SSブログ

心に響いた村上春樹さんのエッセイ集 [雑感]

村上春樹さんのエッセイ集を読む機会があった。 



村上春樹のつぶやき.jpg


きっかけは、年初のスランプのとき。

深い井戸に潜み、しっかりと孤独の相を体験しないといけなかったその試練のときに、村上さんのエッセイは心に染みた。

というよりは、心にグサっと刺さる感じで、自分にとても響いた珠玉の言葉の数々であった。

その代表的なエッセイを紹介しよう。
そのときに、自分が感じた想い、印象などを同時に紹介しながら。。。

もちろんこれらのエッセイ、発言は、時系列的にいろんな時期に発言された寄せ集めに過ぎず、いまの自分に向けて発せられたものではないのだが、偶然読んでみると、いまの自分にズバッズバッと切り込んでくる鋭さがあって、読んでいて、もう心が痛いのだ。(笑)



「世の中で何がいちばん人を深く損なうかというと、それは見当違いな誉め方をされることだ。そういう誉め方をされて駄目になっていった人をたくさん見てきた。人間って他人に褒められると、それにこたえようとして無理をするものだから、そこで本来の自分を見失ってしまうケースが少なくない。」


これは響きましたなぁ。(笑)まさに痛いところを突かれたという感じで、ちょっと自分が恥ずかしい気持ちになってしまったことも確かです。1番自分に響いたセリフでした。


「ときに孤独になることも人間にはとても大事なんです。孤独というのは人の心を鍛えあげます。自分自身と正面から向かい合う機会を与えてくれます。でもあまり孤独が長く続きすぎると、それはときとして人を蝕みます。そのへんの兼ね合いがなかなかむずかしいんです。」


自分は、自分を高みに持っていくには、やはり孤独がいいと思っている派なので、これはよく理解できます。でも仰るとおり、いつも孤独だと、やっぱり精神的にしんどいです。適度のガス抜きが必要ですね。家族がいても、1人でいる時間を大切にする、ということに通じますね。


「ときとして人には「失われた時期」があります。そこでいろいろなものが失われていきます。たとえば時間とか、可能性とか・・・。でもそのときに失われたもののことを考えるのではなく、むしろそこで得たもののことを考えるのが大事なんじゃないかと僕は思います。」


年初のスランプのとき、いままで積み上げてきたものを一気に失いましたが、その井戸の中で、孤独でいることを欲し、そこで瞑想しているときに、自分の希望となった言葉です。


「僕は最近切実に感じるのですが、人間というのは進歩はできるけれど、どれだけがんばっても、結局のところ自分以外のものにはなれないですよね。僕はそんなに大した人間じゃないですが、小説家として一生懸命小説を書いているし、書くという行為の中で、何とか自分を超えたものになろうとはしています。」


これはややもすれば妄想気味で毎日緊張と恐怖に怯えていた自分に対して、「分相応」という言葉を突き付けられた強烈にグサっときたセリフです。


「結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかないわけです。他人がやってくれるものでもない。そして欠落を埋めるには、その欠点の場所と大きさを、自分できっちりと認識するしかない。」

これは人生を生きていくうえで、社会を相手に歩んでいく上で、とても大切なことです。これはグサッと胸に刺さるというよりは、自分も確かに、いままでそうやってきた、と再認識したことですね。


「回り道のない人生は、往々にして深みのない人生です。僕も僕なりに、回り道をしました。でも回り道をしなかったら、今こうして小説なんか書いていなかったんじゃないかな?」

これだけは、唯一自分では人生の経験がまだまだ浅いと思うところ。結局、ずっと電機メーカー一筋の人生だからね。夢中になることは、いろいろ変わったけれど、人生そのものの大きなところは安全なレールの上を歩いてきた、といえるかもしれない。


「僕は本当に「個性的」な人を何人か知っていますが、「個性的」であるというのは病と同じで、本人にとってはけっこうきついだろうなと思います。」


いままで自分がユニークである、ということに全く自分では気づかなかったし、いまでも普通だと思っているのですが、「個性的」であることを意識して演技する人はツラいでしょうね。それは本当の自分じゃないですから。


「僕の経験からいえば、僕らの人生において知識がいちばん身につくのは、金がなくて暇がある時期です。」

ハイ。いまの私がそうです。(笑)知識バンバン身につきます。(^^)


「どこにも属することなく一人でやっていく人に、僕はいつも連帯感を感じています。」


村上さんがボクに直接そのように言っているような気がしてならないセリフです。(笑)


「スコットフィッツジェラルドが娘にあてた手紙に「人と違うことを語りたければ、人と違う言葉で語りなさい」と書いています。これは僕の座右の銘になっています。」

村上春樹さんが敬愛する外国の小説家としてスコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーパー、トルーマン・カポーティの3人がいるのだが、その中でもスコットフィッツジェラルドが最も影響を受けてお好きなようだ。ボクも将来読んでみたい。

そのスコットフィッツジェラルドの言葉。ドキッとする言葉です。ぜひボクの座右の銘にもしたいです。


「人生においていちばん深く心の傷として残るのは、多くの場合、自分が誰かに傷つけられたことではなく、自分が誰かを傷つけたことですね。そのような思いは、ある場合には亡霊のように、死ぬまで重くついてまわります。」

これはすでに経験済み。(笑)二度と同じ過ちを犯さないように心がけています。



「調子の悪いときは悪いなりに、自分のペースを冷静に的確につかんで、その範囲でなんとかベストを尽くしてやっていくというのも、大事な能力才能のひとつであろうと思う。そんなに無理をしないで、首をすくめてこつこつしのいでやっていれば、そのうちにまた少しずつ調子は戻ってくるのだから。」


この言葉にも自分は大きく救われました。人生ラッキーなことが続いた後は、必ずその揺り戻しというのがあるそうですから、まさにいまは自分にとって波が悪い我慢の時期。そのときに、このセリフに巡りあえて救われた気持ちになりました。


「人生というのは「ひとつの愚かしさのフェーズ」から「べつの愚かしさのフェーズ」への移行でしかないような気がします。ですから過去のご自分の愚かしさはあまり気になさらない方がいいと思います。」


ありがたいお言葉です。自分の人生、まさに愚かしい、後悔先に立たず、というような体験ばかりでしたから。


「「一に健康、ニに才能」というのが僕の座右の銘である。なぜ「一に健康」で「ニに才能」かというと、単純に考えて健康が才能を呼びこむことはあっても、才能が健康を呼びこむ可能性はまずないからである。」

これは、まさにそう思います。自分は持病があるので、尚更、病気と上手に付き合っていかないといけません。健康あっての才能ですね。


「それで僕は言いたいのだけれど、結局のところ、あなたはあなたの「良いところ」で勝負をするしかないですよね。まずそれをみつけて下さい。そしてその「良いところ」を相手に向けなさい。単純なアドバイスですが、それしかありません。」

このセリフはおそらく就活生の質問に対して答えた内容だと思うのですが、なんか妙にいまの自分の状況にがっちり嵌るんですよね。(笑)ものすごくドキッとしました。


「人生の変わり目はだいたいにおいて、向こうからあなたを選びます。あなたが選ぶことはほとんどありません。ほんとに。」

村上さんが小説家になるきっかけだったのは、知人から「村上君、小説でも書かないか?」という何気ないお誘いがあったからだそうです。自分の運命はなにがきっかけになるかわかりませんね。



こういうエッセイって、自分に響く言葉に出会ったりすると、本当に人生の宝物のような感じがするものである。

いま村上春樹さんの小説を、全冊制覇すべく、片っ端から読破しているのだ。
ご本人のお言葉によると、村上小説の主戦場は、長編小説に置いているそうなので、まずはその長編小説から読破している。

暇のある時間を見つけては読み繋いでいってのスローペースだが、3冊の長編小説を読破した。
いま4冊目だ。

村上小説を読み始めてから、じつに奇妙なことが起こるのだ。

それは、自分の人生に関わってきた、あるいは現在もつながっている人が、次々と小説の中の登場人物として出てくることなのだ。わずか3冊なのだが、かなりの人数出てくる。

思わず笑ってしまうのだ。

登場人物であったり、ホテル名だったり、いろんなシチュエーションで登場する。

ゴローさんも出てきました。(笑)

「海辺のカフカ」という小説に出てきます。長野県松本市とともに。(笑)

時系列的に言えば、村上小説のほうが先に書かれたものであるから、自分の人生が、村上小説の通りに歩んでいるということになる。読んでいて、あっこいつが出てきた。あっ今度はこの方が出てきた・・・みたいな感じで正直薄気味悪い感じもするのだ。

なぜ、いい気分ではないか、というと、そういう因果な繋がりがある関係だと、自分の未来もそこに書かれているような気がして、怖くて読み進められないのだ。

それだけ因果性の一致というか、なにかあると思います。ほんとうに。

いま4冊目の長編小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでいますが、まさかあの方が登場するとは思ってもいませんでした。しかもあんな形で。。。思わず笑っちゃいました。




理系人間だったので、読書といっても自分の仕事、趣味に関する専門書が大半で、小説を読むなんてことは、ほとんど縁のない人種だった。子供の頃に星新一さんのショートショートや、司馬遼太郎さんの歴史小説を読んだくらいの記憶しかない。


「文学の世界を理解する。」


これは日本語の表現の美しさや文学表現の面白さなど、その奥深さを感じ取っていて、面白いと思っているところだ。

しかし、人生55歳になってからは、あまりに遅すぎたか。

いや事始に遅すぎるということはない。

村上さん言うところでは、本は浴びるほど読まなければダメだ、ということ。スポーツ選手が走りこみをすることで、基礎を築きあげるのと同じで、文学については、できるだけ、たくさんの本を読んだほうがいい。

そして自分の人生を救ってくれる運命の1冊に出会えることがあれば尚更いうことはない。

「いつまでも自分の心を打ち続ける一冊の本を持っている人は幸福である。かくのごとき貴重な人生の伴侶がいるのといないのとでは、長い歳月をとってみれば、人の心持ちに大きな違いが出てくるはず」。。。なのだそうだ。



これから人生後半の晩年になるが、本を読んでいくという作法を自分の日常生活に取り込むことも悪くない。












nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。