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蝋管レコードの再生 [雑感]

ステイホーム週間の過ごし方について、NHK首都圏ニュースの林田理沙アナウンサーが 「ワーグナーのリング指環15時間のオペラを観るつもり」と言って、不意を突かれたクラシックファンは思わずぶっとんでしまい、バスってしまったようだ。(笑)


じつは林田アナは、東京藝術大学音楽科の卒業で、「日本でクラシック音楽がどのように普及したか」というテーマで研究していたという。筋金入りだったんですね。


いきなり知名度アップ。人気急上昇の予感ですね。


これに触発されて、自分の大学時代の研究テーマについて日記にしてみようと思いました。 自分の素性を紹介する上でもいい機会だと思いました。


北大の工学部電子工学科卒業です。


別に自慢するわけではありませんが、当時は電子工学科は時流に乗った最高に花形の学部でした。最初の2年の教養学部時代に、相当優秀な成績でないと、自分の希望の学部に行けなかった。電子工学部はその中でもかなり優秀じゃないとという競争率でした。


だから自分は教養学部時代に一生懸命勉強して頑張って希望通り、電子工学科に入れた。
一旦入ってさえしまえば、あとはもう遊んでいました。(笑)


自分の大学時代は、教養学部は本当に一生懸命勉強していた学生で、工学部に移ってからはもう安心してひたすら遊んだ、という感じです。


だから自分の最高にパラダイスの楽しい大学キャンパス時代の想い出は、この工学部電子工学科に入ってからのひたすら遊んだ時期であった。


友達とのロック談義、麻雀、友達と居酒屋で飲み会、連日、友達の下宿に泊まり歩いて生活していたこと。塾講師や家庭教師のアルバイトで自分の小遣いを賄っていたのも工学部に移ってから。


当然成績はみるみるうちに急降下。(笑)


教養学部時代は素晴らしい成績で電子工学科に入部して、電子工学科を卒業するときは、自分ではよく知らないけれど、おそらくクラスでもかなり下の方の成績だったと思われる。(笑)


電子工学科は花形で、当時はバブル全盛期だから、就職先も引く手数多。
就職は、教授の推薦状でそれで決まってしまった。
一応、企業での面接はやりましたが一応形式上。

もう就職はレールに乗るだけでそのまま決まるような感じだったんですよね。


電子工学科の就職先は99%の確率でもうほとんど電機メーカー。NEC、松下(当時の名称)、日立、東芝、富士通、IBM。。。てな感じで、学生が希望を出して、そのまま教授が割り振って、競合した場合は、成績順で優先順位を決める。それで決まっちゃう感じだったのだ。


いまの就職氷河期、そしてコロナ危機の学生たちには、可愛そうだし、とても申し訳ないと思うけれど、当時のバブル期はそうだったんだよね。


なぜか、その当時NECがすごい1番人気だったんだよね。ボクは、成績悪いから、どうせ競争率が高いところはダメだろうということで、どこのメーカーにしようか、ということで、なんと!その企業がなにをやっているか、自分が将来なにをやりたいのか、なんてそっちのけで、もらえる給料のことを優先して考えたのだ。


当時の電機メーカーは電気労連というのに入っていて、労連に入っているメーカーは夏冬のボーナスは6か月って決まっていた。でもソニーは電気労連に入っていないから8か月だった。


これで、ソニーに決めてしまったのだ。(笑)


やっぱり重電の電気メーカーが安定感があって、家電だけのソニーに行くような奴はいなかった。自分は家電だけの方が軽い感じがして、自分にはそのほうが向いていると思った。


ボーナスのもらえる額で決めた就職先だったが(笑)、あくまで結果論だけど、人生的にそれが大成功だった。人生って本当にどう転がるかわかりませんね。


電子工学科時代は、もうマニュアルどうりの教育カリキュラムで、電気回路、電子回路とか、コンピューターなどの情報工学とか、もうたくさんあって思い出せないけれど、講義に出席していました。


でも自分は講義をサボったり、代返事をつかってズルをしたり、というようなことはけっしてしなかったところはよかったと思う。


講義は真面目に出席していました。宿泊した友達の下宿先から友達一緒に登校するという感じですが。


ただ、言えることは、大学で学んだことは、社会や会社でそんなに即戦力で役立ったかと言うと、あまりそんな感じは抱きませんでしたね。


社会に出て、ぶち当たる仕事はもうそのときに夢中になってそのときに勉強していくしかない。

自分はそうやって人生を渡ってきた。

これは、もちろん自分の体験談、自分のケースです。


大学で学んだ知識はふつうは社会に出ても役立つことはもちろんです。特に社会に出て、こういう職に就きたいという進路が見えている場合は、その道の大学に進んでいる場合はそれは当然社会に出るための準備になるでしょう。


こう断言すると気分を害する方もいらっしゃると思いますので、これはあくまで自分のケースだということでご容赦ください。


ボクは人生かなり行き当たりばったりで生きてきましたから、そんなに計画的な人生じゃなかったんです。


電子工学科でひと通り勉強して、そして最後の卒論のときには、光システム工学科というところに移籍しました。大学の卒論テーマを書くためです。


なぜ光システム工学科を希望したのか、よく覚えていないのだけれど、ソニーに行くことが決まった後で、当時アナログレコードからCDに切り替わる時代だったから、CD再生などの仕組みで光学系って大事だと思ったからだったのかなぁ。


この光システム工学科時代にとてもせつない想い出があるんですよね。
それは大学教授の秘書に恋してしまったこと。(笑)
結構美人でした。


理系はやっぱり女性が少ないから、人生で恋する機会はあまりなかったんだけれど、このときの恋はかなりせつなかった。女性に恋することって、こんなに胸が苦しくて切ないことなのか。


食欲もなかったですから。まさかもう大学卒業する間際にこんなことになるとは思いもしませんでした。いままで長い間人生歩んできましたが、このときの恋ほどせつない想いになったことはありませんね。


このときほど激しく燃え上がる恋はなかったです。

これが本当の恋というものですね。


社会人になって東京に出てからも、手紙の文通のやりとりを何回かしていましたが、その後、「私結婚しました。」というお手紙が。(笑)


・・・結婚式の写真付きで。(笑)


見事失恋となりました。


光システム工学科時代の想い出は、卒論よりこの恋のせつない苦しい日々のことが強烈に記憶に残っています。


卒論は、「蝋管(ろうかん)レコードの再生」。


蝋管 (英: wax cylinder) とは、音を録音して再生するための商業的媒体として最初期のもの。1896年〜1915年に最も広く普及しており、その頃は一般に「レコード」とだけ呼ばれていたものです。


蝋管(ろうかん)


ろう管.jpg



中空になった円筒形の物体(シリンダー)であり、外面に録音内容を音溝として刻み込み、蝋管型蓄音機に取り付けて再生します。


エジソンによる1899年頃の蝋管蓄音機。


ろう管再生機.jpg



でも1910年代には、蝋管と競合していた円盤状レコードが市場で勝利をおさめ、円盤レコードが商業的な音楽媒体の主流となりました。


この光システム研究所には、北海道のアイヌ文化の時代に、そのアイヌ人の話し声などが録音された蝋管レコードが何本も残されて所持していたんですね。アイヌ語の解明として歴史的資料などとして価値のある資産でした。


それはかなり古い歴史的に価値のある資産だったので、いま蓄音機のような針などで音溝をなぞってしまうとその音溝を破損してしまうため、それを非接触の光学方式で再生できないか、という課題テーマを抱えていたようなんですね。


それがボクの卒論のテーマになりました。


ソニーに行くので、それじゃCDの光学再生系と共通するところがあり、ボクが最適と思われたのでしょう。


原理は、音溝はその音声、音圧に比例するように音溝が彫られている訳ですが、その音溝にレーザー光を照射して、その反射光の角度を測定していけば、その反射角情報から音声が復元できるのではないのだろうか?というシンプルな原理です。


いまの光ディスクの再生系の光学系の基本原理と同じですね。


助手の先生に付いて、この実験に取り掛かったのですが、蝋管を回す駆動系、照射、反射角読み取りなどの光学系のシステムを構築するところなど、かなり助手の先生にやってもらったところが多いですが、なんとか卒業の期限までに完成。


再生したら、アイヌ人の話し声が聞こえてきました。「ネバノ〜ン・・・」という感じで。(笑)結構生々しくて、身震いする感じで怖かった記憶があります。


そこから急いで卒論を書く作業です。


当時パソコンで書くなんていう時代じゃなかったですから、一太郎のワープロソフトで書いた記憶があります。一太郎なんて触ったこともなかったので、その操作を苦労して覚えて、一生懸命書くという同時学習で、すごい大変な重労働だった記憶が・・・。


そしてそれを製本する訳です。


もちろん、その蝋管レコードを再生する駆動系、光学系の写真なども撮影して、写真も貼り付けます。


助手の先生がいなければ、絶対無理な作業でした。


その製本された卒論、大学に1冊、ボク用に1冊、製本したんですが、自分はそれをなくしてしまいました。大学にはあるかも・・・。


いい思い出です。



いまコロナ禍で、みんなステイホームで、SNSで自分の幼少時代、若かった頃の写真を掲載してるようなので、ボクもそうしてみます。


FL030024.JPG



 1994年のヨーロッパに住んでいた時に、そう!まさにちょうど今の時期です!オランダのチューリップ畑で有名なキュッケンホフで撮影した今から26年前のボクの写真です。

当時オランダに住んでいた友人に撮影してもらいました。



 


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Masa

いつも楽しく拝読しております。キューケンホフ、いいですね。家内がアムスに以前赴任しておりましたので、とても懐かしくなりました。実は数年前にこちらのブログにお邪魔したきっかけはスイスの旅の記事だったと思うのですが、それからもブログに定期的に訪問しております。家内はその後ローマとパリに赴任し、私もコペンハーゲンにいた時期があり、ヨーロッパ各地に足を伸ばしました。今はCOVID19の影響で難しいですがまた再訪できればと思います。クラシカルミュージックはそれまで縁がなかったのですがブログを読んで興味が出て最近少しeテレビでN響を見るようになりました!これからも記事を楽しみにしています。時節柄、お身体にはご自愛ください。
by Masa (2020-05-10 20:58) 

ノンノン

Masaさん、うれしいコメントありがとうございます!そして拙ブログを定期的に読んでいただいているようで、誠に感謝です。ありがとうございます。奥さん共々、ヨーロッパに赴任なされ、各国をいろいろ経験されているとは、本当に羨ましい限りです。自分も芸術と音楽のヨーロッパ愛に溢れている人間ですので、そのような環境になってみたいものだと夢々思います。私はクラシック音楽が大好きで、それでヨーロッパのいろいろなコンサートホールやオペラハウスを体験してみたい、と思ったのが、このブログを始めたきっかけでした。旅行体験は、行って体験してそのままで終わりではなく、やはりなにか自分で書くこと、写真付きで日記にすることで、ひとつの達成感、というか仕事みたいなやりがいがあって、このブログを始めたのです。あと、お世話になった旅行会社のコンシュルジェのスタッフにその旅行に行った現地写真を見せたい、というのが1番の理由です。このブログを読んでいただき、クラシックに興味を持たれるのは自分としても本当にうれしいですし、ブログやってきて本当によかったと思います。これからもよろしくご愛読のほどをお願いします。
by ノンノン (2020-05-11 17:04) 

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