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名古屋いろいろ [国内旅行]

今回の旅行でつくづくわかったことは、名古屋は、やはり大都会であるということ。それも半端ないくらい大都会だと思う。


でも不思議なことに、大阪、京都方面に新幹線で行くことはあっても、名古屋はその途中駅というイメージがあって、なかなかそこに降り立つということがなかった。


人生で初めて名古屋の街を歩いたのは、5年前の2015年のアラベラ・美歩・シュタインバッハー、ヘンゲルブロック&NDRの東京、大阪、愛知弾丸ツアーの追っかけをしたときが初めてだったのである。


あとは、2回ほど岐阜サラマンカホールに遠征するとき、新幹線で名古屋乗り換えで、そのときに住よしさんの立ち食いきしめんを体験するくらいであった。


人生50代後半にもなって、それじゃいかんだろう、ということで、今回思い立って、徹底的に名古屋を楽しもうと思ったのである。


本来であればコンサート付きで実行したかったが、あいにくのコロナ禍。
もうそれは仕方がないだろう。


たった1泊2日だったけれど、それでも十分名古屋のことを楽しめたし、来てよかったと思う。もちろん、在住の方や出身の方からすると、たった1泊2日で、しかも観光地だけでなにがわかるんだよ、というツッコミはあると思うが、そこはご容赦ください。


JRや地下鉄で、今回頻繁に使ったのが、東山線、名城線、あと名鉄線かな、これはフル稼働で、これを使っていろいろな街、観光スポットに行きました。時間の関係上タクシーを使ったところもありましたが。(笑)


そうするとやっぱり大都会だよなぁとつくづくと感心するのである。


愛知県、名古屋は、自分の故郷の北海道ととても似ているところがありますね。それは子供の頃からずっと抱いていたことだけれど、それは街が碁盤の目状に区画整備されていること、そして交通事故が多いことです。


全国の交通事故件数は、いつも北海道と愛知県がトップを争っているんですね。これは有名なことです。自分の子供の頃からずっとそうでした。(いまは知りませんが。)


そんな観光地ではない、名古屋のふつうのところを写真で納めてきたものをお披露目しようという雑談がこの日記の目標である。



名古屋駅。
後ろに高層ビルがそびえ立っている。
都会だよなぁ。


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名古屋駅(太閤通口)から見た正面の図。
あの正面の名鉄ニューグランドホテルが、自分の宿泊したホテルでした。
いいホテルでした。


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名古屋駅は広くて近代的です。


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名古屋駅には、”なごやめし”を食べさせてくれる飲食店専門アーケード街があります。
あの台湾ラーメン「味仙」の名古屋駅前店もここにあります。


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太閤通口と桜通口に出口があって、新幹線乗り場は、太閤通口のほうにあります。
自分のホテルも太閤通口側にあります。


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だからいつも地下鉄であっちこっちに行った後、名古屋駅に戻ってきたら、いつも、掲示板で新幹線乗り場方面はどっち?それがわかれば太閤通口も近く。。てな感じで自分の方向感覚を養っていました。それでも名古屋駅はすごい広いので、出口から出て、ふっと放り出されると自分がどこにいるのかわからなくなります。


なぜ太閤通口と言うのか、代々徳川家の領地であったところなのに・・・と疑問に思っていたところに駅にこんなポスターが!(笑)


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いまNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、佐々木蔵之介さん演じる藤吉郎(豊臣秀吉)のポスターが貼ってありました。ネットで調べてみたところ、太閤にはじまって「千成通」=「千成瓢箪」「清正幼稚園」などなど豊臣秀吉と加藤清正の生誕地ですので地名や学校名に、その名を残しています。


ですから身一つで、立身出世して、天下人まで上り詰めた歴史上の人物から肖ったものでしょう。それと、もう一つ言えるのは名古屋市は家康の命により、西からの備えの最重要拠点として尾張藩を開き、代々尾張徳川家の治めていた国でしたから、当然徳川の遺産・威光は数多く残されていますが、中村区だけは(中川区は前田利家)豊臣家の威光の足跡を残したいと言う、地元の民の強い願いが後世に反映された賜物だと思い地元中村区の出身の者としては、誇りである又、粋な文化だと自負致します。


名古屋駅の太閤通口だけでなく、名古屋市の中村区に太閤という地名があるのです。
それにちなんだ解説でした。

納得いきました。


まず東山線で栄という街に。
名古屋の街で一番の繁華街はどこ?そこに行きたいと思ったのですが、よくわからなく、なんとなくネットでも栄が一番出没率が高いので、栄にしました。
ここにはテレビ塔もあるし。


栄の駅を降りて、ちょっと通りを撮影。
遊園地の観覧車が街中にあるんですね。(笑)


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まずテレビ塔のすぐそばにある愛知芸術文化センター。


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コンサートホールである愛知県芸術劇場はこの施設の中の一施設です。
愛知県芸術劇場は、ワインヤードの最新設計の近代ホールで素晴らしいホールですね。
音響もじつに素晴らしいです。

懐かしいです。


5年前に、このホールを体験できました。

アラベラさん、ヘンゲルブロック&NDRのツアーでした。
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。


そのときのカーテンコール撮影。(この頃は怖いもの知らずであった。(笑))


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もうこのときの想い出は自分の中で永遠に生き続けることでしょう。


一生の宝物です。
この想い出を大事にして生きていきたいです。



そして名古屋テレビ塔。
シルバーなんですね。


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東京タワー、スカイツリー、そして札幌テレビ塔と、数々の放送電波塔を見てきた経験からするとシルバーというのはなかなか渋いです。


テレビ塔の中に入って展望台に上がって、街内を見下ろしたいと思っていたのだが、朝早かったので、まだ開いておらず、しかたなくその前にテラスで休憩。この日は雲一つない快晴であった。


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ついでにホットドックの朝ごはん。
美味しかったです。


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テレビ塔のふもとには、いかにもイギリスらしいこんなお洒落な英国パブが!
思わず思いっきり反応してしまいました。


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時間になって、テレビ塔の中に入る。
エレベーターで展望台へ。

途中階で下車して、そこから別エレベーターで昇る二段階ですね。
その最初で降りたフロアでちょっとフロア内を歩いてみました。

おみやげショップあります。


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そしてこんなタワーラウンジというお洒落な空間があります。


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展望台に上りました。
こんなフロア。


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そして名古屋の街を一気に俯瞰。

いやぁ本当に大都会ですねぇ~。
街が碁盤の目状に区画整備されているのがよくわかります。


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いつか名古屋にきたときに、楽しんでみたいと思っていたことに、ジャズ歌手のケイコ・リーさんのライブを、名古屋ブルーノートで生体験したい、と昔から思っていたのでした。


そのコンサート日程に合わせて、名古屋をエンジョイしようと思っていたわけ。ケイコ・リーさんは東京、大阪はじめ全国で活躍しているジャズ・スターだが、本拠地は名古屋においていらっしゃる。


やっぱりそこの本拠地でライブ体験をしたいという夢があったんですよね。2000年代前半だったかな、ケイコ・リー・ライブを東京のありとあらゆるライブハウス、ライブレストランで徹底的にハシゴしていた時期が懐かしいです。


お金を湯水のように使っていましたから。

予算体力があって、若いときは、もう徹底的にやらないとダメですね。
徹底的にやるからこそ、それが血肉になって、晩年になって熱く語れるんです。
その素地を養うには、湯水のようにお金を使わないとダメです。
身にならないのです。


徹底的にやった経験がないと、自分の血肉にならないんです。


その最終形を名古屋ブルーノートで、という夢があったのだけれど、残念ながら名古屋ブルーノートはコロナ禍でクローズド(閉業)してしまった。


もうショックでした。


でもいつかその日を名古屋の違うライブハウスで・・・、という新しい目標を立てて、着々と企んでいる最中。(^^)


名古屋芸術大学のキャンパスも拝見してみたかった。なぜか録音エンジニアの世界では、名芸大の出身が多いのか、ひとつのミステリーです。やはりそのジャンルでは、とても先進的な開発・研究が進んでいる大学なのでしょう。


永田音響設計は、なぜ日本大学なのか、というミステリーと並んで、自分の二大ミステリーだったりします。(笑)


地下鉄を乗っていると、行先掲示板にナゴヤドームというのがあって、時間があれば、ナゴヤドームも行ってみたかった。


最近はまったく野球を見なくなったけれど、子供の頃から野球少年だった自分にとって、名古屋といえば、中日ドラゴンズなのである。


王・長嶋の巨人のV10を阻止したのも中日ドラゴンズ。
自分が小学生のとき。


でもそのころは子供だったから、それなりの熱中度合いでしかなく、本当に自分の身の丈にあった、等身大の気持ちでプロ野球に熱中した時期というのは、いわゆる1981年~1987年の7年間ではないだろうか?(自分が高校~大学のとき)


あの頃ほど熱く野球に熱中したことはなかった。


いまでもスポーツニュースやどこが優勝したくらいの関心はあるけれど、日本国民がいっせいに野球に対して熱中した時代はこの頃のフィーバーぶりには勝てないんではないか、と自分は思ってしまう。


北海道はもともと昔はほとんど巨人ファン。
最近になって、地域密着型スタイルになって、日本ハムになった。


巨人は、V9以降長らく低迷していたが、1981年に、藤田元司監督がドラフトで原辰徳氏を1位で引き当て、一気に明るいムードになった。(原辰徳氏は、高校野球の頃からよく知っているよ。)


その勢いで、1981年は独走で日本一になった。
巨人の新しい時代の始まりという感じ。
江川、西本、定岡、松本、篠塚、原、中畑、山倉・・・とか。


王貞治さんは、もう次期の期待中の期待ということで、助監督というポストで、もうこれからの巨人を背負っていくという期待を一気に背負っていた。


でも翌年の1982年、中日とデッドヒートを繰り広げ、最終戦で中日が優勝。


その翌年の1983年、挽回して巨人が優勝。その年の日本シリーズは、
広岡西武対藤田巨人。球界の覇主の争いと言われた。


自分は、いままでの日本シリーズでこの1983年のこのカードの戦いほど素晴らしかった戦いはなかったという自分の短い野球鑑賞生活の中の印象。


逆転に次ぐ逆転。本当に野球はドラマだと思った。そして西武の日本一。
素晴らしい日本シリーズだった。いまでもあの興奮は忘れられないです。



そして、そして、そしてである。
ここからが本番である。


忘れもしない1984年。


日本中の期待を一身に背負って、王貞治さんが巨人監督に就任。
ところが、開幕ダッシュに失敗。


なんと、中日に同一カード14連敗を食らってしまうのである。


自分は、中日ドラゴンズといえば、もう絶対、この1984年の対巨人14連勝を思い出してしまうのである。


ウチの実家は朝日新聞だったから、もうトップの一面でセンセーショナルな見出しで、「巨人、屈辱の対中日14連敗」とデカデカ報じていた。


これは衝撃だったよねぇ。


全国のアンチジャイアンツは、溜飲を下げた年ではなかったのではないだろうか?


当時の中日の監督は、山内一弘さん(故人)。
「なんか、向こうが勝手に転んでくれる。」とインタビューで言うほど珍現象であった。


当時の中日は、田尾、平野、モッカ、谷沢、大島、宇野、上川、中尾とか、投手でいえば小松、郭、牛島とか。


あの頃から、36年経つのに、いまでもスラスラ言えます。(笑)

本当にいいチームでした。


恐竜打線といわれるほど、すごい強力打線であった。


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自分は中日ドラゴンズのユニホームはこのときのデザインが最高に好きである。
いまのはユニフォームはダメですね。(笑)


中日といえば絶対このデザインのユニフォームである。
巨人V10を阻止した時から変わっていなかったですね。


巨人の管理野球に対して中日は野武士軍団と言われ、対抗意識丸出しであった。両方とも親会社が新聞社(読売新聞と中日新聞)だったから、尚更ライバル意識は相当なものであった。


中日は、優勝できなくても巨人にだけは勝ち越せ、というのがチームのスローガンであった。


牛島のフォークは、まったく巨人打線が打てる気配を感じなかった。
牛島が出てこれば、もう終わりという感じである。


中尾のヘルメットは斬新で格好良かった。キャッチャーが専用のヘルメットを最初に採用したのは、中尾が最初である。


後半は巨人が7連勝で盛り返して、結局この年の対戦カード成績は中日の15勝8敗。
巨人はこれが原因で、この年3位で終わった。

この年は結局広島が優勝したと思います。


この年のミラクル、不思議として、巨人は中日が苦手、中日は広島が苦手、広島は巨人が苦手、という面白い相性だった。


しかし、自分、36年経っているのによく覚えているなぁ。(笑)
それだけ鮮烈だったんです。


その翌年、1985年。もうこれは全国の虎ファンが歓喜した阪神タイガースの日本一の年である。


真弓、バース、掛布、岡田という猛虎打線。全国中に虎フィーバーが渦巻きましたね。


巨人槇原が、甲子園で、バース、掛布、岡田からバックスクリーン3連発くらうのをリアルタイムで見てましたから。(笑)


生きる伝説ですね。


結局、全国の期待を一身に背負っていた王さんは、就任して3年間優勝から遠ざかり、ようやくリーグ制覇できたのは、1987年だった。自分が就職して上京した年である。


でも日本シリーズでは、結局西武に2勝4敗で日本一を譲った。


王さんは、自分も期待していたけれど、結局巨人監督時代はうまく波に乗れなくて、そのまま不発で終わってしまったという印象だった。(後年の福岡ダイエーで挽回しましたね。)


その王監督の1年目の対中日14連敗。


これがすべてのつまずきの始まり。すべてではないか、と当時思っていました。


中日といえば、どうしても自分はこの1984年のことを思い出してしまうのです。
条件反射、パブロフの犬ではないでしょうか?


広島も山本浩二、衣笠祥雄、高橋慶彦、北別府学とかすごいメンバーで黄金時代でしたね。


思うに、自分が熱中していた1981~1987年は、まさに日本プロ野球は、これだけ役者が揃っていた名選手の黄金の時代だったのではないか、と思うのである。


巨人にだけは勝ち越せ・・・、そういう侍魂が溢れていました。


将棋でも言いましたが、プロ野球もいまの選手は、みんなレベルが昔より高いのかもしれませんが、みんなおとなしいですよね。


男としての殺気が足りないです。

そこを見ていて、物足りなく感じるのです。


社会人になった1987年から野球も縁遠くなり、いまやニュースで結果を知るくらい。
昔のようにゲームを長時間見ることは不可能な体になってしまいました。


名古屋の日記が、なぜか野球の話になってしまいスミマセン。


自分のSNSでは野球の話はしないように、いままで気を付けてしまいましたが、名古屋→中日の話の展開につい脱線しました。(笑)


それだけ、当時の中日ドラゴンズはすごいチームだった、ということを言いたかっただけです。










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熱田神宮と白鳥庭園 [国内旅行]

熱田神宮に行きたいと思っていたのは、ガイドブックに掲載されている神楽殿の写真が、すごい魅力的で、わぁここはぜひ行きたいなぁとひとめ惚れしたからだった。


日本神話にも登場する熱田神宮は、伊勢神宮に次ぐ別格に尊いお宮として崇拝されている。創祀1900年以上の名古屋屈指の歴史スポットといわれているのだ。


三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。


名古屋における、もっとも神聖な聖域の神社、市民の心の拠り所なのだろうと思う。名古屋で1900年以上親しまれている「あつたさん」と言われているのだそうだ。


自分も、家の近くの川崎大師には、かならず新年初詣に行って今年はいい年になりますように、と願いをかけに行く。そんな関係なのだろう。


熱田神宮は、初詣には毎年200万人以上が訪れるとされる。いま年末年始は分散休暇ということで、初詣など年末年始に人が集中しないように政府が提案しているけれど、自分は今年は北海道に帰省しない。初詣はやはり川崎大師に行きたいけれど、どうしようかなぁと思っていたところであった。


でも、自分にとって、そんな思い以上に、熱田神宮のそばに、ひつまぶしの「あつた蓬莱軒」がある、ということが一番の動機だったのかもしれない。(笑)


よっしゃ!これは行くっきゃない!

一石二鳥である、みたいな。。。


境内は深い森に覆われ、静かで清らかな雰囲気だった。
かなり広いです。


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いよいよ本宮が近いづいてきました。
やはり参拝客が多くて、自分はちょっとコロナ危険を感じました。


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ここが本宮。


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そして神楽殿。


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素敵でしょう!
自分はここを一度じかに観たかったのでした。

荘厳な造りの神楽殿は、まさにこの熱田神宮の見どころのひとつ。
どっしりとした屋根の造りに威厳が漂いますね。

この重厚感ある屋根は2009年に新築されたものだそうだ。
つい最近のことなんですね。木の色合いもすがすがしい。

お宮参りや七五三などの祈祷が執り行われる場所である。
毎年1月1日午前零時には「初神楽」が奉奏される。



目的を達成して、よし!あとは、「あつた蓬莱軒」のひつまぶしが待っている。(笑)もう気持ちはすっかりそちらのほうに行ってしまっているのである。


「あつた蓬莱軒」に向かって歩き出す。
正参道という道で、正門に向かって歩いている。
本当に深い森の中を歩いている感じで、道が広く整備されている感じである。
もうこのときは、足がじんじんと痛かったです。


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「あつた蓬莱軒」でひつまぶしを堪能した後、そのまま散策で、白鳥庭園まで歩いていこうと考えた。地図ではすぐ近くにあるように感じるのだが、実際歩いてみると、かなりの距離歩いた。


熱田神宮周辺というのは、江戸期に東海道の宿場町として賑わったエリアであり、その歴史が感じられる。


白鳥庭園は、東海地方最大級の規模を誇る日本庭園である。


徳川園と同じように、池泉回遊式庭園で中部地方の地形をモチーフに、築山を「御嶽山」、そこからの流れを「木曽川」、流れの水が注ぎ込む池を「伊勢湾」に見立て、源流から大海までの「水の物語」をテーマにした市内随一の規模を誇る日本庭園なのである。


この白鳥庭園に行ってみようと思ったのは、ガイドブックに掲載されているプロの写真がとても素敵だったから。自分のアンテナにビビッときました。


ぜひ自分のカメラで撮りたいと思いました。


でも実際行ってみると、そんなうまくいかないんですよね。ガイドブックの写真と同じ構図で撮りたかったのだけれど、実際現場に行ってみると、それはあきらかに無理だ、ということがわかった。


それは、プロの写真は、あきらかに現在は立ち入り禁止エリアになっているところから撮っているとしか思えないからである。(笑)


そりゃないよなぁ、と思いながら、しかたがなく妥協案のアングルで。


これで我慢をしてください。

実際はもっと素敵です。


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これで名古屋旅行の全日程終了。
ご苦労様でした。

もう足が棒になるほど疲労困憊しました。
名古屋はとても歴史ある文化遺産がたくさんあることがわかりました。
とても素晴らしかったです。


あとは名古屋の市街をぶらぶらで総括をします。









 

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徳川文化遺産 [国内旅行]

愛知・名古屋は、尾張藩主徳川家が代々治めてきた領地であったから、そこに残る文化遺産はどうしても徳川家伝来の什宝​になるのであろう。


そのことに気づいたのは、名古屋城が尾張藩主徳川家の居城であったこと。


そして、ほかに自分が名古屋でどうしても観光したいと思った場所が、徳川園・徳川美術館であったことからだ。


名古屋に行くなら、この徳川園・徳川美術館はぜったい行かないといけないと思った。

徳川園と徳川美術館は、同じエリアに併設されていて、一気に攻略できる。
大曽根駅にあるのだが、行きは山本屋本店からタクシーで直行した。


正門である徳川園黒門。


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徳川美術館。


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入ったすぐに大広間のロビーがある。
一番奥の入り口が、美術館への入り口である。


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この写真からだと、少しわかりずらいと思うが、中を見ると、展示室の中は照明がかなり薄暗く、温度・湿度管理もされている。


什宝はウィンドウケースの中に収納され、展示されている。

やはり歴史があって、時代もかなり経っている什宝たちばかり。


照明が強いと、それだけで絵巻とか書物は色褪せてしまうのだろうし、温度・湿度管理も保存を考えると当然だ。


館内は、当然撮影禁止だ。


そのまえに、徳川美術館について。


公益財団法人 徳川黎明会が運営する私立美術館。1935年に開設された。収蔵品は駿府御分物(徳川家康の遺品)など尾張徳川家伝来の大名道具や他の大名家の売立てでの購入品、名古屋の豪商らからの寄贈品など。


2019年現在で、国宝9件、重要文化財59件を収蔵する。



美術館の開設までの道のりを、ネット情報を使って少し説明しておくと、
(これは知っておいたほうがよい。)


1910(明治43)年は「名古屋開府300年」にあたり、祝賀行事の一環として、尾張徳川家は名古屋で、初代・義直ゆかりの品を中心とした什器の展覧会を開催し、また新古美術展覧会にも書画や器物を出品した。それ以降、尾張徳川家の什宝は「国華」誌でたびたび取り上げられるようになった。


1912(明治45)年には、東京帝国大学・京都帝国大学の文科大学の教授・講師が名古屋・大曽根邸を訪問して什宝を観覧。同行した国華社が什宝の写真を撮影し、この写真の展示会が行なわれ、反響を呼んだ。こうして什宝の展覧会がたびたび話題を呼んだことで、尾張徳川家第19代当主・義親は、什宝の保存や公開の必要性を感じるようになり、美術館の設立を構想したとみられている。


1910年代後半に尾張徳川家は拠点を名古屋から東京に移して、名古屋の土地家屋を処分、拠点・事業の整理・縮小を進め、名古屋における同家の拠点は大曽根の別邸に集約されることになった。


1920年に義親は新聞を通じて大曽根邸の敷地に尾張徳川家の宝物を公開する博物館を設立する構想を発表。予算は50-100万円で、収蔵点数は約1万点、刀剣が多いと見積もられていた。


1921年には、片桐の整理の結果を基に、重複品・不要品とされた什宝(全体の10-15%)が競売に出され、売上総額約57万円は博物館の設立準備金として運用された。


1929年に鈴木信吉が尾張徳川家の家令となると、博物館構想は急速に具体化し、1931年、財団法人尾張徳川黎明会が設立され、尾張徳川家伝来の什宝・書籍類のほとんどが同財団に寄付された。


1932年9月には大曽根で美術館建設が着工した。


義親は、他の華族が経済的に逼迫して競売に出した家宝をかたっぱしから落札。(やっぱり世の中そうなんだね。。笑笑)1935年には近衛文麿から「侍中群要」を交換で入手するなどして、開館準備を進めた。1935年に美術館の建物が竣工し、同年11月10日に一般公開を開始。



まっざっとこんな感じなのである。


自分は、事前に調べていく過程で、この徳川美術館所蔵の徳川家の什宝で、なにに優先順位をつけて観るべきなのか?を検討した。おそらくこうやって的を絞らないと、数多の所蔵品に目を奪われ、印象度合いが分散してしまう気がしたのである。


自分がターゲットを絞ったのはふたつ。


●国宝・初音の調度


千代姫は三代将軍家光の長女で、寛永16年(1639)、わずか数え年三歳で尾張徳川家二代光友にお嫁入りした。千代姫の婚礼調度は、調度の意匠が「源氏物語」の「初音」の帖に因んだ「初音の調度」が47件、同じく「胡蝶」の帖に因んだ「胡蝶の調度」が10件、さらに染織品・金工品を加えた総計70件が現存し、一括で国宝に指定されている。


要は、徳川家に伝わる日本一の嫁入り道具ですね。
三代将軍家光の愛娘千代姫が尾張家に嫁ぐ際に持参した嫁入り道具です。


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これはすごい!!!

これは絶対観ないといけないでしょう。


期待を膨らませて、展示室を隈なく回ったが、該当のものが見つからず。係員スタッフに確認したところ、この写真は、全品展示の写真で、これは保管の観点から10年に1度しかお披露目しないのだそうだ。


だから毎年はやらない。

今年はこの中で、4品だけの展示だそうだ。


実際その展示まで案内してもらったが、単品で見ると、これが意外にもあまり感動しないんだな。(笑)10年に1度の全品展示の際は、ぜひ再訪することにしよう。


そしてもうひとつが、


●源氏物語絵巻


これが自分にとって最大の目玉であった。

平安時代の紫式部が著した源氏物語を描いた絵巻である。
作品保存の観点から、毎年11月に2~3面のみが特別公開されるそうだ。

ということは、このいまの10月には見れないということになる。


あ~もう残念!


「源氏物語絵巻」というのが、どのようなものであるかはネットでの拾い絵で申し訳ありませんが、こんな感じのものです。


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ここで源氏物語絵巻について、同様に解説を試みてみよう。


源氏物語絵巻は、源氏物語を題材にした絵巻物である。源氏物語を題材とする絵巻物は複数存在するが、ここでは通称「隆能源氏」(たかよしげんじ)と呼ばれている平安時代末期の作品で、国宝に指定されている作品のことに言及している。


日本四大絵巻として、


・源氏物語絵巻
・伴大納言絵詞
・信貴山縁起絵巻
・鳥獣人物戯画


(いずれも国宝)


が存在する。


かつて「隆能源氏」と呼ばれてきた「源氏物語絵巻」は、源氏物語を題材にして制作された絵巻としては現存最古のもので、平安時代末期の制作であるとされている。


本来は源氏物語の54帖全体について作成されたと考えられている。


各帖より1ないし3場面を選んで絵画化し、その絵に対応する物語本文を書写した「詞書」を各図の前に添え、「詞書」と「絵」を交互に繰り返す形式である。全部で10巻程度の絵巻であったと推定される。


本絵巻で現存するのは絵巻全体の一部分のみである。


名古屋市の徳川美術館に絵15面・詞28面、東京都世田谷区の五島美術館に絵4面・詞9面が所蔵され、それぞれ国宝に指定されている。


徳川美術館に所蔵されている3巻強はもと尾張徳川家にあったものである。


あとで写真を御覧に入れるが、源氏物語絵巻の昭和復元模写とは、櫻井清香により徳川美術館に保存されている原本を複製した物。最新の科学技術を使って原本を精確に複写した平成復元模写と違い、絵に櫻井清香自身の個性が反映されているため、原本とはまた違った絵画作品となっているとされる。


要は、本物は品質管理上の問題から、とても展示するに堪えないけれど、それの復元模写は、堂々と展示されているのである。


自分が観てきたのは、この復元模写である。しかも櫻井清香による、そして絵に櫻井清香自身の個性が反映されているため、オリジナル原本とはちょっと違う趣の作品だったということになる。


むむっちょっと待て?


自分が観た絵巻には、印刷模写と書いてあったから、ひょっとしたら平成復元模写なのかもしれない?そうすると原本に忠実ということになる。


よくわかんなくなってきたので、そのままにしておこう。(笑)


館内は撮影禁止である。


でもこそっと。(笑)
ここがメインだったので。


こうやって、源氏物語絵巻の展示コーナーには、こういう電子パネルでその絵巻が表示されるようになっていた。


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そして、これが源氏物語絵巻の復元模写、櫻井清香による絵である。(昭和復元模写)もしくは、最新の科学技術を使って原本を精確に複写した平成復元模写のどちらか。


「絵」と「詞書(ことばがき)」が交互に繰り返す形式であることが、よくわかるだろう。「詞書(ことばがき)」というのは、その「絵」に対応する物語本文のことである。


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自分は復元模写とはいえ、これを観たときは感動のあまり震えた。


素晴らしい!!!


源氏物語ってどういうストーリーなのか知りたくなってきました。(笑)

この徳川美術館での最大のイベント、最高潮ボルテージでした。


「源氏物語絵巻」は、東京都世田谷区の五島美術館にもあるようだから、ぜひ観に行きましょう!


これで徳川美術館のミッション、お終い。


ここが、ロビーのところにあるグッズショップです。
きっと徳川家の什宝の記念グッズがいっぱい売っているのでしょう。


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徳川美術館を出て、徳川園に行くのだが、その途中に、徳川園ショップ「葵」というお店があった。徳川家は葵の御紋であるから、そういうネーミングなのでしょう。


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ここも記念グッズをたくさん売っていました。



そしてつぎに徳川園。

徳川園というのは、尾張徳川家の邸宅跡を利用した日本庭園のことである。
池を海に見立てた池泉回遊式庭園である。


徳川園は、徳川御三家筆頭である、尾張藩二代藩主光友が、元禄8年(1695年)に自らの造営による隠居所である大曽根屋敷に移り住んだことを起源としている。


光友の没後、この地は尾張藩家老職の成瀬、石河、渡邊三家に譲られたが、明治22年(1889年)からは尾張徳川家の邸宅となった。


昭和6年(1931年)、十九代当主義親から邸宅と庭園の寄付を受けた名古屋市は整備改修を行い、翌年「徳川園」が公開された。


徳川園は、池泉回遊式の日本庭園で、江戸時代の主だった大名庭園もこの様式である。清流が滝から渓谷を下り海に見立てた池へと流れるありさまは、日本の自然景観を象徴的に凝縮している、と言われている。



ざっとこんな感じである。


庭園を歩いていると、とにかくその風光明媚な景色に圧倒されます。敷地内は結構高低差があって、渓流、滝などがあって、それが低い下のほうに流れていって、そして池に流れ込む、それを海に流れ込む、というように解釈する、ということなのだろう、と思う。


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これが大曽根の滝です。


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このショットが、徳川園の庭園をもっとも美しく撮る構図だと思います。
徳川園の代表的なアングルですね。


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池の鯉は、信じられないくらい人懐っこいです。


鯉にエサをやれるようにエサが売られているので、観光客がかならずエサをくれるものだと、もう鯉のほうでもわかっていて、人が近づいていくとこのように寄ってきて、口をパクパクしてエサくれ!とやるわけです。


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徳川美術館と徳川園は、上からの航空写真をみると、こんな感じである。


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美術館の横に、庭園が一面に広がっているのがよくわかるであろう。
結構広い庭園でした。


これにて、徳川美術館、徳川園の鑑賞終了。

すばらしい徳川文化遺産でした。


ここから最寄り駅の大曽根駅まで歩いて帰る訳だが、結構距離があり、かなり歩いた感じがします。途中で喉が渇いて、渇いて。。。その前に、山本屋の味噌煮込みうどんを2杯も食べて、だしも完飲。


そりゃ喉カラッカラッになります。

ここで自販機を探すのが一苦労でした。


ようやく駅近辺で見つけたとき、ペットボトルのお茶にありつけたときは、まさにこの世の天国と言っていいほど、美味しかったです。生き返りました。


ペットボトルのお茶、90円でした。(ふつう東京では160円くらいはするだろう。)












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なごやめし [グルメ]

名古屋めし(なごやめし)とは、愛知県名古屋市の名物料理を指す造語である。ただし、全てが名古屋市発祥の料理という訳ではなく、他の地域に起源を持つ料理もある。


全国的に知られているメニューに更なるアレンジを利かせたアイデア料理が特徴で、味付けが濃厚でクセが強い点で共通している。B級グルメと呼ばれるカテゴリーに属する料理の集合体でもある。発祥が名古屋ではない料理でも名古屋めしのカテゴリーに含まれる場合もある。


豆味噌や溜り醤油などが多く使われており、全体的に味付けが濃い傾向がある。


そうなのである。
ものすごい濃いのである。

喉がカラッカラッに乾きます。


愛知県岡崎市発祥の八丁味噌をはじめとした赤味噌が多く使われていて、味噌に限らず、ご飯や酒が進む濃いめの味付けが中心で、うま味やだしのおいしさもしっかり感じられるのが特徴である。


また、あんこトースト、エビ天とおにぎりなど、自由な発想でアレンジしたメニューを生み出すのも名古屋流。カレーを使った煮込みうどんや、台湾ラーメンの変化球など新メニュー続々である。


名古屋独自の食文化として愛されている”なごやめし”。


名古屋に在住の方が普段の食生活にそんなもの食わないよ、と仰るかもしれないが、旅行者対象としてアピールされている”なごやめし”は、ひつまぶし、名古屋コーチン、味噌カツ、きしめん、味噌煮込みうどん、天むす、手羽先、そして台湾ラーメンあたりではないだろうか?


ご多分に漏れず、名古屋初心者の旅行者である自分もネットやガイドブックで、なごやめしを一夜漬けで勉強して、それぞれを堪能するには、どこで食べるのが一番肝なのか、を予習していった。


そんなに頻繁に名古屋に行くわけではないので、1回行ったら、一生の想い出に残る、ここで食べるのが本筋というのがいいのである。


慣れてくると世に知られていない隠れ家的なお店がよくなるのかもしれませんが。


1泊2日の旅で、朝・昼・夜で計6食を、なごやめしで埋めようと思っていたので、その体験談を紹介していこう。(順不同です。)



●味噌煮込みうどん


やっぱり”なごやめし”といえば赤味噌で、この味噌煮込みうどんは絶対外せないだろう、と思っていた。調べてみると、名古屋で味噌煮込みうどんといえば、やっぱり山本屋だそうで、しかも山本屋総本家と山本屋本店が、うちこそ元祖、本家と争っているとか。


名古屋の方でもどちらが本家か知っている方はあまりいないんではないでしょうか?


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創業は、山本屋本店の方が山本屋総本家より、18年早いのだが、会社の設立は山本屋総本家の方が山本屋本店より6年早い。


「創業」か「設立」のどちらが早い方が、「元祖」となるかはわからないが、どちらも歴史があるお店であることは間違いない。


店舗数では、


山本屋総本家 合計7店舗
山本屋本店  合計15店舗


だそうである。


山本屋総本家のほうは、東京に支店がある。
山本屋本店は、愛知県だけのお店なのである。


「山本屋本店」と「山本屋総本家」は、どちらが本家なのであろうか?

「どちらが本物」 「どちらが元祖」ということはない。
商標とか商号とかあいまいな時代のことであるから。


そのむかし、名古屋の下町・大須にあって廃業してしまった元祖「山本屋」の流れをくむのは、「山本屋総本家」である。といっても元従業員が、名前を使って始めただけとされている。


他方、元祖「山本屋」とは無関係ながら、後年になって元祖から商号を譲り受けたと主張しているのが、「山本屋本店」である。どちらも、これといった決め手も、明白な証拠も出すことができないのが、今の状況である。さらに 「大久手山本屋総本家」という元祖「山本屋」の創業家の系統(といっても親類)の店もできたそうである。


ネットには、このような事実が掲載されていた。(笑)


山本屋総本家と山本屋本店。


まっどちらが味噌煮込みうどんの元祖なのかは、あまり深く追求しないほうがいいのかもしれない。


両方とも、もう名古屋市内には、星の数ほど店舗がある。土地勘のないところで、店を探すのは疲れるので、行くときはタクシーを使った。


タクシーの運ちゃんは、


「山本屋っていったら、それこそ星の数ほどあるからねぇ。どこにでもあるよ。〇丁目のブロック単位にあったりするよ。」


と豪語していた。


牛丼の吉野家や松屋がいたるところにあるような感覚で、名古屋では味噌煮込みうどんといえば、山本屋がいたるところにあるのだろう。


自分が行くなら、両方とも絶対本店に行きたいと思っていた。


山本屋総本家は、名古屋市中区栄にある「山本屋総本家 本家」である。 

山本屋本店は、名古屋市中村区にある「山本屋本店 大門本店」である。


もうタクシーでダイレクト・ゴーである。(笑)最初に山本屋総本家に行って、そこからまたタクシーで山本屋本店にゴーである。


では、講釈はこのくらいにして、実際の体験を語っていこう。


山本屋総本家


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自分は5年前の2015年にも、この山本屋総本家の本店に来たことがある。今回で2枚目の訪問である。アラベラさん、ヘンゲルブロック&NDRの愛知ツアーに追っかけして名古屋まで来た時のこと。このお店で人生初の山本屋の味噌煮込みうどんを食したのである。


うぉぉぉ~、懐かしい店内。
でもここは狭いんだよね。


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あの奥に座っているカップルの黒いセーターを着た女性の座席で、前回自分は食べていたのでした。いまでもはっきり覚えている。


今回はお昼時だったので、混んでいて、ちょっと並んで、通されたのが2階の席だった。


そして味噌煮込みうどんを注文。
山本屋総本家のほうは、デフォルトでは卵は入っていない。
卵入りのうどんは別メニューなのである。
もちろん卵は、名古屋コーチンである。


これが山本屋総本家の味噌煮込みうどん。


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とにかくこの赤味噌のだしは、濃厚。ただひたすら濃厚としかいいようがない。これはちょっと東京では体験できない味なのではないだろうか?


赤だしの味噌汁というのは、こちらでも飲めるけれど、それとは問題にならないほど桁外れに濃厚。本当にしょっぱいです。


でも美味しい!


味噌は大好きなので、しょっぱいけれど、最高に美味しいと思いました。


そして驚いたのは(たぶん5年前にも同じ理由で驚いた。)、麺の生っぽい固さ。思わず、これってきちんと茹でている?と思ったほど、超生なのだ。(笑)


「えっ!これ芯が残っててますけど、ちゃんと茹でてもらっていいですか?!」と聞いてはいけない。麺が固いからといって、「調理に失敗したうどんではない。」


生のままの麺を茹でるのが「煮込みうどん」
茹でたうどんを煮るのが「鍋焼きうどん」


なのだそうだ。


みそ煮込みうどんは固いのである。

これは自分には衝撃であった。

でも本当に美味しかったです。


もちろん赤味噌のだしは一滴も残さず完飲。まさかこの後、喉が渇きすぎて、街の自販機を探しまくって、ペットボトルのお茶にやっとたどり着いたときのあの天国のような快感は忘れられません。


つぎに


山本屋本店


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初めて来た。総本家は大都会のど真ん中にある感じだが、こちらの山本屋本店はかなり街はずれにあるようなのんびりしたロケーションにあった。


店内も抜群に広い。


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こちらでも味噌煮込みうどんを注文。
こちらはデフォルトで卵が入っている。
もちろん名古屋コーチンである。


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総本家と違うと思ったところは、油揚げが入っているところであろうか?

それ以外は、まったく違いがわからなかった。
恐ろしいほどに酷使している。


もちろん自分は、両者の違いを日記にしたいがため、最初から意識して食べていたわけだが、まったく違いがわからなかった。まったく同じモノと言ってもいいのではないだろうか?(笑)


赤味噌のだしの濃厚さ、麺の超生っぽさといい、食感がまったく同じなのである。

こりゃ同じだろう?


味噌煮込みうどんフリークの方、申し訳ありません。
そしてネットでその両者の違いを熱く語っている方々のみなさん、すみません。(笑)
自分には両者の違いがまったくわかりませんでした。


ルーツは同じなのではないか、と確信してしまいました。


味噌煮込みうどん、そのものは、まったく同じのように感じたが、公式ホームページの洗練されたイメージ作り、東京に支店がありプロモート戦略に一本線があることなど、味噌煮込みうどんのブランドイメージをここまで高めたのは、やはり山本屋総本家のほうに分があるのではないか、というのが自分も賛同する意見である。


ここらへんでオチをつけたいのですが、いかがでしょうか?(笑)



●ひつまぶし


お櫃に入ったご飯の上に、細かく刻んだうなぎの蒲焼をのせた「ひつまぶし」。薬味と組み合わせたり、お茶漬けにして食べたりと3種類の食べ方が楽しめる。


ひつまぶしのルーツは会席料理の一品。うなぎの蒲焼を取り分けやすいように細かく刻んだのが始まりだとされている。お櫃に入れるようになったのは、器がわれないようにという実用性から。


仙台に牛タンのお店がそれこそ星の数ほどある中、なぜ太助なのか、旨味太助、味太助を選んだか、というと、その元祖を極めて、そこを抑えたいからである。


それと同じように、ひつまぶしを食べさせてくれるお店は、それこそ名古屋には星の数ほど無数に存在する中で、自分が選んだお店が、


「あつた蓬莱軒」


なぜ、ここなのかは、それは、”ひつまぶし”を考案した日本で第一号のお店だからである。明治6(1873)年創業。「ひつまぶし」の登録商標をおこなったのは、このお店だったのである。


細かくきざみ込んだ蒲焼と熱々のご飯にタレが程よく染み込んだ「元祖ひつまぶし」。


一膳目はそのままに、さっぱりと薬味で二膳、独特のだしをかけて茶漬けで三膳、そして最後の四膳はご自分の好きな食べ方で。


まさにこの「ひつまぶし」の食べ方を考案したのは、このお店なのである。


どうせ、体験するなら、そのオリジナルな起源の元祖のお店で。。。

どうしてもこの「あつた蓬莱軒」で体験したくなってきた。


そして、旅行日程を計画しているとき、そのお店は、じつは熱田神宮のそばにあることを発見したのである。熱田神宮はどうしても行ってみたかったので、これは、ひつまぶしはぜひこの「あつた蓬莱軒」で・・・と決心がついた。


最初に熱田神宮に行ってから、さあこれから「あつた蓬莱軒」に行こうか、というとき、途中で、「あつた蓬莱軒・神宮店」という支店を発見。(笑)


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神宮店は、熱田神宮内にあるのだ。

本店と神宮店は、お互いすぐそばにあるのだ。

一応地図で地理感は掴めているのだけれど、念のため、本店の場所を近くにいた人に聞いてみた。


そうしたら、「本店は、ものすごく混むよ~。劇混みだよ~。」と仰る。


そりゃそうだろうなぁ。
みんな元祖に行きたがるよなぁ。それが人間心理というものだ。

それが名所になっているんだから。


そして「あつた蓬莱軒・本店」に到着。


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一見、お店らしくない古民家のような装い。

なんと!!!2時間待ちと言われました。(笑)

さっすが。12時に到着したから、ありつけるのは2時か?


15分単位で予約を受け付け、「はい。12時予約のお客さん」「はい。12時15分予約のお客さん」「はい。12時30分のお客さん」・・・という感じに15分単位で10名くらいの規模で入店させる仕組みなのだ。


食べ終わって去っていくお客さんの数と入店させるお客さんの数があうペースが15分単位なのだろう。まさに自転車操業の大人気店だ。


こんな感じで15分単位で待っているお客さんたち。


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2時間待ちかぁ・・・。


まっこの日は、第2日目だったから、予定がゆとりがある日で時間に押されていないので、のんびりいきましょう!という感じで助かった。もしビッシリ予定だったら、このお店諦めていたかも?


みなさん、このお店行くなら、2時間待ちは平気で覚悟しておきましょう。(笑)


近くの駐車場のレンガに腰かけてスマホを眺めながら、ひたすら時間をつぶす。


そうしてようやく自分の番が来て、入店。

ここが待合椅子のあるところ。
店員さん大忙しい。


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そしてこの間に通される。


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和室にテーブル・椅子があり、おそらくソーシャル・ディスタンス対応。
ここが「あつた蓬莱軒」の店内である。


自分は、ひつまぶしの大盛を注文。これが、ひつまぶしの商標登録をおこなった第一号の老舗の正真正銘の「元祖ひつまぶし」である。


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このお櫃の中を十文字に区切って四等分にするのである。
そして四膳を楽しむのである。


いやぁ最高に美味しかったです。
もういうことないです。


薬味(ネギ、ワサビ、海苔)をかけて食べる食べ方がすごい新鮮でかなり強烈なインパクトあるんですよね。ほんの上にパラパラってかけるだけなのに、あの鰻の味に妙にあうというか、アクセントがあって、その味を前に引き出す強い誘導剤みたいな隠し味。


美味しかったなぁ。


特注のだしをかけてのお茶漬けは、もう最高ですね。
このだしの味はもう言葉で表現はできませんね。本当に美味しいです。

こうして日本で最高の「元祖ひつまぶし」を堪能することができたのでした。



●台湾ラーメン


台湾ラーメンは、名古屋のソールフード。じつは名古屋に来ようと思った最大の理由は、この台湾ラーメンを本場の名古屋のお店で体験したかった、という動機があったからである。


台湾ラーメンは激辛ラーメンである。


台湾ラーメンは、メイド・イン・名古屋のご当地ラーメンなのである。
じつは、この台湾ラーメン、台湾には、このような料理は存在しないのだ。(笑)
名古屋で生まれたラーメンなのだけれど、なぜか台湾ラーメンなのだ。


「もう1回食べたい名古屋名物は?」。
 転勤などで名古屋を離れた人たちにこう尋ねると、かなりの確率で返ってくる答えがこれ。

「味仙(みせん)の台湾ラーメン」


台湾ラーメン「味仙」というお店なのだが、東京神田にも出没していて、そこで体験したら、酸っぱい辛さでこれが台湾ラーメンかぁという感じだったのだが、名古屋の本場のお店とは味が違うらしい。


それでぜひ本場の味を味わってみたかったというところである。


愛知県に12店舗、東京に3店舗、大阪に1店舗。なんかお店によって、ずいぶん味が違うらしいので、最初、名古屋にある味仙を全部体験して、その差を全部解析しようと思ったが、さすがにそれはアホなのでやめておきました。(笑)


今から50数年ほど前、味仙が独自に開発したメイド・イン・名古屋のオリジナル料理。本国の担仔麺(タンツーメン)をベースに辛くアレンジしたのが始まりで、もともとは従業員用のまかない料理だったとか。これを常連さんに出したところ好評で、メニューに加えることに。そして、80年代の激辛ブームを追い風に、一気にブレイクを果たした、ということらしい。


いまはカップラーメンになっているほど大人気です。


名古屋の味仙を訪れるなら、やはり今池本店でしょう!

ということでやってきました。
憧れの今池本店。


初日の夜のご飯のメイン・イベントに持ってきました。もう自分の中では最高潮のボルテージだったのですが、いざお店に到着してみれば、なんじゃ!この大行列は!!!(笑)


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さすが人気店です。

ここでたっぷりお店の外観を。


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料理人、スタッフは大半がやはり現地の台湾人なのか、あのいっさい遠慮のないエネルギッシュな雰囲気ありありでした。(中にはチーフ・スタッフらしい人は日本人紳士でした。)


店内。(劇混み)


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食前のお水を頼んだだけなのに、これでやってくる。(笑)


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これは東京のお店でもやってくれるのかな?


この水が瓶でやってくるの図を体験したくて、名古屋のお店まで来た、というのも真実のひとつです。


そして台湾ラーメンがやってきた。


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写真ではわからないけれど(普通のラーメン丼のように見えるけれど)、台湾ラーメンはすごい小さいです。こんなに小さいの?と思わず、店員さんに確認してしまいました。(笑)


ラーメンといえば、あのふつうの丼のサイズを思い出しますが、その1/4のサイズくらいでしょうか・・・?


本場名古屋の今池本店の味仙の台湾ラーメン、堪能しました。


やはり本場の味は美味しかったです。東京神田は酸っぱい辛さだけれど、本場は全然酸っぱくなく、逆に甘辛さというか、こりゃクセになる、ついつい病みつきになる辛さだな、と思いました。


本場の方が全然美味しかったです。
わざわざ本場まで食べに来てよかったです。


「クセになる辛さ」

これが一番言い得ている表現でしょうか?


自分の名古屋めし(なごやめし)のメイン・イベントはこれで終わってしまいました。



●名古屋コーチンの親子丼


名古屋コーチンを使った卵料理も楽しみたかった。
もう帰京する寸前の晩御飯で名古屋駅周辺で、という条件。


もうそうなると名古屋コーチンの親子丼しかないだろう、という選択肢で、鳥開総本家へ。正確な名称は、純系 名古屋コーチン専門店 鳥開総本家。その各駅エスカ店。名古屋駅の駅チカにある。


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鳥開総本家は、名古屋コーチンの美味しさを堪能できる鶏料理専門店らしい。


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なかなか美味しかった。卵の味が新鮮で弾力がありますね。
甘くて香ばしい親子丼です。


親子丼といえば、自分は人形町の玉ひでの親子丼をどうしても思い出しますが、そこと比べると、う~ん、どうしても若干劣ってしまうかな~という印象はあります。


でもこの鳥開総本家の親子丼は、5年連続の金賞を受賞しているとか。
十分納得いく美味しさではありました。



●名古屋駅在来線3番ホームの立ち食いきしめん。


やっぱり名古屋と言えば、きしめんは外せないでしょう、ということで、名古屋到着とともにご挨拶代わりに、在来線3番ホームの住よしさんへ。


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相変わらず健在であった。


新幹線ホームを含むあらゆるホームでの揚げ物を、この3番ホームの住よしさんのフライヤーで揚げて、各ホームへ輸送しているのだ。だからフライヤーが大きい。


揚げたてのアッツアッツのかき揚げきしめん、美味しかったです。


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以上が、名古屋滞在1泊2日での”なごやめし”のラインナップでした。



このラインナップにどうしても入りきらなかったメニューもあった。


味噌おでん、名古屋風に言えば、「どて煮」。


これもどうしても体験したかったねぇ。

狙いをつけていたのは、どて煮の「どて品川」というお店。
というか屋台だ。


こんな感じ。


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うわぁ、こりゃワイルドだ。(笑)ぜひ体験したかった。


でも日程に入りきらなかったし、当初は初日の晩御飯の台湾ラーメン味仙を食した後に、この屋台に寄って、串2~3本つまむという感じでいいかな、とも思ったのだが、やはり土地勘のないところで、夜の真っ暗のところに、最寄り駅からこの屋台にたどり着く自信がなかった。(笑)


台湾ラーメン食べたら、もう今日はこれでいいや、と思ってしまいました。


あと味噌カツがありますが・・・


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これは大体どのような味がするか想像できるし、ちょっと健康に悪いというか(笑)、かなりヘビーで重いと思ったのでやめときました。


名古屋めし(なごやめし)って濃いよなぁ・・・(笑)


いやぁ、じつにひさしぶりの力作であった。








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名古屋城の本丸御殿 [城]

関ケ原の戦で勝利し、天下人となった徳川家康は、大坂城にいる豊臣秀頼との武力衝突に備えて築城を決意。豊臣方の財力を削ぐため、加藤清正をはじめ、秀吉ゆかりの大名20家に普請を命じた。さらには江戸に直結する東海道を防衛する目的もあった。


それが名古屋城である。


築城は慶長17(1612)年、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城で、尾張初代藩主・徳川義直の入城以来、御三家筆頭である尾張徳川家の居城として栄えた。


実は、昭和20(1945)年の空襲で焼失する前の名古屋城は、天守閣・本丸御殿ともに城郭としての国宝第1号に指定されていた。その際に作られた「昭和実測図」や、古くから記録されている豊富な資料によって、日本で唯一、史実に忠実な復元ができる城ともいわれているのだ。


名古屋城で話題が尽きないことが、


・本丸御殿の復元が完成。
・天守閣の木造復元事業が進行中。


この2点だ。


特に本丸御殿は、2009年から10年に渡って続けられてきた復元工事が完了し、2018年6月に完成公開を迎えた。現代に蘇った近世城郭御殿の最高傑作に、全国から注目が集まっている。


何を隠そう、自分は天守閣以上に、この本丸御殿が最高の楽しみであった。


名古屋城の天守閣は、戦後に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されて半世紀以上が経ち、老朽化や耐震性の確保などの問題もあって、2018年5月より入場禁止になっている。


もう残念!


それと同時に、豊富な資料にもとづいた木造復元事業が始まったのだ。やはり木造建築というのは、原型オリジナルに忠実に、歴史学者、城マニアの方にとっては大切なことかもしれないけれど、自分のような素人考えで考えると、木造だと老朽化も早く、返って危険のような気がする。


建築の安全性からすると、どうしても木造って、むむって引いてしまう感じがするのだけれど、そこはやはり歴史に忠実に、というところが引けない一線なのでしょうね。


自分のように城マニアとはとても言えない浅識な赤ん坊だけれど、お城が大好きなので、こうやって有名なお城をいろいろ廻ってみたかった。


その中でも名古屋城はどうしても訪れておきたかった。


名古屋駅から地下鉄の東山線と名城線と乗り継いで行って、市役所という駅で下車。

もうこんな駅の出口なのである。(笑)
もうここからして観光地ですね。


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市役所の出口からすると、正門より東門のほうが近いのだ。


東門

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そして東南隅櫓。

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さらに二之丸広場を通り越して、本丸御殿と天守閣が見えてくる。やっぱりお城の天守閣って、生で初めて見るとき、もうドッキドッキしますよね。心臓のバクバクが大変でした。


名古屋城天守


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天下人のお城は、五重の天守。
いやぁ見事、本当に素晴らしいですね。


五重の屋根を持つ大天守と二重の小天守から成る天守閣。現在の姿は昭和34(1959)年に再建されたもの。石垣の丁場を任された築城の名手・加藤清正による、台座の美しい弓なりカーブが見ものである。


江戸城にも共通する感じですが、家康らしい堅実なデザインの天守という感じですよね。信長の安土城や、秀吉の大坂城の格好良さと違って、どこか堅実という表現がぴったりくるいかにも家康らしいお城だと思います。


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名古屋城といえば、この金の鯱(シャチホコ)、いわゆる金シャチがシンボルというか有名ですね。


シャチホコは火除けの守り神として、室町時代から建物に飾る風習があったそう。名古屋城の天守閣に輝く2体のシャチホコは、北側がオスで、南側がメス。創建時は慶長大判1940枚分の金が使われていたといわれ、徳川家の権力、財力の象徴そのものであった。


天守閣をいろいろな角度アングルで撮影。


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名古屋城の石垣


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名古屋城おみやげ(笑)


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そしてなんといっても、名古屋城訪問で一番の観光の名所は間違いなく、本丸御殿。


本丸御殿


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本丸御殿というのは、初代藩主・徳川義直の住居かつ藩の政庁として慶長20(1615)年に建てられ、後に将軍上洛の際の宿舎として使われた。


もう江戸時代になると天守閣というのは、象徴シンボルくらいの役割しかなくて、普段の住居や政治を司るところは、じつは本丸や二の丸、三の丸だったりするんですね。


名古屋城の本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作とされ、現在国宝になっている京都二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造の双璧とまで言われているのだ。


天守閣とともに国宝に指定されたが、惜しくも戦火により焼失。


2009年から復元工事が始まり、2013年、2016年と順次公開。そして10年の月日をかけ、2018年に全部屋が完成し完全公開となった。


本丸御殿といえば、なんといっても狩野派の障壁画であろう。


日本画史上最大の画派・狩野派の絵師たちによる床の間絵や襖絵が精密に復元模写されている。これは本当に圧巻ですよ!


まさにこの荘厳で華麗な狩野派の障壁画の世界を見るために、名古屋城に来た、と言ってもよかった。


では、これからみなさんを400年前の姿が蘇った荘厳な本丸御殿の世界へ。
私が玄関から入って、順路で観ていった順番で紹介していきます。


この日記のメインイベントですよ!!!


写真撮影は許可されました。でもフラッシュは炊かないこと、というお約束で。


観ているときは、もう夢中になってシャッターを押して、そして鑑賞するという感じでどの襖絵がなんという名前なのかなんて、そのときはわかりません。いまこの日記を書いているときに、HPで照合して理解しています。もちろんたくさんの部屋がありますので、名前のわからない画・部屋はそのまま写真だけを掲載しておきます。


玄関
来訪者を最初に迎えた部屋であり、本丸御殿への正式な入口。障壁画には勇猛な虎や豹が描かれており、来訪者を威圧する意図があったといわれている。


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表書院
藩主や家臣が使用した正式な謁見の間で、最高格式の殿舎だった場所。5部屋からなる広間はおもに花鳥図で飾られ、それぞれ早春、春、秋、夏の季節が描かれている。


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各部屋を渡り歩いていくわけですが、こんな感じで、その廊下もまさに絢爛豪華。和の極致ですなぁ。


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対面所
藩主が身内や家臣との内向きの対面・宴席の場として使用していた。「風俗図」と呼ばれる障壁画には、洛中・洛外の年中行事や庶民の生活がおだやかな筆致で描き出されている。


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さらに廊下を歩いていくと。。。


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上洛殿
寛永11(1634)年の三代将軍・家光の上洛に合わせて増築された建物。幕府御用絵師の狩野探幽によって描かれた「帝艦図」や「雪中梅竹鳥図」などの障壁画、絢爛豪華な彫刻、飾金具など、すべてに贅の限りが尽くされている。


まさにこの本丸御殿の中で最高峰はここの上洛殿です!
ここでいま頂にいます。


こんなに豪華に作られた部屋だが、家光が一度泊まったあとは、ほとんど使われなかったのだそう。(笑)


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黒木書院
清州城内にあった家康の宿舎を移築した殿舎とも伝えられる。ほかの部屋は総檜造りであるのに対し、この部屋のみ良質な松材が使われ、その用材の色から黒木書院とよばれる。


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そして本丸御殿の中では、恵まれない子供たちが撮影した写真の展示会がおこなわれていました。気に入った写真に赤丸のシールを貼ってあげてくださいね、と受付の和服姿の女性スタッフ。しっかり氏名と電話番号を書いておきました。本当にプロ並みのレベルの高い風景画の写真にもうびっくり。


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どうでしたか?
本丸御殿の世界。


私はここを観るために名古屋城に来たといっても言い過ぎではないです。


清正公石曳きの像


天守の石垣普請は、加藤清正に割り当てられた。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられている。本像は、その様子を模したもの。


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つぎに二之丸庭園の散策と行きたいところだが、ちょっと飛ばし過ぎて疲れたので、二の丸茶亭で休憩。


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金箔入り抹茶セット、和菓子付き。


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いやぁ和の極致、美の世界ですなぁ。


元気を回復した後に、二之丸庭園を散策。


東京の皇居東御苑のあの名庭園の美しさとまでは、さすがに言わないけれど、それでも十分なわび・さびの世界、和の美しさが伝わってきます。


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最後に、金シャチ横丁をご紹介してお終いにしましょう。

2020年3月で開業2周年を迎えた「金シャチ横丁」。


それぞれコンセプトの異なる「義直ゾーン」と「宗春ゾーン」があり、名古屋の名店が出店している。ココだけの限定メニューを販売することもある。


「義直ゾーン」


正面エリアにある「義直ゾーン」。父・徳川家康の遺訓を守り名古屋発展の基盤を作り上げた尾張藩初代藩主・義直の名を冠する。古くから愛される「名古屋めし」の老舗が大集結なのである。なごやめし12店舗が並ぶ。


今回の旅行で、自分がぜひ訪れたいと思っていた”なごやめし”の有名な老舗。もう全部その支店がこの金シャチ横丁に揃っているのである。


でも自分は、やはり本店で食べたい、体験したいと思っていたので、ここで食べるのはやめといた。(笑)


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「宗春ソーン」


自分が地下鉄で下車した市役所前の出口のすぐそばにある。この東門エリアには、斬新な政治方針で名古屋をにぎあう都市に成長させた尾張藩七代藩主・宗春の名前がつけられたゾーンが広がる。新進気鋭の食文化を発信する7店舗が集うので、新しい”なごやめし”を求めるならこちらがいい。確かにここに並ぶ店舗は、新しい時代のお店が多かったです。


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名古屋に来たならば、まず名古屋城を制すべし。
まず第一目標は達成。


名古屋城は、東京の皇居東御苑や、大阪城と比較すると、いくぶん狭いと感じました。
全部見終えるのに大体2時間かかった。

これでちょうど正午ぴったり。


初日まだまだ予定がこのあとビッシリ詰まっていましたが、もうこれだけで足が棒になるほど疲労困憊でした。









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アナログレコードって壊れやすいんですね。 [オーディオ]

まさかなことが起こってしまった。


エミール・ベルリナー・スタジオによる渾身のダイレクトカットLPの第3弾のヤクブ・フルシャ&バンベルク響のスメタナ「わが祖国」のレコードを床に落としてしまった。


ラックの上にちょこんと無造作に置いていて、しかもそのレコードを聴いている最中だったから、ハードケースから取り出している状態だ。


ラックの高さは1mもない90cmくらいの高さ。


そこで、自分はそのラックの傍を通るときに、そのレコード一式に体が触れてしまい、そのレコード一式3枚を床に落としてしまったのだ。


バン!という音が鳴って床に落ちた。

「あちゃ~(号泣)」


慌てて、レコード盤面を眺めたが、割れたりとか、ヒビが入っていたりとか、損傷は見た目ではまったくなく、あぁぁ~大丈夫だった。


よかったぁと胸をなでおろした。


そして翌日、またそのレコードを聴こうと思って、ターンテーブルにかけて再生すると、いきなり強烈なスクラッチノイズみたいな音が、「バリバリバリ」と鳴る。


スクラッチノイズのちょっと大きい感じだったから、レコードを何回もクリーニングしたり、カートリッジの針先をクリーニングしたりしたが、症状変わらず。


れれれ~?レコードプレーヤーが壊れてしまったかな?

もう大ショック。

またプレーヤー買う予算なんてないよ~!

でもいい機会だから、これを機に高級ターンテーブルを購入といきますか?(笑)

なんて邪な思いも頭を過り、困ったな~どうしよう?と思っていた。

昨日までごく普通に再生できていたのだ。


プレーヤー、もしくはオーディオのPHONO経路の故障なのか、はたまたレコード盤の損傷なのか、原因の切り分けをしないといけない。


他の33回転のLPを再生したところ、別に問題なし。

フルシャのダイレクトカットLPは45回転なのだ。

45回転だけおかしい、ということはなかろう。


あちゃぁ~そうするとレコード盤の損傷。
そういえば昨日、床に落としたしなぁ。

でも見た目、全然綺麗でいっさい異常なし。


正直大ショックだった。


貴重な貴重なダイレクトカットLP。限定生産1111枚で、当然もういまや全部どこでもソールドアウトの完売。


しかたがないので、ネットで中古市場を探しまくった。

苦労して探した結果、あった!

eBayでアメリカ出品で新品未開封なものが。

もうすぐに落札。

USD$250


もうまた今月のクレジットカード決済の請求書、大変なことになっているはず。

まさかダイレクトカットLPを2組セット買う羽目になるとは思いもよりませんでした。(笑)


もしこれで再生してダメだったら、オーディオ側の故障。そうなると修理費用など大変なことになるなぁ。またアナログはしばらく聴けないということか・・・


ちょっと落ち込んでブルー気分に。

そうして1週間後、新品未開封が送られてきた。
急いで開封して、ドキドキしながら再生してみる。


いっさい異常なし!!!


よかった~~~。


レコード側の損傷だったんですね。見た目、まったく問題なくいっさい外傷などないのだけれど、やはりレコードの内なる内層のところでひび割れが入っていたんでしょうね。


3枚ともNGだったから、3枚とも逝ってしまったとは。

しかしアナログレコードって壊れやすいんですね。

1mもない高さからでも成仏してしまうとは。


昔のSPレコードなら、割れやすいので床に落としたりしたら割れたりするのは当然だった時代があったけれど、LPレコードもこんなに損傷しやすいものだったとは改めて驚きました。


まっ床に落とすということ自体やった経験がありませんでしたので。(笑)


でも結果オーライ。


お高くつきましたが、貴重なダイレクトカットLP第3弾が無事復活してよかった、よかったです。こうやっていま我が家には、フルシャ&バンベルク響のスメタナ「わが祖国」が2組セットあるのでした。(笑)


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ちょっとこの場を借りて一席ぶつことをお許し願いたい。自分が常日頃思っていたこと、考えていたことで、いつか日記で書きたいと思っていたことだ。


アナログレコードとCDの違い。


もちろんその音源の録音の良さに左右されることはもちろんだけれど、記録媒体そのものがもつ音質の差というのは、いまから書くことに起因しているのではないだろうか。


アナログレコードとCDの自分の聴感上の1番の違いは、アナログレコードは、周波数レンジ(F-レンジ)が広大であること、高音域や低音域の軸方向に音が伸びていると感じること。


つまり音が濃い、すごい濃厚なんですよね。


この表現が一番わかりやすいしっくりくる表現なのではないかと思う。よくCDは音が冷たいけれど、アナログは音に温かみがある、なんていう印象もここに起因するんじゃないかな。


CDを聴いて、アナログレコードを聴くと、「音がいい」と感じる感覚は、この周波数レンジの違いが1番大きいのではないか、と自分は思うんですよね。


CDは、高域は20KHz以上をLPFでカットしているし、低域も20Hz以下をHPFでカットしている。CDが20kHz以上の高周波数帯域をカットしている理由は、人間が聴くことの出来る音の周波数が、平均的に20Hz~20,000Hz (20kHz)であるということに基づいている。


超低域は耳の健康に悪いし、まずオーディオ機器を壊しますよね。(笑)


でも・・・


音楽、とくにクラシック音楽は、楽器や声の基音に対して、その倍音成分が音を素晴らしく美しく聴こえさせるために重要な役割を果たしていることはみなさんも知っての通り。


それをフィルタで倍音成分を全部カットしてしまったら、その音を美しく聴こえさせる成分がなくなってしまうんだから、それはなんとも味のない音になってしまうのはもちろんのことだ。


コンサートホールの生の音は、周波数帯域の高音側も低音側も全くカットしていない。


人の可聴領域の外の超高音や重低音を本当に人が音としては感じていない可聴領域の外の情報に、じつは人間の快感や感動があるということだ。


もっとぶっちゃけた感想をいうと、アナログを聴いた後にCDを聴くと(最近同じアルバムをCDとLPの両方買って聴き比べることが多い。)なんか音の情報の欠落感、角が全部取れて情報が欠落している感覚がありますね。


それもここに起因するところなのではないか、と思います。


自分は昔からアナログが音がよく聴こえてしまうのは、ここなんじゃないかな、と常々思っている。でもアナログの場合、カートリッジの性能次第で、この周波数レンジは違っていたりする。高音質に対応するカートリッジとレコードプレイヤーを使用して再生することが不可欠であろう。アナログレコード (LPレコード)の録音は周波数帯域がカットされていなくても、カートリッジ(レコード針)の仕様に再生可能な周波数帯域が決められていて、そこで制限されていたりする。


九州へオーディオオフ会、地方遠征に行ったときのお宅で聴いたあのアナログレコードの音の濃さは忘れられないです。あのぶっ太い濃い音は、自分のアナログ再生ではまず無理です。


これがアナログの音かぁと思いました。(まだアナログブームの始まりかけた昔でしたが。)


いっぽうで、自分はアナログ派か、というとそんなことはまったくない。(笑)
アナログはまったくの腰掛程度である。

やはりここはCDのほうが優れていると思うところもたくさんある訳で。


自分が、CDのほうが断然いいと思うのは、そのダイナミックレンジ(D-レンジ)の広大さだ。これはダイナミックレンジというのは音のレベルの高低範囲、いわゆる深さのことをいっていて、いわゆる記録媒体での器の大きさみたいなものだ。


これは文句なしにCDのほうがいい。


特にオーケストラの大編成の音楽を聴いていると、ダイナミックレンジの違いはあきらかに違うし、その空間表現、ホール感の再現なんか、完全にCDのほうが卓越していると感じる。


自分の録音の嗜好は、クラシック音楽の録音だったなら、やはりダイナミックレンジがとれているかどうか、を非常に重要視していて、D-レンジが広いと、必然とこの音源は録音がいい、と自分の耳が反応してしまう。


ダイナミックレンジが広いと、その音空間が立体的に聴こえますね。


逆にアナログレコードはダイナミックレンジがあまり広くない記録媒体なのだ。


音声信号は、解析軸として周波数レンジ(F-レンジ)(高音域~低音域)とダイナミックレンジ(D-レンジ)(高レベル~低レベル)の2つがあり、周波数レンジに思わず耳が反応してしまう人と、ダイナミックレンジについつい耳が反応してしまう人と、その人の固有な耳の特徴なのだと思う。


ハイレゾ表示の96KHz/24bitの96KHzが周波数レンジで、24bitがダイナミックレンジのことです。

16bit録音と24bit録音では、もう天と地の違いがあります。クラシックのオーケストラ録音は16bit録音はだめですね。絶対24bitはD-レンジが必要です。


2chステレオ再生よりサラウンド再生のほうがごく自然で素晴らしいと思うのも、このダイナミックレンジの違いがダントツに素晴らしいことが一番の理由である。


人間の耳は、生まれた赤ん坊のときからサラウンド環境なのである。
いろいろな方向から音が飛んでくるのを、2つの耳が感じ取っている。


コンサートホールの座席で聴こえる音も、ステージからの直接音、天井、壁、床からの四方からの反射音など、いろいろな方向から飛んでくる音を聴いている。


その空間を正確に再現するには、やはりマルチチャンネルでないと不可能なのである。前方に置いた2本のスピーカーからの再生では無理、限界があるのだ。


その空間を多数のマイクで集音し、それぞれの音が伝搬、やってくる方向から同じようにきちんと再生してあげることで、本来の生音の空間に近づけるのではないか。


オーディオ界はいろいろなポリシーを持った人の集まり、いわゆる流派というのがあるけれど、自分はこの論者の派閥に属する。


CDのほうがアナログレコードより優れているところは、まだまだある。


レコードの持つノイズ、回転ムラ(ワウ・フラッター)の排除、ダイナミックレンジの拡大、チャンネルセパレーション(左右の音声信号の分離度)の向上といった点は、やはりCDのほうがいい。・・・というか、こういうレコードの持つ欠点を改善するためにCDというフォーマットが生まれたのであるから当たり前といえば当たり前だ。


特にS/N感の良さ、クリアな感じ、そしてなんといっても定位感の良さは、やっぱりCDのほうが断然いい。ノイズフロア自体がすごく低いレベルにある感じで、このメリットは大きいと感じる。


最近のアナログレコードの大飛躍、そしてCDの衰退、というギョーカイ現象を逆手に、「アナログこそ最高、CDなんてクソくらえ!」的な世評があることに自分は1席ぶち込みたいと常日頃から考えていた。(笑)


オーディオだってCD再生できちんとCDの中身を完全に出し切ることのできない人が、アナログレコードを再生しても、いい音を出せるはずがないのだ。


自分の趣味嗜好で言わせてもらうならば、音の濃いアナログレコードで聴くならば、ロックやポップス、そしてジャズ、そして空間再現性が優れているCDで聴くならばクラシックという感じでしょうか・・・。



アナログレコードは、やはりターンテーブルであの再生するまでのひとつの儀式がいいですね。あの一連の所作がやはり音楽を聴いている、という実感を深いものにしてくれますね。


自分は、疲れているとき、面倒なときは、やはりCDのほうが再生するのは簡単だし、曲のスキップなんかも簡単にできるので、CDのほうがいいと思いますが、休日でやる気満々なときはレコードをかけるという作業がとても趣があっていいと思います。


やはりアナログレコードが好きな人は、やはりその世界というのがある訳であって、そこをとやかくいう資格はないわけです。


アナログレコードでないと醸し出せない価値観というのがあります。


自分もそういうアナログの世界を自分のモノにしたいと思うけれど、やはり高級なターンテーブルと豊富なレコードコレクションがないとなかなかそういうレベルの気持ちに到達できないんじゃないかな、とも思います。


自分もレコードショップで”漁る”という作業をやってみたいです。(笑)









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mixi愛 [雑感]

エム5さんが、mixiの将来を悲観していたけれど、同感だ。

Facebook,Twitter,Instagramとか、ワールドワイドでインターナショナルなSNSと比べ ると、mixiはもはやロートル感いっぱい。

mixiがスタートした2003年頃は、日記を投稿する、それを友達どうしで楽しむ、結構斬 新なアイデアで楽しかった。


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自分は2009年に入会。
SNS生活11年目。結構自分の人生ガラ変しました。

でもFB,Twitter,Instagramの衝撃はすごかった。
技術の革新はすごい。mixiはどんどん追い越されていって、見る影もない。

唯一、mixiのほうが優れていると思うのは、イイネやコメントがついたら、スマホなら 一目瞭然に目の前に表示されるところであろうか?(笑)

mixiは友人同士だけのクローズドなコミュニティだけれど、FBやTwitterは、もう友人を超えた、完全なビジネス、広告のツールですよね。

mixiは、いま日記SNSなどでお金を儲けているのではなく、ゲームなどで生計を立てているけれど、もしこれが傾いて、mixiサービス終了となったら、自分は相当困ってしまう。

まず、なんといってもいままでの日記の財産が全部パーだ。
おそらくmixi側で日記をアーカイブしてくれるサービスを提供してくれるだろうけど・・・。

そして自分の日頃のストレスを発散させる場所を失うのは、もう言葉も見つからないだろう。

mixiなくなったら、本当に困ってしまうだろうな。

mixiさん、頑張ってこれからもよろしく頼みますよ。
経営方針には相談に乗りますから。(うそ。笑)

でも、Facebookがすべていいか、と言うと全然自分はそうは思わない。

Facebookは、自分の日記のスタイルに合わないと感じる。

まず、過去の投稿日記をきちんと管理できない。
書きっぱなしなのである。


mixiやブログはきちんと過去投稿分は整理されていて、アクセスしやすい。

そして、FBは写真を挟んだりする構成ができないのが自分のスタイルに合わないと思う。

mixiやブログは、文章を書いている途中で写真を挟んでいく。
そのほうが、読んでいくペースに合わせて、写真を見るから、流れがつかめる。

FBは、まず文章があって、写真はまとめて下にあって、それをいちいち開かないといけない。それが何十枚もあったら、まず開こうと思わないです。(笑)

文章と写真が切り離されているので、リアルタイム性がかなり失われるのです。
これは自分の日記スタイルにとって、かなり致命的。

これが自分には一番嫌です。

FBは、やはり”いま”をつぶやく、つぶやきのロングバージョンのように感じる。

自分のような、あまり”いま”の時間軸に捉われない日記には合わないのです。

mixiやブログは、日記にタイトルをつけることができて、ひとつの作品として扱ってくれるので、自分の日記のスタイルに合うのです。


2014年あたりから、日記を書くときは、必ずメモ帳に下書きするようにしています。
メモ帳で全然十分です。



直接mixiやFBの投稿欄に直接書いていると、あるときにアクシデントで、パッと消えてしまう事故があって、あ~~~~となってしまうので、それは危険だからやめたほうがいいです。

かならずメモ帳に書いて、それを全文コピーして、投稿欄にペーストすればいいのです。
こうやれば事故ることはまずないです。

しかも日記ひとつにメモ帳ひとつで、日記のタイトルと同じタイトルをつけて、フォルダに管理しておけばいいのです。

そうすると自分の過去の投稿分と同数のメモ帳があって、過去日記が管理保存されているのです。

だからもしmixiやブログがアクシデントで過去日記が全部フリーズして開かなくなっても、その内容は、ちゃんとメモ帳でバックアップされているから、再投稿、再現は可能なのです。

心の安心度からこうすることをお勧めします。

でもメモ帳で下書きしていても、滅多にありませんが、ときどきなんかのボタンを押した拍子で全部書いた内容がクリアになることもあります。

自分はいままで1回だけありました。メモ帳下書きは安心ですが、それでもそういうことがあるのです。

そういうときはつねにバックアップ(コピー)を取っておくことが必須です。

長文の日記を書けば、書くほど、途中で消えてしまうのが心配になるので、途中でバックアップを必ずとっておきます。

これが日記を書いていくうえでの必須マナーです。

PCの世界でバックアップはもう常識ですね。

自分の会社での仕事は、Excelが仕事道具なのですが、それも7年間分のデータ量を全部扱う大容量のファイルになりますので、つねに何重にもバックアップしておきます。

もし使用中にファイルが壊れてしまったら、もうそれで7年間の苦労が全部水の泡になるからです。作り直し、やり直しは不可能です。

PCのHDDもそうですね。クラッシュしたら、もう写真データとか全部パーなので、必ず外付けHDDでバックアップを取っておきます。

mixiを始めた2009年からの下書きメモ帳はさすがにないけれど、2014年からはそうやってメモ帳の原稿を保管してあるので、もしものときは大丈夫です。

でもそれぞれの日記に写真を選択して挟んでいくのがかなり苦痛だとは思いますが。


mixiは、ゴローさんがご存命のときは、本当に夢中になっていた時期だったけれど、お亡くなりになってから、もうみんなあの頃の熱意はなくなりましたね。(笑)

あのときはよかった・・・です。(笑)

その後、みんなそれぞれの人生があって、mixiの活気はもうほとんどないと言っていいのではないでしょうか?(笑)

寂しい限りです。

でも自分にとって、mixiがなくなってしまうと、やはり困っちゃうので、なんとかサービス終了とならないように頑張ってほしいと思います。









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明治43年創業「淺草 來々軒」 [グルメ]

「淺草 來々軒」は日本で初めてラーメンブームを起こしたお店であり、ラーメン史を語る上で欠かせないお店である。明治43年創業。ラーメンが日本に初登場したのは、そんな大昔だったのである。


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來々軒の創業者・尾崎貫一氏は明治43年、横浜の南京町から中国人コック12人を引き連れて浅草の新畑町3番地に來々軒をオープン。まだその当時は、ラーメン店という存在はなかった。


來々軒が「支那そば」、「ワンタン」、「シウマイ」という大衆的なメニューを安価に販売するという新たな業態繁盛させ、広めたことがスタートとなる。


來々軒は「支那そばで売り込んだ店」と書かれているように、ラーメンが一番人気であったため、同じ業態の広がりだけでなく、食堂や蕎麦店、洋食店、カフェなどの様々な他業態でもラーメンをメニューとして取り入れるようになった。


こうして來々軒を起源とした「日本初のラーメンブーム」が起こったわけだ。


「淺草 來々軒」の復活にあたり協力を得たのは、創業者・尾崎貫一氏の三男である、高橋武雄氏(大正期に高橋家に婿養子)の長男、高橋邦夫氏、そして貫一氏の玄孫にあたる高橋雄作氏である。


高橋邦夫氏は、戦前の來々軒のラーメンを食べており、父である武雄氏からも全盛期の來々軒の話をよく聞かされ、戦前の來々軒を知る唯一の末裔である。このプロジェクトは、新横浜ラーメン博物館で調査した内容の発表のみならず、味の再現もおこなうという壮大な試みなのである。


詳細は、こちら。


明治43年創業、日本初のラーメンブームを巻き起こした「淺草 來々軒」を、末裔の協力により復活。



つぎに、この「淺草 來々軒」の味を、末裔の協力により復活するというプロジェクトだ。


詳細は、こちらを読んでほしい。



まさに「プロジェクトX」で、驚きとしかいいようがない。


末裔と、新横浜ラーメン博物館といろいろな方との協力タッグで、まさにいろいろなところに調査を繰り返しながら、当時使用していたラーメン具材を探り当てていく。


なるべく当時の具材で再現したい。
なるべく当時の味を再現したい。


読んでいて、かなり驚いた。


相当期間と労力をかけた新横浜ラーメン博物館にとって一大プロジェクトだったんだな、と思いました。


当時は、麺はおそらく「赤坊主」を中心にブレンドしていたものを使っていた。でもいま「赤坊主」は流通していないので、その系統図を調べ、その遺伝子が入っていると思われる後継品種として同じ群馬県産の「さとのそら」を使用し、当時の麺を再現することにした。


麺の打ち方(作り方)だが、尾崎一郎氏は「昭和5~6年頃までは、中国式の青竹打ちで、昭和10年頃には機械打ちになった」と証言している。今回の再現では、1日100食限定で創業当時の青竹製法で提供し、それ以外は昭和10年以降の機械製麺で提供することにした。


あとで紹介するが、自分はもちろんこの100食限定の創業当時の青竹製法のほうの麺を選んだ。


來々軒に使用されていた食材は、特殊品(かん水・メンマ)以外は全て国産だったと考えられる。


つぎにチャーシューとメンマ。


大正後期までは焼豚が主流であったが、手間がかかるため、ラーメン店のチャーシューは次第に煮豚へと変わっていくが、今回は当時の製法で焼豚を再現する。当時流通していた豚の血統はバークシャー種、中ヨークシャー種とのことで、今回焼豚に使用する豚はバークシャー種を掛け合わせた国産豚を使用し再現する。


メンマは当時と同じく、メンマの名付け親でもある丸松物産から仕入れる。昨今ラーメンに使用するメンマは、時間と手間がかかる乾燥メンマはほとんど使われず、水煮や塩メンマなどが主流であるが、当時と同じように乾燥メンマから時間をかけて作りあげる。


スープに関しての証言は、鶏と豚と野菜を使用した清湯スープ。鶏は名古屋種の親鶏を使用。また煮干しに関しては証言によるとオーナーの尾崎氏より「日本人の口に合うように」と昭和初期頃から煮干しが加えられたとのことで、今回の再現に使用している。そして国産の豚ガラ、野菜類を加え、弱火でじっくり炊き上げる。


また、來々軒で使用されていた醤油は創業当時から「ヤマサ醤油」の濃口醤油。今回使用する醤油は原料が全て国産の丸大豆醤油を使用する。


そして具材だけではないのだ、
110年の歳月を経て復刻された丼。
1994年の開業前に、來々軒3代目の尾崎一郎氏の証言により復刻した丼を再現する。



ここまで調べ上げて、いよいよ「來々軒」復活に向けて動き出す。


玄孫である高橋雄作氏たっての希望で、


「調査結果を見た時に小麦粉や自家製麺についての技術や知識に長けているお店、そして同じ醤油ラーメンで王道を極められているお店として、私の頭に浮かんだのは"支那そばや"さんでした。來々軒が多くの人々に影響を与えたように、支那そばやさんも、今活躍している有名ラーメン店の方々に大きな影響を与えたお店ですので、そういう点でも支那そばやさん以外考えられませんでした。」


おぉぉぉ~、ラーメンの鬼、佐野実もさぞかし喜んでいることであろう。


支那そばやは、新横浜ラーメン博物館に長い間出店していて、よく行ってましたよ。また藤沢本店にも行ったことあります。あの怖い佐野実が目の前でラーメンを作っていて、お客さんはみんな息をのんでし~んとしているのです。(笑)


支那そばやさんも、「最終的には、もし佐野(創業者 佐野実)が生きていたら"このプロジェクトに命を懸けて受けていた"だろうと思うし、私も使命だと思い、お引き受けすることにしました。」


こうして、創業者、尾崎貫一氏の孫である高橋邦夫氏、そして玄孫、高橋雄作氏、そして”チーム支那そばや”のタッグでこの壮大なるプロジェクトが立ち上がったのである。


玄孫、高橋雄作氏は、「ゆくゆくは來々軒があった浅草に凱旋オープンできればという夢を持っております。」だとか。(笑)


夢は膨らみます。



これだけの月日と大きな調査努力、そして復活実現に向けてのプロジェクト。
日本で初めて登場したラーメン、心して食べに行かないと。
気が引き締まる思いでした。


ひさしぶりの新横浜ラーメン博物館。


自分は、若いころからラーメンファンであったし、しかも新横浜は自分の住んでいるところに近いので、よく訪れていた。


でも中には、入ったことのない人もいると思うので、ちょうどいい機会なので、ちょっとご紹介しよう。


新横浜ラーメン博物館。

ラーメンに関するフードテーマパークである。
我々は、通称「ラー博」と呼んでいる。


「全国各地のラーメンを飛行機に乗らずに食べに行ける」をコンセプトに、全国のラーメン有名店が、ここに出店を構える。


つまりラー博の支配人が、全国の美味しいという評判のラーメン店を、その各都道府県、現地まで出向いて、テナントを供給しますので、ぜひラー博に出店してください、と拝み倒しにいくわけだ。


ラーメンの世界は、いわゆる”ご当地ラーメン”という地方に美味しいお店が多く、でもその地方にまで飛行機を乗っていかないと食べれないというジレンマがあった。


それが東京で食べられる、というメリットは、ラーメンファンにとってもうれしいけれど、じつはお店にとっても一気に知名度が全国区になって、いろいろな地方に支店を作ってほしいという大きなビジネスチャンスにもなる。


札幌味噌ラーメンのすみれもその代表例だ。すみれはラー博で一気に全国区になった。それがきっかけに兄の純連も大人気。いままで札幌で秘かに愛される地元のお店だったのが、世界が一気に変わった。


自分はこのラー博でいろいろなご当地ラーメンを食べました。徳島ラーメンの井出商店とか。。。たくさんありすぎて思い出せない。


館内は、すごい面白い仕掛けになっている。
館内は昭和ノスタルジーが感じられる構成になっているのだ。

こんな感じ。まさに昭和カラー一色。


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ラーメンボールって。(笑)バーのカウンターになっているんですね。


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こんな昭和時代の雑誌がディスプレイされていたりする。


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本当にオモロ空間なのだ。


館内1階のプロローグゾーンはラーメンに関する展示とミュージアムショップ(物品販売コーナー)があったりする。まさにラーメンの歴史をここで学べるし、ラーメンのこと、すべてがここに展示されている。


物販コーナーには、今回の「來々軒」で復刻した丼も展示されていた。
1万円!!!(驚)


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さて、今回の目的である「來々軒」。
ラー博に入ったら、すぐにこの看板がお出迎え。
気合が入る。


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そして、その先に、なんと「來々軒」の模型建物があったりした。


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出店開店を祝う花束でいっぱい。


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なんと「すみれ」の村中伸宜社長からも花束が届いていた。


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こんなアングルからも・・・


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中には、「來々軒」の歴史と今回の調査結果が詳しくパネルになって展示されていた。
「創業者・尾崎貫一 経営才覚と先見性の持ち主。」


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ここが、「淺草 來々軒」。
ついにやってきた!


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自分は今日会社を午後半休をとって、かけつけたので、平日だからか、比較的すいていた。あるいはコロナ禍の影響もあるかもしれない。


でも「來々軒」だけは、こんな感じでかなりの行列ができていた。


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チケットは、電子券売機スタイルである。

あった!

”らうめん”の100食限定の創業当時の青竹製法のほう。


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「來々軒」の店内。


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チーム支那そばやのスタッフたち。


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コロナ対策はされていました。
入口で手の消毒と、カウンターは透明アクリル板の敷居。


そしてドキドキしながら待っているとついに運ばれてきた。


これが日本で初めてのラーメン。

当時の具材、当時の味を再現したい。


創業者の孫である高橋邦夫氏、そして玄孫、高橋雄作氏、そして”チーム支那そばや”による血と涙の結晶。


膨大な調査と壮大なプロジェクトの末、再現された日本初のラーメンである。


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まずスープからいただく。


濃口醤油とのことだが、見た目の色具合も全然そんなに濃くないし、味わってみると非常に薄口のように感じた。


まず思ったこと。


非常に香ばしい醤油味だということ。
とにかく香ばしい。

あっさりとはちょっと違うんだな。
結構コクがあります。でも薄い醤油味なんですよね。


先日、東京ラーメンの元祖の春木家本店のあっさり上品ラーメンとは違って、醤油味とコクのある香ばしさがあって、かなり美味しく感じる。


明治43年の日本初のラーメンですよ。
それでこれだけ美味しいスープは、ちょっと驚きです。


自分は現代のラーメンを食べ尽くしているので、当時の具材、味を再現した日本初のラーメンは正直そんなに美味しくないだろう(笑)、と思っていたのだ。


煮干しの影響なのかな。
予想外のスープのうまさにびっくりしました。



つぎに麺。


創業当時の青竹製法を使った100食限定の特別の麺だ。
中太麺。


う~む。まぁこんなもんかな。(笑)


現代の美味しいラーメンの麺って、小麦粉の濃さというか、非常に濃厚な味がするけれど、この麺は、透き通った感じの薄い味の淡白な感じがしました。中太麺でちぢれ麺であるので、それなりにスープに絡んで美味しかったけれど、それにしてもこの透き通った淡白な味は如何としがたい。


でもこれは明治43年の日本初のラーメンなのだ。
なにを贅沢なこと言っているんだ、もう上等すぎると言っていいのかもしれない。


メンマもポソポソで、当時はこんな感じだったんだな。
焼豚はとても美味しかったです。


でもやっぱり醤油ラーメンのトータルパフォーマンスとしての完成度は、やはり明治43年とはとても思えない、いまの醤油ラーメンと堂々と渡り合えるくらいのレベルだと思いました。


立派な美味しい醤油ラーメンだと思いました。


明治43年ですよ!
明治43年で、これだけ美味しかったならば、それこそ大人気だったのはよくわかる。


「來々軒」のラーメンが当時、どれだけ大人気であったかというと、それはその儲けあがりで、一軒家が建てられるほど儲かっていたということらしい。


当時で、これだけ美味しかったならば、それも十分納得のいくところです。


期間限定だと思うので、ぜひみなさん体験なされてみてはいかがでしょうか?










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曽根麻矢子さんのチェンバロを聴く [ディスク・レビュー]

曽根麻矢子さんのチェンバロの実演は、じつは、ここ数年縁があって、2回ほど体験することができた。


サラマンカホール30周年記念ガラコンサート、そしてハクジュホール・リクライニング・コンサートである。


まさに日本はもちろんのこと世界を代表するチェンバロ奏者の第一人者と言ってもいいだろう。


前回のハクジュホール・リクライニング・コンサートのときに、曽根麻矢子 J.S.バッハ連続演奏会の情報を知ったのである。


スイス在住のチェンバロ制作者デヴィッド・レイが曽根麻矢子のために長い時間をかけて制作した18世紀フレンチモデルの楽器を使用し、バッハのチェンバロ主要作品を5年をかけて演奏する話題のコンサート・シリーズがハクジュホールでスタートする。


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これは絶対行かないといけないでしょう!


チェンバロといえばやはりバッハだと思うし、そのバッハの曲、ゴルトベルグ変奏曲、平均律クラヴィーア曲集、イギリス組曲、フランス組曲・・・などなど蒼々たる名曲ぞろい。


チェンバロは、オーダーメイドであるのが基本だが、このコンサートのために18世紀フレンチモデルの特注品。


足掛け5年をかけて演奏する。


このツィクルスは全部コンプリートしてもいいと思います。
それだけ価値のある連続演奏会だと思いますよ。


しかもハクジュホールは、音響が非常に優れていて、室内内装デザインも芸術的な独特の意匠。自分の大のお気に入りのホールでもある。


こういった大掛かりな連続演奏会は、過去にもあって、浜離宮朝日ホールで、2003年からの全12回、6年にわたるJ.S.バッハ連続演奏会、そして上野学園エオリアンホールで、2010年から2014年までの全12回のF.クープランとラモーのチェンバロ作品全曲演奏会。


今回3回目の連続演奏会になる。


普段、チェンバロを聴くことや、チェンバロの演奏会が開催されること自体、そしてそのチェンバロ・コンサートに行くこと自体、なかなか経験できないレアな体験だと思うので、これは絶対行きのコンサートだと思っていました。


もちろんチケットを取っていて、楽しみにしていた第1回の演奏会のゴルトベルグ変奏曲。(2020/9/24)


なんと!残念ながらコロナ禍で来年3月へ延期が決定。


もうすごい楽しみにしていたのにガッカリもいいとこ。


このコンサートの感想も併せて、ディスコグラフィーも数枚買いそろえて、まとめて日記を書く予定だったのだけれど、まさに失意の日々。


来年3月まで待てないので、まずはディスクレビューでも日記にしようと思って、この日記を書いている。


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(c)Noriyuki kamio


曽根麻矢子プロフィール


桐朋学園大学附属高校ピアノ科卒業。高校在学中にチェンバロと出会い、1983年より通奏低音奏者としての活動を開始。1986年ブルージュ国際チェンバロ・コンクールに入賞。その後渡欧を重ね、同コンクールの審査員であった故スコット・ロスに指導を受ける。ロスの夭逝後、彼の衣鉢を継ぐ奏者としてエラート・レーベルのプロデューサーに認められ、1991年に同レーベル初の日本人アーティストとしてCDデビューを果たした。


以後イスラエル室内オーケストラのツアーや録音に専属チェンバリストとして参加するほか、フランスおよびイタリア等のフェスティバル参加、現代舞踊家とのコラボレーションなど国際的に活躍。


日本国内でもリサイタル、室内楽と積極的な音楽活動を展開するとともにテレビ、ラジオへの出演、雑誌「DIME」でのエッセイ連載、「いきなりパリジェンヌ」(小学館)の刊行など多才ぶりを見せている。


(曽根麻矢子 Official Website)


チェンバロは、やはりバロック時代の音楽の楽器ですね。

やはりバッハだと思う。


ご自身のディスコグラフィーを俯瞰させていただくと、やはりチェンバロ奏者としてのキャリアは、バッハを主軸に置いていらっしゃるのがよくわかる。ほとんどのバッハの名曲はすべて録音してきて網羅されていると言っていいと思う。


インタビューでも、「バッハが大好きで熱中し、レコードを聴き知識を貪るなかで、どうしてもバッハをチェンバロで弾いてみたい! と熱望するようになりました。」と答えている。


今回じつにひさしぶりにバッハを聴いたわけだけれど、音楽って、近代に近づくにつれて、造形、音楽の型が凝ってきて、世俗的な感じになってくるように思うのだけれど、バロック時代のバッハの音楽は、とてもピュアで純粋というか、本当の意味で音楽の原型を聴いているような感じがしますね。本当にシンプル。


基本に立ち戻るという感じがします。


たまにはバッハを聴くのもいいです。


チェンバロという楽器の発音の仕組み、奏法、音色、ピアノとの違いなど、日記にして自分の理解を確固たるものにしたが、やはりあの音色は独特ですね。


倍音を多く含んだこの独特の複雑な音色。
いかにも弦をはじいて発音しているという弾力性のある音。


この光沢のある艶感をいかに出せるか?


そして教会や礼拝堂で演奏しているのがよくわかる残響感、空間感など、この音色とあいまって、まさにチェンバロ独特の世界。


チェンバロのオーディオ再生というのは、なかなか難しいのでは?と思います。オーディオ再生、システムの実力が試される。得手不得手の方々が出てくるのは当然のような気が。。


チェンバロの録音って、生音で聴いているより、その光沢感がより強調されている、そういう調理が施されているような気がします。


あと、チェンバロは、ピアノと違って音の強弱をつけることができないので、全曲通して聴いているとどうしても一本調子に聴こえてしまうところがありますね。しかもバッハの曲など、どんどん疾走していく感じで煽られるので、そういう意味で緩急のある現代曲と違って、興奮のつぼがちょっと違うような気がします。


曽根さんは、このチェンバロ楽器で強弱をつけることができない、ということにインタビューでこう反論している。


「バロック時代、鍵盤の1つの音に対して音量を増減させる意識「その音を強く弾こう・弱く弾こうという」はありませんでした。しかし、重厚さを求める部分では楽譜に音がたくさん書かれており、比較的静かな部分では音数も少なくなっていますので、音量に関して楽譜に書かれている以上の何かを付け足す必要はないのです。音の強弱に関して、時代の求める感性が違うと言えるでしょう。


ピアノと異なる機能の1つとして、例えば、このチェンバロには上下二段の鍵盤がありますが、上鍵盤と下鍵盤とでは違う音色の音が出ます。レジスター(音色の選択機構)によって、はじく弦の数を変えることもできます。


1つの鍵盤に対して3 本の弦が張られており、その内の1本は他 2 本より1オクターヴ高い音の出る4フィートの弦です。基本的に鍵盤を押せば1本の弦をはじきますが、上下の鍵盤を連結し、下鍵盤と上鍵盤を同時に鳴らしたり、レジスターを操作することによってはじく弦の数を変えたりすることで、音量を変化させられます。」


クレシェンド(だんだん強く)、ディミヌエンド(だんだん弱く)はできないのか?


「それについても、とてもよく質問されます(笑)。
クレシェンドもディミヌエンドも出来ます!


確かにピアノと比べると強弱の幅は小さいですが、弦をはじくということは、はじかせ方によって響き方を変えられるということでもあります。そもそも私達の聴覚は、音量の大小だけで強弱を判別しているわけではありません。


音色や響きの違いによっても、音の広がりや狭まりを感じることが出来るのです。例えば、音の切り方 (鍵盤から指を離すことで、弦にダンパーがかかり消音するといったチェンバロならではの機構を生かし、その瞬間を調節すること)を工夫し、まるで美しいディミヌエンドのように聴かせることだって可能です。弦をどうはじくのか、そして、その音をどう切り上げるのか。演奏する者にはそういった繊細な意識が必要になります。


そしてそれはとてもやり甲斐のあることですし、そもそもチェンバロは、そうした小さな工夫に豊かに応えてくれる楽器なのです。この魅力を、是非生の音を近くで聴き、皆さんに肌で実感していただきたいです!」




じつは自分は、チェンバロの録音といえば、昔から愛聴している音源があるのだ。


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α(アルファ)レーベルによるクープランのチェンバロ曲集。(チェンバロ奏者は、スキップ・センペ)


スキップ・センペは、1958年生まれのチェンバロ奏者。アメリカで音楽と美術史を学んだ後ヨーロッパに渡り、アムステルダムでグスタフ・レオンハルト等に学んだ。彼は古楽アンサンブル「カプリッチョ・ストラヴァガンテ」を1986年に設立、演奏解釈と装飾においてそれまでになかったような自由な表現を実現し、即興的で創造性の高い演奏は高い評価を得ている・・・とある。


α(アルファ)レーベルと言えば、自分はこの音源なのである。


英国グラモフォン大賞で、今年のレーベル・オブ・ザ・イヤー2020を見事に獲得したα(アルファ)レーベル。自分は、それを祝して、このスキップ・センペのチェンバロ曲集、たった1枚で、α(アルファ)レーベルについて熱く語ってみようと思ったが、それにはやはり無理があるので(笑)、やめておいた。


独特のカラーがあって、いいレーベルですよね。
録音もいいです。
自分も大好きなレーベルです。


このチェンバロ音源は非常に録音がよくて、聴いた瞬間、虜になってしまった。


それ以来、自分の拙宅オーディオオフ会で、お客さんの心を最初の一発で鷲掴みにするための1発目にかける必殺音源となったのだ。


スキップ・センペのチェンバロの録音の音って、かなり個性的である。
普通のチェンバロ録音の音ではない。


ある意味、生演奏で聴くチェンバロの音からは、かなりかけ離れたオーディオライクな音なのだ。確かに衝撃的にいい音。でもそれは自然のチェンバロの音ではない。。。そんな感じなのだ。


いかにもオーディオマニアが喜びそうな音。


チェンバロの音がちょっと電気っぽいんですよね。いかにもエンジニアがいじっている、やり過ぎ感、というような。


もちろんこの音に拒否反応を示す方もいた。
自然ではない、という理由で。


スキップ・センペは、「演奏解釈と装飾においてそれまでになかったような自由な表現を実現した奏者」とあるから、これがまさしく彼らしい音なのだろう。


自分は、この音源に2005年頃に知り合って、以来15年間、チェンバロといえば、必ずこの録音を思い出すくらい愛聴してきたのだ。




それでは曽根麻矢子さんのディスコグラフィーを聴いていくことにしよう。


レーベルはエイベックス・クラシックス。


驚いたのは、リリースしている音源は、ほとんど全部と言っていいほど高音質フォーマットなのだ。バッハの代表曲は、ほとんど全部SACDハイブリッド。そしてBlu-SpecCD、HQCDなどである。


Blu-SpecCDは、CDのピットを読むための光ピックアップをBlu-Rayのものを使うことで高音質を狙ったもの、HQCDは、光ディスクの記録媒体自体の材質改善することで高音質を狙ったフォーマットである。


自分は、この時点で、この高音質指向型の姿勢にものすごい好印象。(笑)



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イギリス組曲(English Suites) 2, 3, 6
曽根麻矢子



フランスの名門レーベルERATOの名プロデューサーであるミシェル・ガルサンにスコット・ロスの遺志を継ぐ奏者として認められ、世界デビューを果たした名アルバム「バッハ:イギリス組曲集」。


曽根麻矢子のチェンバロ奏者としての記念すべき世界デビュー盤。ERATOからのリリース。鳴り物入りだったのである。やはり、曽根麻矢子のチェンバロを聴くなら、まずなによりも最初にこれを聴かないと始まらないだろう。基本中の基本というところでしょうか。


これは素晴らしいかったですね。イギリス組曲は、いかにもバッハの曲らしい、なんか均等な打鍵のリズムで、煽られるような疾走感で迫ってくる感じがとても際立つ曲ですね。そのような快感を感じる曲です。


録音も素晴らしいです。


やっぱりこのアルバムは、他のアルバムと比較することのできない特別な立ち位置にあるアルバムですね。もっとも大切なアルバムと言っていいのではないでしょうか?


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ゴルトベルク変奏曲 

曽根麻矢子 (2008)



ベストセラーを記録したワーナー盤(1998年12月)以来、10年ぶり2度目の「ゴルトベルク変奏曲」の録音。プロデューサー/エンジニアには、ハルモニア・ムンディやアストレで「長岡鉄男外盤A級セレクション」を連発したニコラ・バルトロメ氏を起用。10年前の録音では、フレンチ・モデルを使用したが、この盤は「平均律」で使用した超大型ジャーマン・タイプを使用。


もう長岡鉄男氏の名前が出てくること自体(笑)、オーディオライクというか、高音質指向型でうれしい。


でも自分が聴いた分には、ちょっと音の指向が他盤とかなり違う。なんか奥に引っ込んだ感じの音像で、湿っぽい淑やかな音色である。これはこれでありかな、と思います。ほかとちょっと毛色が違いますね。


ゴルトベルグ変奏曲は、やはりバッハの王道の曲ですね。本当にいい曲です。この曲を聴いたのは、グレングールドのを聴いて以来だから、本当にひさしぶりです。


じつはチェンバロ録音を聴くときに、いつも不思議に思うことがあって、それは1曲の演奏終了後に”ガクン”という暗騒音が入ること。必ず曲終了後にこのノイズが入る。


これは曽根さんだけでなく、スキップ・センペ盤でもそうだし、チェンバロ特有のノイズのようだ。この暗騒音の正体を知りたい。(笑)


自分の予測では、鍵盤から指を離すことで、弦にダンパーがかかる音なんじゃないかな、と思うのだ。正しいかわかりませんが。


暗騒音はいいですね。ピアノのペダル音とか、奏者のブレスとか、生々しくていいです。録音に暗騒音が入ることを嫌う人も多いが、自分は大賛成の派です。





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平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲 
曽根麻矢子(チェンバロ)



バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は、ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタと並んで「鍵盤楽器奏者の聖書」とも呼ばれている。第1巻の冒頭を飾る優美なプレリュードは、後にフランスの作曲家グノーが編曲した「アヴェ・マリア」のメロディとして世界中で親しまれている。


使用された楽器は、ドレスデンの宮廷音楽家兼楽器製作者だったゴットフリ-ト・グレープナーが生涯最後の1739年に製作した楽器をモデルに、デイヴィッド・レイが製作したもの。パリ音楽院が所有しているが、この録音のために特別に貸し出された。


最初の1発目の出音を聴いた瞬間、自分は、


えっえっえっ?うそ?ほんと?


そのあまりの音の良さにびっくり!
これは録音がいい!!!


思わず、慌ててライナーノーツでエンジニアとか確認。


そうしたら、なんと録音エンジニアではないけれど、アーティスティック・ディレクション(Artistic Direction)という肩書で、あのスキップ・センペの名前がクレジットされている!


そう!チェンバロ録音といえば、自分が長い間愛聴してきた、あのα(アルファ)レーベルのチェンバロ音源のチェンバロ奏者である。


自分が、無意識に思わず耳に反応してしまったのは、15年間もの間、彼の独特の音色に深く洗脳されていたためで、そりゃ聴けばすぐに反応する訳です。


アーティスティック・ディレクションというのは、どういうスタンスの立場かわかりませんが、その名称からおそらくこのアルバムの作品の方向性とかを指導する立場なのでは、と推測します。


しかもお互いが映っている写真まで撮影されている!


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左からオルガン制作者のデヴィッド・レイ、そしてスキップ・センペ、そして曽根麻矢子。


えええぇぇぇ~。(笑)


苦節15年!!!


自分は、スキップ・センペがこういう容姿の方だとは、いまこの写真を見てはじめて知りました。(笑)


こんな縁があるとは。


曽根麻矢子さんは、欧州でのチェンバロ奏者としてのキャリアを築いていくうえで、最初に才能を見出してくれたスコット・ロスはもちろんのこと、このスキップ・センペといった、テンペラメント豊かな演奏家達の薫陶を受けてきて現在に至るのである。


いやあ驚いた。


しかもそのライナーノーツでは、曽根さんはこう書いている。


この収録が終わった後、録音を聴いてみて驚き、笑ったこと!

「この音色はスキップ!」


まわりの音色と明らかに違うんです。なるほどー、こんなに人によって音色が違うものなんだ。これは自分にとって一番面白いこのCDの聴きどころです。


・・・・・・


そうだろう、そうだろう。彼の音は独特だからね。ちょっと電気っぽい、エンジニアがいじり倒しているような音色。


曽根さんご本人も、これがスキップの音色ってすぐわかるほど、スキップのこの音色ってチェンバロ界では有名なんですね。誰もが知っていることなんですね。


自分は、本当に驚きました。


曽根麻矢子のチェンバロのアルバムをぜひ1枚と推薦するならば、自分はぜひこの「平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲」をお勧めします。(笑)





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ザ・ベスト8 曽根麻矢子(未発表音源=マルチェッロ/バッハ:アダージョ収録)
(HQCD限定盤)



スキップの音色はかなり独特なので、これは生音のチェンバロの音ではない、自然じゃないと拒否反応を示す方もいらっしゃると思うので、改めて、曽根麻矢子のチェンバロのアルバムをチョイスするならばこの1枚というなら、このアルバムを推薦します。


いわゆるベスト盤、イタリア協奏曲、フランス組曲、ゴルトベルグ協奏曲、無伴奏パルティータのシャコンヌとまさにバッハの名曲ぞろい。


そしてスキップの音色の平均律クラヴィーア曲集も入っている。(冒頭です。やはりスキップの音色は一発目の出音がインパクトあるのです。)


やはりこのCDを選ぶのが1番無難だと思います。

本当にいいアルバムです。



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フルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタ集 
有田正広、曽根麻矢子



最新の新譜ですね。


有田正広氏4回目のバッハのソナタ録音はモダン・フルートによる新境地。


フルートとチェンバロの右手が対等に掛け合うオブリガート・チェンバロ付きのソナタが選ばれ、録音で初共演となる曽根麻矢子との絶妙なアンサンブルが繰り広げられている録音。


ジャケットに用いられた絵画は佐伯祐三(1898-1928)の「絵具箱」(大阪中之島美術館所蔵)。


聴いてみると、対等というよりは、録音というフィルタを通すなら、フルートがあくまで主旋律で主役。録音レベルも高く前へ前へと出てくる。


チェンバロは通奏低音というか伴奏のような感じで、録音レベルも低く、奥に引っ込んだ感じで、陰ながら支えているように聴こえる。


ただそれは録音の仕掛け上そのようにしているというだけであって、旋律的には決してどちらが主役というよりは、ちゃんとお互い対等のかけあいの曲のように感じます。


フルート、美しい!

こんなに癒される音色とは、ひさしぶりに感動です。

フルートとチェンバロはほんとうに相性の合う素晴らしいコンビネーションですね。
いいアルバムです。


ハクジュホールでのバッハ連続演奏会。


チェンバロは、オルガン製作者デヴィッド・レイのカスタムメイド。
チェンバロはオーダーメイドの世界。


平均律クラヴィーアのアルバムでも、デヴィッド・レイのオルガンを弾いていることから、それ以来ずっとよいパートナー関係なのでしょう。


この連続演奏会は、ぜひコンプリートするだけの価値はあると思いますよ。

それだけチェンバロのコンサートはなかなか貴重な体験だと思います。
 









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江戸城天守 復元模型 [城]

皇居東御苑の本丸で、江戸城の天守閣の復元模型を展示する、というニュースを拝見して、これはぜひ行きたいと思った。


お恥ずかしながら、東京に来てから皇居に行った経験が1度もないのだ。


皇居も訪れてみたいと思っていたので、楽しみにしながら先週の日曜日に行ってきた。


江戸城の天守閣については、以前日記にしたが、子供の頃から江戸城の天守閣って見たことがないし、記憶にもない。誰もがそうではないだろうか。お城の天守閣と言ったら、大阪城や姫路城、名古屋城、松本城、熊本城とか思いつくところ、代表的なところはそこら辺の天守閣を思い浮かべると思うのだが、不思議と天下のお江戸、東京の江戸城に天守閣ってあったっけ?という感じだろうと思う。


自分も前回の日記にするまでまったく知らなかった。
日本史大好きなのに。(笑)


その前にお城の天守閣について、お勉強してみることにする。


NPO法人江戸城天守を再建する会のTwitterで紹介されていたYouTubeで大変参考になる映像素材を見つけたので、紹介したいと思う。


「天守閣の歴史について」



講師:三浦正幸広島大学教授


三浦先生の説明は、とてもわかりやすく、大変参考になります。
ぜひ見てみてください。ものすごく面白いです。
お城マニアの方には堪らないと思います。


ちょっと内容をかいつまんで説明してみると、


最初にお城の天守閣というのを作ったのは織田信長だそうだ。信長は天守ではなく、天主と呼んでいた。天の主、まさに信長らしいが、信長以降、城を造った大名達は”天守”と呼んだ。彼等は宗教上のある種のおそれから、天主と呼ぶのをためらったのかもしれない。


織田信長が最初に天主を作った。永禄12年(1569年)京都の二条城に作った天主が日本で初めて作った天主であろうと考えられている。(4階4重だった。)


この当時はいまの二条城とは違った位置にあった。室町幕府15代将軍足利義昭のために作った天主。それ以来、天主というのは天下人の象徴と位置付けられた。


織田信長の安土城。


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本当はもっと綺麗な図なのだけれど、パワポに圧縮して張り付けると、屋根にもわれ縞ができてしまっているが本当はすごい綺麗な復元図。天正四年に作り始めて天正七年(1579年)に完成。


自分は、お城の中で、この安土城が一番大好き。

なんか日本のお城っぽくない。南蛮の国や唐の国の風情がある。
それが和様と混ざったようなまさに独創的。
やっぱり信長らしいお城だと思ってしまう。


安土城が、日本の他の名城の外観と比較して、あまりにその外観が奇異と感じるのは、ずばり5階の朱色(赤)の八角形の円堂の外観のところなのだと確信している。 城全体の外観のバランスを観たとき、この赤い八角円堂の部分が、思いっきりインパクトが強くて、我々への印象度を強くしている。


自分が子供心に、思いっきり衝撃を受けたのも、この5階の赤い八角円堂の部分だった。


天の主という意味の天主は、まさに信長の天下を象徴するものであった。


屋根が五重。地上六階、地下二階。このとき初めて屋根を五重にしたことから、天下人の天主(天守)は屋根が五重の天主(天守)というのが正規の形になった。


五重より少ない四重、三重という天守が部下たちの天守になった。


信長の天主の壁は”黒漆塗り”だった。非常に豪華だったのである。


城の上に鯱(しゃちほこ)を最初に乗せたのが、信長の安土城が最初だったようである。それ以降、日本の天守にはすべて城の上に鯱(しゃちほこ)が載るようになったそうである。




豊臣秀吉の大坂城


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信長の跡を継いで、天下人の象徴という意味で建てた。
天下人の象徴なので、五重の天守で、地下六階。地下二階であった。


城の壁は黒漆塗りで、そこに木を彫った彫刻になっていて、そこに金箔を塗り込んだ。黒漆塗りの壁に金箔の彫刻がひしめいていて、城の外側としては日本で一番派手な天守だった。


さすがに天下人の天守だけある。


自分は、今回このYouTubeを見て初めて、この大坂城の復元図を拝見して、秀吉の大坂城というのはじつは黒い城だったのだ、という事実を知った。


結構ショックでした。(笑)


いまの大阪にある白壁の大阪城とは似ても似つかわぬまったく別物のお城だったんですね。黒漆塗りの壁に金箔の彫刻。。。この秀吉の大坂城を見て、いかにも派手好きの秀吉らしいと思いました。まさに日本歴史上でもっとも絢爛豪華な派手なお城だったのである。


秀吉は部下たちにどんどん天守を建てることを勧めたのだが、徳川家康だけはどうしても天守を建てなかった。


家康は非常に聡明な人だった。


なぜかというと、天守というのは、天下人の象徴。そうすると大坂城の天守が日本で一番大きくて立派である。もし家康が江戸に天守を建てたとすると、秀吉の大坂城天守を超えることはできない。


もし秀吉の大坂城より少し小さい天守を建てたとすれば、秀吉の政権の中で秀吉の下にいるということを天下に示してしまうことになってしまう。


それでは天守という意味がまったくない。したがって家康は自分が天下を取るまで、天守を建てなかったのである。
 


徳川時代の江戸城


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家康が天下人になったので、もちろん五重の天守。

壁が全部白壁であった。


屋根は鉛瓦。鉛は錆びてくると真っ白になってくる。真っ白な屋根に白壁で、この江戸城はまるで、”雪をかぶった雪山のようだ”、と言われていた。江戸城は真っ白な城だったのである。


江戸城の天守閣は、


慶長天守(家康)(1607年に完成)→ その後解体
元和天守(秀忠)(1623年に完成)→ その後解体
寛永天守(家光)(1638年に完成)→ 1657年に焼失


が存在した。


上の図の左から慶長天守(家康)→元和天守(秀忠)→寛永天守(家光)である。


なんで3代に渡って、天守閣を解体しては再建築したのかは、一言で言うと、子供は偉大な親の影響を排除して自分の存在を強調したい、親を超えたかった、ということらしい。


初代将軍家康の慶長天守より2代将軍秀忠の元和天守が大きく、3代将軍家光の寛永天守は、元和天守とまったく同じ寸法で、意匠が多少違うというところの差だけだそうである。


江戸城天守閣の特徴は、日本の歴史上もっとも大きい天守閣だったということであろう。そして、3代家光のときの寛永天守が日本最大規模の天守閣となった。


ところが明暦の大火で、江戸の街の多くは焼失し、江戸城も天守閣をはじめ、多くが焼失した。その後本丸御殿は再建されたのだけれど、天守閣を再建するのは、費用もかかることから、見送られた。(天守台は再建された。)正確には江戸城天守閣再建を諦めたのではなく、”永引”という言葉で、永く見送られた、という意味で、いつかは再建される可能性の意味合いを残した、というニュアンスだそうである。


戦国の時代は平定され、江戸時代は平和だったから、天守閣はもうなくてもよかったんですね。


だから3代将軍家光以降のときから、すでに江戸城には天守閣は存在しなくて、ずっとその後いまに至る訳だから、自分が子供の頃から江戸城に天守閣の存在の記憶がまったくなかったのは当然のことなんですね。日本の誰もがそうだと思います。


この3代家光のときの寛永天守の時代の建築資料が詳しく大量に現在にも保存されていることから、”江戸城天守を再建する会”というNPO法人が設立されて、この寛永天守の時代の天守閣をいまの令和の時代に再建しようという動きがあるみたいである。


このコロナ禍のこのご時世に天守閣などの再建に予算を回したりしたら、それこそ世間中の大批判を浴びそうですが(笑)自分は夢があっていいな、と思いますね。公金に頼らず、民間の力、クラウドファウンディングなどで夢をつなぐ感じで進めているようである。



いまの皇居、江戸城に天守閣があったら、それこそ日本の城権力図はガラリと変わるような気がします。やはりいまは大阪城が天下人の城で1番権威があるような気がするけど、ここに江戸城天守閣が再建されてしまうと結構そこのバランスが微妙に違ってくるような感じがしますね。


この寛永天守の資料に基づいて、この寛永天守の復元模型を、いまの皇居、皇居東御苑の本丸に小屋を建てて、そこに展示するというイベントが9月29日から公開されているのである。


本天守復元模型は,外観,構造など,復元のために重要な資料が比較的多く残され, 確かな時代考証に基づく復元が可能な寛永期の天守を1/30スケールで制作したものだそうだ。


これはぜひいかなきゃ!である。
そして皇居も初体験である。


皇居東御苑は大手町にある。

皇居東御苑の大手門


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内側がみるとこんな感じ。


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大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城した。


江戸城の鯱(しゃちほこ)。
鯱は、明暦の大火の後、江戸城再建時に制作されたもの。


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「番所」とは警備詰所のことで、江戸城の番所のうち、百人場所、大番所、同心場所が残っている。


同心場所
登城者の監視に当たった。


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百人場所
江戸城本丸への道を厳密に守る警部詰所。


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大番所
ここいは位の高い武士が勤務していた。


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都心のど真ん中にこんな森の中が存在するなんて、という感じの別世界ですね。


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ここから本丸のほうに上り詰める。


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そうすると本丸御殿があったところがいまは一面芝生になっているのだが、その周りを歩いていくとあった!


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江戸城寛永天守の復元模型は、この小屋の中にある。
この復元模型を展示するためにつくった小屋であろう、おそらく。
もちろん検温、手を消毒のコロナ対策はある。


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これが今回の大本命!
江戸城寛永天守の1/30スケールの復元模型である。


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江戸城天守閣は以前CGでの復元図を拝見していたので、特段驚きはしなかったが、そのときにも抱いた印象であるが、やはり地味ですよね。(笑)


信長の安土城や、秀吉の大坂城のような絢爛豪華な感じ、魅せる城、という感じよりは、堅実な意匠の印象を受けます。


やはりそこは家康の堅実な性格が垣間見れるなのだろう、と思います。
やはり長い時代の平和を築くのは、じつは堅実さが一番いいのかもしれません。

派手、絢爛豪華は、意外や短命に終わるのかもしれません。


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江戸城天守閣を再建するにあたって問題視されていることをご存じですか?


それは天守閣を再建すると、そこから現在の天皇陛下のお住まいを見下ろすことになる、という問題。でもそれは再建する会側は、それは天守閣の窓を閉めてしまえばなんの問題もないとしています。


これでミッションコンプリート!



あとは、皇居東御苑の散策モードに切り替え。


まずは江戸城の天守台。


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明暦の大火で江戸城が焼失したときに、江戸城再建時にこの天守台は再建された。
(このときは天守閣も再建する気十分だったんですね。)


この上に天守閣が乗っかる感じですね。


この天守台から見下ろすと一面は大芝生が一面に広がっているのです。
あまりの美しさに言葉も出ません。


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この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいたのである。


本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていた。表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場であった。


このように正直、普段は本丸御殿で生活や執務をおこなうことが多いので、正直天守閣は、もはや無用の長物で、あくまで権威の象徴を見せつけるものでしかないので、お江戸の平和な時代には、必要のないものだったんですね。



この大芝生の上に寝転がってみました。
芝生がチクチク体に刺さって痛かった。(笑)
でも気持ちが良かった。最高ですね。


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天守復元模型を展示している小屋の裏側に展望台があります。


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江戸城を囲む濠。


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さらに散策モードへ。


この凛とした佇まいの美しさ、わかります?
究極の和の美しさを感じます。石垣が美しすぎる!


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つぎに二の丸雑木林や二の丸庭園のほうを散策します。


すぐに大手休憩所。


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ここの自然の緑の世界は本当に美しくて、まさに和の美の極致、わび、さびの世界、日本人に生まれてよかったと思う瞬間でもある。


こうやって絵を書いていらっしゃる方も多し。


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特に二の丸庭園の美しさには心底驚き。


ここはまさに造られた美、植樹など、ここまで意識し尽くされた構図の美しさ、はひたすら驚きでしかないです。


これはひたすら見てください、というしかない。
自分はここに居て、とても都心とは思えない別世界にいる感じであった。


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最後のこの皇居東御苑内にある建物を紹介。

本丸の天守台の横側にある一連の建物。


宮内庁楽部庁舎


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桃華楽堂


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桃華楽堂は、香淳皇后の還暦を記念して建てられ、香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名された音楽堂で、昭和41年(1966年)に完成した。屋根はテッセンの花弁を象り、八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれている。


ここが宮内庁書陵部庁舎である。
宮内庁御用達の書物関係の図書館のようなものなのでしょう。
もちろん部外者立ち入り禁止です。


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以上が、皇居東御苑の全貌。ここを散策するだけでもかなり足が棒になる感じで相当歩きました。でも都内のど真ん中にある自然の美しさで驚き。素晴らしいですね。


敷居、ハードルは高いと思いますが、江戸城天守、再建されると夢がありますね。


この日の体験がトリガーになって、秋のツアーの松本・京都・名古屋に加えて、急遽、姫路を加えることにしました。


日本で最初の世界遺産に指定された白鷺城こと、姫路城を体験しないと。


日本で一番美しい天守閣ですね。


この秋のツアーで、少なくとも松本城、名古屋城、そして姫路城と3つのお城を廻れそうです。









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交響録 N響で出会った名指揮者たち [クラシック指揮者]

いやぁ面白かったです。本当は休日の明日に読むつもりでしたが、待ちきれずに今日一気に読了。


元N響オーボエ首席奏者の茂木大輔さんの現役時代に接してきた指揮者たちとの思い出、エピソードを書き下ろした本。


34名+約110名との思い出。「一番苦労したのは人選」


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いま話題沸騰ですね。


オケマンでないと、リハーサルのその場にいないとわからない、リアル感満載で、読んでいて楽しかったです。


やはりご自身で体験されている話は、読んでいて説得力ありますね。
文章が借りものじゃないですね。


インタビューで語るときの姿とはまた違う一面で、リハーサルで音楽をオーケストラとどのように作り上げていくのかとか、いわゆる指揮者の素の姿など、かなり楽しかったです。


生々しい描写でした。


我々が観客席で指揮者&オーケストラを観ている感覚と、微妙に違いますね。
オケマン特有の感じ方が新鮮でした。


特に、「レコードを出している指揮者は違う。」と思っていらっしゃったところ(もちろん当時ですが)が、いまの自分にはない感覚でとても新鮮でした。


こうやって読んでみると、N響って、やはり世界中の高名な指揮者が客演する機会に恵まれている、本当に恵まれたオーケストラなんだな、と改めて思いました。


たくさんの魅力的な指揮者のお話を読ませてもらいましたが、自分の個人的な思い入れを言わせてもらうなら、やはりマレク・ヤノフスキ。


ヤノフスキ先生、最高だなぁ。(笑)


本気なのか冗談なのかわからない「ヤノフスキ・ワールド」。


あの面持ちと、皮肉とユーモアがよく合っていて、わかるなぁという感じで思わず吹き出してしまいました。


いいなぁ。(笑)

ますます大ファンになりました。


ヤノスフキが指揮した東京・春・音楽祭のニュルンベルクの指環、4年間、つい先日のことのようです。悔やまれるのは、今年の東京春祭2020で「トリスタンとイゾルテ」をヤノフスキ指揮で最終の美を飾るはずだったんですよね。本当に残念。。。


とにかく面白いです。
ぜひ読んでみてください。



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交響録 N響で出会った名指揮者たち
茂木大輔(著)



この本を読んだら、久しぶりにN響を無性に聴きたくなりました。


コンサートに行って感動をして、感想を日記にしたり、あるいは不満を書き綴ったりしていたあの時代が無性に恋しくなりました。コロナ憎し。


というか、自分が、いまだに生音復活していませんから。(笑)

11月に復活予定です。


茂木さん、最近の近影を見ていると、現役時代とくらべて、随分痩せられている。
ご病気をされて以来、奥さんの減塩食生活など節制されているようです。


でも歳をいって痩せるのは、見ていてちょっと心配しますね。(笑)


指揮者としての新しい生活が始まった矢先にまさかのコロナ禍になってしまいましたが、ぜひくじけず頑張ってください。


近いうちにまた、「のだめコンサート」に参上します。









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