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安土城 [城]

城マニアであるほど全然詳しい訳ではないが、日本のお城は大好きなのだ。日本史大好き人間だからね。カミングアウトしてしまいましたが。

じつは1年前からどうしても自分の日記で熱く語ってみたいお城があった。ずっと狙っていた。
ただ基本、自分の日記はクラシック、オーディオで来たからね。結構勇気が必要だった。

それが鎌倉愛について熱く語れたことでふんぎりがついた。

大阪城、松本城、名古屋城、姫路城、熊本城・・・全国各地にはいわゆる名将たちによって造られた名城が多い。わが日本の伝統と誇りが形となった姿ですね。

サイトウキネンで松本に行ったときの松本城は、それはそれは美しい天守閣を持った名城だと思った。間近で観れたときは本当に感動だった。

自分にとって悔しいのは、大阪城に行ったことがないこと。
いや、曖昧な記憶では確かに1回行った記憶があるんだが、はっきりと覚えていないのだ。
どうしてももう1回行って確かなものにして自分のモノにしたい。

大阪に行くには、もうひとつ目標があって、それは、クラシック音楽専用ホールのいずみホールを体験したいこと。シンフォニーホールは、結構行っているんだが、いずみホールは、縁がないのだ。シンフォニーホールに行くとき、必ずペアでいずみホールに行こうとトライするんだが、どうしてもいいコンテンツがなくて、日程が合わない。

いずみホールは、岐阜のサマランカホールとも姉妹ホールの関係にあって、客席の椅子なんかまったく同じに見えてしまう。ホールの空間の雰囲気もとても似ている。

慎ましやかな容積で、シューボックスで音響がじつに素晴らしいのだそうだ。
写真を観た感じですぐにわかる。ここで小規模な室内楽を聴いてみたい。

関西のコンサートホールは、シンフォニーホールといずみホールを抑えれれば、自分はもう満足というか悔いはない。

今度、大阪に行くときは、ぜひ大阪城といずみホールをセットで体験しないといけない。





自分が熱く語ってみたいのは、安土城。

そう、あの織田信長が天下布武のために琵琶湖のほとりに建立した幻の名城だ。

完成からわずか3年しか存在出来ず、あまりにあっけなく迎えた終焉は、まさに信長そのもの。

安土城との出会いは、やはり子供時代に観たNHK大河ドラマで観た映像。もちろんお城として現在復元されていないので、いまは存在しないお城なので、CGなどで造られた画像なのだが、それを観たときのインパクトは、子供心にすごいショックだった。

自分は、もうその子供のころから日本史が好きで、お城にも心惹かれていたのだが、さきほど挙げてきたいわゆる日本の名城と言われるお城の外観と比較して、安土城は、あまりに個性的で、非常に奇異な印象を受けたのを覚えている。おそらく多くの人がそう思っていると想像するが、その奇異に思ってしまうところ・・・いや、これはあとのお楽しみに取っておこう。

その前に織田信長について語らないといけない。

もういまさら説明の必要はないだろう。

歴史上人物の中での自分のヒーローは、源頼朝と、この織田信長なのだ。
やっぱり自分は男らしい人が好きなんだな。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のいわゆる戦国時代ものは、NHK大河ドラマでは定番中の定番。絶対視聴率がとれる。自分も大河ドラマで知って勉強してきた。子供の頃にはじめて体験したのが、「国盗り物語」。織田信長は高橋英樹さんだった。(豊臣秀吉は火野正平さん)憧れた。


それからは、つぎつぎと体験する太閤記もので、この織田信長を誰が演じるのかが、結構スター的な要素があって注目されるところだった。「徳川家康」での役所広司さんもよかった。

ウチのオヤジ、オフクロに言わせると、やっぱり太閤記と言えば、豊臣秀吉に緒形拳さん、織田信長に高橋幸治さんが最高だったとのこと。その最初の太閤記は、1964年に放映された。自分が産まれた年だ。スゴイ人気だったらしい。特に信長役の高橋幸治さんの人気がすごくて、本能寺の変の近くなると、殺さないでくれ!歎願が凄かったとか。

このコンビは、その後、「黄金の日々」で復活登場する。このときは自分もしっかり拝見しました。
リアルタイム世代でないのが悔しいので、この1964年の太閤記の市販ビデオ(総集編です)を購入して、しっかりチェックしました。

織田信長は、やはりあまりに劇的で戦国時代そのものの人生だった。
気性が激しく、発想が従来の考え方に捉われない斬新さで、戦国時代の革命児、そして最後の終焉もあまりにあっけない悲劇だった。



本能寺の変で信長の最期は、本当はどうだったのか?

これにかなり興奮したというか、相当興味をそそられた。
歴史の最大の謎、ミステリーと言われている。

いろいろな書籍やドキュメンタリー、映画を観まくってきた。かなり詳しいです。

遺体や遺骨すら見つからず、炎の中に消えていった。ある意味、悲劇の中でも美学で終わってよかったと思う。もし、ここで、相手に首級をあげられたりしていたら、まさに戦国武将として最大の汚点になってしまう。

戦国武将にとって、自分がたくさんの武将たちを戦で殺してきた、特に信長は残虐な殺傷を多くやってきた武将、そういう人たちは、こういうことをやっていて、いつかは自分が殺られるときがくるかもしれない。そういう戦国武将としての死生観みたいなものは、つねに持っていたに違いない。

光秀の謀反だと知らされたとき、思わずつぶやいた有名なセリフ。

「是非に及ばず。」

現代語で翻訳すると、「しゃあない。」ということらしい。

そこに常にいつかは自分が・・・という気持ちの想いを持つのが宿命だった、そういう時代に生きた男たちなんだな。

しかし、本能寺の変は、何回観てもすごい興奮する。

数年前に、いままで自分が知らなかった織田信長の肖像画を偶然ネットで発見した。
それはいわゆる歴史の教科書に出ている有名なあの肖像画ではないのだ。 


織田信長.jpg


上半身まで映ったものがこちら。 

信長公.jpg


これは信長ファンの自分にとっては、かなり衝撃だった。(笑)
いままで自分が知ってきた信長の行為をやっていたのが、この男だったのか!

歴史の教科書の肖像画と違って、こちらの絵は、より人間らしい、リアル感満載の信長だ。

イエズス会士の画家ジョバンニ・ニコラオが描いた絵だそうだ。
この絵は「織田信長」で間違いないらしい。

歴史の教科書と違って、頭のてっぺんに髪の毛がある。
教科書と全然似てねぇじゃないか!


信長のことはあまりに有名すぎるので、これぐらいにして、その信長が建てた安土城について熱く語ろう。

これは今回の日記のテーマで、自分が1年前からずっと狙ってきた熱いテーマなのだ。
ずっとネットで勉強してきて、それを自分なりにまとめた形で、いつか日記にしたいと思っていた。

安土城は、築城して3年経ってすぐに消えた幻の名城だ。
本能寺の変の後に、謎の火事で焼失してしまった。

この火事の原因はいろいろな説があり、どれとは断定できないが、光秀が討たれた山崎の戦後の混乱の中で略奪に入った野盗の類が放火した、とみるのが自然、という説が有力でここではそういうことにしておこう。

それ以来、この世には存在しないお城なのだ。

名城はいわゆる復元作業というのをおこなって、現在でも存在するようにしているのだが、この安土城だけは、今なお、復元されていなく、その城跡しか残っていないというのが、現状なのだ。

なぜ安土城が復元されないのか?

自分は、そこにずっと疑問を持っていた。安土城を熱く語りたいと思っていたのは、ここを疑問に思っていたからだ。安土城をいまの時代に見たいと思っている人は、日本に自分を含めたくさんいることは間違いない。

なぜ、それが実現できないのか?


なにせ安土桃山時代に、築城してわずか3年で姿を消して以来、ずっと存在しないお城。
復元するには、その当時の姿に基づく設計図なり、歴史的資料が必要だ。

当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることはできる。

信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風が、あるイエスズ会員の司祭に贈られ、彼が日本を離れるときに同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られてローマ教皇庁に保管されているという記録がある。

それが安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていないのだ。

当時のその真の姿はいまや誰も知らない。

それをいろいろな歴史的資料に基づいて復元しようという動きは、当然昔からあった。

1885年から2005年に至る120年間の間、7人の学者によって、その復元案というのが示された。

天主(ふつうのお城は天守と書くが、信長の安土城だけ天主と書く)の復元案として、1994年、内藤昌による復元案が有名だろう。

NHK大河ドラマで採用されたのも、この内藤昌案だ。

内藤安土城復元.jpg

この城の外観を大河ドラマではじめて観たときは、子供心にショックだった。
その外観のあまりに奇異というか、異様なデザイン。

ふだん自分が知っている数多の名城の外観とはあまりにかけ離れているというか、違い過ぎた。
それまでの城にはない独創的な意匠デザインで絢爛豪華な城であった。

この独創的な意匠デザインに、自分は一発でやられた。

なんか日本のお城っぽくない。南蛮の国や唐の国の風情がある。
それが和様と混ざったようなまさに独創的。
やっぱり信長らしいお城だと思ってしまう。

さらにいまは存在しない、復元されていないお城というのが、いわゆる幻の名城的な妄想を煽り、自分はこの姿を見ると、無性に興奮した。

いまは存在しないから、実物を観れないか、というとそうでもないのだ。


安土城があった滋賀県安土駅下車で、この信長の安土城について、いろいろ体験できる施設があるのだ。

滋賀県立安土城考古博物館
安土城天主 信長の館
安土城郭資料館

こういう施設に、その復元案に基づいて、デザインされた安土城のミニチュアがあるのだ。


image[3].jpg

安土城天主復元模型1/20スケール(内藤昌監修/安土城郭資料館)



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内藤昌監修でのNHK大河ドラマで採用されたCG図。



地下1階地上6階建てで、天主の高さが約46メートルの世界で初めての木造高層建築。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。その壮大で絢爛豪華な様はキリスト教宣教師が絶賛したと言われている。


まさに奇想天外なお城で、その断面図は、このように地上から上の方に向かって吹き抜け構造になっている。

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信長はこの天主で生活していたと推測されており、そのための構造と思われる。こういった高層建築物を住居とした日本人は、信長が初とも言われているのだそうだ。



さらには”伊勢安土桃山文化村”というテーマパークがあって、時代考証に基づいて原寸大の安土城や洛中洛外、楽市楽座など戦国時代の町並みを再現した空間が存在するのだ。

まさに今年の2018年に開業25周年を迎えるにあたり、総額100億円をかけた大規模リニューアルを行なうそうだ。

ここに”原寸大”の安土城の天主が存在するのだから、堪ったもんじゃない。

安土城-2.jpg
                                                       
まさにこの原寸大の安土城を1泊約500万円で宿泊できる施設に改装するちゅうんだから、笑ってしまう。


○○城と言えば、その本丸にそびえる天守閣がよく知られているし、観光地化しているものが多いが、日本で最初に作られた天守閣は安土城なんだそうだ。

しかし実際には、城主が天守閣に住んだのは、この安土城とか秀吉の大阪城ぐらいで、江戸時代になると別の館で住みつつ政治をしたため、天守閣は応接室程度にしか使われていなかった。このためほとんど無用の長物と化し、物置のようなものになっていたらしい。

城のシンボルとなる建物を”天主”と呼んだのは信長だけである。
信長以降、城を造った大名達は”天守”と呼んだ。彼等は宗教上のある種のおそれから、天主と呼ぶのをためらったのかもしれない。




安土城が、日本の他の名城の外観と比較して、あまりにその外観が奇異と感じるのは、ずばり5階の朱色(赤)の八角形の円堂の外観のところなのだと確信する!

城全体の外観のバランスを観たとき、この赤い八角円堂の部分が、思いっきりインパクトが強くて、我々への印象度を強くしているのだ。

自分が子供心に、思いっきり衝撃を受けたのも、この5階の赤い八角円堂の部分だった。

いままでの城にはなかった。まさに南蛮、唐の風情である。

さらに最上階の6階の金色の天主も最高だ。


安土城天主 信長の館という施設では、この安土城の天主の5,6階の部分を実寸大ということで、復元して展示しているのだ。1992年に開催されたスペイン・セビリア万博で日本館のメイン展示として出展されたもので、豪華絢爛な安土城、信長の世界観が見事に再現されていて、金箔10万枚を使用した外壁、金の鯱をのせた大屋根など圧巻。

天主5,6.jpg

6階の天主。天主の内部には、当時信長が狩野永徳を中心に描かせた「金碧障壁画」も再現されている。

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5階の八角円堂。まさにこの部分が安土城を思いっきり、ユニークなデザインにしている要因だ。中はこんな風になっていた。

朱八角堂.jpg


安土城を単に天主だけで語ってはいけない。城全体、いまでいうところの城下町的なところも含めてチャレンジしてみたい。

これが安土城の構成図。

安土城跡.jpg



一番下の右側に大手道への入り口があり、そこから入る。
石道の階段がひたすら続くという感じだ。ここを大手道という。

その両サイドに、伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸があるのだ。なぜ、名前の前に”伝”と付けるのかわからないが。(笑)羽柴秀吉と前田利家がペアで贔屓にされていたんだな。大河ドラマの「利家とまつ」で、秀吉と利家がつねにドラマの主役で連動していたのは、単にドラマ進行の脚本と思っていたが、そうではなくて、きちんと、このように2人とも信長の信を受けていた、という事実をしっかり突き付けられた感じだ。

今度は反対に一番下の左側の入り口(百々橋口)に、お寺、つまり寺院がある。
持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は各地に見られるが、堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも安土城だけなのだ。

この大手道から天主のほうを臨んだイラストCGがあった。こんな感じ。

大手道.jpg



この大手道の実際の写真。(現在の安土城跡)

n-adutijyou-1[1].jpg

城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、この構成図を見てもわかるように、安土城は大手門からの道の幅が広く、ひたすら直線が続く。籠城用の井戸や武者走り・石落としといった設備も著しく少ない。

こうした事から、安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと思われている。




そして登り詰めていくと、いよいよ天主。天主と本丸、二の丸、三の丸という構成になっている。



安土城の本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だったという可能性が指摘されている。

その根拠は、その本丸の造りが、清涼殿に酷使しているから。

清涼殿というのは、耳慣れない言葉だが、いわゆる天皇の住居。京都で言えば、京都御所である。(自分も京都旅行に行ったとき、しっかり京都御所を観てきました。)

安土城跡の本丸の部分を厳密に復元図を作成したところ、建物は3つ存在したことが明らかになって、その配置は「コ」の字型という特殊なもので、清涼殿と共通する。(確かに京都御所もコの字型であった!)

江戸幕府が建てた清涼殿の図面を、東西逆にすると、この安土城の復元図とほぼ重なるのだ。

規模や部屋割りもほぼ一緒であるのだそうだ。

豊臣秀吉が建てた清涼殿も、この江戸・徳川幕府の清涼殿と同じ。

豊臣・徳川の清涼殿は、一部に武家住宅の様式を取り入れているという点で、中世の伝統的な清涼殿から違うらしいが、安土・信長の清涼殿は、豊臣・清涼殿より前で、後の時代の模範になったんだな。

歴史的書物にも、天皇が安土へ行く予定だとか、その安土の屋敷の中に、「皇居の間」を拝見したと書かれている。

つまり、信長、秀吉、家康も天下のお城を建てた訳だが、そこには必ず天皇を迎えるための施設(清涼殿)を造っていて、信長はその先駆けだったということだと言える。

これが安土城の全容。ミッション・コンプリート!


織田信長が、安土城を築城した目的は、岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があって、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。

でも、従来の”戦う城”というイメージよりは、どちらかというと”魅せる城”的な意味合いが強く、信長の威厳・世界観を世に示すためのプロパガンダという感じだったのかもしれない。



さて、自分がずっと疑問に思っていた”なぜ安土城は復元されないのか?”

ここを解明するために熱く語りたかった訳だ。

自分が直感的に素人的な考えで思いついたのは、豊臣秀吉は大阪城、そして徳川家康は江戸城、2人とも天下のお城を建てている。2人に共通していることは、2人とも成功した武将という点だ。江戸城は現在の天皇の住居になっているし、大阪城は、百姓から天下人になった太閤秀吉のシンボルとして、それだけの巨大投資をしてまで大阪城を復元した。

でも織田信長は、劇的な人生だったけれど、いわば挫折人。
挫折人のために、そんな大規模な投資はできない、という理由じゃないのかな~とか思ったけれど、そんなアホな理由じゃなかった。


現在、安土城があった場所には、石垣や天主台(天主が建てられた場所)が残っているだけ。安土城跡は国指定特別史跡に指定されているため、復元には条件が必要。その条件を満たさない限りは天主を復元することはできないのだ。

「だったら条件を満たして大坂城のように復元すればいいのでは?」と思う人もいるだろう。復元であっても、当時の様子を見てみたいと考える方もいる。しかし、安土城跡は国指定の特別史跡に指定されているため、復元には大きなハードルがあるのだ。


現在、国指定の特別史跡に復元をするには、”当時の工法”で”確実な史料”に基づいていなければならない。「当時の工法」とは、いわゆる木造建築の事。

現在の建築基準法では、木造の高層建築物は建てられないことになっている。

安土城と同様、国指定の特別史跡に指定されている大坂城跡には、コンクリート造りの天守閣が建っているが、1931年の築造で文化財保護法ができる前の建築物。コンクリート造りの天守閣も、国の登録有形文化財なのだ。

さらに、先ほども説明したように安土城には確実な設計図などがない。


こうした事情から、安土城跡に天主を復元するのは難しい・・・なのだそうだ。

どうもこれが真実らしい。。。そうだったのか・・・

これを知って、ふっと思いついたのだが、いまの名古屋城を木造にしようという動き。(あの方が推進しています。(笑))そのときは、建築強度的になんと愚かな!と思ったが、あながち無茶というより、どうしても歴史的に意味があることなんだな、と思いました。


以上、自分的には燃焼できた。

完全燃焼。

自分がずっと謎に思ってきたこと、ずっと憧れてきた城のことを完璧に知ることができた。

本来であれば、この滋賀県安土の現場まで、自分でじかに行って、実際の安土城跡、そしてこれらの資料館などを訪問して、自分のカメラで写真を収めたい、そういう気持ちは当然あった。2,3年前までは予算と体力があったので、思いついたら即実行だったが、でもいまは人生最大の大スランプ。

ちょっとここは我慢してネットの記事で自分が行った気になろうと思った訳である。



今年の春、岐阜のサマランカホールを訪れたとき、ほんの一瞬だったけれど、岐阜駅前を散策した。

そうしたら、織田信長バス。


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弓を射る信長、ワインを飲む信長・・・いろんな信長バージョンをプリントされているバスが、駅前をたむろしているのだ。

さすが、岐阜は信長の街。


いま話題のNHKの朝の連続ドラマ小説「半分、青い。」も岐阜所縁のドラマ。

いま岐阜が熱いのか・・・?







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