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名古屋城の本丸御殿 [城]

関ケ原の戦で勝利し、天下人となった徳川家康は、大坂城にいる豊臣秀頼との武力衝突に備えて築城を決意。豊臣方の財力を削ぐため、加藤清正をはじめ、秀吉ゆかりの大名20家に普請を命じた。さらには江戸に直結する東海道を防衛する目的もあった。


それが名古屋城である。


築城は慶長17(1612)年、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城で、尾張初代藩主・徳川義直の入城以来、御三家筆頭である尾張徳川家の居城として栄えた。


実は、昭和20(1945)年の空襲で焼失する前の名古屋城は、天守閣・本丸御殿ともに城郭としての国宝第1号に指定されていた。その際に作られた「昭和実測図」や、古くから記録されている豊富な資料によって、日本で唯一、史実に忠実な復元ができる城ともいわれているのだ。


名古屋城で話題が尽きないことが、


・本丸御殿の復元が完成。
・天守閣の木造復元事業が進行中。


この2点だ。


特に本丸御殿は、2009年から10年に渡って続けられてきた復元工事が完了し、2018年6月に完成公開を迎えた。現代に蘇った近世城郭御殿の最高傑作に、全国から注目が集まっている。


何を隠そう、自分は天守閣以上に、この本丸御殿が最高の楽しみであった。


名古屋城の天守閣は、戦後に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されて半世紀以上が経ち、老朽化や耐震性の確保などの問題もあって、2018年5月より入場禁止になっている。


もう残念!


それと同時に、豊富な資料にもとづいた木造復元事業が始まったのだ。やはり木造建築というのは、原型オリジナルに忠実に、歴史学者、城マニアの方にとっては大切なことかもしれないけれど、自分のような素人考えで考えると、木造だと老朽化も早く、返って危険のような気がする。


建築の安全性からすると、どうしても木造って、むむって引いてしまう感じがするのだけれど、そこはやはり歴史に忠実に、というところが引けない一線なのでしょうね。


自分のように城マニアとはとても言えない浅識な赤ん坊だけれど、お城が大好きなので、こうやって有名なお城をいろいろ廻ってみたかった。


その中でも名古屋城はどうしても訪れておきたかった。


名古屋駅から地下鉄の東山線と名城線と乗り継いで行って、市役所という駅で下車。

もうこんな駅の出口なのである。(笑)
もうここからして観光地ですね。


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市役所の出口からすると、正門より東門のほうが近いのだ。


東門

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そして東南隅櫓。

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さらに二之丸広場を通り越して、本丸御殿と天守閣が見えてくる。やっぱりお城の天守閣って、生で初めて見るとき、もうドッキドッキしますよね。心臓のバクバクが大変でした。


名古屋城天守


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天下人のお城は、五重の天守。
いやぁ見事、本当に素晴らしいですね。


五重の屋根を持つ大天守と二重の小天守から成る天守閣。現在の姿は昭和34(1959)年に再建されたもの。石垣の丁場を任された築城の名手・加藤清正による、台座の美しい弓なりカーブが見ものである。


江戸城にも共通する感じですが、家康らしい堅実なデザインの天守という感じですよね。信長の安土城や、秀吉の大坂城の格好良さと違って、どこか堅実という表現がぴったりくるいかにも家康らしいお城だと思います。


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名古屋城といえば、この金の鯱(シャチホコ)、いわゆる金シャチがシンボルというか有名ですね。


シャチホコは火除けの守り神として、室町時代から建物に飾る風習があったそう。名古屋城の天守閣に輝く2体のシャチホコは、北側がオスで、南側がメス。創建時は慶長大判1940枚分の金が使われていたといわれ、徳川家の権力、財力の象徴そのものであった。


天守閣をいろいろな角度アングルで撮影。


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名古屋城の石垣


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名古屋城おみやげ(笑)


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そしてなんといっても、名古屋城訪問で一番の観光の名所は間違いなく、本丸御殿。


本丸御殿


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本丸御殿というのは、初代藩主・徳川義直の住居かつ藩の政庁として慶長20(1615)年に建てられ、後に将軍上洛の際の宿舎として使われた。


もう江戸時代になると天守閣というのは、象徴シンボルくらいの役割しかなくて、普段の住居や政治を司るところは、じつは本丸や二の丸、三の丸だったりするんですね。


名古屋城の本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作とされ、現在国宝になっている京都二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造の双璧とまで言われているのだ。


天守閣とともに国宝に指定されたが、惜しくも戦火により焼失。


2009年から復元工事が始まり、2013年、2016年と順次公開。そして10年の月日をかけ、2018年に全部屋が完成し完全公開となった。


本丸御殿といえば、なんといっても狩野派の障壁画であろう。


日本画史上最大の画派・狩野派の絵師たちによる床の間絵や襖絵が精密に復元模写されている。これは本当に圧巻ですよ!


まさにこの荘厳で華麗な狩野派の障壁画の世界を見るために、名古屋城に来た、と言ってもよかった。


では、これからみなさんを400年前の姿が蘇った荘厳な本丸御殿の世界へ。
私が玄関から入って、順路で観ていった順番で紹介していきます。


この日記のメインイベントですよ!!!


写真撮影は許可されました。でもフラッシュは炊かないこと、というお約束で。


観ているときは、もう夢中になってシャッターを押して、そして鑑賞するという感じでどの襖絵がなんという名前なのかなんて、そのときはわかりません。いまこの日記を書いているときに、HPで照合して理解しています。もちろんたくさんの部屋がありますので、名前のわからない画・部屋はそのまま写真だけを掲載しておきます。


玄関
来訪者を最初に迎えた部屋であり、本丸御殿への正式な入口。障壁画には勇猛な虎や豹が描かれており、来訪者を威圧する意図があったといわれている。


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表書院
藩主や家臣が使用した正式な謁見の間で、最高格式の殿舎だった場所。5部屋からなる広間はおもに花鳥図で飾られ、それぞれ早春、春、秋、夏の季節が描かれている。


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各部屋を渡り歩いていくわけですが、こんな感じで、その廊下もまさに絢爛豪華。和の極致ですなぁ。


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対面所
藩主が身内や家臣との内向きの対面・宴席の場として使用していた。「風俗図」と呼ばれる障壁画には、洛中・洛外の年中行事や庶民の生活がおだやかな筆致で描き出されている。


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さらに廊下を歩いていくと。。。


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上洛殿
寛永11(1634)年の三代将軍・家光の上洛に合わせて増築された建物。幕府御用絵師の狩野探幽によって描かれた「帝艦図」や「雪中梅竹鳥図」などの障壁画、絢爛豪華な彫刻、飾金具など、すべてに贅の限りが尽くされている。


まさにこの本丸御殿の中で最高峰はここの上洛殿です!
ここでいま頂にいます。


こんなに豪華に作られた部屋だが、家光が一度泊まったあとは、ほとんど使われなかったのだそう。(笑)


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黒木書院
清州城内にあった家康の宿舎を移築した殿舎とも伝えられる。ほかの部屋は総檜造りであるのに対し、この部屋のみ良質な松材が使われ、その用材の色から黒木書院とよばれる。


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そして本丸御殿の中では、恵まれない子供たちが撮影した写真の展示会がおこなわれていました。気に入った写真に赤丸のシールを貼ってあげてくださいね、と受付の和服姿の女性スタッフ。しっかり氏名と電話番号を書いておきました。本当にプロ並みのレベルの高い風景画の写真にもうびっくり。


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どうでしたか?
本丸御殿の世界。


私はここを観るために名古屋城に来たといっても言い過ぎではないです。


清正公石曳きの像


天守の石垣普請は、加藤清正に割り当てられた。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられている。本像は、その様子を模したもの。


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つぎに二之丸庭園の散策と行きたいところだが、ちょっと飛ばし過ぎて疲れたので、二の丸茶亭で休憩。


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金箔入り抹茶セット、和菓子付き。


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いやぁ和の極致、美の世界ですなぁ。


元気を回復した後に、二之丸庭園を散策。


東京の皇居東御苑のあの名庭園の美しさとまでは、さすがに言わないけれど、それでも十分なわび・さびの世界、和の美しさが伝わってきます。


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最後に、金シャチ横丁をご紹介してお終いにしましょう。

2020年3月で開業2周年を迎えた「金シャチ横丁」。


それぞれコンセプトの異なる「義直ゾーン」と「宗春ゾーン」があり、名古屋の名店が出店している。ココだけの限定メニューを販売することもある。


「義直ゾーン」


正面エリアにある「義直ゾーン」。父・徳川家康の遺訓を守り名古屋発展の基盤を作り上げた尾張藩初代藩主・義直の名を冠する。古くから愛される「名古屋めし」の老舗が大集結なのである。なごやめし12店舗が並ぶ。


今回の旅行で、自分がぜひ訪れたいと思っていた”なごやめし”の有名な老舗。もう全部その支店がこの金シャチ横丁に揃っているのである。


でも自分は、やはり本店で食べたい、体験したいと思っていたので、ここで食べるのはやめといた。(笑)


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「宗春ソーン」


自分が地下鉄で下車した市役所前の出口のすぐそばにある。この東門エリアには、斬新な政治方針で名古屋をにぎあう都市に成長させた尾張藩七代藩主・宗春の名前がつけられたゾーンが広がる。新進気鋭の食文化を発信する7店舗が集うので、新しい”なごやめし”を求めるならこちらがいい。確かにここに並ぶ店舗は、新しい時代のお店が多かったです。


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名古屋に来たならば、まず名古屋城を制すべし。
まず第一目標は達成。


名古屋城は、東京の皇居東御苑や、大阪城と比較すると、いくぶん狭いと感じました。
全部見終えるのに大体2時間かかった。

これでちょうど正午ぴったり。


初日まだまだ予定がこのあとビッシリ詰まっていましたが、もうこれだけで足が棒になるほど疲労困憊でした。









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江戸城天守 復元模型 [城]

皇居東御苑の本丸で、江戸城の天守閣の復元模型を展示する、というニュースを拝見して、これはぜひ行きたいと思った。


お恥ずかしながら、東京に来てから皇居に行った経験が1度もないのだ。


皇居も訪れてみたいと思っていたので、楽しみにしながら先週の日曜日に行ってきた。


江戸城の天守閣については、以前日記にしたが、子供の頃から江戸城の天守閣って見たことがないし、記憶にもない。誰もがそうではないだろうか。お城の天守閣と言ったら、大阪城や姫路城、名古屋城、松本城、熊本城とか思いつくところ、代表的なところはそこら辺の天守閣を思い浮かべると思うのだが、不思議と天下のお江戸、東京の江戸城に天守閣ってあったっけ?という感じだろうと思う。


自分も前回の日記にするまでまったく知らなかった。
日本史大好きなのに。(笑)


その前にお城の天守閣について、お勉強してみることにする。


NPO法人江戸城天守を再建する会のTwitterで紹介されていたYouTubeで大変参考になる映像素材を見つけたので、紹介したいと思う。


「天守閣の歴史について」



講師:三浦正幸広島大学教授


三浦先生の説明は、とてもわかりやすく、大変参考になります。
ぜひ見てみてください。ものすごく面白いです。
お城マニアの方には堪らないと思います。


ちょっと内容をかいつまんで説明してみると、


最初にお城の天守閣というのを作ったのは織田信長だそうだ。信長は天守ではなく、天主と呼んでいた。天の主、まさに信長らしいが、信長以降、城を造った大名達は”天守”と呼んだ。彼等は宗教上のある種のおそれから、天主と呼ぶのをためらったのかもしれない。


織田信長が最初に天主を作った。永禄12年(1569年)京都の二条城に作った天主が日本で初めて作った天主であろうと考えられている。(4階4重だった。)


この当時はいまの二条城とは違った位置にあった。室町幕府15代将軍足利義昭のために作った天主。それ以来、天主というのは天下人の象徴と位置付けられた。


織田信長の安土城。


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本当はもっと綺麗な図なのだけれど、パワポに圧縮して張り付けると、屋根にもわれ縞ができてしまっているが本当はすごい綺麗な復元図。天正四年に作り始めて天正七年(1579年)に完成。


自分は、お城の中で、この安土城が一番大好き。

なんか日本のお城っぽくない。南蛮の国や唐の国の風情がある。
それが和様と混ざったようなまさに独創的。
やっぱり信長らしいお城だと思ってしまう。


安土城が、日本の他の名城の外観と比較して、あまりにその外観が奇異と感じるのは、ずばり5階の朱色(赤)の八角形の円堂の外観のところなのだと確信している。 城全体の外観のバランスを観たとき、この赤い八角円堂の部分が、思いっきりインパクトが強くて、我々への印象度を強くしている。


自分が子供心に、思いっきり衝撃を受けたのも、この5階の赤い八角円堂の部分だった。


天の主という意味の天主は、まさに信長の天下を象徴するものであった。


屋根が五重。地上六階、地下二階。このとき初めて屋根を五重にしたことから、天下人の天主(天守)は屋根が五重の天主(天守)というのが正規の形になった。


五重より少ない四重、三重という天守が部下たちの天守になった。


信長の天主の壁は”黒漆塗り”だった。非常に豪華だったのである。


城の上に鯱(しゃちほこ)を最初に乗せたのが、信長の安土城が最初だったようである。それ以降、日本の天守にはすべて城の上に鯱(しゃちほこ)が載るようになったそうである。




豊臣秀吉の大坂城


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信長の跡を継いで、天下人の象徴という意味で建てた。
天下人の象徴なので、五重の天守で、地下六階。地下二階であった。


城の壁は黒漆塗りで、そこに木を彫った彫刻になっていて、そこに金箔を塗り込んだ。黒漆塗りの壁に金箔の彫刻がひしめいていて、城の外側としては日本で一番派手な天守だった。


さすがに天下人の天守だけある。


自分は、今回このYouTubeを見て初めて、この大坂城の復元図を拝見して、秀吉の大坂城というのはじつは黒い城だったのだ、という事実を知った。


結構ショックでした。(笑)


いまの大阪にある白壁の大阪城とは似ても似つかわぬまったく別物のお城だったんですね。黒漆塗りの壁に金箔の彫刻。。。この秀吉の大坂城を見て、いかにも派手好きの秀吉らしいと思いました。まさに日本歴史上でもっとも絢爛豪華な派手なお城だったのである。


秀吉は部下たちにどんどん天守を建てることを勧めたのだが、徳川家康だけはどうしても天守を建てなかった。


家康は非常に聡明な人だった。


なぜかというと、天守というのは、天下人の象徴。そうすると大坂城の天守が日本で一番大きくて立派である。もし家康が江戸に天守を建てたとすると、秀吉の大坂城天守を超えることはできない。


もし秀吉の大坂城より少し小さい天守を建てたとすれば、秀吉の政権の中で秀吉の下にいるということを天下に示してしまうことになってしまう。


それでは天守という意味がまったくない。したがって家康は自分が天下を取るまで、天守を建てなかったのである。
 


徳川時代の江戸城


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家康が天下人になったので、もちろん五重の天守。

壁が全部白壁であった。


屋根は鉛瓦。鉛は錆びてくると真っ白になってくる。真っ白な屋根に白壁で、この江戸城はまるで、”雪をかぶった雪山のようだ”、と言われていた。江戸城は真っ白な城だったのである。


江戸城の天守閣は、


慶長天守(家康)(1607年に完成)→ その後解体
元和天守(秀忠)(1623年に完成)→ その後解体
寛永天守(家光)(1638年に完成)→ 1657年に焼失


が存在した。


上の図の左から慶長天守(家康)→元和天守(秀忠)→寛永天守(家光)である。


なんで3代に渡って、天守閣を解体しては再建築したのかは、一言で言うと、子供は偉大な親の影響を排除して自分の存在を強調したい、親を超えたかった、ということらしい。


初代将軍家康の慶長天守より2代将軍秀忠の元和天守が大きく、3代将軍家光の寛永天守は、元和天守とまったく同じ寸法で、意匠が多少違うというところの差だけだそうである。


江戸城天守閣の特徴は、日本の歴史上もっとも大きい天守閣だったということであろう。そして、3代家光のときの寛永天守が日本最大規模の天守閣となった。


ところが明暦の大火で、江戸の街の多くは焼失し、江戸城も天守閣をはじめ、多くが焼失した。その後本丸御殿は再建されたのだけれど、天守閣を再建するのは、費用もかかることから、見送られた。(天守台は再建された。)正確には江戸城天守閣再建を諦めたのではなく、”永引”という言葉で、永く見送られた、という意味で、いつかは再建される可能性の意味合いを残した、というニュアンスだそうである。


戦国の時代は平定され、江戸時代は平和だったから、天守閣はもうなくてもよかったんですね。


だから3代将軍家光以降のときから、すでに江戸城には天守閣は存在しなくて、ずっとその後いまに至る訳だから、自分が子供の頃から江戸城に天守閣の存在の記憶がまったくなかったのは当然のことなんですね。日本の誰もがそうだと思います。


この3代家光のときの寛永天守の時代の建築資料が詳しく大量に現在にも保存されていることから、”江戸城天守を再建する会”というNPO法人が設立されて、この寛永天守の時代の天守閣をいまの令和の時代に再建しようという動きがあるみたいである。


このコロナ禍のこのご時世に天守閣などの再建に予算を回したりしたら、それこそ世間中の大批判を浴びそうですが(笑)自分は夢があっていいな、と思いますね。公金に頼らず、民間の力、クラウドファウンディングなどで夢をつなぐ感じで進めているようである。



いまの皇居、江戸城に天守閣があったら、それこそ日本の城権力図はガラリと変わるような気がします。やはりいまは大阪城が天下人の城で1番権威があるような気がするけど、ここに江戸城天守閣が再建されてしまうと結構そこのバランスが微妙に違ってくるような感じがしますね。


この寛永天守の資料に基づいて、この寛永天守の復元模型を、いまの皇居、皇居東御苑の本丸に小屋を建てて、そこに展示するというイベントが9月29日から公開されているのである。


本天守復元模型は,外観,構造など,復元のために重要な資料が比較的多く残され, 確かな時代考証に基づく復元が可能な寛永期の天守を1/30スケールで制作したものだそうだ。


これはぜひいかなきゃ!である。
そして皇居も初体験である。


皇居東御苑は大手町にある。

皇居東御苑の大手門


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内側がみるとこんな感じ。


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大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城した。


江戸城の鯱(しゃちほこ)。
鯱は、明暦の大火の後、江戸城再建時に制作されたもの。


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「番所」とは警備詰所のことで、江戸城の番所のうち、百人場所、大番所、同心場所が残っている。


同心場所
登城者の監視に当たった。


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百人場所
江戸城本丸への道を厳密に守る警部詰所。


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大番所
ここいは位の高い武士が勤務していた。


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都心のど真ん中にこんな森の中が存在するなんて、という感じの別世界ですね。


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ここから本丸のほうに上り詰める。


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そうすると本丸御殿があったところがいまは一面芝生になっているのだが、その周りを歩いていくとあった!


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江戸城寛永天守の復元模型は、この小屋の中にある。
この復元模型を展示するためにつくった小屋であろう、おそらく。
もちろん検温、手を消毒のコロナ対策はある。


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これが今回の大本命!
江戸城寛永天守の1/30スケールの復元模型である。


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江戸城天守閣は以前CGでの復元図を拝見していたので、特段驚きはしなかったが、そのときにも抱いた印象であるが、やはり地味ですよね。(笑)


信長の安土城や、秀吉の大坂城のような絢爛豪華な感じ、魅せる城、という感じよりは、堅実な意匠の印象を受けます。


やはりそこは家康の堅実な性格が垣間見れるなのだろう、と思います。
やはり長い時代の平和を築くのは、じつは堅実さが一番いいのかもしれません。

派手、絢爛豪華は、意外や短命に終わるのかもしれません。


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江戸城天守閣を再建するにあたって問題視されていることをご存じですか?


それは天守閣を再建すると、そこから現在の天皇陛下のお住まいを見下ろすことになる、という問題。でもそれは再建する会側は、それは天守閣の窓を閉めてしまえばなんの問題もないとしています。


これでミッションコンプリート!



あとは、皇居東御苑の散策モードに切り替え。


まずは江戸城の天守台。


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明暦の大火で江戸城が焼失したときに、江戸城再建時にこの天守台は再建された。
(このときは天守閣も再建する気十分だったんですね。)


この上に天守閣が乗っかる感じですね。


この天守台から見下ろすと一面は大芝生が一面に広がっているのです。
あまりの美しさに言葉も出ません。


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この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいたのである。


本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていた。表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場であった。


このように正直、普段は本丸御殿で生活や執務をおこなうことが多いので、正直天守閣は、もはや無用の長物で、あくまで権威の象徴を見せつけるものでしかないので、お江戸の平和な時代には、必要のないものだったんですね。



この大芝生の上に寝転がってみました。
芝生がチクチク体に刺さって痛かった。(笑)
でも気持ちが良かった。最高ですね。


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天守復元模型を展示している小屋の裏側に展望台があります。


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江戸城を囲む濠。


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さらに散策モードへ。


この凛とした佇まいの美しさ、わかります?
究極の和の美しさを感じます。石垣が美しすぎる!


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つぎに二の丸雑木林や二の丸庭園のほうを散策します。


すぐに大手休憩所。


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ここの自然の緑の世界は本当に美しくて、まさに和の美の極致、わび、さびの世界、日本人に生まれてよかったと思う瞬間でもある。


こうやって絵を書いていらっしゃる方も多し。


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特に二の丸庭園の美しさには心底驚き。


ここはまさに造られた美、植樹など、ここまで意識し尽くされた構図の美しさ、はひたすら驚きでしかないです。


これはひたすら見てください、というしかない。
自分はここに居て、とても都心とは思えない別世界にいる感じであった。


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最後のこの皇居東御苑内にある建物を紹介。

本丸の天守台の横側にある一連の建物。


宮内庁楽部庁舎


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桃華楽堂


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桃華楽堂は、香淳皇后の還暦を記念して建てられ、香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名された音楽堂で、昭和41年(1966年)に完成した。屋根はテッセンの花弁を象り、八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれている。


ここが宮内庁書陵部庁舎である。
宮内庁御用達の書物関係の図書館のようなものなのでしょう。
もちろん部外者立ち入り禁止です。


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以上が、皇居東御苑の全貌。ここを散策するだけでもかなり足が棒になる感じで相当歩きました。でも都内のど真ん中にある自然の美しさで驚き。素晴らしいですね。


敷居、ハードルは高いと思いますが、江戸城天守、再建されると夢がありますね。


この日の体験がトリガーになって、秋のツアーの松本・京都・名古屋に加えて、急遽、姫路を加えることにしました。


日本で最初の世界遺産に指定された白鷺城こと、姫路城を体験しないと。


日本で一番美しい天守閣ですね。


この秋のツアーで、少なくとも松本城、名古屋城、そして姫路城と3つのお城を廻れそうです。









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江戸城天守を再建する会 [城]

「令和の築城、江戸城天守を再建する会」という動きがあるのを知った。


織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城、そして徳川家康の江戸城が、戦国時代を代表する3大城であることは間違いない。城マニアからすると姫路城や松本城、名古屋城、そして現在修復中の熊本城と日本の名城はその他たくさんあるけれど、戦国時代の日本を統括したという権力を誇示した政治的な意味合いを持つ点では、この3大城の右に出るものはない。


信長の安土城、秀吉の大阪城は、いわゆる天守閣(信長の安土城だけ”天主”閣とよぶ)が存在して、子供の頃からその姿を眼にしていたので、馴染み深い。


江戸城は、いまの皇居がそうである。そのとき漠然とした感覚なのだけれど、江戸城って天守閣って存在したっけな?子供の頃から見たことないし、”江戸城の天守閣”というのは、自分の中ではなにか触れてはいけない、ずっと子供心に謎だった部分だったのだ。


ネットで調べればすぐに解決したことなのだけれど、それをせず、自分の中でずっとモヤモヤしたものを持ち続けたまま生きてきた。そこにマイミクさんの投稿で、その真実を知り、ネットで調べてみれば、あら不思議!すべての謎が解決してしまった。ずっと自分の中で謎の部分だった、そしていままで一回も眼にしたことのなかった「江戸城の天守閣」について、いろいろな文献を参考にしながら、わかりやすくその真実に迫ってみたい。



江戸城の天守閣は、初代家康・慶長12 年(1607)、2代秀忠・元和9年(1623 )、3代家光・寛永14 年(1637)と代替えごとに3度建築されている。特に3代将軍家光の代に江戸幕府の権威を象徴するわが国最大の寛永天守閣が完成した。


この5層からなる寛永天守閣を含め、本丸、二の丸、三の丸を含んだ江戸城の全体図が、江戸図屏風として存在しているのだ。


江戸城

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江戸城天守閣(寛永天守閣)

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屏風から見ても、その権威ある天守閣の姿は圧巻だ。

結局、江戸城の天守閣というのは、徳川幕府の最初の3代につき、その都度、建て替えられていたんだな。




江戸城の天守閣は、なにが一番特徴なのか?


すでに子供の頃から馴染みの深い安土城や大阪城の外観の特徴に対して、江戸城の天守閣はどういうところが特徴なのか?


それは、ずばり日本の歴史上、最も巨大な天守閣であること!その高さが最大であること!なのだ。
「日本最大の城」「当時の技術の粋を集めた、まさに「日本一の建築物」」。


徳川3代のうち、最も最大であった家光のときの寛永度天守の高さは約45m。天守台を加えると約58mになる。また、本丸の地面は標高20mのため、天守の頂点は標高約78m。高層ビルなどなかった江戸では、まさにそびえ立っていたことだろう。


江戸城天守閣(寛永度天守)がどれだけ巨大だったのか?がわかりやすい図。

”威容を誇示する天守の変遷”。こちらのほうが、その巨大さがよくわかるだろう。



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 安土城天主      姫路城天守      名古屋城天守   江戸城天守(寛永度天守)



安土城天主、姫路城天守、名古屋城天守との比較である。

信長の安土城はこうやって歴代で比較すると小さかったんだね。

これは年代が進むにつれて、建築技術が発達して、どんどん大きくなっていったという変遷を意味している。


これだけでも十分なのだが、自分としては秀吉の大阪城が入っていないのが、どうしても不満。
大阪城と比較してどうなの?というのをどうしても知りたかった。


いろいろ探したらありました、大阪城との比較。
江戸城と大阪城の大きさの比較は、ほとんど変わらない感じ。江戸城のほうがほんの少し大きい(高い)感じだ。



江戸城の天守閣は、


慶長天守(1607年に完成、家康)→ その後解体
元和天守(1623年に完成、秀忠)→ その後解体
寛永天守(1638年に完成、家光)→ 1657年に焼失


が存在した。


家康が建てた初代の江戸城天守閣は白かった。
いままでの日本のお城というのは黒が基色。瓦屋根から壁に至るまで、まったく白いお城というのは当時としてはとても珍しかった。白鷺城の異名を誇る姫路城も白いが、初代の江戸城天守もそんな感じだったのだ。


そして、3代家光のときの寛永天守が日本最大規模の天守閣となった。



江戸城天守閣炎上(明暦の大火)

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三代将軍家光の嫡男家綱が四代将軍となって6年目のことである。明暦3年(1657)に江戸全体を焼き尽くす大火事があった。江戸城の天守閣が無くなったのはその1657年の「明暦の大火」による焼失のためだったという。江戸の城下町と江戸城のほとんどすべてを焼き尽くしたこの大火災でおよそ10万人が亡くなった江戸期最大の被害をもたらした。



すぐに江戸城天守閣の再建が計画された。
(以下、大江戸歴史散歩を楽しむ会:江戸城天守閣 文:渡辺功一さんより引用。)

でも幕府重臣・保科正之(秀忠の4男)は、天守閣の再建について、「織田信長が岐阜城に築いた天守閣が発端で、戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、眺望を楽しむだけの天守に莫大な財を費やすより、城下の復興を優先させるべきである」との提言で再建は後回しにされた。軍用に益なく、ただ観望に備えるだけの天守再建はこの際無用と、この保科の提言の根底に、これまで秀忠、家光と代替りのたびに、ともに父親との確執で天守を破却して、50年で3度建て替えるという愚挙を見かねて阻止したことになる。
                                                       
保科正之が天守無用論を唱えて40年後、6代家宣と7代家継に仕えた側用人の間部詮房と儒学者の新井白石は、正徳2年(1712)天守閣の再建計画を推し進めた。正徳2年10月、家宣の逝去で計画は中断、再度俎上に上がるが、正徳6年に7代将軍家継が没した。この間、新井白石らの失脚によって再構築に至らず、保科正之の提言を尊守すべく歴代将軍もこれに倣い継承されている。
                                   

わかりやすく、「なぜ江戸城に天守がないのか?」
(以下、江戸城に「天守」がないのは何故?再建に「待った」がかかった驚きの理由とは。文:堀口茉純さんから引用。)
                                                       
                                                      
そもそも、天守とは何か。端的に表現するならば、大きな櫓である。主な用途は、戦になったときの物見や武器庫、籠城の際の拠点として使うための建造物で、日常的な使い道はこれといってない。ただ、巨大な天守を持っているということは、巨大な軍事力・権力の証であり、徳川家に反感を持つ大名たちを牽制するためにも、家康、秀忠、家光の三代は天守を上げ続ける必要があったのだ。
                                                       
しかし四代・家綱の代になって内乱状態は沈静化し、大名統治のシステムも盤石になった。つまり、再び戦が起こる心配のない、真の天下泰平の世がやってきていた。そんな時代に、天守を上げて、軍事力や権力の誇示をすることが果たして必要だろうか? しかも、江戸城下が未曾有の災害で壊滅しかかっている非常事態に……。
                                                       
保科正之をはじめ、当時の幕閣たちがだした答えは「NO」であった。特に実用性のない天守に莫大な建設費や維持管理費を割くぐらいだったら、城下の復興・再建にあてようという英断を下したのだ。これは、徳川幕府による全国の統治の方針が、当初の軍事力にものをいわせた「武断政治」から、戦の心配がなくなったために、法や制度の充実によって社会秩序を安定させようという「文治政治」に移行したことを表わすものであった。
                                                       
家康が初めて江戸城に天守を上げてから明暦の大火まで、ちょうど50年。江戸は、真に平和な時代を迎えようとしていたことの証ともいえる。
                                                       
以降、江戸城に天守が再建されることはなかった。当時の人々にとっては、天守のない江戸城こそ、平和を実感する誇らしい風景だったのかもしれない。
                                                      
                                                      
結局、江戸城の天守閣って、徳川幕府の初代家康から15代将軍慶喜の時代までの中で、最初の3代の家康、秀忠、家光のときにのみ存在していて、明暦の大火で焼失してからは、江戸城には天守閣が存在しない時代がずっと続いていて、現在に至るんですね。
                                                      
明治維新のときに勝海舟や西郷隆盛による江戸城無血開城と言っていたのは、この天守閣が存在しない江戸城のことを言っていたのです。いや江戸城というよりは江戸の無条件降伏というニュアンスが大きかったのでしょう。
                                                                                                           
現在、皇室がお住まいになられている皇居は、自分の理解では、この天守閣のない江戸城なのだと思う。江戸城跡の大きなお堀はそのまま現存されていて、その江戸城が存在した一帯の地区がそうですね。
                                                                                                           
具体的には皇居東御苑です。一般公開されて誰でも散策することが出来ます。
自分は皇居には上京以来一回も行ったことがないので、一度訪れてみたいと思っています。
                                                    
                                                     
その天守閣がない江戸城に天守を再建しよう!という動きがあるのをご存知だろうか?
                                                      
自分も初めて知ったのであるが、
                                                      
NPO法人 江戸城天守を再建する会
                                                      
こういう組織が発足しているのだ。
                                                      
江戸城の天守を再建したい、という有志が集まって、クラウドファンディングで寄付金を募っている。彼らが再建を目指すのは、日本最大の天守閣であった寛永天守(家光)。
                                                      
「私たちは1657年の明暦の大火で失われた「江戸城寛永度天守」の再建を目指しています。」
                                                      
なぜ今、江戸城天守再建なのか?
                                                     
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上のHPで書かれている内容によると、
                                                     
①江戸城を観光立国のシンボルタワーに。
②歴史的建造物の再建は、世界の潮流。
                                                     
①江戸城を観光立国のシンボルタワーに。
                                                       
江戸城寛永度天守は、姫路城の面積で2倍、体積で3倍の規模で、日本で最も壮大で美しい木造建築の最高傑作であったといわれている。その国を代表する世界の大都市には、ロンドンのバッキンガム宮殿、パリの凱旋門、ベルサイユ宮殿、北京の紫禁城、ニューヨークの自由の女神などの歴史と伝統と文化の象徴というべきモニュメントがある。しかし、世界5大都市といわれる、東京には、この国の歴史と伝統、文化を代表する記念碑と言われるものが存在しない。
                                                                                                              
観光立国日本の首都東京に、江戸城天守を再建することは、歴史と伝統を代表するとともに、クールジャパンで世界を魅了する新たな日本の文化と技術を発信するためのシンボルタワーを建設することになるものと考えているのだそうだ。
                                                      
                                                       
②歴史的建造物の再建は、世界の潮流。
                                                       
2002年ドイツ連邦議会は、第2次大戦で破壊されたベルリン王宮を再建することを決議した。ポーランドの首都ワルシャワの市民は、第2次大戦で徹底的に破壊された旧ワルシャワ市街の街並みを粘り強い努力で昔のままに再現し、ユネスコはそれを世界遺産と認定した。
                                                      
このように歴史的な建造物を再建し、古い文化に新しい息吹を吹き込もうとする動きは、ヨーロッパのみならず、日本でも、いや世界各国でも、澎湃として湧き起こっている。江戸城天守の再建は、このような国際的にも普遍性のあるプロジェクトとして、世界が注目することになると考えているのだそうだ。
                                                       
そして彼らが作成したCGによる寛永度天守のときの江戸城天守閣。
                                                       
ネットからの拾い絵ですが、いろいろなショットを上げておきます。
                                                      
                                                                                                                 
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う~ん、微妙だなぁ。(笑)
                                                       
信長の安土城のような唐風・南蛮風の一種独特な奇異なデザインによるインパクト、秀吉の大阪城のように百姓から天下人になった証の天下のお城という威厳といった特徴と比較すると、江戸城天守閣はなんか地味。(笑)
                                                       
ただ日本最大の巨大な天守閣という特徴があるのみで、なんかデザイン的には、普通のお城とあまり変わらないような、あくまで自分の感性ではありますが。。。慣れてくると好きになってくるに違いありません。
                                                       
でもこれは、再建する会の方たちが勝手にデザインした意匠ではなく、寛永度天守の時代の設計図に乗っ取って作られたCGですから、昔がそうだった、というだけなのです。
                                                       
あと、そのHPの動画に江戸城天守閣の内部のCGもあったのですが、それを見ると天守閣内部は、ただの木造だけのデザインなしの素の状態です。安土城にしろ、大阪城にしろ、天守閣内部は権力を誇示するために、金の装飾、また当時の狩野一族の絵師による壮麗な襖絵で彩られている・・・そんなイメージがあります。天守閣を建てたはいいけれど、その内部の装飾をどうするのか?当時の記録がないし、それにさらに予算がかかると非常に難しい問題になるような気がします。
                                                                                                              
この「江戸城天守を再建する」という目的は、観光立国が第一目的だったので、当初は2020年の東京オリンピックの年に完成させることが目標だったようです。でもやっぱり予定通り行かず、2020年からスタートという足並みの遅れ。
                                                       
いま日本は東京オリンピックの準備で莫大な予算含め、オリンピック・ファーストですよね。江戸城天守を再建している場合ではないです。(笑)
                                                       
実現は、やはり寄付金で全部賄えることが前提というところになりますでしょうかね?
もし少しでも国のお金、税金を使うという事になると、幕府重心だった保科正之時代の意見「天守無用論」が、起こるような気がします。そのようなものにお金をかけるなんて!という輩の声は絶対出そう・・・。
                                                       
でも自分は江戸城天守が欲しい論者です。(笑)
やっぱりそのほうが夢があります。
                                                      
東京にそういう新しいシンボルが出来れば、毎週でも通っちゃう。
近いうち秋ごろに秀吉の大阪城を訪問する予定ですので、西にそういう大きなシンボルがあるなら東京にも欲しい。
                                                       
あと信長の安土城も再建してほしいです。
                                                       
この3武将のお城天守が現存したら、日本史好き、城マニアの自分にとってはもう言うことないです。
                                                       
江戸城天守の再建は、予算の問題だけでなく、建築の作業要員の確保の問題もありますね。
                                                      
「江戸城天守を再建する会」、とりあえずツィッター登録しておきました。(笑)
                                                      
                                                      
                                                     
                                                     
                                                       
上の日記に記載されている江戸城天守閣に関する記載内容は、以下の情報元からの引用になります。
こちらにより詳しく記載されていますので、ぜひご覧になってください。
                                                                                                                                                         
大江戸歴史散歩を楽しむ会:江戸城天守閣 文:渡辺功一さん  
                                                                                                                                                      
江戸城に「天守」がないのは何故?再建に「待った」がかかった驚きの理由とは。文:堀口茉純さん
                                                                                                                                                        
                                                                                                                                                      
                                                                                                                                                     
                                                                                                                                                     
                                                                                                                                                       
                                                                                                                                                      
                                                                                                                                                       
                                                                                                                                                         

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安土城 [城]

城マニアであるほど全然詳しい訳ではないが、日本のお城は大好きなのだ。日本史大好き人間だからね。カミングアウトしてしまいましたが。

じつは1年前からどうしても自分の日記で熱く語ってみたいお城があった。ずっと狙っていた。
ただ基本、自分の日記はクラシック、オーディオで来たからね。結構勇気が必要だった。

それが鎌倉愛について熱く語れたことでふんぎりがついた。

大阪城、松本城、名古屋城、姫路城、熊本城・・・全国各地にはいわゆる名将たちによって造られた名城が多い。わが日本の伝統と誇りが形となった姿ですね。

サイトウキネンで松本に行ったときの松本城は、それはそれは美しい天守閣を持った名城だと思った。間近で観れたときは本当に感動だった。

自分にとって悔しいのは、大阪城に行ったことがないこと。
いや、曖昧な記憶では確かに1回行った記憶があるんだが、はっきりと覚えていないのだ。
どうしてももう1回行って確かなものにして自分のモノにしたい。

大阪に行くには、もうひとつ目標があって、それは、クラシック音楽専用ホールのいずみホールを体験したいこと。シンフォニーホールは、結構行っているんだが、いずみホールは、縁がないのだ。シンフォニーホールに行くとき、必ずペアでいずみホールに行こうとトライするんだが、どうしてもいいコンテンツがなくて、日程が合わない。

いずみホールは、岐阜のサマランカホールとも姉妹ホールの関係にあって、客席の椅子なんかまったく同じに見えてしまう。ホールの空間の雰囲気もとても似ている。

慎ましやかな容積で、シューボックスで音響がじつに素晴らしいのだそうだ。
写真を観た感じですぐにわかる。ここで小規模な室内楽を聴いてみたい。

関西のコンサートホールは、シンフォニーホールといずみホールを抑えれれば、自分はもう満足というか悔いはない。

今度、大阪に行くときは、ぜひ大阪城といずみホールをセットで体験しないといけない。





自分が熱く語ってみたいのは、安土城。

そう、あの織田信長が天下布武のために琵琶湖のほとりに建立した幻の名城だ。

完成からわずか3年しか存在出来ず、あまりにあっけなく迎えた終焉は、まさに信長そのもの。

安土城との出会いは、やはり子供時代に観たNHK大河ドラマで観た映像。もちろんお城として現在復元されていないので、いまは存在しないお城なので、CGなどで造られた画像なのだが、それを観たときのインパクトは、子供心にすごいショックだった。

自分は、もうその子供のころから日本史が好きで、お城にも心惹かれていたのだが、さきほど挙げてきたいわゆる日本の名城と言われるお城の外観と比較して、安土城は、あまりに個性的で、非常に奇異な印象を受けたのを覚えている。おそらく多くの人がそう思っていると想像するが、その奇異に思ってしまうところ・・・いや、これはあとのお楽しみに取っておこう。

その前に織田信長について語らないといけない。

もういまさら説明の必要はないだろう。

歴史上人物の中での自分のヒーローは、源頼朝と、この織田信長なのだ。
やっぱり自分は男らしい人が好きなんだな。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のいわゆる戦国時代ものは、NHK大河ドラマでは定番中の定番。絶対視聴率がとれる。自分も大河ドラマで知って勉強してきた。子供の頃にはじめて体験したのが、「国盗り物語」。織田信長は高橋英樹さんだった。(豊臣秀吉は火野正平さん)憧れた。


それからは、つぎつぎと体験する太閤記もので、この織田信長を誰が演じるのかが、結構スター的な要素があって注目されるところだった。「徳川家康」での役所広司さんもよかった。

ウチのオヤジ、オフクロに言わせると、やっぱり太閤記と言えば、豊臣秀吉に緒形拳さん、織田信長に高橋幸治さんが最高だったとのこと。その最初の太閤記は、1964年に放映された。自分が産まれた年だ。スゴイ人気だったらしい。特に信長役の高橋幸治さんの人気がすごくて、本能寺の変の近くなると、殺さないでくれ!歎願が凄かったとか。

このコンビは、その後、「黄金の日々」で復活登場する。このときは自分もしっかり拝見しました。
リアルタイム世代でないのが悔しいので、この1964年の太閤記の市販ビデオ(総集編です)を購入して、しっかりチェックしました。

織田信長は、やはりあまりに劇的で戦国時代そのものの人生だった。
気性が激しく、発想が従来の考え方に捉われない斬新さで、戦国時代の革命児、そして最後の終焉もあまりにあっけない悲劇だった。



本能寺の変で信長の最期は、本当はどうだったのか?

これにかなり興奮したというか、相当興味をそそられた。
歴史の最大の謎、ミステリーと言われている。

いろいろな書籍やドキュメンタリー、映画を観まくってきた。かなり詳しいです。

遺体や遺骨すら見つからず、炎の中に消えていった。ある意味、悲劇の中でも美学で終わってよかったと思う。もし、ここで、相手に首級をあげられたりしていたら、まさに戦国武将として最大の汚点になってしまう。

戦国武将にとって、自分がたくさんの武将たちを戦で殺してきた、特に信長は残虐な殺傷を多くやってきた武将、そういう人たちは、こういうことをやっていて、いつかは自分が殺られるときがくるかもしれない。そういう戦国武将としての死生観みたいなものは、つねに持っていたに違いない。

光秀の謀反だと知らされたとき、思わずつぶやいた有名なセリフ。

「是非に及ばず。」

現代語で翻訳すると、「しゃあない。」ということらしい。

そこに常にいつかは自分が・・・という気持ちの想いを持つのが宿命だった、そういう時代に生きた男たちなんだな。

しかし、本能寺の変は、何回観てもすごい興奮する。

数年前に、いままで自分が知らなかった織田信長の肖像画を偶然ネットで発見した。
それはいわゆる歴史の教科書に出ている有名なあの肖像画ではないのだ。 


織田信長.jpg


上半身まで映ったものがこちら。 

信長公.jpg


これは信長ファンの自分にとっては、かなり衝撃だった。(笑)
いままで自分が知ってきた信長の行為をやっていたのが、この男だったのか!

歴史の教科書の肖像画と違って、こちらの絵は、より人間らしい、リアル感満載の信長だ。

イエズス会士の画家ジョバンニ・ニコラオが描いた絵だそうだ。
この絵は「織田信長」で間違いないらしい。

歴史の教科書と違って、頭のてっぺんに髪の毛がある。
教科書と全然似てねぇじゃないか!


信長のことはあまりに有名すぎるので、これぐらいにして、その信長が建てた安土城について熱く語ろう。

これは今回の日記のテーマで、自分が1年前からずっと狙ってきた熱いテーマなのだ。
ずっとネットで勉強してきて、それを自分なりにまとめた形で、いつか日記にしたいと思っていた。

安土城は、築城して3年経ってすぐに消えた幻の名城だ。
本能寺の変の後に、謎の火事で焼失してしまった。

この火事の原因はいろいろな説があり、どれとは断定できないが、光秀が討たれた山崎の戦後の混乱の中で略奪に入った野盗の類が放火した、とみるのが自然、という説が有力でここではそういうことにしておこう。

それ以来、この世には存在しないお城なのだ。

名城はいわゆる復元作業というのをおこなって、現在でも存在するようにしているのだが、この安土城だけは、今なお、復元されていなく、その城跡しか残っていないというのが、現状なのだ。

なぜ安土城が復元されないのか?

自分は、そこにずっと疑問を持っていた。安土城を熱く語りたいと思っていたのは、ここを疑問に思っていたからだ。安土城をいまの時代に見たいと思っている人は、日本に自分を含めたくさんいることは間違いない。

なぜ、それが実現できないのか?


なにせ安土桃山時代に、築城してわずか3年で姿を消して以来、ずっと存在しないお城。
復元するには、その当時の姿に基づく設計図なり、歴史的資料が必要だ。

当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることはできる。

信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風が、あるイエスズ会員の司祭に贈られ、彼が日本を離れるときに同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られてローマ教皇庁に保管されているという記録がある。

それが安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていないのだ。

当時のその真の姿はいまや誰も知らない。

それをいろいろな歴史的資料に基づいて復元しようという動きは、当然昔からあった。

1885年から2005年に至る120年間の間、7人の学者によって、その復元案というのが示された。

天主(ふつうのお城は天守と書くが、信長の安土城だけ天主と書く)の復元案として、1994年、内藤昌による復元案が有名だろう。

NHK大河ドラマで採用されたのも、この内藤昌案だ。

内藤安土城復元.jpg

この城の外観を大河ドラマではじめて観たときは、子供心にショックだった。
その外観のあまりに奇異というか、異様なデザイン。

ふだん自分が知っている数多の名城の外観とはあまりにかけ離れているというか、違い過ぎた。
それまでの城にはない独創的な意匠デザインで絢爛豪華な城であった。

この独創的な意匠デザインに、自分は一発でやられた。

なんか日本のお城っぽくない。南蛮の国や唐の国の風情がある。
それが和様と混ざったようなまさに独創的。
やっぱり信長らしいお城だと思ってしまう。

さらにいまは存在しない、復元されていないお城というのが、いわゆる幻の名城的な妄想を煽り、自分はこの姿を見ると、無性に興奮した。

いまは存在しないから、実物を観れないか、というとそうでもないのだ。


安土城があった滋賀県安土駅下車で、この信長の安土城について、いろいろ体験できる施設があるのだ。

滋賀県立安土城考古博物館
安土城天主 信長の館
安土城郭資料館

こういう施設に、その復元案に基づいて、デザインされた安土城のミニチュアがあるのだ。


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安土城天主復元模型1/20スケール(内藤昌監修/安土城郭資料館)



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内藤昌監修でのNHK大河ドラマで採用されたCG図。



地下1階地上6階建てで、天主の高さが約46メートルの世界で初めての木造高層建築。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。その壮大で絢爛豪華な様はキリスト教宣教師が絶賛したと言われている。


まさに奇想天外なお城で、その断面図は、このように地上から上の方に向かって吹き抜け構造になっている。

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信長はこの天主で生活していたと推測されており、そのための構造と思われる。こういった高層建築物を住居とした日本人は、信長が初とも言われているのだそうだ。



さらには”伊勢安土桃山文化村”というテーマパークがあって、時代考証に基づいて原寸大の安土城や洛中洛外、楽市楽座など戦国時代の町並みを再現した空間が存在するのだ。

まさに今年の2018年に開業25周年を迎えるにあたり、総額100億円をかけた大規模リニューアルを行なうそうだ。

ここに”原寸大”の安土城の天主が存在するのだから、堪ったもんじゃない。

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まさにこの原寸大の安土城を1泊約500万円で宿泊できる施設に改装するちゅうんだから、笑ってしまう。


○○城と言えば、その本丸にそびえる天守閣がよく知られているし、観光地化しているものが多いが、日本で最初に作られた天守閣は安土城なんだそうだ。

しかし実際には、城主が天守閣に住んだのは、この安土城とか秀吉の大阪城ぐらいで、江戸時代になると別の館で住みつつ政治をしたため、天守閣は応接室程度にしか使われていなかった。このためほとんど無用の長物と化し、物置のようなものになっていたらしい。

城のシンボルとなる建物を”天主”と呼んだのは信長だけである。
信長以降、城を造った大名達は”天守”と呼んだ。彼等は宗教上のある種のおそれから、天主と呼ぶのをためらったのかもしれない。




安土城が、日本の他の名城の外観と比較して、あまりにその外観が奇異と感じるのは、ずばり5階の朱色(赤)の八角形の円堂の外観のところなのだと確信する!

城全体の外観のバランスを観たとき、この赤い八角円堂の部分が、思いっきりインパクトが強くて、我々への印象度を強くしているのだ。

自分が子供心に、思いっきり衝撃を受けたのも、この5階の赤い八角円堂の部分だった。

いままでの城にはなかった。まさに南蛮、唐の風情である。

さらに最上階の6階の金色の天主も最高だ。


安土城天主 信長の館という施設では、この安土城の天主の5,6階の部分を実寸大ということで、復元して展示しているのだ。1992年に開催されたスペイン・セビリア万博で日本館のメイン展示として出展されたもので、豪華絢爛な安土城、信長の世界観が見事に再現されていて、金箔10万枚を使用した外壁、金の鯱をのせた大屋根など圧巻。

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6階の天主。天主の内部には、当時信長が狩野永徳を中心に描かせた「金碧障壁画」も再現されている。

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5階の八角円堂。まさにこの部分が安土城を思いっきり、ユニークなデザインにしている要因だ。中はこんな風になっていた。

朱八角堂.jpg


安土城を単に天主だけで語ってはいけない。城全体、いまでいうところの城下町的なところも含めてチャレンジしてみたい。

これが安土城の構成図。

安土城跡.jpg



一番下の右側に大手道への入り口があり、そこから入る。
石道の階段がひたすら続くという感じだ。ここを大手道という。

その両サイドに、伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸があるのだ。なぜ、名前の前に”伝”と付けるのかわからないが。(笑)羽柴秀吉と前田利家がペアで贔屓にされていたんだな。大河ドラマの「利家とまつ」で、秀吉と利家がつねにドラマの主役で連動していたのは、単にドラマ進行の脚本と思っていたが、そうではなくて、きちんと、このように2人とも信長の信を受けていた、という事実をしっかり突き付けられた感じだ。

今度は反対に一番下の左側の入り口(百々橋口)に、お寺、つまり寺院がある。
持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は各地に見られるが、堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも安土城だけなのだ。

この大手道から天主のほうを臨んだイラストCGがあった。こんな感じ。

大手道.jpg



この大手道の実際の写真。(現在の安土城跡)

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城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、この構成図を見てもわかるように、安土城は大手門からの道の幅が広く、ひたすら直線が続く。籠城用の井戸や武者走り・石落としといった設備も著しく少ない。

こうした事から、安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと思われている。




そして登り詰めていくと、いよいよ天主。天主と本丸、二の丸、三の丸という構成になっている。



安土城の本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だったという可能性が指摘されている。

その根拠は、その本丸の造りが、清涼殿に酷使しているから。

清涼殿というのは、耳慣れない言葉だが、いわゆる天皇の住居。京都で言えば、京都御所である。(自分も京都旅行に行ったとき、しっかり京都御所を観てきました。)

安土城跡の本丸の部分を厳密に復元図を作成したところ、建物は3つ存在したことが明らかになって、その配置は「コ」の字型という特殊なもので、清涼殿と共通する。(確かに京都御所もコの字型であった!)

江戸幕府が建てた清涼殿の図面を、東西逆にすると、この安土城の復元図とほぼ重なるのだ。

規模や部屋割りもほぼ一緒であるのだそうだ。

豊臣秀吉が建てた清涼殿も、この江戸・徳川幕府の清涼殿と同じ。

豊臣・徳川の清涼殿は、一部に武家住宅の様式を取り入れているという点で、中世の伝統的な清涼殿から違うらしいが、安土・信長の清涼殿は、豊臣・清涼殿より前で、後の時代の模範になったんだな。

歴史的書物にも、天皇が安土へ行く予定だとか、その安土の屋敷の中に、「皇居の間」を拝見したと書かれている。

つまり、信長、秀吉、家康も天下のお城を建てた訳だが、そこには必ず天皇を迎えるための施設(清涼殿)を造っていて、信長はその先駆けだったということだと言える。

これが安土城の全容。ミッション・コンプリート!


織田信長が、安土城を築城した目的は、岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があって、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。

でも、従来の”戦う城”というイメージよりは、どちらかというと”魅せる城”的な意味合いが強く、信長の威厳・世界観を世に示すためのプロパガンダという感じだったのかもしれない。



さて、自分がずっと疑問に思っていた”なぜ安土城は復元されないのか?”

ここを解明するために熱く語りたかった訳だ。

自分が直感的に素人的な考えで思いついたのは、豊臣秀吉は大阪城、そして徳川家康は江戸城、2人とも天下のお城を建てている。2人に共通していることは、2人とも成功した武将という点だ。江戸城は現在の天皇の住居になっているし、大阪城は、百姓から天下人になった太閤秀吉のシンボルとして、それだけの巨大投資をしてまで大阪城を復元した。

でも織田信長は、劇的な人生だったけれど、いわば挫折人。
挫折人のために、そんな大規模な投資はできない、という理由じゃないのかな~とか思ったけれど、そんなアホな理由じゃなかった。


現在、安土城があった場所には、石垣や天主台(天主が建てられた場所)が残っているだけ。安土城跡は国指定特別史跡に指定されているため、復元には条件が必要。その条件を満たさない限りは天主を復元することはできないのだ。

「だったら条件を満たして大坂城のように復元すればいいのでは?」と思う人もいるだろう。復元であっても、当時の様子を見てみたいと考える方もいる。しかし、安土城跡は国指定の特別史跡に指定されているため、復元には大きなハードルがあるのだ。


現在、国指定の特別史跡に復元をするには、”当時の工法”で”確実な史料”に基づいていなければならない。「当時の工法」とは、いわゆる木造建築の事。

現在の建築基準法では、木造の高層建築物は建てられないことになっている。

安土城と同様、国指定の特別史跡に指定されている大坂城跡には、コンクリート造りの天守閣が建っているが、1931年の築造で文化財保護法ができる前の建築物。コンクリート造りの天守閣も、国の登録有形文化財なのだ。

さらに、先ほども説明したように安土城には確実な設計図などがない。


こうした事情から、安土城跡に天主を復元するのは難しい・・・なのだそうだ。

どうもこれが真実らしい。。。そうだったのか・・・

これを知って、ふっと思いついたのだが、いまの名古屋城を木造にしようという動き。(あの方が推進しています。(笑))そのときは、建築強度的になんと愚かな!と思ったが、あながち無茶というより、どうしても歴史的に意味があることなんだな、と思いました。


以上、自分的には燃焼できた。

完全燃焼。

自分がずっと謎に思ってきたこと、ずっと憧れてきた城のことを完璧に知ることができた。

本来であれば、この滋賀県安土の現場まで、自分でじかに行って、実際の安土城跡、そしてこれらの資料館などを訪問して、自分のカメラで写真を収めたい、そういう気持ちは当然あった。2,3年前までは予算と体力があったので、思いついたら即実行だったが、でもいまは人生最大の大スランプ。

ちょっとここは我慢してネットの記事で自分が行った気になろうと思った訳である。



今年の春、岐阜のサマランカホールを訪れたとき、ほんの一瞬だったけれど、岐阜駅前を散策した。

そうしたら、織田信長バス。


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弓を射る信長、ワインを飲む信長・・・いろんな信長バージョンをプリントされているバスが、駅前をたむろしているのだ。

さすが、岐阜は信長の街。


いま話題のNHKの朝の連続ドラマ小説「半分、青い。」も岐阜所縁のドラマ。

いま岐阜が熱いのか・・・?







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