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H.I.S.海外支社のその他の想い出 [海外音楽鑑賞旅行]

他にも思い出した。コンセルトヘボウでシャイーのケヴァントハウスのオーケストラを聴いたときのこと。このとき旅行会社経由でチケットを確保したのだが、それは金庫に大切に保管されていたらしいのだが、なんと!強盗が入って金庫破りに会ってそのチケットが盗難にあった、ということもあった。(笑)


天下の旅行会社でもそういうことがあるんだな、と驚きました。
犯人は、おそらく熱烈なクラシックファンだったのであろう。(笑)


急いで、コンセルトヘボウにコンタクトして、事情を説明して再発行をしてもらい、事なきをえた。


もちろん現地アムスでの直接引き渡しになるので、コンセルトヘボウ・ホールのロビーのところで、H.I.S.アムステルダムの男性スタッフと待ち合わせて、そこで無事チケットを直接手渡しをしてもらった。


そんな想い出もある。



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H.I.S.フランクフルト支社のオフィス


もうひとつ想い出があるのは、これはスタッフから聞いた話で、海外旅行に行くときにかける保険について。これはお金を惜しんで、保険に入らない人もいるが、これは絶対間違いである。


酷い目に遭いますよ。


保険に入るなら、間違いなく無制限のものに入らないといけない。
お金を惜しんではいけない。


なんでも海外現地で、不運にもICU(集中治療室)に入って治療を受けるハメになった旅行者がいて、海外で保険に入っていない外国人観光客が現地で医療を受けた場合、その医療費は莫大な請求額を受けることになるのだ。


その人は特にICUに入る羽目になったので、さらに莫大な費用に上り、なんとその支払いのために、日本の自宅を担保にかけることになったそうだ。


海外旅行に無制限の保険は常識である。

短期間の旅行だから大丈夫だろう、というほど甘いものはない。
不幸は突然やってくる。


もし海外で不運にも命を落とすことになったら、その遺体搬送とか含め、いったん日本政府が負担するのだろうけれど、その大費用はそのまま家族に請求されるのかな?


自分の場合のスリ被害もそうだけれど、旅行会社のスタッフは、じつは楽しい想い出造りのお手伝いというよりは、じつはこういういざというときのリスク管理が結構大変な仕事なのではないだろうか?


ちなみに、スリの場合は、保険は無制限ではないです。
上限があったと思います。しかも肝心の現金は保証外だったと思います。(笑)


とにかく楽しいことの裏には怖いことが待っている。
これはよ~く心しておきましょう。


冒険家、植村直己さんも結局、北米マッキンリーで命を落とした。


自分は海外旅行のベテランと自負していてもどんなリスクが待ち受けているか、は神のみぞ知るなのである。




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H.I.S.ロンドンとH.I.S.パリ [海外音楽鑑賞旅行]

自分のTwitterのTLに、いきなりH.I.S.ロンドンとH.I.S.パリの投稿が現れるようになった。H.I.S.はご存じ世界中に支店を持つワールドワイドな旅行会社である。インターナショナルなネットワークを通じて、初心者であっても世界中のどこでも簡単に旅行できるサービスを提供する。


自分は、このH.I.S.の海外支社のオフィスで実際行ったことのあるのが、このロンドン支社とパリ支社なのだ。う~ん、なにかのお知らせなのかなぁ。


H.I.S.ロンドン

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H.I.S.パリ

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ロンドン支社は、2016年のグラインドボーン音楽祭に行った時のこと。なにせ突如行きます、という話だったので、この大人気の音楽祭のチケットは、当然全公演ソールドアウト。リターン・チケット待ちだった。


そして見事にゲットしたのだが、出発まで時間がないので、現地ロンドン支社にチケットを預け、自分が現地でピックアップするという算段となった。


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見事、グラインドボーン音楽祭のチケットを、現地ロンドン支社でゲット!の図である。背景に映っているのが、H.I.S.ロンドン支社のオフィスである。


ロンドン支社は、どこにあったか、もう覚えていないけれど、地下鉄Undergroundを乗り継いでちょっとうろうろさまよって見つけた感じ。大きな通りでなく、ちょっと裏道に入った通りにあった。


オフィス内は、そんなに大きいスペースではなかった。


上の写真を拝見すると、こんなにたくさんのスタッフはいなかったような・・・
そんなに大人数を収容できるスペースではなかったような・・・

これは非番などローテーション込みのメンバーなのでしょうね。


グラインドボーン音楽祭は、かなり英国貴族社会風な、とてもセレブな音楽祭でした。いい音楽祭でしたね。幕間のピクニック体験したかった。ボクの時は雨天だったので、敷地内レストランに変更になってしまいました。また行きたいです。


パリ支社はもっと波乱に満ちた出会いでした。(笑)


海外赴任でヨーロッパに住んでいた時代を含め、そして昨今の海外旅行含め、いままでスリというものを体験したことがなく、自分にちょっと自信を持っていたとき・・・やられました。(笑)


まさにスリの温床のパリで洗礼に会いました。


パリからアムスへ列車で行こうとしたとき、その乗車駅のNord駅でやられました。体にたすきがけにかけていたバッグをそのまま持っていかれました。


”ジャム野郎”の手口で・・・


もうそこから駅のポリスステーション、パリの日本大使館と渡り歩き、いろいろ手続き。なにせパスポートは助かったものの、ノーマネーだったので、どうしよう、という感じでした。


結局助けてくれたのは、現地のパリ支社だった。


まず駅のポリスステーションで、クレジットカードをとめる作業をしたが難航。旅行会社に電話することを思い出し、現地のSOS窓口を教えてくれて、そこでカード会社の電話番号を聞いたら一発で全カード分わかった。すぐにかけて、全部ストップ。


そこからは調書取り。現地用語で、いわゆるポリスレポート。 

自分は日本人なので、英語で書かれたアンケート用紙に記入する。


住所、氏名、年齢、どこで起きたか?、スラれたもの(中に入っていたものなど詳細に。)、犯人像、など事細かく、7枚くらいあったんではないだろうか?


マークシート方式。


それを正式に警察が定型フォーマットにタイピングして印刷して、正式なポリスレポート(調書)として作成して、自分が何箇所にもサインをする。


警察用と被害者用があり、自分にもくれた。(あとで保険会社に請求するとき必要。) なにせ、かばんごとであるから、パスポート、現金、クレジットカード、そしてなんとカートをロックする鍵もその中に入っていた。このまま見つからないとカートが開けれなく、壊さないといけない。


もうため息というレベルではない。


まずは日本大使館に行け、と言われ、メトロのチケットを3枚余分にくれた。 そして日本大使館に移動。(結構距離的に離れていて、メトロ、徒歩と、この間の移動も結構恐怖というかスリリングでした。)


はじめてのフランスの日本大使館。

凱旋門の比較的近くにある。

入ると空港みたいにセキュリティチェックがあるのだ。
カートを通して、中身をチェックする。


その後に、普通の役所のようにガラス窓越しに美しい日本人の女性スタッフが2人いる。 用件を言ったら、あちらの部屋にどうぞ、と案内される。


ドアを開けると、また比較的広いスペースが広がる。
でも正直言って、パリの日本大使館は超狭い。

そこで、いろいろ説明を受ける。


特に現金をすられた場合の対応。一番ポピュラーで現実的なのが、クレジットカード会社による 「緊急キャッシュサービス」というもの。 クレジットカード会社に電話して、大使館そばの銀行へ海外送金してもらう、というもの。


その説明を受けた後に、日本の旅行会社から携帯に電話かかってきた。


私のバッグが警察に届いている、という情報。たぶん現金は抜かれているだろうけど、まずは一安心。いろいろ相談をした。旅行会社がお金を貸す、という。パリに支店があるので、そこまで移動してくれ、という。


パリ支店はオペラ座ガルニエ前のオペラ通りにある。

現金はないんですけど.....(笑)


でも迎えには行けない、という話。(がっくり)そこで、大使館(凱旋門)からパリ支社まで、重いカートを引きずりながら、歩くのかぁ~???(いま考えてもこれは無理。) 途方に暮れていたところ、大使館側の配慮でメトロのチケットをサービスしてもらった。


ここから最寄のメトロを使って、近くまで行って、そこから歩け、と。

これなら大丈夫。


なんとか、パリ支社にたどりつく。

大勢の女性スタッフと少人数の男性スタッフ。
パリ支社は、かなり広いスペースでとても綺麗なオフィスだった。

「お疲れ様、ご苦労様でした。」と一同からねぎらわれる。

「お水を一杯どうぞ。」


これがどんなにうれしかったか!!!朝6時から水も一滴も飲まずに休まずに動いていただけに.......


そして、すぐにバッグが届けられている警察にピックアップしに行く算段。 地図とパスポートと現金少々を携えて、再びその警察に行く。 その駅に着いてから地図を見るんだが、これがよくわからなくなかなかたどり着かない。 人に聞きまくって、ようやく警察の場所がわかった。


見張り番の警官に事情を説明したら、「ブラッグバッグ?」と言われ、あ~ちゃんと届いているんだな、と確信。 でも問題はここからだった。


受付のおばさんに、事情を説明して、「ピックアップしにきた。」と説明したつもりだったのだが、英語の下手なフランス人には通じていなかった。(オレの英語が下手なのか??)


ふつうにポリスレポート(調書)をとる算段に入った。


あれ?さっき駅の警察で作ったけれど....と説明したのだが、ここでも作る必要があると、言ったかどうか、英語が下手すぎてよく聞き取れなかった。(しかたなく従ったが......)


ここで出てきた調書は、日本語バージョンであった。
やっぱりパリはスリの日本人被害者が多いからなんだろうな、と思った。

仕方なく、またアンケートを記入。
 

ここからひたすら退屈な待ち時間。
2~3時間くらい待ったと思う。

警官がやってきて、ようやく面接・尋問が始まった。

まさか自分が入るとは思ってもいなかったパリの警察署での取調室の一室.....(笑)


10畳くらいのスペースで、窓はない。オフィス用のフリーデスクにパソコンが置いてあって、警官と面向かって座る。さっき書いた調書を見ながら、警官はパソコンに打ち込んでる。(要は清書用調書作成のため。)


そしてその項目ごとに質疑応答、状況説明など。


結構長かった。警官はパソコンのキーボードがあまり打ち慣れていないようだった。
 
「ハイ、これでおしまい。」

と言われ.....


「へっ???」


「私のかばんは???」

「そんなものはない。」

「えーーーー!!(驚)」

警官はまったく認識していない。

話が通っていない!!!


警官は、「Youに連絡してきた旅行会社が、Youの宿泊ホテルから連絡があった、というなら、そのホテルにもう一回確認してみろ。ここには君のバッグなどない。」


「はぁぁぁ~。」


それはおかしい、とかなりすったもんだして食い下がったが、警官は、いったん引き下がって仲間に確認してくれたようだったが、戻ってきて、「やはりバッグはここにはない。」と言われた。


もうどん底に落とされた想いだった。また振り出し???


旅行会社にもう一回電話して確認してもらったが、やはりここに届けられている、という情報。 そこで、警官をさっきの門番のお兄さんのところに連れて行って、このお兄さんは認識しているよ、と再度食い下がる。


そうすると2人でフランス語でやりとりをして、もう一回その警官は奥に引っ込んでいった。 結構時間がたったが、「Youのかばんは、ここにあった!」とバッグを見せてくれたときはホントにひたすら安堵。


やっぱりフランス人、いい加減。(笑)
カバンがちゃんと出てきたこと自体ラッキーと思わないといけないか。


それでまたパリ支社に帰り、即座に今日アムスに行ってRCOの公演を聴けるかどうかの検討。時間的に無理だった。


しかたなく翌日のアムス行の航空券を発券して、パリの緊急のホテルも取ってくれた。 パリ支社の男性スタッフに、「ふつうパリでスリに会った日本人観光客はみんな暗い面持ちなのに、ノンノンさんは明るくしっかりしているので安心しました。」と言われました。


まさに旅行会社が現地にあって、そのお世話になれたから、こんなにスムーズに行ったのだと思う。 もしこれを全部自分でやるとしたら、パリの街に路頭に迷っていたと思う。


もうパリ支社は、まさに人生の修羅場、危機を助けてくれた大恩人なのである。スリにあってノーマネーの状態で、重いカートを引きずりながら、ようやくパリ支社にたどり着いたときのあの温かい雰囲気、自分の傷ついた暗い心を明るく迎え入れてくれたときのいかに救われた気持ちになったことか。。。


日本側の女性スタッフも、自分のこの一件の方がつくまで、オフィスで緊急事態ということで、残業してくれていた。つねに日本の旅行会社に連絡を取りながら、いろいろ動いていましたから。


自分の記憶では、おそらく日本時間の夜中0時を回っていたと思う。

あのときは、本当にご迷惑をおかけしました。(笑)


現金だけだったから、まだ幸運でしたね。パスポートやられたら、結構面倒くさいです。日本人のパスポートって、パリでは結構狙われやすいとか。金になるとか。


SNSで友人がパリでパスポート、キャッシュもろともやられて、もうサバイバルで復旧作業、帰国する体験をよく見ているので(笑)、大変だなぁといつも思います。


そんな、自分が忘れようにも忘れることのできないH.I.S.ロンドンとH.I.S.パリ。
彼らのTwitterでの投稿を見ると和みます。


いまコロナ禍で大変な旅行業界。ましてやHISは、国内というより海外旅行がメインの旅行会社。海外旅行がまったくダメな昨今、相当ダメージを受けているのではないか、と相当心配しています。


去年の3月頃にコロナ禍が始まったときから、ずっと心配しています。
最悪なことだけは避けてほしいと願っています。


そんな悲しい昨今の状況のニュアンスも醸し出しながら、ちょっと旅行チックなところにも触れてくれていて、彼らの投稿は和みます。


ちょっとさわりをご紹介。


H.I.S.ロンドン


写真に写っている渡り廊下みたいなのは、どこからどこへ繋がっているんだろうと通る度に疑問に思いつつも、未だにわかりません。青空広がる夏のイギリス。イギリス国旗の写真をみていると、また夏がくるのが楽しみです。


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コヴェント・ガーデン駅前ロンドンの中心地にあるショッピングエリアです。ロンドンの地下鉄駅は、このように外観が可愛いところが多いです。駅が作られた時からずっとこの外観なのか、いろいろ考えながら駅を見るのも楽しいですね。


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H.I.S.パリ


先週土曜日から、感染対策が強化されフランス全土で18:00~6:00は外出制限となりました。写真のオペラ大通りは、通常たくさんの観光客やパリジャン達で賑わう場所なのですが、さびしいですね。実は少し雪が降った後の様子です。暖冬だと思っていましたが、少しだけパリでも雪を見ることができました。


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パリのメトロの駅にこんな掲示を見つけました。"マスクは義務、鼻も口も覆いましょう"。マスクの習慣がなかったフランス人ですが、すっかり外出時の習慣になりました。でもたまに鼻出しマスクの人も…。マスクなしは135€の罰金です。ゴミ箱にMerci(ありがとう)の表示も以前はなかった気がします。


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現地に住んでいるからこそのニュアンスたっぷりのレポート羨ましいですね。
また無性に海外旅行に行きたくなりました。


いまヨーロッパは、日本以上にコロナ深刻ですが、このツィートを眺めてみると、そんな悲壮感はあまり感じないんですよね。



旅行の手配は、もう個人の好きなように自由です。本当に旅行マニア、旅行好きの人なら、全部自分で個人手配することが、またそれも楽しみのひとつですから、そうなさるのもよいか、と思います。


自分は、そうしてもいいけれど、やっぱり旅行会社にお願いするのが安心で、そちらの道をとっています。


保険、インシュアランス、現地でのトラブル対応など、やっぱり旅行会社経由のほうが、なにかとサポートが厚く、いざというときは安心だし、助かりますね。特にHISのように世界中に現地支社がいて、日本人スタッフが常駐しているのは安心です。


自分の場合、エアー、宿泊、コンサートのチケット諸共、全部パッケージでお願いしています。もちろん旅行会社が企画するツアーパッケージに乗ってもいいですが、自分はエアー、ホテル、チケットだけお願いして、あとは自分の好き放題にさせてもらう感じです。


そこはもう全然フレキシブルです。


昔は、HISの中にそういうクラシック音楽ツアーを企画する部隊がいて、そこにお世話になっていたのですが、その後、別会社として独立。株式はもちろんHISが持っているのですが。。


まさに海外のクラシック音楽ツアーをやるためだけの専門会社です。


QUALITA音楽鑑賞専門デスク
https://www.qualita-travel.com/music/


自分が、海外音楽鑑賞旅行と称して、海外のコンサートホール、オペラハウスを巡って、その現地の公演を楽しむ、現地に行かないと会えないスターたちの公演を楽しむ、という企画をやりだしたときからずっとお世話になっているところです。


まさに自分の海外音楽鑑賞旅行は、このクオリタ音楽鑑賞デスクなしではあり得なかったです。毎年行ってましたからね。(笑)あの頃は金持ちだった。


毎年行っていたから、その年の旅行が終わったら、翌年の計画をまたコンシュルジェ・スタッフに相談するんですね。


コンシュルジェ・スタッフはほとんど女性スタッフが多いですが、男性スタッフもいます。旅行はやはりこの計画を立てているときが一番楽しいですね。


もちろん自分が企画を立案します。大体1年前から通達しておきます。(1年前にはどこに行くかすでに決まっているのです。)


最初は緩くですが、半年前あたりから、結構慌ただしくなり、チケット発売日直前になると緊張感が走り、かなり緊急になります。


チケットは、もちろん自分がネットで個人手配することも多いですが、自分でやるか、旅行会社にお願いするかは、その公演などのケースバイケースですね。


争奪戦など難易度の高いチケットは旅行会社にお願いすることが多いです。


チケット手配はいろいろな想い出いっぱいですが、やっぱりマーラーフェスト2020でしょう!20年、30年に1回のフェスト。絶対失敗は許されなかった。しかもレアなフェストなので、情報もあまり出てこず、チケット発売日ギリギリの直前までほとんど情報が出てこなかった。


そういう状況だったので、自分はイライラしてしまい、そのときはスタッフが男性だったのでかなり厳しくハッパをかけました。(女性スタッフならまずやらなかったと思います。反省しています。)


そうしたら、数日後に、10曲のマーラー交響曲のうち、3番と9番は完売だけれど、残りの8曲をセット券という扱いで、1st Categoryでまとめて購入というのでどうだ?という交渉を勝ち取ってくれたのです。


それもチケット発売日の1週間前にです。


向こうのコンセルトヘボウ、マーラーフェスト側との直接交渉でないと、絶対あり得ない交渉結果です。ふつうの個人手配だど、なにせ10曲もあるマーラー交響曲ですから、1曲づつ購入手配とか時間がかかってしまう。


全曲セット券というのは、別途ありましたが、それがすでに完売のあとでしたから、こういう8曲セット券で、という中途半端な交渉も、直接交渉してくれたから可能だったのだと思います。


さすがプロ!と唸りました。


こういうところは、普通の個人手配ではなかなか難しいところで、特にマーラーフェストは難易度が高く、争奪戦と思ったので、最初から旅行会社に全公演お願いするつもりでした。


だから自分でやるか、お願いするかはケースバイケースなのです。


旅行会社から”チケット手配できました。”というメールが届いたときのあの毎回の嬉しさはハンパないです。最高の気分です。それで1日はボーっとできます。


マーラーフェスト2020は、自分が3年間予算確保して徹底的に準備してきた企画でしたから、チケット発売日より1週間前に、すでに8曲を確保できた、というのは、本当に心から安堵できました。


さすが頼れる兄貴という感じです。
やっぱりプロだなぁと思いました。


1年も前から、つぎの旅行計画のために、念入りにスタッフとメールや電話で計画を煮詰めていくのです。もちろん海外でクラシック音楽を楽しむ、ということがメインですから、本当に最高に楽しいです。


この計画を詰めていくという作業でスタッフとの距離感が近くなります。もちろんコンサートだけではなく、いろいろなクラシックに纏わる聖地巡礼もふくめ、いろいろ相談します。


もちろん自分の予算との兼ね合いで、いろいろスタッフと調整します。
これも大事なことです。


いままで一番高額だったのは、2013年のルツェルン・ザルツブルク音楽祭ツアー。もう天文学的な数字でとても人に言えないです。(笑)


まさに自分のパートナーなんですね。


いつも自分のmixiやブログで得られた結果の華々しい事象だけをお伝えしていますが、その陰にはスタッフの努力の賜物があるのです。


表で見えないところで、支えてくれる功労者なのです。


自分の海外音楽鑑賞旅行は、彼らの力なくして成り立たないです。

ここに改めていままでの感謝の意を表したいと思います。


いままでmixiというローカルなSNSだけで日記をリリースしてきましたが、それをブログである”ノンノンのブログ”をスタートさせた理由は、このいつも大変お世話になっている旅行会社スタッフに、結果である旅行の現地の様子を絢爛豪華な写真付きで報告したい。読んでもらいたいというのが1番の目的だったのです。またそれが今後の業務に参考になったら、尚更ということもありました。


ブログだったら誰でも見れるパブリックなメディア媒体ですからね。
そういう理由からノンノンのブログをスタートさせたのです。


それが真相です。


1年前からメールと電話で、煮詰めていきながら、出発日の数日前に、直接オフィスでコンサートチケット、エアーチケット、諸々のものを説明を受けながら手渡ししてもらいます。


このときにコンシェルジェ・スタッフと直接お会いします。
このときが最高に嬉しいです。


いままでの苦労が笑顔で救われるのと、さぁこれからいよいよ本番だな、と気合が入る瞬間でもあります。


自分を担当してくれたスタッフは、いままで5人(女性スタッフ4人、男性スタッフ1人)。もちろんお名前とご尊顔はしっかり記憶しています。


クラシック音楽の海外ツアーは、もういろいろなやり方があって、本当にその方のご自由な世界です。でも自分は、このスタッフといっしょに旅行を作り上げていくというやり方が自分に合っていていいですね。自分だけじゃなくて、いっしょに達成した、という共有感が得られる感じが好きです。


コロナ禍でみなさんたち、どのようにお過ごしになられているのでしょうか・・・?

まさに試練だよなぁ。


お声をかけるのも忍びない、という感じです。

なんとか頑張ってサバイブしてほしいものです。


いままで国内旅行は、自分でネットで交通手段、宿泊を全部手配していましたが、今後はHISでやろうかな。少しでもお金を落とす、という行為が、いままでお世話になった恩返しというものではないか、と思うからです。


なくなってしまうと、いままでの自分の血と涙の汗の結晶が全部崩れてしまいそうで、それだけはあってはいけないことだと思っています。







 




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国際音楽祭「プラハの春」 [海外音楽鑑賞旅行]

みなさんのおかげで今があるわたくし。いままでを深く感謝しつつ、また今後ともよろしくお願い申し上げます。


この先行きの見通せないコロナ事情で、はたして海外へ渡航できる日が来るのだろうか。日本に帰国しても自宅待機14日間の壁はいつ払拭?(これがあるかぎり、会社人は無理。)


おそらくとうぶん無理でしょうね。


でもそのままなにもせずに悶々と過ごすのも、あまりに人生の過ごし方無駄すぎる。こういうときは、自分流のやり方として、仮想トリップするしかない。(よくやります。)せっかくここまでチェコ熱がフィーバーしてきたので、この火を鎮めたくない。


熱いうちに仮想トリップしたいです。


そういうことで、目標である国際音楽祭「プラハの春」について、どのような音楽祭なのか、書いてみることにした。


プラハの春音楽祭という呼称が一般的かもしれないが、国際音楽祭「プラハの春」が正式名称なのだろう。


東京・春・音楽祭は、ここから由来しているんですね。


チェコ・プラハの街は、ヨーロッパ随一の美しい街だと言われている。
この音楽祭に行ったら、やはりプラハの街散策が最高に楽しみですね。
ぜひこの美しい街プラハをいろいろぶらぶらしてみたいです。


悲劇的な歴史を背負ってきたにも関わらず、これだけ美しい街の景観がいまも残っているというのは、本当に奇跡としか言えないのではないだろうか。


チェコって、ちょっとコンパクトでユニークな印象なのがいいですね。
独特の美的感覚があって、自分にはかなりユニークに感じます。


ドイツ、フランス、オランダ、イギリスというような大国専門であった自分にとって、チェコは東欧独特のモノトーンのブラウン系というか、国のカラーとして、独創的な色彩がありますね。


街全体が芸術作品のような、チェコの首都「プラハ」。


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プラハ歴史地区


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プラハ市街中心部には、1992年に世界遺産登録された「プラハ歴史地区」があり、美しい中世の街並みを堪能することができる。


カレル橋


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「カレル橋」は1402年に建設された、プラハ最古のゴシック様式の石橋。


写真:建築&クラシック好きにはたまらない♪チェコの芸術都市「プラハ」で体験したい6つのこと。




そんな美しい街で毎年5月に開催される国際音楽祭「プラハの春」。


スメタナの命日の5月12日に開幕。チェコフィル@スメタナホール(市民会館)でスメタナ「わが祖国」が演奏される。



2014年の国際音楽祭「プラハの春」。(スメタナホール(市民会館))

チェコの国旗掲揚に、フェスティバルのロゴ旗も掲揚。


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フェスティバル・ロゴ


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オープニングに、スメタナ・オペラ「リブシェ」からのアリア、そしてチェコ国家が演奏される。


このプラハの春音楽祭は管弦楽や室内楽のための国際音楽祭。ホスト役はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団。その他にも著名な音楽家やオーケストラが招かれる。


黒沼ユリ子さんの時代では、東と西とで社会体制が違う国のアーティストも、この「プラハの春」音楽祭では同じステージに立つという当時からインターナショナルで画期的な音楽祭でもあったようだ。


チェコ・フィルハーモニー管弦楽団創設50周年にあたる1946年に、エドヴァルド・ベネシュ大統領の後援で、首席指揮者のラファエル・クーベリックの指導のもと第1回の音楽祭が開催された。


ビロード革命による民主化直後の1990年には、1948年のチェコスロバキア共産党の政権の成立による共産化を嫌って西側へ亡命していたクーベリックが、チェコ・フィルと歴史的な再共演を果たしている。


この1990年、クーベリック、プラハの春音楽祭に復帰!という映像作品DVD、購入しました。ドキュメンタリー付きです。あとでレポートします。


いわゆるあの「人間の顔をした社会主義」の「プラハの春」が起きたのが、1968年。
でも国際音楽祭「プラハの春」がスタートしたのが、1946年。


自分の最初の誤解は、変革運動「プラハの春」が起きて、その後にその名称が、その音楽祭に使われるようになった感覚があったのだけれど、そうじゃないんですね。まず「プラハの春」音楽祭が最初にあって、その後に起きた変革運動にその音楽祭の「プラハの春」を持ってきたということなのでしょうか。



会場は(たとえば2000年)、スメタナホール(市民会館)をメインにルドフィヌス(芸術家の家)、聖ヴィート大聖堂、シュパニェルスキー庭園、聖ミクラーシュ教会、聖ヤクブ教会、聖ベトル=聖パヴェル教会、聖イジー教会、聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂、マーネス、ベルトラムカ別荘、国民劇場、ヤナーチェク・ホール等、25を超える会場が使用される。


まさにプラハの街にあるコンサートホール、教会全部を使って盛大におこなわれる音楽祭なんですね。


毎回、スメタナの命日である5月12日に彼の代表作「わが祖国」の演奏で幕を開けることで知られる。3週間にわたって開かれる。


演奏会では記念年に当たる作曲家の作品が取り上げられたり、現代のチェコの作曲家の作品の初演が行われる。また創設の翌年から若手演奏家のためのプラハの春国際音楽コンクールも開かれているそうだ。


コンサートホール・マニアの自分は、やはりコンサートホールについて、語りたい。


スメタナホール(市民会館)


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共和国広場に立つ、ひと際華やかなセッション様式の市民会館。中央奥にあるホールが、クラシックファン垂涎の「プラハの春」音楽祭が開幕される聖地だ。このホールはプラハ最大のホールで、舞台中央にスメタナのレリーフが象徴として収められている。天井には、音楽、ダンス、詩、演劇の寓意のフレスコ画。彫刻やパネル、天井のガラスなど。20世紀初めに活躍したチェコの芸術家たちが腕を振るった装飾は、細部にわたり素晴らしい。


ホール内装は、一見シンプルに見えるが、要所要所ディテールにこだわった装飾は、見事。チェコ芸術の粋を集めた劇場と言えるだろう。


ホール音響は、この写真を見てまず思うことは、天井がすごく高く、ホール容積も広い。でもホールの横幅がそんなに広くない細長いホール。座席は完全なシューボックスなのだけれど、ホールの中高空間はその形状に限定されないように広がっている。内装彫刻のデザインも含め、独特の空間形状ですね。


そこから想像するのは、やはり残響感豊かなホール。響きが非常に濃いホールであることに違いない。この中高空間の彫刻は、より反射音の拡散を際立たせ、まだ天井も高いので、滞空時間や残響時間(響きの長さ)も長くて、かなりいいのではないのでしょうか・・・


写真見ていて、いかにもいい響きがしそうだ。



地上波で再放送が決まった「のだめカンタービレ」。いま話題沸騰であるが、そのヨーロッパ編でプラハが舞台になっているんですよね。このスメタナホールは、ヨーロッパ編の「のだめカンタービレ」で千秋がヨーロッパ・デビューコンサートを行ったホールであり、さらに映画版では、ここの壁にシュトレーゼマン(縦ロールヅラかぶりの竹中直人)の「プラハ公演」特大ポスターが貼られている。


さらにクライマックスといえるシュトレーゼマンとのだめのコンチェルトのシーンが撮られている。



ルドルフィヌム(芸術家の家)。モデル付き(笑)


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ドヴォルジャーク・ホール


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ドヴォルジャークホールでプラハの春音楽祭


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ルドルフィヌム(芸術家の家)は、チェコのプラハにある音楽公会堂である。何十年にもわたってチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であり、毎年5月と6月に開催されるプラハの春音楽祭では主要な開催地の一つとなっている。


1885年2月8日にこけら落としを迎え、これを主催したオーストリア皇太子、ルドルフに敬意を表して「ルドルフィヌム」と命名された。


ルドルフィヌム内にあるドヴォルジャーク・ホールは、ヨーロッパのコンサートホールの中では最古のものの一つであり、音響効果の面でよく名前を知られている。


1896年1月4日、ここでチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の最初期の演奏会が開かれた。アントニン・ドヴォルジャークの指揮によるものだった。


スメタナホールに比べると、若干容積控えめという感じですが、そこが逆に音響の面でいい要因になっているように思います。ヨーロッパ最古のコンサートホールのひとつ。


こちらもシューボックスタイプで四隅をラウンドさせている室内形状で、反射音を得るのが容易で、響きがとても豊かな感じですね。いかにも音響良さそうです。


このドヴォルジャークホールも、のだめカンタービレ ヨーロッパ編ではヨーロッパ上陸した千秋とのだめが最初にヴィエラ先生のコンサートに行った場所、という設定で使われている。


スメタナホールもドヴォルジャークホールも日本のドラマ&映画に大協力してくれた太っ腹なホールですよね、ホントに。(笑)いまのコロナ禍の惨状を考えると、本当に遠い世界のできごとみたいになってしまいましたね。


プラハを舞台にした”のだめカンタービレ ヨーロッパ編”、DVD持っているので、また後日観て感想を書きます。自分は、このヨーロッパ編、当時、ドラマも映画(ちゃんと映画館で前編・後編みた)もしっかり見ているのですが、プラハが舞台になっていたというのは全然覚えていないんですよね。のだめがパリを拠点にして、そこのコンセルヴァトワールに通っていたのは覚えているのですが・・・。



スメタナホール、ルドルフィヌムの中のドヴォルジャーク・ホール、この2つのホールが有名ですが、自分的には、どうしても体験してみたいオペラハウスに、国民劇場がある。


チェコ、プラハを訪れるならば、この国民劇場は絶対必須でしょう!


国民劇場


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国民劇場は、音楽の盛んなチェコにおける最重要機関であり、チェコを代表する芸術家らによって創設、維持されてきた。この伝統により、チェコの言語、音楽、思想などが保存・発展してきたものと言われている。


チェコの中のもっともチェコ的な文化劇場、それが国民劇場です。


国民劇場は、いわばチェコ国民・民族のアイデンティティと独立を体現するために建設されたもの。当時のチェコはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあって、公用語はドイツ語。自分たちの言語チェコ語を面前で話せなかった。


だから劇場もドイツ語による上演が多く、チェコ語で上演できる劇場はなかった。


当時、ドイツ語の劇場しかなかったプラハにおいて、1844年にはチェコの愛国者たちの間にはチェコ語による劇場を求める声が高まり、「チェコ語によるチェコ人のための舞台」を求めて1845年には申請を行い、建設許可を得ている。


そういうプラハを中心としたチェコ国民の寄付によってできたのが国民劇場なのである。


そういう歴史があるからチェコ国民にとって、もっとも重要な劇場である、ということがわかるであろう。


初演は、1881年6月11日、ベドルジハ・スメタナのオペラ「リブシェ」。


残念ながら、その初演からわずか2か月後に、火事で焼失してしまうんですよね。でも不屈の闘志、そこから47日間でふたたび民衆から資金を集め、2年後の1883年に再開するのです。



これは黒沼ユリ子さんの著書”アジタート・マ・ノン・トロッポ”でも、この国民劇場については熱く語られていたところで、その箇所を紹介しますね。


その1881年当時の国民劇場の写真です。


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自分の国を失った弱小民族が、ようやく1918年に悲願かなって独立国となるまで一体どうやって自分たちの文化を守り続けてきたのか、という問への答えの中の重要なポイントのひとつが「音楽」であったといっても言い過ぎではないと私は思う。


長い間、異民族の支配下で抑圧されている民族が、音楽に祖国の独立の希望と夢を託して現状の苦しみを慰めるということは、歴史上どこでも繰り返されていることだからだ。チェコ人には次のようなエピソードが、これを裏付けるもののひとつとして残っている。


それはチェコ人が自民族復活への熱望のシンボルを「国民劇場を持つ」ということに集約していたという事実だ。


つまり自分の言語と音楽で芝居やオペラが上演される場所を持つということ。


1868年5月、プラハで待望の国民劇場の定礎式がおこなわれたが、この礎石になったいくつかの石は、ボヘミア、モラヴィア両地方の名所や、チェコ人にとっての精神的絆のヤン・フスが捕らえられていたコンスタンツァなどから運ばれ、またアメリカに移住したチェコ人からも連帯のシンボルとして石が送られてきたそうだ。


この国民劇場は1881年6月の落成し、スメタナのオペラ「リブシェ」(チェコ建国の伝説的プリンセス)の初演によって幕を開けた。


ところがなんという悲劇か、二か月後にはこの新築の劇場は火事で全焼してしまったのだ。しかしその1か月後のうちにチェコ人すべての団結した献身的努力により、百万グルデン以上の大金が集まり再建が始まった。


それには裕福な婦人たちは自分たちの宝石を、田舎の人々はレース編や民芸品をと、すべての国民が何かしらの寄付をしその売上金によって資金の調達ができるように協力したからだった。


2年後の1883年には早くも修復が完成し、タイトルロールのリブシェの歌う「私の愛するチェコ民族は、決して死に絶えることはないだろう。どんな苦しみをも栄光を持って切り抜けるのだ」というアリアがふたたび響き渡り、チェコ人の胸に滲み入っていったのだった。ステージの真正面には「ナーロド・ソビエ」(民族はそれ自身へ)という言葉が彫られ、その9文字は今も変わることなく金色に輝いている。


この翌年チェコ・フィルハーモニーが発足した。当時は国民劇場のオーケストラのメンバーが兼任している者も多かったが、 1896年1月には、ドヴォルジャーク自身の指揮によって彼の交響曲第9番「新世界より」が演奏されて正式のデビューをした。


しかしその5年後に国民劇場のストがあってそれが長引いたため、チェコ・フィルハーモニーはオペラのオーケストラと完全に分かれて独立し、コンサート専門オーケストラになった。まだまだオペラに人気が集中し、コンサート収入だけでオーケストラを維持するのはとても困難だった当時、チェコ・フィルハーモニーをささえる保証をしたのは、むろん当時のオーストリア・ハンガリー帝国の政府ではなく、チェコ人1人ひとりからの精神的、経済的援助だったのだ。音楽を求める心を国民の誰もが持つようになるということは、私たちにとって大変うらやましいことでもあるが、それはこの国の歴史が創り上げた民族的感情と切っても切れないものとして、今もチェコ人の中に脈々と流れ続けているものだと思う。


今日のチェコ人音楽家の演奏に欠けることのない特徴のひとつに、音楽へのアプローチの精神的な深さをあげることができるが、それは、過去の大作曲家たちの偉業のみに帰するものではなく、音楽を心から愛し、音楽なしには生きることすらできないほど熱心な聴衆によってたえず求め続けられてきたからこそ、絶対不可欠な要素として、今も彼らの間に息づき続けているのではないだろうか?




いやぁ~熱い語り口ですねぇ。(笑)思わず前のめりになりそうです。


そういうこともあって、プラハに行くなら、スメタナホールやドヴォルジャーク・ホールもいいけど私なら、国民劇場。ここでチェコのオペラ、演劇をチェコ語で観てみたいです。


いまは、国民劇場はオペラ、バレエ、演劇を提供しているみたいです。いずれも、著名なクラシックなどに限定せず、地域のものや現代のものも上演しているとか。


ちなみにプラハ国立歌劇場と、国民劇場は違うので要注意。
プラハ国立歌劇場は、ドイツ語での上演の劇場です。


プラハのドイツ系住民がドイツ語の上演を求めて結成したドイツ劇場組合によって建てられた劇場になります。だから国民劇場とは、もう根本的に違いますね。


近年では、エディタ・グルベローヴァの来日公演で、このプラハ国立歌劇場とのジョイントで渋谷オーチャードホールでオペラ(ベッリーニのノルマ)を観たことがあります。(2016/11/6)


グルベローヴァさまもチェコスロヴァキア(チェコ+スロヴァキア)生まれなんですね。


最後に、1990年のプラハの春音楽祭のコンサートの模様をDVDで鑑賞して、締めとしましょう。



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クーベリック/わが祖国(1990年プラハ・ライヴ)+祖国との再会(ドキュメント)
ラファエル・クーベリック




共産主義体制に反対し、チェコ・フィル首席指揮者の地位を投げうって西側に亡命した指揮者クーベリックが42年ぶりに祖国を訪れ、「プラハの春」でチェコ・フィルと「わが祖国」を演奏するという感動的なステージ。


1990年「プラハの春」音楽祭オープニング・コンサート・ライブ


ドキュメンタリーでは、祖国に到着した巨匠、父の墓参に訪れるシーン、そしてリハーサルの模様などが網羅されている。


「プラハの春」音楽祭のオープニング・コンサートの雰囲気よくわかりました。
そしてスメタナホールの中の雰囲気もよくわかりました。


自分がその観客席の中にいるような感覚になれました。
画質・音質悪いですが。(笑)


ホールの側壁に皇室VIP専用のロイヤルボックスがあるんですね。
全員スタンディングで拍手で迎えられ、そこに皇室が入られる。

そしてチェコの国家斉唱という感じでしょうか。


クーベリック&チェコフィルやノイマン&チェコフィルって、昔自分がクラシックの勉強をしていたとき、一生懸命音源を購入して聴いていましたが、それっきり。最近はまったくご無沙汰。


でも映像で指揮姿を見たことはなかった。


今回初めてクーベリックの指揮姿を見ました。
チェコフィルうまかったです。


「わが祖国」のモルダウ。川のせせらぎをイメージした旋律。
木管の音色がホール空間をよく通っていました。


このDVDの素晴らしさは、コンサート以上に父の墓参りやリハーサルに注目してほしいです。


リハーサルというのは、その指揮者がオーケストラとともに、どうやって音楽(その曲)をいっしょに作っていくかがよくわかるし、その指揮者のその曲への拘り、考え方がよくわかりますね。


自分はリハーサルを見て、クーベリックはやはりすごい指揮者だと感嘆しました。スメタナの「わが祖国」に対する並々ならぬ拘り、楽譜への理解力すごいと思いました。インタビューではチェコ音楽の調性について熱く語っていたのも印象的でした。


実演を見ただけじゃわかりませんね。


「42年ぶりに私を迎えてくれてありがとう。君たちは私のことを知らないし、私も君らのことを知らない。」


もうひとつ嬉しかったのは、クーベリックのリハーサルやインタビューを見ることで(聴くことで)、チェコ語というのを耳にすることができたこと。これがチェコ語として意識して聴いたのはたぶん人生初めて。


それには伏線があって、黒沼著書でチェコ語の難しさがかなり詳しく言及されていて、文法はもちろんその発音、日本語表記することの難しさなど、説明されていて、自分は、チェコ語ってどんな言葉?と自然と興味を持ってしまったのでした。


それをリアル・チェコ語として聴けたのはよかった。
やはり難しそうです。(笑)


インタビューでは、民主主義の大切さ、共産主義に対するアンチテーゼを強く主張していた。自分の選択肢は間違いではなかった。そこには男としてどうしても引けない一線があったのだろうと思いました。


民主主義のためならば、命を捧げることもできる!と強く断言していた。


最後は、おそらくビロード革命のときと思われる場面、広場をチェコ国民が国旗を抱えながら行進していくデモ行進が映され、思わずこの国特有の複雑な歴史事情のインパクト、ちょっとジ~ンとくるシーンでした。


このDVDで、プラハの春音楽祭が大体どのようなものなのか、体験できる素晴らしい作品ですね。(時代遅れのカメラアングル、単調な固定画面、切り替えなど、やはり古い時代だな~とは思いましたが、それを言っちゃダメでしょう。)


ゴローさんの上司であったAプロデューサーから、「ノンノンさん、ぜひプラハの春音楽祭は必ず行ってください!」と太鼓判のお勧めを、知り合った当時、もらっていたので、ようやくこの今になって、これで少しは恩返しできたのではないでしょうか?まだ実際に行っていないけど。(笑)


これで、国際音楽祭「プラハの春」を仮想トリップできたのではないかと思います。










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Mahler Festival 2021 [海外音楽鑑賞旅行]

衝撃だよなぁ。Mahler Festival 2020は来年1年延期して、Mahler Festival 2021として再スタートするという。それも規模をかなり小さくして、ということである。


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昨晩の23時頃、コンセルトヘボウからメールを受けたとき、ちょっと衝撃で頭がパニックになってしまい、自分はどうするべきなのか、考えがまとまらず、かなり焦ってしまった。


それでも3時間くらい経って、自分の進むべき道がどうあるべきなのか、方針らしきものが見えてきて、ようやく就寝できた。そして1日経過したら、ようやく落ち着いて客観視できるようになった。



Mahler Festival 2021とは?


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こういう日程、キャストでおこなうそうである。
出演者陣とスケジュール調整、negociationができたということなのだろう。


まずは、日程は6日間。マーラー交響曲全曲ではなく、第1番~第6番、大地の歌のみの縮小版である。第7番、第8番、第9番はやらない。


そして出演オーケストラ、指揮者は上記の表のとおりである。


これを見てすぐにピンときたことは、同時期におこなわれるライプツィヒ・マーラーフェスティバル2021である。マーラーフェスティバルというのは、マーラーの命日である5/18を最後にその前の1週間でやる、という習わしみたいなものがある。でもその日程は、ライプツィヒ・マーラーフェスティバル2021のほうで、埋まっているので、それが終わった直後の5/18から6日間、引き続きアムステルダムでマーラーフェストをやる、ということなのだろう、と推測する。


そしてキャストも、ライプツィヒ・マーラーフェスティバル2021でのキャストをそのまま持ってくる。そのほうが連続演奏できて、出演者側も助かる。


ベルリンフィルやウィーンフィルは参加しない。
香港フィルが初参加。


俯瞰するとこういうことだろうか?


最初のマーラーフェスト2020と比較すると、かなりダウンサイジングした縮小規模のフェストということになりそうだ。


アクションはすぐにとらないといけないようだ。ticket buyer(つまり自分の場合、旅行会社)には、来週月曜日の25日に、Mahler Festival 2020ですでに購入したチケットをどのようにこのMahler Festival 2021のチケットに移行させるかどうか、に関する手続書のメールを送るという。


それに基づいて移行してほしいし、もしカスタマーが新たな予定のMahler Festival 2021に行けないとしたら、もちろんre-fundやdonationにも対応する。


Mahler Festival 2021のチケット発売は、2020/6/1からスタートする。


ということだそうである。

もうすぐなのである。
時間がない。


行くかどうかの自分の判断をすぐにしないといけない。

それで、ちょっと自分的にパニックになったのだ。


旅行会社が緊急事態宣言でいま5月末まで臨時休業。
なかなか困った状況である。でも在宅ワークでメールは確認できるのかもしれない。


さて、どうするべきなのか?


障壁はこのようなものがあると思われる。


・1年後にはたしてコロナは収束しているのか?


・Social Distancingを考慮した舞台上の演奏者の配置、観客席での聴衆の入れ方などの対応を取られるヴァージョンであるなら自分は行かない。


・そのためには、1年後のそのときまでにワクチンが実用化されていないといけない。
 おそらく実用化には1年半~2年はかかると思われる。


・そのときには海外渡航はできるようになっているのか?


・渡航後に14日間、帰国後に14日間の待機が必要であれば、無理である。社会人はそんなに休めない。


・わずか1年後に渡航して罹患したら、会社に迷惑をかけてしまう。


1年後の先はまったく見通せないけれど、立ちはだかる障壁は高そうだ。おそらくマーラーフェスト当局側も地元アムステルダム市民の参加を中心に考えていて、海外からの聴衆は、仕方がないと見ているのではないだろうか?


ただ、自分が行くか否かの判断としては、もっと骨子の部分で判断したい。


やはりこれだけの縮小化となると、フェスティバルとしてのグレードダウン感はどうしても免れなく、そのために上の危険を押してまで、行く魅力があるのか、ということである。


もっと大事なところとしては自分の予算体力に起因するところがあって、自分が金持ちじゃぶじゃぶの余裕ある予算体力であるならば1年後に行けそうだったら行こう、ということになるかもしれない。


海外音楽鑑賞旅行は、やはり金かかります。
1回行くと、次の計画を実行するまでには、また貯蓄していかないといけない。


これだけグレードダウンして魅力の乏しいフェスティバルに、それだけの投資をするべきなのか?


さらにコロナ禍で、弊社も業績悪化は不可避なので、いままでもらえた収入額も減額は覚悟しないといけない。これから、いままで通りのペースで貯蓄できる保証はない。


自分がぜひ行きたい、これは魅力的だ、と感じない旅行に無理をして投資して消費するくらいなら、撤退する勇気の判断も必要ではないか。


たとえ、それがいままでの経緯で自分が打ち込んできたテーマであってもだ。


いま無理してお金を使ってしまわないで、貯蓄に回しておいて、もっと数年先、安定してきた状態になって、たとえば3年以降とかに改めて、自分が魅力を感じる新しい旅行先を見つけて、そちらに投資をしたほうが賢明なのではないか。


それが昨日一晩考えた自分の方針である。


ぶっちゃけた話、これだけスケールダウンしたこのメンツに、お金を使っちゃうのは勿体ないというのが、要は早い話なのである。


コロナ禍で自分がこれから生活していくのに精一杯になることもあるし。


さらには、どうせ海外音楽鑑賞旅行をやるなら、仕切り直しして、もっと自分が納得がいく、自分がもっと魅力を感じるコンサートにお金を投資したい、というのが1番の理由である。


昨晩は本当にパニックだった。
沈着冷静にこういう考えにたどり着くには、すごい葛藤があって本当に大変でした。


まぁアムステルダムのマーラーフェストに関しては、自分が推進してきた立場からして、やはり責任を感じるから、最後まで見届ける義務があるのでは?というのが自分の1番ツライ気持ちというか悩みでした。


いずれにせよ、旅行会社の自分を担当してくれるコンシェルジェの方とよく相談して決めます。


風雲急を告げる、である。


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まだやるんですか!(笑) [海外音楽鑑賞旅行]

Mahler Festival Onlineでこの3年間の想いのたけをすべて吹っ切ったつもりだったんだが、なんかまだオチがあるようだ。


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正式に開催中止になったメールをコンセルトヘボウからもらい、donate & move to alternative & re-fundの3択を選ぶような要請をもらい、あぁ、これですべて終わったな、と思い、もちろん全公演ともdonateしたいのは山々なのだが、悩んだ挙句、自分でチケットを獲った2番&3番とrecital hallでの全公演をdonateすることにした。


そして旅行会社経由で獲った他の交響曲&歌曲をre-fundしてもらうことに。


コロナ禍で自分もこれから生きていくのが精一杯。これがまぁいいところの妥協線かな、とも思った。


donationは、コンセルトヘボウのHPの自分のアカウントからおこなうのだが、その3択をするページに行っても、全公演が表示されず、唯一これはコンサートではないのだが、ホール内を観光案内するサービスを2日間チケットを購入していたのだが、その2チケットだけが表示されるのだ。


もちろんその2日間のチケットはdonateしたのだが、あれ?肝心のコンサート全公演はなぜ表示されないのだろう?と思ったのだ。


あ~これはまだ準備できていないのだろう。次期に表示されるだろう。


そう思い、数日間待った。


そして今日そろそろ表示されているだろう?と思い、そのページに行ったのだが、やはりなにも表示されない。


あれ~???


まぁこのまま放っといて期限を過ぎれば、自動的にdonateされることになるだろう。期限は6/1となっている。そう思い何気にそこに書いてあるメッセージを読んでみる。


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そうすると赤線の部分!


「下記のリストに表示されていないコンサートは、まだ我々のほうで、alternative dateに実行できるかどうか、調査中であるので留意してほしい。」


なぬ~?!!(笑)


先日来たメールには、alternative dateに移せないので、中止するからチケットの扱いについて3択せよ!と言っていたではないか?


自分が読み間違えたのかな?と思い、もう一度確認。


かなり微妙な言い回しなんだけれど、alternative dateに移せないコンサート”については”3択せよ!というように読めなくもない。


そういうこと?(笑)


ということで、本日現時点においては、Mahler Festival 2020については、開催中止ではなく、現在も延期できるかどうかの検討中ということのようだ。


まだやるんですか?(笑)

はっきり言ってこんな気持ちである。


もう上げたり下げたりで、ボクは疲れ果ててしまいました。(笑)


もうお金を貯めるために節制する生活をする必要もないので、ネットでのポチやエンゲル係数の高い食生活などやりたい放題の毎日。


しまった!である。


仮にだ、もし開催延期の可能性があったとしたら、それはいまクラシック音楽業界で模索されているコロナ後の新しい生活様式、Social Distancingを配慮したステージ上の楽団員の配置、観客席の聴衆の配置になるのだろうか?


あれは、いまの段階では仕方がない模索だとは思うが、あれが最終形になるなんて、勘弁してほしい。


それは自分的には絶対にあり得ない。


みんな先が見通せない中でやっている、現時点での最終形までのトランジェント遷移期間の対策というならわかる。あのスタイルでMahler Festival 2020をやるというなら自分は勘弁だ。行かない。


やはり元の姿でやらないとダメだ。


それには何度も言っているがワクチンの開発が1番重要なkey issueである。
ワクチン開発で臨床試験とか、実使用まで、おそらく1~2年はかかるだろう。


そうするとMahler Festival 2020の延期は、1年後じゃダメだろう。少なくとも2年以降じゃないと。あと、ホール内の感染防止対策なども重要事項だろう。


いずれにせよ、そういうところも含め、move to alternative dateが可能かどうか、検討中ということなのだろう。


あと、海外渡航が現実的に可能になるかどうかですね。
かなり敷居高いと思いますよ。


以前も日記に書いた通り、渡航して14日間、帰国して14日間待機じゃ無理。社会人そんなに休めない。(笑)もし渡航して罹患してしまったら、会社にも迷惑かけてしまう。


いずれにせよ、延期になって一瞬オッと思ったけれど、やっぱり立ちはだかる壁は高いな。でも1年後なんてどうなっているか、クラシック音楽業界がどうなっているか?なんて誰も見通せない。


そのときに考えるしかない。


正直なところ、Mahler Festival Onlineで自分なりのけじめをつけたつもりだったので、やっぱり、まだやるんですか?なのである。(笑)


この8公演が自分でチケットを獲った公演。


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3番は後半にリターンチケットで無事確保できてやったー!という感じ。最後の砦であった2番「復活」は、コンセルトヘボウの前の公園でテントを創設してマーラーパビリオンをやり、そこでライブストリーミングで鑑賞する予定であった。マーラーパビリオンはぜひ経験したかったので、本公演を獲るより、こういう選択肢のほうがよかった。


recital hallでの公演は、マーラー歌曲の室内楽稿ヴァージョンである。独唱ソリストとピアノで演奏される。

本当にいま振り返っても貴重な経験で、素晴らしい公演ばかりだ。






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Mahler Festival 2020 Online の真相 [海外音楽鑑賞旅行]

突如としてその計画が発表されたMahler Festival 2020 Online。
その詳細な情報が、公式HPと自分のところにメールで送られてきた。


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事の真相はこのようであった。




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コンセルトヘボウとConcertgebouworkest(コンセルトヘボウ・オーケストラ)は、マーラーフェスト2020の代替え的な実現手段としてMahler Festival Onlineを、従来の音楽祭の日程通りの5/8~5/17にお贈りする。


SNSメディア(Facebook)や我々の公式HP、そしてAVROTROSやNPO2他のオランダの放送の一部を通して、25本以上のストリーミングが配信される予定である。


マーラーの交響曲は、マリス・ヤンソンスやベルナルド・ハイテンクが指揮した最近収録された演奏コンテンツからセレクトされることになるだろう。


バリトンのトーマス・オリマンスやアルマ弦楽四重奏団が、コンセルトヘボウの無観客セッションの特別エディションで新しいプログラムを作り上げてくれている。


そしてマーラー・ユニヴァース~マーラーの世界を描き上げたドキュメンタリーや、ジェシー・ノーマンやヤープ・ヴァン・ズヴェーデン(オランダの指揮者、ヴァイオリニスト)そしてマーラーの孫娘、マリナ・マーラーのインタビューなどもそのストリーミングの中で見られるようになるであろう。


いままさに、コンセルトヘボウは、その来るべきマーラーフェスティバルの計画作りについて、超多忙なのである。


オリジナルのマーラーフェスト2020では6楽団のオーケストラの競演を予定していたが、今回のオンライン配信では、Concertgebouworkest(コンセルトヘボウ・オーケストラ)によって制作されるRCOの演奏のみの提供となる。マーラーの交響曲全曲と大地の歌。


●ドキュメンタリー:マーラー・ユニヴァースについて。


RCOは、ドキュメンタリー・フィルム制作会社のMediaLaneに委託して、マーラーの交響曲全曲と大地の歌の合計10本のドキュメンタリーをお贈りすることになるであろう。


またAnna Stoll Knecht, Roderick Williams, Lahav ShaniやThomas Hampsonなどの音楽家の方たちも自分の考えをそのドキュメンタリーの中で表現している。作曲家グスタフ・マーラーの好奇心溢れる生涯についても、マーラーの孫娘のマリナ・マーラーによって語られている。ジェシー・ノーマンのインタビューについては、このインタビューを行ったのは、去年の夏で、その数週間後に彼女はこの世を去った。インスパイヤーされるように、ノーマンはマーラー音楽に影響を受けてきたし、彼女のコンセルトヘボウでのパフォーマンスにもマーラー音楽は影響を及ぼしてきた、と言える。


●YouTubeやFacebookでのマーラーユニヴァース・ドキュメンタリー配信予定。


2020年5月8日~5月17日、8:00p.m. 毎日放映。


●コンセルトヘボウでの無観客セッション(Empty Concertgebouw Sessions)


Mahler Festival Onlineの一部として、無観客のコンセルトヘボウで演奏されたパフォーマンスの2本のストリーミングが流される予定である。バリトン、トーマス・オリマンスがグリム童話のヘンゼルとグレーテルとマーラー歌曲のさすらう若者の歌から選んできたマーラー歌曲を数曲披露する。アルマ弦楽四重奏団(Concertgebouworkestのメンバーで構成される)は、ピアニスト Nino Gvetadze と、マーラー交響曲第5番のアダージェットを演奏する。


13 May 12:30 p.m. Thomas Oliemans
15 May 12:30 p.m. Alma Quartet & Nino Gvetadze


ということだそうです。(笑)


キーワードは、”An Online Alternative to the Real Festival”です。いまクラシック界で世界中のトレンド用語ですね、OnlineとAlternativeの2語は。(笑)


ということで、前回の日記で、RCOを使ってSocial Distancingに対応したオーケストラ配置で無観客ライブストリーミング配信するという私の推測はガセネタということになります。(笑)


大変失礼いたしました。


この文章の中には、じゃあコロナが収束するときを見計らって、延期することでコンサートホールで集客をしてオーケストラを使っての本物の実演をする、というニュアンスの情報は一切書かれておりません。


もう本物のフェストは諦めて、オンライン配信でお終い、という意味にも取れますね。


コロナ収束が長期間に渡る覚悟で、実現が難しいと判断して、OnlineのAlternative Solutionを提示したということなのかもしれません。


あるいは、本物のフェストの日程を、まずは代替のオンライン配信で世界中にプレゼントしたい、という意思表示なのかもしれません。


オンライン配信のよさは、チケットを購入した人だけではなく、世界中のみなさんが楽しめる、と彼らは主張しています。


この線が濃厚だと思いますが、本物のフェストを完全に諦めたとも言えない微妙な立ち位置です。それは、購入したチケットのdonationなのかre-fundなのか、を求めるメールはいっさい来ていないからです。


彼らは、”Save Your Ticket,Enjoy Later!”と前回我々にそう言っています。
だから本物のフェストを将来計画する可能性も捨てきれないのです。


う~ん、さっさと決めろよ!と言いたい。(笑)いつまでも心の緊張を続ける、そのときのためにお金を貯め続ける努力を毎日し続けないといけないのか、ここはさっさと決めてほしいところなのです。



Mahler Festival Online 2020 の公式タイムスケジュール


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ライプツィヒ・マーラーフェスティバル 2021 [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーフェスティバルというのは、世界中でマーラーに所縁のある国、土地などで開催されているので、なにもアムステルダムだけではないのだ。マーラーフェストとしては、アムステルダムが1番歴史が深いが、その他の都市として、ライプツィヒやニューヨークなどでも開催されている。


マーラーフェストとしては、やはり毎年開催するものではなく、何年に1回というレアな音楽祭のようだ。


ライプツィヒで開催されるマーラーフェスティバルも、じつは本家アムステルダムに負けず劣らずスゴイキャストでマーラーの交響曲全曲が演奏されるのだ。


ライプツィヒで最初にマーラーフェスティバルが開催されたのは、9年前の2011年。
マーラー没後100周年記念の行事の一環として、マーラー音楽祭が設立された。
そして来年の2021年に2回目のマーラーフェスティバルが開催される。


ライプツィヒ・マーラーフェスティバル2021



比較的新しいマーラー音楽祭なのである。


ライプツィヒはグスタフ・マーラー所縁の街のひとつ。1886年の夏、28歳のマーラーはライプツィヒ市立劇場(歌劇場)の副楽長に就任。首席楽長が病気で休養したことで、1888年夏までの2シーズンの間に200以上の公演を指揮、その名を欧州楽壇に知らしめた。この成功がブダペスト王立歌劇場の音楽監督のポストを呼び、指揮者としての活躍が本格化。


また、交響曲作家としての地歩を固めたのもライプツィヒだった。劇場のオーケストラ・ピットに入っていたのはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。彼らもまたウィーン・フィルなどと同様、マーラー直伝の伝統を持っている。


2011年、マーラー没後100年に、本拠地ゲヴァントハウスで開催された「ライプツィヒ国際マーラー音楽祭」。この音楽祭は、作曲家の命日を含む5月17~29日に開催され、ゲヴァントハウス管がホストとなって世界の名門オーケストラと指揮者を招き、日替わりでマーラーの全交響曲を分担して演奏するという豪華な企画。


ゲヴァントハウス管は、リッカルド・シャイーの下、開幕コンサートで交響曲第2番「復活」を、そして閉幕コンサートでこの第8番「千人の交響曲」を演奏した。交響曲第8番は、指揮者でもあったマーラーが自身で初演した最後の作品でもあった。


ドイツ東部、ザクセン州のライプツィヒに拠点を置く「ゲヴァントハウス管弦楽団」は、1743年に民間の手によって創設された世界最古の民間管弦楽団である。カペルマイスターには、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディをはじめ、アルトゥール・ニキッチやクルト・マズア、そしてリッカルド・シャイーなど、錚々たる人物が名を連ねている。


第21代となる現在のカペルマイスターは、ラトビア出身のマエストロ、アンドリス・ネルソンス氏。世界的に有名な客演指揮者とソリストが、年間約70におよぶ主要コンサートに出演をし、「ゲヴァントハウス」「ライプツィヒオペラ」「トーマス教会」の3つの会場で演奏を行う他、毎年7月から8月にかけてバイロイト祝祭劇場で開催されている「バイロイト音楽祭」にも同楽団から多数出演している。


ゲヴァントハウス管弦楽団は、マーラーの没後100周年にあたる2011年に最初の「マーラーフェスティバル・ライプツィヒ」を開催したが、その第2回目が2021年の5月13日から24日まで開催される。


会期中は、同国の「ベルリンフィル」や「バイエルン放送交響楽団」をはじめ、「ロンドン交響楽団」や「ウィーンフィル」、さらには「グスタフ・マーラー ユーゲントオーケストラ」「ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団」など、世界トップレベルのマーラーオーケストラがライプツィヒに集い、作曲家マーラーの交響曲全曲を演奏する。


この2021年はマーラー没後110年にあたると同時に、世界的なオーケストラの演奏によりマーラーの全交響曲とオーケストラ作品が聴ける類まれな音楽祭である。




なんか、アムステルダムのマーラーフェストに負けず劣らずというか、ひょっとしてこっちのほうがスゴイ?(笑)


ライプツィヒのケブァントハウスの大ホールでおこなわれる。


下の写真は、ボクが2014年にライプツィヒ・バッハフェスティバルを訪問した時に撮影したライプツィヒのケブァントハウスの大ホールの写真。非常に音の濃いじつに素晴らしい音響であった。


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第2回目の2021年のライプツィヒ・マーラーフェスティバルの日程。


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これ見るとすごくねぇ?(笑)
あきらかにアムステルダムの本家本元よりすごいキャストだ。


なにが違うかと言うと、アムステルダムは、基本はRCO/BPO/VPOにそれぞれ2曲づつ担当させているのに対し、ライプツィヒのほうは、各々の楽団に1曲づつ担当させ、その代わり、たくさんの楽団を呼んでバリエーションを豊かにしていること。


ただし例外として、本拠地のアンドリス・ネルソンズ&ケブァントハウス管弦楽団は、2曲担当、しかもそれを複数回演奏することだ。(2番「復活」は2回、8番「千人の交響曲」は、なんと3回!)


前回の2011年の時も、指揮者はリッカルド・シャイーだったが、ケヴァントハウス管弦楽団は、開幕コンサートで交響曲第2番「復活」を、そして閉幕コンサートでこの第8番「千人の交響曲」を演奏した。


今回もそれに倣ったという感じだろう。


交響曲第8番は、指揮者でもあったマーラーが自身で初演した最後の作品。その演奏規模の巨大さから、初演時の興行主によって「千人の交響曲」と名付けられた。マーラー第8番は、このライプツィヒにとって、もっと所縁のある曲。だから3回も演奏するのだな。


ラトル&ロンドン響がラトル得意のマーラー6番。

ヤクブ・フルシャ&バイエルン放送響のマーラー3番。

ゲルギエフ&ミュンヘンフィルのマーラー4番と大地の歌。
しかもメッゾにエレザーベト・クールマン、バリトンにアンドレアス・シャガー。


本当にすごいキャストだ。


そしてアントニオ・パッパーノ&シュターツカペレ・ドレスデンのマーラー7番。


RCO/BPO/VPO以外に、すごいバリエーション豊かなキャストだ。
恐れ入った。


もしアムステルダムのマーラーフェストが中止になった場合、自分はこのライプツィヒのマーラーフェストをどのような気分で外から俯瞰していただろう。


きっと心中穏やかでいられる訳でもなく、耐え難い屈辱に感じていたかもしれない。(笑)アムステルダムがオンラインで開催してくれることになったのは、せめての救いだろう。


問題は、2021年もCOVID-19が収束している状態にあるかどうか、だ。


1年じゃ無理。2~3年はかかるという専門家の予想なので、そうするとこのライプツィヒのマーラーフェストもきっと開催されるか、中止・延期するかで悩まされるだろう。


あるいはアムステルダムのように、Social Distancingを施した形で、無観客ライブストリーミング配信になるのかどうか。


ニューヨークでもマーラーフェスティバルは開催される。マーラーは人生晩年、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任して、ニューヨークで音楽活動を行っていた。そして、あのマーラー音楽の使途であったレナード・バーンスタインもニューヨーク・フィルの音楽監督であった。


ニューヨークもマーラーにとって、所縁の深い街なのだ。


いまニューヨークでは、「マーラー・デジタル・フェスティバル」というのが開催されている。


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ニューヨーク:マーラー・デジタル・フェスティバル



ニューヨークフィルのマーラー演奏のアーカイブをオンライン・ストリーミングで配信するという試みだ。

ニューヨークは、まさにCOVID-19で苦しんでいる世界一の都市だ。


いずれにせよ、ライプツィヒのマーラーフェストには直接行く予定はないので、高見の見物とさせてもらうことにしよう。ストリーミング配信してくれたら、最高だ。


自分としては、目下のところ、アムステルダムのマーラーフェスティバル・オンラインのほうに集中することはいうまでもない。









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Mahler Festival Online [海外音楽鑑賞旅行]

今日の午前中にTwitterでいきなりこんな情報が自分のTLに流れてきた。


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コンセルトヘボウ・オーケストラが1.5mのSocial Distancingを保って演奏会をするという方法を模索している。よく見てほしい。ステージではなく客席にオケを配置している。この様式はポリヒムニアのスタジオ録音で採られていたそうで音響的にはアリなのだろう。


なんとユニークな奴らなのだろう!(笑)と思っていたのだが、いまさっきさらに驚くべき情報が流れてきた。


The Concertgebouw and Concertgebouworkest present: Mahler Festival Online. Enjoy all the Mahler symphonies, documentaries, introductions and Empty Concertgebouw Sessions online from 8 to 17 May.


マーラー・フェスティバル・オンライン (Mahler Festival Online)を開催する。
本家本元のマーラーフェスト2020の開催日と同じ日程で、2020/5/8~2020/5/17である。


マーラーの交響曲全曲と、ドキュメンタリー、そしてイントロダクションなどを、無観客のコンセルトヘボウ・ホールでのセッションとして、オンラインでお届けする。


というものだ。


超驚き!


マーラーフェスト2020コロナ対策バージョンということであろうか。(笑)


上の文章を一見読んだときは、ちょっと信じられなくて、たぶんコンセルトヘボウでのマーラー演奏のアーカイブを流すのだろう、と思った。


でも、Empty Concertgebouw Sessions である。

これは無観客のコンセルトヘボウでの演奏のライブ配信としか読めないのである。
ってことは、無観客ライブストリーミングの生セッションだ。


そうすると、上のSocial Distancingを考慮したセッションを彼らがいま考えている、という事実につながってくるのだ。


つまり彼らは、このオーケストラ配置で無観客でマーラーフェストをやるつもりなのだ。

そうするとオーケストラはRCO/BPO/VPO ほかなど全部現地に揃うのか?


いまオランダ・アムステルダムってロックダウンじゃないのか?

ってことは、地元のRCOだけで全曲演奏する、ということか。第1回の1920年のメンゲルベルク&RCOのときのように。


・・・どんどん妄想が膨らむ。


ドキュメンタリーやイントロダクションもやる、と言っているので、大地の歌を含めた全曲10曲の交響曲をお届けするのと同時に、マーラー・パビリオンでやる予定だったドキュメンタリーや講義などもEmpty Hallでやるに違いない。


コンセルトヘボウからはメールで、"Save Your Ticket,Enjoy Later!"というメッセージのメールが届いてはいたのだが、そこには、まずは開催中止、延期できるかどうかは、数週間時間をください。という内容だった。


コロナの収束には2~3年の長期戦の覚悟は彼らも認識していて、そこで彼らが出した結論が、全世界共通のコロナ対策バージョンの”無観客ライブストリーミング配信”ということに到達したのではないか?


それも従来の日程通り行う、ということで。。。


まずはFacebookで上の短いセンテンスだけの速報なのだ。


自分はびっくりして、自分のところに正式なメールが来ていないか、マーラーフェスト2020の公式HPやコンセルトヘボウのHPを急いで確認したのだが、まだなにもアップされていない。


まずはFBで速報を出して、後に公式にメールやHPにアップされるのだろう。


上の私の推測が間違っていたらゴメンナサイ。(笑)


無観客ライブストリーミング配信であれば、チケット購入した人だけでなく、全世界の人がみんな鑑賞できる。

返っていいことかもね。


観客席にオーケストラを配置する。
1.5mのSocial Distancing。


さらに上の配置図を見ると、ステージ傍に指揮者がいて、そこから観客席の奥行き方向にオーケストラが配置される、という従来の方向の反対方向だ。


どうやって撮影するのかな?(笑)


マーラー・フェスティバル・オンライン。


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とにかく、正式な情報がHPにアップされるだろうし、自分のところにメールも来るだろう。そのときにまたお伝えする。


いま、コンセルトヘボウでは、過去のアーカイブ演奏を無料ライブストリーミング配信している。


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彼らがアップしている春の5月の季節のいまのコンセルトヘボウの近影。
あぁぁ~愛しのコンセルトヘボウよ!


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Mahler Festival 2020 開催延期の可能性 [海外音楽鑑賞旅行]

中止ではなく、延期の可能性が出てきてしまった。1番自分が恐れていたシナリオである。


こんな事態にならなければ、通常は5月に開催予定であったが、それはまずキャンセルする、というレターがマーラーフェスト2020のマネージング・ダイレクター サイモン・レイニンクのより送られてきた。



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マーラーフェスト2020 開催中止のお知らせ


この中には、COVID-19のパンデミックにより、コンセンルトヘボウは2020/6/1まで閉鎖なので、誠に残念であるが、マーラーフェスト2020は開催中止する。


延期できるかどうか検討するので数週間待ってほしい。

そういうことが書かれている。


そして数週間後、コンセルトヘボウからふたたびレターが送られてきた。


これはマーラーフェストだけのことだけではなく、今回開催中止になったコンセルトヘボウの公演全般に対するInterim Update(中間報告)のようだ。


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多くのキャンセルになった公演(マーラーフェストに限らず)については、できるかぎり延期する方向で検討している最中である。そのための検討期間として数週間必要である。もし公演を延期することができなかったり、延期できたとしても新しい日程があなたにとって不都合の場合は、チケットはCompensate(補償)する。と言っている。


これは毎年やっている音楽祭なら、来年またやればいいだけなので、中止で済むのだろうけれど、マーラーフェストの場合、何十年に1回開催されるレアな音楽祭、前回の1995年大会から25年ぶり、第1回の1920年大会からちょうど100周年の節目にあたる、そういう特別の音楽祭なので、彼らとしてもこのままでは収まりがつかないのであろう。


その気持ちは痛いほどよ~くわかる。


でも、正直のところを言うと、自分としては、中止してくれたほうがスッキリする。延期だと、それが1年後か、2年後なのか、それまでにCOVID-19が収束しているのかどうか、甚だ疑問だし、またそのために、その日のためにまたずっと心配モヤモヤを続けないといけない。


東京五輪とまったく同じである。


いまのこのような状況で果たして延期しても行ける可能性はあるのかどうか。

延期は、国内の公演と違って、海外公演の場合は、さらに敷居が高くなるであろう。


いまのこのような状況を鑑みると、収束してきたにしろ、果たして海外渡航はそんなに容易になるのかどうか?

COVID-19は感染してから2週間の潜伏期間があるから、日本に帰国してから、さらに14日間の待機要請がある。これは海外に行ったときでも同じ措置が取られるかもしれない。


そうすると1週間の本公演を楽しむだけではなく、さらに14日間、もしくは28日間の休みを取らないといけない。


それは社会人として不可能である。


もうひとつ大きな要素としては、海外に渡航して万が一罹患して帰国することになった場合、社会人としての責任を問われるであろう。


自分の会社に迷惑をかける。
自分との濃厚接触者にも迷惑をかけてしまう。


これは自分の会社を守るためにも、やはり責任がある社会人としてできない。


もう世界中がこんな状態になってしまった以上、たとえ収束してきたにしろ、これから海外に渡航することは相当勇気がいる判断になってしまう。とはいえ、もう一生海外に行けないのか、というとそれはあまりに残酷だし、そんなことは考えたくないので、やはりいままで通りに元に戻ることを切望している。


いまは先が見通せないし、いまそんなことを考えたくない、という感じである。


延期したとしても、COVID-19予防対策がSocial Distancingを要求するとなると、果たしていままで通りのコンサートホールの観客席への聴衆の入れ方でいいのか、とか、オーケストラもそういう密集団でいいのか、とかいう問題もありますね。


これって、そもそもクラシックを楽しむための大前提みたいなところがあるから、これを否定されたら、まず成り立たないですね。Social Distancingを保ちながらのCOVID-19 Versionの観客の配置や、ステージ上の奏者の配置などいま実験的にやられていますが、それはあくまでいまの暫定策であって、それが永遠じゃ絶対嫌です。


やっぱり元通りじゃないと絶対ダメです。


クラシックファンの自分からすると、このSocial Distancingの問題が一番不安要素ですね。これがクラシック演奏会を楽しむうえでの最大の懸案事項になってしまうのではないだろうか?という気がしています。


考えたくもないです。


やっぱり究極の自分の期待は、抗体や、治療薬、ワクチンが開発されることですね。いまはこれがないから、3密を避けろなど、いかに感染しないかを前提にいろいろやっている。


これらが開発されて、人との接触もいままで通り問題ない距離で接することができるようになれば、すべては昔の元通りに戻ることができる。


今日テレビで見ていたけれど、感染症の専門家の先生が、いまの対策を続けて今年の7月~8月頃に収束するのではないか?それは熱い夏になるから。(新型コロナウィルスは熱に弱い。)


問題は南半球はその反対で寒くなるから、南半球の国々のパンデミックが始まる可能性がある。というようなことを言っていた。


毎日最高記録を記録する東京の感染者数で気が滅入っていたが、ちょっとホッとするニュース。(信憑性は定かではありませんが。)


そんなことで、マーラーフェスト2020延期されたとしても、そこに立ちはだかる敷居は限りなく高い。でも先はまったく見通せないので、案外行けたりするかもしれない。


ひとつ言えることは、延期の可能性も出てきたということは、やはりいままで通り、毎日、無駄遣いせず、もし行くことになった場合のことを考えて、お金を少しづつ貯めておくことは続けないといけない、ということである。



3月のことだったかな?世界中がパンデミックの様相を呈してきたときに、女子大生が予定していた卒業旅行としての海外旅行を決行して、結局罹患して帰国するハメになって、世間中からバカだのアホだの大バッシングを浴びた件。


たしかに社会的道義からすると、こんな時期に、という理屈は当然とは思うけれど、自分はこの女の子たちのことを責めれないな。


この子たちの気持ちがよ~くわかるから。

むしろすごく同情しています。


ずっと前から楽しみにしていて、お金も貯金してきて、準備も頑張ってきて、さぁというときに、まさかの想定外のパンデミック。卒業旅行だからこのときを逃したら・・・どうしても中止したくなく行ってしまった。


若いので中止する勇気が足りなかったのかもしれないけれど、この気持ちは本当によ~くわかる。


自分のマーラーフェストもそうだったから。
3年かけて毎日ひたすら貯金してきて、その日を夢見てきたのに、まさかの想定外。行ける可能性があったなら、やはり強行したいという気持ちはあったかも。


そんな気持ちがよ~くわかるから、さらに年の若い女子大生ならセーブが効かず強行してしまった、というその気持ちはよ~くわかるのだ。


自分は彼女らを責めれない。


マーラーフェスト2020。果たして中止なのか、延期なのか、延期するとしても自分は行けるのか?すべてはいま見通すことはできない。


いまから129年前、1890年代のアムステルダム・コンセルトヘボウ。
マーラーやメンゲルベルクが活躍していたころのコンセルトヘボウはこんな感じだったんですね。


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マーラー・パビリオン [海外音楽鑑賞旅行]

マーラー・パビリオン(Mahler Pavilion)というのは、アムステルダム・コンセルトヘボウのコンサートホールの向かいにあるMuseumpleinという草原の広場(ここは同時にゴッホ美術館、アムステルダム市立美術館にも囲まれている地理になる。)に造営される大型テントのことである。


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ここでは、コンサートホールの本公演のチケットが取れなくてホールに入れなかった人のために、このテントの中の大型スクリーンで、ライブストリーミングでその公演をパブリック・ビューイングできるような企画になっているのだ。


これは前回のマーラーフェスト1995で初めて取り入れられた企画だった。今回のマーラーフェスト2020でも同じ試みがなされる。


ぜひ体験してみたいと思っていたのだが、このライブストリーミングは聴き逃し配信ではなく、リアルタイムのストリーミング配信である。だから本公演と同時の時間帯に開催される。


だからホールで生演奏を聴くのであれば、パブリックビューイングのほうは体験できない。


ただ、現在の自分のチケット獲得状況は、第2番「復活」だけが取れていなくて、リターンチケット待ちなのだ。だったら、ぜひこのマーラー・パビリオンのパブリックビューイングのほうで体験すればいいと思っていたのだが、なぜか第2番「復活」だけはこのライブストリーミングでさえもずっとSold Outだったのだ。


2番復活は本当にすごい人気だ。


ところがなんと今日、偶然にもマーラー・パビリオンのほうのライブストリーミングのほうの第2番「復活」のチケットにリターンがでた!もちろんすかさずゲット!


やったー!


大人気の第2番「復活」は、コンサートホールでの生演奏ではなく、マーラー・パビリオンでのライブストリーミングで体験できることになった。


これで見かけ上ではあるけれど、今回のマーラーフェスト2020は全公演コンプリートできたことになる。


もちろん本チケットの方のリターンチケットが出てきたら、そちらを買うけれど、ある意味、せっかく現地のマーラー・パビリオンのライブストリーミングを体験したいと思っていたのであるから、こちらのほうが返って好都合なのではないか?


2番復活のリターンチケットはなかなか出てこなかった。


昔、アバド&ルツェルン祝祭管のマーラーツィクルスのBlu-rayをコンプリートしようとしたら、どうしても2番復活だけ入手できなかった。そして今回も2番復活だ。やっぱりオレのマーラー人生は、復活に困るようになっているんだと、つくづく思いました。


そして昨日、「復活」の指揮に生涯をかけた男、ギルバート・キャプランの日記を書いた。


その翌日にまさか復活のチケットが出てくるとは!(笑)


効果あったかな?
やっぱり自分には音楽の神様がついているんだ、と思いました。


それも本チャンの生演奏のチケットでなく、ライブストリーミングのほうのチケットとはいかにもオレらしい。でもそれが結局、マーラー・パビリオンをも体験できる横裾を広げることになったんだから万事オーライだ。


もし、この後、本チャンの復活のリターンチケットが出てきたらどうする???(笑)買うか?そのままにするか・・・きっとプラチナだからプライスレスに凄い跳ね上がっているだろう。


確保してある予算もだんだん目減りしてきて、そこまでして、懐を痛めなくても、いまのままでOKじゃないのか?


コンシェルジェからの情報によると、コンセルトヘボウの営業と話す機会があったらしいのだが、ライブストリーミングはヨーロッパでも取り入れられ始めており自信があると言っていたそうだ。


ただ、コンセルトヘボウの隣の広場でのマーラー・パビリオン内のスクリーンへのライブストリーミング、コンセルトヘボウとしても初の試み。また、ヨーロッパ内でライブストリーミングの装置機材を使いまわしている、とも言っていたそうだ。


なんか生々しくてドキドキしてきたな。(笑)


オーディオマニア目線でしっかりとチェックしてきたい。
画質はブロックノイズなんか出ていないか?画質のクオリティーはどうか?音質はどうなのか?


できればどういう信号諸元で伝送されているのかも知りたい。


もちろん大型テントの中がそもそもどんな風景なのか、またシステムの機材の様子の写真なども撮影してしっかりレポートしてきたい。


マーラーフェストは、結局つぎの4つのイヴェントがおこなわれると要約することができる。


要はアムステルダムでおこわなわれるマーラーフェスト2020って全部でどんなことをやるの?と言われれば、この4つのイヴェントに要約できる、ということだ。


①アムステルダム・コンセルトヘボウでのコンサート
②マーラー・パビリオン(大型テント)でのイヴェント
③アムステルダム市街での施設(映画館・美術館・ライブハウス)での映画、展示、コンサート。
④各家庭へのオンラインのライブストリーミング


④については、2020年3月に発表があるので、そのときにまた報告する。


この4つのイヴェントの詳細は下記に記されている。ぜひご覧ください。



この日記では、②のマーラー・パビリオンについてさらに詳しく紹介してみたい。


マーラー・パビリオン(Mahler Pavilion)では、ライブストリーミングの他に、本番のコンサートの前の講義であるMalher talks、マーラーに関する映画やドキュメンタリー、ランチコンサート、そしてマーラーの時代にあったいまとは異なる様々な決まりごとについては、権威ある学者、プレゼンターによる講義などが企画されている。


フェスティバルの最初の1週間は、ウィーンの国際グスタフ・マーラー協会と、オランダのグスタフ・マーラー財団による2日間のシンポジウム~マーラーの交響曲と歌曲でつかったテクストについて:Life and Death(生と死)~が開催される。


飲み物や食べ物については、フード・トラック(キッチン・カー)というスタイルで提供される。”マーラー・カフェ”と言うそうだ(笑)。



マーラー・ドキュメンタリー


10の短いドキュメンタリーが、コンセルトヘボウからの依頼によって制作会社MediaLaneTVによって委託されてきた。もちろんその一部はマーラー財団によって出資されているものなのだが。ドキュメンタリーは各交響曲についてひとつずつ作られていて、その交響曲についてのバックグランド、環境などが描かれている。これらのドキュメンタリーはコンセルトヘボウのメインホールでコンサートの前に、そしてマーラー・パビリオンでライブ・ストリーミングで放映される。



マーラーと若い子供たち


オーディエンスには、マーラーの作品について紹介されることになる。コンセルトヘボウは、マーラーについての特別レッスンを、デジタル '123ZING'プログラムを通して提供する。そして2月上旬、”私、私自身、そしてマーラー (Me,Myself and Mahler)”というタイトルのプロダクションが発起され、10歳、11歳くらいの4000人の学校の子供たちが参加する予定である。春の終わりの頃のシーズンの春休みでは、Vreemde Vogels ”奇妙な鳥”とタイトルのつけられたファミリーコンサートが、Staatsbosbeheer(オランダ政府による環境保護政策団体)との協力で森の自然の中やホーゲフェルウェ国立公園で開催されることになる。



アムステルダム市街でのマーラー


他のアムステルダムの文化教育機関も同様にマーラーフェスティバルに参加する。パラディソ(1960年代後半のヒッピー運動がきっかけとなって設立されたライブハウスで、今でもオランダで一番有名なステージ)、アムステルダム国立美術館、そして映画館 Bellevueなどもホストコンサートや映画上映をおこなう。


ゴッホ美術館もマーラー、そして同時期に生きた人、グスタフ・クリムト(世紀末ウィーンを代表する帝政オーストリアの画家)やオスカー・ココシュカ(20世紀のオーストリアの画家。 クリムト、シーレと並び、近代オーストリアを代表する画家の一人)について、マーラー・パビリオンの中で講義をおこなう。


アムステルダム国立美術館は、”マーラーとオランダの友人たち”というタイトルで、マーラーやメンゲルベルクや他のオランダの友人たち、作曲家のアルフォンス・ディーペンブロックなどの写真を額縁入りで、特別に展示する予定である。


年初の日記での紹介では、やや漠然とした形で風呂敷を広げるような感じであったが、ここにきて、結局どんなことをやるのかが明確になったといえる。


それじゃ、結局自分が現地にいってやるべきThings To Doってなに?ということになると、


・アムステルダム・コンセルトヘボウでメインホール(交響曲、歌曲)とリサイタルホール(歌曲室内楽版)でコンサートを聴く。
・マーラー・パビリオンで第2番「復活」のライブストリーミングを鑑賞する。
・マーラー・パビリオンでランチタイム・コンサートを楽しむ。
・アムステルダム国立美術館で、”マーラーとオランダの友人たち”の絵画展を鑑賞する。
・アムステルダム国立美術館で、いま修復中(修復されているが鑑賞可能になっている。)のレンブラントの”夜警”を鑑賞する。(マーラーはこの絵画を見てインスピレーションを得た。)


いま決まっているのは、まずはこれだ。


マーラー・パビリオンで開催されるランチタイム・コンサートはぜひ体験したいと思う。


13:00~13:30の30分だけのコンサートで、無料コンサートだ。(無料だけれど、でもチケットは必要。定員数が決まっているから売り切れにならない内に買っておかないと。。。)


このコンサートでは若くて才能のある有名なアーティストを楽しむことができる。マーラーの音楽とはちょっとアレンジの違う音楽、マーラーと同世代の音楽や、マーラーの影響を受けているクレズマーやジャズのような幅広いジャンルの音楽の作曲家の方々の音楽など・・・。


自分が参加する予定のこのフリーランチタイム・コンサートの日程を紹介しよう。
全部で5公演行くつもりだ。



2020/5/11(月)13:00~13:30 Free Lunchtime Concert in Mahler Pavilion


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ピアノラを伴奏にしてのマーラー歌曲の独唱。

ソプラノ:ジャネッテ・フォン・シャイク


ピアノラは、ピアノラ博物館の協力による。

ピアノラ:穴の開いたテープを用いて鍵盤を動かす、機械的に演奏されるピアノ。
     (マーラーの歌曲がプログラミングされている。)



2020/5/12(火) 13:00~13:30 Free Lunchtime Concert in Mahler Pavilion


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クレズマー音楽
(東欧系ユダヤ(イディッシュ)、アシュケナジムの民謡をルーツに持つ音楽ジャンルのひとつ。)


'Trio C tot de derde'
ヴァイオリン:カール・デン・ヘルトッグ
クラリネット:カスパー・テラ
アコーディオン:クー・レッテイング




2020/5/13(水)13:00~13:30 Free Lunchtime Concert in Mahler Pavilion


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レオ・スミットの作品。
マーラー歌曲室内楽版など。


Leo Smit Ensemble(レオ・スミット・アンサンブル)
ソプラノ:イレーネ・マイセン
フルート:エレーノア・パーメイヤー
ピアノ:トービアス・ボースブーム


レオ・スミット財団の協力による。


レオ・スミット

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オランダの作曲家。 アムステルダム出身。ポルトガル系ユダヤ人。アムステルダム音楽院でセム・ドレスデンについて作曲を学んだ後、1927年にパリに出て、モーリス・ラヴェルとイーゴリ・ストラヴィンスキーに大きな影響を受けた。死後長らく忘れられた存在だったが、1980年代から定期的に作品が演奏されるようになり、1996年にレオ・スミット財団が設立された。




2020/5/14(木)  13:00~13:30 Free Lunchtime Concert in Mahler Pavilion


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ピアノ連弾

マーラー交響曲第6番 第2楽章 アンダンテ
マーラー交響曲第6番 第3楽章 スケルツォ


ピアノ:ヴィヴィアン・チョウ
ピアノ:シェーン・モーガン・ルーニー




2020/5/15(金) 13:00~13:30  Free Lunchtime Concert in Mahler Pavilion


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シェーンベルグ 浄められた夜
マーラー交響曲第5番 第4楽章 アダージェット


オランダ・ユース・弦楽オーケストラ
指揮:カール・デン・ハートッグ


あとThings To Doの中に入れるべきかどうか残されているのは、シンポジウムとMahler talksを入れるかどうかなんですよね。


Mahler talksは、その交響曲&歌曲が演奏される直前に、その曲についての解説、いわゆるパネルをつかったプレトークみたいなものだと思う。でも正直言ってマーラーの曲はもう完璧な知識があるから、今更45分程度のプレトークを聞きたいとも思わないんですよね。なんといっても有料なので。無料だったら聞くかもしれませんが。


問題なのは、やっぱりシンポジウムのほうだと思う。


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Life and Death(生と死)~マーラーの交響曲と歌曲でつかったテクストについて。2日間のシンポジウムなのだが、これはやっぱり受けたいかな?ウィーンの国際グスタフ・マーラー協会と、オランダのグスタフ・マーラー財団によるシンポジウムですからね。


これは貴重な経験だと思うんですよね。プログラム冊子みたいなものが配布されれば最高です。きちんと記録に残る。1日50ユーロだから5000円強。2日で1万円越えですか。


ちょっと悩ませてください。



あとは、マーラーの写真展や遺品などの展示会はどこでやるのであろうか?
マーラー・パビリオンの中でやるのだろうか?


そしてマーラーフェスト2020の記念グッズ売り場、これももうバンバン全部買っちゃいたいです。これもマーラー・パビリオンの中なのだろうか?


アムスのホテルは、コンセルトヘボウの近く。そしてマーラー・パビリオンもコンセルトヘボウの向かいの広場だとすると、フェスティバル期間中はずっとここら辺に居るという感じでしょうね。


アムス市街までトラムで出たりする時間はないと思う。


フェルメール美術館や、どうしても行きたいオランダ料理レストラン、そして運河の風景も写真に撮っておきたい。


あと、いまは言えないが極秘プロジェクトで訪問するところがある。(笑)


こういうミッションを満たす時間はあるのだろうか。



最後に、このマーラーフェスト2020をスポンサーしてくれる現時点での企業を紹介しよう。


まず、スポンサーとパートナー。


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そしてファウンディングとGrant Provider。


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まぁマーラー財団、メンゲルベルク財団、コンセルトヘボウ財団のほかオランダ企業多し。妥当と言えば妥当だが、放送・インターネット関係、IT・電機メーカー関係が見当たらないんだよね。この記念すべきフェスティバルの模様はぜひ放送してパッケージメディアとしても一般販売してほしいと思っているから、そういう関連の企業が見当たらないのがちょっとさびしい。


いくらいまのご時世とはいえ、ライブストリーミングで、ハイ終わりじゃなぁ~。(笑)


後世にちゃんと形として残してほしい。マーラーフェスト1995の非売品CD-Boxみたいな知る人ぞ知るというようなマイナーな扱いではなくて、ちゃんとメジャーな市場で一般商品として売ってほしいのだ。オーディオSACD Box(SACDはポリヒムニアなら絶対できる!)と映像Blu-ray Boxとして。(もちろんハイビジョンHD用CCD撮像素子の業務用カメラで撮影された完璧なHD画質で!(笑))


新型コロナウィルス騒動で、クラシック業界のみならず経済への大打撃などお先真っ暗な毎日のニュース。自分もマーラーフェスト2020に果たして行けるのか、全然不透明だけれど、ただ毎日鬱状態でボーっとしていても精神の健康に悪いだけ。


希望は捨てないよ。
ネバーギブアップ!!!


せめてこういう日記でも書いていたほうが気分晴らしで精神的にもいいや!(笑)









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マーラー交響曲第2番「復活」だけを振る男 [海外音楽鑑賞旅行]

ギルバート・キャプラン。この方の存在を知ったときは、世の中にはなんと面白い男がいるのだろう、と思ったものだ。男は夢を追いかける生き物、というのを地でいった方であろう。


マーラー交響曲第2番「復活」だけを振る男。
そして世界で最も有名なマーラー・フリーク。


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ウィーンフィルとのキャプランの2番復活は、自分の復活コレクションの中でも最高の超優秀録音。4年前の2016年の元旦に亡くなられたが、そのときは、そうかぁ、ついに亡くなられたか、という感じで、そのとき日記にしようとも思ったのだけれど、そのままになっていた。


昨日のマーラー音源紹介の日記で、ふたたび脳裏に復活。


キャプランの伝説は、クラシック音楽業界にいらっしゃる方であれば、もう誰もが知っている有名な話だけれど、改めて、自分からも紹介してみたいと思う。


ギルバート・キャプラン氏は、1967年創刊のアメリカの経済誌「インスティテューショナル・インベスター」の創刊者として実業に携わり、実業家としての成功をおさめる。青少年時代に音楽教育を受けたことはなかったが、大好きなマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮することを夢見て、30代を過ぎてからゲオルク・ショルティに師事して指揮法を学ぶ。


40代なかばで、自費によるコンサートをエイヴリー・フィッシャー・ホールで行い、指揮者としてデビューする。最初で最後のはずが絶賛を浴び、あちこちのオーケストラから客演の依頼がくることとなり、「復活」のみを専門に振る指揮者として知られるようになった。


生涯に客演し「復活」を振った主なオーケストラは


ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団
セントルイス交響楽団
ピッツバーグ交響楽団
ワシントン・ナショナル交響楽団
ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
北ドイツ放送交響楽団
バイエルン国立歌劇場管弦楽団
ロンドン交響楽団
フィルハーモニア管弦楽団
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
スカラ・フィルハーモニー管弦楽団
オスロ・フィルハーモニー管弦楽団
ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団
フィンランド放送交響楽団
プラハ交響楽団
ブダペスト交響楽団
イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
キーロフ歌劇場管弦楽団
サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団
ロシア・ナショナル管弦楽団
新日本フィルハーモニー交響楽団
メルボルン交響楽団


などである。


「復活」以外にはレパートリーも皆無であり、「復活」の指揮以外の音楽的キャリアもこれといってない(笑)。


しかし、「復活」に関しては世界的にも第一人者と目されている。音楽以外の分野で成果を収めたのちに中年以降に転じて成功した指揮者、ただ一曲だけを振り続けた指揮者という(笑)、世界でもまず他に例のない珍しい特性を二つも兼ね備えた稀な存在である。


1988年発売したロンドン交響楽団との演奏は、マーラー作品のCDとしては史上最高の売り上げを記録した。2002年には、私財で購入したマーラー自筆譜を元にした新校訂版「キャプラン版」での録音をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と行い、話題になった。


「復活」専門の指揮者のキャプラー氏は、40近いオーケストラと100を超える「復活」パフォーマンスのほか、「復活」のレコーディングも3度おこなった史上最強のマーラー復活フリークであった。


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キャプラン氏は、アメリカの実業家で、26歳で経済誌を創刊し、一流へと成長させた凄腕経営者。音楽演奏には縁のない人生だったのだ。それが20歳のときに故レオポルド・ストコウスキー指揮アメリカ交響楽団によるマーラーの交響曲2番「復活」のリハーサルを見学し衝撃を受け、いつか、この曲を指揮したい!と夢を抱いたわけだ。


40歳になるのを機に、この夢を実現させることを決意。以後、マーラーの2番の演奏会を追いかけて世界中をかけまわり、1日9時間にも及ぶ練習を重ね、ついに指揮者たちの間でも敬遠される難解なこの曲をマスターした。


そして自費で1夜限りの復活のコンサートを実現。大成功を収め、最初で最後のはずが、つぎつぎとオファーが舞い込むようになった。まさに「復活」を振るだけで後世の人生を開拓していったのだ。


まさにアメリカン・ドリームですね。


キャプラン氏は、当初、ビジネスの世界で大成功していて、彼は経済誌の会社を7000万ドル(80億円)で売却していて、その潤沢な80億の資産が、この夢を叶えるべく音楽活動を支えたわけだ。


やがて「復活」の指揮・録音だけではなく、マーラーの自筆譜校訂、シンポジウム出席など、研究者としても活躍の場を広げ、もはや彼の音楽を「アマチュアの趣味」と言う人は皆無となっていた。


金持ちの道楽恐るべし!まさに「復活」に生涯をかける形で、しかも「道楽」のレベルをはるかに超えた、学問的成果をも残した、というところがスゴイではないか!


自分は最初この話を知ったとき、不覚にも思わず笑ってしまった。(笑)
こんな男が世の中にいるとは!


でもそれはやはり金を持っていた、資産家だからできたことなんだな、とその当時納得した。結局この世の中、なにをやるにしても金。先立つものがないとダメなんだな、と。


クラシックの作曲家は、モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、そしてワーグナーにしてもつねに金に困っていた。ワーグナーだって、ルィートヴィッヒ二世というパトロンがいなければ、あのような大成功は成し得なかったであろう。


それを自らの資産で、自らの力で、運命を切り開いていった男が、このギルバート・キャプランという男なのだ。


この復活だけを振る男、ギルバート・キャプラン氏は日本にも来日している。

1984年4月12日 NHKホールで新日本フィルを振って、この復活を披露しているのだ。
そのときのポスターがこれ。


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指揮:ギルバート・キャプラン
管弦楽:新日本フィルハーモニー管弦楽団
ソプラノ:ヨン・ミ・キム
メゾ・ソプラノ:シルビア・リンデンストランド
合唱:晋友会合唱団


単なる話題集め、とも揶揄されたこの公演。でも大成功に終わった。

なぜ新日本フィルなのか、あの晋友会合唱団が参加しているなんて驚き。


この組み合わせから考えても、ひょっとすると同じ「復活」が大好きな小澤征爾さんの鶴の一声があったのではないか?とも思ったり・・・。


単なる金持ちの道楽で終わらなかったのが、この「復活」を徹底的に研究し尽くしたこと。それは、いわば「復活」のエキスパートとしての数多い指揮活動の副産物のようなものだったとも言われている。



これがキャプランの復活で1番有名なウィーンフィルとの録音。


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DG SACDでSACD5.0サラウンド。Emil Berliner Studiosのライナー・マイヤール氏がトーンマイスターの超絶優秀録音である。


自分の中でマーラー2番復活といえば、この録音が1番だ。


2002年におこなわれたこの録音は、単に優秀録音というだけではなく、キャプランの私財で購入したマーラー自筆譜を元に自らが研究して改訂をおこなった新校訂版「キャプラン版」による演奏なのだ。


この「キャプラン版」についてはこんな話がある。


キャプラン氏が世界各国のオーケストラを指揮して「復活」を演奏する際に、どのオケでも必ず持ち上がる問題が、楽員の使っているパート譜と、指揮者の使うスコアのあいだに一致しない部分が多々あるということであった。そこで考えたのが、自身による校訂譜の作成ということで、そのための準備段階として、まずマーラーの自筆譜を購入して刊行、さらに音楽学者のレナーテ・シュタルク=フォイトの協力を得て、出版譜との差異を細かく検証・分析し、400に及ぶエラーや疑問箇所を抽出、自ら校訂をおこなって出版し、成果を世に問うというものであった。


このキャプラン&シュタルク=フォイトによる校訂譜は、国際マーラー協会も承認済みで、2005年にウニフェアザール(ユニヴァーサル)からクリティカル・エディションとして出版されている。


このウィーン・フィルとのレコーディングも、その校訂譜作成のためにおこなっていた資料収集の過程で、照会先のひとつであったウィーン・フィルから逆にその校訂譜についての問い合わせがあり、実物を目にして感銘を受けたウィーン・フィルの副団長で首席クラリネット奏者、ペーター・シュミードル氏の尽力によって実現の運びとなったということなのだ。(HMVサイト記載)



キャプラン氏が入手した2番復活のマーラーの自筆譜とはどのようなものなのか?


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香港のサザビーズに展示された作曲家・指揮者グスタフ・マーラーの交響曲第2番「復活」の直筆楽譜(2016年8月17日撮影)。(c)AFP/Anthony WALLACE


キャプラン氏が2016年元旦に死去したため、彼が所有していた2番復活のマーラーの自筆譜が競売にかけられたようだ。


【2016年11月30日 AFP】オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Mahler、1860~1911年)の交響曲第2番「復活(Resurrection)」の希少な直筆譜が29日、英ロンドン(London)で競売にかけられ、450万ポンド(約6億3100万円)で落札された。


楽譜としては史上最高値となった。


競売を主催したサザビーズ(Sotheby's)が明らかにした。交響曲第2番「復活」の全232ページに及ぶこの楽譜には、マーラー自身による消去の跡や書き換え、注釈が含まれており、そのほとんどは鮮やかな青色のクレヨンで記されていた。


この自筆譜は、同作品の熱心な愛好家だった米国人の実業家ギルバート・キャプラン(Gilbert Kaplan)氏が所有していた。同氏は自らの人生をこの曲の指揮に捧げ、今年初めに死去した。



キャプラン氏の2番復活のCDは全部で3枚存在する。
さきほど紹介した新校訂版「キャプラン版」によるウィーンフィルとの録音。


そして、キャプラン氏が最初に2番復活の録音をしたCD。
ロンドン響との録音。


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このCDは、世界で17万5000枚という、マーラー・レコーディング史上、実は最も数多く売れたアルバムだったそうだ。英国のクラシック・チャートには発売後2年も名を連ねており、また、ニューヨーク・タイムズやドイツのZDFからはその年のベストCDのひとつに選ばれるなど、評価の高さにもかなりのものがあったという。


復活でもっとも売れたCDが、プロの指揮者によるものでなく、アマの愛好家によるものだったというのが、なんか運命ってそんなもんだ、という感じがしますね。(笑)


残念ながらいまは廃盤のようだ。
自分はさっそく中古市場で手配した。
3月下旬に届くので、ちょっと時間がかかり過ぎだが楽しみすぎて待ちきれない気分だ。


このロンドン響とのCDのブックレットの中に、このような解説と写真が掲載されているそうだ。


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オルガンと鐘はオケは別収録してダビングしている。そのオルガンは、マーラーがニューヨークフィルとの演奏会(1911年)で使ったものだそうだ。(この写真はブックレットより転載。オルガンのレコーディング風景)


キャプランの拘りの中の拘りがよくわかるエピソードだ。


このロンドン響とのデビュー録音。いまパッケージメディアのCDを取り寄せているんだが、ハイレゾ・ストリーミングで探してみたらありました。


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歴代の復活録音の中で最も売れたCD。

聴いてみた印象。
あまり録音はよくないような・・・(笑)
まっ、というか平凡ですね。


この演奏のどこにそんなに売れた理由があるのか、自分が一聴した感じではその凄さというのはわかりませんでした。


普通の復活の演奏のなにものでもない。


でも売れるときというのは、そんな理屈なんて関係ない、勢いで売れてしまうものですね。アマの愛好家による「復活」専門指揮者による録音、という話題性も助け船になったのでしょう。


そんな平凡な演奏の印象です。


そして、最後の3度目の録音が、2番復活の室内楽ヴァージョンだ。


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56人の室内オーケストラによるヴァージョンをウィーン室内管弦楽団とウィーン・コンツェルトハウスでライブ録音している。その楽譜はキャプランとロブ・マティスによって編曲されたものだったそうだ。


これも残念ながらいまは廃盤。
もちろんこれも中古市場で手配した。
ものすごく高値なんですよね。


こちらはハイレゾ・ストリーミングの方には登録されていませんでした。


やっぱりキャプランの2番復活の録音は、ウィーンフィルとの録音が最高傑作だと思う。


とまぁ、こんな感じの男なのである。自分も性格的に徹底的にやらないと気が済まない性格だけれど、男ならここまでやらないとね、と本当に尊敬しました。


でも世の中、結局やっぱり金なんだよね、という現実路線もしっかりと身に詰まされるお話でした。(笑)




 


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自分に影響を及ぼしてきたマーラー音源 [海外音楽鑑賞旅行]

バーンスタイン、アバド以外の自分の愛聴しているマーラー音源を紹介していこう。
自分のマーラー鑑賞歴とともに歩んできたマーラー音源たちである。


●ラトルのマーラー音源

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サイモン・ラトルについては、”ラトルのマーラー”というタイトルでひとつ日記を立ててもいいくらい自分のリアルタイム世代のマーラー指揮者でもある。


でも、ラトルについては、ずっと自分の日記で熱く語ってきた。


コンサート評はもちろんのこと、ベルリンフィル離任時は統轄的な意味合い、ご苦労様、自分にとってベルリンフィルのシェフといえば、フルトヴェングラーでもなければカラヤンでもなく、アバドでもない、あなたラトルでしたよ、という”ラトル&ベルリンフィル”の日記で自分の想いをのすべてを書いた。


そしてマーラー指揮者としてのラトルは、その方向性についても”アバドのマーラー”で触れた。


バーンスタインでマーラーの門をくぐり、いろいろな音源を聴いていくうちに、近代マーラー解釈としてアバドとラトルに絞った。映像素材のアバドに、実演のラトルという立ち位置である。


カラヤン以前のベルリンフィルの首席指揮者はあまり取り上げることのなかったマーラー。


アバドがシェフになって、ベルリンフィルにマーラーを頻繁に取り入れた。結局10年足らずの任期の中で、ベルリンフィルでマーラーの交響曲を全曲演奏した。(アバドのベルリンフィルのシェフ就任コンサートは、マーラー1番「巨人」だった。)


これは、ベルリンフィル史上初のことであった。


ラトルもそうである。1987年に初めてベルリンフィルと客演した時がマーラーの6番、そして2002年のベルリンフィルのシェフ就任コンサートがマーラーの5番、そして2019年の離任コンサートが、マーラーの6番。そして2010/2011年シーズンでのベルリンフィルでのマーラー交響曲全曲演奏会。


アバドが在任期間を通してバラバラで全曲演奏を成し遂げたのに対し、ラトルは2010/2011年という、たった1年の短期間で、列記としたマーラーツィクルスとして全曲演奏会を成し遂げた。


全曲演奏会、ツィクルスとしてベルリンフィルでマーラー演奏をコンプリートしたのは、ラトルが史上初である。


これは当時大変な話題になり、チケットは即完売のプラチナ。自分も6番チケットを取るのに相当苦労した。近代マーラー解釈の雄のラトルのマーラーは恐るべくプラチナであった。


この2010/2011シーズンのラトル&ベルリンフィルのマーラーツィクルスは、デジタルコンサートホール(DCH)にアーカイブとしてちゃんと入ってます。


ラトルは、ここぞ!という決めないといけないメモリアルのタイミングでは、必ずマーラーの演目を取り上げた。そう!その通り。ラトルはまさにマーラーの曲を自分の名刺代わりに使っていた。


アバドとラトルは、ベルリンフィルに対して明らかにマーラーを導入していくことを強く意識していた、と思う。


・バーミンガム市交響楽団時代のマーラー全集

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ラトルの指揮者人生は、このイギリスのバーミンガム市交響楽団から始まった。ラトルの就任当時には決して国内的・国際的知名度が高いとは言えなかったこのオーケストラを、じつに22年間かけて徐々に世界的なオーケストラに育て上げた。


このバーミンガム市交響楽団のシェフのときに、マーラー全集を完成させた。
ラトルのマーラー指揮者としてのキャリアのスタートはここにあった。


この指揮者としてのキャリアのスタートのときにマーラーのしかも全集を作った、という意義は自分の方向性を決めたという点で大きかったのではないのだろうか?


この写真にあるBoxは旧盤である。
いまは廃盤で、バーミンガム市交響楽団時代の全集Boxはないんじゃないかな?


ラトルはイギリス人なので、当時あったEMIレーベルだったんだよね。ベルリンフィルのシェフになったときもレーベルをEMIに移した。ベルリンフィルのレーベルは、伝統的にDGと思い込んできたから、ずいぶん反発したものだったよ。(笑)


EMIの作るサウンドは、あまり好きじゃなかった。


でも久しぶりに聴いてみたけれど、ライブ感、ホール感などの空間がよく録れていて、いい録音だと思う。でも、これはベルリンフィル時代にも言えるけれど、自分はラトルのマーラー録音のセッション録音は必ずしも全箇所とも演奏解釈として賛成するという訳でもないんだな。これはラトルの他の作曲家の録音でも言えることだけれど、こんなところでこんなにスローテンポに落とすかな~とか、自分とは合わない解釈をすることがままある。


たとえばマーラーでいえば2番の「復活」とかね。
でも不思議とライブではそんな心配をすることはなかった。


・ベルリンフィル時代のマーラー音源

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2番、5番、9番、10番の4枚。


アバドも結局、ベルリンフィルでマーラー全集を録音することはなかった。(演奏会は全曲やっているが。)ラトルも全曲演奏会はやっているが、録音としてベルリンフィルでマーラー全集を作ることはなかった。これは自分の邪推だけれど、伝統あるベルリンフィルで録音でマーラー全集を作ることは、かなりリスキーなことなのではないだろうか。(笑)


録音のテイストは、いかにもベルリンフィルハーモニーという感じ。シューボックスの芳醇な響きとは趣が違うそういう響きの多さはないけれど、もっとダイレクト感というか、ホール感、ダイナミックレンジの大きなスケール感の大きい録音ですね。いかにもワインヤードのホールでの録音という感じです。



・ベルリンフィルに客演デビューしたときのマーラー6番の音源

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ベルリンフィルは、いまでこそ自主制作レーベル、ベルリンフィルメディアという会社を設立して、自分たちの録音は自分のレーベルでやるようになった。でもDGやEMI時代のさらにその前の、フルトヴェングラー時代や、ニキシュなどのベルリンフィルに客演した往年の指揮者などの昔の音源を、その昔の自主制作盤で出したBoxがあるのだ。


特別企画として限定販売されたもので、いまはもちろん廃盤の大変貴重なBoxです。この中に、ラトルが1987年にベルリンフィルに初めて客演した当時の音源が入っているのだ。若々しいマーラー6番でした。


・ベルリンフィル離任コンサートのマーラー6番

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ラトルにとって、マーラーの曲の中でも6番はとても特別な曲。ベルリンフィルデビューのときが、この6番であったが、離任コンサートのときの演目にも6番を持ってきた。


そのときの公演の様子もフェアウェル・コンサートとして録音をして発売された。これはいまの自主制作レーベルであるベルリンフィル・メディアとしてのデラックス仕様盤。1987年の6番のデビュー音源のCDもカップリングで入っている。そしてそのときの公演の様子の映像素材もBlu-rayとして入っている。まさにデラックス仕様だ。


この離任コンサートのチケットは、ネットでの販売はなくて、電話予約でしか買えなく、最後のコンサートはベルリン市民を優先に、というラトルの思いやりもあったのだろう。


この公演に行かれた方もたくさんいらっしゃっただろう。
自分もぜひ駆けつけたがったが、マーラーフェスト2020の予算確保のため断念した。


自分は、ラトルのマラ6は、2010/2011年シーズンのベルリンフィルによるマーラー全曲演奏会のときに、現地で体験した。帰国後もDCHで何回も繰り返して観た忘れられない公演だ。



・ラトルのマーラー全集(バーミンガム市交響楽団時代+ベルリンフィルEMI時代)

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いまはバーミンガム市交響楽団時代に作ったマーラー全集と、EMIレーベル時代のベルリンフィル時代に録った録音をパッケージミックスしたこういうラトルのマーラーキャリアの総決算みたいなBoxが出来ている。一応、自分も買っておきました。



●マーラーフェスト1995自主制作Box

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これは何回も紹介しているBox全集録音だけれど、マーラーフェスト1995を収録した非売品のBoxだ。いまは中古市場ですごい高値で売られている超レアなBox。


自分も10万の大枚をはたいて買ったと記憶している。
自分のお宝盤である。


あらためて、じっくり全曲聴き返してみると、じつに素晴らしい録音である。


化粧っ気はあまりないが、じつにホール感、空間感が秀逸で自分好みの録音である。自分はやはりクラシックの録音は空間感が出ている録音が好みですね。


この録音を聴いていると、本当にアムステルダム・コンセルトヘボウというホールの音響の素晴らしさがよくわかるのだ。このホール独特の、それはウィーン楽友協会と違ってある程度、横幅があるシューボックスである形状特徴から起因する、響きの滞空時間の長さ、残響感の豊かさ。ちょっと堪んないですね。そういうホール固有の響きがよくわかる録音です。


そしてまさに一期一会の演奏会に相応しい緊張感あふれる演奏。
この録音を本番までに繰り返し聴くレギュラーに決めました。


●RCO Blu-ray-Box


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2年続きのマーラー・イヤーを記念し、2010年度と2011年度のシーズン(2009~2011年)に連続で開催されたロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によるマーラー交響曲全曲演奏会シリーズは、世界的な注目を集めたコンサートであった。マリス・ヤンソンス、ベルナルド・ハイティンク、ピエール・ブーレーズ、ロリン・マゼール、エリアフ・インバル、イヴァン・フィッシャー、ファビオ・ルイージ、ダニエレ・ガッティ、ダニエル・ハーディング9人の指揮者達によるマーラー・イヤーのライヴ映像。


マーラーと特別の所縁のあるアムステルダム・コンセルトヘボウで、これだけのマーラー指揮者が集まって一堂にマーラーを演奏するのは、まさにマーラーフェストと言っても過言ではない。


自分は、大好きなコンセルトヘボウで、マーラー交響曲全集で、しかもBlu-rayで出る、というところに当時、相当反応してしまった。


マーラーツィクルスで、しかも高画質Blu-rayのソフトが出る、というのは、自分にとってアバドのルツェルン音楽祭でのツィクルス以来の快挙だった。絶対買いだと思った。


ところが買って届いてすぐに見たら、画質があまりに悪いので、もうガッカリしてしまった。とてもHD画質とは思えなかった。もう大ショックだった。せっかく楽しみにしていたのに~である。


だからマーラーツィクルスの映像素材は、自分にとってやはりアバド&ルツェルン祝祭管弦楽団のBlu-rayになってしまうのだ。それ以来ガッカリで、あまり繰り返して観ることなく死蔵になっていたものだった。


画質のどこが酷かったか、というと、解像度がとてもHDとは思えなかった。


もうあきらかにSD画質。これじゃ地デジのほうがはるかに綺麗、と当時思っていた。人の肌の色もちょっと赤みがかっていて、色調も酷い。


これは撮影クルーのレベルはひどいなーと思った。(オランダの映像会社のようだ。)
これでBlu-rayって唄うなんて相当詐欺だな、と思っていた。


逆に音声は最高に素晴らしいのだ。全曲ともポリヒムニアのエベレット・ポーター氏担当でさすが!と思った。今回久しぶりに観たら、ある法則性みたいなものを発見した。曲によって、あきらかにSD画質のものと、きちんとHD画質で綺麗なものと別れるのだ。ヤンソンス、インバルは最高に素晴らしい。これぞ、HD画質、Blu-rayって言っても全然文句が出ない。


予想するに、画質がSDなのは、撮像カメラの業務用カメラがきちんとハイビジョン用のCCD撮像素子を使っていないんじゃないか?初段の撮るところがHDじゃないと、いくらマスタリングでBD処理でもダメです。なんかこれだけ画質が酷いと、もう撮影カメラがSDとしか思えないんですよね。HD画質とSD画質のレベルが混在しているのは、2009年~2012年の4年間に渡って、最初の頃がSDの業務用カメラで、後半からHDの業務用カメラに変わった、ということなのだろう、と思いました。


だから、自分にとってこの映像素材Boxは、妙に中途半端な商品で、どうしても気持ち的に入れ込むことができなかったのだ。じつは告白すると、音楽ソフトもダウンサイジングして売却処分したとき、このソフトも売却しました。(笑)でもやっぱり。。。ということで買い戻したのです。


SD画質の演奏曲は我慢して観るとして(笑)、やはりアムステルダム・コンセルトヘボウのホールでマーラーを演奏している、という映像は、ある意味、今回一番本番のステータスに近い状態で観ている最高の予習素材だと思い直しました。


実際の本番は、こうやってこのホール空間、ステージのオーケストラを、そしてマーラーの音楽を流れている、というこのシチュエーションで体験することになるんだろうな、ということがイメージできるのです。


だから画質の問題はさておき、最高の予習素材と言っていいと思います。



●ヤンソンス&RCO Live

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1番、2番、5番、6番、8番。


RCOのマーラーと言えば故マリス・ヤンソンスでの演奏と思ってしまう。オーディオマニアにとっては、とてもなじみ深いこのジャケットの柄デザイン。RCO LiveはRCOの自主制作レーベルだ。録音会社はポリヒムニアがやっている。今回の担当もエベレット・ポーター氏が全作品やっている。ヤンソンス&RCOは、マーラーの作品を全曲録音したかどうか、記憶は定かではないのだが、ラックを調べたら、自分が持っているのは、上の写真の5枚だった。


これも聴くのはじつに久しぶり。


やっぱりRCO Liveは録音がいい。オーディオマニア向けのSACD、録音だと思います。世の中のマーラーファンは、マーラーの演奏解釈はこうでなければならない!と講釈をする、ヤンソンス&RCOはそういうところがわかっていない、ということを仰るけれども、これだけ音がよければそれでいいじゃん、的なところがある。


それですべて解決されちゃうような・・・。それだけの説得力がありますね。自分がオーディオマニアだからかもしれませんが。。。



●小澤征爾&ボストン交響楽団

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我らが小澤さんのマーラー交響曲全集。あの古巣のボストン響と録ったものですね。写真の自分が持っているこのBoxは旧盤ですね。いまはジャケットの写真が変わっています。これは、1980~1993年に録音されたもので、当時のPHILIPSレーベルの録音チームのもとで録った作品。自分は小澤さんのマーラーは、後年のサイトウキネンで聴くことのほうが機会が多かったけれど、このまさに若かりし頃の小澤さんのマーラーは、自分が
想像していた以上にとてもスタンダードな解釈というか、自分の感覚とちょっと違うと思うところはほとんどないくらい、とても教科書通りのような演奏のように思えました。自分の期待を裏切らない演奏ですね。ボストンシンフォニーホールはぜひ訪れてみたいです。自分のクラシック人生の中でどうしても避けることのできないコンサートホールですね。



●小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラ

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2番「復活」、9番。


2010/2011年に東京文化会館で録音した小澤さん&サイトウキネンのマーラー。小澤さんは2番「復活」がお好きで得意でいらっしゃる。小澤さんのマーラーは、このサイトウキネンとやっているときのほうが、とても熱いパッションを自分は感じます。東京文化会館のちょっとデッドな音響もあまり感じさせない素晴らしい録音になっています。


●小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラ Blu-ray

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1番「巨人」


ご存じゴローさんの2009年の作品。ゴローさんと知り合って、すぐにこの作品を観たな。もうこれは何回繰り返して観たことだろうか?サイトウキネンのメンバーのみなさんも若い!この頃の小澤さんの指揮ぶりを見ると、とても鬼気迫るというか、すごい迫力でちょっとびっくりしました。この映像作品は賞をたくさんもらっていたと記憶しています。


●MTT SFS SACD-Box

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ティルソン・トーマス(MTT)によるSFS(サンフランシスコ交響楽団)によるマーラー交響曲全集のSACD-Box。このBoxに対する自分の想い入れは、このBoxはまさにオーディオマニアのためにあるオーディオマニア御用達の全集という位置づけだった。オーディオファンにはとても評価の高いマーラー全集である。


マーラーの演奏史にうるさい音楽ファンの方々からすると、やや異端の系に見られる全集かもしれないが、とにかく音のよい、録音の素晴らしいマーラー全集である。SACD5.0サラウンドで聴ける最高の録音かもしれない。


アメリカのオーケストラに特徴のある機能的に鳴りまくるそのゴージャスさ、といい、コンピューターのような精緻な演奏は、確かに凄いが、どうしてもマーラー史にうるさいファンからすると、もうちょっと人間的な味のある演奏が欲しい、と思わせることも確か。


写真でご覧のように、すごいBoxのパッケージ内装仕様が丁寧でお金がかかっており、すごいゴージャス。贅沢なマーラー全集だ。



●ギルバード・キャプランSACD 2番「復活」単盤

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ギルバード・キャプランは、もともとは実業家なのであるが、大好きなマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮することを夢見て、30代を過ぎてからゲオルク・ショルティに師事して指揮法を学ぶ。40代なかばで、自費によるコンサートをエイヴリー・フィッシャー・ホールで行い、指揮者としてデビューする。最初で最後のはずが絶賛を浴び、あちこちのオーケストラから客演の依頼がくることとなり、「復活」のみを専門に振る指揮者として知られるようになった。


まさに2番「復活」だけを振る指揮者なのだ。(笑)
生涯に客演し「復活」を振った主なオーケストラは、22楽団にも及ぶ。


「復活」以外にはレパートリーも皆無であり、「復活」の指揮以外の音楽的キャリアもこれといって無い(笑)。しかし、「復活」に関しては世界的にも第一人者と目されている。音楽以外の分野で成果を収めたのちに中年以降に転じて成功した指揮者(指揮者以外の音楽家では若干例がある)、ただ一曲だけを振り続けた指揮者という(笑)、世界でもまず他に例のない珍しい特性を二つも兼ね備えた稀な存在である。


1988年発売したロンドン交響楽団との演奏は、マーラー作品のCDとしては史上最高の売り上げを記録した。2002年には、私財で購入したマーラー自筆譜を元にした新校訂版「キャプラン版」での録音をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と行い、話題になった。


オーディオマニアなら、このDG SACDのキャプラン&ウィーンフィルのマーラー2番「復活」を知らない人はいないだろう。


誰もが知っている2番「復活」の超有名盤である。


トーンマイスターは、Emil Berliner Studiosのライナー・マイヤールさんだ。
超絶優秀録音!自分のマーラー2番音源の中でも最高傑作だ。


しかもこの音源は、私財で購入したマーラー自筆譜を元にした新校訂版「キャプラン版」だからね。



●ハイティンク&シカゴ響 3番単盤

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マーラーの交響曲の中で自分は3番を理解できるようになったのは後年になってからだった。いまではなんでこんな素晴らしい曲を最初理解できなかったのであろう?と不思議に思うほど、素晴らしい曲だと思う。


2番、5番、6番、9番などの昔から好きな有名曲と負けず劣らず3番が好きになった。


このハイティンク&シカゴ響の3番の録音は、オーディオマニアの中でもその3番の優秀録音として超有名なディスクであった。オーディオオフ会でよく持ち込みソフトとして利用されていました。



●ハーディング&ウィーンフィル 10番単盤

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いまでは近代のマーラー指揮者として名を連ねるようになったダニエル・ハーディングであるが、ウィーンフィルとのデビューは、この録音だった。第10番はアダージョだけ作曲した後、マーラーは亡くなってしまうが、そのあと補筆され、全楽章完成されたものが残されている。有名なのはクック版であるが、このハーディング&VPOの録音は、そのクック版全楽章入りである。


オーディオマニアの中でも優秀録音として有名な録音である。



●ザンダー&フィルハーモニア管弦楽団 6番SACD 単盤

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2011年に現地ベルリンでラトル&ベルリンフィルの6番を聴くために、6番の優秀録音を探していたときにゴローさんが教えてくれた録音。これは素晴らしい録音です。歴代の6番の録音の中でもトップに位置するかも。最終楽章は、ハンマー2発ヴァージョンとハンマー3発ヴァージョンと2パターン録音されています。(笑)


SACD黎明期の頃のレーベルであるTELARCによるもの。TELARCを知らないオーディオマニアの方はいないよね。(笑)あの頃のSACDは本当に録音がよかった!



●ピエール・ブレーズ&VPO 3番 単盤

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DG SACDを集めていたときにコレクションした録音。いまでは大好きになった3番の優秀録音として外せないディスク。トーンマイスターは、Emil Berliner Studiosのライナー・マイヤールさんだ。3番の声楽独唱ソリストは、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターだ!



●ピーエル・ブレーズ&VPO 大地の歌 単盤

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これもDG SACDをコレクションしていたときに中古屋さんで見つけたもの。
トーンマイスターは、Emil Berliner Studiosのライナー・マイヤールさん。



●インパル&都響 9番単盤 EXTON

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2013年、2014年の2年にかけてエリアフ・インバル&東京都交響楽団(都響)によるマーラー全曲演奏会がおこなわれた。「新」マーラー・ツィクルスというタイトルだった。このインバル&都響のマーラーツィクルス全曲通いましたよ。2013年は東京芸術劇場、2014年は横浜みなとみらい。


近代のマーラー指揮者として堂々と名を馳せるエリアフ・インバル。そしてマーラー演奏では定評のある都響。最高の演奏だった。このときの全曲をオクタビア・レコードが収録していた。


それをSACDとして発売した。

自分は9番だけを購入した。


この当時は、ワンポイント録音というのが評判になったときだった。


左の黒ジャケットのほうがワンポイント録音、右の白ジャケットがマルチマイク録音。
どっちがいいか、結構議論されていたような記憶がある。


いまでこそ、マルチマイクは位相がぐちゃぐちゃになってしまうので、自然な音場感を得るにはワンポイントがいいってな意見もあるけれど、自分がこの両盤を比較したときは、やはりマルチマイク録音のほうが好みでした。(笑)


以上の自分に関わってきたマーラー音源を紹介してきたが、これ以外にもハイティンクBox,ショルティBox, LSO ゲルギエフSACD全集など持っていたのだけれど、もうこれだけ持っているんだから普段聴かないし、ダウンサイジングのときに売却してしまいました。


しかし自分はマーラー音源、結構持っていたんだな。そしてマーラーと縁の深い音楽人生だったんだな、と思いました。いまふたたびこれだけの音源を聴くのにすごい時間がかかりました。


去年の6月にマーラーフェスト2020のチケットが大半が取れたと判明した時点で、マーラーフェスト2020について連載をしようと去年の6月からずっと準備してきました。一連の連載はこれでひとまず終了。


あと、マーラーの歌曲について語りたい、と思いますが、これはまた時間をかけて。


ネバーギブアップ!


本番までどうなるかわからないし、やるだけのことは、できるかぎりのことはやるのだ!      




 



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朝食にエダムチーズ [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーがメンゲルベルク邸で朝食に食べていたエダムチーズ。
はて、エダムチーズとは何なのか?


チーズのことにはあまり詳しくない自分にとって、エダムチーズのことを調べてぜひ体験してみて日記にしてみたかった。


エダムチーズは、ゴーダチーズと並ぶオランダの代表的なチーズのひとつ。北部のエダム地方が原産で、牛乳を原料としている。 製造には脱脂乳を使用する。いつごろかは明らかにされていないが、かつては全乳を使用していた。脂肪分が低いチーズとして有名。熟成にはチーズダニを用いる。


戦後日本に輸入されたチーズの第一号ともいわれる。オランダからの輸出用のエダムチーズには赤色のパラフィンワックスがかけられていることから、日本では赤玉とも呼ばれた。オランダ国内消費用のエダムチーズには黄色のワックスが施される。 種別はハードチーズに分類されそのまま食べるほか、粉チーズとして料理に使われることも多い。


オランダから輸出されるエダムチーズは、見かけは、こういう外皮に赤いワックスがかけられているんですね。まるで見かけはリンゴみたいです。逆にオランダ国内商品用に黄色のワックスがかけられています。ワックスというのは外気から中のチーズを守る皮みたいなものです。


エダムチーズ


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こういう丸形の球状タイプは、まさに”赤玉”と呼ばれています。


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エダムチーズは外気に一度さらすと、もう乾燥してしまいカチカチになってしまいます。だから赤玉で買う場合はいいですが、それじゃ多すぎる、200g,400gだけ買いたい場合というは、このように真空パックになっているんです。自分もこの真空パックにされている200gを買いました。


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エダムチーズというのを自分で食べてみたいために、ネット通販で売っているエダムチーズを買ってみました。最初、赤玉を丸々1個買おうと思いましたが、さすがに多すぎると思い、先の写真のように200gだけの真空パックに入ったものを買ったのです。


そしてその真空パックを剥がして取り出したのがこれです。
これは私の買ったエダムチーズの本当の実物の写真です。


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さて、このエダムチーズの外皮の赤いワックスを剥がします。
もう手で簡単にパカッという感じであっさり取り外せます。
最初包丁で剥かないといけないのかな、と思っていましたから。


そしてはじめて食べてみたエダムチーズの食感の感想。

これはいわゆる調理用として食用のあのまろやかな香ばしいチーズとは全然違う。


いわゆる加工していないチーズの素のような味でした。いわゆるクサイんですよね。(笑)あの独特のチーズの臭みというか、食べてみれば確かに美味しいとは思いますが、日本人がチーズに抱いているあの香ばしいチーズの味ではない。かなりクサイです。あ~、取り立てのチーズってもともとはこんな味がするのかもなぁ、というそんな味なんです。レストランで食べるあういう洗練されたチーズの味ではないです。もっと臭みが激しくて、クセのあるチーズの原形のような味がします。


チーズの種類としては、ハードタイプのチーズだと思います。とても固いです。マーラーがメンゲルベルク邸で朝食にエダムチーズをちぎって食べていると、アルマ宛の手紙に書いているんだが、ここにはどうも疑問符がある。”ちぎって”という表現。ハードタイプのチーズなので、”ちぎって”はおかしい。ナイフを入れて食べやすい一片にするか、そのままかぶりつくか、なのだと思うのである。”ちぎって”では食べられないと思う。


それじゃオランダでエダムチーズならんで代表的なチーズのひとつであるゴーダチーズとはどのようなものか?


ゴーダチーズ

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ゴーダチーズは、エダムチーズと並ぶオランダの代表的なチーズ。オランダでのチーズ生産量の60%を占める。ロッテルダム近郊の町、ゴーダで作られたことからこの名前がついた。


外見は黄色がかった茶色い円盤型で、正式なサイズが直径35cm×高さ11cm・重さ約12kgと決められており、それより小さなものを総称して「ベビーゴーダ」と呼んでいる。中は白から黄色。熟成と共に色が変化する。熟成されたゴーダの中には表面が黒いものもある。 クミンシードやニンニクなどを用いて香りをつけたものもある。 主な材料は牛乳とレンネット。


チーズの種類としてはセミハードに分類される。味はマイルドで日本では比較的広く親しまれている。 オランダでは土産物として空港などで売られている他、食料品店、チーズ販売店などでもほぼ置いている。チーズ店などでは特に包装をしていないものを常温で積み上げている場合もある。これは表面をロウでコーティングしてあり、ナイフを入れない限り熟成が急激に進む心配がないため。他に、フィルムにくるんだものや、真空パックのように包装したものもある。


日本では、チェダーチーズと並んでプロセスチーズの主要な原料として用いられているとされる。また、ゴーダチーズを原料としたスライスチーズが明治から販売されている。


ゴーダチーズというのは、ある意味我々がヨーロッパで見かけるチーズの代表的なものなのかもしれませんね。円盤型で、黄色のワックスでコーティングされているもの。



5月に行くアムステルダム、いやオランダの国自体は、まさにチーズの国。

チーズを売っているチーズ専門店はそれこそたくさんある。


日本には絶対存在しないこういう円盤型のワックスコーティングされたチーズが山のように置いてあるそんな風景なお店だ。


そんなアムステルダムにあるチーズ専門店を紹介するページを発見した。
情報元:https://plusdutch.com/blog/cheeseshop-amsterdam/



この情報元のHPに基づいてアムステルダムにあるチーズ専門店を紹介してみる。


Old Amsterdam Cheese Store

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アムステルダム市内に3店舗ある、オールドアムステルダムチーズの専門店。店内にはチーズのテイスティングルームがあり、オランダのアムステルダムチーズと他のユニークなオランダのチーズの味を体験できます。所要時間1時間のチーズ&ワインのテイスティングでは、ソムリエが選んだ3種類のワインと一緒に5種類の優秀なチーズを試飲できます。(要予約)



Henri Willig Cheese & More

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多くの店舗をかまえるチーズ社「Henri Willig」のチーズの品種と味は高品質で、国際的に評価されています。アムステルダム市内のいたるところにお店があり、定番のお土産チーズショップではないでしょうか。種類が多く、お土産としてのサイズ感も程よく、パッケージもお洒落なので、贈り物として人気があります。



De Kaaskamer

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店内には所狭しとチーズが積んである、ザ・チーズ屋さん。
100種類以上の厳選された世界のチーズが食べ比べ可能です。
ワインや自家製サラダ、テイクアウトサンドイッチも販売しています。



Kaashuis Tromp

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オランダのナショナルチェーンのチーズ店。
あらゆる種類のオランダチーズが手に入ります。
焼きたてのパンとチーズのサンドイッチが人気で、ランチタイムには行列も。



Dutch Delicacy – De Mannen Van Kaas

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バジルやベリーなどを混ぜたカラフルなチーズを取り揃えているチーズ屋さん。ビビットカラーのチーズは、驚かれるお土産にもなります。パンやコーヒーなども販売しているベーカリーなのですが、広い店内には多種類のチーズやチーズナイフなどの雑貨なども取り扱っています。



Reypenaer Tasting Room

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こちらはチーズの試食専門店。創業110年のライプナー社製チーズは歴史ある熟成プロセスが独特で、世界最大級のチーズ品評会で受賞したチーズが多いことでも有名です。アムステルダムにあるチーズテイスティングルームでは、チーズソムリエ指導のもとにライプナー社製のチーズを試食することができます。(要予約)


あ~自分はここがいいです。円盤型の大きなチーズを持って帰ったり、輸送したりするのは大変だからお土産にして買うのは大変だけれど、こういう試食専門店だったら全然いいです~。(笑)


これらのお店の住所アドレスは、この内容の情報元になっている先のURLの中のページに記載されています。興味のある方はぜひご覧になってください。


やっぱりチーズの国、オランダ、アムステルダムですね。


上のような写真の円盤型のチーズが店内に所狭しと積まれる姿って、やはりそこの原産地の国でないと存在しないチーズのお店ですね。



さて、ネット通販で単にエダムチーズを食べただけでは、やはりやや欲求不満。
それもハードタイプのチーズで食用にしては独特の臭みのある味。


やっぱり日本人のテイストにあった食用しての美味しいチーズ料理を1品くらい食べて、日記の締めにしたいと思った。やはり日本人はこっちだよ・・・的な。


横浜にあるチーズカフェに行ってきた。

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チーズ料理を食べさせてくれるお店は結構高級なところからいろいろあるのだが、ここは店内がとてもカジュアルな感じで若者向きのお店。自分にはこちらのほうが向いているな、と思いました。


女性の接客店員さんや、コックもみんなすごい若い。
とても活気があって元気をもらった感じでした。
すごく気分がよかったです。


チーズの世界はやはり女性の世界。店内は女性ばかりかな、と思ったけれど、カップルが多かったですね。自分はカウンターで女性店員にすごく優しくされました。


店内は、カジュアルで気取っていなくてとても雰囲気がいい。


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自分は事前にこれが食べたいというのをこのお店のHPのメニューで決めていた。やはりチーズのパスタと、ステーキをラクレットでチーズをたっぷりというのが狙っていたものだった。


ラクレットというのは、あのチーズをとろ~りと削ぎ落してかけることである。たぶんみなさんテレビで見たこと絶対あると思う。ラクレットはインスタ映えするということで、若者はみんなそのラクレットのとろ~りの瞬間を撮影してインスタにアップしていますね。いまとても大人気です。


自分もこれをやろうと思ったのです。(笑)
このラクレットが1番楽しみだった。


ところがいまはラクレットはやっていないという。
もうガックリ。(笑)


カウンターでよかったと思ったのは、パスタにチーズをまぶすその瞬間を見れること。コックさんも自分に見せるために、目の前でやってくれた。カウンターでよかった思った瞬間です。


こうやってチーズの塊のすり鉢状のものをドカンと目の前に置きます。これ全部チーズでできています。そしてナイフみたいなもので表面をそぎ落としてチーズをはぎ取ります。


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そして茹で上がったパスタとスープをそのチーズでできたすり鉢状の中にそのまま入れて、そこでチーズを満遍なく絡めトロットロにするのです。まさにチーズのすり鉢でチーズにまぶされながらチーズでトロっトロ。


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そしてチーズパスタ完成。


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これは最高に美味しい!


パスタでこんな美味しいのを食べたことない。チーズのなんとクリーミーで甘くて香ばしいことか!


量が少なかったので、足りなくて、チーズリゾットも注文しました。

そうしたらやり方はまったく同じ。


目の前にチーズでできたすり鉢をど~んと置く。
表面を削ってチーズをそぎ落とす。

そしてリゾットをこの中に入れてチーズとともに満遍なくかき混ぜる。


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そして出来上がり。チーズリゾット。


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これも溜まりませんね。こんな美味しいチーズリゾットもはじめて食べた。
普段あまりいいものを食べていないので。(笑)


これはカウンターにいたから楽しめたショーでしたね。


ところでチーズはハイカロリー。


それはわかっていたけれど、食事節制をずっと続けるとストレスがどうしても溜まってきます。1日くらい羽目を外すのはよいか、と思います。


明日からまた食事節制の生活と1万歩のウォーキングですね。






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アバドのマーラー [海外音楽鑑賞旅行]

バーンスタインのマーラーが感情移入全開、没入感たっぷりの熱い濃厚なマーラーなら、アバドのマーラーはクールで知的、明晰さを併せ持ったマーラーではないだろうか?


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バーンスタインのは、長時間観ているとあまりに濃厚でぐったり疲れてしまうんですよね。


大昔にまずマーラー入門ということで、バーンスタイン録音でその門をくぐった訳だが、やはり時代が経過するといまの時代にあった近代的なマーラー解釈が必要になってきた。


いろいろな巨匠がその足跡を残していったが、自分は近代マーラー解釈としてアバドとラトルを聴いてきた。住み分けは、映像作品のアバドに、実演のラトルという感じである。


そういう道を選んだのは、やはりともにベルリンフィルでマーラー解釈を進めていった指揮者だったという理由になる。ベルリンフィルは、カラヤンが長年そのポストについていたが、アバドが後任として進めていったアプローチにカラヤンが得意として膨大な録音を残していった古典派、ロマン派のガッチリ系の音楽に対して、アバドは、マーラーや新ウィーン楽派などの現代音楽を得意としていて、そういうカラヤンがやってこなかった苦手な部分を積極的に取り上げていこうとしたこと。ラトルもその道に追従したように思う。


アバドはマーラーだけではなく、ベルクやシェーンベルクなどの新ウィーン楽派にも非常に造詣が深かった。それは学生時代にウィーンで盟友メータとともに学んだからだ。


マーラーはシェーンベルクやその弟子ベルクと親密に交流したし、マーラーは彼らの音楽に格別の理解を示したし、彼らもマーラーの後継者としての意識が強かった。その証拠にメンゲルベルクのマーラーフェスト1920ではシェーンベルクは、アルマ夫人とともに参列している。


だからアバドのマーラーを語るときは、必ず新ウィーン楽派の音楽をペアで聴くような環境が多かったような気がする。


ラトルもまったく同じである。現地ベルリンフィルハーモニーでラトル&ベルリンフィルのマーラー第6番「悲劇的」を聴いたとき、その前半の曲はベルクの3つの小品だった。


そのとき、新ウィーン楽派を掘り下げて勉強してみようと思っていろいろ聴いてみたが、かなり理解不能であった。(笑)無調音楽&十二音技法の世界は簡単には理解できなかった。
 

ラトル&ベルリンフィルは2010年のアバドのルツェルン音楽祭で、この新ウィーン楽派の3人の作品を全曲演奏している。


演奏前に、ラトルが、


「今回はシェーンベルク、ヴェーベルン、ベルクの新ウィーン楽派の巨匠の3作品を一挙に演奏できることを大変興奮しております。これらの作品のコンビネーションの効果を感じるためにも、3作品全部が終わるまで拍手はしないでくださいね。 でも全部終わったあかつきには、3曲分の盛大な拍手をどうぞよろしく。」


とドイツ語でコメントした後、合計14曲が次々演奏されるという演出だった。


当時のハイパー・アバンギャルドな音楽だが、現代の人間が聴いてもその前衛ぶりは衰え知らずだったようだ。やはり単純に音楽を聴くのみで、その音楽の構造を解釈することが一般人には到底不可能なスコアになっていると思われた。


ルツェルン音楽祭で、このような企画の演奏会を喜んで受け入れ推進したのがアバドでもあったわけで、このように自分の中では、アバドとラトルは常に一緒の方向性にあったという理解だった。


そしてマーラーと新ウィーン楽派はいつもペアだった。


アバドとラトルは、カラヤンとの色の違いを主張するためなのか、このマーラーや新ウィーン楽派3人の作品など現代ものを好んで積極的に取り上げる傾向にあると常々思っていた。


それは、ともにカラヤンという偉大な亡霊に悩まされ、ベルリンフィルを率いていかないければならない運命にある立場だった彼らだったからこそ目指したブレークスルーだったのだと思う。


アバドは、高潔の人物ですので、自分を主張することなく、回りから押し上げられて高みに昇りつめた人。カラヤンの亡霊に悩まされて..... それがルツェルンで誰はばかることなく、音楽に没頭しているアバドは永遠の青年のように活き活きしている感じがしたものだ。



2002年、ベルリンフィルを退いてからは、ルツェルン祝祭管弦楽団を再編成し、世界最高のオーケストラと称されるまでに発展させた。また、若者達の育成にも愛情を注いだ。望む作品、共演したいソリストを集めての晩年の演奏会では、マーラーの作品を取りあげることが多かった。


「私は、自分の苦痛を通して、偉大な作曲家の苦しみを共感できるようになった。例えばマーラーのように。いかなる苦難を乗り越えて、彼が偉大な作品を生み出したことか!私は自分の苦しみを通して、音楽がその最良の治療法であることを真に理解することができた。」


胃癌を克服して奇跡のように指揮台に戻ってきたアバドであったが、彼を癒したのは、まさにその音楽の力だった。


このようにインタビューに答えている。(眞鍋圭子さん(音楽ジャーナリスト)筆)


自分にとって、クラウディオ・アバドはシカゴ響、スカラ座やベルリンフィルのときではなく、このルツェルン音楽祭をリードしていたときが一番輝いていた。


アバドのマーラー録音は、1970年代にシカゴ響やウィーンフィル、ベルリンフィルと録音したマーラー全集がある。なぜか、すごい値段が高いCDなのだ。いわゆるアバドの全キャリアを通してのマーラー録音をおこなってきた作品をひとまとめにした総集編的なものだと思います。だから値段も張るCDなのだと思う。アバドのマーラー録音で最も代表的な作品だと思います。



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マーラー交響曲全集 
アバド&ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、シカゴ響(12CD)



ベルリンフィルのときには全集とまではいかなかったが、数枚の録音をおこなった。第6番「悲劇的」だけはSACDです。


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そして、なんと言っても、自分にとってのアバドのマーラーといえば、ルツェルン音楽祭でのルツェルン祝祭管弦楽団を率いてのマーラー交響曲全曲演奏会である。


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2000年代に毎年1曲ずつ音楽祭で演奏され、その演奏の模様が収録され、EuroArtsからBlu-rayで発売された。これを全部コンプリートしようとコレクター魂に火が付いた。


なにが斬新であったかというと、マーラーの交響曲全集の映像ソフトが、高画質のBlu-rayで発売される、というところが堪らなかった。


もう何回も説明しているけど、敢えてもう一回言わせてもらうと、クラシックの素材のBlu-rayソフトって当時は圧倒的にオペラが多くて、オーケストラコンサートは2008年にゴローさんのNHKの小澤征爾さん&ベルリンフィルの悲愴が最初だった。


だからBlu-rayでオーケストラコンサートを楽しむにはまだ時期尚早であった。そこに来て、アバドのルツェルンのマーラーツィクルスが全曲ともBlu-rayで出るというのはマニアには堪らないニュースだったのだ。


EuroArtsは欧州を代表するもう超有名な映像ソフト会社ですね。


マーラーファンにとってこれはまさしく金字塔で絶対コンプリートしようと誓ったのだ。しかもサラウンド音声だ。


このツィクルスを全部Blu-rayでコンプリートすることこそ、近代のマーラー解釈を入手できることだ、と思っていた。近代マーラー解釈として、映像ソフトのアバドに、実演のラトルというのはそういう意味である。


そしてご覧のように、見事コンプリートしました。(第8番が見つからないんですよね。ひょっとしたら自分の勘違いで8番はBlu-rayになって発売されていないのかも?あるいは8番収録だけ未完でアバドが亡くなったのかも?))


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これを収集して徹底的に擦り切れるくらい見まくったのは、2010年~2012年の3年間。


自分にとってこの映像を見て、アバドのマーラーってなんぞや、というのがわかったような気がした。バーンスタインのときもそうだけれど、やはり映像素材のインパクトって大きい。CDの録音を聴いているだけで、どうこう議論することもできるけれど、映像を見ちゃうと、なんぞや!が一発でわかる。


これを全部コンプリートするには少々障壁があった。


自分が集めだした当時、交響曲第2番「復活」だけが、著作権の問題で日本で販売されていなかった。なぜに?と思って、悔しい思いをしていたが、ゴローさんが、海外のアマゾンを使えば、入手できるかも?とアドバイスをくれた。DVDやBlu-rayは再生するときリージョンコードがあるが、BDはDVDほど細かくなかった。


海外のアマゾンを使うという手段があるとはまったく知らなかった。アマゾンUSAとかアマゾンUKとか、アマゾンDEとか・・・結局、アマゾンUSAで入手することができた。そして家に配送され、恐る恐る再生したところ、無事に再生できた。


やったー!ついにコンプリート!となったのである。

でもそうは簡単に問屋は降ろさなかった。


今回のマーラーフェスト2020の事前準備としては、映像ソフトはもう文句なしにこのアバドのルツェルン音楽祭のBlu-rayで予習をしようと思っていた。こんなときのために揃えていたのだ、と。


そうしたらこの2番「復活」を再生したときにメニュー画面がおかしい。3番もなにかおかしい。物理メディアというのは長期間棚に保管してくと、その保管環境に応じてダメになって再生不能になるということを聞いたことがあるので、それだと思った。物理メディアは一生もんじゃない。


なんと!我の汗と涙の結晶が全部泡となって消えたのか・・・


あまりしつこく再生しようとするとBDプレーヤーが故障してしまいそうだったので、あえなく断念。(いまBDレコーダ壊れたら、買う予算もないし、番組録画できなくなり本当に日常生活困ってしまう。)


ネットで買いなおそうと思ったら、これしかなかった。
昔の単盤での販売は、数枚を除いて全部廃盤になっていた。


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マーラー交響曲第1~7番、他 
アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団(4BD)



なぜか、第1番~第7番の全集で、第8番、第9番なし。
笑ってしまった。なぜこんな中途半端なの?


結局第1番~第7番までしっかり予習しました。第9番は、自分の昔の単盤が再生できるかもしれないけれど、BDプレーヤ壊したら怖いので再生していません。なんともギャグのような顛末だが、いかにも自分らしくて笑える。自分の人生なんてこんなもんだ。(笑)


アバドのマーラーは、バーンスタインのような過剰な感情移入をしない。とてもクールで、ある一定の距離感をいつも保っているように感じる。とても明晰で繊細だけれど、どちらかと言うとしなやかさがあって明るいイメージの爽やかな演奏だと思う。


新しいマーラー像を打ち立てたと言ってもいいと思う。

のちの明晰派マーラーの先駆け的存在になったのではないだろうか。


またアバドは、第6番「悲劇的」については、シカゴ響の頃は、スケルツォを第2楽章に、アンダンテを第3楽章にという従来のスタイルをとっていたが、初めてベルリンフィルに客演したときから、近年の国際マーラー協会の見解にしたがってアンダンテを第2楽章に、スケルツォを第3楽章に置くなど、マーラーの最新研究に準じた方針をつねに先んじて取り入れていた。


この第6番の中間楽章の順番については、アバドが最初に取り入れて、ラトルもそれに準じた形である。このように近代のマーラー研究、解釈につねにアンテナを敏感にしていたので、”アバドのマーラーは新しい”というイメージが自分にはあった。バーンスタイン以来、マーラー指揮者の中では最先端のマーラーの近代解釈を引き下げてクラシック業界を引っ張っていったのがアバドであった。


いまの自分には、アバドのマーラーのほうが体質的に受け入れやすいし、自分に合っているように思う。


アバドのマーラーの特徴にやはり終演後の沈黙がある。特に有名な第9番のラスト。アバドならではの流儀。昨今のフライングブラボーなんてなんのその、本当にルツェルンの観客のマナーはすごいものだと感心してしまう。


ルツェルン祝祭管弦楽団は、まさにアバドだから可能になったスーパーエリート奏者を集めたスーパー軍団。マーラー室内管弦楽団の団員を中核として、ベルリン・フィルのメンバーや、ザビーネ・マイヤー、ハーゲン・カルテットやアルバン・ベルク・カルテットのメンバーなどが参加する本当にスーパー軍団なのだ。


第2番「復活」のときは、ハープの吉野直子さんの姿も見えました。演奏するメンバーをカメラが抜くのだがもう圧巻ですね。


そして今回新たに発見だったのが、たぶんそうではないのかな?とずっと思っていたのだけれど、今回久しぶりに見たらやはりそうだった。


オーボエ奏者の吉井瑞穂さんの姿があった。


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吉井瑞穂さん


昔見ていたときは、このベルリンフィルのアルブレヒト・マイヤーの隣に座っているアジア人の女性オーボエ奏者は誰なのだろう?とずっと当時不思議に思っていたのだ。(マイヤーとは師弟関係)(1番、4番を除いて、全公演に出演しています。)


まさか吉井さんだったとは!


いまだからようやく一致しました。(笑)


吉井さんはずっと長い間ヨーロッパで活躍されてきて、アバドに評価・抜擢され(共演200回以上とか!)、ベルリンフィルとかルツェルン祝祭管弦楽団、マーラー室内管(現在も所属)に在籍でずっと活躍してきたすごいキャリアは存じあげていたが、自分の頭の中でいまいち距離感がつかめなかった。


でもこの映像ソフトを見てそうだったのか!と一気に・・・。
鎌倉出身です。


今年の秋にマーラー室内管と内田光子さんとで来日公演があるそうなので、ぜひ今度はじめて実演に接してみたいと思います。


ものすごい楽しみです。



アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団は、2006年10月に来日しており、サントリーホールでマーラー交響曲第6番「悲劇的」を演奏している。マイミクさんたちもこの公演に行かれ、素晴らしい名演だった、という話はよく聞いている。


1995年には、ベルリンフィルを率いて来日しているが、そのときはマーラー交響曲第2番「復活」を披露した。そのときも超絶名演だったが、そのときの話題として合唱のスウェーデン放送合唱団の知名度を日本国内で上げたことだ。


スウェーデン放送合唱団は、いまでこそ飛ぶ鳥を落とす勢いの名門合唱団だが、日本で有名になったのは、このときの公演の素晴らしさからだった。アバドのプロデュースは凄い。


ソリストと指揮者の関係で、やはりその時代に応じて、その指揮者に呼ばれるソリストの顔ぶれが違ってくるが、アバドがプロデュースして連れてくるソリストは、自分の世代だよなぁと思うことしきりだ。


アルゲリッチ、ポリーニ、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター・・・みんなアバド時代に表舞台に出てきたスターたちばかりだ。


そういう意味で、アバドはやはり自分にぐっと近い世代の存在だと思う。


マーラー没後100周年記念コンサートでは、ベルリンフィルで「大地の歌」第10番アダージョを披露している。アンネ・ゾフィー・フォン・オッターとヨナス・カウフマンのコンビで。


当時、NHKのBSプレミアムシアターで放映され、録画してあります。
またこの公演は、ベルリンフィルのデジタルコンサートホールでも見れます。




2013年度のときに、人生でようやく初めてのルツェルン音楽祭を経験して(しかもオープニング初日!)、KKLでアバド&ルツェルン祝祭管弦楽団のベートーヴェン英雄を聴いた。前半は藤村実穂子さんも出演。


そしてその年の秋に、このコンビで日本に来日予定で、きちんとマイミクさんの分のチケットも取っておいたのに、まさかの突然のキャンセル。その頃から容態の悪化を噂されていた。


そしてまもなくご逝去。


結局あのときが今生のお別れだったんだね。


やっぱりこのように自分にとってアバドはマーラーなんですよね。


たくさんの巨匠たちがマーラー録音を残してきたが、自分にとっては、やはりアバドとラトルなのだ。






 
 




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バーンスタインのマーラー [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーの死後、マーラーの作品はほとんど演奏される機会がなかった。マーラーのよきサポーターであったメンゲルベルクや、直弟子であったブルーノ・ワルター、そしてマーラーから作曲や指揮法を学んだオットー・クレンペラーは、確かにマーラーの作品を取り上げ録音を残した。


しかしマーラーの作品を後世に渡って真に世に普及させ、商業的な成功に導いたのはレナード・バーンスタインであることは誰も異論はないであろう。もうこれは歴史上の事実で定説なのだ。


昨今のマーラーブームの礎を築いたのがバーンスタインなのだ。


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バーンスタインは、自分のことを”マーラー音楽の使徒”と考えていたところがあって、”We Love マーラー”のキャンペーンもやったりして、その頃はあまり演奏される機会のなかったマーラー音楽をこの世に普及させていこうという使命感に燃えていた。


「マーラーは、交響曲の分野で、20世紀の最も重要なイヴェントになると確信している。」と予言していた。


「つぎの時代には、必ずマーラーが来る」と言ってはばからなかった。


自分もマーラーに初めて取り組んだときは、まずバーンスタインの録音で勉強をした。バーンスタインの作品でマーラーを勉強するのが、筋なのだろう、王道なのだろう、と疑いもしなかった。


マーラーの交響曲全集をはじめて録音したのがバーンスタインである。


CBS(のちのCBSソニーで、いまのソニーミュージックの前身)でその全集を作った。
もちろんこの頃はアナログLPの全集という意味ですよ。


アメリカ初出LPボックスのアルバム
まさしく録音史上初の「マーラー:交響曲全集」である。

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だからその記念すべき初めてのマーラー全集は、いまはソニークラシカルが版権を持っている。自分はこのCBSに録音した初のマーラー全集のCD-Boxで持っているが、今回ネットでいろいろ調べていたら、すごい危険なものを発見してしまった。(笑)


見なければよかった。(笑)


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なんとソニークラシカルから、この初のマーラー全集をシングルレイヤーのSACDでマスタリングしたSACD-Box(9枚組)が出ているのだ!日本独自企画。完全生産限定。2018年に発売されている。完全生産限定だけれどまだ売り切れていません。


2万円!!!でも欲っすい~。ここで散財したら、なんのための旅行貯蓄をしてきたのかわかんない。あまりに危険すぎる。


全然気が付かなかった。2年前はマーラーといっても素通りだったからね。
ソニーは、やはりこの初のマーラー全集の版権を大切なビジネス源だと思っているんですね。


そのページから当時の初全集録音に纏わる写真をちょっと拝借。



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1963年9月、マンハッタン・センターでの交響曲第2番の録音セッション



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マーラーの肖像がプリントされたシャツを着てリハーサルに臨むバーンスタイン(1970年代)

 


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1960年4月16日、マンハッタン・センターでのブルーノ・ワルターによる「大地の歌」のセッションを訪れたバーンスタイン



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1961年4月、マンハッタン・センターでの交響曲第3番のレコーディングでマーサ・リプトンと




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1967年10月、「マーラー:交響曲全集」のLPアルバムを手にして喜ぶバーンスタイン。アルバムのボックスケースを持っている左の人物はプロデューサーのジョン・マックルーア、バーンスタインの右はフェリシア夫人、コロンビア・レコード社長クライヴ・デイヴィス



結局、バーンスタインはマーラーの全集を3回作っているのだ。(ソニーに1回、DGに2回)


いち早くアメリカ時代の1960年代にこのCBSによる交響曲全曲をセッション録音して、1970年代に交響曲全曲の映像をライヴ収録(DG)、晩年の1980年代にもライヴ録音で全集(DG)に取り組みながら、第8番の収録を残し完成間近に世を去っている。


最後の1980年代の第8番だけ未収録の未完のDGへのライブ録音は、結局DECCAに録音した「大地の歌」、ザルツブルク音楽祭のライヴである第8番「千人の交響曲」、さらに映像用に収録された第10番を加えて全集の形にこぎつけた。



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マーラー:交響曲全集&歌曲集 
バーンスタイン&VPO、コンセルトヘボウ、NYP、他(16CD)




1966年~1988年の22年かけて収録。マーラーとつながりの深かったウィーン・フィル、コンセルトヘボウ、ニューヨーク・フィルを指揮してバーンスタインが思いのたけをぶちまけた過激でヘヴィーな録音。


このマーラー所縁の3楽団を使っての録音というのは、もう彼の意図的な強い意識の現れですね。


初めてのCBSによる全集も歴史的価値があると思うけれど、自分のマーラーを勉強するための基本はこの最後のDG全集でした。これで初めてマーラーを勉強した。22年間かけての録音の賜物はやはり一番の価値があると思う。これがバーンスタインのマーラー全集の最高傑作だとまで思う。



いまマーラーフェストに行くための準備として、自分が所持しているマーラー音源を全部復習して完璧にして臨みたいと思っている。そのトップバッターにやはりバーンスタインから入っていきたいと思いました。


まずバーンスタインのマーラーの映像作品。


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マーラー交響曲全集 
バーンスタイン&ウィーン・フィル、他(9DVD)




1970年代に撮られたライブ録音。バーンスタインの3回の全集録音の真ん中にあたる脂の乗り切った時期ですね。これはもう相当昔に何回も見て勉強した映像素材だけれど、いま全曲コンプリートしたら、ずいぶん新しい発見がある。


ウィーンフィル、ロンドン響とイスラエル・フィルで、ウィーン楽友協会、コンツエルトハウス、ベルリンフィルハーモニーなどでライブ録音、撮影されている。



本当にじつに久しぶりにバーンスタインの指揮姿の映像を見た。
(何年ぶり?いつ以来だろうか?)

そのとき自分が思ったこと。


バーンスタインは指揮者としてだけではなく、作曲家でもある音楽人であるということ。小刻みに踊るような指揮の歯切れの良さ、そしてそのリズム感のよさ。奏でられている音楽の波動とものの見事に整合している。


その指揮姿の映像を見ている自分が気持ちがよくて乗ってきてしまうくらいだから、演奏する側もさぞかし気持ちがよいに違いない。オーケストラからこれだけよく鳴る音を引き出す能力は、指揮者としての前に、まず音楽人である、その才能がそうならしめているのではないだろうか?


バーンスタインのマーラーは、途方もないスケール感と感情移入全開の歌い込みに特徴がある。濃厚なうたい回しと主情的な表現が一種独特の世界を醸し出す。とにかく熱くて濃いマーラー。この没入ぶりがまさしく「バーンスタインのマーラー」なんだろう。


よく言われていることだけれど、同じユダヤ人で、同じニューヨークフィルの音楽監督であることからバーンスタイン自身が、自分の姿をマーラーと重ね合わせて、ある意味陶酔している・・・それがこのちょっと半端ではない没入感ぶりとなっているに違いない。


もちろんマーラーだけでなく、ベートーヴェンやブラームスのドイツ音楽もみんなそのようなパターンなのかもしれないけれど、やはりバーンスタインのマーラーは別格というか、基本、彼はやはりマーラー指揮者なのだろう、と思う。


とにかくオケがよく鳴っている。ウィーンフィルがまるでベルリンフィルのようにこんなに機能的なオケの鳴り方をするというのは信じられない感じがした。



「新版 クラシックCDの名盤」(宇野功芳・中野雄・福島章恭 著。文春新書)の中で、中野氏がバーンスタインとベルリンフィルとのマーラー9番の一期一会の演奏会のあの名盤に際しこんなエピソードを披露している。


バーンスタインがベルリン・フィルに登場した翌週、常任のカラヤンが指揮台に立った。自分のオーケストラがいつになくよく鳴る。「私の前には誰が振ったんだ」と帝王。「バーンスタインです」と誰かが答える。一瞬面白くない表情をした彼は、「そうか。彼は練習指揮者としてはいい腕してるんだな」と、わざとらしい冗談でその場を胡麻化したという。カラヤンは二度とバーンスタインを同じ指揮台には立たせなかった。



このエピソードは、いろいろ調べていたら偶然見つけたものだが、この信憑性はじつに的を得ていると思う。現に、自分がバーンスタインのマーラー全集の映像作品を全曲コンプリートして、思った第一印象がこれだったからだ。


オケを気持ちよくさせて、じつによく鳴らしている。
ただ鳴っているだけでなく、演奏に躍動感がある。


カラヤンとはやはりタイプが全然違う。カラヤンは、やはりカリスマ、ある意味求道的な求心力で、統率するという感じだが、バーンスタインはもっと開放的だ。両雄並び立たずとも言われますが、それぞれの持ち味がありますね。


バーンスタインのマーラー第6番「悲劇的」のハンマーは3発なんだよね。(笑)
6番はずいぶん聴いてきたけれど、大抵は2発です。マーラーの最終稿も2発です。
3発目ってどこで鳴らすのか、昔から興味があったけれど、ここで鳴らすものなのか?(笑)


「第1の打撃は「家庭の崩壊」、第2の打撃は「生活の崩壊」、第3の打撃は「(マーラー)自身の死」」との意味付けで、「マーラーは「自身の死」を意味する第3の打撃を打つことができなかった」としている。バーンスタインの愛弟子だった佐渡裕さんがハンマー打撃を3度としているのは、佐渡さんの師であったバーンスタインの影響によるものだそうだ。


歌手が必要な曲については、登場する歌手は、やっぱりこのバーンスタインの時代の歌手というのが興味深いですね。交響曲第4番については、なんと!あのエディット・マティスが登場する。もう大感動!やはりすごいキュートで可愛い。これだけの美貌であれば、当時すごい人気があったのがよくわかる。声はリリックで硬質な芯のある声質で楷書風の歌い方。マティスの歌っている映像ってYouTube以外にきちんと映像ソフトになっているのは少ないので、これは本当に貴重です。


フィッシャー・ディスカウもそうですね。この時代が黄金時代でした。


とにかくCDのオーディオを聴いてるだけでは、わかりにくいけれど、映像でバーンスタインの指揮を見ていたら、もう一発で、「バーンスタインのマーラー」というのがこれだ!というのがピンと来てしまう。それだけインパクト大な作品です。バーンスタインのマーラーを知りたいのなら、まずこの映像作品を見ることをお勧めしたいです。



そして1980年代の最後のDG全集。自分が初めてマーラーを勉強した録音。


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なんと調べてみたら輸入盤と国内盤の2つ持っていました。いま聴いても、録音もそんなに古いとは思わないし、バーンスタインの没入感たっぷりの熱くて濃いマーラーが聴ける。聴いていて本当に懐かしかったです。



そして、いろいろ異論はあるとは思うが、マーラーの最高傑作とも言われている第9番で、ベルリンフィルにたった1回だけ客演したという名盤。もうこれは超有名盤ですね。自分は最初はCDで持っていましたが、エソテリックがSACDにマスタリングしたレア盤をすかさず購入していまこちらを愛聴しています。


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この盤、いまはエソテリックではないけれど、シングルレイヤーSACDでマスタリングされた録音が売られているので、こちらのほうをリンクしておきますね。



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マーラー交響曲第9番 
レナード・バーンスタイン&ベルリン・フィル(シングルレイヤー)



まさに”一期一会”とはこのこと。


1979年10月4・5日、バーンスタインは生涯でただ一回、ベルリンフィルに客演。自ら「最愛の作品」と語るマーラーの第9交響曲を指揮した。同じ時期にカラヤンもまた同じ作品に関心を持ち始めており、バーンスタインの練習ぶりにベルリンフィルのメンバーは戸惑い、コンサート演奏は特殊な緊張感があるものの、決して第一級の演奏とはならなかった。


もうこの一期一会の録音については、いろいろ面白おかしく数えきれないエピソードがありますね。みんなそれってどこから聞いてきたの?情報源は?という感じで、本当にミステリアスに話を仕上げています。


カラヤンとバーンスタインとの強烈なライバル意識。このエピソードを知ると、もうそれだけでゾクゾクする、というか、そういう危険なシチュエーションだったからこそ、結果としてベルリンフィルにしては傷だらけの演奏だったにも関わらず、第9番の超名盤ならしめているところがあるのでしょう。


この逸話をネットで調べていたら、こんなエピソードありました。紹介します。
もうこの録音に関しては、こんな話がたくさんあります。


このころ、すでにカラヤンとベルリン・フィルとの間には不協和音が充満していたが、「カラヤン帝国興亡史―史上最高の指揮者の栄光と挫折」(幻冬舎新書)の中で、このコンサートについて著者の中川右介氏は次のように書いている。


1979年10月4日と5日、ベルリン・フィルの「カラヤン離れ」を象徴するコンサートが行なわれた。ついにレナード・バーンスタインがベルリン・フィルを指揮したのである。曲はマーラーの交響曲第9番。一期一会の名演として、いまもなお伝説となっている。


バーンスタインがベルリン・フィルを指揮したのは、これが最初で最後となった。


カラヤンがどのようにバーンスタインの出演を妨害したのかは、噂として語られるのみである。帝王とその側近たちは具体的な文書を残すようなことはしない。


オーケストラ内部の、バーンスタインを招聘しようと考える人々がいかに用意周到であったかは、結果が物語っている。音楽監督であるカラヤンの承認を必要とする、ベルリン・フィルの定期演奏会にバーンスタインを呼ぶような愚作はとらなかった。


毎年ベルリン・フィルが客演することになっているベルリン芸術週間に、バーンスタインを招聘し、さらに、反対する者が出ないように、コンサートの収益はアムネスティ・インターナショナルに寄付することを決めた上で、発表したのである。


あくまで、バーンスタインもベルリン・フィルとともに、ベルリン芸術週間に呼ばれて出演するかたちをとった。これであれば、カラヤンも反対はできなかった。



実際聴いてみるとわかるが、バーンスタインとベルリンフィルの息もつけぬ緊張感溢れるスリリングなやりとりに手汗を握る感じで、結果として名演とは言い難い傷が多い演奏だった。


有名なのは、終楽章の第118小節でトロンボーンがまったく鳴っていない。「落ちてる」とか・・・いろいろ。でもこういった背景があっても尚、第9番の超名盤と言われるのは、やはりなにかそこにカリスマ的な危険な香りが匂うからではないだろうか。まさに一期一会のスリリングな演奏である。


自分はこの危険な香りにやられました。かなり好きな録音です。


この盤を自分が日記で意識して取り上げたのは、2011年のラトル&ベルリンフィルのサントリーホールでの来日公演でマーラー第9番を演奏するときの準備として取り上げました。


自分の第9番の演奏としてのメモリアルでは、このラトル&ベルリンフィルの演奏は素晴らしく忘れられないものになりました。自分の第9番としての現代の名演です。


日本公演でのイスラエル・フィルとのマーラー第9番


バーンスタインのマーラー第9番の録音としては、1985年のイスラエル・フィルとの録音がある。


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マーラー交響曲第9番 
バーンスタイン&イスラエル・フィル(1985年8月ライヴ)(2CD)



ただ、このレコーディングとは別に、比較するもののない空前絶後の大演奏として語り草となっているのが、1985年9月の来日公演でバーンスタインが指揮したマーラーの第9番。終身桂冠指揮者としてイスラエル・フィルを率いた全9公演のうち、マーラーの第9番を演奏したのは4公演、なかでも初日3日の大阪・フェスティバルホールと、8日の東京・NHKホールがことのほか凄絶な内容であったとは衆目の一致するところのようで、8日の東京公演を目の当たりにした音楽評論家の許光俊氏も、当時を振り返り次のように述べている。
 
「実際、あれ以後、この曲でそれ以上の演奏は聴いていません。期待もしていないほどです。あまりに強烈すぎて、あれ以上のは、バーンスタイン自身が蘇らない限りあり得ないと思われます。」


「あのときは、まず大阪で演奏会があり、吉田秀和がそれを絶讃する評が東京公演の直前に朝日新聞に掲載された。ただの名演奏と言うよりも、歴史的な大演奏とか何とか、そんなことが書かれていたように記憶している。それは嘘でもなければ大げさでもなかった。今でこそ、曲が静かに終わったときには拍手を控えるようになった日本の聴衆だが、かつてはそうではなかった。むしろ逆で、すばやく拍手するのが礼儀だと信じられていた。ところが、この時ばかりは二十秒も沈黙が続いた。何しろ、黒田恭一がそれに仰天して、後日バーンスタインとのインタビューでわざわざ触れたほどだ(もっとも、バーンスタインはそんなことは意に介さず、マーラーの魂が話しかけてきた云々と彼らしい怪しい話をしていたのだが)。・・・」


音楽評論家としてここまで言うか、という大絶賛である。


吉田秀和さんや黒田恭一さんが出てくるところが、当時の背景を表していて懐かしいですね。自分の周辺の近いクラシックファンの方も、この演奏は、マーラー演奏としては空前絶後の名演だったようで、この公演がバーンスタインの最高のパフォーマンスと口をそろえて言う。



くっ~。羨ましい、そして悔しい~。
自分は、この1985年のときは、まだ大学生で北海道にいました。(笑)


クラシックの世界で、こういう歴史的名演に立ち会えなかった。そしてそれが壮絶な名演だった、と皆々が口にするのって、これほど悔しいものはありませんね。(笑)


NHKホールでもあるから、当時のその演奏の録音が残っている可能性もあるが、それが公に出る可能性もいまのところない。


その代わり、同年の1985年に録音した同じイスラエル・フィルとの第9番との録音を聴いてみる。


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セッション録音なのかな。音つくりがとても丁寧で、音色の厚み、定位感などとても安心して聴いていられる録音。確かに第9番の録音としては素晴らしいできだと思います。ただ自分は平和すぎるというか、安心すぎるというか、この9番の持つ”死”の匂いが感じず、あのベルリンフィル盤の悲壮感のほうが自分に来ます。とても丁寧な演奏、録音なのだけれど、9番はもっと悲壮でもいい。





そして最後に、CBSに録音した初のマーラー交響曲全集のCD-Boxを持っているので聴いてみる。自分が持っているこのCD-Box盤はもう廃盤ですね。デザインがリニューアルされています。いつまで経っても、このCBSに最初に録音した録音史上初のマーラー交響曲全集は不滅の名作なのです。


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いい録音。全然古臭くない。熱いこってりとしたバーンスタインのマーラーが聴けます。予想以上にいい録音なので、驚きました。そして、いまの現代解釈のマーラーと比較して、全然遜色なくて、やっぱりマーラー演奏ってバーンスタインの演奏が教科書になっているんだな、と思いました。


当時としては、驚きだっただろうなぁ。


ちょっとバーンスタインからレールを離れますが、マーラーの直弟子であったブルーノ・ワルターのマーラー選集もこの機会に新たに購入して聴いてみました。


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自分はこういう古い録音は、昔ならいざ知らず最近は全然触手が伸びませんが、久しぶりに聴きました。しかもモノラル音源。やっぱり最初はそのナローバンドな音にしかめっ面でしたが、慣れてくるとやはりこれもバーンスタイン録音と同じで、その演奏解釈は歴代刻々と受け継がれているんだなと思いました。現代解釈とまったく違和感ないのです。


特に第1番「巨人」は完璧な造型に豊潤な情感を盛り込んだ稀代の名演として知られ、同じレーベルに所属していたバーンスタインが、この演奏を聴いた感激から自身の録音計画を放棄したエピソードはあまりにも有名。


バーンスタインについてもブルーノ・ワルターはマーラーを極めるうえで、まさしくマーラー自身を知る先人で頭が上がらなかったのでしょう。


以上、長々と書いてきましたが、これが自分の体験してきたバーンスタインのマーラー感。体験してきた、というのは、そのままその音源を持っているという意味になります。


バーンスタインについて自分が知っていることを全てとにかくガムシャラに詰め込んだ、という感じで文章としてのまとまりもないけれど、自分はスッキリしました。


これらが、自分のマーラー音源の土台、基本でした。






 

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マーラーの作曲小屋 [海外音楽鑑賞旅行]

グスタフ・マーラーは生涯に3か所の作曲小屋をつくった。


2013年にザルツブルク音楽祭に行ったとき、モーツァルテウムの通称「バスチオン(砦)庭園」内に、モーツァルトがウィーンでオペラ「魔笛」の一部を作曲したと言われる小屋があって、いわゆる「魔笛の小屋」といわれる作曲小屋を見学したことがあった。


そのとき思ったことは、クラシックの有名な作曲家は、なんでこんな狭いスペースに籠るのが好きなのだろうか、と思ったことだ。(笑)


普通の庶民の感覚で考えれば、豪邸で広いスペースのリビングで作曲したほうが、効率もいいと思うものだ。


マーラーが生涯で作った3か所の作曲小屋の写真を拝見して、う~ん、やっぱりクラシックの作曲家は狭い場所に籠ったほうが、アイデアが出やすいのだろうか、という思いを強くした。


小説家もそうかもしれないが、創作活動というのは、普段自分のいる空間ではなく、場所を変えると全然捗るということが常なのかもしれない。


”普段と違う場所”というのがキーポイントなのかもしれない。


自分がそう思うのは、旅先でホテルの部屋でパソコンで文章を書いているほうが、全然効率がいいと感じるからだ。綺麗に清掃された部屋で、旅行でハイな気分で、ベッドの隣に配置されている机の上でパソコンで書いているときは最高に気持ちがいい。頭の回転がすこぶる早い。


作曲小屋という発想は、そんなところから来るのかもしれない。


マーラーの建てた3つの作曲小屋は、どれも修復され、現在は観光スポットとして存在している。


小屋の中は、当時の時代の古楽器のピアノが置かれたり、マーラーの肖像写真が何枚も壁にかけられたり、とかで完全に綺麗にドレスアップされている。


こういうマニアックな観光スポットは自分の好奇心、行ってみたい病を激しくくすぐり、ぜひ行ってみたいと思うのだが、海外に渡航する費用をこのためだけに予算化するのは、ちょっといまの体力では無理かなぁと感じる。


ここではネットの写真を紹介して楽しむだけに留める。ネットに転がっている写真は、誰かが投稿した写真ということだから、情報の出どころと原文サイトも紹介する、という配慮をする。


みなさん、マーラーの作曲小屋について、実際の行き方の手順の写真や、標識の写真、現地で実際体験されて、楽しまれているようで、マニアックなコアなクラシックファンの方ばかり。


作曲小屋の由来や、そのときのマーラーが置かれている背景など、そして作曲小屋の雰囲気(小屋に入ったらセンサーが勝手に働いて、マーラーのBGMが流れるところもあるそうだ。)など、じつに見識深い内容で参考になります。


ぜひ原文サイトのほうをご覧になってください。


私からは、簡単な説明だけにとどめておきます。



ザルツブルクカンマーグートのアッター湖畔のシュタインバッハーの街の作曲小屋


ザルツブルクの風光明媚な湖水地帯ザルツカンマーグートに、マーラーが、1893年の夏、交響曲第2番の第2楽章から第4楽章までを書き上げたのが、ザルツカンマーグート最大の湖アッター湖畔の街シュタインバッハ。


1896年の夏は、シュタインバッハの小さなホテル「フェッティンガー」に滞在、湖畔に作曲するための小屋を建て、早朝から午前の間、作曲に専念する日々を送った。交響曲第2番の他、交響曲第3番全楽章を作曲し、さらに交響曲第1番を改訂した。


ザルツカンマーグートは最高のスポットですね。自分も2013年にハルシュタットを観光。まさに”世界で一番美しい街”でした。


自然豊かで美しい湖畔の街シュタインバッハを訪れると、この最高の自然環境の中で、”普段と違う場所”の小さな小屋で作曲に没頭すれば、それはそれは素晴らしい旋律が自然と溢れてくるのであろう。


作曲小屋


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小屋内部


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(作曲小屋)

旅する音楽師・山本直幸の百聴百観ノート:第35回 マーラーの交響曲が作曲された場所



(小屋内部)

クラシックカフェ クラシックを気ままに聞くティータイム 2013/9/3 マーラー作曲小屋





オーストリアのヴェルター湖畔のマイアーニッヒの街の作曲小屋


マーラーは、1897年、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任、1898年にはウィーン・フィルの首席指揮者も兼務し、拠点をウィーンに移す。1900年~1907年の8年間は、オーストリア南部のヴェルター湖畔の街マイアーニッヒに別荘を構え、その裏山に小屋を建て、交響曲第4番~第8番を作曲している。


作曲小屋


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小屋内部


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(作曲小屋)

旅する音楽師・山本直幸の百聴百観ノート:第35回 マーラーの交響曲が作曲された場所



(内部写真)

Landschaft

マーラー「マイヤーニッヒの作曲小屋」




イタリアのトブラッハの作曲小屋


1908年~1910年の3年間の夏は、当時はオーストリア領だったイタリア北東部の山地ドロミテのトプラッハで過ごし、やはり小さな小屋で交響曲「大地の歌」、交響曲第9番、交響曲第10番(未完)を書き上げた。


作曲小屋


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小屋内部


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(作曲小屋)
ときどき軽井沢 小屋好きには嬉しい、マーラーの小屋

(内部写真)
チロル&ザルツブルク 落ち穂拾いの旅
7)マーラーの作曲小屋(トブラッハ/ドビアッコ)Ⅲ  2012年4月30日(月)



マーラーの作曲小屋に共通するポイントは自然が美しい風光明媚な場所であること、作曲期が夏であること、ですね。クラシックの作曲家の曲を聴いていて、その作風を肌で感じるとき、その作曲家が作曲したその場所、その風景が自然とその曲の作風の中に含まれている、というのは絶対あることだと思いますね。


マーラーの曲をよく知っている人ならば、これら3つの作曲小屋の場所に実際行ってみて、自分の足で立ってみて、その周りの風景を眺めてみたときに、あ~あの曲は、まさにここだから生まれた!というのがよく理解できるのかもしれないと思います。


でも予算がないから無理。(笑)










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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.4 [海外音楽鑑賞旅行]

1920年 マーラーフェスティバル・イン・アムステルダム


ウイレム・メンゲルベルクはコンセルトヘボウ・オーケストラの指揮者に就任して25周年を祝して彼の友人で聖像人に捧ぐフェスティバルを開催した。1920年5月の15日間の間、マーラーフェストとして、メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラとで、マーラーの9曲の全交響曲、嘆きの歌、さすらう若者の歌、亡き子をしのぶ歌、大地の歌、そして5曲からなるリュッケルト歌曲集が演奏された。


出席者として、アルマ・マーラー(貴族夫人とともに、ミュージアム広場のホテルに滞在している。)、そしてアーノルド・シェーンベルク、メンゲルベルクの弟子たちが参列した。


アルマはこう書いている。”アムステルダムに到着・・・港・・・船・・・帆・・・索具(船の帆とマストを支えるロープ・ワイヤ・滑車などの総称)・・・乱暴な押し合い、慌しい動き・・・肌寒い・・・どんより曇った・・・一言で言えばそんなオランダ。マーラーの音楽の第2の故郷の夕暮れはとても素晴らしい絶景だわ。”


それはとてもユニークなフェスティバル、たったひとつの野望のみ。



”バイロイトがワーグナー作品のすべてのパフォーマンスのスタンダードと成り得るように、アムステルダムはマーラー芸術の精神的な中心地であってきた。”


これらの言葉は、組織発起人 リュドルフ博士、そしてメンゲルベルク、マーラーの遠い親類によって語り続けられた言葉なのだ。


アムステルダムは、マーラー所縁の街として最も先をいく街となっていくだろう。



ここから掲載するマーラーフェスト関連の写真の情報元は、マーラー財団(Mahler Foundation)所有のものである。Copyrighted By Mahler Foundation


マーラー財団 (Mahler Foundation)



第1回目のマーラーフェスト(Mahler Feest)は、1920年に開催された。(1920/5/6~5/21)メンゲルベルクが、RCOを率いて、マーラーの交響曲、歌曲を全曲演奏した。


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マーラーフェスト1920 (Mahler Feest 1920)のポスター


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これがマーラーフェスト1920のPasse-partours(つまり全公演のセット券)
これは今回のマーラーフェスト2020でもPasse-partoursはあっという間の瞬殺で完売でした。


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アルマ夫人が宿泊していたホテル。いまのゴッホ博物館があるロケーションだとあるので、コンセルトヘボウの近くだったんですね。


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これはおそらくメンゲルベルク邸なのだと思われる。でも記載の住所にはウィーン(Vienna)という文字が書かれていて、ひょっとしたらマーラーのウィーンでの住居なのかもしれない。オランダ語が読めなくてスミマセン。


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マーラーフェスト1920・ブック。
フェストに関するすべてが記載されている総合プログラムだと思います。


今回のマーラーフェスト2020・ブックも発行されます。2020年3月に発売される予定で、もちろん購入予約してあります。一生の記念、宝物ですね。


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当時マーラーはアメリカに住んでいたので、アルマ夫人は、このマーラーフェスト1920に参加するために船で航海でオランダにやってきました。


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アルマはこう書いています。”アムステルダムに到着・・・港・・・船・・・帆・・・索具(船の帆とマストを支えるロープ・ワイヤ・滑車などの総称)・・・乱暴な押し合い、慌しい動き・・・肌寒い・・・どんより曇った・・・一言で言えばそんなオランダ。マーラーの音楽の第2の故郷の夕暮れはとても素晴らしい絶景だわ。



長い船旅を終えて、オランダ・アムステルダムに到着した一行。
ものすごい大所帯でやってきたんですね。


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アルマ夫人と新ウィーン楽派のアーノルド・シェーンベルク


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ダークスカーフとダークハットの女性がアルマ夫人、ダークハットで傘を持っているのがアーノルド・シェーンベルク。前列真ん中がロシア生まれでオランダで活躍したヴァイオリニスト、アレクサンダー・シュミラー(1880-1933)。


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真ん中にアルマ夫人、左の杖を持っているのがアレクサンダー・シュミラー(1880-1933)全員で記念撮影。


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前列の真ん中が、ロシア生まれでオランダで活躍したヴァイオリニスト、アレクサンダー・シュミラー(1880-1933)、前列右側が、ドイツと日本で活躍したロシア生まれのピアニスト、指揮者のレオニード・クロイツァー(1884-1953)。


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リチャード・スペヒト(1870-1932)(オーストリアの作詞家、作家)とその夫人。


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まさに船旅。アーノルド・シェーンベルクと右側の帽子をかぶっているのが、オランダ・アムステルダムの芸術・財務の市会議員のF.ヴィバート氏。


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フェスティバルでのリハーサルの最中のフォト。真ん中にメンゲルベルク。


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メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ・オーケストラのメンバーとのフォト。


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1924年 メンゲルベルクによる交響曲第10番の補筆。


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ウィレム・メンゲルベルクと彼のアシスタントのコーネリス・ドッパーは、交響曲第10番から2つの楽章の補筆をおこなった。メンゲルベルクはこの補筆作品を11月27日にコンセルトヘボウ・オーケストラと演奏し披露した。




1995年 マーラーフェスティバル1995


1920年のマーラーフェスト1920から25年、ふたたび特別にマーラーの作品すべてをとても大きなスケールで演奏するフェスティバルが開催された。今回はコンセルトヘボウ・オーケストラだけでなく、その他にウィーンフィル、ベルリン・フィル、そしてグスタフマーラー・ユーゲント管弦楽団によってマーラーの全作品が演奏された。

アムステルダム・コンセルトヘボウのメインホールの様子をそのまま野外で鑑賞できるようにパブリック・ビューイングのセッティングがミュージアムプレイン(ミュージアム広場:アムステルダム旧市街を抜けた先にある広場(公園))に設置された。


その他の場所でも、アムステルダム市アーカイブ所蔵のマーラーに関する展示会をおこなった。


このようにアムステルダムは、マーラー一色となったのである。



マーラーフェスト1995 (Mahler Feest 1995)のポスター


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この1995年大会のときは、RCO,VPO,BPOと三大オケが揃い踏みであった。
だから、その各々のオケ・ヴァージョンのポスターが作られたのだ。


コンセルトヘボウ版ポスター

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ウィーンフィル版ポスター

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ベルリンフィル版ポスター

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マーラーフェスト1995の開催を報じるオランダの新聞。


”メンゲルベルクからシャイーに至るまで。”
”我々の音楽ヒーローに基づいた国際的で巨大なフェスティバルが開催される。


準備のリハビリもなければいままでのリファレンスもない、いままでかつてない重要なフェスティバル。(そりゃRCO,VPO,BPO揃い踏みという過去に前例がないんだから。)”


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”マーラー・イン・アムステルダム、メンゲルベルクからシャイーに至るまで”の博覧会の折り込みチラシ。

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”マーラー・イン・アムステルダム、メンゲルベルクからシャイーに至るまで”の博覧会がオープン。広大な公園でAmsterdam Municipal Archiveが造営された。


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マーラーフェスト1995では、世界で最大のティンパニーが展示された。
両端110.5cmに至る世界最大規模。マーラーの交響曲では低音が強調されるように、と。
1920年にメンゲルベルクによって委託された。


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記念に発売されたマーラーフェスト1995のスタンプ付き封筒。

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”マーラー・イン・アムステルダム、メンゲルベルクからシャイーに至るまで”博覧会で記念に発売された本とCD。


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マーラーフェスト1995オリジナル手帳。見よ!交響曲第7番専用だ!

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これもマーラーフェスト1995のときに発売された本。”Gustav Mahler the World Listens”

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マーラーフェスト1995で特別に造営された大型テント。チケット争奪戦に敗れてホールに入れなかったお客さんをサポートする。朝10時からドキュメンタリーやレナード・バーンスタインの歴史的な録音を聴いたり、いろいろなものが大型スクリーンにパブリックビューイングされた。12時半からはランチコンサート。午後からは引き続きドキュメンタリー・フィルムが映写された。毎日夕方5時半から、音楽学者によって40分の講演があった。


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マーラーフェスト1995、ついにフェスティバル開始を伝えるオランダの新聞。シャイーの姿が!まさに歴史的瞬間!

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マーラーフェスト1995の記念プラーク(額)

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マーラーの娘、マリア・アンナ・マーラーが作ったマーラーのブロンズ胸像。
これは彼女が子供のころに自分の父を見てインスパイアされて作ったものである。


それをマーラー孫娘であるマリナ・フィツォーラリ・マーラーによって、マーラーフェスト1995のときにコンセルトヘボウに寄贈されたものである。


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1995/5/8 マーラーフェスト1995。リッカルド・ムーティ、ウィーンフィルを率いて、かつてのレナード・バーンスタインやクラウディオ・アバドの頃の70年代のときのマーラー音楽の熱狂を見事に演じて見せた。ウィーンフィルはマーラーの音楽を演奏する経験が少なかったので、これはひとつのエポックメイキングな事象であった。


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造営された大型テントでのカフェ。

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そしてこのマーラーフェスト1995のマーラー全曲演奏会は録音され、CD-Boxとなった。もうこのCD-Boxは何回も説明してきましたね。


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録音はオランダ放送協会によるもの。


このセットはベアトリクス女王も含むごく少数の人しか出席していない、コンセルトヘボウホールの前マネージャー退任記念パーティで配布された自主制作盤で、他にも世界中の大きなラジオ局には少数配布されたようなのだが、一般には全く流通していない大変貴重な非売品である。(もちろん権利関係ははっきりクリアした正規盤です。)


滅多に入手できない希少品で、中古市場で大変なプレミアがついて売られています。
こうやって自分もヤフオクで10万の大金をはたいて購入しました。
自分の宝物です。


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自分がヨーロッパに住んでいたとき、アムステルダムに同期の友人が住んでいて、このマーラーフェスト1995を体験しました。いままでマーラーは食わず嫌いだったのが、このフェストに通ったことで、マーラーに開眼したとか。自分もその友人から聞いて、このマーラーフェストという音楽祭の存在を知ったのでした。


去年、その友人とひさしぶりに飲んだとき、わざわざ持ってきて見せてくれた、そのときのマーラーフェスト1995のコンサートカタログ。4曲通ったから4部ある。マーラーフェスト1995は赤色がテーマ色でしたね。


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2020年 マーラーフェスティバル2020


ウイレム・メンゲルベルクによるマーラーフェスト1920から正確に100年後、コンセルトヘボウは再度、マーラーフェスティバルの大フェスティバルの舞台に立つ。もちろん1995年のときのように、コンセルトヘボウ・オーケストラの他に、ウィーンフィルやベルリンフィルもやってくる。今度の2020年度のときは、マーラーが1909年から1911年まで音楽監督を勤めていたニューヨークフィルもやってくるのだ。


そしてついに自分が体験するマーラーフェスティバル2020。


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マーラーフェスティバル2020のポスター

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まさに人生に1回のチャンス!


1920年大会、1995年大会も、マーラーフェスト、Mahler Feest なのに、今回から改称で、マーラーフェスティバル、Mahler Festivalになってしまった。フェスティバルは、なんか普通っぽすぎて面白くないというか、マーラーフェストのほうが、っぽくていいのに、歴史もあるし、と思うのです。


マーラーフェスティバル2020はどのようなイヴェントがありそうか、はいままでの日記で紹介した通り。いままでのフェストと同様に、きっとたくさんの記念グッズが売られると思うから、全部買ってくる予定です。(笑)それを入れるためのトートバッグ買わないといけませんね。


ミューザ川崎の売店で売っているトートバッグを買ってきましょう!










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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.3 [海外音楽鑑賞旅行]

1906年 マーラー、コンセルトヘボウで交響曲第5番を指揮する。


1906年3月8日、マーラーは、交響曲第5番をコンセルトヘボウで指揮をする。ウィレム・メンゲルベルクが、その作品については、コンセルトヘボウ・オーケストラと練習を積んでいた。そしてそのことが素晴らしいことを生むことにもなった。


マーラーは、アムステルダムからアルマに手紙を書いた。”すべてが素晴らしくリハーサルされていた、サウンドも素晴らしい。オーケストラは、とても幻想的で、私のことをとても好きでいてくれる。今回は退屈な重労働というよりは、本当に楽しんでできる、と思うよ。”


”ロッテルダム、ハーグ、アーネム、そしてハールレムと、私に引き続いて、メンデルベルクが、コンセルトヘボウを率いて第5番を指揮してくれた。”


あなたは、マーラーとアムステルダムの関係性、マーラーにとって第2の音楽の故郷については、広範囲な記事ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”について読むことができる。



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オランダを散歩する。

気の合う人同士で、アムステルダムのラーレンの荒れ地を散策する。左から右へ:ウィレム・メンゲルベルク、グスタフ・マーラー、アルフォンズ・ディペンブロック。



1906年 交響曲第6番の初演。


1906年5月27日、交響曲第6番は、エッセン(ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市)にて初演を迎えた。そこでエッセンとユトレヒトの地方自治体による混成オーケストラをマーラーは指揮した。


聴衆は、最高に熱狂していて、長い、そして狂喜に満ちた拍手で喝采となった。
しかし、プレスのほうは、その作品については、聴衆ほどの熱狂ではなかった。


あるレビューアーはこう書いている。”私は、いままで4つのマーラーの大曲を聴いてきたけれども、実際彼は同じことを言い続けてきている。もう耐え切れない感じだ。彼は金管楽器奏者の言語だけを知っている。彼はもはや我々と打ち解けて話そうという気は毛頭ない。彼は悲鳴をあげ、怒っているのだ。我々は、そのことに驚いて本当に不思議に思う。なぜ、このようなノイズを作るのか?”



1907年 ウィーンからニューヨークへ。


芸術家としての大きな成功をしたと同時に、感情的な議論や誹謗中傷を受けるなどの数年を過ごした後、1907年12月に、マーラーはウィーン国立オペラ座の音楽監督を辞任した。


オペラ座のスタッフへのお別れの手紙にこう書いてある。


”オペラ座の親愛なるスタッフのメンバーたちよ。ついにこのときが来た。私たちの協力はここに終わった。私にとってずっと親しんできたこのステージを去り、いまみなさんにお別れを言う。完成されたプロジェクトを置いていく代わりに、私が夢見てきたように、自分の背後にある大きな残骸から離れたいと思う。


熱い戦いの中においては、我々は傷つかざるをえなかったが、もし作品が成功していたならば、そのような痛みも忘れることができたであろうし、心豊かに褒美されていたことでもあろう。私といっしょに戦ってくれてありがとう。私の難しい、そして有り難く思われなかった作品に心いとわずして喜んで助けてくれてありがとう。お元気で。


マーラー音楽とのお別れは、交響曲第2番となった。
そのときの目撃者はこう書いている。


”拍手は、とめどもなく巨大で大きなものであった。それはハリケーンの力強さまでに膨れ上がり、その作曲家は思わず涙した。マーラーはステージに30回呼び戻され、女性たちは涙を流し、ハンカチでそれを拭った。「気を落とすな!という叫びが何回も飛び交った。」


マーラーがウィーンから離れる汽車に乗り込んだとき、マーラーはかけつけてくれたファンに手を振った。


アメリカ、正確にはニューヨークが呼んでくれた。
マーラーはメトロポリタン歌劇場と契約をした。


彼はまたニューヨーク・フィルなど数々のニューヨークのオーケストラを指揮した。

彼はすぐにはアメリカのコンサート・シーンに惹かれたり、馴染むことはなかった。


後にブルーノ・ワルターにこのように手紙で書いている。”ここの私のオーケストラは、真にアメリカの代表的なオーケストラである。無気力で才能のない・・・。”



1908年 大地の歌


1908年の夏、マーラーは大地の歌の作曲に取り掛かっていた。1907年の悲劇的な一連のできごと(ウィーン国立オペラ座監督の辞任、本拠地をウィーンからニューヨークへ移す)のおかげで、ますます作曲の道へ邁進することになった。


大地の歌はこのように我々に語っている。”暗闇は生であり、死でもある。”
マーラーは、大地の歌について、ブルーノ・ワルターにこのように手紙で書いている。


”私は、この新しい作品をどのように呼べばいいのか、まだわかっていない。でも私は本当に素晴らしい時間を過ごしてきたし、いままで作曲してきた作品の中でももっとも個人的な作品だと思っています。”



1908年 ソーセージポトフよりも錆ついたティンパニーやトランペット


交響曲第7番は、1908年9月19日にプラハで初演された。マーラーはオペラ・オーケストラから数人の奏者を引き連れてメンバーに加えて、フィルハーモニー・オーケストラを指揮した。


アルマ・マーラーはこのときの初演のときの様子をこのように記述している。


”私がプラハに到着したときは、マーラーは神経質になっていて、病気に近い感じであった。譜面が床一面に散らばっており、彼はすべてのおいて躊躇しており、人とのつき合いを避けていた。”


その後、20世紀の偉大な指揮者の1人になるオットー・クレンペラーはそのときの様子をこのように記憶していた。”リハーサルの後、毎日、楽譜を家に持ち帰っていた。私たちは、彼を助けたかったが、彼は断固としてそうさせなかった。


そしてついには、マーラーは第7番の初演のために20回のリハーサルを必要とすることとなった。”私は、いかにして居酒屋ではなく、コンサートホールに行き、いかにソーセージ・ポトフではなくティンパニーや錆びたトランペット、という彼の選択を理解したのである。”


そのようなもがき苦しみは、聴衆とプレスの双方において、時間と労力をかけるだけの値打ちのあるものとなった。




1909年 自分のささやかな家族に対する愛情的な想い。


1909年の夏、マーラーは交響曲第9番を作曲する。この曲のインスピレーションは最初は湧いてこなかった。マーラーは、周囲のノイズ、たとえば窓をガラガラと開けると近所の人たちによるささやき話や、家に鍵をかけようとしたときに、近所の人が歩いているときに靴のかかとが鳴る音だとか、そういう騒音にイライラとした。犬も同様に、早朝や夜遅くまで吠えているので、彼らもそのノイズを出す人たちの中の1人と、マーラーに思わせるのである。


しかし夏が終わる前に、マーラーは、ブルーノ・ワルターに手紙を書いた。


”私が知る限り、私がいままで見境なく書いてきた、そして最終楽章を壮大にオーケストレーションしてきた作品と違って、今回の作品は、第1楽章からして、すでに自分のささやかな家族に対する愛情的な想いがいっさい介在しない作品だった。長い間、喉まででかかって、なかなか思い出せなかったことを、全部言うと、この作品は第4番に似ている。。。でもかなり違うところも多い。


このスコアは、信じられないくらい急いで書かなければならなかったものなので、出来上がりはずさんで、読みにくい楽譜だった。


大地の歌のときのように、マーラーはこの第9番に対して、”死”という主題を避けることができなかった。彼は、第1楽章の行進曲をいかに憂鬱な葬式の行進のように演奏しなければならないか、と記述した。彼の書いてきた作品の中で、この第9番のように消え行くように静かに終わる曲は他にない。


楽譜原稿の最後の行のところに、'Leb! Wol! Leb! Wol!(さようなら、さようなら)と書き込まれている。'Farewell!' Farewell!(お別れ、お別れ)。ウィレム・メンゲルベルクは、マーラーが愛した芸術、夫人、そして彼の音楽とすべての世界に対して”Farewell!(お別れ)”と書き込んだ。


マーラーは、この第9番の完成を待たずして、この世を去った。



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アルマとグスタフが、外を散歩する。

アルマとグスタフは、第9交響曲を作曲している夏の間に、トーブラッハからアルトシュルダーバッハまで散策を楽しんだ。



1909年 マーラーはオーケストラといっしょに演奏する。


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1909年の秋、マーラーは再び、オランダに戻り、コンセルトヘボウ・オーケストラを指揮し、交響曲第7番を披露した。”ふたたび、すべてが素晴らしくリハーサルされていた。”マーラーはアルマに手紙を書いて、メンゲルベルクがオーケストラを十分ウォーミングアップして準備していたことを伝えた。


メンゲルベルクは、1週間フルに、朝から晩、その交響曲第7番をオーケストラと練習し、叩き込んでいた。ある一人の楽団員が思い出を語った。”いままで、ひとつの作品をこれだけ精度よくリハーサルしたのは初めてだった。”


その楽団員は、指揮者としてのマーラーについてこうも語っていた。”彼は偉大な師匠だ。彼は自分のシンフォニーを指揮するとき、体はほとんど動かずに、指揮棒を持つ右手というよりは視線を使ってオーケストラをリードしていた。


マーラーは、そのままオーケストラといっしょに演奏していた。すべての団員たちは、マーラーは、やむにやまれず少々暴君的な専制君主のように、自分のパートを演奏しなければならなかった、と感じていたことだろう。”


あなたは、マーラーとアムステルダムの関係性、マーラーにとって第2の音楽の故郷については、広範囲な記事ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”について読むことができる。



1910年 交響曲第10番のはじまり。


マーラーは、1910年に交響曲第10番の作曲を始めた。アダージョを完成させ、そして残りは、わずかにスケッチとして残した程度であった。


これらのスケッチには、音楽と書き込みが含まれ、ところどころに、'Fur dich leben, fur dich sterben, Almschi'のような書き込みなど、パーソナルなものであった。


アルマ・マーラーによると、これは1910年の夏は、夫婦の危機で仲たがいにあった時期だという。



1910年 フロイトとの面談。


マーラーは1910年にふたたびオランダに戻った。指揮をするだけではなく、オーストリアの精神科医であるジークムンド・フロイトを電撃訪問するためだった。後者はちょうど休日にあたり、ノールドワイクの海辺を散歩することになった。


マーラーは、精神分析家のフロイトに、アルマとの複雑な関係を相談していた。


フロイトの結論はこうだった。


”私はあなたの妻、アルマを知っている。彼女は自分の父を愛し、そういうタイプの男性のみを愛するタイプなのだ。あなたは心配だろうが、あなたの年齢を考えれば、間違いなく彼女があなたに魅力を感じていることは間違いない。心配するな!君は自分の母親を愛しているだろう。君もすべての女性に自分の母親のタイプを求めてきたんだから。”



1910年 勝利!


1910年9月12日、マーラーは交響曲第8番をミュンヘンで初めて初演した。


1000人を超える力で、コンサートはめざましい大成功となり、ドイツやその他の外国諸国のメディアも、その桁違いのイヴェントを報道した。


アルマ・マーラーはこう書いている。


”その中にいた経験者は、みな想像もつかない経験だったに違いない。想像がつかない、それはつまり、外界に発信された成功ということ。すべての人、すべてがマーラーに委ねられた。私は深く感動して、バックステージで待ったわ。私たちはホテルに戻って、そのとき2人の眼は涙で溢れていた。ドアの外にはニューヨークからJ.L.が待っていて、こう言ってくれたの。このような素晴らしい曲を書いた作曲家は、まさにブラームス以来の快挙・・・。”




1911年 死期が近づく。


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1911年4月8日、ニューヨークからヨーロッパへの最後の渡航となった船の上でのマーラーの写真。



1911年 モーツァルト!モーツァルト!


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1911年5月18日、ウィーンにてグスタフ・マーラー死す。彼の最後の言葉は、”モーツァルト!モーツァルト!”であった。


翌日、ウィーンのグリンツィング、娘のマリアの隣に埋葬されている。



1912年 交響曲第9番の初演


1912年6月26日 マーラーの友人のブルーノ・ワルターが交響曲第9番の初演をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とで指揮した。このコンサートでは、マーラーの9番の他に、ベートーヴェンの9番が含まれていた。







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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.2 [海外音楽鑑賞旅行]

1901年 グスタフ、アルマと出会う。


1901年11月初旬、グスタフ・マーラーは、宮廷画家、エミール・シンドラーの娘、アルマ・シンドラーと運命の出会いをする。彼女の記憶によると、彼女はこのように書いている。”マーラーはすぐに私に想うところがあった。”そして彼女も最初は婚約していた身であったけれども、同じようにすぐにマーラーに想う気持ちが沸き上がった。


その男は、酸素からできているようで、私が彼に触れたら、そのまま燃え上がるような感じであった。数か月にわたって情熱的な文通が交わされる。


あるレターでは、マーラーはアルマにこう書いている。


”親愛なる最愛の人よ。私は、人生の中で、一度でも私があなたを愛するのと同じくらい誰れかに愛されるということが起こるかどうか信じられなくなってきている。そして私の人生という船が、天国に辿り着くために嵐の中を勇敢に立ち向かっている、という言葉をあなたの口から直接聞くまで、私は頑固なまでに待つことができる。


アルマとグスタフは、1902年3月9日にウィーンのカールス教会で結婚式を挙げる。
彼らが出会って4か月経ってのことである。その年の11月3日に、最初の娘が産まれた。



1901 テーマがシンプル過ぎる。


1901年11月25日、マーラーはミュンヘンに居た。そこで彼は、交響曲第4番の初演でミュンヘン・フィルを指揮していた。レビューは好意的なものではなく、その中のひとつに”テーマがシンプル過ぎる”と非難するものがあった。ある批評はポジティブなものでは、”我々を一気に新しい音楽領域へと誘ってくれる高度で意義のある作品”と書いているものもある。聴衆はホール内で、ブラヴォーとブーを吠えるどちらかに分かれたようだ。



1902年 ウィーンでのその後。。。


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1902年1月12日、マーラーは交響曲第4番を、彼のホームのウィーンの聴衆の前で初めて演奏した。リアクションは、ミュンヘンの時と比較して、さらに敵対的なものであった。”なにかカーニバル(謝肉祭)の音楽の類のような。。。”オーケストラ・メンバーでさえも、自分たちの首席指揮者の新しい作品と比べてみても、幾分批判的な意見だった。


ウィーン時代の作曲家としてのマーラーは、世間に認められるにはさらに長い道のりを要す不遇の時代であった。



交響曲第3番の全楽章の初演。


交響曲第3番の全楽章の初演は、1902年6月9日のクレーフェルト(ドイツ西部の都市)で、マーラー自身の指揮でおこなわれた。聴衆は狂乱した。アルマ・マーラーは、このように書いていた。”最終楽章が終わったら、狂気の沙汰の熱狂が起きた。聴衆は椅子からジャンプして立ち上がり、マーラーに向かって走ってかけよった。その聴衆の中には、ウィレム・メンゲルベルク、アムステルダムのコンセルトヘボウ・オーケストラの若き指揮者もいた。メンゲルベルクはその夕方のコンサートを経験したとき、マーラーの音楽をつねに守って、プロモートしていこう、と決意したのである。




1903年 交響曲第6番


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”私の最初の5曲の交響曲を聴いたことのある人でさえも、私の6番の神秘性をあえて見抜ける人というのはほとんどいないかもしれない。”とマーラーは、自身の交響曲第6番”悲劇的”について語っている。第4番までは、マーラーはいつも彼の言葉でリスナーに対して、いわゆる聴き方マニュアルのような説明をおこなってきた。だがしかし第5番以降は、リスナーが感じるままを尊重するようになった。


しかし、第6番については、すべてが謎めいている訳ではない。


第1楽章の第2主題のところで、マーラーは、彼の妻アルマについてを音楽的なポートレートとして表現している。”僕は主題の中で君を捉えようとしてきた。”スケルツォは、若い子供が遊んでいるような詩的表現を兼ね備えている。おそらく1904年、グスタフとアルマの2番目の娘として産まれてくるであろうアンナ・ジャスティンに対しての気持ち。


交響曲第6番の中でもっとも注目すべき観点は、最終楽章で運命の力としての象徴として放たれる3回の大ハンマーであろう。マーラーは、打楽器奏者が奏でる短くて、力強く、まさに大ハンマーが打ち鳴らされるようなバンという音が鳴るように、特別に作った箱を用意した。


交響曲第6番の初演のあと、このハンマーについて手短に言えば、アーティスト テオ・ザッヘは、マーラーやリヒャルト・シュトラウスのような現代作曲家が、伝統的なオーケストラにハンマーやカウベル、そしてスレイベル(打楽器のひとつ)や他のサウンドを取り込み、そのサウンド、音楽性を拡張させることをあざけ笑っていた。


下の彼の風刺的なイラスト”近代のオーケストラ”と題して、そのことをデフォルメして描いている。


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オランダでのマーラー


1903年10月22,23日、マーラーは、コンセルトヘボウ・オーケストラで交響曲第3番を指揮した。これがマーラーにとって初めてのオランダであった。2日後の10月25日、マーラーは、オランダでコンセルトヘボウ・オーケストラと交響曲第1番の初演をおこなった。


あなたは、このマーラーとアムステルダム、彼の第2の音楽の故郷との関係について、ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”の記事で深く読むことができる。



1904年 呪われた作品


1904年10月18日、マーラーは、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団と交響曲第5番の初演をケルンでおこなった。この交響曲は、マーラーのアルマへの愛の宣誓である有名なアダージェットを有している。アルマは、残念ながらその初演に参加することはできなかった。そのときずっと病気で病床にあったのだ。


マーラーは動揺し、アルマに対してこのように手紙で書いた。


”汗をかいて、コニャックで口をすすいで、アスピリン錠をむさぼり食べる。それを全部やること。そうすれば、2日以内には治って、火曜日にはここにいることができるはず。すべてを試して。結局、自分は初演の時に1人でいるのが怖いんだろうと思う。”


それでも結局、マーラーは初演のときは1人であった。そして批評の嵐にも同様に1人で浴びることになってしまった。


ふたたび、レビューは決して好意的なものではなかった。


批評ではこう書かれた。”憂鬱な葬式のような行進曲に引き続いて、さらに憂鬱な楽章・・・これは重大なミスである。アダージェットだけがもっとも評価された。”数あるアダージョの中でももっともクリアでベストな作品”交響曲第5番は、マーラーの作品の中で、最高傑作でもっとも愛された作品となった。


マーラーはこの作品を書いていたとき、”第5番は、呪われた作品で、誰からも理解されないだろう。”と思っていたので、まさか後世にこのような評価を受けるとは思いもしなかった。



1904年 コンセルトヘボウに戻る。


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1904年10月23日、コンセルトヘボウで、グスタフ・マーラーは交響曲第4番を同じコンサートで2回演奏した。ウイレム・メンゲルベルクのアイデアだった。数日後、10月26,27日、コンセルトヘボウ・オーケストラを指揮して、交響曲第2番をオランダで初めて披露した。


あなたは、このマーラーとアムステルダム、彼の第2の音楽の故郷との関係について、ジャン・ブロッケン著の”マーラー・イン・アムステルダム”の記事で深く読むことができる。



1905年 交響曲第7番


マーラーは、1905年の夏に交響曲第7番を完成させた。マーラーは、その作品を創作性の爆発という過程、熱狂した状態で書き上げたのだった。この爆発は、時間を要したし、この第7番のためのインスピレーションは、自発的に得られるものではなかった。


普通、マーラーは交響曲や歌曲を作曲するとき、周りを自然に囲まれた彼の作曲小屋で作曲することで十分なインスピレーションを得ることができたのだが、この第7番だけは、どこか他の場所を探さなければいけなかった。


2週間経過してもその場所は見つからなかった。そして絶望の淵に、ドロミーティ(イタリア北東部にある山地で、東アルプス山脈の一部)へと逃れることになった。でもそこでもなにも変わらなかった。だから私はついにあきらめて家に帰ることになり、その夏は完全に失われたものになると思われた。しかし、その救済は、マイヤーニッヒからクルンペンドルフの間にあるヴェルター湖(オーストリア南部、ケルンテン州にある湖)を小さなボートで渡っているときにやってきた。


最初はボートの整調のオールをこぐときに、第1楽章への導入部のテーマが私にやってきて、そして4週間後には、第1楽章、第3楽章、第5楽章が同じように私の中にやってきた。


交響曲第7番は、”夜曲”として知られていて、これはマーラーがつけた副題ではなく、彼に近い人たち数人の中によるネーミングだった。その中に、ウイリエム・メンゲルベルクがいて、彼が第7番を、”これは夜だ。星がいっさい出ていない、月光もまったくない、平穏な眠りもない、まさに暗闇の力による統治。”と解釈し、副題をつけたのだった。



1906年 いままでの中で最も偉大な作品。


1906年の夏の終わり、マーラーは交響曲第8番”千人の交響曲”を完成させた。3つの純粋なパート、オーケストラ・シンフォニー、独唱ソリスト、そして合唱が、すざましい勢いでマーラの作品に戻ってきた。その初演は1910年に行われ、ステージの上に1000人のパフォーマーが集まることになった。


1906年の夏に、マーラーは、ウイレム・メンゲルベルクに手紙を書いた。


”親愛なる友人よ。私はたったいま第8番を完成させた。この作品は私が作曲してきた作品の中でもっとも偉大な作品となった。それは誰しもが書くことができない曲の内容と形式という両方の観点から、非常に驚くべき作品である。歌い始める、音が鳴り始める空間を想像してごらん。これらは人間の声ではない。しかし惑星と太陽は確実に回っているのだ。”






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マーラー・ユニヴァース 1860~2020 Vol.1 [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーの生涯の年表を学んでいく。


マーラー・ユニヴァース 1860~2020
彼の生涯、作品、そして伝説。


まさにこの世に生を受け、亡くなるまで音楽家としてどのような波乱の人生を歩んでいったのか、年表という形で時代順に学んでいく。


普段、我々はなにげなくマーラーの音楽に接しているわけだが、意外やマーラーの人生について詳しく知らないでいたりする。音楽家の方は勉強されてきているわけだが、我々一般聴衆にとってはとても貴重な体験。こういう機会でないとなかなか体験できないことだ。


マーラーフェスティバル2020の公式HPでは、


”マーラー・ユニヴァース 1860~2020 彼の生涯、作品、そして伝説”


という形で連載されている。


これも今日から4回に渡って、その翻訳を連載する。



マーラー・ユニヴァース 1860~2020
彼の生涯、作品、そして伝説


Mahler's Universe
1860 - 2020
HIS LIFE,WORKS,AND LEGACY




1860年 グスタフ・マーラー誕生。


1860年7月7日、グスタフ・マーラーは、当時のオーストリア帝国、いまのチェコ共和国のボヘミアのカリステ村に産まれた。マーラーは後にこう言っていた。”私はこんなみすぼらしい小さな家に生れた。その家の窓にはガラスさえなかったのだ”


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グスタフ・マーラーは、父、バーンハード・マーラーと母、マリア・ハーマンの間に生まれた14人の子供のうちの次男坊であった。彼の兄弟の7人は、最初の年に死んでしまう。1860年12月、マーラー一家は、カリステ村から地方都市のイフラヴァ(チェコ・ヴィソチナ州の都市)に引っ越した。



1865 マーラーの天職


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この写真はイフラヴァに住んでいた5歳のときのマーラーである。この写真ではマーラーはすでに楽譜を抱えている。祖父母の家を訪れていたとき、マーラーは屋根裏部屋に古い調律のされていないピアノを発見した。このピアノがマーラーの第2の人生を切り開くことになる。父、バーンハード・マーラーは、その屋根裏部屋で、椅子に座り、夢中になってピアノを弾いているグスタフを見て、この息子は、将来音楽家になるに違いないと確信したのである。



1870年 マーラー、音楽界にデビュー。


イフラヴァ時代の1870年10月、若きグスタフは、人生で初めて聴衆の前でピアノを演奏する。コンサートは父によって開催され、彼は息子の弾くモーツァルトは最高である、と頑なまでに信じ込んでいた。しかしグスタフは、そのようなよい印象は抱けなかった。なぜなら、それは、おそらくだが、地方紙が報道していたところによると、そのグランドピアノは、最高に望ましい調律コンディションとは程遠い状態だったようなのだ。


父、バーンハード・マーラーは息子グスタフの音楽家としての才能を広げてやろうと決意した。グスタフは、12歳のときに、最初は、プラハにしばらく滞在した後、イフラヴァに別れを告げ、1875年にはオーストリア帝国のもっとも名門の音楽教育機関であるウィーン楽友協会のコンセルヴァトワール(音楽院)に入学するに至ったのである。



1878年、マーラー、コンセルヴァトワール(音楽院)を卒業。


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グスタフ・マーラーは、18歳のとき、ウィーンのコンセルヴァトワール(音楽院)を好成績で卒業した。在学中の最初の年の終わりには、マーラーは、シューベルトのピアノ・ソナタのマーラー編曲版、そしてマーラー独自の作品であるピアノ四重奏曲において、賞を授与したこともある。


グスタフはウィーンで音楽を勉強する一方で、遠く離れての故郷、イフラヴァでの普通の教育を受けることは終わりにした。なぜなら、その度に追試験を受けないといけなく、そのことが非常に面倒な気持ちにさせたからである。結局、グスタフは普通の学校に在学中には、”なにも学ばなかった”というのが明白な事実なのである。



1880年、カペルマイスター、マーラー


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1880年、マーラー19歳のとき、オーストリアの地方都市、バートハルにて、地方の小さな劇場の指揮者(いわゆるなんでも屋さん)として最初の契約をした。バートハルとライバッハの契約の後は、マーラーは結局、オロモウツ(チェコの都市)に辿り着く。


そこで、”天才だけれど、癖だらけ。”という評判が、常にマーラーをまとわりつくことになる。その頃同時に、マーラーは中程度のベジタリアン(菜食主義者)になりつつ、しかもアルコールは嗜まなかった。ビールもワインも・・・。


オロモウツの市民は、このマーラーの徹底した変人ぶりに気づかざるを得なかった。マーラーはなんとかこのオロモウツの市民と仲良くやっていこうという気は毛頭になかったし、彼自身、「オロモウツ劇場の中を歩いたその瞬間から、自分は、そこに神の怒りのようなものが待っているような気がしてならなかった」と言っているくらいであった。


マーラーは、オロモウツを離れ、カッセル(ドイツのヘッセン州の都市)の王立劇場の第2カペルマイスターに就任する。(カペルマイスター~楽長。欧州での楽長は、もともとは指揮者としてだけではなく、その楽団、古くは宮廷や市の作曲家や編曲者であり、さらに組織上の任務も担った。複数の指揮者を抱える歌劇場においては、カペルマイスター(Kapellmeister)は今日もなお職業名として使われる。一般的に音楽総監督に次ぐ指揮者として第一カペルマイスターと呼ぶ。)


結局、わずか数本のオペラを指揮することだけを許されたのみで、その契約は失望せざるを得なかった。その中で唯一失望しなかった仕事は、カッセル劇場でのコロラトゥーラ・ソプラノのヨハンナ・リヒターと仕事ができたことだった。マーラーと彼女との関係は、後のマーラーの最初の歌曲、”さすらう若者の歌(徒歩の旅行者の歌)”へのインスピレーションに繋がるのである。



1885年 マーラー交響曲第1番の作曲を開始する。


マーラーは、3曲かおそらくは4曲の交響曲を作曲した後に、後の交響曲第1番の作曲をスタートさせる。



1888年 マーラー、Todtenfeier(葬礼)の作曲。


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マーラーは交響詩、Todtenfeier(葬礼)(後の交響曲第2番”復活”の一部となる。)を作曲する。1892年にマーラーは、Todtenfeier(葬礼)を有名な指揮者、ハンス・フォン・ビューローの前でピアノで演奏する。


そのときのビューローのコメント、”あなたの作品は、ワーグナーのオペラのトリスタンが、ハイドンのシンフォニーになったようだ。”ビューローからこのコメントを聞いた直後、マーラーは交響曲を作曲し続けることの難しさを感じた。


1894年になって初めて、マーラーは葬儀の指揮者として、非常に尊敬されるようになった。そのとき、いかに交響曲第2番の角を落として丸みをつけた雰囲気にするかを掴むことができたのだ。マーラーの言葉、”ビューローは死んだ。そのとき私は葬儀に出席した。そのとき私の作曲に正確にフィットしたムードが私の中にふつふつと沸いてきた。そして合唱の冒頭、Auferstehnが歌われたとき、それは私に一筋の光を照射した感じになった。その直後に、すべてが私の心の中でクリアになったのだ。”



1889年 惨めな作曲家


1889年11月20日、マーラーによる新しい交響詩が、ブタペストで初演された。この交響詩は、後の交響曲第1番の前身となる曲であった。マーラーは自身でオーケストラを指揮した。マーラーは、作曲家としては、暫し通常の路線からはかけ離れた存在であった。


1人のレビューアーが書いている。”この交響詩は抑制されていない、不屈の才能によって、すべての従来の形式を壊し、どんな犠牲を払ってでも、なにか新しいものを創造しようと試みている。”しかし、そのレビューは、後味が悪いように、このように締めている。”マーラー、あなたはとても魅力的な作曲家だ。でも同時に、惨めな作曲家でもある。”



1892年 ライヘンハルのマーラー


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グスタフ・マーラーと妹のジャスティーヌ(写真でマーラーのすぐ右隣)と、友人達とでライヘンハル(ドイツの岩塩、アルペンザルツ)を訪れる。




1893年 夏の日の作曲小屋



マーラーは交響曲第3番の作曲を、ドイツのシュタインバッハーのアッター湖の湖畔にある彼の作曲小屋(komponierhäuschen)で夏のほとんどをそこで過ごし、そこで作曲をした。


シュタインバッハー街にあるアッター湖畔にあるマーラーの作曲小屋(komponierhäuschen)

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(c)旅する音楽師・山本直幸の百聴百観ノート:第35回 マーラーの交響曲が作曲された場所


作曲小屋の内部(観光名所として内装されている。)

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(c)クラシックカフェ クラシックを気ままに聞くティータイム 2013/9/3 マーラー作曲小屋



いわゆるマーラーの作曲小屋としては全部で3つ存在するが、これらの作曲小屋は現在も修復され、現存し、マーラー詣でとしての観光名所になっている。



マーラーは、そのときの最愛の人であったメイデンベルクの歌手のアンナに、この第3交響曲について手紙を書いた。”最愛なるアンナよ。ほとんど完成したよ。この曲は本当に驚異的だよ!私の交響曲にはいままで聴いたことのないようななにかがある。なにもかもが声を与えられ、夢の中に出てくる神秘的ななにかを語るんだ。すべてのものに表題がつけられるんだ。喜ばしい自然科学、そして夏の日の夢。(喜ばしい自然科学は、フリードリヒ・ニーチェの作品がリファレンスになっている。)



マーラーは、穏やかな夏の日に、作曲のためのアイデアを捻りだすために特別に建てた”作曲小屋”を持っていた。彼はそのコテージの中では明らかに静謐な空間に接していることができるし、そして子供たちをお菓子やおもちゃで釣って、その小屋に近づかせないようにした。また望ましくない侵入者を避けるために、かかしの類のようなものを立てたりした。


マーラーがそのコテージの中や周囲にいるときに湧き上がる印象は、そのままダイレクトに彼の音楽に反映された。指揮者のブルーノ・ワルターがシュタインバッハーのマーラーを訪れたとき、彼はワルターにこう言った。”あなたは、もはやこの周囲を見て回る必要はありません。私がそのすべてを自分の音楽の中に入れ込みましたから。”



1894年 交響曲第2番の最初の3楽章の初演


交響曲第2番の最初の3楽章は、ベルリンで初演されている。この交響曲第2番の最終版の5楽章は、完全な1年遅れではじめて初演されることになった。



1898年 マーラー・イン・ウイーン


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1897年10月、グスタフ・マーラーは、ウィーン国立オペラ座の芸術監督就任への要請を受ける。そしてその究極に名門の地位に10年間就くことになる。数年間は、オーケストラ・コンサートと同様に、オペラを指揮した。最も理想的な形態は、マーラー自身の作品を指揮することであった。


マーラーがウィーンに住んでいた10年間は、まさに激動の年であった。


1902年1月、フィルハーモニック・オーケストラの指揮者として契約書にサインをした。その1年前に、ある新聞紙がこのように書いていた。”フィルハーモニックの輪の中では、ますます多くのアンチ・マーラー感情が沸き起こっていった。指揮者マーラーのあまりに神経質すぎる気質、準備のためのリハーサルでのあまりにささいなことに拘るその気質、そしてとりわけ、自分の親友のささやきに耳を傾ける傾向があること、これらのことには、もはやマーラーに同情の余地はなかった。


そしてついにこの名門の地位において新しい候補者を見つけるというマーラーにとって絶望的な努力がなされたのである。



1899年 交響曲第4番の始まり


1899年の夏、マーラーは、交響曲第4番、後に彼はその曲を青空のシンフォニーと記述していたが、その第4番を作曲するべく日夜励んでいた。


1900年の夏にその作品は完成した。


マーラーは自身、第4番に対してこのように言っている。


”私は最初、奇想曲(ユーモレスク、ロマン派音楽の楽種のひとつ。自由な形式の性格的小品の一種)を作るつもりでいたのだが、第2楽章、第3楽章と書き進めるにつれて、当初の予定の3倍の長さの交響曲になってしまった。基本のムードは青、空のような青、でもたまに暗くなり、不吉で、ぼんやりとした色調。空は永遠に青いので、暗く見えるときというのはほんの一瞬のことである。我々が突然パニックな感情に取りつかれるような場合のみのことである。”



1901年 わかりやすい4楽章のシンフォニー


交響曲第4番は、まだ初演が済んでいなかったけれど、マーラーは交響曲第5番の作曲に取り掛かり始めた。マーラーはマイアーニッヒの彼の家(作曲小屋)でヴェルター湖の絶景を眺めながら、この交響曲第5番の作品を書いた。もともとマーラーには、わかりやすい4楽章からなるシンフォニー(交響曲)を書きたいという計画があった。おそらく、1901年11月に運命の出会いを迎える最愛のアルマのためのアダージェットが、その第5番に加わるとは、そのときは、思っていなかったであろう。


指揮者ウイリエム・メンゲルベルクは、この楽章(おそらくはマーラーの曲の中で最も有名な音楽)について、後にこのように書いている。


このアダージェットは、マーラーのアルマに対する愛の宣誓である。


マーラーは、手紙の代わりに、この楽譜原稿をいっさいのほかの言葉を添えず、アルマに贈ったのだ。彼女は彼を理解し、このように返事の手紙を書いた。


”ぜひいらっしゃい!”


マーラーとアルマの両人が、私(メンゲルベルク)にそう言ったのだ。






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マーラー・イン・アムステルダム (後編) [海外音楽鑑賞旅行]

●スコアの改訂補筆


1903~1904年のシーズン、マーラー指揮による第3交響曲と第1交響曲の組み合わせを経験したことで、メンゲルベルクはアムステルダムとデン・ハーグ(オランダの第3の都市)にて、第1交響曲に対して、さらに4つの演奏パフォーマンスの追加を提示した。


さらに彼は第3交響曲についても非常に細かいディテールまで踏み込んでいって、補筆を提案していき、近い将来マーラーの作品を改訂することを考えていた。作曲家のマーラーに対する手紙の中でメンゲルベルクは、スコアの中にいくつかのミスプリントがあることと、いくつかのパッセージの中で滑らかでない飛躍的な箇所を指摘した。メンゲルベルクは、マーラーがアムステルダムで指揮をしたその後の作品についても同様の改訂の意向の指摘をおこなった。


マーラーはそのような批評にはほとんど気にもとめていなかった。本当に、まったく気にしていなかった。それは、自分の帽子に不快なものがついたとき、それを拭き取ったような感覚のようなものだった。それは決して傲慢なことではなかった。つねに自己疑心に見舞われたことは確かだが、それはとにかく自分のバランスを崩すほどのことではなかった。


しかしメンゲルベルクの指摘事項は、マーラーの作品に対する感謝と感嘆から起因するようなものではなく、真にマーラーの作品を完璧にしようという想いから来るものであったので、その内容は、かなりシリアスなものであることが度々だった。


メンゲルベルクはマーラーの作曲法を理解していたので、いくつかのマイナーな調整を施すことで解決できる軽度な省略、不完全な部分などの問題を指摘することができたのだ。その上、彼のスコアに変更を加えた後の作品を聴くと実際がっかりすることもある。したがってマーラーはすべてのリハーサルのたびに変更点を改善して加えていき、それを直接メンゲルベルクに対して問いかけてみる。それらは偶然な変更ではなく何回も改訂を重ねられて作られた変更なのだ。


マーラーは楽譜に数百の文字の書き込みや音符の書き込みをして、そして指揮をした。第4交響曲である。それらは千以上の書き込みとなった!メンゲルベルクはそれらの新しい改譜の提案に対してすべてについてそのレスポンスを返した。


このようなやりとりによってメンゲルベルクは、さらにマーラーと親しくなっていったように思えた。メンゲルベルクはマーラーに対して信頼の置けるサウンドボードのような役割になっていたのである。



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グスタフ・マーラーとウィレム・メンゲルベルクによる改訂補筆による第4交響曲のスコア (c)Nederlands Muziek Instituut



●第4交響曲を繰り返して演奏する。


1904年に、再びアムステルダムに戻って、第2交響曲だけなく、彼の新しい作品である第4交響曲を指揮することになったとき、マーラーは、ふたたびメンゲルベルクの家にお世話になるのは恐縮する、というようなことを、アルマに対して手紙で書いていた。


しかし彼のそのトーンを変わっていた。


「メンゲルベルクは中央駅で、私を熱心に待っていてくれ、私が彼らといっしょに行くことに同意するまで、私を決して休ませてくれないのだ。そして去年と同様私は再びここにいる。彼らは本当にこのような無心な人たちなのだ。」


マーラーはアムステルダムに到着したその夕方には、すでにオーケストラとリハーサルに入っていった。「君もお分かりのように、彼らはどのような演奏パフォーマンスであったか?メンゲルベルクは間違いなく天才だ。私の作品を2回演奏したのだ。インターミッションの後、再び演奏が始まったのだ。それは本当に聴衆をぐっとニューヨークに対して親しみを持たせるような素晴らしい方法だった。


今日に至るまで、このようなメンゲルベルクのユニークな離れ業は、マーラー伝説の中で、いかに他の都市と比べてアムステルダムでマーラーがイノベーターであったかを語っているものと言える。


この数十年、パリやサンクト・ペテルブルクは、マーラーと関係を持ちたいとは思っていなかったようだ。同様に年老いたリムスキー・コルサコフや若かった頃のストラヴィンスキーも人気がなかった。ヘルシンキではシベリウスが少し人気が出始めていたようだったが。


アムステルダムでの第4交響曲の初演のあと、マーラーはオーケストラの団員、声楽家の方々に歓喜の気持ちでいっぱいであった。歌手のオランダ人 Alida Oldenboom-Lutkemannは、ソロをシンプルに、そして聴衆を鼓舞するような感情を持って歌い上げ、そしてオーケストラは彼女の太陽光のような輝かしい声とともに、その演奏をおこなった。それはまさに周りいっぺんが黄金の光景に輝いていたと言ってもよかった。


1904年にマーラーは、第4交響曲を2回演奏した。そして第2交響曲を1回演奏した。メンゲルベルクは、この2つの曲を準備していて、そしてマーラーがハールレムのフランス・ハルス美術館を早く訪れることができるように準備万端でオーケストラを準備させていた。


「素晴らしいリハーサルだった。」


マーラーはそう言ってみんなをねぎらったが、オーケストラの団員は驚いている様子だった。



●モダン


マーラーは1906年3月にアムステルダムに戻ってきて、第5交響曲を指揮した。今回もメンゲルベルク邸にお世話になることにした。なぜならリハーサルは、恐ろしいことに朝の9時からスタートしたのでそのほうがよかった。それでもVan Eeghenstraatのメンゲルベルク邸からコンセルトヘボウはほとんど距離は離れていないのが救いだった。


今回のパフォーマンスでは、マーラーは朝に3回のリハーサル、そして昼にさらに3回のリハーサルをすることを主張した。


なぜならマーラー自身の言葉で言うならば、「5番は難しい。本当に難しい!」からだ。


マーラーは、メンゲルベルクに今回の第5交響曲の場合、いつもよりもさらにいくぶん良い状態にしておくことを促した。1905年10月からスタートして、その念入りなリハーサルのために、指揮者は質問を受けたり教育指導することで、かなり悩まざるを得なかった。


メンゲルベルクは、深くスコアを読み込み始めた。そうするとその原稿をウィーンに送り返さざるを得なかったのだ。なぜならマーラーはいくつかの大きな変更を挿入することを決めたからだ。


1906年5月8日のパフォーマンスの後、マーラーは、実際のところ、メンゲルベルクが自分の作品を委ねることができる唯一の人物である、と自信を持って結論づけた。彼はアルマに手紙を書いた。「すべてが素晴らしくリハーサルできた。驚くべきサウンド。オーケストラもファンタスティック。そして団員たちは私に感謝している。それはひどく骨の折れる作業でもなかったし、逆を言えば楽しくてしかたがなかった。」だが、コンサートは幾分音程が外れた感じで終わってしまったことを言いそびれてしまった。


その70分の長い第5交響曲のあとに、一部の聴衆のために、マーラーの連作歌曲、亡き子をしのぶ歌が演奏された。


それはあまりに素晴らしすぎた。コンサートが終わる前に立ち上がって会場を後にする観客も中にはいた。マーラーは、あくまで些細なこととしてほとんど気にも留めていなかった。マーラーのことを崇拝する人もいれば、批評する人もいたし、残りの大半の人たちは、なにを考えるべきかをわからない人たちだった。


「その最高の瞬間のつぎにくる恐ろしいこと。」とディーペンブロック夫人は自分の日記に書いていた。


オランダの作曲家である彼女の夫、 アルフォンス・ディーペンブロックは、マーラーの音楽とマーラー自身にかなり強烈な印象を抱いていた。「マーラーは実直な人で、気取ったところがない。あなたたちが観たものは、あなたたちが得たものだ。人がよくて、ナイーブで、それでいてときどき子供っぽいところもあり、そのメガネの奥から幽霊のようにじっと見つめている。彼はすべてにおいてモダンなのだ。彼は未来を信じている。」


ここら辺のポイントはメンゲルベルクもまたマーラーの中に見出している賞賛しているところでもあるのだ。


しかしながら、1909年、マーラーの音楽がいかにその後の後期ロマン派に属する大音楽になるとはそのとき誰も予想できなかったのである。



●ホテル・メンゲルベルク、そうでなければアメリカ?


マーラーとメンゲルベルク、すなわちアムステルダムとの結びつきは、マーラーがデン・ハーグ(オランダ第3の都市)のレジデンス・オーケストラから第6交響曲を指揮して欲しいという依頼を断ったときから、さらに強固なものになっていった。「なぜなら彼らは、あなたの競争相手だから。」とマーラーは手紙に書いている。


しばらくして、マーラーは、ニューヨークに自分の残りの人生の運をかけ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任することを決意した。彼は、メンゲルベルクにニューヨークへいっしょに行くことように誘惑する必要もなかった。メンゲルベルクは海を渡っても、マーラーの信頼のおけるサウンドボードでありたいと思っていたからだ。「君が僕の傍にいてくれるということを知って嬉しい限りだよ。」


しかしメンゲルベルクはもしその餌に食いついていれば、マーラーを追って行って数十年、アメリカで数多くの指揮をする機会を得ることができたであろう。でも彼はコンセルトヘボウ・オーケストラを見捨てることはできなかった。アメリカに行かなくてはならなくなったマーラーにとってアムステルダムを訪れることは、段々障壁が出てきて難しくなっていった。1909年10月になって初めて、マーラーはコンセルトヘボウ・オーケストラと第7交響曲の演奏を成し遂げた。その間、彼はVan Eeghenstraatのホテル・メンゲルベルクに滞在して羽目を外して楽しんで過ごした。そしてゲストブックに、「お金のない演奏家にはこのような家は最適な場所!」と書き込んだ。


マーラーはメンゲルベルクのことを批評的な自分への崇拝者や献身的な使徒として見ていただけではなく、若き日の自分の姿を彼に重ねて見ているところがあった。


「マーラーのイノベーションは、他の都市よりもずっと早くにアムステルダムで起こったのだ。」


メンゲルベルクはマーラーの傘下で働いて続けているのもよかったが、彼は基本は作曲家である。だからメンゲルベルク版レンブラントのインブロビゼーション(即興)を創り出すことに好奇心があったし、そのスコアを書くことを望んでいた。


マーラーの影響はあきらかに明白であった。メンゲルベルクはすぐにこの偉大な人物の影響から容易に逃れることはできないと悟った。そこでメンゲルベルクは、代わりに、アムステルダムでの彼のポストの他に、フランクフルトでの首席指揮者を受け入れ、そこで指揮に集中したのである。


そこで彼のフレッシュで、ダイレクトなアプローチにより、メンゲルベルクはすぐに指揮者としてマーラーを超越し始めていったのだ。少なくともそこにはマーラーの物の捉え方があった。マーラーが、メンゲルベルクがローマで、リヒャルト・シュトラウスの英雄の生涯を指揮しているのを聴いたとき、その後彼にこう言ったのだ。「君は僕を英雄の妻に変えたよ。」シュトラウスは、いつもマーラーの感じ方には敏感であった。



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グスタフ・マーラー。1909年コンセルトヘボウにて。前列で座っている。彼の後列で左から順にコールネリス・ドッパー、ヘンドリック・フライジャー(コンセルトヘボウの管理者)、ウィレム・メンゲルベルクとアルフォンス・ディーペンブロック 。(c) W.A. van Leer / Nederlands Muziek Instituut



●アルマからのギフト


アムステルダムに戻って、メンゲルベルクは、第7交響曲に再び注目を集めるべく革新的なアイデアを思いついた。彼は、マーラーのオーケストラとのリハーサルにプレスを招待したのだ。その結果、そのパフォーマンスに対しての素晴らしいレビューやもっと立ち入ったポイントでの見解など賞賛に溢れていた。メンゲルベルクのその努力がいかに聡明であったかは、マーラーが第7交響曲を指揮したときから数日後に、そして自身がデン・ハーグで同じようにコンセルトヘボウ・オーケストラを指揮したときにもだが、あきらかになっていった。


それからまたプレスはリハーサルには招待されなくなってしまった。レビューも公正な範囲から中くらいの規模に変更になった。


マーラーにとって、アムステルダムというのは、ホテル・メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラのメンバーたちの行き来の結びつきを強化するようなものであった。そのメンバーの何人かは、味方に引き入れるのは容易であったが、でも最終的には全員がマーラーの熱狂者となった。


彼らが第7交響曲を演奏したとき、マーラーの指揮者や作曲家としての立場は難しいものになった。


手書きされた第7交響曲のスコア原稿は、まだコンセルトヘボウのメンバーの全員の賛同一致の意見をもらっていなかったからだ。


それはアルマ・マーラーからのギフトであった。


その原稿は、メンゲルベルクが自ら執拗にそのスコアのコピーに書き込みをしていたのだが、アムステルダムでの将来のマーラー作品の演奏の練習をする上で、オーケストラが音を創り出していくのにとても役に立つ資料となっていった。


ベルナルド・ハイティンク、リッカルド・シャイー、そしてマリス・ヤンソンスなどその後のコンセルトヘボウ・オーケストラの首席指揮者たちは、みんな、このスコア原稿を使っていくことになるのだ。



●最後のリスペクト


マーラーは1911年5月18日に突然亡くなってしまう。享年51歳であった。


そのときメンゲルベルクは、イタリアのトリノで指揮をしていて、ウィーンでの葬儀に出席できなかった。アルフォンス・ディーペンブロック (オランダの作曲家)は、駆けつけることが出来た。


メンゲルベルクは自分の余生において、マーラーのことを後世に語り伝えて行こうと考えた。


「マーラーがよく知っているように・・・」「マーラーはこう考える・・・」「マーラーはここで、明白なカエスーラ(中間休止)を設ける・・・」


オーケストラ・リハーサルの間、メンゲルベルクはもうすでに故人であるマーラーの偶像とつねに隣り合わせでいまもそこにいっしょにいるような感覚に陥った。


メンゲルベルクはついに1920年5月にマーラーへの最後のリスペクトとして、アムステルダムでマーラー・フェスティバルを開催することにした。


メンゲルベルクにとってもその年は、コンセルトヘボウ・オーケストラの指揮者として25周年のアニバーサリーイヤーとなり、9曲の交響曲、そして歌曲として、嘆きの歌、さすらう若者の歌、亡き子をしのぶ歌、大地の歌、リュッケルト歌曲集を、15日間ですべて演奏したのだ。


アルマ・マーラーやアルノルト・シェーンベルク、そしてメンゲルベルクのお弟子さん達も参加した。アルマは貴婦人客として、ミュージアム スクエアホテル アムステルダムに宿泊した。


アルマは後にこう書いている。「アムステルダムに到着。・・・港・・・船のマスト(帆柱)・・・艤装・・・混んでいる・・・肌寒い・・・曇った。。。言い換えればオランダ。」


夕方には、比較にならないほど飛びぬけて美しいパフォーマンスで、マーラーの第2交響曲が演奏された。それはとてもユニークなフェスティバルであった。いくぶんささやかではあるけれど、唯一無二の大望であった。


バイロイトが、ワーグナーの全作品を演奏するための代表的でベンチマーク的な存在であると同様に、アムステルダムがマーラー芸術のスピリチュアルな中心地として選ばれたのだ。


フェスティバルの組織委員のリュドルフ・メンゲルベルク博士(メンゲルベルクの遠戚のいとこにあたる)からの言葉。


アムステルダムは、マーラーに纏わる1番の大都市になる運命になる。


そしてそのことは、メンゲルベルクやコンセルトヘボウ・オーケストラの理事が占領下のドイツ軍の命令に服従せざる得なく、マーラーの作品の演奏を禁止させられた痛ましい1941年の時代を除いて、すでに特定の決まったことなのだ。アムステルダムの街はマーラーのものであるし、マーラーはアムステルダムのものなのだ。



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1920年のマーラーフェスティバルのときのメインホールに飾られたブロンズの額。左側がウィレム・メンゲルベルク、右側がグスタフ・マーラー。(c)Hans Roggen



ジャン・ブロッケンは小説家、旅ライター、そしてノン・フィクション文学作家。


the novel De provincie (The Province) でデビューし、オランダ・アンティル諸島の音楽:Why Eleven Antilleans Knelt before Chopin’s Heart and In the House of the Poet、ロシア人ピアニスト、ユーリ・エゴロフとの友情についてずっと書いてきた。


ジャン・ブロッケンの本は、14か国後に翻訳され全世界で売られており、特にドイツとイタリアで著名である。Baltic Souls, The Cossack Garden や The Justのような最近のタイトルが示すように、彼は強力なストーリー語りとして世間で証明されてきている。


参考文献:感謝します。

Eveline Nikkels, Mahler en Mengelberg, een vriendschap onder collega’s (Mahler and Mengelberg, a friendship between colleagues, Amersfoort, 2014)


Frits Zwart, Willem Mengelberg, een biografie, part 1, 1871-1920 (Willem Mengelberg, a biography, Amsterdam, 2016)


Stephane Friederich, Mahler (Arles, 2004)


Eduard Reeser, Gustav Mahler und Holland, Briefe (Gustav Mahler and Holland, Letters, Wien, 1980)


Johan Giskes (editor), Mahler in Amsterdam, van Mengelberg tot Chailly (Mahler in Amsterdam, from Mengelberg to Chailly, Bussum, 1995)


Alma Mahler, Mijn Leven (My life, Amsterdam, 1989).






 



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マーラー・イン・アムステルダム(前編) [海外音楽鑑賞旅行]

オランダの小説家、旅ライター、そしてノン・フィクション文学作家でもあるジャン・ブロッケン氏による寄稿。


「アムステルダムがマーラー演奏のメッカ」と言われる所以、そこに到るまでのマーラーとアムステルダムとの関係を、マーラーが遺した手紙、自筆譜(補筆含む)、写真などから紐づけて感動的なドキュメンタリーとして描き上げる。


当該内容につき、おそらくこれだけ詳細に記述されている文献は、他にはないだろう。


自分も翻訳しながら、いままで自分が知らなかった未知の世界を垣間見る感じで興奮を抑えることができなかった。理解を促進するには、フェスティバルの中心テーマの「マーラー・ユニヴァース」として、いわゆるマーラーの人生の年表の寄稿”マーラー・ユニヴァース 1860~2020”を先に紹介するのが順当な順番なのかもしれないが、自分はまず先に、このジャン・ブロッケン氏の寄稿を冒頭に紹介したかった。


そのほうが最初に与えるインパクトが全然違うと感じたからだ。


このフェスティバルが行われるようになった歴史的背景に単刀直入に切り込む。


今日から前編、後編と2回に分けて紹介していこう。




マーラー・イン・アムステルダム  MAHLER IN AMSTERDAM



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1909年10月、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によって、「マーラー交響曲第7番」がマーラー自身の指揮によってオランダで、その初演がおこなわれた。そのときマーラーはひどい風邪をひいていた。


アムステルダム中央駅で電車を待ちながら、ハンカチを使い果たしてしまい、隣にいたアルフォンス・ディーペンブロック(オランダの作曲者、文学者)にハンカチを2枚ほどたからなければいけないほどであった。


急行エクスプレスがウィーンを出発する少し前に、マーラーは、同僚の作曲家に、このようなことを言っていた。アムステルダムは、いつも雨が降っていて喧騒の多い街で、それがまた自分にとって肉体的にかなりしんどいのだけれど、でもこの街は自分にとっては第2の音楽の故郷になりつつある。(オランダ・アムステルダムは、一年中雨が降ることで有名なのです。)


マーラーのアムステルダムへの溺愛は、アムステルダムの街そのものとはほとんど無関係なのだ。彼は別にカナル運河やアムステル運河沿いを午後の散歩をして過ごしたわけでもないし、運河のさざなみの水面の上に映る切り妻壁の建物(あのアムス独特の3角形状の外壁の建物)のシルエットに心を奪われたわけでもない。


このようなアムステルダムの神秘的な網版画のような世界の映像美は、マーラーにとってその不思議なサウンドを作るインスピレーションにはまったく役に立たなかったと言ってもいい。実際、港や埠頭での押し合いやざわめきは彼にとっては重すぎた。


彼はどちらかというと、サントフォールトの砂丘やナールデン近くの荒野のような、もっと出来る限りフリーな空間を好んだのだ。


マーラーにとってアムステルダム訪問の中で最も印象的だったのは、アムステルダム国立美術館への訪問、とりわけレンブラント(オランダの17世紀の画家レンブラント・ファン・レイン)の肖像画に触れたときだった。そのレンブラントの代表作である「夜警」の前でしばらく長い間、立ち止まり、そしてそのときにその絵画から受けた印象が、後の第7交響曲の2つのナハトムジークの動機に深く影響を与えることになるのだ。


第1のナハトムジークの行進曲のテンポは、そのレンブラント絵画の中の民兵がその場から立ち退くのにぴったり合っている感じもするが、ただしその音楽の雰囲気は、間違いなくウィーンの趣を残していると言えた。



●逸材メンゲルベルク


1903年の秋に、マーラーがはじめてアムステルダムの地に足を踏み入れたとき、彼は大いなる希望を心に抱き、その地に乗り込んだのだ。それは、そのほぼ1年前の1902年6月9日に、ドイツのクレーフェルトの音楽祭で知り合った、ウィレム・メンゲルベルクによってアムステルダムに招待されたからだった。


メンゲルベルクは当時、スイスのルツェルン市の音楽ディレクター、そして24歳の頃から、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者として、才能ある人物と思われていた。


「マーラーは、少なくとも彼が指揮をするときは必ずといっていいほど、その短気な性格で、専制的で横暴な指揮テクニックのため、オーケストラの団員からは失望されることが常であった。」


メンゲルベルクは、いくぶん勿体ぶったところはあるけれど、陽気な若い男で、間違いなく明るい性格をしていた。彼は大体のオーケストラの曲を演奏できたし、またこれはマーラーにとって重要なことではないけれど、優秀な合唱の指揮者でもあった。


メンゲルベルクは、ほんの数年間の間にて、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を地方の田舎のぬかるみから引っぱり出してくれて、国際スタンダードなオーケストラへと躍進させることに成功したのだ。それ以来、アムステルダムという街は、音楽的なメトロポリスとして捉えられ、今尚進化している。


メンゲルベルクは、第3交響曲を指揮してもらうために、マーラーをアムステルダムに招待した。その後、第1交響曲も指揮してもらった。


マーラーは、メンゲルベルクと前もって、オーケストラと徹底的なリハーサルをする約束をしていたので、喜んでそのチャンスをものにした。特に第3交響曲。その徹底的なリハーサルを必要としたのは、第3交響曲が驚くべき長い作品であったばかりではなく、独唱ソリストであるメゾ・ソプラノ、そして女性合唱陣、そしてそれよりも幾分大きな所帯である男性合唱陣など大変なスケールの大きい曲だったからだ。


なにをおいても、リハーサルはすべてにおいて驚くほどにマーラーへのリスペクトを持って進められた。


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1906年の散歩のときに撮影された写真。後ろのメンバーの左から順に、アルフォンス・ディーペンブロック、グスタフ・マーラー、そしてウィレム・メンゲルベルク。(c) Hendrik de Booy / Stadsarchief Amsterdam




●マーラーに魅了されて。


マーラーの第3交響曲世界初演は、1902年6月にドイツのクレーフェルトの音楽祭でおこなわれた。そのときメンゲルベルクはアムステルダムに作曲家として招待されていて、インクとスコアを激しく消耗していた。メンゲルベルクはそのときはすでにマーラーの第1交響曲と第2交響曲には詳しく通じていたのだが、それはあくまでスコアの紙面上での次元であった。彼は、そのクレーフェルトでの初演で、人生ではじめてマーラーの生の音楽ライブを体験できることを知ったのだ。


メンゲルベルクにとって、指揮者としてのマーラーは、そのマーラーの曲よりもずっと印象深いものであった。メンゲルベルクは、マーラーの指揮する姿から、とても魅惑的なパワーが発散されるのを直感的に感じたのだった。彼の解釈、オーケストラへのテクニカル・アプローチ、そしてフレージングや構成のとりかたなどの彼のやり方、それは、そのとき若い指揮者だったメンゲルベルクにとって、ある意味理想に近いものであった。


メンゲルベルクは個人的にマーラーに会って、そのときには、すでに彼の音楽に深く入り込んでいる状態であった。その音楽の中に、メンゲルベルクは、芸術的な表現の新しい形式を見出し認識したので、この作曲家をアムステルダムに招待して、個人的に紹介するのがベストであるように思えた。メンゲルベルクは以前にも同じように、他の作曲家をアムステルダムに招待して彼らの作品を自身で指揮してもらった機会をもらったことがあったのだ。


メンゲルベルクは、幸運にもリヒャルト・シュトラウス、エドワード・グリーグ、そしてチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードのような類の作曲家までも同様な機会を得ることができた。


これらの作曲家たちが、最初のリハーサルをやる前に、メンゲルベルクはすでにオーケストラと、そのスコアをシステマチックに解析し入念にリハーサルしていた。


マーラーの第3交響曲について言えば、マーラーの指揮はメンゲルベルクの予想をはるかに超えていた。なぜなら指揮者としてのマーラーには、


「マーラーは、少なくとも彼が指揮をするときは必ずといっていいほど、その短気な性格で、専制的で横暴な指揮テクニックのため、オーケストラの団員からは失望されることが常であった。」


という噂があり、ほとんどのケースにおいてそうだったと言われていたからだ。




●朝食にエダムチーズ


アムステルダムでの滞在場所として、マーラーはアムステル・ホテル(Amstel Hotel)を考えていたのだが、メンゲルベルクは自分の家に泊まることを薦めた。その理由は夫人のアルマを同伴しないからだった。もちろんその後の訪問でそうでないときは、そうはしなかった。マーラーは、プライバシーを重んじるのであればホテルのほうを好んだが、逆にその居心地のよい空間を軽蔑していたところもあった。


マーラーは、友人や同僚の行為を受けることにやや恥ずかしい気持ちを感じていた。
マーラーは、メンゲルベルク夫人に自分の靴を磨くようにお願いすることも有り得たのだろうか?

このアイデアは、マーラーをぞっとさせたことは言うまでもない。
そしてマーラーの就寝はいつも遅い。10時半の朝食に間に合うように起きれるであろうか?


実際のところ、そんなに問題は起きなかった。マーラーは、アルマに手紙を書いたとき、「私は10時半にはエダムチーズ(ゴーダチーズと並ぶオランダの代表的なチーズのひとつ。北部のエダム地方が原産で、牛乳を原料としている。)の破片をちぎって少しづつ食べている。私はアムステルダムという街をいままでほとんど見たことがないが、コンセルトヘボウのすぐ近くで、とても尊敬できるご近所に滞在させてもらっている。そしてそこで朝のリハーサルをやるのだ。」


ウィレム・メンゲルベルクとティリー夫人は、 Van Eeghenstraat 107に住んでいた。クリムトからココシュカにいたる蒼々たる芸術品に囲まれて暮らしているアルマにとって、メンゲルベルク宅のインテリアはおそらくぞっとするものだったに違いない。


スイスの時計、デルフト陶器(オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器。)、平凡な絵画、信心深いテーマで彩られたグラスアート。メンゲルベルクの父親は、宗教的な美術や建築で有名な彫刻家だったのだ。


「アムステルダムでの滞在場所として、マーラーはアムステル・ホテル(Amstel Hotel)を考えていたのだが、メンゲルベルクは自分の家に泊まることを薦めた。」


マーラーも同様にあまりその芸術センスに強い感銘は受けなかった。


でもマーラーは、メンゲルベルクはお客をやさしく自分の家に泊めてくれるホストであること、そしてつまらぬことでやきもきしたりすることもなくて済むことに、メンゲルベルクに感謝しなければならなかった。


メンゲルベルクは自然体として、やはりドイツ人だった。彼のお父さん、お母さんはケルンからやってきた。そして彼はドイツ語も話す。セレブといるときは、彼は兄弟が使っていたマナーと同じケルンのマナーをたしなんだ。そして幼いときからたくさんの音楽の世界にさらされて生きてきたのだ。


メンゲルベルクは13歳のとき、ユトレヒトの自宅で、家族や友達の前で、ブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ/ピアノのための5つの練習曲/主題と変奏を演奏した。そして彼自身、そのブラームスという作曲家からなにかしら軽いインパクトのようなものを受けた。


ケルン音楽学校の学生だった頃、ドン・ファンの曲の演奏のときに、偶然にもパーカッショニストの欠員により、チャイムを演奏したこともあるのだ。まだ少年だった頃だが、リヒャルト・シュトラウスはとにかく偉大だった。メンゲルベルクはそのときはまだ少年だったかれども、その演奏会のことをしっかり覚えていた。



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ウィレム・メンゲルベルク。Van Eeghenstraatの自宅の机にて。(c)Hendrik de Booy / Stadsarchief Amsterdam




●友達ではない。


1903年頃には、グスタフ・マーラーは、作曲家としてよりも指揮者として、セレブであった。メンゲルベルクは、初期の頃からマーラーのよき理解者であり、マーラーに対して大きな感心を寄せていた。作曲家としては、メンゲルベルクは、マーラーのことをすぐに20世紀のベートーヴェンとして認識するようになった。


しかしマーラーとメンゲルベルクのストーリーは、単にお互い知り合って、ベストな仕事仲間になったというだけの話ではないのだ。マーラーは、友情に関してはあまりに自己中心的過ぎた。彼にとっての関心事は、音楽、彼の音楽だけだったのだ。


マーラーのメンゲルベルクに対する感謝の気持ちは、メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラとの最初のリハーサルのときに沸き上がった。


「これを聴いてみて!」


マーラーは数時間後に興奮気味にアルマに手紙を書いている。


「彼らが私の3番を演奏した時、私は自分の目で見ているものと耳で聴いているものを信じることが出来なかった。呼吸が止まってしまった。オーケストラはじつに傑出していて、よく準備されていた。私は合唱を聴くのが好きでとても好奇心があり、さらに良くすることで評判がある。」


つぎのリハーサルも同様に進められ、私の3番は、すべての期待をさらに超えたものとなった。


ザーンダムを訪れ、ザーンセ・スカンスの風車を見ながら歩いていると、いくつかの自分の曲への転用を思いついた。マーラーは、アルマへの葉書にそのことをレポートしている。


「自分はこのオランダの典型的な風景に感謝の念すら抱き始めている。」


しかし何よりもマーラーをエクスタシーの頂点に導いたのは、最後のリハーサルであった。「昨日のドレス・リハーサルは素晴らしかった。」マーラーはアルマに書き綴った。「6人の先生に引き連れられた200人の学校の子供たちの声、そしてそれプラス150人の女性コーラスによる合唱!そして見事なオーケストラ!クレーフェルトのときよりも全然いい!ヴァイオリンなんてウィーンで聴いているのと同じくらい美しい!」




●熱狂的なアムステルダムの聴衆


演奏会のパフォーマンスは、オランダのメディア”the Algemeen Handelsblad ”から素晴らしいレビューを受けた。そしてそれはDe Telegraafによって恐ろしいまでに広まっていった。


マーラーはそのことはあまり気にしていなかった。それよりも彼は、”ここの聴衆はいかに聴く能力があるか!”という感覚を直に感じ取っていた。


彼はここの聴衆よりも優れた聴き手はとても想像できなかった。彼らは最高であった。彼は翌日またアルマに手紙を書いた。


「昨晩のことをまだ考えている。それはじつに荘厳なできごとだった。彼らは最初は少し不安だったみたいだが、徐々にそれが解れてウォームアップしていき、アルトのソロが始まった時には、彼らの熱意はゆっくりと大きくなっていった。最後のコーダのあとの大歓声はとても印象的だった。そしてそれは生きている記憶の中でもっとも大きな勝利であった、と誰もが言っていた。」


メンゲルベルクはすべてのリハーサルに参加した。あるときはホールの平土間で、またよくホールの後ろのほうに半分隠れて見ているという感じである。メンゲルベルクは、これらの日々に経験したことを、自分の残りの指揮者人生のために指針として学ぶいわゆるマスタークラスの拡張版として捉えているところもあった。彼は後にこう言っている。「演奏家にとって、マーラーの音楽に対する彼の解釈の仕方は、非常に勉強になる。」


マーラーはこのような興味深い言葉を繰り返して言っていた。


「音楽にとってもっとも大切なよいことは、決してスコアには書かれていないし、それを見ていてもわからないのだ。」


マーラーは、ウィーンから、メンゲルベルクに対してこのようなことを手紙を書いた。


「私はアムステルダムに自分の第2の音楽の故郷のような想いを抱かざるを得ない。」


メンゲルベルクによると、フレージングは、マーラーの解釈や独自の創作によるものが中心だったようだ。そして彼は何回も何回もそのことを繰り返して団員たちに言って聞かせ、練習に勤しんだ。


第3交響曲の2回のリハーサルの後の2日、マーラーは第1交響曲のリハーサルを始めた。第3交響曲と比べるとそれは簡単なことであった。独唱ソリストもいなければ合唱もいない。曲も短いし、より伝統形式に乗っ取ったスタイルで理解するのはより簡単であった。マーラーは、オーケストラがとても熱心であることを感じ取っていた。


彼らは一生懸命学び取りたい、そういう姿勢だったのだ。


そこからメンゲルベルクは第1交響曲を、もっとも最高級のディテールまでに落とし込む準備をした。マーラーはリハーサルの後に母国に帰ったとき、彼は時間がたつとともに、この想いをとても大切に心の奥にしまった。アムステルダムで音楽の理想の島のようなものを支配しているような気になったからだ。


マーラーは、ウィーンからメンゲルベルクにこのように手紙を書いた。

                                                

「私はアムステルダムに自分の第2の音楽の故郷のような想いを抱かざるを得ない。」



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1907年のメインホールでのウィレム・メンゲルベルクとコンセルトヘボウ・オーケストラ。(c)Photographer unknown




 





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マーラーフェスティバル期間中のレストランLIER [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーフェスティバル期間中は、レストランLIER(おそらくコンセルトヘボウの中にあるレストラン)でとてもゴージャスな美味しい体験ができるようである。


それもフェスティバル仕様の世界。


ザルツブルク音楽祭でも、ルツエルン音楽祭でも、そしてバイロイト音楽祭でも、優雅な音楽祭には、必ず社交界のような場がつきものである。そこには美しい食の世界がある。


そこで思い出したのだが、マーラーフェストは正装なのだろうか?
ビシッとタシキードや礼服で正装する必要があるのだろうか?


自分がよく知っているオランダ人気質を考えると、とてもザックバランで気さくな私服のような気がするのだが、これは直前に確認しないといけませんね。


4年前のバイロイト音楽祭のときに礼服を作りましたが、おそらく体型の肥大化により、たぶんもう入らないかもしれない。(笑)


また新たに作るのは予算的に無理。
ジャケット着用でいいと思うのですが。

やや気がかりです。


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マーラーフェスティバルの期間中、コンサートが始まる前と終わった後、レストランLIERで、とても素晴らしいひとときを満喫することができます。グスタフ・マーラーは、彼の時代からするとずいぶんと先に進んでいた人で、そのことはレストランLIERの私たちにとって、インスピレーションの源となっています。


メニューを通して、昨今のトレンドと同様に、マーラーの本質と結びついた内容、そしてその可能性を、そのメニューに反映させようと思っています。


そうです!


あなたは、その日の交響曲に合わせたメニュー、そしてワインを、毎日楽しめるのです。


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ランチ


ランチは、フェスティバル期間中、5月8日の金曜日と、5月13日の水曜日を除いて、毎日提供されます。ランチをオーダーするとき、あなたはレストランの特別なランチタイムのオープニングアワーに出会えます。全部で3コースあって、2コースは38.50ユーロ(約5000円)で、3つめのコースは、47.50ユーロ(約6000円)です。


ディナー


フェスティバル期間中、5月8日の金曜日と5月9日の土曜日を除いて、毎日、夕方のコンサートに先んじて、レストランLIERで食事をすることができます。LIERのディナーは、5:30pmからやっています。LIERのディナーは3コースあって、62.50ユーロ(約8000円)で、ワインもさらにパッケージするなら、さらに25ユーロ(約3200円)かかります。


インターバル・パッケージ


5月12日の火曜日、5月16日の土曜日、そして5月17日の日曜日の夕方のメインホールのコンサートのインターバルでは、インターバル・パッケージのサービスが用意されます。ドリンクとお菓子で、17.50ユーロ。(約2240円)


晩餐


5月15日の金曜日と5月16日の土曜日は、コンサートの終了後、晩餐が開かれます。
晩餐は、2つの小さなお皿でサーブされ、37.50ユーロ。(約4800円)


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予約


あなたは、つぎの3つのうち、どれか1つの方法で、予約することができます。


1.コンサートチケットを購入するときに予約する。


上のパッケージは、あなたがコンサートチケットを購入するときに、オンラインで簡単に予約することができます。パッケージは、あなたが選んだコンサートのページに記載されています。あなたが座席を選んだ後、そのパッケージをショッピングカートに入れるのです。あなたはコンサートチケットを購入するときに同時にパッケージの代金も一緒に支払うのです。


2.My Accountを使って予約する。


もしあなたが、すでにコンサートにチケットを持っていて、LIERのパッケージも予約したいと思ったなら、My Concert下にあるあなたのアカウントを使って、予約することができます。あなたはそこで、パッケージの代金を支払うことができます。


3.電話予約する。


コンセルトヘボウ・ライン +31(0)20 671 8345 (電話は現地時間 10:00amから5:00pmの時間帯につながります。)に電話してください。もしくは、5:00pm以降にレストランに直接電話をしてみてください。電話番号は、+31(0)20 573 0578 (レストランは空いている日で、現地時間 11:00amから10:00pmの時間帯につながります。)6人以上の予約は、電話 +31(0)20 573 0578かE-Mail reserveren@restaurantlier.nl.のみ可能です。


ランチやディナーを予約するとき、レストランでの座席を取る際その時間帯を選ぶことができます。これらの時間帯は、あなたのコンサートがスタートする時間に合わせるといいと思います。コンサートホールに到着したら、まずコートを脱いで、中央のクロークルームにそれを預けます。


そうすることで、あなたはコートをかけるために列に並ぶ必要はないのです。そして、あとでそこからコートをピックアップすることができるのです。あなたのチケットは、LIERでスキャンされ、デザートの後にすぐにコンサートホールに入ることができます。それさえしてしまえば、あなたは、無用な心配はいっさい要らずにコンセルトヘボウをエンジョイして訪れることができるのです。




はっきり言おう!

高杉。(笑)


さらに自分の普段のおこないの悪さから、ただいま食生活節制中。
これは予算もないし、無理だなぁ。


アムスはもう自分にとってとても所縁のある街で青春時代に遊びつくして知り尽くした街。今回の旅行は、あまり観光もそんなに力を入れないかも。


そしてそんなグルメな体験もしない。

だからホテルもアムス市街ではなく、コンセルトヘボウの傍を希望した。
音楽体験重視。


おそらく、毎日の食生活は、コンセルトヘボウの向かいにあるスーパーマーケットで食材買い込んで、ホテルの部屋の中で済ませる感じになるかなぁ?


コンセルトヘボウの傍にあるレストランは夜は早くみんな閉店してしまい、終演後22~23時に開いているお店って限られるんですよね。


ゴローさんに教えてもらった夜遅くまでやっているあのレストラン、まだやっているのだろうか・・・?



もちろん、それは貧乏人の私のことであって、ぜひ!と思われている方は、この素敵な晩餐に 参加なされてはいかがでしょうか?

記念すべきフェスティバルの素敵なメモリアルになることは間違いなし!です。

音楽祭に社交界の晩餐、ディナーは必ずつきものだと思います。






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マーラー・ユニヴァース [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーフェスト2020のフェスティバルの中心テーマは、”マーラー・ユニヴァース MAHLER'S UNIVERSE”である。


彼らはこのように造語した。


日本語に直訳すると”マーラーの宇宙”ということになるし、少し意訳しても”マーラーの世界”ということになるだろう。


でも、どうもしっくりこない。


ここはもうそのまま”マーラー・ユニヴァース”でいいのではないだろうか?

マーラーの人生、作品、そして伝説。


そういったマーラーの世界を全部統括して、”マーラー・ユニヴァース”なのである。


今回のマーラーフェスト2020は、単にマーラーの交響曲、歌曲をアムステルダム・コンセルトヘボウのホールで全曲演奏する、というだけではないのだ。


このマーラー・ユニヴァース、マーラーの世界のすべてを現代のみなさんに見てもらいたいという心意気がある。したがって、演奏会以外に、そのマーラー・ユニヴァースを具現化するイヴェントとして、このようなことをやります。。。というのが、この記事の主旨である。




●マーラー・ユニヴァース  MAHLER'S UNIVERSE




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「マーラーを知ることは、究極的には、我々自身を知ることである。」


イギリスの音楽ジャーナリストのノーマン・レブレヒトはそのように書いている。我々は、マーラーフェスティバルの間に開催される講演、インタビュー、そしてガイド・ツアーなどのとてもユニークなプログラムを通して、みなさんがマーラーのことをより理解できるように、”マーラー・ユニヴァース”に誘うつもりである。



●インタビューと座談会


マーラー・フェスティバルの期間中、マーラーの音楽、マーラーとアムステルダム、コンセルトヘボウ・オーケストラとの結びつき、そしてマーラーの音楽的、そして人間的な遺産など、マーラーについて、多くの英語でのインタビュー、座談会が開催される予定である。


そうすることにより、訪問者は非公式な形で、マーラーの音楽的な印象を言葉や文章に置き換えることができ、そしてマーラーの人生がいかに我々の中に深く織り合わせられているかを理解する絶好の機会となる。



●ガイドツアー


マーラーにとって第2の音楽の故郷であったコンセルトヘボウ・ホールの中を1世紀以上も昔にマーラーが歩いたそのルートと同じルートを歩むことで、マーラーの足取りを辿っていく。マーラーが指揮した場所、そして彼の友人であるウィレム・メンゲルベルクがロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラをリハーサルしていたときに、マーラーが見ていた場所を紹介していく。有名な階段の一番上のところには、マーラーの子孫、娘のアンナ・マーラーが作ったマーラーの胸像。この胸像は、マーラーの孫娘によって、マーラーフェスト1995のときにコンセルトヘボウに寄付されたのだ。



●展示会


ファスティバル期間中、コンセルトヘボウはひとつの大きな展示会場スペースになる。マーラーの個人的な所持品などが展示される。~たとえばマーラーの未亡人であるアルマの家族アルバム(マーラーの孫娘:マリナ・マーラーからお借りできるもの)からの写真の数々。そして同様に、パリのマーラー音楽図書館からお借りできる物の数々など。


訪問者は、あのマーラーの有名なメガネ、スコア原稿、指揮棒、そしてシャツのカウフスボタンのようなものを実際じかに見ることができてさぞかし感激することであろう。



●マーラー研究者による講演


マーラーはこう言った。「もし私が言葉でなにかを言わなければならないと思ったときに、なぜそれを音楽という形で表現しようとしたのだろうか?」しかしながら、その後、人々は、マーラーの音楽を言葉で表現しようと最善を尽くした。


マーラー・フェスティバルの期間中、著名なマーラー研究者がそれぞれの交響曲についての講義をプレゼンテーションする。英語でやる。夕方の各々の交響曲のときだが。研究者たちは、年季の入ったマーラーファン、そして新しいファンの両方にも受け入れられるように、マーラーの交響曲の本質を表す音楽の実例を使いながら言葉を使って説明する。



●シンポジウム


マーラーは、交響曲は、すべてのものを含んでいないといけない世界だと信じていた。
しかしながら、とくに作曲家の世界はどういうものを持っていないといけないのか?


フェスティバルの最初の1週間、リサイタル・ホールのほうで、オランダ・グスタフ・マーラー財団と国際グスタフ・マーラー組織とのコラボレーションにてシンポジウムをおこなう予定である。主題は、マーラーが歌曲や交響曲を作曲する上で使用した文学や哲学について語られるものになる。フェスティバルが閉幕する週には、マーラーの哲学や精神的なものが遺したものについて、語られる。


マーラー・フォーラムの期間中は、強力な国際的な研究者たちが、マーラーの作曲家としての影響力が、音楽という境界線を超えて、いかに今尚この世に残っているかを熱く語ることになるであろう。






ちなみに、”マーラーフェスティバルのスポンサーになる。”の日記で、マーラー・パビリオンの企画の紹介をした。あの東京駅の原型となったアムステルダム中央駅の前の広場であるミュージック・スクエアで、大型テントを造営して、コンセルトヘボウのマーラー全曲公演を大型スクリーンでライブストリーミングする企画だ。


コンセルトヘボウ・ホールとアムステルダム中央駅は全然遠く距離が離れている。トラムでないと行けない。そんな距離感でもそういうことが実現できるのは、現代の最新技術であるライブストリーミングだから可能になったとも言える。


自分もぜひこのマーラー・パビリオンを体験してみたいと思っていた。


どんな大型スクリーンで、どんなスピーカーを使っているのか、画質はどうなのか、音質はどうなのか、画質はブロックノイズが出ていないか、音質はブツブツと途切れていないか、とかいろいろオーディオマニア目線でレポートできればいいと思っていた。


ところが世の中そんなにうまくいかないのだ。(笑)


マーラーフェスティバル2020の公式HPを見ると、このマーラー・パビリオンのチケットが販売されている。(有料なのだ!)それは、まさにライブストリーミングなのだ。決して聴き逃し配信ではなさそうなのである。


ストリーミング開始時間が、生演奏の時間と同じ時間帯なのだ。


だから、チケット争奪戦に敗れ、コンセルトヘボウ・ホールで生演奏を体験できなかった人たちが、代わりにこのマーラー・パビリオンで楽しむという主旨のようなのである。


超がっかり!(笑)


自分には、マーラー・パビリオンはフェスティバル期間中は経験できない、ということになる。

なんだぁもう!!!


仕方がないから、コンサートが始まる前に、このマーラー・パビリオンの大型テントの写真を撮影してくるぐらいしかないのかもしれない。でも開演前にはテントの中には入れないかも?


でもだ、でもだ。


逆を言えば、コンサートチケットをゲットできなかった人でも、諦めずにアムステルダムまでやってこれば、このマーラー・パビリオンでリアルタイムに演奏を楽しめると言えると思うのだ。(ただしチケットは買っておいてください。先日教えしましたマーラーフェスティバル2020の公式HPからチケット売り場のページに辿り着きます。)


そのためにアムステルダムに来てもいい。


そしてさらにはだ!


上述のマーラー・ユニヴァースを具現化したいろいろな座談会、インタビュー、ガイドツアー、シンポジウム、講演会、そして展示会を体験するだけでも、かなり価値があるのではないか?


何十年に1回のフェストだから、こんな企画は普段滅多にお目にかからないし、相当希少価値のある体験だと思う。これだけでも雑誌の記事や日記の投稿としては十分過ぎるボリュームある内容になると思う。


まさにマーラー・ユニヴァースを体験せよ!である。






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一目惚れで恋に落ちる [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーフェスト2020の公式HPはオーガナイザーによって正式に立ち上げられた。


マーラーフェスティバル2020 (Mahler Festival 2020)



マーラーフェスト2020に関するすべての情報は、すべてここに詰め込まれる。
私がいつも開示する情報もすべてここからの情報に過ぎない。

いわゆるこの音楽祭の情報の発信源である。

ぜひ参考あれ!


ここには、マーラーフェストがどのような音楽祭なのか、どのようなイヴェント、催しがあるのか、そしてエッセイなどの寄稿、など大変興味深い記事が投稿されている。


だからちょくちょく普段から目を通しておかないと、知らない間にすごい貴重で興味深いイヴェントが企画されていたりするから要注意だ。Day By Dayでブラッシュアップされている。


本日から、このマーラーフェスト2020の公式HPで興味深い記事を自分が厳選して邦訳を贈っていきたいと思う。


こうすることで、本番の5月まで、この音楽祭の概要を理解してもらうのと、マーラーに関する知識、マーラーとアムステルダムの関係などをお知らせする。同時に自分が確認する意味があり、この音楽祭を盛り上げていきたいというのが自分の思うところである。


知る人ぞ知るユニークなフェストなので、主要なクラシックメディアにはあまり取り上げてもらえないのでは?(笑)とも心配したり・・・。


ぜひ特集してください!!!


今年は、日本のみならず世界中のクラシック業界あげて「ベートーヴェン生誕250周年イヤー」一色。その片隅でじつはマーラーもあるよ、とささやかにアピールしていきたいと思います。


言い出しっぺの自分がきちんと責任を持って盛り上げていかないとね。


翻訳して感じることは、そして、これは今回の翻訳に限らず、いつも海外のクラシック批評を翻訳したりする機会があるたびに思うことなのだが、海外のクラシックメディアの文体というのは、少し日本と趣が違いますね。少しキザというか、なにかに比喩しての礼賛の言葉が上手で、文章に独特のリズムがありますね。そして韻を踏む文体であること。


批判するときはかなり容赦なく手厳しい。


自分は日本の音楽評論家などの文体をよく知っているので(過去に渡ってまで全般とはいきませんが)、海外クラシック評論の文体とは随分雰囲気が違うよなぁと思うことしきりです。


自分には日本のほうが穏やかで配慮があって紳士的にも思えます。


今回彼らの寄稿を訳してみて、エッセイなんかは小説家が書いていて、とにかくこの音楽祭がいかに何十年に1回しか開催されない貴重な音楽祭なのか、そしてマーラーが遺していった手紙、歴史的資料に基づいて、じつにドラマティック、劇的に書き上げている。だから尚更そのように感じるのかもしれません。


第1回目は、今回のフェストのマネージング・ダイレクター サイモン・レイニンク氏が、この公式HPに寄稿をしてくれている。


前回の1995年大会のとき、サイモン氏は、父といっしょにこのマーラーフェスト1995を楽しんだ思い出がある。学生時代にそんな経験をしていたサイモン氏が、いまや今回の2020年大会では、マネージング・ダイレクターを務めるというのだから、時代の流れ、経過に感慨深いものを感じる。


ぜひサイモン氏の2020年大会への熱い意気込みを感じ取ってほしい。





●一目惚れで恋に落ちる。(Love at First Sight)




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マーラーとコンセルトヘボウは、一目惚れで恋に落ちたようなものだった。


1903年、マーラーがはじめてアムステルダムを訪れた後、こう書いている。

「アムステルダムは、私の第2の音楽の故郷だ。」


彼の人生の中で、アムステルダムほどマーラーの交響曲が賞賛されたところはなかった。20世紀初期の批評でみられた中のひとつの見解として、「マーラーは我々を魅了した。我々は、彼の音楽の魔力の虜になっていたのだ。」コンセルトヘボウ・オーケストラの首席指揮者であるウィレム・メンゲルベルクがマーラーを初めてアムステルダムに招待した。


メンゲルベルクは、マーラーがドイツのクレーフェルトという街で第3交響曲の初演をやったときに、マーラーに陶酔したのだ。


メンゲルベルクは、マーラーは彼の時代におけるベートーヴェンであると言い切った。


だが、そのときは誰もそのことに賛同しなかったし、それどころか実際その逆の批評であった。マーラーがハンス・フォン・ビューローの”葬礼”(この交響詩は後の第2交響曲の一部になる運命なのだが)のピアノ稿を弾いたとき、フォン・ビューローは耳を覆った。


長い沈黙の後、その著名な指揮者はこう言った。「もしそれが音楽であるならば、私はもうなにも理解できない。」ウィーンやベルリンのような音楽的メトロポリスが”指揮者マーラー”を盲目的に崇拝している一方で、彼らは、マーラーの交響曲を真に理解しているとは言えなかったのだ。そのため、少なくともマーラーの人生の中では、彼はアムステルダムに旅をする必要があった。


「オランダの音楽的文化は驚くべきものである。」

マーラーはそう言ってため息をついた。


「まさにここの聴衆の聴き方が自分の理想そのものである。」



●世代を通して伝えていく。


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我々の街の影響力、そしてその魅力は、マーラーがそのときに決して一時の気まぐれでそう思ったのではなく、ある世代から次の世代へと引き継がれていった。それはメンゲルベルクがロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団に演奏させたことで大成功しただけではなく、アムステルダムの熱狂的な聴衆そのものにもその要因があるのだ。


1987年の秋の10月のある夕方、私が若い学生だった頃、父がいまや伝説となってしまったレナード・バーンスタインによるマーラー交響曲第1番のコンサートに連れて行ってくれた。そのアメリカ人は、「マーラーは、交響曲の分野で、20世紀の最も重要なイヴェントになると確信している。」と予言していた。


そして私がその夕方に感じたことは、バーンスタインによれば、そのときと同じようなレベルの経験はこれからもないだろうと思われるくらいの美しさを全身にシャワーのように浴びたことだった。


それが私がその夕方に感じたことで、けっして忘れることのできない出来事であった。


その日のことは深く、そして鮮明に記憶の中に刻み込まれているので、コンサートの前に父と私がロデガ・カイザーのお店でどのような食べ物をオーダーしたのかさえも鮮明に思い出すことができる。


そしてその8年後、父と私は、忘れることのできないマーラーフェスティバル(マーラーフェスト1995)を一緒に楽しむことになったのだ。



●マーラー・ユニヴァース


いま、コンセルトヘボウは、第1回のメンゲルベルクによるマーラーフェスティバルから100年を経て、そして第2回から4半世紀25年を経て、第3回目のマーラーフェスティバルを開催することを誇りに思う。


私たちは、ふたたびそのパワフルな音楽に浸ることができるのだ。


マーラーの音楽は、他に例を見ないほど、豊かなもの、そしてその取るに足らないもの、すべてを含んでいる。そしてその音楽を体験することで、荒れ果てた谷を通っていき、そしていろいろな感情豊かな風景を見ながら、その激しい頂に到達する感覚を得ることになるのだ。


「マーラーは魂の冒険者である。」

マーラーの信頼する友人であるブルーノ・ワルターの意見である。


はたして、マーラーは、いまの喧騒の世代の階級の中で新しい旅の仲間を見つけることができるのであろうか?


フェスティバルの中心テーマは、”マーラー・ユニヴァース”である。


10日間の間、マーラー・スピリッツが、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、ミュージック・スクエア、そして近在する文化的な機関を支配する。


4つの最も優れた世界的なオーケストラ・アンサンブル、もちろんマーラーも指揮したこともあるロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮するニューヨーク・フィル、そしてウィーンフィルやベルリンフィルが、彼の交響曲を通じて、マーラーを横断する旅に着手する。


2つの躍進著しいマーラーのスターたち、ブタペスト祝祭管弦楽団そしてグスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラも参加する。両方のオーケストラとも、彼らの燃えるだぎるようなその解釈で、コンセルトヘボウのメインホールで聴衆を魅力してきたのだ。


我々は、マーラー財団(Mahler Foundation)と、とりわけ、マーラーの孫娘のマリナ・マーラーが協力体制にあることをとても誇りに思っている。



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マーラーの孫娘マリナ・マーラー
Marina Fistoulari Mahler (1943)


マーラーの音楽は、現在、過去、そして未来をひとつに結ぶ。マーラーの遺産は、今尚、現代の人類と関連性を持ち続けているのだ。


また、カールハインツ・シュトックハウゼン(ドイツの現代音楽の作曲家)が50年前に一言でこのように言ったことを最後に添えておこう。


「もし遠い星から神様がやってきて、人間の本性について学びたいと思ったなら、まず彼もしくは彼女は、マーラーの音楽を知らずにいてはいけない。」


マネージング・ダイレクター
サイモン・レイニンク


Simon Reinink
Managing Director







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マーラーフェスティバルのスポンサーになる。 [海外音楽鑑賞旅行]

マーラーフェスト2020の大ホールの全公演は、各家庭にライブストリーミングされる。
詳細なニュースはいましばらく待て!(笑)


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いまのご時世、世界のオーケストラはどこも自分の公演パフォーマンスを、自分の公式HPなどでライブストリーミングしているなんて当たり前のことだ。どこのオーケストラもやっている。


自宅にいながら世界中のコンサートホールの公演を見ることができる。


ネット時代を迎えての、クラシック業界の大きな基幹の流れなのだろう。


そのようなことは自分の周りで起きているごく当たり前のことなのでなんとも思わないのだけれど、それがマーラーフェスト2020にも当てはまるとなると一気に事情が違ってくる。(笑)


前回の1995年大会では、コンセルトヘボウの前の公園の広場で、パブリックビューイングを行った。そして、ごく一部に流通配布された非売品CDとしてその記録は残った。


映像は残さなかったのか?


オランダのTV局のマスターテープ保管庫の中に眠っているのではないか?
ぜひ掘り起こしてお宝映像として世に出してほしい、と思う次第である。


マーラーフェストは、第1回は1920年。メンゲルベルクが1人でRCOを振り、全曲を演奏した。第2回は、1995年。第1回から75年振り。RCO/BPO/VPOなど贅沢な布陣でフェストを飾った。そして、今回の第3回目の2020年大会では、第2回大会から、25年振り。そして第1回開催から100年目という記念すべき節目の大会となる。


しっかりと後世に記録を残してもらいたいのである。


第1回の1920年は、記録に残っていないのは仕方がない。第2回の1995年だったら、残っていてもいいのだが、RCO/BPO/VPOなどが一緒だと権利処理の件で難しかったのかな?


2020年はネット&ITも進化し、その記録を残す技術バックグランドは十分にある。


自分が妄想で望んでいること。


まずライブストリーミング。


PrimeSeatにマーラーフェスト2020の全公演をDSDライブストリーミングしてほしい。


自分は生演奏で体験するので、後日、聴き逃し配信で楽しみます。


PrimeSeatは、IIJのブロードバンドなネットワークでクラシック音楽のコンサートなどの生演奏を非圧縮のDSDやPCMのハイレゾ・ライブストリーミングをしているサービス。


PrimeSeatと言えばベルリンフィルの配信が有名だが、サービス開始時は、RCOのライブストリーミングもやっていたのだ。自分はベルリンフィル配信よりもRCO配信の方が好きだったし(笑)、RCOのほうを頻繁に利用していた。


それがなぜかなくなってしまった。なぜ?


だからアムステルダム・コンセルトヘボウやポリヒムニアともパートナーシップ関係がある。


PrimeSeatサービス・スタート時のポリヒムニアのDSDライブストリーミング用スタジオ。

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KORGが新発売した1bit USB-DAC/ADCのKORG Nu I

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すごく欲しいけれど価格帯が・・・(笑)


KORGとしては、やはりプロユースでも使えるフラグシップを持っておく必要がある、という考え方があったのではないだろうか?普及価格帯の一般庶民向けが大事なのはわかるけれど、DSD11.2MHz対応でバシッとフラグシップを持っておきたいと・・・。


自分はいまはとても買えないけれど、将来オーディオに投資できる余裕が出来たら、このNu Iを3台大人買いしてデジチェーン接続して使いたい。


そういう夢がある。


自分がNu Iを買うなら、DSD11.2MHzのハイレゾ・サラウンドをやってみたいのだ。


DSDの雄、EMM Labもそうだけれど、いまのサラウンド用のDACプリは、みんなステレオ2chを3台接続して実現する。昔みたいに一筐体にマルチチャンネルのユニットが入っていないのだ。ステレオ2chでも商売できるし、マルチチャンネルでも商売できるというスタンス。


サラウンド対応するには、DACだけ対応してもダメで、AudioGateのコンテンツプレーヤやUSB IFの伝送プロトコルもマルチチャンネル分の音声信号を乗せれるようにしないといけないとか、素人考えでもいろいろありそうだ。ただ3台大人買いしても動きませんでした、チャンチャンにならないように時期とタイミングを計る。


自分が進む道は、このハイレゾ・サラウンドの道しかないのかな、と思うのです。



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普及価格帯の一般大衆向け(DSD5.6MHz)。自分もこれ。これは本当に素晴らしいですよ。Nu Iの次なる商品は、ぜひこういう普及型タイプのDSD11.2MHzを出してほしい気がします。


これは自分がPrimeSeatに抱いている印象なんだけれど、ここはあまり商売っ気がないというか、ビジネスライクでない、儲けることにあまり執着がないような淡泊な感じがします。


儲けること度外視みたいな感じで、最先端の技術を世の中に啓蒙していく先導を切る役割で、希少価値が高く、品質の高いコンテンツを供給していく、そんな風に非常に割り切っているような感じがします。


あくまでボクが勝手に抱いている印象ですよ。あまりギラギラしていないというか、マイペースで淡々と進めている感じがするんですよね。



自分はPrimeSeatは、昔はRCOコンテンツのヘビーユーザーだったけれど、いまはベルリンフィルのDSD11.2MHz配信サービスを必ず聴いています。聴き逃し配信の方ですが。年5,6回かな。


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マーラーフェスト2020の音声担当は、間違いなくポリヒムニア(Polyhymnia International BV)。


だからパイプはある。


このコンセルトヘボウホールでの演奏会の音声収録はポリヒムニアの独壇場。
このホールでのRCOの録音は、自主制作レーベルRCO Liveに提供している。


アムステルダム・コンセルトヘボウの屋根には数十か所の大きな穴が開いており、そこからマイクを吊るしてオケの音声を収録するような仕組みになっている。こういう仕組みができるようにこのホール自体の大改修工事があって、それから20年以上が経過して、マイクの位置や高さなどのデータが蓄積していき、録音の精度、ノウハウが高まっている。


エベレット・ポーター氏は1時間以内に24本のマイクをセッティングしたり、1時間以内に撤収することが可能だと豪語している。


下の写真が、そのアムステルダム・コンセルトヘボウの屋根裏には、このように24個の穴が開いており、そこから24本のマイクを吊るしてオケを収録する箇所。マイクの信号は微弱で長く引き回せないので、すぐ傍にラックを設けて、ポリヒムニア特製のマイクプリアンプへ。その他、A/Dなどが格納されている。そして例の屋根裏のスタジオへ送られるのだ。


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そして、ここがコンセルトヘボウの屋根裏部屋にあるミキシング・チェックルーム。
天井にたくさんの拡散パネルが!(笑)


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ここで24本のマイクで録った音源データをまず最初にミックスして大方の形を作ってしまう。もちろん最後にはスタジオでのポスプロで最終仕上げをするが、録音の良し悪しの骨子は、1番最初のここでほとんど決まってしまう。演奏家にリクエストを出したり、録り直しできたりする。だからこの時点での作業がとても大切だ。


昔、ここのモニターSPは、B&W N805だったのだけれど、いまはGrimm AudioのSPを使っていますね。Grimm Audioは旧フィリップスの技術メンバーによるオーディオメーカーです。やっぱり技術の世界では、舶来品より自分の出身の技術を尊重します。この世界にいれば当然ですね。



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そして最終の仕上げは、アムステルダム郊外のBAANにある彼らの専用スタジオで最終調整。
映像素材だからモニター付きで、Auro-3D対応のスタジオでやるに違いない。
マーラーフェスト2020の収録は、絶対Auro-3Dでやるに違いない。




じゃあコンセルトヘボウホールでの映像収録チームは?というと、ポリキャスト(Polycast International BV)というチームがいて、ここがコンセルトヘボウホール内の各ポイントに設置されたカメラの映像をスィッチングしたり動画コントロール業務をしているのだ。彼らのチームが映像関連をすべて管理している。


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そして映像素材として期待したいこと。

やっぱり映像収録にはNHKに参加してほしい。
彼らの自慢の8Kシステムでバシッと8Kで撮って欲しい。


そしてBSプレミアムシアターでマーラーフェスト2020全公演を放映してほしいのだ。
もちろんパッケージソフトとしても販売してほしい。
何十年に1回のレアなフェストだよ。この絶好の機会を逃してどうする!



NHK 8K撮影クルーは、数年前にベルリンフィルハーモニー、ウィーン楽友協会、そしてここアムステルダム・コンセルトヘボウにて8K撮影デモンストレーションに訪問している。


NHK 8K専用撮影トラック

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8K撮像素子業務用カメラ

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そして22.2ch音声収録。

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少し疑問なのは、22.2ch音声収録にこんなに大規模な仕掛けが必要なのだったら、セッション録音だからいいのであって観客が入っているライブ録音では難しいだろう?


そして22.2ch録音とAuro-3Dとの互換性は?


ポリヒムニア エベレット・ポーター氏とNHK 8K撮影クルーと記念撮影。

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だから、パイプ、下地がある。
可能性十分ありだ。


つくづく思うのだけれど、もしゴローさんがご存命だったら、もうこんな話あっという間に乗っちゃって、上を説得して実現してくれたんだろうな、と思うこと。(笑)



「アムステルダムは、マーラー演奏のメッカである。」


過去にこのアムステルダム・コンセルトヘボウでRCOがマーラーの全曲を演奏した映像素材Blu-rayがあるのだ。


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2013年頃に発売されたもので、2009年~2011年にRCOがコンセルトヘボウホールで演奏したマーラー公演を全曲収録し続けて、そしてついに映像パッケージソフト化したものだ。


クレジットには、音声収録は、ポリヒムニアでエベレット・ポーター氏が全曲担当している。


指揮者はダニエル・ハーディング、マリス・ヤンソンス、イヴァン・フィッシャー、ダニエレ・ガッティ、ロリン・マーゼル、ピエール・ブーレーズ、ベルナルド・ハイティンク、エリアフ・インバル、ファビオ・ルイージ。


マーラーフェスト2020とけっして引けを取らない豪華な布陣だ。


このDSDライブストリーミング、テレビ放映、そして映像パッケージソフトと自分の願い、言いたい放題でただ言っているだけだが(笑)、どれかひとつでも願いが叶えばいいな。




最後にマーラー・フェスティバル2020ではスポンサーを募集しています。



2020年5月8日~5月17日、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団は、彼らの歴史上3回目の大規模なマーラー・フェスティバルを開催する。この10日間で、世界でもっとも素晴らしいオーケストラたちが集い、10日間に渡って、マーラーの10曲の交響曲を演奏する。


1.ミュージック・スクエアでのマーラー・パビリオン(大型テント)


来るべきマーラー・フェスティバル2020に関する関心はついに圧倒的なものになってきた。3日間のパッスパルトゥ(passe-partouts→このフェスティバルの全公演のセット券のこと)はすでにソールドアウト。コンセルトヘボウは、よりたくさんの人に、このユニークなフェスティバルを楽しんでもらいたいために ミュージック・スクエア(アムステルダム中央駅の前の広場)に広大なマーラー・パビリオン(大型テント)を造営する予定である。


これにより、数千人のお客さんが、このパビリオン(大型テント)の中や外で、マーラー・フェスティバルのコンサートをライブストリーミングで楽しめるようにする。これを実現するために、ビジネス企業体からのサポートが必須になる。


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マーラー・パビリオンをサポートしてくれる企業は、つぎのようなメリットがある。



2.マーラー・ユニヴァース(マーラーの世界)でのディナー


ミラーホール(コンセルトヘボウの中にあるレストランのことだと思う。)で、あなたの会社の10名を特別なテーブルに招待して、素晴らしいディナーを独占的に提供します。そして伝統的なメインホールでの2020年5月11日の月曜日のベルリンフィルのマーラー交響曲第4番、そして2020年5月12日の火曜日のウィーンフィルのマーラー交響曲第5番のファースト・カテゴリーのチケットを提供します。



3.ミュージック・スクエアでのフライデーナイト


カジュアルな雰囲気でクリエイティブなインスピレーションを受け、マーラーのことをよく学ぶことができ、そして繋がることができる。これらはすべて、2020年5月20日のフライデーナイト(金曜の夜)のミュージック・スクエアでのマーラー・パビリオンで実現することができる。


ぜひあなたのビジネスの仲間や同僚を、このマーラーの音楽の美しくて深いその世界に紹介してあげてください。あなたはこの20枚の入場チケットを受け取ることができます。


あなたの会社の名前は、ミュージック・スクエアに目立つようにディスプレイされ、そしてコンセルトヘボウによって最も重要なマーケティングの情報として使われることになります。唯一の機会です。



4.スポンサーになることの他の形態


スポンサーはマーラー・フェスティバルの実現には絶対かかせないものです。フェスティバルへの協力の他の形態として、あなたのニーズを上手にカスタマイズされたものであれば実現可能である。その可能性についてはマーゴット・パルメン氏(Margot Palmen)と話し合っていただれば幸いである。



Contact
Margot Palmen, Head of Sponsorship
T: +31 (0)20 - 573 05 72 
E: m.palmen@concertgebouw.nl




志のある者、来たれ!である。



情報元:原文サイト




















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チケット争奪戦 [海外音楽鑑賞旅行]

それでは最後にチケット争奪戦について、その悪戦苦闘を記しておこう。
いまだから語れる、この奮闘記はどうしてもこの日記に外せない。


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現在のチケット獲得状況は、交響曲第2番だけを除いて、全部確保できている。
第2番だけ、いまなおリターンチケット待ちなのである。


でも必ず出てくる確信あります。
絶対穫れる!


2017年にこのフェストの存在を知った自分は即座に、いつもお世話になっている旅行会社と情報共有を図り、ぜひ現地とのパイプをお願いします、と依頼した。


いつも自分を担当してくれている女性のコンシェルジェは、そのようなフェストって存在するんですね、って驚いていた。内部で相談した結果、数日後に連絡があり、自分の担当のコンシェルジェを男性のY氏に交代するという。


Y氏はオーケストラに所属していたこともあり(金管、トランペットだったかな?)、大のマーラーファンだという。今回の極秘プロジェクトは、もううってつけの最適任者である、という社内の判断だった。


自分はこの旅行会社にお世話になって、担当はずっと女性のコンシェルジェだったので、男性ということで、男性ならではのプロフェショナルさと頼もしさを感じて、期待していた。


今回は難解な極秘プロジェクトだったので、自分個人でチケットを取るより、やはりプロの方に任せるほうが安全と確実性があるだと思った。まぁその分、手数料込でチケット代金は高くつくが仕方がない。


値段より安全を選んだ。

彼ならやってくれる!と期待していた。


電話でお互い自己紹介して、「ノンノンさん、私もマーラーが超大好きなので、必ずやノンノンさんの夢を叶えます。そして私自身も、全公演をコンプリートして現地で全公演を経験したいと思います。こんなフェストがあるなんて、まったく知りませんでした。お知らせ頂きありがとうございました!」


でも、そう簡単にはすんなり行かないんだな。


普通、海外の公演カレンダーは、公演日の早くても半年前くらいにチケット発売オープンになる。
もっと普通は3か月前くらいが妥当か。。。


2020年5月の今回のマーラーフェスト2020だと、半年前なら2019年12月、まさにいまの時期だ。
チケット発売はこのくらいかな、という皮算用。旅行会社も以下同文。


そういうことも含めて、公演カレンダーをつねにチェックしていたことは言うまでもない。

ところが予想に反して、よりによって約1年半前の2018年12月に発売オンセールが始まってしまったのだ。


自分も旅行会社も、まだまだだろう、と完璧に油断しきっていた時期。


自分はそれをSNSの投稿で知った。
すでにオンラインで発売が始まっていて、8番の初日の日はすでに完売。


げげっ!


もう青ざめました。


あわててネットで公式HPを確認。

そうしたら確かに記載されていて、すでに発売が始まっている。


旅行会社さん、だからちゃんと現地と密でコンタクトとってお願いしますね、と言っておいたのに、何やっているのよ~という怒りモード。


HPの記載内容を確認すると、発売になったのは、いわゆるセット券。いわゆる全公演がセットになっているチケットだ。値段もそれなりにふさわしい大金だ。


自分が気づいたときは、すでにこのセット券は売り切れ完売になっていた。
個別単位の公演のチケットの発売日は、その後の2019年6月1日である、とのこと。


自分は仕方がなしに、この個別単位の発売日にかけるしかない。

Y氏ともその旨、位相合わせをして、再度襟を正して再挑戦する。


セット券が入手できていれば、いままでのような苦労はしなくて済んだのだ。

終わったことはもう水に流そう。


ターゲットの6/1が近づくにつれて、そわそわしてしまい、自ずと緊張が走る。1か月前になってもさらには発売日のギリギリの1週間前になってもY氏からなんの連絡もない。ふつう1か月も期限が切れれば、それなりの準備をすすめるべく連絡があるはずだ。


それが土壇場の1週間前になっても連絡がないとは。


特殊なフェストなので、情報のパイプラインがなく苦労しているのは想像はできた。

自分はだんだん焦りと怒りが増幅してきた。


そしてある日、このようなキレた内容の抗議文をY氏に送った。


もし従来通り、女性のコンシェルジェだったならば、このようなキツイ調子でクレームは絶対できなかったと思う。そこは同性の男性であるが故の自分の甘えというか、遠慮、配慮がなかった。


ノンノン:


情報を掴もうという努力をなさっているとは思いますが、やはり遅すぎです。
こちらの依頼に対して、いつも後手後手になっていて、対応が遅すぎます。
待っているほうは、どうしても感情的にイライラします。

もう少しマメに連絡を入れていただけると救われると思います。
(現在の状況も含めて。いつも簡単な結果だけになっています。)


今回のチケット手配は、こちらの温度感からすると、普通のチケット手配と違って、
相当試練の困難な争奪戦と理解しています。私が掴んでいるまわりの雰囲気もそうです。

そちら&現地との温度差がないように、お互いのフェーズを合わせたいと思いますので、
よろしく気を入れていただくようお願いします。


情報がないせいだと思いますが、今回の対応の遅さを鑑みると、今後のことが
不安になってきます。


超困難な手配ですから、全滅で、キャンセル待ち前提の闘い、ということも当然
覚悟しています。だから、そうなると1年後の公演開始までずっとキャンセルが出るまで
待ち続ける、という長い戦いになると覚悟しています。


今回の旅行のために、3年間海外旅行をお休みした訳ですから、この旅行のために
かけているのです。


それだけかけていますので、こちらの気持ちをくんでいただきたい、と思います。


キツイ言い方をさせていただきましたが、ずっと御社を利用してきたカスタマーの立場、
経験上から、いつもの手配と違い、かなり対応が遅いので苛立った次第です。


今後1年先まで長いお付き合いになりますので、いまアドバイスしたほうがいいと思い
筆を執った次第です。


お許しください。



Y氏:


ノンノン様

メール拝見いたしました。
今回のご旅行でノンノン様がどれだけの思いで
マーラーフェスティバルを心待ちにされているかを
しっかり汲み取ることが出来ず申し訳ございませんでした。

レスポンスが遅いということはご指摘の通りであると反省しております。
情報不足においても、ご不安思いをさせて申し訳ございません。

チケット発売まで間もなくではございますが、
直前まで情報収集に努めさせていただきます。
ベストな手配が出来るように、ノンノン様とも密なやり取りをさせてください。

この度はご指摘をいただいて申し訳ございません。
引き続きよろしくお願いいたします。




このような返事をもらっとき、正直イラっとして感情的になった自分は後味が悪いというか言い過ぎた、感情的になり過ぎた、と反省モードしきりだった。


それから数日後、一週間もしなかったと思う。


チケットが手配できた、という連絡。


さすがに2番と3番は完売だけど、それ以外の公演は全部抑えたという。

Y氏はきちんと仕事をしてくれた!
やることはきちんとやってくれた!


2番、3番はリターンチケット待ちするしかない。


男は言葉多くより、ちゃんと実績で答えるのみ!という男の姿を見せてくれた。

もちろん感謝の気持ちをたくさん伝えることは当然だった。


それから2週間経過したくらいだろうか・・・Y氏が1か月の休職に入ってしまった、という連絡。
そして1か月後に連絡したら、そのまま退職された、とのこと。


自分は相当ショックで立ち直れなかった。


理由は聞けなかったが、あくまでも自分の推理。

たぶん病気になってしまったのでは?と思った。
病気になり、1か月休職して、それまでに治癒できなかったのでそのまま退職手続き。


出会ったとき、「自分もマーラーの大ファン。自分も現地で全公演をパーフェクトに体験したいです!」と熱く語っていた。そんな前向きだった男が辞める理由は見当たらない。


もし、あくまで自分の想像に過ぎないけれど、もし病気での退職だったならば、まさに志半ばにして倒れるとはこのこと。そして自分に叱咤激励され、きちんと男としてその結果を出した。


自分はそう思うと泣けて泣けて仕方がなかった。


いままで一緒に闘ってきた想いもよぎり、朝の満員の通勤電車の中で人目はばからず大泣きしてしまった。


まさに今回のノンノン2020プロジェクト、なによりもY氏のためにも絶対に成功させないといけない。


Y氏の後任は、また女性のコンシェルジェに担当してもらい、今後の調整などサポートを受けている。


第3番は、ほんの数日前に、リターンチケットが出てきて、無事確保しました。
あとは第2番「復活」のみ!


毎度のことながらチケット争奪戦はひとつの人生のゲームだとつくづく思います。










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マーラーフェスティバル2020に行きます! [海外音楽鑑賞旅行]

クラシックの作曲家は大半がそうなのかもしれないが、グスタフ・マーラーは作曲家として生前はまったくと言っていいほど評価されず、逆に批判、罵声を浴びながらその生涯を終えた。


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マーラーの作品が評価されたのは、本当につい最近のことで、マーラーの作品を演奏指揮した直弟子のブルーノ・ワルターなどいることはいるが、マーラーの作品を頻繁に世間に取り上げ、真に商業的な成功に導いたのは、レナード・バーンスタインではなかったであろうか?


それ以来、マーラーブームと呼ばれるブームが何回も起きるほど大人気になり、いまではマーラーの交響曲、歌曲はクラシックファンに最も親しまれている作品のひとつと言えるようになった。世界中のクラシック業界どこもかしこもマーラー・ツィクルスが実演された。自分もあまりに多くて全部思い出せないけれど、自分がコンサートに参加したものでは、ラトル&ベルリンフィルのマーラー全曲演奏会、そして日本では、インバル&東京都交響楽団のマーラー全曲演奏会。


前者は、現地ベルリン・フィルハーモニーで交響曲第6番「悲劇的」、後者は、東京芸術劇場&横浜みなとみらいで全公演に参加した。


マーラーをコンサート演目に取り上げるのは、正直言うと、自分はもう少々食傷気味という感じがするくらいで新鮮味という点では、あまりに演奏され過ぎた。


いまではそんな感もある。


マーラーはウィーンで音楽の教育を受け、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任し、ウィーンで作曲家、指揮者としての活動をスタートさせるのだが、オペラを指揮しながらも、自分の作品を作曲していく過程で、そのウィーンでの評論界では全くと言っていいほど評価されず、まさに不遇の時代を過ごした。


その後、ヨーロッパを離れ、海を渡り、アメリカへ移住。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の音楽監督に就任するが、やはり批判、罵声などの評価から変わらず。またクラシック不毛の地アメリカのオーケストラ、クラシック業界に対してマーラー自身が偏見の眼差しで見ていたこともあって、やはりそこでも不遇の時代となり得た原因があった。


そういう常に”評価をされる”という点ではまったく冷遇され続けてきたマーラーではあるが、唯一オランダ、アムステルダムでは、とても暖かく受け入れられ、まさに熱狂と言っていいほどのフィーバーであった。


当時コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者であったウイレム・メンゲルベルクとの出会いがそのような不遇のマーラーの人生を変えた。メンゲルベルクは、1902年6月のドイツのクレーフェルトの音楽祭で交響曲第3番を指揮するマーラーに出会い、一気に一目ぼれ。ぜひマーラーをアムステルダムに呼ぼうと企てるのである。


メンゲルベルクは、自分の一生涯をかけてマーラーをサポート、啓蒙していこうと決心した。
マーラーにとって、メンゲルベルクはまさに自分の音楽家人生にとって最愛で最強のパートナーとなった。

アムステルダムの聴衆とメディアはマーラーに対して暖かかった。
つねに熱狂と大歓声に囲まれた。
そしてメンゲルベルクの熱いサポート。


アムステルダムにいると新しい作品に対するインスピレーションを得ることも多く、またメンゲルベルクとの強力なコンビネーションですでに書き上げていた作品などの補筆なども頻繁に行う促進力を生むことも多かった。そしてなによりも自分の作品をここアムステルダムで演奏することで大絶賛を浴び、マーラーをとても暖かく迎え入れてくれた。


これをすっかり気に入ったマーラーは、その後メンゲルベルクに招聘され、何回もアムステルダムで客演を重ねる。マーラーにとって、アムステルダムは、”音楽の第2の故郷”となった。


こうやってアムステルダムは、マーラー演奏のメッカとなっていく訳だが、マーラー没後に1920年に盟友メンゲルベルクによって最初のマーラーフェスト1920がアムステルダム・コンセルトヘボウで開催され、メンゲルベルク&ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団によってマーラーの交響曲、歌曲などの全作品が演奏されたのである。


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このマーラーフェストの第2回は、その75年後の1995年に開催された。このときはRCOだけではなく、ベルリンフィル、ウィーンフィル、そしてその他の楽団によって、アムステルダム・コンセルトヘボウでマーラーの全作品が演奏された。


自分はこの1995年当時、ヨーロッパに住んでいて、アムステルダムに同期の友人が住んでいて、現地で頻繁に交流していた。その友人は筋金入りの大のクラシックファンだったのだが、マーラーについてはいままであまり聴いたことがなく食わず嫌いだったところが多かった、ということだった。


でも自分が住んでいるこのアムスでのマーラーフェスト1995に4曲通って、初めてマーラーという作曲家を理解できたし、自分のクラシック人生に大きな転換期になった、と熱く語ってくれた。


とてもユニークなフェスで、普通はほとんど誰もよく知らないであろうマーラーファストであるが、自分がその存在を知ったのは、このアムスの友人の1995年度大会の体験談を通じて初めて知ったのであった。


その話を聞いて、ぜひそのマーラーフェスト1995の次回大会を熱望していた。


いったいいつのことになるか、まったく想像できなかったけれど、2017年のときに偶然ネット検索で、2020年にそのマーラーフェストが開催されることを知った。1920年大会、1995年大会は、マーラーフェスト(MAHLER FEEST)であったが、今回の2020年から改め、マーラーフェスティバル(MAHLER FESTIVAL)と改称された。


3回目のフェストがなぜ2020年なのか、だが、単純に想像して、第1回の1920年から、2020年が満100年にあたり、大きな節目と考えられたから、だと思う。


自分はもう色極めだった。


もうこれは絶対行くしかない。こんなユニークなフェスは絶対自分に合っている!
そこからは、このフェストに行くべく、猛努力を重ねてきた。これは先の日記で書いた通りである。


マーラーフェストについてはこんな経緯である。


今回のマーラーフェスティバル2020の日程表である。


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ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団、ベルリンフィル、ウィーンフィル、グスタフ・マーラーユーゲント管弦楽団、ブタペスト祝祭管弦楽団、そして今回新たなメンバーに加わったのが、ニューヨークフィルである。ニューヨークフィルもマーラに所縁のあるオーケストラで、バーンスタインはこのニューヨークフィルの音楽監督、首席指揮者に就任していたとき、このマーラー作品を頻繁に演奏項目に取り上げ、またマーラー録音の教科書とも言える作品も数多残した。


それが近年のマーラーブームの礎となった。


だからニューヨークフィルの参加は至極当然と言えば当然である。


指揮者は、ヤーブ・ヴァン・ズブェーデン(ニューヨーク・フィル)、チョン・ミョンフン(ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団)、キリル・ペトレンコ(ベルリンフィル)、ダニエル・バレンボイム(ウィーンフィル)、ダニエル・ハーディング(グスタフ・マーラーユーゲント管弦楽団)、イヴァン・フィッシャー(ブタペスト祝祭管弦楽団)と蒼蒼たるメンバーである。


でも前回の1995年の一連のスター指揮者と比べると、今回はやや小ぶりかな?という感じは否めない。各々の楽団に所縁のある指揮者が選ばれるが、RCOにチョン・ミョンフン氏とは意外だった。


確かにRCOは首席指揮者で最有力候補のダニエレ・ガッティが女性スキャンダル(#MeeToo)問題で引責辞任したのが一番痛かったであろう。そしてハイティンクの現役引退、ヤンソンスのご逝去・・・とめぼしい候補が軒並みスピンアウトした。RCOのマネージメントはいまなかなか厳しい状況にあるそうで、フェストの指揮者選びは難航に難航を重ねたと思われる。


でも、しかしチョン・ミョンフン氏とは!

これは背後にある権力と金が働いたものと推測される。
この報を聞いたとき、すぐにピンと来ました。(笑)
・・・以下自粛。(爆笑)


ベルリンフィルの指揮者がペトレンコというのも楽しみだ。


おそらく、そう、おそらくだ。自分がベルリンフィルを振るペトレンコの図を見るのは、これが最初で最後になるに違いない。昔の予算体力と違い、いまやベルリンフィルが来日公演をおこない、それに4万~5万をかけて通うというのは、いまの自分にはできないというか不可能だ。


担当する曲は、交響曲第4番と交響曲第6番。

第6番をやってくれるというのは嬉しかった。


自分にとって、マーラー交響曲第6番「悲劇的」と言えば、絶対ラトル&ベルリンフィル。
自分はマーラーをバーンスタインで勉強してきたことはもちろんだけれど、自分のマーラー演奏の教科書は、近代のマーラー解釈の先駆者であるアバドやラトルによるところが大きい。


第6番の第2楽章と第3楽章をどのような順番で演奏するのか?
旧来は、第2楽章にスケルツォ、第3楽章にアンダンテと演奏するのが常であった。


それを第2楽章にアンダンテ、第3楽章にスケルツォの順番で演奏し始めたのが、アバドが最初であった。ラトルもそれに倣った。ベルリンフィルのシェフとして両先輩にあたるこの両人がこの順番で演奏したのに対し、新シェフであるペトレンコは、はたしてこの順番で演奏するのか?注目する点である。


これに向けて、ラトルのベルリンフィルの離任コンサートになった第6番の自主制作のCDも購入して、いま聴いている。どのような解釈の違いがあるか、楽しみである。


マーラーの歌曲には、じつはマーラーは、オーケストラ版と室内楽版の2つのヴァージョンを作曲している。リュッケルト歌曲集、子供の不思議な角笛、亡き子をしのぶ歌、大地の歌。


これらがオーケストラ版は、メインホールで交響曲とペアで演奏され、室内楽版のほうは、リサイタルホールの方でピアノと歌手の組み合わせで演奏される。前回の1995年大会と今回が違う点は、この室内楽版が演奏される点であろう。

自分はもちろんこの室内楽版も全部行くことにした。


アムステルダム・コンセルトヘボウのリサイタル・ホールも初体験である。


このマーラーの歌曲については、上の演目の他に、マーラー夫人であったアルマが作曲した歌曲、アルマの友人・愛人が作曲した歌曲を歌唱演奏する日もある。

これはかなりレアであろう。(笑)
マーラーフェストならでは、である。


もうひとつ楽しみなのは、オランダの室内楽ユニットのアムステルダム・シンフォニエッタの実演を体験できることだ。マーラー、シュトニケの室内楽版を演奏してくれる。


アムステルダム・シンフォニエッタは、Channel Classicsに所属しており、彼らの新譜はよく聴いていたので、その存在を知っていた。ピアソラのブエノスアイレスの四季などのアルバムは絶品だったし、自分もディスクレビューで絶賛の日記を書いた。


彼らが、日本に来ることはたぶんかなりの可能性の低さなので、こうやって現地に赴くしかないと思っていたが、まさかマーラーフェストで実現するとは思いもしなかった。


大変楽しみにしている演奏日である。


今回のマーラーフェスティバル2020、もうロゴ、カタログ、ポスターのデザインも決まっている。


フェスティバル・ロゴ

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カタログ

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ポスター
まさに人生に1回のチャンス!と書かれていて、まさにその通りである。

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アムステルダム・コンセルトヘボウのホールのホワイエの壁には、このようにフェストのポスターが他のポスターと並んで貼られている。

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前回の1995年大会は、赤色がトレードマークだった。


アムスに住んでいた友人が、当時のフェストに行ったときに通った4曲のカタログ。今年の6月に久し振りに同期会の飲みとして2人でサシで飲みました。そのときに写真に撮らせてもらったものです。


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マーラーフェスト1995の非売品CD。やっぱりトレードマークは赤色です。
とてもレアな録音なので、ヤフオクで10万のプレミアで入手しました。


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録音はオランダ放送協会によるもの。
このセットはベアトリクス女王も含むごく少数の人しか出席していない、
コンセルトヘボウホールの前マネージャー退任記念パーティで配布された
自主制作盤で、他にも世界中の大きなラジオ局には少数配布されたようですが、
一般には全く流通していない大変貴重な非売品。
(もちろん権利関係ははっきりクリアした正規盤である。)

これも本番までの予習材料で何回も聴き返すことになるでしょう。



この非売品CDに入っているカタログに掲載されているこの写真。


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その飲み会で友人が語っていたこと。


そうここ!


このコンセルトヘボウの前にある広場で特設の会場が設置され、ここでメインホールで演奏されるフェストの模様が、ここでパブリックビューイングされていたんだよね、と熱く語っていました。


これは前回の1995年大会だけに実在したオプションであった。

今回の2020年大会も同じような催しが行われれます。
ただし、現在の最新技術を使ったいまの時代にあった仕様のイヴェントになります。


その他、本番の公演前にシンポジウム、討論会、インタビューや座談会なども行われる。


ファスティバル期間中、コンセルトヘボウはひとつの大きな展示会場スペースになる。マーラーの個人的な所持品などが展示される予定。~たとえばマーラーの未亡人であるアルマの家族アルバム(マーラーの孫娘:マリナ・マーラーからお借りできるもの)からの写真の数々。そして同様に、パリのマーラー音楽図書館からお借りできる物の数々など。


我々訪問者は、あのマーラーの有名なメガネ、スコア原稿、指揮棒、そしてシャツのカウフスボタンのようなものを実際じかに見ることができてさぞかし感激することになるであろう。


これは楽しみ!いっぱい写真撮ってきます。


まさに一期一会のフェスト。
このフェス期間中は、アムステルダムがマーラー一色に染まる期間なのである。


この3年間、この写真を自分のパソコンの壁紙に貼り付けて、”行くぞ!コンセルトヘボウ”と毎日自分に叱咤激励をしていたのでした。


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そんな3年間なのでした・・・じつは。


マーラーフェスティバル2020は公式HPが出来ていて、そこに関する記事、”マーラー・イン・アムステルダム”など興味深い記事の数々。


年明けてから、それの邦訳を日記でお送りしたいと思う。


自分も訳していながら、とても勉強になったというか、マーラーとアムステルダムとの関連について、自分の血肉になりました。


本番の2020年の5月まで、これからマーラー一辺倒の偏った投稿内容になりますので、そこはぜひご容赦を。










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。。。そして帰国。 [海外音楽鑑賞旅行]

帰国。毎度恒例ながら、日本人の自分にはやはりこちらがよく似合う。

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今回は、”よくできました”ご褒美で、さらにこちらも!

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テロやスリなどのトラブルもなく、万事計画通りに終了。
渡航前の3週間前に発案したとは思えないほど、すべてがうまくいって濃厚だった。


正直、ロンドン滞在3日目かな。明日が最終のグラインドボーン音楽祭の前夜、

「はやく無事に終わってくれないかな?」
「早く日本へ帰る機上の人になりたい」

という弱気が持ち上がった。

この1週間の間、あまりに内容が濃すぎて、消化不良気味。
相当疲れていた。

なにせ、グラインドボーンはアクセスが厄介なので、前夜から憂鬱。(笑)

帰国後、ずっと会社で出勤していたが、いまだから話すが、朝9:00~昼の14:00まで、信じられない睡魔で廃人と化していた。

2,3日前にようやく気づく。あっ時差ボケかってな感じ。

今回の旅行日記を急いで書き上げた。

これから始まるイヴェントが、この後ぎっちり詰まっていて、いつまでもヨーロッパのことをひきづっていては、その方々に迷惑がかかると判断。

綺麗にかたづけて、サッパリして、新しいイヴェントに集中&応援していきたいと決意。

初頭でも述べましたが、旅行会社スタッフには、本当に突発な企画を受けていただいて感謝する次第です。

来年はどこに行くか、もう決まっています。
秋に決行します。

洪水のような情報ふくめ、本当にお騒がせしました。

よしっ!これですべてケリがついた。申し訳ないが、これから、ちょっと冬眠に入る・・・・・zzzzZZZZZ


青春の想い出のロンドンを堪能してきました。 [海外音楽鑑賞旅行]

ベルギーからロンドンへは、エアーを使わず、昔からぜひ乗ってみたいとずっと思っていた憧れのユーロスターで。ドーバー海峡をくぐり抜け、一気にロンドンへ。

EU大陸圏外に出るためか、空港並みに、パスポートコントロール、セキュリティチェックがあって、出発の1時間以上前に駅に着かないといけなかった。

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無事手続きを経て、朝早くから来たので、自分もかなりお疲れモードでの待合室。

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憧れのユーロスター。

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ICEと違って、カートの格納エリアがあるのですね。(本来そうあるべき!)
(ICEは、きちんとしたカート格納エリアというのがなくて、単に座席の後方に広いスペースがあって、そこに置いておくという感じ。)

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車両内はこんな感じ。

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車窓からの風景をのぞみながら、素敵なロンドンまでの旅路を体験できました。

到着の駅。(名前忘れてしまいました。)これでようやくロンドンに到着という新たな想い。
ロンドン滞在は、今回のツアーで最長4日間。最後の試練であります。

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タクシーでホテルまで。
ホテルは、ROYAL NATIONAL HOTEL。

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レセプション

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部屋

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まぁ、いままでの滞在ホテルがあまりにゴージャスだったということもあるが、今回のホテルはリーズナブルな普通のホテルのように思われた。

とにかくホテルの規模がすごい巨大ホテル。海外からの観光客向けのマンモス・ホテルというイメージでしょうか?部屋に空調がまったくついていなかったり、バスルームにシャンプーがついていなかったりで、シャンプーについては、別室のハウスクリーニング担当部屋にいただきにいけないといけなかった。

WiFiの線も細かったですね。自分のケアレスミスで、UKの電源ジャックって、大陸のC-Typeと違ったんですね。ホテルの同じハウスクリーニング担当部屋に変換アダプタが置いてありました。

朝食、毎日ここのホテルのレストランで食べましたが、まぁイギリスといえば、ローストビーフだろう、ということで、頼んでみましたが、まぁこのようなてんこ盛りで、かなりラフでした。(笑)

美味しいけれど、上品ではないよね。

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ロンドン・・・じつに懐かしい。20年以上ぶり。

昔、ロンドン近郊のベージングストークという街に赴任して生活していたことがありました。ロンドンから車で高速使って1時間くらい。ベージングストークという街は、アメリカ・カルフォニア州のサンノゼ版のようなところで、いわゆるイギリスでのIT/電機メーカーなどの企業オフィスが集まっている街で、前職の会社のイギリスブランチもそこにありました。放送局に納入する業務用機器などの開発がメインのオフィスでしたが。。

ロンドンと言えば、このかぶとむしタイプのロンドン・タクシー。”ブラックキャブ”というやつですね。やっぱり、どこでも走っているのは、このタイプのタクシー。他のタイプは見たことがなかった。

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なんでも不況下にて、中国企業に買収されて傘下にある、という話をニュースで見ましたが。さっそく乗ってみると懐かしい。昔と違うのは、テロ含めセキュリティ強化されていて、運転席と後部座席は完璧な防弾ガラス。時代だなぁ、と思いました。

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あと、ロンドンの街の景観を決定づけるのは、この赤い2階立てバス、いわゆる”ダブルデッカー”というやつですね。新型と旧型と2種類あるらしいですが、そのときはわかる由もなし。

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そして、なんといっても今回大活躍したのは、地下鉄”Underground”。

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ロンドンの街を移動するには、もう絶対これですね。これは大変便利!じつは赴任時代は、マイカーでロンドン市内をグルグル回っていたので、地下鉄はほとんど使わなかった。実際、本格的に地下鉄を使うのは今回が初めて、というか久し振りだったりした。

とにかくわかりやすくて使いやすい。ロンドンの観光名所って、大体地下鉄の最寄り駅が近くにあるので、地下鉄乗り継いでスイスイと。

どのラインを使って、どっち方向に行くの?どっちのホーム?

どのラインを使うの?は簡単だけれど、どっち方面のホーム?じつは、必ず駅にはこういう看板があって、下車駅の路線図の標示板が壁についているので、どっちのホームなのか簡単にわかる。

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あるいは、こうやってホーム側の壁にもついている。

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これってすごい重宝するなぁ。日本の地下鉄や、パリのメトロよりもずっと使いやすいんじゃないの?(笑)もう滞在4日間は、1日中地下鉄を使っていて移動しまくりで、もうガイド本の路線図マップはボロボロになってちぎれそうでした。

いま日記を書く前に、いろいろガイド本を読んでみたら、ロンドンの地下鉄って、世界で1番歴史が古いんですね。なのに、この使い勝手の良さ。

駅の地下通路では、こんな掲示板があって、ロンドン地下鉄100周年のロゴ変遷などが表示されていました。

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自動販売機でチケットを買うが、使用頻度が高いので、もちろん1日券を買う。

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まず、グラインドボーン音楽祭のチケットは、現地ロンドン支社での直接受取だったので、そこまでたどり着く。その途中の街の景観を観て、いやぁ~これこそ、ロンドンの街の景観だなぁと本当に郷愁の念。

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そして無事、グラインドボーン音楽祭のチケットを引き取り。

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去年は、パリでスリに会い、現地パリ支社でお世話になりましたが、今年は、いい用事(笑)でロンドン支社を訪問することが出来ました。


さっそく想い出のロンドン散策開始。

まず、目指すはタワーブリッジ。自分にとってロンドンの街の景観の代表的な建物なんですよね。

最寄駅から歩いていると、いきなり写真のような建物が突然目の前に現れて、ぐぉぉぉ~と思ってしまう。(笑)
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現在橋を通過中。

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やはり、タワーブリッジは、このアングルでしょうか?

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昔、ポール・マッカートニー&ウィングスが、ロンドンタウンというLPを出したときに、そのジャケットが、背景に、このタワーブリッジで、それを後ろに、3人が写っているというモノクロジャケットを思い出しました。


このアングルで写真を撮影したところは、こんな公園になっていました。

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そして橋を渡って、また最寄り駅に帰還中。

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また、この付近にはロンドン塔があって、これも世界遺産です。

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つぎに、国会議事堂、ビッグベンを目指す。ここも世界遺産。
ウエストミンスター駅が最寄り駅。

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天気も快晴に恵まれ、本当に素晴らしい景観ですねぇ。

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国会議事堂のほうも。

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プロの写真は、ビッグベンと国会議事堂を横から撮るアングル(テムズ対岸からの姿)が一般的のようで、そのときはまったく思いつきませんでした。


じつは、ここもいろいろマイカーでグルグル回っていた想い出があって、それはビッグベンの裏側にある、パーラメント・スクエアという場所に車を止めていた記憶があって、ぜひそこに行きたかった。希望が叶いました。

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パーラメント・スクエア

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近くのウエストミンスター寺院を見学。素晴らしい!

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つぎに向かったのは、Waterloo。

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この地名は、あまりみなさん、馴染みがないと思うが、ベージングストークからロンドンまで高速ハイウエイで来ると、ロンドンに最初に出るところが、このWaterlooなのだ。自分は、ここを起点にロンドン市内をマイカーでグルグル回っていたのでした。

ちょっと残念なのは、記憶では、橋からテムズ河をのぞんでいた風景が頭から離れられず、どこだったかなぁ、とずっと悩んでいて、結局夢かなわずだったのだが、いま帰国後にガイド本を見直すと、Waterlooの橋でした。間違いない。


そして、ロンドンに入るポイントが、Waterlooだった場合、帰りの道は、かならずピカデリーサーカスから帰っていった記憶があるのでした。

懐かしのピカデリーサーカス。

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ここは、よくたむろっていました。日本からの出張者を、よくここで接待していた記憶も残っています。この風景、全然変わっていない。

もしや!と思い、20年以上前に、このピカデリーサーカスにあったドーナッツ屋さん、まだあるのか!?

これが、あったりするんだなぁ。(笑)

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やっぱりヨーロッパ。東京は流れが速いから、あっという間に、建物がどんどん変わっていくけれど、ヨーロッパ、それがたとえ、ロンドンのような大都会でも、意外と変わっていないんだなぁ、という感じ。

なんで、単なるドーナッツ屋さんなの?もっといいもの食えよ!という感じかもしれないが(笑)、そこが青春なんだな。

さっそくドーナッツをいただきます。

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つぎにバッキンガム宮殿。ここも有名な観光名所ですね。大変な観光客でした。

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近衛兵のお仕事って大変ですね。全く微動だにしない姿勢で長時間ずっと立っているんですから。

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この近衛兵の交替式が名物ですので、ぜひ見学しようと思ったら、今日は中止ですと。(>_<)

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バッキンガム宮殿からの帰り道の横のほうに一面に広がる公園がなんとも美しいこと!

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そして大英博物館。ここは1日かけても全部観きれませんね。最初からあきらめモードでした。ほどほどに見て退散。

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大英博物館の前のカフェの前、視覚的にビビッとくるショットが目に入ってきて、思わずパチリ。ロンドンらしい、いい雰囲気。

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そしてロンドン散策の1番最後が、これまた、なぜかこんなところなの?と言われるかもしれないが。最後にここだけは見ようと。。。歴史と世界のマネーを動かしてきた、シティ周辺。王立取引所前の風景。

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ここはビジネス街で、観光客も少ないのだが、住んでいた時、マイカーで市内をグルグルしていたときに、どうしてもここにでく会わすというか、マイカーの運転席から眺めた風景では、1番見てきた風景なのでした。これを最後に見れて、本懐といったところです。


これがロンドン滞在で、回ってきた全名所。もう地下鉄の路線マップ、ボロボロでちぎれそう。

コンサート、オペラ鑑賞も含めると、この滞在4日間で、ずいぶん歩いたなぁという感じでした。

食事控えめでこれだけ歩けば、それは痩せるわな。(笑)


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