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孤独がない人はダメ [雑感]

2017年10月17日にNHK BSプレミアムのアナザーストリーで放映された
「長嶋茂雄 引退の日 ラストシーズン」。


再放送されたものを録画してあったのだが、今日ようやく拝見した。


長嶋さんのあのラストシーズンで引退試合を迎えるまでの葛藤、あのときいろいろ起きた裏事情、そして長嶋茂雄という日本プロ野球史上最高のスターの野球人像をあらためて考えてみる、という内容のドキュメンタリーである。


その中に現在の長嶋さん本人のインタビューもあって、その中で、自分の人生にとっても、かなりドキッとくるような衝撃なコメントがあり感激してしまった。


深いよなぁ、という感じ。
頂点を突き詰めた人だから達観できる世界観というか。。


長嶋さんの現役時代は、自分は子供の頃は幸いにも晩年の3~4年くらいはリアル体験できた。あの引退試合、中日とのダブルヘッダーはじかに観ていましたから。444号のラストホームラン、最後の「巨人軍は永久に不滅です。」もリアルタイムで観ていました。


王さんとのアベックホームランも観たことがある。アベックホームランというのは、ON砲、王・長嶋さんから生まれた言葉じゃないですかね。アベックホームランって本当に興奮します。相手に与えるダメージは圧倒的に凄いですね。完璧なまでに叩き潰すという感じですね。


自分は子供の頃から野球少年で、プロ野球、高校野球はもちろん、巨人の星、ドカベン、野球狂の詩とか、のめり込んでいました。サッカーはダメなんだよね。ワールドカップしか見ない。(笑)Jリーグはサッパリ。


巨人V9時代は本当に後半のみ実体験。だから小学生の子供の頃。


本当に自分が等身大でリアルにプロ野球にのめり込んだのは、巨人で言えば、江川、西本、原、篠塚、中畑とか、阪神でいえば、バース、掛布、岡田、真弓、中日でいえば田尾、谷沢、モッカ、大島、中尾、小松、そして広島なら山本浩二、衣笠、高橋慶彦、北別府とかの時代。


自分はまさに日本プロ野球の黄金時代と呼んでいます。


その後も、そのときほどのめり込みはしなかったけれど、ずっと関心を持って観てきた。長嶋監督のメークドラマ、巨人・中日10.8最終決戦とか、野村ID野球全盛時代、イチロー、松井秀喜、日本人プレーヤーが大リーグへとか、WBCとか、もういままでの重要なところは大体。


最近はまったくダメになりました。
野球中継を見ることさえ無理な体になってしまった。
ニュースで結果を見るくらいです。


長嶋茂雄さんは、打っても、守っても、走っても絵になる千両役者のような選手だった。「燃える男」、チャンスにめっぽう強い、プロ野球の”躍動感”をファンに与え続けてくれた類まれな選手だった。


ときは高度経済成長期。まさに長嶋は明日に向かう希望の星。

戦後最大のスーパースターであった。


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この写真は、空振り三振のときの超有名写真だが、このヘルメットを飛ばすのは本人が意識して飛ばしていた、というのは有名な話だ。


プロスポーツのカメラマンも、その絵になる一瞬を撮るって本当にプロだよなぁとつくづく思います。


長嶋さんは、当時の川上監督からV9達成のときに引退することを命じられた。川上監督からすると、長嶋茂雄ほどの大打者の生涯打率が3割を切ることは絶対許されることでなく、そこを心配していた。


でも、パッと座布団を跳ね除けて正座して
「監督、あと1年、あと1年やらせてください。」


その最終年、スランプと不調とどう向き合っていったのか、を刻銘にそのドキュメンタリーで描いていく感じである。


長嶋さん曰く、


「自分はみなが言うような天才型ではなく、どちらかというと努力型でしょうね。努力はあまり人に見せない。努力というのは見えないところでやること。」


当時は、王:努力型、長嶋:天才型と確かに言われていましたね。


ダブルヘッダーの引退試合で、第1試合終わったとき、長嶋さんが外野フェンス沿いに1周して回ったのも伝説で有名である。


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このときの裏事情についても、このドキュメンタリーでは密着している。

「もうひとつの引退セレモニー」

というタイトル。


この引退試合の4日前に、巨人軍広報部長 小野陽章、後楽園球場支配人 丸井定郎と長嶋さんを加えた4人で、その引退セレモニーについて事前の打ち合わせ。


そこで、長嶋さんは外野フェンス沿いに場内一周したいと申し出る。


でも、それは観客ファンが興奮してグランド内に入り込んできて非常に危険。くれぐれもそれだけはやめてほしい、と却下。長嶋さんはそのときは、わかりました。


確かに、この頃のプロ野球って、観客がグランド内にどんどん雪崩れ込んでくるというのが当たり前のシーンでしたね。


巨人V8のときに、優勝を決める阪神との甲子園決戦。あっさり巨人が大勝して、怒った阪神ファンがグランドに雪崩れ込んで、巨人選手はもうめちゃくちゃボコボコにされたとか。


あと、古葉竹識監督率いる広島が、赤ヘル軍団旋風を巻き起こし、球団初の優勝を遂げたとき、最下位の長嶋巨人との後楽園球場で優勝を決めた瞬間。もう凄かったです。観客席からどど~って雪崩れ込んできて、もみくちゃにされながら、胴上げしていましたね。


リアルタイムで観てました。あんな大人数雪崩れ込んだのを見たのは、この1戦が自分の中で1番でした。最近まったくそういうのがなくなりましたよね。


確かに危険だからなのでしょうけど、最近のお客さんは以前ほど熱くならないというか、大人しいんですかね。それともそうできないように物理的な仕掛けが球場にできているのでしょうか?


当時の富坂警察署からも、くれぐれもそれだけはやめてほしい、とのこと。それで長嶋さんは引き下がったのだけれど、引退試合のダブルヘッダーの第1試合の7回表が終わってベンチに帰ってきたとき、長嶋さんは、広報部長 小野さんに


「小野さん、やりましょう、やりましょう。」


そのとき小野さんは、長嶋さんの最後のお願い。あとで問題になったら、自分が辞めればすむこと。として認めた。


それで、あの場内一周が実現した。


幸いにも観客がグランドに流れ込んでくるということはなかった。

そうだったんだね。

これが「もうひとつの引退セレモニー」。

ちょっと自分はじ~んと来てしまいました。


そして、最後が、「1人で自分を追い込んでいく」。
これが自分は最高に感動し、共感したところであった。


長嶋さんくらいの大スターになると、当時は誰も長嶋さんにアドバイスするということはできなかったらしい。

川上さんもコーチの牧野さん、荒川さんも。


誰も長嶋さんになにもものを言えなかった。


バッティングコーチなんかも、さらにここのところが悪いと思っても直してさらに悪くなったらファンに対してどうしようという気があって、誰も話せなかった。


長嶋が圧倒的な存在ゆえに生まれる微妙な心遣い。

それを振り払うように1人で追い込むようになった。


試合終わったら毎日、ニッポン放送キャスターを伴って、自宅でキャスターに相手投手のモノマネをさせて、「平松来い!外木場来い!安仁屋来い!」と素振りをしていたそうだ。平松はそうじゃないだろう!と怒られることもしょっちゅうのこと。午後10時から翌日の午前2時まで。毎日やっていたそうである。


長嶋さんは、シーズンオフの山籠もりも有名ですね。
静岡・伊豆の大仁ホテルですね。
部屋にネットを張って、トス打撃とか、山へのランニングとか。
必ずパートナー1人だけの同伴で、基本1人でやっていた。
チームメイトすら知らない。
1人で自分を追い込んでいた。


娘さんの長島三奈さんも出ていて、「父は1人が好き。そういう時間を大切にしていた。」


長嶋さん曰く、


「部屋の電気を消して真っ暗にする。そこで振るんですよ。ふつうは鏡に映すとかするんだけど、それじゃダメ。もう自分自身ではっきり分かりますから。音が全部違いますから。スイングは。その音をね、いい方向に音を高めないとダメなの。それが24時間、1日24時間常に思っているからね。」


「孤独だからこそ本当の球場に、あるいは舞台に出たときに初めてそういうものが、生きるんだろうからね。孤独を逃げることはもう野球の勝負師として駄目だね。孤独がない人は全然駄目だよ。」


松井秀喜氏が、恩師長嶋さんからのコーチングで有名なのは、電話がかかってきて、そのままそこで素振りしろ、それでそのスイングの音を電話口で聞いて、それじゃだめだ、よし、それでいい、とかやっていたのは有名な話ですね。


なんかこのインタビューを聞いていて、自分の理論に一貫していて感動しました。


そして勝負師たるもの、その大舞台では必ず1人になる。
その1人でその”とき”を勝ち取るのも、1人。

孤独がない人は全然駄目。
孤独を逃げることはもう野球の勝負師として駄目。


なんかもうここが1番じ~んと感動。(号泣)


深い、というか、その場、その修羅場を長年くぐり抜けてきた人でないと達観できない境地だよな、と感動しました。


「雨ニモマケズ、風ニモマケズ

あんなつまんねぇことねぇと思わないかい?
せっかく雨が降ってくれるんだよ。
だったら「雨を喜び」だろう。
せっかく風が吹いてくれるんだよ。
だったら「風を楽しみ」だろう。

それでやっぱり生きていくのが本当の俺たちの生き方じゃねぇか。」


長嶋さんと懇意にしていたニュースキャスターとの会話である。


雨を喜び

風を楽しみ


長嶋さん曰く、


「自分の人生観そのもの。
プラス思考。
悪い方向に考えない。
いい方向、いい方向へ考える。」

「明日がダメだと、またまた明後日にしようかと。
常にそういう前向きでやることがね、人生の中でやっぱり大事なんじゃないかな。」

「期待が重いと思ったことは一度もない。それは喜び。」



・孤独がない人はダメ。
・プラス思考。


まさに自分の人生を生きていくうえで指針となる、そしていままでの自分の生き方に太鼓判を押してもらったようなうれしい言葉であった。


かなり自分は楽観的な性格ですから。(笑)
これじゃ将来困るだろう、というレベルで。(笑)


でもうれしかったし、心強かったです。
長嶋さんほどの達観した人生からあぶり出てきた、本当に深い言葉ですから。


今日は本当に偶然の偶然、この録画してあったドキュメンタリーを見ようと思ったのだが、まさに玉手箱からの宝物という感じで大収穫な日であった。







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9→10のミステリー [クラシック雑感]

名人位9連覇の中原誠名人が10連覇をかけて、加藤一二三十段と激闘を繰り広げ、残念ながら10連覇ならず、加藤一二三新名人の登場となったとき、当時の将棋界ではかなり衝撃的でセンセーショナルなできことであった。


このとき子供心に思ったことが、9連覇から10連覇を成し遂げるときのミステリー、いわゆる9→10へのミステリーについて、相当悩んだことがあった。子供なのに悩んだのである。


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やっぱりそうなのかなぁ、という感じで、自然界の慣わし、神様のお達しというか、そのようにできているのかなぁという感じで。


そう思ったのは、その当時、自分の脳裏に鮮烈に蘇ったのは、プロ野球で、あの王・長嶋を擁して、川上哲治監督のもと、V9,9連覇を成し遂げた巨人のことを思い出したからである。


自分は巨人V9時代は、後年から実体験している世代である。
自分は、やはり長嶋茂雄さんの大ファンであった。


長嶋さんは、やっぱり格好良かった。”男の躍動感”、”燃える男”という感じで、「四番・サード、長嶋」は本当に絵になる男だった。


「巨人、大鵬、卵焼き」の時代である。


そんなV10,10連覇を目指すシーズン、結局、中日ドラゴンズに優勝を奪われ、10連覇はならなかった。神話は途切れた。その年に、長嶋さんは引退。


その引退試合の後楽園球場での巨人×中日のダブルヘッダー、じかに観ていました。


いまでも鮮烈に覚えています。

長嶋さんは、その引退試合にホームラン。場内をわかせました。
1試合目が終わった後に、場内一周を外野フェンス沿いに歩いて回ってお別れの挨拶。


そして第2試合の最後の打席、「四番・サード、長嶋」のアナウンスに、場内、悲鳴のような叫び声。


「長嶋、やめるなー!」
異常な雰囲気でしたね。

最後は内野ゴロで、ジ・エンド。

そして試合終了後のあの伝説の挨拶、ちゃんとリアルタイムで観ていましたよ。


「巨人軍は永久に不滅です。」

の名セリフを残して、まさにプロ野球の歴史にひとつの時代の終焉を告げた。


自分は、数年前、この長嶋さんの引退試合、巨人×中日のダブルヘッダーを収録した市販DVDビデオを購入しましたよ。(笑)


小さな子供の頃に、TVの前でかじりついて観ていたあのシーン、ふたたび歳をとってから観ても涙が出ました。


そんな思い出があるから、あれから数年後、中原誠名人が名人位10連覇ならず、にでくあわせたとき、ありゃー、やっぱりそうなのか、偶然なのか、いや、これって自然界のならわし、9→10のミステリーじゃないのかなーと心底気味悪がったものである。


神様のお告げ、まさに人間が逆らえない運命というような。。。


それから数年後、自分がクラシック音楽に興味を持つようになり、その世界に入っていったとき、またしても、この9→10のミステリーに遭遇することになる。


それは作曲家が交響曲を作曲していくとき、第1番から第9番まで作曲することはできるが、第10番に進むときに、死んでしまい、第10番に到達できないというミステリーである。


これはクラシック界の中で、相当有名な伝説で、「第九の呪い」と呼ばれている。第九の呪いは、クラシック音楽の作曲家の間で囁かれていたとされる、「交響曲第9番を作曲すると死ぬ」というジンクスである。


ベートーヴェンが交響曲第9番を完成させた後、交響曲第10番を完成することなく死去したことに端を発する。
 
グスタフ・マーラーが「第九の呪い」を恐れて、交響曲第8番の完成後次に取り掛かった交響曲を交響曲として認めず「大地の歌」と名づけたという逸話が知られている。マーラーはその後に交響曲第9番を作曲したが、交響曲第10番は未完に終わった。


実際に「交響曲第9番」作曲と前後して死去した主要な作曲家は、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー、ヴォーン・ウィリアムズ、シュニトケ、ヴェレスなどがいる。


もちろんそうならない例外もある。ドヴォルザークは9番目の交響曲を完成したところで打ち止めになったが、初めの4曲は生前には出版されなかったため番号が振られず、現在第9番とされている作品も当初「交響曲第5番」として出版されたため、厳密には「交響曲第9番」を作曲して死んだわけではない。


他の多くの作曲家はその前で打ち止めになっているか、それを大きく越えている。たとえば、交響曲を主な表現の手段とはしなかったラフマニノフなどの作曲家は第9番のはるか前で打ち止めになっているし、交響曲を重要な表現の手段としていたブラームス、チャイコフスキーらも、結局第9番に及ばないところで打ち止めになっている。


一方で、ハイドンやモーツァルトといった作曲家は、第9番をはるかに上回る数の交響曲を作曲している。


でもクラシック界では、この「第九の呪い」はかなり有名で、子供の頃に巨人V10ならず、中原誠名人10連覇ならずを体験した身からすると、まさか大人になったときにクラシック界で、さらに「第九の呪い」にでくあわすとは思いもよらなかったのである。(笑)


また最近発見したのは、IT業界にも「第九の呪い」があるらしい。


Windows


Windowsはたくさんの人が知っているOSだと思うが、バージョンの推移はどうだったであろう。Windows7が大ヒットして、そのあと、8、8.1・・・そしていきなり10に飛んでいる。本来9として出るはずだった8.1が大不評だった8に対してテコ入れにならず、リブランドとしてWindows 10を出したことは記憶に新しい。


iPhone


iPhoneはどうであろうか。iPhone 7、8と来て、いきなりX(テン、つまり10)に飛んでいる。iPhoneXは世代でいうと9世代に相当すると思うが、9のネーミングをスキップしたものの結局失敗に終わりそうである。


Android


Androidに目を向けてみる。実は最新のバージョンが8(Oreo)である。次のバージョンの9はまだ出ていないのだが、このタイミングでOracleとのJavaをめぐる裁判の旗色がすこぶる悪くなっている。


IT業界の第九の呪いは、9番をスキップして10番に行く、という意味のようであるが、彼らはこれをIT業界の第九の呪いと題して気味悪がっている。


どんなプロダクトでも、9作目まで行くということは、はじめのころに大成功したということになる。じゃないと打ち切りになっているはず。なにがしかの成功体験があって継続し、そろそろネタギレになる時期がこの9番目という数字なのかもしれない。


とにかく自分の場合、この自然界のオカルト、第九の呪いをはじめて意識したのが、中原誠名人10連覇ならず、の瞬間、子供だった自分の脳裏にまっさきに思い浮かんだのは、王・長嶋時代の巨人の10連覇ならず、だったのだ。


そのミステリーが頭の中にシンクロして駆け巡った。


あ~神様って、やっぱりそうなんだ、自然界ってそういうルールになっているんだ、と子供心に相当悩んで、かなり気味悪がったものなのである。

 





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ふぐ料理フルコースをいただく [グルメ]

通勤の帰路、自分の街の駅から、自宅へ徒歩で帰るときに、かならずその店の目の前を通るときに一度入ってみたいなぁと思っていたお店が”ふぐ”料理のお店。


お恥ずかしいことながら、ふぐ料理って食べ事がない。
記憶にない。


自分の子供の頃に、記憶にあったのは、”ふぐ”には毒があって、その毒にあたって、よく死亡事故があったことだった。ニュースで、ふぐ料理を食べたお客さんが毒にあたって死亡したというニュースをよく報道されていたのを覚えている。


最近はまったくそういうニュースは聞いたことがないので、料理人がふぐの毒をさばくことがもう慣れてきたというか、ふぐのどこに毒があるのか、やっと常識になったということなのだろう。


・大人は絶賛するけど、言うほどおいしいの?
・ふぐってどんな味がするのか想像がつかない
・ふぐの食感ってどんな感じなのだろう



これがふぐ料理のフルコース。


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美しいですよねぇ。


この中で1番有名なのが、ふぐ料理の代名詞、とも言えるふぐの刺身である「ふぐ刺」。これを食べてみたかった。


大皿に、丁寧に職人の手によって盛り付けられた透き通るふぐの刺身はなんとも美しく、ふぐ刺しを美味しく食べるためには、繊細な味わいのふぐの旨味を最大限に引き出す、ふぐ料理専用のポン酢を器にたっぷり注ぎ、小ネギと、もみじおろしをお好みで器に振り入れていただく。


「ふぐ刺しの食べ方」ってご存じですか?

大皿のどこから箸をつけて良いか悩みますよね?


どこから食べるかは諸説あるが、ふぐ刺しの盛り付けを崩さず、最後まで美しくいただくためには、中央から箸をつけるのが正解なのだそうである。


ふぐ刺しを食べる際のマナー違反は「お箸で何枚ものふぐ刺しをすくうように取ってしまう」こと。元・巨人軍の長嶋茂雄さんがされていたことで有名になった食べ方だそうだ。真似する人が続出したようだ。たぶん長嶋さんが現役時代のときの話なんだろうな。いかにも選手時代の長嶋さんらしいです。(笑)


ふぐ刺しを何枚も重ねた状態では噛むのが大変なほど、ふぐは弾力性に富んだ身をしている。わざわざお皿の絵柄が透けるほど薄く削いで盛り付けているのは、理由あってのことなのだそうだ。ふぐ刺しは欲張って沢山取るのではなく、2~3枚をふくねぎとともにゆっくり味わいながらいただくのが正しい食べ方なんだそうだ。


でも自分は、ぜひだっ~と何枚も箸ですくって食べてしまう長嶋方式で食べてみたかった。(笑)自分は、ぜひこの食べ方でやろうと思っていたのである。


ふぐの刺身が薄切りである理由はほかにもある。
この薄さゆえ、最後の方はせっかくの刺身が乾燥してしまう場合もある。


遠慮せずにどんどん食べていただき、次の料理に進んでいただいた方が新鮮なふぐも喜ぶとのこと。ふぐ刺しはじっくり味わいながらも、乾燥する前に食べきってしまうのが良いのである。


意を決して、いつも自宅への帰路のときに必ずその目の前を通るふぐ料理のお店に入ってみることにした。ビルの地下にあって、完全個室のお店だ。これならコロナ対策としても安心ですね。


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フルコースで頼んでみたかったのだが、これは団体客の宴会用なのだそうなので、仕方がなく1品料理でつぎつぎとコース料理と同じメニューを頼んでいくことにした。たぶん金額的に大変なことになるだろうな、とは危惧していた。


雪が降って、とても寒かったので、熱燗で。
そしてお通し3品。


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酒場放浪記で吉田類さんが、これはピリっと辛口ですねぇ、とよく仰っているのだが、この日本酒で辛口というのがどんな味のことを言うのか、自分はよくわからないんですよね。(笑)下戸で酒はあまり飲まないので。


でもなんとなく想像つきます。わかります。日本酒で辛口ってたぶんこんな味なんだろうな、ということ、おそらく間違いないと思う。ぜひ辛口の日本酒、体験してみたいです。



そしてトップバッターにもちろん「ふぐ刺し」。


1人前だと少ししかないだろうから、やはり大皿でだっ~とやってみたい。(笑)店員さんに、メニューの大皿の写真を見せて、これと同じになるには何人分だったらそうなる?と聞いてみた。そうしたら2人前で大丈夫です、と答える。


そうしたら2人前でお願いします。

それでやってきたのがこれ。


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う~ん、なんか違うよなぁ。2人前でこれなら、自分が欲しい図は、たぶん4人前から8人前にはなるだろう。まさに宴会用だ。(笑)大変な金額になるのでやめておいてよかったかも。そしていよいよ念願の「だっ~」をやってみた。


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食べてみて、透き通った無味無臭の刺身という感じでしょうか。。。非常に弾力性があって、歯ごたえがあって、美味しかったことは間違いないが、まっこんなもんなのかな、とも思った。あっけなかったです。


つぎに焼きふぐをいただく。


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焼いています。
たっぷりのニンニクをまぶしたタレを表面につけながら焼く。


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自分はこのとき学んだことがある。
「ふぐには骨がある」ということを。


見た目、まるまる食べ応えのある感じなのでがぶっといって食べ応えありを想像していたのだが、骨があるのだ。骨があって、それに白身の身がうっすらと付いている感じで、正直かなり食べづらかった。


見た目と違って、食べ応えまるでなし。骨を避けながら、その表面についている身をそぎ落とすという感じであろうか。焼きふぐで食べるふぐの味は、表面についたにんにくのタレが香ばしくて美味しかった。でも食べづらく、食べ応えもなく、かなり欲求不満ではありました。



つぎにふぐの唐揚げ。


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これもがぶっとかぶりついて、食べ応えありを期待したが、これにも骨があった。(笑)かなり食べづらく欲求不満である。味は鶏のから揚げならぬ、白身魚の唐揚げという感じであろうか。しかも骨付きのおまけつき。



つぎにふぐの刺身のぶつぎり。


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これは美味しかった。今回のフルコースの中で1番美味しかったと思ったものだ。分厚いまさにぶつ切りのふぐの刺身だ。


なにが美味しかったかと言うと、骨がないことだ。


骨の心配をすることなく、がぶがぶとかぶりつける。そして刺身のまさに正方形というかまさにかたまりで、じつに食べ応えのあること。上の乗っているたっぷりのねぎといっしょにポン酢につけて食べるこの美味しさよ!
一番満足度が高かったです。


そして最後にふぐ鍋。締めの雑炊つきである。


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ダシのもとは、昆布でとる。
そこにふぐのぶつ切りと、しめじなどの野菜を入れていく。


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なんかこうしてみると、あまり美味しくなさそう。(笑)


これはふつうのお湯に昆布をくぐらせただけなので、たとえば、味噌仕立てだとか、醤油仕立てだとか、であるなら、もっと美味しそうな感じなるとは思うのですが。。


このふぐ鍋の基本は、ダシのほうは、あくまで昆布であっさりで、それにふぐ、野菜などの具を湯通しした後に、ポン酢とネギ、薬味につけて食べるというスタイルなんですね。


ふぐは、さほど骨もすくなく(ちょっとはあった)、比較的美味しくいただきました。白身魚という感じで、それをポン酢、ねぎ、薬味でいただくという感じでしょうか。野菜もみなさん想像通りの味です。


まぁ、そんな大したものではなく拍子抜け。


最後に締めの雑炊。
店員さんに作ってもらいました。


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できあがり。


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お茶碗によそった後に、軽く醤油をかけて食べるという感じでしょうか。
う~ん、たいしたことなかったなぁ。


これだけで結構お腹いっぱいにはなりました。
でもこれがふぐ料理フルコースか、と言われれば、まったくの拍子抜け。


そんなたいしたものでは全然ないです。

グルメの自分を唸らせるものでは全然なかった。


恐る恐るの会計は、諭吉さんが飛んでしまう感じ。
もう二度とくることもないでしょう。(笑)


まぁ、ふぐ刺しを食べることができた、という点では記念にはなりました。


そしてこれは毎回思うことで、まっこれが業界の常識というものだよなぁ、と思うことだが、料理の世界ではプロの写真家が撮影した写真は、まさにプロ!美味しそう!と思うわけだが、実際のブツが来たらかなりガックリと落胆するというこの当たり前の事実。


自分は何度この落胆さを味わっているか。


HPに掲載されている写真、実際お店に行ったときのメニューに掲載されている写真、もうさすがこれこそ、プロのカメラマンの仕事だと思うのである。





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async [ディスク・レビュー]

今日はブルーノート東京ライブ・ストリーミングだけではなくひさしぶりに坂本龍一教授の作品を聴いてみようと思いました。


学生のときは、YMOの大ファンでしたから。3人編成、トリオが大好きでしたので。その後、戦場のメリークリスマスとかその都度耳にしてきましたが、ちょっと自分が離れてしまっていたこともあり、ひさしぶりに坂本教授の作品を聴きます。


4年前の2017年に大変話題になったasyncを聴いてみようと思いました。


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async
坂本龍一



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 8年ぶりのソロ・リリース。そしてその当時、癌発見ということで、非常に人生の節目になった大きな作品だったと推測します。盟友オノ・セイゲン氏とともに京都で録ったのではないでしょうか?


つい先日のニュースでも癌の転移を知り驚きました。いろいろな覚悟をされていると慮りますが、これからも停まることなく、更なるアーティストとしての邁進を期待して祈っております。


asyncを拝聴しましたが、これは抽象美というか、非常に哲学的な作品ですね。坂本教授の美意識の世界観をそのまま音として表現したものではないか、と思います。なんか自分には、現代アート、現代美術のあの抽象的な世界観を感じますね。


素晴らしいです。


自分が坂本教授に抱いている印象は、非常にアート的で繊細な美意識を持っていて、それはいままでリリースされているアルバムでもよくわかりますね。


あと、ミュージシャンとしてだけではなく、音楽業界の今後の行く末にも関心を持たれ積極的に発言されている姿は、本当に素晴らしいのひとことです。


今日は”おうちタイム”なので、いままでの坂本作品をいろいろ聴いてみましょう。

ストリーミングは本当に便利ですね。
ただ音楽家にとってお金になるのかどうかは知りませんが。(笑)


話題になった当時ではなく、4年後のいまasyncを聴いての遅すぎる称賛でスミマセン。(笑)



オノ・セイゲン氏は、ソニーとともに、DSD推進、イマーシブ・オーディオの旗頭として活躍している日本のサウンド・エンジニアのパイオニア的存在なのは、もうみなさんよくご存じだと思うのだけれど、実際どういう音、サウンドを作る人なのかは、じつは自分はよく聴いたことがなかったんですよね。(笑)


ちゃんと対峙して聴いたことがなかった。


この坂本教授のasyncを聴いてみて抱いたサウンドの印象は、非常に実験的なサウンドですよね。立体感が素晴らしいです。計算されつくした意識した音作りをしますね。


造り込まれている感が凄いです。


ふつうにスタジオやホールでミュージシャンが演奏する音楽をそのままちょっといじって加工するという感じではないです。


それは坂本教授のasyncの作品のコンセプトがそうなのかもしれませんが。


PCオーディオのストリーミングでのふつうの2chステレオなんだけれど、非常に立体的で3D的に聴こえます。


オブジェクトベースで音源を空間配置しているような感じで、ある効果音は自分の頭の後ろのリアから聴こえてきたりしますし、前方のステレオのサウンドステージも、その音源の種類に応じてその空間に現れる位置が、前後奥行きや左右に、ポッポッといろいろ違う位置からその都度現れる感じで非常に立体的です。


まさに造り込まれている感、空間の座標軸を徹底的に計算しつくしたサウンドですね。


非常に人工的です。(笑)
ふつうの音楽を聴いている感じじゃないです。


結論として、ガッカリしなくてよかった、というところでしょうか。(笑)


最新のイマーシブもいいけれど、今度は、自分が普段聴いているSACDサラウンドでのサウンドを聴いてみたいです。やっぱり普段自分が聴いている自分の物差しで確認してみたいですね。


やっぱり造り込まれている感の強いサウンドだけではなく、”音楽”をどのように録るのか、を聴いてみたいです。


オノ・セイゲン氏が録ったサラウンド音源は、ファントムセンターで録っていたという話をちらっと聞いたこともあるので、やっぱり自分の耳でじかに確認してみたいです。





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ブルーノート東京ライブ・ストリーミング [ジャズ]

ジャズのライブレストランでは、やはりブルーノート東京が一番歴史があって、グレードが高いだろう。でもここは敷居が高いだけあって、ディナーの値段がべらぼうに高かった記憶があります。昔ですが。さすがと思いました。


最近ではビルボードライブ横浜がオープンしたようで、ぜひ行ってみたいです。


そのブルーノート東京で、ライブ・ストリーミングをついにスタートさせた。


”ブルーノート東京のライブ配信とディナーをご自宅で”


というキャッチフレーズがすごく洒落ていて素敵じゃないですか!

ジャズのライブレストランのあの空間の雰囲気が、おうちで体験できる。

ぜひ使ってみたいとずっと思っていて、今日ようやくサイトを覗いてみました。


そうするとGUI含め、非常に洗練されていて、うぉぉ~という感じで、ちょっと宣伝したくなった。GUIがシンプルで美しくてサービスが行き届いていると、やっぱり使いたくなりますよね。


ブルーノート東京ライブ・ストリーミング


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基本骨子は、各配信公演のアイコンがあって、その詳細ページに飛んでチケットを購入するというもの。


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配信プラットフォームは、

ぴあ <PIA LIVE STREAM>
イープラス <Streaming+>
ZAIKO

の3つ。


ある公演のサイトに飛んでみると、


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実演とライブ・ストリーミングがハイブリッドで同じ画面で購入できるようになっている。何気ないことのようで、これが自分にとっては結構斬新な感覚だったりした。


いままで自分のクラシックのコンサートだと、もう実演でのチケット購入手段というのが、大昔から決まっているので、それは変えるのではなく、あくまで配信チケットはadd-on的な感じの位置づけである。こうやって同じ画面で、ハイブリッド感を出すのは、う~ん、いかにも時代に合っているなぁと思ったりする。


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そうして過去の公演はこのように一覧の写真アイコンを並べる。
その各アイコンをクリックすると、その公演の情報が出てくる。


ちょっと触っていろいろやってみただけなので、まだよく使い方がわかっていないだけなのかもしれませんが、この過去の公演の各ページに記載されているのは、その公演の情報だけなんですよね。


これはもったいない。その公演の見逃し配信の配信チケット購入、そして閲覧のボタンが、この各ページにあったら、そのまま過去の公演も視聴できるので、それがあると絶対いいと思います。


もちろん、公演によっては見逃し配信もあります、とのことですので、自分の見てみたページがたまたま見逃し配信がないだけで、すでにそうなっている可能性もあります。


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そしてその各公演のページには、そのコンサートで使われた曲の音源が入っているCDなどがHMVなどから購入できるような物販ECサイトへのリンクもある。


さらには、オフィシャルサイトへのリンクと言うことで、そのアーティストの公式ホームページや、Facebook,Twitter,Instagramへのリンクもある。


いいなー、いいなー。


ある意味、現状で考えられるあらゆるECサービスを全部盛り込みました的な感じですが、すごくいいと思います。


そしてなによりも、リアル配信にしろ、アーカイブ配信にしろ、有料課金というのがいいですね。当然です。


やっぱりライブ・ストリーミングのビジネスは、いま始まったばかりの黎明期なので、まだまだこれからだと思いますが、やはりいまの最大の欠点は、アーカイブ配信が永遠ではないところではないでしょうか?


期間限定ですね。1週間限定、1か月間限定で消去してしまう。

以前にも言及したと思いますが、究極はアーカイブは永遠に残すべきです。
ベルリンフィルのデジタルコンサートホールのように。


そのためにはコンテンツDBの大容量化をどのように実現していくか、ということだと思います。全公演を残す必要はないと思うので、選抜して永遠に残してほしいです。(ベルリンフィルDCHも全公演ではなく、選択した公演のみ残している。)


アーカイブ永遠保存化が実現できるようになったら、ぜひコンテンツ検索について考えてほしいです。写真を並べる方法は、とても華やかで格好いいですが、膨大なライブラリーの中から希望のコンテンツを探すのはかなり骨が折れます。(笑)じつは文字入力検索やアルファベット順などの検索キーを使うほうが地味ですが、ユーザーにとっては実はそっちのほうがよかったりします。


いままでアーカイブはすぐに消していたので、そういう問題は考えなかったと思いますが、これからはこのコンテンツ検索という概念はとても重要なテーマになります。


別にコロナがあるから、という理由ではなく、今後のコンサート・ビジネスは、実演+ライブ・ストリーミングの二重の収益構造で利益をあげていくのがde-factoだと思うので、こういう配信プラットフォームをコンサートホールやライブレストランごとに自前で持っているというのは本当に理想ですね。


ブルーノート東京だけでなく、ビルボードライブ東京やビルボードライブ横浜、そしてモーションブルーYOKOHAMA、その他のライブハウスもこういう配信プラットフォームを自前で持てるような時代が来るといいですね。


ジャズがより身近に感じるようになります。


自分がいま秘かに楽しみに期待しているのが、4月に発表されるであろうサントリーホールの”デジタル・サントリーホール”。


サントリーホール開館35周年の記念事業の一環らしいです。


サントリーホールが自前の配信プラットフォームを持つようになるというのはすごい興奮します。ついにベルリンフィルのようになるんだな、と思うとワクワクです。


コンテンツ配信システムやEC課金システム、暗号化・認証システムなど、どこの配信プラットフォームを使うのか、あるいは全く新規のご披露目なのか、わくわく期待です。


コンサートだけではなく、いろいろなオンラインでやることが可能なすべてのことが対象になるのではないでしょうか。自分でも使ってみて、感想をレポートしてみたいです。


そのとき、コンサート配信については、ぜひアーカイブの永遠保存化をテーマによろしくお願いします。



ということで、非常に洗練されたブルーノート東京のライブ・ストリーミング。


全曲公演ではなく、そのうちの数曲を格納したYouTubeで楽しみたいと思います。(笑)


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ジャズのライブ・ストリーミングでぜひ視聴したかったのが、ケイコ・リーさんの公演。ずいぶんご無沙汰していますが、全然変わっていなくて安心しました。いつものお馴染みのスタンダードナンバー最高です。


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小曽根真さんの公演もしっかりウォッチ。いやぁいいですね。ご自身のバンド,NO NAME HORSESとの共演は初めて観ました。おうちで観れる配信だからこそ、実現できました。インタビュー付きですが、小曽根さん、めちゃめちゃ英語うまいです。ネイティブのようです。


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塩谷哲さんのコンサートははじめて観ました。小曽根さんとのコラボでよくソルト(塩という意味)と呼ばれていたときを知っていただけに感動しました。いつか実演を楽しみにしたいです。


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重鎮・渡辺貞夫さんのコンサートもこうやってライブ・ストリーミングでおうちで観れるようになるというのも時代ですねぇ。


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大西順子さんの実演も体験したことがないので、こうやっておうちで観れるのは感無量です。いつか必ず実演を体験したいです。


大西順子さんといえば、自分でもメモリアルに記憶にあるのは、小澤征爾さん&サイトウキネンとの共演でガーシュインのラプソディ・イン・ブルーを演奏したときのことです。自分の記憶に間違いがなければ、もともと村上春樹さんに招待されて、大西順子さんの引退公演に行ったところ、終演後、小澤さんがやめるな!と叫んで、その後、自分のサイトウキネンとの共演をオファーして実現した公演ではなかったでしょうか。


小澤さんは、オーケストラでラプソディー・イン・ブルーをやるのは18番なのです。ベルリンフィルのヴァルトビューネ野外コンサートでもこの曲をやっていましたね。そのときのピアニストならびにドラム、ベースのジャズトリオは黒人だったと思いました。


うちにDVDあります。


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ザッハトルテのルーツは、ザッハーなのか、デメルなのか。 [グルメ]

ホテルザッハーとデメルの両方のザッハトルテを自宅へお取り寄せしてみて、実際食べてみて、その両者の差は、あまりにはっきりと違いがあった。もちろんどちらが自分の好みなのかもはっきりと認識できた。そのことについては一番最後に述べることにしよう。


「ザッハトルテのルーツは、ザッハーなのか、デメルなのか。」


かねてより自分の中に曖昧でグレーな状態で認識されていた疑問なのだが、この日記で突き詰めてみたいと思う。


ザッハトルテは、オーストリアのホテル・ザッハーおよび洋菓子店・デメルで提供されている菓子(トルテ)である。古典的なチョコレートケーキの一種のことである。


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こってりとした濃厚な味わいを特徴とする、ウィーンのホテル・ザッハーの名物菓子であり、チョコレートケーキの王様と称される。


このザッハトルテには、ホテルザッハーが起源である、という説と、デメルが起源であるという説の2説がある。昔からそのことは認識はあったのだけれど、どこが違うのか、自分でもよくわからなかった。また探求してみようという気もさして起こらず、そのまま放置していたのだが、ホテルザッハーのザッハトルテも、デメルのザッハトルテも自宅に取り寄せできることがわかり、よし!それじゃ実際ネットで調べてみて、そして実際食べてみて、勉強してみようと思ったのである。


まず、ザッハトルテのルーツが、ホテルザッハーなのか、デメルなのか。について。


1832年に、クレメンス・メッテルニヒに仕える料理人の一人だったフランツ・ザッハーが考案した。


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飽食した貴族たちのために新しいデザートを作れというメッテルニヒの要望に応えたものであった。ザッハトルテは大変に好評で、翌日にはウィーン中の話題になったという。当時はザッハーはまだ16歳で下級の料理人にすぎなかったが、ザッハトルテの成功から頭角を現した。ザッハトルテはフランツのスペシャリテ(特製料理)として好評を博しつづけた。後に次男のエドゥアルトがホテル・ザッハーを開業すると、ザッハトルテはそのレストランとカフェで提供された。


レシピは門外不出とされたが、3代目のエドマンド・ザッハーのときにホテル・ザッハーが財政難に陥ったのをきっかけに、資金援助をしたウィーンの王室ご用達のケーキ店「デメル」が、代償にザッハトルテの販売権を得た。この際に「元祖ザッハトルテ」の文字をケーキの上にホワイトチョコレートで描く権利も譲渡したとも言われる。ここで、デメルの娘がザッハーの息子に嫁いだ際にレシピが流出したとする話があるが、事実とは異なる俗説である。
 

その後、ハンス・スクラッチ「ウィーンの菓子店」という本にまで、秘密のレシピは掲載されてしまった。ついにはホテル・ザッハー側が、デメルを相手取って商標使用と販売の差し止めを求めて裁判を起こしたが、7年に及ぶ裁判の結果、ホテル・ザッハーにもデメルにも双方にザッハトルテ(Demel's Sachertorte)の販売を認める判決が下った。その結果、デメルのものはデメルのザッハトルテ(Demel's Sachertorte)として、ホテル・ザッハーのものはオリジナルザッハトルテ(Original Sacher-Torte)として売ることになった。ザッハーのものはアンズのジャムを内部にも挟むのに対し、デメルのザッハトルテは表面にのみ塗る、という違いがある。


こういうことだそうである。(笑)


ホテルザッハーのザッハトルテ


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デメルのザッハトルテ


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この写真でまず違いが判るのは、ケーキの上についている意匠ロゴである。
ホテルザッハーは丸い意匠で、デメルは三角の意匠である。


上の詳細な説明を、簡単に要約すると、


①起源はホテルザッハーである。
②ホテルザッハーが財政難になり、ザッハトルテの販売権を、デメルが得た。
③ホテルザッハー側が、デメルを相手取って商標使用と販売差し止めを求め裁判を起こした。
④7年間裁判をおこなった。
⑤裁判の結果、ホテルザッハーにもデメルにも、ザッハトルテの販売を認める判決が下った。
⑥デメルのものは、デメル・ザッハトルテ、ホテルザッハーのものは、オリジナル・ザッハトルテとして売ることになった。
⑦ザッハーのものは、アンズのジャムを内部に挟むが、デメルのものは表面にのみ塗る。


こんなところであろうか。


厳密なルーツはという話になると、ホテルザッハーのようである。


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⑦であるが、上の写真はホテルザッハーのザッハトルテであるが、ケーキの真ん中に線が入っているのがわかるであろう。これが内部に塗っているアンズのジャムのことである。デメルのザッハトルテにはこういうのがない。



ホテルザッハーはホテル&レストランである。ウィーンを代表する高級ホテルで、ザルツブルグにも支店がある。ザルツブルク支店は、2013年のザルツブルク音楽祭に行ったときに実体験しました。


デメルはケーキ一筋、洋菓子店である。皇室御用達の看板を掲げ、皇妃エリザベートの好物だった「スミレの砂糖菓子」も名物である。日本にも進出しており、全国の有名デパートに出店しているそうだ。


ホテルザッハーは高級ホテルなのだが、その中のカフェが、いわゆるカフェ・ザッハーというものなのだと思う。自分は、ウィーンの至る所に、いわゆるチェーン店のように、カフェ・ザッハーとデメルがあちこちにあるような感覚があったのだけれど、そうではないようだ。(笑)


カフェ・ザッハーもデメルも1店舗のみ、ワンポイントだけに存在するカフェなのだと理解しました。


カフェザッハーは、ウィーン国立歌劇場の真裏にある。


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こちらがカフェザッハーの店内。


店内は、ハプスブルク時代を感じながらゆったりとくつろげる、クラシックな内装。入り口がいくつかあるが、ウィーンの古風な雰囲気を楽しみたければ、オペラ座の裏にあるCAFÉ SACHERと書かれた扉から入るのがお勧めだそうである。


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立てかけてあるのは、小さい新聞のように見えて、中はメニューである。


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ケーキは部屋の中央にある台から、ホイップクリームを絞ってサーブされる。


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カフェザッハーには売店もあります。


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う~む。



ではデメル。


デメルのお店の起源は1786年まで遡り、実に200年を超える歴史がある老舗カフェ。


デメルは、王宮と劇場のすぐそばという地の利を得て、ハプスブルク家御用達ケーキ店になり、人気を博してきた歴史があるのだ。その後、ケーキ職人だったクリストフ・デメルが店を継ぎ、当時のウィーンの上流階級が顧客となる。美貌の皇妃エリザベートの好んだスミレの砂糖漬けは、現在でも店頭に並んでいるし、女優のカタリナ・シュラットや、宰相メッテルニヒの孫で社交界の花形だったパウリ―ネ・フォン・メッテルニヒも、ここのお菓子を好んだと言われているのだそうだ。今でもかつてオーストリアに君臨したハプスブルク家の紋章をロゴとして使用している。


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こちらがデメルの店内。キラキラの絢爛豪華のカフェザッハと比べると、比較的大人の落ち着いた雰囲気がありますね。


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入口を入ると、すぐにケーキが並んだショーケースがあり、ショップも併設されている。


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1階で大きなスペースを占めているのはガラス張りの工房で、デメルのケーキが作られていく様子を見学できる。


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情報引用元


ザッハトルテだけでないウィーン二大カフェ・ザッハーとデメル、両者を楽しむための傾向と対策
https://www.travel.co.jp/guide/article/6468/


ウィーンで絶対食べたい!カフェ・ザッハのザッハトルテ
https://tabicoffret.com/article/74337/index.html


カフェ「デメル DEMEL」@オーストリア・ウィーン
https://kitagawa.ws/demelwien/


ウィーンの皇室御用達カフェ「デメル」で上流階級気分を満喫
https://tabicoffret.com/article/74938/index.html



カフェザッハとデメル。
どうでしたか?なんとなくわかったような気がしましたね。


カフェザッハのザッハトルテが、「オリジナル・ザッハトルテ」。
そしてデメルのザッハトルテが、「デメル・ザッハトルテ」


なんですね。


ここで、ちょっとカフェザッハのあるホテルザッハーについて、ちょっと紹介しましょう。


とにかくすごい超高級ホテル。
もうびっくりなのである。
凄すぎる・・・。


ウィーン国立歌劇場の真裏にあるらしいので、ウィーンでオペラを楽しまれる常連の方々にとっては、もうあたりまえのスポットなのでしょうね。ウィーンはあまりに有名過ぎて、みんな誰しもが行っている音楽の都だから、天邪鬼の自分は順番的に後回しにしていたところがあって、それがまさかのコロナ禍で、すっかりウィーンは遠くなりにけり。。。今度行けるときはいつになることやら。悲し過ぎます。


そんなホテルザッハー。いろいろ調べてみたらあまりに別世界のゴージャスでびっくりしました。ちょっと自分の住んでいる世界とは別次元ですね。


そんなホテルザッハーを写真で紹介。

かなりの写真の暴力です。(笑)
もう写真を並べているだけで目眩がするというかクラクラしてきます。(笑)

こんなところに宿泊したら、逆にかえって落ち着かなくて精神上問題ありますね。
自分はやはりビジネスホテルくらいの質素な空間のほうがいいですね。


ホテルザッハー・ウィーン


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入った瞬間息をのむほど美しいロビー


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廊下には今までに宿泊した数々の著名人の写真が飾られています。


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白髪の紳士がザッハトルテの考案者、フランツ・ザッハー氏です。


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ゴージャスなレストラン


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ザッハトルテはカフェザッハで提供されるだけでなく、ショップでも買えます。ここはインターネットのオンラインでもザッハトルテを世界中に売っていて、自分はこのオンライン・ショップで自宅にお取り寄せしました。


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ホテルの年間宿泊数のうち、9割以上を海外からの客が占めます。コロナ禍のロックダウン(都市封鎖)で、宿泊による収入源が絶たれてしまった。そんな中、同ホテルのショップのザッハトルテをドライブイン形式で売り始めたのです。このコロナ禍のご時世、世界中で販売されている同ホテルのザッハトルテは、まさにブランドの存続に一役買っているのです。


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客室は全部で150室ほどあり、そのうちの70室がスイートルームだそうです!お部屋のインテリアはどれもクラシックでエレガントな雰囲気。お部屋によってインテリアの色が異なっているそう。


まさにいろいろなインテリアのお部屋があって、その写真をつぎつぎと見るたびにまさに写真の暴力。(笑)溜息がでました。1泊おいくらするのでしょうか・・・という野暮な詮索はやめましょう。


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大理石のバスルーム


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運動エクソサイズするトレーニングルームもあります。(笑)


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いやぁ凄いホテルですねぇ。


ちなみに自分はザルツブルクのホテルザッハーに入ったことあります。
2013年のザルツブルク音楽祭のときに行きました。


あのザルツブルクの街の真ん中を突き抜ける川、ザルツァハ川の橋を渡ったところの四隅に立っていたと記憶します。


そのときの写真を紹介しますね。
自分で撮影したリアル体験写真です。


ホテルザッハー・ザルツブルク


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ホテルの片隅のほうにカフェ・ザッハーの入り口があります。


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これがカフェ・ザッハー・ザルツブルクの店内。


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そしてもちろんザッハトルテをオーダーしました。


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さて、カフェザッハーとデメル。そしてザッハトルテは、ザッハーとデメル、どちらがルーツなのか、のバックグラウンドは理解できました。いよいよようやく本番の実際食して、具体的な品定めといきたいと思います。


ホテルザッハー・ウィーンのザッハトルテは、オンラインショップで世界中から取り寄せすることができます。それを知り自分もそうしてみようと思いました。


逆にデメルは、日本代理店があるんですね。だから日本代理店経由で取り寄せできます。ホテルザッハーは日本代理店がありません。だから現地直送なのです。


ホテルザッハー・ウィーンのザッハトルテのオンライン・ショップ
https://shop.sacher.com/en/


あまり大きいホールを買ってしまうと食べ切れないので、一番下から2番目のサイズを買いました。


商品43EURに対して空輸輸送費48EUR。(笑)


でもオーダーしてなんと1週間で到着。びっくりしました。
日本代理店のデメルより先に届いたのには、その気合の入り方に驚きました。

さすが!


ロックダウン中のウィーンから届いたホテルザッハー・ウィーンのザッハトルテ。
メッセージカードも添えてあり、わぁ~いかにもヨーロッパらしい心使いで素敵です。


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本当にヨーロッパらしい心のこもった木造りの箱です。


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こんな感じ。
丸い意匠ロゴがついているのが、ホテルザッハーのザッハトルテの印です。


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あぁぁぁ~。(笑)
自分が取り分けるとこんなになってしまいました。夢を壊してスミマセン。(笑)


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一方デメルのほうも、1日差で到着。
こんなブランドの紙袋に入っていました。


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やはりデメルもヨーロッパらしい心のこもった木造りの箱。
ホテルザッハーのもそうですが、食べた後、捨てられないですよね、この木箱。


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こんな感じです。
三角の意匠ロゴがついているのが、デメルのザッハトルテの印です。


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さて、ホテルザッハーとデメルのザッハトルテを食べ比べてみた率直な感想。


ホテルザッハーのザッハトルテは、血糖非正常値の人にとってかなり危険な食べ物だと思います。(笑)相当危険な食べ物です。自分も人生50数年生きてきましたが、こんなに甘い食べ物は食べたことないです。


こりゃ甘いな~と思いました。

半端でない甘さです。


これはとてもじゃないけれど、全部ホール丸ごと食べ切れないな、と思いました。


ホテルザッハーのザッハトルテのほうは、ケーキの真ん中のところに、アンズジャムが塗られていて、それが層になっているんですね。だから超甘いのもそれが原因しているのかな、と思いました。


日本の健康にいい和風料理で、しかも糖質制限の食生活をしている自分にとってヨーロッパの肉食系の方々はやはりこういうこってり系を好むんだろうな、と思いました。


これはかなり自分にとってはキツイ食べ物です。


そんな経験をした1日後に、デメルのザッハトルテを、きっと超甘いんだろうな、と恐る恐る食したのですが、なんとこちらは、まったく甘くない。


糖度でいえば、ホテルザッハーのザッハトルテの半分くらいの甘さです。
こりゃ全然いけるじゃない!


こちらはふつうのチョコレートケーキを食べている感じなので、まったく違和感なし。こっちであれば、糖質制限の食生活の自分でも全然acceptableです。


甘さという観点でしか区別があまりつかず、他はあまり違いはないような気がしました。

自分は、デメルのザッハトルテのほうが好きです。
・・・というか、体がデメルのほうしか受け付けないです。(笑)


結論!


・ザッハトルテのルーツは、ホテルザッハーのほうにある。
・でも販売権は、ホテルザッハーもデメルも両方持っている。
・ホテルザッハーのは超甘いが、デメルはその糖度半分くらい。
・自分はデメルの方が好きである。


ということでした。(笑)


現地ウィーンで、カフェザッハーとデメルの二大カフェをリアル体験したいとは思いますが、さらにこれからまたお取り寄せして何回も食べたいか、というと、どうだろう?


このザッハトルテにさらにふたつのトルテを加えた世界三大トルテってご存じですか?


・ザッハトルテ
・インペリアルトルテ
・リンツァートルテ


だそうです。


インペリアルトルテ


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ザッハトルテが丸いケーキなのに対し、インペリアルトルテは四角いケーキなんですね。


ホテルインペリアルは、元はヴュルテンベルク王国の王子の私邸として建てられ、1873年に開催されたウィーン万国博覧会の時にホテルに改装されました。クラシックな内装で、19世紀末の優雅なウィーンの雰囲気を今に伝えるエレガントなホテル。カフェとショップだけは気軽に入れるが、宿泊するには少し緊張感が必要らしい…。


インペリアルトルテは、そんな国賓も迎える格式あるそのホテルのスペシャリテとして、一世紀を超え親しまれている銘菓なんだそうです。



リンツァートルテ


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リンツァートルテは、リンツ地方発祥の菓子で、主にドイツ、オーストリアでよく食されるそう。アーモンドやクルミの粉末とシナモンやナツメグなどの香辛料を入れた生地の間にアカスグリ(レッドカラント)ジャムをはさみ、格子模様を付けて焼いた丸いケーキ。



さぁ次回検査日まであと2週間。
暴走してしまったので、またガマン、ガマンの節制の日々です。





 



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冒険家 植村直己 北米マッキンリーに死す [雑感]

自分は登山の世界とか、自分でやろうとはまったく思わないのだけれど、冒険家 植村直己さんには子供時代にとても憧れた。


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植村直己さんは、日本の冒険家のパイオニア的な存在で、エベレストに日本人として初登頂、世界五大陸の最高峰初登頂、そして北極、グリーンランド大陸の犬ぞり紀行など輝かしい冒険歴を残した。


その後、現在に至るまでいろいろな冒険家が出てきて、植村さんの記録をどんどん破っていくわけだが、自分には”その後”はまったく記憶に残らない。


やっぱりオリジネーター、最初にやった人、植村直己さんが一番なのである。


希代の日本の冒険家といえば、植村直己なのである。


とくにそのご著書をかなり読んで、そこで描かれる冒険家の日常、冒険のその現場のリアルな描写、冒険をするためにはやはり費用が必要で、それを工面する工夫、そして奥さん公子さんのことなど、あからさまに書かれていて、とても子供心に心打たれた。


特に冒険のその現場のリアルな描写は、とても印象的で、それを読むだけで、自分が実際その場にいる感じで、その厳しい自然の世界と闘っているその場面が頭の中で鮮烈に描かれるほど感動的であった。


犬ぞりで犬たちの実際の群れでの行動などについて、その犬の持つ習性について学んだことなども描写されとても興味深い。


あと、カリブー(トナカイ)の肉を食べるときのこと。

テントの中での生活。


とにかく自分にはない世界で、夢の中で想像を張り巡らすことだけで、とても夢のある世界に連れて行ってくれた。同時に自分にはとてもできないこと、こんな厳しい環境には自分はへこたれてダメだろうな、絶対無理な世界とは思いましたが。


そして、テントの中で、愛する奥さん公子さんの写真を見ながら、オ〇ニーをしたことなど。。。


とにかく植村直己さんの著書は全部読んだ。


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植村直己さんの冒険歴の大きな流れとして、若いときは登山の垂直方向の冒険、そして晩年の大陸の犬ぞり紀行などの水平方向の冒険というように分けられる。


垂直方向から水平方向へ。

これが流れであった。


植村直己さんの冒険で唯一果たせなかった夢は、南極大陸の制覇、犬ぞり紀行だった。この南極を果たせなかったのが冒険家人生で唯一やり残した夢だった。


もちろん輝かしい冒険も、実際はすごいお金が必要なことなのだ。大変な費用がかかる。その費用をなんとか捻りださないとということで、著書などの執筆、そして講演会など全国に足を運んだこと、そして企業などのスポンサー探しである。


理想と現実。実際そのお金を捻りださないといけない苦労がその本に刻銘に書かれていて、とてもリアル現実を見る感じで、その痛ましさにう~んと読んでいた。


もともと内気な性格で人前であまり話すことが得意でない。1人が好き。だからこそ冒険に出るわけだが、それも団体での行動を嫌い、単独行が多かった。


たしか子供のときにニュースで見たことがあり記憶にあるのだが、遭難事故があって、1人で登山をすることの危険性、そういう人の気持ちがわからない、という日本中の非難の声が上がったときに、植村直己さんはインタビューで、「ご批判の気持ちはよく理解できるけれど、自分は1人を好み、そういう登山の世界を1人で楽しみたい、という世界はとても理解できるんですよね。それは決して責めれられることではない、と思う。」と擁護していたのをいまでも覚えている。


内気な性格で人前であまり話すことが得意でない。1人が好き。


これは自分の性格にも身に覚えがあるところで、似たもの同士という共感もあって、その孤独性をあるところに昇華させるエネルギーにとても尊敬していた。


自分のような性格でも大きなことができるんだ、という自分の子供時代の先生、大きな鏡だった人だったような気がする。


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そして世界中に衝撃のニュースが走った1984年冬。


北米最高峰のマッキンリーに冬季初登頂という偉業を達成した後、下山後消息を絶った。これは子供心にも大ショックだった。


あれだけ輝かしい冒険歴を重ねてきた植村直己さんでも、結局遭難するということもあるんだな、と驚きだった。ちょっと信じられなかった。


うちのオヤジは、そのニュースを見ながら、このように吐き捨てるようにつぶやいた。

「結局、こういうことをやっている人は、最後はこういう死に方をするんだよな。」


自分はこのとき、確かにこの意見に同調すると同時に、冒険家としてそれはある意味望ましいというかカッコいい死に方だったのでは、と思うようになった。


男の死に様として最高の格好良さだったのでは、と。
男の引き際、散り際の美学というか・・・。


男として、自分の大好きなこと、自分の人生そのものに打ち込んでいるときに、そのまま死にたいというある意味の欲望。歌手が歌っているときにステージでそのまま最期を迎えたい、というような。。


たとえば、ファンから怒られるかもしれないけれど、トム・クルーズが映画のスタントの最中の不慮の事故で命を落としたとしても、それはある意味、彼にとって最高の散り際の美学なのではないか、と思ったりするのだ。


植村直己、北米マッキンリーで死す。


は自分にそんな教訓を子供心に強烈に残したのだ。


「植村直己、北米マッキンリーで消息不明」


は衝撃のニュースであった。すぐに植村さんの大学であった明治大学の登山部が、植村さんと同じルートでマッキンリー登頂をおこない、植村さんの消息の行方を探索した。


頂上に登頂した時の旗、そしてその途中に宿泊したと思われるテントの残骸など、見つかったが植村直己さんの消息は不明だった。


そのときに下された判断は、下山途中で、強風に煽られ、クレバス(氷河の割れ目)に落下したのではないか、という結論で収まったように思う。


自分はそのとき植村さんについての遺骸含め、なにか見つかってほしいと思っていたので、この結果はこの結果で納得と言うか、物足りなさも感じた。


あれから36年経過しても植村直己さんの遺体の発見のニュースはない。永遠の美学として、永遠に見つからないでほしいという想いと、見つかってほしいという、好奇心の気持ちと半々である。


もし見つかったときはこれまた世界中で衝撃のニュースになると思う。


植村直己遭難が確定したときに、奥さんが記者会見をしたときのこと。鮮明に覚えている。


「冒険家はつねに命あって帰ってくる、それこそが本当の冒険家、と普段言っていた人がこれでは本当にだらしない、と思います。」


と涙をこらえながら気丈に話していたのは、涙なくして見れなかったです。


・内気な性格で人前であまり話すことが得意でない。1人が好き。
・それでも大きなことができる。
・男の散り際の美学


こういう点で、冒険家 植村直己さんは、子供の頃の自分に大きな影響を及ぼした人だったのである。







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H.I.S.海外支社のその他の想い出 [海外音楽鑑賞旅行]

他にも思い出した。コンセルトヘボウでシャイーのケヴァントハウスのオーケストラを聴いたときのこと。このとき旅行会社経由でチケットを確保したのだが、それは金庫に大切に保管されていたらしいのだが、なんと!強盗が入って金庫破りに会ってそのチケットが盗難にあった、ということもあった。(笑)


天下の旅行会社でもそういうことがあるんだな、と驚きました。
犯人は、おそらく熱烈なクラシックファンだったのであろう。(笑)


急いで、コンセルトヘボウにコンタクトして、事情を説明して再発行をしてもらい、事なきをえた。


もちろん現地アムスでの直接引き渡しになるので、コンセルトヘボウ・ホールのロビーのところで、H.I.S.アムステルダムの男性スタッフと待ち合わせて、そこで無事チケットを直接手渡しをしてもらった。


そんな想い出もある。



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H.I.S.フランクフルト支社のオフィス


もうひとつ想い出があるのは、これはスタッフから聞いた話で、海外旅行に行くときにかける保険について。これはお金を惜しんで、保険に入らない人もいるが、これは絶対間違いである。


酷い目に遭いますよ。


保険に入るなら、間違いなく無制限のものに入らないといけない。
お金を惜しんではいけない。


なんでも海外現地で、不運にもICU(集中治療室)に入って治療を受けるハメになった旅行者がいて、海外で保険に入っていない外国人観光客が現地で医療を受けた場合、その医療費は莫大な請求額を受けることになるのだ。


その人は特にICUに入る羽目になったので、さらに莫大な費用に上り、なんとその支払いのために、日本の自宅を担保にかけることになったそうだ。


海外旅行に無制限の保険は常識である。

短期間の旅行だから大丈夫だろう、というほど甘いものはない。
不幸は突然やってくる。


もし海外で不運にも命を落とすことになったら、その遺体搬送とか含め、いったん日本政府が負担するのだろうけれど、その大費用はそのまま家族に請求されるのかな?


自分の場合のスリ被害もそうだけれど、旅行会社のスタッフは、じつは楽しい想い出造りのお手伝いというよりは、じつはこういういざというときのリスク管理が結構大変な仕事なのではないだろうか?


ちなみに、スリの場合は、保険は無制限ではないです。
上限があったと思います。しかも肝心の現金は保証外だったと思います。(笑)


とにかく楽しいことの裏には怖いことが待っている。
これはよ~く心しておきましょう。


冒険家、植村直己さんも結局、北米マッキンリーで命を落とした。


自分は海外旅行のベテランと自負していてもどんなリスクが待ち受けているか、は神のみぞ知るなのである。




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H.I.S.ロンドンとH.I.S.パリ [海外音楽鑑賞旅行]

自分のTwitterのTLに、いきなりH.I.S.ロンドンとH.I.S.パリの投稿が現れるようになった。H.I.S.はご存じ世界中に支店を持つワールドワイドな旅行会社である。インターナショナルなネットワークを通じて、初心者であっても世界中のどこでも簡単に旅行できるサービスを提供する。


自分は、このH.I.S.の海外支社のオフィスで実際行ったことのあるのが、このロンドン支社とパリ支社なのだ。う~ん、なにかのお知らせなのかなぁ。


H.I.S.ロンドン

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H.I.S.パリ

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ロンドン支社は、2016年のグラインドボーン音楽祭に行った時のこと。なにせ突如行きます、という話だったので、この大人気の音楽祭のチケットは、当然全公演ソールドアウト。リターン・チケット待ちだった。


そして見事にゲットしたのだが、出発まで時間がないので、現地ロンドン支社にチケットを預け、自分が現地でピックアップするという算段となった。


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見事、グラインドボーン音楽祭のチケットを、現地ロンドン支社でゲット!の図である。背景に映っているのが、H.I.S.ロンドン支社のオフィスである。


ロンドン支社は、どこにあったか、もう覚えていないけれど、地下鉄Undergroundを乗り継いでちょっとうろうろさまよって見つけた感じ。大きな通りでなく、ちょっと裏道に入った通りにあった。


オフィス内は、そんなに大きいスペースではなかった。


上の写真を拝見すると、こんなにたくさんのスタッフはいなかったような・・・
そんなに大人数を収容できるスペースではなかったような・・・

これは非番などローテーション込みのメンバーなのでしょうね。


グラインドボーン音楽祭は、かなり英国貴族社会風な、とてもセレブな音楽祭でした。いい音楽祭でしたね。幕間のピクニック体験したかった。ボクの時は雨天だったので、敷地内レストランに変更になってしまいました。また行きたいです。


パリ支社はもっと波乱に満ちた出会いでした。(笑)


海外赴任でヨーロッパに住んでいた時代を含め、そして昨今の海外旅行含め、いままでスリというものを体験したことがなく、自分にちょっと自信を持っていたとき・・・やられました。(笑)


まさにスリの温床のパリで洗礼に会いました。


パリからアムスへ列車で行こうとしたとき、その乗車駅のNord駅でやられました。体にたすきがけにかけていたバッグをそのまま持っていかれました。


”ジャム野郎”の手口で・・・


もうそこから駅のポリスステーション、パリの日本大使館と渡り歩き、いろいろ手続き。なにせパスポートは助かったものの、ノーマネーだったので、どうしよう、という感じでした。


結局助けてくれたのは、現地のパリ支社だった。


まず駅のポリスステーションで、クレジットカードをとめる作業をしたが難航。旅行会社に電話することを思い出し、現地のSOS窓口を教えてくれて、そこでカード会社の電話番号を聞いたら一発で全カード分わかった。すぐにかけて、全部ストップ。


そこからは調書取り。現地用語で、いわゆるポリスレポート。 

自分は日本人なので、英語で書かれたアンケート用紙に記入する。


住所、氏名、年齢、どこで起きたか?、スラれたもの(中に入っていたものなど詳細に。)、犯人像、など事細かく、7枚くらいあったんではないだろうか?


マークシート方式。


それを正式に警察が定型フォーマットにタイピングして印刷して、正式なポリスレポート(調書)として作成して、自分が何箇所にもサインをする。


警察用と被害者用があり、自分にもくれた。(あとで保険会社に請求するとき必要。) なにせ、かばんごとであるから、パスポート、現金、クレジットカード、そしてなんとカートをロックする鍵もその中に入っていた。このまま見つからないとカートが開けれなく、壊さないといけない。


もうため息というレベルではない。


まずは日本大使館に行け、と言われ、メトロのチケットを3枚余分にくれた。 そして日本大使館に移動。(結構距離的に離れていて、メトロ、徒歩と、この間の移動も結構恐怖というかスリリングでした。)


はじめてのフランスの日本大使館。

凱旋門の比較的近くにある。

入ると空港みたいにセキュリティチェックがあるのだ。
カートを通して、中身をチェックする。


その後に、普通の役所のようにガラス窓越しに美しい日本人の女性スタッフが2人いる。 用件を言ったら、あちらの部屋にどうぞ、と案内される。


ドアを開けると、また比較的広いスペースが広がる。
でも正直言って、パリの日本大使館は超狭い。

そこで、いろいろ説明を受ける。


特に現金をすられた場合の対応。一番ポピュラーで現実的なのが、クレジットカード会社による 「緊急キャッシュサービス」というもの。 クレジットカード会社に電話して、大使館そばの銀行へ海外送金してもらう、というもの。


その説明を受けた後に、日本の旅行会社から携帯に電話かかってきた。


私のバッグが警察に届いている、という情報。たぶん現金は抜かれているだろうけど、まずは一安心。いろいろ相談をした。旅行会社がお金を貸す、という。パリに支店があるので、そこまで移動してくれ、という。


パリ支店はオペラ座ガルニエ前のオペラ通りにある。

現金はないんですけど.....(笑)


でも迎えには行けない、という話。(がっくり)そこで、大使館(凱旋門)からパリ支社まで、重いカートを引きずりながら、歩くのかぁ~???(いま考えてもこれは無理。) 途方に暮れていたところ、大使館側の配慮でメトロのチケットをサービスしてもらった。


ここから最寄のメトロを使って、近くまで行って、そこから歩け、と。

これなら大丈夫。


なんとか、パリ支社にたどりつく。

大勢の女性スタッフと少人数の男性スタッフ。
パリ支社は、かなり広いスペースでとても綺麗なオフィスだった。

「お疲れ様、ご苦労様でした。」と一同からねぎらわれる。

「お水を一杯どうぞ。」


これがどんなにうれしかったか!!!朝6時から水も一滴も飲まずに休まずに動いていただけに.......


そして、すぐにバッグが届けられている警察にピックアップしに行く算段。 地図とパスポートと現金少々を携えて、再びその警察に行く。 その駅に着いてから地図を見るんだが、これがよくわからなくなかなかたどり着かない。 人に聞きまくって、ようやく警察の場所がわかった。


見張り番の警官に事情を説明したら、「ブラッグバッグ?」と言われ、あ~ちゃんと届いているんだな、と確信。 でも問題はここからだった。


受付のおばさんに、事情を説明して、「ピックアップしにきた。」と説明したつもりだったのだが、英語の下手なフランス人には通じていなかった。(オレの英語が下手なのか??)


ふつうにポリスレポート(調書)をとる算段に入った。


あれ?さっき駅の警察で作ったけれど....と説明したのだが、ここでも作る必要があると、言ったかどうか、英語が下手すぎてよく聞き取れなかった。(しかたなく従ったが......)


ここで出てきた調書は、日本語バージョンであった。
やっぱりパリはスリの日本人被害者が多いからなんだろうな、と思った。

仕方なく、またアンケートを記入。
 

ここからひたすら退屈な待ち時間。
2~3時間くらい待ったと思う。

警官がやってきて、ようやく面接・尋問が始まった。

まさか自分が入るとは思ってもいなかったパリの警察署での取調室の一室.....(笑)


10畳くらいのスペースで、窓はない。オフィス用のフリーデスクにパソコンが置いてあって、警官と面向かって座る。さっき書いた調書を見ながら、警官はパソコンに打ち込んでる。(要は清書用調書作成のため。)


そしてその項目ごとに質疑応答、状況説明など。


結構長かった。警官はパソコンのキーボードがあまり打ち慣れていないようだった。
 
「ハイ、これでおしまい。」

と言われ.....


「へっ???」


「私のかばんは???」

「そんなものはない。」

「えーーーー!!(驚)」

警官はまったく認識していない。

話が通っていない!!!


警官は、「Youに連絡してきた旅行会社が、Youの宿泊ホテルから連絡があった、というなら、そのホテルにもう一回確認してみろ。ここには君のバッグなどない。」


「はぁぁぁ~。」


それはおかしい、とかなりすったもんだして食い下がったが、警官は、いったん引き下がって仲間に確認してくれたようだったが、戻ってきて、「やはりバッグはここにはない。」と言われた。


もうどん底に落とされた想いだった。また振り出し???


旅行会社にもう一回電話して確認してもらったが、やはりここに届けられている、という情報。 そこで、警官をさっきの門番のお兄さんのところに連れて行って、このお兄さんは認識しているよ、と再度食い下がる。


そうすると2人でフランス語でやりとりをして、もう一回その警官は奥に引っ込んでいった。 結構時間がたったが、「Youのかばんは、ここにあった!」とバッグを見せてくれたときはホントにひたすら安堵。


やっぱりフランス人、いい加減。(笑)
カバンがちゃんと出てきたこと自体ラッキーと思わないといけないか。


それでまたパリ支社に帰り、即座に今日アムスに行ってRCOの公演を聴けるかどうかの検討。時間的に無理だった。


しかたなく翌日のアムス行の航空券を発券して、パリの緊急のホテルも取ってくれた。 パリ支社の男性スタッフに、「ふつうパリでスリに会った日本人観光客はみんな暗い面持ちなのに、ノンノンさんは明るくしっかりしているので安心しました。」と言われました。


まさに旅行会社が現地にあって、そのお世話になれたから、こんなにスムーズに行ったのだと思う。 もしこれを全部自分でやるとしたら、パリの街に路頭に迷っていたと思う。


もうパリ支社は、まさに人生の修羅場、危機を助けてくれた大恩人なのである。スリにあってノーマネーの状態で、重いカートを引きずりながら、ようやくパリ支社にたどり着いたときのあの温かい雰囲気、自分の傷ついた暗い心を明るく迎え入れてくれたときのいかに救われた気持ちになったことか。。。


日本側の女性スタッフも、自分のこの一件の方がつくまで、オフィスで緊急事態ということで、残業してくれていた。つねに日本の旅行会社に連絡を取りながら、いろいろ動いていましたから。


自分の記憶では、おそらく日本時間の夜中0時を回っていたと思う。

あのときは、本当にご迷惑をおかけしました。(笑)


現金だけだったから、まだ幸運でしたね。パスポートやられたら、結構面倒くさいです。日本人のパスポートって、パリでは結構狙われやすいとか。金になるとか。


SNSで友人がパリでパスポート、キャッシュもろともやられて、もうサバイバルで復旧作業、帰国する体験をよく見ているので(笑)、大変だなぁといつも思います。


そんな、自分が忘れようにも忘れることのできないH.I.S.ロンドンとH.I.S.パリ。
彼らのTwitterでの投稿を見ると和みます。


いまコロナ禍で大変な旅行業界。ましてやHISは、国内というより海外旅行がメインの旅行会社。海外旅行がまったくダメな昨今、相当ダメージを受けているのではないか、と相当心配しています。


去年の3月頃にコロナ禍が始まったときから、ずっと心配しています。
最悪なことだけは避けてほしいと願っています。


そんな悲しい昨今の状況のニュアンスも醸し出しながら、ちょっと旅行チックなところにも触れてくれていて、彼らの投稿は和みます。


ちょっとさわりをご紹介。


H.I.S.ロンドン


写真に写っている渡り廊下みたいなのは、どこからどこへ繋がっているんだろうと通る度に疑問に思いつつも、未だにわかりません。青空広がる夏のイギリス。イギリス国旗の写真をみていると、また夏がくるのが楽しみです。


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コヴェント・ガーデン駅前ロンドンの中心地にあるショッピングエリアです。ロンドンの地下鉄駅は、このように外観が可愛いところが多いです。駅が作られた時からずっとこの外観なのか、いろいろ考えながら駅を見るのも楽しいですね。


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H.I.S.パリ


先週土曜日から、感染対策が強化されフランス全土で18:00~6:00は外出制限となりました。写真のオペラ大通りは、通常たくさんの観光客やパリジャン達で賑わう場所なのですが、さびしいですね。実は少し雪が降った後の様子です。暖冬だと思っていましたが、少しだけパリでも雪を見ることができました。


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パリのメトロの駅にこんな掲示を見つけました。"マスクは義務、鼻も口も覆いましょう"。マスクの習慣がなかったフランス人ですが、すっかり外出時の習慣になりました。でもたまに鼻出しマスクの人も…。マスクなしは135€の罰金です。ゴミ箱にMerci(ありがとう)の表示も以前はなかった気がします。


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現地に住んでいるからこそのニュアンスたっぷりのレポート羨ましいですね。
また無性に海外旅行に行きたくなりました。


いまヨーロッパは、日本以上にコロナ深刻ですが、このツィートを眺めてみると、そんな悲壮感はあまり感じないんですよね。



旅行の手配は、もう個人の好きなように自由です。本当に旅行マニア、旅行好きの人なら、全部自分で個人手配することが、またそれも楽しみのひとつですから、そうなさるのもよいか、と思います。


自分は、そうしてもいいけれど、やっぱり旅行会社にお願いするのが安心で、そちらの道をとっています。


保険、インシュアランス、現地でのトラブル対応など、やっぱり旅行会社経由のほうが、なにかとサポートが厚く、いざというときは安心だし、助かりますね。特にHISのように世界中に現地支社がいて、日本人スタッフが常駐しているのは安心です。


自分の場合、エアー、宿泊、コンサートのチケット諸共、全部パッケージでお願いしています。もちろん旅行会社が企画するツアーパッケージに乗ってもいいですが、自分はエアー、ホテル、チケットだけお願いして、あとは自分の好き放題にさせてもらう感じです。


そこはもう全然フレキシブルです。


昔は、HISの中にそういうクラシック音楽ツアーを企画する部隊がいて、そこにお世話になっていたのですが、その後、別会社として独立。株式はもちろんHISが持っているのですが。。


まさに海外のクラシック音楽ツアーをやるためだけの専門会社です。


QUALITA音楽鑑賞専門デスク
https://www.qualita-travel.com/music/


自分が、海外音楽鑑賞旅行と称して、海外のコンサートホール、オペラハウスを巡って、その現地の公演を楽しむ、現地に行かないと会えないスターたちの公演を楽しむ、という企画をやりだしたときからずっとお世話になっているところです。


まさに自分の海外音楽鑑賞旅行は、このクオリタ音楽鑑賞デスクなしではあり得なかったです。毎年行ってましたからね。(笑)あの頃は金持ちだった。


毎年行っていたから、その年の旅行が終わったら、翌年の計画をまたコンシュルジェ・スタッフに相談するんですね。


コンシュルジェ・スタッフはほとんど女性スタッフが多いですが、男性スタッフもいます。旅行はやはりこの計画を立てているときが一番楽しいですね。


もちろん自分が企画を立案します。大体1年前から通達しておきます。(1年前にはどこに行くかすでに決まっているのです。)


最初は緩くですが、半年前あたりから、結構慌ただしくなり、チケット発売日直前になると緊張感が走り、かなり緊急になります。


チケットは、もちろん自分がネットで個人手配することも多いですが、自分でやるか、旅行会社にお願いするかは、その公演などのケースバイケースですね。


争奪戦など難易度の高いチケットは旅行会社にお願いすることが多いです。


チケット手配はいろいろな想い出いっぱいですが、やっぱりマーラーフェスト2020でしょう!20年、30年に1回のフェスト。絶対失敗は許されなかった。しかもレアなフェストなので、情報もあまり出てこず、チケット発売日ギリギリの直前までほとんど情報が出てこなかった。


そういう状況だったので、自分はイライラしてしまい、そのときはスタッフが男性だったのでかなり厳しくハッパをかけました。(女性スタッフならまずやらなかったと思います。反省しています。)


そうしたら、数日後に、10曲のマーラー交響曲のうち、3番と9番は完売だけれど、残りの8曲をセット券という扱いで、1st Categoryでまとめて購入というのでどうだ?という交渉を勝ち取ってくれたのです。


それもチケット発売日の1週間前にです。


向こうのコンセルトヘボウ、マーラーフェスト側との直接交渉でないと、絶対あり得ない交渉結果です。ふつうの個人手配だど、なにせ10曲もあるマーラー交響曲ですから、1曲づつ購入手配とか時間がかかってしまう。


全曲セット券というのは、別途ありましたが、それがすでに完売のあとでしたから、こういう8曲セット券で、という中途半端な交渉も、直接交渉してくれたから可能だったのだと思います。


さすがプロ!と唸りました。


こういうところは、普通の個人手配ではなかなか難しいところで、特にマーラーフェストは難易度が高く、争奪戦と思ったので、最初から旅行会社に全公演お願いするつもりでした。


だから自分でやるか、お願いするかはケースバイケースなのです。


旅行会社から”チケット手配できました。”というメールが届いたときのあの毎回の嬉しさはハンパないです。最高の気分です。それで1日はボーっとできます。


マーラーフェスト2020は、自分が3年間予算確保して徹底的に準備してきた企画でしたから、チケット発売日より1週間前に、すでに8曲を確保できた、というのは、本当に心から安堵できました。


さすが頼れる兄貴という感じです。
やっぱりプロだなぁと思いました。


1年も前から、つぎの旅行計画のために、念入りにスタッフとメールや電話で計画を煮詰めていくのです。もちろん海外でクラシック音楽を楽しむ、ということがメインですから、本当に最高に楽しいです。


この計画を詰めていくという作業でスタッフとの距離感が近くなります。もちろんコンサートだけではなく、いろいろなクラシックに纏わる聖地巡礼もふくめ、いろいろ相談します。


もちろん自分の予算との兼ね合いで、いろいろスタッフと調整します。
これも大事なことです。


いままで一番高額だったのは、2013年のルツェルン・ザルツブルク音楽祭ツアー。もう天文学的な数字でとても人に言えないです。(笑)


まさに自分のパートナーなんですね。


いつも自分のmixiやブログで得られた結果の華々しい事象だけをお伝えしていますが、その陰にはスタッフの努力の賜物があるのです。


表で見えないところで、支えてくれる功労者なのです。


自分の海外音楽鑑賞旅行は、彼らの力なくして成り立たないです。

ここに改めていままでの感謝の意を表したいと思います。


いままでmixiというローカルなSNSだけで日記をリリースしてきましたが、それをブログである”ノンノンのブログ”をスタートさせた理由は、このいつも大変お世話になっている旅行会社スタッフに、結果である旅行の現地の様子を絢爛豪華な写真付きで報告したい。読んでもらいたいというのが1番の目的だったのです。またそれが今後の業務に参考になったら、尚更ということもありました。


ブログだったら誰でも見れるパブリックなメディア媒体ですからね。
そういう理由からノンノンのブログをスタートさせたのです。


それが真相です。


1年前からメールと電話で、煮詰めていきながら、出発日の数日前に、直接オフィスでコンサートチケット、エアーチケット、諸々のものを説明を受けながら手渡ししてもらいます。


このときにコンシェルジェ・スタッフと直接お会いします。
このときが最高に嬉しいです。


いままでの苦労が笑顔で救われるのと、さぁこれからいよいよ本番だな、と気合が入る瞬間でもあります。


自分を担当してくれたスタッフは、いままで5人(女性スタッフ4人、男性スタッフ1人)。もちろんお名前とご尊顔はしっかり記憶しています。


クラシック音楽の海外ツアーは、もういろいろなやり方があって、本当にその方のご自由な世界です。でも自分は、このスタッフといっしょに旅行を作り上げていくというやり方が自分に合っていていいですね。自分だけじゃなくて、いっしょに達成した、という共有感が得られる感じが好きです。


コロナ禍でみなさんたち、どのようにお過ごしになられているのでしょうか・・・?

まさに試練だよなぁ。


お声をかけるのも忍びない、という感じです。

なんとか頑張ってサバイブしてほしいものです。


いままで国内旅行は、自分でネットで交通手段、宿泊を全部手配していましたが、今後はHISでやろうかな。少しでもお金を落とす、という行為が、いままでお世話になった恩返しというものではないか、と思うからです。


なくなってしまうと、いままでの自分の血と涙の汗の結晶が全部崩れてしまいそうで、それだけはあってはいけないことだと思っています。







 




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ヤノフスキのベートーヴェン観 [ディスク・レビュー]

もともと、この1月10日にリリースされたばかりのヤノフスキ&WDR響によるベートーヴェン交響曲全集のレビューをおこなおうとして日記にする予定で、書いていて思わずヤノフスキ全般のことに広がってしまい、仕方がないので日記をふたつに分けることにした(笑)というのが真相である。



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ベートーヴェン交響曲全集 
マレク・ヤノフスキ&ケルンWDR交響楽団(5CD)



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ご覧のようにレーベルはPENTATONEである。ちょっと不満なのは、ふつうのPCM 2ch ステレオなのである。しかも、先売された第5番、第6番はSACDだというのに、全集のCD-BOXになった途端、CD全集となってしまった。


これはあまりに残念だよね。


ヤノフスキでPENTATONEとこれば、絶対にSACD5.0サラウンドだ。いままでヤノフスキの全集といえば、ベルリンフィルハーモニーでのワーグナー全集BOX、ジュネーブ・ヴィクトリアホールでのスイスロマンドとのブルックナー全集BOX、いずれも看板のSACD5.0サラウンドでの全集である。


しかもベートーヴェンイヤー250周年を祝してのアニバーサリーイヤーでのリリースなら尚更、看板のSACDサラウンドでリリースするべきではなかったか?


いろいろ推測したりする。このコロナ禍、メジャーレーベルでも苦しい経営を余儀なくされている昨今、マイナーレーベルは、さらにその経営難の厳しさを増すであろう。


SACDでリリースするのはコストがかかりますからね。


そういうコスト面からの理由であるならば、事情はよくわかるにしろ、でもやはり悲しい。クラシック界の王道中の王道であるベートーヴェン交響曲全集をPENTATONEからリリースするなら、ぜひSACD5.0サラウンドでやり直してほしいものだ。


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当録音は2018年10月から2019年11月にかけて、当団の本拠地ケルン・フィルハーモニーにて収録された。ヤノフスキのベートーヴェンといえばNHK交響楽団とで、第3番「英雄」そして第九演奏会を披露して話題となった。


また、2019年11月のケルンWDR交響楽団とも来日公演をやっており、第6番「田園」を披露した。その圧倒的な統率力とパワフルなエネルギーの中にも繊細な響きを作り上げる巨匠ならではの演奏を聴かせてくれた。


その当時は、ヤノフスキと良好な関係にあった日本クラシック音楽界。


いつでも実現できるような気がして、特に足を運ばなかった。東京・春・音楽祭で圧倒的なエンターテイメントを繰り広げてくれるから、という本筋が待ち受けているという自分の想いがあったことも確かである。でもまさか、まさかのコロナ禍な世の中になってしまい、もうこんなに遠い世界になってしまうとは・・・


本当に行かなかったことをいますごい後悔しています。

マエストロももう80歳を超える高齢だし、いつ再会できるか・・・


東京春祭のパルジファルも本当に大期待だけれど、果たしてきちんと来日できるのか・・・など、不安いっぱいである。


そんな中で届いたヤノフスキの渾身のベートーヴェン交響曲全集。

しっかりと楽しませていただいた。


録音は、2chステレオとしても十分な高音質なサウンドで自分は満足することができた。オーケストラとしての基本である厚みのある音、音像の明晰さ、音場の広大な感じもよく表現されていて、とてもいいステレオ録音である。


ヤノフスキのベートーヴェンは、前日記でも書いたとおりの内容を地で行くヤノフスキの音楽の作り方そのものであり、引き締まった音で、明晰で快速テンポでサクサクと進む感じで切れ味鋭いけれど、男らしい雄大なベートーヴェンとも言えるような出来具合にもなっていた。


非常に引き締まっていて、切れ味鋭いですよね。
ヤノフスキ・テンポでヤノフスキの音楽だなぁと思いました。


ここは鳴らし処と思ったところは、極端なまでにダイナミックレンジを深く、その全レベル幅を使い切った録音の仕方をする。特に意表をつかれ、こういう音の収め方、表現は普通はしないよな、と思ったところに第九でティンパニーを思いっきり前へ前へ出すような大音量で録っているところだ。


こういう第九はあまり聴いたことがない。そしてまさに疾風のごとく超高速で駆け抜ける第4楽章のエンディング。いやぁヤノフスキ先生もなかなか個性的である。N響との第九公演ではその解釈に賛否両論で物議を醸した、というようなことをSNSで読んでいたが、なるほど、このことか、と思ったこともある。


自分は第1番から第9番まで、すべて自分の好みで大好きな演奏であった。非常に男らしく雄大でありながら、切れ味鋭い、そんなベートーヴェンである。


王道の演奏だと思う。


1,2番もいいし、特に2番は大好きですね。3番は最高、4番もいい。5番は一番大好きで最高。6番、のだめ7番もいい。8番は1番小さな小品だけれど、じつはこれはベートーヴェンのあまり公にできない女性との恋について書かれた作品で、最近自分のマイブームなのである。いいな~とほのぼの感じ入ってしまう。そして第九はなにをや況やである。


みんな好きだったけれど、第3番「英雄」が特に素晴らしい。


N響との日本公演でも「英雄」を取り上げており、マエストロにとって第3番「英雄」はとても大切な曲なのである。


「エロイカ」は、「19世紀の「春の祭典」」だと私は考えています。ストラヴィンスキーの「春の祭典」が20世紀初頭の爆弾だとしたら、「エロイカ」は19世紀の交響曲の爆弾です。交響曲の歴史でこれほどの飛躍を遂げた曲はありません。作品の長さだけでなく、特に第1楽章の展開部など、対立する主題が弁証法的に高まっていく様は驚くべきものがあります。それから、第2楽章の葬送行進曲におけるとてつもない表現。まさに19世紀初頭から未来を指し示した作品なのです。


とにかくヤノフスキ先生らしい、非常に切れ味鋭い男らしいベートーヴェンだったので、やっぱりSACD5.0サラウンドで出してほしかったな~と思うところです。


ベートーヴェンの交響曲全集という王道中の王道を、SACD5.0サラウンドで収録している録音というのは、あまりないのではないでしょうか?


それをPENTATONEがやらなくてどうする?

という感じなのだが。。。(笑)





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ヤノフスキの音楽観と絆 [クラシック指揮者]

自分はクラシックの世界に入っていくとき、カラヤン&ベルリンフィルを基本として入門した。まさにクラシックの魅力をアナログレコードを通して、一般大衆に普及させた、その功労者、第一人者といっていい。


35年間に渡って、ベルリンフィルの芸術監督、首席指揮者に君臨し、まさに”帝王”の呼び名を欲しいままにした。


カラヤンの音源、映像素材、含め全部コレクションした。そしてその膨大な音源を徹底的に聴き込み、クラシックとはなにか、を勉強したのである。もうカラヤンについては、いままでの日記で数えきれないほど、いろいろなことを書いてきた。カラヤンのことを、それこそエピソードからプライベートなことまでいろいろ知りたい、そうやって勉強してきた。


カラヤンの音楽は、その完璧なまでに絶対的な美しさにあると思う。


もちろんアンチカラヤンの声もよく理解できた。表面的な美しさだけで、中身が乏しいとか、レガートを強調する、いわゆるカラヤン節が嫌いで嫌いで仕方がない、ここまで爆音の鳴らし過ぎ、もういろいろな意見を拝聴してきた。


彼らの言うことはもっともだと思うし、よく理解できる。


でもそういう数多なアンチ意見をすべて受け止めたとしても、やっぱり自分にとってカラヤンが基本であることは、まったく揺るがない。


強いもの、頂点にあるものは、それだけ反するものも多く、それが共存して初めて正常な世の中なのだと思う。政治でもそうだけれど、一党独裁はあってはいけないし、常に二大政党、諸々に民主主義でないといけない。


そんなカラヤンをはじめ、過去の偉大なる指揮者はたくさん存在してきて、自分がクラシックに入門した当時は、その巨匠たちの音源、伝説などを徹底的に勉強した時期があった。そういう時期って必ずある。ロックやジャズ以上に、自分はクラシックにはそういう過去の巨匠、過去の名盤というのを徹底的にコレクションして、完璧なまでに勉強しないと気が済まない。。。そんな衝動にかられ、そういう夢中になる時期が必ずあるのだ。


それをやらないとなんかクラシックの領域に入ってはいけないような気がして、それがひとつの禊みたいな感じがしたものだ。クラシックは敷居が高いと思われるのは、そういうところが原因ということもたぶんにあると思う。


〇〇年の名録音、と呼ばれるものは徹底的にコレクションした。
そして聴き込んで勉強した。


もちろん過去の名盤、名録音の歴史的意義、重要性、そしてその骨董品を扱うように崇拝する気持ち、そういう過去の音源はとても人間の好奇心をくすぶるものである。


ところが新しい録音技術が発達にするにつれて、その過去の名盤を聴いても、それほど新人のときのように胸ときめくこともなくなってしまった。


いつぞやPENTATONEの新譜で、新進チェリストのヨハネス・モーザーがヤクブ・フルシャ&プラハ・フィルハーモニアとともに演奏するドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴いたときのこと。


そのあまりに新しい音の世界に自分は心底魅せられた。


そして、このドヴォルザークのチェロ協奏曲の名録音として有名なカラヤン&ロストロポーヴィチの名演を聴きなおしてみたのだ。


聴いてげんなりした。


彼らの名演をそしるつもりはなく 録音された時制を考えれば、実に素晴らしいクオリティの録音だということに異論はない。


だが しかしだ。


しかし そのクオリティは 45年前にすでに明らかに聴きとれた。


「チェロ、そしてそれに伴うオケの音が、こんな風に録れてるなんて何と素晴らしい録音なんだろう!」と 45年前に思った以上のものが 新たには感じられなかった。


逆に 演奏がひどく色あせて感じられた。


モーザー&フィルハーモニアの「ドヴォルザークのチェロ協奏曲」には、1970年のカラヤン指揮ベルリンフィル&ロストロポーヴィチのDG録音の時点では捉えることができなかった「音のさま」がある。


新しい録音というのは、そういうものなのだ。


いままでの価値観を、すべてを吹き飛ばしてしまう可能性を秘めている。


その当時では最高の録音技術で表現されたものでも、それが何十年も経てば、新しい時代の録音技術は、その過去の録音を凌駕し、まったく別次元のもっと優れた、当時では考えもつかなかった表現を新たに可能にしてくれる。


あの当時あれだけ、鼓舞した録音にもかかわらず、いまの最新録音を聴くと、セピア色なみに色褪せてしまう。


「新しい録音を聴こうよ!」


である。


それが世の常というものである。


もちろん過去の名盤を徹底的に研究し、それが単に新しいというだけでは括れない独特の魅力を醸し出していることももちろん否定しない。そういう世界もある。クラシックの世界では特にそういう嗜好性はむしろ高いのではないだろうか。


自分はもちろんその気持ちもよく理解できるし、尊重する。


でも自分は基本は貧乏人なんだな。(笑)予算があれば、そして音盤をラックにしまっておけるだけの部屋のスペースがあれば、どんどん過去の名盤もコレクションするであろう。


でも自分の進む道はそういう方向ではないような気がするのだ。「新しい録音を聴こうよ!」のアプローチでいくことこそが自分のスタイルだと確信している。


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マレク・ヤノフスキという指揮者には、カラヤンのような過去の大指揮者たちに憧れるという類のものではなく、自分といっしょに同じ時代を生きてきて、同じようなタイミングでメジャーになって、一緒に育ってきた、という感覚がある。


キャリア的にも大巨匠の年齢だが、いわゆる大器晩成型である。


だから自分にとって本当に身近に感じてきた指揮者であり、リアルタイムでいっしょに感動を分かち合ってきた、そういう親近感がある。


そしてなによりもPENTATONEという最新録音を極める技術集団のレーベルで音源をリリースする。ここが一番自分との絆を感じるところでもある。(笑)


ヤノフスキの活躍がわが国、日本で注目され始めたのは、彼が芸術監督、首席指揮者をしていたベルリン放送交響楽団を指揮して、ベルリンフィルハーモニーでワーグナー主要10作品を演奏会形式で上演し、そのライブ録音をPENTATONEが収録し、それが非常に素晴らしく大きな評判を呼んだからであった。


それがきっかけで我が国でも東京・春・音楽祭でのN響&ワーグナーシリーズでもリング4部作の演奏会式上演でも指揮をして大成功を収める。


そしてワーグナーの聖地、バイロイト音楽祭でもリング4部作を指揮し、バイロイト・デビューをした。


いずれも自分は、しっかりと体験出来て、まさにヤノフスキといっしょに時代を生きてきた、という実感があるのだ。大巨匠だけれど、同じタイミングでメジャーになって、いっしょに育ってきた、まさにそんな感じがするのである。


こういうリアルタイムでいっしょに生きてきた指揮者こそ、自分にとって、ある意味カラヤンより、より親しみ、親近感がわくというものではないだろうか。


大指揮者、大巨匠だけれど、自分と等身大。
まさにそんな感じである。


ヤノフスキの指揮、彼が作り出す音楽をいままでの経験からひと言でいうならば、極めて引き締まった響きで明晰な音楽を造ることを信条としていて、恐るべく超快速テンポでクライマックスに向かってぐいぐいと引っ張っていく・・・こんな感じである。


ヤノフスキの音楽は非常に引き締まっていますよね。非常に引き締まった音をオーケストラから引き出すのに長けている指揮者である、と言えると思う。


ヤノフスキの音楽作りでとても特徴を感じるのは特にその明晰さにある。それはあらゆる声部が明確に聴き取れることを指している。彼にとって、感情表現も重要だが明晰さは更にその上をいく重要なことなのだと思う。


指揮スタイルとしては、非常に禁欲的で、派手なパフォーマンスとは無縁の玄人好みする指揮。指揮者からの余計な感情移入や虚飾をいっさい抑え、そういうスタイルながらも洗練されていますよね。


好きだなぁ。


そしてヤノフスキの音楽はとにかくテンポが速い。速すぎるくらい。
大体どの曲も快速テンポでぐいぐい引っ張っていく。

バイロイト音楽祭のときも、現地メディアはヤノフスキは速すぎる!というもっぱらの批評だった。


ヤノフスキの音楽は、引き締まっていて明晰で超快速テンポでぐいぐい、というひと言がすべてを言い表していると思う、本当に。


東京春祭でもヤノフスキの4年間が終わった後の、翌年のローエングリンでは、N響が全然鳴っておらず、大不評でしたね。やっぱりヤノフスキじゃないとダメだ、というもっぱらの批評で、トリスタンとイゾルテやパルジファルは、それでやはりヤノフスキの再登板なのかな、と思いました。N響とは定期公演でベートーヴェンの第3番「英雄」と第九も一緒しており、もうお互い運命の絆ですね。


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ヤノフスキ&ベルリン放送響に在籍したことのある女性ヴァイオリニストの立上舞さんのインタビューを聞いたことがある。


ベルリン放送響は、通常のコンサートであれば、大体リハーサルに3日間とるらしいのだが、このベルリンフィルハーモニーでのワーグナー演奏会形式のときは、1か月の長期間をかけてリハーサルに臨んだのそうだ。


そのワーグナープロジェクトのときに、オケの中にいた立上さんは、ヤノフスキの指揮について、こんな印象を抱いていたそうだ。


弦楽器や管楽器に対しても、ピアノをピアニシッモ、メゾピアノはピアノぐらいの音量で、大体音量は小さい方向に修正される感じで、全体の音量のバランスを取りながらリハーサルを進めていく指揮者という印象だった。


でもワーグナープロジェクトのときは、もっと弾け!フォルテを弾け、もっとフォルトを弾け、みんなを鼓舞する感じで大変驚きました。歌手の声をかき消さないように、オーケストラの音量を落として抑えるのが劇場でもあたりまえのことなのに、その逆のことをしているのがとても不思議だった。


小澤征爾さん、サイトウキネン、小澤音楽塾でオペラの勉強をしているときは、歌い手さんの声を消さないように、なるべく静かに、でも芯のある音で。そのアドバイスをつねに心に秘めながらリハーサルに行ったところ、


もっと弾け、もっと弾け、もっと弾けるだろう!こんなに弾いていいものなのか?これは歌い手さんの声をかき消してしまわないのかしら?と心配しながらも全力で弾いておりました。


とのことでした。これは面白いですね。(笑)


元N響オーボエ首席奏者の茂木大輔さんの「交響録 N響で出会った名指揮者たち」のご著書の中でもヤノフスキの指揮ぶり、音楽造りについて書かれています。


不愛想で仏頂面で、その冗談か本気なのかわからないニュアンスこそが「ヤノフスキ・ワールド」なのであった。


なんとなくその雰囲気がよくわかって大笑いでした。

好きだなぁ。

茂木大輔さんのこの本をぜひ買って読んでみてください。
最高に面白いですよ!


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ヤノフスキと自分の最初の出会いは、2011年と2012年のベルリンフィルハーモニーでベルリン放送響とワーグナー主要10作品の演奏会形式上演を現地で生体験できたことであった。


2011年6月の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と2012年5月の「タンホイザー」だった。こんな一大プロイジェクトを2公演も生体験できたなんて、本当に一生に宝物の想い出である。もちろんPENTATONEが収録していた。


「今日のワーグナー上演において、演出が過剰に発展し、音楽面が二の次になっていると感じられるからです。演出家の無茶な解釈に惑わされず、オーケストラと歌手だけで観客にワーグナーの考えたことを感得させる~この発想は、今日では逆に新しいのではないでしょうか。」


これが当時のヤノフスキのインタビューである。ワーグナーは演奏会形式こそ一番である。


主要10作品に登場する歌手はそれこそ、超一流のワーグナー歌手ばかり。ロバート・ディーン・スミス、クラウス・フロリアン・フォークト、アンドレアス・シャーガー、ニーナ・ステンメ、アネッテ・ダッシュなどなど、もう蒼々たる当代きってのワーグナー歌手である。


一流の歌手と契約しているそうですが、貴重なワーグナー歌手を揃えるのは大変でしょうね。 「彼らは揃えるのが大変なだけでなく、ギャラも天文学的数字なんですよ(笑)。実はこのプロジェクトのために、特別にスポンサーに付いてもらいました。そうでなければとてもできません。」


このヤノフスキ氏が言っているスポンサーというのが、いわゆるDLRと呼ばれているもので、ドイツの放送局が関連しているドイツ独特のビジネス形態なのだ。DLRという組織は、ドイツ内のクラシック音楽のさまざまな録音をコ・プロデュース(共同制作)している。


文字どおりコ・プロデュースというのは共同で原盤を制作するという意味なのだが、このDLRのコ・プロデュースは、作品のラジオ・オンエアを行う目的で、録音技術、録音スタッフ、場合によっては録音場所等を援助しながら制作し、作品のリリース自体は外部レーベルから行うという手法なのである。


つまり自分たちが放送媒体機関、つまりメディアであるが故に、そこでのオンエアをさせるために再生する原盤を作成させる援助をするということ。そして原盤自体は外部レーベルからさせる、ということらしい。


DLRのコ・プロデュースの多くは、ベルリン・フィルハーモニー、コンツェルトハウス・ベルリンと、ベルリン・イエスキリスト教会で行われている。


このDLRによるコ・プロデュースの最近での大きな成果が、じつはPENTATONEから出ているこのヤノフスキ&ベルリン放送響のワーグナーSACD全集なのだ。


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このコ・プロデュースの背景には、DLRがRSBベルリン放送交響楽団、ベルリン放送合唱団、RIAS室内合唱団を運営するRundfunk Orchester und Chore GmbH (roc berlin)の一番の出資元であることがあげられる。roc berlinは、DLR(40%)、ドイツ政府(35%)、ベルリン市(20%)、ブランデンブルク放送(RBB)(5%)により出資されていて、だから、これらの団体は、ドイツの準公共放送オーケストラであるといえるのだ。


収録チームは、DLR側ラジオオンエア用録音スタッフとして、トーンマイスター、トーンエンジニア、トーンテクニックが参加し、PENTATONEよりプロデューサー、ポリヒムニアより、トーンエンジニア、トーンテクニックが参加するとても大きなチームであったが、すばらしいチームワークで、このワーグナーの大全集を作り上げたのだ。


PENTATONEは自社設立10周年の2011年に向けて、今までどのレコード会社も行っていなかった10作品のワーグナーの主要オペラの録音を、同一の指揮者、オーケストラ、コーラスで行うことを決めた。


ワーグナープロジェクトというのは、こんなクラシック業界でも一大プロジェクトだったのである。ヤノフスキはこのプロジェクトで一躍スターダムにのし上がり、世に名を知らしめた。ワーグナー指揮者として。


自分もニュルンベルクのマイスタージンガーとタンホイザーの2公演を現地で生体験できた。その日記は何回もアップしているので、ここでは本番ではボツになったお蔵入り写真をここでご披露しよう。当時のデジカメは性能が悪いので、解像度ボケボケでスミマセン。


まず


2011年6月のニュルンベルクのマイスタージンガー。


ここがベルリンフィルハーモニーの団員達が入っていく楽屋入り口。

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この入り口に入ったところで、ホール・ガイドツアーを受ける人たちが待ち合わせる。ホール・ガイドツアーというのは、ホールの中をガイドさんが案内してくれるというサービスだ。ボクもこのサービスを受けてみた。


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これがホール・ガイドツアーを受けているときに大ホールの左ウィングの席からリハーサルを見ているときの写真。このときヤノフスキ&ベルリン放送響はマイスタージンガーのあの有名な前奏曲を演奏していました。これが人生初のヤノフスキ生体験でした!


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そしてマイスタージンガー演奏会形式の本番のカーテンコール。


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このワーグナープロジェクトでは、ベルリンフィルハーモニーの大ホールのホワイエでは、こんな看板が立っていたり、グッズショップが開かれていました。


マイスタージンガーのとき。


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タンホイザーのとき。


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タンホイザーのとき、まだ開演前のリハーサルのときに、係員の目を盗んでこっそり無人のホールに入り込み、自分の座席であるこの最前列でタンホイザーのリハーサルを見ていました。ヤノフスキ・リハーサルの体験2回目。


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タンホイザー演奏会形式の本番のカーテンコール。


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懐かしいです。つい最近のときのよう。


まさか自分がバイロイト音楽祭に行けるとは夢にも思っていませんでしたが、その夢が正夢になったのも2016年8月のヤノフスキのバイロイト・デビューであった。運命の絆なんだな~。


「音楽だけに集中して舞台装置による解釈なしにワーグナーの楽曲の音楽的な質の高さを観客に伝えること。」と、演奏会形式のスタイルにこだわり続けてきた巨匠にとって、今回のオペラ指揮には、本人の大きな決断もあったようだ。


BR-KLASSIKでのインタビューで、ヤノフスキは、思わず本音で、このように答えている。 「自分も77歳。この機会を断ったら、あの音響が独特のオーケストラピットを味わうことは二度とできない。私は弱くなったのです。後悔はしていません。」


カーテンコールでの歓声は、もう間違いなく1番大きかったです。


相変わらず、控えめな所作であるけれど、この割れんばかりの大歓声・ブラボー、そして床の踏み鳴らしに、なにか自分が褒められているかのように嬉しく涙が止まらなかった。自分は惜しみない拍手をずっと送り続けていました。


ヤノフスキのカーテンコールは幕が閉まって、その幕の前に出てくるときなのだけれど、これが40枚くらい撮影しましたが、どれもピンボケでうまくいかず。このときの自分の一番の後悔でした。


一番最尾列の上階の席でしたので。しかも照明が暗いので難しいかな。その中でも、なんとか一番まともな写真をアップしますね。これも日記初公開です。


バイロイト音楽祭2016でのヤノフスキのカーテンコールです。


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そして言わずもがなの2014年~2017年の東京・春・音楽祭のリング4部作。もうこれは説明不要でしょう。大感動の4年間でした。


ありがとう、マエストロ ヤノフスキ。
東京・春・音楽祭のFB公式Pageから写真をお借りしています。


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あと、ヤノフスキ&ベルリン放送響の来日公演も2回ほど体験しているんですよね。サントリーホールと横浜みなとみらいホール。


横浜みなとみらいホールでは、前半は河村尚子さんのベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」後半がベートーヴェン交響曲第3番「英雄」でした。


自分の周りにはとても河村尚子さんの大ファンの方が多かったので、この日は初めて河村さんの実演に接することができて大感動の日でした。素晴らしいピアニストだと心から感動しました。横浜みなとみらいはピアノの音がとてもクリスタルな響きで驚いた記憶があります。


結局、自分は生涯でヤノフスキの実演を8回も経験しているのです!

こんなに体験しているマエストロは他にいません。
自分の実演体験で最多出場なのです。

いかに自分と縁が深いか。。。


あとアラベラ・美歩・シュタインバッハーのPENTATONEのアルバムでもオーケストラ、指揮者として共演しているので、その回数分も加味しないといけない。


ヤノフスキは、伝統的なドイツ音楽における偉大な巨匠の一人であり、ワーグナー、 シュトラウス、ブルックナー、ブラームス、ヒンデミット、新ウィーン楽派についての解釈は、世界的に定評がある。


そしてヤノフスキは、根っからのオペラ指揮者であり、その意味ではドイツの指揮者としての王道を歩んできた人なのだ。現在ではコンクールや、その入賞後のコンサート活動などを通じて名を成していく人が少なくないが、かつては、特にドイツ語圏などでは、オペラのコレペティートル(歌手たちをピアノでトレーニングする人)から出発し、次にオペラの指揮に手を染め、様々な歌劇場での指揮者を経て、ある劇場の音楽監督に着任するという遍歴を重ねた後、やっとコンサートに指揮者として登場するというのが指揮者の進むべき道であった。そしてヤノフスキこそは、今では少なくなった、指揮者への王道を歩んで今に至った指揮者だったのだ、と言えるのであろう。


そういう意味でも自分のクラシック人生でリアルタイムで、いっしょに感動を分かち合ってきた指揮者でもあり、自分にとってはある意味、カラヤンより偉大な大巨匠であると断言してもいいのではないだろうか。


 



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私の音楽遍歴 [海外ロック]

自分はオーディオでもアナログレコードをまったくやらない人なので、手元にコレクションをほとんど持っていない。自分が社会人1年生になったときに、企業に勤めてお給料をもらえるようになってからは、全部CDに切り替えた。


だから持っているアナログレコードと言ったら、音楽、とくにロックに目覚めた1977年の中学1年生のときから大学卒業までの間にお小遣いをはたいて買ったものばかりである。だからそのレコードコレクションをいま見てみると、本当に懐かしいし、自分の青春の想い出がいっぱいである。


おそらく自分と同じ50年代後半の人なら、同じ音楽シーンを見てきているはずなので、共感してもらえるのではないか、と思う。


いまと違って、当時の洋楽シーンはとても狭いというか、夢中になるスターは決まっていた。


だから同じものを見てきているはずなのだ。

40年も前の昔に買ったアナログレコードである。
大体100枚くらいのコレクションである。


アナログを趣味にされているオーディオファンの方は、壁一面の大きなラックにびっしりとレコードコレクションが詰まっていて、高級なターンテーブルでレコード再生を楽しまれる。


いいな~、高級で優雅な感じで、いいですよね~。


どうせアナログをやるんだったら、そういう環境にならないと、素人じゃないんだから、どこか中途半端で、いまひとつやり始めようという気になれないのだ。予算もないし。経年というか時間がかかる賜物ですね。


でもいいタンテは欲しいかな、やっぱり。


そんな学生時代に買ったアナログレコード、いま考えると処分しないで本当に良かった。途中何度もその危機はあった。処分してしまおうかな、とか。。で。特に日本から海外へ居住を移すときとか、その反対とか、そのときは本気で処分しようか、と思った。


もうアナログレコードを再生することもないだろう、まさか、昨今こんなアナログ・リバイバルになるとは思ってもおらず。


いま考えればすっかりお宝である。


貴重なのは、当時の40年前のレコードには、レコードの”帯”というのがついているということだ。いま入手したくても、こういう当時の帯がついているブツはなかなか手に入らないだろう???


生き証人という感じである。


ところで40年間、まったく再生していないアナログレコードってちゃんと再生できるんですかね?(笑)経年劣化とかやはりあるんだろうな。やってみればいいが、やめておく。


社会人になってから、数年間、しばらくの間、音楽の世界から距離を置いていたブランク期間があった。社会人になってからは、東京に上京して親元を離れて1人暮らしでホームシックにかかってしまい、学生時代とまったく異なり、仕事のことで精一杯。毎日1日を生きていくことだけで精一杯だった。


食うことだけが唯一の楽しみだったかな。

音楽まで気が回らなかった。


やっぱり音楽というのは、精神的に余裕があるときじゃないと、鑑賞しようという気にならないものなんですね。自分の経験からすると。気分がLowのとき、落ち込んでいるときは、音楽を聴こうという感じにならないです。


やっぱり相乗効果なんです。気分がいいときに聴くから、最高なのであって。それはいま現在もそうです。仕事やプライベートの問題で落ち込んでいるときはオーディオ機器をオンすることはないです。部屋の中を静かにしておくほうが、精神健康上いいです。


悩み事がない、ある程度いい状態のときじゃないと音楽って楽しくないですね。


中1のときに、ビートルズ、ポール・マッカートニー&ウィングスからロックの世界に入って、大学4年生までロック一筋の人生。


社会人になって、ブランク期間があって、そこからややあって、クラシック・ジャズの世界に基軸を移した。湯水のようにお金つぎ込んで勉強しました。オーディオはもちろん、生演奏、コンサートに通いまくった。


自分は本当に音楽が好きで、人生の生きがいだったですね。音楽がなかったらいまの自分はありえないです。


これは、あくまで結果論ですけど、クラシック、ジャズ、ロック、そしてJ-POPも、壁をまたいであらゆるジャンルの音楽を勉強して聴いてきたのは自分の人生の財産だと思うんですよね。


いろんなジャンルの音楽を聴いてこれたというのは自分のひとつの強みになっているのでは、と思うのです。これは長い人生の中で別に自分で意図したことでもないし、計画的でもなくて、あくまで本当に結果論。


もちろん幼少時代からクラシック一筋、ジャズ一筋でも全然素晴らしい人生だし、専門的に極め尽くせる、そういう道も素晴らしいです。


でも自分は結果論的に雑種な音楽人生になったけれど、自分にはそれが似合っているというか、それが自分のいいところ、長所なのだと思っています。


今日40年間封開けずだった埃にまみれたアナログレコードをひさしぶりに取り出して自分の音楽遍歴について感傷に浸ろうという意図である。(笑)


懐かしような~って感じです。


中学1年の1977年から、大学4年の1986年の10年間の洋楽ロックシーンは、もう同世代の人は同じものを見てきているはず。そういうあういう世界でありました。


いままでビートルズ、ポール・マッカートニー&ウィングス、ポリス、スティングについては、日記で熱く語ってきているので、ここでは省略。


ジャム、スタイル・カウンシル、ポール・ウエラーについてはちょっとやはり語っておかないといけない。


自分は、アメリカン・ロックよりもブリティッシュ・ロックのほうが好きであった。英ロックにかなり傾倒していた。尖っている、ハングリー精神、音楽性、ファッション含め、つねに流行の最先端みたいなものをロンドンに感じていた。


英国発のロックバンドの辿る道筋というか、運命というのは、最初デビューのときはUKチャートで、もてはやされて話題沸騰になるのだが、それが数年後に、よりマーケットの大きい米USチャートの上位に認識されて独占したりして世界的に知名度が上がってくると、英国では見放されるというか(笑)、人気が落ち着いてきてそんなに騒がれなくなるということだ。


英国にはつねにそういう反骨精神があった。(笑)格好良かったな。


でもやっぱり当時の洋楽シーンは米のマーケットの大きさは、バンドにとってビジネス収入的に魅力満載であった。


自分のロック10年間は、英国発のパンク、ニューウエーブが最高潮のときだった。衝撃のセックス・ピストルズの登場以来、あんなに心が恐怖に感じたことはなかった。


もうこれから将来のロックシーンで、あの10年間ほどの衝撃のことはもう起こらないだろうと思うのだ。自分は本当に運がいいときに、そのときに巡り合えた。


テレビで映る、ロンドンのあのセピア色の街の景観に、髪をビンビンに尖がらせたパンクな人がその街中を歩くシーンに相当憧れました。


カッコいいな~って感じで。

ロンドンに相当憧れました。ロンドンにはそういう格好良さがある。


自分がその当時テレビで見たロンドンのパンク人入りの風景シーンを、いまネットで探してみるんだけれど、いい画がないんですよね。自分のあのときのイメージとピッタリくるのがない。だからやめておく。


学生時代にそういう経緯でロンドンに憧れていたので、社会人になって、ヨーロッパの放送関係の仕事をするようになって、ロンドンに住むことができるようになったときは、外面には出さなかったけれど、もう心の中でやったー!!!を10連発かましましたから。(笑)


憧れのロンドンに住める!

どんなに心ときめいたか。


パンク・ニューウエーブ ムーブメントのとき、最高に夢中になったのは、もうご存じのようにスティングのポリスだったが、この頃から、自分はスリーピース、3人編成のバンドってカッコいいな~と特別の想いを寄せるようになった。


ギター、ベース、ドラムスだけの最小単位の構成。本当に演奏技術、テクがないとトリオってバンドとして成り立たないと思う。


またトリオって肖像ポートレートもビシッと決まる格好良さがあるんですよね。絵になる。3人は格好いいです。4人、5人編成じゃこの格好良さは出せないんですよね。


ポリスの他に、夢中になった3人編成バンドがポール・ウエラー率いるザ・ジャム。


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モッズとか言われていたジャンルで、いかにもブリティッシュ・ロックぽい汚い感じ(笑)でよかった。


学生時代、当時塾講師や家庭教師などで貯めたアルバイト代は全部レコード買うことに消えていった。そのためにアルバイトをやっていたようなものだった。


ジャムのレコードは当時こんなに買っていた!
この当時は燃えていたね~。


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英国で大人気を博しながらも、その頂点で解散したジャムを経て、ポール・ウェラーが向かったのは、より幅広い音楽要素~ソウル、R&B、モダン・ジャズ~などを包括しつつ展開するスタイリッシュなポップス志向だった。もともとモータウンやモッズなどが好きなポール・ウェラーはパンクを経て、独自の音楽を目指したのだった。


このスタイル・カウンシルがまたカッコよかったですね。当時のお洒落音楽の代表格的な存在でしたね。一世を風靡していました。ポール・ウエラーは本当に気難しい人で、とにかく尖っていた。そこが格好良かった。



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Cafe Bleu
Style Council



スタイル・カウンシルのアルバムと言ったら、もう絶対これなんですね。当時相当憧れました。ジャケットが最高に格好良くて、スタイル・カウンシルといえば、自分はこれを最高傑作に挙げます。”ホワイトハウスを爆撃”なんて曲もあって、ポールの過激なところが垣間見えました。シングルカットされたマイ・エヴァー・チェンジング・ムーズはいい曲です。



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Our Favourite Shop
Style Council



スタイル・カウンシルがもっとも商業的に大成功したのが、このOur Favourite Shop。これは当時の自分はどう思ったかと言うと、確かに耳障りのいいヒット・ソングスばかりで本当にいいアルバム。でも当時の自分はやや不満だった。なんかポール・ウエラーが商業主義に走ってしまった感じで、こうじゃないよな~、もっと尖っていないと、と不満だったです。当時の自分は本当に生意気でしたね。粋がっていましたね。自分はスタイル・カウンシルは、やはり1作目のCafe Bleuがいいです。



スタイル・カウンシルのアルバムも当時こんなに買っていました。
宝物ですね。


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じゃあ、ポール・ウエラー、ジャム、スタイル・カウンシルについては、これくらいにして、今日40年ぶりに埃の中から取り出したアナログレコードを見ながら、当時の音楽シーンについて感傷に浸りましょう。



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この当時のロックシーンでは、三大ギタリストという命名をされていたギターの名人がいた。エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、そしてジミー・ペイジである。


エリック・クラプトンは、ギターの神様、スローハンドと言われていて、この3人の中で一番格が高いような扱いだったような気がする。ブルースを基本にしていましたね。子供だった自分は、このクラプトンのギター・テクニックがどれだけうまいのか、を知りたいと熱望していた。一番気になるギタリストだった。


当時の若輩の自分が思っていたのは、ギターがうまいイコール早弾きができる人という単純思考だったので、よくわかっていなかったんだよね。ギターのテクっていろいろな奏法がある訳で。。ジミーペイジはレッド・ツッペリンでカリスマだけれど、よれよれという感じだったし。(笑)


当時の自分が一番うまいと思っていた、つまり目も止まらない速さで早弾き出来るギタリストは、このジェフベックだった。このワイアードはその超早弾きが堪能できるベックの最高傑作だと思っていたのである。



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クイーンは最近の映画のおかげでいまや若い人にもすっかり認知された超有名なバンドになりましたが、じつは彼らは世界の中でいち早く先に人気がでたのは日本マーケットなのでした。中学のときでしたね。「世界に捧ぐ」が世界で爆売れして認知されたのが衝撃だった。とにかくいままでのロックバンドにはなかったコーラスの美しさ、重厚さ、そして全員美形と来たもんだ。(笑)エポックメイキングでした。日本でのファン層は圧倒的に女性ファンだったような。日本の女性ファンが彼らをここまでビッグにしたのです。



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ブリティッシュ・ロックではないけれど、ブルース・スプリングスティーンも自分の青春時代の輝けるロックスター。この「ボーン・イン・ザ・USA」が空前絶後の大ヒット。彼の代表作になった。まさにアメリカの国旗をジャケット写真に使い、当時のアメリカ・ナショナリズムを大いに刺激した。アメリカ星条旗にジーンズ。いかにもアメリカです。この当時はシルベスター・スタローンのロッキー4とかで、アメリカ国粋主義を煽る、すごい波動だった。アメリカ国民はみんなこういうのに弱いんだよね。ボクも大いに興奮し酔いました。(笑)


自分の大学の同級生の女の子は、スプリングスティーンのコンサートを生体験したくて、単身でアメリカに渡りましたよ。当時インターネットとかなかった時代だから、すごい勇気のいること。当時すっごいな~と思いました。一種の社会現象でした。



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ダイアー・ストレイツも渋かったよね~。バンダナを頭に巻いて、いかにも職人という感じでした。このブラザーズ・イン・アームズが大ヒットして、一躍スターダムにのし上がりましたね。


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自分はビートルズ派とローリング・ストーンズ派というなら、断然ビートルズ派なので、正直ストーンズのほうはあまり聴き込まなかったですが、でもこのタットー・ユーのアルバムは好きで買いました。



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レッド・ツェッペリンは、もちろんロッキンオンの渋谷陽一氏がいたので、彼が、ツェッペリンの最高傑作は、天国の階段が入っているLed Zeppelin 4とか、他じゃなくて、もうこの「プレゼンス」が最高傑作という強い押しがあって、買いました。素晴らしかったです。



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当時の洋楽シーンの大きな特徴にレゲエがすごいブームだったことです。ポリスのようにレゲエのリズムをロックの中に取り込む斬新なアプローチ(ホワイト・レゲエ)もあって、すごい注目された音楽でした。そんなたくさんのレゲエ・ミュージシャンが登場した中で、自分的にツボだったのが、このイギリスのレゲエ・ポップ・バンドのUB40。イギリスのバンドということもあって、気にいってました。



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当時のレゲエ・ブームの中で、このサードワールドはかなり大ヒットしてました。
レゲエを聴くと、どうしても南国の海を思い出します。


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プリテンダーズはシンガーが紅一点の女性だったのが人気で格好良かったですね。このバンドもUKバンドです。大ヒットしたこのアルバムのシングルカット曲が大好きでこのアルバムも買いました。


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ロキシーミュージック、懐かしい~。(笑)ロキシーミュージックと言えばこのアバロンが代表作でした。確か美形の化粧する派のダンディな男性シンガーではなかったでしょうか???



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スウィングアウトシスターのブレイクアウトは、いまでもラジオで流れてくるお洒落ソングの代表格ですね。若い方でもよく知っているのではないでしょうか?うろ覚えなのですが、隣のEveryThing But The Girlはユニット名が違うだけで、シンガーは同じだったような。その隣のトレイシー・ソーンもそうですね。この3枚は同じ系列だと思いました。(違ったかな?)イギリスのいまをときめくお洒落ソングでした。



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ジョニ・ミッチェルは当時、自分が最も尊敬するシンガー・ソング・ライターでした。彼女の歌にはつねに知性を感じたものです。


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ディープ・パープルは思春期の男の子であれば、必ず通る門ではないでしょうか?(笑)マシン・ヘッド格好良かったですね。武道館ライブのアルバムも買いました。


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U2も自分のブリティッシュ・ロック狂時代の中で、もっとも熱く愛したバンド。凍り付いた寒色系のギターサウンドで、政治的なメッセージを好むかなり個性的なバンドでした。ポリスとU2は同時代に出てきたバンドで、この2つのバンドはもっとも熱く熱中しました。


U2も英国バンドの辿るパターンをそのまま歩んでいきました。UKチャートで人気が出ている頃が尖っていてよかった。米USチャートで認知されて世界的な名声、人気が出るのが、自分が社会人1年生のときのヨショア・ツリーですね。本当に最高のアルバムですが、これ以降どうしても商業主義に傾いていきましたね。



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パンクは下手なバンドばかりなので、出始めの勢いだけで、あとは遠からず自然と消滅していくバンドが多かったですが、このクラッシュはちょっと違いましたね。演奏力も骨がありました。ロンドンコーリングが有名でしたが、なぜか自分が持っているアルバムはこれでした。


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このときのロックシーンの大きなイヴェントとして、アフリカ難民救済の臨時バンドが組まれたことでした。UKのバンド・エイドと、USのUSAフォー・アフリカですね。まず、UKが最初で、その後US。これは結構ショッキングというか、かなり興奮しました。あの有名なバンドのスターたちが一堂に集まって、みんなで唄うなんて。ロック界のオールスターゲームですね。UKのほうはポリスのスティングとU2のボノが同じマイクで
歌っているなんて!と当時相当興奮しました。自分が持っているのはUKのほうです。


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UKバンド・エイド


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USAフォー・アフリカ


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100枚のアルバムの中には我らが日本のYMOもありました。(笑)
やっぱり当時の自分は3人編成というのに相当拘っていました。
YMOはカリスマありました。その後のソロはあまり聴いていないです。
ちょっと最近の坂本教授のアルバムも聴いてみたいです。


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ここから映像素材。レーザーディスクとかビデオディスクというメディア媒体知っていますか?(笑)当時は画像圧縮という技術が確立していなかったので、画像信号をA/Dしたら、そのまま非圧縮のRAW DATAで媒体に記録していたんですね。だから大容量で、こんなLPサイズのでかいディスクに映像と音声を記録していた。その後MPEG2など画像圧縮技術が確立されて、CDサイズの12cmディスクに映像・音声を盛り込めるようになりました。


ポリスのシンクロニシティ・コンサートは、ロックのライブ・ビデオの中でも最高傑作だと思います。ゴドレイ・アンド・クレイムによる映像監修は最高。シーンによるカット割りとか、メンバーのステージパフォーマンスがうまく曲と同期してあってカッコいいなと思いながら、何回も擦り切れるほど観ました。


その隣のアラウンド・ワールド・ツアーはポリスの世界ツアーをステージだけではなく、プライベートシーンに至るまで追ったフィルムでファンには堪らないです。



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なんと!ポール・マッカートニー&ウィングスのUSAライブのロックショー、レーザーディスクで持っていました。最近発見してBDで買いましたが、すでに昔に買っていたんですね。全然覚えていません。ポール&ウィングスといえば、このUSAライブです。


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エリック・クラプトンが在籍していた伝説のロックバンド「クリーム」のレーザーディスクも持っています。やっぱり3人編成がカッコいい。



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なぜか今井美樹さんのレーザーディスクも持っていました。(笑)
ぜんぜん記憶になくて覚えていません。(^^;;


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森高千里さんのレーザーディスクも持っています。(笑)1993年のコンサート。これは覚えています。当時の森高さんはミニスカートの美脚がアピールポイントで、自分もそこに魅入られてしまい買ってしまったのでした。森高千里さんは、この頃より、いま最近の近影の方が全然いいですね。やっぱり女性アーティストは経年がいいです。



こんな感じでしょうか。。J-POPSも日常的に聴いていましたよ。宇多田ヒカル、ドリカム、山下達郎、竹内まりやとか。数えきれずたくさん。1999年の宇多田ヒカルの登場は、かなり衝撃でした。


洋楽でもロックに限らず、マドンナとかホイットニー・ヒューストンとかガンガンに聴いていましたよ。


ここで紹介したのは100枚あるうちの一部だけど、よく鮮明に覚えていました。
自分の青春時代を彩った音楽たちです。


やっぱり自分は音楽雑種なんだな、と思います。
またそれを嬉しく思います。財産だと思います。


ストリーミングが登場して、自分の音楽生活に激動の変化があったのは、J-POPSを聴くようになったことですね。大きな変化です。


もちろんクラシックが基軸ですが、これからもそれに制約されることなく、いろいろな音楽を聴いていきたいと思います。







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クール・ストラッティン 「美脚はこの人」 [ジャズ]

ソニー・クラークの「クール・ストラッティン」といえば、もうブルーノート・ジャズの中でそのインパクトのあるジャケットで、誰もが知っている超有名盤ではないだろうか?


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ジャズの音楽レーベルとして知られる「BLUE NOTE」。その膨大な作品群の中で、特に日本人に親しまれているのがソニー・クラーク「クール・ストラッティン」(1958)。


サウンドはもちろん、“世界で最も有名な女性の脚”と称されるジャケット写真は、もうあまりに有名だ。そのジャケット写真には、ついつい惹き込まれてしまうほど魅力的で、ブルーノートのLPの中でこれほどカッコいいジャケット写真はないと自分は思う。


自分もジャズを勉強し始めたころ、このジャケット写真に強烈に惹きつけられ、思わずジャケ買い。なんとなくジャケットからして、音楽も相当カッコいい気がしたものだった。ジャズのLP/CDを買うなら、この有名盤は絶対避けることができないであろう。




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クール・ストラッティン
ソニー・クラーク



なにせジャズを一生懸命勉強を始めたころだから、もうだいぶ昔で、購入したはずのCDはラックに埋まっており捜し出すのは大変なので、ストリーミングで久しぶりに堪能。



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「クール・ストラッティン」(Cool Struttin')は、ジャズ・ピアニスト、ソニー・クラークの1958年のアルバム。


「ニューヨーク・タイムス」紙は「いつまでも残るハードバップのクラシック (enduring hard-bop classic) と評した。The Stereo Times によると、このアルバムは「ハードコアなジャズ愛好家たちの間ではカルト的といって良いほどの位置づけを得ているとしており、オールミュージックも、「その魂への訴えかけだけで」そのように扱われるのに十分だと述べている。


オリジナル盤は、1958年にブルーノート・レコードからLPとして出され、その後はCDで何度となくリイシューされており、その際にはボーナス・トラックが2曲追加されている。


超久しぶりに聴いたら、懐かしい~!


ジャズ・カルテットなのかな、基本のジャズピアノトリオにトランペットかサックスが加わっているそんな構成。最初のタイトル曲を聴いただけで、じ~んといい曲。ジャズは、やはりスイングする感じでカッコいい。


そんな超有名盤であるが、やはり気になるのは、このジャケットの女性の美脚は誰のもの?ということだ。こんな記事を見つけた。これを読んで、自分の積年の疑問がすべて解決した。


引用元:日本で最も愛された「ブルーノートの女」
https://www.arban-mag.com/article/33363


ブルーノート史上最もクールな女子ジャケを選ぶなら本作だ。


“気取って歩く”という意味の “Strut” を冠したタイトル通り、舗装路を優雅に歩く女性の一瞬を捉えた写真は、まずその構図が秀逸である。


この脚は誰のもの?


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このジャケ写の撮影者は、ブルーノート・レーベルに多くの名ショットを残したフランシス・ウルフ。デザインはリード・マイルスである。この2人が本作のための撮影を試みた際、なかなかいいアイデアが出ず、昼食のためにレストランに向かった。その途中、女性アシスタントに歩いてもらい、撮影した1枚が使われたという。


Jazz History Onlineなどのサイトを確認してみると、あの美脚は、レーベル創始者アルフレッド・ライオンの二番目の妻となる、ルース・メイソンであるらしい。


よくよく考えれば、現場で忙しなく動かなければならないアシスタントが、わざわざヒールのあるパンプスと、動きを制限するようなワンピースを選ぶとは思えない。アシスタントというよりも、単に撮影に付き添っていたルースの脚線美がフランシスとリードの目に留まり、ハプニング的に起用されたのではないだろうか。


しかし、2年後に発売された、ザ・スリーサウンズの「Moods」(1960年)では、ルースが主役として抜擢されている。 睫毛にマスカラを付け、唇にはルージュを引いたルースは、恍惚とした表情を浮かべている。


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~このルースこそ、クール・ストラッティンのジャケットの美脚の女性なのである。初めて尊顔を拝見しました。


このジャケ写が扇情的(しかも1曲目が「ラブ・フォー・セール」)だということで、発売当時は物議を醸したそうだ。しかし、どうして本作にルースが選ばれたのかはよく分からない。単にプロモデルを雇う予算がなかっただけなのか、あるいはアルフレッドが “自慢の彼女”を見せつけたかったのか。いずれにしても、本作の6年後にアルフレッドとルースは結婚し、晴れて夫婦となる。



日本での人気と再評価


そんなルースの美脚を主役に立てた「クール・ストラッティン」だが、ファーストプレスはたったの1000枚。しかも、かなりの枚数が売れ残ってしまったという。一方、日本では長らく「ジャズ喫茶で最もリクエストの多いアルバム」としても知られる人気作。いわゆるビッグ・イン・ジャパン的な一面もあるようだ。


ソニー・クラーク本人は、1963年1月にヘロインの過剰摂取によって、31歳という若さで他界してしまう。それから20年以上を経た1986年、ふたたび「ソニー・クラークとルース」が脚光を浴びることになる。山梨県の山中湖畔で開催されたマウント・フジ・ジャズ・フェスティバルで、トリビュートバンドによる「クール・ストラッティン」の再現ライブが行われ、会場にはルースとその夫、アルフレッド・ライオンの姿があったのだ。


ステージで「クール・ストラッティン」の再現ライブが始まると、オーディエンスのどよめきが起こり、猛烈に盛り上がったという。期せずして“自分の脚”が起用された作品を、遠く離れた異国の地で耳にしたルースの胸中には何が去来しただろうか? 


この翌年にアルフレッドは他界。彼と30年以上連れ添ったルースが息を引き取るのは2011年である。その間、彼女は「クール・ストラッティン」撮影時の若き日々と、マウント・フジ・ジャズ・フェスティバルでの熱狂を忘れることはなかっただろう。



まさに自分が長年憧れていたこのジャケットの美脚は、ルースという女性の脚であったこと、そしてこの「クール・ストラッティン」という有名盤がある意味「ビッグ・イン・ジャパン」的なところがあったということを改めて勉強させていただきました。


そこで、なんと自分は、


史上初「クール・ストラッティン」MV登場!~解答編「美脚はこの人」


というYouTubeを見つけてしまったのである!


ジャズの超有名アルバム、ソニー・クラーク「クール・ストラッティン」のジャケット写真をモチーフにした、史上初のミュージック・ビデオ「クール・ストラッティン」である。


えっえっえっ~~~~!


あのルースが歩いているところの動画が見られるの?
自分は色極めだった。

もうびっくりして慌てて再生。


そうすると、なんと!あのジャケットの写真と全く同じヒールのあるパンプスと、黒のワンピースの美脚が動いているのである。あのジャケットと全く同じ構図である。


そしてその後には、その黒のワンピース姿の女性の全身のシーンが歩いている姿も!


えぇぇぇ~(驚)


立ちながら新聞を読みながらチラ見している黒人の男性、なんか周りの街の風景も当時の時代背景の雰囲気いっぱいである。


もちろんモノクロ画像だ。


おぉぉぉ~!


その後・・・・・

「田中理恵です。」

・・・・・・


笑笑笑。。。


なんだ!おまえかよ!(笑)

いやいやいや、暴言ゴメンナサイ。

もう全然最高!


元体操選手の田中理恵さんだからこそのスタイルの良さと、その美脚。
もう全然自分は、本物と間違えました。


ジャケット写真の静止画から、その構図からそのままその美脚が動き出し、闊歩している 姿、あの美脚を撮るアングル&構図、まさに本物そっくり。


もう最高の史上初のミュージック・ビデオ「クール・ストラッティン」です!

こういうセンス大好きだなぁ。
本当に史上初の試みのMVでしたね。

こういうユーモアのセンス、超自分好みです。


これはぜひみなさんに観ていただきたいです!











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エルヴィス・プレスリー [海外ロック]

今日1月8日は、エルヴィス・プレスリーの誕生日なのだそうだ。そのことを知って、かねてより考えていたエルヴィス・プレスリーの日記を書いてみたいと思っていたのだが、今日それを実行するのがいいと思った。


自分はロックはビートルズ以降の世代なので、それ以降のロックシーンは青かった学生時代、青春時代の実体験として熱く語れるのだけれど、エルヴィスはやはり自分より前の世代なんだよね。


だから熱く語りたくても、経験がない。


「熱く語る」という行為は、やはり人生の経験がないとできないことですね。


自分の経験、自分の言葉で語る、そして自分の想いが詰まっていないと、その文章に説得力がでませんね。だてに人生五十数年生きてきていないので、この歳になると熱く語れる資格が出来てくるものです。


若い人にぜひアドバイスしたいこと。


とにかく若いうちに、徹底的にのめり込むこと。徹底的にやらないとダメです。許す限り、お金も湯水のように使い込んで、徹底的にやらないと。それが歳をとってから血肉になって、人生の財産になります。


多少の失敗は気にするな。徹底的にやれ!


後年になって、「熱く語る」行為ができるようになるには、この何十年生きてきた、学んできたことが礎になり、言うことに説得力が出てくるようになります。


そうしたらしめたものです。


エルヴィス・プレスリーは、子供の頃はもちろんビートルズの前の世代のスターということでよく知っていたし、自分がロックに夢中になり始めた中学一年の1977年に亡くなった。


よく覚えている。


自分が知っている頃の晩年のエルヴィスは、ドーナッツが大好きで肥満化してしまい大変だった、というニュースが世界を駆け巡っていた。エルヴィスの曲も有名な曲はラジオでよく聴こえてきたし、馴染みがあった。


最近ずっと考えていたことは、自分はエルヴィスのことを、きちんと知らないで、このまま人生を終えてしまっていいのかな、と思ったことだ。どこかできちんと自分のモノにしないと一生後悔が残るのではないかな、と思ったことだ。


じつは何年も前からそういう想いはあったのだけれど、なにせ自分の経験、実体験がないから、どうやって日記にすればいいのか、うまくアイデアが浮かばなかったのだ。


そんなとき、村上春樹さんがDJをやっている”村上RADIO”という番組で、オールディーズの特集をやっていた。そこで村上さんが、当時のオールディーズ、そしてエルヴィス・プレスリーについて、こんなことを言っていた。


**********

よく「激動の1960年代」みたいなことが言われますが、それはあくまで60年代後半の話であって、前半は文化的にはかなりのんびりした時代でした。冷戦時代だったので、政治的にはハードな面もありましたけど、文化的にはまずまずリラックスしてました。ポップ音楽シーンで言えば、1950年代後半に登場した反社会的というか、荒々しいロックンロールがだんだん飽きられて、廃れていって、エルヴィスもなんだか牙を抜かれてしまい、それからビートルズやらサイケデリック、アートロックみたいなのが登場してくるまでの五年間は、まさにお気楽ポップスの全盛期でした。僕としてはそりゃもう、楽しかったですよ。もちろん60年代後半もスリリングで面白かったですけど。


僕がいちばん熱心にポップソングを聴いていた時期って、だいたい1960年から65年くらい、つまりビートルズが登場する前の時代です。ビートルズが出てきて間もなく、音楽シーンががらっとスリリングに変わっちゃうんだけど、それより前のポップ・ミュージックには「お気楽」っていうか、蛇が出てくる前の「エデンの園」みたいなのどかな雰囲気が漂っていました。でもその中ではエルヴィス・プレスリーは別格でした。彼は楽園の中に潜む、鋭い牙を隠し持った甘い毒蛇のような、まったく他とは違う存在でした。


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僕は彼のデビュー・アルバム「Elvis Presley」を手に入れて、もう夢中になって聴いていました。このアルバム、ほんとに何度聴いても聴き飽きなかったです。どの曲も素晴らしいんだけど、今日は僕の大好きな“One Sided Love Affair”を聴いて下さい。1956年の録音です。この曲におけるエルヴィスの天然のキック力は、実にすさまじいものです。今聴いてもひしひしとしびれます。

***********


人間って、自分のまだ生まれていない時代や、自分の知らない時代のことを聞くと、とても羨ましい気持ちになり、なんか羨望の眼差しになりますね。


知らない時代だからこそ、余計憧れますね。

それが自分の好きな音楽シーンになると尚更です。


ビートルズが登場する前のオールディーズってどんな音楽シーンだったのだろう?
そういうことを無性に知りたくなるものです。


これをきっかけに、よし!ぜひエルヴィス・プレスリーのことを書いてみよう。

そして自分のものにしてみよう!と思ったのである。


最近は、ストリーミング・サービスが日常的なものになって、聴きたいと思ったら、すぐにその場で聴ける。ぜひエルヴィス・プレスリーを聴き込んで、日記を書いてみたいと思ったのである。それを彼の誕生日である今日おこなうことが最高のプレゼントなのでは、と思ったのである。


ストリーミングでは、エルヴィス・プレスリー '50 Rock"n" Rollというアルバムがあって、ベストアルバム+ライブアルバムのミックスのような感じでこれをチョイスした。


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ハウンド・ドッグ、好きにならずにいられない、ラブ・ミー・テンダー、冷たくしないで、そして監獄ロック。自分がエルヴィスの曲として、よく子供の頃から知っていたのは、ここら辺ですね。


いま聴いてもカッコいいし、すごく新鮮。
ハウンド・ドッグ、監獄ロックなんか特に最高にカッコいい。


これから書くことは、自分の言葉ではない。
受け売りである。


でもエルヴィスのことを知りたい、自分のものにしたいため、敢えて日記でその栄光の伝説を紹介していきたいのである。その合間、合間に自分の意見、感想を挿入していく感じ。


これが、自分がエルヴィスのことを日記に書いていくためのひとつの考え抜いた末のアプローチかな。エルヴィスのことを自分も勉強したいし、みんなに知ってもらいたいという意図である。


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ロックの歴史を語るなら、本当は百年もさかのぼってアメリカ南部の黒人奴隷が日々の労働の苦しさを忘れる為「ブルース」とか「賛美歌(ゴスペル)」を発明した事から始める必要がある。ロックン・ロールは黒人が創った。


ロックン・ロールはそんな黒人奴隷達の発明したブルースや賛美歌を、チャック・ベリーやリトル・リチャードといった人たちが、色々工夫(速くしたり、叫んでみたり)し、進化させて誕生した<新しい娯楽>だったのだが、それが黒人だけでなく、少しずつ、そして着実に白人にも受け入れられるようになっていった。


そして、そのうち白人の中でもギターを持って黒人の模倣をする若者が現れ出したのである。しかも中には黒人に負けず劣らず、優れた<ブルース・フィーリング>を備えた若者もいた。


エルビス・プレスリーはそんな中、最初に登場した白人のロックン・ローラーだった。


黒人はいつも「発明家」で、大衆的成功は「真似した」白人がかっさらってしまうという皮肉な構図である。エルビスとはそういう存在だったのだ。そしてその成功の要因は、ただ歌が上手いとか、顔がカッコいいとか、それだけではなかった。彼はロックを初めてエンターテイメント化したのだ。それゆえ歴史に名が残っていると言っても過言ではない。エルビス・プレスリーは腰を振った。そして、セックス・アピールという、黒人のやらなかった(やれなかった)技を、彼は発明し、そして完成させた。


その余りにもあからさまな性の表現は、正に前代未聞、当時の人々の目には「見てはいけない物」として映った。


引用元:一般教養としてのロック史:宇宙から来た!?エルビス・プレスリー
http://history.sakura-maru.com/elvis.html


これが、自分がエルヴィスが登場した衝撃、当時の世相を、よくうまく表現しているんじゃないかな、と思うのだが、どうであろう。


エルヴィスの歌を聴くと、ビートルズのようなグループサウンズにはない、もっと懐かしい音楽のルーツのようなものを感じるし~それがブルースとリズム&ブルース~、その上に新たに融合されたロックぽい格好良さがありますね。それが当時すごい新鮮な格好良さだったのでしょうね。


そして音楽性だけではない、格好いいルックス、セクシーな腰振りのセックスアピール。それ以前にはある意味退屈だった音楽シーンにとってこのときのエルヴィスのこのアピールは、当時としては相当衝撃なことだったのでは、と十分想像できます。



ジョン・レノンは言った。「エルビスが登場する前は何も無かった」と。


南部の貧しい家庭に育ち、黒人音楽をメジャーにしたエルビス・プレスリーは、「ロックンロール」を世界に知らしめた。カントリーとブルースを組み合わせた最初のミュージシャンではなかったが、保守主義がまん延し人種差別が横行した1950年代を駆け抜け、人々の音楽に対する意識を変え、米文化に後世に残る功績を残した。


「誰かに聞いてごらん。もしエルビスがいなかったら、ポップミュージックは今頃どうなっていただろうね」と、かつてエルトン・ジョンは語った。「エルビスが全てを始めたんだ。僕にとってのスタートも彼だった」


引用元:「エルビスの前には何もなかった」、音楽界大物らプレスリーの偉大さ語る。
https://www.afpbb.com/articles/-/2267678



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エルヴィス・プレスリーはアメリカのミュージシャン、映画俳優。「世界史上最も売れたソロアーティスト」の第1位。「キング・オブ・ロックンロール」と称されている。


1950年代にロック・アンド・ロール(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀後半のポピュラー音楽の中で、最初の大きなムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。


初期のプレスリーのスタイルは、黒人の音楽であるブルースやリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。


~ボクがエルヴィスの歌を聴くと、その背景にとても懐かしい当時のオールディーズのような郷愁の香りを感じるのは、この黒人の発明したブルースとリズム&ブルースが背景にあったからなんだと思います。


~自分が学生時代にロックに夢中になっていたときも、多くのロックミュージシャンは、このブルースやリズム&ブルースを自分の模範、教科書にしているミュージシャン多かったです。エリック・クラプトンなんか完璧にブルースをお手本にしてましたね。天性のリズム感、音楽ソール魂はやはり黒人は白人より優れているものを天性に持っているのかもしれません。



その後全国的な人気を得たが、保守層には「ロックンロールが青少年の非行の原因だ」と中傷され、PTAはテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。KWKラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送。


さらにフロリダの演奏では、下半身を動かすな、とPTAやYMCAに言われ小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。


~1950年代の当時の世相と、セクシーなエルヴィスの登場に相当混乱しているのがよくわかりますね。(笑)エルヴィスといったら、このセクシーな腰振りが当時のそうとうの物議を醸したのです。 



しかし、プレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになり、ほぼ同時期に普及した安価なテレビジョンやレコードプレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。


さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え、若者文化が台頭した。晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。



映画との関わり​


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監獄ロック(1957年) カッコいい!(^^;;


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G.I.ブルース(1960年)


歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いた。プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がプレスリーを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給「Rino Brothers」を選んだ。プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「Love Me Tender」に変更されて公開された。


プレスリーは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。


1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、「G.I. Blues」、「Blue Hawaii」、「Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)」等、話題にはなったが、プレスリーの映画は全体的に評価が低い。評価されたのは「オン・ステージ」「オン・ツアー」など、コンサートをドキュメンタリー的に記録したものだけである。

 


~エルヴィスがふつうのロックミュージシャンと違うところは映画スターでもあったことだ。映画スターを演じ、その映画の中で歌うことで、そのスター性をさらに大きなものに発展させたといえる。自分は、この「ラブー・ミー・テンダー」が大好きである。本当に素敵なラブソングでいい曲。


でもどうしても挿入歌ありきで映画スターそのものというより俳優で歌も歌う歌手という中途半端な扱いで、映画自体の評価は低かったようだ。
 
でも映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出したとも言われている。



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当時のアメリカの国民的バラエティー番組「エド・サリヴァン・ショー」には、1956年9月と10月、1957年1月と短期間に3回出演した。なお、広い視聴者層を持つ国民的番組への出演を意識して、ジャケットを着用し出演した上に、当初保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にプレスリーの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。


~やっぱりエルヴィスをテレビに映すには、いろいろハプニングを恐れて、配慮に配慮を尽くしていたんですね。あの問題の腰振りダンスを映さないようにしたんですね。(笑)



リチャード・ニクソンとの面会​


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リチャード・ニクソン 大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年)


1970年12月21日には、わざわざアメリカン航空の民間機でワシントンD.C.にジェリー・シリングと2人で出向き(普段は自家用機しか乗らない)、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。 ホワイトハウス内は大騒ぎとなり、その40分後補佐官から「大統領が会いたい」と電話があった。ホテルに到着したデル・ソニー・ウェストが合流し3人でホワイトハウスへ行き、リチャード・ニクソン大統領に会った。


ツーショット写真はその際撮影されたものである。


この時プレスリーは、自分は「ドラッグ・カルチャーと、共産主義の洗脳について研究してきた」とニクソンに語った。麻薬撲滅に熱心であったニクソン大統領に対して、「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」といい、麻薬取締官の資格を与えられた。翌週、プレスリーはそのバッジをみんなに見せびらかせて回った。なお、プレスリーは警察官等のバッジ・コレクションをしており、大変な収集家であった。


この際のエピソードはあまりにも有名なものとなり、後にこのエピソードだけでいくつかの映画になったほか、プレスリーとニクソン大統領とのツーショット写真は、ホワイトハウスの公用写真の焼き増しサービスの中で最も人気が高いものとなった。


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これは晩年のエルヴィスのコンサートでしょうか・・・。


あぁぁぁ~。もう激太りです。昔の面影まったくなし。(笑)自分が子供で物心ついたときは、エルヴィスはすでに肥満体質で、その原因は大好きなドーナッツの食べ過ぎだ、というのが通説でした。子供心によく覚えています。




ビートルズとの会見​


プレスリーとビートルズは直接的な接点はなかったが、両者は1965年8月27日、ロサンゼルス市のプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たしたことがロック史に残る出来事として語られている。


ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目だったが、どこからか漏れてしまい、案の定自宅周辺には野次馬が集まった。


諸説あるが、メンバーのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターは平静を装いながらも、心を躍らせて招かれた部屋に入った。


そこでエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた。「本物のエルヴィスだ」と感激した4人は呆然としてしまった。そこでプレスリーが「ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけた事から、慌てて4人は挨拶し、即興演奏が始まった。


プレスリーはベースを演奏し、レノンとジョージはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。


プレスリーは彼らの曲も歌い、そのあとで「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。これに対してレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言したことからその場が凍りついた。


これはレノンの若気の至りとも、過激なジョークだったとも言われるが、プレスリーはその発言に気分を害してしまった。そしてその会見に実際に立ち会ったという記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンはさらに当時アメリカ軍による関与が拡大を続けていたベトナム戦争にプレスリーが賛同する姿勢と、プレスリーのマンネリ気味であった映画を痛烈に批判した。これらの事がきっかけでジョンを嫌うようになったプレスリーは(事実上)マッカートニーやジョージが作曲した曲はコンサートで頻繁に取り上げているが、レノンの曲は歌っていない。


レノンはこの発言を反省したためか後日エルヴィスの取り巻きに「エルヴィスがいなければ今の自分は居ない」と伝えるよう頼んだという。しかしプレスリーはレノンがアメリカに住むようになり、ベトナム反戦運動を積極的に行った頃、ニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」と手紙を出したとも言われている。


この様に、レノンの発言と態度が場の雰囲気を壊したことで、この会見はとても成功したとは言えないものであった。


~これは最高に笑ったな。(笑)ボクはジョンのこういうセンスが大好きです。(笑)いかにもジョンらしい。でも後になって反戦・平和を主張していくジョンにとって、エルビスの当時の姿勢にこういう対応になってしまったのは必然の結果だったかもですね。


今回ストリーミングでのエルヴィスのアルバムでは、エルヴィスはポールの曲であるヘイ・ジュードを歌っていました。

 


そして1977年8月16日、メンフィスの自宅バスルームで倒れているところを発見された。 ドーナツを食べ過ぎて喉に詰まらせて死んだ、ドラッグをやりすぎて死んだなど、もはや都市伝説化しているエルヴィス・プレスリーの死因。


しかし、実際のところは、処方された薬の摂り過ぎからなる不整脈による突然死という検死結果であった。



キング・オブ・ロックンロール。まさに白人ロックの元祖、すべてはプレスリーから始まった・・・まさにロックンロールを語るうえで、エルヴィスはすべてのオリジネーターだったんだね。


ビートルズ以降のロックシーンの音楽とは、ちょっと違う、どこか郷愁的な温かみのある心地よいサウンド、いまもエルヴィスの名曲を聴きながら、この日記を書いているが、気持ちのいいじつにいい音楽だ。


ビートルズは若者全開という感じだったけれど、エルヴィスはもっとゆとりのある大人の音楽、大人の声質、歌い方、そして大人のセクシーさ、そこに当時の懐かしいいい時代の音楽性が混在した、そんなロックンロール
だったんではないかと自分なりに結論づけたいです。


これで長い間、エルヴィス・プレスリーのことをもう少しきちんと知りたいな、と思っていた想いは少しは遂げたであろうか。。。









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ラトル&ウィーンフィル ベートーヴェン交響曲全集 [ディスク・レビュー]

2002年にムジークフェラインザールで録音されたラトル&ウィーンフィルによるベートーヴェン交響曲全集は、ベーレンライター版の使用、ノンビブラートなどのピリオド奏法的なアプローチ、それによる乾いたドライな響き、そしてラトル独特のアクセントを効かせた解釈で、クラシック界に物議を醸した。


好き嫌いがはっきり分かれ、いままで我々が慣れ親しんできたベートーヴェンの交響曲像を根底から覆すような驚きの連続であった。


長く伝統的スタイルによるベートーヴェンに親しみ、それが正統的なベートーヴェンだと信じている人が聴けば、少なからずショックを受けると思う。


サー・サイモン・ラトルは2002年からベルリンフィルの芸術監督・首席指揮者に就任することが決まっていた時期で、自分は彼に注目していたので、その時のタイミングでリリースされたこのラトル&ウィーンフィル盤をすかさず入手して聴いた。


そうするとそのあまりに斬新な解釈とそのアプローチに驚き、ベルリンフィルにとってもっとも重要な作曲家であるベートーヴェンの交響曲について、こんな解釈をする人が天下のベルリンフィルに就任したら、それこそ栄光ある歴史がメチャメチャにされてしまうのでは、と危惧を抱いたものであった。(笑)


それだけ衝撃であった。


このラトル&ウィーンフィル盤は、こんなのベートーヴェンの交響曲じゃないと頭から排除する人も当時多かった。


そんな想い出のあるラトル&ウィーンフィル盤を久しぶりに聴いてみようと思った。



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ベートーヴェン交響曲全集 
ラトル&ウィーン・フィル(5CD)




いま聴いてみると、当時驚愕したほどの衝撃はなく、そんなに違和感もなく、いいんじゃないと肯定的な自分がいる。とても普通というか全然受け入れられる範疇のものだった。


全然普通である。


当時なにをそんなに驚いていたのか、と不思議に思うくらいである。
周りの批評に感化されたり、影響されていたこともあったかもしれない。


ただ、9番の第4楽章の合唱の部分とか、やっぱりう~んと唸ってしまうところは当時と変わらない印象である。


その理由に、いまは当時と比べて古楽奏法的なアプローチが増えてきて、我々が耳にすることも多くなり、それ自体抵抗なく自然に受け入れられるようになったということがあるのではないだろうか。


ラトルはベーレンライター版という最新研究を反映したスコアを用いているのだが、テンポ、デュナーミク、音楽記号の扱いが従来のブライトコプフ版とは微妙に違っており、しかもラトル独自の演出で、リズムがかなり攻撃的に感じられる。


全般的に快速テンポである。


やっぱり3番「英雄」が一番素晴らしい。それは一番普通っぽいというかノーマルな解釈だからである。(笑)従来通りという感じ。王道の演奏である。これぞ英雄という王道を行ってくれる。


1番、2番も全然いい。すごくいい。違和感なし。当時あれだけ変なアクセント、ドライな響きと思っていたのが嘘のように平常で重厚な響きに聴こえる。


6番「田園」も名演ですね。4番、5番「運命」も全然いい。


9番だけ、特に第4楽章の合唱の部分だけどうしてもやはり自分には拒否反応がある。
ラトルの解釈は好き嫌いを分けてしまうところがあると思う。


いままで聴いたことのないアドリブ的な歌いまわしや、合唱の粗さや薄さが際立ち、これは第九の合唱じゃないよ、とどうしても思う。


最後の合唱の部分はもっとも歓喜で盛り上がる最高潮のところである。この軽さ、粗さはどうしても自分のイメージ通りとはいえず、受け入れがたいかな。合唱は、手兵のバーミンガム市交響楽団合唱団のコーラスを迎えていますね。


ラトルはベートーヴェンの音楽に取り組む前にバロック音楽を徹底的に勉強したという。そうした道筋はニコラウス・アーノンクールをいわば模したもので、両者の解釈に共通するところも少なくない。


ロマン的なベートーヴェン像に見直しを加え、19世紀のベートーヴェンが生きた時代に彼の音楽が持っていた前衛性を明らかにする解釈の根源は似通っている。


アーノンクールが定期的にウィーンフィルに客演して古典派の新たな解釈を可能としたところも見逃せない。カール・ベームやヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮台に立っていた頃のウィーンフィルならラトルの解釈を受け入れられる余地はなかったはずだ。


そんなところにもラトルのこのウィーンフィル盤のルーツを見ることができると思う。



ラトルは、このベーレンライター版を、最近のベルリンフィルのときに作成したベートーヴェン交響曲全集でも採用している。


このベーレンライター版について解説を試みよう。(引用元:ライナーノーツ)


この録音で使用したベーレンライターの原典版は、1996年から2000年にかけて発表された。それまではもっぱら1862~1865年のプライトコプフ・ウント・ヘルテル版が使われていたが、その重大な欠点が1世紀という年月を経て正されることになった。修正のポイントは大きく3つある。



まずは、ベートーヴェンが書き直した決定的な手稿譜があったことである。1862年に紛失したとされていたものが見つかったのだ。特に「田園」の清書楽譜(第1版からの複写)の発見である。1953年の洪水で浸水したものが、1984年、オランダで発見された。


緩徐楽章のスコアには、ベートーヴェンの指示(サインつき)がはっきり残っており、これを見ると、ヴァイオリンにミュートをつける指示は、それまで思われていたように校正の段階でベートーヴェンが取り消したのではなく、写譜を担当した者が単に見落としていたのだ、ということがわかる。今回は彼の指示を活かし、これによって楽章全体の雰囲気が大きく変わった。


第2に、オリジナル(手稿譜や第1版)を見返し、ブライトコブフのチェックの抜けがいくつか見つかったこと。彼は古いスコアにおいて一見問題のないと思われる箇所について特に綿密な確認を行っていたわけではなかったようだ。例えば、第9番最終楽章のトルコ風行進曲の終わりの部分でベートーヴェンは、歓喜のニ長調の合唱への架け橋としてホルン・パートに変則的なタイを加えている。今までの版ではそのままになっているが、今回は、研究者、演奏者ともに新しい解釈をしている。


第3に、ほぼ全ての資料(いかに多くの資料がこの100年間を生き抜いてきたことに驚く)を確認し、完璧な原典資料体系を再構築したことだ。例えば、第9交響曲のトリオの終わりのヴァイオリン・パートのように、あらゆる資料でいままでの解釈が違っているとなれば、どこかで間違いが起こったという事実とともに、ベートーヴェンの意図していたものは何だったのかを正確に知ることができる。



問題はこれの3つの違いを自分はきちんと聴きとれていたのか、ということだ。(笑)


現在のベートーヴェン交響曲の大半が、このベーレンライター版を採用しているなら、いまの時点でラトル&ウィーンフィル盤を聴いても違和感があまり湧かないのもつじつまが合う。


いずれにせよ、ラトルという人は、このベートーヴェンの交響曲に限らず、特に十八番のマーラーについてもそうであったように最新の研究結果に常にアンテナが敏感な指揮者で、新しい挑戦をし続けていた指揮者であったということだ。


そこが従来通りの伝統的な解釈を好む保守的なファン層から反発を買う要因にもなっていたところなのだと思う。自分はそういう前向きなところが好きでラトルを支持している側のファンである。


そんな”ベートーヴェンの交響曲全集”というクラシックの王道中の王道の分野で、エポックメイキングだったこの録音はぜひ一度聴いていただきたいと思っている至極の一枚である。








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シティベーカリー東京・赤坂 [グルメ]

クリスマスイヴの前日、12月23日の朝、なにげなく石丸由佳さんの最新作「パイプオルガンのクリスマス」を聴いたのが、この日の予想もしなかったクリスマスな一日の展開になることになってしまった。



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石丸由佳: パイプオルガンのクリスマス



パイプオルガンで奏でる有名なクリスマス・ソングス。


サンタが街にやってくる、きよしこの夜、アヴェ・マリア、主よ、人の望みの喜びよ、G線上のアリアなど、本当に有名なクリスマス・ソングスが網羅されている。これらの曲をパイプオルガンで聴くと、本当にクリスマスらしくていい感じです。


パイプオルガンというと、コンサートホールや教会にあるような残響の長いゴージャスな響きを予想されるかもしれないが、そんな感じでもない。なんか可愛らしい感じです。


なかなか素晴らしいです。これで「おうちクリスマス」できますね。ケーキと鶏とワインを買ってきて、このアルバムをBGMにささやかにやれます。


このアルバムで使用されているパイプオルガンは、コンサートホールのパイプオルガンより小さな、ハウスオルガンと呼ばれるタイプのオルガン。この楽器はパイプが600本ぐらいついており、個人の家に入れるにはだいぶ大きいサイズ。行き場のなくなったパイプオルガンを石丸さんが譲り受けたらしいです。


それに合う部屋を探すのが大変だったそうで、ようやく物件を見つけて、クラウドファンディングで支援を募り、一般にも開放した〈ココペリオルガンスタジオ〉をオープンしたのだそう。


これはすごいですね。行動力あります。
老婆心ながらスタジオ維持費とか大変そうですが、ぜひ頑張ってほしいです。


インタビューでは、


「スイッチのオンオフ音だけでなく、鍵盤を押したときにワイヤーがカチャカチャいう音なども入っています。こうした音は、コンサートホールのオルガンだと決して聞こえませんが、ヨーロッパの教会にある歴史的楽器と呼ばれる古いオルガンを演奏するときはよく聞こえるので、奏者にとってむしろカチャカチャと鳴る方が自然です。」


「ヨーロッパでは、教会の礼拝で賛美歌を歌ったり、バロック時代の曲を演奏することはありますが、クリスマス・ソングをオルガンで弾くといった風習はありません。厳かな空気のなかで静かにキリストの誕生を待つ期間なので、日本のような賑やかさはありませんが、私はどちらのクリスマスも大好きです。」


ヨーロッパの大聖堂や教会のオルガンを数多く弾かれてきた説得力のある実体験ですね。


本アルバムも、ハウスオルガンというやや小型のオルガンとはいえ、さらにスタジオ録音ではあるものの、なかなかホール感もあって、上手にサウンド加工されているのかな、とも想像しました。


可愛らしいクリスマスの雰囲気いっぱいのアルバムです。
ぜひクリスマスの時期になったら、最高のBGMとなると思うので、手に入れておきましょう。



この日は、サントリーホールでコンサートがあったので、公演前に、かねてよりずっと疑問に思っていたホール前にある謎のお洒落な装いのお店に寄ってみることにした。


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サントリーホール公演の終演後、南北線の六本木一丁目駅に向かう途中に必ず目の前を通るとてもお洒落なお店である。自分は当初、フレンチレストランなのかな、と思っていた。自分にはちょっと敷居が高いな、とも思っていて、気後れして入れないな、とも感じていた。


あとで、ネットで調べたら、ベーカリー・パン屋さんのようだった。なんだ、パン屋さんなら臆することなく入ってみようと思い、この日に至ったのだった。



でも中を覗いてみると、やはり単なるベーカリー・パン屋さんではないようだ。スマホのネットでもう一回確認してみると、ベーカリー・パン屋さんといっしょにレストランやバーが一緒に併設になっているようなそんな感じのお店だった。


シティベーカリーについて、公式HPより、もう少し詳しく説明してみよう。


THE CITY BAKERYは、ニューヨーク・ユニオンスクエアで1990年に開業して以来、ニューヨーカーはもちろん、海外から訪れる人々に愛され続けている老舗ベーカリーである。毎朝焼き立てのパンやペイストリーを準備し、お客様をお迎えしている。


創業者モーリー・ルービンは、TV局のプロデューサーとしてエミー賞を2度受賞するなど異色の経歴の持ち主。食が大好きなモーリーは、1986年、フランスにてペイストリー教室に参加したことがきっかけで、すっかりパンの虜となってしまった。ニューヨークに戻ったモーリーのパンへの思いは冷める事なく、ベーカーへの道を歩んで行く。数々のNYのベーカリーで修行をしたが、どれも彼を満足させるベーカリーではなく、自分の信じるベーカリーの開業を心に決めたのである。シティ ベーカリーが誕生し23年、今日も「現場で働く社長(Hands-on CEO)」として確かな味を守り続けている。


2010年20周年を迎えたシティ ベーカリーが世界初出店の地を日本と決め、2013年4月大阪(グランフロント大阪)に出店、そして2013年11月東京品川、12月広尾にオープンした。


創業者モーリー・ルービン


物事の本質に着目し、それを捉え、独創的な世界観で表現する創業者 モーリー・ルービン(Maury Rubin)。
彼はTHE CITY BAKERYのオーナーであり、ベーカー、パティシエ、クリエイティブ・ディレクター、プロデューサーでもある。好奇心旺盛なモーリーは、「Quality」「Creative」「Concept」という3つのキーワードのもと、魅力的なパンやペイストリーをはじめとする商品開発、パッケージやウェブなどのビジュアルデザイン等を行ない、ニューヨーカーの日常を彩るライフスタイルを提案し続けている。


THE CITY BAKERYが創業した1990年当時のアメリカのジャンクフードが主流な食文化に一石を投じ、新たな提案を続けるモーリー。そのユニークな提案の数々は多様なバックグランドを持つニューヨーカーに愛され続けている。


情報引用元:THE CITY BAKERY 公式HP



シティベーカリーは、この東京・赤坂店以外にも、東京だけでも品川、広尾、銀座、中目黒、吉祥寺、浅草、青山、南町田、横浜の9店舗もあるみたいだ。大阪は梅田、茶屋町、そして長野の白馬、福岡の天神といったところですね。


凄いですね。


そうだったら、せっかくなんだから、クリスマスだし、ちょっとクリスマス・ディナーでもいただこうかな、と思い、チャレンジしてみた。


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素敵なお店ですねぇ。
高級感ありますね。


自家製パン。


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フランスですっかりパンの虜になってしまった創業者モーリー・ルービン。ニューヨークに戻ったモーリーのパンへの思いは冷めることなく、ベーカーの道を歩んでいく。数々のNYのベーカリーで修行したが、どれも満足できず、ついに自分で開業を決意。


そうして生まれた拘りぬいたパンがこれです。ホカホカです。


ディナーをいただいたのだが、この自家製パンがもれなくついてくる。おかわりし放題である。ディナーの主食ですね。



前菜としてシャルキュトリー盛り合わせ。赤ワインは、ラムーラ・オーガニック・ロッソ。これは舌を噛むような名前だが(笑)、生ハムのような前菜であった。最高に美味しかったです。


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サブジ。


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サブジというのは、主にインドで食されている野菜の炒め煮。ここでは、野菜だけ作るサブジに肉や魚介を加え、さらにスープ仕立てにアレンジ。付け合わせのクスクスに吸わせていただく。これはサブジのメニューの中で、さらにチキンというメニューで、いままで食べたことのない食感で美味しかったです。クスクスは有名ですが、自分はあまり食した経験はなかったです。



炭火焼きラムコンボ 旬野菜添え。白ワインは、ラムーラ・オーガニック・ビアンコ。


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これがメイン・ディッシュのつもりでオーダーしたもの。一番美味しかったです。これが家でできたら最高だなぁと思いながら食べていました。やっぱりプロじゃないとダメなのかな、とか・・・。


最後はケーキでメリークリスマス。散々な1年だったけれど、最後くらいクリスマスらしいことができたかな?


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シティベーカリーは、このレストラン&バーの隣に、パン・ベーカリー専門に売るショップもあるんですよね。ここも列記としたシティ・ベーカリー。


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自分がずっと昔から疑問に思っていたサントリーホール前にある謎のお洒落なお店は、シティベーカリーというレストラン&バー、そしてパン屋さん・ベーカリーだったのである。


一件落着である。スッキリしました。



この日の本当の目的は、サントリーホールでのコンサート。


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下戸なのに、ワインを3杯も飲んで、かなり酔っぱらってしまい、寝てしまわないか心配であった。


ホール内もクリスマス仕様。


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庄司紗矢香さんの5年半ぶりのデュオ・リサイタル。 英グラモフォン・アワード受賞のヴィキングル・オラフソン を迎えて。自分へのクリスマス・プレゼント。


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前半は、とくに弱音、最弱音を極めつくした世界で、なかなか聴いていても体に力が入ってしまう感じで、なかなか大変であったが、素晴らしい演奏パフォーマンスであった。


バルトークのヴァイオリン・ソナタが、こんなに凄い曲だとは思ってもみませんでした。壮絶な曲で思わず自分は体がのけぞりました。この日でもっとも感動した演目だったかもしれない。


後半は一転して、親しみやすい馴染みのブラームスのヴァイオリン・ソナタなどで、一気に融和モード。はぁ、ようやく自分の世界に戻ってきた、という感じでホッとした。コンサートの構成として前半はチャレンジングな方向性、後半にお客さんに馴染みのあるいつもの雰囲気。


こんな構成の狙いがあったのでは、と推測する。

庄司紗矢香さんもヴィキングル・オラフソンも素晴らしかった。


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朝起きたときは、まさかこんなクリスマスな1日になるとは思ってもおらず、予想外の展開で楽しかったです。あとは、朝起きたら、枕元にクリスマスプレゼントが置いてあること。


これは別にクリスマスに限らず年中無休で受け付けています。(笑)

emmのトラポとdCSのトラポが欲しいです。






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内田光子さんのディスコグラフィー [ディスク・レビュー]

自分が所有している内田光子音源の紹介をしていこう。


内田光子さんの音をずっと録り続けてきているのは、ポリヒムニアのエベレット・ポーター氏である。ピアノ録音としては、やや空間を広く拾っていて、ピアノの音がとても鮮明だ。でも決していじり過ぎず加工的でない自然なテイストがとてもいい。さすがな職人芸だと思う。


デビュー当時の録音と比較すると、新しい録音になるにつれて、洗練されてきて、聴きやすい耳障りがいい自然な録音になってきているように思う。


最近のとくにベートーヴェンのピアノ・ソナタのアルバムの音は段違いに音が良くて驚いた。一発目の出音を聴いたとき、びっくりした。いままでのアルバムとは全然違うのである。


段違いに音がいい。

響きがとても豊かで打鍵の響きが空間に漂うさまがとても美しい。
オーディオマニア好みの音のように感じる。


先の日記ではベートーヴェンのことはあまり言及しなかったが、内田光子さんのベートーヴェンピアノ・ソナタもシリーズで取り組んでいて、新しい録音なので、きっとこのシリーズ、みんなこんな感じで音がいいのかもしれない。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ早く全集BOX化してほしいです。絶対買います!




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シューベルト ピアノ・ソナタ集(8CD)
内田光子



まさに自分にとって、内田光子さんのCDといえばこれなのである。
問答無用のトップに持ってこさせていただきました。


とにかく自分にとって難解だったシューベルトのピアノ・ソナタの魅力を教えてくれた神様バイブルでもあるのだ。「死ぬ時にはシューベルトを弾いていたい」と語る内田光子さんが1997年1月31日、シューベルト生誕200年を祝う誕生日にリリースを開始したシューベルト・チクルスが8枚のCDで完結したものである。内田さんの審美眼によって選び抜かれたレパートリーのみが、磨きぬかれたタッチでここに刻まれている。シューベルトを弾くために3年の月日を費やして調整した内田自身のピアノをムジークフェラインに運び、モーツァルト録音でも数々の名盤を生み出したプロデューサー、エリック・スミスのもとで行われた録音である。




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モーツァルト ピアノ・ソナタ全集(5CD)
内田光子



内田光子さんが世界にブレークしたきっかけになったのが、このモーツァルトのピアノ・ソナタ。内田さんの原点です。内田光子さんの世界的な名声を決定づけたソナタ全曲録音のセット化。ロンドンのウィグモア・ホールでおこなわれたソナタ全曲演奏会(1982年)の大成功を受けてレコーディングされたもので、平行しておこなわれたコンチェルト録音ともども、一躍世界の中心へと押し出す契機となった記念碑的な名盤である。



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モーツァルト ピアノ協奏曲全集(8CD) 
内田光子(p)テイト&イギリス室内管



このモーツァルトのピアノ協奏曲全集もそうです。ソナタ全集と並んで、内田光子の世界的な名声を決定づけた名盤。内田光子さんの原点はモーツァルトで、モーツァルトの作品に関して「音楽の本質を捉えた解釈者」として国際的にも定評があるのです。



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モーツァルト ピアノ協奏曲第18番、第19番 
内田光子、クリーヴランド管弦楽団





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モーツァルト ピアノ協奏曲第23、24番 
内田光子&クリーヴランド管弦楽団



内田光子さんのモーツァルト ピアノ協奏曲全集は、じつは自分的には、ブレークしたイギリス室内管の録音より、こちらのクリーヴランド管弦楽団との再録音のほうが好きである。やはり新しい録音だし、音が洗練されてますね。演奏もより円熟味に達しています。より進歩した先進的な解釈を楽しめます。自分の原点であるモーツァルトは、やはり再録音しておきたいなにかadditionalなものがあったのでしょう。クリーブランド管弦楽団ので全集も完成させてほしいです。




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ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集 
内田光子、クルト・ザンデルリング&バイエルン放送交響楽団、コンセルトヘボウ管弦楽団(3CD)



自分がヨーロッパに住んでいたとき、アムスに住んでいた同期の友人が、この実演に接した公演で、それがそのままCDになったということで、自分も記念に購入しました。録音はやや古い感じがしますが、コンセルトヘボウ・ホールのあの滞空時間の長い響きがよくわかる録音です。


“最後の巨匠”と賞され、90歳を迎えた2002年に惜しまれつつ引退したクルト・ザンデルリングに対する内田さんの敬愛はよく知られているところで、ザンデルリングの引退コンサートではモーツァルトのコンチェルトを共演、感動のあまり終演後に涙を浮かべたというエピソードも。このベートーヴェン録音も、内田さん自身のたっての希望でザンデルリングとの共演が実現したもので、当時のインタビューで「ザンデルリングとでなければベートーヴェン録音はありえない」とまで語っていたそうです。



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ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集 
内田光子、サイモン・ラトル&ベルリン・フィル(3SACD)




これはまさに自分の時代の録音ですね。(笑)やっぱり最高です。


録音も素晴らしいです。ラトル&ベルリンフィルはEMI時代は録音のクオリティに恵まれませんでしたが、自主制作レーベルになってから抜群に録音のクオリティがよくなりましたね。王者に相応しい録音になりました。


自分がここに挙げているのはSACDのほうです。CDのほうも別にあります、CDのほうは映像のBDとセットになっています。やっぱりSACDはいいです。


この公演の模様は、Digital Concert Hall(DCH)でも全部コンプリートしました。




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シューマン:女の愛と生涯、リーダー・クライス作品39、ベルク:7つの初期歌曲 
レシュマン、内田光子



グラミー賞を受賞した記念すべきアルバムです。自分もびっくりしました。しかも自分がもっとも敬愛する歌曲、シューマンの女の愛と生涯。この曲でグラミー賞を受賞してくれるなんて、なんか嬉しいというか縁を感じました。




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ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第30番、第31番、第32番 
内田光子



これは最高に音がいいです!一発目の出音を聴いたとき、びっくりしました。いままでのと全然違います。段違いに音がいいです。日記ではあまりベートーヴェンのことは言及しませんでしたが、内田光子さんのベートーヴェン ピアノ・ソナタもシリーズで取り組んでいて、新しい録音なので、きっとこのシリーズ、みんなこんな感じで音がいいんでしょうね。ベートーヴェンも早く全集BOX化してほしいです。絶対買います!






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内田光子さん [クラシック演奏家]

内田光子さん&マーラー・チェンバー・オーケストラで去年の秋に来日予定だったので、そのコンサートレビューのときに内田光子さんのことを日記で触れようと思ったのだが、残念ながら来日中止。


そこで、内田光子さんのことだけで日記で取り上げてみようと考えた。
コロナ禍になって以来、このケースが多いですね。

でもそのほうが、しっかり深く掘り下げれるから、かえっていいですね。


内田光子さんは、本当に日本が誇るクラシック界の至宝で、その深い知見と高い知性を兼ね備えた芸術家。その人格の崇高さ風格から格が違うという感じなので、果たして自分のような者が日記で語っていいものなのか、恐縮してしまう限りなのだが、でも自分も内田光子さんの実演やCDなどで、数えきれない経験をしてきたので、自分のクラシック人生ではとても縁が深いピアニスト。


このまま日記で取り上げないのもいかがなものなのか、ということで思いっきりチャレンジしてみようと思った次第である。


いつもと違ってかなり気を使います。(笑)



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自分がクラシックの世界に入るようになったときから、内田光子さんは当然ながらすでに大ピアニストであった。自分はクラシックピアノは、ポリーニ、アルゲリッチのショパン系から入った人なので、5年に一度ポーランド・ワルシャワで開催されるショパン国際ピアノコンクールはピアニストにとって世界最高峰のピアノコンクールだと思っていた。


その中で日本人の最高位は、ということを調べたときに、それが1970年度大会の内田光子さんの2位ということを学んだ。


やっぱり内田光子さんはすごいんだな、とそのときに感心し、それが最初の出会い、意識したきっかけだったかもしれない。


レパートリーは、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの前期ロマン派ですね。

もう内田光子さんのピアノといえば、もうこの3人の作曲家しか自分は思い浮かばないです。


内田光子さんにラフマニノフは似合わないですね。(笑)


ご本人もこれが自分のスタイルということで、意識されてこのレパートリーに固定されているのではないでしょうか。


モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルトというオーストリアの古典に関しては、アルフレッド・ブレンデルが引退した今、世界的にも内田光子さんが最高権威ということになるのでしょう。


世界的な名声、世に出たきっかけはモーツァルト。ピアノソナタとピアノ協奏曲の全曲演奏会、そしてその録音全集で世界に名を馳せることになる。そういう意味でもご自身にとって、モーツァルトは本当に大切な作曲家で、いまでもコンサートではここぞ、というときの十八番のレパートリーになっていることは間違いない。



でも自分の場合、内田光子というピアニストの世界に深く踏み入れることになったのは、じつはシューベルトのピアノ・ソナタだったのである。


その頃の自分は若輩ということもあったせいか、シューベルトのピアノ・ソナタの世界がどうしても理解できなかった。


いわゆる音楽の造形、型というものを、その曲々の中に捉えることができなく、どうしても散文的に聴こえてしまってのめり込めなかった。人々に愛される名曲には、必ずこの型というのがしっかりあって、人の心を捉えるのはその造形ありきだと思っていたのである。


クラシックに限らず幅広いジャンルで希代のメロディメーカーと呼ばれる作曲家たちは、人の心を捉えるこの型の作り方に秀でている人たちなのでは、という考え方を持っていたからである。


でも自分はシューベルトのピアノソナタを全曲通して聴くのだけれど、捉えどころのない、というか、その型のようなものを見つけることができず、どう愛していいのかわからなかった。


いろいろなピアニストの作品を聴くのだけれど、それは変わらなかった。


(シューベルトといえば歌曲王といわれるくらい歌曲が有名ですが、逆にシューベルト歌曲は一発で大好きになりました。)


その中で内田光子さんのシューベルトのピアノソナタ選集(PHILIPSレーベル)は名盤という評判の噂を聞いて、ダメ元と思いながら聴いてみたら、それがまさに衝撃の出会いであった。いままでなにを悩んでいたのか、という感じで自分の中にすっと入ってくるので、驚いた。


他の演奏家の録音となにが違うのか?ということは当時、厳密に解析できなかったけれど、内田光子さんのシューベルトのピアノソナタは、いままでわからなかったものを自分の世界に取り込めるようになった、そんな感触の出会いだった。


いままでわからなかったその曲の構造、型などの聴かせどころ、旋律の進行の巧妙さなどが何回も聴き込んでいくうちにその良さがわかってくるような気がした。


それ以来、自分はこの内田光子さんのシューベルトのピアノソナタ選集をiPodに取り込んで、毎朝夕の通勤時間に電車内で聴き込んで、勉強していったのである。


だから極端なことを言えば、内田光子といえば、自分にシューベルトのピアノソナタの良さを教えてくれたピアニスト、恩人と断言していいのである。


それが最初にのめり込むきっかけだったかもしれない。


それほど内田光子のシューベルト・ピアノ・ソナタ選集は名盤中の名盤と言っていい!


その魔力はどこから来るのだろう、と思い調べてみたら、こんなご本人のインタビュー記事を見つけた。


「ピアニスト内田光子の尽きることなきシューベルトへの愛」



内田光子にとって、シューベルトを学ぶということは実に長い道のりだった。生まれ育った日本の家には、外交官である彼女の父親が所有していたシューベルトのレコードコレクションがあった。彼女はドイツ語がわからなかったため、そのレコードのカバーやライナーノートの意味は理解できなかったが、それらのコレクションの中の一枚に、彼女のお気に入りの民謡があった。


彼女が12、3歳の頃、一家はウィーンに移り住み、そこで偉大なバリトン歌手であるディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが歌う、シューベルトの「冬の旅」を耳にした。


「その中盤に、いきなり、私たちの慣れ親しんだ民謡が登場したのです」


それは、歌曲のレパートリーの中でも最も有名な作品の一つである「Der Lindenbaum(菩提樹)」であった。ピアノを学んだ学生時代、彼女はモーツァルトとベートーヴェンも愛した。そして次第に、バルトークやベルク、シューマン、さらにはクルターグ・ジェルジュのようなコンテンポラリー音楽の作曲家も弾きこなすようになっていった。


しかし、内田はこう語っている。「誰よりもシューベルトに心が繋がっていると感じていたのです。彼の音楽はほんのわずかにミニマルなところがあります。必要でないものは全くない、私はそこがずっと好きなのです」


初期からの内田光子のファンが、これを必ずしも知っているわけではない。彼女は1980年代初期に、モーツァルトの素晴らしいアルバム(1作目がソナタ、2作目が協奏曲)のシリーズによって名声を上げた。


それは「アマデウス」のおかげだとも言えるだろう。最初の大きなレコード契約を締結した時、内田光子はシューベルトのアルバムを制作したかったそうだ。しかし、当時ツアーで、彼女はモーツァルトのソナタを弾いており、また「アマデウス」がピーター・シェーファーの演劇作品とそれに続く映画化により大ヒットしたことあって、彼女はモーツァルトのソナタとロンドを収録した作品を発表するに至ったのである。


彼女はシューベルトを追い続けるはずだったが、彼女の所属するレーベルやリスナーはさらにモーツァルトを求めた。結局、内田は1990年代の後半になるまで、シューベルトのアルバムを発表しなかった。しかしついにそれが実現すると、待つ甲斐あって、その収録曲は2004年発表のボックスセットにも収められることとなったのだ。



自分にシューベルトのピアノソナタの魅力を教えてくれた選集には、このような内田光子さんの想い、経過があって生まれたものだということがわかって、やっぱりこれも運命なんだな~と思い自分は感動しました。



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内田光子さんの演奏スタイルとして、


「拍節感を強調しない、拍子がそろった均等拍の特徴を使いこなす。」


という評があるのだが、非常に音楽の専門知識を要するのだけれどなるほどと思ったことがある。


この均等拍というのは、曲想によっても違うが、多くの場合は楽曲の躍動感やメロディーの生命感を殺し、音楽を平板なものにする。


均等拍は、リズムの「正確性」だけが優先されて、本当の音楽に必要な「身体性・自発性・即興性」が軽視されてしまう。


でも、内田光子さんのように西洋文明の歴史や哲学などを知的に分析して作曲家の思想性に独自の解釈を作り上げ、それを細かな表現技法に乗せて表現しているプロ中のプロであり、この均等拍を基本とし、その上に意図的かつ知的な表現を散りばめ、全体としてシリアスかつ知的な印象を与えている、というのが内田光子の演奏スタイルである。


内田光子さんだからできることであって、ふつうの音楽家はやってはいけない。


自分はもちろんここまで専門的に意識して聴いたことはなかったけれど、そう言われれば感覚的にそのイメージはよく理解できる。内田光子さんのピアノを聴いているとその感覚はよくわかる。


でもそれはモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの古典派の特にソナタ系の曲を弾いていると、大概そのような弾き方になるのでは、と素人の自分は思うのだが、どうなのであろう?


内田光子さんのベートーヴェンやシューマンのピアノ協奏曲などおもにコンチェルト系を実際聴いてみると、そんなに均等拍という感じでもなく、非常にエモーショナルで情熱的に弾かれている。


強拍と弱拍が混在するようなきちんと拍節感のある感じで演奏されている。


だから一概にそのような演奏スタイルと定義づけるのもどうなのかな、というのが自分が思うところである。もちろんそのようなことはご本人も意識されていることではないと思うのだが、どうであろうか。



内田光子さんは、作品に対する深い研究と解釈、もちろん作品だけに限らず、西洋文明の歴史や哲学などにも精通していて、本当に知的である。2005年日本芸術院賞を受賞、文化功労者に選出、2009年には大英帝国勲章「デイム」の称号も授与されている。


CDのライナーノーツなどにもその作品についてのご自身の解釈を寄稿されていることもよく拝見する。


昔、HMVのサイトにベルリンフィル・ラウンジという記事があって、そこに内田光子さんのインタビューが掲載されていたりする。(インタビュアーはもちろんサラ・ウイルス)


そうするとそのインタビューの記事内容がとても哲学的で知性溢れる内容で、日本語で書いてあるのを読んでいる自分がもう読解困難(笑)なのに、それを内田さんは実際はその内容を英語や独語で話されているんだと思うと気が遠くなったことがある。


ある意味完璧主義者という感じがしたものです。



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内田光子さんは12歳で渡欧して、ウィーン音楽院で学ぶ。現在は英国在住である。


ピアニスト・内田光子“名もなき国”イギリスへ
https://www.sankei.com/life/news/151006/lif1510060007-n2.html


●1972年、内田さんはウィーンを去り、英ロンドンへ移住する。愛してやまない音楽の都を離れたのはなぜなのか。


誰もが「何でも知っている」と思っていることはすてきなことですが、半面、問題も生じます。「モーツァルトの弾き方はこうだ」とある人が言えば、別の人は違ったことを言い、「私は知っている」と言うのです。名もない日本から来た私には、少し息苦しくなってきたのです。


同じように、ドイツ人はベートーベンの弾き方を「よく知っている」と言い、フランス人も自国の作曲家の弾き方を「知っている」と言います。そういう国には行きたくありませんでした。それでロンドンを選んだのです。


●もともと内田さんはロンドンが好きだったが、クラシック音楽の世界において、イギリスが“名もなき国”だったことが大きかったという。


もちろん、すばらしい作曲家はいますよ。でも、ベートーヴェン、シューベルト、モーツァルトといった巨人はいません。ヘンデルはイギリスに帰化しましたが、ドイツ人は今でも「ヘンデルは自分たちのものだ」と言い張り、ヘンデルを諦めろと言っています。


まあ、そんな具合ですが、イギリス人は自国の作曲家が作った音楽をこよなく愛していますし、何よりここでは「○○を知っている」「○○は自分たちのもの」ということがないのです。これがイギリスに来た真の理由です。

もうひとつ。イギリスには「知的寛容さ」があります。ここでは自分の好きなように行動できます。外国人が多いので、じろじろと見られることもありませんしね。




自分にとって、内田光子さんといえば、やはりベルリンフィルとの共演がとても鮮烈な想い出として残っている。自分の内田光子というピアニストのリアルタイムでの想い出である。


”ソリストと指揮者との運命の絆”という日記でも書いたように、ソリストの出演の運命というのは、指揮者との絆というか縁が非常に大きな影響を及ぼすものだ。


ベルリンフィルでいえば、カラヤン時代なら、アンネ・ゾフィー・ムター、アレクシス・ワイセンベルクなどカラヤンに重宝され、ベルリンフィルの定期公演によく呼ばれていた。アバド時代ならば、ポリーニやアルゲリッチ、そしてアンネ・ゾフィー・フォン・オッターである。ベルリンフィルのその首席指揮者の時代に応じたソリストの顔というのがあった。


いまの時代はソリストはもっと多様化され、そんなに固定化はされないと思うが、当時の時代はそんな固定観念があったような気がする。


内田光子さんは、サー・サイモン・ラトルの首席指揮者時代のソリストである。ベルリンフィルのその年の選任ソリストという意味のレジデンス・アーティストでもあったと思う。本拠地ベルリンフィルハーモニーで、合計10回はこのコンビで共演をしている。


その演目の大半は、モーツァルトとベートーヴェンである。中にはメシアンが1曲あった。ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、第1番~第5番までの全曲演奏会をラトル&ベルリンフィルでおこなっている。この公演の模様は、ベルリンフィルのDCH(Digital Concert Hall)でも収録されており、自分は2010年当時、全部コンプリートして拝見した。素晴らしかった。


そのラトル&ベルリンフィルとの共演で忘れられないのが、2009年2月13日にベルリンフィルハーモニーでおこなわれたシューマンのピアノ協奏曲である。


この2009年という年は、ゴローさん収録のアムステルダム・コンセルトヘボウでの、ハイティンク&ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団、ピアノ独奏:マレイ・ペライアでのシューマンのピアノ協奏曲が、もう自分的に最高のボルテージでマイブームだったからである。


このシューマンのピアノ協奏曲。

本当にいい曲ですよね~。


この年、この曲のすっかり虜になってしまった自分は映像作品だけでなく、いろいろな演奏家のCDを買いあさっていた。そして自分なりにいろいろ研究していたのである。


そんなときに、ラトル&ベルリンフィルで、ピアノ独奏が内田光子で、このシューマンのピアノ協奏曲をやる、という。このニュースが飛び込んできたときは、飛び上がるほど喜びましたから。


マレイ・ペライア&コンセルトヘボウと内田光子&ベルリンフィルの対決!


と自分で勝手にネーミングして盛り上がっていました。


こんなマイブームで盛り上がっているときに、こんな夢のような組み合わせのタッグでこの曲が体験できるなんて!アーカイブはもちろん、リアルタイムのライブ放送も朝4時に起きて観たんじゃないかな?アーカイブはそれこそ擦れきれるほど繰り返して観ました。


絶対忘れられない映像素材です。

今日10年以上ぶりに観たら、やっぱり感動した~。(笑)


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このときゴローさんがポロっと言ったこと。


音楽評論家の故・黒田恭一さんが内田光子さんのことを評して言ったことを、そのまま受け売りで言ったわけだが、これがあまりに内田光子さんに失礼で(笑)、腰を抜かすほど驚愕しました。いかにもブラックで言いたい放題の黒田恭一さんらしいコメントだな、とは思いましたが。


申し訳ないですが、その発言内容は、ここではとてもじゃないですが、ボクの口から絶対口が裂けても言えないです。(笑)



内田光子さんの実演体験であるが、自分の記憶によると累計4~5回くらいは行っていると思う。そのうちmixiを始めた2009年以降では、2010年のフランツ・ウエルザー=メストとクリーヴランド管弦楽団との共演でサントリーホールでの公演に行った。


そのときの座席からの写真。


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このとき内田光子さんはベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番を演奏してくれた。自分はベートーヴェンのコンチェルトでは、第5番「皇帝」より、第4番派である。


この日は、当時の天皇陛下、いまの上皇・上皇后さまもいらして、天覧コンサートであった。内田光子さんは、美智子上皇后さまとも親通でいらっしゃると聞く。


終演後、内田さんは、皇族VIP席のRBブロックのほうに向かって、何度も何度もお辞儀をされていたのをよく覚えている。


あとは、2015年のサントリーホールでおこなわれたピアノ・リサイタルですね。


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2015年 内田光子ピアノリサイタル@サントリーホール


演目は覚えていませんが、おそらくモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトだとは思います。


マーラー・チェンバー・オーケストラとも蜜月の関係で、2016年にはモーツァルトのピアノ協奏曲の弾き振りをしている。内田さんが日本のコンサートホールで御贔屓なホールは、サントリーホールと札幌コンサートホールKitaraなのである。内田さんは日本国内のホールの中で、とりわけサントリーホールと札幌コンサートホールKitaraの音響を高く評価し、定期的にコンサートを開いている。MCOとの公演もこの両ホールでの開催となった。


内田さんはマーラー・チェンバー・オーケストラ(MCO)について、


「マーラー・チェンバーは私が作らんとしている音楽に対する反応がとても速い、ということがひとつの要素です。弾き振りしている際にハッと新しいアイデアを思いついた場合、誰かが以前のように弾いたら困るわけで、彼らにはそれはありません。指揮者がいないので、目で見るのではなくお互い耳で聴き合って即座に反応できる人たちなのです。そして音楽を作るということに対して根源的な部分での〝心〟を明確に持った集団でもあります。彼らがその〝心〟の中で一丸となって求めているものと私が作らんとしている音楽に、どこか共通性があるのだと思います。」


と絶大な信頼を寄せている。


この年、自分はバイロイトと京都夏秋ツアーで予算オーバー気味の年で、行けなかった。
そんな雪辱もあって、2020年度はすごく楽しみにしていたのに残念でした。


数年前のセイジ・オザワ松本フェスティバルで、内田光子さんを招聘というときは驚いた。


ぜひ行きたかったけれど、もういまや貧乏体質なので、あまりのチケット高杉で夢かなわず。このときは、この組み合わせはすごい意外と思ったのだけれど、内田さんは1984年、小澤征爾さんが指揮するベルリン・フィル定期演奏会にバッハのピアノ協奏曲とメシアンの異国の鳥たちを弾いてデビューしているんですよね。


そういう縁がある。


小澤さんは自分がしっかりしている間に、ぜひ内田光子さんを自分の音楽祭のサイトウキネンに招聘したいと思ったのではないか、と思うのです。




内田光子さんといえば、それこそデビューのPHILIPSレーベルから現在のDECCAレーベルに至るまで、彼女の音をずっと録り続けているのは、ポリヒムニアのエベレット・ポーター氏なのである。


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BBCスタジオで内田光子さんの音を収録作業しているエベレット・ポーター氏。


自分が所有しているCD全部のクレジットは、全てエベレット・ポーター氏であった。


まさに演奏家にとって、自分の音を作ってくれる人、自分の音を形にして具現化してくれる人は、つねに定点で決まっている。ものさしや基準は絶対変えちゃいけないのである。ブレちゃいけないところでもある。


それを貫いていることはじつに素晴らしいの一言だと思うのである。


ポリヒムニアはもともとPHILIPSのクラシック部門から独立した組織であるから、その頃からのお付き合いなのだろう。だから内田光子さんのCDの音はもちろん素晴らしいのです。




デビュー当時の1970年代は、なかなか売れず不遇の時代だったようだが、1982年、東京文化会館小ホール、そしてロンドンのウィグモア・ホールでのモーツァルト「ピアノ・ソナタ連続演奏会」は「ウチダの火曜日」とロンドンの批評家から絶賛を浴び、一躍、楽壇の寵児となる。続いて1984年に、イギリス室内管弦楽団を自ら指揮しつつ演奏したモーツァルトのピアノ協奏曲の全曲演奏会を契機に、PHILIPSにモーツァルトのピアノ・ソナタとピアノ協奏曲を全曲録音。


これら一連のチクルスは空前の大成功を収め、これを契機に長い不遇の時代を経て名実ともに国際的な名声を不動のものとする。


それ以降、国際メジャー・オーケストラの定期演奏会、そしてザルツブルク音楽祭、BBCプロムス、タングルウッド音楽祭、ルツェルン音楽祭などの世界的音楽祭の常連となった。


まさに世界のUchidaで現在に至る。


「歳を取ることの美しさは、まるで自分が世界を手に入れたかのように、言ったり行動したりできることね。」


内田光子さんの言葉である。


自分もこのように達観した境地に至りたいものである。











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謹賀新年2021 [雑感]

あけましておめでとうございます。

昨年は拙ブログを読んでいただき、誠にありがとうございました。


去年の年賀の挨拶をいま読み返してみると夢溢れ、希望に満ち満ちてましたね。(笑)


まさか1年後に、世の中こんなに一変してしまうとは夢にも思っていませんでした。


去年は、3年間の計画準備の末のマーラーフェスティバル2020が頓挫してしまったことをきっかけに、ありとあらゆるショックな出来事が自分を襲いました。試練の年でしたね。


今年もコロナがどのようになるかまったく見通しが立ちませんが、おそらくそう簡単には局面は切り替わらないような気がします。我慢の年が続くのではないか、と思います。


去年巣籠りの生活をすることで、学んだことがありました。


これはマーラーフェスト2020渡航のための資金確保のためのときにも活用していた方法ですが、いままで、どこそこに行ってきました、こんなグルメな美味しいところを体験してきました、こんな音のいいカッコいいオーディオ機器を購入しました、的な体験に基づく日記ではなく、知識欲というか、なにかを学ぶことで、喜びを感じるという方向に日記の方針をシフトしていくこと。


前者はとてもお金がかかりますが、人間の知識欲はお金がかかりませんね。
せいぜい書籍代くらいです。


こうすることで、お金をかけることなく、日々明るく前向きに楽しく過ごせるような気がするのです。コロナ禍で外出もままならない状況で、自分が苦肉の策で考えたことです。


もともと貧乏な社会人ですので、羽振りが悪く(笑)、景気のいい話ではなく申し訳ないのですが、なんとか今後も毎日楽しく生きていくことを考えると、こういう考え方も必要なのではないかと思うところです。


ひとつ例外があります。


今日、新日本フィルのニューイヤーコンサートを以て、在京楽団に愛情を注ぐ強化月間が終了します。この1か月の間に、全部で6公演体験しましたが、やはり生のコンサートは素晴らしい!


音楽に人生の生きがいを見出す人間にとって、生音の有難さをこんなに実感したことはありませんでした。


在京楽団のコンサートのチケットは、せいぜい7000円くらいなものです。今回の強化月間でハイ、終わりというのではなく、これからも定期的にコンサートホール通いを続けようか、と思いました。


ホールに通う生活があったほうが、生活に張りがでる、というか、健全な精神を保つ上では必要な特効薬ですね。おうちでずっとオーディオで音楽を聴くだけでは絶対味わえない醍醐味だと思います。


生音コンサートとオーディオは両輪ですね。

けっして片方だけではうまく音楽人生回らないと思います。


去年の次々と起こったショッキングな試練を体験して、自分が悟ったことは、あまり先行きのことを心配しても、そのときに解決策が見つかる訳でもなく、その心配をずっと続けるくらいなら、いっそのこと忘れてしまい、今、この瞬間を楽しむ、ということを心掛けることです。


毎日暗い気持ちで生活するのはゴメンという感じです。


いまだけを考えるのは人間にとって至難の業で、どうしても先のことを考えてしまう生き物ですが、そのときはそのときでなんとかなる、という考え方がtake it easyでいいですね。


いままで楽天家で生きてきましたが、さすがに去年はいろいろ考えさせられ、このような考え方に軌道修正するしかなかったです。


本年度も慎重に無事に生き延びることができるように、と謙虚に思い、暮らしていきたいと思います。年初から羽振りのいい話ではなくスミマセン。(笑)


本年もよろしくお願い申し上げます。


今年は帰省せず、お節料理は、フランセーズ ラ・ポルテ、昔のプルミエ・アベニューで調達しました。フレンチの創作料理のレストランです。


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