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ヤノフスキの音楽観と絆 [クラシック指揮者]

自分はクラシックの世界に入っていくとき、カラヤン&ベルリンフィルを基本として入門した。まさにクラシックの魅力をアナログレコードを通して、一般大衆に普及させた、その功労者、第一人者といっていい。


35年間に渡って、ベルリンフィルの芸術監督、首席指揮者に君臨し、まさに”帝王”の呼び名を欲しいままにした。


カラヤンの音源、映像素材、含め全部コレクションした。そしてその膨大な音源を徹底的に聴き込み、クラシックとはなにか、を勉強したのである。もうカラヤンについては、いままでの日記で数えきれないほど、いろいろなことを書いてきた。カラヤンのことを、それこそエピソードからプライベートなことまでいろいろ知りたい、そうやって勉強してきた。


カラヤンの音楽は、その完璧なまでに絶対的な美しさにあると思う。


もちろんアンチカラヤンの声もよく理解できた。表面的な美しさだけで、中身が乏しいとか、レガートを強調する、いわゆるカラヤン節が嫌いで嫌いで仕方がない、ここまで爆音の鳴らし過ぎ、もういろいろな意見を拝聴してきた。


彼らの言うことはもっともだと思うし、よく理解できる。


でもそういう数多なアンチ意見をすべて受け止めたとしても、やっぱり自分にとってカラヤンが基本であることは、まったく揺るがない。


強いもの、頂点にあるものは、それだけ反するものも多く、それが共存して初めて正常な世の中なのだと思う。政治でもそうだけれど、一党独裁はあってはいけないし、常に二大政党、諸々に民主主義でないといけない。


そんなカラヤンをはじめ、過去の偉大なる指揮者はたくさん存在してきて、自分がクラシックに入門した当時は、その巨匠たちの音源、伝説などを徹底的に勉強した時期があった。そういう時期って必ずある。ロックやジャズ以上に、自分はクラシックにはそういう過去の巨匠、過去の名盤というのを徹底的にコレクションして、完璧なまでに勉強しないと気が済まない。。。そんな衝動にかられ、そういう夢中になる時期が必ずあるのだ。


それをやらないとなんかクラシックの領域に入ってはいけないような気がして、それがひとつの禊みたいな感じがしたものだ。クラシックは敷居が高いと思われるのは、そういうところが原因ということもたぶんにあると思う。


〇〇年の名録音、と呼ばれるものは徹底的にコレクションした。
そして聴き込んで勉強した。


もちろん過去の名盤、名録音の歴史的意義、重要性、そしてその骨董品を扱うように崇拝する気持ち、そういう過去の音源はとても人間の好奇心をくすぶるものである。


ところが新しい録音技術が発達にするにつれて、その過去の名盤を聴いても、それほど新人のときのように胸ときめくこともなくなってしまった。


いつぞやPENTATONEの新譜で、新進チェリストのヨハネス・モーザーがヤクブ・フルシャ&プラハ・フィルハーモニアとともに演奏するドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴いたときのこと。


そのあまりに新しい音の世界に自分は心底魅せられた。


そして、このドヴォルザークのチェロ協奏曲の名録音として有名なカラヤン&ロストロポーヴィチの名演を聴きなおしてみたのだ。


聴いてげんなりした。


彼らの名演をそしるつもりはなく 録音された時制を考えれば、実に素晴らしいクオリティの録音だということに異論はない。


だが しかしだ。


しかし そのクオリティは 45年前にすでに明らかに聴きとれた。


「チェロ、そしてそれに伴うオケの音が、こんな風に録れてるなんて何と素晴らしい録音なんだろう!」と 45年前に思った以上のものが 新たには感じられなかった。


逆に 演奏がひどく色あせて感じられた。


モーザー&フィルハーモニアの「ドヴォルザークのチェロ協奏曲」には、1970年のカラヤン指揮ベルリンフィル&ロストロポーヴィチのDG録音の時点では捉えることができなかった「音のさま」がある。


新しい録音というのは、そういうものなのだ。


いままでの価値観を、すべてを吹き飛ばしてしまう可能性を秘めている。


その当時では最高の録音技術で表現されたものでも、それが何十年も経てば、新しい時代の録音技術は、その過去の録音を凌駕し、まったく別次元のもっと優れた、当時では考えもつかなかった表現を新たに可能にしてくれる。


あの当時あれだけ、鼓舞した録音にもかかわらず、いまの最新録音を聴くと、セピア色なみに色褪せてしまう。


「新しい録音を聴こうよ!」


である。


それが世の常というものである。


もちろん過去の名盤を徹底的に研究し、それが単に新しいというだけでは括れない独特の魅力を醸し出していることももちろん否定しない。そういう世界もある。クラシックの世界では特にそういう嗜好性はむしろ高いのではないだろうか。


自分はもちろんその気持ちもよく理解できるし、尊重する。


でも自分は基本は貧乏人なんだな。(笑)予算があれば、そして音盤をラックにしまっておけるだけの部屋のスペースがあれば、どんどん過去の名盤もコレクションするであろう。


でも自分の進む道はそういう方向ではないような気がするのだ。「新しい録音を聴こうよ!」のアプローチでいくことこそが自分のスタイルだと確信している。


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マレク・ヤノフスキという指揮者には、カラヤンのような過去の大指揮者たちに憧れるという類のものではなく、自分といっしょに同じ時代を生きてきて、同じようなタイミングでメジャーになって、一緒に育ってきた、という感覚がある。


キャリア的にも大巨匠の年齢だが、いわゆる大器晩成型である。


だから自分にとって本当に身近に感じてきた指揮者であり、リアルタイムでいっしょに感動を分かち合ってきた、そういう親近感がある。


そしてなによりもPENTATONEという最新録音を極める技術集団のレーベルで音源をリリースする。ここが一番自分との絆を感じるところでもある。(笑)


ヤノフスキの活躍がわが国、日本で注目され始めたのは、彼が芸術監督、首席指揮者をしていたベルリン放送交響楽団を指揮して、ベルリンフィルハーモニーでワーグナー主要10作品を演奏会形式で上演し、そのライブ録音をPENTATONEが収録し、それが非常に素晴らしく大きな評判を呼んだからであった。


それがきっかけで我が国でも東京・春・音楽祭でのN響&ワーグナーシリーズでもリング4部作の演奏会式上演でも指揮をして大成功を収める。


そしてワーグナーの聖地、バイロイト音楽祭でもリング4部作を指揮し、バイロイト・デビューをした。


いずれも自分は、しっかりと体験出来て、まさにヤノフスキといっしょに時代を生きてきた、という実感があるのだ。大巨匠だけれど、同じタイミングでメジャーになって、いっしょに育ってきた、まさにそんな感じがするのである。


こういうリアルタイムでいっしょに生きてきた指揮者こそ、自分にとって、ある意味カラヤンより、より親しみ、親近感がわくというものではないだろうか。


大指揮者、大巨匠だけれど、自分と等身大。
まさにそんな感じである。


ヤノフスキの指揮、彼が作り出す音楽をいままでの経験からひと言でいうならば、極めて引き締まった響きで明晰な音楽を造ることを信条としていて、恐るべく超快速テンポでクライマックスに向かってぐいぐいと引っ張っていく・・・こんな感じである。


ヤノフスキの音楽は非常に引き締まっていますよね。非常に引き締まった音をオーケストラから引き出すのに長けている指揮者である、と言えると思う。


ヤノフスキの音楽作りでとても特徴を感じるのは特にその明晰さにある。それはあらゆる声部が明確に聴き取れることを指している。彼にとって、感情表現も重要だが明晰さは更にその上をいく重要なことなのだと思う。


指揮スタイルとしては、非常に禁欲的で、派手なパフォーマンスとは無縁の玄人好みする指揮。指揮者からの余計な感情移入や虚飾をいっさい抑え、そういうスタイルながらも洗練されていますよね。


好きだなぁ。


そしてヤノフスキの音楽はとにかくテンポが速い。速すぎるくらい。
大体どの曲も快速テンポでぐいぐい引っ張っていく。

バイロイト音楽祭のときも、現地メディアはヤノフスキは速すぎる!というもっぱらの批評だった。


ヤノフスキの音楽は、引き締まっていて明晰で超快速テンポでぐいぐい、というひと言がすべてを言い表していると思う、本当に。


東京春祭でもヤノフスキの4年間が終わった後の、翌年のローエングリンでは、N響が全然鳴っておらず、大不評でしたね。やっぱりヤノフスキじゃないとダメだ、というもっぱらの批評で、トリスタンとイゾルテやパルジファルは、それでやはりヤノフスキの再登板なのかな、と思いました。N響とは定期公演でベートーヴェンの第3番「英雄」と第九も一緒しており、もうお互い運命の絆ですね。


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ヤノフスキ&ベルリン放送響に在籍したことのある女性ヴァイオリニストの立上舞さんのインタビューを聞いたことがある。


ベルリン放送響は、通常のコンサートであれば、大体リハーサルに3日間とるらしいのだが、このベルリンフィルハーモニーでのワーグナー演奏会形式のときは、1か月の長期間をかけてリハーサルに臨んだのそうだ。


そのワーグナープロジェクトのときに、オケの中にいた立上さんは、ヤノフスキの指揮について、こんな印象を抱いていたそうだ。


弦楽器や管楽器に対しても、ピアノをピアニシッモ、メゾピアノはピアノぐらいの音量で、大体音量は小さい方向に修正される感じで、全体の音量のバランスを取りながらリハーサルを進めていく指揮者という印象だった。


でもワーグナープロジェクトのときは、もっと弾け!フォルテを弾け、もっとフォルトを弾け、みんなを鼓舞する感じで大変驚きました。歌手の声をかき消さないように、オーケストラの音量を落として抑えるのが劇場でもあたりまえのことなのに、その逆のことをしているのがとても不思議だった。


小澤征爾さん、サイトウキネン、小澤音楽塾でオペラの勉強をしているときは、歌い手さんの声を消さないように、なるべく静かに、でも芯のある音で。そのアドバイスをつねに心に秘めながらリハーサルに行ったところ、


もっと弾け、もっと弾け、もっと弾けるだろう!こんなに弾いていいものなのか?これは歌い手さんの声をかき消してしまわないのかしら?と心配しながらも全力で弾いておりました。


とのことでした。これは面白いですね。(笑)


元N響オーボエ首席奏者の茂木大輔さんの「交響録 N響で出会った名指揮者たち」のご著書の中でもヤノフスキの指揮ぶり、音楽造りについて書かれています。


不愛想で仏頂面で、その冗談か本気なのかわからないニュアンスこそが「ヤノフスキ・ワールド」なのであった。


なんとなくその雰囲気がよくわかって大笑いでした。

好きだなぁ。

茂木大輔さんのこの本をぜひ買って読んでみてください。
最高に面白いですよ!


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ヤノフスキと自分の最初の出会いは、2011年と2012年のベルリンフィルハーモニーでベルリン放送響とワーグナー主要10作品の演奏会形式上演を現地で生体験できたことであった。


2011年6月の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と2012年5月の「タンホイザー」だった。こんな一大プロイジェクトを2公演も生体験できたなんて、本当に一生に宝物の想い出である。もちろんPENTATONEが収録していた。


「今日のワーグナー上演において、演出が過剰に発展し、音楽面が二の次になっていると感じられるからです。演出家の無茶な解釈に惑わされず、オーケストラと歌手だけで観客にワーグナーの考えたことを感得させる~この発想は、今日では逆に新しいのではないでしょうか。」


これが当時のヤノフスキのインタビューである。ワーグナーは演奏会形式こそ一番である。


主要10作品に登場する歌手はそれこそ、超一流のワーグナー歌手ばかり。ロバート・ディーン・スミス、クラウス・フロリアン・フォークト、アンドレアス・シャーガー、ニーナ・ステンメ、アネッテ・ダッシュなどなど、もう蒼々たる当代きってのワーグナー歌手である。


一流の歌手と契約しているそうですが、貴重なワーグナー歌手を揃えるのは大変でしょうね。 「彼らは揃えるのが大変なだけでなく、ギャラも天文学的数字なんですよ(笑)。実はこのプロジェクトのために、特別にスポンサーに付いてもらいました。そうでなければとてもできません。」


このヤノフスキ氏が言っているスポンサーというのが、いわゆるDLRと呼ばれているもので、ドイツの放送局が関連しているドイツ独特のビジネス形態なのだ。DLRという組織は、ドイツ内のクラシック音楽のさまざまな録音をコ・プロデュース(共同制作)している。


文字どおりコ・プロデュースというのは共同で原盤を制作するという意味なのだが、このDLRのコ・プロデュースは、作品のラジオ・オンエアを行う目的で、録音技術、録音スタッフ、場合によっては録音場所等を援助しながら制作し、作品のリリース自体は外部レーベルから行うという手法なのである。


つまり自分たちが放送媒体機関、つまりメディアであるが故に、そこでのオンエアをさせるために再生する原盤を作成させる援助をするということ。そして原盤自体は外部レーベルからさせる、ということらしい。


DLRのコ・プロデュースの多くは、ベルリン・フィルハーモニー、コンツェルトハウス・ベルリンと、ベルリン・イエスキリスト教会で行われている。


このDLRによるコ・プロデュースの最近での大きな成果が、じつはPENTATONEから出ているこのヤノフスキ&ベルリン放送響のワーグナーSACD全集なのだ。


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このコ・プロデュースの背景には、DLRがRSBベルリン放送交響楽団、ベルリン放送合唱団、RIAS室内合唱団を運営するRundfunk Orchester und Chore GmbH (roc berlin)の一番の出資元であることがあげられる。roc berlinは、DLR(40%)、ドイツ政府(35%)、ベルリン市(20%)、ブランデンブルク放送(RBB)(5%)により出資されていて、だから、これらの団体は、ドイツの準公共放送オーケストラであるといえるのだ。


収録チームは、DLR側ラジオオンエア用録音スタッフとして、トーンマイスター、トーンエンジニア、トーンテクニックが参加し、PENTATONEよりプロデューサー、ポリヒムニアより、トーンエンジニア、トーンテクニックが参加するとても大きなチームであったが、すばらしいチームワークで、このワーグナーの大全集を作り上げたのだ。


PENTATONEは自社設立10周年の2011年に向けて、今までどのレコード会社も行っていなかった10作品のワーグナーの主要オペラの録音を、同一の指揮者、オーケストラ、コーラスで行うことを決めた。


ワーグナープロジェクトというのは、こんなクラシック業界でも一大プロジェクトだったのである。ヤノフスキはこのプロジェクトで一躍スターダムにのし上がり、世に名を知らしめた。ワーグナー指揮者として。


自分もニュルンベルクのマイスタージンガーとタンホイザーの2公演を現地で生体験できた。その日記は何回もアップしているので、ここでは本番ではボツになったお蔵入り写真をここでご披露しよう。当時のデジカメは性能が悪いので、解像度ボケボケでスミマセン。


まず


2011年6月のニュルンベルクのマイスタージンガー。


ここがベルリンフィルハーモニーの団員達が入っていく楽屋入り口。

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この入り口に入ったところで、ホール・ガイドツアーを受ける人たちが待ち合わせる。ホール・ガイドツアーというのは、ホールの中をガイドさんが案内してくれるというサービスだ。ボクもこのサービスを受けてみた。


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これがホール・ガイドツアーを受けているときに大ホールの左ウィングの席からリハーサルを見ているときの写真。このときヤノフスキ&ベルリン放送響はマイスタージンガーのあの有名な前奏曲を演奏していました。これが人生初のヤノフスキ生体験でした!


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そしてマイスタージンガー演奏会形式の本番のカーテンコール。


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このワーグナープロジェクトでは、ベルリンフィルハーモニーの大ホールのホワイエでは、こんな看板が立っていたり、グッズショップが開かれていました。


マイスタージンガーのとき。


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タンホイザーのとき。


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タンホイザーのとき、まだ開演前のリハーサルのときに、係員の目を盗んでこっそり無人のホールに入り込み、自分の座席であるこの最前列でタンホイザーのリハーサルを見ていました。ヤノフスキ・リハーサルの体験2回目。


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タンホイザー演奏会形式の本番のカーテンコール。


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懐かしいです。つい最近のときのよう。


まさか自分がバイロイト音楽祭に行けるとは夢にも思っていませんでしたが、その夢が正夢になったのも2016年8月のヤノフスキのバイロイト・デビューであった。運命の絆なんだな~。


「音楽だけに集中して舞台装置による解釈なしにワーグナーの楽曲の音楽的な質の高さを観客に伝えること。」と、演奏会形式のスタイルにこだわり続けてきた巨匠にとって、今回のオペラ指揮には、本人の大きな決断もあったようだ。


BR-KLASSIKでのインタビューで、ヤノフスキは、思わず本音で、このように答えている。 「自分も77歳。この機会を断ったら、あの音響が独特のオーケストラピットを味わうことは二度とできない。私は弱くなったのです。後悔はしていません。」


カーテンコールでの歓声は、もう間違いなく1番大きかったです。


相変わらず、控えめな所作であるけれど、この割れんばかりの大歓声・ブラボー、そして床の踏み鳴らしに、なにか自分が褒められているかのように嬉しく涙が止まらなかった。自分は惜しみない拍手をずっと送り続けていました。


ヤノフスキのカーテンコールは幕が閉まって、その幕の前に出てくるときなのだけれど、これが40枚くらい撮影しましたが、どれもピンボケでうまくいかず。このときの自分の一番の後悔でした。


一番最尾列の上階の席でしたので。しかも照明が暗いので難しいかな。その中でも、なんとか一番まともな写真をアップしますね。これも日記初公開です。


バイロイト音楽祭2016でのヤノフスキのカーテンコールです。


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そして言わずもがなの2014年~2017年の東京・春・音楽祭のリング4部作。もうこれは説明不要でしょう。大感動の4年間でした。


ありがとう、マエストロ ヤノフスキ。
東京・春・音楽祭のFB公式Pageから写真をお借りしています。


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あと、ヤノフスキ&ベルリン放送響の来日公演も2回ほど体験しているんですよね。サントリーホールと横浜みなとみらいホール。


横浜みなとみらいホールでは、前半は河村尚子さんのベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」後半がベートーヴェン交響曲第3番「英雄」でした。


自分の周りにはとても河村尚子さんの大ファンの方が多かったので、この日は初めて河村さんの実演に接することができて大感動の日でした。素晴らしいピアニストだと心から感動しました。横浜みなとみらいはピアノの音がとてもクリスタルな響きで驚いた記憶があります。


結局、自分は生涯でヤノフスキの実演を8回も経験しているのです!

こんなに体験しているマエストロは他にいません。
自分の実演体験で最多出場なのです。

いかに自分と縁が深いか。。。


あとアラベラ・美歩・シュタインバッハーのPENTATONEのアルバムでもオーケストラ、指揮者として共演しているので、その回数分も加味しないといけない。


ヤノフスキは、伝統的なドイツ音楽における偉大な巨匠の一人であり、ワーグナー、 シュトラウス、ブルックナー、ブラームス、ヒンデミット、新ウィーン楽派についての解釈は、世界的に定評がある。


そしてヤノフスキは、根っからのオペラ指揮者であり、その意味ではドイツの指揮者としての王道を歩んできた人なのだ。現在ではコンクールや、その入賞後のコンサート活動などを通じて名を成していく人が少なくないが、かつては、特にドイツ語圏などでは、オペラのコレペティートル(歌手たちをピアノでトレーニングする人)から出発し、次にオペラの指揮に手を染め、様々な歌劇場での指揮者を経て、ある劇場の音楽監督に着任するという遍歴を重ねた後、やっとコンサートに指揮者として登場するというのが指揮者の進むべき道であった。そしてヤノフスキこそは、今では少なくなった、指揮者への王道を歩んで今に至った指揮者だったのだ、と言えるのであろう。


そういう意味でも自分のクラシック人生でリアルタイムで、いっしょに感動を分かち合ってきた指揮者でもあり、自分にとってはある意味、カラヤンより偉大な大巨匠であると断言してもいいのではないだろうか。


 



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交響録 N響で出会った名指揮者たち [クラシック指揮者]

いやぁ面白かったです。本当は休日の明日に読むつもりでしたが、待ちきれずに今日一気に読了。


元N響オーボエ首席奏者の茂木大輔さんの現役時代に接してきた指揮者たちとの思い出、エピソードを書き下ろした本。


34名+約110名との思い出。「一番苦労したのは人選」


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いま話題沸騰ですね。


オケマンでないと、リハーサルのその場にいないとわからない、リアル感満載で、読んでいて楽しかったです。


やはりご自身で体験されている話は、読んでいて説得力ありますね。
文章が借りものじゃないですね。


インタビューで語るときの姿とはまた違う一面で、リハーサルで音楽をオーケストラとどのように作り上げていくのかとか、いわゆる指揮者の素の姿など、かなり楽しかったです。


生々しい描写でした。


我々が観客席で指揮者&オーケストラを観ている感覚と、微妙に違いますね。
オケマン特有の感じ方が新鮮でした。


特に、「レコードを出している指揮者は違う。」と思っていらっしゃったところ(もちろん当時ですが)が、いまの自分にはない感覚でとても新鮮でした。


こうやって読んでみると、N響って、やはり世界中の高名な指揮者が客演する機会に恵まれている、本当に恵まれたオーケストラなんだな、と改めて思いました。


たくさんの魅力的な指揮者のお話を読ませてもらいましたが、自分の個人的な思い入れを言わせてもらうなら、やはりマレク・ヤノフスキ。


ヤノフスキ先生、最高だなぁ。(笑)


本気なのか冗談なのかわからない「ヤノフスキ・ワールド」。


あの面持ちと、皮肉とユーモアがよく合っていて、わかるなぁという感じで思わず吹き出してしまいました。


いいなぁ。(笑)

ますます大ファンになりました。


ヤノスフキが指揮した東京・春・音楽祭のニュルンベルクの指環、4年間、つい先日のことのようです。悔やまれるのは、今年の東京春祭2020で「トリスタンとイゾルテ」をヤノフスキ指揮で最終の美を飾るはずだったんですよね。本当に残念。。。


とにかく面白いです。
ぜひ読んでみてください。



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交響録 N響で出会った名指揮者たち
茂木大輔(著)



この本を読んだら、久しぶりにN響を無性に聴きたくなりました。


コンサートに行って感動をして、感想を日記にしたり、あるいは不満を書き綴ったりしていたあの時代が無性に恋しくなりました。コロナ憎し。


というか、自分が、いまだに生音復活していませんから。(笑)

11月に復活予定です。


茂木さん、最近の近影を見ていると、現役時代とくらべて、随分痩せられている。
ご病気をされて以来、奥さんの減塩食生活など節制されているようです。


でも歳をいって痩せるのは、見ていてちょっと心配しますね。(笑)


指揮者としての新しい生活が始まった矢先にまさかのコロナ禍になってしまいましたが、ぜひくじけず頑張ってください。


近いうちにまた、「のだめコンサート」に参上します。









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ラトル&ベルリンフィル [クラシック指揮者]

16年間ベルリンフィルの音楽監督を務めあげてきたサー・サイモン ラトル。
16年間ご苦労様としかいいようがない。 

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この16年を短いと見るか、長いと見るかは、人ぞれぞれだろうけれど、自分は潮時というか、とても適切なジャッジをしたのではないか、と思う。

それも数年前から宣言をして、計画的に終焉を終える。他人に迷惑をかけず、とても紳士的な振る舞いだと思う。

ラトルのベルリンフィルにおける功績はそれこそ、いろいろなメディアで記事として特集されてきたので、そのようなことは、ここで触れるつもりは毛頭ない。

自分のラトル&ベルリンフィルへの想いを書きたいだけである。


自分にとって、ベルリンフィルのシェフといえば、カラヤンでも、アバドでも、ましてやフルトヴェングラーでもなく、このラトルであった。

ベルリンフィルへの入門として、それこそ、自分はカラヤンのことを膨大に勉強してきた。あの膨大な音源、映像素材を片っ端から収集してきて、徹底的に研究してきた。そしてカラヤンに纏わる本も、相当買い込み、カラヤンの生い立ち、そしてゴシップなどのゴタゴタまで隅々読み漁ってきた。

アンチも多かったカラヤンだったが、自分のクラシックの原点は、カラヤン&ベルリンフィルだった。誘ってくれた友人にも感謝しないといけない。


なにせ、カラヤンの現役時代は、自分は北海道にいた。(笑)
就職で上京して、2年後にカラヤンはご逝去された。

アバドの時代は正直自分には印象が薄かった。

いわば、カラヤンやアバド、そしてフルトヴェングラーの時代というのは、自分にとっては、レコード再生、CD再生など音源を通して、頭の中で想像する類の指揮者であった。


自分が、本当にベルリンフィルとリアルと向かい合って、肌で体験していると感じたのは、このラトル時代からと言ってもいい。

ラトルがベルリンフィルに就任したのは、2002年。

このとき、自分は会社を3年間休職して、北海道の親元で療養していた真っ最中だった。(笑)

2004年に復職してから、ラトル&ベルリンフィルを聴き始めた。

今振り返ってみると、自分のラトルへの評価は、彼の方針に対して、いつも疑問や反発からスタートして、そのうち納得させられる、ということの繰り返しだった。

そこには、カラヤンをベースにしてきた超保守的な自分にとって、ラトルのやることは、なにもかも常に新しかった、ということがあった。

そこに超コンサバな自分が反発する、そんな図式だった。

いつも最初は反発していた。

その初めだったのは、ベルリンフィルが所属するレーベル。
ベルリンフィルといえば、自分にとっては絶対ドイツ・グラモフォン(DG)だった。

ラトルが、イギリス人ということもあったのか、EMIというのは、とても許せなかった。
オーディオマニアにとって、このレーベルって、とても大切。

レコード会社(レーベル)というのは、それこそプロデュース、販売などいろんな役割があるが、自分に関係してくるのはサウンド。

正直自分は、EMIの造るサウンドがあまり好きではなかった。
天下のベルリンフィルは、絶対DGであるべき。

天下のベルリンフィルがEMIというのが、自分には許せなかった。



そのベルリンフィルのEMI盤の中で、「くるみ割り人形」のCDが発売されたとき、輸入盤・国内盤の問題がmixiのオーディオ仲間内で発覚した。

そのときから自分は、やはり音質的には、絶対輸入盤がいい、という確信を抱いた。(それ以前のずっと古い時代から、やはり音質的には、絶対輸入盤がいい、という定説はありました。)

この事件がトラウマになって、それ以来、自分はCDを買うときは、絶対輸入盤になってしまった。ライナーノーツやとても貴重な解説ノートがつくときは、輸入盤とは別途に国内盤を重複して買うことにしている。それだけ、この事件で自分は国内盤に対する信用を失った。

これもある意味、音造りにあまり執着しないEMIだから起きた事故だと自分は思っていた。



そしてラトル時代の大きな産物して、インターネットでベルリンフィルハーモニーでの公演を配信するDCH(Digital Concert Hall)がスタートした。これは自分にとって唯一acceptableな要素だった。画期的だと思った。

でも反面、NHKで年に2回やってくれる現地での定期公演の収録がなくなると思った。

DCHのカメラワークはつまらなかった。カメラが固定だからだ。ベルリンフィル側からすると、カメラが演奏している団員の前を常に動いたりすると演奏に集中できないとの理由から固定カメラにしているらしいが、家庭でその映像を観るユーザの立場からすると、なんて、ワンパターンでつまらない映像なんだ!と思ってしまった。

DCHはそれこそ、スタートした2008年は、DCHが動くパフォーマンス(CPU/メモリー)のPCを買い替えてまでして、最初夢中になって観ていたが、2~3年したら飽きて観なくなった。DCHは、たぶん2011年以降は、1回も観ていないと思う。

やはりパッケージソフトしてのBlu-rayのほうが、カメラーワーク含め、映像パッケージ作品としては数段レヴェルが上のように自分には思えてならなかった。


そして、ついに自主制作レーベル設立。
これも胸ときめいた。最初のシューマンの交響曲全集。

買って、その凡録音に唖然とした。いや、もとい、少なくとも自分のオーディオでは全く鳴らなかった。ある意味、EMIより遥かに悪かった、というか問題外であった。オマケに付属しているBlu-rayが、画質がDVDなみで、その怒りは頂点に達した。

DGやEMIといったらレコード会社だから、内部にしろ、外部委託にしろ、きちんとした録音エンジニアがいる。自主制作レーベルというのがそこら辺の素性が全く分からず、自分はますます不信感をいだいた。プロの仕事とは思えなかった。

ちゃんとした録音エンジニアがやっているのか?

レーベルから離れて、自主制作。素性がわからないことで、ますますその腕前に不信感を抱いたのだ。

あのときの自分の怒り・憤慨をぶつけた怒りの日記を書いた。
あれだけ激しい怒りの日記を書いたのは、最初で最後かもしれない。

その怒りの背景には、自分の天下のベルリンフィルが、こんなんでいいのか!という愛のムチと言ってもよかった。

自分のベルリンフィルへの録音作品への熱は、この自主制作レーベルで一気に冷めてしまったといってもよかった。正直、この事件以来、このベルリンフィルの自主制作レーベルのCDに、無意識に、苦手意識が生まれてしまった。

また自主制作レーベルのCDは、普通のCDより高いので、ますます買わなくなった。

カラヤン時代から集めてきたCDだったが、これで途絶えると思って悲しい想いをしたのがつい昨日のことのようだ。

縁あって、最近ベートーヴェンの交響曲全集を購入したのだが、これがじつに素晴らしい録音だった。大編成のオーケストラの録音としては、近来稀にみる見事な録音と言ってもよかった。

うちの2ch再生システムでもこれだけ鳴るんだから、絶対優秀録音だ。

ラトルとの出会いは、いつもこうなのだ。最初、最悪の出会いで、その後、見事に持ち直す、という・・・(笑)



これは自分が当時抱いていた想いなんだが、ベルリンフィルのシェフとしてのラトルは、あまり録音という作業に熱心ではない指揮者のように感じていた。

そのことをゴローさんにも吐露したことがある。

確かにカラヤンの録音好き、あの信じられないような膨大な録音を遺してきた、その後任の指揮者は、苦労するのは当たり前だ。

1番可哀想だったのはアバドだった。

どうしてもカラヤンと比較される。あれだけの作品を実演として上演して、録音も残してきたカラヤンと同じことはやれない。

自分の独自のカラーを出さないといけない。そういうことに常に悩まされていて、常に亡霊のようにつきまとわされてきたアバドは、自分から見ると、ベルリンフィル時代はそんなに、彼にとって輝いていたようには見えなかった。

アバドが、本来の彼らしい生き生きとした姿が観れるようになったのは、ベルリンフィル退任後の時代になってからで、ルツェルン祝祭管弦楽団とかやっているときだと思っている。

同じような想いがラトルにもあったことは、絶対間違いない。

ラトルは、アバドと同じように、カラヤンがやらなかった不得意でもあったマーラー&ショスターコヴィチや現代音楽の分野を積極的に取り上げた。

同じ曲を数年サイクルで何回も繰り返して録音するカラヤン。(そこには、自分の勝負曲を、その年代の最新の録音技術で残しておきたいという気持ちがあったとされている。)そしてすぐに全集モノを出すカラヤン。

そういうのと比較すると、アバドやラトルはつねにそんなに録音に熱心ではないと自分には映ってしまうのかもしれない。


自分が確信しているラトルの素晴らしいところは、マーラー&現代音楽含め新しい時代の作品に精通していて、積極的な人であると同時に、ベルリンフィルの最も得意とする18番でもあるロマン派の音楽もとても詳しく得手だという側面をちゃんと持ち合わせているというところだ。

いくら新しいことができたとしても、ベルリンフィルのお家芸であるロマン派の音楽がダメなら、団員たちは自分のシェフに絶対選ばない。

団員たちは音楽監督を決める選挙のときに、ちゃんとそこのところを観ているのだ。

団員たちが、ラトルを選んだのも、自分たちの伝統のロマン派の音楽に精通していると同時に、新しいことにも積極的に取り組んでくれそうな指揮者だったからだ。

ベルリンフィルの伝統お家芸のロマン派の音楽。
これがちゃんとできるかどうかは、団員たちは自分のシェフを選ぶときは、絶対シビアに観ている。

ベートーヴェンとブラームス。

この2人の作曲家は、ベルリンフィルにとって、もう絶対避けては通れない作曲家なのだ。
ベルリンフィルのシェフになったら、この2人の全集は、必ず造らないといけない。

もうこれは音楽監督の契約書の項目にあるのだと自分は確信している。(笑)

特にベートーヴェン。

結局、アバドもラトルも離任シーズン近くになったときの”ベルリンフィルのシェフとしての大まとめ”的な位置づけで作成した。

ベルリンフィルにとって、ベートーヴェンは1番特別な作曲家であることは誰もが知っている常識だ。


自分がゴローさんにも吐露したときも、ゴローさんの答えは、

「指揮者というのは、誰もがやるような定番の曲ってあまり魅力がない生き物なんだよ。これは自分しかやっていないようなそんな作曲家に魅力を感じるものなんだよ。」

これはある意味正解だと思う。


小澤征爾さんのサイトウキネンフェスティバル松本(現:セイジ・オザワ松本フェスティバル)のオペラ公演がそうだった。

この音楽祭でやるオペラは、小澤さんのポリシーがあって、ふつうのオペラハウスの興行でやるようなオペラはやらない。

ちょっとめずらしい、この松本でないと観れない、そんなオペラをやりたい、という意思で演目が選ばれていた。

だから当時、毎年松本の音楽祭に通っていた頃は、このオペラの予習するときが、すごく困ったものだった。巷には、予習素材がないものばかりだから。(笑)



ラトルがシェフになったことで、自分にとっては、ベルリンフィルが、より現実的で身近になったことは確かだった。

それはベルリンフィルの実演に接するようになったこと。

確かにこの影響は相当大きいだろう。

やっぱりオーディオ再生より、実演に接したほうが、自分への距離感はぐんと近くなる。

2009年にmixiをやりはじめて、自分のSNS生活をスタートさせた。

そのときに、ただオーディオのことを言及するだけではなく、クラシックのコンサートのことを言及したい、それが自分に似合っているというか自分のカラーになるように思えた。

コンサートも国内だけなく、海外まで行っちゃえ!

そんな中で、現地のベルリンフィルハーモニーでベルリンフィルを聴く、ということを実現できた。このときはマラ6を聴いた。もう何回も言及してきたことなので、今更言わないが、この本拠地でベルリンフィルを聴けた、というこの事実が、自分とベルリンフィルとの距離感を一気に近い存在にした。

自分にとって、ベルリンフィルのシェフと言ったら、圧倒的にラトルなのは、それが1番大きい理由だろう。やっぱりオーディオ再生よりも実演に接するほうがメモリアルだ。

ラトル&ベルリンフィルが日本に来日したときもかけつけた。

最初は、ブラームス交響曲全集を出したころで、それに乗って日本にやってきた。
サントリーホールで、ブラ1とブラ2を体験した。

このときは、コンマスとして安永徹さんがまだ在籍していた。

安永さんの勇姿を観れて、最高に幸せ者だと思った。

2回目は、これもサントリーホールでマーラー9番を聴いた。
これは安永さんの後任として樫本大進氏が正式に第1コンサートマスターとして就任したばかりで、まさに樫本氏の凱旋コンサート的に位置づけでもあった。

このときのマラ9は恐ろしく大感動したのを覚えている。
あの最後の音が消えつつも静寂をずっと保ち続ける、まさ聴衆にあれだけに緊張を強いる瞬間はないだろう。

いい想い出だ。


そして幻の3回目。

これはまさにベルリンフィルのシェフとしては一番大きな仕事であるベートーヴェン交響曲全集を完成した、その乗りでの世界ツアー。

日本でもサントリーホールでベートーヴェン・ツィクルス。(全曲演奏会)

ラトルは、ミューザ川崎の音響を大変気に入っていて、ミューザでの演奏も必ず実現させていた。
でもベートーヴェン・ツィクルスは、やはりベルリンフィルにとって特別。

ここはどうしてもサントリーホールでやる必要がある。

自分は、ベルリンフィルの来日コンサートを聴くときは、必ずサントリーホールで聴くようにしている。その理由は、もう今更であろう。(笑)

ところが、この3回目の来日コンサート。自分はベト4&7を聴く予定であった。

夜の公演だと思って、夜にサントリーホールに行ったら、なんと!マチネの公演でもう終わっていた。(号泣)

ベルリンフィルの来日公演のチケットと言えば、5万はする。
それだけの大枚をはたいて、しかもラトルの最後の大仕事。

このときの自分の落胆は、お察しする通りです。(笑)

この事件以来、自分とベルリンフィルの関係は、どうもギクシャクするような関係になってしまった。(意味不明。。。笑笑)


とにかくこれだけのリアルな想い出が詰まっている。

やはりそのショック度というか、心深く植え付けられる印象度合いが全然違うのだ。リアル体験というのは大きい。

過去に既に発売された音源や映像素材を鑑賞しているだけでは、このリアルさは絶対超えられない。

そういう意味で、自分にとって、ベルリンフィルのシェフと言えば、やはりサー・サイモン ラトルなのだ。

今晩(2018/7/15)のNHK BSプレミアムシアターで、ラトル&ベルリンフィル特集(ドキュメンタリー、マラ6最終定期、ヴァルトビューネ)を鑑賞する。

これで、本当にラトル&ベルリンフィルとお別れしよう。

尚、ラトルもアバドと同じように、これからも定期的にベルリンフィルに客演していくことになるそうです。


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Bells up for Sir Simon !

サイモンの最後(マラ6)のために、ホルンセクションのみんな、ホルンのベルを上げて感謝の意を・・・泣かせるなぁ (^^)






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小澤さんの勇姿を顧みる 後編 [クラシック指揮者]

小澤さんの勇姿を観たい。急にふっと思いついたこと。それもまさに全盛のときで、自分にとって思い入れのある公演。

つぎにどうしても観たかったのが、

1999年 ザルツブルク音楽祭・カラヤン没後10年記念コンサート。

ホールはザルツブルク祝祭大劇場。

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この名誉ある公演をカラヤンの愛弟子だった小澤征爾さんが大役を引き受けてウィーン・フィルを相手に振る。 バッハのG線上のアリア、ワーグナーのトリスタンとイゾルテ、ブルックナーの交響曲第9番。

この大舞台で日本人の小澤さんが、まさにカラヤン追悼コンサートを振るというステータスに同じ日本人として、とても誇りを持ったし、なにか熱いものを感じた。

この公演は衛星生中継をNHKが録画して時差再生してTV放映した記念番組。

途中に小澤さんのカラヤンに対する思い出などのインタビューが挿入されている。
これが、またものすごく貴重。小澤さんとカラヤンの師弟関係の想い出がぎっしり詰まっている。
このインタビューが聴きたくて、この公演の録画を重宝しているくらいなのだ。

まず最初はバッハのG線上のアリア。この曲は、もう小澤さんにとっては鎮魂歌。亡くなられた方を偲んで、冒頭に必ずこの曲を演奏する。

松本のサイトウキネンでも東日本大震災を追悼、水戸室の潮田益子さんが亡くなられたときも水戸芸術館で聴いた。

もう自分は何回実演で聴いたかわかんない。


G線上のアリアが終わったら、思わず拍手してしまった観客を、ここで拍手しちゃいかん!と小澤さんジェスチャー。

すぐに楽団員、観客全員起立してカラヤン追悼で黙祷。
この間TV画面ではカラヤンの写真がいろいろ映し出されていた。

つぎにソプラノのジェシー・ノーマンを迎えてのワーグナーのトリスタンとイゾルテから前奏曲とイゾルテの愛の死「優しくかすかな彼のほほえみ」。

ジェシー・ノーマンもカラヤンとは非常に関係の深かったソプラノ歌手。

しかしトリスタン和音の効果というか、この曲本当になんともいえない官能美で切ない美しい旋律なんだろう。人の心をグッとえぐっていくような、うねりみたいなものを感じる。ワーグナー音楽の美しさの極致ですね。

ノーマンも声量豊かで、素晴らしい艶のある歌声で堪能した。

ブルックナー9番。悪くはないが、ウィーンフィルの音色だと思った。艶感はあるが、重厚感という点で、やや腰高サウンド。ブル9には、自分的にはやや物足りないかな?まっこれがウィーンフィルのサウンドと言ってしまえばそれまで。



次に小澤さんのインタビュー(カラヤンについての思い出)。
カラヤンの頭像のある祝祭大劇場内のロビーで。

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(2013年に自分が行ったときに撮影した写真です。写真の中央奥のほうに頭像があります。その手前に小澤さん立ってインタビューを受けていたのかな?) 

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小澤さんが初めてカラヤンを観たのは、確かN響を振っているときで、ドボルザークの「新世界」。
当時川崎に住んでいて、自宅にテレビがなかったので、近所のお蕎麦屋さんで、事前に相談して、そのお店のテレビ放映に合せて来店して、そこで、そのテレビを見て初めてカラヤン先生の姿を観た。

(自分の予想では、N響を振っているときではなく、クルーゾー監督によるスタジオでベルリンフィルを相手に新世界を振っているプロモビデオがあるのだが~白黒でカラヤン&ベルリンフィルの初の映像作品です~それではないか?と思っている。)

カラヤンが自分の弟子の指揮者を決めるコンクールで小澤さんが優勝して、カラヤンの弟子になることができた。

カラヤン先生はとにかく最初のイメージは怖くて怖くてとっつきにくい人だという印象があった。
10年くらいそんなイメージを持ち続けた。

あるときポッと怖くないと思い始めた時期が訪れた。それまでマエストロ・フォン・カラヤンと呼んでいたんだが、ヘルベルトと呼べ、と言われた。こればかりは言ってみたが恥ずかしくてしっくりこなくて、どうも調子が悪かった。

齋藤秀雄先生のことを、秀雄、秀雄と呼んでいるようなもので。(笑)

カラヤン先生は自分のことを死ぬまで自分の愛弟子だと思ってくれた。これは一生の宝。

カラヤン先生から指揮のことを学ぶのだが、カラヤン先生の指揮は普通の指揮とは違うので、すごい心配だったが、じつは基本に忠実だった。オーケストラにとって何が悪かったのか?何が必要なのか?そういった基本的で、しかも実践的なことを、実際のオケを使いながら教えてくれた。


それまで齋藤秀雄先生に基本的なことを学んでいたので、カラヤン先生から学んだのは、長いラインをどう掴むか、ということだった。シベリウスの3番やマーラーの大地の歌を使って、何フレーズも先の、いかに長いラインを先に掴みながら指揮をするか、ということを実践的に教えてくれた。

小澤さんは齋藤秀雄先生の弟子だから、シンフォニーだけで、オペラは教わらなかった。ところがカラヤン先生から、それでは駄目だ。シンフォニーとオペラは音楽家(指揮者)にとって両輪なんだ。

シンフォニーだけでオペラをやらなかったら、お前はモーツァルトの半分も知らない、ワーグナー、プッチーニ―、ヴェルディを分からないで死ぬんだぞ。それでいいのか?

それでカラヤン先生に言われて生まれてはじめてのオペラの指揮は祝祭大劇場でウィーン・フィルで、モーツァルトのコジ・ファン・トゥッテを振った。

これが小澤さんのオペラの初指揮だった。


カラヤン先生は、自己規律がしっかりした人だった。普通の人はお腹がすいたらたくさん食べたりとかするが、カラヤン先生は毎日決められた量だけを食べる人だった。指揮の勉強も、自分だったら公演間近になったら詰め込みで猛勉強するが、 カラヤン先生は毎日決まった時間を毎日続ける。そして公演当日は睡眠を十分に取る、という人だった。

カラヤン先生は、なんかとっつきにくい人、怖い人、傲慢な人とかかなり誤解されていると思う。
本当はものすごいシャイな人だった。

公演終了後、観客にカーテンコールをしないで、燕尾服着替えないで、そのまま奥さんと車に乗って家に帰ってしまう、というような人だった。カラヤン先生と話をしたいときは、その車の中にいっしょに乗って話すしかなかった。

でもその日の自分の公演の話は絶対にしたがらなかった。それはある意味知られざるタブーなことでもあった。公演以外のこれから何を食べるとか、そういう差しさわりのない話が良かった。

自分が指揮した公演をカラヤン先生が観に来てくれたことが何回もあるが、そのときに後日、征爾、あのときのこの場面はお前の指揮が悪かった、この場面はオケが悪かった、ここはこうするべきとか、本当にもの凄い細かなところまで覚えていて、凄い 記憶力だと思った。そのときの実際指揮している自分が驚くぐらいだから。

カラヤン先生はそのときはすでに高齢だったはずで、それなのにあの記憶力は本当に驚いた。



この1999年のカラヤン没後10周年記念コンサートとしては、そのときの音楽監督であったクラウディオ・アバドもベルリンフィルを振って、カラヤンの追悼ミサがおこなわれたザルツブルク大聖堂でコンサートをやっているのだ。

その映像素材ももちろんある。モーツァルトのレクイエムなどが演奏された。あのスウェーデン放送合唱団も参加という贅沢な布陣。


つぎに観た記念すべき公演は、

・1986年ベルリン・フィル サントリーホール柿落とし公演(小澤征爾指揮)

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東京初のクラシック音楽専用ホールとして1986年にオープン。これまた初の試みであった民間企業(サントリー)によるホール造りは当時大きな話題になった。

ベルリンフィルフィルハーモニーを参考にして作られ、その設計の際はカラヤンのアドバイスがかなりあったと言われている。(ワインヤード方式を採用したのもそのひとつ。)


サヴァリッシュ指揮NHK交響楽団、オルガン林佑子で芥川也寸志のサントリーホール落成記念委嘱作品である「オルガンとオーケストラのための響」が初演。それに引き続き、バッハのパッサカリアハ短調BWV582とベートーヴェンのレオノーレ第3番が演奏された。

また、その後の13時30分からは落成記念演奏会としてベートーヴェンの交響曲第9番が演奏された。

サントリーホール最初の交響曲は第九だった!

ベルリンフィルハーモニー落成式のときのカラヤン&ベルリンフィルによる柿落とし公演も第九だった。

ここら辺は、やはり倣ったという感じなのかな?

サントリーホールの開幕オープニングシーズンの年間総合プログラムは、通称”黒本”と呼ばれ、マニアの中では貴重な存在。

先日中古市場で見事ゲットした。

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これについては、また別途日記にします。

そして、カラヤン&ベルリンフィルによる最初のこのホールでの来日公演。

当然話題になるのは当たり前。ホール建設のアドバイザーでもあったカラヤンを招聘するのはひとつの目標、けじめでもあった。

しかし来日直前にカラヤンは急な風邪でキャンセル。自ら小澤さんを指名。

急遽、愛弟子の小澤さんが振ることになった。

そのときの公演の模様である。

小澤さんはコンサート後の「ベルリンフィルお別れパーティ」で、演奏会の途中(英雄の生涯)で第1ハープの弦が切れたことを聞かされビックリした様子だったが、ハープは即座に弦を張り替えて無事ソロ演奏を終えていたので「よかった」と相好を崩したそうです。

このベルリンフィルによる柿落とし公演の演目は、シューベルトの未完成と、R.シュトラウスの英雄の生涯。

開演前に、いまの皇太子さま(若い!)が来場。天覧コンサートとなったようだ。

TV画面に映っている聴衆は、ほとんどが正装のように感じた。

幕間に、眞鍋圭子さんによる団員やステージマネージャーへのインタビューがあった。眞鍋さんについては今更説明の必要はないだろう。サントリーホール設立に至るまでじつに大きな役割を果たし、カラヤンの日本とのパイプ役・マネージャー的存在でもあり、その後長年ホールのエクゼクティブ・プロデューサーとして活躍していらっしゃった。

さすが!ドイツ語じつに堪能でいらっしゃいました!

もうひとつNHKのアナウンサーは清水圭子さん(記憶にある。いまはどうなされているのかな?)だったのだが、日本人として初のコンサートマスターになった安永徹さんにインタビュー。ベルリンフィルのコンマスの重責と、後半の英雄の生涯のヴァイオリン・ソロ(当然安永さんが弾く)はじつは女性の役割ということを説明していた。(シュトラウスは多くのヴァイオリン・ソロを書いているが、大半は女性だとか。)

公演は素晴らしかった。特に英雄の生涯は、自分のマイカテゴリーといえるほどの大好きな曲で、この雄大でスケール感の大きい大曲を久しぶりに聴いて感動した。

小澤さんも汗びっしょり。やはりこれだけの大曲を指揮すると、終演直後では興奮が冷めやらず、笑顔になるまでかなりの時間があった。

いままで観てきた小澤さんは、いずれも汗びっしょりかく。やはり健康体の時代だったんだな。

大病を患って、体が思うように動かない現在では、なかなか汗をかくまでの熱血指揮ふりは見れないような気がする。

汗びっしょりの小澤さんを観て、なんとも言えない久し振り感があった。

以上が小澤さんの若き頃の勇姿を楽しんだ映像素材。思いっきり溜飲を下げた。



他にとてもよかったのが、1996/10/17のアバド&ベルリンフィルのサントリーホール来日公演。

マーラー交響曲第2番「復活」

まさにキラーコンテンツ!
この曲は、いままでもう数えきれないくらい聴いてきているが、その中でもこの公演は3本の指に入る名演だと思う。

いま観ても感動する。

特に合唱の世界では世界最高の合唱団との呼び声高いスウェーデン放送合唱団が帯同し、話題になり、この公演で日本での知名度を一気に上げた。

この日の公演では、他にエリック・エリクソン室内合唱団との合同スタイルであった。

アバドは、自分の在任期間中、このスウェーデン放送合唱団を厚迎していた。



友人のお薦めは、

ジルベスター:1995,1996,1997(この年は最高らしい),1998
ヴァルトビューネ:1996(アバドのイタリア・オペラ)
ベルリンフィル定期公演:1996(マーラー2番)、1996(レバイン)

今度またの機会にゆっくり観ましょう。


またドキュメンタリー関連、お宝映像などが面白い。


・佐渡さんとベルリン・フィルとの「情熱のタクト」
・アバドのハーモニーを求めて
・安永徹と中村梅雀対談
・ソニー大賀典雄「ドイツ音楽の夢」
・黒田恭一「20世紀の名演奏」
・カラヤンの音楽三都物語~ザルツブルグ・ウィーン・ベルリン

個人的には、大賀さんのドキュメンタリーが一番感慨深かったと同時に凄いスーパーマンだな、と改めて驚嘆してしまった。

あと佐渡さんとベルリン・フィルとのファースト・コンタクトの場面。指揮者があるオーケストラに客演するとき、上手くいくかどうかは初対面の日の最初の30分で決まる!まさにこのファースト・コンタクトで決まってしまうのだ。

ベルリンフィルのメンバーから、樫本大進を通じて、どういう音が欲しいのか明確に示唆してほしい。我々はその望み通りの音を届ける、とダメだしされてしまう。改めてベルリンフィルの怖さを感じてしまった。(笑)

なんか観ているほうで緊張してしまって、昔自分が塾の講師のアルバイトをしていた頃を思い出してしまった。

黒田恭一さんの番組はさすがにあの明朗でわかりやすい解説がとても懐かしかった。日本いや世界中でアンチカラヤンブームが巻き起こったときにも中立の立場でカラヤンを評価してくれていた唯一の評論家であった。

大賀さんのドキュメンタリーと、カラヤンの生涯ドキュメンタリーでは、モーツァルテウム音楽院大ホールの魅力に執りつかれてしまった。ぜひ行ってみたいホールだと確信した。 その内装空間の美しさもさることながら、観客がまったくいない状態での音響ではあるのだが、あまりにも素晴らしいピアノの音に、アナログの古いメディアの音で、昔の番組という次元を通り越して、その素晴らしさを感じ取れた。

これを観たことがきっかけで、2013年のザルツブルク音楽祭に行くことを決めた。
そして、このモーツァルテウムを体験できた。

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そんなからくりがあった。



まだまだ観ていない素材は、たくさんある。
これだけのライブラリー、全部制覇するのは大変、いったいいつになることやら・・・

大変長文の日記で、とりとめもなく書いてきたが、改めてこのライブラリーを作った友人に感謝しつつ、筆を置くことにしよう。







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小澤さんの勇姿を顧みる 前編 [クラシック指揮者]

いま病気療養中で長期お休みをいただている小澤さん。もちろん予定されていた公演もすべて降板キャンセル。残念なことだが、早く良くなってまた復帰してほしいもの。そんなことがふっと頭をよぎり、小澤さんの若かりし頃の勇姿を映像で観てみたい、と急に思いついた。

これは例によって、急に思い立つことなので、いつもの通り、自分でも予想できません。(^^;;


2,3日前から無性に小澤さんの若き頃の勇姿を観たい衝動に駆られ、ガムシャラに観まくって日記も書いた。(とくにカラヤン先生とのこと)

そういった自分の突然の思いつき、胸騒ぎがハッピーなことでよかった!
25日、各新聞発表の記事。 

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「小澤征爾さんは3月2日に大動脈弁狭窄症と診断されて入院。4月上旬に手術を受け、10日に退院。現在は自宅療養中で、夏の8月、9月長野松本市での音楽祭「セイジ・オザワ松本フェスティバル」で活動を再開する予定ですすめている!」

よかった!自分が心配していたのは、大動脈弁狭窄症という心臓の病気。ちょっと素人では事のシリアスさを十分把握できないため、余計に不安を募らせた原因だった。


とにかく自分の考えたこと、ふっと突然思いついたこと、行動などが、なぜか周りの事象とシンクロしちゃうんだよねー。(^^;;

2年前あたりから意識するようになったんだが、こればかりは、自分で意図できることではないし、どうしようもできないことなのだ。

だから、今回も不安に思った。なぜ?急に小澤さんのことを考えたんだろう・・・?と。
もしや?なんて心配したわけだ。

自分は、やっぱりハッピーなことを予知する専門でいきたいです。(笑)


小澤さんの若い頃の勇姿を顧みる。

それも最近のサイトウキネンのコンサートとかではなく、ちょっと自分特有の変わったコレクションにて実行してみたいと考えた。

前職時代の友人が、1984年~2006年に渡るNHKのクラシック番組を、家庭用記録メディアにコレクションしていたものを、永久保存版としてそれらの映像素材をデジタイズしてBD-Rに一斉にダビングして整理しようという「VHSダビングプロジェクト」をやってくれたのだ。

いまから7年前の2011年のこと。

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ご存知のように家庭用記録メディアはアナログテープからディスクへと記録フォーマットがどんどん変遷していくので、その時代に応じた記録フォーマットで録画して保管してあった訳だ。

友人のご好意により、そのライブラリー全てをダビングして譲ってくれるというのだ。

大変貴重なライブラリー。

市販ソフトでは手に入らない貴重な素材ばかり。

簡単にダビングというけど、今でこそHDDなどから32倍速、64倍速などの高速ダビングで短時間でダビングすることが当たり前になっているこの時代に、アナログテープからダビングするということは、120分の番組を録画するのに、そのまま120分かかるということなのだ!!!

アナログテープのライブラリーは、ED-β,Hi8,VHSとあって、合計80本くらいあった。その他にもLD,VHDなどの市販ソフトからのダビングもあった。

いまでこそ、DVDなどのアナログ出力はマクロビジョンがついていて著作権対策でダビングできないようになっているのだが、当時のLD,VHDにそのような発想はなく、アナログ出力からダビングし放題な訳だ。いまはもう映像機器としてアナログ出力は出していないんじゃないかな?

写真のように全部で24枚のBD-R (記憶容量25GB)。1枚のBDに4番組くらいは入っているから、96番組のライブラリーになる。



しかも1枚1枚に、このようにカラープリンターでラベリングされている。
これもディスクの中身をいちいち再生して確認してはラベリングという凄い重労働だと思う。見てください!この細かい詳細なラベリング。

恐れ入りました。

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友人にはひたすら感謝するしかない。


この録画ライブラリーも大半はベルリンフィル、ウィーンフィルの番組。ベルリンフィルの3大コンサートであるヨーロッパ/ヴァルトビューネ/ジルベスターのコンサートも毎年すべて録画されている。あと90年代のベルリンフィルの定期公演やウィーンフィルのニューイヤーコンサートも網羅。ザルツブルグ、ルツェルンの音楽祭関連やドキュメンタリーももちろん。

こういったコンサートで実際の市販ソフトになっているのは数が限られていて、しかも廃盤になっていたりするから、この毎年のライブラリーは本当に貴重な財産だと言える。

もっと貴重だと思ったのは、ドキュメンタリー関係が充実していること。
ふつうのNHKの番組でドキュメンタリーとして造られた特別番組だったりするから、よっぽどのことがない限り、絶対市販ソフトにはならない。

たとえば1989/7/16 カラヤンが死去したときのNHKニュースセンター9時(キャスターは木村太郎さん)の生映像をはじめ、テレビ朝日のニュースステーション(キャスター久米宏さん、若い!)とか、カラヤン死去ニュースを片っ端からはしごで録画。(笑)

若かりし頃の小澤征爾さん、安永徹さんのコメントも映っている超お宝映像だ。
これを持っているのは自分しかいないと自負していました。(笑)

やはり巨星カラヤンが死去したときのクラシック音楽界への衝撃は大きく、NHKが盛んにカラヤン特集を急遽制作したのだ。



1989/7 栄光の指揮者カラヤン&カラヤン懐かしの日本公演。
1989/7 帝王カラヤン氏逝く。

1989年7月16日に自宅で急性心不全で亡くなったカラヤンは(ソニー大賀さんとの商談中に起こった)、翌17日午後9時半には、11人の手によって、アニフの教会に埋葬された。

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ザルツブルク郊外にあるアニフの教会、自分も2013年にザルツブルク音楽祭に行ったとき、アニフに寄ってカラヤンのお墓詣りをしてきた。

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本人の希望により、これだけの偉人にしては、じつに質素なお墓であった。
もう一度行ってみたいな。


カラヤンの訃報に対して、やはり日本人指揮者として、代表でインタビューを受けるのは、当然小澤さん。

その若かりし頃の小澤さん(当時はボストン響の音楽監督)のインタビューをずっと観ていた。

カラヤン先生は、とにかく音楽家、指揮者として本当に素晴らしい人だったんだけれど、晩年は帝王とか、楽団員とのイザコザとか、本来の先生の素晴らしいところとは別のところで話題に上がっていたのは、なんとも残念だった。

とにかく最初はとてもとても怖い人だと思って、全く近づけなかったのだけれど、一度中に入ってしまうとメチャメチャ暖かい人だった。

カラヤン先生から学んだことは、オーケストラの基本は弦楽四重奏。そこから弦メンバーの数増やして、木管、金管などの管楽器、そして打楽器など、どんどん増えていってイメージを膨らませることが指揮者にとって重要、それが指揮をするためのひとつの手法なんだ。

これは後の小澤さんが始める小澤奥志賀国際アカデミーへとつながるんですね。

カラヤン先生はよく日本人の指揮者で自分がいいと気になる人がいたら、かならず僕(小澤さん)のところに連絡をよこすんだよね。

「征爾、〇〇知っているか?」当時の高関健さん、小泉和裕さん、山下一史さんとか。当然知っているんだけど、先生は、誰それは、こういうところがいい、とか事細かく小澤さんに話してきたのだそうだ。


カラヤン先生は、いわゆる独特の指揮法で、みんなすぐに真似をしたがるんだけれど、それは全くダメ。指揮はやはり自分のスタイルを確立すること。僕はカラヤン先生、斎藤秀雄先生の両方から指揮を学べたので、本当にラッキーだったとしかいいようがない。

こんなことを小澤さん、インタビューで話していました。


上の急遽制作されたドキュメンタリーでは、カラヤンの訃報がちょうどザルツブルク音楽祭の開幕直前だったこと、そしてこの音楽祭はまさしくカラヤンとともに、育ってきた音楽祭と言ってもよかったので、そのザルツブルクで急遽取材。音楽祭がまさに開かれているその最中で、正装した紳士淑女たちに、インタビューしていた。



ひとつの大きな時代が終わった。
すぐには彼に相当する後任は出てこないんじゃないか?

晩年は、人間性を疑われるような傲慢な面も報道されていたので、特別な感慨はない。

彼がいなくなって、音楽祭の品位の高さが失われるんではないか?

後任は誰だと思う?

オザワと答えたのが、日本人を含め、2人いた。(^^)
あとはアバド、ムーティ。

クライバーもいいけど、彼は気まぐれだからダメね。

マゼールが適任だと思います。

音楽祭の観客は、意外にも冷静に受け止めているような感じがした。


自分が小澤さんの勇姿を観たいと漠然と思ったのは、

1989年ベルリン・フィル ジルヴェスターコンサート(小澤征爾指揮)。

あの小澤さんのオルフの「カルミナ・ブラーナ」。このジルヴェスターの公演も最高なのだが、前年の1988年、小澤さんが日本から晋友会という、まあいってみればアマチュアの混声の合同合唱団を率きつれてベルリン・フィルハーモニーホールへ乗り込み、ベルリン・フィルの定期演奏会でカルミナ・ブラーナを披露しちゃったという逸話付きの演奏会なのだ。


合唱のような大所帯を海外遠征に引き連れていくというのは、その経費含め、じつに大変なこと。

この晋友会というのが半端な合唱団ではなく、もう、ベルリナーを唖然とさせるくらいのすばらしい合唱団だったのだ。 わざわざ小澤さんが晋友会全員を連れていったというのが頷けるという。。。

合唱を現地メンバーで賄えば、それで済む問題だったのかもしれないが、そこを敢えて日本人合唱団で押したことに、現地ベルリンでの晴れ舞台での、日本人としての心意気を観た感じがした。

これぞ日本のレヴェルを世界にアピールした晴れ舞台という感じで誇らしかった。

このときのソプラノが、エディタ・グルベローヴァだというから、尚更自分にとって感慨深い。

この1988年の定期公演のCD、当時収録されていて、いまも発売されています。 



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カルミナ・ブラーナ 小澤征爾&ベルリン・フィル、
晋友会合唱団、グルベローヴァ、他

http://urx2.nu/JG1S

もちろん翌年の1989年のジルヴェスターでもこの晋友会を引き連れて乗り込んでいて、このオルフのカルミナ・ブラーナを披露している。このときは、ソプラノはキャサリーン・バトルが務めている。

今回観るのは、このジルヴェスターの映像素材。


この公演以来、小澤さんはベルリンフィルのジルヴェスターとは遠ざかっていて、2010年にチャンスが1度あったのだが、ご存知食道がんでキャンセル。

いやぁ、このカルミナ・ブラーナ。まさに合唱のための曲ですね。
最初から最後まで合唱ずっと大活躍!

1番最初の「全世界の支配者なる運命の女神」は、誰もが知っているあまりに有名なフレーズ。
ゾクゾクっとする。

この当時、つまり1980年代後半って、まさに自分の青春時代。日本が絶好調のバブリーな時代だった頃。晋友会の合唱団は、ずっとカメラアップされて映るんだが、女性陣はみんな当時の聖子ちゃんカット(笑)、男性陣も当時の髪型ファッション、明らかに今とは違う違和感、あの当時の世相を表していたよ。

懐かしく見てました。

21番目のフレーズの「天秤棒に心をかけて」のソプラノ・ソロ。

これもあまりに有名な美しいソロ。キャサリーン・バトルの美声に酔いました。
彼女は決して声帯が広くて声量豊かとは言えない歌手かもですが、やはりディーヴァとしてのオーラが際立っていた。

やっぱり華形スターだ。

最後のカーテンコールでも晋友会への拍手はひと際大きかったです。

まさに小澤さん全盛のときの指揮振りですね。
このときはタクト棒を持つスタイルでした。

この公演を観ることで、今回の自分の本懐を遂げられたと言ってもいい。

でもまだまだこれからなんですよ。



つづく


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山田和樹 [クラシック指揮者]

小澤征爾さんの後を継ぐような「世界の~」という冠が付く日本人の指揮者が、今後現れるかどうか。。。たぶん、あと20~30年は無理なんじゃないか、とも言われているし、自分もそう思う。そんな中で山田和樹氏は、将来の明るい展望が待っているそんな小澤さんの後を継ぐ1番手の将来の期待のホープであることは、誰も異存はないだろう。


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自分もとても期待している。

山田氏の音楽は、自分の場合は、PENTATONEでのスイス・ロマンドのSACDをほぼ毎日のように聴いている。

過去からずっと発売されてきた山田和樹&スイス・ロマンドのアルバムは、ほとんど全部収集して、徹底的に聴き込んできている。

どちらかというとPENTATONEの場合の山田氏へのアプローチは、大曲というよりは、小作品集といったコンセプチュアルな企画ものが多く、これがまた聴いていて、疲れないし、ついつい毎日聴いてしまう原因なのかもしれない。

最近発売されたスペインの作曲家ファリャの作品集は、これは本当に素晴らしい出来栄えで、もう毎日聴いている。

そんな万事が順風漫歩な彼なのだが、自分としては、じつはちょっと厳しい見方をしている。

それは、あまりにスマートになんでもできてしまうこと、若いのに頭も抜群に切れる見識者、そして日本のクラシック業界が彼を将来の日本を背負って立つスター指揮者に育てるべく、とても大事に扱って、いろんなビジネスチャンス&経験を与えていること。

確かにこれにとやかくいうつもりは全くないのだが、あまりに過保護というか、なんでも完璧にスマートにできてしまうことに、なんというのか、存在としての渋み、重量感がないというか、自分にとってクルものがない。

まだ若いから、なのだけれど、彼がまさに指揮者としては、60歳~80歳、つまりおそらくは大指揮者として世界中から認識されるような年頃に”巨匠”と呼ばれるような滲み出る渋み、重さのオーラが出るには、やはり若い頃の血の滲み出るような苦労、失敗の失敗を重ねてこないと、そういうものは滲み出てこないものなのだと思う。

小澤さんは、ある意味苦労の塊のような波瀾万丈な人生だった。カラヤン&バーンスタインの弟子になれた幸運もあるけれど、N響事件、日本と決別して海外でやっていく決心、小澤さんは元来、正直そんなに器用な人じゃないと自分は思う。

でも情熱と実力、そして苦労に苦労を重ね、そしてやっぱり運も必要。そういう波瀾万丈の人生を歩んできたから、晩年にその重み、年輪が発酵するような形で巨匠のオーラが出るのだと思う。


自分は、いまの山田氏を見ていると、あまりにスマートすぎて、大切に扱われ過ぎで、メディアも大絶賛、そういう苦労を重ねる上での年輪のようなものを構築するプロセスがないような気がするのだ。

ときには、メディアのバッシングも浴びなくてはならない。育てるにはそうあるべき。

自分な見方なのだけれど、人間、もうちょっと不器用なくらいなほうが、将来歳をとった時、いい味を出すんじゃないかな、と思うのだ。

まっこれは、幼少時から挫折、失敗の連続だった自分の人生なので(笑)、そういう育ち方をしてきた自分からすると、山田氏はあまりにスマートすぎて、このまま順調に歳を重ねても面白味を感じない指揮者になるのではないか、と思ってしまうのだ。

これは劣等人生だった自分のやっかみだと思ってください。(笑)

小澤さんに共鳴できるのは、けっして器用な人ではないし、苦労の年輪が見えるから。

山田氏をはじめて観たのは、小澤さんのピンチヒッターでのサイトウキネン松本。このときはピットだったので、よくわからなかったのであるが、2回目に観たときは、サントリーホールでのスイス・ロマンド&樫本大進ソリストでの公演。

大変素晴らしかったのだが、自分には騒がれている割には、軽い感じがして、指揮者としての存在感が希薄だった。

山田氏に厳しいことを書いてきてしまったが、あくまで劣等人生の自分から見てのやっかみ。才能は抜群!将来の日本を背負って立つ指揮者であることは間違いないので、頑張ってほしいことは間違いない。

苦労してほしい!メディアもただ持ち上げるだけでなく、育てるために厳しく論評することも必要。

そして巨匠と呼ばれる年代には、滲み出る様なオーラを出しまくってほしい!


応援しているからこその愛のムチです!




ドキュメンタリーOZAWA [クラシック指揮者]

小澤征爾さんがこの夏10年ぶりにタングルウッドに戻ってこられる予定だそうだ。

7/5に小澤さんのスイス国際アカデミーでの弦楽四重奏団を率いて.....
そして7/9にボストン交響楽団とでベートーヴェンのエグモント序曲を演奏されるそう。

その後、学生たちの指導に当たられ2~3週間バークシャーに滞在される予定とも書いてある。

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このニュースを知って、遠い昔に買ってあった「小澤征爾 on DVD BOX」がまだ新品未開封で視聴していないことにふっと気づいたのだった。

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なぜこのBOXを買ったかというと、このように3枚組なのだが、その中の1枚の「ドキュメンタリーOZAWA」。

これをどうしても見たいからだった。

小澤さん50歳のときに作られたドキュメンタリーで、CAMI VIDEO INC.(私は詳しくは知らない。)が制作したもの。それをCBSソニー/NHK、そしてドイツの公共放送であるZDFが版権を持っている、そのような権利関係のドキュメンタリーであった。(このDVD BOX自体は、ソニークラシカルから出ている。)

スタッフ・クルーも当然外国人スタッフで、番組中は小澤さんもすべて英語で話している。

舞台は、アメリカ、マサチューセッツ州のタングルウッド。

小澤さんが29年間にも渡って音楽監督を務めあげたボストン交響楽団が主催するタングルウッド音楽祭。夏の野外音楽祭で、じつはクラシックだけではなく、ジャズ、ポップス、室内楽、現代音楽などじつは総合的な音楽フェスティヴァルなのだ。

演奏会場として5100席の扇型の屋根がついているだけの野外ホールと言っていいクーセヴィツキー・ミュージック・シェッドで演奏される。(最初は小屋という感じだったが、改装されて、だいぶ素晴らしくなったようである。)(以下写真はウィキペディアの写真をお借りしています。) 

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クーセヴィツキー・ミュージック・シェッド
 
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クーセヴィツキー・ミュージック・シェッドの内部

そして1994年にはセイジ・オザワホール(小澤征爾ホール)がこの土地に造られた。 


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小澤征爾ホール
 
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小澤征爾ホールの内部


典型的なシューボックス・タイプで容積もやや小ぶりなので、音響もすこぶる良さそう。
外壁はレンガ、室内は木材をふんだんに使っているのだそうだ。
(写真を見ただけで、どんな音がするか想像できそう。)

サイトウ・キネン・フェスティバル松本が、改名して、セイジ・オザワ松本フェスティバルに変わった時に、記者会見で小澤さんが真っ先に話したことは、このタングルウッドにあるセイジ・オザワホールのことだった。

「建築物含めて、自分の名前を使われることは、なんか墓場を作られている感じで、どうもなぁ(笑)」と仰っていたが、名に恥じぬよう頑張ります、とも仰っていた。

そのときに、このタングルウッドにある小澤ホールの存在を知った。いまこうやって日記を書くために調べて、初めて、その外観、内装を知ったのである。(笑)

非常に評価の高いホールで、数々の建築賞を受賞しているのだそうである。

ネットでいろいろ調べていると、この新しいホールを建てるにあたって、一番多く寄付をした人がそのホールの名前をつける権利があたえられるという流れがあったそうで、このホールはソニーの大賀典雄社長(当時)によって、タングルウッドに一番ふさわしい名前ということで小澤征爾さんの名前が付けられた、ということらしい。(この事実を知って、改めて驚き!)


話をドキュメンタリーに戻すと、内容は、このタングルウッドでの夏の講習会、そして演奏会、また小澤さんの家族ともども毎年の夏、この場所で水入らずで過ごす場面などの小澤さんの素の姿が捉えられている。

昨今の脚色豊かなドラマティックに見せよう的なあざとい作りとは程遠くて、この当時のホントの素撮りに近い感じが返って好感が持てる。

その中で小澤さんが言っていたのは、

「オレはとにかくなにをやってもついていた。斎藤秀雄先生に西洋音楽の基礎を学べた。タングルウッドに来て、いきなりクーセヴィツキー記念賞をもらった。カラヤンの弟子になれた。バーンスタインの助手になれた。とにかくすべてにおいて、オレはついていた。」

なるべくしてなる。持っている人は、やはり持っているのだ。そういう星の元に生まれている、というか。

夏の講習会で指揮を若手に教える。

その聴講生の中に準・メルクル氏の姿もあった。

そうだ!彼もタングルウッドの小澤ゼミ生出身なのだ。

若手への指揮の指導の中で、特にピックアップされていたのが、十束尚宏氏であった。

1982年タングルウッド音楽祭で、クーセヴィツキー賞指揮大賞を受賞。その後、新日本フィルから定期公演デビュー。華麗な経歴を残され、現在に至るが、不詳自分は実演に接したことがない。(不覚)

小澤さんが十束氏を自分の家に呼んで、悩みも含め、腹を割って話し合おうという感じで、家で2人でサシで話すのだが、これがスゴイ迫力なんだ。(笑)

けっして小澤さんはキツイ口調ではないのだけれど、とにかく話す内容が深くて重みがあって、TVの前で見ている自分が説教をされている感覚に陥るくらい。(笑)TVの前にいる自分がビビってしまうくらいだから、目の前にいた十束氏はさぞや。(苦笑)

やっぱり1人で戦ってきた、築き上げてきた、それに裏付けられた話は、深く、重く、説得力があるのだ。

自分は、よく人が書く文章にも例えるのだけれど、美辞麗句、難しい言葉で書き綴られている美文よりも、よっぽどシンプルでズシッと来るような.....小澤さんの言葉はそんな感じ。

「カラヤン、バーンスタインのマネをしようとする人はたくさん知っているけど、ダメなんだよ。カラヤンは、恐ろしいまでに彼独自のユニークなスタイル。バーンスタインにしてもしかり。それは彼らにしかできない。他人がマネしてもできない。結局、自分の道、スタイルは自分が築き上げないとダメなんだよ。」

自分たち一般人は、小澤さんをメディアを通じての姿しか知らない(記者会見、インタビューとか)。

でもカメラが回らないところでは、ボクらが想像できない、音楽家、演奏家たちへの指導は厳しいものがあるんだろうな、と想像する。(真を知る者同士。)

演奏会のシーンでは、ヨーヨー・マ&ボストン響との共演。(ヨーヨー・マ、若いなぁ。)
演奏後、仲良くランチ。話が笑顔で弾む。そんな中で、「東洋人に西洋音楽ができるか?」というテーマになる。2人とも同じ境遇なので、話が深くなる。

そこで、小澤さんが「ちょっとカメラ止めてくれる?」

暗い静止画のあと、場所を変えて、小澤さん、謝罪。でも止めてもらうしかなかった....

小澤さんの自分の人生についてのインタビューは、数年おきのインターバルで行われるのだけれど(最近ではNHKの100年インタビューが印象的でした。)、結局自分の人生なので、小澤さんは同じことを何回も言っているように(笑)どうしても自分には聴こえる。

その中で、「東洋人に西洋音楽ができるか?」というテーマは、もう毎回出てくる内容で、小澤さんが自分の心にずっと持っている一生涯の問題なのだと思える。

演奏会は、その他はルドルフ・ゼルキン(彼の息子であるピーター・ゼルキンは松本のサイトウキネンで聴きました。小澤さん癌療養中の時期でしたが)のベートーヴェン ピアノ協奏曲第2番、そしてジェシー・ノーマン&エディット・ワイエンスのマーラー2番の「復活」。

そして、小澤さんの人生を語る上で、避けて通れないのが、「N響ボイコット事件」。
これもインタビューで内面を語っていた。画面には、東京文化会館の誰もいないステージで1人立つ小澤さん。

「自分は日本人なのに、日本のやり方を知らなかった。西洋流。出るくぎは打たれる。」
「もう日本ではやらない。自分の道は海外でやるしかない。」とそのとき心に決める。

自分は、小澤さんフリークのように思われているかもしれないが、このボストン響時代の小澤さんは知ってはいても、正直熱心な小澤さんの聴き手とは言えなかった。

ゴローさんと出会って、はじめて小澤さんを強く意識したと言ってもよくて、だからサイトウキネンで小澤さんを観れたのはつい最近ことだった。(それも先日、米グラミー賞を取ったあの作品で!(^^))

ふっとしたニュースで、このドキュメンタリーのことを思い出して、今日1日たっぷり見て、なんともいえない気分。

近い将来、海外音楽鑑賞旅行でアメリカ進出を考えている(笑)自分にとって、ボストン・シンフォニーホールでボストン響を聴くことは小澤さんの人生をトレースするためにも避けられない運命なのだなぁ、とつくづく。

さらに他のDVDの2枚も両方とも小澤&ボストン響の演奏。

特に興味を引いたのは、プラハのスメタナ・ホールでの演奏。

プラハの街、そのもののなんともいえない美しさもさることながら、このホールの美しさ&音響の良さに惚れました。(古い録音なのにその音響の良さが分かる。)

プラハはウィーンに近いので、近い将来ウィーンに行く予定からして、急遽プラハも入れようと思いました。


成城学園前のお蕎麦屋さんで小澤征爾さんとバッタリ! [クラシック指揮者]

昨日のことなのに、いやぁまだドキドキが収まらないや。(*^^*)
今日も1日中ハイテンションが続き、仕事も上の空。

小澤さんとのツーショットの写真を、自慢したいがために、携帯で知人に送りまくったりして、私はアホでしょうか。(笑)

昨日は、じつは、成城学園前の某所で、FBの友人達と密談。(笑)

いろいろな話をしたが、その歓談の中で、じつは小澤さんの話もいっぱいしていたのだ。今年の松本のルイージのファルスタッフが入りが悪くて、やっぱり小澤さんじゃないといかん、ということで、来年の松本の音楽祭は、オペラを小澤さんが振るが、なんとオーケストラコンサートも小澤さんが振るらしくて(極秘情報かしら?)、相変わらず小澤頼みの体質が抜け切れない、このような状態でいいのだろうか.....小澤さんのその後はどうなの?など熱論が交わされていた。(笑)

そんな小澤さんの話をいっぱい、いっぱいしてお開きになって、そのときにせっかく成城学園前に来たのなら、小澤さんが足繁く通うお蕎麦やさんの「増田屋」に寄りたいと思った。

友人に場所を教えてもらって、友人とはそこでお別れして、1人でお店に入った。

ここが「増田屋」。

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このお店有名人が来る店でもあり、山田洋次さん、大江健三郎さん、加山雄三さん、横尾忠則さんなども常連だそうだ。

なんか古き良き時代の日本を彷彿させるようないい感じの店内。

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入ったら、お店の方はもちろんお客のおばちゃん達がスゴイ元気なのだ。(笑)

成城学園前に住んでいる小澤さんは毎年、このお蕎麦やさんの日めくりカレンダーに今年の抱負を書きこむことで有名なのだ。それを知っていただけに、ぜひそれを撮影したいと思って、おもむろにそのカレンダーのある場所に行く。

そうするとお客のおばちゃん達が、「あらぁ、それってそんなに珍しいものとは思わなかったわ、普段慣れちゃっていて。アハハハ。」

ノンノン 「いやぁ~ボクは小澤さんのファンなので、ぜひこの店に来たくて.....このカレンダー有名なんですよ!」

お店のおばちゃん 「あらぁ、小澤さんだったら、しょっちゅう、そこら辺を自転車に乗って走っているわよ。(笑)あなた、ど
こから来たの?」

ノンノン 「この店に来たくて、横浜から来ました。」

お客のおばちゃん 「あらぁそれはスゴイわねぇ。(笑)」

そして、これが日めくりカレンダー。
小澤征爾さんだけでなくて、小澤ファミリー全員の書き込みがあるのだ。

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小澤さんは、「いつ来てもうれしくなっちゃううまいそば。征爾。」と書いてある。

そしてお蕎麦を注文。

ノンノン 「小澤さんは、いつもどのお蕎麦を注文するんですか?」

お店のおばちゃん 「そうですねぇ。南蛮蕎麦かカレー蕎麦か、地鳥せいろそば、かしら?」

ということで、地鳥せいろそば、を注文。

オイシソー。(*^^*)

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結構麺が透き通っていて、柔らかい食感。この暖かいスープタレにつけて食べるのはじつに美味しい。そして中に入っている鳥が美味しいこと!

そうやってがっついていると、ガラっと扉が開いて、そうすると店内のみなさんがスゴイ大声で、「キャー、あらぁ~!」。

振り向くと、もう、びっくりで心臓が止まりそう!(爆)
赤いジャンパーを着て帽子を被った小澤さんがそこにいた!

もうこのときの私のうろたえはおわかりになるだろうか?(笑)
店内のおばちゃんたちは、「いま、噂していたのよ~。ホントにいいところに来たよねぇ。あなた、本当に報われたよね。よかったねぇ~。想いが通じたねぇ。」とみんな一斉に拍手。

私は思わず、立ちあがって、小澤さんに立ち寄り挨拶しないと思い、そのときに、常日頃自分の頭の中にある方程式、「小澤さん=ゴローさん」があるので、ゴローさんの名前を出すと小澤さんも自分への警戒感を無くしてくれるのではないか、と安直に考えたのだ。

「あのぉぉ、私、2年前に亡くなったNHKの音楽ディレクターの小林悟朗さんと交友を持たせていただいていて、悟朗さんの影響でずいぶんと小澤さんを聴かせていただいております。」

とご挨拶。

まさか、私の口からゴローさんの名前が出てくるとは思っていなかったようで(当たり前か?)、かなりびっくりしておられて、「あっそう~!」と満面の笑顔で握手していただいた。

もうその後は大変、お店中、お客のおばちゃん達が、小澤さんに寄ってきて、みんなで記念撮影。(笑)

おさまったところで、私もということで、まずは「小澤先生、ひとりのアングルで。」とお願い。

お店の人が、小澤先生と呼んでいるので、私も自然と、小澤先生と呼んでおりました。(笑)

一生の記念になるショット。
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その後、もちろん自分とのツーショットで、お客のおねえさんに自分のスマホで撮ってもらいました。写真?恥ずかしからナイショ。(笑)

撮影後に小澤さんは、自分が座っているテーブルの向かいのテーブルに座られた。なんと、私と真正面で向かい合う感じ。(笑)

小澤さんは、お店の人に「いやぁ、じつは8時に晩飯喰わないといけないから、その前に軽く食べれるものにしたいんだよ。」と仰っていた。

ぶっちゃけ言うと、小澤さんと至近距離にいるその空気の重さに自分が耐えられなくなってしまい、もう急いで蕎麦を食べてしまってその場を去ろうと思ったのだ。(苦笑)

ずっと恋焦がれていた恋人に巡り合えて、ドキドキしてしまって早くそのキンチョーする場から去りたいという気持ちと言ったほうがいいでしょうか?

もう小澤さんは、それこそBlu-rayソフトや松本や水戸での生公演、そしてTVなどでもう数えきれないくらいそのお姿を観ているのに、でもそれは自分の存在が知られていないからであって、自分の存在を知られた、お互いが意識するその場のシチュエーションというのは、もう耐えきれないくらい緊張なのだ。

そうすると向かいの席から小澤さんの方から声をかけていただいた。

小澤さん 「ゴローちゃん、亡くなってからもう何年経つかなぁ?」
ノンノン 「もう2年くらい経ちますかね。じつは私、ゴローさんとはオーディオを通じて知り合いになりました。そして、そのゴローさんの力作であるNHKエンプラのベルリンフィルの「悲愴」やサイトウキネンのBlu-rayソフトを随分と堪能させていただいたのですよ。」

小澤さんは嬉しそうだった。でもちょっとマニアックなことを言っているので、びっくりしていたようにも見えた。(笑)

その他にもいろいろ話した記憶があるのだが、なにせそのとき舞い上がっていたので、いまこの日記を書こうとしても思い出せないのだ。(笑)

そうすると小澤さんにもお蕎麦が運ばれてきた。
そのタイミングを見計らって、私はソソクサと帰り支度をして、お勘定を済ませた。

いま考えるとせっかくの機会に愛想ない態度だよなぁとも思ったが(いまでも後悔しています。もうちょっとじっくりとお話ししたほうがよかった)、なにせ世界のオザワを前にして、舞い上がっていて、自分には無理だ、と勘が働いてしまった。

帰る前に、小澤さんにご挨拶。
「それでは、小澤さん、来年の1月の水戸公演、そしてサイトウキネン、ぜひ実演に接して応援させていただきますので、頑張ってください。」

そうすると小澤さんは、食べている最中にも関わらず、わざわざ立っていただいて、ご挨拶していただいた。

もう私は大感動!

常日頃、思うのは、やはり小澤さんの魅力というのは、これだけの人であるにもかかわらず、目線が庶民の私達と同じ高さにある、と感じることだ。また、そう感じさせるところ。

店を出てからもドキドキが止まらず、駅のベンチに座ってSNSにつぶやき。
mixiも反響が大きかったが、FBがスゴイ反響だった。なんといま現在で、1125人のイイネ、がついている。(驚)

FBの友人は203人しかいないのだけれど、FB特有のシステムで、イイネをした友人つながりで、どんどん輪が広がるように通りすがりの人でも見れる仕組みなのだ。とにかくその反響の凄さに驚いている。

正直コワイ。 

妹にもスマホでツーショットの写真を送ったところ、妹の幼稚園の時の同級生の親が小澤さんの秘書をしているらしい。(笑) 母親はオペラ歌手。

世の中、意外に繋がっているかもね!(笑)


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