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黒沼ユリ子さんの世界 メキシコ編 [クラシック演奏家]

メキシコ人と結婚して、チェコ・プラハからメキシコへ。


これは1960年代のことであるから、それは当時の日本人に理解されることは到底難しく、親、親戚の反対も大変なものだったようです。


当時の社会主義体制の国チェコに行くときでさえ、「赤い国に行くんですか。」「鉄のカーテンの中に行くんですか。」と散々言われたそうですが、それが結婚して今度はメキシコ。


ヴァイオリニスト、音楽家としてチェコの留学はまだ筋が通っている気もしますが、まさかメキシコ人と結婚してメキシコへそのまま移住という話になると、これはクラシック音楽と関係ない道を外すような感じにも見えて、反対もわかるような気がします。


「メキシコ人なんかと結婚して」とあからさまに非難する声も聞こえてきて、帰国すればあれこれ言われることがわかっていたので、日本に帰りたいとは、これっぽっちも思っていなかったそうです。


1960年代で、このような人生の決断をした黒沼ユリ子さんは当時としては本当にぶっ飛んでいた人だったのでしょう。


齋藤秀雄先生ですら、「ラテンの国ではクラシック音楽なんてわからないだろう。」と仰っていたそう。


でもそんなふうに言われれば言われるほど、「ヴァイオリニストへの道は夢に終わった、という周囲の人たちの声をいつか完全に否定してみせる。」と決意は固くなったそうである。



●メキシコで見えてきたこと


1962年夏、初めてメキシコの地を踏む。


夫の家族や友人たちからは大歓迎され、会う人ごとに抱擁の嵐といった感じで面食らうほど。夫も日本人を嫁さんにもらったことが自慢になるくらい、やはりメキシコ人は日本人が好き。メキシコの最初の印象は、大都会であること、夜景が美しいということ。


1964年5月、昭和天皇のご名代で皇太子ご夫妻(現上皇・上皇后)がメキシコを来訪。二年前にロペス・マテオス大統領夫妻が国賓として訪日してもてなしを受けたお礼に昭和天皇ご夫妻をメキシコに招待しようとしたところ、当時は海外に出るのを禁じられていたので、代わりに皇太子さまと美智子妃がいらしたというわけ。


なにかできないか大使から相談された黒沼さんはメキシコ人ピアニストと日本人ヴァイオリニストの共演で、両国の曲を奏でる友好コンサートを催してはどうかという提案。実現の運びとなった。


当日、皇太子ご夫妻は、大統領夫人に伴われて二階席へ。ステージの真正面で聴いてくださり、終わると降りていらしてロビーで乾杯。


美智子さまは黒沼という苗字を珍しく思われたようで、「黒沼勝造先生とはご関係がありますか」と訊ねられ、「叔父です」と答えたのが最初の会話。


黒沼勝造は魚類学者。東京水産大学(現東京海洋大学)教授で、ハゼ科を研究されていた皇太子さまへのご信講のために、東京御所をよく訪れていたのだそうだ。


美智子妃は「先生には殿下が大変お世話になっております」と言われ、「こんどはいつ日本でコンサートをされますか。」とのお訊ね。「来年春に東京で」と答えると、「都合がついたらうかがわせてください」とおっしゃって、当日はご夫妻で聴きにいらした。


ちゃんと約束を守ってくださったのです。


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メキシコでの生活は、子宝(息子)に恵まれ、メキシコでの子育てをいろいろ経験。海外で生まれた子供はやはりマルチリンガルなど期待されますが、黒沼さんの息子さんも最終的に日本語、英語、スペイン語のトライリンガルに育ってくれたようです。


帰国子女はひとつ間違えると、どの言語も中途半端に終わってしまう危険性があるだけに本当に怖いところですね。


メキシコ流の子育てもふくめ、この子育て時代は、黒沼さんのメキシコでのひとつの時代でした。


そしてメキシコ時代の中でおそらく黒沼ユリ子のヴァイオリン人生の中で、もっとも重要なイヴェントが起こります。



●アカデミア・ユリコ・クロヌマ


黒沼ユリ子さんのメキシコでの人生でもっとも大きな仕事、やりがいだったのが、この「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」。


メキシコの子供たちにヴァイオリンを教えていこうという学校です。


後には、ヴィオラやチェロなど弦楽器一般も扱うようになりましたが。黒沼さんは、演奏旅行がないあいだは、少しずつプライベートレッスンをやっていらっしゃったが、弟子の中から「親が楽器のできない子供は、レッスンと縁がなくなる」「音楽学校を開いてほしい」と言われていた。


そこにその学校を開くための資金調達、スポンサーが現れて、その学校を開設することも実現を帯びてきた。


楽器学校開設の理由はそういう外的要因も大きいけれど、じつはもっと内的要因、黒沼さんの心の動きの中で大きな心境の変化があった。


それはもう三十代も終わりに達するとき、その頃からコンサートだけではむなしくなっていったこと。演奏家というのは、聴いた方がどんなに「今日の演奏がよかった」と楽しんでくださっても、弾いた音は消えて終わり。どんなに努力しても、消えてなくなっちゃうのが演奏芸術だとすれば、こんなことを死ぬまでやっていていいのかな、とむなしさが募ってきたのである。


そんなとき、それまでプライベートで教えていたものもっと充実させてアカデミアにしてほしい、と頼まれた。

ああそれなら何かを残せるかなと。


チェコで教えを受けたダニエル先生はピアノは素晴らしかったけれど、ヴァイオリンはまったく弾いてくださらなかった。


二十世紀の名ヴァイオリニスト、ヤッシャ・ハイフェッツは「六十五歳になるまで自分の秘密は一切教えません」と言って、現役のあいだは、弟子をとらなかった。


黒沼さんはそうではなく、「自分が弾けるうちに教えてあげなければ」。


それはチェコ時代にオイストラフ氏にレッスンを受けたときに、先生自ら弾くことで手本を見せることで弟子としてどんなにわかりやすい、ことなのかに開眼したこと。その当時としては、そのような先生はいなく画期的だと思った。


だからこそ、自分が弾けるうちに、そういうレッスン学校を、という気持ちがあった。こういうときにはこのように弾くとか、ステージでの体験で身に付けたものを生徒と一緒に弾けるうちに教えておけば、少しは何かが残せるかな、と。


ちょうどむなしさを感じ始めていた、いい年回りだった。
何かを残したい欲があった。

それで踏ん切りがついた。


アカデミアには3つの大きな夢があった。


そのいち


この「アカデミア」で学んだ生徒たちのうち、プロのヴァイオリニストへの道へ進まず、他の職業の専門家になった人でも、いつまでも音楽を愛し、ヴァイオリンを弾けることによって、その人の人生をより豊かなものにすること。


そのに


もしもプロになった場合には、自分の”揺りかご”(日本でいう古巣のことをメキシコではこういう)にぜひ帰ってきてもらい、今度は後輩の指導に愛を持って力を注いでもらえるようにならないか、ということ。


そのさん


この「アカデミア」が、日本とメキシコの友好の架け橋になること。



これを基本指針として「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」は船出した。


「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」は、それこそ順風真帆とはいかず、つぎつぎにと試練が訪れる。


特に意外と盲点だったのが、子供用の小型ヴァイオリン。ふつうの大人用のヴァイオリンって、子供にとって大きすぎてダメなのだそうだ。


日本で有名なススキメソードも特注の子供用の小型ヴァイオリンも彼らが工場を持って行って特注製造している。


遠く離れたメキシコの地ではたしてどうする?


最初の時は、日本のこのスズキメソードのヴァイオリンを輸入していたらしいですが、その後、1981年、メキシコの通貨ペソが大暴落し、贅沢品の輸入が禁止されてしまった。


絶体絶命!


「日本で使わなくなったヴァイオリンをメキシコの子供たちに寄贈していただけませんか」と週刊誌の掲示板に載せてもらったのを皮切りに、新聞のインタビュー、さらにテレビで話すと、またたく間に百挺ほどが集まった。


運搬にあたっては、日本航空や旅行会社の方が財務省に掛け合ってくださり、「運送費は無料にしてください」「税金をかけないでください」と経緯を話して協力を得た。


メキシコにヴァイオリンが集まると大使館で記者会見を開き、講堂のステージにケースを積み上げて子供たちも演奏を披露、メキシコじゅうに「日本のこどもたちがメキシコのこどもたちにヴァイオリンをプレゼントしました」というニュースが流れた。


こうやってアカデミアは最大の危機を乗り越えたのである。



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アカデミア・ユリコ・クロヌマ



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1985年、アカデミアの生徒とともに日本を訪れ、八々岳で日本の子どもたちと友好音楽合宿を楽しむ。


この1985年の八々岳合宿を機会に、1987年には中国地方や九州、沖縄にも足を延ばし、その後も、1990年、2000年、2005年にもアカデミアの訪日演奏が実現した。


アカデミアの三大目標のうち、日本とメキシコの友好のかけ橋になること。


これがこういう形で実現できたことが、黒沼さんのメキシコ時代の最大の運命共同体、「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」の最大の実績だったのだろう。


そんな感じで三十年以上続けてきたアカデミアを2012年に閉じることになった。


原因は、やはりアカデミアが創立時の学びたい、向学心という緊迫感から、だんだん保育園化していったことだったという。親はこどもをアカデミアにこども預けると、そのまま安心して外出。こどもは自分が弾く順番でないときはゲームをやっているとか、だんだんこどもを預ける保育園のような感じになってしまったこと。


これは緊張感がなくなり、厳しいですね。

長く続けるとどうしてもこういう感じなってしまいますね。


三十年、まさに黒沼ユリ子さんのメキシコ人生での最大の情熱のぶつけるもの、生きがいもこうやって終焉を迎えたのでした。


黒沼さんはメキシコでメキシコのわが家を建てている。
それを本にされている。
さっそく買いました。


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メキシコは日本と違ってすごい広大な土地、やはり家もとてもデラックス、
日本ではこんなすごい家考えられないですね。


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メキシコ風ダイニング。メキシコ料理ふくめ、メキシコでの生活が写真いっぱいに表現されています。


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当時九十歳だったお母さんもメキシコのこの家に呼び、最期もこの家で迎えられたとか。東京の狭い家で一人ぼっちの生活に比べて、メキシコの家で娘ユリ子さん家族といっしょに生活ができてお母さんも幸せだったよう。若いときは散々親に心配をかけたが、最期の最期で親孝行ができてよかったですね。


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メキシコでの生活で、メキシコ人から教わった言葉に


「悪いことは、良いことのためにしかやってこない。」


メキシコの国民的作曲家フランシスコ・ガビロンド・ソレールがインタビューで語っていた言葉。


「人生というものは、初めの四分の三ぐらいによく働いて、いい思い出をたくさん作っておくもの。そして最後の四分の一はその思い出を一つずつゆっくり思い出して楽しむためにある。」


これと


アイ・デ・トード(Hay de todo)


「すべてがあるさ。」(それはメキシコにいるから仕方がない・・・的なニュアンス)


と何かにつけて、メキシコ人はまるで口ぐせのようにいうらしい。


悪いことは、良いことのためしかやってこない。


いい言葉ですね。自分もどちらかというと人生すべてにおいて楽観主義でどうにかなるさ、的な性格で計画的人生というのが苦手。どんなに悪くてもポジティブ・シンキングなので、「アイ・デ・トード」的なスローライフが似合うかもしれません。


黒沼ユリ子さんは、その後、メキシコから日本に帰国し、現在千葉・御宿に住まれています。


2016年、メキシコと17世紀から縁のある千葉県御宿に開設した3階建ての「ヴァイオリンの家・日本メキシコ友好の家」を設立され、両国の友好を謳い、コンサートにスペイン語講座にと、地域の文化交流の場となっている。いまも日本とメキシコのかけ橋となって活躍しているのである。


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こうしてみると、ご本人は好きではない呼ばれ方と思うが、自分はやはり”異色のヴァイオリニスト”は本当に的を得た波乱万丈の人生を表す言葉だと思う。


間違いなく普通の演奏家、音楽家の人生ではないと思う。


黒沼著の「ヴァイオリン、愛はひるまない」の中に、こういう一節がある。


もしも人生という登山道で出会う、いくつもの曲がり角に必ず”道標”が立っていたら、最短距離で目的地に着くことを可能にするかもしれない。だが、それがない現実の中、私たちはひどく遠回りをしたり、時には思わぬ道草を楽しむチャンスに恵まれたりもする。そしてこの「遠回り」や「道草」が長い人生の目標を定めるのに、意外にも重要なことを、近頃の日本では忘れられかけているのではないだろうか。



人生に寄り道、道草って必要ですね。そういうのってそのとき無駄に思えるかもだけれど、絶対その後の人間性熟成に大きく役立ちますね。


そういう下ごしらえがあって、はじめて人生晩年に熟しますね。



自分は黒沼ユリ子というヴァイオリニストを、チェコ・プラハという切り口から捉えていたけれど、こうして人生全体を理解してみると、メキシコでの人生がかなり大きいウエートを占めることもわかった。


でもメキシコ在住の時も、チェコ・プラハは演奏旅行で頻繁に訪問され、やはり音楽家の素を築いた場所。チェコ・プラハに対するその想い入れは誰にも増して大きいだろう。


まさに「プラハの春」時代を生きた生き証人として。


著書「ドヴォルジャーク」は圧巻だった。
素晴らしい黒沼ユリ子の著書の中での金字塔だと思う。


ぜひ、自分はこの著書、そしてこのチェコ人作曲家のドヴォルジャークについて日記で語ってみたいと思う。ドヴォルジャークはひさしく聴いていなかったので、ご無沙汰していたので、まず徹底的に聴き込んで自分のモノにすることが前提です。


この著書「ドヴォルジャーク」を読んでいると、ものすごくドヴォルジャークを聴きたくなってきます。(笑)



黒沼ユリ子さんの著書でどうしてももう一冊紹介しておきたいものがある。



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アジタート・マ・ノン・トロッポ―激しく,しかし,過ぎずに (1978年)




差別の話、民族性について、日本人とは何かなど、各国での演奏活動の経験をもとに当時の社会に斬り込んだ本。音楽月刊誌「音楽の友」に2年間、それを連載中、「音楽家がなぜこんなことを書くのですか?」との投書が編集部に届いたりしたらしいのだが、担当編集者が、「どうぞ、好きなことを書いてください。」と言ってくださり続けることができた特集である。


自分は黒沼著の中でも特に大好きである。


最近の本は、やはりいまどきの現代人にわかりやすいように丁寧で優しい文体で書かれているのだけれど、それはそれでいいのであるが、自分はこの当時の黒沼さんの尖った文体が大好きである。


もうズキズキと心に刺さってくる感じで、かなり尖っている。


自分は最初黒沼さんの著書を読んだとき、これって本当に演奏家、音楽家が書いているの?という感じで驚いた。本当に作家、評論家顔負けなのである。


文章、文体ってやはり表現の美しさだけでは、読者に刺さりませんね。


やはりその内容に説得力がないとダメなんです。そこに心に刺さる真実味、読んでいる者が思わずドキッと、後ろめたいように感じるほどの真実性があるから、刺さってくるんだと思うのです。


それはやはり人生経験ですね。人生長く生きているとそういう深い考えがどうしても身についてくる。


村上春樹さんの小説が素晴らしいというところに、みんなその文体の表現の美しさを上げる人が圧倒的だけれど、自分はそうじゃない、そこじゃないと思うんですよね。


村上小説の真髄は、やはりそのストーリー構築の面白さ、村上流ユーモア(ちょっとブラックのセンスが入っている)に溢れているそのストーリー構成力、そしてテンポ、リズム感にあるんじゃないかな、と思うんです。


だから、それが前提上にあるから表現の美しさがさらに映えてくる。


中身の面白くないものは、いくら美しい文体でも感動しないです。


そういう意味で、黒沼著書には、グサグサと刺さってくるのは、そういう中身に深いもの、説得力があるから感動するんだと思うのです。


ぜひ読んでみてほしいと思います。







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