SSブログ

ラトル&ウィーンフィル ベートーヴェン交響曲全集 [ディスク・レビュー]

2002年にムジークフェラインザールで録音されたラトル&ウィーンフィルによるベートーヴェン交響曲全集は、ベーレンライター版の使用、ノンビブラートなどのピリオド奏法的なアプローチ、それによる乾いたドライな響き、そしてラトル独特のアクセントを効かせた解釈で、クラシック界に物議を醸した。


好き嫌いがはっきり分かれ、いままで我々が慣れ親しんできたベートーヴェンの交響曲像を根底から覆すような驚きの連続であった。


長く伝統的スタイルによるベートーヴェンに親しみ、それが正統的なベートーヴェンだと信じている人が聴けば、少なからずショックを受けると思う。


サー・サイモン・ラトルは2002年からベルリンフィルの芸術監督・首席指揮者に就任することが決まっていた時期で、自分は彼に注目していたので、その時のタイミングでリリースされたこのラトル&ウィーンフィル盤をすかさず入手して聴いた。


そうするとそのあまりに斬新な解釈とそのアプローチに驚き、ベルリンフィルにとってもっとも重要な作曲家であるベートーヴェンの交響曲について、こんな解釈をする人が天下のベルリンフィルに就任したら、それこそ栄光ある歴史がメチャメチャにされてしまうのでは、と危惧を抱いたものであった。(笑)


それだけ衝撃であった。


このラトル&ウィーンフィル盤は、こんなのベートーヴェンの交響曲じゃないと頭から排除する人も当時多かった。


そんな想い出のあるラトル&ウィーンフィル盤を久しぶりに聴いてみようと思った。



653[1].jpg

ベートーヴェン交響曲全集 
ラトル&ウィーン・フィル(5CD)




いま聴いてみると、当時驚愕したほどの衝撃はなく、そんなに違和感もなく、いいんじゃないと肯定的な自分がいる。とても普通というか全然受け入れられる範疇のものだった。


全然普通である。


当時なにをそんなに驚いていたのか、と不思議に思うくらいである。
周りの批評に感化されたり、影響されていたこともあったかもしれない。


ただ、9番の第4楽章の合唱の部分とか、やっぱりう~んと唸ってしまうところは当時と変わらない印象である。


その理由に、いまは当時と比べて古楽奏法的なアプローチが増えてきて、我々が耳にすることも多くなり、それ自体抵抗なく自然に受け入れられるようになったということがあるのではないだろうか。


ラトルはベーレンライター版という最新研究を反映したスコアを用いているのだが、テンポ、デュナーミク、音楽記号の扱いが従来のブライトコプフ版とは微妙に違っており、しかもラトル独自の演出で、リズムがかなり攻撃的に感じられる。


全般的に快速テンポである。


やっぱり3番「英雄」が一番素晴らしい。それは一番普通っぽいというかノーマルな解釈だからである。(笑)従来通りという感じ。王道の演奏である。これぞ英雄という王道を行ってくれる。


1番、2番も全然いい。すごくいい。違和感なし。当時あれだけ変なアクセント、ドライな響きと思っていたのが嘘のように平常で重厚な響きに聴こえる。


6番「田園」も名演ですね。4番、5番「運命」も全然いい。


9番だけ、特に第4楽章の合唱の部分だけどうしてもやはり自分には拒否反応がある。
ラトルの解釈は好き嫌いを分けてしまうところがあると思う。


いままで聴いたことのないアドリブ的な歌いまわしや、合唱の粗さや薄さが際立ち、これは第九の合唱じゃないよ、とどうしても思う。


最後の合唱の部分はもっとも歓喜で盛り上がる最高潮のところである。この軽さ、粗さはどうしても自分のイメージ通りとはいえず、受け入れがたいかな。合唱は、手兵のバーミンガム市交響楽団合唱団のコーラスを迎えていますね。


ラトルはベートーヴェンの音楽に取り組む前にバロック音楽を徹底的に勉強したという。そうした道筋はニコラウス・アーノンクールをいわば模したもので、両者の解釈に共通するところも少なくない。


ロマン的なベートーヴェン像に見直しを加え、19世紀のベートーヴェンが生きた時代に彼の音楽が持っていた前衛性を明らかにする解釈の根源は似通っている。


アーノンクールが定期的にウィーンフィルに客演して古典派の新たな解釈を可能としたところも見逃せない。カール・ベームやヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮台に立っていた頃のウィーンフィルならラトルの解釈を受け入れられる余地はなかったはずだ。


そんなところにもラトルのこのウィーンフィル盤のルーツを見ることができると思う。



ラトルは、このベーレンライター版を、最近のベルリンフィルのときに作成したベートーヴェン交響曲全集でも採用している。


このベーレンライター版について解説を試みよう。(引用元:ライナーノーツ)


この録音で使用したベーレンライターの原典版は、1996年から2000年にかけて発表された。それまではもっぱら1862~1865年のプライトコプフ・ウント・ヘルテル版が使われていたが、その重大な欠点が1世紀という年月を経て正されることになった。修正のポイントは大きく3つある。



まずは、ベートーヴェンが書き直した決定的な手稿譜があったことである。1862年に紛失したとされていたものが見つかったのだ。特に「田園」の清書楽譜(第1版からの複写)の発見である。1953年の洪水で浸水したものが、1984年、オランダで発見された。


緩徐楽章のスコアには、ベートーヴェンの指示(サインつき)がはっきり残っており、これを見ると、ヴァイオリンにミュートをつける指示は、それまで思われていたように校正の段階でベートーヴェンが取り消したのではなく、写譜を担当した者が単に見落としていたのだ、ということがわかる。今回は彼の指示を活かし、これによって楽章全体の雰囲気が大きく変わった。


第2に、オリジナル(手稿譜や第1版)を見返し、ブライトコブフのチェックの抜けがいくつか見つかったこと。彼は古いスコアにおいて一見問題のないと思われる箇所について特に綿密な確認を行っていたわけではなかったようだ。例えば、第9番最終楽章のトルコ風行進曲の終わりの部分でベートーヴェンは、歓喜のニ長調の合唱への架け橋としてホルン・パートに変則的なタイを加えている。今までの版ではそのままになっているが、今回は、研究者、演奏者ともに新しい解釈をしている。


第3に、ほぼ全ての資料(いかに多くの資料がこの100年間を生き抜いてきたことに驚く)を確認し、完璧な原典資料体系を再構築したことだ。例えば、第9交響曲のトリオの終わりのヴァイオリン・パートのように、あらゆる資料でいままでの解釈が違っているとなれば、どこかで間違いが起こったという事実とともに、ベートーヴェンの意図していたものは何だったのかを正確に知ることができる。



問題はこれの3つの違いを自分はきちんと聴きとれていたのか、ということだ。(笑)


現在のベートーヴェン交響曲の大半が、このベーレンライター版を採用しているなら、いまの時点でラトル&ウィーンフィル盤を聴いても違和感があまり湧かないのもつじつまが合う。


いずれにせよ、ラトルという人は、このベートーヴェンの交響曲に限らず、特に十八番のマーラーについてもそうであったように最新の研究結果に常にアンテナが敏感な指揮者で、新しい挑戦をし続けていた指揮者であったということだ。


そこが従来通りの伝統的な解釈を好む保守的なファン層から反発を買う要因にもなっていたところなのだと思う。自分はそういう前向きなところが好きでラトルを支持している側のファンである。


そんな”ベートーヴェンの交響曲全集”というクラシックの王道中の王道の分野で、エポックメイキングだったこの録音はぜひ一度聴いていただきたいと思っている至極の一枚である。








nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。