京都市交響楽団定期演奏会 11/26 & 11/27 [国内音楽鑑賞旅行]
前回9月の公演の時は、オーケストラ、コンサートホールすべてにおいて、はじめてづくしだったので、なにか試験を受けさせられているような気分で、心臓が痛くなるくらい緊張したし、まずはオケの技量やホールの音響などを確認するというところから入っていった。
でも今回は、すでに素性がわかっているので、本当にリラックスできて楽しめた。
そしてなによりも、楽曲の素晴らしさ、純粋にこれだけに専念でき感動できた。
メシアン トゥーランガリラ交響曲。
今回のコンサートの感動は、この楽曲に尽きると思う。
もちろん指揮者、ソリスト、オーケストラのみなさんのすべてが素晴らしいのはもちろんなのだけれど、この曲のとてもユニークでちょっと不思議な調性の旋律が、自分の心を鷲掴みにした。
メシアンは、20世紀を代表する作曲家で、ジャンルとしては現代音楽なのだが、現代音楽のような”前衛的”な要素よりも、もう少し万人に受け入れやすいような親しみやすさがある。
今回この曲が、自分の心を動かしたのも、そんなところに要因があるのだと思う。
調べてみると、このトゥーランガリラ交響曲の日本での初演は、1962年、小澤征爾さん指揮&NHK交響楽団によるものであった。
小澤さんは、メシアンの生前とも交流があったようで、このトゥーランガリラ交響曲の録音を捜してみたのだが、意外や数が少なく、その中でも小澤さんは積極的に録音をしている。
そして現代クラシック界で、メシアンの演奏家として第一人者なのが、児玉桃さん。
オクタヴィア時代から、メシアンの作品をずっと録り続け、メシアンの演奏に関しては、彼女の右に出る者はいないと思う。
このトゥーランガリラ交響曲の中で、大活躍なのが、オンド・マルトノという古楽器。この楽器の演奏の第一人者である原田節さん。この曲を演奏するだけでも300回は下らない、という。
そして指揮者が、京都市交響楽団の首席客演指揮者の高関健さん。自分の中では、若き頃にカラヤン指揮コンクール・ジャパンの優勝者というイメージがどうしても強いのだが、児玉桃さんのデビュー以来、ずっと彼女をサポートしてきた恩師のようでもあるそうだ。
こうしてみると、このようなバックグランド&布陣で、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の演奏で、この演目を聴くのは、やはり自分の運命のような気がしてならない。
今回の座席は、
初日は、こちら、1階席1列10番目。
2日目は、1階席3列17番目。
なんと!驚いたことに、9月のアラベラさんのときの座席と、両日とも全く同じなのである!
こんなことってあるのだろうか!(驚)
神様の誘いんですね。きっと。。。
このトゥーランガリラ交響曲の編成は、最前列に、ピアノをはじめ、鍵盤の古楽器がずらっと並び、その後ろに大編成のオーケストラが陣取るというまさに大編成そのもの。
最前列は真ん中にピアノがあるのだが、その左側に、チェレスタ、ジュ・ドゥ・タンブル、ビブラトンという古楽器が並ぶ。
右側にオンド・マルトノ。
ステージ全体を俯瞰してみると、こんな感じの大編成なのである。
特に、自分の中では今回大活躍というか、曲全体に山椒にピリッという感じで、素晴らしいアクセントを加えていたのが、オンド・マルトノであった。
オンド・マルトノという楽器自体は初体験ではなく、以前にサイトウキネン松本で、「火刑台上のジャンヌ・ダルク」で使用されていたことで、記憶にあったのだが(このときの演奏も原田節さんだと思う)、こんな至近距離で聴くのははじめてであった。
オンド・マルトノというのは、いわゆるシンセサイザーの原型ともいえる古楽器で、上の写真のように、鍵盤そのものの以外にスピーカーが何個も立てられている。20世紀前半に誕生・発展した電子楽器で♪ピュオ~ンというグリッサンドのかかったいかにも電子音的なサウンドが印象的。
非現実的な宇宙サウンドと言ってもいいのではないか?(笑)
クラシック音楽の世界では、今回のメシアンのトゥランガリラ交響曲がオンド・マルトノを効果的に用いた楽曲として 最も有名かつ成功作だと言えると思う。
ゴローさんが、その昔、サイトウキネンの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」の撮影で、現地から、このオンド・マルトのことを日記にして発信していたことを覚えていた。
その日記の中で、「SACDの初期にDECCAからリリースされたシャイー指揮RCOのトゥランガリラ交響曲では、5.0サラウンドで まさに部屋を縦横無尽に駆け巡り非常に印象的な効果をかもしだしていた。」と書いてあって、うっ欲しい~と思い、捜してみたのだが、廃盤のようで見つからなかった。いつか中古市場で、必ず!(笑)
トゥランガリラ交響曲を聴いての全体の印象。
とにかく不思議な調性の旋律が魅力的で、自分が一番感じたのは、音数が多いな、ということだった。(笑)
古楽器含め、これだけの大編成で演奏される曲なのであるから、ある意味、”音数が多い”のは当たり前なのかもしれないが、座席もかぶりつきということもあって、かなりの迫力で自分に迫ってくる感じで、たいそう気に入ってしまった。
とにかく一番大変なのは、ピアノの桃さん。
まさに80分の大曲で、交響曲という名前だけれども、ピアノはずっと弾きっぱなし。ある意味、すべての楽器を従え、ピアノがぐんぐん引っ張っていっているような”ピアノ協奏曲”で、まさに全身全霊の熱演に、観ているほうが魂を何回も吸い取られそうな感じになった。
交響曲といっても全10楽章からなる変則の構成で、1楽章づついろいろなバリエーションの表現が要求される。静謐な美しい調べから狂喜乱舞の和音の連打に至るまで・・・いろいろな表情を見事演じ切っていた。
京響のオーケストラサウンドも申し分なかった。やはりこのオケは、ホントに弦が極めて優秀。音にしっかりした厚みがある。
そして先日の日記でも書いたけれど、ヴァイオリンが奏でる帯域、ヴィオラが奏でる帯域、チェロが奏でる帯域、コントラバスが奏でる帯域、弦楽器だけでも高域から低域にかけて様々に異なる周波数帯域を持つ楽器の合奏なのがオーケストラ。
この日の合奏は、オーディオ的なアプローチでいうところの見事な周波数領域上での”和声感”を感じるサウンドだった、ように思う。
指揮者の高関さんは、素人の自分がいうのは大変恐縮なのだが、指揮の振りが非常に美しくてレガートな印象だった。特に指揮棒を持たない左手の表情が豊かで美しく感じる。
今は亡き、クラシック写真家の木之下晃さんが、仰っていたことなのだが、カラヤンの指揮の美しさは、指揮棒を持つ右手ではなく、その左手の表情の美しさにある、という言葉を思い出した。
とにかくいままで聴いたのないとてもユニークな楽曲で、演奏の出来含め、今年1年を締めくくるイヴェントとして相応しい素晴らしい演奏だったと思う。
前回の9月、そして紅葉が美しかった今回の11月と、京都ツアーと題して、京都市交響楽団&京都コンサートホールを体験したが、海外音楽鑑賞旅行に決して負けない同等、いやそれ以上のレヴェルの質の高さと充実した音楽旅行だったと、いま回想してみていえるのではないだろうか。
でも今回は、すでに素性がわかっているので、本当にリラックスできて楽しめた。
そしてなによりも、楽曲の素晴らしさ、純粋にこれだけに専念でき感動できた。
メシアン トゥーランガリラ交響曲。
今回のコンサートの感動は、この楽曲に尽きると思う。
もちろん指揮者、ソリスト、オーケストラのみなさんのすべてが素晴らしいのはもちろんなのだけれど、この曲のとてもユニークでちょっと不思議な調性の旋律が、自分の心を鷲掴みにした。
メシアンは、20世紀を代表する作曲家で、ジャンルとしては現代音楽なのだが、現代音楽のような”前衛的”な要素よりも、もう少し万人に受け入れやすいような親しみやすさがある。
今回この曲が、自分の心を動かしたのも、そんなところに要因があるのだと思う。
調べてみると、このトゥーランガリラ交響曲の日本での初演は、1962年、小澤征爾さん指揮&NHK交響楽団によるものであった。
小澤さんは、メシアンの生前とも交流があったようで、このトゥーランガリラ交響曲の録音を捜してみたのだが、意外や数が少なく、その中でも小澤さんは積極的に録音をしている。
そして現代クラシック界で、メシアンの演奏家として第一人者なのが、児玉桃さん。
オクタヴィア時代から、メシアンの作品をずっと録り続け、メシアンの演奏に関しては、彼女の右に出る者はいないと思う。
このトゥーランガリラ交響曲の中で、大活躍なのが、オンド・マルトノという古楽器。この楽器の演奏の第一人者である原田節さん。この曲を演奏するだけでも300回は下らない、という。
そして指揮者が、京都市交響楽団の首席客演指揮者の高関健さん。自分の中では、若き頃にカラヤン指揮コンクール・ジャパンの優勝者というイメージがどうしても強いのだが、児玉桃さんのデビュー以来、ずっと彼女をサポートしてきた恩師のようでもあるそうだ。
こうしてみると、このようなバックグランド&布陣で、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の演奏で、この演目を聴くのは、やはり自分の運命のような気がしてならない。
今回の座席は、
初日は、こちら、1階席1列10番目。
2日目は、1階席3列17番目。
なんと!驚いたことに、9月のアラベラさんのときの座席と、両日とも全く同じなのである!
こんなことってあるのだろうか!(驚)
神様の誘いんですね。きっと。。。
このトゥーランガリラ交響曲の編成は、最前列に、ピアノをはじめ、鍵盤の古楽器がずらっと並び、その後ろに大編成のオーケストラが陣取るというまさに大編成そのもの。
最前列は真ん中にピアノがあるのだが、その左側に、チェレスタ、ジュ・ドゥ・タンブル、ビブラトンという古楽器が並ぶ。
右側にオンド・マルトノ。
ステージ全体を俯瞰してみると、こんな感じの大編成なのである。
特に、自分の中では今回大活躍というか、曲全体に山椒にピリッという感じで、素晴らしいアクセントを加えていたのが、オンド・マルトノであった。
オンド・マルトノという楽器自体は初体験ではなく、以前にサイトウキネン松本で、「火刑台上のジャンヌ・ダルク」で使用されていたことで、記憶にあったのだが(このときの演奏も原田節さんだと思う)、こんな至近距離で聴くのははじめてであった。
オンド・マルトノというのは、いわゆるシンセサイザーの原型ともいえる古楽器で、上の写真のように、鍵盤そのものの以外にスピーカーが何個も立てられている。20世紀前半に誕生・発展した電子楽器で♪ピュオ~ンというグリッサンドのかかったいかにも電子音的なサウンドが印象的。
非現実的な宇宙サウンドと言ってもいいのではないか?(笑)
クラシック音楽の世界では、今回のメシアンのトゥランガリラ交響曲がオンド・マルトノを効果的に用いた楽曲として 最も有名かつ成功作だと言えると思う。
ゴローさんが、その昔、サイトウキネンの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」の撮影で、現地から、このオンド・マルトのことを日記にして発信していたことを覚えていた。
その日記の中で、「SACDの初期にDECCAからリリースされたシャイー指揮RCOのトゥランガリラ交響曲では、5.0サラウンドで まさに部屋を縦横無尽に駆け巡り非常に印象的な効果をかもしだしていた。」と書いてあって、うっ欲しい~と思い、捜してみたのだが、廃盤のようで見つからなかった。いつか中古市場で、必ず!(笑)
トゥランガリラ交響曲を聴いての全体の印象。
とにかく不思議な調性の旋律が魅力的で、自分が一番感じたのは、音数が多いな、ということだった。(笑)
古楽器含め、これだけの大編成で演奏される曲なのであるから、ある意味、”音数が多い”のは当たり前なのかもしれないが、座席もかぶりつきということもあって、かなりの迫力で自分に迫ってくる感じで、たいそう気に入ってしまった。
とにかく一番大変なのは、ピアノの桃さん。
まさに80分の大曲で、交響曲という名前だけれども、ピアノはずっと弾きっぱなし。ある意味、すべての楽器を従え、ピアノがぐんぐん引っ張っていっているような”ピアノ協奏曲”で、まさに全身全霊の熱演に、観ているほうが魂を何回も吸い取られそうな感じになった。
交響曲といっても全10楽章からなる変則の構成で、1楽章づついろいろなバリエーションの表現が要求される。静謐な美しい調べから狂喜乱舞の和音の連打に至るまで・・・いろいろな表情を見事演じ切っていた。
京響のオーケストラサウンドも申し分なかった。やはりこのオケは、ホントに弦が極めて優秀。音にしっかりした厚みがある。
そして先日の日記でも書いたけれど、ヴァイオリンが奏でる帯域、ヴィオラが奏でる帯域、チェロが奏でる帯域、コントラバスが奏でる帯域、弦楽器だけでも高域から低域にかけて様々に異なる周波数帯域を持つ楽器の合奏なのがオーケストラ。
この日の合奏は、オーディオ的なアプローチでいうところの見事な周波数領域上での”和声感”を感じるサウンドだった、ように思う。
指揮者の高関さんは、素人の自分がいうのは大変恐縮なのだが、指揮の振りが非常に美しくてレガートな印象だった。特に指揮棒を持たない左手の表情が豊かで美しく感じる。
今は亡き、クラシック写真家の木之下晃さんが、仰っていたことなのだが、カラヤンの指揮の美しさは、指揮棒を持つ右手ではなく、その左手の表情の美しさにある、という言葉を思い出した。
とにかくいままで聴いたのないとてもユニークな楽曲で、演奏の出来含め、今年1年を締めくくるイヴェントとして相応しい素晴らしい演奏だったと思う。
前回の9月、そして紅葉が美しかった今回の11月と、京都ツアーと題して、京都市交響楽団&京都コンサートホールを体験したが、海外音楽鑑賞旅行に決して負けない同等、いやそれ以上のレヴェルの質の高さと充実した音楽旅行だったと、いま回想してみていえるのではないだろうか。
(左が児玉桃さん、右が原田節さん)
京都市交響楽団第607回定期演奏会
2016/11/26 & 2016/11/27 14:30~
京都コンサートホール
指揮:高関健
独奏:児玉桃(ピアノ)
原田節(オンド・マルトノ)
管弦楽:京都市交響楽団
メシアン:トゥーランガリラ交響曲(80分)
2016-12-03 17:50
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