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私の音楽遍歴 [海外ロック]

自分はオーディオでもアナログレコードをまったくやらない人なので、手元にコレクションをほとんど持っていない。自分が社会人1年生になったときに、企業に勤めてお給料をもらえるようになってからは、全部CDに切り替えた。


だから持っているアナログレコードと言ったら、音楽、とくにロックに目覚めた1977年の中学1年生のときから大学卒業までの間にお小遣いをはたいて買ったものばかりである。だからそのレコードコレクションをいま見てみると、本当に懐かしいし、自分の青春の想い出がいっぱいである。


おそらく自分と同じ50年代後半の人なら、同じ音楽シーンを見てきているはずなので、共感してもらえるのではないか、と思う。


いまと違って、当時の洋楽シーンはとても狭いというか、夢中になるスターは決まっていた。


だから同じものを見てきているはずなのだ。

40年も前の昔に買ったアナログレコードである。
大体100枚くらいのコレクションである。


アナログを趣味にされているオーディオファンの方は、壁一面の大きなラックにびっしりとレコードコレクションが詰まっていて、高級なターンテーブルでレコード再生を楽しまれる。


いいな~、高級で優雅な感じで、いいですよね~。


どうせアナログをやるんだったら、そういう環境にならないと、素人じゃないんだから、どこか中途半端で、いまひとつやり始めようという気になれないのだ。予算もないし。経年というか時間がかかる賜物ですね。


でもいいタンテは欲しいかな、やっぱり。


そんな学生時代に買ったアナログレコード、いま考えると処分しないで本当に良かった。途中何度もその危機はあった。処分してしまおうかな、とか。。で。特に日本から海外へ居住を移すときとか、その反対とか、そのときは本気で処分しようか、と思った。


もうアナログレコードを再生することもないだろう、まさか、昨今こんなアナログ・リバイバルになるとは思ってもおらず。


いま考えればすっかりお宝である。


貴重なのは、当時の40年前のレコードには、レコードの”帯”というのがついているということだ。いま入手したくても、こういう当時の帯がついているブツはなかなか手に入らないだろう???


生き証人という感じである。


ところで40年間、まったく再生していないアナログレコードってちゃんと再生できるんですかね?(笑)経年劣化とかやはりあるんだろうな。やってみればいいが、やめておく。


社会人になってから、数年間、しばらくの間、音楽の世界から距離を置いていたブランク期間があった。社会人になってからは、東京に上京して親元を離れて1人暮らしでホームシックにかかってしまい、学生時代とまったく異なり、仕事のことで精一杯。毎日1日を生きていくことだけで精一杯だった。


食うことだけが唯一の楽しみだったかな。

音楽まで気が回らなかった。


やっぱり音楽というのは、精神的に余裕があるときじゃないと、鑑賞しようという気にならないものなんですね。自分の経験からすると。気分がLowのとき、落ち込んでいるときは、音楽を聴こうという感じにならないです。


やっぱり相乗効果なんです。気分がいいときに聴くから、最高なのであって。それはいま現在もそうです。仕事やプライベートの問題で落ち込んでいるときはオーディオ機器をオンすることはないです。部屋の中を静かにしておくほうが、精神健康上いいです。


悩み事がない、ある程度いい状態のときじゃないと音楽って楽しくないですね。


中1のときに、ビートルズ、ポール・マッカートニー&ウィングスからロックの世界に入って、大学4年生までロック一筋の人生。


社会人になって、ブランク期間があって、そこからややあって、クラシック・ジャズの世界に基軸を移した。湯水のようにお金つぎ込んで勉強しました。オーディオはもちろん、生演奏、コンサートに通いまくった。


自分は本当に音楽が好きで、人生の生きがいだったですね。音楽がなかったらいまの自分はありえないです。


これは、あくまで結果論ですけど、クラシック、ジャズ、ロック、そしてJ-POPも、壁をまたいであらゆるジャンルの音楽を勉強して聴いてきたのは自分の人生の財産だと思うんですよね。


いろんなジャンルの音楽を聴いてこれたというのは自分のひとつの強みになっているのでは、と思うのです。これは長い人生の中で別に自分で意図したことでもないし、計画的でもなくて、あくまで本当に結果論。


もちろん幼少時代からクラシック一筋、ジャズ一筋でも全然素晴らしい人生だし、専門的に極め尽くせる、そういう道も素晴らしいです。


でも自分は結果論的に雑種な音楽人生になったけれど、自分にはそれが似合っているというか、それが自分のいいところ、長所なのだと思っています。


今日40年間封開けずだった埃にまみれたアナログレコードをひさしぶりに取り出して自分の音楽遍歴について感傷に浸ろうという意図である。(笑)


懐かしような~って感じです。


中学1年の1977年から、大学4年の1986年の10年間の洋楽ロックシーンは、もう同世代の人は同じものを見てきているはず。そういうあういう世界でありました。


いままでビートルズ、ポール・マッカートニー&ウィングス、ポリス、スティングについては、日記で熱く語ってきているので、ここでは省略。


ジャム、スタイル・カウンシル、ポール・ウエラーについてはちょっとやはり語っておかないといけない。


自分は、アメリカン・ロックよりもブリティッシュ・ロックのほうが好きであった。英ロックにかなり傾倒していた。尖っている、ハングリー精神、音楽性、ファッション含め、つねに流行の最先端みたいなものをロンドンに感じていた。


英国発のロックバンドの辿る道筋というか、運命というのは、最初デビューのときはUKチャートで、もてはやされて話題沸騰になるのだが、それが数年後に、よりマーケットの大きい米USチャートの上位に認識されて独占したりして世界的に知名度が上がってくると、英国では見放されるというか(笑)、人気が落ち着いてきてそんなに騒がれなくなるということだ。


英国にはつねにそういう反骨精神があった。(笑)格好良かったな。


でもやっぱり当時の洋楽シーンは米のマーケットの大きさは、バンドにとってビジネス収入的に魅力満載であった。


自分のロック10年間は、英国発のパンク、ニューウエーブが最高潮のときだった。衝撃のセックス・ピストルズの登場以来、あんなに心が恐怖に感じたことはなかった。


もうこれから将来のロックシーンで、あの10年間ほどの衝撃のことはもう起こらないだろうと思うのだ。自分は本当に運がいいときに、そのときに巡り合えた。


テレビで映る、ロンドンのあのセピア色の街の景観に、髪をビンビンに尖がらせたパンクな人がその街中を歩くシーンに相当憧れました。


カッコいいな~って感じで。

ロンドンに相当憧れました。ロンドンにはそういう格好良さがある。


自分がその当時テレビで見たロンドンのパンク人入りの風景シーンを、いまネットで探してみるんだけれど、いい画がないんですよね。自分のあのときのイメージとピッタリくるのがない。だからやめておく。


学生時代にそういう経緯でロンドンに憧れていたので、社会人になって、ヨーロッパの放送関係の仕事をするようになって、ロンドンに住むことができるようになったときは、外面には出さなかったけれど、もう心の中でやったー!!!を10連発かましましたから。(笑)


憧れのロンドンに住める!

どんなに心ときめいたか。


パンク・ニューウエーブ ムーブメントのとき、最高に夢中になったのは、もうご存じのようにスティングのポリスだったが、この頃から、自分はスリーピース、3人編成のバンドってカッコいいな~と特別の想いを寄せるようになった。


ギター、ベース、ドラムスだけの最小単位の構成。本当に演奏技術、テクがないとトリオってバンドとして成り立たないと思う。


またトリオって肖像ポートレートもビシッと決まる格好良さがあるんですよね。絵になる。3人は格好いいです。4人、5人編成じゃこの格好良さは出せないんですよね。


ポリスの他に、夢中になった3人編成バンドがポール・ウエラー率いるザ・ジャム。


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モッズとか言われていたジャンルで、いかにもブリティッシュ・ロックぽい汚い感じ(笑)でよかった。


学生時代、当時塾講師や家庭教師などで貯めたアルバイト代は全部レコード買うことに消えていった。そのためにアルバイトをやっていたようなものだった。


ジャムのレコードは当時こんなに買っていた!
この当時は燃えていたね~。


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英国で大人気を博しながらも、その頂点で解散したジャムを経て、ポール・ウェラーが向かったのは、より幅広い音楽要素~ソウル、R&B、モダン・ジャズ~などを包括しつつ展開するスタイリッシュなポップス志向だった。もともとモータウンやモッズなどが好きなポール・ウェラーはパンクを経て、独自の音楽を目指したのだった。


このスタイル・カウンシルがまたカッコよかったですね。当時のお洒落音楽の代表格的な存在でしたね。一世を風靡していました。ポール・ウエラーは本当に気難しい人で、とにかく尖っていた。そこが格好良かった。



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Cafe Bleu
Style Council



スタイル・カウンシルのアルバムと言ったら、もう絶対これなんですね。当時相当憧れました。ジャケットが最高に格好良くて、スタイル・カウンシルといえば、自分はこれを最高傑作に挙げます。”ホワイトハウスを爆撃”なんて曲もあって、ポールの過激なところが垣間見えました。シングルカットされたマイ・エヴァー・チェンジング・ムーズはいい曲です。



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Our Favourite Shop
Style Council



スタイル・カウンシルがもっとも商業的に大成功したのが、このOur Favourite Shop。これは当時の自分はどう思ったかと言うと、確かに耳障りのいいヒット・ソングスばかりで本当にいいアルバム。でも当時の自分はやや不満だった。なんかポール・ウエラーが商業主義に走ってしまった感じで、こうじゃないよな~、もっと尖っていないと、と不満だったです。当時の自分は本当に生意気でしたね。粋がっていましたね。自分はスタイル・カウンシルは、やはり1作目のCafe Bleuがいいです。



スタイル・カウンシルのアルバムも当時こんなに買っていました。
宝物ですね。


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じゃあ、ポール・ウエラー、ジャム、スタイル・カウンシルについては、これくらいにして、今日40年ぶりに埃の中から取り出したアナログレコードを見ながら、当時の音楽シーンについて感傷に浸りましょう。



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この当時のロックシーンでは、三大ギタリストという命名をされていたギターの名人がいた。エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、そしてジミー・ペイジである。


エリック・クラプトンは、ギターの神様、スローハンドと言われていて、この3人の中で一番格が高いような扱いだったような気がする。ブルースを基本にしていましたね。子供だった自分は、このクラプトンのギター・テクニックがどれだけうまいのか、を知りたいと熱望していた。一番気になるギタリストだった。


当時の若輩の自分が思っていたのは、ギターがうまいイコール早弾きができる人という単純思考だったので、よくわかっていなかったんだよね。ギターのテクっていろいろな奏法がある訳で。。ジミーペイジはレッド・ツッペリンでカリスマだけれど、よれよれという感じだったし。(笑)


当時の自分が一番うまいと思っていた、つまり目も止まらない速さで早弾き出来るギタリストは、このジェフベックだった。このワイアードはその超早弾きが堪能できるベックの最高傑作だと思っていたのである。



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クイーンは最近の映画のおかげでいまや若い人にもすっかり認知された超有名なバンドになりましたが、じつは彼らは世界の中でいち早く先に人気がでたのは日本マーケットなのでした。中学のときでしたね。「世界に捧ぐ」が世界で爆売れして認知されたのが衝撃だった。とにかくいままでのロックバンドにはなかったコーラスの美しさ、重厚さ、そして全員美形と来たもんだ。(笑)エポックメイキングでした。日本でのファン層は圧倒的に女性ファンだったような。日本の女性ファンが彼らをここまでビッグにしたのです。



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ブリティッシュ・ロックではないけれど、ブルース・スプリングスティーンも自分の青春時代の輝けるロックスター。この「ボーン・イン・ザ・USA」が空前絶後の大ヒット。彼の代表作になった。まさにアメリカの国旗をジャケット写真に使い、当時のアメリカ・ナショナリズムを大いに刺激した。アメリカ星条旗にジーンズ。いかにもアメリカです。この当時はシルベスター・スタローンのロッキー4とかで、アメリカ国粋主義を煽る、すごい波動だった。アメリカ国民はみんなこういうのに弱いんだよね。ボクも大いに興奮し酔いました。(笑)


自分の大学の同級生の女の子は、スプリングスティーンのコンサートを生体験したくて、単身でアメリカに渡りましたよ。当時インターネットとかなかった時代だから、すごい勇気のいること。当時すっごいな~と思いました。一種の社会現象でした。



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ダイアー・ストレイツも渋かったよね~。バンダナを頭に巻いて、いかにも職人という感じでした。このブラザーズ・イン・アームズが大ヒットして、一躍スターダムにのし上がりましたね。


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自分はビートルズ派とローリング・ストーンズ派というなら、断然ビートルズ派なので、正直ストーンズのほうはあまり聴き込まなかったですが、でもこのタットー・ユーのアルバムは好きで買いました。



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レッド・ツェッペリンは、もちろんロッキンオンの渋谷陽一氏がいたので、彼が、ツェッペリンの最高傑作は、天国の階段が入っているLed Zeppelin 4とか、他じゃなくて、もうこの「プレゼンス」が最高傑作という強い押しがあって、買いました。素晴らしかったです。



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当時の洋楽シーンの大きな特徴にレゲエがすごいブームだったことです。ポリスのようにレゲエのリズムをロックの中に取り込む斬新なアプローチ(ホワイト・レゲエ)もあって、すごい注目された音楽でした。そんなたくさんのレゲエ・ミュージシャンが登場した中で、自分的にツボだったのが、このイギリスのレゲエ・ポップ・バンドのUB40。イギリスのバンドということもあって、気にいってました。



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当時のレゲエ・ブームの中で、このサードワールドはかなり大ヒットしてました。
レゲエを聴くと、どうしても南国の海を思い出します。


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プリテンダーズはシンガーが紅一点の女性だったのが人気で格好良かったですね。このバンドもUKバンドです。大ヒットしたこのアルバムのシングルカット曲が大好きでこのアルバムも買いました。


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ロキシーミュージック、懐かしい~。(笑)ロキシーミュージックと言えばこのアバロンが代表作でした。確か美形の化粧する派のダンディな男性シンガーではなかったでしょうか???



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スウィングアウトシスターのブレイクアウトは、いまでもラジオで流れてくるお洒落ソングの代表格ですね。若い方でもよく知っているのではないでしょうか?うろ覚えなのですが、隣のEveryThing But The Girlはユニット名が違うだけで、シンガーは同じだったような。その隣のトレイシー・ソーンもそうですね。この3枚は同じ系列だと思いました。(違ったかな?)イギリスのいまをときめくお洒落ソングでした。



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ジョニ・ミッチェルは当時、自分が最も尊敬するシンガー・ソング・ライターでした。彼女の歌にはつねに知性を感じたものです。


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ディープ・パープルは思春期の男の子であれば、必ず通る門ではないでしょうか?(笑)マシン・ヘッド格好良かったですね。武道館ライブのアルバムも買いました。


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U2も自分のブリティッシュ・ロック狂時代の中で、もっとも熱く愛したバンド。凍り付いた寒色系のギターサウンドで、政治的なメッセージを好むかなり個性的なバンドでした。ポリスとU2は同時代に出てきたバンドで、この2つのバンドはもっとも熱く熱中しました。


U2も英国バンドの辿るパターンをそのまま歩んでいきました。UKチャートで人気が出ている頃が尖っていてよかった。米USチャートで認知されて世界的な名声、人気が出るのが、自分が社会人1年生のときのヨショア・ツリーですね。本当に最高のアルバムですが、これ以降どうしても商業主義に傾いていきましたね。



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パンクは下手なバンドばかりなので、出始めの勢いだけで、あとは遠からず自然と消滅していくバンドが多かったですが、このクラッシュはちょっと違いましたね。演奏力も骨がありました。ロンドンコーリングが有名でしたが、なぜか自分が持っているアルバムはこれでした。


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このときのロックシーンの大きなイヴェントとして、アフリカ難民救済の臨時バンドが組まれたことでした。UKのバンド・エイドと、USのUSAフォー・アフリカですね。まず、UKが最初で、その後US。これは結構ショッキングというか、かなり興奮しました。あの有名なバンドのスターたちが一堂に集まって、みんなで唄うなんて。ロック界のオールスターゲームですね。UKのほうはポリスのスティングとU2のボノが同じマイクで
歌っているなんて!と当時相当興奮しました。自分が持っているのはUKのほうです。


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UKバンド・エイド


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USAフォー・アフリカ


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100枚のアルバムの中には我らが日本のYMOもありました。(笑)
やっぱり当時の自分は3人編成というのに相当拘っていました。
YMOはカリスマありました。その後のソロはあまり聴いていないです。
ちょっと最近の坂本教授のアルバムも聴いてみたいです。


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ここから映像素材。レーザーディスクとかビデオディスクというメディア媒体知っていますか?(笑)当時は画像圧縮という技術が確立していなかったので、画像信号をA/Dしたら、そのまま非圧縮のRAW DATAで媒体に記録していたんですね。だから大容量で、こんなLPサイズのでかいディスクに映像と音声を記録していた。その後MPEG2など画像圧縮技術が確立されて、CDサイズの12cmディスクに映像・音声を盛り込めるようになりました。


ポリスのシンクロニシティ・コンサートは、ロックのライブ・ビデオの中でも最高傑作だと思います。ゴドレイ・アンド・クレイムによる映像監修は最高。シーンによるカット割りとか、メンバーのステージパフォーマンスがうまく曲と同期してあってカッコいいなと思いながら、何回も擦り切れるほど観ました。


その隣のアラウンド・ワールド・ツアーはポリスの世界ツアーをステージだけではなく、プライベートシーンに至るまで追ったフィルムでファンには堪らないです。



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なんと!ポール・マッカートニー&ウィングスのUSAライブのロックショー、レーザーディスクで持っていました。最近発見してBDで買いましたが、すでに昔に買っていたんですね。全然覚えていません。ポール&ウィングスといえば、このUSAライブです。


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エリック・クラプトンが在籍していた伝説のロックバンド「クリーム」のレーザーディスクも持っています。やっぱり3人編成がカッコいい。



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なぜか今井美樹さんのレーザーディスクも持っていました。(笑)
ぜんぜん記憶になくて覚えていません。(^^;;


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森高千里さんのレーザーディスクも持っています。(笑)1993年のコンサート。これは覚えています。当時の森高さんはミニスカートの美脚がアピールポイントで、自分もそこに魅入られてしまい買ってしまったのでした。森高千里さんは、この頃より、いま最近の近影の方が全然いいですね。やっぱり女性アーティストは経年がいいです。



こんな感じでしょうか。。J-POPSも日常的に聴いていましたよ。宇多田ヒカル、ドリカム、山下達郎、竹内まりやとか。数えきれずたくさん。1999年の宇多田ヒカルの登場は、かなり衝撃でした。


洋楽でもロックに限らず、マドンナとかホイットニー・ヒューストンとかガンガンに聴いていましたよ。


ここで紹介したのは100枚あるうちの一部だけど、よく鮮明に覚えていました。
自分の青春時代を彩った音楽たちです。


やっぱり自分は音楽雑種なんだな、と思います。
またそれを嬉しく思います。財産だと思います。


ストリーミングが登場して、自分の音楽生活に激動の変化があったのは、J-POPSを聴くようになったことですね。大きな変化です。


もちろんクラシックが基軸ですが、これからもそれに制約されることなく、いろいろな音楽を聴いていきたいと思います。







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エルヴィス・プレスリー [海外ロック]

今日1月8日は、エルヴィス・プレスリーの誕生日なのだそうだ。そのことを知って、かねてより考えていたエルヴィス・プレスリーの日記を書いてみたいと思っていたのだが、今日それを実行するのがいいと思った。


自分はロックはビートルズ以降の世代なので、それ以降のロックシーンは青かった学生時代、青春時代の実体験として熱く語れるのだけれど、エルヴィスはやはり自分より前の世代なんだよね。


だから熱く語りたくても、経験がない。


「熱く語る」という行為は、やはり人生の経験がないとできないことですね。


自分の経験、自分の言葉で語る、そして自分の想いが詰まっていないと、その文章に説得力がでませんね。だてに人生五十数年生きてきていないので、この歳になると熱く語れる資格が出来てくるものです。


若い人にぜひアドバイスしたいこと。


とにかく若いうちに、徹底的にのめり込むこと。徹底的にやらないとダメです。許す限り、お金も湯水のように使い込んで、徹底的にやらないと。それが歳をとってから血肉になって、人生の財産になります。


多少の失敗は気にするな。徹底的にやれ!


後年になって、「熱く語る」行為ができるようになるには、この何十年生きてきた、学んできたことが礎になり、言うことに説得力が出てくるようになります。


そうしたらしめたものです。


エルヴィス・プレスリーは、子供の頃はもちろんビートルズの前の世代のスターということでよく知っていたし、自分がロックに夢中になり始めた中学一年の1977年に亡くなった。


よく覚えている。


自分が知っている頃の晩年のエルヴィスは、ドーナッツが大好きで肥満化してしまい大変だった、というニュースが世界を駆け巡っていた。エルヴィスの曲も有名な曲はラジオでよく聴こえてきたし、馴染みがあった。


最近ずっと考えていたことは、自分はエルヴィスのことを、きちんと知らないで、このまま人生を終えてしまっていいのかな、と思ったことだ。どこかできちんと自分のモノにしないと一生後悔が残るのではないかな、と思ったことだ。


じつは何年も前からそういう想いはあったのだけれど、なにせ自分の経験、実体験がないから、どうやって日記にすればいいのか、うまくアイデアが浮かばなかったのだ。


そんなとき、村上春樹さんがDJをやっている”村上RADIO”という番組で、オールディーズの特集をやっていた。そこで村上さんが、当時のオールディーズ、そしてエルヴィス・プレスリーについて、こんなことを言っていた。


**********

よく「激動の1960年代」みたいなことが言われますが、それはあくまで60年代後半の話であって、前半は文化的にはかなりのんびりした時代でした。冷戦時代だったので、政治的にはハードな面もありましたけど、文化的にはまずまずリラックスしてました。ポップ音楽シーンで言えば、1950年代後半に登場した反社会的というか、荒々しいロックンロールがだんだん飽きられて、廃れていって、エルヴィスもなんだか牙を抜かれてしまい、それからビートルズやらサイケデリック、アートロックみたいなのが登場してくるまでの五年間は、まさにお気楽ポップスの全盛期でした。僕としてはそりゃもう、楽しかったですよ。もちろん60年代後半もスリリングで面白かったですけど。


僕がいちばん熱心にポップソングを聴いていた時期って、だいたい1960年から65年くらい、つまりビートルズが登場する前の時代です。ビートルズが出てきて間もなく、音楽シーンががらっとスリリングに変わっちゃうんだけど、それより前のポップ・ミュージックには「お気楽」っていうか、蛇が出てくる前の「エデンの園」みたいなのどかな雰囲気が漂っていました。でもその中ではエルヴィス・プレスリーは別格でした。彼は楽園の中に潜む、鋭い牙を隠し持った甘い毒蛇のような、まったく他とは違う存在でした。


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僕は彼のデビュー・アルバム「Elvis Presley」を手に入れて、もう夢中になって聴いていました。このアルバム、ほんとに何度聴いても聴き飽きなかったです。どの曲も素晴らしいんだけど、今日は僕の大好きな“One Sided Love Affair”を聴いて下さい。1956年の録音です。この曲におけるエルヴィスの天然のキック力は、実にすさまじいものです。今聴いてもひしひしとしびれます。

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人間って、自分のまだ生まれていない時代や、自分の知らない時代のことを聞くと、とても羨ましい気持ちになり、なんか羨望の眼差しになりますね。


知らない時代だからこそ、余計憧れますね。

それが自分の好きな音楽シーンになると尚更です。


ビートルズが登場する前のオールディーズってどんな音楽シーンだったのだろう?
そういうことを無性に知りたくなるものです。


これをきっかけに、よし!ぜひエルヴィス・プレスリーのことを書いてみよう。

そして自分のものにしてみよう!と思ったのである。


最近は、ストリーミング・サービスが日常的なものになって、聴きたいと思ったら、すぐにその場で聴ける。ぜひエルヴィス・プレスリーを聴き込んで、日記を書いてみたいと思ったのである。それを彼の誕生日である今日おこなうことが最高のプレゼントなのでは、と思ったのである。


ストリーミングでは、エルヴィス・プレスリー '50 Rock"n" Rollというアルバムがあって、ベストアルバム+ライブアルバムのミックスのような感じでこれをチョイスした。


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ハウンド・ドッグ、好きにならずにいられない、ラブ・ミー・テンダー、冷たくしないで、そして監獄ロック。自分がエルヴィスの曲として、よく子供の頃から知っていたのは、ここら辺ですね。


いま聴いてもカッコいいし、すごく新鮮。
ハウンド・ドッグ、監獄ロックなんか特に最高にカッコいい。


これから書くことは、自分の言葉ではない。
受け売りである。


でもエルヴィスのことを知りたい、自分のものにしたいため、敢えて日記でその栄光の伝説を紹介していきたいのである。その合間、合間に自分の意見、感想を挿入していく感じ。


これが、自分がエルヴィスのことを日記に書いていくためのひとつの考え抜いた末のアプローチかな。エルヴィスのことを自分も勉強したいし、みんなに知ってもらいたいという意図である。


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ロックの歴史を語るなら、本当は百年もさかのぼってアメリカ南部の黒人奴隷が日々の労働の苦しさを忘れる為「ブルース」とか「賛美歌(ゴスペル)」を発明した事から始める必要がある。ロックン・ロールは黒人が創った。


ロックン・ロールはそんな黒人奴隷達の発明したブルースや賛美歌を、チャック・ベリーやリトル・リチャードといった人たちが、色々工夫(速くしたり、叫んでみたり)し、進化させて誕生した<新しい娯楽>だったのだが、それが黒人だけでなく、少しずつ、そして着実に白人にも受け入れられるようになっていった。


そして、そのうち白人の中でもギターを持って黒人の模倣をする若者が現れ出したのである。しかも中には黒人に負けず劣らず、優れた<ブルース・フィーリング>を備えた若者もいた。


エルビス・プレスリーはそんな中、最初に登場した白人のロックン・ローラーだった。


黒人はいつも「発明家」で、大衆的成功は「真似した」白人がかっさらってしまうという皮肉な構図である。エルビスとはそういう存在だったのだ。そしてその成功の要因は、ただ歌が上手いとか、顔がカッコいいとか、それだけではなかった。彼はロックを初めてエンターテイメント化したのだ。それゆえ歴史に名が残っていると言っても過言ではない。エルビス・プレスリーは腰を振った。そして、セックス・アピールという、黒人のやらなかった(やれなかった)技を、彼は発明し、そして完成させた。


その余りにもあからさまな性の表現は、正に前代未聞、当時の人々の目には「見てはいけない物」として映った。


引用元:一般教養としてのロック史:宇宙から来た!?エルビス・プレスリー
http://history.sakura-maru.com/elvis.html


これが、自分がエルヴィスが登場した衝撃、当時の世相を、よくうまく表現しているんじゃないかな、と思うのだが、どうであろう。


エルヴィスの歌を聴くと、ビートルズのようなグループサウンズにはない、もっと懐かしい音楽のルーツのようなものを感じるし~それがブルースとリズム&ブルース~、その上に新たに融合されたロックぽい格好良さがありますね。それが当時すごい新鮮な格好良さだったのでしょうね。


そして音楽性だけではない、格好いいルックス、セクシーな腰振りのセックスアピール。それ以前にはある意味退屈だった音楽シーンにとってこのときのエルヴィスのこのアピールは、当時としては相当衝撃なことだったのでは、と十分想像できます。



ジョン・レノンは言った。「エルビスが登場する前は何も無かった」と。


南部の貧しい家庭に育ち、黒人音楽をメジャーにしたエルビス・プレスリーは、「ロックンロール」を世界に知らしめた。カントリーとブルースを組み合わせた最初のミュージシャンではなかったが、保守主義がまん延し人種差別が横行した1950年代を駆け抜け、人々の音楽に対する意識を変え、米文化に後世に残る功績を残した。


「誰かに聞いてごらん。もしエルビスがいなかったら、ポップミュージックは今頃どうなっていただろうね」と、かつてエルトン・ジョンは語った。「エルビスが全てを始めたんだ。僕にとってのスタートも彼だった」


引用元:「エルビスの前には何もなかった」、音楽界大物らプレスリーの偉大さ語る。
https://www.afpbb.com/articles/-/2267678



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エルヴィス・プレスリーはアメリカのミュージシャン、映画俳優。「世界史上最も売れたソロアーティスト」の第1位。「キング・オブ・ロックンロール」と称されている。


1950年代にロック・アンド・ロール(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀後半のポピュラー音楽の中で、最初の大きなムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。


初期のプレスリーのスタイルは、黒人の音楽であるブルースやリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。


~ボクがエルヴィスの歌を聴くと、その背景にとても懐かしい当時のオールディーズのような郷愁の香りを感じるのは、この黒人の発明したブルースとリズム&ブルースが背景にあったからなんだと思います。


~自分が学生時代にロックに夢中になっていたときも、多くのロックミュージシャンは、このブルースやリズム&ブルースを自分の模範、教科書にしているミュージシャン多かったです。エリック・クラプトンなんか完璧にブルースをお手本にしてましたね。天性のリズム感、音楽ソール魂はやはり黒人は白人より優れているものを天性に持っているのかもしれません。



その後全国的な人気を得たが、保守層には「ロックンロールが青少年の非行の原因だ」と中傷され、PTAはテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。KWKラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送。


さらにフロリダの演奏では、下半身を動かすな、とPTAやYMCAに言われ小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。


~1950年代の当時の世相と、セクシーなエルヴィスの登場に相当混乱しているのがよくわかりますね。(笑)エルヴィスといったら、このセクシーな腰振りが当時のそうとうの物議を醸したのです。 



しかし、プレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになり、ほぼ同時期に普及した安価なテレビジョンやレコードプレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。


さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え、若者文化が台頭した。晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。



映画との関わり​


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監獄ロック(1957年) カッコいい!(^^;;


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G.I.ブルース(1960年)


歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いた。プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がプレスリーを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給「Rino Brothers」を選んだ。プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「Love Me Tender」に変更されて公開された。


プレスリーは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。


1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、「G.I. Blues」、「Blue Hawaii」、「Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)」等、話題にはなったが、プレスリーの映画は全体的に評価が低い。評価されたのは「オン・ステージ」「オン・ツアー」など、コンサートをドキュメンタリー的に記録したものだけである。

 


~エルヴィスがふつうのロックミュージシャンと違うところは映画スターでもあったことだ。映画スターを演じ、その映画の中で歌うことで、そのスター性をさらに大きなものに発展させたといえる。自分は、この「ラブー・ミー・テンダー」が大好きである。本当に素敵なラブソングでいい曲。


でもどうしても挿入歌ありきで映画スターそのものというより俳優で歌も歌う歌手という中途半端な扱いで、映画自体の評価は低かったようだ。
 
でも映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出したとも言われている。



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当時のアメリカの国民的バラエティー番組「エド・サリヴァン・ショー」には、1956年9月と10月、1957年1月と短期間に3回出演した。なお、広い視聴者層を持つ国民的番組への出演を意識して、ジャケットを着用し出演した上に、当初保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にプレスリーの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。


~やっぱりエルヴィスをテレビに映すには、いろいろハプニングを恐れて、配慮に配慮を尽くしていたんですね。あの問題の腰振りダンスを映さないようにしたんですね。(笑)



リチャード・ニクソンとの面会​


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リチャード・ニクソン 大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年)


1970年12月21日には、わざわざアメリカン航空の民間機でワシントンD.C.にジェリー・シリングと2人で出向き(普段は自家用機しか乗らない)、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。 ホワイトハウス内は大騒ぎとなり、その40分後補佐官から「大統領が会いたい」と電話があった。ホテルに到着したデル・ソニー・ウェストが合流し3人でホワイトハウスへ行き、リチャード・ニクソン大統領に会った。


ツーショット写真はその際撮影されたものである。


この時プレスリーは、自分は「ドラッグ・カルチャーと、共産主義の洗脳について研究してきた」とニクソンに語った。麻薬撲滅に熱心であったニクソン大統領に対して、「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」といい、麻薬取締官の資格を与えられた。翌週、プレスリーはそのバッジをみんなに見せびらかせて回った。なお、プレスリーは警察官等のバッジ・コレクションをしており、大変な収集家であった。


この際のエピソードはあまりにも有名なものとなり、後にこのエピソードだけでいくつかの映画になったほか、プレスリーとニクソン大統領とのツーショット写真は、ホワイトハウスの公用写真の焼き増しサービスの中で最も人気が高いものとなった。


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これは晩年のエルヴィスのコンサートでしょうか・・・。


あぁぁぁ~。もう激太りです。昔の面影まったくなし。(笑)自分が子供で物心ついたときは、エルヴィスはすでに肥満体質で、その原因は大好きなドーナッツの食べ過ぎだ、というのが通説でした。子供心によく覚えています。




ビートルズとの会見​


プレスリーとビートルズは直接的な接点はなかったが、両者は1965年8月27日、ロサンゼルス市のプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たしたことがロック史に残る出来事として語られている。


ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目だったが、どこからか漏れてしまい、案の定自宅周辺には野次馬が集まった。


諸説あるが、メンバーのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターは平静を装いながらも、心を躍らせて招かれた部屋に入った。


そこでエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた。「本物のエルヴィスだ」と感激した4人は呆然としてしまった。そこでプレスリーが「ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけた事から、慌てて4人は挨拶し、即興演奏が始まった。


プレスリーはベースを演奏し、レノンとジョージはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。


プレスリーは彼らの曲も歌い、そのあとで「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。これに対してレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言したことからその場が凍りついた。


これはレノンの若気の至りとも、過激なジョークだったとも言われるが、プレスリーはその発言に気分を害してしまった。そしてその会見に実際に立ち会ったという記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンはさらに当時アメリカ軍による関与が拡大を続けていたベトナム戦争にプレスリーが賛同する姿勢と、プレスリーのマンネリ気味であった映画を痛烈に批判した。これらの事がきっかけでジョンを嫌うようになったプレスリーは(事実上)マッカートニーやジョージが作曲した曲はコンサートで頻繁に取り上げているが、レノンの曲は歌っていない。


レノンはこの発言を反省したためか後日エルヴィスの取り巻きに「エルヴィスがいなければ今の自分は居ない」と伝えるよう頼んだという。しかしプレスリーはレノンがアメリカに住むようになり、ベトナム反戦運動を積極的に行った頃、ニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」と手紙を出したとも言われている。


この様に、レノンの発言と態度が場の雰囲気を壊したことで、この会見はとても成功したとは言えないものであった。


~これは最高に笑ったな。(笑)ボクはジョンのこういうセンスが大好きです。(笑)いかにもジョンらしい。でも後になって反戦・平和を主張していくジョンにとって、エルビスの当時の姿勢にこういう対応になってしまったのは必然の結果だったかもですね。


今回ストリーミングでのエルヴィスのアルバムでは、エルヴィスはポールの曲であるヘイ・ジュードを歌っていました。

 


そして1977年8月16日、メンフィスの自宅バスルームで倒れているところを発見された。 ドーナツを食べ過ぎて喉に詰まらせて死んだ、ドラッグをやりすぎて死んだなど、もはや都市伝説化しているエルヴィス・プレスリーの死因。


しかし、実際のところは、処方された薬の摂り過ぎからなる不整脈による突然死という検死結果であった。



キング・オブ・ロックンロール。まさに白人ロックの元祖、すべてはプレスリーから始まった・・・まさにロックンロールを語るうえで、エルヴィスはすべてのオリジネーターだったんだね。


ビートルズ以降のロックシーンの音楽とは、ちょっと違う、どこか郷愁的な温かみのある心地よいサウンド、いまもエルヴィスの名曲を聴きながら、この日記を書いているが、気持ちのいいじつにいい音楽だ。


ビートルズは若者全開という感じだったけれど、エルヴィスはもっとゆとりのある大人の音楽、大人の声質、歌い方、そして大人のセクシーさ、そこに当時の懐かしいいい時代の音楽性が混在した、そんなロックンロール
だったんではないかと自分なりに結論づけたいです。


これで長い間、エルヴィス・プレスリーのことをもう少しきちんと知りたいな、と思っていた想いは少しは遂げたであろうか。。。









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DOUBLE FANTASY - John & Yoko [海外ロック]

今年はジョン・レノンの没後40周年ということで、ジョンの誕生日10月9日から、さらには凶弾に倒れた12月8日に照準をあわせて、展示会やテレビ番組の特集が組まれているようだ。


展示会は、ソニーミュージック六本木ミュージアムで開かれている「ジョン&ヨーコ ダブル・ファンタジー東京展(DOUBLE FANTASY-John & Yoko)」。


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“DOUBLE FANTASY – John & Yoko”は、2018年5月から2019年11月までジョンの故郷であるイギリス・リバプール博物館で開催された大規模な展覧会。


”ジョンの故郷であるリバプールのために”とヨーコ自身も深く関って完成させたその圧倒的な内容で高い評価と反響を呼び、会期も当初の予定から7ヵ月も延長、異例の70万人を動員した。


その話題の展覧会が、ジョン・レノン生誕80年、そしてその生涯を閉じてから40年となる2020年10月9日、ジョンの故郷リバプールから、ヨーコの故郷東京にやってくる、という試みだ。


しかも東京オリジナルな装いもある。ジョンとヨーコ、そしてショーンは、1976年にジョンがグリーンカードを獲得したことでアメリカ国外への旅行が叶い、1977~1979年の間、毎年日本を訪れ家族旅行を楽しんでいたことが知られている。


東京展独自展示コーナーでは、日本との絆を感じさせる品々を展示しているそうだ。


そういえば、自分はジョンとヨーコが愛した軽井沢万平ホテルを体験しに行ったこともあったなぁ(笑)いまから6年前の2014年に行っている。


特集番組は、NHK BSプレミアムで、このダブルファンタジー東京展の特集番組をやったそうで、その大反響に加えて、さらに新たにポール・マッカートニーのインタビューなどを加えて再構成した新装版「“イマジン”は生きているジョンとヨーコからのメッセージ奇跡の名曲誕生秘話」が放送されたのだそうだ。


12月24日のクリスマス・イブにだ。

もっと早くに言えよ~。(笑)

すっかり見逃していた。

ぜひ再放送お願いします。


ちなみに、ダブルファンタジー東京展は知っていた。ぜひ行かないとな、と思っていたのだが、11月28日~12月中旬まで、突然の家庭の事情により、自分は地獄のどん底でそれどころではなかった。


それですっかり飛んでいて忘れていた。

ところがイブの深夜から、突然ジョンが自分に降りてきた。

ジョン降臨!


瞬く間にあれよあれよと。もしやと思い調べてみたら、展示会やテレビ特集番組のことなどいろいろ知って、これは神様が自分にジョンのことを日記で熱く語らないとというお達しなのだと思った。


自分なりのジョンの想い出を熱く語ってみたいと思った。

ジョンの特集を組もう!



自分はポールのウィングスから入ってビートルズを知った。リアルタイムのビートルズ世代ではないけれど、自分は第2世代ブームのときのファンだと思う。


自分がビートルズを知ったのは中学1年、1977年のとき。ビートルズが解散したのが1971年だから、6年後で、ちょうどその頃にビートルズ第2次ブームというのがあって、自分はその波に乗っていたのだと思う。その頃のビートルズは必ず再結成の話題が持ち上がるのが常だった。


自分は子供だったから、再結成してくれるといいな~ってずっと夢焦がれていたのだ。音楽雑誌をずっと眺めながらそんなことを妄想するのが楽しかった。ジョンやポールはそのたびにその噂は否定するのだけれど、自分は絶対再結成あると思っていた。


よくあなたはジョン派、ポール派っていう質問が有名だけれど、自分はもちろんポール派である。でもジョンもリスペクトしていた。 どちらかというと温かい人柄でポップス的なポールにはないロック魂、カリスマ性、世相をシニカルにみるなどジョンは個性的で格好良かった。


やっぱりビートルズの長男はジョンで、ポールは次男なんだよね。
それは間違いない。


ポールはラブソング、ジョンは、もっと皮肉屋でそういう辛辣な表現にセンスがあった。だから子供の頃、自分が信じていたことに、レノン・マッカートニーのクレジットは、作詞がジョンで、作曲がポールだとずっと思っていたことだ。


ジョンの詩はセンスがあって、ポールには絶対書けないセンスだと思っていた。


でもレノン・マッカートニーのクレジットはそういう意味ではなく、ジョンが全部書いた曲もあれば、ポールが全部書いた曲もあるし、あるいはどちらかが作詞でどちらかが作曲といういろんなパターンがあるらしい。


でもそれも全部ひっくるめて、とにかくビートルズとして出す曲は全部レノン・マッカートニーのクレジットとして出す。それが彼らの著作権ルールだった。


噂ではその曲によってその役割分担がどっちというのを聴いたことがあるけれど、それは公表しないほうが絶対いいと思う。ファンの夢を壊しますね。


それを言えるのは唯一ポールだけだと思うけれど、ポールは死んでもそのことは公表しないと思う。それがバンドの美学ですね。



ジョンが凶弾に倒れたとき、世界は大きな悲しみに襲われたし、そして自分も大きな喪失感を味わった。


1980年12月8日。


自分がビートルズの存在を知った頃からわずかに3年後なんですよね。高校1年のとき。わずか3年後にジョンがすでにこの世にいなくなってしまった。この現実は子供だった自分の心に大きく深い傷であった。もうビートルズの再結成はないんだな、と思うと泣きました。


字幕のニュース速報でその事実を知ったのだけれど、あのときの衝撃はいまでも覚えている。目の前が真っ暗になって具合が悪くなった。


そのときに想ったこと、そしていまでも想うことは、ジョンの死、それも射殺というショッキングな死に様だったけれど、ある意味ロック・ミュージシャンとしては最高の美学というかカッコいい死に方だったのではないのかな、と思うのだ。


ドラッグ漬けで若くして世を去る、そういう不健康で尋常ではない死に方が当時のロック・ミュージシャンには似合っていたというか、そういう世界だったような気がする。


ジョンはあういう最期だったからこそ尚更、伝説的、神的なカリスマとして永遠の星としてファンの心に残るスターになったのだと思う。


これは後年ポールがインタビューで同じような感想を言っていたような気がする。


ジョンのあのショッキングな死で、ジョンはファンから完全に神的な領域に持ち上げられてしまった。残された僕たちはつまらない存在に見えてしまって非常に困ってしまった。。。ジョンとの間にすごい距離ができてしまった。。


こんなようなことを言っていたように思う。
それに対しポールにすごいバッシングな反論が集中した。

でも自分はポールの気持ちがよくわかるような気がした。


ジョンはあまりに格好良すぎた人生だった、ロック・ミュージシャンとして。そういう終わり方だった。


ジョンの格好良さというのは、ポールの格好良さとはまた違うんだよね。ジョンは、やっぱりロックで、社会的メッセージ色の強い、またそれがよく似合っていた。


ジョンの声はカッコいいですね。


ポールはやっぱりラブソング、ポップスで温かい雰囲気ですね。


こういうまったく違ったタイプのカッコいい個性を持った2人が同時に同じバンドで凌ぎを削るのって本当に神様が与えてくれた奇跡だと思うんですよね。もちろんジョージやリンゴも個性あって、この4人は本当に奇跡の組み合わせだといまでも驚くばかり。


ジョンが凶弾に倒れたときに、その数か月前に発売されていたアルバム「ダブル・ファンタジー」がそのショッキングな事件に乗じて、驚異的なセールスを上げ、社会現象になった。


世界中で枯渇現象に陥った。


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息子ショーン・レノンの育児に専念していたジョンが、5年間の主夫生活を終え、音楽業界に復帰する記念すべき作品となるはずであった。しかし発売から間もない12月8日に射殺されたことでジョンにとってこの作品が生前最後のアルバムとなった。


世界中に衝撃を与えたこの訃報もあって全英・全米で1位を獲得し、1981年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞している。


アルバムジャケットは日本人写真家の篠山紀信さんが撮影したものである。原版ではカラー撮影されているが、リリースされたジャケットではモノクロになっているため、篠山は「不吉な感じがした」という。その直後にジョンが死去したため、不安が的中してしまった、という。


有名なこのジャケットはニューヨークのセントラルパークで撮影された1枚で、この美しい1枚を撮るために、他にも800枚以上も写真が撮られていた。


「ジョンとヨーコの、かけがえのない幸せな一瞬がとれた、本当にラッキーな時間だったと思います。」(篠山紀信)


それらの写真を収めた写真集「Double Fantasy JOHN LENNON & YOKO ONO」が、タッシェン社から発売されている。時が止められたままの2人の写真には、いったい何が写っているのであろうか?


調べてみると2010年にその篠山紀信さん写真集が発売されている。
欲しいな、と思い探したけれど、ネット中古市場で簡単には見つかりませんでした。
あっても11万4800円とか34万8000円もするとか!!!驚きである。(笑)
大変なプレミアになっている。


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いまこうやってPCオーディオで「ダブル・ファンタジー」を聴いてみると、じつにいいアルバムだ。


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ジョンが亡くなった1980年当時にも聴いたけれど、あの頃に受けた衝撃とまた違った感覚で自分に迫ってくる。ジョンとヨーコの共作で、交互に曲のボーカルを取っている。カッコいいセンスですね。


ジョンの声はカッコいい。


このアルバムのファースト・シングルカットの「スターティング・オーヴァー」は、アメリカでは1位、年間チャートで10位を獲得しジョンのソロ・シングルの中で最も大きな成功を収めた。本国イギリスでもビートルズ解散後のジョンのシングルとしては初の1位を獲得した。


2曲目はヨーコが日本語でセックスを誘惑させる台詞を発したり喘ぎ声が吹き込まれた異色な作品である。自分は最初にこの曲を聴いたとき、びっくり。こういう遊び心は、絶対ポールのアルバムではあり得ないよね~。(笑)


ジョンのアルバムらしいセンス。


そして、自分がこの「ダブル・ファンタジー」の中で、最高と思っているのが、セカンド・シングルカットの「ウーマン」。


ビートルズ解散後、ジョンのソロになってからの最高傑作、有名作品は「イマジン」だという方が多いが、自分は間違いなくこの「ウーマン」を推奨する。


「ウーマン」こそジョンのソロ時代の最高傑作である!!!


当時、この曲を初めて聴いたとき、なんと美しい曲なんだろう!と驚いた。自分はこの「ウーマン」が大好きで、大好きで、当時のカセットテープのウォークマンで何回も繰り返し聴いていた。懐かしい想い出深い曲である。


ジョンはどちらかというと作詞のセンスに鋭いものを持っているという認識だったのだけれど、この「ウーマン」を聴いて、改めてジョンのメロディメーカーとしてのセンスを再評価したものである。


「スターティング・オーヴァー」や「ウーマン」が収められているこの「ダブル・ファンタジー」こそジョンのソロ時代の最高傑作のアルバムだと思うのである。それが彼の最後のアルバムになってしまうとは。。


そして40年後の2020年のいま。ジョン&ヨーコの写真展としてのタイトルに、このアルバムの「ダブル・ファンタジー」を持ってくることにどのような深い意味があるのだろうか・・・。


このアルバムは、ジョンとヨーコの楽曲が交互に並ぶような構成で、「男女の会話」といった趣になっていて、より2人の絆の深さと表現した作品ともいえるわけで、それが今回のジョンとヨーコの想い出の作品展の主題のテーマとぴったりあったのだろう。



そのジョン&ヨーコ ダブル・ファンタジー東京展(DOUBLE FANTASY - John & Yoko)に行ってきた。ソニーミュージック六本木ミュージアムで開催されている。


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ジョンとヨーコの言葉、メッセージ、作品だけで満たされる世界初の展示会である。展示会場は、こんな感じである。壁にその年その年のジョン&ヨーコの出来事が、 写真パネルと、そのとき2人が世界に発した言葉、メッセージの語録とでディスプレイされているのだ。


写真だけではない。音楽&アート作品、貴重な私物を通して追体験する。
そのコーナー、コーナーでジョンのいろいろな曲が再生されていた。


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この写真と語録がセットになって結構グッとくるんだよね。
ちょっと感傷めいた気持ちになる。

ファンには堪らないだろうね。

あまりにたくさんの語録があって、全部読むのは大変だった。
もう2,3回行かないとダメ。ぜひ行こうと思っている。



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あの12月8日に照準を合わせて、展示会場ではこうやってファン1人1人が献花できるようになっていたんだそうだ。残念ながらその日は自分は気づいていなかったのでできなかったが、ボクもひと花捧げたかった。




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展示会名となっている「DOUBLE FANTASY」はジョンとヨーコのアルバム・タイトルから。このアルバムがジョンの生前最後のアルバムとなる。


ジョンが凶弾に倒れた日から、このアルバムが世界中で売れまくり社会現象になったよね。世界中で枯渇状態になった。いまでもよく覚えてるよ。



まずジョンとヨーコの生い立ちから。


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ジョンのコーナーでは、少年時代に描いた「The Daily Howl」ほか「In My Life」の手書きの歌詞が展示されている。


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ヨーコのコーナーでは、1967年にヨーコがジョンにプレゼントしたアートブック「Grapefruit」の現物を展示。日本初の公開。


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1966に2人が初めて出会ったインディカ・ギャラリーを再現。作品の「Celling Painting(天井の絵)」と「Painting to Hammer a Nail(釘を打つための絵)」は当時の作品が再展示されている。


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ジョンとヨーコの結婚式。婚姻届けも。


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1969年に行われた有名な平和活動「Bed In」で使用したギブソンのギターや窓に貼られていたプラカードを展示。プラカードは日本初公開。


「結婚~平和活動」のエリアでは、有名な平和活動「Bed In」が展示。1969/3/20にジブラルタルで結婚式を挙げたジョンとヨーコは、その5日後、アムステルダムのホテルで世界平和のための平和活動「Bed In」を行う。


これは当時ベトナム戦争をはじめとしたアメリカ・ヨーロッパなどの政界情勢の不安が背景にある。ジョンとヨーコは自分たちに注目が集まるこのタイミングで訪れる記者たちに愛とユーモアを持って平和を訴えかけた。


この平和活動は2回行われており、2回目は1965年5月にモントリオールで活動。その際には「Give Peace A Chance(平和を我等に)」/Plastic Ono Bandのレコーディングも行われている。


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写真家ボブ・グルーエンのポートレートで着用した有名な”NEW YORK CITY "Tシャツの実物。


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クリスマスの定番曲となっている「Happy Xmas (War Is Over)」。
この曲はじつは反戦歌として制作されたもの。


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パワー・トゥ・ザ・ピープル!
この曲がこのエリアで鳴っていて格好良かった。
ジョンは、やっぱりメロディメーカーとしても最高の才能を開花させていたんだな。ハピー・クリスマスといい、このパワー・トゥ・ザ・ピープルといい、よく聴いたことのある馴染みの曲だ。


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WAR IS OVER!
ジョンの代名詞だった。
反戦、世界平和、そんな社会的なメッセージがジョンにはよく似合った。


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イマジンはそれこそジョンの代表曲であろう。
映画にもなっている。


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ビートルズだけでは、表現のはけ口が足りない。プラスティック・オノ・バンドは僕にとっての逃し弁だ。それがビートルズと比べて自分にとってそれだけ重要な存在になるかは、成り行きを見守るしかない。


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在留のための戦い。
アメリカ在留のために、最強の弁護士を携えて、その権利を勝ち取った。


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ここに住もうと思ったわけじゃない。たまたまそうなったんだ。
荷物をまとめることもなかった。所持品は全てイギリスの家に置いてきた。
短期滞在のつもりで来たんだ・・・・・けど、戻ることはなかった。


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この写真を前から撮影した写真もSNSで見たことあります。
ジョンのぺニスはかなり大きかったです。(笑)


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ジョンとヨーコのファッション。


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再出発。
ショーンの養育の5年間の主夫生活の沈黙から再出発のレコーディング。


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イマジン・モザイク。
ニューヨーク・セントラルの一画にある記念碑「ストロベリー・フィールズ」の「イマジン」のモザイク・アートを再現したもの。このグレコ・ローマン様式の作品制作に携わった卓越したイタリアの職人チーム、および贈呈いただいたナポリ市にヨーコより感謝申し上げます。


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ミュージアムショップ。
ジョン&ヨーコ グッズがいっぱい!


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これでおしまいです。


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ジョンとヨーコが紡いだ言葉の数々、多くの写真とともにもう一回体験しに行きたい。


やはりその場にいて写真とともに、その言葉、メッセージの語録を見ないと、あのジ~ンとくる感動は味わえないと思うから。


DOUBLE FANTASY - John & Yoko (ジョン&ヨーコ ダブル・ファンタジー東京展)

2021年2月18日、オノ・ヨーコの誕生日までの開催である。


ぜひ行かれてみてください。





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アビイ・ロード [海外ロック]

ビートルズの12枚のオリジナル・アルバムの中で、自分が最高傑作だと思うもの、自分が1番好きなアルバムがアビイ・ロードである。これは自分だけじゃなくて、他のビートルズファンの方もそういうファンが多いと思う。


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ABBEY ROAD: 50周年記念スーパーデラックスエディション
(SHM-CD 3枚組+ブルーレイオーディオ)【完全生産限定】



ビートルズのアルバムの中で最も売れたレコードである。
世界中のビートルズファンから愛されているアルバムですね。


「じつはホワイト・アルバムが素晴らしい!」の日記でも書いたけれど、自分は初期、中期のしっかりとした曲としての形式感が整っている感じより、どこか退廃的で、崩れている感じの美しさが漂う後期の曲のほうが好きである。


そのもっとも後期のビートルズらしい美しさを兼ね備えているのが、このアビイ・ロードだと自分は思っているのだ。


特に超有名なB面のメドレー。


ビートルズのアビイ・ロードといえば、もうこのB面メドレーというのは誰もが納得いくところではないだろうか。当時のローリング・ストーン誌は「本作のB面のみで、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に匹敵する」と評している。


このB面メドレーはじつに美しい至高の芸術品の集まりと言っていいですね。


ロックやポップスって1曲あたり大体3分から5分。


それをアルバムに収める数だけ作曲する、というのが、いままでのアルバムの概念だったと思う。(現代のいまでもそうですね。)こうやって1分もかからない小片の旋律メロディーの数々をずっと連続でメドレーにして、レコード片面を埋める、という発想ってかなり斬新なのでは?


こういう手法って1969年当時、マーケットは相当衝撃に感じたと思う。そんな大昔の時代に、すでにこういう手法を考え出していた彼らはやっぱり天才だよ!と思います。


ところが、じつはそんな美談の話ではなく、その真実というのは、未完成の楽曲を寄せ集め、「それらしく」聴こえるようにするための「苦肉の策」だったことが後に明らかになってくる。(笑)


いくつかの楽曲は個別にレコーディングされ、ミックスの段階でテープ編集によって繋げられたもの。


ポールはビートルズ初期の頃から、ウィングスの時代に至るまで、結構このメドレーという手法を好んで録音に取り入れていたようだ。


ともあれ、中学生のとき、このB面メドレーの美しさにすっかり惚れこんでしまった自分は、ビートルズはやっぱり後期の作品がいいなーと思うようになった、そんなきっかけを与えてくれたアルバムでもあったのだ。


そのB面メドレーの最後のThe Endのときは、あ~ビートルズは本当にこの曲が自分たちの最後という意を決して書いた曲なんだなぁと子供心に感傷に浸っていました。


当時はアナログレコードだから、A面、B面という楽しみ方ができましたね。
アルバム作るアーティスト側もこのA面とB面でコンセプトを変えたりという工夫ができた。


それがCDになったら、A面もB面もひと続きになってしまうから、そういう楽しみができなくなった。アビイ・ロードは、A面の最後の「アイ・ウォント・ユー」のジョンのヘヴィーなロックンロールの後に、レコードをひっくり返してB面をかけたときに、冒頭に流れるジョージの「ヒア・カムズ・ザ・サン」の美しさ。


世界がガラ変しますね。
この落差がたまりませんね。


そこから怒涛の美しさのB面メドレーが始まる。


ポリスの「シンクロニシティ」もそうですね。A面とB面とで楽しみ方、趣が全然違います。


このメドレーについてジョンは「A面は良いけどB面はちょっとね。あれはジャンク(ガラクタ)を集めただけだと思うよ」と述べているが、ポールとリンゴは「B面のメドレーは僕らの最高傑作のひとつ」と発言している。


ポールは解散後のソロ・コンサートにおいても、このB面メドレーの中の「ゴールデン・スランバーズ~キャリー・ザット・ウェイト~ジ・エンド」をコンサート終盤に必ず演奏します。


自分もポールの東京ドームでのソロコンサートを2回も経験できたけれど、この終盤でのアビイ・ロードB面メドレーは聴衆が一堂にドッと沸くところなんですよね。


ビートルズを知らない世代の人には、ぜひ1度このアビイ・ロードのB面メドレーを聴いてみてほしいです。


アビイ・ロードってそんな奇跡のアルバムなのだけれど、そんなビートルズの最高傑作が、じつはバンドとして崩壊しつつある1番最後のときに造られた、というのは、本当に奇跡の賜物としかいいようがないのではないだろうか。



「ゲット・バック・セッション」が事実上の頓挫という厳しい現実におかれたビートルズ。バンド崩壊が現実のものとなりつつある状況の中、最後はきっちりと締めくくりたい。「GET BACK」が未完成のまま放置されてはいたものの、覚悟を決めたポールは、最後のスタジオ・アルバムのプロデュースをジョージ・マーティンに託す。


ポールは、ジョージ・マーティンに「GET BACK」に代わる新作~しかもバンドとしての 有終の美を飾るための実質的なラスト・アルバムのプロデュースを託したのだ。


7月から本格的に始まった「ABBEY ROAD」のセッションは精力的に続き、約2か月かけてアルバムは完成した。たとえ4人がバラバラになってしまっていても「ABBEY ROAD」は奇跡的に”ビートルズの音”をきっちり伝えていること。しかもこの期に及んでなお革新的な音つくりを目指し、バンドとしてさらに進化し続けていることに心底驚かされる。


そして「ABBEY ROAD」は9月26日に発売され、ビートルズの最高傑作として印象的なジャケットを含めて今でもなお世界中で高い評価を受け続けるアルバムとなった。


こうした状況の中にあったビートルズのアルバムをプロデュースしたジョージ・マーティンは当時の経緯をこのように話している。「「レット・イット・ビー」の悲惨な経験のあと、彼らがまた集結するとは思いもよらなかった。ポールが電話をくれた時はひどく驚いたよ。「もう1枚レコードを作りたいんだ。僕たちをプロデュースしてくれない? 本当の意味でプロデュースしてほしい」と言われて「いいとも、もし本当の意味でプロデュースさせてもらえるならね。また私にあれこれ指図して困らせようというんなら断る」と答えたんだ。結果的にはとてもよかった。もっとも連中は自分のことにかまけがちで、それぞれ違うスタジオにいたりしたから、私はあっちこっち飛びまわらなきゃならなかったがね」と語っている。



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このアビイ・ロードでもうひとつ特筆すべきことはジョージのメロディメーカーとして佳曲を生み出す才能がこの最後の最後のアルバムで一気に花開いたというところではないだろうか。


ジョージは中期のリボルバーあたりから、作曲してアルバムに曲を提供するようになっていたのだが、それでもどこかジョン&ポールについでの3番手という位置付けの感は拭えなかった。


でも、このアルバムでの「サムシング」、「ヒア・カムズ・ザ・サン」は、まさにジョン、ポールの作品を凌駕する素晴らしい作品で、とくに「サムシング」はジョージの最高傑作だと思う。


ジョージが亡くなってから、ポールは自分のソロコンサートで、このジョージの「サムシング」を披露するようになった。


これが本当に泣ける演出なんだよね。


ポールはマンドリンのような小さなギターを抱えながら歌うんだけれど、後ろのスクリーンに在りし日のジョージのフォトが次々と投影されるんだ。


そしてポールがサムシングを歌っている。


あの「サムシング」の美しいメロディーと相まって、もう涙腺ドバーって決壊してしまう。


歌ったあと、ポールは、「この曲はほんとにいい曲だ。」ってコメントする。
ジョージへの哀悼の意ですね。


ここはポールのソロコンサートの中でも自分が1番泣けるところです。



自分はジョージのメロディーメーカーとしてのセンス、才能は、卓越していると思っている。ジョージにとって、ビートルズの中にいるということは、つねにジョンに弟分として蔑られ、ポールには技量も含めて下に見られ続けているという、あくまで3番手という不満をずっと抱えて過ごしていたのではないだろうか?


「ゲット・バック・セッション」でも自分が作曲した曲を演奏してみせるんだけれど、ジョンやポールはまったく興味を示さない・・・というような。。。


やはりバンドというのは、結成当時は一致団結だけれど、そののち絶対各個人に自我が芽生え、目指す音楽性の相違などがでてきて、そのような昇華する気持ちを自分のソロに向けていく。そうすることで、自分を主張できる。人間ってそういう自分の立ち位置を確保できるか、という生き物ですよね。


友人関係にしても、お互いのリスペクトできるところ、その人が自分はここが一番大事と思っているところを尊重してあげられる、そういうお互い認め合う気持ちがないと、友人関係は絶対うまくいきませんね。夫婦生活にもいえるかも?ロックバンドもそうなんだと思います。


そういう意味で、ジョージは解散後ソロになって、本当に自分の好きなことをやれるし、そして自己主張できる。そういう意味でぶつかるものがなくなって最高に幸せだったのではないか、と思います。


これはジョンやポールにも言えることですが。


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アビイ・ロードといえば、そのジャケットが有名である。ロンドン・EMIスタジオ前の横断歩道で撮影されたジャケット写真は、レコードジャケット史上最も有名なものの一つである。


本作の大ヒットで、録音に使ったこの「EMI・レコーディング・スタジオ」は、それまで愛称だった「アビイ・ロード・スタジオ」を正式名称に改称している。


COVID-19のパンデミックで、自分の今年のヨーロッパツアーはまさに風前の灯になっているのだが、じつはロンドン滞在のために確保しているホテルが、このアビイ・ロード・スタジオまで10分もかからないところにあるご近所さんなのだそうだ。


ぜひこのスタジオを訪問して、世界一有名な横断歩道を見てきたいと思っている。


この横断歩道は、もうロンドンで有数の観光地として超有名になっていますね。この横断歩道は世界中から多くのビートルズ・ファンが訪れる名所となり、その文化的背景から景観の保存が検討され、横断歩道を英国政府が2010年12月に英国の文化的・歴史的遺産に指定している。


アビイ・ロード・スタジオ


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おそらく世界でもっとも有名なレコーディング・スタジオであろう。


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ボクは、最新のB&Wモデルのデザインが好きではないので、この旧型の800Diamondがあったころのスタジオ風景のほうに愛着を感じる。いまや最新の800D3でフロント3本が賄われているのを見ると悲しくなる。(笑)

編集するコントロールルームだけではなく、レコーディングするスタジオも併設している大規模なスタジオだ。



この有名なジャケット写真ができるまで紆余曲折があった。最初は、あのヒマラヤ山脈のエベレストの麓まで行って、そこでエベレストを背景に4人のジャケットを撮るという企画だった。アルバムのタイトルも”エベレスト”。


でも「ヒマラヤにまでジャケット写真を撮りにいくのはごめんだ。ちょっと外に出てそこで写真を撮り、アルバム・タイトルを(通りの名前である)アビイ・ロードにすれば良いのでは?」とポールが提案し、他のメンバーも同意して、それで決まってしまった。



1969年8月8日金曜日午前11時35分にイアン・マクミランによって、横断歩道を左右に渡る4人を10分間ほどかけて6枚(3往復分)撮影し「ジャケットに使った写真(5枚目に撮影された写真)+別テイク2枚」の計3枚(後に残りの3枚も公開された)を公開した。


これがその全6枚である。


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実際にジャケットに使われた写真(5枚目に撮影されたもの)では、左から右にジョンを先頭に、リンゴ、ポール・ジョージの順番で並んでいる(他の5枚も全て同じ順番)。この写真のみメンバーの歩調や写真全体のバランスがきれいに取れているので採用された。


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この裏ジャケットの写真は、スタジオ近くの"ABBEY ROAD"と表示のある塀を撮影したものだが、その際に偶然青い服の女性が横切ってしまった。これを面白がったメンバーがその写真に「BEATLES」の文字を合成したものが裏ジャケット写真になっている。


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この撮影時のときの非公式のオフショットを披露しよう。横断歩道を渡る前の4人、スタジオ前で待っている4人、横断歩道を渡るいろんなアングルからのショットなど。

Copyrighted By THE BEATLES FB。


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これがアビイ・ロード50周年記念の時に撮ったショットなのかな?
現在のポールがアビイ・ロード・スタジオを訪れて、そして横断歩道を渡っているところ。


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このアビイ・ロード・ジャケットでとても有名な噂が駆け巡ったこともあった。


それが「ポール死亡説」。


「アビイ・ロード」のジャケット写真においてメンバー4人のうちポールが1人だけ目をつぶっているように見えて、更に裸足であり、左利きなのにタバコを右手に持っている。路上に駐められたフォルクスワーゲン・タイプ1のナンバープレートが「28IF」であるのが


「もし(IF)ポールが生きていれば、(数え年で)28歳(発売当時のポールの実際の年齢は27歳)」。


白いスーツで長髪にひげを蓄えているジョン・レノンは「牧師」、黒いスーツを着ているリンゴ・スターは「葬儀屋」、スーツ姿で目をつぶって裸足のポール・マッカートニーは「死人」、デニムシャツにジーンズ姿のジョージ・ハリスンは「墓堀人」などと解釈され、いわゆる「ポール死亡説」の根拠の一部になった。


ボクは当時、これをすごく信じましたよ。(笑)
えぇぇ~いまのポールは、ポールのそっくりさんなんだって。(笑)


リアルタイム世代ではない自分のような世代でもビートルズにカリスマを感じるのは、こういう話題があるところも神秘的だからなんですね。



アビイ・ロードも発売以来50周年になり、50周年記念アニバーサリー・エディションが発売された。


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これは日記ですでにお知らせしたとおり、リマスターだけではなく、リミックスまでに挑戦していて、まさに世のビートルズファンをあっと驚かせている。単にハイレゾというだけではなく、Blu-ray 5.1chとか、Dolby Atmos 9.1chに至るまでスゴイ!


自分はPCオーディオで、このアニバーサリー・デラックス仕様を楽しんでいる。


そしてこのアビイ・ロード50周年記念ということで、こんなムック本も出版されている。


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50年目に聴き直す「アビイ・ロード」深掘り鑑賞ガイド (シンコー・ミュージックMOOK) 藤本 国彦、 ヤング・ギター 企画編集部




「ゲット・バック・セッション」の本で紹介した藤本国彦さん監修の本だ。アマゾンで藤本さんの書籍ライブラリーを拝見したのだけれど、本当に日本でのビートルズ研究の第一人者と言っていい所感で、素晴らしいですね。


この本では、やはりリミックスのところを結構大きく取り上げている。自分はビートルズを本当に十数年以上聴いていなかったから、最初このリミックス仕様を聴いたとき、音が良過ぎて、奥行き感が出過ぎだし、分離しすぎでちょっと違和感というか、ビートルズ音源ってこうじゃないだろう?的なコンサバな意見だったのだけれど、このムック本では当然のことだけれど、今回のリミックスをとても前向きに捉えている。



「ビートルズ・マニアにはオリジナルを尊重するあまり、リマスターやリミックスを認めない人もいますよね。でもマスター・テープは本来、こんなに瑞々しくて躍動感のあるいい音だったということは、こうしたリミックスを聴かないとわからないんです。そういう原理主義とうか固定観念にとらわれることなく、もうちょっと自由な気持ちでチャレンジして、この50周年記念盤を楽しんでもらいたいんですよ。特に、僕と同世代の頑固な人たちにもそうお願いしたいですね。」(オーディオ評論家:和田博已)




その他、アビイ・ロードを鑑賞するなら、こんなところが聴きどころという本当にビートルズマニア、アビイ・ロードマニアにとって垂涎の本と言ってもよいのではないだろうか?



以上、ふっと自分の思いつきで「ゲット・バック・セッション」から突然始まったビートルズ連載。


これにて終了。


本当に今年の秋に公開される映画ドキュメンタリー「GET BACK」は最高に楽しみだし、COVID-19のおかげで行けるかどうか極めて厳しい状況になってしまったが、アビイ・ロード・スタジオ、横断歩道を訪問できることを本当に楽しみにしている。


ビートルズもやはり自分の人生に関わってきた、幼少の頃のロック人生で大切な偶像だったから自分の日記で熱く語らないといけないという使命感に燃えたのが、この連載を始めた理由だったのでした。










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じつはホワイト・アルバムが素晴らしい! [海外ロック]

「ゲット・バック・セッション」の日記でも書いたが、子供の頃にどうしても欲しかったビートルズのレコードがあった。でもお小遣いが少ないから、どうしても優先度があって買えなかったレコード3枚である。


ホワイトアルバムとリボルバー、そしてラバーソウルの3枚。


この3枚は、そのレコードとしての作品性がすごく評価されていたレコードで、当時欲しくて欲しくて堪らなかった3枚である。


もちろん買えばよかったのだけれど、その頃は、優先度があってサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドと、アビーロード、そしてレット・イット・ビーの3枚買うのが精いっぱい。あとは赤盤と青盤でビートルズの曲を全曲網羅する、という感じでその物欲を満たしていた。


うちは貧乏家庭だったから、そんなにお小遣いをもらっていなかった。(笑)


ビートルズに熱中していたのは、中学生、高校生くらいまでで、大学生からはもう卒業で音楽性の趣向もどんどん変わっていった。


あれから何十年経過したのだろう。

いま、この3枚を聴いている。

感慨深いです。


やっぱり自分の予想していた通り、本当に作品として素晴らしいクオリティーの高さ。ビートルズのメロディーメーカーとしての類まれなセンスは、50年以上経過した、いま聴いてもまったくもって新鮮で驚くばかりだ。



●ホワイトアルバム


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1968年11月22日に発売されたビートルズの10作目のオリジナル・アルバム。正式な名称は「ザ・ビートルズ」だが、ジャケットが真っ白一色だから俗称「ホワイト・アルバム」と言われている。


2枚組である。


レコーディングの期間中リンゴが一時グループを脱退(厳密には「レコーディングをボイコットした」という言い方の方が近い)したエピソードがあったことから、ビートルズ崩壊の始まりと言われる作品でもある。(笑)


自分は初期、中期のしっかりと曲としての形式感が整っている感じより、どこか退廃的で、崩れている感じの美しさが漂う後期の曲のほうが好きである。だからSgt.Papersは本当に素晴らしい画期的なアルバムだと思うけれど、自分の好みからするとアビーロードのほうが全然好きなのである。


ホワイトアルバムも後期のアルバムなので、そういう後期独特の退廃的な美しさがあるに違いないとずっと確信していたのだ。(Sgt.Papersとアビーロードの間の作品)


実際聴いてみたら、期待を裏切ることなく、まったくもってじつに素晴らしいアルバムであった。


ポールはビデオ版「アンソロジー」の中で「このアルバムは脈絡がないだとか、ソロの曲ばっかりだとか言われるけど、後から色々言うのは簡単さ。ビートルズのホワイト・アルバムだぞ。黙れってんだ」と語っているそうだ。(笑)


まったくその通り!


Sgt.Papersがコンセプトアルバムとして画期的なアルバムだったので、その後にリリースされただけに、どこかソロ作品の集合体といった趣もあり、全体としてのまとまりに欠けると評されることが大方の評価だったようだ。


4人のメンバーがいままでのような一致結束の絆の強さのサウンドから、もっとそれぞれにソロ志向が強くなって、バンドとしてバラバラになっていく兆しとなったアルバムでもあった。


でも、そこに自分が好きな後期独特の退廃的な崩れていくような美しさ、の匂いを感じ取っていた。 今回初めて聴いてみて、まったく期待を裏切らない、予想以上に素晴らしい出来に感動してしまった。


フォーク、カントリー、ヘヴィ・メタル、ブルース、ジャズ、クラシック、現代音楽・・・など4人が”個”をぶつけあった結果生まれた音楽性の幅広さは、曲数の多さもさることながら、ビートルズの集大成と呼べるもの・・・確かにそう思う。


このアルバムで有名な曲は、「バック・イン・ザ・U.S.S.R」、「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」、「ブラックバード」、「レボリューション」とかあり、それはすでに知っていた。


でも今回全曲通して聴いてみて、さらに素晴らしい曲を発見。


「マーサ・マイ・ディア」
「ロッキー・ラックーン」
「ハニー・パイ」
「バースディ」
「サボイ・トラッフル」


などなど。


シングルカットされていない、このアルバムを聴かないと発掘できていなかった名曲ばかりだ。このアルバムを聴くと、やっぱりジョンはロックンロール、ポールはポップスというそれぞれの得意なキャラクターが浮き彫りになる感じだ。もちろんジョージやリンゴもそれぞれキャラが出ていて素晴らしい。


「マーサ・マイ・ディア」なんて、まさにこれぞ、ポールの曲!という感じ。自分がいままで聴いていたポール愛そのまま、メロディメーカーとしての天才ぶりを遺憾なく発揮している、と思う。


”全体としてのまとまりに欠ける”ではない。
”音楽性の広さ”である。


ぜひ聴いてみてほしい。



●リボルバー


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これもどうしても子供の頃聴きたかったアルバムだった。
お小遣いがなくて買えなかった。


これはその中学生のときのおぼろげな記憶なのだけれど、ビートルズ3大アルバムと雑誌が勝手に命名していたチョイスがあって、それがSgt.Papersとアビーロードとこのリボルバーだったと記憶している。


その当時のすべての雑誌のライターが推薦しているチョイスだから、余計聴きたかった。Sgt.Papersとアビーロードはすでに持っていたので、あとはこのリボルバーだけだったのだ。


ジャケットがかなりインパクトが大きかった。
子供心に強烈なインパクトだった。


当時の技術的制限下では、コンサートでは再現できない楽曲が多く、「リボルバー」発表後「リボルバー」の曲がビートルズのコンサートで演奏されることはなかった。ライヴ・バンドからレコーディング・バンドへと変化する、過渡期の作品だと言われている。


ジャケットのサイケデリックなデザインといい、レコーディング・バンドになる立ち位置を明確にしたという点で次作のSgt.Papersへステップアップするための踏み台になった作品だった。


これも初めてアルバムとして、全体を聴いてみたが、じつに秀逸な作品ですね。


やっぱり中期に位置する作品だけあって、アルバム自体がきちんとした形式感というか、型にはまっている感じですね。この頃は4人とも一致団結してまとまりがあった。


あとこのアルバムで注目する点は、このアルバムからジョージが佳曲を生み出す才能を見せ始めたという点ですね。このアルバムでは3曲提供しています。ジョージは当時インド(とそのインド音楽)に凝っていて、その作曲した曲の中でもインドテイストな感じが見受けられます。


このアルバムで有名なのは、「エリナー・リクビー」、「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」、「イエロー・サブマリン」、「グッド・デイ・サンシャイン」があって、これは当然よく知っていた。


そういうシングルカットされていないこのアルバムを聴いたからこそ、見つけることができた掘り出しモンは、

「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」ですね。


これは最高にカッコいい!


まさにこれぞポールの曲という感じ。ポール愛が最高に唸りを上げるカッコよさですね。


ポール天才!



●ラバーソウル


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このアルバムも欲しかったんだよね。
ビートルズの初期のアルバムの最後にあたる作品で、作品のクオリティがすごい高いという認識だった。


使用する楽器の幅が広がって、次作のリボルバーの実験的なアルバムに行く前の兆候が見えだしたアルバムでした。いまこうやって聴いてみると、やっぱり初期のアルバムだね。


でも本当にいい曲ばかり。若々しくて、きちっと形式感がある。売れるポップソングですね。

このアルバムの中には「ミッシェル」が入っている。


これも子供の頃の思い出だけど、ビートルズの3大メロディアスな名曲というのがあって(この当時はなんでも3大〇〇〇でしたね。)、それは、イエスタディとこのミッシェルと、あと残り1曲が思い出せない。このラバーソウルは、そのミッシェルが入っているアルバムということで思い出がある。


このアルバムでは、「ノルウェーの森」、「ミッシェル」、「ガール」、「イン・マイ・ライフ」が有名だけれど、このアルバムを聴いたからこそ見つけた掘り出しモンは、


「ユー・ウォント・シー・ミー」
「君はいずこへ」
「ウェイト」
「浮気娘」


ですね。


やっぱり聴いていて、そのコード進行に思わず自分が反応してしまうのは、ポールの曲だけど、「ウェイト」や「浮気娘」はジョンの曲。ジョンはやっぱりカリスマがあってカッコいいですね。


尚、誤解のないように釈明しますが、基本、ジョンの曲、ポールの曲ということはなくて、全曲「レノン=マッカートニー」の共作です。メインでやったほうが、リードボーカルをとることが多いです。


どちらか1人がメインであっても、クレジットは「レノン=マッカートニー」です。

どの曲が、どちらがメインかは謎です。ポールもいまもclarifyしません。


ということで、子供の頃からの夢をいま果たしました。


この3枚だけじゃなくて、他のオリジナル・アルバムやマジカル・ミステリー・ツアーやイエローサブマリンのようなサントラに至るまで、ビートルズの全アルバムをいま夢中になって聴いています。










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ビートルズ音源のリミックス・リマスターは音がいいと言えるのか? [海外ロック]

ビートルズ・ビジネスのもっとも代表的なものは、ビートルズ音源のリミックス・リマスターであろう。


自分も記憶が曖昧なのだけれど、2005年あたりに、はじめてビートルズの全アルバムのCDが最新リマスター盤となってリイシューされ、ものすごい大変な話題になった記憶がある。


ラジオなんかを聴いていても、「ビートルズのCDがすごく音がよくなったんですよね~」なんてDJの方が言って、その音源をかける、ということに頻繁に遭遇したことがある。


それからはビートルズ音源の最新リマスターは、2010&2015&2019年とほぼ5年間隔でおこなわれ、その2005年のときほどショッキングなことではなく、現在ではなかば当たり前の行事になっていったような気がする。


自分は、今回、じつにひさしぶりに(おそらく十数年ぶり)ビートルズの全アルバムを聴き返している。Sgt.Papers、アビーロードがともに50周年記念盤ということで、スペシャル・デラックス仕様と呼ばれるものを販売しているのだ。


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共通しているのは、2019年に最新リミックスされた音源で、さらに諸元がハイレゾの96/24にオーサリングされたものだ。


音がよくなっているんだから、絶対こちらのほうがいいと思っていた。


でも聴いてみて、ちょっと「なにか違う」というか違和感があるのだ。


自分がよく知っている曲、子供の頃に脳裏に焼き付いている音楽と、なにか別物になったような感じがする。ノイズが除去されて、クリーンな感じになってS/Nがよくなっているのは一聴するとわかる。でもそれはまだ許されるにしても、もっとなにか曲の聴こえ方そのもの自体に、どうも違和感がある。


いろいろ自分が悩んで考えてみたところ、それはリミックスしたことに起因するのではないか、と思ったのだ。リミックス(Re-Mix)とリマスター、リマスタリング(Re-Mastering)とは全然違う工程のことである。


演奏家、ミュージシャンが演奏して、それをレコーディングしてCDになるまでの工程はこのようになっている。


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マルチマイクで録って、それをHDD(いまはメモリーカードなのかな?)などにマルチトラックで録音する。それを2chや5.1chに落とし込むことをミキシング(ミックスダウン、あるいは単にミックス)という。ステレオなら2ミックス。


そしてそれをCDの原盤に落とし込むことをマスタリングという。


リマスター、もしくはリマスタリングというのは、この2ミックスを原盤に落とし込むときに、デジタル処理でノイズを除去したり、歪みをとったり、楽音を鮮明化したりして、高音質化アーカイブしたりして、再度原盤に落とし込み直すことである。


だから昔作った2ミックス音源を加工するわけではない。


でもリミックスというのは、マルチトラックの音源をもう一回ミキシングし直すことをいう。これは、いわゆるやり直しに近い工程だから、昔の曲のイメージががら変になってしまうのは当然ではないか、と思うのだ。


それは当時と最新とでのエンジニアの技術力も違えば、使っている編集用のオーサリングツールの進歩も全然違う。エンジニアの技一つで、音場感を出したり、奥行き感を出したり、立体感を出したり、音の隈取りをしっかり出すようにするとか、全体の音のバランスなど自由自在に料理できる。


まさにこのミキシングの部分でエンジニアの力量が問われる部分なのだと思う。


この2ミックスのところをやり直したら、そりゃ出来上がったものは、1960年代にミックスしたものと全然違うものができるのは当たり前だと思う。


ここ2ミックスの部分、というのはある意味、「聖域」に相当するところなのではないだろうか。


ビートルズのファンは神聖なビートルズの音源を「いじってほしくない。発表当時にあったあるがままの音で聴きたい」


ロックとポップミュージックの新約聖書であるビートルズのアルバムと音源は、足したり引いたりしてはならない聖典である。


その聖域である2ミックスをいじってしまうのは、かなり度胸のいることなのではないのだろうか?(笑)


いくら音をよくしたいとは言え、そこをやり直したら、それはもうビートルズの作品とは言えないのではないだろうか?


だから、今回Sgt.Papersやアビーロードの50周年記念盤を聴いたとき、なんかやたらと音が良すぎて、音場感や特に奥行き感や遠近感がよく表現されているし、あと全体の音のバランスもかなりよくなっている。


それはリミックスしてやり直したからなのだと思う。


でも子供の頃からずっと脳裏に焼き付いている自分の中のビートルズの曲じゃないよな、なんか違和感あるという感じなのだ。確かにオーディオ的には、全然音がいいのだけれど、こういう「聖域」に関わる音源の場合、そういうことをすることがそのままいいことなのかは疑問だ。


ビートルズの曲はもっとラジオのように平面的なサウンドだ。(笑)
ビートルズファンにとって、どっちが幸せなのか、だ。


ビートルズの音源をリミックスするというのは相当勇気がいるというか、アップル本社や著作権者に何回も確認、承認を得たプロセスを通った上なのだろう。


だからもちろんそんなにメチャメチャではない。
でも自分には、ちょっと音がよすぎて、その聴こえ方に違和感がある。


いかにも近代の最新録音という感じで。。。
自分の子供の頃から知っているビートルズじゃない。


これはあの「Let It Be」についてもそうである。フィルスペクターがプロデュースしたのと比較して、ポールが2003年に作った「Let It Be...naked」も同じ。ポールの執念、気持ちはよくわかるけれど、nakedのほうは音が良すぎて気持ち悪い。Let It Beはライブ一発録りの外の暗騒音がある昔のほうがいい。やっぱり子供の頃に刻み込まれた印象は深いのだ。


どっちが幸せか、だ。


だからビートルズ音源でやっていいのは、2ミックスをいじらないリマスター、リマスタリングなのだと思う。これはノイズを除去するなり、音を鮮明にしたり、歪をなくしたりというくらいは許される。


いままでのビートルズ音源の高音質化の歴史も大半はリマスターのほうだ。
ビートルズ最新リマスター盤!という感じですね。


リミックスに挑戦したのは、今回の2019年度のSgt.Papers/アビーロードが初めてではないか?自分はPCオーディオでハイレゾ・ストリーミングで96/24でそのリミックスした音源を聴くというスタイルだが、この50周年記念盤のパッケージメディアBoxでは、さらにBlu-ray Audio 5.1サラウンド、Dolby Atmos 9.1サラウンドなんていうリミックスVersionもある。


ひぇ~!!!(笑)


もうそりゃビートルズ音源ではないだろう。
ビートルズ・ビジネスの商魂たくましいという感じである。


やっぱりビートルズの音源を聴くのは、当時発売されたメディアであるアナログレコードで聴くのが1番いいのかもしれない。




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ゲット・バック・セッション [海外ロック]

ビートルズはなぜゲット・バック・セッションをやることになったのか。


これは世界中のビートルズマニアが熱く語って止まない、永遠のテーマである。もうネットで検索したら、それこそ無限に投稿があって、みんな熱く語っている。わかるなぁ、その気持ち。


この「ゲット・バック・セッション」のことだけ語っている、それだけで1冊の本になっていたりする。世の中にビートルズ研究家はたくさんいますね。


もうビートルズのビジネスは、クラシック界でいうところのフルトヴェングラー・ビジネスと同じだと思いますね。どんなに年数が経っても、なにか新しいmodifyをして、それだけで話題性、ニュースになって儲けが出る。


それを永遠に繰り返す感じだと思いますね。

本当に深い世界です。


ビートルズ・ビジネスを見るといつも思うことは、「真実はひとつ」だと思うことですね。


それは4人のビートルたちが一番知っていると思うんだけれど、マネージャー、プロデューサー含めその取り巻く環境など、みんなその真実を求めて、後年にじつは・・・だったと熱く語るという世界なんじゃないかな、と思うんですよね。


自分もご多分に漏れず、ビートルズ・ファンであった。


中学生のとき、ポール・マッカートニー&ウィングスから入っていって、そこからビートルズを知って、ビートルズの偉大さを学んだ。


えぇぇ、そりゃ夢中になりましたよ。
でも中学生のときのハンディキャップは、お小遣いが少ないということである。


ビートルズのレコード全部欲しかったけれど、お小遣いがないから、本当に欲しいのだけを買うしかなかった。自分は初期のライブ感、エネルギッシュな曲もいいけれど、やっぱりレコーディングに凝り始めた中後期が好きだった。そのレコードの作品性に存在感がある中期、後期のレコードが好きだった。


まず買ったのは、サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(以降Sgt.Papers)、アビーロード、レット・イット・ビー。これは必須だった。お小遣いが少ないから、残りは、いわゆる通称ビートルズ赤盤(1962~1966)、青盤(1967~1970)のベスト盤のLPを買った。


この赤盤、青盤の果たした役割は大きかった。お金がない子供にとってビートルズの曲を全部知るには、この赤盤、青盤は最高のレコードだったのだ。


ホワイト・アルバムとか、リボルバー、とかラバー・ソウルとか、そのレコードとしての作品性がすごく評価されていた頃のレコード欲しくて欲しくて堪らなかったけれど、買えなかったね。


でもいまハイレゾ・ストリーミングで聴いてみて、そうか!こんな作品だったんだ!と何十年ぶりに大感動!いま自分の中では秘かなるビートルズ・ブームが来ています。


その夢中になっていた子供の頃にどうしても果たせなかった夢があった。
それは映画「Let It Be」を観ていないことだった。


あの有名なアップル・コア本社ビルの屋上でのルーフトップ・コンサート(屋上ライブ)は、子供の頃、テレビの深夜放送帯で流れていたのを観たぐらい。そのとき、いやぁカッコいいなーと超憧れた。


映画「Let It Be」は1970年に公開された映画だが、パッケージメディアの作品になったのは、VHS,Beta,LaserDiscの頃だけなのだ。なぜかDVDになっていない。だから自分は入手するタイミングを逸してしまった。


なぜDVDになっていないか、というと、この映画の中でポールとジョージがケンカ口論するところがあって、それをポールが嫌って許可しないといううさぎさんの話。


そうかー、そうなればますます観たくなる。
アマゾンで調べたらあった。
さっそく購入。


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じつは、この映画「Let It Be」は公開された本編からどんどん海賊盤が出まくっている作品で、自分が買ったのはやはりどうも海賊盤らしかった。観たんだけれど、ポールとジョージの口論と思われるシーンがないんだよね。


ジョージがポールに議論をぶつけている場面はあるんだけれど、ケンカとは思えない。本編では、レコーディング中、各メンバーにあれこれ指図するポールにジョージが嫌気がさして、食って掛かる場面らしいのだが・・・。


だから、このケンカの場面はカットされているんだと思うんですよね。ボクの買った海賊盤は。。。


「ゲット・バック・セッション」のことを知る必要があったのは、この映画「Let It Be」がどういう映画で、どういう当時の彼らの環境の中で生まれた映画なのか、ということを知らなければいけなかったからだ。


この「ゲット・バック・セッション」のことはネットにいっぱい投稿があって熱く語られている。そして1冊の本にもなっているのだ。


自分は「ゲット・バック・セッション」のことを勉強したくて、こういう本を購入した。


ビートルズはなぜゲット・バック・セッションをやることになったのか、「GET BACK...NAKED 1969年、ビートルズが揺れた21日間」。


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GET BACK...NAKED 21DAYS THAT ROCK'N'ROLLED THE BEATLES IN 1969

藤本国彦





これは変に難しくなく、わかりやすく書かれていて、話の内容もかなり真実味があるというか説得力があった。なにせ、ゲット・バック・セッションの1日単位でバンドがどのようなことをやったのか日記のように詳細に記されているのだ。この著者の藤本国彦さんは、日本でもビートルズ研究の第一人者として有名な方のようだ。


「ゲット・バック・セッション」とはなんだったのか?の説明に挑戦してみる。


ホワイトアルバムをリリースした後、ビートルズのメンバー間の関係がギクシャクしてきてバンドとしての危機だったんだな。彼らはレコーディングの手法にオーヴァーダヴィングを重ねに重ね、凝りに凝った作品を作ってきたんだが、そういうバンドとしての危機にあたって、ポールがもう一回原点に戻ろう!(GET BACK)オーヴァーダヴなしの初期の頃のようなライブ一発録りでやろう。とメンバーに呼び掛けた。


そしてまたライブをやろう!


でもいまやメンバー間には当時ような覇気がなくてそれがうまくいかなくていろいろ試行錯誤の上、結局レコーディングしている模様をずっと撮影してドキュメンタリー映画にしよう。そしてライブパフォーマンスとしては、アップル・コア本社のビルの屋上でゲリラ・ライブをやって、それを映画の中に盛り込もうという感じで収まった。


でも結局その撮影した映像素材も結局放置という感じで、作品にならなくて、このままビートルズが瓦解して終わりになるのをポールが恐れて、最後にもう一回集まって、本当に最後のアルバムを作ろうと呼びかけた。


そうして録られたのが、「アビーロード」だったわけだ。


結局「ゲット・バック・セッション」で録った素材は、いったんアルバム「GET BACK」として作られ、ジャケット写真も撮影されたものの、その散漫な完成度に満足できずそのまま棚上げになってそのまま放置という感じで、ビートルズは解散するまでの間に、世に出ることはなかった。


その解散後に、プロデューサー、フィルスペクターがその放置されていた素材を「Let It Be」としてプロデュースして世に送り出した。


このフィルスペクターという氏が、フィルスペクター極悪人説というのがあるくらい、彼のプロデュースしたLet It Beはオーケストラ、コーラス入りなど装飾の色をつけ、ポールが当初ぶち上げた「原点に戻ろう(GET BACK)」というバンドらしい音とはかけ離れたサウンドだった。アルバムタイトルも当初は、「GET BACK」だったのに、「Let It Be」になった。


まっ自分が聴いてみたところ、そんなに派手な装飾がついているのは、「ザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード」くらいのような感じがしたのだけれど。。。


このフィルスペクターがプロデュースしたコーラス入りのオーケストラアレンジありの「Let It Be」は、ポールにとって、自分のキャリアを破壊された大嫌いなバージョンであったのだ。だからずっとこのアルバムに対して積年の怨念を持っていたんだな。


2003年に、そのLet It Beを、本来のリアルなバンドサウンドに蘇らせようとしてポールが制作したのが「Let It Be...naked」というアルバム。


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さすが執念のポール。(自分はいままで知りませんでした。)


アルバムの曲順も全然オリジナルと違います。ポールの主張があります。


たしかにポールの執念だけれど、小さな中学生の頃からこれがLet It Beですよ、として聴いてきた(特にザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード)のを、いまになって、これが本物です、と言われてもそんなに器用に立ちまわれないような・・・。(笑)長い年月が経っているから、これを自分の中に取り込めるようになるには時間がかかる。


映画「Let It Be」もその後、編集されて、公開された。


ゲット・バック・セッションは、1969年1月2日から1月30日の真冬のロンドンで彼らがおこなったセッションで、1月2日~1月16日まではトゥイッケナム映画撮影所においてリハーサル・セッションと撮影を行った。セッションをするけれど、映画のための撮影ということもあって、スタジオじゃなくて映画撮影所だったようだが、映画を見る限りでは、だだっ広い中で結構寂しい感じがした。


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だたっぴろい撮影スタジオ、そして一挙手一投足を撮影しているカメラマンに囲まれ、レコーディングはけして良い雰囲気では行なわれなかった。メンバーには破棄がなく、演奏も怠惰で、思いつくままギターをつま弾くというお粗末な感じ。


これは自分のようなビートルズマニアでビートルズが好きな人には堪んないかもしれないけれど、普通の人が観たら退屈だろうなという感じはしました。


結局ここでのセッションは、後に、フィルスペクターがプロデュースした「Let It Be」には一切使われていない。



1月20日、場所をアップル本社ビル地下にあるアップル・スタジオに場所を変え、レコーディングを再開する。メンバー間の緊張を緩和するには他者の目が必要だと考えたジョージは、キーボードとしてビリー・プレストンをセッションに招聘した。


自分は、このゲット・バック・セッションのことを勉強して、映画「Let It Be」を観て、初めてこの5人目のビートルズ(黒人です)の存在を知った。当時の瓦解寸前のビートルズの中で緩衝材的な存在だったらしい。


アップル・スタジオにおけるセッションはビリー・プレストンが緩衝材となったことなどから、トゥイッケンナム・スタジオにおけるセッションとは雰囲気が変わり、ビートルズの「魔法」が再び起こりつつあった。そして、それまでの緩慢な演奏とは異なり、改めて新曲をレコーディングするという意気込みが感じられる完成度の高いものになった。


「Let It Be」とか、「ザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード」とか、そして屋上ライブの「GET BACK」ですね。


結局いままでのビートルズの完成度の高いアルバムに比べて、ライブ一発録りの散漫な感じに聴こえるアルバム「Let It Be」の中で、従来と変わらない完成度だったこの3曲は、この後半のセッションで生まれたことになる。


そしてゲット・バック・セッションの最終フェーズ、1969年1月30日。

あの伝説のアップル・コア本社屋上でのゲリラ・ライブであるルーフトップ・コンサート。


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これはもう最高ですね!


結局ゲット・バック・セッションの行きつくところは、この屋上ライブのシーンではないか、と思いますね。警察に予告なしのゲリラライブですから、当然市民もなんだなんだ?なんでビルの屋上から騒音が出てくるんだ?という感じで戸惑っているシーンがなんともリアルです。そして警官も集まってくる。


そして警官が屋上に上がってきたときに、思わず怖くて付き人がアンプのスィッチを切ってしまうのを、ジョージがまた入れなおすシーンとか。この部分だけ音が途切れます。(笑)


このライブセッションはとにかくカッコいい。ようやく子供の頃からの積年の夢がかない、この屋上ライブのフルバージョンを観ることができました。


ビートルズのライブパフォーマンスの中で1番格好いいです。


真冬のロンドン、寒さは半端じゃないし、風が吹きすさぶ屋上での演奏。ジョンとリンゴが。”ステージの袖”でビートルズを見守るヨーコとモーリンにそれぞれ女性用のコートを借りて演奏したのは、マニアにはよく知られた話です。


ゲリラライブで思い出しましたが、昔、郷ひろみが渋谷でゲリラライブをやって警察に逮捕されましたね。あれは、このビートルズの屋上ライブからヒントを得たのでしょうか?(笑)


ビートルズの場合も、その可能性もあったらしいですが、結局逮捕には至らなかったそうです。でもリンゴは後年、あのとき警察に連行されていたら、最高にカッコいい終わり方だったのに!と悔いています。(笑)


これが「ゲット・バック・セッション」である。

これでも簡潔に説明したつもりだが、実際はまだまだ深くてマニアックなのだ。

自分も勉強したばかりなので、マニアの方からするとこれじゃ足らない部分もあろう。
熱狂ファンはもっと細かいところを言及して痺れている。


もちろん映画「Let It Be」に使われたのは、この長い長い「ゲット・バック・セッション」の一部でしかない。


そんな風に、自分にとって「ゲット・バック・セッション」について勉強していたら、信じられないニュースが飛び込んできた!!!



「ロード・オブ・ザ・リング」で有名なピーター・ジャクソンが監督によるビートルズの新ドキュメンタリー映画「The Beatles: Get Back」が今年9月に北米で公開へ。



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「Let It Be」じゃなくて、「Get Back」だ!
ポールの初志貫徹の想いが伝わったのだろう。


ずっと廃盤になっていて残念な思いをしていた映画「Let It Be」が、新しいドキュメンタリーとして帰ってくる。


配給元はウォルト・ディズニー・スタジオ。この映画には、1969年の“ゲット・バック・セッション”からの未公開映像と、アルバム「Let It Be」のレコーディング・セッションからの未発表音源が収められている。


今後、1970年の映画「レット・イット・ビー」にも修復作業が施され、レストア版として公開される予定だ。ザ・ビートルズの歴史的名盤「Let It Be」のための親密なリハーサル風景とレコーディング・セッションに光を当てた映画「The Beatles: Get Back 」には、1969年1月にサヴィル・ロウのアップル・コア本社の屋上で行われた42分間の“ルーフトップ・コンサート”の全貌も収められている。


現存する2人のビートルのコメント。


ポール・マッカートニー


「ザ・ビートルズのレコーディングが実際にどんな様子だったかという真実を映し出したこの映画の製作のために、ピーターが僕たちのアーカイヴを掘り下げてくれたことを本当に嬉しく思っています。僕たちの友情や愛がこの作品によって蘇り、僕たちが共に過ごしたとてつもなく美しい時間を僕に思い出させてくれます」


リンゴ・スター


「この映画の公開が本当に楽しみです。ピーターは素晴らしい監督で、この作品に収められている映像全てに心が踊りました。あの頃の僕たちはただただ笑い合ったり、世に知られているヴァージョンとは似ても似つかぬような演奏をしたりして何時間も一緒に過ごしました。あの喜びに溢れていた時間を、ピーターはこの映画の中で描き出してくれることでしょう。この作品は、本来のザ・ビートルズの姿がそうであったように、平和と愛に満ちたものになると思います」。



もう超興奮だが、よく考えてみたら、ビートルズの名盤は、今が、ちょうど50周年に差し掛かってきており、Sgt.Papersも50周年記念盤を出したし、アビーロードも50周年記念盤を出したばかり。そして今回がLet It Beの50周年の番になったということだけなのかもしれない。Let It Beは、アルバムだけじゃなく映画もあるということで。


映画「Let It Be」は今までいつも復刻の話が出るのだけれど、いつも優先度の高いビジネスが優先されてしまい、後回しにされてきたようだ。でもようやく本懐を遂げた、という感じ。


なんか、急ににわかにビートルズがマイ・ブームになってきた。


COVID-19のおかげで、クラシック関連はすっかり寂しい感じなので、ちょっと浮気して、自分はこれからちょっとビートルズにふたたび熱を上げてみたいと思っている。



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いまこうやって「Let It Be」を改めてじっくりと聴いているが、やっぱりボクにとっての「Let It Be」は、このフィルスペクターがプロデュースした「Let It Be」なんだよな。(笑)








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ニューヨーク・シェア・スタジアムでのシンクロニシティー・コンサート [海外ロック]

1983年~1984年にかけてのポリスのシンクロニシティー・ツアーの最頂点となったのは、間違いなく米ニューヨーク・シェア・スタジアムでのライブだ。70000人を動員したと言われる最大級のスタジアムでのライブ。


このとき、全米だけでなく世界の頂点に立った。


このスタジアムは、もともと野球場なのだが、あのビートルズがライブをおこなったスタジアムで超有名だ。ロック史上、スタジアムでライブをやったのは、ビートルズが初めてだったのだ。「The Beatles at Shea Stadium」としていまもDVD映像素材になって残っているし、我々も入手することができる。


自分が子供の頃、このシェア・スタジアムでのビートルズ・ライブが時々、TV番組のビートルズ特集なんかで取り上げられたとき、目にする訳だが、もうとんでもない大興奮だったりする訳だ。


以前にも日記に書いたけれど、この頃は、自分の頭の中で想像する時代でしたからね。


バカでかい会場に5万人を超える観客が集まり、そこで人気バンドがコンサートを行なう。日本も海外も、日常化しているスタジアム・ライヴ。それを半世紀以上前に最初に実現させたのがザ・ビートルズだった。


1965年8月15日のこと。


ビートルズがライヴ・バンドとしての頂点を極めたのがこのシェア・スタジアム公演だったというのは、誰もが認めるところだろう。


いまや、スタジアム級の大会場には、大画面の電子スクリーンが設置され、どんなに遠くの座席でも、まったく困らなくショーを楽しめるようになった。


まさに巨大電子スクリーンはロック界の革命だと自分は思います。


そんな伝統のシェア・スタジアムで、ポリスがライブをやったのだから、まさに、このシンクロニシティー・ツアーの頂点とも言える公演だった。


自分は、このとき大学1年生だったけれど、ミュージックライフでその特集記事を読んで、大層興奮したのだった。相当興奮しました。


何回も何回も擦り切れるくらい読み返しました。


やっぱり写真が衝撃だった。


カッコイイ!


多感な少年時代には目の毒でしたね。
しばらく勉強が手につきませんでした。


その雑誌も社会人になるときに整理してしまい、その後、社会人生活に馴染めなく、ホームシックにかかったりで情緒不安定だった時代がありロックから自然と身を引くようになった。


2004年ころに、ヤフオクというものを覚え、なんと便利なんだろう!自分の欲しい昔のものが個人間売買で簡単に手に入る!ということでかなり夢中になった。


そのときに、自分の青春時代のこのポリス at シェア・スタジアムを特集していたミュージックライフがヤフオクに出ていないかどうか、確認した。


そうしたらあったのだ。


ただその1冊だけでなく、20冊まとめて売り、という感じで、このポリス特集の1冊を読みたいがために、他の19冊も購入する羽目になった。(笑)


今から15年前の2004年に、ふたたびその記事を読んだわけだが、やっぱり衝撃だった。
すごい興奮しました。


これはずっと宝物にしておこう、と思ったのだけれど、引っ越しなど繰り返すうちにどこに行ったか、わからなくなった。そして現在に至る・・・である。


自分の人生に関わってきた人は、みんな自分の日記で、自分の言葉で語っていこう!というのが自分のポリシー。去年ポリスやスティング愛について熱く語った。そして先日、スティングの総決算のコンサートにも出向いた。


そうすると、どうしても、あのときのミュージックライフの、このニューヨーク・シェア・スタジアムでのシンクロニシティー・ツアーの記事についてどうしても語らなければいけないだろう、と使命感に燃えてきた。


さっそくヤフオクへ。

あった!


ミュージックライフ 1983年10月号。


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この本を買うのは、これで人生3度目です。(笑)
今度はなくさないように、しまっておこう。


ブツを手にして、気づいたのだが、この頃の本って左から開いていくんですね。
今の本は、右から開いていきます。
昔は逆だったんだね。


さっそく1ページ目の写真から衝撃!目の毒。(笑)


最強、ポリス帝国

BEAT IT! THE POLICE AT THE NEWYORK SHEA STADIUM !


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さらに!大興奮!


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シンクロニシティー・ツアーの時のステージ衣装は、全部で3パターンあるのだが、その中で最も代表的な衣装が、このスタイルだった。スティングは、白のジャケットで、赤パンツ。


アンディは、その反対で赤のジャケットに白パンツ。ステュアートは、白のホットパンツに無地の白のTシャツ。


これが最も代表的な衣装だった。シェア・スタジアムのライブではこの衣装だった。


1983年8月18日、ポリス・ビートがあのニューヨーク・シェア・スタジアムを揺るがした。7月23日から空前のスケールで始まったこの全米ツアーは、25か所でなんと100万人を動員し、シェア・スタジアムのチケットは、たったの5時間でソールドアウトになったという。シェア・スタジアムでコンサートをおこなったのは、ビートルズ、ザ・フーに続き、ポリスが3番手。この日、ロック史上に新たなる金字塔がうちたてられた。



興奮を抑えきれずに、そのまま本文に。。。


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シェア・スタジアムが揺れた!!

大感動ポリス・ニューヨーク・コンサート・レポート。


レポーターは、当時のミュージックライフのニューヨーク在住レポーターの林洋子さんだ。
そのときの模様をじつに生々しくレポートしてくれている。


その中で、一部を抜粋紹介しよう。



「7万枚のチケットが5時間でソールド・アウト!!」


シェア・スタジアムは、野球ファンなら知っているところと思うが、毎年最下位のあたりをうろうろしている”もうひとつのNYの野球チーム”で、成績の方はいつもヤンキースに押されがちだが、負けてばかりいるのが、返ってご愛敬で、地元に熱心なファンの多い、愛すべき球団NYメッツのホームグランドだ。


そしてこのスタジアムは、ロックン・ロール・ファンにはビートルズが何万人のニューヨークっ子達を熱狂させ、失神させたあの”THE BEATLES at Shea Stadium"のシェア・スタジアムとして、しっかりと記憶されているはずだ。


スタジアムとしては比較的小さいほうで、同じNYにあるヤンキース・スタジアムに較べ、収容人数も4万と約3分の2だ。しかしポリスのコンサートは、観客席だけでなくグラウンドも使うため、7万枚の切符が売り出されたのだが、何とこれが4~5時間で売り切れたというのだから凄い。


ビートルズのコンサートが観客席に限られていたことを考えると、ポリスの今回のコンサートは約2倍のスケールというわけだ。観客動員数だけを考えた場合、ローリング・ストーンズやザ・フーなど、他のスタジアムでこれ以上の動員数を記録したバンドはあるが、ロックン・ロールというものが世界的なインパクトをもつようになったそのきっかけが、ビートルズのシェア・スタジアムでのコンサートであったことを考えると、ポリスのこのコンサートは、やはり特別な意味を持っていると言える。


8時10分には、今ニューヨークをはじめ、各地で注目を浴びている新人バンドで、骨っぽいタイトな演奏が評判のREMがスケジュール通り登場。前座での演奏をおこなった。


・・・・・・



「粋な”ティー・ブレイク”に大喝采。」


お目当て、ポリスが出てきたのは10時30分。それまでには、上空を賑わしていたジェット機も姿を消し、雲の切れ目からは月さえ顔を出した。大スーパースターになったポリス登場のお膳立てが出来たところで、会場を照らし出していた電気が消え、スタジアムの7万人の歓声に包まれ、ポリスがステージへ。



・・・・・・



”イギリスではティータイムをとらないと、労働法に反するので・・・”ということで、ティーブレイクをはさんだ彼らのセットの第1部は、”サハラ砂漠でお茶を”ではなく、”キング・オブ・ペイン”で締めくくられた。「3分間のティーブレイクをとったら戻ってきます。」というスティングの言葉とともに、彼らはステージを去ったが、周りが騒がしいので何かと思ってステージの方を見ると、ステージ真上と左右に配置されたビデオ用のスクリーンに奥に向かって歩いていく3人の姿が映し出されている。


ショートパンツ姿のスチュアートが映った時には、”あれ?!3人ともビデオ・カメラに映されているのに気がつかないで、カメラの前で裸になってしまうのではないかしら”と期待(!!)したのだが、次に3人がシルク・ハット(といっても普通の4~5倍の高さがある)をかぶった時には、この寸劇が初めから計算されていたことがわかった。


観衆がそれを見て笑い出したので、よく聞き取れなかったが、テーブルクロスのかかった大きなテーブルは”不思議な国のアリス”の中に出てくるあのティーパーティの一場面のような、銀のティーポットなどが置かれ、3人が気取ったポーズでお茶を飲み始めた。


イギリスの習慣、特に上流階級のそれ、を皮肉ったか、それともイギリスのこの洗練された習慣をユーモラスに取り入れたのか、とにかくこのバックステージのティーブレイクは大当たりで、彼らがステージに現れたときは大喝采で、彼らのショーが始まった時からあった観衆との間の暖かい交流は、これによって一段と深く、強いものになった。



「We'd Like To Thank The Beatles!」


2時間程度続いたコンサートであるに関わらず、”もう終わるの?”と物足りなく思った。この頃のコンサートの大半は、30分も聴くと”もう十分”と思うのに、これは驚くべき現象だ。身も心も一杯に満たされていながら、あと何時間でも聴ける気がした。


スティングがコンサートの終わりころに、"We'd like to thank the Beatles for lending us their stadium.(僕らに自分たちのスタジアムを貸してくれたビートルズに感謝します。)”と言ったとき、ポリスは、”ビートルズと同じようにシェア・スタジアムでコンサートをやった”という事実のためではなく、彼らの素晴らしい演奏によってロックの歴史を1項を飾ったといえる。




コンサートの解説は割愛させてもらったが、この抜粋文章だけでも、十分にこの歴史的コンサートの興奮が伝わってくる。


自分は学生の頃、この写真とこの文章に相当興奮して、何回も繰り返して読んでいたんだね。


あの頃と自分が違うのは、いまはこうやって日記で書くことで、自分の想いをしっかりと掃き出すことができ、ストレス解消になる、ということだ。


1983 THE POLICE SYNCHRONICITY CONCERT at NEW YORK SHEA STUDIUM


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本題はこれくらいにして、rockin'on 2019.12月号もしっかりと読ませていただきました。


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44ページ!


rockin'onは硬派な文章が売りなのだが、これは読みごたえがありましたねぇ。


それぞれのセクションを担当するライターさんのポリスへの熱い想いがよく伝わってきて、かなり読み応えがあって感動しました。さすが!rockin'onです。


ポリス・サウンドでひとつの変革期にあたったのが、4作目のゴースト・イン・ザ・マシーン。


いままでギター、ベース、ドラムスという最小限のスリーピースのサウンドでやってきたのが、この作品からシンセサイザーやホーンセクション、サックスなどをバックに音を重ねるような人工的な音造りをするようになった。それは自分でも聴いていて、よくわかるんだが、そのときの現場の様子が書かれていて、かなり興奮しました。


スティングがスタジオに持ち込んだデモ音源の時点で、既にシンセ・パートが織り込まれていたことからも、この方向性を推し進めたのがメイン・ソングライターのスティングだったことは言うまでもないし、アンディとスチュアートは彼が示した新機軸に必ずしも賛成だったわけではない。


オープニングの”マテリアル・ワールド”にイントロのスカ・ビートを刻むのが、ギターではなく、シンセである時点で本作の変貌はあきらかだ。そんなシンセの後ろで息を潜めるように刻まれていたドラムとギターが、強引にど真ん中に切り込んでくるスリリングなブリッジの展開が堪らないが、3人の間でサウンド・バランスを巡る緊張があったのは明らかで、本作のレコーディングはさながら「戦場のようだった」とアンディは自伝「ポリス全調書」に記している。


スリーピース・バンドの純血主義を守りたいアンディと、アンサンブルに捉われず曲を書きたいスティング、その両者の葛藤は3年後のバンド崩壊へとつながっていく。



これはわかるわ~。


よくわかる。


自分が当時そう思っていたし、そのバンド内情をよくうまく表現してくれた、と感心した箇所でした。


とにかくすごい読み応え。


ライターさん達は、みんなその時代を経験してきたリアルタイム世代。だからこそお互いがあ・うんの呼吸でわかる、書いてある内容に説得力があるし、素直に感銘できるのだ。


この本も自分のお宝として残していこう。
失くさずに。(笑)


スティングの総決算のコンサートでひと段落したつもりでしたが、どうしてもニューヨーク・シェア・スタジアムのライブのことは書かないといけないと思いました。



PS:松村雄策氏が元気でいまも尚、rockin'onに投稿されていたのを発見し、嬉しく思いました。自分が学生だった頃、NHK FMの渋谷陽一氏のラジオでのロック番組を聴いていたのと、このrockin'onで 渋谷陽一×松村雄策の対談を読むのが毎月の楽しみでしたから。








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スティングの総決算! [海外ロック]

まさに言うことなし!
スティングに関しては、もう思い残すことないです。
完全燃焼しました。


ポリス時代の名曲からソロ楽曲まで40年以上のキャリアの総決算であるニューアルバム「マイ・ソングス」を引き下げて、その日本凱旋ツアーとなった。


このアルバムすごくいいです。


昔の曲もセルフカバーのようになっていて、格好良く今風にアレンジされています。


スティングは来日すると、なぜかそのとめどもなく溢れるラーメン愛で話題になる。(笑)
前回の来日のときに、インスタグラムで山頭火でラーメン食べました的なショットを上げて話題になった。そしてユニバーサル・ミュージックでは、スティングの大好きなラーメン屋さんベスト3も発表した。


今回もその期待を裏切らなかった!

今回のツアーは福岡からスタートしたのだが、その福岡でまたラーメン・ショットをインスタグラムに上げたのだ。


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この日スティングが福岡で訪れたラーメン屋は、元祖唐辛子入り豚骨ラーメン屋の「鳳凛」。福岡で4店舗をかまえる鳳凛の春吉店だ。


スティングは今回の取材(ローリングストーンジャパン誌)のインタビューで、このようなことを答えている。


あなたにとって「日本」といえばラーメンですよね?


スティング:いつでも最高のラーメン店を求めて歩いている(笑)。それも、観光客が行くようなところじゃなくて地元のサラリーマンが通っているようなところがいいね。実は昨日も福岡で美味しいところを見つけたんだ。作業着を着た人たちが、美味そうに食べてる最高の店だった。これから東京、仙台、大阪と行く中で、そういうラーメン屋を見つけるのが本当に楽しみだよ!


いいな~。(笑)


自分も大のラーメン好き。自分の愛するスティングがラーメンに目がない大ファンと聞いて、すごいシンパシーを感じる。明日の15日の大阪公演がラストの公演。東京、仙台、大阪でお気に入りのラーメン屋さんを見つけることができたのだろうか?


さて、自分は東京公演の初日の10/9の公演に出向いた。
幕張メッセのHall 7,8を貸切っておこなう。


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嫌な予感がした。


正直に告白すると、自分は幕張メッセが昔から苦手だ。
とにかく東京都心からやたらと遠い。
東京駅で京葉線に乗り換えるときのあの信じられない延々と長く続く連絡通路。


そして海浜幕張についてから、幕張メッセまでこれまた延々と歩いて、そしてその幕張メッセ会場のバカでかいこと。


幕張メッセというのは、基本展示会場なのだ。


自分の仕事柄でいうならば、いまのCEATEC。自分の全盛期の世代の時は、エレクトロニクス・ショー、通称エレショーと呼ばれるコンシューマーのAV家電製品の日本最大の展示会がこの幕張メッセで行われるのだ。だから仕事でよく通った。


もうそのときから自分の幕張メッセ嫌い、苦手意識があった。とにかくバカでかい。それは当然だろう。ありとあらゆる家電メーカー全部がブースを設けて展示するのだから。


今回なぜ幕張メッセなのだろう?
東京ドームや武道館ではないのだろう?

という疑問があった。


自分の不安は、幕張メッセのような超遠いところで公演をやったら、終演後に自分の家に帰るまでの最終電車に間に合うのだろうか?という心配があった。


案の定、まず終演後にあまりにデカいので、どこが帰りの出口か迷った。みんなが歩いていく方向についていけばいいや、という気持ちで歩いていたら、散々長距離を歩いた挙句、なんと駐車場に出てしまった。(笑)


そっか!みんな車なんだ!

もう慌てて逆戻り。夜も遅く22時を回っていたのでかなり焦る。


ようやく警備員さんを見つけて、海浜幕張駅に歩いて帰りたいのだけれど・・・とホールからの出口を聞いて、駅まで小走り。そして長い電車の乗り継ぎを重ねて、ようやく最後の東横線に乗れたときは、最終の前でなんとかセーフ。


もう~!やっぱり幕張メッセは嫌いだ!


幕張メッセに関する疑念はまだまだ続く。


まず、この日はじつは朝からあまり体調が芳しくなく、眠くて体がなんとなく怠い感じだったのだ。今日はせっかく楽しみにしていたスティングのコンサートなんだけれど参ったな~、なんとか頑張ろうと思い会場に着いた。


しばらくすると物販が始まった。


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予想はしていたが、まったくもって並ぶ気がしません。(笑)
するとリハーサルが始まって、中からモノスゴい爆音が、漏れ聞こえてくる。


こりゃダメだ、死ぬ。


密閉された中でPAガンガン。PAのロックコンサートなんて超久しぶりなので、その迫力にかなり萎えた。ただでさえ今日は体調が悪かったので、年寄りには相当キツく感じそう。なんだよ!あれだけ熱く語ってたのに、なんで萎えてるんだ!ガンバレ!


爆音の難を逃れて、ちょっとオアシスへ。年寄りにはこういう雰囲気のほうが落ち着きます。


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さぁ、スタッフたちもこれから、闘いが始まります!興奮のあまり、観客にケガ人が出ないように・・・スタッフたちにも緊張が走ります。


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だんだん物々しくなってきましたよ!開場近し!


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開場イン。


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幕張メッセの展示会場をどうやってホール武装するのか、ステージ、そして照明、巨大電子スクリーン、そして膨大なPA機器を持ち込むのだが、自分の心配にもうひとつ重要なポイントがあった。


それは椅子だ!


展示会場をホール武装するから、当然こういう仮設イスになる。・・・ということは、コンサート始まったら、みんなオールスタンディングだ。2時間〜3時間ずっと立ちっぱ。腰が・・・


年寄りにとって一番恐れていた展開だ!(笑)


東京ドームだと外野席は、コンサートが始まっても、ずっと座ったまま鑑賞できるから、年寄りに優しいんだけどね。自分はコンサート中座ったまま鑑賞できるかどうか、そこをずっと心配していた。


もう覚悟はできた。



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これから起こること。


会場の照明がいっせいに落とされる・・・その瞬間大歓声。スティング登場。怒涛のロック・ショー。爆音に耳が壊れる。立ちっぱで腰が痛くなり、椅子にへたりこむ。でもだんだん自分のペースを掴み興奮度アップ。終わったときは、青春時代にトリップできて号泣、むせび泣く。このような予定です。(笑)


冒頭の会場の照明をいっせいに落とすのは、もうこれはロック・ショーの常套手段です!
もうこれで会場のみんなは大興奮。これから始まる感が一気に高まる。


ついに怒涛のロック・ショー開始!


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自分は心体の体調不良もこれで一気にどこかに吹っ飛んで行ってしまい、一気興奮ボルテージMAX!


ところが幕張メッセに抱いていた不安の最後の罠がやってきた。


それはステージからの音波、衝撃波がすごいこと。もうビンビンに体全体にぶつかってくる感じで痛くて痛くてしょうがない。特にドラムスやベースの超低音波が強烈。そのドンドンという振動が床から足に伝わってきて心臓を直撃する。もう感動したいのだけれど、その衝撃波が痛くて相当参りました。


この体全体にぶつかってくる音波、衝撃波、これを2時間から3時間はキツイな。


東京ドームや武道館ではこんなことはいっさいなかった。
やっぱり幕張メッセの展示会場では狭すぎなんだよ。

ここでロック・コンサートをやるには無理があります。



この日のスティングのステージ衣装とステージパフォーマンス。
Photo by 土居正則!


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オープニングは、ポリス時代の孤独のメッセージ、そしてアンコールのトリは生ギター1本でFragile。


全19曲、ポリスの曲が9曲、ソロ時代の曲が10曲。2時間のコンサート。


堂々たるパフォーマンス。とても68歳とは思えない素晴らしい声量にシャウト、ロック唱法。
そしてこれでもか、これでもか、と畳みかけてくる名曲たち。


もう十分に溜飲下がりましたよ。
本当に来てよかった。


自分はポリス時代の映像ビデオ作品はもう数えきれないくらい擦り切れるほど観てきて若い頃のスティングのステージパフォーマンスをよく知っているから、そしてこれはポール・マッカートニーにも言えることなのだけれど、もうこの歳のベテランになると、コンサートのドライブの仕方がわかっているというか、余裕があるんだよね。若い頃は本当にがむしゃらに自分のできるパフォーマンスの限界ギリギリで勝負していたところがあるのだけれど、いまは本当に余裕がある。100%の力の内の80%くらいの力で余裕を持ってコンサートをドライブしているというか、自分にはそういう余裕感みたいなものを感じました。


そしてここで観客がドッと湧くというようなツボの捉え方ももう熟知していて、もういまの68歳のスティングにとっては、完全に自分の手の内コントロール下で余裕でやっているという感じがする。


すべてはシナリオ通りというか・・・。


自分の中ではスティングはやっぱりポリス時代が圧倒的なシェアなのだけれど、ソロ時代は、正直2作目のNothing Like The Sunあたりくらいしかフォローしていなかった。


でもそれは、自分の仕事が忙しくなってプライベートな趣味に音楽どころではなくなった余裕のなさもあるのだけれど、もうひとつはスティングが、ロックや彼仕様のジャズ・ロックの音楽性に飽きてきて、クラシックやもっと違った音楽性にトライしていたようなところもあって、ずっとそういう期間が長期間あり、ロックからすごく距離を置いていた時代があったと思うのだ。


アーティストとして自分の音楽性を広げるという点では、それもあくまで正しい選択なのだけれど、やっぱり古くからのファンというものは、いつまでも自分がもっとも入れ込んでいた時期の姿、音楽性に愛着がある訳で、いろいろなジャンルに挑戦するスティングに不満とまではいかないまでも、どうしてもついていけない部分もあったのではないだろうか?


前作からロックに復帰してくれて、今回のアルバムでは自分のキャリアの総決算のロックアルバム。


やっぱりスティングにはロックが一番似合う!


この日のセットリスト。


01.Message In A Bottle (POLICE)

02.If I Ever Lose My Faith in You

03.Englishman In New York

04.If You Love Somebody Set Them Free

05.Every Little Thing She Does Is Magic (POLICE)

06.Brand New Day

07.Whenever I Say Your Name

08.Field of Gold

09.If You Can't Find Love (Sting&Shaggy)

10.Shape Of My Heart

11.Wrapped Around Your Finger (POLICE)

12.Walking on the Moon (POLICE)

13.So Lonely (POLICE)

14.Desert Rose

15.Every Breath You Take (POLICE)


Encore:1


16:King Of Pain (POLICE)

17.Roxanne (POLICE)

18.Driven To Tears (POLICE)


Encore:2


19.Fragile



やっぱりポリス時代の曲が始まると大歓声だよね。ポール・マッカートニーがビートルズの曲をやるときの大歓声と同じように。


コンサート本編の最後は、「見つめていたい」でした。
これはもちろん盛り上がったねぇ。


スティングのソロ・コンサートには過去2回(東京ドームと武道館)行ったけれど、この見つめていたいの最後のエンディングのリピートして盛り上げるやり方に、必ず脳天から衝撃が走って、失禁してしまったのだけれど、今回はもうよく手の内がわかっていたからそういうことはありませんでした。(笑)


今回がキャリアの総決算という位置づけだったけれど、スティングは新しい新境地へと今後も前へ進むだろう。


でも自分が彼のコンサートに足を運ぶことは今回が最後かな?


いや、ファンというのはやっぱりそのときそのときで、やっぱりどうしても通っちゃうもの。
まっそれでいいんじゃない?


あまり堅苦しく美しく形決めをしなくても。。。







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ウイングス・オーヴァー・アメリカ [海外ロック]

ポール・マッカートニーが、自分の過去のライブアルバム4枚をリイシューするというニュースが飛び込んできた。


リリースされるのは1976年発表の「ウイングス・オーヴァー・アメリカ」、1988年発表の「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」、1993年発表の「ポール・イズ・ライヴ~ニュー・ワールド・ツアー・ライヴ!!」、そして2007年にロサンゼルスのアメーバ・レコードでわずか900人の観客を前に行ったライヴを収録した「アメーバ・ギグ」。


この中で結構ショッキングなニュースだったのが、その最初のアルバムである「ウィングス・オーヴァー・アメリカ」について語っているインタビューだ。


ポール・マッカートニー、「ウィングス・オーヴァー・アメリカ」について語ったインタビュー

https://www.universal-music.co.jp/paul-mccartney/you-gave-me-the-answer/

(以下、抜粋)

ポール:あのツアーで、初めて再びビートルズ時代の曲を演奏するようになったんだ。だから、あのツアーの前のツアーはウイングスの曲ばかりで構成されていたということになる。ウイングスが本物のウイングスになって、あのツアーで全てが弾けた感じだね。それまではとにかく、ビートルズのトリビュート・バンドではなく、ウイングスをバンドとして確立させることに全力を注いでいた。でもウイングスとして何曲かヒット曲も出て、「バンド・オン・ザ・ラン」が大ヒットして、それらのヒット曲をレパートリーに入れて演奏していたら、“そろそろ、ビートルズの曲をやってもいいな!”という気持ちになったんだ。そしてそれが可能になってある意味、ホッとした。というのは、僕はいつもお客さんが何を聴きたいのかということを意識していたから。僕のお客さんは狭い範囲の人たちではなくて、幅広い年齢層の人たちから成っている。だから昔ヒットした曲を聴きたいと思っている人がいる可能性もある。だから「ヘイ・ジュード」をやらないとがっかりする人もいると思う。当時は、そういう曲をあの時点まで全然やらなかったから、少し気楽に構えて、お客さんが聴きに来たような曲をやるのもいいなと思ったんだ。


ポール:そう、そこから今やっているようなレパートリーになっていった。つまり、かなり多くのビートルズの曲を取り入れて、ウイングスとか、ソロの曲とかを取り入れたレパートリー。あの頃から、ビートルズの曲をやることを自分に許した。ウイングスとして確立させることは不可能だとすら思っていた時期もあったんだ。ビートルズに頼ってしまったら、ウイングスとしてのアイデンティティを確立することができないと信じていた。でも75~76年頃にはウイングスとして確立できたから、その二つを足せば成功への公式が出来上がると思ったわけ!

それと、あの時点でバンドがいい感じだったということもある。ウイングスとしても数年間は試練の日々だと思っていた。ビートルズもそうだったし。僕たちは、有名になる前にハンブルクで演奏したり、リヴァプール周辺のクラブで演奏するような下積みを経験してきたから。ビートルズがレコードを出す前、僕たちは地元でのみ知られている存在だった。たくさん演奏して技術を磨いて来たから、ウイングスに関してもそうしないといけないと思っていた。でも「ウイングス・オーヴァー・アメリカ」の頃、ワールド・ツアーをやる頃には、そのような時代は終わりに近づいていて、僕たちもウイングスが何か、わかるようになっていた。



自分のロック人生を決めた1枚を選べ、と言われたら、間違いなくこの1枚を選ぶ。
だからこのリイシューはとてもうれしい。 


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ウィングス・オーヴァー・アメリカ
(Wings Over America)

http://u0u0.net/XBuX



自分のロック人生を決定付けたのは間違いなくポール。それもウィングスだった。
それもこのアルバムが、ウィングスとのはじめての出会いだったのだ。

当時は、ウィングス USAライブと言っていた。
LPについている帯もこんな感じであった。 

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ウィングスを知ってファンになってから、ビートルズの存在を知って、ビートルズにも嵌るようになっていった。


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そう!まさにこのシルエット。

ウィングス時代のポールと言ったら、このステージ衣装にこのリッケンバッカーのベース。
まさにUSAライブのときのショットだ。

ウィングス時代のポールはとても音楽のバリエーションが豊かなミュージシャンで、単なるロックだけではなく、アコースティックギターを抱えての演奏、ピアノの前での演奏などいまのポールのライブの原型となるスタイルがこのウィングス時代にその基礎ができあがったものと言える。

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自分が当時のポールに求めていたもの、そして当時の音楽雑誌などのメディアがウィングスに求めていたものは、あきらかにポスト・ビートルズ的なものだった。そのように書かれていたことをはっきり覚えている。

自分は、ウィングスからビートルズを知ったけれど、そうやってビートルズの偉業を知れば知るほど、尚更いまのポールに憧れる想いが強くなるというか、ポール・マッカートニー&ウィングスを聴くことで、その背後にビートルズの幻影を見ているような想いがあったように思う。

それは、まさにこのUSAライブでウィングスがビートルズの曲を演奏してくれるから、尚更そう感じたのだ。

ところがこのインタビューを読んで、じつはウィングスがビートルズの曲を演奏するようになったのは、このUSAライブからだったという事実。

そしてそれまで頑なにウィングスがビートルズの曲を演奏することを拒んでいたという事実。

そしてその背景にあるポールの想い。

1976年の中学生のときにこのアルバムでウィングスを知って、以来43年ぶりに知った真実ということになる。

そりゃショックというか衝撃だよ。(笑)

自分は当時からウィングスがビートルズの曲を演奏するのは、当たり前と当時からずっと思っていたからね。それが逆に他のロックバンドでは絶対成し得ないウィングスの背後にある特別のオーラでもあると確信していたから。

でもやっぱりポールは男だね。そういうビートルズ時代のオーラにおんぶに抱っこのビートルズ・トリビュート・バンドにはなりたくなかった、まずウィングスとして自立したかった、というコメントにポールのバンドマンとしての男の意地みたいなものを感じて、今更だけど惚れ直しました。

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このアルバムが、自分のロック人生において決定的な1枚になった大きな理由に、ロックアルバムのライブ録音に対する考え方があった。クラシックの場合、スタジオで録音する場合もあるが、いまでは、コンサートホールを貸しきって、観客を入れずにセッション録音でアルバムを作ることが大半だ。でも中には、お客を入れて演奏したものをそのまま録音するライブ録音もある。

でも大抵の場合はセッション録音ではないだろうか?

ロックの場合は、アルバムを作るときは、スタジオ録音が原則だ。
ロックは少人数だからね。ロックのアルバムは、それこそオーバーダビングなど、何重にもテイクをとって、それを重ねに重ね、サウンドクリエーションの加工操作をして完璧なサウンドを作り上げる。

だからロックのアルバムって完璧なサウンドなのだ。ある意味ライブ感よりも完成度重視のところがある。

そういう風潮をロック史上で作り始めたのがビートルズの中後期の作品なのだと思う。
彼らは初期にライブ活動をやめて以来、その活動をスタジオでの録音作業に全力を注いだ。
まさに当時の録音技術のすべてを注ぎ込んで実験的な作品を世に残していった。

コンセプトアルバムという発想も彼らが作り上げたものだ。

なぜ、ウィングスのUSAライブが、自分にとって画期的だったか、というとそれはロックのライブ録音の素晴らしさを認識させてくれたからだ。

それまでは自分はウィングスを知らなかったし、彼らの曲も聴いたことがなかった。
このUSAライブで初めて彼らの曲を聴いて、その曲に馴染んで大ファンになった。

当然、じゃあオリジナルのアルバムも揃えてみたい、聴いてみたいと思うのは、人間の性であろう。

もちろんウィングスのオリジナル・アルバムも揃えました。
ヴィーナス・アンド・マースやスピード・オヴ・サウンドとか、バンド・オン・ザ・ランとかね。ウィングスのアナログレコードのアルバムは全部買いましたよ。

子供時代の少ないお小遣いを貯めて。

でも聴いたら全然感動しないんだよね。なんか人工的なサウンドで、生気がない、ライブ感がない、自分に訴えてくるものが全然ない。

なんだよ!これじゃUSAライブのほうが全然いい!

と思ってしまいました。

ウィングスを聴くなら、もう断然USAライブがいい!

という結論に達してしまった。

USAライブは、それまでのウィングスの有名なヒット曲を全部集めているような選曲だったから、USAライブを聴いていれば、ウィングスを完璧に堪能できるという腹があった。

たぶん聴いた順番がライブ録音のほうを先に聴いて、あとでオリジナル・アルバムを聴いたからこういう感想になったのだと思う。

このときに自分はロックはライブ・アルバムがとても魅力的!という考え方を持つようになった。


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クラシックの場合、セッション録音のアルバムとコンサートホールでの実際の生演奏って、そんなにサウンド的に大きな違いを感じることはないだろう。その自宅でのオーディオでの鳴らし方にも大きく寄りますが。。。(笑)

でもロックの場合、オーバーダビングで作られているアルバムのサウンドを、そのまま実際の生演奏のライブで実現するということは確実に不可能なのだ。結論として、ロックの場合、演奏技術やサウンドパフォーマンスとしては、ライブのほうが確実に落ちる。

アルバムで聴いていたときはすごくいいのに、実際のライブを聴くと、ずいぶん下手くそだよなぁ、とか、なんかがっかりだよなぁ、というのはロックの世界では当たり前のことなのだ。

自分はロック少年の時代、ずっとそのことをライブはハンディキャップがある、このアルバムを聴くとすごいイイ演奏だけれど、はたしてこれを実際のライブで実現できるのかな?とかいつもそんなことを考えながら、アルバムとライブのギャップについて考える癖がついていた。

社会人になって、クラシック専門に聴くように軸足を移してからは、そういったギャップをほとんど意識しない、考えないようになった。

やっぱり根本的にクラシックとロックではその領域では造りが違うのだと思う。

でもロックではライブになると、その演奏パフォーマンスはガクンと落ちてしまうけれど、その生気のあるサウンド、臨場感、ライブ感はもう断然普通のスタジオ録音のアルバムよりライブアルバムのほうがいいのだ。

やっぱり大観衆の大歓声の中で歌っている、その盛り上がる瞬間、大歓声が上がる瞬間とか、もう断然ライブアルバムのほうがいい。

そのコンサート会場にいるような感覚を疑似体験できる。

ひと言で言えば聴いていて興奮するのだ。

以来、ロックはライブ・アルバム!という考え方を自分は持つようになった。

セッション録音でもライブ録音でも、つねに観客は静寂、たまに咳き込み、拍手があるくらいの違いしかないクラシックとは、そこに大きな違いが有るように思えた。

そういうきっかけを作ってくれたのが、このウィングスのUSAライブなのだ。
このアルバムが全てのきっかけだった。

ポリスがシンクロニシティーの後に、ライブ・アルバムを出すという噂があったとき、自分が心ときめいたのも、ライブはやっぱり聴いていて燃える!という発想があったから。またポリスほどのテクニシャンのバンドであれば、ライブでもそんなにがっかりすることはないだろう、という考えもあった。逆に演奏がうまいと言われているけれど、実際どれほどのライブパフォーマンスなのか、を知りたいという想いもあった。


ウィングスのUSAライブは、当時の映像素材が残っていて、「ロックショウ(Rock Show)」というタイトルで映画になっていて、そのパッケージソフトもBlu-rayとして販売されています。 


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ロックショウ(Rock Show)

http://u0u0.net/0TUg


自分はその事実をずっと知らず、つい2~3年前に知ってもうびっくり!
慌ててBDを買って観ました。

もう涙なくしては観れなかったです。

自分の中学生時代。

当時動く動画コンテンツというものもなかった時代。

LPを聴きながら、音楽雑誌の写真を眺めながらそのライブパフォーマンスを頭の中で想像するしか方法がなかった時代。

そんな40年ぶりにその空想していたライブ映像をいま目の前で観れているわけです。

ライブの音は、まさにレコードそのもの。子供の頃に聴いた音は、何年たって大人になっても頭の中に刻み込まれているものだから、絶対忘れないし、一度耳にしたらピンときます。




ウィングスUSAライブのセットリスト。


CD1
1. ヴィーナス・アンド・マース~ロック・ショー~ジェット
2. レット・ミー・ロール・イット
3. 遥か昔のエジプト精神
4. メディシン・ジャー
5. メイビー・アイム・アメイズド
6. コール・ミー・バック・アゲイン
7. レディ・マドンナ
8. ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード
9. 007死ぬのは奴らだ
10. ピカソの遺言
11. リチャード・コーリー
12. ブルーバード
13. 夢の人
14. ブラックバード
15. イエスタデイ

CD2
1. 幸せのアンサー
2. 磁石屋とチタン男
3. ゴー・ナウ
4. マイ・ラヴ
5. あの娘におせっかい
6. 幸せのノック
7. やすらぎの時
8. 心のラヴ・ソング
9. 愛の証し
10. ワイン・カラーの少女
11. バンド・オン・ザ・ラン
12. ハイ・ハイ・ハイ
13. ソイリー



このセットリストを見た一瞬で、もうすべての曲のメロディーラインが自然と頭に浮かぶくらい完璧だ。

このUSAライブから、ビートルズの曲をやるようになったというけれど、こうやってみると、ザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード、ブラックバード、イエスタディーの3曲しか入っていない。まだポールの心の中に抵抗感があったんだね。(笑)

でもこうやって眺めてみると、本当にウィングス時代の名曲のオンパレードという感じでじつに壮観です。ポール・マッカートニーのその類稀なメロディメーカーとしての才能に本当に驚愕、畏怖の念しかないです。これにさらにビートルズ時代の膨大な作品群が加わるんですから。

もうポールは、クラシック界のバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなどの作曲家たちと比較しても決して1歩も引けを取ることのない堂々と肩を並べるべき20世紀の大作曲家である、と言ってもいいのではないだろうか・・・。








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スティングはいまも格好良い!(ソロ時代) [海外ロック]

ポリスのシンクロニシティーの頃の洋楽ロックのひとつのトレンドは、MTVという番組が結構新しいトレンドとして流行したことだった。

ロックのアーティストは、自分のシングルカットの曲に対して、それぞれプロモビデオを作って、それを宣伝材料に使うのだ。MTVはそのビデオクリップのランキングを特集する番組だった。

懐かしすぎる。大学時代でしたね。よく友人の下宿先に泊めてもらって一緒に観ていました。

シンクロニシティーは、そんなポリスのビデオクリップの中でも頂点となる出来栄えだった。MTV時代全盛の賜物だった。

ポリスのビデオクリップ集は確か市販ビデオ化もされていたはず。

見つめてみたい、Synchronicity Ⅱ、Wrapped Around Your Fingerの3曲はよく見ることができたのだが、King Of Painのビデオクリップは、なかなか拝見できなく、市販ビデオの中にも入っておらず、ずっと恋焦がれていたが、つい最近ようやくSNSで拝見することができた。

SNSって本当にスゴイ!



それ以前の若い頃の作品のビデオクリップもあることはあるのだが、かなりクオリティが芸術的ではなく、とりあえず作りました的なお粗末なものだった。高校教師では、学校の教室で歌っていたり、あとスキー場で3人が滑りながら撮っているビデオもありました。


シンクロニシティーの大成功の後、バンドは休止状態。もともと終盤は仲が最悪だったこともあり、また、もうやることはやってしまった感もあって、特にスティングは再開する気はなさそうだった。

自分は、大学3年、4年生だったけれど、ポリスのニューアルバムをすごい懇願していた。
同じポリスファンの同期生と、いつも教室や食堂で熱く語り合っていた。

その当時、次に出るのはライブ・アルバムという噂があって、友人とともに待ち望んでいた。

そのときに新しい曲を発表するということで、リリースされたのが高校教師'86だった。

オリジナルの高校教師のセルフカバーだ。
これは稀に見る駄作であった。(笑)

とくにビデオクリップがポリスの終焉を暗示するかのような過去のメモリアルを表現するような感じで、これを観た瞬間、ポリスは終わったな、と確信しました。

スチュアート・コープランドはビデオ作成に関与していなかった(落馬で足を骨折。このため、「高校教師'86」のドラムはすべて打ち込みとなっている)が、商品がリリースされた後に抗議していました。(ポリスはまだ終わってない!って)

以上長くなりましたが、これが自分の子供時代、学生時代のポリスに関するメモリアル。



その後、社会人になってから不思議と、体質的にロックは聴かなくなった。
ずいぶんブランク期間が入った。

そこから再びポリスが自分の目の前に現れたのは、前職を退職して、いまの会社に転職した2007年。まさにあの頃から20年後。

「ポリスが再結成する。」

というのだ。

これは猛烈に興奮したな。
アルバムは出さないけれど、全世界ツアーはやるという。
その中に日本も含まれていたのだ。

もちろんそのための一時的な再結成であって、ずっと続けるわけではない。

もう死ぬ気になってチケット取りました。
はじめて、ポリスのステージを生で観れる!@東京ドーム。

あの感動は忘れられなかったです。
涙しました。いままでの愛が報われた感じがしました。

近くにギタリストのチャーがいました。
たくさんの業界人がかけつけていたみたい。


スチュアート・コープランドは、白い手袋を履いて、ドラムスをやっていました。
手の皮が剥けるからね。でも手袋履きながらは、ビジュアル的に超格好悪かったです。(笑)

全盛期のときは、手に黒いテープを貼って、手を保護していました。



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全盛期のポリス (1983年)


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再結成時のポリス(笑)(2007年)


シンクロニシティーの後、当然のなりゆきでスティングはソロに転向。
ここから、スティングのソロ時代に突入する。

自分は、スティングのソロになってからは、結局、最初のアルバムの「ブルータートルの夢」、そしてつぎの「Nothing Like The Sun」の2枚までしかフォローしなかった。

それ以降は、社会人の荒波、仕事のことで音楽どころではなかったし、大きなブランク期間に入ってしまった。

スティングはソロになってからは、やはりジャズ色が強く、独特のスティング・ワールドともいえる格好いい音楽を提供してくれた。

ブルータートルの夢では、Set Them Free (If You Love Somebody,Set Them Free)が素晴らしかった。ポリス時代の見つめていたいが、相手を束縛する歌であるのに対して、Set Them Freeは、逆に相手を解放してあげなさい、という逆のアプローチの歌。(スティング本人のコメント)

ブランフォード・マルサリスなど蒼々たるジャズ・ミュージシャンを引き連れ、ポリス時代とはかなり趣が違う大人の音楽になった。

この曲のMTVのビデオクリップも格好良かったな。
これもゴドレー&クレームによる作品です。この2人はセンスあります。

つぎの作品の「Nothing Like The Sun」は、その後にリリースされた作品を聴いていないけれど、ソロ時代の作品の中で最高傑作だと思います。

名曲中の名曲、Englishman In New York、そしてFragile、ビールのCMタイアップ曲にもなったWe'll Be Togetherなどまさに名曲目白押し。

いまもiPodで朝夕通勤でヘビーローテーションで再生しています。

ジャケットも最高に格好いいです。


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スティングはソロになってからは、ぐっと大人の雰囲気になりましたね。
若い頃のやんちゃな感じではなく、歳相応のダンディな大人の雰囲気で、自分のシルエットに相応の大人の音楽をやるようになった。

自分もいまでもポリスの曲をiPodで再生しますが、やはり自分も歳なんだよね。
ロックは結構キツイと感じるようになって、スティング時代のソロの曲のほうが、体に染み入ってきやすい、というか体を思いっきり委ねられる心地よさがある。



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スティングのコンサートは、2回行きました。
社会人になって上京したばかりの東京ドームと、ずっとその後のブランクがあった後の日本武道館。

若い頃の東京ドームは、まだ学生時代のポリスの余韻が熱かった頃だから、もう超興奮。

いまでも鮮明に覚えているのは、見つめていたいをアンコールに持ってくるのが、スティングのコンサートの常なのですが、これがいかにもアンコールっぽくモダンにアレンジされていて、最後のリピート部分は、正直脳天から雷を受けるような大衝撃でした。

あのときの一瞬で、自分は失禁しました。

あの瞬間が忘れられなく、十数年後の2回目のコンサート体験でも、やはり同じ場面で失禁。(笑)

スティングはライブの盛り上げ上手、千両役者です。

ポール・マッカートニーが、ライブでビートルズの曲をやると、場内が大歓声になるのと同じように、スティングがライブでポリスの曲をやると、当然大歓声になります。



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スティングは大人になってずっとダンディな感じにイメチェンしましたが、ちょっと気になるのは、頭髪がどんどん寂しくなっていくこと。ポリスの頃から、左右のこめかみのところがライトバック、レフトバックってな感じで、これは歳とると禿げ上がるな~と若い頃思っていましたが、ポリス再結成時の頃には、もうほとんど髪がなくなっている状態で、これは仕方がないのかな、と諦めていました。

でも最近それがおかしいのだ。

ちょっと不自然に髪の毛が豊かになっている。
自分は、スティングは植毛していると思うんですよね。(笑)


使用前
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使用後
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あくまで私の推測です。でもずっとSNSでスティングの近影を見てきた自分としては、あきらかにその最近の不自然さが引っかかります。でもいまがいいならそれでいいです。


2016年にプロモーションのため6年ぶりとなる来日を果たしたスティングだが、好きな日本のラーメンランキングのトップ3を発表している。

スティングは自身のInstagramにラーメンを食べる写真を公開していた。(らーめん山頭火です。)そのキャプションには「今週は東京へのファンタスティックな旅をしてたんだ。テレビ出演と僕のお気にいりのラーメン店を訪れたのを楽しんだよ。ありがとう、ジャパン!」と記されている。

これを見て、今度の新曲は、スープを「煮詰めていたい」という曲をポリス名義でリリースしてほしい、と思いました。(スミマセン、他人の盗作です(笑))

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所属レーベルであるユニバーサル・ミュージックはスティングの好きな日本のラーメンランキングのトップ3を発表している。

ランキングは以下の通り。

1. らーめん山頭火
2. 麺匠 竹虎
3. 博多一風堂


ちょっと自分の好みと違うけれど、ラーメンが好きでいてくれるのは嬉しいです。


日本食好きだそうで、焼き鳥や鉄板焼きといったオーソドックスな和食からキットカット日本酒味まで、好き嫌いはないらしい。若々しさを保っているスティングは、インタヴューで「健康の秘訣」をよく聞かれる。運動、歌うこと、など答えていたが、食事をしっかり摂っていることも大きい。


そんなスティングだが、ポリス時代からソロにかけてのセルフカバーのニューアルバムをリリースしたばかりだ。

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My Songs

Sting

http://urx2.nu/dxwW


これがめちゃめちゃ素晴らしい!今風のアレンジで、ちょっと即興っぽいところも入れたりして、スゴく格好良くなっている。経験上、オリジナルよりカバーのほうがいいもんなんだよね。さっそくiPod行きで、通勤で聴いています。

Set Them Free、Englishman In New Yorkがすごく格好良くなっている。

あとBrand New Day。

この曲は、自分は2回目の武道館公演のときに、ライブではじめて聴いていい曲だな、と思い、でもいままで知らない曲だったので、たぶん自分がフォローしなくなってからヒットした曲なんだろうな、と思いました。

Brand New Dayは、調べてみたら、1999年にリリースしたアルバムでした。

なにせ、ソロ時代は最初の2枚しかフォローしていませんので。
2枚目のNothing Like The Sunは、自分が社会人になった1987年のリリースで、それから現在までスティングは、さらに10枚ものアルバムをリリースしているんですよね。

10枚もフォローしていなくて、本当にスティングのことを語れるのだろうか?というお叱りも受けそうだが、大丈夫!

このセルフカバーの1枚に、スティングのすべてが入っていて、彼がやってきたことの総決算という位置づけのアルバムなのだ。この1枚を聴く限り、ソロ時代を10枚も聴いていないハンディをまったく感じない。

やっぱり自分はポリス時代からよく知っている熱狂ファンだったから、その貯金で暮らしているようなものだ。

このアルバムの全作品を一通り全部聴くと、メロディメーカーとしての才能、衰えていないことがわかる。

上の3曲の他にも、Shape Of My HeartとかFragileとか。。。不思議とソロ時代の曲がいいな、と思ってしまうのは、自分が歳だからなんだよね。

そういう体質になってしまった。

ポリス時代の曲も全部モダン・アレンジで素敵です。

ぜひ買うべし!


最後に、ポリス時代、ソロ時代のディスコグラフィーの簡単な紹介をしてお終いにしよう。 


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Outlandos D'amour

POLICE

http://urx2.nu/RGNe

ポリスのデビューアルバム。シングルカットされたロクサーヌが有名だが、じつはポリスのライブ・コンサートを構築する曲で、コンサート本編の最後はCan't Stand Loosing You、そしてアンコールの一番最後は、So Lonelyといったように、ライブの肝心要の締めどころは、このアルバムから持ってくるとても重要なポジションのアルバムでした。 


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Regatta De Blanc 白いレガッタ

POLICE

http://urx2.nu/09Ek

自分的にはポリスの最高傑作はこのアルバムだと思う。ホワイト・レゲエの色濃く、高い音楽性、完成度の高い演奏など、彼らの特徴が一番よく出ている。全体的にアコースティックっぽいというか、純粋にベース、ギター、ドラムスだけのとてもシンプルなサウンド。シングルカットされた孤独のメッセージはポリスの代表曲です。 


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Zenyatta Mondatta

POLICE

http://urx2.nu/ZKKl

ホワイト・レゲエより、もっとよりポップで軽い感じの曲調、サウンドになった。いかにも人気が出やすい感じ。日本ではこのアルバムは有名ですね。ドゥドゥドゥ・デ・ダダダがとても有名。この曲の日本語歌詞バージョンも出た。作詞は湯川れいこさん。シングルカットは高校教師が有名。このアルバムを引き連れて、日本に来日しましたね。 


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Ghost In The Maschine

POLICE

http://urx2.nu/GsVS

これまでの路線、趣がガラッと変わってちょっとバンドの音楽性の方向性を変えた意欲作。シンセサイザーやフォーンセクションなども導入して、スリーピースのバンドの音というより、かなり人工的な分厚いサウンドになってしまった。自分はこれを初めて聴いたとき、これをライブで実現するのはどうやってやるのかな?と思ってしまいました。でも曲自体は、かなり名曲が多いです。シングルカットはマジックが有名ですが、自分は1曲目のマテリアル・ワールドが好きでした。 


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Synchronicity

POLICE

http://urx2.nu/0HDq

ロック史上で、これだけジャケットが格好良いアルバムは、いままで見たことがない。スティングが哲学者のカール・ユングの本からインスピレーションを得て、シンクロニシティー(同時性)という造語をした。この単語は辞書に載っていないです。前作でサウンドをイメチェンしたけれど、このアルバムで、またもとのスリーピースのバンドの音に先祖がえりという感じです。ちょっとサイケディリックな感じの曲調、サウンドでいかにも哲学的です。A面とB面で、曲の趣が違い、A面は激しい曲、B面は静かで美しい曲を集めた。A面、B面があるアナログレコードならではですね。アンディ・サマーズのアイデアらしいです。 


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Police Live

POLICE

http://urx2.nu/UIx4

シンクロニシティーの後、あと残されたミッションは、ライブ盤を出すだけ、という噂が常にあって、大学の同期の友人と1984年にずっとその話で盛り上がり、待ち焦がれていたのに、実際出てきたのは1995年だった。2枚組みで、1枚目は若い頃のライブを集めたもので、2枚目はシンクロニシティーコンサート。iPodに入れていてよく聴いています。やっぱりロックはライブがいいです。あの大歓声の声が聴こえると血が燃えたぎるし、本来ロックって割れんばかりの大歓声の中での演
奏・・・そういうものではないのかなぁと思います。 



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Dream Of The Blue Turtles ブルータートルの夢

Sting

http://urx2.nu/Gw0X

スティングのソロ第1弾。これはポリスの事実上の活動停止発表のあとに待ちに待ったという感じだったので、本当に感動しました。スティングの音楽素養のバックグラウンドにあるジャズのセンスが滲み出ていて、ジャズ・ロックというような独特の音楽観を持ったアルバム。結構ポリスとかなり違って大人の雰囲気なので驚きましたし格好良かったです。 


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Nothing Like The Sun

Sting

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間違いなくスティングのソロ時代の最高傑作ですね。エリック・クラプトン、マーク・ノップラー、ギル・エヴァンス等の豪華ゲストを迎えて製作されたソロ第2弾。Englishman In New YorkやFragile、そしてWe'll Be Togetherなど本当にアルバムのすべての曲が珠玉の名曲です。 


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Bring On The Night

Sting

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スティングがソロになって、いわゆるジャズ・ミュージシャンを引き連れて、ジャズ・ロックを演奏するライブの模様を収めたもの。ロックのライブはやっぱりスタジオ録音と違って、いいもんですね。これは映画にもなって、そのサントラのような位置づけだった。この映画、きちんと映画館で観ました。スティングのライブとしては、最高傑作かもしれない。ジャケットもいいし。


これで、もうスティングに関してはすべて書き尽くしましたし、思い残すことはありません。
自分のいままでのロック人生のすべてを語ったつもり。

ロックの分野で、この歳からまた新しいアーティスト、新しい曲を開拓するということは、自分の場合ないような気がします。










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スティングはあの頃は本当に格好良かった!(ポリス時代) [海外ロック]

人間にとって自分の中にもっとも音楽的素養を構築する時期というのは子供の頃、学生のときに夢中になって聴いていた音楽なのではないだろうか?情緒多感な子供時代、学生時代、自分の音楽人生を徹底的に支配していたのは洋楽ロックであった。

いますっかり専門になっているクラシックも、子供時代に当時親がぜひ聴いて教養を磨きなさい、といって、買ってくれたLPレコードがたくさんあって聴いていた。その中にはカラヤン&ベルリンフィルのLPもある。

でもそれは義務で聴いていたもので、自分の意思ではなかったし本命ではなかった。

自分の学生時代というのは、日本の音楽界は歌謡曲、フォークソング、(そして演歌も)の全盛時代だったが、自分はどうしても好きになれなかった。そのアンチテーゼという位置づけで洋楽ロックに夢中になった。

自分の進むべき道は、これだ!と確信した。

当時は洋楽ロックは、ひとつのブランドというか、自分は日本のアイドルの歌謡曲、フォークソングを始めとする芸能界を聴いている友達とは、ちょっと一線を画すんだぞ、という感じで、洋楽ロックを聴くこと自体が格好いいことというか、ひとつのアイデンティティーみたいな感じで自分は他人とは違う、ということを示したかった反骨精神真っ盛りだったマセたガキだったのかもしれない。


洋楽ロックといっても、当時はいまのようにメディアも発達していなかったし、日本にプロモートされるバンドなんて世界でメジャーどころしかなかった。

自分は、いま55歳だが、自分と同世代の人なら、当時流行っていたバンドって言ったらみんな、懐かしい~といった共通認識のバンドたちではないだろうか?

いまリバイバルで大流行しているクイーンだって、自分は直球ど真ん中のリアルタイム世代(中学生、高校生のとき)。クイーン人気は、世界中のどこよりも日本で先行したバンドだったので、ずいぶん夢中になって聴いた。(映画ボヘミアン・ラプソディのフレディー・マーキュリーは似ていないです。(笑))

ロックと言っても自分は、ブリティッシュ・ロック専門だった。アメリカのロックはあの分厚すぎるサウンド、バンドのルックスと平和過ぎるところが体質的に受けつけなかった。アメリカのロックは、「産業ロック」といって馬鹿にしていたようなところがあった。

ブリティッシュ・ロックのほうが、ファッション、尖っているイメージで、自分の反骨精神を満たしてくれた。アフリカ飢餓救済のチャリティ・コンサートもアメリカのUSA for AfricaよりもイギリスのLive AIDのほうが好きだった。

ロックじゃないけど、カーペンターズも自分の青春時代を大きく支配したアーティスト。
イーグルスの「ホテルカルフォニア」も一世を風靡しましたなぁ。

いまもiPodで聴いています。自分が朝夕通勤で聴いているのは、こんな子供時代に聴いた音楽ばかり。

いまのようなネットで情報氾濫の時代と違って、当時は自分の身の回りにこういう洋楽ロックの情報はほとんど皆無で、湯川れいこさんのミュージックライフで、その写真、記事を観て、すごい興奮するという感じだった。時々TVで深夜に特集されたときなんぞは、もう大変!

どちらかというと当時の洋楽は映像メディアは追い付いていなくて、ひたすらレコード鑑賞で堪能して、その音楽を聴きながら、自分の頭の中でステージ姿を妄想するというかそんな感じだったような記憶がある。いまの情報氾濫の時代と比較して、当時のほうが自分の中のスターのカリスマ性を磨くというか、自分の精神性を高めるには、返って情報がなかった時代のほうが幸せだったように想うこともある。

自分のロック人生にとって、当時話題になったバンドは、大体聴いていて、とくに子供時代の数少ないお小遣いをためて、LPレコードを買うのが本当に楽しみだった。お小遣いで足りない分はそのレコードを持っている友達のところでカセットテープにダビングしてもらうのだ。

LPがCDになって普及し始めたのは、自分の社会人1年生のときだったから、自分のロック人生は、ぜんぶアナログレコード世代。だから子供の頃に買ったLPレコード約100枚は、いまも大切に保管してある宝物。

これらのレコードがもう日の目を見ることもないだろうと思っていたが、まさかのアナログブームだ。世の中なんて、本当にわからない。

いろいろなロックバンドを、たくさん聴いたけれど、一番自分のロック人生に影響を与えたのは、ポール・マッカートニーとスティングの2人、と断言していい。

ロック人生の前半がポールで、後半がスティング。

ポールについては、ウィングスに最初に夢中になって、その後にビートルズを知って、思いっきり嵌った。自分はジョン派よりもポール派です。

ポールは、いままで日記で熱く語ってきたので、今度はスティングの番なのだ。

どうしても熱く語らないといけない。


スティングといえば、自分はやはりポリスなのだ。
ポリスほど夢中になったロックバンドはなかったかもしれない。

ポリスが最高潮だった1983年のシンクロニシティーのとき。

彼らは、こんなに格好良かった!!!

男が男に惚れる、とはこのことだ。
もう自分は学生だったが、こんなに憧れたロックスターはいなかった。

                                                                                                                                                     
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3人編成というのがめちゃめちゃ格好良かった。

ポリスがきっかけで、トリオ、3人編成というのを強く意識するようになった。
そしてギター、ベース、ドラムスという最小単位の3人編成なのに、その抜群の演奏のうまさ。
ロッキングオンの渋谷陽一氏曰く、「めちゃめちゃ演奏がうまい優等生バンド」。

そしてその卓越した音楽性。

当時のメディアで言われていたキャッチフレーズ。

「史上最強のロックバンド」
「ロック史上最強のトリオ」

まさにそうだった。



自分がポリスを聴きだしたのは、2枚目の「白いレガッタ(Regatta De Blanc)」から。(中学3年か高校1年)あの孤独のメッセージからだ。ポリスは5枚しかアルバムを残さなかったが、その中で、よくポリスの最高傑作はどれなのか、という問いに最高のベストセラーだったシンクロニシティーをあげる人が多いが別にそのことに異論はない。でも自分はポリスの基本というか、ホワイト・レゲエと呼ばれたロックにレゲエを融合させる、その独特のテイストがよく現れていて、ポリスの本質の作風、サウンドって、じつは、この2枚目の白いレガッタが最高傑作なのではないか、という意見なのだ。

ポリスの曲は、1曲も漏らさず、どれも完璧に知っているが、ディスコグラフィーについては、スティングのソロ時代も含めて、あとで語ろう。

ポリスがデビューしたのは、パンク、ニューウェイブの嵐が吹き荒れている時代だった。

パンクロックは自分にとって衝撃だった。セックス・ピストルズやクラッシュがシーンを賑わせていたが、それ以外にもストラングラーズ、ダムド、ジャムetc。

ロックの発信源、点火はいつもロンドン、ブリティッシュロックだと自分は当時思っていた。

ポール・ウェラーのジャムも格好良かった。3人編成として自分のロック人生で外せないバンドだ。ジャム解散後のスタイル・カウンシルもすごく嵌った。ジャムとは正反対のお洒落な雰囲気で、かなりイケていた。


パンクロックへの風当たりは冷たかったものだ。汚くて粗末な服装をして、世の中への悪態をついている。音楽のレベル、とりわけ楽器演奏の技量はお粗末で、ギターは3コードくらいしか弾けない。思いつきだけでバンドをやっている。どれも一発屋で低能…等々。

セックス・ピストルズがアメリカツアー中に内部崩壊するようなかたちで解散し、パンクロックはまたたくまに下火になっていく。

ニューウェイブの幕開けである。

方法論として演奏テクニックをあえて無視したバンドは別として、例えば、粗末な演奏技能しか備えていないバンドは自然淘汰される結果となり、その後もポピュラー音楽史に名を刻んでいくのは、実はニューウェイブとは言えないほどの長い実戦経験を積んできているXTCやトーキング・ヘッズ、クラッシュのようなバンドだった。


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ポリスもこの時代にシーンに躍り出たのだった。
彼らはメジャーのA&Mレコーズと契約する。

そんなパンク・ニューウェーブの中のひとつのバンドとしてデビューしたのだが、じつはそのときポリスの3人は、みんなすでに30歳代の経験豊かな歳をとったニューウェイブの衣をまとったベテランバンドだったのだ。

ベース、ボーカルのスティング、ギターのアンディ・サマーズ、ドラムスのスチュアート・コープランド。この3人を売り出していく上で、3人の髪の毛をみんなブロンドに染めた。3人のルックスのよいブロンド・ロッカーたち、という線で売り出していく。

絵的にも実力的にも本当に個性的な3人だが、過去にも3人編成のロックバンドってたくさん存在するが、やはりポリスはルックス的にフォトジニックな3人だった、というのが結構大切な要素だったかも。

デビューアルバムは、それほどのインパクトはなかったが、パンクやパッと出のニューウェイブのバンドにありがちな、勢いだけで単純な反骨メッセージをわめいているのとは異なり、しっかりとした技量を備えた上で、いままでのバンドにはない新しいサウンド指向を持っていた。

やっぱり高い演奏技術、そして高い音楽性の才能がもともと備わっていた3人だからこそ、デビューこそパンクブームの隠れ蓑に隠れていたけれど、徐々に頭角を現してきた、といえるバンドだった。


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ポリスサウンドで結構特徴的なのがスチュアート・コープランドのドラムス。レコードを聴いていてもわかるが、ポリスの映像素材を見ると、正確なリズムに乾いた抜けるようなスネア、シンバルやハットの使い方など、じつにハイテクニシャンだよなぁ、ということがはっきりわかる。じつにうまいドラマーで、ポリスサウンドの正確なリズムを刻んでいた。

アンディ・サマーズは3人の中で、一番年上でミュージシャンとしての経歴が長い。
彼のギターは、とても多彩な技術を持ったギタリストで、ポリスサウンドのメロディラインの旋律の部分は、彼のギターテクニックによるところが多かった。ポリス最大のヒット曲「見つめていたい」は、アンディに言わせると、最初のスティングからもらったときのこの曲はクソだったそうだ。(笑)そこにアンディのギターのメロディラインが加わり、見違えるような名曲になったとか。

そしてスティング。卓越なるメロディメーカーとしての才能もさることながら、やはり声が最大の魅力だと思う。ハスキーでセクシーな声、一度聴いたら絶対忘れられない声。そしてその声の発声の仕方がすごくロックっぽい格好良さ。

一種独特のカリスマがあって、いままでに聴いたことのないロッカーの声だった。またステージパフォーマンスも格好良かった。ルックスもいいし、なんか同じ同姓の男として男の憧れるすべてを持っているような感じなんだよね。

スティングの音楽嗜好の根底には常にジャズがある。ポリス結成前は、ジャズのベーシストをやっていたからね。

ポリス解散して、ソロに転向していくと、そのジャズ色が濃くなって、ポップスとジャズの融合のような一種独特のスティングの音楽観を築いていた。

ポリスを結成したのはスチュアート・コープランドだ。彼がスティングを誘ってバンド結成となった。スチュアートはポリスのスポークスマン的なところもあった。

でもソングライターで、シンガーのスティングがどうしても中心のスターになる。

そこにどうしても個性・感情のぶつかりあいがあって、晩年バンド内の雰囲気はもう最悪の状態だったようだ。要はスティングとスチュアート・コープランドの仲が悪かったのだ。その間を埋めるような緩衝材、クッションになっていたのが、アンディ・サマーズだった。

最大のヒットとなったシンクロニシティーでのレコーディングでは、メンバー間の関係が最悪のときで、お互いメンバーの顔を合わせることなく、別々にテイクをとって、それをミックスしたとか。

そのシンクロニシティーが、空前絶後の大ヒットとなって、全米のビルボードチャートのアルバム部門で、17週連続(4か月間)、1位を独占。シングルカットの「見つめていたい」も8週間(2か月)1位を独占した、まさにロック界の頂点に立った。

その年のグラミー賞で最優秀ロック・グループ賞と見つめていたいの年間最優秀シングル曲賞だったような記憶がある。その年は、マイケル・ジャクソンの「スリラー」が世界的な大ブレークした年だったから、ポリスは大善戦だった。


1983年、忘れもしない自分が大学1年生のときだったな。

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当然、このアルバム発売に乗じて、全米をはじめとする全世界ツアーをおこなった。俗に言う「シンクロニシティー・コンサート」。

これはじつは日本にも来る予定で、当時北海道にいた自分は、東京まで遠征するつもりだった。
でもチケット発売前に中止になってしまった。はい、泣きました。

シンクロニシティー・コンサートの全米ツアーはまさに熱狂の渦だった。
なんせアルバムは、全米チャートを独占・独走していたからね。

このツアーの中で最大のメモリアル・コンサートとなったのが、ニューヨーク・シェアスタジアムでのコンサートだった。野球場なのだが、ここは、昔ビートルズがコンサートをおこなったところで有名で、まさにビートルズの再来と騒がれて、この聖地に凱旋してコンサートをやることが、この全米ツアーの最大の頂点、盛り上がりとなった。

自分は、このときの熱狂の様子を、ミュージックライフの特集記事で読んだ。もう何回も何回も擦り切れるように読み返した。コンサートが終わった後、楽屋に戻った3人がシャンペンで乾杯するところを、球場のスコアのところの電子掲示板で映して、それにまた観客が大歓声になるとか。

シンクロニシティー・コンサートは、ビデオ化された。
ゴドレー&クレームによる作品で、自分の中では、ロックのライブ・コンサートのビデオでは最高傑作だと思っている。そのカメラワークがじつにセンスがよくて、すごい興奮する。

このライブは、カナダのモントリオール、ケベック州で撮られたもので、それも複数のコンサートをミックスして作っているものだった。

VHSとレーザーディスクの両方を買いました。

自分としては、どうしても最大の頂点だったニューヨーク・シェアスタジアムでのライブ動画を観てみたいとずっと懇願している。

Youtubeにあがっていないか、調べてみたい。

もしそのときの動画素材があるなら、市販化してほしいです。



自分がロックに夢中だったときの不幸なできごとは、家庭用ビデオ機器がまだ一般家庭に普及していない頃の話だったことだろう。だから、こういうライブコンサートのありようを動く動画として楽しめなかった。確かに市販化されたシンクロニシティー・コンサートのビデオが販売されたときは、東芝のVHSデッキを親に買ってもらって、それで毎晩観ていた。

自分が就職で、東京に来て、まずやったことは、都内の中古ビデオ屋さんで、ポリスのライブ・コンサートのVHSが出ていないか探しまくったことだ。もちろん市販されているシンクロニシティー・コンサート以外のもの。

北海道にはそういう中古ビデオ屋さんが少ないし、皆無だったからね。

まずロック雑誌の中古ビデオ店のソフト在庫情報で、そのポリスのライブ・ソフトを売っている店を探し出して店を突き止める訳だ。新宿の中古屋さんを本当にしらみつぶしに歩いて探していたなぁ。

いまで言えば、海賊版だと思うのだが、数本見つかって大事にコレクションした。
それはシンクロニシティーより以前の若い頃のツアー・コンサートの様子のもので、大体なものを全部揃えていると思う。市販化されたシンクロニシティー・コンサート以外の別バージョン(別会場)のVHSも見つかった。

3人のステージ衣装が市販ビデオとは違っていた。でもその中の観客の様子の画面が、なぜか市販ビデオの方に挿入されていたりするのだ。そこで、自分は市販ビデオは、複数会場のミックスということがわかったのだ。



一番ステージ・パフォーマンスが格好いいと思ったのは、やはりシンクロニシティのとき。
市販ビデオ以外に、どのような感じだったのかを無性に知りたかった。

特に格好いいと思っていたのは、3人が着ていた当時のステージ衣装。
これには複数のバージョンがあって、それを全部確認したいと思っていた。

当時はSNSなんぞなかったので、それを確認できるのは、ミュージックライフやFMレコパルに掲載されている写真しかなかったのだ。

ところが最近、FBやInstagramでポリスをフォローしていると、その当時のシンクロニシティー・コンサートのときのいろいろなコンサート会場での写真が流れてくるのだ。

もちろんいろいろなステージ衣装のバリエーションがある。

うぉぉぉおおお~。もう興奮状態。(笑)

SNSの時代って本当に、便利だよね~。
学生の当時、雑誌でしか入手できなかったことが、こんなに簡単に手に入るとは!

もう夢中でコレクションしました。(笑)
いまや自分の写真コレクションの中で超お宝です。

これをこの日記で紹介します。
貴重な写真です。

シンクロニシティー・コンサートのときのステージ衣装は大きく3タイプあったという自分の理解。
これ以外はおそらくない。この3タイプをローテーションで回して着ていたに違いない。


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白のジャケットに赤パンツ。アンディはその反対。
これが最も基本になった衣装で、一番有名な衣装。
自分もこの衣装が一番好きである。シンクロニシティー・コンサートといえば、まず思い出すのはこの衣装である。ニューヨーク・シェアスタジアムでの衣装もこれだった。


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市販ビデオを撮るために特別に作られた衣装。この写真ではスティングは黒のアンダーシャツを着ているが、市販ビデオでは着ていない。上の白のジャケットでは、やはり映像化するには、ちょっと地味だと判断してこのようなギンギラの衣装をデザインしたのだろうけれど、じつは自分はあまり好きではない。

上の白のジャケット、赤パンツが一番好きだ。


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黄色のジャケットは、1作前のGHOST IN THE MASCHINEのライブの時に作ったもの。
それをシンクロニシティー・コンサートのときも使いまわしたもの。
前作ライブのときと違うのは、アンダーシャツがシンクロニシティーしていることだ。(笑)

自分はこれは好きである。

スティング格好いいな~♪


こういうショットを集めたいのは、ちょっとコア層というか病的でしょうか・・・?(笑) 








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学生の頃の青春時代にトリップしたポール・マッカートニー来日コンサート [海外ロック]

まさに学生の頃の青春時代にトリップしたような空間だった。おそらく今回が最後の来日公演。
行けてよかった!一生の想い出になった。なにせチケット争奪戦に敗れ、オークション市場ではプレミア高額チケット。半ば諦めかけていたのだが、ぴあで当日引換券(注釈つき)というチケットが販売になっていて、思わず購入。この”注釈つき”というのが難クセなのだが、要は当日券なので、機材に隠れてステージが見えない、とかそういうハンデがある席でも文句を言わないように、ということらしい。

会社を早い時間に早退して、さっそく水道橋駅に。東京ドームへの行き方などまったく予習してこなかったけれど、なにせ改札降りたら、すごいごった返しの混雑の人。その人たちの後をついていけばいいのだ。(笑)

そして到着!2007年のポリスの再結成コンサートのとき以来のじつに6年ぶりの東京ドーム。shjufsW5ZkgNxB71384860882[1].jpg

植樹されている木々などは紅葉で本当に綺麗だった。
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やっぱり圧巻だったのは、その凄い人、人、人。クラシックとは全くもってスケールが違う。この凄い人だかりを観て、思わずこれから起こるイベントへの期待度というか、すごいワクワク感が湧きあがってきて思わず武者震いというかすごい興奮だった。

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グッズコーナーなんて、こんなすごい行列。ポール人気のすざましさを改めて感じさせられる。

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自分の座席のあるゲートまでたどり着くのが大変であった。(汗)なにせこの人だかり。すごい人、人、人。この中を潜り抜けて自分のゲートまでたどり着くのはもう大変。東京ドーム、というか野球場って本当に広いんだなぁ、と思わざるを得なかった。

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野球場の中のロケーションはよくわからないので、もう係員の人に聞きまくりだった。そしてようやく自分の座席に辿りついた。野球場でいう外野席レフトスタンドだった。外野席の座席ってすごい小さいんですよね。もう隣の人とびったり寄り添うという感じでもうギュウギュウ。ここで思ったのは、外野席でよかったかな、と思ったことだ。アリーナ席だと、ロックコンサートの場合、みんなスタンディングで立ちっぱなしなのだ。それが事前にわかっていたので、もういい歳である自分にとって腰に来てツライなぁ、と思っていたので、外野席だと座って観れるので、すごいホッとした。

さて、そうやってふっとアリーナ内を俯瞰する。
ステージはどこだ?
あった!バックスクリーンに設定されていた。

自分の座席から観たステージ。

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がぁぁぁぁぁぁ~ん!ステージのほぼ真横。見えな~い!(泣)やっぱり注釈つきだけある座席だった。(苦笑)まぁ、公演が始まってからわかったことなのだが、こういうドームのような広い公演では、必ず電子スクリーン掲示板を多方面に設置してポールのステージ姿がどんな遠席の人でもよくわかるようになっているのだ。

ドーム内を俯瞰してみる。いやぁ~凄いね。やっぱりクラシックとは基本的にスケールが全然違う。この大観衆を観て、やっぱりロック・コンサートなんだなぁ、と実感。

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そしていよいよ開演!場内がいっせいに消灯された瞬間、地響きのように「きゃ~」という大声援。ポールが登場した瞬間、それはそれは大変だった。

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上の写真を観ていただければ、わかると思うが、私の方向に縦長の電子スクリーン掲示板があるのがおわかりになるであろう。私はステージを観ながら、頻繁にこの電子スクリーンを観ていた。ウマイと思ったのは、ポールはところどころ片言の日本語で喋っていたが基本は英語。そうするとこのスクリーンに日本語字幕をつけて何を喋っているのかわかるようにしていたところ。

すごい興奮していて、最初の曲がなんであったか覚えていない。たぶんビートルズの曲で観客の心をしっかり掴むという感じだったと思う。ポールは、あのビートルズ時代に使っていたカブトムシのようなベースを持っていた。(でも1曲終わる度にギターを変えていましたが。)

もう、これでもか、これでもか、というくらいのビートルズ、ウィングス時代の名曲オンパレードで、私の両隣の女性などは興奮して声を出して泣き出していた。やっぱりポールの公演は、一種のセレモニーな訳で、ニューアルバムの新曲も披露したけど、こういう過去の名曲はもうお約束事なのだ。もう断然、歓声の大きさが違った。

自分もビートルズやウィングスの曲など、もう25年以上も聴いていないのに、その曲が流れるだけで、すぐに何の曲なのかすぐわかるし、凄い興奮状態に陥ってしまった。

電子スクリーンに大きく映し出されたポールの姿は、すごい格好よかった。とても70歳を超えているとは思えないスラッとした体形で、白いワイシャツに黒のスラックスで吊りバンドをしている。足長胴短でスタイルがよく、カッコいいなぁ~と思わず思ってしまった。髪の毛もフサフサで、ハンサム。男として、こんな風に歳を取れるとホントに理想だよなぁ、と思わず思ったものだ。

そして1番心配だった声。もう歳だから無理だろう、と思っていたが、まったくそんな心配なし。シャウト含めてもう素晴らしかった。これだけ声が出ていれば、十分。やっぱり日頃の鍛錬のきわものなんだなぁ、と思った。

辟易したのは、ドーム内でのPAを使った音響。これはひどいものだった。(苦笑)
やっぱり25年以上もクラシックの生音主義というか原音主義の世界に浸っていると、こういうPAのかかった音というのは非常に不自然で違和感がある。とくにこんな広いドームでのPAでの音は、残響が多すぎて、原音が奥に引っ込むというか聴こえてこない、風呂場で歌っているような感じで悲惨なものだった。でも広い会場でのロックコンサートではPAは欠かせないし、仕方がないのだけれど、やっぱりひどい音だよなぁ。

特に、ビートルズ時代の名曲、ザ・ロング・アンド・ワイデンィング・ロードとレット・イット・ビー。PAを通したピアノの音色を聴いたのだが、もう幻滅。(笑)なんか電気的な音で、ピアノの音色じゃない。もうこの時点で、そういう要素はもう気にしないで、お祭りを楽しもうという気分に乗り換えた。

ウィングス時代に作曲した映画のサントラの「007死ぬのは奴らだ」。これはすごい盛り上がった。サビの部分ではステージ前面から炎が突きあがるような演出で、もう観客はびっくり。すごい演出だった。

そしてエンディングはヘイ・ジュード。これはもう盛り上がったねぇ~。最後のほうの合唱の部分では、外野席の我々も堪らずスタンディングでみんなで合唱。ドーム全体の観客が一体となった瞬間だった。

当然、これで終わる訳はなく、アンコール。お約束のイエスタディはじめ名曲を次々と披露。もうノリノリ~最高潮。

そしてとどめのラストは、アビイロードのB面メドレー。うまいよねぇ~。演出が!あの素晴らしい芸術品のメドレーを最後に持ってくるなど、本当に盛り上げ上手です。(笑)

本当に行けてよかった!最後の挨拶でポールは「また会いましょう~」と言っていたが(笑)順当に考えるとおそらく最後の来日公演だと思うので、ポールの生姿を観るのはホントの意味で最初で最後。自分の若かりし頃の青春の想い出がフラッシュバックされてくる最高のコンサートでした。

じつは今日、会社を休んでしまいました。(汗)朝、すごい疲労感で起きれなかったのです。こんなことははじめて。ロック・コンサートってこんなに疲れるものとは!あれだけ興奮したら、やはりそれ相当の疲れって出るのですね。

さて、公演中の写真の数々をアップロードします。残念ながら、周りが真っ暗なところで、明るいステージを撮ると、ピントが合わずボケてしまうようで、綺麗な写真が撮れませんでしたが(私のデジカメテクニックが未熟なのかもしれませんが。)、でも雰囲気だけでも味わえると思います。

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ほどほどで済まない、気になる人。 [海外ロック]

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来月中旬にポール・マッカートニーが来日する。ぜひ行きたいと思っていたのだが、一般発売の前のプリセールのときに出遅れてしまいチケットをゲットできなかった。(>_<)
(なんと言っても、ちけっとぴあのチケットを購入するのに、クレジットカードを新規に作らせるあのやり方に本当に閉口!)一般発売に期待していたのだが、凄い争奪戦であえなく惨敗。

セカンド・ステージとしてオークションなどで狙ってみたが、小澤・サイトウキネンも真っ青のプレミア高額チケット。いまじゃ東京ドーム公演はほとんど出ていなくて、大阪公演ばかり。夏の大旅行の散財で、つつましやかな生活をしたい自分にとって、泣く泣くあきらめた。

本当は彼のコンサートに行って、その感想日記を書くときに、彼に対する想いを書きたかったのだが、仕方がないので、コンサートに行きたい〜と思いながら、前哨戦みたいな感じでしたためることにした。

ポールと出会ったのは、中学2年のとき。当時はビートルズは解散していて、ポール・マッカートニー&ウィングス全盛の時だった。このときはビートルズはまだ聴いたことがなくて、最初にウィングスと出会ってポールの音楽の素晴らしさに幼心にもイタク感動してしまった。

最初の出会いが、3枚組のUSAライブ。これは本当に擦り切れるほど聴いたものだ。なんと素敵なメロディーなんだろう!といままでに聴いたことのないフックの効いた旋律。夢中になった。子供時代のわずかなお小遣いを貯めてウィングスの他のLPも買っていった。

当時は洋楽は、ひとつのブランドというか、自分は日本のアイドルを始めとする芸能界を聴いている友達とは、ちょっと一線を画すんだぞ、という感じで、洋楽を聴くこと自体が格好いいステータスというか、ひとつのアイデンティティーみたいな感じで自分は他人とは違う、ということを示したかった、そんな反抗心真っ盛りの世代だったのかもしれない。ポールはそんな自分を誇張するためのアイドルであった。

ウィングスを聴くようになってから、ビートルズの存在を知って、逆に遡って、今度はビートルズに夢中。(笑)当時は、第2次だったか第3次のビートルズ復刻ブームで、素晴らしいジャケットを含めた、その完成度の高い音楽性には本当に惹かれるものがあった。

若々しい前期の頃よりも、より内向的で退廃的なムードが漂う後期の作品のほうが断然好きだ。結局ビートルズのアルバムLPは、ほとんど集めたのではないか、と思う。

いまのようなネットで情報氾濫の時代と違って、自分の身の回りにこういう洋楽の情報はほとんど皆無で、湯川れいこさんのミュージックライフで、その写真、記事を観て、すごい興奮するという感じだった。時々TVで特集されたときなんぞは、もう大変!(笑)

どちらかというと当時の洋楽は映像メディアは追い付いていなくて、ひたすらレコード鑑賞で堪能して、その音楽を聴きながら、自分の頭の中でステージ姿を妄想するというかそんな感じだったような記憶がある。いまの情報氾濫の時代と比較して、当時のほうが自分の中のスターのカリスマ性を磨くというか、自分が崇拝する偶像の尊厳を高めるには、返って情報がなかった時代のほうが幸せだったように想うこともある。

ビートルズの素晴らしさを知って、ますますその当時現役で活躍してたポールに、そのビートルズの影を観ているかのように、その想いを馳せていたのかもしれない。

よくビートルズの中にはジョン派とポール派のどっち?という議論があるが、自分はポール派だった。 ジョンの社会性メッセージ色の強い音楽、スタイルにも魅力を感じることは確かだが、ポールのほうがわかりやすいし、親しみやすい。なんと言っても、ラブソングを代表する彼の暖かいメロディーのほうが自分には心地よかった。

中学から高校、大学と進んでいくうちに、自分もどんどん内向的になっていく。
当時のロックはいわゆるブリティッシュ・ロックと米国ロックの2つに大別できて、自分は断然英国派だった。英国のほうがカリスマ性があって、ファッショナブルで尖っている感じがとても好きだった。

そのうちロッキン・オンの渋谷陽一に傾倒していき、彼の考え方、捉え方、お喋りに夢中になって影響を受けた。彼の進めるアーティストを積極的に聴くようになっていった。(でもレッド・ツッェペリンはあまり聴かなかった。(笑))
米国ロックを産業ロックとして馬鹿にしていたこともあった。

さすがにパンクは聴かなかったけど、その後のUKのニューウェーブは本当に虜になった。特に3人編成のロックバンドが異常にコンパクトで格好いいと思った時期で、スティングのポリスだとか、ポール・ウェラーのジャムだとか、徹底的にのめり込んだ。

そんなクラシックの世界とは正反対の世界を泳いできたのだが、社会人になってから、信じられないくらいピタッと全く洋楽を聴かなくなってしまった。

社会人時代の洋楽は、もうすでに自分がかつて憧れていた面影はなくて、昔自分が嫌っていた日本の芸能界とあまり変わらないような感じで惹かれるものがなかった。また社会人で仕事が中心の忙しい生活になると、そういう過激な音楽よりも、クラシックのほうが精神的に癒されるというか、精神性が高い音楽のような感じがして、ロックからは自然に離れていくような感じになっていった。

自分の音楽遍歴にそういう経過があるので、今回のポールの来日は、特別の感がある。
1980年代初頭だったか、ポールが来日するときに大麻を所持して逮捕されたときのこともよく覚えている。
そんな自分にとって、学生時代のロックの道を開けてくれたポールが、おそらくはこれが最後の来日公演になるはず。
一生で一度でいいからその生姿を観ておきたい、という想いが強い。

ポールはかなり歳なのに、見かけはかなり若い。でもおそらくは声なんかもうほとんど出ないというか、あの広い東京ドームでPA付きとはいっても苦しいものがあるんじゃないかなぁ、と思うのだ。華やかな頃しかイメージにない自分にとって、現在を知ることは極めて酷なこと。 そんな恐怖感もあるのだけど、やっぱり一目見たい。

本当にほどほどでは済まないくらい、今現在、気になる人なのである。

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