときは、そんなことなんて本人は知る由もなし。後年に振り返ってそうわかる、という運命の糸の話にすごく感銘します。


人生長く、深く生きていないと体験できませんね。


しかもオーディオマニア的にとってもこのさわりはどうしても引っかかりますよね。たぶんはスピーカーはJBLだったと思います?(笑)



そうやってチェコで研磨を積んでいき、1962年5月、国際音楽祭「プラハの春」に出演。トゥルノフスキー指揮、プラハ市交響楽団でスークの「ファンタジー」を独奏。芸術家の家(現在のルドルフィヌム)のドヴォルジャーク・ホールにて。21歳。


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そして、


「どうぞ、ここにお掛けください」


ほんのなにげない一瞬の出会い、そんな偶然が人生を変えることもありますね。
そのときに出会ったメキシコ人の考古学者と一瞬に恋に落ちて、そのまま結婚。

1960年 プラハで挙式。


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メキシコで新たな人生を送る運命に。


人の人生を他人が語るのは難しいですね。
正確に語ることは無理です。


やはり自分史は、ご本人の著書を読んでいただくに限ります。
ぜひ読んでもらいたいです。



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黒沼ユリ子 ヴァイオリンで世界から学ぶ
 (のこす言葉 KOKORO BOOKLET)




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ヴァイオリン・愛はひるまない―プラハからメキシコへ




1番最初の本が、1番新しい本で最新の近況まで入っているものですね。2番目の本が最初に書いた自分史の本です。


新しい本は、やはりいまの人にわかりやすいように、優しい丁寧な言葉遣いで書かれていて、わかりやすい感じです。普通の人はこちらのほうがいいですかね。


自分はもちろん新しい本も好きですが、2番目の本の方が尖った感じで、心にグサッと刺さる感じでいいです。この日記では紹介できませんでしたが、チェコ時代は、自分の音楽人生だけでなく、当時の社会主義体制のチェコについて語っている部分も印象的です。


チェコ(チェコスロヴァキア)は、亡国民族で長い間オーストリア・ハンガリー帝国に征服されていて、公に自国語チェコ語を話せず、公用語はドイツ語、そういう自分の言語を自由に話せない環境。


我々日本人にはとても想像しがたいことでしょう。


いつぞやチェコ人は、音楽の中に自分達の生きがいを見出し、自分たちの言語や音楽で芝居やオペラが上演される場所をもつことを夢見るようになる。


スメタナの言い残した言葉の中に「チェコ人の生命は音楽の中にあり。」。


そこら辺のチェコ独特の事情についても熱く語っています。

随分勉強になりました。


黒沼ユリ子著「ドヴォルジャーク」はぜひ読んでほしいですね。初心者向けのわかりやすいドヴォルジャーク伝記ですが、これを書くに至って、どれだけ大変なことだったか、自分は読みながらその記載事項、掲載写真の出処は大変だったろうな、と考えながら読んでました。


読んでいるうちに、無性にドヴォルジャークを聴きたくなりました。(笑)


ドヴォルジャークは久しく聴いていないので、もうちょっと音源を聴き込んで完全に自分のものにして、改めて、この著書とドヴォルジャークについて、日記で書いてみたいです。


(チェコ語の発音を日本語で表記することは大変難しいことらしく、より正確なチェコ語の発音に近いとするならば、ドヴォルジャークのルは小文字らしいのですが、それはPCのタイピングで不可能なことのようなので、そこら辺をご承諾ください。黒沼著の本は、きちんとルが小文字になっています。)











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東京音楽大学の代官山キャンパスのカフェ [雑感]

渋谷愛の日記を書いたとき、ブログの読者から中目黒・代官山に東京音楽大学の新キャンパスが去年の2019年4月に新しくできて、そこのカフェや学食レストランがとても素敵だという情報をもらった。


カフェや学食レストランは、一般の方も利用できるのだそうだ。


へぇー、それはぜひ行ってみたいなーと思っていた。


東横線ユーザーからすると、東横線の街に音大ができるなんて、ほんとかなーと思ったがネットで調べてみると本当だ。


なんかうれしいです。


代官山は、東横線きってのお洒落な街の代表的なところですからね。

東京音楽大学は、日本の音大の中でも最古100年の歴史があり、伝統ある音大だ。
自分の周辺も東京音大卒業の音楽家や、教鞭をとられている音楽家の方も多く、馴染みが深い。


池袋キャンパスと代官山キャンパスとの2つのキャンパスがあって、代官山キャンパスは中目黒駅と代官山駅からそれぞれ徒歩約5分という立地のよさに加え、とても豊かな緑の中にあって、芸術性・創造性を育む環境である。


60室以上の練習室、80室以上のレッスン室、大・中・小教室、クリエイティブラボなど、「音」に集中できる優れた環境で、学生たちの学修意欲・創作意欲、また研究意欲を大いに刺激する・・・のだそうである。


東京音楽大学 代官山キャンパス


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東京音楽大学 Tokyo College of Musicで通称TCMというんですね。


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代官山と中目黒のちょうど中間地のところのロケーションにあって、よくこのような都心のど真ん中に音大を建てるだけの敷地を確保できたなーと思っていたが、実際行ってみるとキャンパスの敷地はそんなに広いとは言えず、それなりのコンパクトに収まったキャンパスと言えそうだ。


とにかく新キャンパスということで、とても近代的な建物ですごいお洒落である。音大らしい洗練された感じのキャンパスだと思った。


そして構内の植樹のバランスが素敵で、キャンパスの中をとても緑が映えていて、いい環境だと思いました。とても都内のど真ん中とは思えない自然溢れるキャンパスだと思います。


正門のところに、学生課のある校舎がありますね。


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キャンパスの中心地がこのような近代的な校舎で美しい。


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TCMホール。キャンパスのコンサートホールですね。ここで学生たちが披露演奏会をやるのでしょう。ぜひその演奏会聴いてみたいです。


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今回の目的は、この代官山キャンパスのカフェがとても素敵だという情報で、そこを体験してみたかった。学生だけじゃなくて、一般の方も利用できるという話であったが、やはり学生の中でちょっと浮く感じでいやだなぁとも思ったけれど、もう全然、子供を引き連れた奥さんとか、初老夫婦とか、本当に普通の一般の方がふつうに利用しているので、よかった。


代官山キャンパスにはDEAN & DELUCAがプロデュースしたレストラン(学食)と、DEAN & DELUCAのカフェが併設されていて、学生ではない一般の方も利用可能なのである。


DEAN & DELUCAがプロデュースしたカフェ。


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とにかく広い。120席以上あるので、座れないということはなさそうである。電源&WiFi完備で、音大生がみんなパソコンを持ち込んで勉強している。


内装はやはりとても素敵ですね。


みんな勉強していますね。ここにいる音大生たちは、将来の音楽家の卵たち。将来サントリーホールやミューザ川崎で、その演奏会を聴けることを期待しています。頑張ってください!


天井が剥き出しで、成田空港第3ターミナルを思い出しますね。(笑)


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一番奥には、くつろぎスペースもあるんですね。
ここで寝転がって休んだりというスペースみたいです。


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外のテラスでは学生が勉強していました。


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やっぱり学生っていいですね。自分はずっと何十年も、儲かってなんぼのすれっ辛い社会で働いてきたので、なんかこういう学生の中にいるとホッとするというか、心温まりますよね。


このカフェ内の学生を眺めていると、彼らはとても純真に見える。いま夢と希望を持って、これから社会に飛び込んでいく。世間の厳しさをまだ知ることなく、社会人のように萎縮していなくて、非常になんかのびのびしていますよね。


自分の忘れていた部分を思い出します。


学生といっしょに話したりすると、自分も若返るんでしょうね。

還暦後に音大で音楽の勉強してみたいです。(笑)


ここでは、モカチョコケーキと水出しアイスコーヒーを頼みました。
美味しかったです。


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もうひとつの目的である、これまた同じDEAN & DELUCAがプロデュースした学食レストランも体験したいと思いました。


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ところが残念ながら、いま大学は、新型コロナウィルスのせいか、夏休みのせいか、わかりませんが、お休みなんだそうです。だから学食もやっていませんでした。


ガラス張りの中を覗いてみると、図書館と学食がいっしょになっている広いスペースのように思えました。やっていなくて、誠に残念。


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ちなみにネットから拾ってきた写真によると、学食レストランはこのような感じだそうです。


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オシャレなカフェに美味しい学食レストラン・・・

またチャレンジしたいです。


キャンパス内をプラプラしてみましたが、さすがに大学自体がお休みですので、ガランと人がまったくいませんでしたが、アーティストの卵たちがポートレート用の写真なのか、フォトグラファーと写真を撮っている姿を何人も見かけました。


中にはこんなものを発見。(笑)


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やっぱり学生だな~。(笑)こんなところにそのまま荷物を置いたまま、どこか行っちゃうなんて。のびのびしていますね。微笑ましいです。海外でスリ、置き引きの危険性をいやと味わってきた自分からすると信じられないくらい微笑まし過ぎです。



新型コロナで、大学も閉鎖でオンライン講座の方針で進めていく大学が多いですね。


最近見た記事では、このままオンライン化が進むと、大学キャンパスとか教室とか不要になる、教員も大幅削減の時代が来るような危機を煽る記事を見かけます。一瞬そう感じるかもしれませんが、やっぱり大学生にとって、大学時代の想い出というのは、この美しい大学キャンパスが脳裏に刻まれて、そして仲間とともにいっしょにその瞬間を楽しむ、勉学にいそしむ、生活していくから、それが鮮明な美しい想い出として脳に刻まれて、一生の思い出になるのではないでしょうか?


それは絶対オンラインでは代替えできませんね。


大学生活はキャンパスで過ごすから、美しい想い出として脳裏に刻まれるのです。


自分の大学時代も、人生で一番楽しかった瞬間で、脳裏には鮮明に自然や緑豊かなキャンパスの背景とともに仲間といっしょに過ごした想い出がいっぱい詰まっています。


これはそれぞれの人の大切な宝なのではないでしょうか?

それは絶対オンラインでは実現できませんね。







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棋士のプライド [雑感]

自分は、中原・米長時代の人なので、谷川浩司以降、羽生善治、森内俊之の時代を知らない。


その中で羽生善治さんは、まさに将棋界のすべてのタイトルにおいて、永世位を獲得という前代未聞の大記録を達成して、まさに羽生王国の一時代を築いた。これで国民栄誉賞も獲得しましたね。


いまの将棋界のタイトルは、


名人
竜王
王将
王座
王位
棋聖
棋王


だそうですね。ボクの時代には十段というタイトルがありました。(その代わり、竜王というのがなかった。)


将棋タイトル戦の主催スポンサーは新聞社ですね。


将棋界の場合、この中で最も歴史があり、権威があるのは、名人である。

名人戦の挑戦者になるには、順位戦リーグというのに所属しないといけない。
A級→B級→C級・・・など。


名人以外のタイトルは、たとえばトーナメントやリーグ戦などで実力さえあれば、どんなに若くても挑戦者になってタイトル挑戦できるのだが、名人だけは違う。


これはもう年功序列なのだ。


プロ棋士になって四段からスタートして、一番下のクラスの順位戦で勝って、成績とともに昇級していくわけだ。(だから自然と年齢を食ってしまう。)


名人に挑戦できるのは、A級順位戦、つまり八段以上の資格がないとダメなのだ。つまり棋士の段位と直結しているのが、順位戦なのだ。


将棋の世界で名人が特別の権威なのは、その棋士の段位、この年功序列的なシステムによるところが多い。


サッカーでいうJリーグのJ1,J2と同じで、降級がある。A級順位戦に所属していても、成績が悪ければ、B級→C級とどんどん降級してしまう。名人に挑戦できるのは、A級順位戦の優勝者なのである。


藤井くんは18歳だから、まだ名人位には挑戦できない。
他のタイトルなら可能だろう。


でも最近藤井くんは八段になったらしいから、A級順位戦リーグに昇格ということなのかな?


そして永世位というのは、そのタイトルを通算で5期保持した場合に、その棋士にその称号が与えられる。たとえば永世名人、永世棋聖、永世十段、永世王将、などなど。


名人は特に特別で、実力性名人になってから、世襲制というか木村義雄永世十四世名人、大山康晴永世十五世名人、中原誠永世十六世名人、谷川浩司永世十七世名人、森内俊之永世十八世名人、羽生善治永世十九世名人という感じで最高のステータスとして扱われる。


将棋界は名人位が最高の権威なのである。


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羽生善治棋士は、この将棋界の全七タイトルについて、すべて通算5期以上保持して、この全七タイトルについて、すべて永世位を持っているということだ。


これは将棋を知っている人なら、どんなに凄いことなのか?とにかく愕然とすることなのだ。まさに羽生王国、羽生時代と言っていいだろう。


自分は羽生棋士のこの快挙をニュースで知って、その前から羽生時代は漏れ聞こえてきたので、驚愕したものの、やっぱり記録はどんどん塗り替えられるものだなぁと感心した。


だが、自分が羽生棋士について、もっとも感動させられたことは、もっと違うことだった。


将棋棋士は普通段位で呼称されるが、タイトルホルダーの場合は、そのタイトルの冠で呼ばれる。でも無冠になってしまった場合は、順位戦のクラスに応じて、ふつうの段位の呼称に戻る。


大山康晴、中原誠、米長邦雄とか、過去のタイトルホルダーの常連で一時代を築いた棋士は、無冠になったときの扱いが難しいのである。


大山康晴さんや中原誠さんのように永世名人を含め、常にタイトルホルダー常連だった人が無冠になってA級順位戦に出戻ってしまった場合、彼らを九段と呼べるだろうか?


やはりそこは普通の人間の感性なら、とてもそういう失礼、無礼なことはできない。そこはなにかしらの配慮をするものなのである。


中原誠さんの場合、1994年、当時の肩書きであった「前名人」を失う際、それまでの実績からして「九段」とは呼べないということで、特例で「十六世名人」を現役のうちから襲位させるかどうか話し合いが行われた。


その結果、十六世襲位は見送られたが、代わりに「永世十段」を名乗ることで落ち着いた。


2007年11月17日、永世名人資格を取得して30年が経過したのを機に、また、森内俊之が十八世名人の資格を得たことや引退の期日(規定による)をあと数年に控えていることもあり、理事会が十六世名人襲位を提案し中原さん本人が了承。前倒しで現役のまま襲位した。1993年に無冠となってから、実に14年後のことであった。


大山康晴さんの場合は、十五世名人、米長邦雄さんは永世棋聖である。


やはり一時代を築いてきた棋士には、もし永世位を持っているならば、その名誉を尊重して、九段と呼ばずに、そういう永世位で呼ぶなどの配慮をするものなのだ。


やっぱり将棋の世界って全盛期で本当に活躍できるのは、その棋士人生にとってのほんの一時期。棋士の晩年というのは、A級順位戦からB級順位戦へ降格、さらにC級に降格。・・・そして引退。


実力、勝負の世界だから、本当にそれが厳しい現実。高齢になるほど身の置き方を考えないといけない。


だから自分は棋士の晩年の戦歴は見たくないのである。


どんなに高齢になっても、いかに長い期間A級順位戦やB級順位戦に踏みとどまっていられるか、ということである。


そういう意味でひふみん、加藤一二三さんは、若い時から引退までの長期間踏みとどまっていたという点で本当に素晴らしいのである。


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自分は羽生善治棋士にしこたま驚いたのは、彼がとうとう27年ぶりについに無冠になってしまって、A級順位戦に出戻ってしまったとき、将棋連盟はその輝かしい戦歴を配慮して、永世位で名乗ることを本人に勧めた。なにせ全七タイトルについて、全部永世位を持っているのだから、問題ないだろう。


ところが羽生棋士はそれを断ったのである!!!


羽生善治棋士は、通常通り、羽生善治九段として呼んでほしい。
自分にとってもう一度原点に戻って新たなスタートして、九段位でリスタートしたい。


オレは感動したよ!!!


羽生善治、男だなぁ~!


自分の世代にとって、羽生善治棋士は、どうしても新世代の棋士に思えてしまい、どこか没入できないところがあったのだけれど、この一件で、見直したというか、やっぱりタダモノではない、その大物ぶりにしこたま驚いたのでした。


それ以降自分にとって新世代棋士としては、やはり羽生善治棋士を応援したいと思うようになりました。


自分はこういう男気があるタイプの男が大好きです。


いままで地味だった将棋界を一気にメディアで取り扱われるようになって、明るい話題になったのは、藤井聡太くんのおかげであることは間違いない。


どんどん頑張ってほしい。


でも羽生善治棋士、全盛期が過ぎたなどという心ない戯言などぶっとばして、さらにもう一花咲かせてほしい。








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中原・米長時代 [雑感]

ライバルの存在が実力を伸ばす。


大山vs升田、中原vs米長、谷川vs羽生・・・藤井2冠の“令和の名勝負”に期待。


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1968年、第27期将棋の名人戦で対局する挑戦者の升田幸三九段(左)と大山康晴名人


ただいま藤井聡太2冠で将棋界も大フィーバーだけれど、結構この記事は心にグサッと刺さった。


まさしくそうだよなぁ。


まさに”令和の名勝負”をやる相手ライバルが出てきてほしいと思う。8大タイトルのうち、ほとんどのタイトル戦を藤井×ライバルで占領するみたいな。そしてそれが後世に伝えられるみたいな緊張感、大勝負になる感じになってほしいです。


自分は将棋が大好きだったのは、小学生、中学生、高校生のときで、そのときの将棋界は必ずその世代を一世風靡するライバル同士というものがあった。お互いを切磋琢磨していくそういうライバル関係ですね。


いまの棋士はとても爽やかで穏やかで、人から妬まれたりとか、嫌われたりなんていう世界とは縁遠いスマートな棋士たちばかりに見える。羽生善治さんとか藤井聡太くんとか、本当に爽やか。


こんなことを書くと、また年寄りの昔話、「昔は・・・」ですか?とバカにされそうだけれど、やはり書いておきたい。


将棋界は結構曲者というか、男の意地、プライドの塊のようなクセのある人たちの集まりでタイトル戦となると、その個性がぶつかる緊張感、とても小心者では我慢できないギリギリの線での精神のぶつかり合いのようなところがあった。


男って本当に子供みたいな生き物なんですよね。


要は、自分はここの部分は絶対引けないという線があって、そこの部分でぶつかるともう命がけになる。意地のぶつかり合い。


女性から見るとなんでそんなところにムキになってというような変に思われるところだろうと思う。


男にはそういう引けない一線というのが必ずあります。


将棋の世界って、そういう男のプライドのぶつかり合いというか、とにかく自分が夢中になっていた時代の将棋界の棋士たちは、本当に個性的な棋士ばかりで、自分を個性化するというか、自分のイメージ造りに長けていて、棋士同士の対決は、まさにその個性のぶつかり合いで、真剣勝負。


だから負けるとその屈辱感は自分の個性イメージを傷つけることになる。


だから余計に真剣勝負の度合いが深い。

観戦しているほうが胃がキリキリしてくる感じだった。


自分が、夢中になっていた時代の棋士って、


中原誠
大山康晴
米長邦雄  
二上達也  
加藤一二三 
有吉道夫 
内藤國雄   
大内延介 
桐山清澄 
勝浦修
森安秀光 
森雞二   
青野照市 
田中寅彦 
谷川浩司


このあたりですね。


田中寅彦棋士なんて、昨日テレビで本当に久しぶりに見たけれど、歳とったよなー。(笑)ボクのイメージでは永遠に自分が子供の頃のあの若い青年イメージしか残っていない。


自分は、中原誠名人の大ファンであった。


本当に個性的な怖い方、猛者ばかりの中で、「棋界の太陽」と言われるほど、その人間性、全体の雰囲気に品格があって、それでいて強いというところが自分はなんとも堪らなかった。


自分の時代は中原名人の全盛期だった。


大山康晴15世名人から名人位を奪取し、その後9連覇。通算でも名人位15期。名人位以外にも各タイトルも奪取し、いまでいう四冠王、七冠王とかタイトル独占することをやった走りの人だった。永世16世名人を獲得し、他のタイトルも多くの永世位。


本格派の居飛車党で、「自然流」と称された。原田泰夫さんが名付け親で「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し回し」という意味合いだ。玉の堅さよりも盤面全体の支配を重視する独特の大局観が特徴。また、「桂使いの名手」と言われるほど桂馬の使い方が巧みであり、中原の勝局には桂の好手が現れることが多いと言われていた。


大山戦での「振り飛車破り」、大内戦での「穴熊破り」、内藤戦での「対空中戦法」と、相手の得意戦法を次々と打ち破った。


当時振り飛車が流行し始めたころで、大山15世名人が十八番であった。自分はどうしても振り飛車が好きになれず、居飛車、それも当時は矢倉が正統派の主流戦法とされていた。


中原名人に惚れてしまったのは、とにかく居飛車で、強烈な個性というよりは、あくまで本当に自然流で、相手の得意戦法を次々と打ち破るのがなんとも格好良かった。紳士的で穏やかなその風貌で、自然に勝ってしまうのが、なんとも格好良かった。


バランスが取れていて憧れましたねぇ。


その中原名人が対局しているのを唯一見れるのは、NHK杯だけだったので、中原名人が登場するときは、必ず見ていました。


当時の自分はもちろん居飛車党で、矢倉を相当勉強していました。(あと記憶にあるのでは棒銀戦法とか。穴熊は邪道だと思っていました。(笑))


中原さんは1970~1990年代に活躍した棋士だが、自分が夢中になっていた中原全盛期のときは1970年代の時を見ていたのだと思う。


その中原誠名人の当時の強烈なライバルといえば、大山康晴、米長邦雄、加藤一二三といったところだろう。とくに米長邦雄さんとは永遠のライバルで、まさに昭和時代の中原・米長時代という一時代を築いた。1年間の全タイトルのほとんどを中原・米長で占めることも多かった。


米長さんの言った言葉。「1年のうちで、女房といる時間より中原さんといる時間の方が長い。」との名言は有名だ。自分が将棋に夢中になっていたときは、この中原・米長時代の全盛期だった。


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米長さんは青年期から人間性を「さわやか流」と評され、一方で将棋は「泥沼流」とも言われたが、各界の多くのファンに愛され、棋界随一の人気者だった。


米長邦雄さんが多くのファンに愛されたのは、言動の面白さもあるし、有名な「米長哲学」をはじめ、「兄達は頭が悪いから東大へ行った」の逸話をはじめ、自らの伝説化に長けていたのも大きいだろう。


かなりショーマンシップに溢れていた人で、そういう自分のキャラクター売り込みが上手で、そういう自分が発信するそれらの逸話に将棋の地位を向上させたいという意思を読み取る必要もあるのだが、ともかく何より彼が強く、そして負けても美しかったからではないだろうか。


まじめな中原さんに、ショーマンシップ、リップサービス上手の米長さんという図式。


だから余計にその中原・米長対局の場合は、そういうメディアが好みそうな構図が出来上がって絵になってしまうのだ。絶好の記事になりやすいのだ。


とにかく当時1年中のタイトル戦はほとんど中原・米長という感じだったが、勝率は中原さんの勝ちの方が多かったと記憶している。将棋界や新聞社メディアも、中原・米長時代を堂々と宣伝していたし、それ一色だった。


自分がびっくりしたのは、米長さんが晩年に鳥取砂丘で全裸ヌードになったことだ。(笑)これは衝撃であった。(笑)


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とにかくショーマンシップに溢れる人だった。


中原名人9連覇で、ついに名人位10連覇か!という1982年。自分が忘れもしない高校生3年生。


中原誠名人×加藤一二三十段の第40期名人戦


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いまのみなさんは”ひふみん”ですっかり有名な加藤一二三さんだが、ボクの世代では、とてもいまのキャラが信じられないです。(笑)


すっかりイメチェンに大成功ですね。


加藤さんは、本当に熱血漢で、ちょっと変わっている人という感じなんだけれど、「神武以来の天才」と言われたまさに藤井くんの大先輩だ。


本当に現役時代はすごい人だったのだ。対局中に相手側の背後に回って、将棋盤の対局面を眺めるなど結構寄行が話題になった。(笑)


自分にとって、加藤さんの存在が圧倒的に輝いて見えたときは、中原名人が名人戦九連覇を成し遂げて、この十連覇を成し遂げるか、というときに、当時の加藤一二三十段が挑戦者になり、名人戦史上稀にみる大激戦名勝負を繰り広げ、中原さんの十連覇を阻止したときだった。


名人位といったら、中原さんしかとてもイメージ湧かなくて、九年間もそうだったので、そこに加藤一二三名人誕生になったときは、かなり違和感と悔しかったです。


中原ファンとしては、加藤さんの存在は忘れようにも忘れられない人だったのだ。


みんな”ひふみん”ってアイドル視するけれど、ボクには本当にこの頃のすごいときを知っているから加藤さんなのである。


名人戦というのは、普通七番勝負、先に四勝したほうが勝ちだ。でもこの戦いは持将棋に千日手2回と決着がつかない戦いが3回もあって、全部で十戦も戦ったのだ。名人戦のようなタイトル戦は、普通は旅館などを貸し切ってやるものなのだが、ここまでもつれるとは誰も思わず、旅館の予約が出来ず、最終戦は、ふつうの将棋会館でやる羽目になったのだ。


その最終戦も深夜におよぶ大激戦で、中原さんは自分の負けを先に読み切っていたようだけれど、加藤さんは気づいていないようで、最後に加藤さんが中原さんの玉の詰みを発見した時は、思わず「ひゃあー」という寄声を上げたことは有名な話だ。



この第40期名人戦こそ、じぶんの中でひふみん、加藤一二三が一番輝いていたときである。


あれだけ、中原・米長時代をメディアは唄い続け、中原さんから名人位を奪取したのは、米長さんではなく加藤一二三さんだった。


将棋の神様は米長邦雄を(加藤一二三がそうだったように)一度は名人にすると書いた記者もいた。しかし、例えば、谷川浩司が最年少名人になったとき、芹沢博文の「可哀相だが米長はもう名人になれない。一人ならともかく、二人に抜かれたら、もう抜き返すことは出来ない」という言葉も出たくらいであった。でも結局その後、米長さんは名人位につくことができた。それも宿敵の中原さんから奪取だ。


自分は米長さんのあのサービス精神旺盛のキャラクターが大好きだったのであるが、結構この日記を書くためにググってみると残念な記事にも出会った。



米長さんに近い筋からの記事だ。
読んだとき結構ショックだった。
自分のアイドル偶像が壊される感じで。


長年「小説新潮」で連載していたが、確か1998年のはじめのある回で、将棋の歴史上最強の棋士を十名選出している。現代の棋士では、木村義雄十四世名人、升田幸三実力制第四代名人、大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖、そして羽生善治(当時四冠)を選出している。


米長さんは2012年に亡くなられている。


この「将棋世界」の米長邦雄追悼号はなかなか異様だったという感想が老師を除く三人の口から出た。昭和と平成の棋界を代表し、日本将棋連盟会長のまま鬼籍に入った大棋士なのに、内藤國雄九段の文章がその代表だが、追悼号でそのダークサイドをここまで書かれた棋士は他にいないというので三人は一致した。


追悼号として見ると、羽生善治(当時三冠)をはじめとするタイトルホルダーの面々が寄稿して故人の功績を称えており、格好はついているものの、ライバルとして共に時代を築いた中原誠永世十六世名人は寄稿しておらず、かわりに(と書いてはいけないのだが)林葉直子さんが寄稿している。さらに書くと、米長邦雄門下で出世頭だった先崎学八段(当時)は書いておらず、かわりに(と書いてはやはりいけないのだが)米長の下で連盟理事として働きながら、彼に理事会を放逐された中川大輔八段が、その一件以降師弟は絶縁状態であり、死の床でも和解ができなかったことを書いているのは恐ろしいことである。


それは米長邦雄が、引退後も日本将棋連盟会長として将棋界において強烈な存在だったことのあらわれとも言える。1990年代後半は、中原誠十六世名人のスキャンダルもあり、中原・米長時代を築いた両雄が泥にまみれた形である。中原誠もそれが影響してであろう、気持ちよく勝てなくなり、米長邦雄の数年後には50代前半にしてやはりA級から陥落してしまった。結局、中原も米長も日本将棋連盟会長になるのだが、特に中原誠はそれまで「棋界の太陽」と言われ、名実ともに第一人者として棋界で人望と尊敬を集めていたのがたった二年で連盟会長の座を米長に明け渡すことになったのは、米長の強烈な権力志向もあるだろうが、やはり件のスキャンダルの影響は否定できない。


そして中原誠の後に会長となったのは米長だが、その理事会に前会長の中原が副会長として残ったのも一般の感覚からするとおかしな話で、スムーズな政権禅譲でなかったことが推測される。2016年に中原誠は日本経済新聞の「私の履歴書」を書いているが、ある回で当時について触れており、将棋連盟の理事会でともに働くにあたり米長といくつも衝突があったことを、あのときばかりは「さわやか流」とはいかなかった、といった表現を使っていた。



こんな記事である。(笑)
もう大ショックである。


中原さんのスキャンダルはいまでも覚えている。あれは本当にショックでした。でも人生誰でも失敗触れられたくないこと一杯ありますね。自分なんてそんな触れたくないことばかりです。


将棋の世界って実力、勝負の世界。


当然若い全盛期のときはいいけれど、歳をとってA級順位戦から陥落していくにつれ、老後の身の置き方など考えていかないといけない。


ひふみんのようにアイドル路線でマルチタレントとの道へ進めるのも稀な存在であろう。


中原さんは、解説や将棋促進のほうに進まれていると思うが、脳内出血や癌なども患われており、いったいいまはどのように過ごされているのだろうか?



大山康晴には、升田幸三というライバルがいて死闘を繰り広げた。
中原誠には、米長邦雄というライバルがいて死闘を繰り広げた。


ライバルの存在が実力を伸ばす。

まさにそうだろう。


藤井くんに、そのような永遠のライバル、そういうぴったりの構図が出てくることを期待する。


最後に当時の棋界の対局がいかに怖かったかのもうひとつの自分の思い出。


第36期名人戦七番勝負第1局(1978年3月15、16日)。いきなりの剃髪姿で現れた森雞二八段。対戦相手の中原名人はもとより、周囲の者も唖然としたという。この対局は森雞二八段が快勝した。


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これもよく覚えている。普段パンチパーマだった森八段だが、名人戦で丸坊主で臨んだ。これはちょっと異様な雰囲気でした。自分も絶対忘れられない名人戦です。


これで中原さん負けたら大変なことになっていたけれど、結局4勝2負で無事名人位を死守したのでした。中原名人時代の忘れられない1戦です。


だからこの時代、本当に男と男とのぶつかり合いというか、個性のぶつかり合いで負けられない緊迫感のような怖さがありましたね。


将棋も大学に入ってからスピンアウトしてしまった。だから中原さんや米長さんの晩年も知らないです。でもこの実力の世界、晩年の時代は寂しい限りなのでそれでよかったかもしれない。


中原さんの棋士歴の晩年の履歴をネットで拝見しているとやはり寂しいという気持ちしかわかないですね。中原さんは、引退記者会見のとき、「羽生善治さんとタイトル戦を戦ってみたかった。」と仰っていたそうです。


だから、その後の将棋界、谷川浩司以降、羽生善治、森内俊之の時代をまったく知らない。


羽生大全盛のときは、さすがにニュースで知っていますが、そこから入り込むほどの熱意もいまさらなし。へーという感じで終わってしまう。


そして藤井くんフィーバー。


まだ18歳ということもあって、本当にうぶな感じの性格で、怖い怖い個性派ぞろいの強者どもの時代しか知らない自分からすると、う~ん、やっぱり自分が歳を取ったのか、これがいまなんだよ、という印象です。


こんなことを言っている自分が老害なんでしょう。


藤井くん、ぜひA級順位戦まで昇って、名人位獲得してほしいです。


将棋界のタイトルで最高の名誉は名人位です!










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プラハの春 [クラシック学問]

マーラーフェストのつぎをどうするか?


これは当然考えていたことであり、そのとき、自分の頭の中には漠然とプラハ→ウィーン→リンツ(ブルックナー詣)の3か国を周遊できればいいな、と考えていた。


自分の中でメインテーマとして、プラハが主役であり、プラハの春音楽祭があった。


きっかけは、毎年日本で春になると、すっかり上野の風物詩となっているクラシック音楽祭、「東京・春・音楽祭」が、じつはそのネーミングが、この「プラハの春音楽祭」から持ってきているという由来があるからだ。


プラハの東京版をやりたい。

「東京・春・音楽祭」はそこから来ている。


そのように実行委員長のIIJ鈴木幸一会長がコメントしていた記事を拝見して、これは自分のクラシック人生で避けられない運命として、どうしてもプラハの春音楽祭、プラハは体験しないといけないんだな、と確信めいたものが沸き上がってきた。


東京・春・音楽祭は、まさに自分のクラシック人生とともに歩んできた運命共同体の音楽祭だ。そのルーツとなったプラハも体験しないといけない。


そういうシナリオが自分の頭の中に出来上がったのが、2年前のことであった。じつは随分前からそういう青写真は描いていたんですよね。


やっぱり海外音楽鑑賞旅行の計画を立てる場合、その次をどうするか、は必ず考えますから。でもプラハをどのように自分なりにプロデュースしてテーマとして盛り上げていくか、というのはノーアイデアだった。


自分なりの拘りとして、やはりただ単に行ってきました、体験してきました、観光してきました、で終わるのはどうももの足りない。


自分なりのカラーを打ち出して、そのテーマに則って、盛り上がっていきたいというのが自分のやり方だからである。


プラハは、自分の人生の中で未体験の国で知識もあまりない。いわゆる馴染みのない国だ。だから、プラハのことを勉強しつつ、このプラハをどのように自分なりにプロデュースしていくか、というのが自分の新しいテーマだった。


プラハに対してどう自分なりのカラーを出していくか?


そんな課題を自分の頭の中に抱えながら、なにげなくTVを見ていた時のこと。


去年の2019年1月13日「池上彰の現代史を歩く ~東京五輪の“名花”の激動人生 自由を求めた不屈の闘い プラハの春」という番組が放映されているのを偶然に見た。自分は池上さんのこの番組がかなり大好きで結構見ている。いまの軽薄で面白くない地上波番組の中で、かなり教養があって、骨のある番組ですよね。


この中で、プラハの春、チェコ事件、そしてビロード革命と激動の歴史を歩むチェコスロバキアと、1964年東京五輪で日本国民から“名花”と呼ばれ愛された女子体操金メダリスト、ベラ・チャスラフスカさんの運命を紐づける・・・そのような番組のシナリオの持っていき方であった。

彼女は祖国チェコで激動の渦に巻き込まれる。1968年の「プラハの春」。社会主義体制下で、自由を手にした奇跡の改革運動に身を投じるも、抑え込まれてしまった。しかし、20年後「ビロード革命」とともに華麗なる復活を果たした。


日本、そして世界から注目された「プラハの春」とチャスラフスカさんの激動の生涯が、今の私たちにうったえかけることとは?


自分はプラハをどのようにプロデュースしていくかを考えたときに、この「プラハの春」、そして「チェコ事件」「ビロード革命」は、チェコスロバキアという国を語るにはどうしても避けては通れない、そして絶対に知っておかないといけないし、この歴史についてはどうしても語らないといけないだろう、とそのとき思ったのである。


そしてその番組には、ヴァイオリニストの黒沼ユリ子さんが出演されていた。


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彼女は、1958年にプラハに留学。チェコスロバキア政府招待留学生としてプラハ音楽芸術アカデミーに入学。在学中の1960年、プラハ現代音楽演奏コンクールで第1位。1962年栄誉賞つきディプロマを得て首席で卒業。そして「プラハの春音楽祭」でもデビューしているのだ。


まさにこの「プラハの春」の激動の時代、そのときを、そのチェコスロバキアで過ごした、そしてチェコと日本との懸け橋となって活躍した方である。



プラハの春の後、改革のリーダー・ドプチェク第一書記は解任され、誰とも連絡がつかないように地方に追いやられた。「二千語宣言」に署名していたザトペックは、ウラン鉱山の掃除夫にさせられたという。チェコではソ連よりの政治家が実権を握り、より厳しい支配となった。


黒沼ユリ子さんはその当時の様子を番組内で顧み、


「共産党が「人間の顔をした社会主義」に同調した人、反対した人を分けた、日本で言う踏み絵を行ったのです。自分の周りにも働くために嘘を言って生きていくことを選んだ人もいました。」


と話していた。


自分はこれだ!と閃いた。


黒沼ユリ子さんとは、じつはSNSでつながっており、そのとき、いまで思えば大変失礼ながら、ヴァイオリニストでありながら、どのような活躍をされてきたか、その経歴をよく知らないままでいた。


かなり文章力のある方で、演奏家とは思えないその筆致に本当に驚かされていた。(それはその後、著書を全部拝読させていただいたのだが、作家、音楽評論家顔負けのその博識、力筆ぶりに、ただひたすら驚愕であった。)


SNSでは結構政治的なことも強烈に発信される方で、腐敗しきった安倍政権を一刀両断という投稿も常であった。


でも自分はそのとき黒沼さんのことをよく知らなかった。


ところが、その番組で、そのプラハの春のことを、まさに生き証人として生々しく語るそのお姿を拝見して、


そうか!これだな!


黒沼ユリ子さんを、そのヴァイオリン人生をしっかり勉強することで、チェコ、プラハという国を知る。これはいかにも自分らしいアプローチの仕方、自分のカラーが出せると確信したのだ。そう思ったのが、その池上彰さんの番組を見た2019年1月13日で、自分に誓った瞬間であった。


でも、まずは目先のマーラーフェストのことを頑張ろう。


マーラーフェストで大きな達成感を得たのちに、プラハのことはその後ゆっくり考えようと思っていた。そしてご存じのように、マーラーフェストは残念ながらCOVID-19のパンデミックで開催延期。自分は音楽祭の規模としてスケールダウンする来年のマーラーフェスト2021には行かないことにした。その分の予算をつぎのプラハに充てるほうが前向きだと考えた。


そして大分気持ちも落ち着いてきて、そろそろという心構えになり、黒沼ユリ子さんのご著書を全部、そして音源も限りなく手に入れられるものは全部(アナログLP/CD)集めて、徹底的にそのヴァイオリニスト人生、音楽家人生を勉強していったのである。そして黒沼さんを通してチェコスロバキアという国、歴史を勉強していったのである。


そのことについては、また別途日記にして紹介していこう。


この日記では、そのプラハの春、チェコ事件、ビロード革命で、チェコスロバキアという国の歴史を紹介していきたいと思う。


まず、それがすべてのはじまり、前提だと思う。


チェコスロバキアという国は、このような地理感。


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オーストリア、ポーランド、ドイツなどに囲まれている小さな国であるが、社会主義国家体制のときは、チェコとスロバキアという国が合併してチェコスロバキアという国であったが、ビロード革命の後、チェコ共和国とスロバキアという国にそれぞれ分割していった。これが現状である。



●プラハの春


東西冷戦の時代、チェコスロバキアは、東側にありソ連の支配下にあった。共産党一党独裁体制で、人々は監視されており、密告社会である。反共産主義の人物とみなされると強制労働や処刑などもある。人々の気分は暗く、不満が溜まっていた。なにもかも自由がなかった。


戦時中のわが国と似ている。反戦争とみなされると「非国民」と言われたりした。


ところが、1968年1月のこと、共産党第一書記であるアレクサンデル・ドプチェクが「人間の顔をした社会主義」を掲げ、複数政党制、報道の自由、言論の自由、表現の自由など民主化を推進し、世界が注目した。これを受けてチェコスロヴァキア内の議論はまさに百花斉放を様相を呈し、新たな政党の結成の動き現れ、首都プラハの町にはミニスカートなどの西欧風の諸文化が大量に開花した。


また6月には70人あまりの知識人が署名して「二千語宣言」が発表され、ドプチェク路線を強く支持し、旧来の体制に戻ることに強い反対が表明された。


これら1968年春の一連の自由化の爆発を「プラハの春」と言っている。 


「二千語宣言」の署名者に、東京オリンピックで「オリンピックの名花」とも讃えられた女子体操の女王、チャフラフスカ氏の名前もあった。


この「プラハの春」、46歳のドプチェクが、そのリーダーである。


黒沼ユリ子さんは、その時プラハに滞在していて、番組でつぎのように話す。


「以前は、反共産主義の話をしたら、チェックされる社会であった。「プラハの春」が始まると、1968年の5月1日のメーデーでの行進は、自由な行事となり、以前のようなプログラムがなかった。なにをしゃべってもいい。プラハの音楽祭の楽曲選びが自由となった。」


以前とは異なる明るい社会となった。西側諸国への旅行も自由化された。抑圧された密告社会の社会主義国家体制の中で暗い気持ちで生活していた市民にとって、「人間の顔をした社会主義」すなわち「プラハの春」は、一気に春の後光が差してきた明るい夜明けになるはずであった。


しかしながらそんな「プラハの春」は半年で終わることになる。



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「プラハの春」。抑圧された暗い生活の中で束の間の光が差し込み、ジャズクラブで踊る学生



●チェコ事件


しかし、そんな「プラハの春」も長くは続かなかった。夏になると8月20日にソ連のブレジネフ政権は、ワルシャワ条約機構5か国軍15万を国境を越えて侵攻させて軍事弾圧に踏み切り、市民の抗議の嵐の中をプラハの中心部を制圧、ドプチェクらを連行してしまったのだ。


このチェコ事件によってプラハの春は踏みにじられてしまった。


改革が盛りあがりを見せるなかで、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻し、軍事占拠したこの出来事を「チェコ事件」という。


この介入を正当化するために用いられたのが、「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれるもの。「制限主権論」と訳すことができ、「社会主義国家のひとつが危機に陥ることは、社会主義ブロック全体が危機に陥るということ。そのため他の社会主義国家は無関心でいることはできず、全体の利益を守るために一国の主権を乗り越えることができる」という考え方。


スターリンやフルシチョフの時代を通して、ソ連の一貫した対東欧政策あった。


首都プラハの中枢部を占拠してドプチェク第一書記、チェルニーク首相ら改革派を逮捕、ウクライナのKGB(国家保安委員会)監獄に連行した。


全土で抗議の市民集会が開かれ、またソ連の実力行使は世界的な批判を浴びた。


スボボダ大統領は執拗にドプチェクらの釈放を要求、ソ連は釈放は認めたが、ソ連軍などの撤退は拒否した。



軍事侵攻したソ連兵に話しかけるプラハ市民
抗議するプラハ市民


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●ビロード革命


まさに20世紀の冷戦下、大国の間でゆれ動いたチェコ。ドプチェク政権による「プラハの春」を経験したものの、その後のソ連軍の侵攻で、市民の自由を認めない共産主義独裁政権が長く続き、人々は秘密警察による恐怖政治の支配の中を生きた。


60年代にみられた官僚主義の体制の中での経済停滞と、言論抑圧の中での、国民の無気力、無関心が蔓延するようになる。1977年にはハヴェルらの知識人が「憲章77」を発表したが、直ちに弾圧され、民主化は進まなかった。


1989年10月29日には約1万による集会がプラハで開かれ、人々は改革に動こうとしない共産党ヤケシュ政権打倒を叫んだ。11月に入り、ベルリンの壁の開放の報が届くと市民・学生の活動は活発となり、11月19日に「憲章77」のハヴェルらが中心となり「市民フォーラム」を結成、政府に対して共産党指導部の辞任、全政治犯の釈放などを要求した。連日30万規模のデモがプラハやブラチスラヴァで繰り広げられ、ついに24日ヤケシュ書記長以下共産党幹部が辞任、12月にはフサークが大統領を辞任し、代わってドプチェクが連邦議会議長、ハヴェルが大統領に選ばれた。


こうして大衆行動によって流血の惨事を経験することなく無血で共産党政権の打倒と民主化を実現したチェコスロバキアの変革は「ビロード革命」と言われている。



1968年のプラハの春から20年経って、1989年のビロード革命にて、チェコスロバキアは民主主義を取り戻したのである。



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1989年11月25日、約100万人の人々がレトナーに集まった。


ビロード革命は共産党による長い抑圧的な支配を終わらせ、チェコスロバキアを民主主義への道に導いた。


メディア、言論、旅行への制限が解除され、他国へ移住した多くの人々も家に戻ることができるようになった。新しい民主政権は国の法律を自由化し、開かれた自由な社会を作り上げた。 そしてその後すぐ、チェコスロバキアは今日知られているように、平和的にチェコ共和国とスロバキアに分割されることになった。


日本のように植民地になった経験のない国で育った自分が、はたしてチェコのような運命を辿った市民の方々の気持ちがわかるのか?


代弁できるのか?


真の意味で語れる資格があるのか?


このチェコの辿ってきた歴史を理解してみると、つくづくそういう想いがする。


そういう我々日本人では想像もできない辛い歴史的背景をチェコ人が背負っているもののひとつとして、黒沼ユリ子さんは、音楽誌「音楽の友」に2年間投稿した記事をまとめた本「アジタート・マ・ノン・トロッポ」の中で書かれたことで、とても印象的であった箇所を抜粋して紹介しておこう。



どの民族にとっても、自分たちの文化遺産の最大のものはなにかと考えるとき、それは「言語」であると私は言いたい。ちなみにこの数世紀間だけの歴史を振り返ってみても、他民族に従属させられた被抑圧民族が起こした果敢な闘いの原動力となったもののひとつは、自分の言語(つまり母親から習った言葉)を公に使えない悲劇的状況を乗り越えることへの熱望であったのではないだろうか、と私は思う。


例えば遠くは、数世紀に渡って亡国民族であったチェコ人に、チェコ語で自らの持つ伝説や歴史、村の出来事などを歌芝居にして上演したいという願いがあったからこそ、スメタナのオペラが生まれ、また国民劇場が、みなからの「塵も積もれば山となる」式の寄付金によって建てられたのであろう。


それによって音楽が媒体の一部ともなって民族内部に強い連帯感が生まれ、それも大きな役割を果たしたであろう結果が、世界の歴史的状況と結びついて1918年にチェコスロバキアという独立国が地球上に誕生する可能性を生み出した・・・と言えるのではないだろうか。



長い間、異民族の支配下で抑圧されている民族が、音楽に祖国の独立の希望と夢を託して現状の苦しみを慰めるということは、歴史上どこでも繰り返されていることだからだ。チェコ人には次のようなエピソードが、これを裏付けるもののひとつとして残っている。


それはチェコ人が自民族復活への熱望のシンボルを「国民劇場を持つ」ということに集約していたという事実だ。


つまり自分の言語と音楽で芝居やオペラが上演される場所を持つということ。




プラハ、プラハの春音楽祭というと、ついつい市民会館(スメタナホール)とかドヴォルザーク・ホールとか有名だが、自分はぜひチェコ人の最初の意思表明であったこのプラハの国民劇場をぜひ訪れてみたい。


コロナ禍でいつ海外旅行が再開できるかもわからないし、海外でコンサート、オペラが普通に再開できるようになるのかも、はたしていつになることやら。自分もそのときまでに予算的に大丈夫なのかもわからないが、毎日紋々と無意味に過ごすよりは、前向きに勉強しながら過ごしているほうが精神の充実度は違うと思い、この日記を書いた。


まぁこの先どうなるかわかりませんね。



序章、プロローグとしてはこのような感じでいかがであろうか?











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東京ラーメンの元祖 [グルメ]

いまのラーメンというのは、そのスープ味、醤油味、味噌味、塩味、そのほかいろいろなスープのバラエティがあって、そこがその店のオリジナリティを出せるところ、いわゆるお客さんがついついもう一回通いたくなるというようなそういう病みつきになる隠し味の切り札的存在の部分なのだと思う。


でもラーメンの本当の原型、元祖というのは東京ラーメンですね。


東京ラーメンとは、「醤油ラーメン」の代表であり、ラーメンの原型である。多くの場合、和風だし、醤油タレ、中細縮れ中華麺が使用される。


1910年(明治43年)当時流行の発信基地で繁華街であった浅草の「来々軒」が草分けだとされる事が多い。現在のラーメンの基本を作り上げ、醤油ラーメンの発祥となり、チャーシュー(叉焼)とメンマ(支那竹)を初めて載せたともされている。


この明治43年の「来々軒」は、tackさん情報によると今秋に新横浜ラーメン博物館で、その明治43年の「来々軒」を復元するという。


ぜひ通ってレポートしたいと思う。
楽しみにしていてください。


繊細な味を守り続ける店も多く、新規店でもこの東京ラーメンを追い求める店もある。ご当地ラーメンブームの中で、強い脂や辛さを押し出す新種のラーメンとは対をなし、流行を追いかけることなく「ラーメンの定番」として、昔からその人気は不変である。


この東京ラーメンとして、その同業種ラーメンとして「八王子ラーメン」、「荻窪ラーメン」、「恵比寿ラーメン」なども挙げられる。


TV番組を見ていて、偶然その東京ラーメンの元祖と言われるお店を食レポしている番組があって、これはぜひ行ってみようと思っていた。


それが荻窪の春木家さん。


あとで、説明するが、”春木屋”と”春木家”の2軒あり、お互い遠戚に当たるそうだ。

昭和6年創業のいわゆる東京ラーメンの元祖と自負しているのが、”春木家”さんのほうだ。東京ラーメンを初めて出した、もっとも古いお店です、と宣伝している。TV番組でもそう言っていた。


明治43年の「来々軒」が一番東京ラーメンの元祖だと思うのだが、いま”現存するお店の中で”東京ラーメンの元祖という意味で春木家さんがそう宣伝しているのだと思う。


「来々軒」はまだ復元されておらず、存在しませんから。


春木家さんは荻窪ラーメン。


荻窪ラーメンは、東京ラーメンの一種で、JR中央線荻窪駅周辺のラーメン店で提供されているラーメンである。蕎麦屋からの転業が多かったため、スープは、鰹節や煮干しといった魚介系スープが基本の和風で、濃口醤油を使用した濃い色のスープが特徴である。鶏ガラや豚骨といった動物系スープを合わせる店もある。麺は、中細麺を使う店が多い。 


戦後、荻窪駅北口には闇市ができ、駅近くに数軒のラーメン屋が並んだ。後にこれらの店は青梅街道沿いに店舗を出すようになっていく。


荻窪を中心とする中央線沿線には、昭和初期から作家文人が多く住み、彼らのいきつけの店などがたびたび随筆に書かれて知られていた。これらのラーメン店にも文化人のファンが多く、すでに1960-70年代には「春木屋」が映画監督の山本嘉次郎のグルメ本で紹介される等、荻窪ラーメンは比較的早くから一部では有名な存在であった。


1985年に公開された伊丹十三監督の映画「タンポポ」は、「佐久信」をモデルに制作された。


荻窪ラーメンが全国的に知られるようになったのは、バブル期のグルメブームの裾野に巻き起こった全国的なラーメンブームで、テレビや雑誌等のメディアを通じてたびたび紹介されたことが大きい。


・・・だそうである。


伊丹十三のタンポポ、なつかしいなー。夢中になって見ていましたよ。


もう一方の春木屋さんも、 1960-70年代に、映画監督の山本嘉次郎のグルメ本で紹介される等で有名だったんですね。


そこで、まだ世の中に明治43年の「来々軒」が存在しない現在、東京ラーメンの元祖というべき、「春木屋」、「春木家」を昨日体験してきた。


荻窪駅北口を出て、徒歩10分くらい。荻窪駅北口近辺と言っていいだろう。



●春木屋


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昭和24年創業。店舗は本当に狭い。東京ラーメンの元祖ということを体験したかったので、余計なトッピングがいっさいない中華そばを注文。


まさに東京ラーメンというべき、醤油味、チャーシュー、シナチク、のり、のシンプル・イズ・ザ・ベスト。麺は中細の縮れ麺でした。


これぞまさしく東京ラーメン。


食べてみたら、本当に懐かしい。これぞラーメンの基本というような味がした。
こういうシンプルなラーメンを食べるなんて、いつ以来だろう。


昔、子供の頃、母親がよく出前のラーメンをとってくれて、その小さな子供のときに食べたそのラーメンの味、というかそういう懐かしい味がする。


醤油のスープが少し脂を入れて香ばしい感じにしているのが特徴ですね。

美味しかったです。



●春木家


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TV番組でレポしていたのはこちらのお店。こちらは昭和6年創業。春木屋さんとは遠戚にあたるそうだが、修行先とか、具材の仕入れ先とかまったくお互い別で、全然違う店と言っていいと女性店員さんが言っていた。


こちらこそ、昭和6年創業であるから、現存するお店で最古の東京ラーメンの元祖である、ということだそうである。



こちらも余計なトッピングいっさいなしの中華そばを注文。
まさに東京ラーメンの元祖という感じで、シンプル・イズ・ザ・ベスト。
でも春木屋さんのラーメンとは全然違う。


こちらは醤油スープに油を使わず、非常にあっさりとした上品なスープである。ダシはにぼしでとっていると思われ、そのにぼしの味がかなりはっきりと分かる。


麺は細麺のストレート麺。


ラーメン自体が上品で品格がある。
女性向け、女性にとても人気が出そうな感じがする。
それだけの気品さがありますね。

非常にさっぱりしていて、美味しかった。


こちら春木家さんのラーメンが現存する最古の東京ラーメン。
昭和6年創業の東京ラーメンである。


では、正真正銘の日本最古の東京ラーメン、いや東京という冠がつかない、正真正銘での日本初のラーメン、明治43年の「来々軒」は今年の秋にラー博でお目にかかるとしましょう。


そのときはまたレポします。

お楽しみに!










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さようなら、渋谷「本家しぶそば」! [グルメ]

渋谷という街は、若者だらけで、いつも混雑していて、なんとなく汚いという理由で嫌う大人の方が多い。その気持ちはよくわかる。銀座、赤坂、六本木とか表参道とか、いわゆるもう少し洗練された大人の素敵な街は東京には多いですね。


でも自分は渋谷が大好きである。


というか、自分の甘酸っぱい青春がいっぱい詰まっている街で、忘れたくても忘れられないキーになる街なのである。


前職のオフィスが五反田、大崎、品川にあったので、必然と山手線を使うわけだが、住んでいる住居からの路線との乗り換え駅が必ず渋谷になるので、どうしても避けては通れない街なのである。


いまはオフィスは東京の反対方向になってしまったので、都内に出ることも少なくなったが、それでもビフォー・コロナの時代は夜にクラシック・コンサートに行くときは、必ず渋谷にいったん出る。


だから自分のキーステーションなのだ。


首都圏の中で自分が一番シンパシーを感じるのは渋谷かもしれない。


渋谷といえば渋谷スクランブル交差点。


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我々住んでいる人間にとって、なんの変哲もないこの光景が、じつは外国人観光客のNo.1の人気スポットである、ということを知っていましたか?


自分は数年前に知ったのだけれど、へぇ~面白いなーと思いました。
なんで、こんなところを面白がるのかな?とも。


逆を言えば、我々が外国旅行に行ったときに現地人にここに行きたいー!と懇願すると、同じことを思われるのかもしれませんね。


なぜ、外国人観光客に渋谷スクランブル交差点がNo.1人気なのか?


実は外国人にとって、あれだけの大勢の人々が四方八方に歩いているにもかかわらず、体を接触することなく信号が赤に変わるまでにスムーズに行き交う光景は、とても不思議なのだそうだ。(笑)


あの光景の中に自分も入って体験してみたい!と思うのだそうである。


この交差点が外国人にとっての一大観光スポットになっていて、カメラを構えている外国人の姿を確かにとても多くみかける。


日本を訪れた外国人観光客のうち、なんと約4割が渋谷のスクランブル交差点を訪れるといわれている。数字的に見ても、渋谷のスクランブル交差点を渡る人々は、1回の青信号が瞬く間になんと3000人におよぶといわれていて、もちろん時間帯によって数は変わるが、3000人収容のイベントホールなどを連想すると、それがかなりの規模であることがわかる。


しかも、それだけの人が一斉に動いているわけだから、見慣れた日本人にとっては驚きの光景ではないにしろ、外国人にとってはアメイジング!ということになるのだろう。(爆笑)


そして、1日に換算すると渋谷のスクランブル交差点を行き交う人の数は、30万~50万人になるのだそう。そんな巨大な交差点を誰に頼るでもなく、ぶつからず、交差点を渡り歩くことができるのは日本人ならではの「譲り合いの精神」に基づく「高等テクニック」と思われているらしいのだ。(笑)


ここまで多くの人々が軽やかかつスムーズにスクランブル交差点を渡りきることができるわけだから、日本がスクランブル交差点を生み出したと思っても不思議ではあるまい。


ところが、スクランブル交差点を初めて生み出したのは「カナダ」「アメリカ」なのである。


しかし、まさかカナダ人やアメリカ人も、ここまで巨大な交差点ができるとは思ってもみなかったというのが本当のところのようだ。(笑)


まさかの元祖超えというところであろうか?


上の写真は、今日自分が撮影してきた写真だけれど、この交差点をもっと楽しむ方法があるらしい。


失敗した。


このネット記事を外出前に読んでおけば、自分の撮影ができたのだが・・・。


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外国人観光客を案内する機会があったら、おすすめしたいスポットがある。
それは渋谷駅と渋谷マークシティをつなぐ「連絡通路」。


人々が行き交う全体像を撮るには、高い位置から撮影するのがおすすめであるが、マークシティをつなぐ連絡通路なら、俯瞰的に撮影できるはず! 何より、通行者の邪魔にもならず安全を確保できる。


また、外国人観光客が楽しみにしているのが「雨」の日らしい。その理由は、高い位置から見ると交差点上に色とりどりの傘の花が開き、さらに迫力のある風景が撮れるから。


せっかくの観光地めぐりが雨だと残念がるケースも多いが、スクランブル交差点にいたっては特別のようである。


スクランブル交差点を熱心に撮影している外国人の多くが、混雑している場所でも秩序を保って動くことができることに、とても感心するという。


私たちは普段あまり意識していないことかもしれないが、日本人として大事にしたい風習でもある。


情報・写真引用元:なぜ、渋谷スクランブル交差点は外国人に人気?





渋谷といえば、自分の世代は、なんといってもHMV渋谷。


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当時の渋谷の文化カルチャー発信の地であった「HMV渋谷」。


いままでの自分のオーディオライフを語る上で、このHMV渋谷の存在はとてつもなく大きかった。自分の青春はすべてここに詰め込まれていた。


忘れたくても忘れられない。


とにかく長時間入り浸っている訳で、いろいろ物色していろいろなCDを発見するのが楽しかった。そのときの給料の大半をCD購入につぎ込んでいたかもしれない。あまりに長時間入り浸っているので、終いには、店員さんから「あのぉぉ、もしお買いにならないのであれば.....」とか言われる始末であった。(笑)


いまでこそフィジカルCDをネットで購入するということは、当たり前の行為だけれど、それを当時1990年代ではじめて体験したのがHMVのオンラインショップだった。あのピンクのロゴがHMVらしくていいですね。


画期的で超驚いた。ネットでCDが買えるとは!EC(E-Commerce)の始まりって興奮していた。


そんなHMV渋谷も閉店して、渋谷モディとして再出発したけれど、もう時代のせいか、あの頃のような旗艦型CDショップではなく、なんとなくなんでもありのインテリアショップのような佇まいである。


いまはもうネットの時代だから、CDショップ自体衰退の感じだけれど、いまCDショップと言えば断然タワレコでしょう。


先日タワレコ渋谷店に入ったけれど、素晴らしい規模に驚き。自分は年寄りだから、あのようにCDがいっぱい棚にディプレイされているとすごい興奮します。あの頃はいい時代だったなーという感じで。


やっぱりあ-じゃないと物欲を刺激しませんよね。


でもいまCDをネットで買うときはどうしてもやっぱりHMVなんですよね。GUIというのはやっぱり慣れというのがあって、自分はHMVのUIが一番自分に馴染んでいて、どうしてもHMVで買ってしまう。


HMV、細々とだろうけれど、これからも頑張ってほしいです。


HMV渋谷といえば、あそこにサテライトスタジオというのが設置されているのも特徴だった。当時就職浪人していた2006年当時、J-WaveでGROOVELINE(ピストン西沢&秀島史香)という番組をよく聴いていた。


午後4時半~午後8時の番組で、そのとき毎日いつも思ったのは、「オレはみんながオフィスで働いているこんな時間帯にラジオ聴いていていいのだろうか?」ということだった。(笑)


毎日、いつもこの想いに悩まされていた。就職浪人も精神的につらいもんなんです。


このGROOVELINEはじつはこのHMV渋谷のサテライトスタジオで公開生放送をしていたのだ。そのスタジオはガラス張りでその収録模様を誰もが見れるようになっている仕掛け。


ピストンさんのあのアクロバティックなDJの皿回しプレイ(MIX MACHINE)をぜひ直に見てみたくて、よくこのHMV渋谷のサテライトスタジオに見に行ったもんでした。あの次々と全然タイプの違う曲をつなげていくあの神業、どうやっているんだろう?


じかに拝見した時はそりゃ驚きでした。


番組は、清純な秀島さんをピストンさんがイジるという進行で本当に楽しかったです。


もう聴かなくなって久しいけれど、まだピストンさん1人でやっているみたい。久しぶりにradikoで聴いてみようか?


HMV渋谷は、本当に自分の青春のシンボルでした。



渋谷といえばオーチャードホールも自分にとって馴染み深い。


最近でこそ、クラシックのコンサートで行くことが大半なのだけれど、自分が渋谷オーチャードホールでのコンサートというと、どうしてもジャズシンガーの綾戸智絵さんのコンサートが圧倒的な想い出。(最近は改名されていて、綾戸智恵さん。絵→恵への改名ですね。)


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ジャズシンガーの実演の経験は、ケイコ・リーさんとakikoさんが2本柱で、それこそ有名なライブ・レストランを次々と梯子して制覇し、さらに数年にわたって、湯水のようにお金をつぎ込んでいた時代。


そんな中で綾戸智絵さんのコンサートは、なぜかこの渋谷オーチャードホールが圧倒的な回数で、ここ以外に記憶がない。かなりの回数、綾戸さんのコンサートに足を運びました。


あのちょっとしわがれ声に独特の味があって、それでジャスのスタンダードナンバーを歌うと非常に個性があって自分はかなり大ファンでした。演歌でいうところのこぶしのような持ち味があって、一種独特の綾戸節は相当魅力的。


コンサートには必ずMCが入るのですが、あのようにとても明るくて人を笑わせるのが得意な方なので、コンサートは常に笑いに包まれている明るい進行。カッコいい路線とはちょっと違いますね。人間の温かみを感じるジャスコンサートという感じでしょうか?


歌、そしてMCと合わせて、最高のショー&エンターテイメントではなかったか、と思います。


ケイコ・リーさんやakikoさんとはまたちょっと違うタイプのジャズシンガーで、それを自分の中のライブラリーとして楽しんでいたところがあります。


結構、これで、ジャズシンガー綾戸智絵に嵌ってしまい、かなりCDを買いまくりました。(当時はSACDでも出してくれました。)綾戸さんはその後、お母さんの介護で一時期引退という感じでしたが、最近はどうなのでしょう?そのお母さん介護のときまではフォローして近況を知っていたのですが。。。


また復活されコンサートを開催されるようでしたら、ぜひまた通ってみたいです。



渋谷といえばNHKも絶対忘れることができないだろう。


ゴローさんとの出会いで、NHKが急に身近な存在になり、それまで以上にN響のコンサートに通うようになった。NHKホール通いましたよー。人々は音響うんたら、いいますが、いいじゃないですか、あのホールで自分は数知れないクラシック体験をしましたから。


N響定期公演でゴローさんとたびたび待ち合わせしたこともいい想い出です。ソリストがリサさまで、それがリサさま初体験でその後体験していないです。いまでこそ、リサさまは大アーティストですが、その頃は、まだこれからで、ゴローさんは、リサ・バティアシュヴィリは今後必ず来るアーティストだよ。絶対マークしとくんだよ、と熱く語ってくれた。N響のコンサートには、それこそいろいろなソリスト、N響の公演を体験できて、いい想い出。


また復活したいです。


渋谷駅からNHKホールに行く道順が懐かしいです。またあの道順を歩きたい。
コロナなんてどこかいっちまえ。



以上書いてきただけでは、とても収まりきらない、まだまだ書き足りない想い出がいっぱいある渋谷。


渋谷LOVEである。


そんな大切な想い出たちとけっして一歩も後を譲らないだけの価値がある想い出が、渋谷駅にある駅そば処の「本家しぶそば」。


延々、渋谷愛を書き続けてきましたが、結局この日記で書きたかったことは、この「本家しぶそば」のことだったのでした。(笑)


いままでのは序章にすぎません。


東横線を降りてきて、JR線改札のところをすぎて階段を下りて行ったところに渋谷の駅そば処「本家しぶそば」がある。


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ここがついに駅周辺再開発の理由により40年の歴史に幕を降ろすという。


OH MY GOD !


TwitterなどのSNSからみんな悲鳴の嵐が上がっていた。
みんな渋谷駅といえば、ここの駅そばなんだよね。


誰もが知っている、そして誰もがそこにあって当たり前のずっとやっていたお店。


自分が就職で上京した1987年から現在の33年間、ずっと渋谷駅のそこにあり続けた駅そば屋さん。もう数えきれないくらいお世話になりました。


なにせ、前職の通勤経路で渋谷は乗り換え駅なので、もうしょっちゅう小腹がすいたら、ふいっと寄るその気軽さ。上につらつらと書いてきた想い出イヴェントが終わった後、東横線で帰る前に、このそば屋さんでちょっとの腹ごしらえ。


そんな「本家しぶそば」が閉店してしまう。
悲しすぎるー。


そういうことで、今日ちょっとお別れに最後の晩餐会をやってきました。


閉店のお知らせ


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メニューは不動の黄金メニュー


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この「本家しぶそば」の隣には、昔旅行会社JTBが入っていたんですよね。
自分はいつもここのJTBで北海道の帰省のチケットを買っていたのでした。


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それがいまや東急フードショーへの入り口みたいな通路になっていました。まぁ、JTBがあったころは相当昔の話だからね。もうその頃から「本家しぶそば」がそこにあったということです。


じつにひさしぶりの店内。


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ここはこのご時世に自動販売機というのがない。
レジで食券を買う。するとレジの店員さんがマイクで調理場にメニューを伝言。

そうすると自分の席に着くや否や即座に着丼。
驚くべき速さである。これがここの売りなのである。


海老天そばをいただく。


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あっさりと瞬殺で終わってしまう。
最後の晩餐にしてはあっけなく。
でも美味しゅうございました。


40年間ほんとうにご苦労様でした。


また都市開発後の計画で再会できたらうれしゅうございます。

そんな溢れんばかりの渋谷愛を抱きつつ、最後の一杯を味わってきました。


ご馳走様でした。











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ムーミンバレーパーク [雑感]

自分のHN(Handle Name)であるノンノンは、このムーミンから来ている。


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ムーミンの彼女のことをノンノンと言った。
これは自分の小学生のときのあだ名だった。
本名の性の名前からノンノンとみんなから言われていた。


SNSをやるときにHNをどうしようか悩んだが、この小学生のときのあだ名ノンノンにすることにしたのだ。


ただ、ノンノンというのは、これは自分が小学生のときの名前で、その後いろいろ経過を得て、フローレンになったり、いまはスノークのお嬢さんというのだそうだ。


時代を感じますね。自分が小学生のときは、間違いなくムーミンの彼女は絶対ノンノンだった。ノンノンからフローレンに改名した理由は、ノンノンというのは、non-nonということで否定語が2つ続くのはよくないという理由だからだった。


そんな2018年のある日のこと、自分の通勤路で、会社からの帰路、東横線の乗り換え駅で19:30頃に自分の前を必ず通ってその駅に停車する電車があるのだ。


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それがこの飯能行きの電車。


自分が階段から降りてきてホームに降り立つときに、もう毎日、毎回と言っていいほどそのタイミングで、必ずこの飯能行き電車が入ってきて停まるのだ。


飯能なんて珍しい名前でどこにある街なのだろう?くらいだったが、とにかく、毎日、毎時間決まった時間に必ず自分の目の前に遭遇する電車なので、否が応でも脳裏に刻み込まれてしまった。


そんな現象が起き始めてから、1か月後のこと、埼玉県飯能市にムーミンバレーパークが2019年の春にグランドオープンするというニュースが飛び込んできた!


そういうことだったのか!(笑)


飯能のムーミンバレーパークがオレを呼んでいるんだな、とすぐにピンと来て、これはぜひ行かねばなるまい、と決意を新たにした。


なかなか行く機会を捉えることができず、結局1年も経ってしまったが、一昨日2020年8月9日、この日はムーミンの原作者、トーベ・ヤンソンの誕生日にあたり、この日をムーミンの日としており、16回目、75周年のアニバーサリーな日となり、その記念日に訪れることができた。


普段ムーミンバレーパークのことはまったく頭から飛んでいたのだけれど、その日の朝ベッドの中でスマホを眺めていたら、今日はムーミンの日ということを知り、即座に決断。


よしこれから飯能に行こう!


即決である。

だから計画的でもないし、思いつきで決断したのである。


ここでムーミンのことをちょっとおさらいしてみよう。


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ムーミンは、スウェーデン語系フィンランド人のトーベ・ヤンソン(1914—2001)によって生み出された。小説、コミックス、絵本として描かれ、それをもとにたくさんのアニメ作品、キャラクターグッズ、スポットが作られて、いまも世界中で愛されている。



こちらが原作者のトーベ・ヤンソン。


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ムーミンの作者であるトーベ・ヤンソンは、1914年、彫刻家と商業画家の娘としてフィンランドの首都ヘルシンキに誕生。幼い頃から才能を発揮し、画家、イラストレーターとしても活躍。1945年に童話「小さなトロールと大きな洪水」を発表し、ムーミンをこの世に送り出した。2001年に世を去るまで、精力的に創作活動を続け、ムーミン以外の大人向けの小説、フレスコ画など、ジャンルにとらわれない多くの作品を残している。



1945年、長かった戦争はようやく終わった。戦後の混乱の中、後に世界を席巻するムーミンシリーズの第一作「小さなトロールと大きな洪水」は、粗末な装丁でひっそりと出版された。ムーミントロールの母子が、失踪してしまった父を捜す道のりを描いた物語である。表紙を入れても48ページしかない小冊子で、本屋ではなく駅の売店や新聞スタンドに並べられたという。この第一作は商業的には決して成功とはいえず、それどころかわずかな部数で絶版となったきり、以後トーベ自身の意向によって1991年まで再版されず「幻の作品」となるのだが、幼い頃から絵を書くことと同じくらいお話を作ることが好きだったトーベは、画業の傍らこつこつと執筆を続け、次々に続編を発表していったのだった。


1948年の第三作「たのしいムーミン一家」は、ついに母国フィンランドと隣国スウェーデンで大きな評判をとった。ただそれでもそれが英訳され、児童文学王国イギリスで出版されたのは、いくつもの偶然に助けられてのことであった。ところがこの北欧の小国からきた奇妙ないきものたちのお話は、たちまちのうちに目の肥えたイギリスの読書人たちの心を掴み、思いがけない大ヒットとなったのだった。


さらにそれをきっかけとして1954年に始まった、当時世界最大の発行部数を誇ったロンドンの夕刊紙 「イブニングニュース」での漫画連載が、ムーミンの人気を決定づけた。イギリスにとどまらず、その年のうちに早くもスウェーデン、デンマーク、そして母国フィンランドの新聞に、さらに最盛期には40カ国、120紙に転載されたほどであった。漫画で火がついたムーミンの人気は、すぐにオリジナルの児童文学シリーズも及んだ。次々に各国語に翻訳され、イギリスばかりでなくヨーロッパ中で人気と同時に高い評価を獲得している。トーベは児童文学作家としての国際的な名声を不動のものにしたのであった。


(以上、ムーミン公式HP 「トーベ・ヤンソンについて」からの抜粋。)



日本では1990年にアニメシリーズ「楽しいムーミン一家」(テレビ東京系)放送開始。「楽しいムーミン一家 冒険日記」を含む104話からなり、世界60カ国で繰り返し放送され、人気を博した。


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1993年にアニメ「楽しいムーミン一家」の設定に基づいて作られたテーマパーク、ムーミンワールドがフィンランドのナーンタリにオープン。


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これがムーミン・キャラクターの関係図。


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(c)ムーミン公式HP


主人公はムーミントロールである。ムーミンパパ、ムーミンママ、ノンノンいやスノークのおじょうさん、そしてスナプキン、ミイもうすっかりお馴染みですね。ここでスノークのおじょうさん(ノンノン)についてさらに詳しい説明。


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(c)ムーミン公式HP



1993年にテーマパーク、ムーミンワールドがフィンランドのナーンタリにオープンしたのだが、それの日本版を作りたいというのが、この埼玉県飯能市にできたムーミンバレーパークのようである。


なぜ埼玉県飯能市なのか、は知る人ぞ知るというところだが、自分は最初に埼玉県にそのようなものを作って、果たして集客できるのか、採算とれるのか、など結構心配したのだけれど、一昨日体験してみて、実際行ってみると、もうすごい人、人、人という感じで大繁盛していた。お子さんを連れた家族連れが多かったようですね。


埼玉県飯能市というのは、池袋から西武池袋線で大体1時間くらい。
許容範囲内である。


飯能駅で下車すると、改札口を出て北口から1番乗り場のバスに乗って大体10分くらいのところにある。ムーミンバレーパークは、メッツア、メッツアビレッジにある。だからバス行きはメッツア行き。人気なので、かなりの本数出ています。


メッツアビレッジというのは湖を取り囲んだいろいろ施設があるテーマパークのようなところで、その中の一角がムーミンバレーパークなのである。ムーミンバレーパークをこの埼玉県飯能市に持ってきた理由は、自分はこの湖を中心とした風光明媚で絶景な観光地であるというところがポイントなのではないかと確信した。あのムーミン谷の世界をリアル現世に実現するには、このような自然豊かな美しい場所が前提になければならない。これは都心では絶対無理なことである。都心から1時間程度で通える地の利とこの自然の美しさの両方を兼ね備えているという点でこの飯能市が候補になったのではないだろうか。自分はそう確信するのである。


バスで到着停留所メッツアで下車して、いよいよメッツアビレッジに入園。

そうすると”ムーミン谷とアンブレラ”と題してこのようなお出迎え。
素敵ですね。


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この日はかなりの猛暑で、もうこんな風景がとても自然でした。


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ゲートでお出迎え。
今年で開園1周年。1年経過してようやく来ることができました。
ここでみなさん記念撮影していました。


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ウェルカムゲート

「本」のゲートをくぐりぬけ、ムーミンの物語の世界に期待を膨らませながらムーミン谷へ!


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ムーミングッズを売っているショップ。

もうムーミンファンには堪らないでしょうね。


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北欧雑貨を売っている小店や、北欧カフェ、はたまたスターバックスに至るまで、飽きることないです。


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とにかくメッツアビレッジなので、湖を取り囲んだテーマパークなんですよね。
だから湖をバックにとても風光明媚な景色があたりを取り囲みます。


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こんな野外ジャングル遊園地のようなところもあって子供たちには大人気!


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そうしていよいよムーミンバレーパーク。


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原作を再現したムーミン一家の住むムーミン屋敷。


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この中に入りたかったのですが、普通の入場券ですと、地下と1階は観覧可能なのですが、2階や3階は特別チケット、ワンデイカード(1日券)でないと入れないようで、急いでチケット売り場に戻り、購入しようと思ったのですが、1日券はすでに売り切れ。コロナ騒動でいっぺんに入れないので、人数制限しているようです。


う~ん、やっぱり朝の思いつきで突然の行動だったので、仕方がないですね。やはりこの2階、3階はとても大人気なので、事前にネットで予約しておくことをお勧めします。(いい写真スポットなのに・・・)


じゃあ、その普通券で拝観可能な地下と1階だけお見せします。


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ここがエンマの劇場。
ムーミンとその仲間たちによるライブエンターテインメントを楽しめる。


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で、これ、楽しいか?(笑)・・・えぇぇ、全然最高ですが、なにか?(笑)


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いま世間では今年は「特別な夏」ですが、庶民の方々はどこ吹く風です。(笑)



ムーミンといっしょに記念写真撮影できるようなサービスもあります。


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ここにもムーミングッズを売っているショップがあります。

もう中はムーミンだらけ。
ファンには堪らないでしょうね。

でもかなり密です。(笑)


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湖沿いをずっと歩いていくと、ムーミン一家で移住した灯台が見えてきます。


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湖を見ながら、その湖畔を歩くのは本当に気持ちがいいですし、目の保養になりますね。でもこの日は猛暑で汗だく。水分をこまめに取って、もうこれ以上歩くのは大変ということで、ここらで元のエントランス付近に戻ることにしました。結局この日だけで1万4千歩も歩いたことになります。


エントランスに戻って、大きなレジャー施設。


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いろいろなグッズやカフェ、飲食店がテナントとして中に入っています。


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朝からなにも食べていなかったので、急いで腹ごしらえ。この暑いのによせばいいのに、熱いラーメンを食べることに。柚胡椒塩ラーメンというのがとてもあっさり系で美味しそうだったので、それにしたのです。


でも店内で食べるとこんな感じで、密で飛沫が怖かったので、思わずテラス席をチョイス。


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湖が一望できる絶景のテラス席で遅めのランチ。


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中よりいいと思ったら、外は灼熱の太陽で地獄。
オマケになぜか熱いラーメンで、かなり生き地獄でした。(笑)
やっぱりクーラーがんがん効いてる中がよかったかな。

セミが凄い泣いています。夏だなぁと実感。


こんな感じで埼玉県飯能市のムーミンバレーパークを体験できました。
なかなか素晴らしかったです。


唯一の後悔は、突然思いつきで行ったので、ムーミン屋敷の2階、3階を写真に収めれなかったことですね。また次回。


この日8月9日は原作者のトーベ・ヤンソンの誕生日でムーミンの日に訪問できたのがよかったです。この1週間8月16日まで、ムーミンの日ということで、アニバーサリー・イヴェントのようなので、ぜひ訪問されてはいかがでしょうか?


ムーミン誕生75周年記念グッズなど、たくさんのサプライズもあります。












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