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オーケストラ鑑賞復活・強化月間 [クラシック雑感]

松本での生音復活の御祓コンサートが大成功に終わり、この御祓さえ済んでしまえば、あとは、好きなときに、好きな公演を、好きなタイミングで、いつものペースに戻す。


自分は言ったことは必ず守りますから。

有言実行!

12月、1月(正月)は、在京楽団・強化月間とすることにした。


いままで自粛生活でたまりにたまった募る気持ちを一気に晴らします。在京楽団のみなさんにたくさんたくさんの愛情を注いで、思いっきり盛り上がりたいと思います。


いまはコロナ禍で、海外のオーケストラやアーティストの来日が難しい状況。
こういうときこそ、国内の演奏家が大活躍するチャンス。


やっぱりコロナ前は、どうしても海外旅行に行かないといけないとか、外来オケや外来アーティストの来日で、ちょっと桁の違う金額が羽のように飛んで行ってしまう。


その中の合間を縫って、国内オケや国内アーティストのコンサートに足を運ぶという優先順位だった。


今日チケットを取ったけれど、こんな安価な値段で、上質なコンサートが聴けるなんてすごいと改めてびっくり。海外旅行や外来オケ来日がいかに負担増だったか、よく身に染みました。


昔ならいざ知らず、いまの日本のオーケストラや演奏家の演奏技術は、驚くほど上達していて、海外オケなどに一歩もひけを取らないどころか、その上をいくほど凄いこともある。


日本は、クラシック大国というか、本当にクラシック愛好国だとつくづく思う。
たくさんの愛するファンに囲まれていますね。


コンサートを聴く対価がこんな安価で、これだけ上質なクラシック・コンサートが聴けるなんて、本当に日本はいい国だと思います。


海外オケ&アーティストが来日できないいまこそ、その事実が大きく浮き彫りになって再認識されているのではないだろうか?


自分は1900年代、2000年代と高価な外来オケのコンサートは、それこそ湯水のようにお金を使って行っていたものだった。


それがクラシックを自分のものにする社会勉強みたいなものだと思っていた。
勉強代、修行代みたいなもの。

勉強・修行するには、お金がかかりますね。
常々言っていますが、湯水のようにお金をつぎ込まないと自分の血肉になりませんね。
経験が一番大事です。


さらには海外のホールまででかけて自分の意識の啓蒙活動をする。
クラシックの場合、現地を体験することはとても大切ですね。
クラシックを学んでいく、自分の血肉にするには、本当にお金のかかる趣味ですね。


ベルリンフィル、ウィーンフィル、コンセルトヘボウ etcetc・・・。来日したら必ず行っていましたからね。ウィーンフィルなんて、サントリーホールと提携しているから、毎年来日しますから。もう毎年必ずサントリーホールに行ってました。


いまは亡きアーノンクール、そしてメータ、ムーティ、エッシャンバッハ、プレートルetcetc・・・思い出せないくらい。


ベルリンフィルも毎年ではないけれど、3年、4年単位で来日してくれるので、それも必ず行っていた。


海外オケやアーティストは、やはり華があり、話題性抜群で、お客さんもそれだけのお金を出してコンサートに行きたいという外来志向というかブランド志向が日本のクラシック層の根底には大きく根付いていますね。


そうすることで、自分になにか達成感というか満足感を得ますね。日本のクラシックファンには、せっかく自分がお金を出すんだったら、有名なオケを体験してみたい、という気持ちは絶対あるのではないでしょうか?


でも歳をとってくると、予算体力が落ちてきて、いわゆる自分のその頃にあったような熱いエネルギーのようなものが薄れてきますね。


そういう外来オケなどに大金をつぎ込むのは、自分のクラシック人生の中で一時期、過渡期に限られるような気がします。


その熱い時期を通り過ぎると、考え方がちょっと変わってきますね。

もっと冷静な落ち着いた目線で、クラシック界を見るようになりますね。


もちろん予算体力があるなら、歳を取っても外来オケ行き続けるかもしれませんが、それでも自分の精神状態から、もっと違う目線で、クラシックの新しい局面を覗きたくなるような気持ちになります。


若手演奏家や国内オケ、そういう方面に自分も徐々に軸足を移していくのでは?という気持ちの移りようを昨今感じます。


安価で良質な音楽。
そちらに魅力を感じるようになっているかも?


お金をたくさん使うと、すごい罪悪感が残りますね。(笑)


限られた収入の中で生活をしていかないといけない訳ですから、インとアウトの関係は決まっていて、そこでやりくりをしていくとなると、状況に応じて、自分を変えていかないといけませんね。


でもでも・・・やっぱり海外オケ&海外アーティストは話題性があって華があるから、(なんだかんだ言って自分も大好きだし)どうしても行きたくなって、いろいろやりくりして行くというジレンマは永遠に続くのではないでしょうか?(笑)


まぁそれが日本のクラシックの今様なんだと思います。


あと、最近思うことに、海外の演奏家には、自分の熱い想いとか愛情とかが伝わらない自分からの片想い、一方通行の愛だと思うことですね。これは仕方ないことですね。


でも日本の演奏家には、そんな自分の想いとか、愛情が必ず伝わるような気がします。そのほうが愛は報われる、というか、応援している身からすると応援しがいがあるというものなのではないでしょうか?


そんなコロナ禍のいま、絶対国内オケ、在京楽団を徹底して聴くいいチャンス。

徹底的に計画しました。
チケットもすでに全部取得済み。


やるときゃやります!



●公演日:2020/12/12(土)14:00
会場:東京芸術劇場 コンサートホール (東京都)

NHK交響楽団/秋山和慶(指揮)
[独奏]諏訪内晶子(vl)
曲名: ベートーヴェン(ヴァイオリン協奏曲ニ長調)/他


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やっぱりトップバッターはN響。諏訪内さんのヴァイオリンが聴けるのは、本当に久しぶりで楽しみです。ヴァイオリン協奏曲でベートーヴェンほど難しい曲はないと言っていたのは諏訪内さん自身でした。



●公演日:2020/12/17(木)19:00
会場:東京文化会館 大ホール (東京都)

都響スペシャル2020(12/17)
[指揮]小泉和裕 [独奏・独唱]ゲルハルト・オピッツ(p)
曲名:ベートーヴェン(交響曲第5番ハ短調「運命」)/他


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在京楽団の中でもトップクラスの演奏力の都響。小泉さんの指揮も本当に久しぶりです。都響は昔、インバルとのマーラーツィクルスを2年間かけて東京芸術劇場と横浜みなとみらいで聴いて、あの熱い想い出は一生忘れられないです。



●公演日:2020/12/28(月)18:30
会場:サントリーホール 大ホール (東京都)

[指揮]ジョナサン・ノット [独奏・独唱]ジャクリーン・ワグナー(S)/
カトリオーナ・モリソン(Ms)/クリスティアン・エルスナー(T)/リアン・リ(バスバリトン) [合唱]新国立劇場合唱団 [演奏]東京交響楽団 曲名: ベートーヴェン(交響曲第9番ニ短調「合唱付」)


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ジョナサン・ノットがついに来日できる!海外ビザも取得済み。あとは14日間の隔離のみ。ノットは、コロナ禍の来日に向けて随分苦杯をなめてきたからね。


本当に超話題のコンサートです。
しかしこのコロナ禍で第九とは!
はたまたどんな騒動になるのでしょう?
独唱ソリスト、合唱団の感染対策は?
話題はつきないコンサートです。



●公演日:2020/12/31(木)15:00
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール (神奈川県)

[指揮]下野竜也 [演奏]東京交響楽団
[出演]小川典子(p) / 南紫音(vl) / 宮本益光(Br)
曲名: ベートーヴェン(エリーゼのために)/ベートーヴェン(ピアノ協奏曲第4番より)/
ベートーヴェン(ロマンス第2番)/他


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今年の年末年始は帰省しません。だから大みそかはミューザ川崎でジルベスターコンサート。小川典子さんのピアノを拝聴できるのは最高に楽しみかも?小川典子さんはミューザ川崎のホールアドバイザーでもあるのです。



●公演日:2021/1/3(日)14:00
会場:すみだトリフォニーホール 大ホール (東京都)

新日本フィル ニューイヤー・コンサート2021
[指揮]中田延亮 [独奏・独唱]サミュエル・エリクソン(vc) [司会]田添菜穂子
曲名: ポッパー(ハンガリー狂詩曲)/他


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新日本フィルも絶対外せない。今年は新年あけましておめでとう!のニューイヤーコンサートでお世話になることになりました。新日本フィルを聴くなら、サントリーではなくて、やはりすみだトリフォニーで絶対聴きたいです。だからこの公演を選びました。すみだトリフォニーは超すこぶる音響素晴らしいです。鳥肌立ちます!



●公演日:2021/3/4(木)19:00
会場:Hakuju Hall (東京都)

曽根麻矢子(cmb)
公演情報:バッハ連続演奏会 BWV I ゴルトベルク変奏曲


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日記でも紹介した曽根麻矢子さんのチェンバロのバッハ連続演奏会。
このツィクルス、自分は全公演コンプリートしようと思っています。
2025年までの5年間かけての全曲連続演奏会。
これは絶対コンプリートする価値はあると思いますよ。

すでにチケットオンセールで、ほとんど売り切れ状態で、あやうく
買えないところでした。アブナイ、アブナイ。
SNSで告知してください~。(笑)



自分はコンサートホールが大好きだから、なるべくいろいろなホールに行けるように工夫しました。サントリーホール、ミューザ川崎、東京文化会館、東京芸術劇場、すみだトリフォニー、ハクジュホール。東京都内で、もうこれ以上ないというほど豪華なコンサートホール・ラインナップではないでしょうか?


N響、都響、東響、そして新日本フィル。


まだたくさん聴きたいオケはありますが、まずはこれだけでも王道路線を走っていると思います。5公演中なんと4公演が全部ベートーヴェンなんですね。(笑)ベートーヴェン・イヤー、ひたすら続きます。


1公演づつコンサートレビューの日記を全部書くのは、さすがに大変なので、当日はつぶやき程度で、全部終わったら、統括みたいな感じで全部まとめてひとつの日記にしようと思っています。


コンサートホールに着いたら、開演時間までホワイエでぶらぶら。
開演前のホールで、どんどん座席が人で埋まっていくさま。
ブレイク、インターバル。
そして終演後の興奮と熱気を帯びた観客の帰路。


そんなふつうの日常だったあたりまえの光景、早く元に戻ってほしい。
それをこの12月、1月の強化月間でじっくりその有難みを味わってきたいと思います。





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松本グルメ そのさん [国内音楽鑑賞旅行]

いままで松本グルメでどうしても体験していなかった名店があった。それが「うなぎのまつ嘉」である。ここは本当に超人気店で、11時半開店と同時に速攻で売り切れ閉店になってしまう超難しいお店なのだ。だからその名声はよく知っていたのだけれど、なかなか敷居が高いと思っていた。


今回初挑戦してみようと思ったのである。



●うなぎのまつ嘉


開店と同時に売り切れ!長野県松本市が世界に誇る鰻の名店「うなぎのまつ嘉(まつか)」。開店から10分も経たないうちに売り切れの札が店先に並んでしまうという、知られざる鰻の名店が長野県松本市にあるのだ。


江戸時代から6代つづく鰻の名店、それが「うなぎのまつ嘉(まつか)」


こちらのお店、実は江戸時代から続くうなぎの名店として、松本市内はおろか、全国に名前を轟かせるお店。そのため、全国から美味しい鰻を求めて、鰻好きが毎日のように押し寄せているのだそうだ。


そしてこちらのお店、予約ができないことでも有名なお店。


そのため、多くの人々が11時30分の開店前から美味しい鰻を求めて行列をつくり、平日であっても11時30分の開店と同時に売り切れとなってしまう。


今回、どうしてもこの「うなぎのまつ嘉」を体験したいと思い、ここはちょっとそっとの正攻法ではダメできちんと作戦を立てていかないとダメだぞ!と自分は思ったのである。


なぜ、ここのお店は、開店と同時に、すぐに売り切れになってしまうのか、そのなぞ解きを今回紹介したいと思う。


うなぎのまつ嘉


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自分は、11時半開店をそのまま鵜呑みにしては絶対ダメだと思った。


ネットで、10時半には並ぶことをお勧めする、という書き込みがあったのだが、よし!それだったら、自分は9時半に並ぼう!


2時間待とうじゃないか!と決意した。


9時半に到着。
やはり1番乗りだった!


こうやって入り口の前に座れる腰掛ベンチがあった。
目の前が入り口である。


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座って待っていたら、お店の人が寒いでしょう、と言って毛布を貸してくれた。
優しい~!


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侮るなかれ!9時半に来た自分は一番乗りだったけれど、9時45分には、続々と人がやってきてあっという間に行列ができてしまった。


自分が、今回学んだ攻略法は、ここのお店は10時半になったら、その行列の人たちをお店の中に入れてくれるということなのだ。つまり座席に座らせてくれる。


つまり10時半になったら、つまり店内のお店の座席は満席になってしまうということだ。そしてこのお店は、あまり商売っ気がなくて、1回座席が満席になった分の人数分しか鰻を用意していないことだ。


結論は、


・10時半に行列の人たちを店内に入れる。→満席になる。
・鰻はその1回分しかない。
・11時半の開店と同時に、すぐに売り切れ閉店。


こういうからくりである。

だから開店11時半をそのまま鵜呑みにしては、絶対無理である。
10時半でも危ない。(10時半はあくまで行列を店内に入れる時間)
やはり9時半に行くことをお勧めする。

10時半に店内に入れてくれる。
そしてすぐにオーダーを取る。


これが「うなぎのまつ嘉」の店内。


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10時半に店内に通されるけれど、オーダーを取った後、そこから開店の11時半までそこで待たされるのである。


11時半になると同時に、オーダーしたものがやってくる。


メニュー。


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うな丼、うな弁当とあるが、なにが違うかと言うと、うなぎの枚数が違う。
うな丼(2枚)、うな弁当(3枚)である。


昔はうな重というのがあって、これはうなぎ4枚だった。
いまはうな重はやっていないのだそうだ。


自分は、うな丼をオーダー。

そしてやってきた!
これが、うなぎのまつ嘉のうな丼である。


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すごい美味しい!!!


外側はパリっと、そして内側は非常に柔らかく仕上げられた鰻は、タレとの相性も抜群。もちろんその味わいはご飯と一緒に味わうことで本当の意味での真価を発揮している。


たっぷりの山椒でも負けないほどの強く濃い鰻の味わいは、長野県のみならず、世界に誇るうなぎの名店と言っても過言ではない。


本当に美味しいです。

うなぎは本当に美味しいですねぇ~。


自分のうな丼が配膳されたのは、11時20分である。

そして食して店を出たのが、11時30分である。

そうしたら・・・(笑)


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これがこのお店の真実である。


この真実をよく理解したうえで、ぜひ長野県松本市のうなぎのまつ嘉さんにチャレンジしてほしいと思います。



●珈琲美学アベ


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ここもゴローさんから教えてもらった珈琲専門店なのだが、元のオリジナル情報源は、サイトウキネンのオーケストラ・メンバーであることは間違いない。


ここは珈琲に徹底的に拘った本当に雰囲気のあるお店で、いいお店だと思います。
松本の喫茶店というとここしか自分は思いつかないです。


マスターも徹底的に珈琲に拘りのある人で、プロっぽい雰囲気があります。


店内もとてもオシャレ。


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珈琲を淹れています。


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ここのモーニングがとても安くて美味しくていいということで、ゴローさんは松本滞在中はホテルの朝食を取らずにここのモーニングで朝食を済ませていました。


自分も昔はそうでしたが、モーニングは11時までということで、今回は時間的に難しく残念ながら。


今回2泊3日の滞在でしたが、3日間、かなりの時間この珈琲美学アベに入り浸っていました。


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だから、もうここの珈琲のメニューをすべて徹底的に味わい尽くしました。
コロンビア、マンデリン、ブラジル、キリマンジャロ、モカ。


でも自分は、珈琲は普段あまり飲まないし、あまり詳しくないので、その味の違いがよくわからないんですね。(笑)


メニューには、


コロンビア(南米:甘い香りと独特のコク)
マンデリン(インドネシア:重厚な苦みが特徴)
ブラジル(南米:上品な酸味)
キリマンジャロ(タンザニア:強い酸味と上品な風味)
モカ(エチオピア:独特な香気と酸味)


と書いてあります。


マンデリンは、ちょっと違うな、ということは自分でもわかったような気がします。


今回ラッキーだったのは、本日のおすすめで、あの幻の「ゲイシャコーヒー」が飲めたことです。自分が3日間入り浸って、いろいろな珈琲を飲んでいたので、マスターが今日は本日のおすすめで「ゲイシャコーヒー」が飲めるよ、と教えてくれたのです。


ゲイシャコーヒーというのは、世界で最も高価な珈琲といわれていて、幻の珈琲ともいわれている。ふつうの珈琲店ではまず飲むことはできないし、珈琲豆店でもまず置いていない。ネットで販売されることもあるけれど、販売とともにすぐに完売になるプレミアで本当に幻の珈琲だそうである。


そのゲイシャコーヒーをその日たまたま本日のおすすめで提供してくれるというのだ。
さすが珈琲美学アベ。ちょっとそこらの普通の珈琲店ではないですね。
本格専門店です。


これがゲイシャコーヒー。


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カップ・ソーサからしてすごいゴージャス。
やはり品格が違うよ、ということなのでしょう。


珈琲があまり詳しくない自分にはちょっと猫に小判でしたが、さすが他の珈琲とは違うな、と感じたことは確かです。具体的にどう違うとかは語れませんが。(笑)


いい経験でした。


この珈琲美学アベ。徹底的に拘った珈琲専門店。


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悪魔のように黒く、
天使のように優しく
恋のように甘い
珈琲のひととき・・・



2泊3日の松本グルメ、いろいろ大変でしたが、統括したいと思っていたその目的は結構叶えられたのではないか、と思います。





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松本グルメ そのに [国内音楽鑑賞旅行]

衝撃の初日を終え(笑)、気を取り直して2日目を迎える。


今回松本に来た一番の目標は、もちろん生音復活コンサートを体験すること。
そのために松本市音楽文化ホールにやってきた。
しかしこのホールにくる目標はもうひとつあったのだ。

それはこのホールに併設されているカフェ「ちゃんとてーぶる」を体験すること。
このカフェのことだけで、日記をひとつ書こうと思っていた。

ところが残念なことに、コロナ禍に耐えられず、11/1付けで閉業してしまった。


在りし日のカフェ「ちゃんとてーぶる」。
大ホールのエントランスの横のほうに位置する。


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そしてFBの公式HPで、このカフェに来たらぜひお勧めのメニューは、


「あずみ野三澤豚と根菜のハーモニー メンチカツプレートと季節のスープ」と宣伝していた。


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じゃあ、せっかくそのメニューを頼もうと思っていたのに~。(泣)


実際行ってみたら、こんな感じに廃墟の姿。(笑)


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悲しきお姿。


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でも、じつは、このカフェ「ちゃんとてーぶる」というのは、「時代遅れの洋食屋 おきな堂」の姉妹店にあたって、それがたまたまコンサートホールのカフェとしてホールに併設されている、ということを知ったのだった。


だったら、その本家本元の「おきな堂」に行こう!ということになった。


●時代遅れの洋食屋 おきな堂


松本上土通りの菓子店「翁堂」から、昭和8年に「翁堂喫茶部」として独立。翁堂創業者・木内象次郎の長女・とし路と、その夫・安之助が初代オーナーを務める。樹齢200年の木を通し柱とする木造3階建の店舗を建築現在の建物は当時のまま。


昭和32年に安之助が逝去。長男・章皓が2代目を継ぐ社名「翁堂喫茶部」を、現在の「おきな堂」に改名。喫茶中心のメニューから、独立当初からあったカレー・ハヤシ・ポークソテーなどの洋食メニューを充実させて、路線を「喫茶店+洋食」から「洋食店+喫茶」へ、徐々にシフトしていった。平成10年にはイタリアで知り合ったシェフ・ロベルト氏の指導の下、手打ちパスタをはじめとするイタリアンメニューも導入。


平成17年より、章皓の長男・伸光が3代目を継ぎ、現在に至る。(公式HP)


まさに、松本市に昭和初期のころから活躍する老舗中の老舗の洋食屋さんといえば、このおきな堂なのだ。松本グルメといえば、どうしてもこの洋食屋さんを訪ねないといけない。


その名も「時代遅れの洋食屋 おきな堂」という呼び名がいけていますね。


時代遅れの洋食屋 おきな堂


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女鳥羽川沿いの通りにある。

1階と2階あるのだが、自分は1階を体験。


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とても昭和ノスタルジーな店内でとても素敵です。


店内には、一日中、ジャズやクラシックが流れる。「古さ」は「過去のもの」。でも、使い手の思いと使いかたによって、「今なお愛されるもの」にもなる。


いいな~この感じ。

自分は、やはりこのおきな堂の看板メニューのポークソテー定食をいただく。


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ポーク肉、コリコリと歯ごたえがあって、とてもジューシーで美味しい。これは美味しいですね。松本に来たらこの洋食屋さんというだけあって、本当に満足の味でした。


雰囲気最高のお店です。


●和食そば処 たかぎ


松本といったらそばでしょう!ということで、まさかの「こばやし」が移転してしまったことで、それじゃということで、これまた松本の名店中の名店と言われている野麦に行ってみたのだが、敢えなく時間外閉店。


ここは営業時間、本当に短いんですよね。そしていつも大行列の劇混み。なかなかありつけない超人気店でもあります。


正直困りました。松本で一番有名なグルメである”そば”を食べたいのだけれど、星の数ほどあるお店でどこがいいのかわかりません。


もう時間もないので、仕方がないので、松本城近くにあったそば屋さんにそのまま入ることに。ビルの2階にテナントして入っているおそば屋さんでした。


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信州そばを注文。


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そばは、松本の名物だけれど、自分の経験でいうと、松本のそばの麺って、なにかこう透き通っているというか、ふにゃふにゃ感があって、腰がない、それが特徴のような感じがします。


いままで食べてきた松本の蕎麦ってそんな食感が多かったですね。

でもそれはそれでひとつの味な訳で美味しいとも思うところです。

ここのお蕎麦もそういう感じでしたが、美味しかった。
とにかく土壇場で、信州そばを食べれてよかったです。


まさか信州そばを食べないで、そのまま松本グルメを語る訳にはいきませんですから。



●洋食カフェレスト GARAGE


この洋食屋レストラン・カフェは、当時の県文(長野県松本文化会館)、いまのキッセイ文化ホールのすぐ傍にある洋食カフェレスト。本当にすぐ傍にあります。


ここは、県文でサイトウキネンフェスティバル松本のオーケストラ・コンサートをやるためにサイトウキネンのメンバーがよく食事に訪れる穴場中の穴場のレストラン。


県文のそばに他に食事処もあまりないように思うので(?)、音楽祭期間中は、オケのメンバーは本当によく利用しているところだと思います。


自分も2011年に、ゴローさんの車で連れてってもらって、紹介されました。本当に狭いけれどなかなか雰囲気のある洋食屋さんで、自分はそのとき、オムライスを頼んだ記憶があります。


こんな普通の代表的な松本グルメとは違う、とっておきの松本グルメであるGARAGEを再度体験するために訪れてみました。


なかなか交通の便は難しいので、タクシーで行きました。


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そうしたら、なんとこの週に限って、改装工事に伴う休業中。(笑)
仕方がないので、お店の写真だけ撮影してそのまま帰ってきました。


なんか2日目にしても、なんかこうギャグ的な展開で参りました。(笑)






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松本グルメ そのいち [国内音楽鑑賞旅行]

松本2泊3日の旅。いままでサイトウキネンの音楽祭で毎夏通っていたころに開拓してきたいわゆる松本グルメの総ざらいをしようと思っていた。


自分の場合、松本グルメは、ゴローさんから教わったものが大半なのであるが、じつはそのオリジナルの情報源は、サイトウキネンのオーケストラのメンバーからの情報だったということは、当然わかりきっていた事実であった。(笑)


ゴローさんは、サイトウキネンのメンバーのブログや直接の口コミで知って、自分で体験して、それを我々に教えてくれていたに過ぎないのだ。


だから、いわゆるネットで広く紹介されている松本の有名店とちょっと趣が違うかもしれない。


3年ぶりの松本だったけれど、結構閉店や移転になっているお店もあって、驚いた。
訪れた時系列の順番で紹介していきたい。


●メイヤウ信州大前店の4色カレー


松本に来たら、必ず寄るお店である。ここに来て、4色カレーを食べないと、松本に来た意味がないというか、それだけ自分には馴染みの深いお店である。


以前来た時に比べて、お店の面構えが、テイクアウトやってますの看板表示とか随分印象が様変わりしていた。


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でも店内は、いっさい変わっていなかった。
懐かしい~。


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信州大のすぐそばにあるので、もうお客さんは、信大生の学生のためのお店だと思う。お客さんは、いかにも学生という若い子たちばかりだった。大学のそばにある学生御用達の安いお店で腹いっぱい食えるお店というやつですね。どこの大学にもあるそういうお店ですね。


サイン色紙もいっぱい飾られている。


その中で小澤征爾さんの色紙も発見。
2005年に来店されている。


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松本に着いたら、一番最初に来たのがこのお店だったから、小澤さんの色紙を見て、あぁぁぁ~、やっぱり松本は小澤さんの街だな~と感慨深く感じてしまった。


そして念願の4色カレーを注文。


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イエロー (デリー風チキン・カレー)
レッド  (タイ風ビーフ・カレー)
グリーン (タイ風チキン・カレー)
ブラック (カシミール風ビーフ・カレー)


それぞれ単品の色のカレーを注文できるのが普通なのだが、それ以外の特別サービスとして、これらのそれぞれの色のカレーを一皿にまとめて盛り付けて食べられるという特別メニューがあるのだ。


・お好きなカリー2種類セット(2色カレー)880円
・お好きなカリー4種類セット(大皿盛り)1150円


自分が頼んでいる4色カレーというのは、このお好きなカリー4種類セット(大皿盛り)のことである。こういうサービスをやっているのは、この信州大前店だけである。松本には、もうひとつメイヤウには桐店というのがあって、そこにはこういう4色カレーというのはやっていない。単色のカレーのみである。


以前自分は、信州大前店に行くつもりが、間違って桐店のほうに行ってしまい、4色カレーが置いてなくて、ショックを受けたことがある。そのとき桐店のお店のスタッフの方に、それはたぶん信州大前店のほうです、と教えられたのだ。


ようやく念願の4色カレーを食す。


それぞれに色のカレーが各々違う風味の香辛料で、相変わらず面白い。
自分はブラックが好きかな。

ここのメイヤウはライスがちょっと特徴ですね。
日本のお米ではないですね。

とにかく松本に来たら、まずこれを食べないと。
ミッション・コンプリートできてよかったです。



●居酒屋ゴロー


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松本に来たら、信州そば処「こばやし」で信州そばをいただき、その向かいに居酒屋ゴローがあることをメンション。


「こばやし」に「ゴロー」で遊ぶというのが、毎度おなじみのツィート儀式。


今回はそのおなじみのツィートをやったら、ちなみに、「今宵は居酒屋ゴローで一杯やってます。(笑)」という新作ネタをやろうと思っていたのだ。


だから今回は居酒屋ゴローの中に潜入することが新たな開拓であった。

それをやろうと行ったら、

なんと!信州そば処「こばやし」がない!


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駐車場になってしまっている。
えっえっえっ!

でも向かいに居酒屋ゴローはきちんとある。
えっ・・・ていうことは閉店か、移転?


慌ててネットで調べたら、信州そば処「こばやし」は、火事を起こし、移転したらしい。移転先の新しい店舗は、以前のような伝統のあるお店の趣もなく、品数のメニューも減ってガッカリとか、かなり口コミがよくない。


大ショック。


信州そば処「こばやし」は、松本きっての名店中の名店で、一番歴史の古い老舗だったので、これはショックだった。松本には星の数ほどそば屋さんはあるけれど、自分はいつもこの「こばやし」で信州そばを食していた。


新しい「こばやし」の店舗に行ってみようか、とも思ったけれど、結構遠い感じで、地理感もないのでやめておいた。


結局、居酒屋ゴローで一杯やるしかない、という選択肢となった。


居酒屋ゴローは、17時開店である。それまで、松本の縄手通りとか、中町通りとか散策して、喫茶店で時間をつぶして、17時頃に居酒屋ゴローに到着。


札が準備中になっていたが、扉を開けたら、「入っていい?やってる?」と聞いたら、オヤジさんが「う~ん、まだ準備下ごしらえが・・・たぶん18時頃かな?」と言ったので、じゃあ、そのときにまた出直します、ということになった。


どうしようかな、と思い、その通りの蕎麦屋さんの前のベンチでかけて待っていることにした。1時間くらいだったら、スマホを見ながらなんとか過ごせるだろう?寒いけど。


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なんかこの通りはこのとき真っ暗で人気もなくて本当に寂しかった。
すごい心細かった。
なんか松本錆びているなぁとも思ってしまった。(笑)
コロナ禍で飲み屋さん通りもやっていないお店が多いのかな、とも思った。


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夜17時から18時までの間である。
そのとき、やることもないので自分はつぶやきの嵐を吹かせた。
御承知の通りである。


そうしたら、18時半くらいかな?座っているベンチの前の中華屋さんのお店が電気がついて、ようやく人気が出てきた。そしてどこともなく飲兵衛たちがやってきて、ちょっと賑やかになってきた。中にはタクシーで駆けつける常連さんたちもいた。


このお店人気あるんだな、と思った。


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とにかくようやく飲み屋通りの活気が出てきた感じで、明るくなり、ホッとした。


居酒屋ゴローは、18時を過ぎているのに、まだ電気がつかない。


居酒屋ゴローなんて、こんな松本の目立たない片隅の通りにある居酒屋だから、ここを体験できるのは本当にレアな体験だろう、と思った。どんな有名な飲兵衛さんも、まさかこんな松本の小さな居酒屋さんには入ったことがないだろう、と思い自分はちょっと誉に感じた。これはレポし甲斐のあるお店だとちょっと自慢だった。


この松本の居酒屋ゴローは、料理メニューは多岐にわたる。お魚がメインというわけでもなく肉もあるし、炒め物、揚げ物などなんでもある居酒屋さんなのである。こういう居酒屋さんにしては、料理のクオリティがどれも高い。


アットホームな雰囲気と、美味しい料理という口コミであった。


店内を覗いたところ、オヤジさんと奥さんの2人で賄っている個人経営の居酒屋さんのようだ。


松本の名物料理に「山賊焼き」と言うのがある。
ご存じですか?

山賊焼きは長野の郷土料理なんです。
骨付きの唐揚げみたいな感じ。
甘辛煮タレがしっかりついてて、カラッと揚がっている感じ。


この居酒屋ゴローでは、山賊焼きが看板メニューらしく、ゴロー山賊焼きは、ここに来たらぜひ食さないといけない!とある。どこのお店でこの山賊焼きを経験するか、悩んでいたのだが、こりゃここの居酒屋ゴローで決まり!という感じで嬉しくなった。


ついでに刺し盛りもたくさん食べたい。


口コミによると、


刺身盛り合わせ。すごい豪華。普通の居酒屋さんの刺身盛り合わせをイメージしてはいけない。そしてなんだこのしめ鯖は。しめ具合なのか鯖自体なのかわかりませんが相当美味しい。他に赤身、大トロ、生ダコ、クジラ、イカがありましたがどれも抜群に美味しい。海なし県おそるべし。さらにブリのカマ焼き。。。でかい。そして脂がのっていてめちゃくちゃ美味い!!カマ焼き自体を食べたことはあるが、ここまで大きくて美味しいブリカマは初めて。東京で食べるとしたらいくらするんだろう?


う~む・・・ますます期待が膨らむばかり。


とにかくなんでもありの料理が美味しいアットホームな居酒屋さんみたいだ。


自分は、店内で一杯やるとき、オヤジさんに、このお店に入りたくて、東京からわざわざやってきたんですよ!と言って、称賛の言葉をかけたかった。


そのつもりだった。


19時頃になって、ようやく店に電気がついた。


夜の居酒屋ゴロー。


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電気はついているけれど、まだ札は準備中のまま。


もう2時間も真っ暗の寒い外で待っていたので、我慢できず、またガラっと扉を開けて、もうやっています?と催促した。


するとオヤジさんは、「あ~う~ん、まっいいですよ。」


そうして、「ありがとうございます。」と言って入ろうとしたら、「ところで松本の人?」と聞いてきたので、「いや東京から来ました。」と言ったら、オヤジさん「ありゃ~ごめんね~。悪く思わないでね。本当にごめん。」と言って外の扉を指さす。


自分は最初その意味をよくわからなかったけれど、扉には、「新型コロナ対策推進宣言の店」というシールが・・・。


あっひょっとしたら県外の人入店お断り???
田舎にとったら、東京って言ったら、感染多いと思われているだろうからね。


こんなオチが待っているとは思ってもみませんでした。(笑)
もうドキドキ、心臓がバクバクしながらスゴスゴとホテルに帰りました。


お店やオヤジさんは全然悪くないし、当然といえば当然だと思います。
コロナがなくなったら、改めて訪れさせてもらいますよ!


この日の夜は、ホテルに帰って、部屋でペットボトルの水とパンで晩餐会となりました。


初日から松本グルメは波乱の幕開けとなりました。(笑)


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国宝・松本城 [国内音楽鑑賞旅行]

松本城は、サイトウキネンで松本に行くたびに、訪問していてお馴染みの観光スポットであるのだが、きちんと日記にしたことはなかった。"なんちゃって城マニア"としては、やはりここも自分の城コレクションとして日記にして熱く語る必要があると思い、今回3回目の訪問にて、ようやく取材敢行である。


絶好の城日和の快晴だった。


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松本城天守。


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松本城の天守閣を撮影するには、このアングルが1番最高の構図であろう。
手前の赤の埋橋が映える感じでいいですね。


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松本城は、江戸の徳川家康を監視するという目的で戦国末期に築城された。江戸の家康を監視する城として、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれているのだ。


豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子によって創建された。


天下人の天守は、五重の天守と言われるが、この松本城は天下人のお城ではないけれど、五重六階の天守閣なのだ。現存する天守12城のうち五重六階の天守としては、日本最古の天守といわれている。


現在天守の建物を残す城は12しかない。そのうち五重の天守は松本城と姫路城と名古屋城だけである。五重天守の実物をみることができるのは、この3城だけである。


松本城は平地に築かれた平城である。
黒と白のコントラストがアルプスの山々に映えて見事な景観である。


これらの天守群は、昭和4年(1929)に制定された「国宝保存法」により、昭和11年(1936)4月20日国宝に指定され、さらに戦後昭和25年(1950)に制定された「文化財保護法」により昭和27年3月29日再び天守五棟が国宝に指定された。


本当に美しいお城である。


城の天守閣は、どうしても戦争で被災したりして、再建されたものが多いが、この松本城は戦国末期に創建されて以来、そのまま残っているまさに最も古いお城ともいえる。


いつもはこの天守閣を見てお終いなのだけれど、今回はきちんと日記にしたいと思っていたので、本丸御殿、二の丸御殿のほうにも行ってみたかった。


ここは入場料を払うことが必要である。


黒門


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本丸へ入る重要な入り口。


この門を入るとかつては本丸御殿があった。本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられている。


こちらが今回初体験である本丸御殿跡、二の丸御殿跡からみた天守閣である。
この時間帯、逆光で見づらくてスミマセン。
手前に広がっているのが、本丸御殿や二の丸御殿があったところである。


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ここには松本城売店があります。
どこのお城にも必ずありますね。
ここでしか販売していないオリジナルグッズも数多く用意されている。


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隣は、松本城管理事務所。


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今回は松本城天守閣の中にも入ってみようと思った。
入場券を購入した時点で、この天守閣の中にも入れる権利が含まれているのだ。


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天守閣の中は、天守一階から三階までは柱の数が多く、四階から上は柱の数も減ってやや広い空間が設けられている。下層は骨組みがしっかり造られている。


天守一階は、とにかくこんな感じで、柱が乱立していて、まさに土台をしっかりこの支柱でがっちり支えようという意味合いが多いと思われる。


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松本城のオリジナルの鯱(シャチホコ)


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松本城天守閣の中は、多くの支柱があるが、所縁のある当時のものがウィンドウケースの中に展示されている感じになっている。なかでも鉄砲に関する展示は多かった。大半が鉄砲だったような気がする。


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長篠の合戦。


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まさにこれからの戦は鉄砲が主力になる、ということを世に知らしめた革命的な戦であった。織田・徳川連合軍が、当時の史上最強の騎馬軍団といわれた武田勝頼軍を、鉄砲でこっぱみじんに退けた戦い。ものの数十分でかたがついたといわれている。


当時の鉄砲は、発火して発射するまで時間がかかったので、その欠点を克服するために、鉄砲兵士を3列に構えさせ、その時間のロスをなくし、連射できるようにした。織田信長という男は本当に戦国時代の革命児だ!



天守閣の各階に上っていくには、このような超急峻な階段を昇っていく必要がある。


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この写真に偶然写っている階段は、まだ全然緩やかなほう。
実際はもっと狭くて、思いっきり急峻である。


さすがにこれには自分は閉口した。
とにかく超怖い。
昇っていくのも怖いが、下っていくときはさらに怖い。


ここで足を滑らせて、階段を転げ落ちて骨折でもしたら、大変なことになると思い、もう手すりをしっかり両手でつかみながら、体横身にしながら、1歩づつ両足でかみしめながら降りて行った。


生きた心地はしなかった。
本当に超怖いです。

早く地上の出口にでないかな、とそればかり考えていた。
地上の出口に出るまで、ずいぶん長く感じられたことは確かである。


階段はこのように超危険なので、階段のところで写真撮影することは絶対禁止されている。


これを体験して思ったこと。この松本城天守で普段住んで過ごしている昔の武将たちは、急にトイレをもよおしたくなったとき、この超急峻な階段を下りていくのは、さぞかし大変だったのでは、と思ったことだ。(笑)


天守閣の最上階は、こんな感じである。


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最上階から降りていくと、ちょっと見晴らしのいい階に遭遇。
ここから外が眺められる仕組みになっていた。


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ふぅぅぅ~。やっと地上の出口に無事降りることができた。
生きた心地がしなかった。


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地上に降りたら、この松本城の創健武者である石川数正に扮した武将姿の方がいらした。いっしょに写真撮影してくれるサービスである。無料サービスでやっていた。こうやって、写真を撮りたい人に向かって、ポーズを決めてサービスしてくれる。


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石井数正というのはどういう武将であったのか?

徳川家康の家臣であったのだが、途中で豊臣秀吉方に寝返った武将なのである。
徳川家康から去った唯一の男で、豊臣秀吉の家臣に転職した男なのである。


ここでネット記事を一部抜粋して、その寝返ったミステリーをご紹介して、終わりとしよう。

戦国武将・石川数正とは?徳川家康から去った唯一の男、豊臣秀吉の家臣に転職する
By Dyson 尚子



戦国時代、徳川家康には多くの家臣がいた。


家康が織田信長や豊臣秀吉と決定的に異なるのは、自ら滅ぼした一族の遺臣をも召し抱えていたコト。家臣に対しても公平な扱いを心がけ、徳川家臣団の中でもとりわけ三河家臣団は結束が高いといわれている。


しかし、ただ一人。
そんな徳川家臣団から出奔(しゅっぽん)した者がいる。

それが、石川数正(いしかわかずまさ)。


西三河の家老まで昇りつめ、家康の信任が厚かったにもかかわらず、なんと豊臣秀吉の元へと去っていくのである。石井数正は、交渉術に長け、多くの場面で使者として折衝を行い、活躍した。だが、それが、皮肉にも豊臣秀吉との出会いに繋がるのであった。


豊臣秀吉には困った癖がある。


女性関係ではない。男性に対してである。ぶっちゃければ、他家の重臣に対して、「お誘い」してしまうのだ。いわゆる、引き抜き、ヘッドハンティングである。


秀吉は、これまで多くの戦いに参戦してきた。そこでは、必然的に様々な戦国武将と対峙することになる。敵側としての場合もあれば、味方となる場合も。どちらにせよ、戦場での勇猛果敢な戦いぶりを目にして、我慢できなくなるのだろう。「是非とも、うちに(豊臣方)」と、つい触手が伸びるといった感じか。


そのスカウト歴は、まあまあなものである。やはり徳川家の家臣は別格なのか。今回の石川数正だけでなく、本多忠勝(ほんだただかつ)にも声をかけている始末。


他家に対しても節操がない。伊達政宗の重臣、片倉景綱から、上杉家を支えた直江兼続(なおえかねつぐ)。他にも、小早川隆景や立花宗茂など、錚々たるメンバーだ。数え出したらキリがない。


また、すぐに様々なプレゼント攻勢をかけるところも、秀吉らしい。ある種、成金的な匂いがしなくもないが。派手好きで人間的な魅力に溢れた秀吉だから、できることなのかもしれない。


問題は、石川数正へのスカウトはいつから行われたのかというコト。最初の出会いは、豊臣秀吉が亡き信長のポストをかけて、柴田勝家と争った「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」の戦勝祝いの場。天正11(1583)年のことである。徳川家康が使者として遣わしたのが、石川数正であった。


一説には、この頃から秀吉の引き抜き工作が始まっていたとも。ただ、真偽は不明である。その翌年、天正12(1584)年に、徳川家康と豊臣秀吉は「小牧・長久手の戦い」で対峙。勝敗がつく前に、家康との連合軍であった織田信雄(おだのぶかつ、信長の次男)が秀吉と講和を結ぶ。こうして、小牧・長久手の戦いは、不完全燃焼で幕を閉じる。家康と秀吉が、互いの力を認め合った戦いでもあった。


この戦後の交渉役についたのも、当然のことながら外交担当の石川数正である。


そして、講和の翌年。
天正13(1585)年11月、突然、石川数正は徳川家康の元から出奔。

向かった先は、あの「豊臣秀吉」だったのである。


突然の出奔…理由不明の謎


確かに、複数の憶測が飛び交うだけで、確定的な事実はない。だからこそ、作家は料理し放題。格好のネタになるのだろう。


ここでは、大きく2つの説がある。


1つは、徳川家康と豊臣秀吉の板挟みに疲弊した末での出奔という説。つまり、額面通りに受け取って、数正が家康を裏切って豊臣方に走ったという説。


もう1つの説は、徳川家康の命を受けて、もしくは同意の下、あえて豊臣秀吉側の家臣となったという説。つまり、数正は家康を裏切っていないという筋書きである。出奔という名目で、数正を「スパイ」として潜り込ませる中途半端な戦略は、秀吉には通用しない。となれば、取る手段は1つ。思いきって徳川家康と縁を切り、豊臣秀吉の直臣となる。そして、秀吉側から家康をサポートするという方法だ。


石川数正の寝返りは、いまもって謎なんですね。


そんな家康を寝返った武将が、家康監視のための松本城を築城するところまでやるか、という話になると、自分はう~んと唸るばかりである。


いずれにせよ、松本城築城の武将、石川数正は、そういう武将だったんですね。


国宝・松本城、こんなお城でした。
3回目の訪問にて、きちんと日記にすることができました。
自分のお城コレクションに加えたいと思います。


もしコロナ第3波がなければ、先週の4連休に姫路城に行く予定でした。
日本で初めて世界遺産に登録された日本一美しい城。別名白鷺城。

本当に真っ白の外観の美しいお城です。日本のお城の中で一番美しいですね。
ここは長年の想いがあってぜひ行きたかったですねぇ。


また暖かい季節になったら、出直して再チャレンジしたいです。






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スティングが歌うダウランド歌曲 [国内音楽鑑賞旅行]

松本市音楽文化ホールでのコンサートで、イギリスのジョン・ダウランドの歌曲が演奏された。


続くブリテンもイギリスの作曲家で、「ラクリメ:ダウランドの歌曲の投影 Op.48」という曲が演奏され、「ジョン・ダウランドの歌曲」という繋がりで、しっかりとコンセプトが決まっていて、そういう狙いがあったんだな、と後日プログラムを見ながら、そう回顧した。


自分の場合、コンサートに行くときは、あまり予習はしないし、プログラムも開演前に、さっと眺めるくらいなので、そこにしっかりと埋め込まれている深い想いというのを、そのときに、なかなか汲み取れなかったりして申し訳ないと思う。


そのコンセプト、想いというのを、こうやって日記を書くにあたって、いろいろ調べてみて初めて、気づく・・・そういうものなのかもしれない。


ジョン・ダウランドの歌曲は、スティングも取り上げて歌っているということで、自分はびっくりしてしまい、あとで調べようと思った。


これですね。


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Songs From The Labyrinth
Sting



ジョン・ダウランドという作曲家の歌曲を聴いたこともなかったので、スティングがこの作曲家の歌曲を取り上げているということも知らなかったのであるが、HMVの紹介文を読んでみると、


「もともとユニバーサルでアルバムを制作していたスティングであったが、ここでは敢えて同じユニバーサルに属する世界最大のクラシック・ブランドである「ドイツ・グラモフォン」からアルバムをリリースすることで、クラシック・ファンにも自らの音楽を訴求していこうということなのであろう。」


この箇所を読んで、自分ははっきりとこのことを覚えていた。


そうである。


自分の記憶によれば、確かにスティングは、クラシックに挑戦!ということで、DGからアルバムをリリースした、ということがあった。2000年半ば。(正確には2006年)


そのとき、自分は、スティングもアーティストとしての自分のキャリアを広げるべく頑張っているな~という親心でそのニュースに接していた。


たぶん間違いなくそのときの話だったんだろうと思う。
それがまさかジョン・ダウランドの歌曲だったとは、そのときは夢にも思わなかった。
そしてそれから十数年後に、その事実を知ろうとは思ってもみなかった。

数奇な運命である。


自分はその当時、そのCDを買わなくて、そのまま素通りしてしまっていたのである。

いまこうやって改めて聴くなんて、なんか感慨深い。


その前に、ジョン・ダウランドという作曲家について、ちょっと解説を試みる。


ジョン・ダウランドは、17世紀イギリスで活躍した王室リュート奏者。作曲も手がけ、人間の愛や悲しみを歌ったリュート歌曲は80曲以上が残されている。


イギリスのエリザベス朝後期およびそれに続く時代に活動した作曲家・リュート奏者である。デンマーク王クリスチャン4世の宮廷リュート奏者や、イングランド王ジェームズ1世およびチャールズ1世の宮廷リュート奏者を務めた。エリザベス朝前後に流行したメランコリア(憂鬱)の芸術の巨匠とされ、特に代表作であるリュート歌曲「流れよ、わが涙」とその器楽曲版「涙のパヴァーヌ」は当時の欧州で群を抜いて最も高名な楽曲として、東欧を除く全ヨーロッパで広く演奏された。


リュートという楽器は、ギターの先祖のような楽器である。


自分は、リュートという楽器は、大昔に、初めてワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を観たときに、ベックメッサーがリュートを弾く場面を見て、リュートという楽器の存在を知ったのである。


いまのクラシックギターより、ひとまわりも小さく、音色も古楽器然としている。


ダウランドという作曲家は、サイン、自署するときは、「涙のジョン・ダウランド」(Jo: dolandi de Lachrimae)と書き、その実際の性格については、自称および作風通り陰気な人間であったとする説と、その逆に陽気な人間であったとする説があるみたいである。


「作風通り陰気」という記述があるが、これはあとで述べるが、確かにじつに渋い作風ではある。(笑)


スティングはダウランドについて、「私にとってそれらは17世紀のポピュラー・ソングであり、自分にも関係があることなのです。それらは美しいメロディーと幻想的な歌詞、そして素晴らしい音楽を持っています。私は常にダウランドの音楽を尊敬してきました」


と述べ、


「実は彼はシンガー・ソングライターの先駆けで、だから我々の多くが生活できるのは彼のおかげでもあるのです」とも語っている。


スティングはそんなダウランドへの単に音楽だけでない尊敬・共感の気持ちをあらわすためか、このアルバムで、楽曲解説の執筆に加え、ダウランドが国務大臣へ宛てた手紙の朗読までおこなっている。


曲の合間に、スティングによるダウランドの手紙の朗読があるのだ。
1節ごとに語り終わったら、手紙の送り主の「ジョン・ダウランド」で閉めるのが渋いのである。


そのライナーノーツを読んでみると、スティングがどうやってジョン・ダウランドという作曲家・リュート奏者を知って傾倒していったか、が刻銘に書かれている。


以下、スティングの記述。(ダウランドを知り始めたきっかけの部分を要約して抜粋。)


************


20年以上にわたって、私はジョン・ダウランドの歌曲に徐々にとりつかれていった。1982年に私は、アムネスティー・インターナショナルのためのバライティー・ショーの一環として、コヴェント・ガーデンのドルリー・レイン劇場に出演していた。自分の歌を1曲ソロで歌ったあと、俳優のジョン・バード氏がわざわざ来てほめてくださり、ジョン・ダウランドの歌曲を聴いたことがあるかと尋ねられた。


私はその名前は知っていたし、漠然とではあるけれど、ダウランドがエリザベス朝からジェイムス朝にかけて活動した作曲家だったということは知っていたものの、そのほかのことはほとんど知らないということは認めざるを得なかった。


バード氏の言葉に感謝し、その話にすっかり興味をそそられた私は、翌日、ジュリアン・ブリームのリュート伴奏でピーター・ビアーズが歌っているダウランドの歌曲集を捜し出した。


その音楽のもの悲しい美しさはよくわかったものの、ロック・シンガーを目指している私のレパートリーの中に一体どのようにそれを取り入れることができるのかは、まったくわからなかった。



●ダウランドと貴重な贈り物


私の友人で名高いコンサート・ピアニストのカティア・ラベックが、ダウランドの歌曲は、どうも正規の音楽教育を受けていない私のテノールの声に合っているかもしれないと示唆してくれたのは、それから10年以上経ってからであった。


再び興味をそそられた私は、ちょっとしたお世辞とは思わず、戯れにしかすぎなかったが、ダウランドの歌曲を3曲、彼女の指導のもとに学んだのである。挑戦したのは、「来たれ、重い眠り」、「ご婦人用の見事な細工物」、「あのひとは言い訳できるのか」の3曲で、2回にわたる非公式の音楽の夕べで、美しく異国情緒にあふれたカティアのフォルテピアノの伴奏で披露した。


そのとき、私はイングランドの作曲家たちの中でも最も不思議なこの作曲家について、少しだけわかった。つまりダウランドが、とくにヨーロッパの大陸では、当時の最も完璧なリュート奏者のひとりとみなされ、その名声は「イギリスのオルフェウス」として知られるほどのものであったということをである。その国際的な名声にもかかわらず、ダウランドは、一番望んでいた地位、すなわち女王エリザベス1世の宮廷音楽家という地位を確保することに失敗してしまったのだ。


数年前に、ダウランドへの興味を再び燃え上がらせてくれたのは、友人で長年の仲間であるギタリスト、ドミニク・ミラーであった。うれしいことにミラーは、私へのプレゼントとして9コースのリュートの制作を頼んでくれた。


・・・(以下中略)


リュートはアラブのウードの仲間で、モダンギターの奏者にとって比較的よく知っているように感じてしまうほどギターとよく似ているのだが、調弦や、シナプスを再構築するほどの難問をつきつけられているような指使いはギターとはまったく違うものである。


ゆっくりと、また確実に、私はこの古の楽器の迷宮のような複雑さと、慰めをもたらすその音楽に引き込まれ始めたのであった。


***********


こんな感じである。


スティングが最初にダウランドを知ったのは、1982年ということだから、ポリス4作目のGHOST IN THE MASCHINEのときですね。


バリバリのロックミュージシャンのときですね。(笑)


ダウランド歌曲とスティングの声質があう、と推薦されていても、ダウランド歌曲とロックでは、確かに、まったく異質で、自分のアルバムやコンサートのレパートリーにどのように組み込めばいいか、わからなかった、というのはよく理解できる。


両者はまったく異質な音楽で、溶け合うこともなく、それはスティングがロック・ミュージシャンであるうちは、公で歌うことは難しいというのは、必然のことなんだと思いました。


アルバムリリースが2006年だから、まさにダウランドを知って24年目の歳月。


スティングの中でどのようにダウランド歌曲に傾倒していき、ついには自分のアルバムとして、ダウランド歌曲のアルバムをリリースしていくかは、このライナーノーツに8ページにわたって、びっしりと熱筆が書かれている。


相当読み応えありますよ。


アルバムに収録された楽曲のうち、声楽作品は11曲で、ボスニア出身のエディン・カラマーゾフの爪弾くリュート伴奏に乗って、スティングが気持ちのこもった歌を聴かせている。


ダウランド歌曲は、まさに渋いです。
暗い憂鬱な感じで、最初聴いたときは、こりゃ渋いな~(笑)と思わず苦笑い。


確かにスティングのあのハスキーでセクシーな声質に合っているとは思うけれど、これを歌曲の作品として理解するには、やはりダウランドに対する理解と傾倒がないとなかなか難しいかなと感じたことは事実。


スティングの歌唱法はあのいつものふだん通りの歌い方で、その飾らない自然な歌い方がとてもいい。彼の物憂げな歌と郷愁感漂う曲調が見事にマッチし、上質のヴォーカル・アルバムといった雰囲気に仕上がっているが、やはりダウランド歌曲に対する理解と、習熟がないとなかなか難しい音楽のように感じるかもしれない。


自分は渋いな~というのが第一印象であった。


何回も聴き込んでいくと、そこには、なにかイングランド音楽固有の美しさがあるような感覚はしてきた。英国に根ざしている昔からある懐かしい旋律のような・・・そんな雰囲気はわかるような気がした。


自分勝手な理解ではあるけれど。。


でもダウランド歌曲はいろいろな人が歌ったり、リュートで演奏してたりするけれど、ロック・スターであるスティングが歌ったことで、その話題性で一躍有名になったのかもしれませんね。


スティング・ファンとして、こういう一面の彼を聴けたことも、とても貴重な体験でした。


自分のお宝盤として重宝しておきます。

   
 





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川本嘉子&吉野直子 デュオ・リサイタル [国内音楽鑑賞旅行]

世界中の誰もが予想だにしなかった新型コロナウィルスのパンデミックに見舞われて散々だった2020年。


クラシック音楽業界にも暗い影を落とした。
コンサートができなくなってしまった。


行きたいなーと思えば、すぐに公演カレンダーを見れば、必ずどこかでコンサートをやっている。そしてコンサートホールにコンサートをいつでも聴きに行くことができる。そんな当たり前だった日常が失われ、まさに暗黒の時期に突入した。


ましてや、演奏家の方にとっては、収入が失われることになり、我々以上に大変だったことはお察し申し上げる。


自分も今年の2月以来、生音のコンサートはご無沙汰であった。世界と比べ、軽症の日本は、比較的順調にソーシャルディスタンスなどのコロナ対策を施し、公演を再開することができていた。


そのとき、自分にとって生音への復活公演の最初の公演をどうするか、はひとつ自分なりの御祓としたいという考えがあった。別にそんなにもったいぶらずに、再開を始めているコンサートから順次参加していけば、もっと早く生音復帰できていたのだろう。


でも自分は、この最初の一発目の御祓のコンサートを重要視し、ひとつのセレモニーのように祝って、自分の気持ちに踏ん切りをつけたかった。


生音復活の御祓のコンサートさえ済んでしまえば、あとは好きなときに、好きな公演を、自由に行けるそういう日常のサイクルを復活させていく。そういう流れにしたかった。


その御祓のコンサートをどの公演にするかは、これはとても大切なことで、重要な決断が必要になる。なかなか決まらず、それでダラダラと日が経過し、周りではどんどんコンサート再開され、みんな生音復活されている。結構焦ってきた。


そんな中でこれだ!!!と出会えたのが、この公演だった。


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松本市音楽文化ホール(松本ハーモニーホール)は、かねてから自分の大のお気に入りのホールのひとつで、ぜひもう一度体験してみたいとずっと思っていた。


そしてこのホールには、カフェ「ちゃんとてーぶる」というホールに併設されているカフェがあり、そこを訪れて、このカフェのことだけで日記を書いてみたいとずっと思っていたのだ。


そう思ったのは、2017年あたりだろうか。


でもその当時、自分にはマーラーフェスト2020に行くという大目標があり、予算確保に懸命な毎日であった。松本に行くだけで、そして宿泊が入るだけで、結構な予算がかかる。だからマーラーフェスト2020以降に、プライオリティを回して実行する予定だったのだ。


カフェ「ちゃんとてーぶる」に向かって、「待っててくれよー!」と毎日呼びかけていた。ところが、このコロナ禍の影響をもろに食らって、2020/11/1付けで、そのカフェは閉業してしまった。


あちゃー、大ショック。


そりゃそうかもしれん、ホール併設のカフェは、コンサートあっての商売。コンサートのお客さんが対象のビジネス。それがないんだから維持できないのも当たり前であろう。


そんな想いもあって、松本市音楽文化ホールは、ぜひもう一回訪れてみたいと思っていたホールだったのだ。



川本嘉子&吉野直子 デュオ・リサイタル。


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もう申し分ないであろう!
完璧である。
もうなにをかいわんやである。


自分が追い求めていた御祓のコンサートとして、これ以上ない最適な公演だと思った。今年は、コロナ禍で、毎年夏に松本で開催されるセイジ・オザワ松本フェスティバルが中止になった。川本さんも吉野さんも、当然フェスティバルに参加予定だったので、今年は残念だったが、今回のこのデュオ・リサイタルが、今年開催される予定だったセイジ・オザワ松本フェスティバルのリベンジ公演になります、という再チャレンジの意向。


これはもう当然自分の心の琴線に触れたことは言うまでもない。


すぐに感動して涙腺が緩んでしまう自分には、こういう話にはめっぽう弱い。


やはり松本市は、小澤征爾さん、ゴローさん、そしてサイトウ・キネン・オーケストラの街なのである。いまの自分がある、まさに原点の街なのだ。


毎年夏、サイトウキネンフェスティバル松本に通い詰めていた自分。
そして水戸芸術館に水戸室定期を聴きに入っていた自分。


本当に最近は不義理でご無沙汰していたけれど、ひさしぶりに小澤さんの世界の原点に戻って、コロナ禍後の最初の生音復活コンサートとして、この松本で自分の原点を確かめ再出発しようと思ったのである。


もう即決であった。



松本市音楽文化ホール。


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松本から2駅の島内という街にある。自然豊かで閑静な住宅街の中に佇む本当に美しいホールである。自分のホール・コレクションの中でも、大のお気に入りのホールなのである。


自分が想っているところでは、けっして商業ベースのホールではないな、と思うところ。小澤さんの松本音楽祭をメインに、良質なコンサートを年間に数本、クオリティ重視のホールのように見えてしまう。


細々とやっている・・・なんかこんな感じの微笑ましさがあって、自分は大好きなのである。


ホールの管理・維持費は膨大なはず。採算取れているのかな~とかいつも心配している。(笑)ましてや、今年のコロナ禍は大変な損失額。本当に心配しています。


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このホールは、とにかく最初の出会いのときに、その音響の素晴らしさに、びっくりして、ひと聴き惚れ、というか、ひと目惚れしたホールであった。


石造りの吸音ゼロ、反射オンリーのヨーロッパの教会のような音響がします。もちろん厳密にホール音響設計されているだろうから、吸音ゼロ、反射オンリーということはないだろうけれど、それだけ残響感豊かなホールである、という意味である。


広大な音場、明晰な音像の両立。
硬質な音質で、音の芯がしっかりと太いこと。
どちらかというと、寒色系でソリッドな響きといえるかもしれない。
そして音の抜け感がいい、広大なる空間感の素晴らしさ。(天井が高い!)


石造りの壁なので、吸音ゼロ、反射オンリーの反射音でホール内が混濁する可能性があり、音像がその響きの中に埋もれてしまう危険性があると思うのだが、それが不思議にそうはならないところが見事な音響設計だと思う。


実音(直接音)と響き(反射音)は、分離して聴こえる。


このふたつが分離して聴こえると(実音が最初に聴こえて、響きがその後に続く聴こえ方)、そのホールの空間感がよりリアルで(より広い空間で聴いているような感覚がする。)、立体感が増すというか、より立体的に聴こえますね。


そうなる要因はホール容積が大きいことに起因します。
でも実際はそんなに広くもないです。(笑)
だからフシギ・・・


直接音の伝搬距離と、反射音の伝搬距離を微妙にそのような遅れ具合のタイミングで聴衆席に届けるような精密な音響設計がされているのでしょう。直接音に対して、どのくらいの遅れのタイミングで反射音が到達するかで、人間の耳が感じる気持ちよさが変わってきます。


また反射音が耳に入ってくる角度でも耳で感じる音の広がり方など結構大きな違いが出ます。そのようにホール形状の設計もされているのでしょう。壁の角錘状の音響拡散デザインにしてもしかり。


両壁、ステージ後背面の形状は、角錘状にデザインされ、反射音の客席への万遍ない拡散が施されているような工夫がされています。


とにかく堪らん音響なのである。


このホールが自分の大のお気に入りのホールなのは、そんな音響上の魅力があるからです。




さて、いよいよ今年の2月以来、じつに9か月振りの生音復活。


ホールの響き、ホール感、ダイナミックレンジ、そして器の大きさ・・・もうやはり生音は凄いとしかいいようがなかった。空間容積の大きい、音が反射することが前提で設計されているコンサートホールで音を聴くときのこの自分の体全身にいたる四方から響きに囲まれるこの感覚は、やはり家のオーディオでは無理な感覚であろう。


スケール感が全然違う。

やはり別次元の世界に驚愕した。


ふつうにコンサートに行けていたときは、そんなにコンサートホール、オーディオと違いを意識して差別化したことはなかったが、これだけ片方が長期間ご無沙汰になると、本当に懐かしい感覚だった。


そうだよ、これだよ、これ!という感じ。


でもこのダイナミックレンジの体感の違いは、ある程度、自分の中では想定内のことであった。たぶんそうなんじゃないかな、と想像がついたところでもあるので、やっぱりその通り・・・という感じで、格段驚きもしなかった。


すべて想定内なのである。



それよりも自分が驚いたのは、そうだったのか、と再認識させられたことは、生演奏には、ステージの奏者と聴衆との間に、呼吸することさえはばかれる、息をのむような、はりつめた空気、緊張感が存在することである。


つまり奏者~聴衆との間の一種の真剣勝負、密なコミュニケーションが存在することだ。


そしてそのホール空間の中で、奏者、聴衆全体で「共有の感覚」を持っていることである。


これは生演奏ならではの最大のポイントではないだろうか?


ステージの奏者と聴衆との間でこういう「共有の感覚」をお互い持っているからこそ、奏者は訴求する相手を特定することができるし、そこに向かって全力投球できるのであろう。そして聴衆は、その発信されるエネルギーを奏者からダイレクトに受けている感覚になり、感動がひときわ大きくなるのだろうと思った。


もちろんその共有の空間に、いっしょにいる他の聴衆も同タイミングで感動するから、さらにその共時性で感動は膨れ上がるのだろう、と思う。


ライブストリーミングで、TVやPCの画面上から、リスナーは、この奏者~聴衆との間のコミュニケーション、共有の感覚を感じ取ることができるであろうか?


ライブストリーミングにすると、その繋がりが遮断されてしまうのではないだろうか?


自分は、このデュオ・リサイタルを生音で聴いているときに、まず大きな衝撃を感じたのはそこである。9か月も生音、ご無沙汰であったからこそ、ひさしぶりに聴いてわかったこと、という感じであろうか・・・。


TVやPCの画面を通してコンサートを視聴しているときは、この奏者~聴衆との密なコミュニケーションが、完全に遮断されてしまっているのではないだろうか?


ライブストリーミングであると、奏者にとっても訴求する相手がいない訳だから、そこにエネルギーをぶつけるべき場所が見つからず、どうしても精神的に集中度合い、真剣さを作り出すことができず、散漫的な精神状態になってしまうのではないだろうか?


この事実を突き付けられたとき、自分はかなりショックだった。


ライブストリーミングは、もちろん高画質・高音質の方向性に進むのは既定路線だが、それだけでは解決できないいまのライブストリーミングに足りない部分はそこなんではないかな、と思うようになったのだ。


ショックだったが、自分はすぐに頭の切り替えをした。



技術は、必ず追いつきますね。
数年後、数十年かかろうが、過去の歴史がそれを証明しています。


つねに技術やエンジニアの立ち位置って、後から追っかける、そういう立ち位置。


恋と同じです。2人の間に立ちはだかる障壁が高ければ高いほど、冷たくあしらわれる程、熱く激しく燃えますね。そういう人種だと思う。



ない!と言われているものは、作ればいいですね。


TVやPCのモニター画面を見て、あのホール空間の「共有の感覚」を作り出せばいいですね。なんかそういうのって、今の時代にあった新しいテーマっぽいじゃないですか!(笑)


将来のライブストリーミング配信には、単に高画質、高音質を追い求めるだけじゃない、そういうホール空間の「共有の感覚」までがもれなく再現できる!


これこそ、究極のライブストリーミング配信ではないでしょうか?



自分は単細胞だから、これで自分のモヤモヤは一気に解消。(笑)

不可能なことはないです。

技術は必ず追いつくからです。



そして最後に川本嘉子さん&吉野直子さんのデュオ・リサイタル。


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(c)松本市音楽文化ホールFB


本当に素晴らしかった!
もう言うことないくらい大感激しました。
本当にありがとうございました。ご苦労さま。


自分の御祓のコンサートとして、十分すぎるほど格式が高かった演奏会でした。

お互い気心がしれている間柄であるから、本当にコンビネーションも素晴らしく、絶妙の神業の連発を聴いたような気がします。


演目は、


川本さんのヴィオラ独奏:バッハの無伴奏チェロ組曲。
吉野さんのハープ独奏:N.ロータ:サラバンドとトッカータ。


は各々のソロ独奏で、それ以外は、2人の合奏で。。。


川本さんのバッハ無伴奏チェロは、最初はコンサート冒頭だったので、「あ~緊張しているな?(笑)」という感じで硬さがあったように見えましたが、楽章進むにつれて、どんどんボルテージが上がってきて、見事な絶品の演奏に変貌した。ヴィオラとチェロは音域的にもそう遠くない楽器と思うので、ぜひこういうチャレンジはいろいろやってほしい気がします。


吉野さんのハープは、もうここのホールの音響で、このハープのボロロンという音色は禁じ手というか、罪作りなのではないでしょうか?(笑)素晴らしすぎて圧倒されました。吉野さんの独奏は、N.ロータのサラバンドとトッカータで、後半冒頭だったので、もう前半にだいぶ演奏もやって、MCまでやりましたから、緊張もせず、のびのびと演奏されていたのがよくわかりました。


本当に珠玉の作品演奏でした。


今回は、普段この2人ならMCはやらずに、そのまま演奏ですべてを通すパターンが多いと思いましたので、今回もそうなんではないか、と思いましたが、なんと!驚きのMCタイムもありました。


これで一気に場が和みましたね。


松本は、やはり自分たちの故郷であること。そして今回の公演が今年中止になってしまったセイジ・オザワ松本フェスティバルのリベンジ公演のつもりで開催したこと、松本への感謝の気持ちも含めて。。。


そして、ブリテンの曲では、川本さんのヴィオラの大尊敬する大先輩でもある今井信子さんとの話、もともとこの曲はヴィオラとピアノのために書かれた作品で、後にピアノの部分を弦楽合奏に編曲したバージョンも作曲者自身によって作られていること、そしてそのピアノの部分を今回ハープで演奏することになったことなどのいきさつが語られたように記憶している。


そして今回のコンサートで一番驚いたのは、まさに意表をつくとはこのことで、スティングの話が出たことだった。(笑)


ルネサンスとバロックの過渡期に活躍したジョン.ダウンランドは、デンマークやイギリスの宮廷リュート奏者を務めた作曲家。そのダウランドがギターの先祖にあたるリュートを伴奏にした哀愁にみちた歌曲が、とても有名で、あのスティングが歌っていたりしてジャンルを超えて愛されているとの話。


今回のヴィオラ&ハープの合奏では、その歌曲のうち、

「甘い愛が呼んでいる」「流れよ わが涙」「もし私の訴えが」

の3曲を演奏した。


MCで川本さんは、このダウランドの歌曲は、いろいろなアーティストが歌っているのだけれど、やっぱりスティングが歌っているのが一番最高なんですよ。ってな感じ。


自分は、もう猛烈に反応。(笑)


このスティングが歌うダウランドについてはぜひCDを買って別スレで日記を別途に書こうと思っています。


お楽しみに!


最後に、トリに持ってきたシューベルトのアルペッジョーネ・ソナタ。
これは、もうトリに相応しい強烈な疾走感と盛り上がりがあって、2人の超絶技巧と丁々発止のやりとり掛け合いなど、本当にスリリングな展開であった。


「うわっこりゃ最後の曲だけあって、最高の盛り上がり。こりゃ凄いや!」


と思わず唸ってしまった。


特に川本さんのヴィオラが主旋律を朗々と歌い上げる展開が、延々と続くのは、まさにこの曲の最高の見せ場といっても過言ではなかった。


そのヴィオラの音色にずっと恍惚としてしまったことは正直に告白せざるを得ないであろう。ヴィオラとハープの音色、音域のコンビネーションは、本当に人間の聴覚、脳神経にとって、もっとも癒され効果のある音域組み合わせだなぁということを、つくづく認識させられた。


本当に素晴らしい演奏会でした。
9か月ぶりの生音復帰公演として申し分なかったです。
この公演を選んでよかったです。


これで御祓は済んだので、あとは、自由に好きなときに、好きな公演を、すきな日時時間帯で、自由にやって自分のいつものペースに戻れます。


ホテルに帰っても興奮が続きなかなか眠れず、意識がなくなったのは、午前3時を過ぎたあたりであろうか・・・


2020年11月17日。自分のクラシック鑑賞人生の中で、一生忘れることのできない再出発の日となった。





川本嘉子&吉野直子 デュオ・リサイタル
2020/11/17(火) 19:00~
松本市音楽文化ホール


J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調BWV1008 (ヴィオラ独奏)

F.クライスラー:クープランの様式によるルイ13世の歌とパヴァーヌ

J.ダウランド
「甘い愛が呼んでいる」(歌曲集第1巻、1597)
「流れよわが涙」(歌曲集第2巻、1600)
「もし私の訴えが」{歌曲集第1巻、1597)

B.ブリテン:「ラクリメ-ダウランドの歌曲と投影」Op.48


休憩


N.ロータ:サラバンドとトッカータ(ハープ独奏)

F.シューベルト:アルペッジョ・ソナタ イ短調D.821


アンコール


F. メンデルスゾーン
チェロソナタ第2番ニ長調 Op. 58より 
第3楽章アダージョ












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歳をとっていくとわかること。 [雑感]

mixiでSNS生活をはじめたときは、mixiには足跡機能というのがあって、誰が自分の日記を読みに来てくれたかを気にしていたりした。


いいねがいっぱいつくと嬉しくなるのは、もちろんだけれど、こういう感情と言うのは、自分くらい歳とってくると、いまやそんなことは本当にどうでもいいことに思ってしまう。


昔は40人くらい、いいね、がついたものですが、いまやどんどん去って行って、ほんの気心知れた7~8人くらいでしょうか?


いわゆる世間でいうところの”承認欲求”というものですね。

SNSで発信者を長年やっていると、誰しもが必ずもつこの”承認欲求”。
これが原因でケンカになったりもする。


でも自分が長年やってきて悟ってきたことは、そんなものに自分の感情が振り回されるのは、かなりエネルギーの消耗だと言えることだ。


自分が昨今悟っているのは、歳をとっていくにつれて去っていく友達はどんどん増えていくが、新しく友達をつくることはどんどん難しくなるということである。(笑)


これは自然界の理ですね。


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でも市場の反応をまったく無視し続けて、ひたすらマイペースで投稿するのも問題である。

受けなかったら、こういうのはダメなんだな、とか学習しないといけない。

昔の自分と違って、ちょっとは大人になったかなぁと思うところはそこだ。
ある程度考えるようになった。


だてに歳食っていないので、いわゆる人生の抽斗(ひきだし)というのが多いので、それでいままで日記生活をしてきたようなものだ。


でも気をつけないといけないことはマンネリにならないことだ。

自分の抽斗には限界があって、必然とマンネリ化してしまうのも仕方がない。


でもそこをなんかちょっと違った切り口で語るとか、このような能天気で楽天家に見えてもふだん考えているんですよ。(笑)


マンネリは、読み手側に疲弊感を与えますね。
活気がなくなります。


若いころは抽斗がないから、いま絶賛抽斗作成中というところだが、歳をとっていくと抽斗が多くなる分、それを使い切ったら、そこから新たに新しい抽斗を作る作業というのは、若いころと比較して、ガクンとペースが落ちる。


そこからマンネリという現象が始まってしまう。


歳をとってくると、そういうことを考えるので、そうならないように、歳を取ってもなるべく新しい世界を吸収して、自分の抽斗を増やすように努力する。


雑誌などで、売文業のプロの寄稿を読んだりすると、こういう世界は自分に向いているかなぁと考えることがある。


やはりテーマが決まっていて、それに合わせて、参考文献も参考にしながら、文章を煮詰めあげていくというのは、これはこれでかなり大変な作業である。そのテーマと訴えるポイントが合致していて、読者に感銘を与えるというのは、かなり重労働な仕事なのではないでしょうか?


そういう制約のない、自分の好きなことだけを、好きなタイミングで、思いついたときに書くという作業が自分には合っているのでは、とつくづく思う。


もちろん自分の好きなことだけを書いていくわがままな世界。(笑)


自分は不器用な人間なので、その枠に嵌るように自分を制御・変形させるのが苦手かもしれない。アーティスト評やコンサートレビューだって、自分が好きなアーティストだからこそ、いっぱい愛情をもって表現できるし、心底感動できるのだと思う。


プロはそんなことは言っていられない。
常に的確なジャッジを下さないといけない。平等に。


自分は不器用な人間だから、たぶん無理で疲れてしまい、すぐに根をあげてしまうだろう。文章を書くことが楽しくなくなり、仕事になってしまうといままでのような楽しんで書くということができなくなってしまうような気がする。


いまは自分が好きなこと、楽しいこと、自分フリーに書いているから、書くことが楽しいのだろうと思うわけです。


・・・なんてそんなことをつい最近考えている。


でも一皮むけて、そこを脱すれば、また別の新境地があるのかもしれませんが。。。


歳を取っても、つねに新しい抽斗をつくることに気を配って、歳を取っていきたいものです。(もちろん何十年経っても、まったく変わらないこの文体、そして視点にホッとするという価値観もあることはもちろんです。)


でも自分の場合、趣味の世界なんだから、あまりそんな面倒くさいこと考えずに好きなだけやっちゃえ~てな感じでいいのではないのでしょうか?(笑)










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金閣寺 [雑感]

京都の金閣寺、正式名、鹿苑寺は、おそらく京都観光でもっとも有名な観光スポットであろう。


自分も2016年の夏、秋の京都ツアーでは、訪問し、その美しさに感動した。同時に、この京都の定番観光スポットというのは、もう外国人によるインバウンド需要のメッカであることも実感したものである。


その2016年秋の紅葉シーズンの自分が撮影した金閣寺である。


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特にこの部分の建築を舎利殿(金閣)という。
創建者は、室町幕府三代将軍足利義満である。


舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。


そうである。ご存じのようにこの舎利殿(金閣)の部分は、1950年(昭和25年)7月2日未明に、放火されて焼失しているのである。


これはじつに衝撃的なニュースであった。


鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名・林養賢、京都府舞鶴市出身、1929年3月19日生まれ)が行方不明であることが判明し捜索が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕した。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。


新聞記者・福田定一こと後の作家・司馬遼太郎は、この事件の取材にいち早く駆けつけた。


気になる動機だが、


逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。


そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの作家により文学作品が創作された。一例として、三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。
 


1950年12月28日、犯人の林は京都地裁から懲役7年を言い渡されたのち服役したが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院、1956年(昭和31年)3月7日に26歳で病死した。



金閣を放火したこの事件を小説家したもので最も有名なのは、三島由紀夫の「金閣寺」。


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金閣寺 (新潮文庫)   (日本語) 文庫 – 2020/10/28 
三島 由紀夫 (著)



三島由紀夫の小説、いわゆるミシマ文学を一度読んでみたいとずっと思っていた。


自分は文学・小説の世界とは縁遠い人生を歩んできたので、お恥ずかしながら三島由紀夫の小説を読んだことがなかったのである。


修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風。純文学の象徴的な存在で、その文体は難解で、初心者には読みずらいという評を自分は信じていた。


自分には、かなり敷居が高いかなと思ってきたのだが、どうしても「金閣寺」は読んでみたくて、今回思い切って三島小説に挑戦してみたのである。


「金閣寺」は、三島の最も成功した代表作というだけでなく、近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされ、海外でも評価が高い作品である。


そんなこともあり、三島文学を読むなら、まず「金閣寺」を読みたい、というのも動機のひとつであった。三島由紀夫「金閣寺」は、予想を超えて、自分でもよく理解できたし、全然難解ではなかった。


犯人は溝口という名前で設定され、その放火に至るまでの心理描写など、かなりスリリングに読ませていただいた。幼いころ、父親から「金閣ほどこの世で美しいものはない」と教えられ、その後「金閣は燃やさねばならぬ」と決意するに至るまで。


三島の放火動機の推理は、「美に対する憧れと反感」。それと自分の吃音と不幸な生い立ちを巧妙に絡めさせて物語を創り上げていた。


金閣寺が放火され焼失したのは1950年7月。史料を基に金箔を貼って復元、再興されたのが1955年10月。そして三島が「新潮」で「金閣寺」の連載を開始したのが、明けて1956年1月。このタイミング。まさに三島が「金閣寺」を書く時期は、この時期にしかなかったのだろう。第十章からなり、連載は1章づつ、毎日同じ文量だった。


三島は1955年11月に京都に赴いたが、金閣寺の直接取材や面談は断られたため、同じ臨済宗異派の妙心寺に泊まり、若い修行僧の生活を調べた。金閣寺周辺取材について三島は、〈それこそ舐めるやうにスケッチして歩いた〉と語り、南禅寺、大谷大学、舞鶴近郊の成生岬、由良川河口も丹念に文章スケッチされ、五番町などは実際に遊廓の一軒に上がり、二階の部屋の内部の様子や、中庭に干された洗濯物までも詳細に記述されている。


さらに、どうやって調査したのか、直接取材を断られたにもかかわらず、金閣寺内の間取りや畳数を記した室内図や作業場内部の図まで克明に描かれている。


そうなのである!


この金閣寺内の間取りが小説で実際、犯人溝口が放火に至るときの描写として、かなり刻銘に記載されていて、驚きなのである。これどうやって調べたのかな?と思わず思ってしまうのである。


小説「金閣寺」は、やはり一個の文学作品であるから、当然、事件の真実とは違いますね。作中の人物はもとより、〈私〉の行動などは事実とはかなり異なるようである。


一例として、終結部分で、〈私〉は生きようとして小刀とカルモチン(催眠剤)を投げ捨てているが、林養賢は、山中でカルモチンを飲んだ上、小刀で切腹した(未遂に終わる)。。。とか。


そこはどうしてもひとつの文学作品として、完成度を上げていかないといけないところであるから、事実のままでは劇場性に足りず、どうしても脚色が必要ですね。


そして、自分がなによりも、事件の真実として違う、脚色を施している、と読んだときに思ったところは、犯人・溝口、すなわち「私」が、「焼く」のは復元後の「今」存在する金ピカの金閣寺であり、つまり未来の金閣である、というところである。1950年の煤けた金閣ではないのだ。


物語では、「金閣ほどこの世で美しいものはない」、「金閣を焼かねばならぬ」と至るところに、つねに現世での至上の最高美を誇る象徴として金閣が表現されている箇所が随所に見られるからである。


三島が「金閣寺」の小説を書き始めたのは、金ピカのいまの金閣寺が復元された1955年の翌年からの1956年から連載をスタートしている点だ。


つまり小説のドラマの脚色として、「最高の美しさを誇る金閣を燃やす」というところを強調することで、その精神異常性のきわどさを表現したかったのではないだろうか?


そのほうがより衝撃でドラマティックになるのではないか?と考えたのではないだろうか?


完璧な文学素人考えですが。(笑)


では焼失する前の金閣寺ってどんな感じだったのであろうか、ネットで拾い絵で集めてみた。


これが焼失前の金閣寺の真の姿である!!!

衝撃である!
全然金色ではなかった。(笑)


そりゃそうですよね。室町時代の足利義満の時代から、500年以上は軽く超えていますよね。当時は金ピカだったのかもしれませんが、それも剥げ落ち、こんな姿が真の姿だったのかも?


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そして放火され、焼失した後。


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金閣寺は、江戸時代や明治時代など何回も修繕されているようなので、室町時代の金閣寺はさらになにをかいわんやであろう。


この姿をみて、自分はかなりショックでした。(笑)


この三島由紀夫「金閣寺」を題材としたオペラも上演されています。


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2019年2月の東京二期会による「金閣寺」。
東京文化会館大ホール。


平成30年度文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)
2019都民芸術フェスティバル 参加公演

原作:三島由紀夫
台本:クラウス・H・ヘンネベルク
作曲:黛 敏郎
演出:宮本亜門


これは見たかったです。
滅多に上演されない非常にレアな演目なので、これを逃したら、本当にまた
いつ見れるかわからないですね。

自分は縁がなく、行けませんでした。
これは本当に悔いが残りました。


主人公の犯人溝口は、吃音だとオペラにならないから、腕などの身体障害で代替えだったような記憶があります。


いつになるかわかりませんが、今度上演されるときは、ぜひ行かないといけないオペラですね。



 

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勝負の世界で絶対やってはいけないこと [雑感]

プロ野球の世界で自分が学んだことは、勝負の世界では、その勝負の最中に相手を挑発するような発言は、なるべく慎んだほうがいいということだ。

子供時代に野球を見てきて、それを嫌と言うほど体験した。

そういう発言をすると、形勢が一気に逆転して、相手を元気づけさせてしまうからだ。自分が有利な形勢ほど、謙虚な姿勢がいい。

鮮烈な想い出としては、1989年の巨人×近鉄の日本シリーズ。
シリーズ序盤でいきなり近鉄の三連勝。

そしてその第三試合の試合後のインタビューで近鉄の加藤哲郎投手が、「巨人はロッテより弱い。」発言をして、翌日スポーツニュースは大々的に報道した。

後年、加藤投手はそんな発言はしていない。「自分はあくまでレギュラーシーズンの方が苦しかった。」と言っただけだ。

それをメディアが面白おかしくでっち上げた。

この一言が、巨人を奮い立たせた。

その後、近鉄に四連勝。三連敗のあとの四連勝で日本一になった。

もう加藤投手のその後の人生、大変であったろうと推測する。


新しいと言っても、ちょっと昔だけれど、野球の世界トーナメント戦WBCの第1回大会。イチロー選手が、韓国戦を前に、「ちょっと徹底的に違うレベルを見せつけたいと思います。」と答えて、翌日それが韓国内で大バッシングとなり、韓国は燃えた。

いきなり日本に対し韓国は2連勝。
もう韓国はざまぁみろ的な感じで自国内で大はしゃぎである。


結局決勝では、見事リベンジして日本が優勝したわけだが、それ以来日本×韓国戦は、どうしても宿命のライバルというか、熱くなってしまうのが常になってしまった。

スポーツには、ボクシングやプロレスのように、試合前の相手を挑発することが一種のショーになっている場合も多々あるけれど、基本は形勢が自分に有利なほど謙虚でいたほうがいい。

相手を怒らせないほうがいい。
相手を挑発して、世間を一気に敵に回さないほうがいい。

一気に流れが変わって形勢逆転するからである。
勝負の世界ってそんなものである。

高校野球で昔、早稲田実業と駒大苫小牧の決勝で、ハンカチ王子、斎藤祐樹投手とマー君こと田中将大投手の熾烈な投げ合いは、結局ハンカチ王子の斎藤投手に軍配が上がった。

でもその後のお互いの活躍ぶりはもう天と地の差なのはご存じの通りである。

このとき、マー君が余計なことをいっさい言わないことが自分は彼はやはり賢いと思うところなのである。斎藤投手のことをいっさいコメントしない。

もし侮辱というか、そういう挑発的な発言をしてしまえば、一気に世の中形勢逆転してマー君は苦境に追い込まれると思うのである。

そういう発言をすると、必ず自分に返ってきますね。

だからそのことにはいっさい触れない。
マー君は賢明な男だと思うのである。

将棋の世界でもそうですね。


藤井聡太くんは、まだ若いから、発言するときに、一瞬抑え込む、考えて発言するというセーブが、若いときはなかなか効かないから、つい本能的に挑発的な発言をしてしまうこともあり得るかもしれない。

でも彼は謙虚な性格だから、その心配はないと思いますが、でも人間ってわからない。そうすると一気に自分に返ってきて、形勢逆転という感じになってしまう。

勝負の世界は、一瞬でガラっと変わりますから。
怖い世界です。

自分が野球の世界で学んだことは、このことである。
これは実生活にも十分通用することと思います。


いままで野球は奥にしまっておいたけれど、広島×近鉄の日本シリーズの江夏の21球(9回裏ノーアウト満塁のピンチ)とか数々の名場面、じかにリアルタイムで見てました。

結構野球に関しては伝説の場面は、かならず立ち会ってきたような気がします。

でもいまやもう、あの頃のような野球に対する熱意はもうないです。





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