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【重要なお知らせ】ノンノンのブログ 増設のお知らせ [雑感]

ノンノンのブログ、日頃愛読いただきありがとうございます。


ノンノン.jpg


SS-Blog (旧So-net Blog)を使用しているのですが、このブログの仕様により、写真データの格納容量が満杯になってしまいました。自分の日記は、写真データをいっぱい掲載しますので、その容量制限にすぐに近づいてしまいます。


そこで、ブログを増設することにしました。
今後はこちらのほうのブログに日記をアップしていきます。


(新)ノンノンのブログ
https://akira-nonaka-1.blog.ss-blog.jp/


(旧)ノンノンのブログ アーカイブ 2012~2021
https://akira-nonaka.blog.ss-blog.jp/


いままで投稿してきた、みなさんが閲覧してきた”ノンノンのブログ”は、ブログタイトルを、”ノンノンのブログ アーカイブ 2012~2021”と変更し、そのまま存続させます。


それとは別に新しいブログ”ノンノンのブログ”をスタートさせます。

画面のデザインなど、両者とも完璧に同じです。(笑)


ブログタイトルが違うだけです。

この新しく増設したほうのブログのブックマークをよろしくお願いします。


旧のほうのブログもそのままにして残しておきますので、閲覧なさって、アクセスを踏めることは、いままで通りまったく変わりません。


私も必ず、この旧のほうのブログのアクセス数を毎日確認します。


旧のほうは、日記は投稿できなくなりますが、アクセス解析の機能は、未来永劫に続くものと思います。


新のブログのほうは、新たにこちらに日記を投稿するようになり、その新しい日記のアクセス解析は、新しいほうで確認します。


みなさんにおかれましては、旧と新の両方の”ノンノンのブログ”を活用いただければ、と存じます。


尚、ネットでタイトルを文字入力して検索してもうまく検索できません。新のノンノンのブログと入力検索しても、ヒットした検索結果はノンノンのブログですが、そのサイトの中身は、ノンノンのブログ アーカイブ 2012~2021ですし、逆に旧のノンノンのブログ アーカイブ 2012~2021と入力検索しても、ヒットした検索結果はやはりノンノンのブログで、そのサイトの中身は、旧のノンノンのブログ アーカイブ 2012~2021
という感じです。


要は新旧のどちらのブログタイトルで入力検索しても、旧のアーカイブのサイトしかヒットしないということです。


サイトでの文字入力による検索は、ある程度の期間、アクセス履歴が蓄積していかないと学習しないというかネットに表示されませんね。


ご面倒ですが、上記のURLアドレスのほうで検索、登録をお願いします。


ノンノンのブログを開設したのは、2012年11月13日です。
ブログ歴9年です。投稿記事数 658

まだまだ若輩ですね。


もともとブログを開設しようと思ったのは、海外音楽鑑賞旅行で、お世話になった旅行会社のコンシェルジェ・スタッフの方々に現地の写真、日記をぜひ見てもらいたいという目的で開設しました。


ブログなら、SNSと違って、誰もがアクセス、閲覧できるメディアですからね。それで準備いただいたご苦労をねぎらおう、一緒に感動を分かち合いたい、また今後の業務に活かしてもらえれば、という目的でした。


それがいつのまにやら、プライベート一直線のなんでもありの雑種日記となってしまいました。(笑)この日記を読んでいただければ、ノンノンさんという人がどういう人なのか、どういう考え方を持っている人なのか、その人間像がいっさいがっさい全部盛り込まれています。


まぁ、こんな人間ですが、今後ともよろしくお願いします。

新旧ともにノンノンのブログ、今後ともよろしくご愛読のほどをお願いします。


このつぎの日記投稿から、新しいブログのほうに掲載していきます。





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孤独がない人はダメ [雑感]

2017年10月17日にNHK BSプレミアムのアナザーストリーで放映された
「長嶋茂雄 引退の日 ラストシーズン」。


再放送されたものを録画してあったのだが、今日ようやく拝見した。


長嶋さんのあのラストシーズンで引退試合を迎えるまでの葛藤、あのときいろいろ起きた裏事情、そして長嶋茂雄という日本プロ野球史上最高のスターの野球人像をあらためて考えてみる、という内容のドキュメンタリーである。


その中に現在の長嶋さん本人のインタビューもあって、その中で、自分の人生にとっても、かなりドキッとくるような衝撃なコメントがあり感激してしまった。


深いよなぁ、という感じ。
頂点を突き詰めた人だから達観できる世界観というか。。


長嶋さんの現役時代は、自分は子供の頃は幸いにも晩年の3~4年くらいはリアル体験できた。あの引退試合、中日とのダブルヘッダーはじかに観ていましたから。444号のラストホームラン、最後の「巨人軍は永久に不滅です。」もリアルタイムで観ていました。


王さんとのアベックホームランも観たことがある。アベックホームランというのは、ON砲、王・長嶋さんから生まれた言葉じゃないですかね。アベックホームランって本当に興奮します。相手に与えるダメージは圧倒的に凄いですね。完璧なまでに叩き潰すという感じですね。


自分は子供の頃から野球少年で、プロ野球、高校野球はもちろん、巨人の星、ドカベン、野球狂の詩とか、のめり込んでいました。サッカーはダメなんだよね。ワールドカップしか見ない。(笑)Jリーグはサッパリ。


巨人V9時代は本当に後半のみ実体験。だから小学生の子供の頃。


本当に自分が等身大でリアルにプロ野球にのめり込んだのは、巨人で言えば、江川、西本、原、篠塚、中畑とか、阪神でいえば、バース、掛布、岡田、真弓、中日でいえば田尾、谷沢、モッカ、大島、中尾、小松、そして広島なら山本浩二、衣笠、高橋慶彦、北別府とかの時代。


自分はまさに日本プロ野球の黄金時代と呼んでいます。


その後も、そのときほどのめり込みはしなかったけれど、ずっと関心を持って観てきた。長嶋監督のメークドラマ、巨人・中日10.8最終決戦とか、野村ID野球全盛時代、イチロー、松井秀喜、日本人プレーヤーが大リーグへとか、WBCとか、もういままでの重要なところは大体。


最近はまったくダメになりました。
野球中継を見ることさえ無理な体になってしまった。
ニュースで結果を見るくらいです。


長嶋茂雄さんは、打っても、守っても、走っても絵になる千両役者のような選手だった。「燃える男」、チャンスにめっぽう強い、プロ野球の”躍動感”をファンに与え続けてくれた類まれな選手だった。


ときは高度経済成長期。まさに長嶋は明日に向かう希望の星。

戦後最大のスーパースターであった。


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この写真は、空振り三振のときの超有名写真だが、このヘルメットを飛ばすのは本人が意識して飛ばしていた、というのは有名な話だ。


プロスポーツのカメラマンも、その絵になる一瞬を撮るって本当にプロだよなぁとつくづく思います。


長嶋さんは、当時の川上監督からV9達成のときに引退することを命じられた。川上監督からすると、長嶋茂雄ほどの大打者の生涯打率が3割を切ることは絶対許されることでなく、そこを心配していた。


でも、パッと座布団を跳ね除けて正座して
「監督、あと1年、あと1年やらせてください。」


その最終年、スランプと不調とどう向き合っていったのか、を刻銘にそのドキュメンタリーで描いていく感じである。


長嶋さん曰く、


「自分はみなが言うような天才型ではなく、どちらかというと努力型でしょうね。努力はあまり人に見せない。努力というのは見えないところでやること。」


当時は、王:努力型、長嶋:天才型と確かに言われていましたね。


ダブルヘッダーの引退試合で、第1試合終わったとき、長嶋さんが外野フェンス沿いに1周して回ったのも伝説で有名である。


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このときの裏事情についても、このドキュメンタリーでは密着している。

「もうひとつの引退セレモニー」

というタイトル。


この引退試合の4日前に、巨人軍広報部長 小野陽章、後楽園球場支配人 丸井定郎と長嶋さんを加えた4人で、その引退セレモニーについて事前の打ち合わせ。


そこで、長嶋さんは外野フェンス沿いに場内一周したいと申し出る。


でも、それは観客ファンが興奮してグランド内に入り込んできて非常に危険。くれぐれもそれだけはやめてほしい、と却下。長嶋さんはそのときは、わかりました。


確かに、この頃のプロ野球って、観客がグランド内にどんどん雪崩れ込んでくるというのが当たり前のシーンでしたね。


巨人V8のときに、優勝を決める阪神との甲子園決戦。あっさり巨人が大勝して、怒った阪神ファンがグランドに雪崩れ込んで、巨人選手はもうめちゃくちゃボコボコにされたとか。


あと、古葉竹識監督率いる広島が、赤ヘル軍団旋風を巻き起こし、球団初の優勝を遂げたとき、最下位の長嶋巨人との後楽園球場で優勝を決めた瞬間。もう凄かったです。観客席からどど~って雪崩れ込んできて、もみくちゃにされながら、胴上げしていましたね。


リアルタイムで観てました。あんな大人数雪崩れ込んだのを見たのは、この1戦が自分の中で1番でした。最近まったくそういうのがなくなりましたよね。


確かに危険だからなのでしょうけど、最近のお客さんは以前ほど熱くならないというか、大人しいんですかね。それともそうできないように物理的な仕掛けが球場にできているのでしょうか?


当時の富坂警察署からも、くれぐれもそれだけはやめてほしい、とのこと。それで長嶋さんは引き下がったのだけれど、引退試合のダブルヘッダーの第1試合の7回表が終わってベンチに帰ってきたとき、長嶋さんは、広報部長 小野さんに


「小野さん、やりましょう、やりましょう。」


そのとき小野さんは、長嶋さんの最後のお願い。あとで問題になったら、自分が辞めればすむこと。として認めた。


それで、あの場内一周が実現した。


幸いにも観客がグランドに流れ込んでくるということはなかった。

そうだったんだね。

これが「もうひとつの引退セレモニー」。

ちょっと自分はじ~んと来てしまいました。


そして、最後が、「1人で自分を追い込んでいく」。
これが自分は最高に感動し、共感したところであった。


長嶋さんくらいの大スターになると、当時は誰も長嶋さんにアドバイスするということはできなかったらしい。

川上さんもコーチの牧野さん、荒川さんも。


誰も長嶋さんになにもものを言えなかった。


バッティングコーチなんかも、さらにここのところが悪いと思っても直してさらに悪くなったらファンに対してどうしようという気があって、誰も話せなかった。


長嶋が圧倒的な存在ゆえに生まれる微妙な心遣い。

それを振り払うように1人で追い込むようになった。


試合終わったら毎日、ニッポン放送キャスターを伴って、自宅でキャスターに相手投手のモノマネをさせて、「平松来い!外木場来い!安仁屋来い!」と素振りをしていたそうだ。平松はそうじゃないだろう!と怒られることもしょっちゅうのこと。午後10時から翌日の午前2時まで。毎日やっていたそうである。


長嶋さんは、シーズンオフの山籠もりも有名ですね。
静岡・伊豆の大仁ホテルですね。
部屋にネットを張って、トス打撃とか、山へのランニングとか。
必ずパートナー1人だけの同伴で、基本1人でやっていた。
チームメイトすら知らない。
1人で自分を追い込んでいた。


娘さんの長島三奈さんも出ていて、「父は1人が好き。そういう時間を大切にしていた。」


長嶋さん曰く、


「部屋の電気を消して真っ暗にする。そこで振るんですよ。ふつうは鏡に映すとかするんだけど、それじゃダメ。もう自分自身ではっきり分かりますから。音が全部違いますから。スイングは。その音をね、いい方向に音を高めないとダメなの。それが24時間、1日24時間常に思っているからね。」


「孤独だからこそ本当の球場に、あるいは舞台に出たときに初めてそういうものが、生きるんだろうからね。孤独を逃げることはもう野球の勝負師として駄目だね。孤独がない人は全然駄目だよ。」


松井秀喜氏が、恩師長嶋さんからのコーチングで有名なのは、電話がかかってきて、そのままそこで素振りしろ、それでそのスイングの音を電話口で聞いて、それじゃだめだ、よし、それでいい、とかやっていたのは有名な話ですね。


なんかこのインタビューを聞いていて、自分の理論に一貫していて感動しました。


そして勝負師たるもの、その大舞台では必ず1人になる。
その1人でその”とき”を勝ち取るのも、1人。

孤独がない人は全然駄目。
孤独を逃げることはもう野球の勝負師として駄目。


なんかもうここが1番じ~んと感動。(号泣)


深い、というか、その場、その修羅場を長年くぐり抜けてきた人でないと達観できない境地だよな、と感動しました。


「雨ニモマケズ、風ニモマケズ

あんなつまんねぇことねぇと思わないかい?
せっかく雨が降ってくれるんだよ。
だったら「雨を喜び」だろう。
せっかく風が吹いてくれるんだよ。
だったら「風を楽しみ」だろう。

それでやっぱり生きていくのが本当の俺たちの生き方じゃねぇか。」


長嶋さんと懇意にしていたニュースキャスターとの会話である。


雨を喜び

風を楽しみ


長嶋さん曰く、


「自分の人生観そのもの。
プラス思考。
悪い方向に考えない。
いい方向、いい方向へ考える。」

「明日がダメだと、またまた明後日にしようかと。
常にそういう前向きでやることがね、人生の中でやっぱり大事なんじゃないかな。」

「期待が重いと思ったことは一度もない。それは喜び。」



・孤独がない人はダメ。
・プラス思考。


まさに自分の人生を生きていくうえで指針となる、そしていままでの自分の生き方に太鼓判を押してもらったようなうれしい言葉であった。


かなり自分は楽観的な性格ですから。(笑)
これじゃ将来困るだろう、というレベルで。(笑)


でもうれしかったし、心強かったです。
長嶋さんほどの達観した人生からあぶり出てきた、本当に深い言葉ですから。


今日は本当に偶然の偶然、この録画してあったドキュメンタリーを見ようと思ったのだが、まさに玉手箱からの宝物という感じで大収穫な日であった。







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冒険家 植村直己 北米マッキンリーに死す [雑感]

自分は登山の世界とか、自分でやろうとはまったく思わないのだけれど、冒険家 植村直己さんには子供時代にとても憧れた。


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植村直己さんは、日本の冒険家のパイオニア的な存在で、エベレストに日本人として初登頂、世界五大陸の最高峰初登頂、そして北極、グリーンランド大陸の犬ぞり紀行など輝かしい冒険歴を残した。


その後、現在に至るまでいろいろな冒険家が出てきて、植村さんの記録をどんどん破っていくわけだが、自分には”その後”はまったく記憶に残らない。


やっぱりオリジネーター、最初にやった人、植村直己さんが一番なのである。


希代の日本の冒険家といえば、植村直己なのである。


とくにそのご著書をかなり読んで、そこで描かれる冒険家の日常、冒険のその現場のリアルな描写、冒険をするためにはやはり費用が必要で、それを工面する工夫、そして奥さん公子さんのことなど、あからさまに書かれていて、とても子供心に心打たれた。


特に冒険のその現場のリアルな描写は、とても印象的で、それを読むだけで、自分が実際その場にいる感じで、その厳しい自然の世界と闘っているその場面が頭の中で鮮烈に描かれるほど感動的であった。


犬ぞりで犬たちの実際の群れでの行動などについて、その犬の持つ習性について学んだことなども描写されとても興味深い。


あと、カリブー(トナカイ)の肉を食べるときのこと。

テントの中での生活。


とにかく自分にはない世界で、夢の中で想像を張り巡らすことだけで、とても夢のある世界に連れて行ってくれた。同時に自分にはとてもできないこと、こんな厳しい環境には自分はへこたれてダメだろうな、絶対無理な世界とは思いましたが。


そして、テントの中で、愛する奥さん公子さんの写真を見ながら、オ〇ニーをしたことなど。。。


とにかく植村直己さんの著書は全部読んだ。


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植村直己さんの冒険歴の大きな流れとして、若いときは登山の垂直方向の冒険、そして晩年の大陸の犬ぞり紀行などの水平方向の冒険というように分けられる。


垂直方向から水平方向へ。

これが流れであった。


植村直己さんの冒険で唯一果たせなかった夢は、南極大陸の制覇、犬ぞり紀行だった。この南極を果たせなかったのが冒険家人生で唯一やり残した夢だった。


もちろん輝かしい冒険も、実際はすごいお金が必要なことなのだ。大変な費用がかかる。その費用をなんとか捻りださないとということで、著書などの執筆、そして講演会など全国に足を運んだこと、そして企業などのスポンサー探しである。


理想と現実。実際そのお金を捻りださないといけない苦労がその本に刻銘に書かれていて、とてもリアル現実を見る感じで、その痛ましさにう~んと読んでいた。


もともと内気な性格で人前であまり話すことが得意でない。1人が好き。だからこそ冒険に出るわけだが、それも団体での行動を嫌い、単独行が多かった。


たしか子供のときにニュースで見たことがあり記憶にあるのだが、遭難事故があって、1人で登山をすることの危険性、そういう人の気持ちがわからない、という日本中の非難の声が上がったときに、植村直己さんはインタビューで、「ご批判の気持ちはよく理解できるけれど、自分は1人を好み、そういう登山の世界を1人で楽しみたい、という世界はとても理解できるんですよね。それは決して責めれられることではない、と思う。」と擁護していたのをいまでも覚えている。


内気な性格で人前であまり話すことが得意でない。1人が好き。


これは自分の性格にも身に覚えがあるところで、似たもの同士という共感もあって、その孤独性をあるところに昇華させるエネルギーにとても尊敬していた。


自分のような性格でも大きなことができるんだ、という自分の子供時代の先生、大きな鏡だった人だったような気がする。


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そして世界中に衝撃のニュースが走った1984年冬。


北米最高峰のマッキンリーに冬季初登頂という偉業を達成した後、下山後消息を絶った。これは子供心にも大ショックだった。


あれだけ輝かしい冒険歴を重ねてきた植村直己さんでも、結局遭難するということもあるんだな、と驚きだった。ちょっと信じられなかった。


うちのオヤジは、そのニュースを見ながら、このように吐き捨てるようにつぶやいた。

「結局、こういうことをやっている人は、最後はこういう死に方をするんだよな。」


自分はこのとき、確かにこの意見に同調すると同時に、冒険家としてそれはある意味望ましいというかカッコいい死に方だったのでは、と思うようになった。


男の死に様として最高の格好良さだったのでは、と。
男の引き際、散り際の美学というか・・・。


男として、自分の大好きなこと、自分の人生そのものに打ち込んでいるときに、そのまま死にたいというある意味の欲望。歌手が歌っているときにステージでそのまま最期を迎えたい、というような。。


たとえば、ファンから怒られるかもしれないけれど、トム・クルーズが映画のスタントの最中の不慮の事故で命を落としたとしても、それはある意味、彼にとって最高の散り際の美学なのではないか、と思ったりするのだ。


植村直己、北米マッキンリーで死す。


は自分にそんな教訓を子供心に強烈に残したのだ。


「植村直己、北米マッキンリーで消息不明」


は衝撃のニュースであった。すぐに植村さんの大学であった明治大学の登山部が、植村さんと同じルートでマッキンリー登頂をおこない、植村さんの消息の行方を探索した。


頂上に登頂した時の旗、そしてその途中に宿泊したと思われるテントの残骸など、見つかったが植村直己さんの消息は不明だった。


そのときに下された判断は、下山途中で、強風に煽られ、クレバス(氷河の割れ目)に落下したのではないか、という結論で収まったように思う。


自分はそのとき植村さんについての遺骸含め、なにか見つかってほしいと思っていたので、この結果はこの結果で納得と言うか、物足りなさも感じた。


あれから36年経過しても植村直己さんの遺体の発見のニュースはない。永遠の美学として、永遠に見つからないでほしいという想いと、見つかってほしいという、好奇心の気持ちと半々である。


もし見つかったときはこれまた世界中で衝撃のニュースになると思う。


植村直己遭難が確定したときに、奥さんが記者会見をしたときのこと。鮮明に覚えている。


「冒険家はつねに命あって帰ってくる、それこそが本当の冒険家、と普段言っていた人がこれでは本当にだらしない、と思います。」


と涙をこらえながら気丈に話していたのは、涙なくして見れなかったです。


・内気な性格で人前であまり話すことが得意でない。1人が好き。
・それでも大きなことができる。
・男の散り際の美学


こういう点で、冒険家 植村直己さんは、子供の頃の自分に大きな影響を及ぼした人だったのである。







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謹賀新年2021 [雑感]

あけましておめでとうございます。

昨年は拙ブログを読んでいただき、誠にありがとうございました。


去年の年賀の挨拶をいま読み返してみると夢溢れ、希望に満ち満ちてましたね。(笑)


まさか1年後に、世の中こんなに一変してしまうとは夢にも思っていませんでした。


去年は、3年間の計画準備の末のマーラーフェスティバル2020が頓挫してしまったことをきっかけに、ありとあらゆるショックな出来事が自分を襲いました。試練の年でしたね。


今年もコロナがどのようになるかまったく見通しが立ちませんが、おそらくそう簡単には局面は切り替わらないような気がします。我慢の年が続くのではないか、と思います。


去年巣籠りの生活をすることで、学んだことがありました。


これはマーラーフェスト2020渡航のための資金確保のためのときにも活用していた方法ですが、いままで、どこそこに行ってきました、こんなグルメな美味しいところを体験してきました、こんな音のいいカッコいいオーディオ機器を購入しました、的な体験に基づく日記ではなく、知識欲というか、なにかを学ぶことで、喜びを感じるという方向に日記の方針をシフトしていくこと。


前者はとてもお金がかかりますが、人間の知識欲はお金がかかりませんね。
せいぜい書籍代くらいです。


こうすることで、お金をかけることなく、日々明るく前向きに楽しく過ごせるような気がするのです。コロナ禍で外出もままならない状況で、自分が苦肉の策で考えたことです。


もともと貧乏な社会人ですので、羽振りが悪く(笑)、景気のいい話ではなく申し訳ないのですが、なんとか今後も毎日楽しく生きていくことを考えると、こういう考え方も必要なのではないかと思うところです。


ひとつ例外があります。


今日、新日本フィルのニューイヤーコンサートを以て、在京楽団に愛情を注ぐ強化月間が終了します。この1か月の間に、全部で6公演体験しましたが、やはり生のコンサートは素晴らしい!


音楽に人生の生きがいを見出す人間にとって、生音の有難さをこんなに実感したことはありませんでした。


在京楽団のコンサートのチケットは、せいぜい7000円くらいなものです。今回の強化月間でハイ、終わりというのではなく、これからも定期的にコンサートホール通いを続けようか、と思いました。


ホールに通う生活があったほうが、生活に張りがでる、というか、健全な精神を保つ上では必要な特効薬ですね。おうちでずっとオーディオで音楽を聴くだけでは絶対味わえない醍醐味だと思います。


生音コンサートとオーディオは両輪ですね。

けっして片方だけではうまく音楽人生回らないと思います。


去年の次々と起こったショッキングな試練を体験して、自分が悟ったことは、あまり先行きのことを心配しても、そのときに解決策が見つかる訳でもなく、その心配をずっと続けるくらいなら、いっそのこと忘れてしまい、今、この瞬間を楽しむ、ということを心掛けることです。


毎日暗い気持ちで生活するのはゴメンという感じです。


いまだけを考えるのは人間にとって至難の業で、どうしても先のことを考えてしまう生き物ですが、そのときはそのときでなんとかなる、という考え方がtake it easyでいいですね。


いままで楽天家で生きてきましたが、さすがに去年はいろいろ考えさせられ、このような考え方に軌道修正するしかなかったです。


本年度も慎重に無事に生き延びることができるように、と謙虚に思い、暮らしていきたいと思います。年初から羽振りのいい話ではなくスミマセン。(笑)


本年もよろしくお願い申し上げます。


今年は帰省せず、お節料理は、フランセーズ ラ・ポルテ、昔のプルミエ・アベニューで調達しました。フレンチの創作料理のレストランです。


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エリーゼのために [雑感]

今日のミューザ川崎でおこなわれた下野竜也さん&東京交響楽団によるジルベスター・コンサートは大変すばらしいものであった。今年は結果として苦悩に満ちたベートーヴェン・イヤーとなってしまったが、今日は満を持してそのオール・ベートーヴェン・プログラム。


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ソリストもピアノ独奏に小川典子さん、ヴァイオリン独奏に南紫音さん、ナレーション&バリトンに宮本益光さんと個性豊かな饗宴を十分堪能させてもらった。


心から感謝したいと思います。


小川典子さんのピアノの実演体験は、確かに何回かはあるとは思うのだけれど、よく思い出せず、初体験のつもりで臨ませていただいた。


小川典子さんは、ミューザ川崎のコンサートホール・アドヴァイザーでもあり、それを大晦日のジルベスター・コンサートで、さらにミューザ川崎で聴けるなんて最高のシチュエーションだと思いました。


素晴らしかったです。


その小川さんが最初に弾いたベートーヴェンの「エリーゼのために」。


本当に小品中の小品という小さい作品だが、この曲は自分にとって子供心に非常に想い入れの深い曲で忘れたくても忘れられない曲である。


普通のプロのクラシック・コンサートでも滅多に演奏されることもないし、また普段、自分の部屋でオーディオで聴くような曲でもない。


だから今日コンサートでこの曲を聴いたとき、あまりの懐かしさに思わず涙した。


自分は小学生のとき、親からピアノを習わされていた。
母親のほうが熱心だった。


自分はピアノを習っていることを同級生に知られるのが本当に恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなかった。先生がよくクラスでノンノンさんはピアノを習っているんだよ、と言っちゃうのだが、それはやめてくれよ~という感じで嫌で嫌でたまらなかった。


女子生徒がピアノを習うのはごく自然だけれど、男子生徒でピアノを習うことはすごい恥ずかしいことと、当時の自分は思い込んでいたのだ。


男なら野球だろ!という時代だったので。(いまは違うでしょう。あくまで自分の世代のことです。)


オヤジは猛烈に怒ったけれど、母親はYAMAHAのアップライトのピアノを買ってくれた。オヤジもついに折れて、職場の高校の校長さんの奥さんがピアノの先生ということで(オヤジは高校教師だった)、その校長宅にレッスンに毎週1回通っていた。


自分はいやいややっていたので、あまり熱心な生徒ではなかった。


毎週新曲をさらっていかないといけないのだが、あまり熱心にさらっていかなかった。でもその奥さんの先生はやさしく、毎回やる気が出るようにアドバイスしてくれ勇気づけてくれた。


ピアノが2台並列に並んでいて、先生と自分。

バイエルン教本とかひと通りの教程はやったと思う。
発表会とかもあったな。

もう憂鬱で、憂鬱で。


月一回、封筒に月謝を。母親に渡され、自分がじかに持って行っていた。
ピン札を入れるのが礼儀というかマナーです。(笑)


そんなピアノを習っていた子供時代、自分が一番猛烈に練習して、上手くなりたいと思って練習していたのが、ベートーヴェンの「エリーゼのために」だったのだ。


当時母親は、クラシックのレコードで、百科事典的なセットになっているものを買ってくれて、それにはベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、ショパンなど作曲家ごとに当時の45回転シングルLPがセットになっているものだった。それには各作曲家の有名なピアノ曲の大半が収められていた。


その中で自分はこのベートーヴェンの「エリーゼのために」に猛烈に夢中になってしまい、ピアノをいやいやながらやっていたにも関わらず、この曲だけは大好きになってしまい、自分で弾きたいと思い自発的に練習したのだ。


いまや全然覚えていないのだけれど、楽譜とかどうやって調達したのかな?
母親が買ってくれたんだろう。


「なんと!美しい曲なんだろう!」


と子供心に感動していた。


あの有名な冒頭のフレーズ、主題が終わった後の第2の主題(?)に入るところのちょっとトリルな感じの箇所が自分のツボだった。ここは45回転のLPで聴くと、本当にコロコロ感満載でじつに綺麗にコロコロと速射砲で弾く。


あれに自分は堪らなく憧れて、プロはうまいな、あのように弾いてみたい、と本当に憧れた。その箇所だけ、もう何回も何回も練習しました。


でも45回転LPのように綺麗なコロコロ感なトリルな感じが出せないんだよね。
本当に子供心に相当悩みました。(笑)


だから、自分にとって「エリーゼのために」というと、あの有名な冒頭のフレーズではなく、第2主題に入ったところのコロコロ感のあるあの箇所なんですよね。


「エリーゼのために」であの箇所を聴くと、自分は猛烈に反応します。(笑)


ピアノの先生にも、先生から教わる教本以外に、いま「エリーゼのために」に夢中になっているんです、と言って先生に披露したことがあった。


普段はやる気がない生徒だった自分からの思いがけない告白に先生も大層驚いてくれて、すごい褒められた。そして先生もこの曲を弾いてくれた。


そうしたら、あの箇所のあのコロコロ感、さすがであった。(笑)

45回転LPと同じだ!と思いました。


小学生時代にピアノを習っていた時代、自分がもっとも夢中になって、45回転LPのように上手に弾きたいと思って猛烈に練習した曲。。。それが「エリーゼのために」だったのである。


今日の小川典子さんの「エリーゼのために」を聴いたとき、普段は耳にすることのない曲なので、あまりに懐かしく思わず猛烈に反応してしまい、子供時代のあの風景が脳裏に走馬灯のように駆け巡りました。


もちろんあのコロコロ感の箇所も(笑)


いやいやながらやっていたピアノだったけれど、今思えば親にひたすら感謝の一言。子供時代に楽譜を読むという作業もやっていたおかげで、あれから何十年経過したいまでもなんとなくその感覚は覚えている。


スズキメソードではないけれど、やっぱり小さな子供の柔らかい脳のときに、こういうことは習得したほうがいいですね。それは別に音楽家ではない人生を歩んでいても、音楽に趣味として接していたとしても、大人になったいま役に立っていると感じます。


母親も自分がこの曲を家で弾いているとき、近所に聴かせたくて、そのときはいつも家の窓を全部オープンにしていたことを思い出します。(笑)


母親にはひたすら感謝です。


昨今の家庭事情により、母に対して尚更深い想いが。。。おお母よ!という感じです。





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大姫 [雑感]

源義経を主人公にしたドラマでは絶対登場しないのである。大姫は、源頼朝を中心に添えたドラマでないと登場しないヒロインなのである。


2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主要キャストが決まり、俄かに盛り上がってきた。来年でなく、まだ2年先のことなのに。(笑)


みんな魅力的な俳優さんばかりで、自分の期待通りのセンスの良さで大満足である。この中で、大姫役の南沙良さんは、自分の大姫に抱いているイメージ通りでいいと思った。


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楽しみである。


大姫というのは、歴史の教科書にもまず出てこないし、源頼朝の娘なので、頼朝を扱う物語でないと登場してこない人物である。


だからあまり知らない人が多いと思う。


でも自分にとって、頼朝鎌倉物語を語るうえでは、この大姫は欠かすことのできないとてもメモリアルな人物なのである。


大姫というのは、こんな人生を辿った人物である。



源頼朝と対立していた木曽義仲は、長男で当時11歳の木曽義高を人質として鎌倉に送り、当時6歳の大姫の婿とする事で頼朝と和議を結んだ。しかし頼朝と義仲の関係は破局し、翌年義仲は頼朝の送った軍によって都の郊外で敗死する。


頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決める。それを漏れ聞いた侍女たちから知らせを受けた大姫は、明け方に義高を女房姿にさせ、侍女たちが取り囲んで邸内から出し、ひづめに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出させる。


義高と同年の側近であった海野幸氏を身代わりとして、義高の寝床から髻を出し、義高が好んで幸氏といつも双六勝負していた場所で双六を打ち、その間殿中の人々はいつも通り義高が座っているように思っていたが、夜になって事が露見する。


頼朝は激怒して幸氏を召し捕り、堀親家以下軍を各所に派遣して義高を討ち取るように命じる。周章した大姫は魂を打ち消すほど打ちしおれてしまう。親家の郎党である藤内光澄が鎌倉に戻り、入間河原で義高を討ち取った旨を報告する。


この事は内密にされていたが、大姫の耳に入り、悲嘆のあまり水も喉を通らなくなるほどだった。政子は大姫が病床に伏し、日を追って憔悴していくのは義高を討ったためだと憤り、ひとえに討ち取った男の配慮が足りなかったせいだと頼朝に強く迫り、藤内光澄は晒し首にされた。


7歳であった大姫の心は深く傷付き、その後十余年を経ても義高への思いに囚われては床に伏す日々が続く。義高のための追善供養や読経、各寺院への祈祷などあらゆる手が尽くされたが効果はなかった。


大姫入内運動は、頼朝が通親・丹後局に利用され、結果的に朝廷の反幕府派の台頭を招く重大な結果をもたらした。頼朝は大姫の死後、次女・三幡の入内工作を進めて女御となるも、自身と三幡の相次ぐ病死で頓挫する。


それまで常に冷徹な政治家であった頼朝のこれらの最大の失策は父親としての思いからとも、娘を天皇の后に立て自らが外戚になるという、中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかった限界とも評されている。




自分も1979年(昭和54年)のNHK大河ドラマ「草燃える」で、この大姫の存在を知った。


大姫は、頼朝と政子の長女。木曽義高と恋におちるが、最終的には義高を父頼朝に誅され破局する。これが原因で精神を病み、若くして亡くなる。


そんな悲劇のヒロインなのだ。


当時の草燃えるでは、大姫の少女時代に西尾麻里さん、斉藤こず恵さん、そして大人時代に池上季実子さんが演じていた。


このときの池上季実子さんの熱演に自分はすっかり感情移入してしまい、大姫ってなんて可哀そうなのだろう、と子供心に相当悲しい気持ちになった。


なんというのかな、可哀そうというか、切ないというか、そんな安易な言葉ではとても表現し尽せない、複雑に絡まった愛情、いま思えば、当時16歳だった子供の自分は、大姫に心底恋に近い同情をしていたのかもしれない。


大姫はまさに悲劇のヒロインなのである。ずっと父・頼朝、母・政子に心を開くことなくその悲劇の人生を閉じた。


石坂浩二さんの頼朝も、岩下志麻さんの政子も、この大姫に対してはどうすることもできなかった。


それ以来自分はこの大姫役の池上季実子さんの大ファンになってしまった。
大姫といえば池上季実子さんなのである。

それ以来、他局のドラマなどで、池上季実子さんが出演するドラマの追っかけをしていたりした。


それだけ大姫役の池上季実子さんは当たり役だった。
衝撃だった。


この草燃えるの大姫役が池上季美子さんの大河デビューだったが、この鮮烈のデビューで2年後、4年後の大役を演じることになる。1981年「おんな太閤記」の茶々と1983年「徳川家康」の築山殿だ。3作とも凄絶な美しさを発揮している。


草燃えるで特に印象的だったのが、第30話の「大姫錯乱」。


都から、大姫(池上季実子)を帝の后にという話が持ち上がる。朝廷と鎌倉をつなぐため、頼朝はこの話に乗る。しかし、亡き義高を忘れられない大姫は重い病にかかってしまい、容態が回復しないまま。


大姫の容態が悪化。自ら髪も切り「小さな女の子に戻って義高さまと...」義高はおかっぱ頭が好きだったのだ。そして容態が回復することはなく大姫はその短い生涯を閉じる。20歳。


子供心に泣いた。


それ以来、自分は意外や歴史人物として知られていないこの大姫にすごく関心を持つようになったのである。頼朝鎌倉時代を語るうえでは、大姫は自分にとってとてもメモリアルな人物だったのである。


「鎌倉殿の13人」での大姫役は誰なのだろう?とすごく興味を持っていた。


南沙良さんは、若すぎる役者さん、タレントさんで自分はよくわからないのだけれど(笑)、写真のイメージから、とても大姫にぴったりの感じがして熱演をしてくれるものと期待してしまうのである。


まだ2年もあるけれど、いまから楽しみで楽しみで待ちきれない感じである。






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歳をとっていくとわかること。 [雑感]

mixiでSNS生活をはじめたときは、mixiには足跡機能というのがあって、誰が自分の日記を読みに来てくれたかを気にしていたりした。


いいねがいっぱいつくと嬉しくなるのは、もちろんだけれど、こういう感情と言うのは、自分くらい歳とってくると、いまやそんなことは本当にどうでもいいことに思ってしまう。


昔は40人くらい、いいね、がついたものですが、いまやどんどん去って行って、ほんの気心知れた7~8人くらいでしょうか?


いわゆる世間でいうところの”承認欲求”というものですね。

SNSで発信者を長年やっていると、誰しもが必ずもつこの”承認欲求”。
これが原因でケンカになったりもする。


でも自分が長年やってきて悟ってきたことは、そんなものに自分の感情が振り回されるのは、かなりエネルギーの消耗だと言えることだ。


自分が昨今悟っているのは、歳をとっていくにつれて去っていく友達はどんどん増えていくが、新しく友達をつくることはどんどん難しくなるということである。(笑)


これは自然界の理ですね。


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でも市場の反応をまったく無視し続けて、ひたすらマイペースで投稿するのも問題である。

受けなかったら、こういうのはダメなんだな、とか学習しないといけない。

昔の自分と違って、ちょっとは大人になったかなぁと思うところはそこだ。
ある程度考えるようになった。


だてに歳食っていないので、いわゆる人生の抽斗(ひきだし)というのが多いので、それでいままで日記生活をしてきたようなものだ。


でも気をつけないといけないことはマンネリにならないことだ。

自分の抽斗には限界があって、必然とマンネリ化してしまうのも仕方がない。


でもそこをなんかちょっと違った切り口で語るとか、このような能天気で楽天家に見えてもふだん考えているんですよ。(笑)


マンネリは、読み手側に疲弊感を与えますね。
活気がなくなります。


若いころは抽斗がないから、いま絶賛抽斗作成中というところだが、歳をとっていくと抽斗が多くなる分、それを使い切ったら、そこから新たに新しい抽斗を作る作業というのは、若いころと比較して、ガクンとペースが落ちる。


そこからマンネリという現象が始まってしまう。


歳をとってくると、そういうことを考えるので、そうならないように、歳を取ってもなるべく新しい世界を吸収して、自分の抽斗を増やすように努力する。


雑誌などで、売文業のプロの寄稿を読んだりすると、こういう世界は自分に向いているかなぁと考えることがある。


やはりテーマが決まっていて、それに合わせて、参考文献も参考にしながら、文章を煮詰めあげていくというのは、これはこれでかなり大変な作業である。そのテーマと訴えるポイントが合致していて、読者に感銘を与えるというのは、かなり重労働な仕事なのではないでしょうか?


そういう制約のない、自分の好きなことだけを、好きなタイミングで、思いついたときに書くという作業が自分には合っているのでは、とつくづく思う。


もちろん自分の好きなことだけを書いていくわがままな世界。(笑)


自分は不器用な人間なので、その枠に嵌るように自分を制御・変形させるのが苦手かもしれない。アーティスト評やコンサートレビューだって、自分が好きなアーティストだからこそ、いっぱい愛情をもって表現できるし、心底感動できるのだと思う。


プロはそんなことは言っていられない。
常に的確なジャッジを下さないといけない。平等に。


自分は不器用な人間だから、たぶん無理で疲れてしまい、すぐに根をあげてしまうだろう。文章を書くことが楽しくなくなり、仕事になってしまうといままでのような楽しんで書くということができなくなってしまうような気がする。


いまは自分が好きなこと、楽しいこと、自分フリーに書いているから、書くことが楽しいのだろうと思うわけです。


・・・なんてそんなことをつい最近考えている。


でも一皮むけて、そこを脱すれば、また別の新境地があるのかもしれませんが。。。


歳を取っても、つねに新しい抽斗をつくることに気を配って、歳を取っていきたいものです。(もちろん何十年経っても、まったく変わらないこの文体、そして視点にホッとするという価値観もあることはもちろんです。)


でも自分の場合、趣味の世界なんだから、あまりそんな面倒くさいこと考えずに好きなだけやっちゃえ~てな感じでいいのではないのでしょうか?(笑)










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金閣寺 [雑感]

京都の金閣寺、正式名、鹿苑寺は、おそらく京都観光でもっとも有名な観光スポットであろう。


自分も2016年の夏、秋の京都ツアーでは、訪問し、その美しさに感動した。同時に、この京都の定番観光スポットというのは、もう外国人によるインバウンド需要のメッカであることも実感したものである。


その2016年秋の紅葉シーズンの自分が撮影した金閣寺である。


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特にこの部分の建築を舎利殿(金閣)という。
創建者は、室町幕府三代将軍足利義満である。


舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。


そうである。ご存じのようにこの舎利殿(金閣)の部分は、1950年(昭和25年)7月2日未明に、放火されて焼失しているのである。


これはじつに衝撃的なニュースであった。


鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名・林養賢、京都府舞鶴市出身、1929年3月19日生まれ)が行方不明であることが判明し捜索が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕した。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。


新聞記者・福田定一こと後の作家・司馬遼太郎は、この事件の取材にいち早く駆けつけた。


気になる動機だが、


逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。


そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの作家により文学作品が創作された。一例として、三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。
 


1950年12月28日、犯人の林は京都地裁から懲役7年を言い渡されたのち服役したが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院、1956年(昭和31年)3月7日に26歳で病死した。



金閣を放火したこの事件を小説家したもので最も有名なのは、三島由紀夫の「金閣寺」。


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金閣寺 (新潮文庫)   (日本語) 文庫 – 2020/10/28 
三島 由紀夫 (著)



三島由紀夫の小説、いわゆるミシマ文学を一度読んでみたいとずっと思っていた。


自分は文学・小説の世界とは縁遠い人生を歩んできたので、お恥ずかしながら三島由紀夫の小説を読んだことがなかったのである。


修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風。純文学の象徴的な存在で、その文体は難解で、初心者には読みずらいという評を自分は信じていた。


自分には、かなり敷居が高いかなと思ってきたのだが、どうしても「金閣寺」は読んでみたくて、今回思い切って三島小説に挑戦してみたのである。


「金閣寺」は、三島の最も成功した代表作というだけでなく、近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされ、海外でも評価が高い作品である。


そんなこともあり、三島文学を読むなら、まず「金閣寺」を読みたい、というのも動機のひとつであった。三島由紀夫「金閣寺」は、予想を超えて、自分でもよく理解できたし、全然難解ではなかった。


犯人は溝口という名前で設定され、その放火に至るまでの心理描写など、かなりスリリングに読ませていただいた。幼いころ、父親から「金閣ほどこの世で美しいものはない」と教えられ、その後「金閣は燃やさねばならぬ」と決意するに至るまで。


三島の放火動機の推理は、「美に対する憧れと反感」。それと自分の吃音と不幸な生い立ちを巧妙に絡めさせて物語を創り上げていた。


金閣寺が放火され焼失したのは1950年7月。史料を基に金箔を貼って復元、再興されたのが1955年10月。そして三島が「新潮」で「金閣寺」の連載を開始したのが、明けて1956年1月。このタイミング。まさに三島が「金閣寺」を書く時期は、この時期にしかなかったのだろう。第十章からなり、連載は1章づつ、毎日同じ文量だった。


三島は1955年11月に京都に赴いたが、金閣寺の直接取材や面談は断られたため、同じ臨済宗異派の妙心寺に泊まり、若い修行僧の生活を調べた。金閣寺周辺取材について三島は、〈それこそ舐めるやうにスケッチして歩いた〉と語り、南禅寺、大谷大学、舞鶴近郊の成生岬、由良川河口も丹念に文章スケッチされ、五番町などは実際に遊廓の一軒に上がり、二階の部屋の内部の様子や、中庭に干された洗濯物までも詳細に記述されている。


さらに、どうやって調査したのか、直接取材を断られたにもかかわらず、金閣寺内の間取りや畳数を記した室内図や作業場内部の図まで克明に描かれている。


そうなのである!


この金閣寺内の間取りが小説で実際、犯人溝口が放火に至るときの描写として、かなり刻銘に記載されていて、驚きなのである。これどうやって調べたのかな?と思わず思ってしまうのである。


小説「金閣寺」は、やはり一個の文学作品であるから、当然、事件の真実とは違いますね。作中の人物はもとより、〈私〉の行動などは事実とはかなり異なるようである。


一例として、終結部分で、〈私〉は生きようとして小刀とカルモチン(催眠剤)を投げ捨てているが、林養賢は、山中でカルモチンを飲んだ上、小刀で切腹した(未遂に終わる)。。。とか。


そこはどうしてもひとつの文学作品として、完成度を上げていかないといけないところであるから、事実のままでは劇場性に足りず、どうしても脚色が必要ですね。


そして、自分がなによりも、事件の真実として違う、脚色を施している、と読んだときに思ったところは、犯人・溝口、すなわち「私」が、「焼く」のは復元後の「今」存在する金ピカの金閣寺であり、つまり未来の金閣である、というところである。1950年の煤けた金閣ではないのだ。


物語では、「金閣ほどこの世で美しいものはない」、「金閣を焼かねばならぬ」と至るところに、つねに現世での至上の最高美を誇る象徴として金閣が表現されている箇所が随所に見られるからである。


三島が「金閣寺」の小説を書き始めたのは、金ピカのいまの金閣寺が復元された1955年の翌年からの1956年から連載をスタートしている点だ。


つまり小説のドラマの脚色として、「最高の美しさを誇る金閣を燃やす」というところを強調することで、その精神異常性のきわどさを表現したかったのではないだろうか?


そのほうがより衝撃でドラマティックになるのではないか?と考えたのではないだろうか?


完璧な文学素人考えですが。(笑)


では焼失する前の金閣寺ってどんな感じだったのであろうか、ネットで拾い絵で集めてみた。


これが焼失前の金閣寺の真の姿である!!!

衝撃である!
全然金色ではなかった。(笑)


そりゃそうですよね。室町時代の足利義満の時代から、500年以上は軽く超えていますよね。当時は金ピカだったのかもしれませんが、それも剥げ落ち、こんな姿が真の姿だったのかも?


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そして放火され、焼失した後。


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金閣寺は、江戸時代や明治時代など何回も修繕されているようなので、室町時代の金閣寺はさらになにをかいわんやであろう。


この姿をみて、自分はかなりショックでした。(笑)


この三島由紀夫「金閣寺」を題材としたオペラも上演されています。


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2019年2月の東京二期会による「金閣寺」。
東京文化会館大ホール。


平成30年度文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)
2019都民芸術フェスティバル 参加公演

原作:三島由紀夫
台本:クラウス・H・ヘンネベルク
作曲:黛 敏郎
演出:宮本亜門


これは見たかったです。
滅多に上演されない非常にレアな演目なので、これを逃したら、本当にまた
いつ見れるかわからないですね。

自分は縁がなく、行けませんでした。
これは本当に悔いが残りました。


主人公の犯人溝口は、吃音だとオペラにならないから、腕などの身体障害で代替えだったような記憶があります。


いつになるかわかりませんが、今度上演されるときは、ぜひ行かないといけないオペラですね。



 

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勝負の世界で絶対やってはいけないこと [雑感]

プロ野球の世界で自分が学んだことは、勝負の世界では、その勝負の最中に相手を挑発するような発言は、なるべく慎んだほうがいいということだ。

子供時代に野球を見てきて、それを嫌と言うほど体験した。

そういう発言をすると、形勢が一気に逆転して、相手を元気づけさせてしまうからだ。自分が有利な形勢ほど、謙虚な姿勢がいい。

鮮烈な想い出としては、1989年の巨人×近鉄の日本シリーズ。
シリーズ序盤でいきなり近鉄の三連勝。

そしてその第三試合の試合後のインタビューで近鉄の加藤哲郎投手が、「巨人はロッテより弱い。」発言をして、翌日スポーツニュースは大々的に報道した。

後年、加藤投手はそんな発言はしていない。「自分はあくまでレギュラーシーズンの方が苦しかった。」と言っただけだ。

それをメディアが面白おかしくでっち上げた。

この一言が、巨人を奮い立たせた。

その後、近鉄に四連勝。三連敗のあとの四連勝で日本一になった。

もう加藤投手のその後の人生、大変であったろうと推測する。


新しいと言っても、ちょっと昔だけれど、野球の世界トーナメント戦WBCの第1回大会。イチロー選手が、韓国戦を前に、「ちょっと徹底的に違うレベルを見せつけたいと思います。」と答えて、翌日それが韓国内で大バッシングとなり、韓国は燃えた。

いきなり日本に対し韓国は2連勝。
もう韓国はざまぁみろ的な感じで自国内で大はしゃぎである。


結局決勝では、見事リベンジして日本が優勝したわけだが、それ以来日本×韓国戦は、どうしても宿命のライバルというか、熱くなってしまうのが常になってしまった。

スポーツには、ボクシングやプロレスのように、試合前の相手を挑発することが一種のショーになっている場合も多々あるけれど、基本は形勢が自分に有利なほど謙虚でいたほうがいい。

相手を怒らせないほうがいい。
相手を挑発して、世間を一気に敵に回さないほうがいい。

一気に流れが変わって形勢逆転するからである。
勝負の世界ってそんなものである。

高校野球で昔、早稲田実業と駒大苫小牧の決勝で、ハンカチ王子、斎藤祐樹投手とマー君こと田中将大投手の熾烈な投げ合いは、結局ハンカチ王子の斎藤投手に軍配が上がった。

でもその後のお互いの活躍ぶりはもう天と地の差なのはご存じの通りである。

このとき、マー君が余計なことをいっさい言わないことが自分は彼はやはり賢いと思うところなのである。斎藤投手のことをいっさいコメントしない。

もし侮辱というか、そういう挑発的な発言をしてしまえば、一気に世の中形勢逆転してマー君は苦境に追い込まれると思うのである。

そういう発言をすると、必ず自分に返ってきますね。

だからそのことにはいっさい触れない。
マー君は賢明な男だと思うのである。

将棋の世界でもそうですね。


藤井聡太くんは、まだ若いから、発言するときに、一瞬抑え込む、考えて発言するというセーブが、若いときはなかなか効かないから、つい本能的に挑発的な発言をしてしまうこともあり得るかもしれない。

でも彼は謙虚な性格だから、その心配はないと思いますが、でも人間ってわからない。そうすると一気に自分に返ってきて、形勢逆転という感じになってしまう。

勝負の世界は、一瞬でガラっと変わりますから。
怖い世界です。

自分が野球の世界で学んだことは、このことである。
これは実生活にも十分通用することと思います。


いままで野球は奥にしまっておいたけれど、広島×近鉄の日本シリーズの江夏の21球(9回裏ノーアウト満塁のピンチ)とか数々の名場面、じかにリアルタイムで見てました。

結構野球に関しては伝説の場面は、かならず立ち会ってきたような気がします。

でもいまやもう、あの頃のような野球に対する熱意はもうないです。





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mixi愛 [雑感]

エム5さんが、mixiの将来を悲観していたけれど、同感だ。

Facebook,Twitter,Instagramとか、ワールドワイドでインターナショナルなSNSと比べ ると、mixiはもはやロートル感いっぱい。

mixiがスタートした2003年頃は、日記を投稿する、それを友達どうしで楽しむ、結構斬 新なアイデアで楽しかった。


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自分は2009年に入会。
SNS生活11年目。結構自分の人生ガラ変しました。

でもFB,Twitter,Instagramの衝撃はすごかった。
技術の革新はすごい。mixiはどんどん追い越されていって、見る影もない。

唯一、mixiのほうが優れていると思うのは、イイネやコメントがついたら、スマホなら 一目瞭然に目の前に表示されるところであろうか?(笑)

mixiは友人同士だけのクローズドなコミュニティだけれど、FBやTwitterは、もう友人を超えた、完全なビジネス、広告のツールですよね。

mixiは、いま日記SNSなどでお金を儲けているのではなく、ゲームなどで生計を立てているけれど、もしこれが傾いて、mixiサービス終了となったら、自分は相当困ってしまう。

まず、なんといってもいままでの日記の財産が全部パーだ。
おそらくmixi側で日記をアーカイブしてくれるサービスを提供してくれるだろうけど・・・。

そして自分の日頃のストレスを発散させる場所を失うのは、もう言葉も見つからないだろう。

mixiなくなったら、本当に困ってしまうだろうな。

mixiさん、頑張ってこれからもよろしく頼みますよ。
経営方針には相談に乗りますから。(うそ。笑)

でも、Facebookがすべていいか、と言うと全然自分はそうは思わない。

Facebookは、自分の日記のスタイルに合わないと感じる。

まず、過去の投稿日記をきちんと管理できない。
書きっぱなしなのである。


mixiやブログはきちんと過去投稿分は整理されていて、アクセスしやすい。

そして、FBは写真を挟んだりする構成ができないのが自分のスタイルに合わないと思う。

mixiやブログは、文章を書いている途中で写真を挟んでいく。
そのほうが、読んでいくペースに合わせて、写真を見るから、流れがつかめる。

FBは、まず文章があって、写真はまとめて下にあって、それをいちいち開かないといけない。それが何十枚もあったら、まず開こうと思わないです。(笑)

文章と写真が切り離されているので、リアルタイム性がかなり失われるのです。
これは自分の日記スタイルにとって、かなり致命的。

これが自分には一番嫌です。

FBは、やはり”いま”をつぶやく、つぶやきのロングバージョンのように感じる。

自分のような、あまり”いま”の時間軸に捉われない日記には合わないのです。

mixiやブログは、日記にタイトルをつけることができて、ひとつの作品として扱ってくれるので、自分の日記のスタイルに合うのです。


2014年あたりから、日記を書くときは、必ずメモ帳に下書きするようにしています。
メモ帳で全然十分です。



直接mixiやFBの投稿欄に直接書いていると、あるときにアクシデントで、パッと消えてしまう事故があって、あ~~~~となってしまうので、それは危険だからやめたほうがいいです。

かならずメモ帳に書いて、それを全文コピーして、投稿欄にペーストすればいいのです。
こうやれば事故ることはまずないです。

しかも日記ひとつにメモ帳ひとつで、日記のタイトルと同じタイトルをつけて、フォルダに管理しておけばいいのです。

そうすると自分の過去の投稿分と同数のメモ帳があって、過去日記が管理保存されているのです。

だからもしmixiやブログがアクシデントで過去日記が全部フリーズして開かなくなっても、その内容は、ちゃんとメモ帳でバックアップされているから、再投稿、再現は可能なのです。

心の安心度からこうすることをお勧めします。

でもメモ帳で下書きしていても、滅多にありませんが、ときどきなんかのボタンを押した拍子で全部書いた内容がクリアになることもあります。

自分はいままで1回だけありました。メモ帳下書きは安心ですが、それでもそういうことがあるのです。

そういうときはつねにバックアップ(コピー)を取っておくことが必須です。

長文の日記を書けば、書くほど、途中で消えてしまうのが心配になるので、途中でバックアップを必ずとっておきます。

これが日記を書いていくうえでの必須マナーです。

PCの世界でバックアップはもう常識ですね。

自分の会社での仕事は、Excelが仕事道具なのですが、それも7年間分のデータ量を全部扱う大容量のファイルになりますので、つねに何重にもバックアップしておきます。

もし使用中にファイルが壊れてしまったら、もうそれで7年間の苦労が全部水の泡になるからです。作り直し、やり直しは不可能です。

PCのHDDもそうですね。クラッシュしたら、もう写真データとか全部パーなので、必ず外付けHDDでバックアップを取っておきます。

mixiを始めた2009年からの下書きメモ帳はさすがにないけれど、2014年からはそうやってメモ帳の原稿を保管してあるので、もしものときは大丈夫です。

でもそれぞれの日記に写真を選択して挟んでいくのがかなり苦痛だとは思いますが。


mixiは、ゴローさんがご存命のときは、本当に夢中になっていた時期だったけれど、お亡くなりになってから、もうみんなあの頃の熱意はなくなりましたね。(笑)

あのときはよかった・・・です。(笑)

その後、みんなそれぞれの人生があって、mixiの活気はもうほとんどないと言っていいのではないでしょうか?(笑)

寂しい限りです。

でも自分にとって、mixiがなくなってしまうと、やはり困っちゃうので、なんとかサービス終了とならないように頑張ってほしいと思います。









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千駄ヶ谷は将棋の街 [雑感]

東京渋谷・千駄ヶ谷に来るなんて何年振りであろう。おそらく就職で上京当時に、友人と千駄ヶ谷の東京体育館のプールに泳ぎに通っていたとき以来ではないだろうか?毎週通っていました。


この千駄ヶ谷に東京・将棋会館、日本将棋連盟がある。将棋会館は、大阪や名古屋にも支部があるみたいだが、ここ東京・千駄ヶ谷が本部である。プロ棋士の所属する本部を一度拝見したいと思ったのである。


この将棋会館では、順位戦をはじめ、多くの公式戦の対局が行われ、そしてその対局中の昼・夜の食事休憩時のときに棋士たちが出前を頼む、いわゆる”勝負メシ”のお店がこの千駄ヶ谷の将棋会館の周りにたくさん存在する。


まさに将棋の文化とともに栄えてきた街なのである。


千駄ヶ谷は将棋の街なのだ。


東京に来てからこのご本尊の街に一度も来ていないのは、心残りで、昨今の将棋ブームにあやかって一度来てみようと思ったのである。


いわゆる聖地巡礼である。


JR総武線の千駄ヶ谷駅で下車すると、いきなりこのようなものが。


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この駒は、この千駄ヶ谷に本部が置かれている日本将棋連盟協力のもと、1980年に制作したものである。表面の「王将」の文字は、故・大山康晴十五世名人の書で、裏面には千駄ヶ谷駅の由来が彫られている。


日本将棋連盟の本部がある将棋会館内には、プロ棋士の公式戦が行われる「対局場」の他、お客様同士で将棋が指せる「道場」がある。


日本将棋連盟、東京・将棋会館のHPで確認すると、3階以上は、対局場になっていて、一般人は立ち入り禁止になっているのだが、1階は将棋グッズ関係の販売店、2階が道場になっていて、ここは一般人が入れるみたいなのだ。


よっしゃ!これは行こう!

思いついたら即実行である。


東京・将棋会館は街の奥に入った目立たないところにあった。


東京・将棋会館

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入ると、いきなり大山康晴十五世名人の彫刻肖像画がありました。


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エントランスはこんな感じ。


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入ったら、すぐに将棋グッズの販売店がある。


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いろいろ細かく物色していこう。


プロ棋士の販促グッズで一番有名なのは、この扇子ですね。


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棋士が対局中に、この扇子を持ってパチンとやったりするのだ。


自分は子供の頃、中原誠名人の扇子が欲しくて、欲しくて、将棋会館に注文したことがあった。当時ネットECとかある訳ないので、どうやって送金したのか、全然覚えていないのだが、送られてきたときは、嬉しくて、子供心にプチ宝物であった。


書いてあった文字は、40年以上前の自分の記憶では、確か”誠”だったような気がする。


中原さんグッズは、掛け軸と色紙があった。


中原さんの掛け軸 ”無心”、称号は永世十段。

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中原さんの色紙。”盤上天地”、称号は十六世名人。

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藤井くんの扇子もある。
”大志”

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藤井くんは、いまや将棋界の稼ぎ頭であるから、藤井グッズはたくさんありました。


数々の貴重な写真も展示されていました。

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中原誠、大山康晴、米長邦雄、加藤一二三。


この写真の数々を見て、やっぱり将棋といえば、この世代だよな、とちょっとオジサン目線ですみません。


将棋の駒。
143,000円。じゅ、じゅうよんまん!!(滝汗)

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将棋盤
50万から100万。ひゃ、ひゃくまん!!(滝汗)

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ひぇ~、やはり道具からしていいものを使うと、それだけ気が入って強くなるんでしょうね。



本も買いました。
加藤一二三九段と渡辺明三冠(名人、棋王、王将)による
「天才の考え方」これが天才たちの頭の中だ!藤井聡太とは何者か?


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2階の道場にも寄ってみました。


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なんか普通の雑居ビルみたいですね。(笑)
自動販売機がすごく多かったのが印象的でした。
このショットの裏側にもたくさんの自販機があります。
やっぱり対局中はどうしても飲料が必要なのでしょうね。



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この道場では、一般人でも誰でも好きにふらっと寄って、見ず知らずの人と対局できる仕組みです。本当に将棋の好きな人は、そうそう相手も見つけるのは大変ですが、ここにこれば、本当に将棋好きな人なら誰でも相手を見つけられる仕組みですね。


ボクもちらっと寄って見学だけのつもりで入りましたが、いきなり入り口の係の人に、「5分くらい待ってください。」と言われました。きっと相手ができるまで5分という意味なのでしょう。慌てて出てきました。(笑)



この将棋会館の対局場で、プロ棋士たちは順位戦など、日々戦い、精進して生活していく、まさに厳しい勝負の世界を繰り広げていくわけだ。



この将棋会館では、自分の子供の頃にどうしても忘れられない対局がおこなわれた。
自分の心の根の深いところに鮮明に刻まれている。絶対に忘れることができない。


中原誠名人×加藤一二三十段の第40期名人戦


中原名人9連覇で、ついに名人位10連覇か!という1982年。自分が忘れもしない高校生3年生。


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名人戦というのは、普通七番勝負、先に四勝したほうが勝ちだ。でもこの戦いは持将棋に千日手2回と決着がつかない戦いが3回もあって、全部で十戦も戦った。名人戦のようなタイトル戦は、普通は旅館などを貸し切ってやるものなのだが、ここまでもつれるとは誰も思わず、旅館の予約が出来ず、最終戦は、ふつうの将棋会館でやる羽目になったのだ。


いまのようにネット中継とかなかった時代だから、もうドキドキしながらずっとその結果を待っていた感じである。


最終日も深夜におよぶ大熱戦の末、加藤さんが中原さんを撃破して、ついに中原名人十連覇を阻止。


加藤一二三新名人の誕生となった。


これは本当に悔しかったねぇ。いまでも忘れられないです。


加藤さんがこれほど輝いて見えたときはなかったです。
当時の将棋界でかなり衝撃的なできごとでした。


9年間も名人はずっと中原さんの中原時代だっだから、自分には加藤名人というのがどうしても受け入れ難かったです。


自分はこの頃の凄い加藤さんのことをよく知っているから、とても”ひふみん”とは呼べないです。(笑)


加藤一二三さんは本当に凄い棋士だったのである。


藤井くんが六十数年ぶりに次々と破る年少記録は、全部加藤さんが打ち立てていたもの。「神武以来の大天才」と呼ばれ、いかに加藤さんがすごい記録を持っていたか、ということが藤井くんがその記録を破ったときに、はじめていまわかる、みんなに認知されるという感じなのだ。


加藤さんの偉大さがよくわかる。


やはり中原誠、大山康晴、米長邦雄、加藤一二三の面々が、自分の時代の絶対的な将棋界の象徴だった。


加藤さんは、その当時からいい意味でちょっと変わっている人というか、ちょっと天然入っている感じで愛されるキャラクターでした。


その40期名人戦でも、1日目の対局が終わって封じ手が済んだら、中原さんも加藤さんも囲碁が好きだから、夜のオフに2人で囲碁対局をやったりしたそうですが、「本番勝負でもない、ただの遊びの囲碁なのに、加藤さん、すごい長考するんだよね。(笑)」って中原さんがなんかのインタビューで答えていたのをよく覚えています。


当時からそういう天然入ったキャラクターだったので、いまの”ひふみん”路線はあながち無理筋ではない想定できた路線だったのかもしれないと、いま自分は思います。



今回、将棋会館を訪れるにあたって、もうひとつの楽しみがあった。


それは将棋会館で棋士たちが対局中の昼・夜の食事休憩をするとき、いわゆる出前を取る訳だが、これは将棋界の業界用語で、”勝負メシ”と呼ぶ。


加藤さんは、棋士生活60年に及んで、一貫してずっと昼も夜もうな重だったのである。1局も例外がなかった。これはとても有名な話である。


自分は、この加藤さんが愛したうな重をどうしても今回味わいたいと思ったのである。


いまでは、インターネット中継で、棋士が昼ごはん・夜ご飯に何を頼むかは視聴者のクイズになるほどの人気コンテンツになっているらしい。(笑)


将棋界では2016年から対局中の外出を禁止しており(スマートフォンなどによるカンニング防止の一環)、昼食や夜食に出前を取る棋士が増えた。


将棋の話題によく出てくるお店と、棋士の注文などで名物になったメニューが以下である。全部、千駄ヶ谷の将棋会館のそばのお店たちばかりである。



●みろく庵


将棋の勝負メシの定番店である。昼はそば屋、夜は居酒屋として営業している。藤井四段が新記録の29連勝目で食べた「豚キムチうどん」が話題になったことで有名。


●そば ほそ島や


蕎麦とカレーのセットが人気という蕎麦屋「ほそ島や」。このお店では、羽生世代のトッププレイヤーの一人・丸山九段がタイトル戦の挑戦者決定戦の夕食で、冷やし中華のチャーシュー3枚増し(計5枚)を2杯頼んだことが伝説になっている。(笑)


●千寿司


実は、将棋界にはこの店の特上にぎりをサビ抜きで食べる棋士が多いと言われている。勝負の世界なので、強い棋士の真似をしたのかもしれないし、何かのげんかつぎなのかもしれないが、その真偽は不明である。


●紫金飯店 原宿店


ボリュームたっぷりで創業50年を誇るこちらのお店。藤井四段の29連勝目の食事として話題になったお店である。夕食に藤井四段はこちらで五目チャーハンを注文し、品切れだということでワンタン麺を頼んだ。


将棋ブームで繁盛する老舗店


千駄ヶ谷には、長い間経営しているお店が多く、そもそものファンもいるのだが、昨今の将棋ブームで「棋士と同じメニューを頼みたい」と訪れるファンも増えてきているのだそうだ。


また、棋士の頼むメニューはトッピングや量が個性的でもあり、思わず真似したくなってしまうのが特徴だそうだ。まさに将棋ブームで繁盛する千駄ヶ谷の老舗店、というところであろうか。


情報引用元:【棋士とメシ】名人ほど食事がユニーク?将棋関係者が愛する聖地・千駄ヶ谷の名店たち




そしてボクの今回の最大の目的である加藤一二三九段が愛した、うなぎのふじもとをここに紹介しよう。”うなぎのふじもと”は、将棋会館の近く、歩いて5分くらいのところにある。


うなぎのふじもと。


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店内。


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加藤一二三九段のうなぎ好きは有名。この”ふじもと”で、昼はうな重の竹を、夜は松を食べるのが「定跡」だったそう。


彼が約40年もの間、愛用しているお店が、ここ”ふじもと”なのである。
また、米長邦雄さんも愛したと言われている。


これが今回の最大ミッションだったかもしれません。(笑)


女将さんに、「じつは将棋会館の聖地巡礼にきたついでに加藤さんが贔屓のこのお店に来たんです。」と話しかけたら、「あらぁ~そうなんですか?うれしいわぁ~」ってたいそう喜んでくれました。


すごい話が弾んで、


「スポーツで野球やサッカーが流行れば、自分の子供にそれを目指せさせるとか、最近は将棋ブームだから、じゃあ子供にはプロ棋士にさせよう、とか世の中の親ってかなり単純なのよね~。(笑)ほら、将棋をやらせれば子供の頭がよくなると思っている人多いんですよ。(笑)」


「つい最近、羽生さんも寄ってくれたんですよ。羽生さんはテレビで見ると大きく見えるけれど、実際お会いするととても小柄な方で驚きました。」


棋士って対局中は、カメラで映されると、とても大きな偉大な人に見えるけれど、実際お会いすると、本当に思ったほど大きくなく小柄で驚くんでしょうね。


女将さんは、加藤さんが来店してくれたときに、将棋盤にサインをしてくれたのを見せてくれた。


「喜んで生きる。加藤一二三」

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羽生さんもこの将棋盤にサインしてくれて、でもそのとき小さなペンしかなかったから、こんな感じで失敗したわ。(笑)

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そして、これが、加藤一二三さんが愛した”ふじもと”のうな重の”松”
4800円!!!


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いやぁ本当に美味しかったです。


自分もうな重を食べ始めたのは、つい最近の10年ぶりで、うな重ってこんなに美味しいものなのか!という感じでちょっとマイブーム。


でもUberEatsのお取り寄せで頼むおらが街の1980円のうな重とは、もう天と地の違い。もううなぎの味、香りからして全然違うという感じです。


やっぱり高級品は全然基本が違う。

本当に美味しかったです。


藤井くんが四段になり、プロデビュー戦が最年長の加藤一二三九段との対戦。

加藤さんはこの対局に負けて、引退を決めた。

ここから藤井くんの連勝が始まって、藤井フィーバーが始まり、
その一方で加藤さんは引退し、”ひふみん”としてメディア界で大活躍することになった。


新しいスターが生まれて、入れ替わりに巨星が去っていく。


ひとつの時代が大きく移り変わった瞬間ですね。


もう藤井くんのことでコメント、解説するのは、いまや加藤さんの役割。

加藤さん言うには、藤井くんの仕事しか来ない、と言っていますが。(笑)


ひふみん、藤井二冠と対戦したら「互角に戦えます、控えめに言って」。「まだ(藤井二冠は)2つぐらい研究してない形があるんです、身につけてない形がある。」


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これは最高に嬉しかったねぇ。やはりこうでなくっちゃ。新しい強いスターが出てきて躍進中のとき、そこに冷や水を浴びせるような存在がいなくっちゃ面白くありませんね。


それは加藤さんくらいの実績、立場だから説得力がありますね。


加藤さんがSNSや、報道で話すコメントが、すごく沁みますね。


厳しい勝負の世界に生きていたからこそ、わかるような、本当に悟りの境地というか、本当に自分に響いてくる言葉の数々、心に染みます。


加藤さんはクラシック音楽にも大変造詣が深くて、最近、音楽の友でインタビューを受けていましたね。


ひふみん、加藤さん、ぜひ今後も末永く頑張って、将棋界の使徒として頑張ってほしいです。



最後に、スポーツ雑誌Numberが将棋特集を組んで話題になった。


「棋士もアスリートである。」


初日即完売で大変な話題になり、自分も増版でやっと入手しました。

とても興味深く楽しく拝読しました。


自分が食い入るように読んだのは、もちろんこちら。


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中原さん、お元気そうでなによりでした。
近影を見れてうれしかったです。

いまは趣味の囲碁と競馬で悠々自適の毎日のようです。

「18歳の羽生と藤井」という命題で語っています。


その他、佐藤康光が語る、「大名人、この一局。」が面白かったですね。


「中原先生は、AIの影響を受けた現代の将棋に一番融合しそうな気がします。何より大局観がすごい。全体のバランス感覚というか、手の作り方、主導権の握り方が卓越していますね。」


「自分の将棋に「絶対」の自信を持たれているのが、加藤先生です。他の棋士の参考にされたイメージがまったく感じられません。」


さすが同業者のプロから見るところは、鋭いところを突いているなと思います。読んでいて感心したところです。


確かに、中原さんのバランス感覚は自分も憧れましたね。


受けの〇〇、とか攻めの〇〇とか、極端に個性の強い棋風という感じでなく、いわゆる本当に自然流で、本当にバランスがいいんですよね。それで相手のアクの強い形をどんどん破っていくところがすごい格好良かったです。



自分の時代になくていまあるのが、棋士がAIを駆使するようになったということ。


でも自分が思うのは、将棋って、いろいろな強烈な個性を持つ人間棋士同士の戦いだからこそ、そこに、その個性のぶつかり合いというドラマが生まれるわけで、観ていてそこに面白さを感じるわけです。


将棋を知らない人でも、この棋士とこの棋士との戦いに、勝ち負けがついて、そこにドラマを感じて面白く感じるのではないでしょうか?


そこに表情のないプログラミングされた正しい棋譜だけの世界では、そのような面白味を作り出すことはできませんね。


AIはあくまで棋士のトレーニングのためのツールという位置づけなのではないのでしょうか?








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東京音楽大学の代官山キャンパスのカフェ [雑感]

渋谷愛の日記を書いたとき、ブログの読者から中目黒・代官山に東京音楽大学の新キャンパスが去年の2019年4月に新しくできて、そこのカフェや学食レストランがとても素敵だという情報をもらった。


カフェや学食レストランは、一般の方も利用できるのだそうだ。


へぇー、それはぜひ行ってみたいなーと思っていた。


東横線ユーザーからすると、東横線の街に音大ができるなんて、ほんとかなーと思ったがネットで調べてみると本当だ。


なんかうれしいです。


代官山は、東横線きってのお洒落な街の代表的なところですからね。

東京音楽大学は、日本の音大の中でも最古100年の歴史があり、伝統ある音大だ。
自分の周辺も東京音大卒業の音楽家や、教鞭をとられている音楽家の方も多く、馴染みが深い。


池袋キャンパスと代官山キャンパスとの2つのキャンパスがあって、代官山キャンパスは中目黒駅と代官山駅からそれぞれ徒歩約5分という立地のよさに加え、とても豊かな緑の中にあって、芸術性・創造性を育む環境である。


60室以上の練習室、80室以上のレッスン室、大・中・小教室、クリエイティブラボなど、「音」に集中できる優れた環境で、学生たちの学修意欲・創作意欲、また研究意欲を大いに刺激する・・・のだそうである。


東京音楽大学 代官山キャンパス


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東京音楽大学 Tokyo College of Musicで通称TCMというんですね。


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代官山と中目黒のちょうど中間地のところのロケーションにあって、よくこのような都心のど真ん中に音大を建てるだけの敷地を確保できたなーと思っていたが、実際行ってみるとキャンパスの敷地はそんなに広いとは言えず、それなりのコンパクトに収まったキャンパスと言えそうだ。


とにかく新キャンパスということで、とても近代的な建物ですごいお洒落である。音大らしい洗練された感じのキャンパスだと思った。


そして構内の植樹のバランスが素敵で、キャンパスの中をとても緑が映えていて、いい環境だと思いました。とても都内のど真ん中とは思えない自然溢れるキャンパスだと思います。


正門のところに、学生課のある校舎がありますね。


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キャンパスの中心地がこのような近代的な校舎で美しい。


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TCMホール。キャンパスのコンサートホールですね。ここで学生たちが披露演奏会をやるのでしょう。ぜひその演奏会聴いてみたいです。


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今回の目的は、この代官山キャンパスのカフェがとても素敵だという情報で、そこを体験してみたかった。学生だけじゃなくて、一般の方も利用できるという話であったが、やはり学生の中でちょっと浮く感じでいやだなぁとも思ったけれど、もう全然、子供を引き連れた奥さんとか、初老夫婦とか、本当に普通の一般の方がふつうに利用しているので、よかった。


代官山キャンパスにはDEAN & DELUCAがプロデュースしたレストラン(学食)と、DEAN & DELUCAのカフェが併設されていて、学生ではない一般の方も利用可能なのである。


DEAN & DELUCAがプロデュースしたカフェ。


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とにかく広い。120席以上あるので、座れないということはなさそうである。電源&WiFi完備で、音大生がみんなパソコンを持ち込んで勉強している。


内装はやはりとても素敵ですね。


みんな勉強していますね。ここにいる音大生たちは、将来の音楽家の卵たち。将来サントリーホールやミューザ川崎で、その演奏会を聴けることを期待しています。頑張ってください!


天井が剥き出しで、成田空港第3ターミナルを思い出しますね。(笑)


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一番奥には、くつろぎスペースもあるんですね。
ここで寝転がって休んだりというスペースみたいです。


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外のテラスでは学生が勉強していました。


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やっぱり学生っていいですね。自分はずっと何十年も、儲かってなんぼのすれっ辛い社会で働いてきたので、なんかこういう学生の中にいるとホッとするというか、心温まりますよね。


このカフェ内の学生を眺めていると、彼らはとても純真に見える。いま夢と希望を持って、これから社会に飛び込んでいく。世間の厳しさをまだ知ることなく、社会人のように萎縮していなくて、非常になんかのびのびしていますよね。


自分の忘れていた部分を思い出します。


学生といっしょに話したりすると、自分も若返るんでしょうね。

還暦後に音大で音楽の勉強してみたいです。(笑)


ここでは、モカチョコケーキと水出しアイスコーヒーを頼みました。
美味しかったです。


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もうひとつの目的である、これまた同じDEAN & DELUCAがプロデュースした学食レストランも体験したいと思いました。


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ところが残念ながら、いま大学は、新型コロナウィルスのせいか、夏休みのせいか、わかりませんが、お休みなんだそうです。だから学食もやっていませんでした。


ガラス張りの中を覗いてみると、図書館と学食がいっしょになっている広いスペースのように思えました。やっていなくて、誠に残念。


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ちなみにネットから拾ってきた写真によると、学食レストランはこのような感じだそうです。


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オシャレなカフェに美味しい学食レストラン・・・

またチャレンジしたいです。


キャンパス内をプラプラしてみましたが、さすがに大学自体がお休みですので、ガランと人がまったくいませんでしたが、アーティストの卵たちがポートレート用の写真なのか、フォトグラファーと写真を撮っている姿を何人も見かけました。


中にはこんなものを発見。(笑)


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やっぱり学生だな~。(笑)こんなところにそのまま荷物を置いたまま、どこか行っちゃうなんて。のびのびしていますね。微笑ましいです。海外でスリ、置き引きの危険性をいやと味わってきた自分からすると信じられないくらい微笑まし過ぎです。



新型コロナで、大学も閉鎖でオンライン講座の方針で進めていく大学が多いですね。


最近見た記事では、このままオンライン化が進むと、大学キャンパスとか教室とか不要になる、教員も大幅削減の時代が来るような危機を煽る記事を見かけます。一瞬そう感じるかもしれませんが、やっぱり大学生にとって、大学時代の想い出というのは、この美しい大学キャンパスが脳裏に刻まれて、そして仲間とともにいっしょにその瞬間を楽しむ、勉学にいそしむ、生活していくから、それが鮮明な美しい想い出として脳に刻まれて、一生の思い出になるのではないでしょうか?


それは絶対オンラインでは代替えできませんね。


大学生活はキャンパスで過ごすから、美しい想い出として脳裏に刻まれるのです。


自分の大学時代も、人生で一番楽しかった瞬間で、脳裏には鮮明に自然や緑豊かなキャンパスの背景とともに仲間といっしょに過ごした想い出がいっぱい詰まっています。


これはそれぞれの人の大切な宝なのではないでしょうか?

それは絶対オンラインでは実現できませんね。







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棋士のプライド [雑感]

自分は、中原・米長時代の人なので、谷川浩司以降、羽生善治、森内俊之の時代を知らない。


その中で羽生善治さんは、まさに将棋界のすべてのタイトルにおいて、永世位を獲得という前代未聞の大記録を達成して、まさに羽生王国の一時代を築いた。これで国民栄誉賞も獲得しましたね。


いまの将棋界のタイトルは、


名人
竜王
王将
王座
王位
棋聖
棋王


だそうですね。ボクの時代には十段というタイトルがありました。(その代わり、竜王というのがなかった。)


将棋タイトル戦の主催スポンサーは新聞社ですね。


将棋界の場合、この中で最も歴史があり、権威があるのは、名人である。

名人戦の挑戦者になるには、順位戦リーグというのに所属しないといけない。
A級→B級→C級・・・など。


名人以外のタイトルは、たとえばトーナメントやリーグ戦などで実力さえあれば、どんなに若くても挑戦者になってタイトル挑戦できるのだが、名人だけは違う。


これはもう年功序列なのだ。


プロ棋士になって四段からスタートして、一番下のクラスの順位戦で勝って、成績とともに昇級していくわけだ。(だから自然と年齢を食ってしまう。)


名人に挑戦できるのは、A級順位戦、つまり八段以上の資格がないとダメなのだ。つまり棋士の段位と直結しているのが、順位戦なのだ。


将棋の世界で名人が特別の権威なのは、その棋士の段位、この年功序列的なシステムによるところが多い。


サッカーでいうJリーグのJ1,J2と同じで、降級がある。A級順位戦に所属していても、成績が悪ければ、B級→C級とどんどん降級してしまう。名人に挑戦できるのは、A級順位戦の優勝者なのである。


藤井くんは18歳だから、まだ名人位には挑戦できない。
他のタイトルなら可能だろう。


でも最近藤井くんは八段になったらしいから、A級順位戦リーグに昇格ということなのかな?


そして永世位というのは、そのタイトルを通算で5期保持した場合に、その棋士にその称号が与えられる。たとえば永世名人、永世棋聖、永世十段、永世王将、などなど。


名人は特に特別で、実力性名人になってから、世襲制というか木村義雄永世十四世名人、大山康晴永世十五世名人、中原誠永世十六世名人、谷川浩司永世十七世名人、森内俊之永世十八世名人、羽生善治永世十九世名人という感じで最高のステータスとして扱われる。


将棋界は名人位が最高の権威なのである。


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羽生善治棋士は、この将棋界の全七タイトルについて、すべて通算5期以上保持して、この全七タイトルについて、すべて永世位を持っているということだ。


これは将棋を知っている人なら、どんなに凄いことなのか?とにかく愕然とすることなのだ。まさに羽生王国、羽生時代と言っていいだろう。


自分は羽生棋士のこの快挙をニュースで知って、その前から羽生時代は漏れ聞こえてきたので、驚愕したものの、やっぱり記録はどんどん塗り替えられるものだなぁと感心した。


だが、自分が羽生棋士について、もっとも感動させられたことは、もっと違うことだった。


将棋棋士は普通段位で呼称されるが、タイトルホルダーの場合は、そのタイトルの冠で呼ばれる。でも無冠になってしまった場合は、順位戦のクラスに応じて、ふつうの段位の呼称に戻る。


大山康晴、中原誠、米長邦雄とか、過去のタイトルホルダーの常連で一時代を築いた棋士は、無冠になったときの扱いが難しいのである。


大山康晴さんや中原誠さんのように永世名人を含め、常にタイトルホルダー常連だった人が無冠になってA級順位戦に出戻ってしまった場合、彼らを九段と呼べるだろうか?


やはりそこは普通の人間の感性なら、とてもそういう失礼、無礼なことはできない。そこはなにかしらの配慮をするものなのである。


中原誠さんの場合、1994年、当時の肩書きであった「前名人」を失う際、それまでの実績からして「九段」とは呼べないということで、特例で「十六世名人」を現役のうちから襲位させるかどうか話し合いが行われた。


その結果、十六世襲位は見送られたが、代わりに「永世十段」を名乗ることで落ち着いた。


2007年11月17日、永世名人資格を取得して30年が経過したのを機に、また、森内俊之が十八世名人の資格を得たことや引退の期日(規定による)をあと数年に控えていることもあり、理事会が十六世名人襲位を提案し中原さん本人が了承。前倒しで現役のまま襲位した。1993年に無冠となってから、実に14年後のことであった。


大山康晴さんの場合は、十五世名人、米長邦雄さんは永世棋聖である。


やはり一時代を築いてきた棋士には、もし永世位を持っているならば、その名誉を尊重して、九段と呼ばずに、そういう永世位で呼ぶなどの配慮をするものなのだ。


やっぱり将棋の世界って全盛期で本当に活躍できるのは、その棋士人生にとってのほんの一時期。棋士の晩年というのは、A級順位戦からB級順位戦へ降格、さらにC級に降格。・・・そして引退。


実力、勝負の世界だから、本当にそれが厳しい現実。高齢になるほど身の置き方を考えないといけない。


だから自分は棋士の晩年の戦歴は見たくないのである。


どんなに高齢になっても、いかに長い期間A級順位戦やB級順位戦に踏みとどまっていられるか、ということである。


そういう意味でひふみん、加藤一二三さんは、若い時から引退までの長期間踏みとどまっていたという点で本当に素晴らしいのである。


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自分は羽生善治棋士にしこたま驚いたのは、彼がとうとう27年ぶりについに無冠になってしまって、A級順位戦に出戻ってしまったとき、将棋連盟はその輝かしい戦歴を配慮して、永世位で名乗ることを本人に勧めた。なにせ全七タイトルについて、全部永世位を持っているのだから、問題ないだろう。


ところが羽生棋士はそれを断ったのである!!!


羽生善治棋士は、通常通り、羽生善治九段として呼んでほしい。
自分にとってもう一度原点に戻って新たなスタートして、九段位でリスタートしたい。


オレは感動したよ!!!


羽生善治、男だなぁ~!


自分の世代にとって、羽生善治棋士は、どうしても新世代の棋士に思えてしまい、どこか没入できないところがあったのだけれど、この一件で、見直したというか、やっぱりタダモノではない、その大物ぶりにしこたま驚いたのでした。


それ以降自分にとって新世代棋士としては、やはり羽生善治棋士を応援したいと思うようになりました。


自分はこういう男気があるタイプの男が大好きです。


いままで地味だった将棋界を一気にメディアで取り扱われるようになって、明るい話題になったのは、藤井聡太くんのおかげであることは間違いない。


どんどん頑張ってほしい。


でも羽生善治棋士、全盛期が過ぎたなどという心ない戯言などぶっとばして、さらにもう一花咲かせてほしい。








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中原・米長時代 [雑感]

ライバルの存在が実力を伸ばす。


大山vs升田、中原vs米長、谷川vs羽生・・・藤井2冠の“令和の名勝負”に期待。


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1968年、第27期将棋の名人戦で対局する挑戦者の升田幸三九段(左)と大山康晴名人


ただいま藤井聡太2冠で将棋界も大フィーバーだけれど、結構この記事は心にグサッと刺さった。


まさしくそうだよなぁ。


まさに”令和の名勝負”をやる相手ライバルが出てきてほしいと思う。8大タイトルのうち、ほとんどのタイトル戦を藤井×ライバルで占領するみたいな。そしてそれが後世に伝えられるみたいな緊張感、大勝負になる感じになってほしいです。


自分は将棋が大好きだったのは、小学生、中学生、高校生のときで、そのときの将棋界は必ずその世代を一世風靡するライバル同士というものがあった。お互いを切磋琢磨していくそういうライバル関係ですね。


いまの棋士はとても爽やかで穏やかで、人から妬まれたりとか、嫌われたりなんていう世界とは縁遠いスマートな棋士たちばかりに見える。羽生善治さんとか藤井聡太くんとか、本当に爽やか。


こんなことを書くと、また年寄りの昔話、「昔は・・・」ですか?とバカにされそうだけれど、やはり書いておきたい。


将棋界は結構曲者というか、男の意地、プライドの塊のようなクセのある人たちの集まりでタイトル戦となると、その個性がぶつかる緊張感、とても小心者では我慢できないギリギリの線での精神のぶつかり合いのようなところがあった。


男って本当に子供みたいな生き物なんですよね。


要は、自分はここの部分は絶対引けないという線があって、そこの部分でぶつかるともう命がけになる。意地のぶつかり合い。


女性から見るとなんでそんなところにムキになってというような変に思われるところだろうと思う。


男にはそういう引けない一線というのが必ずあります。


将棋の世界って、そういう男のプライドのぶつかり合いというか、とにかく自分が夢中になっていた時代の将棋界の棋士たちは、本当に個性的な棋士ばかりで、自分を個性化するというか、自分のイメージ造りに長けていて、棋士同士の対決は、まさにその個性のぶつかり合いで、真剣勝負。


だから負けるとその屈辱感は自分の個性イメージを傷つけることになる。


だから余計に真剣勝負の度合いが深い。

観戦しているほうが胃がキリキリしてくる感じだった。


自分が、夢中になっていた時代の棋士って、


中原誠
大山康晴
米長邦雄  
二上達也  
加藤一二三 
有吉道夫 
内藤國雄   
大内延介 
桐山清澄 
勝浦修
森安秀光 
森雞二   
青野照市 
田中寅彦 
谷川浩司


このあたりですね。


田中寅彦棋士なんて、昨日テレビで本当に久しぶりに見たけれど、歳とったよなー。(笑)ボクのイメージでは永遠に自分が子供の頃のあの若い青年イメージしか残っていない。


自分は、中原誠名人の大ファンであった。


本当に個性的な怖い方、猛者ばかりの中で、「棋界の太陽」と言われるほど、その人間性、全体の雰囲気に品格があって、それでいて強いというところが自分はなんとも堪らなかった。


自分の時代は中原名人の全盛期だった。


大山康晴15世名人から名人位を奪取し、その後9連覇。通算でも名人位15期。名人位以外にも各タイトルも奪取し、いまでいう四冠王、七冠王とかタイトル独占することをやった走りの人だった。永世16世名人を獲得し、他のタイトルも多くの永世位。


本格派の居飛車党で、「自然流」と称された。原田泰夫さんが名付け親で「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し回し」という意味合いだ。玉の堅さよりも盤面全体の支配を重視する独特の大局観が特徴。また、「桂使いの名手」と言われるほど桂馬の使い方が巧みであり、中原の勝局には桂の好手が現れることが多いと言われていた。


大山戦での「振り飛車破り」、大内戦での「穴熊破り」、内藤戦での「対空中戦法」と、相手の得意戦法を次々と打ち破った。


当時振り飛車が流行し始めたころで、大山15世名人が十八番であった。自分はどうしても振り飛車が好きになれず、居飛車、それも当時は矢倉が正統派の主流戦法とされていた。


中原名人に惚れてしまったのは、とにかく居飛車で、強烈な個性というよりは、あくまで本当に自然流で、相手の得意戦法を次々と打ち破るのがなんとも格好良かった。紳士的で穏やかなその風貌で、自然に勝ってしまうのが、なんとも格好良かった。


バランスが取れていて憧れましたねぇ。


その中原名人が対局しているのを唯一見れるのは、NHK杯だけだったので、中原名人が登場するときは、必ず見ていました。


当時の自分はもちろん居飛車党で、矢倉を相当勉強していました。(あと記憶にあるのでは棒銀戦法とか。穴熊は邪道だと思っていました。(笑))


中原さんは1970~1990年代に活躍した棋士だが、自分が夢中になっていた中原全盛期のときは1970年代の時を見ていたのだと思う。


その中原誠名人の当時の強烈なライバルといえば、大山康晴、米長邦雄、加藤一二三といったところだろう。とくに米長邦雄さんとは永遠のライバルで、まさに昭和時代の中原・米長時代という一時代を築いた。1年間の全タイトルのほとんどを中原・米長で占めることも多かった。


米長さんの言った言葉。「1年のうちで、女房といる時間より中原さんといる時間の方が長い。」との名言は有名だ。自分が将棋に夢中になっていたときは、この中原・米長時代の全盛期だった。


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米長さんは青年期から人間性を「さわやか流」と評され、一方で将棋は「泥沼流」とも言われたが、各界の多くのファンに愛され、棋界随一の人気者だった。


米長邦雄さんが多くのファンに愛されたのは、言動の面白さもあるし、有名な「米長哲学」をはじめ、「兄達は頭が悪いから東大へ行った」の逸話をはじめ、自らの伝説化に長けていたのも大きいだろう。


かなりショーマンシップに溢れていた人で、そういう自分のキャラクター売り込みが上手で、そういう自分が発信するそれらの逸話に将棋の地位を向上させたいという意思を読み取る必要もあるのだが、ともかく何より彼が強く、そして負けても美しかったからではないだろうか。


まじめな中原さんに、ショーマンシップ、リップサービス上手の米長さんという図式。


だから余計にその中原・米長対局の場合は、そういうメディアが好みそうな構図が出来上がって絵になってしまうのだ。絶好の記事になりやすいのだ。


とにかく当時1年中のタイトル戦はほとんど中原・米長という感じだったが、勝率は中原さんの勝ちの方が多かったと記憶している。将棋界や新聞社メディアも、中原・米長時代を堂々と宣伝していたし、それ一色だった。


自分がびっくりしたのは、米長さんが晩年に鳥取砂丘で全裸ヌードになったことだ。(笑)これは衝撃であった。(笑)


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とにかくショーマンシップに溢れる人だった。


中原名人9連覇で、ついに名人位10連覇か!という1982年。自分が忘れもしない高校生3年生。


中原誠名人×加藤一二三十段の第40期名人戦


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いまのみなさんは”ひふみん”ですっかり有名な加藤一二三さんだが、ボクの世代では、とてもいまのキャラが信じられないです。(笑)


すっかりイメチェンに大成功ですね。


加藤さんは、本当に熱血漢で、ちょっと変わっている人という感じなんだけれど、「神武以来の天才」と言われたまさに藤井くんの大先輩だ。


本当に現役時代はすごい人だったのだ。対局中に相手側の背後に回って、将棋盤の対局面を眺めるなど結構寄行が話題になった。(笑)


自分にとって、加藤さんの存在が圧倒的に輝いて見えたときは、中原名人が名人戦九連覇を成し遂げて、この十連覇を成し遂げるか、というときに、当時の加藤一二三十段が挑戦者になり、名人戦史上稀にみる大激戦名勝負を繰り広げ、中原さんの十連覇を阻止したときだった。


名人位といったら、中原さんしかとてもイメージ湧かなくて、九年間もそうだったので、そこに加藤一二三名人誕生になったときは、かなり違和感と悔しかったです。


中原ファンとしては、加藤さんの存在は忘れようにも忘れられない人だったのだ。


みんな”ひふみん”ってアイドル視するけれど、ボクには本当にこの頃のすごいときを知っているから加藤さんなのである。


名人戦というのは、普通七番勝負、先に四勝したほうが勝ちだ。でもこの戦いは持将棋に千日手2回と決着がつかない戦いが3回もあって、全部で十戦も戦ったのだ。名人戦のようなタイトル戦は、普通は旅館などを貸し切ってやるものなのだが、ここまでもつれるとは誰も思わず、旅館の予約が出来ず、最終戦は、ふつうの将棋会館でやる羽目になったのだ。


その最終戦も深夜におよぶ大激戦で、中原さんは自分の負けを先に読み切っていたようだけれど、加藤さんは気づいていないようで、最後に加藤さんが中原さんの玉の詰みを発見した時は、思わず「ひゃあー」という寄声を上げたことは有名な話だ。



この第40期名人戦こそ、じぶんの中でひふみん、加藤一二三が一番輝いていたときである。


あれだけ、中原・米長時代をメディアは唄い続け、中原さんから名人位を奪取したのは、米長さんではなく加藤一二三さんだった。


将棋の神様は米長邦雄を(加藤一二三がそうだったように)一度は名人にすると書いた記者もいた。しかし、例えば、谷川浩司が最年少名人になったとき、芹沢博文の「可哀相だが米長はもう名人になれない。一人ならともかく、二人に抜かれたら、もう抜き返すことは出来ない」という言葉も出たくらいであった。でも結局その後、米長さんは名人位につくことができた。それも宿敵の中原さんから奪取だ。


自分は米長さんのあのサービス精神旺盛のキャラクターが大好きだったのであるが、結構この日記を書くためにググってみると残念な記事にも出会った。



米長さんに近い筋からの記事だ。
読んだとき結構ショックだった。
自分のアイドル偶像が壊される感じで。


長年「小説新潮」で連載していたが、確か1998年のはじめのある回で、将棋の歴史上最強の棋士を十名選出している。現代の棋士では、木村義雄十四世名人、升田幸三実力制第四代名人、大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖、そして羽生善治(当時四冠)を選出している。


米長さんは2012年に亡くなられている。


この「将棋世界」の米長邦雄追悼号はなかなか異様だったという感想が老師を除く三人の口から出た。昭和と平成の棋界を代表し、日本将棋連盟会長のまま鬼籍に入った大棋士なのに、内藤國雄九段の文章がその代表だが、追悼号でそのダークサイドをここまで書かれた棋士は他にいないというので三人は一致した。


追悼号として見ると、羽生善治(当時三冠)をはじめとするタイトルホルダーの面々が寄稿して故人の功績を称えており、格好はついているものの、ライバルとして共に時代を築いた中原誠永世十六世名人は寄稿しておらず、かわりに(と書いてはいけないのだが)林葉直子さんが寄稿している。さらに書くと、米長邦雄門下で出世頭だった先崎学八段(当時)は書いておらず、かわりに(と書いてはやはりいけないのだが)米長の下で連盟理事として働きながら、彼に理事会を放逐された中川大輔八段が、その一件以降師弟は絶縁状態であり、死の床でも和解ができなかったことを書いているのは恐ろしいことである。


それは米長邦雄が、引退後も日本将棋連盟会長として将棋界において強烈な存在だったことのあらわれとも言える。1990年代後半は、中原誠十六世名人のスキャンダルもあり、中原・米長時代を築いた両雄が泥にまみれた形である。中原誠もそれが影響してであろう、気持ちよく勝てなくなり、米長邦雄の数年後には50代前半にしてやはりA級から陥落してしまった。結局、中原も米長も日本将棋連盟会長になるのだが、特に中原誠はそれまで「棋界の太陽」と言われ、名実ともに第一人者として棋界で人望と尊敬を集めていたのがたった二年で連盟会長の座を米長に明け渡すことになったのは、米長の強烈な権力志向もあるだろうが、やはり件のスキャンダルの影響は否定できない。


そして中原誠の後に会長となったのは米長だが、その理事会に前会長の中原が副会長として残ったのも一般の感覚からするとおかしな話で、スムーズな政権禅譲でなかったことが推測される。2016年に中原誠は日本経済新聞の「私の履歴書」を書いているが、ある回で当時について触れており、将棋連盟の理事会でともに働くにあたり米長といくつも衝突があったことを、あのときばかりは「さわやか流」とはいかなかった、といった表現を使っていた。



こんな記事である。(笑)
もう大ショックである。


中原さんのスキャンダルはいまでも覚えている。あれは本当にショックでした。でも人生誰でも失敗触れられたくないこと一杯ありますね。自分なんてそんな触れたくないことばかりです。


将棋の世界って実力、勝負の世界。


当然若い全盛期のときはいいけれど、歳をとってA級順位戦から陥落していくにつれ、老後の身の置き方など考えていかないといけない。


ひふみんのようにアイドル路線でマルチタレントとの道へ進めるのも稀な存在であろう。


中原さんは、解説や将棋促進のほうに進まれていると思うが、脳内出血や癌なども患われており、いったいいまはどのように過ごされているのだろうか?



大山康晴には、升田幸三というライバルがいて死闘を繰り広げた。
中原誠には、米長邦雄というライバルがいて死闘を繰り広げた。


ライバルの存在が実力を伸ばす。

まさにそうだろう。


藤井くんに、そのような永遠のライバル、そういうぴったりの構図が出てくることを期待する。


最後に当時の棋界の対局がいかに怖かったかのもうひとつの自分の思い出。


第36期名人戦七番勝負第1局(1978年3月15、16日)。いきなりの剃髪姿で現れた森雞二八段。対戦相手の中原名人はもとより、周囲の者も唖然としたという。この対局は森雞二八段が快勝した。


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これもよく覚えている。普段パンチパーマだった森八段だが、名人戦で丸坊主で臨んだ。これはちょっと異様な雰囲気でした。自分も絶対忘れられない名人戦です。


これで中原さん負けたら大変なことになっていたけれど、結局4勝2負で無事名人位を死守したのでした。中原名人時代の忘れられない1戦です。


だからこの時代、本当に男と男とのぶつかり合いというか、個性のぶつかり合いで負けられない緊迫感のような怖さがありましたね。


将棋も大学に入ってからスピンアウトしてしまった。だから中原さんや米長さんの晩年も知らないです。でもこの実力の世界、晩年の時代は寂しい限りなのでそれでよかったかもしれない。


中原さんの棋士歴の晩年の履歴をネットで拝見しているとやはり寂しいという気持ちしかわかないですね。中原さんは、引退記者会見のとき、「羽生善治さんとタイトル戦を戦ってみたかった。」と仰っていたそうです。


だから、その後の将棋界、谷川浩司以降、羽生善治、森内俊之の時代をまったく知らない。


羽生大全盛のときは、さすがにニュースで知っていますが、そこから入り込むほどの熱意もいまさらなし。へーという感じで終わってしまう。


そして藤井くんフィーバー。


まだ18歳ということもあって、本当にうぶな感じの性格で、怖い怖い個性派ぞろいの強者どもの時代しか知らない自分からすると、う~ん、やっぱり自分が歳を取ったのか、これがいまなんだよ、という印象です。


こんなことを言っている自分が老害なんでしょう。


藤井くん、ぜひA級順位戦まで昇って、名人位獲得してほしいです。


将棋界のタイトルで最高の名誉は名人位です!










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ムーミンバレーパーク [雑感]

自分のHN(Handle Name)であるノンノンは、このムーミンから来ている。


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ムーミンの彼女のことをノンノンと言った。
これは自分の小学生のときのあだ名だった。
本名の性の名前からノンノンとみんなから言われていた。


SNSをやるときにHNをどうしようか悩んだが、この小学生のときのあだ名ノンノンにすることにしたのだ。


ただ、ノンノンというのは、これは自分が小学生のときの名前で、その後いろいろ経過を得て、フローレンになったり、いまはスノークのお嬢さんというのだそうだ。


時代を感じますね。自分が小学生のときは、間違いなくムーミンの彼女は絶対ノンノンだった。ノンノンからフローレンに改名した理由は、ノンノンというのは、non-nonということで否定語が2つ続くのはよくないという理由だからだった。


そんな2018年のある日のこと、自分の通勤路で、会社からの帰路、東横線の乗り換え駅で19:30頃に自分の前を必ず通ってその駅に停車する電車があるのだ。


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それがこの飯能行きの電車。


自分が階段から降りてきてホームに降り立つときに、もう毎日、毎回と言っていいほどそのタイミングで、必ずこの飯能行き電車が入ってきて停まるのだ。


飯能なんて珍しい名前でどこにある街なのだろう?くらいだったが、とにかく、毎日、毎時間決まった時間に必ず自分の目の前に遭遇する電車なので、否が応でも脳裏に刻み込まれてしまった。


そんな現象が起き始めてから、1か月後のこと、埼玉県飯能市にムーミンバレーパークが2019年の春にグランドオープンするというニュースが飛び込んできた!


そういうことだったのか!(笑)


飯能のムーミンバレーパークがオレを呼んでいるんだな、とすぐにピンと来て、これはぜひ行かねばなるまい、と決意を新たにした。


なかなか行く機会を捉えることができず、結局1年も経ってしまったが、一昨日2020年8月9日、この日はムーミンの原作者、トーベ・ヤンソンの誕生日にあたり、この日をムーミンの日としており、16回目、75周年のアニバーサリーな日となり、その記念日に訪れることができた。


普段ムーミンバレーパークのことはまったく頭から飛んでいたのだけれど、その日の朝ベッドの中でスマホを眺めていたら、今日はムーミンの日ということを知り、即座に決断。


よしこれから飯能に行こう!


即決である。

だから計画的でもないし、思いつきで決断したのである。


ここでムーミンのことをちょっとおさらいしてみよう。


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ムーミンは、スウェーデン語系フィンランド人のトーベ・ヤンソン(1914—2001)によって生み出された。小説、コミックス、絵本として描かれ、それをもとにたくさんのアニメ作品、キャラクターグッズ、スポットが作られて、いまも世界中で愛されている。



こちらが原作者のトーベ・ヤンソン。


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ムーミンの作者であるトーベ・ヤンソンは、1914年、彫刻家と商業画家の娘としてフィンランドの首都ヘルシンキに誕生。幼い頃から才能を発揮し、画家、イラストレーターとしても活躍。1945年に童話「小さなトロールと大きな洪水」を発表し、ムーミンをこの世に送り出した。2001年に世を去るまで、精力的に創作活動を続け、ムーミン以外の大人向けの小説、フレスコ画など、ジャンルにとらわれない多くの作品を残している。



1945年、長かった戦争はようやく終わった。戦後の混乱の中、後に世界を席巻するムーミンシリーズの第一作「小さなトロールと大きな洪水」は、粗末な装丁でひっそりと出版された。ムーミントロールの母子が、失踪してしまった父を捜す道のりを描いた物語である。表紙を入れても48ページしかない小冊子で、本屋ではなく駅の売店や新聞スタンドに並べられたという。この第一作は商業的には決して成功とはいえず、それどころかわずかな部数で絶版となったきり、以後トーベ自身の意向によって1991年まで再版されず「幻の作品」となるのだが、幼い頃から絵を書くことと同じくらいお話を作ることが好きだったトーベは、画業の傍らこつこつと執筆を続け、次々に続編を発表していったのだった。


1948年の第三作「たのしいムーミン一家」は、ついに母国フィンランドと隣国スウェーデンで大きな評判をとった。ただそれでもそれが英訳され、児童文学王国イギリスで出版されたのは、いくつもの偶然に助けられてのことであった。ところがこの北欧の小国からきた奇妙ないきものたちのお話は、たちまちのうちに目の肥えたイギリスの読書人たちの心を掴み、思いがけない大ヒットとなったのだった。


さらにそれをきっかけとして1954年に始まった、当時世界最大の発行部数を誇ったロンドンの夕刊紙 「イブニングニュース」での漫画連載が、ムーミンの人気を決定づけた。イギリスにとどまらず、その年のうちに早くもスウェーデン、デンマーク、そして母国フィンランドの新聞に、さらに最盛期には40カ国、120紙に転載されたほどであった。漫画で火がついたムーミンの人気は、すぐにオリジナルの児童文学シリーズも及んだ。次々に各国語に翻訳され、イギリスばかりでなくヨーロッパ中で人気と同時に高い評価を獲得している。トーベは児童文学作家としての国際的な名声を不動のものにしたのであった。


(以上、ムーミン公式HP 「トーベ・ヤンソンについて」からの抜粋。)



日本では1990年にアニメシリーズ「楽しいムーミン一家」(テレビ東京系)放送開始。「楽しいムーミン一家 冒険日記」を含む104話からなり、世界60カ国で繰り返し放送され、人気を博した。


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1993年にアニメ「楽しいムーミン一家」の設定に基づいて作られたテーマパーク、ムーミンワールドがフィンランドのナーンタリにオープン。


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これがムーミン・キャラクターの関係図。


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(c)ムーミン公式HP


主人公はムーミントロールである。ムーミンパパ、ムーミンママ、ノンノンいやスノークのおじょうさん、そしてスナプキン、ミイもうすっかりお馴染みですね。ここでスノークのおじょうさん(ノンノン)についてさらに詳しい説明。


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(c)ムーミン公式HP



1993年にテーマパーク、ムーミンワールドがフィンランドのナーンタリにオープンしたのだが、それの日本版を作りたいというのが、この埼玉県飯能市にできたムーミンバレーパークのようである。


なぜ埼玉県飯能市なのか、は知る人ぞ知るというところだが、自分は最初に埼玉県にそのようなものを作って、果たして集客できるのか、採算とれるのか、など結構心配したのだけれど、一昨日体験してみて、実際行ってみると、もうすごい人、人、人という感じで大繁盛していた。お子さんを連れた家族連れが多かったようですね。


埼玉県飯能市というのは、池袋から西武池袋線で大体1時間くらい。
許容範囲内である。


飯能駅で下車すると、改札口を出て北口から1番乗り場のバスに乗って大体10分くらいのところにある。ムーミンバレーパークは、メッツア、メッツアビレッジにある。だからバス行きはメッツア行き。人気なので、かなりの本数出ています。


メッツアビレッジというのは湖を取り囲んだいろいろ施設があるテーマパークのようなところで、その中の一角がムーミンバレーパークなのである。ムーミンバレーパークをこの埼玉県飯能市に持ってきた理由は、自分はこの湖を中心とした風光明媚で絶景な観光地であるというところがポイントなのではないかと確信した。あのムーミン谷の世界をリアル現世に実現するには、このような自然豊かな美しい場所が前提になければならない。これは都心では絶対無理なことである。都心から1時間程度で通える地の利とこの自然の美しさの両方を兼ね備えているという点でこの飯能市が候補になったのではないだろうか。自分はそう確信するのである。


バスで到着停留所メッツアで下車して、いよいよメッツアビレッジに入園。

そうすると”ムーミン谷とアンブレラ”と題してこのようなお出迎え。
素敵ですね。


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この日はかなりの猛暑で、もうこんな風景がとても自然でした。


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ゲートでお出迎え。
今年で開園1周年。1年経過してようやく来ることができました。
ここでみなさん記念撮影していました。


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ウェルカムゲート

「本」のゲートをくぐりぬけ、ムーミンの物語の世界に期待を膨らませながらムーミン谷へ!


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ムーミングッズを売っているショップ。

もうムーミンファンには堪らないでしょうね。


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北欧雑貨を売っている小店や、北欧カフェ、はたまたスターバックスに至るまで、飽きることないです。


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とにかくメッツアビレッジなので、湖を取り囲んだテーマパークなんですよね。
だから湖をバックにとても風光明媚な景色があたりを取り囲みます。


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こんな野外ジャングル遊園地のようなところもあって子供たちには大人気!


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そうしていよいよムーミンバレーパーク。


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原作を再現したムーミン一家の住むムーミン屋敷。


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この中に入りたかったのですが、普通の入場券ですと、地下と1階は観覧可能なのですが、2階や3階は特別チケット、ワンデイカード(1日券)でないと入れないようで、急いでチケット売り場に戻り、購入しようと思ったのですが、1日券はすでに売り切れ。コロナ騒動でいっぺんに入れないので、人数制限しているようです。


う~ん、やっぱり朝の思いつきで突然の行動だったので、仕方がないですね。やはりこの2階、3階はとても大人気なので、事前にネットで予約しておくことをお勧めします。(いい写真スポットなのに・・・)


じゃあ、その普通券で拝観可能な地下と1階だけお見せします。


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ここがエンマの劇場。
ムーミンとその仲間たちによるライブエンターテインメントを楽しめる。


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で、これ、楽しいか?(笑)・・・えぇぇ、全然最高ですが、なにか?(笑)


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いま世間では今年は「特別な夏」ですが、庶民の方々はどこ吹く風です。(笑)



ムーミンといっしょに記念写真撮影できるようなサービスもあります。


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ここにもムーミングッズを売っているショップがあります。

もう中はムーミンだらけ。
ファンには堪らないでしょうね。

でもかなり密です。(笑)


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湖沿いをずっと歩いていくと、ムーミン一家で移住した灯台が見えてきます。


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湖を見ながら、その湖畔を歩くのは本当に気持ちがいいですし、目の保養になりますね。でもこの日は猛暑で汗だく。水分をこまめに取って、もうこれ以上歩くのは大変ということで、ここらで元のエントランス付近に戻ることにしました。結局この日だけで1万4千歩も歩いたことになります。


エントランスに戻って、大きなレジャー施設。


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いろいろなグッズやカフェ、飲食店がテナントとして中に入っています。


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朝からなにも食べていなかったので、急いで腹ごしらえ。この暑いのによせばいいのに、熱いラーメンを食べることに。柚胡椒塩ラーメンというのがとてもあっさり系で美味しそうだったので、それにしたのです。


でも店内で食べるとこんな感じで、密で飛沫が怖かったので、思わずテラス席をチョイス。


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湖が一望できる絶景のテラス席で遅めのランチ。


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中よりいいと思ったら、外は灼熱の太陽で地獄。
オマケになぜか熱いラーメンで、かなり生き地獄でした。(笑)
やっぱりクーラーがんがん効いてる中がよかったかな。

セミが凄い泣いています。夏だなぁと実感。


こんな感じで埼玉県飯能市のムーミンバレーパークを体験できました。
なかなか素晴らしかったです。


唯一の後悔は、突然思いつきで行ったので、ムーミン屋敷の2階、3階を写真に収めれなかったことですね。また次回。


この日8月9日は原作者のトーベ・ヤンソンの誕生日でムーミンの日に訪問できたのがよかったです。この1週間8月16日まで、ムーミンの日ということで、アニバーサリー・イヴェントのようなので、ぜひ訪問されてはいかがでしょうか?


ムーミン誕生75周年記念グッズなど、たくさんのサプライズもあります。












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技術は必ず追いつきます。 [雑感]

ライブ配信否定派がいるという話をよく聴くし、彼らの言っていること一理あるし、よく理解できる。


”やっぱり臨場感、迫力、息遣いなど生演奏に敵うものはない。”


まさにその通りでしょう。
いっさい異論を挟む余地はないです。

自分もまさにその通りだと思います。
自分も生演奏第1主義だからです。

彼らが言っていることごもっともだと思っています。


でもね、技術って必ず追いつくもんなんですよ。


散々けなされていても、必ず技術の進歩で数年後には必ず追いつきます。


それは過去の歴史が証明してきている。

アイデアを出すと、そんなことできるわけないじゃん!とか、一蹴され、バカなんじゃない?とまで散々言われる。


でもその十数年後、必ずやその技術は、いまや誰もが不思議にも思わない当たり前の技術になって世に普及しているものなのです。


技術は必ず追いつきます。


いまやスマホや携帯電話なんて、誰もが当たり前に接している技術ですが、遠い昔、これは遥か彼方の夢物語と言われていたのです。


でもそのアイデアは、いまや当たり前の技術として現実のものとなっている。


技術者がアイデアを出し合うとき、こんなこと言っちゃバカにされるとか、夢物語とか臆してはいけない。


技術はかならず追いつくものだからです。


現実離れしたアイデアほど実現する可能性が強いかもしれません。


技術の世界ってそういうものなのです。


33年間会社生活をして常々そう思います。


ある技術があったとして、その現在抱えている欠点を公にあからさまに揶揄したとしましょう。間違いなく、必ずその欠点を克服してきます。


そういう世界です。


自分であからさまに揶揄した後、技術者の顔が目に浮かんできて、今に見てろ、という感じでものの見事に克服してくるのでは、とその反骨精神を怖く感じることもあります。


逆に直してほしいから、欠点を揶揄するという心理状況もあります。


技術は必ず追いつきます。


「ライブ配信は、生演奏に敵わない。」


いまは当然の理と思われるかもしれませんが、必ず将来、生演奏と比較しても変わらないくらいの臨場感、それも高額なハイエンド・デバイスでなくても普及価格帯の安価なデバイスでそれが実現可能となる日がやってくると思います。


それはそこにそういうニーズがあるからです。


そうして、生演奏に敵わないとレッテルを貼られているからです。


必ず、なにくそ、という感じで、追いついてきます。


技術の世界ってそういう世界なのです。


果てがない永遠のかけっこみたいなところがあります。


技術はかならず追いつくものなのです。




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そんなに危機を煽らなくても。 [雑感]

コロナ禍により、3月の緊急事態宣言にて休業要請などで最大の危機にさらされた飲食業界。補償なき休業要請。。。など波乱含みだったが、ここにきてようやく再開ムード。特に小さな個人経営などのお店はもろに影響を受け、そのまま倒産してしまうところも多かった。


諸悪の根源とも揶揄されたライブハウスなんかも同様。もうどうなるの?という感じ。自分にとっては名古屋ブルーノートが倒産してしまったのは最大のショックだった。これからも日本だけでなく、世界中でまさかここが倒産?という話は続くだろう。


最近になって、東京はまた第二波とも思われる急激な感染拡大。
これに伴い、緊急事態宣言をもう一度という声もあるけど、自分はそうかな?と直感的だけど思う。


3月のときは、日本だけでなく、世界が初めて遭遇する危機でもあって、ロックダウン(都市封鎖)とか、緊急事態宣言とかも必然の流れだったけれど、いまはそうなのか、というとあの頃とは状況が違うと思う。


あの頃のようにまた経済を止めることはもう無理だろう。
また休業要請をすることもまず無理だろう。

もしまたやることになったら、もう経済も致命的に壊滅状態になるだろう。


クラシック業界だって、せっかく有観客でコンサートをできるくらい立ち直って復活してきているのに、それをまた一斉休業自粛してください、と言っているようなものだ。


もうこの復活ムードを元に戻すなんて、時の流れからして無理である。
コロナの素性がわからなかった3月の頃とは違い、ある程度わかってきている今は、もうこれは仕方がないと思って、”ウィズコロナ”としてどうやって経済回すのといっしょに混在させるか、を模索するときなのだろう。


休業などの自粛要請をすると補償の問題が必ず上がる。
もう政府にも東京都にもそんなにお金はないと思われる。(笑)


東京都は財政の貯蓄の9割はすでに取り崩し済みと言われていて、そこに来て、また休業要請とかするとそんな補償を出すのは無理なのでは?


すべてにおいて3月の頃とは状況が違いますね。


国は、よく大規模な兆単位の予算を組んでいるが、どこからその財源を持ってきているのか?自分がいつも抱く疑念である。それ?どこから持ってきているの?ってな感じで。


年初の予算作成時に、必ず緊急事態発生時の予算という枠を確保していて、そこから持ってきているのか、あるいは本当にそれだけでは賄えない予想外の緊急事態ということで、国債を発行しているのか?


自分はここら辺は専門ではないので、素人考えだけれど、国債は国の借金である。国債を発行し続けると、当然世の中に副作用が出てくるわけで、インフレになってしまう。(インフレとは、モノの値段が全体的に上がり、お金の価値が下がること。)


日銀が勝手にお金を発行することは出来ない。政府が国債をどんどん刷って、それを全部直接日銀に引き受けさせれば、日銀は結果的にお札をどんどん発行することが出来る。太平洋戦争中、実際にそれをしたことによって、日本経済は大変なインフレになってしまった。


だから今も日銀は政府が発行した国債をすぐ引き受けるということはやっていない。政府が国債を発行すると、いったんは一般の銀行や私たち個人が買う。日銀は、一般の銀行が買った国債を買い上げて、同じだけのお金を発行する。なんだか複雑だが、こうすることで政府が国債を発行するのを抑えて、お金の流れをコントロールしているのだそうだ。


そんな複雑なコントロールをしていているのに、国債を発行し続けるのはなかなかリスキーなことであると思うのだ。


いつも政府がかつてない大規模な緊急対策予算を組みました、と言うが、その財源どこから持ってきているの?と本当にいつも不思議に思うのだ。


そんなお金のやりくりで大変なのに、また全国一斉に休業要請なんて無理だと思われるのだ。


復旧の流れにあるものをまた止めるのは、なかなか勇気のいることである。

もういまや政府も東京都もそんなお金がないと思われる。

そんな状況の中で、日本中の経済をまた止めることは、絶対やらないと思われる。


コロナがこんなウィルスで、どのように感染するかがわかったところで、いまは経済と一緒にどう”ウィズコロナ”するのかをやるのが賢明なのか、と思うのである。


先日、主治医の先生と雑談したのだけれど、日本人にはじつは集団免疫がすでにできている、という説を教えていただきました。(その先生も、他の先生から聞いた話らしいですが。)


じゃないと、他の世界中の国民と比較して、日本人のこの致死率の低さが解明できないとのこと。いま、コロナは散々恐怖がられているけれど、これからのウィズコロナの時代、コロナはインフルエンザと同程度の認識、扱いになるのでは?とか。(笑)


インフルエンザは毎年のように、感染し、体内に抗体ができ、そして1年ほどで抗体が消滅して、その翌年にまた感染し、また同じことを繰り返す、いまや我々はインフルエンザにあまり恐怖を抱くところか、当たり前の行事となってしまった。


そんな感じになるのでは?(笑)


いまのご時世に、こんなことを言うと、もう徹底的に同調圧力から大バッシングされるかもしれませんが、なんかいまのやたらと恐怖を煽るだけのメディア報道の在り方に自分は???と思っているので、案外こういう捉え方の方が安心できて信頼がおけるような気がします。


まぁ、コロナの場合、インフルエンザと違い感染の仕方のおかげで、それが経済ビジネスに影響を及ぼしていて、そこが厄介なのは、確かですが。。。


どんなに危険を煽っても、世の中、みんな食っていかないといけないので、営業していかないと生きていけないといけないので。だから自粛期間中でもこの有様なのです。(笑)


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じゃあどうすればいい?の問いかけには自分には導けないが、つくづく思うのは、自分が首相や都知事の立場になくてよかったと思うことだ。(笑)










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イチロー、アンチ耐性が凄すぎる! [雑感]

イチロー先生が、生徒たちの質問に答える。


生徒たち「他人から嫌われるのが怖くないですか?」
イチロー先生「僕は他人から嫌われるの大好きです。」


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「その人たちは僕に対するエネルギーが半端ないでしょう。」


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「大嫌いと言われたら、ゾクゾクしますよ、僕。」


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「無関心が一番怖い。興味持たれなくなることが一番辛いです。」


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そのほか、


生徒たち「出る杭は打たれる、ということについてはどう思われますか?」
イチロー先生「簡単。出すぎちゃえばいい。」


「結婚はギャンブル」など名言言いたい放題。


イチロー、かっけーなー。(笑)


みんな大喝采だ。



でも、みんな気づいていないかもだけれど、これはイチローの長い人生の体験から得た体中に染みついた深い深い言葉だということを忘れてはいけない。


そんなちょっとやそっとのその場の思いつきで出てくる言葉ではないのだ。


イチローの球歴は今さらだけれど、細身のしかも日本人プレイヤーとしては初の野手での大リーグ挑戦。まさに異国の地で人種差別など心ない態度などもろもろ、それはファンからだけでなく、チームメイトからもあったであろう。


日本人が異国の地で生活していくというのはそういうこと。


日本人は姿かたちの外見からして、基本的に外国人と同化はできないので、そこで彼らといっしょに暮らしていくには、日本人としての自分の存在価値、アイデンテイティをアピールをしていかないとやっていけない厳しさがある。


そんな逆風をもろともせず、大記録、大成功を成し遂げたからこそ、言える言葉ではないのか。だから、上のような一瞬ジョークとも思える笑えるようなセリフについても、自分はなんかじつは彼の本音なんじゃない?それって彼の野球人生で学んできた哲学そのものなんじゃない?とも思えるのだ。


以前日記で、「人生やっていく上で楽になる4つの大事なこと」というタイトルで説いたこともあるが、


嫌われてもOK。全人類に好かれるとか無理。


みんなにいい顔はできない。


これは人生生きていく上では、大切なことであるから、よく心しておこう。自分が近年の差し迫った環境の中で人生やっていく上で一番心掛けていることでもある。 
 

みんなに好かれようとして自分がクヨクヨ悩んで八方美人で苦労するのは、人生時間の無駄である。自分を嫌いな人をいかに好きにさせようという努力ほど効率の悪いことはない。そんなことやるくらいなら自分を好きでいてくれる人をもっと楽しませようと努力したほうがよっぽど人生効率的なのだ。


自分もちょっと前までは八方美人的な心配ばかりしてこのことで随分神経すり減らしていたが、このことを悟り、楽になった。


周りをあまり気にし過ぎて相手に合せすぎても、それだけの効果って意外とないものなのだ。「これが、自分です!」という自分の素の姿をさらけ出したほうがいい。それで去っていく人は、去る者は追わず。。。なのである。


他人から嫌われるのは、それだけ自分に個性があって、相手が危機感を感じる、自分の領域を侵される、というような感性に襲われるから、攻撃したくなるのではないか?


それだけ、自分に力、才能があって、それを他人が羨ましがっている、というように思ったほうがいい。そんな攻撃をしてくる人間は、民度、レベルの低い人たちと蔑んで見ておけばいい。


自分に本当に才能があれば、そういう類の抵抗勢力も結局圧することができ、結局自分の素晴らしさが後世讃えられる。


世の中、きっとそういうルールになっているに違いない。


イチローがそれを証明している。






 





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鎌倉のアジサイで癒されました [雑感]

新型コロナウイルスで、今年の6月の紫陽花の季節どうしようか、たぶん今年はステイホームで我慢かな、とも思ったけれど、会社のコロナ対応で平日も休暇を取れるので、6/8(月)の平日に思い切って、鎌倉のアジサイを見に行った。


今年のコロナ対応で、明月院は、神奈川県在住の方のみ鑑賞可能、もし人数が過密になった場合は途中で打ち切り閉門もあるという。そして土日は閉門。要は平日しか無理なのである。


同じアジサイ寺の長谷寺のほうは、予約制で往復はがきで手続するようなことをHPに書いてあったので、今年は長谷寺は断念。


明月院のみの鑑賞となった。午前9時開門に対して8時半に到着したら、まずまず行列ができていた。距離を気をつけながら並ぶ。


明月院ブルー。


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このように人が入らない見事な写真が撮影できた。
コツがわかりました。


去年の雨天のときは、入口のところで棒状の入場禁止バーがかかっていて、強制的に入れなかったが、今年のように晴天の時も、開門一番は撮影タイムということで、みんなマナーで中に入らないで入り口のところで撮影するのある。


いわゆる撮影タイム。


それが終わったら、みんな中に入っていきます。
いわゆるアジサイ写真愛好家たちによる暗黙の撮影マナーなんですね。


だから晴天であろうが、雨天であろうが、開門一番は人が入らない状態で撮影できるのである。人が入らいない写真を撮りたいなら、開門一番に行くことです。



鎌倉の大仏さんやアジサイ寺の長谷寺で有名な江ノ電「長谷駅」。噂の改築したばかりの新駅舎を見てきました。構内の構造上は昔とそんなに変わっていないけれど、新築ピカピカになっていました。


そして鎌倉ファンに間で有名な「長谷液」の撮影に成功。
鎌倉行き方面のホームの一番端の網にかかっていました。(笑)


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なぜ、みんなこのスプレーの写真を鎌倉コミュニティにアップするのか理解できないのだけれど、「長谷液=長谷駅」とかけているのだろうか?


「今日の長谷液」という文言でこのスプレーの写真をみんなアップするのである。


ワケわかんない。(笑)

でもそれがユルくていいんだな。


このスプレーなんなのか、駅員さんに聞いてみた。江ノ電の車窓に吹きかけ洗浄するスプレーだそうです。運転席の前方のワイパーのついている窓を洗うためである。このスプレーを吹きかけて、ワイパーで綺麗にする感じ。


この長谷液の筐体に書かれている言葉がニクイというか笑える。


「数値で云えば、通勤の方は8割方回帰・・・ 観光の方は1割程度の回帰・・・まだまだヤバいぜ、江ノ島電鉄。」。。笑笑 


コロナ禍で緊急事態宣言解除 の後の世相を皮肉っているのかな。なかなかジョークのセンスありますね。この張り紙に書かれている文言が定期的に更新されていると面白いですね。今日はなにが書かれているか、それを見るだけでも楽しいですよね。



そして、江ノ電とアジサイ。
これが最近導入された江ノ電の最新型車両だそうです。どう思います?このセンス?(笑)


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やっぱり江ノ電とアジサイのショットを撮るなら、絶対旧型車両(355型/301型)ですね。江ノ電写真マニアの方々はやっぱり旧型車両だよね~ってな感じで、絶大の人気を誇ります。でも年々旧型車両の出番は少なくなっています。


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こうやって撮影した写真で、みんな簡単に撮影できると思っているかもしれませんが、とんでもありません。(笑) 旧型車両がやってくるまで、ひたすら待ち続けるのです。この日は1時間半、待ち続けてようやく念願敵いました。 その間、新型車両が何本も通り過ぎますが、それは全部パスするのです。(笑)


旧型車両がだんだん少なくなっているのを実感します。江ノ電写真マニアの方は、旧型車両が通る時間を、もう時刻表であらかじめ調べてくるんですよね。そのときにJust Timingになるように現場にやってくるのです。ボクはそんなことをやる訳ないから、ひたすら来るのを待っているのです。



最後の鎌倉に来たら、必ずこのお店に寄って麻婆豆腐を食べるという自分の贔屓のお店。


「鎌倉かかん」


安否確認会でやってきました。


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ランチタイム開店と同時に入ったので、混んでいなかった。あと平日でコロナ自粛ということもありますかね。コロナ禍に負けず、なんとか生き延びていたよう。ホントに良かった。入店の時の手の消毒はあったけれど、特に飛沫対応のビニールシートとか、物理距離を置いて座るような仕掛けとかはなかった。でも店員さんに勧められる座席は、お客さん同士が離れて、という配慮はあったみたい。


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かかんの麻婆豆腐定食


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夜はもっと大きな鉄鍋に入ってくるのだけれど、ランチタイムはとてもノーマルサイズ。久しぶりに食べたけれど、本当にここの麻婆豆腐は美味しい。天下一品!


四川麻婆豆腐なんだけれど、辛くなく、逆にすごい甘いんですよね。


このお店オリジナルの味付けだと思います。
一度経験すると、しばらくするとまた無性に食べたくなります。


鎌倉市長がいま鎌倉には来ないでください、とSNSでは言われていましたが、すみません。(笑)鎌倉のアジサイを一瞬でも堪能したく、お許しいただきたく。


コロナ禍で荒んだ心がたっぷりと癒されました。

楽しかったひととき。



  




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規則正しいUber生活 [雑感]

Uber生活を始めるようになってほぼ1か月。ついに神様のご審判を仰ぐ日がやってきた。 今日は血糖コントロールの定期検査。Uber生活が、果たして健康的にどうなのか?その審判を仰ぐという訳だ。自分的にはそんな無茶な暴飲暴食はしていないつもりだけれど、なにぶん体の肥えた感覚、特に腹回りに極端な違和感があって、あきらかにコロナ肥り。


体重でも4~5Kgは間違いなく太っている。

先日渋谷で購入した新品のスラックスがすでにキツイ。この病気は体重が増えたら、間違いなく検査値悪化は間違いない。


1番の理由は、やっぱり会社に行っていた時は、1日1食だったのだけれど、在宅勤務になって家にいるようになって、1日2食になってしまったこと。


そして通勤で毎日7000歩歩いていたのが、いきなりゼロになってしまったことだろう。運動不足は、毎日散歩などなんとかしないと、とは思っているのだが、いくら在宅勤務とはいえ、勤務時間中にそんなに外を出歩くわけにもいかず(その間にWeb会議のコールが来て不在だったらなにやっていたんだ?ということになる。(笑))、空いている時間といえば、どうしても終業後の夜になってしまう。


そうすると散歩に出るのは億劫で結局やらないことになる。


1日2食と運動不足。

これが極端にコロナ肥りの要因だろう。

この体が肥えた感覚じゃ、検査値が悪化していることは間違いない。


今年の1月に死を宣告されたも同然の検査値悪化で、それがショックで心を入れ替えて、節制生活を送りはじめ、驚異的なペースで検査値がダウンしてよくなってきたのに、また悪い意味でV字回復で悪化は勘弁だな~という感じ。


そのときは、まさか世の中にコロナ禍が起こるなんて思ってもいなかったから、想定外のできごとだからある意味自分はアンラッキーということもあり、これも仕方がないことかなとあきらめた。


今日の半月前から、毎日気分は凄いブルーでした。(笑)
絶対悪化しているだろうな~という感じで。
検査日の日が近づくと、段々憂鬱になるんですよね。


毎日、自宅の目の前のスーパーで食材を調達していれば、そんなに計算が狂うこともなかった。このパターンは経験豊富だし、これでいままで食生活コントロールしていたから。


これくらいなら大丈夫という塩梅が分かる。


それがUber Eatsなるものに手を染めてしまい、ダメだよな~と思いながら、外に1歩も出なくてもいい楽さ加減から、ついついスーパー生活からUber生活に完全移行。


Uber生活で血糖コントロールなんてまったく今まで経験がなかったから、こういう食生活をして、果たしてどれくらいになるもんなのか?想像できなかった。


だから今日の検査はある意味、人生初体験の神様のご審判の日で相当緊張したのだ。


相当悪化している覚悟でビクビクしながら、主治医の先生から検査値の言葉が・・・


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結論。


ほんの微増だけれど、先月とほとんど変わらなかった。
よかったぁぁあああ~!


いままで驚異的なペースでダウンしてきた努力が無駄にならなくてよかった!

かなり肥えた感じだったので、恐怖だったが、そんなに変わってないとは?


はたしてこのXファクターはなんなのか?(笑)


正直わからない。ただ言えるのは、Uber Eatsを使っていたとはいえ、暴飲暴食はしていないこと。


毎日規則正しく2食分だけを食べていたこと。

これに尽きるかな~?


結局食べる量なんですよね。たくさん食べなければ大丈夫なんです。これでUber Eatsを使っての食生活は、毎日定量だけ食べる規則正しい食生活であれば、そんなに極端に悪化することはない、ということが立証された。(笑)


でも微増だから反省点はある。

やはり1日2食→1日1食に生活改善するべきであろう。
肥っていることは間違いないのだから。


でもUber Eatsは使い方を間違えると、結構危険である。


普段急になにか食べたい、飲みたいと思っていても家の中は空っぽだから食べるものがなく、外のスーパーに行く余力もないということが、かえって自分には都合が良かった。それが節制コントロールになっていた。


でもUber Eatsは、スマホでちょちょっと操作すれば、ものの10分もしないうちに家にその食べ物、飲み物が届けれらるのだから、こんな便利なものはないけれど、自分にとってはある意味、超危険なツールだ。


もういまや目の前30秒にあるスーパーにすら行くのが億劫に感じてしまい、全部Uberで済ましてしまう。


食べたい、飲みたいと思ったときに、それがずっと家にいるだけで入手出来てしまう、というのは非常に危険なツールである。


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世の中には、コーヒー1杯頼むのにUberを使うブルジュアな人がいるらしいが(笑)、いくらなんでもそれはないだろう?と思っていた。でもだんだんそうなっていく自分がいるのだ。


さすがに飲み物1杯のためにUber使うのは、気が引けるので、たとえばコーラLサイズを4本まとめ買いに、心遣いでチキンナゲットを2つくらい付け加えるとか。


なんか無性にマック(マクドナルド)のポテトが食べたいぃ~と思ったら、ポテトとドリンクだけで、ハンバーガーは買わないとか、そういう使い方を平気でするようになってしまった。


でもこれは間食だからあきらかに自分にとってはよくない。今後やめたほうがいいだろう。今回検査にドキドキしてしまったのは、こういう細かな間食の心当たりがあったので、尚更後ろめたかったのだ。


Uber Eatsにとって、極端な話、飲み物1本だけの注文でも配達人は嫌な顔をせずやってくれるものなのか?考えたことがある。


これは配達人にとっては全然ウエルカムなことなのではないか?と思うのだ。


正直Uber Eatsを使うと、コスト的にかなり高くつく。商品の単価に対して、サービス料、配送手数料、少量注文の配送手数料という最低でも2種のadditional costが加算される。


結局1回の注文で結構高いお金を払う羽目になるのだ。スマホでこれとこれって商品を選んだら、TOTALが結構高くてびっくりというのは日常茶飯事である。


1か月Uber生活を続けたわけだが、自分が恐ろしいのは、来月のクレジットカードの請求額である。(笑)とんでも請求額だろう。


●「5%」か「10%」のいずれかが、 サービス料として必ず請求される。
●700円以下の注文の場合は「少量注文の配送手数料」が別途発生する。
●「配送手数料」は、お届け先の住所や配達可能な付近の配達パートナーの数などに基づいて算出され、レストランごとに異なる。


こんな感じである。


だからUber配達人にとっては、どんなに少額の買い物でも回数がそれだけ多ければ多いほど、儲かる仕組みなので、そんなドリンク1本なのに申し訳ないなんて心配する必要はない。


彼らにとって、たくさん利用してくれればくれるほど、どんどん稼げる仕組みになっているのだ。


上の2番目のように、700円以下の注文の場合は、その上さらに特別な「少量注文の配送手数料」を取られる仕組みなのだ。(笑)


Uberを利用すると、必ずスマホに商品の評価と、配達人の評価のアンケートが来る。ボクは優しいからいつも満点をつけてあげます。


最近気づいたことなのだけれど、昔は配達人へのチップは、任意だったのだけれど、ボクぐらいのヘビーユーザーになってくるともうチップを与えることがmandatory(必須)になっちゃんですよね。


配達人にチップをあげないとその画面が終われないし、その画面をスルーすることすらできない仕様になってしまうのだ。(笑)


あれ~?昔は任意だったのになぁ~という感じです。最近、途中からそんな仕様になってしまいました。


Uber Eatsは海外企業だから、そういうチップ感覚って結構常識なんですよね。1か月Uber生活を体験してみて、自分が経験上学んだことはそんな感じである。


「規則正しいUber生活。」


これがキーポイントである。


食生活節制コントロールをしないといけない身からすると極めて危険なツールである。いつどんなときでも家にいて、そのまま食べたいもの、飲みたいものが手に入る。。。


やはり乱用はいけない。規則正しく使うことが肝要であろう。


最近秘かに自分のマイブームなのは、Uber Eatsで刺し盛り(刺身盛り合わせ)をオーダーすることである。酒場放浪記で吉田類さんや女性方のみなさんが、居酒屋で刺し盛りをオーダーして食べているのを見て、あ~刺身食べたいぃぃ~、刺身そういえばもう何か月も、いやひょっとしたら年単位で食べてない。


第一いま居酒屋行けないし。刺身は大きなスーパーじゃないと売っていないし。


それがUberで取り寄せちゃうのだ。(笑)
刺し盛りとカツオのたたき(もちろんショウガ醤油で!)
辛口の冷酒がお供にあればもう最高。


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そんなプチ酒場放浪記を自宅で楽しんでいるのだ。(笑)


焼き鳥、焼き魚、刺身、・・・大体居酒屋のふつうの品なら、大体Uberで取り寄せ可能です。


深夜帯の酒場放浪記、もう夜食テロの番組というか罪作りな番組です。
自分の刺身欲を一気に爆発させてくれました。


だから、いまUberで刺し盛りが結構マイブームなのです。
刺身だったらカロリーも低いしね。




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こちらにもあるんです!プロレスラー御用達のステーキハウス・リベラ五反田店 [雑感]

いまから6年前の2014年に、プロレスラー御用達のステーキハウス・リベラ目黒店をご紹介したと思う。


まさにプロレスラー御用達。店内には、所狭しとプロレスラーの写真が飾られており、まさにムキムキキン肉マンのプロレスラーが、がっつくわらじのようなステーキ、まさに肉食獣のるつぼというお店だ。(笑)


その異様な店内の雰囲気に圧倒されること間違いなし!


でも目黒店は、交通の便が不便で、ちょうど街の真ん中にある感じで、最寄りの電車の駅というのがないのだ。だから渋谷からバスに乗っていかないとたどり着けない。


じつはステーキハウス・リベラには姉妹店があり、五反田にもあるのだ。


なにを隠そう、自分が前職に勤めていたときは、五反田にオフィスがあったので、通勤の帰路途中に、「あ~今日は無性に、リベラのステーキ食べたいぃ~!」と思ったら、気軽に寄っていた、そんな自分のマイ・テレトリーのお店だったのだ。


だから自分にとってステーキハウス・リベラと言えば、本店の目黒店というより、じつはこちらの五反田店のことをいう。


目黒店を日記で紹介した時は、ぜひマイテレトリーだった五反田店のほうも紹介したいな、とずっと心に秘めていたのだ。


そしてついに行ってきた。


JR五反田駅を降りると、ずっと縦に横断する片側3車線、合計6車線の大道路である桜田通りをずっと上っていく感じ。


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そうすると途中で見つけてしまった!

五反田の東京オイスターバー。


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うぉぉぉ~懐かしさの嵐!
コロナ禍に耐えに耐え抜いて生きていたんだね。安否確認会、無事合格。


このお店は前職時代に日本橋の京都銀閣寺ますたにを教えてくれたインテル入ってる!の友人から教えてもらったお店で現地直送の生牡蠣をたらふく食べさせてくれる牡蠣専門店のお店なのだ。


生牡蠣、焼き牡蠣、蒸し牡蠣、もういろんな牡蠣の調理のバリエーションOK!
どこの産地の牡蠣だったか、覚えていないけれど、とにかく新鮮な現地直送の牡蠣。


自分はここに入ると、フランスのパリや、ベルギーのブリュッセルで食したフルイ・デ・メアを思い出します。最後は、必ず牡蠣チャーハンで締めるのが本筋です。(笑)


自分はその後、友人との食事会で、この五反田の東京オイスターバーはよく使わせてもらいました。自分の青春の想いがたくさん詰まっているお店なんですね。このお店の外観に遭遇して、自分が若かった30歳代頃の甘酸っぱい都会生活の青春時代が一気にフラッシュバックしてきた。


話は脱線しました。

この桜田通りをずっと上に登っていくと、ついに発見!


プロレスラー御用達のステーキハウス・リベラ五反田店。


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やっぱりこの外観だよな。


何年振りだろう?1997年~1999年あたりに通いまくっていたから、もう23年以上のブランクがあり、ひさしぶりの再会だ。


店内。
懐かしい~。全然これぽっちも変わっていない。
あの当時のまんま。


この方がマスターです。


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天井にも所狭しとプロレスラーの額縁写真!


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曙も来店。写真が・・・(笑)。


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まさにこれぞリベラの店内。所狭しとプロレスラーの写真が額縁に入れられ、展示されている。まさに本家本元の目黒店の意思を受け継いでいる。


五反田店はこのように狭いんですよね。目黒店の方がぜんぜん広くて大きい。マスターに聞いてみたところ、ステーキハウス・リベラ目黒店と五反田店は、親子でやっている関係なんだそう。目黒店が親で、五反田店が子供である自分がやっている。目黒店は親父さん含め、4人のスタッフ。そして五反田店は子供の自分が1人でやっている。


両店とももう開業して、49年にもなる大ベテランだそうだ。


これからコロナ取材に来るんだよね、と言っていた。コロナの自粛休業の波のときは、どうしていたのか、聞いたら、別に休業していた訳ではなく時短営業でお店はやっていたそうだ。いつもの常連さんは来てくれたそうで、助かった、と言っていた。


ここリベラでは、ジャンボステーキとライスを3枚分、制限時間30分でペロッとたいらげたら、お代をいただくどころか、逆に一万円を贈呈します、という超有名な”チャレンジャー来たれ!”というコーナーがある。


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このことに言及すると、オヤジさんは、「無理、無理、やめとけ。あれはまさに全日本代表クラスじゃないと絶対無理。もうとんでもない量だから。」と仰る。(笑)


そうかぁ・・・ちょっと興味あったんだけれど。


メニュー


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1ポンドというのは453グラム。
いきなりステーキで結構500グラムという無茶をやっていたから、そんなにびっくりしない。

横綱ステーキというのもあります。(笑)
隣の常連さんが頼んでいました。
曙が相撲界からプロレス界にデビューしたときは、曙ステーキというのもあったんですけどね。



自分は1ポンドステーキをオーダー。


このリベラでは、こういう大根おろしに味ぽんみたいな調味料(もちろんお店特製のタレだとは思います。)をまぶしたものをステーキにかけて食べる。


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来た!
1ポンドステーキ。

ワイルド!


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2014年に目黒店に行って以来だから、じつに6年ぶりのプロレスラー御用達のステーキハウス・リベラのステーキ。


懐かしいな~そう!まさにこんな味だったよ!

ウマい!

ものの10分もしないうちに完食。
チャレンジャー来たれ!できるんじゃない?(笑)


まさに1997~1999年頃に会社帰りに通いまくっていたリベラ五反田店のわらじステーキ。満足です。この店内とか懐かしいなぁとしんみり。


当時は若かったから、1ポンドステーキ1枚じゃ物足りないから2枚追加オーダーして食べてたっけ?若いって無茶することだから、楽しい想い出。


コロナ禍を無事乗り越えて、安否確認会も合格。


思いもかけないセンチな感傷に浸った1日であった。






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気になるパン屋さん [雑感]

オラが街には、1995年から住んでいるので、かれこれもう25年経つのだが、途中で同じ街内で2006年に引っ越したので、そこからでも14年になる訳だが、そのとき通勤で駅から自分の家に帰るまでの帰路にどうしても目の前を通る気になるパン屋さんがあったのだ。


14年間ずっと気になっていた。
結構人気店でいつもたくさんのお客さんで繁盛している感じ。


自分はパンは大好きだが、パン党よりごはん党の人なので、おやつとしてならわかるが、パンは食事としての選択肢ではなかった。


だからすごい気になるお店だったのだけれど、ずっとやり過ごしていたのだ。14年間も。(笑)でも目の前を通るたびにすごい気になる~という感じ。14年間も気になりながら、やり過ごしていたのだから、コロナ蟄居中のいま、まさに訪ねてみるいいチャンスなのだろう、と思い挑戦した。


パンの田島


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ネットで調べてみると、結構有名なパン屋さんだった。

コッペパンっていま日本で大流行しているのを知っていますか?


ちょっと太い棒状のパンを真ん中から包丁を入れて割って、その中に具材を入れ込んで食べるパンである。いまコッペパンってすごい人気なのだそうだ。


具材によっていろいろな楽しみ方ができるからなのでしょうね。コッペパンと言ったら、どうしても学校給食に出てくるあのパンのことを思い出してしまうから、それが人気絶頂って聞いてちょっと不思議。


パンの田島は、このコッペパン専門店だった。

そしてパンの田島は、全国に店舗を持つチェーン店でもあったのだ。


東京都に9店舗、神奈川県に1店舗、埼玉県に2店舗、京都府に1店舗の合計13店舗を構えている。お店の立地条件は、必ず駅のすぐ近くという決まり事があるらしい。オラが街も駅のすぐ傍です。


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パンの田島は看板にも書いてある通り、「焼きたて、揚げたて、作りたて」にこだわったコッペパンと揚げパンの専門店。コッペパンは作り置きを一切せず、毎日店内で焼いている。またすべてのメニューはオーダーを受けてから手際よく作ってくれるので、いつでも作りたてが食べられるのが魅力なのだ。


本当にそうなのだ。オーダーを受けてから作ってくれるからアツアツなのだ。
そのかわり、オーダーしてから出来上がるまで結構待たされる。

まるで名古屋駅の在来線ホームの立ち食いきしめんみたいですね。(笑)


ここはひとつの拘りですね。


店内。


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昔の古い学校を思い出させるレトロな店内が特徴。メニューは黒板に書かれていたり、店員の制服が給食当番のようだったりと、結構キュートな演出。オラが街のお店は超狭いのでなかったが、店舗によってはイートインのコーナーを設けているところもあるそうだ。


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コッペパンのメニューは甘い系や総菜系の2つに大別され、それぞれのメニューが豊富。それらは黒板ボードにも手書き風で書かれていて、しばらく眺めていたくなるほどノスタルジーを刺激される。


この黒板ボードはパンの田島のシンボル的アイテムなのだそうだ。

まさに学校の給食だ!(笑)



自分はこの3つをチョイス。
つぶあんクリームチーズ、ピーナッツマーガリン、ダブルホットドッグ。
きちんと外装ビニールの上に商品名を記したシールが貼られているのがかわいいね。


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食べてみて、びっくり!
本当に美味しい!!!


やっぱりコッペパンというとどうしても学校の給食時のあのパンのことを思い出すじゃないですか?あの表面が硬くてパサパサの超マズイ感じの・・・


パンの田島のコッペパンは、もうまったく別物。
焼き立てのとても湿度がしっかり湿っていて、温かくてものすごいもっちり柔らかい。
これは自分のコッペパンに対する常識を覆しました。


本当に美味しいです。


そして中に入っている餡ととてもマッチしていてとても美味しい。中に挟む餡はそれこそ、選り取り見取りで、バライティに富んでいるから飽きることないですね。


パンの田島。
やっぱりコッペパンの専門店。

いま日本中でコッペパンがすごい流行っているのもわかるような気がしました。 


ちなみに、注文オーダーして待っている間、若い兄ちゃんが、スマホ片手に、「Uberです」と言って店内に入ってきて、店員さんからビニール袋を渡される瞬間を見ました。(笑)


なんと!パンの田島、Uber Eatsもやっているんですね。


今度頼んでみよう!





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ワールドフラワーカーペット2020 [雑感]

今年2020年は、自分にとってまずはマーラーフェスト2020があって、東京五輪があって、という超メモリアルな年になる予定だったのだけれど、じつはもうひとつ楽しみにしていたイヴェントがあったんですよね。


それは、ベルギー、ブリュッセルで2年に1度開催されるベルギー・フラワーカーペット。


それが2020年に開催される予定だったのだ。


いつもの日程感だと、大体3月に花の絨毯のデザインが発表される。
そのときブリュッセルで記者会見が開かれるのだ。
もちろんデザイナーも記者会見に立ち会う。


今年2020年度大会は、世界中でコロナのパンデミックの様相を成してきたとき、ありゃ~こりゃダメだな、と思いました。もちろん自分にとってはマーラーフェストが第一だったので、フラワーカーペットどころではなかったのも確かですが。(笑)


でも今年は正式に中止という話は、まだ聞いていない。


ベルギー・フラワーカーペットの場合、使う花はベルギーのゲントで生産されるベゴニアの花を使うことが前提になるので、その花が咲き始める、そして大会が開催される夏の8月本番までは、まだ時間はある。


そんなに慌てて中止を宣言する必要もないだろう。


でもご存じのようにフラワーカーペットもその花絨毯の周りに囲む群衆は密だからねぇ~。(笑)もしやるとしても入場規制が必要ですね。


そんなことを思った今日なのだが、なにげにワールドフラワーカーペット2020 (World Flower Carpet 2020)という花の絨毯を敷き詰める大会が、東京で5/30~6/3の期間に開催される予定だったことを知って驚いた。


なんだそれ?


ワールドフラワーカーペット?

そんなイヴェントは聞いたことないぞ!という感じで初耳でびっくり。


公式HPも3月に正式にオープン。


ワールドフラワーカーペット2020




世界で最も美しい花の絨毯の祭典が東京へ!


2006年より2年に1度、世界各国地域が一堂に集まるフラワーカーペットの世界大会が開催されています。世界中の花絵アーティスト達が、街を世界で最も美しい花の絨毯で埋め尽くします。


そして2020年に開催される第8回目となる世界大会開催地は「東京」に決定しました!


なのだそうだ。(笑)


超驚き!

まったく知らなった・・・。


東京、教えてくれよ~。という感じですね。


まぁ、でも3月はちょうどコロナ騒動勃発で、世界はそれどころでなかったから埋没してしまう感じで仕方がなかったですね。


残念ながら、ワールドフラワーカーペット2020東京大会は、開催延期になってしまった。


でも必ず無事開催されることを祈って楽しみにしておこう!


ワールドフラワーカーペット2020は、またあとで、説明します。



まずは、もう自分の日記では超お馴染みのベルギー・フラワーカーペットのおさらいをしておこう。おそらく世界でも最高峰の花絨毯のお祭り。


ベルギーの首都ブリュッセルの世界一美しい広場であるグランプラス広場で8月中旬に1週間開催される。想い出深いところでは、2016年。


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このときは日本・ベルギー国交150周年記念ということで日本がテーマ。デザインは「花鳥風月」。デザイナーは乃村工藝社の鈴木不二絵さん。


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鈴木不二絵さんも花を敷くの手伝った。こりゃもちろん自分は行ったよね~。もう4年前。コロナで心が荒んだ昨今、なんかすごい遠いことのように思える。この年は、バイロイト音楽祭とロンドンのグラインドボーン音楽祭やBBC Promsに行くついでにひっかけて、このベルギーフラワーカーペットに寄ったのでした。



そして2年前はテーマは「メキシコ」グアナフアト州がテーマ。


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75メートル×24メートル(1800平方メートル)に展開されるこの年のカーペットの技術的レベルは過去最高の難易度と言われた。


デザイナーは愛称RooことAna Rosa Aguilar Aguadoさん。 花のカーペットに仕立てるにあたっては、ベルギー人のMark Schautteetさんの協力もあったそう。


Rooも当日は花を敷き詰めるのを手伝った。


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ベルギー・フラワーカーペットは、朝5時、もうこんな暗くから、花の敷き詰め作業が始まるんです。


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花を敷き詰めるのは、市民ボランティアです。ブリュッセルに在住の人々に、特にメキシコ系の方々。おそらく母国メキシコからもたくさんかけつけていると思いますよ。4年前の日本の時もそうだった。ブリュッセル在住日本人とか、日本からかけつけてくれた方もいらっしゃった。


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そしてなぜか絶世の美女も・・・(笑)


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よっしゃ~!完成を祝って気勢をあげるメキシコ・チーム!


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メキシコ・チーム、みんなで記念撮影。


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ベルギー・フラワーカーペットの鑑賞するコツは、建物の高いところに上って、花絨毯全体を俯瞰するような鑑賞の仕方をすることですね。



特に絶景なのは夜景なのです。花絨毯の周りにライトがついていて、夜にそのライティングされた花絨毯は最高なのです。


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2016年の日本の花絨毯のときは、じぶんは昼間に十分に鑑賞して、そして広場のすぐ傍のアーケイド街のレストランで、ベルギービールにバケツに入ったムール貝のワイン蒸しとか食べまくって、夜まで時間をそこで潰して、そして夜暗くなってふたたびグランプラス広場に出向いたのです。



今年2020年はどこの国がテーマなのだろう。
そしてデザイナーは誰なのだろう。間違いなく女性ですね。


そ・こ・で・だ。


ワールドフラワーカーペット2020(World Flower Carpet 2020)。


2006年から始まっている花絨毯フェスティバルで、ベルギーのように決まった場所でやるのと違い、開催場所は世界中を転々とするそうだ。オリンピックみたいですね。


たぶん今年2020年は、東京五輪の年なので、それにフェーズを合わせるためにフラワーカーペットも東京で、ということになったのでしょう。


ベルギーの場合、使う花は、ゲントで生産されるベゴニアという花を使うのだけれど、こうやって世界中を転々とするということは、使う花はどうやって調達するのかな、と思いますね。


会場に国際輸送するのか、その開催地で生産される花を使うのか。。。


このワールドフラワーカーペット2020東京大会。


会場は、あの山手線の新駅である高輪ゲートウエイ駅にある広場で花絨毯が敷かれる予定だったのだそうだ。1200平方キロメートルの花絨毯。


ベルギーで1800平方メートルだから、これはかなり大きい規模だと思いますね。


これが、ワールドフラワーカーペット2020東京大会のロゴです。


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この方が花絵師国際連盟会長のVicentaさん


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World Flower Carpet 2020開催に向けて、こんなメッセージを寄せられた。(引用元:FB:World Flower Carpet 2020)



世界の花絵芸術のリーダー的存在である花絵師国際連盟(Coordinadora Internacional de Entidades de Alfombrista)は、今年5月29日から31日に東京の街で開催されるエフィメラル・アートの大会の準備をしています。指揮をとるのは我々の代表、才能ある花絵師かつインフィオラータ・アソシエイツ・ジャパンの社長でもある藤川靖彦氏です。3大陸10か国の27団体が参加して行われる文化的、社会的に非常に重要なイベントであります。


参加する全花絵師が一団となって行う1200㎡のカーペットの制作は、その素晴らしいデザインと複雑により非常に芸術的価値の高いものとなることでしょう。異なる国々の花絵師たちが制作を共有するのはこれまでなかった出来事であり、共存および我々を繋ぐ平和のシンボルとして私たちに希望的観測を与えてくれるのです。花とエフィメラル・アートによる言語というのは普遍的であるゆえ、このメッセージは訪れるすべての人々に届くことでしょう。


各国の技法を実演するワークショップや使用される様々な素材の展示も行う予定です。関係機関の皆様、花絵文化協会、協賛の皆様、そしてこのすばらしいプロジェクトを実現させてくれた我々の仲間 藤川靖彦氏に深い感謝の意を表します。5月30日・31日には是非私たちのイベントを訪れ、この巨大な芸術作品やワークショップを楽しんでください。私たちはこの素晴らしい東京の街を訪れ、私たちの芸術的才能を人々と分かち合えることを非常に嬉しく思っています。


間もなくお会いする日まで、友愛をもって。




このメッセージを読んで、このワールドフラワーカーペットというイヴェントがどのようなものなのか、理解できたような気がする。


デザイナー、兼、花を敷き詰める人は、”花絵師”というプロなのだ。(花絵師国際連盟に加盟する花絵師)そして世界中(3大陸10か国の27団体が参加する)からそのプロの花絵師が集まり、その会場にて花絨毯を作り上げる、そういうイヴェントなのだ、ということなのだろう。


今回の東京大会の総指揮を執るのが、自らが花絵師かつインフィオラータ・アソシエイツ・ジャパンの社長でもある藤川靖彦氏。


ベルギーは、デザイナーはどういう選考基準かわからないけれど、デザインのプロなのだろうけれど”花”には拘ってはいないと思う。ツールとして花を使うということであって。もっと選考基準は広いような気がする。


でも花を敷き詰める人は、市民ボランティアだ。

ベルギーはどちらかというと市民色の強いイヴェントのような感じである。




これが、そんな世界中の花絵師というプロが作り出す2020東京大会の花絨毯のデザインである。


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これ、本当に花を敷き詰めることで実現できるのかな?(笑)
相当な難易度のような気がします。

さすがプロです。

これは最高に楽しみだ!


山手線の高輪ゲートウエイ駅も一度は行ってみたかったので、本当に楽しみです。


残念ながらコロナで開催延期。


このように正式に開催延期の通知が出ています。


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でも世界中の花絵師のプロたちは、世界中がステイホームのなか、GW中にこのような作品を作ったのだそうです。


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United in the heart=想いに国境はない。のメッセージを添えて。


う~ん、このような花絨毯フェスティバルが世の中に存在していたとは、まったくつゆ知らず。願わくば、べつに来年でもいいから、東京で開催されることを切に願いたいです。






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Social Distancing [雑感]

紀伊国屋書店が、本日5/7から営業開始する、という。5月下旬までの緊急事態宣言の1か月延長があったにも関わらず。やはりそこには、きちんとした補償もなく、たださらに1か月自粛延長するのは、補償ゼロで無収入が続くだけでそのまま倒産してしまう危険性もあると判断したのだろう。(東京都からは、休業のための協力金が出るようですが。)


お気持ち察します。


でもこの本屋さん解禁と似たような感想を抱いたのは、美術館や博物館も解禁するという政府の意向の記事を読んだとき。


その一番の理由は、Social Distancing(社会的距離)や密の定義なのだろう。


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政府のコメントで、通勤の満員電車はけっして密ではない、というコメントを読んで、腰を抜かすほど驚いたことがある。(笑)


彼らのそういうコメントの主旨は、人から人へのコロナ感染のもっともキーポイントなのは、飛沫だからということである。満員電車は、確かに人が密集しているけれど、電車内で喋っている人を除けば、みんな静かに沈黙しているから、そしてマスクをしているから、飛沫対策については、そんなに問題ないという。(いまや電車内で喋る行為も禁止ですね。)


そうかぁ、そういうことであれば、政府が容認しようとしている美術館や博物館も、閲覧は静かにおこなわれるから飛沫の心配はそんなにないのかもしれない。(あと、美術館や博物館は歴史的貴重な国家財産だからつぶしたくない、というのもあるでしょう。)


そうすると本屋さんもそうなんだと思ってしまう。
静かだよね。


じゃあ、なにが言いたいかというと、クラシックのコンサートもお客さんは静かに聴いているわけだから、飛沫や発汗の危険性は少ないわけで、そういう意味で、そんなに危険性がないのでは、と思うのだ。


いままでの政府の方針を基準に考えてみると・・・


えぇぇ、ボクが早くクラシックの生演奏に接したいのと、現在のオーケストラ楽団の危機的な経営状況をできるだけ早く救済したいという思いだけで話しています。


楽章間の咳き込みは、もちろん咳エチケットで禁止してもらう。
聴衆はマスクも着用。


そうすれば、そんなに危険性がないのでは?と思います。


歌ものは、ちょっと難しい点がありますね。
歌手の場合、どうしても難しいですね。

オペラはさらに難しい。歌手、役者さん通し、接して歌いながら演じますから。


でも普通のオーケストラ・コンサートであれば、そんなに危険視せずに早期再開してもよいような気がします。


たとえば、アイドルのコンサートなどのようなライブハウスで、ステージ奏者が声を張り上げて歌って、観客が全員歓声・絶叫を上げるなどの場合、これはやはり飛沫的にかなり危険がありますね。


そういう意味で、やはりこれは難しいような気がします。
集団免疫とワクチンができるまで待ちましょう、という感じでしょうか。


そういうことで、ボクはクラシック・コンサートは、じつは密条件、コロナ感染条件としては、そんなに厳しくなくても大丈夫なのではないか、と自分の心からの希望だけで、宣言したいだけです。(笑)


3密条件は、人との会話、人の密集しているところ、換気が悪いところ、なので、単に飛沫、発汗の問題だけではないのかもしれませんが、ふと感染症学素人の自分が思ったことです。





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Uber Eatsとまいばすけっと [雑感]

自宅お籠りしてもう3~4週間は経過すると思うが、毎日の食事の食材を買いに外に出ることすら億劫になってきた。そんな中でSNSでみんながやっていることでちょっと気になることがあって、それがUber Eats。


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人気のレストランの料理をそのままご自宅にお届けする、という宅配サービス。飲食店と配送業者がビジネス提携して、カスタマーのみなさんに、そのお店の料理をご自宅に宅配するというサービスである。


Uber Eatsのサイトにアカウントを作成して、住所、クレジットカード登録するだけなので、なにもせず、そのままウチにいるだけで、お好きな外食が宅配されてくる、という仕組みである。


提携している飲食店はサイトに登録されている範囲内ということになるが、クレジットカード決済なので、いちいち現金を降ろすために外出しなくてよい。あと、宅配するには、やはりそのお店とユーザ宅までの距離の問題もあるから、どうしてもエリアが設定されますね。自宅住所の近辺のある範囲内に限定される。


サイトには、そのお店の人気料理メニューの写真が、HPいっぱいに並んでいる。


まるで音楽配信サイトだ。(笑)

そのサイトから料理を購入する訳だ。
これもものの見事なEC(E-Commerce)ですね。(笑)


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自分はまだ実際注文したことはないけれど、自分の住所の神奈川県内エリアに設定すると、候補のお店の料理写真アイコンがいっぱい並んでいる。


ちょっとサクッと眺めてみたのだけれど、Uber Eats 高い!(笑)料理単品の代金、サービス料、配送料諸々入れると、結構かなりな金額に・・・。あと登録されているのが、どうしてもチェーン店に偏ってしまうのは仕方がないか。ボクの住所近辺の話ですけど。


まぁ、まだサービスが始まったばかりだから、サイトへの登録店も少ないし、仕方がないでしょう。コロナで外出自粛がこれからずっと続くとなると、外に出たくない、出れない、でも買い物には出ないといけないというようなニーズには最高のサービスになるでしょう。


まさにコロナ特需のビジネスになるかもしれません。


毎日食べるごはんメニューがワンパターンで飽き飽きしていたところなので、外食宅配って結構新鮮かも? ボクのような1人暮らしには最適かも?コロナ収束後であってもそのまま存在し続けてもいいですよね。


楽ちんです。


Uber Eats自体は、もう3周年になるそうで、いままさにその需要が爆発するときかもしれません。登録店がどんどん増えて。。。飲食店も生き残っていくには、テイクアウトに手を伸ばすのはもちろんのこと、こういう宅配サービスでも活路を見出して、なんとか終息まで生きながらえるという感じでしょうか。




自分は食事関係の調達はそんなに苦労しない立地に住んでいる。
自分が住んでいるのは、完全に住宅地のど真ん中。


都市型スーパーマーケットやイトーヨーカドーのような大型店舗は街中まで行かないといけない。でも住宅街の中に、なぜかポツンと1軒だけ、生鮮食品スーパーマーケットが存在するのだ。


お店が儲かるかどうかって、結構立地条件って重要だと思うんですよね。競争力の激しいお店がたくさん並んでいるところに、お店を出しても、お客さん食われちゃう。でもこんな住宅街のど真ん中にポツンと1軒だけある、というのは、その周辺の住民たちが必ず買いに来るという固定客層をがっちりと掴めますよね。近いと絶対便利です。


自分のウチのすぐ目の前、歩いて30秒もかからないところに、そういうスーパーがあるのだ。


だから食材の調達に困ったことがない。

それがこのスーパーマーケット、”まいばすけっと”


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この住宅街のど真ん中に立地させるって頭いいな~といつも思ってました。この地に引っ越してきた当時、”まいばすけっと”という名前のスーパーは、なんだそれ?という感じで珍しかった。


一見コンビニっぽいんだけれど、でも、セブンイレブンやファミリーマートのようなコンビニとはちょっと違うんですよね。コンビニのようなインスタントなものだけでなく、ちゃんとした生鮮食品も売っているスーパーなのだ。それでいて、もちろんコンビニに置いてあるの生活必需品やインスタントも売っている。


超便利なのだ。


ボクは、今日はウマいもんを食うぞー、と外食するとき以外は、ほとんど毎日、この”まいばすけっと”で食材を調達してる。会社帰りに寄って、そのまま家に帰るという順路である。


夜中に、あ~あれ飲みたい、とか急な食欲が沸いたときでも、ウチの目の前だからすぐに歩いて行ける。コロナ禍のこのご時世には、すごい恵まれている環境なのかもしれない。


ボクは、1週間分の買い物、買いだめというのが苦手である。
毎日買い物にいく。


なぜかというと、食品を1週間分買いだめして、家の冷蔵庫に保管しておく、あるいはインスタント食品でも保管しておくということができないのだ。家の中で食欲の欲望の赴くまま、食べたいと思ったときに、全部食べちゃい、あっという間にストックがなくなってしまうからだ。


なんか猫のような感じですね。(笑)


こういう習性は、血糖コントロールにとってかなりよくない。
この病気は夜食とか、間食とか絶対しちゃいけないのだ。


だから毎日食べる分だけ、買ってくる。食べたら、家の中にはなにも残らないというのがベストなのだ。それには、自分のウチの目の前にスーパーがあるというのは、本当に助かっているというか、生きていくうえで最高の住宅立地条件だと思っている。


そんな、まさに、マイ・スーパーマーケットとも言える”まいばすけっと”について紹介しよう。


”まいばすけっと”は、イオングループが経営しているスーパーマーケットで、イオングループのまいばすけっと株式会社が関東地方で、またイオン北海道株式会社が北海道にて展開している都市型小型食品スーパーマーケットである。


2020年2月時点での関東地方での店舗数は846店、北海道での店舗数は37店である。

関東と北海道にしかないスーパーなんですね。


駐車場を備えた郊外型大型店舗と異なり、高齢化や人口の都心回帰に対応して、市街地の小型店舗で徒歩で買い物に行く層を開拓する狙いがあるのだそうだ。


どうりで。(笑)

自分がふだん思っていた通りだ。
やっぱりイオングループ頭いいよ。

そのものズバリでマーケット戦略大成功という感じです。


店内はこんな感じです。

かなり立派ですよ。


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毎日買っているバナナは、ボクのせいで今日は残り僅か。


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レジはちゃんと飛沫対応してあります。(笑)ちなみにお店の入り口には、女性の店員の方が立っていて、手に消毒スプレーをかけてくれます。


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レジへ列が並ぶところもちゃんとSocial Distancing対応!


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ドリンクもこんなにたくさん!


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お肉類も。。ちょっとした自炊のための食材には全然困らないです。


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ここがコンビニと違うところなんですよね。あくまで生鮮食品スーパーマーケットなんです。でもコンビニの生活必需品、インスタントも揃っているという。


唯一の欠点は、お魚が置いていないことでしょうか?
これはやっぱりちょっと無理だよね。



そんな訳で、Uber Eatsに頼ってしまうと、食べたい分だけ食べてしまう可能性があるので、せっかく自宅の目の前が、スーパーマーケットなんだから、毎日億劫がらずに買い物に行こう!


”まいばすけっと”万歳!!!


日記で自分の普段通っているスーパーマーケットをレポートする人なんておかしいよね。(笑)






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蝋管レコードの再生 [雑感]

ステイホーム週間の過ごし方について、NHK首都圏ニュースの林田理沙アナウンサーが 「ワーグナーのリング指環15時間のオペラを観るつもり」と言って、不意を突かれたクラシックファンは思わずぶっとんでしまい、バスってしまったようだ。(笑)


じつは林田アナは、東京藝術大学音楽科の卒業で、「日本でクラシック音楽がどのように普及したか」というテーマで研究していたという。筋金入りだったんですね。


いきなり知名度アップ。人気急上昇の予感ですね。


これに触発されて、自分の大学時代の研究テーマについて日記にしてみようと思いました。 自分の素性を紹介する上でもいい機会だと思いました。


北大の工学部電子工学科卒業です。


別に自慢するわけではありませんが、当時は電子工学科は時流に乗った最高に花形の学部でした。最初の2年の教養学部時代に、相当優秀な成績でないと、自分の希望の学部に行けなかった。電子工学部はその中でもかなり優秀じゃないとという競争率でした。


だから自分は教養学部時代に一生懸命勉強して頑張って希望通り、電子工学科に入れた。
一旦入ってさえしまえば、あとはもう遊んでいました。(笑)


自分の大学時代は、教養学部は本当に一生懸命勉強していた学生で、工学部に移ってからはもう安心してひたすら遊んだ、という感じです。


だから自分の最高にパラダイスの楽しい大学キャンパス時代の想い出は、この工学部電子工学科に入ってからのひたすら遊んだ時期であった。


友達とのロック談義、麻雀、友達と居酒屋で飲み会、連日、友達の下宿に泊まり歩いて生活していたこと。塾講師や家庭教師のアルバイトで自分の小遣いを賄っていたのも工学部に移ってから。


当然成績はみるみるうちに急降下。(笑)


教養学部時代は素晴らしい成績で電子工学科に入部して、電子工学科を卒業するときは、自分ではよく知らないけれど、おそらくクラスでもかなり下の方の成績だったと思われる。(笑)


電子工学科は花形で、当時はバブル全盛期だから、就職先も引く手数多。
就職は、教授の推薦状でそれで決まってしまった。
一応、企業での面接はやりましたが一応形式上。

もう就職はレールに乗るだけでそのまま決まるような感じだったんですよね。


電子工学科の就職先は99%の確率でもうほとんど電機メーカー。NEC、松下(当時の名称)、日立、東芝、富士通、IBM。。。てな感じで、学生が希望を出して、そのまま教授が割り振って、競合した場合は、成績順で優先順位を決める。それで決まっちゃう感じだったのだ。


いまの就職氷河期、そしてコロナ危機の学生たちには、可愛そうだし、とても申し訳ないと思うけれど、当時のバブル期はそうだったんだよね。


なぜか、その当時NECがすごい1番人気だったんだよね。ボクは、成績悪いから、どうせ競争率が高いところはダメだろうということで、どこのメーカーにしようか、ということで、なんと!その企業がなにをやっているか、自分が将来なにをやりたいのか、なんてそっちのけで、もらえる給料のことを優先して考えたのだ。


当時の電機メーカーは電気労連というのに入っていて、労連に入っているメーカーは夏冬のボーナスは6か月って決まっていた。でもソニーは電気労連に入っていないから8か月だった。


これで、ソニーに決めてしまったのだ。(笑)


やっぱり重電の電気メーカーが安定感があって、家電だけのソニーに行くような奴はいなかった。自分は家電だけの方が軽い感じがして、自分にはそのほうが向いていると思った。


ボーナスのもらえる額で決めた就職先だったが(笑)、あくまで結果論だけど、人生的にそれが大成功だった。人生って本当にどう転がるかわかりませんね。


電子工学科時代は、もうマニュアルどうりの教育カリキュラムで、電気回路、電子回路とか、コンピューターなどの情報工学とか、もうたくさんあって思い出せないけれど、講義に出席していました。


でも自分は講義をサボったり、代返事をつかってズルをしたり、というようなことはけっしてしなかったところはよかったと思う。


講義は真面目に出席していました。宿泊した友達の下宿先から友達一緒に登校するという感じですが。


ただ、言えることは、大学で学んだことは、社会や会社でそんなに即戦力で役立ったかと言うと、あまりそんな感じは抱きませんでしたね。


社会に出て、ぶち当たる仕事はもうそのときに夢中になってそのときに勉強していくしかない。

自分はそうやって人生を渡ってきた。

これは、もちろん自分の体験談、自分のケースです。


大学で学んだ知識はふつうは社会に出ても役立つことはもちろんです。特に社会に出て、こういう職に就きたいという進路が見えている場合は、その道の大学に進んでいる場合はそれは当然社会に出るための準備になるでしょう。


こう断言すると気分を害する方もいらっしゃると思いますので、これはあくまで自分のケースだということでご容赦ください。


ボクは人生かなり行き当たりばったりで生きてきましたから、そんなに計画的な人生じゃなかったんです。


電子工学科でひと通り勉強して、そして最後の卒論のときには、光システム工学科というところに移籍しました。大学の卒論テーマを書くためです。


なぜ光システム工学科を希望したのか、よく覚えていないのだけれど、ソニーに行くことが決まった後で、当時アナログレコードからCDに切り替わる時代だったから、CD再生などの仕組みで光学系って大事だと思ったからだったのかなぁ。


この光システム工学科時代にとてもせつない想い出があるんですよね。
それは大学教授の秘書に恋してしまったこと。(笑)
結構美人でした。


理系はやっぱり女性が少ないから、人生で恋する機会はあまりなかったんだけれど、このときの恋はかなりせつなかった。女性に恋することって、こんなに胸が苦しくて切ないことなのか。


食欲もなかったですから。まさかもう大学卒業する間際にこんなことになるとは思いもしませんでした。いままで長い間人生歩んできましたが、このときの恋ほどせつない想いになったことはありませんね。


このときほど激しく燃え上がる恋はなかったです。

これが本当の恋というものですね。


社会人になって東京に出てからも、手紙の文通のやりとりを何回かしていましたが、その後、「私結婚しました。」というお手紙が。(笑)


・・・結婚式の写真付きで。(笑)


見事失恋となりました。


光システム工学科時代の想い出は、卒論よりこの恋のせつない苦しい日々のことが強烈に記憶に残っています。


卒論は、「蝋管(ろうかん)レコードの再生」。


蝋管 (英: wax cylinder) とは、音を録音して再生するための商業的媒体として最初期のもの。1896年〜1915年に最も広く普及しており、その頃は一般に「レコード」とだけ呼ばれていたものです。


蝋管(ろうかん)


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中空になった円筒形の物体(シリンダー)であり、外面に録音内容を音溝として刻み込み、蝋管型蓄音機に取り付けて再生します。


エジソンによる1899年頃の蝋管蓄音機。


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でも1910年代には、蝋管と競合していた円盤状レコードが市場で勝利をおさめ、円盤レコードが商業的な音楽媒体の主流となりました。


この光システム研究所には、北海道のアイヌ文化の時代に、そのアイヌ人の話し声などが録音された蝋管レコードが何本も残されて所持していたんですね。アイヌ語の解明として歴史的資料などとして価値のある資産でした。


それはかなり古い歴史的に価値のある資産だったので、いま蓄音機のような針などで音溝をなぞってしまうとその音溝を破損してしまうため、それを非接触の光学方式で再生できないか、という課題テーマを抱えていたようなんですね。


それがボクの卒論のテーマになりました。


ソニーに行くので、それじゃCDの光学再生系と共通するところがあり、ボクが最適と思われたのでしょう。


原理は、音溝はその音声、音圧に比例するように音溝が彫られている訳ですが、その音溝にレーザー光を照射して、その反射光の角度を測定していけば、その反射角情報から音声が復元できるのではないのだろうか?というシンプルな原理です。


いまの光ディスクの再生系の光学系の基本原理と同じですね。


助手の先生に付いて、この実験に取り掛かったのですが、蝋管を回す駆動系、照射、反射角読み取りなどの光学系のシステムを構築するところなど、かなり助手の先生にやってもらったところが多いですが、なんとか卒業の期限までに完成。


再生したら、アイヌ人の話し声が聞こえてきました。「ネバノ〜ン・・・」という感じで。(笑)結構生々しくて、身震いする感じで怖かった記憶があります。


そこから急いで卒論を書く作業です。


当時パソコンで書くなんていう時代じゃなかったですから、一太郎のワープロソフトで書いた記憶があります。一太郎なんて触ったこともなかったので、その操作を苦労して覚えて、一生懸命書くという同時学習で、すごい大変な重労働だった記憶が・・・。


そしてそれを製本する訳です。


もちろん、その蝋管レコードを再生する駆動系、光学系の写真なども撮影して、写真も貼り付けます。


助手の先生がいなければ、絶対無理な作業でした。


その製本された卒論、大学に1冊、ボク用に1冊、製本したんですが、自分はそれをなくしてしまいました。大学にはあるかも・・・。


いい思い出です。



いまコロナ禍で、みんなステイホームで、SNSで自分の幼少時代、若かった頃の写真を掲載してるようなので、ボクもそうしてみます。


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 1994年のヨーロッパに住んでいた時に、そう!まさにちょうど今の時期です!オランダのチューリップ畑で有名なキュッケンホフで撮影した今から26年前のボクの写真です。

当時オランダに住んでいた友人に撮影してもらいました。



 


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B&W オン・ザ・ジム! [雑感]

B&W オン・ザ・ジム!(笑)


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いかにもアメリカ人らしい発想なんだよなぁ。(笑)


汗臭さたっぷりのジムに、清楚なクラシック音楽を得意とするB&W。

802です。

スパイクもきちんとはかせています。(笑)


足元にサブウーハーがゴロゴロしているので、バスドラの効いたヘビメタでもBGMとして流すのでしょうか?

B&Wじゃ鳴らないと思うよ。。笑笑


いまや”密”の代表格となってしまい閑古鳥のジム。

お籠り生活でタブついた体を、またこういうところで絞りたいものです。





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ミルマスカラスの素顔 [雑感]

子供の頃はごたぶんに漏れず、プロレスに熱中した。オヤジからプロレスは八百長だ、と言われたのが子供心にショックだった。新日本プロレスのアントニオ猪木は最高に燃えたな。


その中でも、覆面レスラー、マスクマンは大興奮だった。


初代タイガーマスクの登場は衝撃だった。小さい子供の頃、アニメのタイガーマスクは何回も見ていたからだ。巨人の星とタイガーマスクは必須でした。この頃のアニメはひとつの影というか暗さがあって秀逸でしたね。


初代タイガーマスクの空中殺法には度肝を抜いたものでした。
ライバル小林邦昭との勝負は燃えました。


マスクマンの試合でやっぱり1番興奮するのは、相手が覆面に手をかける、ときではないだろうか?試合中に覆面剥ぎをしようとすると、もう興奮度ボルテージ最高潮になってしまう。観客席からキャーの異様な声になるし、実況アナウンサーも、「あっマスクに手をかけています!!!」と大絶叫。もうこれは最高の興奮のルツボだ。


後年知ったことであるが、初代タイガーマスクの佐山サトルと、ライバルの小林邦昭はプライベートでは仲が良いらしく、試合中にマスクに手をかける、ことはお互いの事前の了承済みだったんだそうだ。


ショーだったんだな。


これを知ったときは、少なからずショックでした。(笑)


初代タイガーマスクと小林邦昭の試合では、小林がタイガーのマスクに手をかけるときが、もちろん最高に興奮するときで、ある意味、これ見たさなところがありました。


マスクマンの試合で興奮するのは、マスクマン同士の試合で、試合の勝ち負けでマスクをかける、あるいはふつうのプロレスラーとの試合で髪とマスクをかける、という試合ではないだろうか?


当時って、本当に人間の精神の究極のショーをやっていたもんです。今のご時世、そんなことをテレビでやったらテレビ放映倫理上、苦情が来そうな感じがします。


そんな少年時代、衝撃のマスクマンが登場した。

ミルマスカラスである。


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メキシコの覆面レスラー。
メキシコという土地もプロレスが盛んな国でした。


ミルマスカラスは子供心に相当衝撃であった。そのマスクの奇怪なデザインで、カッコいいという反面、ちょっと異様な衝撃というか、相当気になる覆面レスラーであった。


そのレスリングスタイルは華麗なる空中殺法。ある意味、初代タイガーマスクのお手本だったというか、その前に空中殺法をプロレスの世界に取り入れた立役者でもあった。


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「千の顔をもつ男」。
「仮面貴族」。


試合毎にマスクを変えることから、そういうあだ名で呼ばれていた。
入場のときは、「スカイハイ」のテーマに乗って登場する。


スカイハイはカッコいいテーマ曲なので、当時の自分は外国人マスクマンなのに、なんかそういう日本人でもないのに正義の味方のようなイメージ付けにちょっと子供心に反抗心があった。(笑)


そして入場のときは、試合用マスクの上から別のマスク(オーバーマスク)を更に被り、試合前にそのオーバーマスクを客席に投げてファンにプレゼントするパフォーマンスが人気を集めた。


とにかくやることが常に斬新で、いままでの日本のプロレス界にはいないタイプだった。外国人レスラーだから子供心に認めたくないという気持ちが複雑にあって、ちょっと悔しいというか、でもやることが華麗で斬新でそれだけ気になるマスクマンだったのだ。


ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田の全日本プロレスのほうに登場しましたね。


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ネットで調べてみると、本名はAaron Rodríguez Arellano。1942年7月15日生まれ。現在78歳。メキシコのプロレスラー。サン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。学生時代からレスリングとボディビルに打ち込み、レスリングではメキシコ代表として1964年東京オリンピックの候補にもなったそうだ。


そうかぁ、ボディビルをやっていたんだな。だからこれだけのムキムキマンだったんだ。



ごたぶんに漏れず、ミルマスカラスの試合で相手がマスクに手をかけることを期待した。(笑)日本の試合ではなかったようだけれど、プロレスの雑誌はよく本屋さんで立ち読みをしていたので、そうすると相手がミルマスカラスのマスク剥ぎしようとしている場面や、マスクを破る衝撃場面の写真が載っていたりして、子供心に相当興奮しました。(笑)


こんな感じです。


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写真ではなかったけれど、タイガージェットシンとの試合で、ミルマスカラスのマスクを完全にやぶってしまい、素顔が露出して、あやうくタオルで顔を覆ったということもあったと記事を読んだことがあります。


相当興奮しました。


弟のドスカラスも有名な覆面レスラーであった。


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全日本プロレスではドス・カラスとの兄弟タッグ「マスカラス・ブラザーズ」としての来日も多かった。


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プロレスは、本当に小さいころ、小学生、中学生のときにもう卒業してしまったが、いまなにげなくミルマスカラスの素顔ってネットに転がっていないかな?と思って、ググってみたら、なんと!!!そんなスクープがあったのだ。(笑)


YouTubeにもなっている!


ミルマスカラスの素顔。


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えぇぇぇ~!?(笑)


ドスカラスの素顔。


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えぇぇぇ~!?(笑)


ミルマスカラスとドスカラスの対談


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ミルマスカラスと奥さん


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衝撃。。。笑笑


確かにミルマスカラスは、目元のまん丸としたところは、間違いなく本人に間違いないと思いました。


この画像の元になったのが、このYouTube。






ミルマスカラスが、マスクを取って、素顔を出すところが衝撃だ。(笑)

いまの年寄りになって、ようやくスッキリしました。


新型コロナでマスク不足が社会問題ですが、私は同じマスクでもミルマスカラスとドスカラスでいきたいと思います。


えぇ、いまの気が滅入る社会情勢の中、私もひたすらテレビ東京路線で突っ走りたいです。


2011年の東日本大震災のときに、ほとんど全部のテレビ局がその報道をやっていたにもかかわらず、テレビ東京だけが、いつもと変わらず旅番組をやっていたように・・・(笑)


 


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無観客上演でのライブストリーミング配信 [雑感]

新型コロナ(COVID-19)感染症予防対策として、コンサートなどの観客が集まるイヴェントは軒並み中止、延期の嵐だ。専門家はここ1~2週間が最大の山だと言っているために自粛要請。


でも2週間経過したら、再開できる、よくなっているという保証はどこにあるのだろうか?なにを、どこを基準にして再開します、と判断するのであろうか?みんな先が見えなく不安で仕方がなく毎日憂鬱な日々なのではないだろうか?


自分のSNS TLはクラシック専門なので、もうこの問題はみんなの生活に直結している。
フリーランスは最大の危機だ。


まさか、神様は地球にこんな試練を与えるとは・・・。


武漢で騒いでいた時は、どこか他人事だったかもね。たった1日をきっかけにパンデミック・レベルだ。クラシックのコンサートは、もう3月の予定はほとんど全滅で中止か延期。4月もどうだか。


こんな国難に遭遇して、ここに来てクラシック界の中でひとつの流れが出てきたように感じる。それは中止になった公演を、無観客で演奏して、それをインターネットで無料でストリーミングでみなさんに届ける、という動き。


まず、びわ湖ホールで毎年大人気で即決ソールドアウトのびわ湖リングこと、ワーグナーのニーンベルクの指環。今年は最後の「神々の黄昏」。


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最高に盛り上がるはずが、無念の中止。延期ではなく、中止だ。


びわ湖ホールの自主制作なので、自分の懐を痛めて制作しているわけだが、その製作費1億6千万!これが中止になって全部水の泡。大損害だ。


チケットは払い戻しだが、それで終わらない。せっかく1年以上かけて作ってきた舞台装置ふくめ、このまま埋もれてしまうのは勿体ないということで、これを無観客でオペラ上演し、YouTubeでストリーミングで流すという。しかも無料で。


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もう神対応というか、涙が出てきしまった。
さぞかし無念であったろう。

さらにはDVDにも記録して、販売するという。
でもDVDでの売り上げなんて、製作費1億6千万に比べたら雀の涙だろう。


無料ライブストリーミング配信
 各日、公演の模様を無料ライブストリーミングで同時配信します(ドイツ語上演・字幕なし)配信日時:令和2年3月7日(土)・8日(日)各日13:00開始、19:00終了予定


●びわ湖ホール プロデュースオペラ 「神々の黄昏」3月7日
https://www.youtube.com/watch?v=pbhzqWLfus0


●びわ湖ホール プロデュースオペラ 「神々の黄昏」3月8日
https://www.youtube.com/watch?v=yv5tfl7t_nI


つぎにミューザ川崎。


これも東響(東京交響楽団)の名曲全集とモーツァルト・マチネの2公演が中止となった。でも音楽を届けたい!というミューザ&東響の熱い想いから、やむなく公演中止となった2公演をニコニコ生放送「東京交響楽団 Live from Muza!」として急遽配信することになった。


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3/8「名曲全集」3/14「モーツァルト・マチネ」の2公演を無料・登録なしで生視聴できる。


3月8日 (日) 14:00開演
ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団「名曲全集第155回」



3月14日 (土) 11:00開演
モーツァルト・マチネ 第40回



そうかぁ、ライブストリーミングの使い方としてこういう使い方があるのか~と思っていた矢先。もっとも恐れていたことが!


東京・春・音楽祭も、中止になったコンサートを、無観客で演奏し、無料でライブストリーミングだ。


 ◎3/14(土)15:00 林 美智子(メゾ・ソプラノ)& 与儀 巧(テノール)にほんの歌を集めて



 ◎3/14(土)18:00 The Ninth Wave - Ode to Nature 目で聴き、耳で視る「ベートーヴェン」



 ◎3/15(日)16:00 ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽



苦渋の決断とも思われるが、まっ3月のコンサートだから仕方がないのかも。


IIJという日本のインターネット・プロバイダーの草分け的存在がこういう選択肢をしたことが、クラシック業界で、こういう無観客上演、そして無料でインターネットでライブストリーミングというひとつの流れの本筋を作るのかもしれないですね。


この新コロナが終息するまでの間のこれからのやり方として、という意味です。


でもチケットは払い戻しだし、しかもこのライブストリーミングも無料。もうほとんど善意でやっているみたいなものですね。


びわ湖のほうでは、ぜひ視聴ユーザが銭落としできるような仕組みにしてほしいという声が多かったです。善意のつもりでしょうけど、製作費1億6千万で作った作品を無料で観るのは忍びない・・・ちょっとでもお役に立てれば・・・という意見が多かったです。


本来、ライブストリーミングという技術はこのために開発されたものではないだろう。(笑)


ライブストリーミングの演奏を観て、家にいるユーザーは本当にコンサートホールの聴衆として聴いているときのような臨場感、興奮感を同じように得られるのか?


開発のお披露目のときは、もちろんそういう謳い文句だ。
コンサートホールで聴いているような感じです。。。あの感動が蘇りますとか。


でもいざこういう国難で、こういう使い方をされると、ライブストリーミングで観れるから、生演奏に行けなくてもよかったです。。。とはならないはずだ。ライブストリーミングはあくまで副次的な産物でしかないだろう。


やっぱりステージ上の演奏者と聴衆との間の息もつけぬほどの真剣勝負のやりとり、あのスリリングある緊張感、興奮は生演奏あってのこと、そこでしか体験できないことだと思う。


異論はあるかもだけれどこれは自分の感覚、意見です。


もちろん技術の世界ではなるべく、それに近づけるように努力を続けるのでしょうが、現時点では自分はやはり生演奏には敵わないと思います。


びわ湖の1億6千万だけじゃないです。軒並み中止になっているコンサートの興行主やプロモーターは、もう大変な赤字負債を抱えている。


このまま続くとみんな破産しちゃうよ。


人が集まることが感染になってしまう、だからそれができないイコール、世の中のビジネスは全部成り立たない、というのは、悪魔はよくそういうトリックを考えつくもんだな、というほどの試練ですね。


自分も人生初の体験だと思います。
この国難は・・・


とりあえず、近々の予定では、東京・春・音楽祭のトリスタンとイゾルデはどうなるのか?4月上旬だけれど。やっぱり無観客での無料ライブストリーミング?


そして5月のマーラーフェスト2020は?


東京・春・音楽祭は、全公演被害を被るとなると、もうこりゃ想像したくないほど大打撃だ。



大相撲の春場所も無観客、春の甲子園も無観客。
東京五輪も無観客?

う~ん、それは、あまりにも寂しすぎるし、厳しいな・・・




 

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フランツ・カフカ 少女の人形と手紙 [雑感]

先日の「村上春樹さんの小説を読む」の日記の中で紹介した、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という1997~2011年のインタビュー集の中で、村上さんが発言したところにとても反応してしまった箇所があった。


そのときにメモしておけばよかったのだけれど、記憶に残したまま読了して、現在に至るまでそのままにしていた。


それはチェコ出身のドイツ語作家のフランツ・カフカについてのことだった。


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村上さんの小説で、「海辺のカフカ」という小説があるが、ここに登場するカフカ少年も、この作家フランツ・カフカからのインスピレーションである。またこの小説で村上さんは、フランツ・カフカ賞を2006年にアジア圏初として受賞されている。


フランツ・カフカというのは、写真の通りイケメンなのである。(笑)


フランツ・カフカは、どこかユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させるような独特の小説作品を残した。その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。・・・なのだそうだ。


それで、そのインタビュー集でそのカフカについての村上さんの発言に思わず、自分は胸がキュ~ンとくるような切ない気持ちになり、てっきりそれはカフカの小説のことなのだと、そのときに思ったのだ。


だから、あとで、カフカの小説リストを見て、それを後で買って読めばいい、とそのときに思っていた。


それで、いままでずっと忘れていてそのままになっていた。


昨日日記を書いたときにそのことを思い出して、カフカの小説リストを眺めたのだけれど、それらしいものが見つからない。内容はよく覚えているのだけれど、日記で紹介するほど、明瞭ではない。インタビュー集のどこに書いてあったか、定かでないし、まさかまた初めから読み直してその場所を探すなんてありえない。


なんとか、自分の記憶に基づいて、キーワードで、”カフカ、少女、人形”で検索してみたら、見つけた!


やはり有名な話なんだ。


「フランツ・カフカ 少女の人形と手紙」


である。


情報引用元:逸話のうつわ
https://www.itsuwanoutsuwa.com/kafka_letter-2/

から借用させていただきます。


自分は、この話を読んだとき、胸がキュ~ンと締め付けられ、現代にはこんな感性の人はまずいないだろうな、というようなメルヘンチックな気持ちになってしまった。


けっしていまの世の感性ではない。

なんかとても幸せな気分になった気持ち。


そしてこれはカフカの小説の話ではなく、カフカ本人の実談によるもののようだ。


なんとロマンティックな人なのだろう!

理系人間の自分が、文学の世界って素晴らしいと思った瞬間である。



******


フランツ・カフカ 少女の人形と手紙


チェコの作家フランツ・カフカ(一八八三 – 一九二四)は、死の前年、病の療養も兼ねてドイツのベルリンに住んでいた。若い頃からの取り憑かれたような不安や絶望のために、生涯誰とも結婚することのできなかったカフカだったが、当時、彼の最期まで寄り添うことになる若いポーランド生まれの女性ドーラ・ディアマントと二人で暮らしていた。ドーラは、繊細なカフカが家族以外で一緒に生活することのできた唯一の女性だった。


カフカとドーラは二人で暮らしていた頃によく郊外のシュティーグリッツ公園に散歩に出かけた。これから紹介するエピソードは、その公園を舞台にカフカの晩年に起こった優しくささやかな物語である。


ちなみに、この話は、作家の村上春樹が過去にインタビューで触れ、またポール・オースターの小説「ブルックリン・フォリーズ」にも登場する。



きっかけは公園での一人の少女との出会いだった。


ある日、いつものようにカフカとドーラが一緒に公園を歩いていると、散歩道の途中で幼い少女と出会った。少女は声をあげて泣き、すっかり打ちひしがれた様子。二人が、「どうしたの?」と尋ねると、少女は「お人形さんがいなくなっちゃったの」と答えた。


するとカフカはなだめるように、「君のお人形さんは、今ちょっと旅行に出ているだけなんだ。ほんとうだよ。おじさんに手紙を送ってくれたんだから」と言った。「そのお手紙、もってるの?」と少女が尋ねると「いいや、お家へおいてきちゃった。でも、あしたもってきてあげるからね」とカフカは答えた。


少女は目に涙を浮かべながらカフカをじっと見た。彼女の不信と好奇心の入り混じった眼差しにカフカは優しくほほえみ返すと、少女と別れ、ドーラと一緒に家に帰った。


帰宅したカフカは、さっそく自分の机に向かい、手紙を書き始めた。カフカの姿勢は真剣そのものだった。彼女の心に寄り添う「人形の手紙」に、まるで日頃の創作のように取り組んだ。


翌日、カフカたちが手紙を持って公園に向かうと、少女は約束通り公園で待っていた。少女はまだ字が読めなかったので、カフカはその「人形の手紙」を声に出して読んであげた。


手紙のなかで人形は、自分が一体なぜ姿を消したのかその理由を少女に語った。


人形は、決して悲しい理由から姿を消したのではなく、しばらく今の場所を離れて新しい世界を見てみたかったからなのだと少女に伝えた。


それから少女に対し人形は「毎日手紙を書くから」と約束した。こうして人形はカフカという作家の心を借りながら、自分の日々の新しい冒険について語っていった。手紙を重ねるうちに、人形も次第に成長した。学校に通い、友人との付き合いも増えていった。


そして、ある日のこと、人形は悲しい真実を打ち明けるように少女に言った。


「あなたのことはとても愛しているわ。でもね、付き合いや日々のしなければいけないことが積み重なっていて、もしかしたら、もういっしょに暮らせないかもしれないの」


人形と少女との避けられない別れの準備は、少しずつ進められ、そうして少女に宛てた人形の手紙は三週間ほど続いた。


カフカは手紙の結末に悩んでいた。それは大切な存在を失ったことで生じた少女の傷口を癒す「物語」でなければならなかった。考え抜いた末に、カフカは「結婚」をフィナーレに迎えることにした。


人形からの最後の手紙では、婚約のパーティーや準備の様子、若い新婚の二人の家などが丁寧に描写された。文面に耳を傾けながら、少女の目の前には穏やかな、幸福に満ちた景色が広がっていった。


手紙の最後、人形は祝福の想いに満たされた少女に向かって、そっと語りかけた。「わたしは幸せよ、今までありがとう。そしてわたしたちは、きっともう二度と会えないとあきらめなければならないことを、わかってほしいの」。


手紙を読み終えたとき、少女の心のなかの悲しみはすっかり消え去っていた。悲しみが悲しみとして受容され、昇華されたのだった。


ドーラは後年、このときのことを振り返りながらこんな風に語っている。


フランツは、ひとりの子供の小さな葛藤を芸術の技法によって解決したのだった ───  彼が世界に秩序をもたらすために、みずから用いたもっとも有効な手段によって(ドーラ・ディアマント「フランツ・カフカとの生活」より)。



******


この話はカフカといっしょに住んでいた女性のドーラが、著作を残していて「フランツ・カフカとの生活」という中に記載されていたことなんですね。


またポール・オースターの小説「ブルックリン・フォリーズ」にもこの話が登場するんですね。


自分は最初、これを村上春樹インタビュー集の中で読んで、もうジ~ン、胸キュ~ンという感じで凄い感動しました。


こういう感性はいまの世には絶対ないように思います。

ちょっと忘れられなかったです。


昨日日記を書いたときに、ぜひ紹介したい話だと思いました。

うまく検索キーワードを思いついて見つかってよかった・・・。











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