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プラハの春 [クラシック学問]

マーラーフェストのつぎをどうするか?


これは当然考えていたことであり、そのとき、自分の頭の中には漠然とプラハ→ウィーン→リンツ(ブルックナー詣)の3か国を周遊できればいいな、と考えていた。


自分の中でメインテーマとして、プラハが主役であり、プラハの春音楽祭があった。


きっかけは、毎年日本で春になると、すっかり上野の風物詩となっているクラシック音楽祭、「東京・春・音楽祭」が、じつはそのネーミングが、この「プラハの春音楽祭」から持ってきているという由来があるからだ。


プラハの東京版をやりたい。

「東京・春・音楽祭」はそこから来ている。


そのように実行委員長のIIJ鈴木幸一会長がコメントしていた記事を拝見して、これは自分のクラシック人生で避けられない運命として、どうしてもプラハの春音楽祭、プラハは体験しないといけないんだな、と確信めいたものが沸き上がってきた。


東京・春・音楽祭は、まさに自分のクラシック人生とともに歩んできた運命共同体の音楽祭だ。そのルーツとなったプラハも体験しないといけない。


そういうシナリオが自分の頭の中に出来上がったのが、2年前のことであった。じつは随分前からそういう青写真は描いていたんですよね。


やっぱり海外音楽鑑賞旅行の計画を立てる場合、その次をどうするか、は必ず考えますから。でもプラハをどのように自分なりにプロデュースしてテーマとして盛り上げていくか、というのはノーアイデアだった。


自分なりの拘りとして、やはりただ単に行ってきました、体験してきました、観光してきました、で終わるのはどうももの足りない。


自分なりのカラーを打ち出して、そのテーマに則って、盛り上がっていきたいというのが自分のやり方だからである。


プラハは、自分の人生の中で未体験の国で知識もあまりない。いわゆる馴染みのない国だ。だから、プラハのことを勉強しつつ、このプラハをどのように自分なりにプロデュースしていくか、というのが自分の新しいテーマだった。


プラハに対してどう自分なりのカラーを出していくか?


そんな課題を自分の頭の中に抱えながら、なにげなくTVを見ていた時のこと。


去年の2019年1月13日「池上彰の現代史を歩く ~東京五輪の“名花”の激動人生 自由を求めた不屈の闘い プラハの春」という番組が放映されているのを偶然に見た。自分は池上さんのこの番組がかなり大好きで結構見ている。いまの軽薄で面白くない地上波番組の中で、かなり教養があって、骨のある番組ですよね。


この中で、プラハの春、チェコ事件、そしてビロード革命と激動の歴史を歩むチェコスロバキアと、1964年東京五輪で日本国民から“名花”と呼ばれ愛された女子体操金メダリスト、ベラ・チャスラフスカさんの運命を紐づける・・・そのような番組のシナリオの持っていき方であった。

彼女は祖国チェコで激動の渦に巻き込まれる。1968年の「プラハの春」。社会主義体制下で、自由を手にした奇跡の改革運動に身を投じるも、抑え込まれてしまった。しかし、20年後「ビロード革命」とともに華麗なる復活を果たした。


日本、そして世界から注目された「プラハの春」とチャスラフスカさんの激動の生涯が、今の私たちにうったえかけることとは?


自分はプラハをどのようにプロデュースしていくかを考えたときに、この「プラハの春」、そして「チェコ事件」「ビロード革命」は、チェコスロバキアという国を語るにはどうしても避けては通れない、そして絶対に知っておかないといけないし、この歴史についてはどうしても語らないといけないだろう、とそのとき思ったのである。


そしてその番組には、ヴァイオリニストの黒沼ユリ子さんが出演されていた。


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彼女は、1958年にプラハに留学。チェコスロバキア政府招待留学生としてプラハ音楽芸術アカデミーに入学。在学中の1960年、プラハ現代音楽演奏コンクールで第1位。1962年栄誉賞つきディプロマを得て首席で卒業。そして「プラハの春音楽祭」でもデビューしているのだ。


まさにこの「プラハの春」の激動の時代、そのときを、そのチェコスロバキアで過ごした、そしてチェコと日本との懸け橋となって活躍した方である。



プラハの春の後、改革のリーダー・ドプチェク第一書記は解任され、誰とも連絡がつかないように地方に追いやられた。「二千語宣言」に署名していたザトペックは、ウラン鉱山の掃除夫にさせられたという。チェコではソ連よりの政治家が実権を握り、より厳しい支配となった。


黒沼ユリ子さんはその当時の様子を番組内で顧み、


「共産党が「人間の顔をした社会主義」に同調した人、反対した人を分けた、日本で言う踏み絵を行ったのです。自分の周りにも働くために嘘を言って生きていくことを選んだ人もいました。」


と話していた。


自分はこれだ!と閃いた。


黒沼ユリ子さんとは、じつはSNSでつながっており、そのとき、いまで思えば大変失礼ながら、ヴァイオリニストでありながら、どのような活躍をされてきたか、その経歴をよく知らないままでいた。


かなり文章力のある方で、演奏家とは思えないその筆致に本当に驚かされていた。(それはその後、著書を全部拝読させていただいたのだが、作家、音楽評論家顔負けのその博識、力筆ぶりに、ただひたすら驚愕であった。)


SNSでは結構政治的なことも強烈に発信される方で、腐敗しきった安倍政権を一刀両断という投稿も常であった。


でも自分はそのとき黒沼さんのことをよく知らなかった。


ところが、その番組で、そのプラハの春のことを、まさに生き証人として生々しく語るそのお姿を拝見して、


そうか!これだな!


黒沼ユリ子さんを、そのヴァイオリン人生をしっかり勉強することで、チェコ、プラハという国を知る。これはいかにも自分らしいアプローチの仕方、自分のカラーが出せると確信したのだ。そう思ったのが、その池上彰さんの番組を見た2019年1月13日で、自分に誓った瞬間であった。


でも、まずは目先のマーラーフェストのことを頑張ろう。


マーラーフェストで大きな達成感を得たのちに、プラハのことはその後ゆっくり考えようと思っていた。そしてご存じのように、マーラーフェストは残念ながらCOVID-19のパンデミックで開催延期。自分は音楽祭の規模としてスケールダウンする来年のマーラーフェスト2021には行かないことにした。その分の予算をつぎのプラハに充てるほうが前向きだと考えた。


そして大分気持ちも落ち着いてきて、そろそろという心構えになり、黒沼ユリ子さんのご著書を全部、そして音源も限りなく手に入れられるものは全部(アナログLP/CD)集めて、徹底的にそのヴァイオリニスト人生、音楽家人生を勉強していったのである。そして黒沼さんを通してチェコスロバキアという国、歴史を勉強していったのである。


そのことについては、また別途日記にして紹介していこう。


この日記では、そのプラハの春、チェコ事件、ビロード革命で、チェコスロバキアという国の歴史を紹介していきたいと思う。


まず、それがすべてのはじまり、前提だと思う。


チェコスロバキアという国は、このような地理感。


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オーストリア、ポーランド、ドイツなどに囲まれている小さな国であるが、社会主義国家体制のときは、チェコとスロバキアという国が合併してチェコスロバキアという国であったが、ビロード革命の後、チェコ共和国とスロバキアという国にそれぞれ分割していった。これが現状である。



●プラハの春


東西冷戦の時代、チェコスロバキアは、東側にありソ連の支配下にあった。共産党一党独裁体制で、人々は監視されており、密告社会である。反共産主義の人物とみなされると強制労働や処刑などもある。人々の気分は暗く、不満が溜まっていた。なにもかも自由がなかった。


戦時中のわが国と似ている。反戦争とみなされると「非国民」と言われたりした。


ところが、1968年1月のこと、共産党第一書記であるアレクサンデル・ドプチェクが「人間の顔をした社会主義」を掲げ、複数政党制、報道の自由、言論の自由、表現の自由など民主化を推進し、世界が注目した。これを受けてチェコスロヴァキア内の議論はまさに百花斉放を様相を呈し、新たな政党の結成の動き現れ、首都プラハの町にはミニスカートなどの西欧風の諸文化が大量に開花した。


また6月には70人あまりの知識人が署名して「二千語宣言」が発表され、ドプチェク路線を強く支持し、旧来の体制に戻ることに強い反対が表明された。


これら1968年春の一連の自由化の爆発を「プラハの春」と言っている。 


「二千語宣言」の署名者に、東京オリンピックで「オリンピックの名花」とも讃えられた女子体操の女王、チャフラフスカ氏の名前もあった。


この「プラハの春」、46歳のドプチェクが、そのリーダーである。


黒沼ユリ子さんは、その時プラハに滞在していて、番組でつぎのように話す。


「以前は、反共産主義の話をしたら、チェックされる社会であった。「プラハの春」が始まると、1968年の5月1日のメーデーでの行進は、自由な行事となり、以前のようなプログラムがなかった。なにをしゃべってもいい。プラハの音楽祭の楽曲選びが自由となった。」


以前とは異なる明るい社会となった。西側諸国への旅行も自由化された。抑圧された密告社会の社会主義国家体制の中で暗い気持ちで生活していた市民にとって、「人間の顔をした社会主義」すなわち「プラハの春」は、一気に春の後光が差してきた明るい夜明けになるはずであった。


しかしながらそんな「プラハの春」は半年で終わることになる。



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「プラハの春」。抑圧された暗い生活の中で束の間の光が差し込み、ジャズクラブで踊る学生



●チェコ事件


しかし、そんな「プラハの春」も長くは続かなかった。夏になると8月20日にソ連のブレジネフ政権は、ワルシャワ条約機構5か国軍15万を国境を越えて侵攻させて軍事弾圧に踏み切り、市民の抗議の嵐の中をプラハの中心部を制圧、ドプチェクらを連行してしまったのだ。


このチェコ事件によってプラハの春は踏みにじられてしまった。


改革が盛りあがりを見せるなかで、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻し、軍事占拠したこの出来事を「チェコ事件」という。


この介入を正当化するために用いられたのが、「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれるもの。「制限主権論」と訳すことができ、「社会主義国家のひとつが危機に陥ることは、社会主義ブロック全体が危機に陥るということ。そのため他の社会主義国家は無関心でいることはできず、全体の利益を守るために一国の主権を乗り越えることができる」という考え方。


スターリンやフルシチョフの時代を通して、ソ連の一貫した対東欧政策あった。


首都プラハの中枢部を占拠してドプチェク第一書記、チェルニーク首相ら改革派を逮捕、ウクライナのKGB(国家保安委員会)監獄に連行した。


全土で抗議の市民集会が開かれ、またソ連の実力行使は世界的な批判を浴びた。


スボボダ大統領は執拗にドプチェクらの釈放を要求、ソ連は釈放は認めたが、ソ連軍などの撤退は拒否した。



軍事侵攻したソ連兵に話しかけるプラハ市民
抗議するプラハ市民


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●ビロード革命


まさに20世紀の冷戦下、大国の間でゆれ動いたチェコ。ドプチェク政権による「プラハの春」を経験したものの、その後のソ連軍の侵攻で、市民の自由を認めない共産主義独裁政権が長く続き、人々は秘密警察による恐怖政治の支配の中を生きた。


60年代にみられた官僚主義の体制の中での経済停滞と、言論抑圧の中での、国民の無気力、無関心が蔓延するようになる。1977年にはハヴェルらの知識人が「憲章77」を発表したが、直ちに弾圧され、民主化は進まなかった。


1989年10月29日には約1万による集会がプラハで開かれ、人々は改革に動こうとしない共産党ヤケシュ政権打倒を叫んだ。11月に入り、ベルリンの壁の開放の報が届くと市民・学生の活動は活発となり、11月19日に「憲章77」のハヴェルらが中心となり「市民フォーラム」を結成、政府に対して共産党指導部の辞任、全政治犯の釈放などを要求した。連日30万規模のデモがプラハやブラチスラヴァで繰り広げられ、ついに24日ヤケシュ書記長以下共産党幹部が辞任、12月にはフサークが大統領を辞任し、代わってドプチェクが連邦議会議長、ハヴェルが大統領に選ばれた。


こうして大衆行動によって流血の惨事を経験することなく無血で共産党政権の打倒と民主化を実現したチェコスロバキアの変革は「ビロード革命」と言われている。



1968年のプラハの春から20年経って、1989年のビロード革命にて、チェコスロバキアは民主主義を取り戻したのである。



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1989年11月25日、約100万人の人々がレトナーに集まった。


ビロード革命は共産党による長い抑圧的な支配を終わらせ、チェコスロバキアを民主主義への道に導いた。


メディア、言論、旅行への制限が解除され、他国へ移住した多くの人々も家に戻ることができるようになった。新しい民主政権は国の法律を自由化し、開かれた自由な社会を作り上げた。 そしてその後すぐ、チェコスロバキアは今日知られているように、平和的にチェコ共和国とスロバキアに分割されることになった。


日本のように植民地になった経験のない国で育った自分が、はたしてチェコのような運命を辿った市民の方々の気持ちがわかるのか?


代弁できるのか?


真の意味で語れる資格があるのか?


このチェコの辿ってきた歴史を理解してみると、つくづくそういう想いがする。


そういう我々日本人では想像もできない辛い歴史的背景をチェコ人が背負っているもののひとつとして、黒沼ユリ子さんは、音楽誌「音楽の友」に2年間投稿した記事をまとめた本「アジタート・マ・ノン・トロッポ」の中で書かれたことで、とても印象的であった箇所を抜粋して紹介しておこう。



どの民族にとっても、自分たちの文化遺産の最大のものはなにかと考えるとき、それは「言語」であると私は言いたい。ちなみにこの数世紀間だけの歴史を振り返ってみても、他民族に従属させられた被抑圧民族が起こした果敢な闘いの原動力となったもののひとつは、自分の言語(つまり母親から習った言葉)を公に使えない悲劇的状況を乗り越えることへの熱望であったのではないだろうか、と私は思う。


例えば遠くは、数世紀に渡って亡国民族であったチェコ人に、チェコ語で自らの持つ伝説や歴史、村の出来事などを歌芝居にして上演したいという願いがあったからこそ、スメタナのオペラが生まれ、また国民劇場が、みなからの「塵も積もれば山となる」式の寄付金によって建てられたのであろう。


それによって音楽が媒体の一部ともなって民族内部に強い連帯感が生まれ、それも大きな役割を果たしたであろう結果が、世界の歴史的状況と結びついて1918年にチェコスロバキアという独立国が地球上に誕生する可能性を生み出した・・・と言えるのではないだろうか。



長い間、異民族の支配下で抑圧されている民族が、音楽に祖国の独立の希望と夢を託して現状の苦しみを慰めるということは、歴史上どこでも繰り返されていることだからだ。チェコ人には次のようなエピソードが、これを裏付けるもののひとつとして残っている。


それはチェコ人が自民族復活への熱望のシンボルを「国民劇場を持つ」ということに集約していたという事実だ。


つまり自分の言語と音楽で芝居やオペラが上演される場所を持つということ。




プラハ、プラハの春音楽祭というと、ついつい市民会館(スメタナホール)とかドヴォルザーク・ホールとか有名だが、自分はぜひチェコ人の最初の意思表明であったこのプラハの国民劇場をぜひ訪れてみたい。


コロナ禍でいつ海外旅行が再開できるかもわからないし、海外でコンサート、オペラが普通に再開できるようになるのかも、はたしていつになることやら。自分もそのときまでに予算的に大丈夫なのかもわからないが、毎日紋々と無意味に過ごすよりは、前向きに勉強しながら過ごしているほうが精神の充実度は違うと思い、この日記を書いた。


まぁこの先どうなるかわかりませんね。



序章、プロローグとしてはこのような感じでいかがであろうか?











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なぜ、古いオルガンの音は美しいのか? [クラシック学問]

岐阜のサマランカホールを訪問したことをきっかけに、サマランカ大聖堂の「天使の歌声」、別称「鳴らずのオルガン」を見事修復した岐阜県白川町のオルガン建造家、辻宏氏の存在を知り、大変な感銘を受けた。その辻さんのことをもう少し知りたいという欲望がどうしても湧いてくる。 


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辻宏氏

「美しい音」を求め、その生涯を信仰とパイプオルガンの制作に注ぎ、81台もの作品を遺した辻宏氏。特にサラマンカ大聖堂など、スペイン、イタリアの歴史的なオルガンを5台修復したことは、今も語り草になっている。

サラマンカホールは、OKBふれあい会館の中に存在するのだが、ホールのゲートの前のロビーのところにTVが設置されていて、その画面にエンドレス再生で、辻氏とサマランカ大聖堂の天使のオルガン修復のドラマが、ドキュメンタリーのような形で放映されているのだ。

それをずっと見ているとじつに興味深かった。

そのドキュメンタリーでは、

オルガンは辻さんが長年にわたり、自らの手による修復を希望。1985年に皇太子時代の天皇、皇后両陛下が大聖堂を訪問されたのを機に、資金面も含めて修復が実現、90年に音色をよみがえらせた。

94年に両陛下がサラマンカを再訪した際、辻さんの演奏で復活したオルガンの響きに耳を傾けられた。

その際、天皇陛下、美智子皇后さまが、晩餐会で国賓として迎えられ、まさに国家間を通してのおもてなし。その場のスピーチでスペイン国王から、「オルガンを修復していただき、日本に大変感謝しています。スペイン、日本との間の厚き友情の証といえましょう。」という感謝のお言葉をいただいる、などの場面が映し出されているのだ。


かなり感動した。


そのドキュメンタリーでは、美智子さまと辻さんとの関係も、じつは、そのときに知り合った仲ではなく、かねてよりオルガンを通じて、ご交友があったことに触れていた。こういう美談も急に起こる訳でもなく、かねてよりの積み重ねによるものということだ。

あのドキュメンタリーソフト、ぜひ欲しい気がする。(笑)

もっと辻さんのことを知りたい。


そこで書籍などがないか調べてみたら、数ある中から、これがいいのではないか、という本を見つけた。 



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オルガンは歌う 歴史的建造法を求めて。
辻宏

https://goo.gl/GoR2nP

まさに辻さんのオルガン建造家としての人生や、世界のオルガン修復のこと、そしてオルガンの音色の「美」に関する自分の考え方など、まさに自著なので、余すことなく書かれていて、興味深かった。

特にオルガン修復のことは、備忘録というか、事実に基づいて、どのように修復していったのか、オルガンの仕組みを理解していないと読解に難しい所もあり、かなりの技術レポートとも言えそうだ。

読みごたえはあった。

ここでは、この本をもとに、辻さんの人生、偉業、そしてオルガンの音色に関する考え方について、紹介できればという気持ちで書いている。 

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辻さんは、愛知県の勝川町(現在の春日井市)に生まれた。お父さんはお医者さん。東京藝術大学に進み、オルガン科を専攻。

大学を卒業後に、本格的にオルガンの製造を学ぼうと決心を固め、2年後にアメリカに渡って、シュリッカー社で見習いとして、オルガン建造の基本を身につけ、さらにオランダのフレントロップ社に勤務するようになり、楽器建造の実際を経験して、将来へ向けての基本を学んだのである。

1964年に帰国するや、神奈川県座間市に「辻オルガン建造所」を作って、以来2005年に到る40年ものの間、81台のオルガンを生み出すことになった。

1971年に、辻さんにとって大きな転機となる。

北ドイツの歴史的オルガンとの出会いである。辻さんが企画したイタリア、ドイツのオルガンを見て回るツアーで起こったこと。イタリアの歴史的オルガンを見て回った後のドイツで、歴史的な北ドイツのオルガンに精通しているハラルド・フォーゲルさんと出会った。


これが辻さんにとっての運命の出会い。

そのフォーゲルさんは、オランダ北部から北ドイツ一帯、そして最後は、ハンブルクへと誘導し、数多くの楽器を説明しながら実演した。

辻さんは、すぐさま事の重大性に気づいた。このときこそ、歴史的楽器(歴史的オルガン)の重要性を確信した転機である。

おそらくこのとき悟った基本的問題点を、2年後に、「歴史的北ドイツ・オルガン建造技術上の特徴について」という小論文にまとめている。



「歴史的オルガンが美しいのは、結局その作り方にあるのであって、単に時間が経って、音がよくなってきたのではない。」


という記述のあるこの論文で、具体的にネオ・バロック・オルガンと歴史的北ドイツ・オルガンを比較しながら論じている。

そこには、まさにそれ以降の辻さんの新しい制作活動の基本が示されていたのだ。

まさにそれ以降の辻さんの造っていくオルガンには、そういった歴史的楽器の想いが随所に反映されていくことになる。フォーゲルさんから学んだ北ドイツ型の楽器を模範として、新しいオルガンの制作に勤しんだ。

フォーゲルさんの歴史的オルガンに関する知識と情熱を受けた辻さんは、即座に日本に招待する。セミナーやリサイタルの毎日。

そんな運命的な出会いがあり、歴史的楽器の重要性を悟った辻さんが、いっそのこと歴史的楽器をそのままそっくり複製してみようか、ということも思い立ったこともあった。

東京祐天寺の聖パウロ教会からのオルガン制作を引き受けたとき、まさにそのことを考えた。フォーゲルさんの勧めもあって、北ドイツのオスターホルツ・シュルムベックにある聖ヴィルハルディ教会1732年製の楽器はどうか、ということになった。最速22のストップを持つ二手鍵盤とペダルからなる仕様。

最終段階では、フォーゲルさん自身も来日して制作のお手伝い。
1976年6月に完成したこのオルガンを辻さんの最高傑作と考える人も少なくない。

この1976年という年は、辻さんにとって新しい出発の年となった。

制作工房を、神奈川県座間から、岐阜県白川町に移し、名称も「辻オルガン」と改めた。

理由は都市化しつつある座間が、楽器制作の場には向かないと考えことにある。
岐阜県の山奥にある新しい場所は、昔学校の古い校舎であったところ。
そこを工房に改築した。

山奥で木材には不自由しない。

以後の30年間は、この緑に囲まれた静かな環境の中で、仕事を続けることになった。

その一方で、歴史的楽器を学ぶために、ヨーロッパに訪れることも忘れなかった。

そして次に辻さんの目を向けさせたのが、イタリアのオルガンであった。

イタリア中部トスカナ地方の古い町ピストイアに数多くのオルガンが演奏もできない状態で放置されていたのに、辻さんが気がついたのは、1970年代後半のことらしい。

そこで許可を取って、そのうち18世紀に建造された2台の実地調査。

そのうちの1台で小さいながらも「最も純粋な美しさ」を持ったドメニコ・ジュンティーリ作の楽器の複製を作成。それを館山の「かにた婦人の村」に納入したのが、1982年のことである。

そして次に、そのイタリアの街ピストイアの歴史的オルガンの修復が始まり、サン・フィリッポ教会のオルガンが昔日の美しい音を取り戻したのが1984年。

このピストイアのある数々の歴史的オルガンを修復、複製&納入していくことで、辻さんは外国人としてはじめてのピストイア名誉市民章を受けた。

そしてこのピストイアのオルガンを使って講習会を開いてイタリア音楽を啓蒙していければ、ということで、この岐阜県白川町で、「イタリア・オルガン音楽アカデミー」が開催されるようになった。以来今に至るまで、ずっと続いているのである。

1988年の第4回の時に、当時皇太子妃だった美智子さまも紀宮殿下とともに、この白川町を訪問されて大いに話題になった。

美智子さまと辻さんとの出会いはこのとき。

これが後の大きな財産となるんだな。

オルガン・アカデミー以外にも両町間で、いろいろな分野で交流が進み、1994年にイタリア・ピストイア町と、岐阜県白川町は姉妹都市関係になる。

一方辻さんのほうは、1974年にスペイン旅行をした際に出会ったサマランカ大聖堂の堂内に放置されていた楽器のことが忘れられないでいた。


ようやく、・・・そしてついにここに来た。(笑)


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サマランカ大聖堂


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サマランカ大聖堂のオルガン「天使の歌声」



その楽器は、最初ダミアン・ルイスという名の建造家が、1558年に造ったということから、「ルネサンス・オルガン」と呼ばれていたものの、17世紀の間に改造されて、実質上バロック様式の楽器になっていたが、ドイツやイタリアのオルガンとは全く異なる独特の暗くて深い音色を持ち、忘れられないものだったという。

しかし大聖堂当局には、修理の資金もないという。

一大決心した辻さんは、自らも国境を越えて文化財を保存する重要性を説いて回り、その結果、1981年から1984年まで在スペイン日本大使を務め、日本とスペインに豊富な人脈を持つ林屋永吉氏の共感を得て、また当時の美智子妃殿下のご賛同もいただき、よき理解者を多く与えられて、日本企業、岐阜県民有志の広い協力を得て、1年で3500万円の資金が集まった。

そして4人の辻オルガンのスタッフを引き連れて、サマランカに乗り込んだのだ。

作業は、1989年8月から8か月。

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その結果、オルガンは、かつての素晴らしい音色と姿を取り戻すことが出来た。

1990年3月25日。修復が終わった「天使の歌声」の奉献式。

スペイン国営放送により、全国放送の実況生中継。

スペイン国民が固唾を飲んで見守っている。
大聖堂前の広場にもたくさんの国民がかけつけていた。
その中に辻さんと奥さんもいる。

まさに400年前の音が再び大聖堂内に鳴り響いた。

オルガンの音色が鳴り響くと同時に、スペイン国民に多くの感動を与えた。
まさに日本の職人魂が400年前のヨーロッパの職人技と共鳴した瞬間であった。

辻さんも、その瞬間だけは、言葉では言い表せない深いものを感じていたようだった。


この偉業がきっかけとなり、大聖堂と同時期に創設されたスペイン最古のサラマンカ大学は1999年、構内に“サラマンカ大学日西文化センター”を設立、センター内の多目的ホールを、”美智子皇后陛下大講堂”と名付けその日西関係を思われるお心に感謝を捧げた。

またオルガン復活に尽力した、元在スペイン日本大使、林屋永吉氏は大阪外国語学校(現大阪外大)でスペイン語を学び、外務省に入省、1941年から1943年までサラマンカ大学に留学生として在籍していた。その縁もあってサラマンカ大学は文化センター内の図書館を林屋永吉日本研究図書館と命名しているのだそうだ。


後年に、いまの皇太子さまも、辻宏氏が修復したサラマンカ大聖堂のパイプオルガンを見て、その演奏を聴いた。(2013年6月13日)

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辻さんは、その楽器を元の形に戻すだけでは満足しなかった。修復作業の結果、この楽器について隅から隅まで知った以上、それを生かして複製を作ろうと考えたのである。

1994年9月に完成したのが、岐阜県県民ふれあい会館(OKBふれあい会館)、通称サマランカホールのオルガンである。45のストップを持ち、三段手鍵盤にペダルから成る、辻さんの制作による楽器のうち最大規模のものである。


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サマランカホール


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サマランカ大聖堂の「天使の歌声」を模したオルガン






辻さんのオルガンの音色の考え方について、とても興味深いことが書かれている。

古いオルガンの音を聴いてみると、ほんとうに美しい音がする。新しいオルガンの多くは、古いオルガンほど美しい音はしない。

現代、美しい音のオルガンは、非常に少ないが、昔の、18世紀以前のオルガンでは、それが正しく修復された場合、そしていまだ修復されていなくても、少しでも元の音が出ている場合には、ほんとうに美しい音をもったオルガンはたくさんある。

19世紀以後の音楽の世界では、感覚を研ぎ澄まして美しい音を創るということから、少し遠ざかり過ぎているのではないか?

まず音色の質よりも音量が重視されるようになった。

それは音楽の場が、響きの良い礼拝堂を離れ、コンサートホールに移っていったことに関係があるのではないか?

古典派の時代からそれは始まった。古典派以降、だんだん大きなホールで演奏会をするようになる。そのほうが興行主は、大きな収入を得ることができ、たくさんの収入があるからだ。興行主は、競って大きなホールを建設し、多くの聴衆を集めて収入を得て、一握りの演奏家に高い報酬を払うということになった。

音楽の世界がこのように変わっていったとき、音量が大きいことが求められたのである。


辻さんが、なぜ古いオルガンを修復するのか、理由の鍵はそこにある。

一番の理由は、修復によって古い美しい音色をよみがえらせることであり、またその失われた制作技術をよみがえらせる可能性があるということである。

修復作業とは、元に戻すことであって、決して改良することではない。

残念ながら、二十世紀ヨーロッパの各地で行われた修復は、修復と同時に改良の手を加えた場合が、あまりに多かった。

それは、たとえばオルガンのピッチを現代風に変えたり、調律法を平均律に変えたり、鍵盤の音域を広げたりするようなことである。

関係者の音楽的な要望によるものであろうが、このような行為は、歴史的遺産の破壊ともいうべきもので、今後、あってはならないものである。

なぜヨーロッパの歴史的オルガンが修復の名のもとに、改造され、元来の美しさを失ってしまったのであろうか?

それは現代人の自信の結果だと思われる。

自然科学や工業技術の進歩と発見の中で、あまりに安易な自信に溢れ、昔の職人の技を自分たちよりも低いものと思い込んでいるのが最大の原因ではないか?

進歩と発展という進化論のようなものが頭にこびりついていて、昔のオルガンは古いもの、遅れていて、進歩していないものという意識が知らず知らずのうちに修復の際に、自分たちが生きている時代の進歩したオルガンへと変更の手を加えてしまうのだと思う。






自分は、ここの一連の記述が、この本で一番大事なところ、オルガン建造家、辻宏としての絶対譲れない考え方、ポリシーなのだと直感的に感じる。



この本を読んで理解できたこと。

辻さんのオルガン建造家としての人生は、北ドイツ、イタリア、スペインなどの歴史的楽器(歴史的オルガン)の音色が美しい真相が、その造り方にあることを発見し、それらを勉強、そしてチャンスをものにして、修復、複製していくことで、その構造を徹底的に知り尽くすこと。

そうすることで、自らのオルガン建造につなげていった。その繰り返しの人生だった、ということではないか、と思った。

ここに書いたことは、この本の一部でしかなく、その内容は、オルガンの構造、修復の過程など専門的な分野にまで至っていて、とてもとても深い内容です。ぜひ、ご一読されること、そしてオルガン建造家としての辻宏氏の人生に触れていただきたいと思った訳です。




そんな辻さんの波乱に満ちた人生

1958年(昭和33年) - 東京芸術大学器楽科(オルガン専攻)卒業
           卒業と同時に横浜の成美学園(現 横浜英和女学院)の音楽教師となる。
1960年(昭和35年)4月 -成美学園英語教師であった 松尾紀子と結婚。
アメリカ合衆国Schlicker Organ Companyで3年間オルガン建造を学ぶ。ここでは電気・ニューマティック方式のオルガン製作に関わる。オランダFlentrop Organ Companyにおいてトラッカー方式のオルガンの建造を学び大きく影響を受ける。

1964年(昭和39年) - 神奈川県座間市に、辻オルガン建造所を設立し代表となる。
1973年(昭和48年) - 日本オルガン研究会 を松原茂、佐藤ミサ子らと設立。
1974年(昭和49年) - スペイン・サラマンカ大聖堂で、16世紀のオルガン「天使の歌声」(別名:鳴らずのオルガン)を初めて目にする。
1976年(昭和51年) - 岐阜県加茂郡白川町に転居。呼称を 辻オルガン とする。
1984年(昭和59年) - イタリア・ピストイア音楽院講堂の古いパイプオルガンを修復する。
1988年(昭和63年) - サラマンカ大聖堂から「天使の歌声」の修復を依頼されるが、大聖堂側は資金が無いため修復費用を出せないという事だった。そこで辻は修復費用の3000万円を集める為に、元スペイン大使の林屋永吉に協力を依頼し「オルガン修復協力の会」を結成。会で募金を募り約1年で3500万円を集めた。

1989年(平成元年)8月 - 「天使の歌声」の修復を開始。
1990年(平成2年)3月25日 - 修復が終わった「天使の歌声」の奉献式を行う。
1994年(平成6年) - 岐阜サラマンカオルガンソサエティー 設立。
1999年(平成11年) - サラマンカ大学は辻の功績を称えて「日本スペイン文化センター」を設立した。
2005年(平成17年)12月22日 - 筋萎縮性側索硬化症のため岐阜県加茂郡白川町の病院で死去。72才没。







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オーボエのリード [クラシック学問]

木管奏者はオーケストラの華形スターだ。オーケストラの中央に陣取り、オーケストラのサウンドに嫋やかで色彩豊かなカラフルな音色を添える。撮影カメラが彼らを抜くときもとても格好いい。


開演前の調音のときもオーボエのラの音で始まる。

その中でも、特にオーボエは華があると思う。
木管楽器の中でも、とても人肌の感覚に近いというか、とても温もりのある音色だと思う。

自分は、また首席オーボエ奏者が出すソロ・作品集が昔からとてもお気に入りで、バッハやモーツァルトなど、とても心癒されて、世界中のいろいろなオーボエ奏者のソロ作品をコレクターしている。

そんなお気に入りのオーボエなのだが、昔から、ちょっと疑問なことがあった。

オーボエ奏者の方々のSNSの投稿を見ると、いわゆる”オーボエのリード”と呼ばれるものを、一生懸命、ご自分の自宅の作業台でナイフを使ってシコシコ作成している写真を投稿されているのだ。

「つぎのコンサートまでに、しっかり何ピースのリードを作成しなきゃ」ってな感じで。


このリードと呼ばれるものが、オーボエの楽器のどこに装着されるもので、吹くときにどのような働きがあって、なんでこのようなものを作る必要があるのか?謎だったのだ。

幾度か、ネットでググってみたのだが、きちんと説明している文献は皆無で、ずっと自分の中で謎だった。


そんな中で、新日本フィルの首席オーボエ奏者の古部賢一さんが、このたび日本銭湯文化協会「銭湯大使」を任命されて(笑)、そのインタビューでリードのことに触れてくれていて、自分のいままでの謎が一気に雲がなくなるようにクリアになった。

本当にありがたいです。

ぜひ紹介してみたくて日記にしてみた。

そのインタビューの中から、そのリードの部分を抜粋させてもらいます。



オーボエは世界一演奏が難しい楽器とも言われているんですが、さらにリード(オーボエの先端につけて音を発生させる吹き口)も、自分で削って作るので、手先が器用でないといけない。そんな神経質な楽器なので、やる人が少ないけど、オーケストラの花形。

これは天邪鬼(あまのじゃく)の自分に向いている楽器だな、と(笑)。

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リードの調整は1/100ミリ単位

オーボエの先端に付けて息を吹き込むリードは、隙間が1ミリもないくらいで、すごく狭い。息の量はそれほどいらないけど、相当な吹く力が必要です。だから吹いていると代謝がよくなって、汗がどんどん出てくる。二日酔いの時なんて、最初のうちは嫌な感じの汗がダラダラと(笑)。

リードの材質は葦(あし)です。オーボエがヨーロッパの楽器なので、南フランスや北イタリアで栽培された葦を使います。荒削り用から仕上げ用まで何種類ものナイフを使い、削って作る。吹き口部分はすごく薄くて1/100ミリ単位で削って仕上げます。さらに演奏する場所の湿度によって、膨らみ具合をリードに巻いた細い針金で調整する。


リードは湿気に敏感です。エアコンが効いたホールで吹いていても、リードの膨らみ具合で「今会場の外はどしゃぶりだな」とわかる。面白いことに、東京と大阪で湿度はだいぶ違います。大阪のほうが湿度が高くて、いつも吹き心地が重い。リードは音を出す要ですが、すごく繊細なので、扱いに気を遣いますね。 


 


なるほどそういうことだったんですね。

リードって、オーボエの先端につけて音を発生させる吹き口のことだったんですね。

オーボエ奏者は、みんなこのリードをコンサートに向けて、自宅の作業台で何種類もののナイフを使って、シコシコ削って作っているのです。オーボエ奏者だから、これをやらないと仕事にならない、日課なのです。

古部賢一さんは、ご実家が、風呂屋さんで4代目にあたり(残念ながらいまは廃業されている)、それがご縁で、今回、銭湯大使に選ばれた、ということ。

自分も銭湯は大好き!今住んでいる街は、1996年から住んでいて、もう21年住んでいるのだが、毎月1回は、必ず馴染みの銭湯に通っている。

もう欠かせない日課なのだ。(笑)銭湯のあの雰囲気が大好き。湯上りにサウナ休憩室で、ジュースを飲みながらくつろぐのがこの世の最高の極楽。


古部さんの風呂屋の実家から、新日本フィルハーモニーの首席オーボエ奏者になるまでの生い立ち、もちろん、このリードのことも含め、ぜひ、ぜひ、興味深いので読んでみてください。



風呂屋の4代目から日本を代表するオーボエ奏者へ 古部 賢一さん インタビュー

http://www.1010.or.jp/mag-suki-furube/



古部さんは、ゴローさんとの関係も深く、1997年サイトウ・キネンでマタイ受難曲をやったとき、(ゴローさんが初めて、サイトウキネンを受け持った年)それがご縁で、それ以来、よく話掛けてくれて可愛がってくれたそうです。

後のゴローBDのサイトウキネンの幻想、巨人でも首席オーボエ奏者としても乗っているのを発見した。カメラで抜かれるときに、「おーっ、若いなぁ。で、すごいイケメンのハンサム」で驚くのだ。

あっいまでももちろんハンサムです。(笑)





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